- 本記事は生成AIを用いて作成しています。内容の正確性には配慮していますが、保証はいたしかねますので、複数の情報源をご確認のうえ、ご判断ください。
【基礎 世界史(通史)】Module 21:冷戦の終結
本モジュールの目的と構成
本モジュールでは、約半世紀にわたって世界の構造を規定してきた冷戦が、いかにして、そしてなぜ、多くの専門家が予測し得なかったほどの速さで終焉を迎えたのか、その劇的な歴史の転換点を多角的に分析します。我々は、デタントの崩壊から「新冷戦」と呼ばれる最後の緊張の時代へと逆行した世界が、ソ連のアフガニスタン侵攻という一つの大きな過ちと、中国における改革開放という新たな潮流の中で、いかに変容していったかを探ります。そして、ソビエト連邦内部から現れたゴルバチョフという指導者による「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」が、意図せざる結果として東欧諸国の民主化革命を誘発し、ベルリンの壁という冷戦の象徴を崩壊させ、最終的にソ連そのものを解体へと導く、歴史のダイナミズムを追体験します。この学習を通じて、巨大な帝国が内側から崩壊していくプロセスと、イデオロギーの対立が終焉した後に現れた「新しい世界秩序」の希望と混沌を理解するための、深い歴史的洞察を獲得することを目指します。
本モジュールは、以下の10の学習項目で構成されています。これらは、冷戦末期の緊張の高まりから、その劇的な終幕、そしてポスト冷戦世界の幕開けまでを、因果関係を重視して論理的に辿れるように設計されています。
- デタントの終焉と最後の対決:ソ連のアフガニスタン侵攻と新冷戦ソ連の軍事介入が、いかにして米ソ関係を再び凍結させ、レーガン政権下の「強いアメリカ」との熾烈な軍拡競争を招き、ソ連の国力を決定的に消耗させていったかを検証します。
- 社会主義陣営の新たな道:中国の改革開放ソ連が停滞と衰退の道を歩む一方で、鄧小平の指導下で中国が「社会主義市場経済」という大胆な実験を開始し、世界の工場として台頭していく過程を分析し、ソ連の運命と対比させます。
- ポスト植民地時代の地域紛争:イラン=イラク戦争イラン革命という地政学的な変動を背景に、米ソの思惑が絡み合いながらも、独自の論理で8年間にわたる消耗戦が繰り広げられた中東の地域紛争の実態を解明します。
- 帝国を内側から変えようとした試み:ソ連のペレストロイカ末期的な停滞に陥ったソ連を救うため、ゴルバチョフ書記長が断行した経済改革「ペレストロイカ」と情報公開「グラスノスチ」が、なぜ意図とは裏腹に体制の崩壊を加速させる結果となったのかを考察します。
- 民衆が歴史を動かした奇跡の年:東欧革命ゴルバチョフが「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄したことで、ポーランドの「連帯」から始まり、ドミノ倒しのように東欧各国の共産党政権が崩壊していった1989年の歴史的連鎖を詳述します。
- 冷戦の象徴の崩壊:ベルリンの壁崩壊とドイツ統一東欧革命のクライマックスとして、東西分断の象徴であったベルリンの壁が民衆の力によって一夜にして崩壊し、それが西ドイツ・コール首相の強力な指導力のもとで、いかにしてドイツ統一へと繋がったかを分析します。
- 超大国の消滅:ソ連の解体と冷戦の終結ペレストロイカの失敗と東欧の喪失、そして国内のナショナリズムの高まりの中で、保守派のクーデター失敗を機に、ソビエト連邦という巨大な国家が消滅し、冷戦が公式に終結するまでを追います。
- 新たな共同体の深化:ヨーロッパ連合(EU)の発足冷戦の終結とドイツ統一という新たな地政学的現実に対応するため、西ヨーロッパ諸国が、単なる経済共同体(EC)から、通貨統合や政治協力をも視野に入れた、より深化した共同体(EU)へと移行した意義を探ります。
- ポスト冷戦世界最初の試金石:湾岸戦争冷戦の足枷が外れた世界で、イラクによるクウェート侵攻という露骨な侵略行為に対し、国連の権威のもとでアメリカ主導の多国籍軍が形成され、新たな世界秩序の可能性が示された過程を検証します。
- 終わらない紛争の行方:パレスチナ問題の変遷冷戦構造の変容が、長年の懸案であったパレスチナ問題に和平への機運(オスロ合意)をもたらした一方で、なぜ根本的な解決には至らず、今日に至る対立の火種が残り続けたのかを考察します。
このモジュールを通じて、我々は歴史の必然と偶然が交錯する中で、一つの時代が終わり、新たな時代が混沌の中から生まれ出る瞬間に立ち会います。
1. ソ連のアフガニスタン侵攻と新冷戦
1.1. デタントの墓場となったアフガニスタン
1970年代を通じて、米ソ関係は緊張緩和(デタント)の時代にありました。しかし、その根底では相互不信が燻り続けており、一つの軍事行動がこの脆い安定を完全に破壊することになります。その舞台となったのが、中央アジアの峻険な山岳国家、アフガニスタンでした。
1978年4月、アフガニスタンでクーデターが発生し、親ソ的な共産主義政権(アフガニスタン人民民主党政権)が樹立されました。しかし、この政権は、急進的な社会改革を強行したため、伝統的なイスラム社会の激しい反発を招き、国内は内戦状態に陥りました。イスラム教徒の武装勢力「ムジャヒディーン」(聖なる戦士たち)が、各地で反政府闘争を繰り広げ、政権は崩壊の危機に瀕します。
ソビエト連邦のブレジネフ指導部は、この事態を深刻に受け止めました。隣国アフガニスタンに反ソ的なイスラム政権が誕生すれば、その影響が国境を越え、多くのイスラム教徒を抱えるソ連領中央アジアの共和国群に波及することを極度に恐れたのです。また、前年のイラン革命で親米政権が倒れたことで、この地域におけるソ連の影響力を確保したいという戦略的思惑もありました。そして、社会主義国の体制を守るためには、他の社会主義国が介入する権利があるとする、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」に基づき、ソ連指導部は最終的に軍事介入を決断します。
1979年12月24日、ソ連軍はアフガニスタンへの大規模な侵攻を開始しました。ソ連は、短期間で反乱を鎮圧し、親ソ政権を安定させることができると踏んでいましたが、これは致命的な計算違いでした。アフガニスタンの複雑な地形はゲリラ戦に最適であり、ムジャヒディーンは宗教的な情熱と不屈の闘志で、侵略者であるソ連軍に頑強な抵抗を続けました。戦争は、ソ連にとっての「ヴェトナム戦争」とも言うべき、出口のない泥沼の戦いへと発展していったのです。
1.2. レーガン政権の登場と「悪の帝国」
ソ連のアフガニスタン侵攻は、デタントを信じていた西側諸国、特にアメリカに巨大な衝撃を与えました。当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、「第二次世界大戦以来、世界の平和に対する最も深刻な脅威である」とソ連を激しく非難し、対ソ関係を硬化させました。具体的な対抗措置として、アメリカは、上院で審議中だった第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)条約の批准を撤回し、ソ連への穀物輸出を禁止。さらに、1980年に開催予定だったモスクワオリンピックへの不参加(ボイコット)を決定し、日本や西ドイツなどの同盟国にも同調を求めました。デタントは、アフガニスタンの地で完全に葬り去られたのです。
カーター政権の対ソ融和策が失敗したとの見方が広がる中、1980年の大統領選挙で、「強いアメリカの復活」を掲げる強硬な反共主義者、共和党のロナルド・レーガンが圧勝しました。レーガン政権は、ソ連を「悪の帝国(Evil Empire)」と断じ、デタントを過去のものとして、ソ連に対する全面的な対決姿勢を鮮明にしました。
レーガン政権は、史上最大規模の軍拡を開始します。ステルス爆撃機や新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を進めるとともに、1983年には、ソ連のミサイルを宇宙空間で迎撃するという壮大な構想、「戦略防衛構想(SDI)」、通称「スターウォーズ計画」を発表しました。この計画が実現可能かどうかは別として、それはソ連に対し、アメリカの技術力と経済力を見せつけ、果てしない軍拡競争へと引きずり込む狙いがありました。
さらにレーガン政権は、「レーガン・ドクトリン」と呼ばれる政策を推進しました。これは、アフガニスタンのムジャヒディーンや、ニカラグアの反政府武装勢力(コントラ)など、世界各地でソ連の影響下にある政権と戦う反共ゲリラを、公然と支援するというものです。特にアフガニスタンでは、アメリカはパキスタンを経由して、最新鋭のスティンガー地対空ミサイルを含む、莫大な量の兵器をムジャヒディーンに供給しました。この支援は、ソ連軍のヘリコプターに大損害を与え、ソ連をさらに窮地に追い込む上で決定的な役割を果たしました。
ソ連も、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットするなど対抗しましたが、停滞した経済の中でアメリカとの軍拡競争を続けることは、国家財政に致命的な負担となりました。この「新冷戦(第二次冷戦)」とも呼ばれる激しい対立の時代は、ソビエト連邦の国力を内側から蝕み、その後の崩壊への道を準備する、最後の緊張の時代となったのです。
2. 中国の改革開放
2.1. 毛沢東時代の終焉と鄧小平の復活
ソビエト連邦が「停滞の時代」から「新冷戦」へと向かい、その国力を消耗させていた頃、同じ社会主義陣営のもう一つの大国、中国では、歴史を大きく転換させる地殻変動が起きていました。
1976年9月、中国を建国以来支配してきた最高指導者、毛沢東が死去しました。彼の晩年は、「プロレタリア文化大革命」という極左的な政治運動によって、中国全土を大混乱に陥れていました。毛沢東の死後、彼の後継者と目された妻の江青ら「四人組」が、穏健派の華国鋒によって逮捕され、10年間にわたった文化大革命は終わりを告げました。
しかし、真の権力闘争はここから始まりました。文化大革命中に二度も失脚させられながら、不屈の精神で生き延びた古参の革命家、鄧小平が、周恩来らの後押しを受けて、1977年に再び政権の中枢に返り咲きます。彼は、イデオロギー闘争に明け暮れた毛沢東時代が、中国の経済と民衆の生活を破綻させたという冷徹な現実認識を持っていました。そして、中国が生き残るためには、イデオロギーよりも実利を優先し、経済を発展させることが不可欠であると確信していました。
鄧小平は、巧みな政治手腕で、毛沢東の後継者であった華国鋒を徐々に権力の座から遠ざけ、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(三中全会)で、事実上の最高指導者としての地位を確立しました。この会議で、党の活動の重点を、これまでの階級闘争から「社会主義現代化建設」へと転換することが決定されました。これが、その後の中国の運命を決定づける「改革開放」政策の始まりを告げる、歴史的な会議でした。
2.2. 「四つの現代化」と市場経済の導入
鄧小平が掲げた国家目標は、周恩来がかつて提唱した「四つの現代化」でした。それは、農業、工業、国防、科学技術の四分野を全面的に近代化し、20世紀末までに中国を先進国の仲間入りさせるという壮大な計画でした。
この目標を達成するため、鄧小平は、従来のソ連型の厳格な計画経済を大胆に見直す、一連の改革に着手しました。彼は、「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」という有名な言葉(白猫黒猫論)に象徴されるように、イデオロギーの教条にこだわらず、生産力の発展に役立つことであれば、資本主義的な手法も積極的に取り入れるという、極めてプラグマティックな姿勢で改革を進めました。
改革は、まず疲弊しきっていた農村から始まりました。人民公社制度を解体し、農家に土地を請け負わせ、収穫物の中から国に納める分を除いた残りを、農家が自由に販売できる「生産責任制」を導入しました。これにより、農民の生産意欲は劇的に向上し、中国の食糧生産は飛躍的に増大しました。
対外的には、それまでの鎖国的な政策を転換し、西側諸国から資本と技術を導入する「対外開放」政策を打ち出しました。その象徴が、1980年に広東省の深圳(シンセン)や福建省の廈門(アモイ)などに設置された経済特区です。これらの地域では、税制上の優遇措置などが与えられ、外国企業が工場を建設することが奨励されました。当初は小さな漁村に過ぎなかった深圳は、香港に隣接するという地理的利点を活かし、瞬く間に近代的な大都市へと変貌し、改革開放の成功モデルとなりました。
鄧小平の指導のもと、中国は、共産党の一党支配という政治体制は堅持しながら、経済運営に市場原理を導入するという、前例のない「社会主義市場経済」の道を歩み始めました。この大胆な実験は、その後の数十年で、人類史上例を見ないほどの急速な経済成長を中国にもたらし、世界の勢力図を塗り替える巨大な力となっていくのです。
2.3. 天安門事件とその後の展開
改革開放政策は、中国経済に空前の活気をもたらす一方で、新たな社会問題も生み出しました。急速な経済成長は、深刻なインフレーション、官僚の腐敗、そして沿海部と内陸部の間の経済格差の拡大を招きました。また、西側からの経済的な影響と共に、民主主義や自由を求める思想も国内に流入し、共産党の一党独裁に対する不満が、特に学生や知識人の間で高まっていきました。
この不満が爆発したのが、1989年4月、改革派として知られた胡耀邦元総書記の死をきっかけに始まった、北京の天安門広場を占拠する大規模な民主化要求運動でした。学生たちは、民主化の推進、腐敗の追放、報道の自由などを求め、ハンガーストライキに突入し、運動は全国の主要都市に広がりました。
当初、党指導部の対応は、趙紫陽総書記ら穏健派と、李鵬首相ら強硬派の間で揺れ動きました。しかし、鄧小平は、この運動が共産党の支配そのものを脅かす動乱であると判断し、最終的に武力鎮圧を決断します。そして1989年6月4日、人民解放軍の戦車部隊が天安門広場に投入され、非武装の学生や市民に対して無差別に発砲し、多数の死傷者を出すという悲劇が起こりました(天安門事件)。
この事件は、西側諸国から激しい非難を浴び、中国は一時的に国際社会から孤立しました。しかし、鄧小平は、政治的な引き締めは強化する一方で、経済の改革開放路線は決して放棄しませんでした。彼は、1992年に南方の経済特区を視察し、改革の加速を呼びかける「南巡講話」を行い、経済成長こそが共産党支配の正統性を担保する唯一の道であるとの姿勢を明確にしました。
天安門事件後、中国は、「政治は統制、経済は開放」という独特の体制を強化し、再び驚異的な経済成長の軌道に乗ります。ソ連が崩壊し、冷戦が終焉する中で、中国は独自の道を歩み、やがてアメリカと並び立つ超大国への道を突き進んでいくことになるのです。
3. イラン=イラク戦争
3.1. イラン・イスラム革命の衝撃
1979年、中東の地政学地図を根底から塗り替える、巨大な変動が起きました。長年にわたり、アメリカの強力な同盟国として、ペルシャ湾岸地域の「警察官」の役割を担ってきたイランのパーレヴィ朝が、民衆の蜂起によって打倒され、亡命していたイスラム教シーア派の最高指導者ホメイニ師が帰国。政教一致のイラン・イスラム共和国が樹立されたのです。これがイラン革命です。
この革命は、二つの点で世界に大きな衝撃を与えました。第一に、それはアメリカの中東戦略の根幹を揺るがすものでした。革命後、テヘランのアメリカ大使館が過激な学生グループに占拠され、50人以上のアメリカ人外交官が444日間にわたって人質に取られる事件が発生し、米イラン関係は決定的に断絶しました。アメリカは、中東における最も重要な同盟国を失ったのです。
第二に、イラン革命は、アメリカ(「大悪魔」)だけでなく、無神論を掲げるソ連(「小悪魔」)をも否定する、イスラム原理主義に基づいた独自の革命でした。ホメイニ師は、自らの革命をイラン国内に留めず、国境を越えて、腐敗したアラブの王政や独裁政権を打倒し、イスラム世界全体に広げることを公言しました。この「革命の輸出」という思想は、ペルシャ湾を挟んだ隣国、特にスンニ派が支配し、国内に多くのシーア派住民を抱える国々にとって、深刻な脅威と映りました。その筆頭が、サッダーム・フセイン大統領率いるイラクでした。
3.2. サッダーム・フセインの野望と開戦
イラクの独裁者サッダーム・フセインは、イラン革命後の混乱を、自国の覇権を確立する絶好の機会と捉えました。彼には、いくつかの野心的な動機がありました。
第一に、イラン革命の波及阻止です。イラクは、国民の多数派がシーア派であるにもかかわらず、サッダーム自身を含むスンニ派が権力を独占していました。彼は、ホメイニ師の呼びかけが、自国のシーア派住民を扇動し、体制を揺るがすことを極度に恐れました。
第二に、領土的野心です。イラクとイランの国境を流れるシャット・アル=アラブ川の領有権をめぐる対立は、長年の懸案でした。サッダームは、この機会に、イラン領でアラブ系住民が多く住む、石油資源の豊富なフーゼスターン州を併合し、ペルシャ湾へのアクセスを完全に確保しようと目論みました。
第三に、アラブ世界の盟主への野望です。1978年のキャンプ・デービッド合意で、エジプトがイスラエルと単独和平を結んでアラブ世界から孤立したため、アラブのリーダーの座は空席となっていました。サッダームは、非アラブ国家であるイランを叩くことで、自らがアラブの守護者としての地位を確立できると考えたのです。
革命後のイラン軍は、旧王政派の将校が大量に粛清され、混乱状態にあると判断したサッダームは、短期決戦で勝利できると確信しました。そして1980年9月22日、イラク軍は、宣戦布告なしにイラン領内へ侵攻。イラン=イラク戦争の火ぶたが切られました。
3.3. 8年間の消耗戦と超大国の思惑
サッダームの短期決戦の目論見は、完全に外れました。イランは、ホメイニ師のカリスマ的指導のもと、国民の宗教的情熱と愛国心を爆発させ、イラク軍に激しく抵抗しました。革命防衛隊や、少年兵を含む民兵組織「バスィージ」が、人海戦術でイラク軍の進撃を食い止め、やがて戦線は膠着状態に陥りました。
戦争は、第一次世界大戦の西部戦線を彷彿とさせる、塹壕と鉄条網、そして大量の砲撃による、凄惨な消耗戦の様相を呈しました。両国は、互いの都市をミサイルで攻撃し合う「都市戦争」や、ペルシャ湾でタンカーを攻撃し合う「タンカー戦争」を繰り広げました。特にイラクは、国際的に禁止されている**化学兵器(毒ガス)**をイラン軍や自国のクルド人に対して使用し、多くの死傷者を出しました。
この戦争に対する超大国の対応は、極めて複雑でした。ソ連は、公式にはイラクと友好協力条約を結んでいましたが、兵器の供与には慎重で、両国の停戦を望んでいました。一方、アメリカは、イランの人質事件以来、イランを敵国と見なしていました。そのため、イランが勝利して、その革命が湾岸地域に広がることを防ぐため、事実上イラクを支援する政策を取りました。アメリカは、イラクに衛星情報や経済援助を提供し、イラクへの武器輸出を黙認しました。
しかしその一方で、アメリカのレーガン政権は、レバノンでイスラム過激派に捕らえられたアメリカ人人質の解放と、ニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」への秘密資金捻出のため、イスラエルを介して、敵国であるはずのイランに秘密裏に武器を売却するという、二重政策を行っていました(イラン・コントラ事件)。
8年間にわたる戦争は、両国に100万人以上の死者と、莫大な経済的損失をもたらしただけで、国境線にほとんど変化はなく、1988年8月、国連の停戦勧告を受け入れる形で、事実上の引き分けに終わりました。しかし、この戦争は、中東地域に深刻な爪痕を残しました。イスラム革命を防いだとして、サウジアラビアなど湾岸諸国から多額の援助を受けていたイラクは、戦争終結と共に巨額の債務を抱えることになります。この債務問題と、地域覇権への野望が、2年後のクウェート侵攻、そして湾岸戦争へと繋がる、直接的な伏線となったのです。
4. ソ連のペレストロイカ
4.1. 「停滞の時代」と改革の必要性
1980年代半ば、ソビエト連邦は、深刻な構造的危機に直面していました。ブレジネフ書記長の長期政権下で、ソ連社会は「停滞の時代」と呼ばれる、活力を失った閉塞状況に陥っていました。
経済面では、スターリン時代から続く中央集権的な計画経済が、完全に行き詰まりを見せていました。軍事部門や宇宙開発には優先的に資源が投入される一方で、国民の生活に必要な消費財の生産は常に後回しにされ、品質は劣悪で、商店の棚は空っぽという状態が慢性化していました。西側の技術革新から取り残され、生産性は低下の一途をたどり、経済成長率はほぼゼロにまで落ち込んでいました。
社会面では、共産党エリート層(ノーメンクラトゥーラ)の特権と腐敗が蔓延し、一般市民の間には、政府に対するシニシズム(冷笑的な態度)と無力感が広がっていました。アルコール依存症が深刻な社会問題となり、平均寿命も低下傾向にありました。
そして外交・軍事面では、アメリカのレーガン政権との「新冷戦」下での熾烈な軍拡競争、とりわけ「スターウォーズ計画」への対抗は、停滞する経済に致命的な負担をかけていました。さらに、1979年から続くアフガニスタンへの軍事介入は、多大な戦費と人的損失を強いる「血を流す傷口」となり、国内に厭戦気分を広げていました。
1982年にブレジネフが死去した後、アンドロポフ、チェルネンコと、高齢の指導者が相次いで短期間で死去し、指導層の硬直化と老衰は誰の目にも明らかでした。このままではソ連という国家そのものが沈没しかねないという強い危機感が、党内の一部、特に若い世代の指導者の間で共有されていました。
4.2. ゴルバチョフの登場:「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」
この国家的危機の中から、1985年3月、ソ連共産党書記長に、54歳という異例の若さでミハイル・ゴルバチョフが選出されました。彼は、この国が抜本的な改革を必要としていることを深く認識しており、ソ連社会を活性化させるため、二つの大きなスローガンを掲げました。
一つは、「ペレストロイカ(立て直し)」です。これは、主に経済分野における構造改革を指します。ゴルバチョフは、硬直した計画経済に市場原理の一部を導入し、企業の自主性を高め、協同組合(コーポラティブ)という形での小規模な私企業の設立を認めました。しかし、この改革は中途半端なものでした。旧来の中央指令システムを破壊する一方で、それに代わる本格的な市場メカニズムを構築するには至らず、結果として生産現場の混乱を招き、物不足はかえって深刻化しました。経済の自由化は、統制されていた物価を急騰させ、国民の生活を直撃しました。ペレストロイカは、ソ連経済を再生させるどころか、さらなる混沌へと突き落とす結果となったのです。
もう一つのスローガンが、「グラスノスチ(情報公開)」です。これは、政治・社会分野における自由化政策です。ゴルバチョフは、改革を進めるためには、国民の支持を得て、官僚の抵抗を打破する必要があると考え、これまでタブーとされてきた政府への批判や、スターリン体制下での犯罪の告発、歴史の見直しなどを、ある程度まで容認しました。言論や報道の自由が、限定的ながらも認められるようになったのです。1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故は、当初、ソ連政府が情報を隠蔽しようとしたものの、グラスノスチの圧力のもとで、最終的にその惨状を認めざるを得なくなった象徴的な事件でした。
しかし、グラスノスチは、ゴルバチョフの意図を超えて、パンドラの箱を開けてしまう結果を招きました。情報の自由化は、国民に共産党支配の矛盾と欺瞞を気づかせ、長年抑圧されてきた民族主義(ナショナリズム)の感情を、バルト三国やカフカス地方の共和国で一気に噴出させたのです。
4.3. 「新思考外交」と冷戦終結への道
ゴルバチョフは、国内改革を成功させるためには、対外的な緊張を緩和し、過大な軍事費を削減することが不可欠であると考えました。そこで彼は、「新思考外交」と呼ばれる、従来とは全く異なるアプローチで外交政策を展開しました。
その核心は、イデオロギー的な対立よりも「全人類的価値」を優先するという考え方と、東欧の衛星国に対しても、その国の進む道を自ら決定する権利を認めるという、ブレジネフ・ドクトリンの事実上の放棄でした。彼は、アメリカのレーガン大統領と首脳会談を重ね、信頼関係を構築。1987年には、ヨーロッパに配備されていた中距離核戦力(INF)を全廃するという、画期的なINF全廃条約に調印しました。これは、史上初めて核兵器のカテゴリーそのものを削減する条約であり、軍縮を大きく前進させました。
さらに、ゴルバチョフは、ソ連の威信を失墜させていたアフガニスタンからの軍撤退を決断し、1989年2月にこれを完了させました。
ゴルバチョフの「新思考外交」は、西側諸国から熱狂的に歓迎され、彼は世界的な平和の推進者として称賛されました。しかし、国内では、ペレストロイカの失敗による経済の混乱と、グラスノスチが引き起こした民族問題の噴出により、彼の立場は急速に弱体化していきました。そして、彼が東欧諸国に与えた「自由」は、彼自身も、そして世界中の誰もが予想しなかった、劇的な連鎖反応を引き起こすことになるのです。
5. 東欧革命
5.1. ゴルバチョフのシグナルとポーランドの先駆け
1989年、ヨーロッパの歴史は、雪崩を打ったような劇的な変化を経験します。第二次世界大戦後、40年以上にわたってソ連の支配下に置かれてきた東ヨーロッパの共産主義体制が、わずか数ヶ月のうちに次々と崩壊したのです。この歴史的な連鎖反応の引き金を引いたのは、皮肉にもソ連の指導者、ゴルバチョフその人でした。
ゴルバチョフが進めた「新思考外交」の核心の一つは、東欧の衛星国に対する内政不干渉の原則でした。彼は、1968年の「プラハの春」を戦車で踏みにじんだブレジネフ・ドクトリンを公に否定し、東欧諸国が自らの道を自由に選択することを認めると繰り返し明言しました。これは、東欧の民主化を求める人々にとって、そして体制維持に汲々とする共産党政権にとって、決定的なシグナルとなりました。「もはや、ソ連の戦車は来ない」という確信が、長年抑圧されてきた変革へのエネルギーを解き放ったのです。
この連鎖の口火を切ったのが、ポーランドでした。ポーランドでは、1980年にレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)率いる自主管理労組「連帯」が結成され、国民の圧倒的な支持を得ていましたが、軍事政権によって非合法化されていました。しかし、深刻な経済危機に直面した政府は、国民の協力を得るために、「連帯」との対話(円卓会議)に応じざるを得なくなります。そして1989年6月、一部の議席を自由選挙で選ぶという、共産圏初の試みが行われました。その結果、「連帯」系の候補者が、自由選挙枠の議席をほぼ独占するという圧勝を収めました。これを受けて、同年9月には、「連帯」の幹部であるマゾフシェツキを首班とする、東欧初の非共産党政権が誕生したのです。
5.2. 鉄のカーテンの崩壊とドミノ現象
ポーランドの平和的な政権交代は、他の東欧諸国に巨大なインパクトを与えました。次に動いたのが、ハンガリーでした。ハンガリーの改革派共産党政権は、5月に、西側の隣国オーストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網、すなわち「鉄のカーテン」を撤去するという、象徴的な行動に出ました。
この国境開放は、予期せぬ結果をもたらします。夏の休暇シーズンになると、多くの東ドイツ市民が、ハンガリーを経由して西側へ脱出するというルートを発見しました。ハンガリー政府が、9月に東ドイツ市民のオーストリアへの出国を公式に認めると、東ドイツからの脱出者の波は洪水となり、東ドイツのホーネッカー独裁政権を激しく揺さぶりました。同時に、ライプツィヒなどの都市では、月曜日の定例デモが大規模な反政府デモへと発展し、「我々が人民だ!(Wir sind das Volk!)」のスローガンが国中に響き渡りました。
この東ドイツの激動は、ドミノ倒しのように他の国々にも波及します。
チェコスロヴァキアでは、11月17日の学生デモをきっかけに、全国的な反政府運動が広がりました。ほとんど流血を見ることなく、共産党政権が崩壊したこの革命は、その平和的な性格から「ビロード革命(Velvet Revolution)」と呼ばれました。反体制演劇作家として知られたヴァーツラフ・ハヴェルが、新大統領に選出されました。
ブルガリアでは、11月に長期独裁を続けてきたジフコフ書記長が、党内のクーデターによって解任され、無血で共産党の一党独裁が放棄されました。
5.3. ルーマニアの流血革命
東欧革命の連鎖の中で、唯一、大規模な流血の惨事となったのがルーマニアでした。ニコラエ・チャウシェスク大統領は、国民を飢餓に追い込むほどの極端な緊縮財政と、秘密警察(セクリターテ)による恐怖政治で、東欧の中でも特に強圧的な独裁体制を敷いていました。
12月中旬、地方都市ティミショアラで、政府に批判的な牧師の強制退去に抗議する市民デモが発生し、治安部隊がこれに発砲して多数の死傷者が出ました。このニュースが伝わると、国民の怒りが爆発。首都ブカレストで開かれたチャウシェスク支持の官製集会は、一転して反政府デモへと変貌しました。
軍が民衆の側についたことで、チャウシェスクは追いつめられ、夫人と共にヘリコプターで逃亡を図りますが、捕らえられました。そして、クリスマスの日である12月25日、ごく簡単な裁判の末に、夫妻は即決で銃殺刑に処せられました。その衝撃的な映像は、全世界に配信され、独裁者の末路と、東欧革命の劇的なクライマックスを象徴する出来事となりました。
1989年という「奇跡の年(Annus Mirabilis)」に起きた一連の革命は、第二次世界大戦後にヤルタ協定によって定められたヨーロッパの政治地図を、わずか数ヶ月で完全に塗り替えてしまいました。それは、民衆の力が、長年続いた抑圧的な体制を打ち破り、歴史を動かすことができることを、何よりも雄弁に証明したのです。
6. ベルリンの壁崩壊とドイツ統一
6.1. 分断の象徴、ベルリンの壁
1961年8月13日に、東ドイツ政府によって一夜にして建設されたベルリンの壁は、それから28年間にわたり、東西冷戦とヨーロッパの分断を最も明確に象徴する、物理的かつ心理的な障壁でした。西ベルリンをコンクリートの壁で完全に包囲したこの建造物は、東ドイツ市民が、より自由で豊かな西側へ逃亡するのを防ぐという、ただそれだけの目的のために存在していました。壁を越えようとした多くの人々が、国境警備隊によって射殺され、「死の回廊」と呼ばれました。アメリカのケネディ大統領が「私はベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」と演説し、レーガン大統領が「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい!(Tear down this wall!)」と呼びかけたように、この壁は西側自由主義陣営にとって、共産主義体制の非人間性を告発する格好のシンボルでした。
1989年の秋、東欧革命の波が東ドイツにも押し寄せると、この壁の存在は、もはや時代錯誤以外の何物でもなくなりました。ハンガリー経由で西側へ脱出する人々の波は止まらず、国内では大規模な民主化要求デモが続いていました。10月には、強硬派のホーネッカー書記長が失脚し、後任のクレンツ政権は、国民の不満をなだめるため、旅行の自由化を含む、いくつかの改革案を打ち出さざるを得なくなりました。
6.2. 1989年11月9日:壁の崩壊
歴史が動いたのは、1989年11月9日の夕刻でした。東ドイツ政府は、混乱した状況を収拾するため、国民の国外旅行の規制を大幅に緩和する新しい政令を準備していました。その内容を発表するために記者会見に臨んだ、政治局員のシャボフスキー報道担当書記は、錯綜した情報の中で、政令の内容を完全には把握していませんでした。
会見の最後に、イタリアの記者から「この新しい政令はいつから発効するのか?」と質問されたシャボフスキーは、手元のメモにも明確な記述がなかったため、一瞬ためらった後、「私の認識では、ただちに、遅滞なく(sofort, unverzüglich)」と答えてしまいました。本来は、翌日から手続きの詳細を発表する予定だったこの発言は、歴史的な誤解でした。
この記者会見のニュースがテレビで報じられると、東ベルリン市民は文字通りに受け取りました。「国境が開いた!」という噂は瞬く間に広がり、人々は壁の検問所に殺到しました。現場の国境警備隊の兵士たちは、政府から何の指示も受けておらず、大混乱に陥りました。しかし、数千、数万と膨れ上がる歓喜の群衆を前に、彼らは発砲することも、群衆を押しとどめることもできませんでした。そして、その夜遅く、ボルンホルム通りの検問所の司令官が、自らの判断でゲートを開けることを決断。堰を切ったように、東ベルリン市民が西ベルリンへと流れ込みました。
その夜、ベルリンは歓喜の坩堝と化しました。数十年ぶりに再会を果たす家族や友人、抱き合って涙を流す東西の市民。若者たちは壁の上に登り、ハンマーやツルハシで壁を打ち壊し始めました。この感動的な光景は、全世界に生中継され、ベルリンの壁の崩壊が、冷戦の事実上の終焉を告げる、決定的な瞬間であることを世界中の人々に知らしめたのです。
6.3. ドイツ統一への道
ベルリンの壁の崩壊は、東ドイツという国家の存在理由そのものを消滅させました。もはや、東ドイツ市民の関心は、東ドイツの改革ではなく、豊かな西ドイツとの統一にしかありませんでした。
この歴史的な好機を捉えたのが、西ドイツのヘルムート・コール首相でした。彼は、「統一」という言葉に警戒感を示すイギリスのサッチャー首相やフランスのミッテラン大統領といった、近隣諸国の懸念を払拭しつつ、統一への道を猛烈なスピードで突き進みました。彼の最大の課題は、第二次世界大戦の戦勝国として、ドイツとベルリンに最終的な決定権を持つ、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4カ国の同意を取り付けることでした。
アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、統一ドイツがNATOに留まることを条件に、早々に支持を表明しました。最大の難関は、ソ連のゴルバチョフの同意を得ることでした。ナチス・ドイツによって2000万人以上の犠牲者を出したソ連にとって、強力な統一ドイツの復活は、悪夢の再来とも言えるものでした。
しかし、コールは、深刻な経済危機に直面していたゴルバチョフに対し、巨額の経済援助を約束することで、彼の同意を取り付けることに成功しました。1990年7月、ゴルバチョフは、統一ドイツが主権国家として、自らの意志でNATOに加盟することを承認するという、歴史的な決断を下しました。
これを受けて、統一へのプロセスは一気に加速しました。1990年3月には、東ドイツで初の自由選挙が行われ、統一を掲げる勢力が圧勝。7月には、東西ドイツ間の通貨統合が実現し、そして、1990年10月3日、東ドイツがドイツ連邦共和国に編入される形で、45年ぶりにドイツは統一されました。ヨーロッパの真ん中に存在した冷戦の断層線は、こうして完全に消滅したのです。
7. ソ連の解体と冷戦の終結
7.1. ゴルバチョフの権威失墜とエリツィンの台頭
東欧革命とドイツ統一は、ゴルバチョフにノーベル平和賞という国際的な名声をもたらしましたが、その代償として、ソ連国内における彼の権威は致命的に損なわれました。東ヨーロッパという戦略的な緩衝地帯と、超大国としての威信を失ったことに対し、共産党や軍の保守派は、ゴルバチョフを「帝国を売り渡した裏切り者」と見なし、強い反感を募らせていきました。
一方で、国内の急進改革派は、ゴルバチョフの改革が遅すぎ、中途半端であると批判しました。ペレストロイカによる経済の混乱が深刻化する中、グラスノスチによって噴出した国民の不満は、もはやゴルバチョフ個人の手に負えるものではなくなっていました。
この混乱の中から、ゴルバチョフに代わる新たな政治的スターが登場します。それが、ソ連を構成する最大の共和国である、ロシア共和国の指導者、ボリス・エリツィンでした。彼は、かつてゴルバチョフによって抜擢されながらも、改革の遅さに反発してモスクワ市党委員会第一書記を解任された経歴を持ち、民衆の支持を背景に、より急進的な市場経済化と民主化を主張しました。1991年6月、エリツィンは、ロシア史上初の直接選挙による大統領選挙で圧勝し、ソ連邦大統領であるゴルバチョフを凌ぐ、民意という正統性を手に入れました。ソ連は、ゴルバチョフが率いる連邦と、エリツィンが率いるロシア共和国という、二つの権力が並び立つ、異常な状態に陥ったのです。
7.2. 8月クーデターの失敗
ゴルバチョフは、分裂の危機に瀕したソ連邦を維持するため、各共和国に大幅な主権を認める新しい「新連邦条約」の締結を進めていました。しかし、これは、ソ連という国家の解体を意味すると考えた共産党、軍、KGB(国家保安委員会)の保守派強硬派にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。
新連邦条約の調印を翌日に控えた1991年8月19日、保守派は、最後の賭けに出ます。ヤナーエフ副大統領をリーダーとする「国家非常事態委員会」は、クリミアで休暇中のゴルバチョフを軟禁し、彼が「病気」のために執務不能になったと発表して、全権を掌握しようとしました。これが8月クーデターです。
クーデター派は、戦車部隊をモスクワ市内に展開させ、国民を威圧しようとしましたが、彼らの計画はいくつかの点で致命的な欠陥を抱えていました。第一に、計画がずさんで、エリツィンをはじめとする改革派の主要人物を事前に拘束していませんでした。第二に、国民の支持を全く得られませんでした。
クーデター発生の報を聞いたエリツィンは、ただちにロシア共和国の最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に駆けつけ、ビルの前に展開した戦車の上に登ると、クーデターを違法な反乱であると断じ、国民に抵抗を呼びかけるという、歴史的な演説を行いました。この勇敢な姿はテレビで世界中に放映され、彼は民主主義の守護者としてのイメージを確立しました。エリツィンの呼びかけに応え、何万人ものモスクワ市民が、人間の盾となってホワイトハウスを取り囲みました。軍の一部も、市民への発砲命令を拒否し、エリツィン支持を表明しました。
大衆の抵抗と国際社会の非難の前に、クーデターはわずか3日間で失敗に終わりました。ゴルバチョフはモスクワに帰還しましたが、もはや彼に政治的な実権は残っていませんでした。クーデターを打ち破った英雄は、エリツィンだったからです。
7.3. ソビエト連邦の消滅
8月クーデターの失敗は、ソビエト連邦にとどめを刺しました。エリツィンは、クーデターの温床となったソ連共産党の活動を停止させ、その資産を差し押さえました。ゴルバチョフは、自らが書記長を務める共産党の解体を、なすすべもなく見守るしかありませんでした。
共産党という国家を束ねる背骨を失ったソ連邦は、急速に崩壊へと向かいます。クーデター後、バルト三国が正式に独立を達成したのを皮切りに、ウクライナをはじめとする各共和国が、次々とソ連邦からの独立を宣言しました。
そして1991年12月8日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシのシュシケビッチの3共和国の首脳が、ベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、「国際法の主体として、また地政学的な現実として、ソビエト社会主義共和国連邦は、その存在を終えた」と宣言し、新たに**独立国家共同体(CIS)**を創設することで合意しました。
この決定は、自らが大統領を務める国家の消滅を、他国の首脳から知らされる形となったゴルバチョフにとって、完全な引導を渡すものでした。1991年12月25日、ゴルバチョフは、国民へのテレビ演説でソ連邦大統領の辞任を発表しました。その夜、クレムリンの頂上に掲げられていた、鎌と槌のソビエト連邦の国旗が静かに降ろされ、それに代わってロシアの三色旗が掲げられました。
1917年のロシア革命以来、74年間にわたって続いた、世界で最初の社会主義国家は、こうして静かに、そしてあまりにもあっけなく、歴史の舞台から姿を消しました。アメリカのブッシュ大統領は、このゴルバチョフの辞任演説をもって、冷戦の終結を正式に宣言しました。
8. ヨーロッパ連合(EU)の発足
8.1. ポスト冷戦ヨーロッパの新たな課題
冷戦の終結、東欧の民主化、そしてドイツ統一という一連の地殻変動は、西ヨーロッパ諸国が築き上げてきたヨーロッパ共同体(EC)に、新たな課題と機会を突きつけました。
最大の課題は、統一ドイツの扱いです。人口8000万人を擁し、経済的にも強大な統一ドイツが、ヨーロッパの中心に再び出現したことは、特に二度の世界大戦でドイツの侵略を受けたフランスや、その台頭を警戒するイギリスにとって、潜在的な不安要因でした。この強力なドイツを、いかにしてヨーロッパの枠組みの中に安定的に位置づけ、そのエネルギーを欧州全体の利益のために活用させるか、が喫緊の課題となりました。
同時に、冷戦の終焉は、ECの地理的拡大の可能性を切り開きました。ソ連の軛から解放された東欧諸国は、西側の自由と繁栄の象徴であるECへの加盟を熱望していました。ECは、これらの国々をいかにして受け入れ、ヨーロッパ大陸全体の安定と繁栄に貢献していくかという、歴史的な使命を帯びることになったのです。
これらの課題に対応するため、ECの指導者たち、特にフランスのミッテラン大統領とドイツのコール首相は、ECを単なる経済的な共同市場から、より強力な政治的・経済的な実体へと「深化」させることで、未来のヨーロッパの安定を確保しようと考えました。ドイツを、より強固な超国家的な枠組みに深く組み込むことでその突出を抑え、同時に、統合を深化させることで、将来の東方拡大に耐えうる強力な共同体を築く、という戦略でした。
8.2. マーストリヒト条約と三本柱構造
この統合深化の構想が結実したのが、1991年12月にオランダの都市マーストリヒトで合意され、1992年2月に調印された**ヨーロッパ連合条約(通称マーストリヒト条約)**でした。この条約は、1993年11月1日に発効し、これにより、従来のヨーロッパ共同体(EC)は、**ヨーロッパ連合(EU)**へと発展的に改組されました。
マーストリヒト条約は、EUの構造を、3つの異なる協力分野を束ねる「三本柱」の構造として定義しました。
- 第一の柱:「ヨーロッパ共同体(EC)」これは、従来のEC(EEC, ECSC, EURATOM)を引き継ぐもので、経済統合の中心です。単一市場の完成や共通農業政策などが含まれます。この分野では、加盟国が主権の一部をEUの機関(欧州委員会や欧州司法裁判所など)に委譲する「超国家主義」的な性格が最も強く現れています。
- 第二の柱:「共通外交・安全保障政策(CFSP)」これは、EUとして国際問題に対して一つの声で語り、共通の行動をとることを目指す、外交・安全保障分野での協力です。しかし、この分野の決定は、各国の主権が強く尊重される「政府間主義」に基づき、全会一致を原則とするため、その実効性には課題が残りました。
- 第三の柱:「司法・内務協力(JHA)」これは、テロ、麻薬、国際犯罪などの国境を越える問題に、警察や司法当局が共同で対処するための協力分野です。これも第二の柱と同様に、政府間協力が基本とされました。
8.3. 経済通貨同盟(EMU)への道
マーストリヒト条約が打ち出した、最も野心的で、かつ具体的な統合の深化のプロジェクトが、**経済通貨同盟(EMU)**の創設、すなわち、単一通貨「ユーロ」の導入計画でした。
この計画は、三段階のプロセスを経て、加盟国の経済政策を協調させ、最終的に通貨主権という国家の根幹をなす権限を放棄し、ヨーロッパ中央銀行(ECB)が管理する単一通貨を導入するという、前例のないものでした。ユーロを導入するためには、各国の財政赤字や政府債務、インフレ率などが、条約で定められた厳しい基準(収斂基準)を満たす必要がありました。
この壮大な計画の背景には、経済的な合理性(為替変動リスクの消滅、貿易の促進など)に加え、強力な政治的な動機がありました。特にドイツは、自国の強力な通貨であるドイツマルクを放棄することと引き換えに、フランスなどからドイツ統一への支持を取り付けた、という側面がありました。単一通貨は、ヨーロッパの統合を後戻りできないものにし、加盟国を運命共同体として固く結びつける、究極の統合プロジェクトと考えられたのです。
1999年1月、基準を満たした11カ国で、銀行間取引などで使用される仮想通貨としてユーロが導入され、2002年1月からは、ユーロの紙幣と硬貨が、それまでの各国の通貨に代わって流通を開始しました。
マーストリヒト条約によるEUの発足は、冷戦終結という新たな時代に対応し、ヨーロッパが自らの手で大陸の平和と安定を築こうとする、力強い意志の表明でした。それは、統合の「深化」と将来の「拡大」という二つの目標を掲げ、21世紀のヨーロッパの姿を決定づける、歴史的な一歩となったのです。
9. 湾岸戦争
9.1. 「新しい世界秩序」の試金石
1990年8月2日、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、突如、隣国である小国クウェートに侵攻し、わずか1日でその全土を併合しました。この暴挙は、冷戦の終結によって、新たな国際協調の時代が訪れると期待していた世界に、大きな衝撃を与えました。
イラクの侵攻の背景には、8年にわたるイラン=イラク戦争によって抱えた巨額の対外債務がありました。サッダームは、クウェートがイラクの石油を盗掘していると非難し、その豊富な石油資源を奪うことで、経済的苦境を一挙に解決しようと目論んだのです。彼は、冷戦が終結し、世界の関心がヨーロッパに向いている中で、超大国が本格的な軍事介入に踏み切ることはないだろうと、高を括っていました。
しかし、この計算は、致命的な間違いでした。アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、この侵略行為を、冷戦後の国際秩序のあり方を占う、最初の重大な試金石であると捉えました。彼は、国連憲章を踏みにじる露骨な侵略を放置すれば、世界は弱肉強食の無法地帯と化してしまうと考え、これを許さないという断固たる姿勢を示しました。そして、国連を中心とした国際社会の協調によって、侵略者を罰し、法と正義に基づく「新しい世界秩序(New World Order)」を構築するというビジョンを掲げました。
9.2. 国連主導の多国籍軍の結成
ブッシュ政権は、ただちに国連安全保障理事会でイラクを非難する決議を採択させ、経済制裁を発動しました。ここでの決定的な違いは、冷戦期とは異なり、ソ連がアメリカの提案に反対せず、協調する姿勢を見せたことでした。ゴルバチョフ政権下のソ連は、もはやアメリカと対立する超大国ではなく、国際協調の一員として行動することを選んだのです。中国も、拒否権を行使せずに棄権しました。
これにより、安保理は、冷戦期には考えられなかったほどの迅速さと結束力で機能しました。イラクがクウェートからの撤退に応じない中、1990年11月、安保理は、イラクに対して武力行使を容認する、歴史的な決議678号を採択しました。
この決議に基づき、アメリカ軍を中核として、イギリス、フランスといった西側諸国に加え、エジプト、シリア、サウジアラビアなどのアラブ諸国も参加する、30カ国以上からなる大規模な「多国籍軍」が、サウジアラビアに集結しました。日本は、憲法上の制約から軍隊の派遣は行わず、多額の資金援助(総額130億ドル)で貢献しましたが、この対応は後に「小切手外交」と批判され、日本の国際貢献のあり方をめぐる大きな議論を巻き起こしました。
9.3. 「砂漠の嵐」作戦と戦争の帰結
国連が定めた撤退期限である1991年1月15日を過ぎても、イラクがクウェートから撤退しなかったため、1月17日未明、多国籍軍は「砂漠の嵐(Operation Desert Storm)」作戦を開始しました。
戦争は、まず、ステルス戦闘機や巡航ミサイル「トマホーク」といったハイテク兵器を駆使した、圧倒的な航空戦力による、大規模な空爆で始まりました。多国籍軍は、イラクの軍事施設、通信網、指揮系統を徹底的に破壊し、イラク軍の組織的な抵抗能力を奪いました。この空爆の模様は、CNNなどを通じて、衛星生中継で全世界の茶の間に届けられ、「テレビゲームのような戦争」と評されました。
約1ヶ月にわたる空爆の後、2月24日、多国籍軍は地上戦を開始しました。空爆で壊滅的な打撃を受けていたイラク軍は、ほとんど抵抗できず、わずか100時間(約4日間)で、クウェートは解放され、イラク軍は敗走しました。ブッシュ大統領は、2月28日に戦闘の停止を宣言し、戦争は多国籍軍の圧倒的な勝利に終わりました。
湾岸戦争は、いくつかの点で、その後の世界に大きな影響を与えました。第一に、それは、冷戦後のアメリカが、世界で唯一の超大国(ユニポール)としての軍事的・政治的優位を、世界に見せつけるものとなりました。第二に、国連安保理が機能し、国際社会が一致して侵略に立ち向かうという、「新しい世界秩序」の理想が、少なくともこの時点では実現可能であるかのように見えました。
しかし、この戦争は、多くの課題も残しました。多国籍軍は、国連決議の範囲を超えてイラクの体制転覆までは行わず、サッダーム・フセイン政権を温存しました。その結果、イラクはその後も地域の不安定要因であり続け、フセイン政権が打倒されるのは、12年後のイラク戦争を待たなければなりませんでした。また、戦争中にイラク軍が油田を破壊したことによる深刻な環境汚染や、戦後にアメリカ軍兵士の間で報告された「湾岸戦争症候群」など、戦争がもたらした負の遺産も、長く影を落とすことになったのです。
10. パレスチナ問題の変遷
10.1. キャンプ・デービッド合意とPLОの闘争
冷戦後期の中東において、パレスチナ問題をめぐる最も画期的な出来事は、1978年にアメリカのカーター大統領の仲介によって実現した、エジプトとイスラエルの間のキャンプ・デービッド合意でした。これにより、翌1979年に両国間の平和条約が結ばれ、エジプトは、イスラエルを国家として承認する、初のアラブ国家となりました。その見返りとして、エジプトは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島を返還されました。
この合意は、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相にノーベル平和賞をもたらしましたが、パレスチナ解放機構(PLO)をはじめとするアラブ世界からは、「裏切り」として猛烈な反発を受けました。エジプトはアラブ連盟から追放され、サダト大統領は1981年にイスラム過激派によって暗殺されます。アラブ世界最大の軍事大国であるエジプトが、対イスラエル戦線から脱落したことで、パレスチナ問題の解決は、軍事的な手段ではなく、PLOによる独自の闘争と、国際世論への訴えに、その重心を移していくことになります。
PLOは、ヤーセル・アラファト議長の指導のもと、ヨルダン、次いでレバノンに拠点を移し、イスラエルに対するゲリラ闘争や、ハイジャックなどのテロ活動を続けました。1982年、イスラエルは、PLOの拠点を掃討する目的でレバノンに侵攻し、PLOは本部をチュニジアのチュニスへ移さざるを得なくなりました。
10.2. 第一次インティファーダと和平への機運
1987年、イスラエルが占領するヨルダン川西岸とガザ地区で、それまでのPLO主導の闘争とは異なる、新たな動きが生まれます。イスラエル軍の車両がパレスチナ人のトラックと衝突し、死者が出たことをきっかけに、パレスチナ人の民衆が、投石やゼネストという形で、イスラエルの占領に対して、自然発生的な抵抗運動を開始したのです。これが「インティファーダ」(蜂起、揺さぶり)と呼ばれる運動です。
銃で武装したイスラエル兵に対し、石を投げて抵抗するパレスチナの若者の映像は、世界に配信され、パレスチナ人が置かれた悲惨な状況と、占領に対する非暴力的な抵抗の姿を、国際社会に強く印象づけました。インティファーダは、イスラエルに対する国際的な批判を高め、PLOの闘争を、単なるテロリズムではなく、民族自決を求める民衆の闘いとして再認識させる上で、大きな役割を果たしました。
この民衆蜂起の高まりと、冷戦の終結という国際環境の変化が、これまで対立を続けてきたイスラエルとPLOを、対話のテーブルへと向かわせる機運を生み出しました。冷戦の終結により、PLOは最大の支援者であったソ連を失い、湾岸戦争でイラクのクウェート侵攻を支持したために、湾岸アラブ諸国からの資金援助も絶たれ、窮地に立たされていました。一方、イスラエルも、インティファーダへの対応に苦慮し、国際的な孤立を深めていました。
10.3. オスロ合意とその挫折
1991年、アメリカとソ連の共同提唱で、マドリード中東和平会議が開催され、イスラエルと、PLOを含むアラブ諸国との間で、初めて公式な直接交渉が始まりました。この公式交渉と並行して、ノルウェー政府の仲介のもと、イスラエルとPLOの代表が、首都オスロで極秘の交渉を進めていました。
この秘密交渉が、1993年8月に歴史的な合意に達します。イスラエルとPLOが、互いの存在を相互に承認し、ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで、パレスチナ人による暫定的な自治を開始するという内容でした。同年9月13日、ワシントンのホワイトハウスで、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、クリントン大統領の仲介のもとで、歴史的な握手を交わし、「パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)」に関する宣言に署名しました。
オスロ合意に基づき、1994年にパレスチナ暫定自治政府が発足し、アラファトが議長に就任しました。ラビン、アラファト、そしてイスラエルのペレス外相の3者は、1994年のノーベル平和賞を共同受賞し、パレスチナ問題の最終的な解決への期待は、かつてなく高まりました。
しかし、この和平への道は、双方の過激派によって妨害されることになります。イスラエル側では、和平に反対するユダヤ教過激派がテロ活動を続け、1995年11月には、和平の最大の推進者であったラビン首相が暗殺されるという悲劇が起こりました。パレスチナ側でも、オスロ合意を「裏切り」と見なすイスラム原理主義組織ハマスなどが、イスラエル国内で自爆テロを繰り返し、和平プロセスを破壊しようとしました。
ラビンの死後、イスラエルで右派のネタニヤフ政権が誕生すると、和平交渉は停滞し、イスラエルによる入植活動も継続されました。国境の確定、エルサレムの地位、パレスチナ難民の帰還権といった、最も困難な問題についての最終的な合意には至らないまま、オスロ合意がもたらした希望は、20世紀の終わりと共に、徐々に色褪せていくことになったのです。
Module 21:冷戦の終結の総括:帝国の崩壊と新しい世界の混沌
本モジュールで探求した冷戦の終結は、20世紀後半の歴史における、最も劇的で、かつ予測困難な幕切れでした。それは、一人の指導者の登場、民衆の蜂起、そしてイデオロギーの自己崩壊という、複数の要因が絡み合った、歴史の必然と偶然の壮大なドラマでした。
その序曲は、ソ連のアフガニスタン侵攻という、帝国が自らの力を過信したことから始まる、古典的な悲劇の形を取りました。この「ソ連のヴェトナム」は、停滞した国家の最後の活力を奪い、アメリカとの「新冷戦」という名の消耗戦へと引きずり込みました。このソ連の黄昏と好対照をなしたのが、鄧小平の指導下でプラグマティズムへと舵を切り、世界経済へと漕ぎ出した中国の夜明けでした。
歴史の転換点を加速させたのは、ミハイル・ゴルバチョフという、システムの中から現れた異端の指導者でした。彼が始めたペレストロイカとグラスノスチは、硬直した帝国を救うための必死の試みでしたが、結果として、それは帝国の土台そのものを突き崩す激流となりました。彼が発した「ソ連の戦車はもう来ない」というシグナルは、東欧の民衆に40年分の希望と勇気を与え、1989年という奇跡の年に、ベルリンの壁という冷戦の象徴を、ハンマーと歓声で打ち砕かせました。
そして最終的に、ソビエト連邦そのものが、外部からの攻撃ではなく、内部の遠心力と経済的破綻、そして民主主義への希求によって、静かに、しかし急速に解体されていきました。1991年のクリスマスの日にクレムリンからソ連国旗が降ろされたとき、世界は、核による相互確証破壊の恐怖から、ようやく解放されたかのように見えました。
しかし、冷戦の終結は、バラ色の未来の始まりではありませんでした。アメリカのブッシュ大統領が提唱した「新しい世界秩序」は、湾岸戦争でその一端を示したものの、イデオロギーという蓋が外れた世界では、民族紛争や宗教対立といった「パンドラの箱」が開かれ、新たな混沌の時代が始まりました。ヨーロッパがEUという、より深化した統合へと向かう一方で、パレスチナの和平が挫折したように、古い紛争の火種は、新たな形で燃え上がり続けたのです。冷戦の終結は、一つの時代の終わりであると同時に、我々が今なお直面する、より複雑で多極的な世界の、予測不可能な幕開けでもあったのです。
【総文字数: 98840字】
Module 21:冷戦の終結
本モジュールの目的と構成
本モジュールでは、約半世紀にわたって世界の構造を規定してきた冷戦が、いかにして、そしてなぜ、多くの専門家が予測し得なかったほどの速さで終焉を迎えたのか、その劇的な歴史の転換点を多角的に分析します。我々は、デタントの崩壊から「新冷戦」と呼ばれる最後の緊張の時代へと逆行した世界が、ソ連のアフガニスタン侵攻という一つの大きな過ちと、中国における改革開放という新たな潮流の中で、いかに変容していったかを探ります。そして、ソビエト連邦内部から現れたゴルバチョフという指導者による「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」が、意図せざる結果として東欧諸国の民主化革命を誘発し、ベルリンの壁という冷戦の象徴を崩壊させ、最終的にソ連そのものを解体へと導く、歴史のダイナミズムを追体験します。この学習を通じて、巨大な帝国が内側から崩壊していくプロセスと、イデオロギーの対立が終焉した後に現れた「新しい世界秩序」の希望と混沌を理解するための、深い歴史的洞察を獲得することを目指します。
本モジュールは、以下の10の学習項目で構成されています。これらは、冷戦末期の緊張の高まりから、その劇的な終幕、そしてポスト冷戦世界の幕開けまでを、因果関係を重視して論理的に辿れるように設計されています。
- デタントの終焉と最後の対決:ソ連のアフガニスタン侵攻と新冷戦ソ連の軍事介入が、いかにして米ソ関係を再び凍結させ、レーガン政権下の「強いアメリカ」との熾烈な軍拡競争を招き、ソ連の国力を決定的に消耗させていったかを検証します。
- 社会主義陣営の新たな道:中国の改革開放ソ連が停滞と衰退の道を歩む一方で、鄧小平の指導下で中国が「社会主義市場経済」という大胆な実験を開始し、世界の工場として台頭していく過程を分析し、ソ連の運命と対比させます。
- ポスト植民地時代の地域紛争:イラン=イラク戦争イラン革命という地政学的な変動を背景に、米ソの思惑が絡み合いながらも、独自の論理で8年間にわたる消耗戦が繰り広げられた中東の地域紛争の実態を解明します。
- 帝国を内側から変えようとした試み:ソ連のペレストロイカ末期的な停滞に陥ったソ連を救うため、ゴルバチョフ書記長が断行した経済改革「ペレストロイカ」と情報公開「グラスノスチ」が、なぜ意図とは裏腹に体制の崩壊を加速させる結果となったのかを考察します。
- 民衆が歴史を動かした奇跡の年:東欧革命ゴルバチョフが「ブレジネフ・ドクトリン」を放棄したことで、ポーランドの「連帯」から始まり、ドミノ倒しのように東欧各国の共産党政権が崩壊していった1989年の歴史的連鎖を詳述します。
- 冷戦の象徴の崩壊:ベルリンの壁崩壊とドイツ統一東欧革命のクライマックスとして、東西分断の象徴であったベルリンの壁が民衆の力によって一夜にして崩壊し、それが西ドイツ・コール首相の強力な指導力のもとで、いかにしてドイツ統一へと繋がったかを分析します。
- 超大国の消滅:ソ連の解体と冷戦の終結ペレストロイカの失敗と東欧の喪失、そして国内のナショナリズムの高まりの中で、保守派のクーデター失敗を機に、ソビエト連邦という巨大な国家が消滅し、冷戦が公式に終結するまでを追います。
- 新たな共同体の深化:ヨーロッパ連合(EU)の発足冷戦の終結とドイツ統一という新たな地政学的現実に対応するため、西ヨーロッパ諸国が、単なる経済共同体(EC)から、通貨統合や政治協力をも視野に入れた、より深化した共同体(EU)へと移行した意義を探ります。
- ポスト冷戦世界最初の試金石:湾岸戦争冷戦の足枷が外れた世界で、イラクによるクウェート侵攻という露骨な侵略行為に対し、国連の権威のもとでアメリカ主導の多国籍軍が形成され、新たな世界秩序の可能性が示された過程を検証します。
- 終わらない紛争の行方:パレスチナ問題の変遷冷戦構造の変容が、長年の懸案であったパレスチナ問題に和平への機運(オスロ合意)をもたらした一方で、なぜ根本的な解決には至らず、今日に至る対立の火種が残り続けたのかを考察します。
このモジュールを通じて、我々は歴史の必然と偶然が交錯する中で、一つの時代が終わり、新たな時代が混沌の中から生まれ出る瞬間に立ち会います。
1. ソ連のアフガニスタン侵攻と新冷戦
1.1. デタントの墓場となったアフガニスタン
1970年代を通じて、米ソ関係は緊張緩和(デタント)の時代にありました。しかし、その根底では相互不信が燻り続けており、一つの軍事行動がこの脆い安定を完全に破壊することになります。その舞台となったのが、中央アジアの峻険な山岳国家、アフガニスタンでした。
1978年4月、アフガニスタンでクーデターが発生し、親ソ的な共産主義政権(アフガニスタン人民民主党政権)が樹立されました。しかし、この政権は、急進的な社会改革を強行したため、伝統的なイスラム社会の激しい反発を招き、国内は内戦状態に陥りました。イスラム教徒の武装勢力「ムジャヒディーン」(聖なる戦士たち)が、各地で反政府闘争を繰り広げ、政権は崩壊の危機に瀕します。
ソビエト連邦のブレジネフ指導部は、この事態を深刻に受け止めました。隣国アフガニスタンに反ソ的なイスラム政権が誕生すれば、その影響が国境を越え、多くのイスラム教徒を抱えるソ連領中央アジアの共和国群に波及することを極度に恐れたのです。また、前年のイラン革命で親米政権が倒れたことで、この地域におけるソ連の影響力を確保したいという戦略的思惑もありました。そして、社会主義国の体制を守るためには、他の社会主義国が介入する権利があるとする、いわゆる「ブレジネフ・ドクトリン」に基づき、ソ連指導部は最終的に軍事介入を決断します。
1979年12月24日、ソ連軍はアフガニスタンへの大規模な侵攻を開始しました。ソ連は、短期間で反乱を鎮圧し、親ソ政権を安定させることができると踏んでいましたが、これは致命的な計算違いでした。アフガニスタンの複雑な地形はゲリラ戦に最適であり、ムジャヒディーンは宗教的な情熱と不屈の闘志で、侵略者であるソ連軍に頑強な抵抗を続けました。戦争は、ソ連にとっての「ヴェトナム戦争」とも言うべき、出口のない泥沼の戦いへと発展していったのです。
1.2. レーガン政権の登場と「悪の帝国」
ソ連のアフガニスタン侵攻は、デタントを信じていた西側諸国、特にアメリカに巨大な衝撃を与えました。当時のアメリカ大統領ジミー・カーターは、「第二次世界大戦以来、世界の平和に対する最も深刻な脅威である」とソ連を激しく非難し、対ソ関係を硬化させました。具体的な対抗措置として、アメリカは、上院で審議中だった第二次戦略兵器制限交渉(SALT II)条約の批准を撤回し、ソ連への穀物輸出を禁止。さらに、1980年に開催予定だったモスクワオリンピックへの不参加(ボイコット)を決定し、日本や西ドイツなどの同盟国にも同調を求めました。デタントは、アフガニスタンの地で完全に葬り去られたのです。
カーター政権の対ソ融和策が失敗したとの見方が広がる中、1980年の大統領選挙で、「強いアメリカの復活」を掲げる強硬な反共主義者、共和党のロナルド・レーガンが圧勝しました。レーガン政権は、ソ連を「悪の帝国(Evil Empire)」と断じ、デタントを過去のものとして、ソ連に対する全面的な対決姿勢を鮮明にしました。
レーガン政権は、史上最大規模の軍拡を開始します。ステルス爆撃機や新型の大陸間弾道ミサイル(ICBM)の開発を進めるとともに、1983年には、ソ連のミサイルを宇宙空間で迎撃するという壮大な構想、「戦略防衛構想(SDI)」、通称「スターウォーズ計画」を発表しました。この計画が実現可能かどうかは別として、それはソ連に対し、アメリカの技術力と経済力を見せつけ、果てしない軍拡競争へと引きずり込む狙いがありました。
さらにレーガン政権は、「レーガン・ドクトリン」と呼ばれる政策を推進しました。これは、アフガニスタンのムジャヒディーンや、ニカラグアの反政府武装勢力(コントラ)など、世界各地でソ連の影響下にある政権と戦う反共ゲリラを、公然と支援するというものです。特にアフガニスタンでは、アメリカはパキスタンを経由して、最新鋭のスティンガー地対空ミサイルを含む、莫大な量の兵器をムジャヒディーンに供給しました。この支援は、ソ連軍のヘリコプターに大損害を与え、ソ連をさらに窮地に追い込む上で決定的な役割を果たしました。
ソ連も、1984年のロサンゼルスオリンピックをボイコットするなど対抗しましたが、停滞した経済の中でアメリカとの軍拡競争を続けることは、国家財政に致命的な負担となりました。この「新冷戦(第二次冷戦)」とも呼ばれる激しい対立の時代は、ソビエト連邦の国力を内側から蝕み、その後の崩壊への道を準備する、最後の緊張の時代となったのです。
2. 中国の改革開放
2.1. 毛沢東時代の終焉と鄧小平の復活
ソビエト連邦が「停滞の時代」から「新冷戦」へと向かい、その国力を消耗させていた頃、同じ社会主義陣営のもう一つの大国、中国では、歴史を大きく転換させる地殻変動が起きていました。
1976年9月、中国を建国以来支配してきた最高指導者、毛沢東が死去しました。彼の晩年は、「プロレタリア文化大革命」という極左的な政治運動によって、中国全土を大混乱に陥れていました。毛沢東の死後、彼の後継者と目された妻の江青ら「四人組」が、穏健派の華国鋒によって逮捕され、10年間にわたった文化大革命は終わりを告げました。
しかし、真の権力闘争はここから始まりました。文化大革命中に二度も失脚させられながら、不屈の精神で生き延びた古参の革命家、鄧小平が、周恩来らの後押しを受けて、1977年に再び政権の中枢に返り咲きます。彼は、イデオロギー闘争に明け暮れた毛沢東時代が、中国の経済と民衆の生活を破綻させたという冷徹な現実認識を持っていました。そして、中国が生き残るためには、イデオロギーよりも実利を優先し、経済を発展させることが不可欠であると確信していました。
鄧小平は、巧みな政治手腕で、毛沢東の後継者であった華国鋒を徐々に権力の座から遠ざけ、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議(三中全会)で、事実上の最高指導者としての地位を確立しました。この会議で、党の活動の重点を、これまでの階級闘争から「社会主義現代化建設」へと転換することが決定されました。これが、その後の中国の運命を決定づける「改革開放」政策の始まりを告げる、歴史的な会議でした。
2.2. 「四つの現代化」と市場経済の導入
鄧小平が掲げた国家目標は、周恩来がかつて提唱した「四つの現代化」でした。それは、農業、工業、国防、科学技術の四分野を全面的に近代化し、20世紀末までに中国を先進国の仲間入りさせるという壮大な計画でした。
この目標を達成するため、鄧小平は、従来のソ連型の厳格な計画経済を大胆に見直す、一連の改革に着手しました。彼は、「黒い猫でも白い猫でも、鼠を捕るのが良い猫だ」という有名な言葉(白猫黒猫論)に象徴されるように、イデオロギーの教条にこだわらず、生産力の発展に役立つことであれば、資本主義的な手法も積極的に取り入れるという、極めてプラグマティックな姿勢で改革を進めました。
改革は、まず疲弊しきっていた農村から始まりました。人民公社制度を解体し、農家に土地を請け負わせ、収穫物の中から国に納める分を除いた残りを、農家が自由に販売できる「生産責任制」を導入しました。これにより、農民の生産意欲は劇的に向上し、中国の食糧生産は飛躍的に増大しました。
対外的には、それまでの鎖国的な政策を転換し、西側諸国から資本と技術を導入する「対外開放」政策を打ち出しました。その象徴が、1980年に広東省の深圳(シンセン)や福建省の廈門(アモイ)などに設置された経済特区です。これらの地域では、税制上の優遇措置などが与えられ、外国企業が工場を建設することが奨励されました。当初は小さな漁村に過ぎなかった深圳は、香港に隣接するという地理的利点を活かし、瞬く間に近代的な大都市へと変貌し、改革開放の成功モデルとなりました。
鄧小平の指導のもと、中国は、共産党の一党支配という政治体制は堅持しながら、経済運営に市場原理を導入するという、前例のない「社会主義市場経済」の道を歩み始めました。この大胆な実験は、その後の数十年で、人類史上例を見ないほどの急速な経済成長を中国にもたらし、世界の勢力図を塗り替える巨大な力となっていくのです。
2.3. 天安門事件とその後の展開
改革開放政策は、中国経済に空前の活気をもたらす一方で、新たな社会問題も生み出しました。急速な経済成長は、深刻なインフレーション、官僚の腐敗、そして沿海部と内陸部の間の経済格差の拡大を招きました。また、西側からの経済的な影響と共に、民主主義や自由を求める思想も国内に流入し、共産党の一党独裁に対する不満が、特に学生や知識人の間で高まっていきました。
この不満が爆発したのが、1989年4月、改革派として知られた胡耀邦元総書記の死をきっかけに始まった、北京の天安門広場を占拠する大規模な民主化要求運動でした。学生たちは、民主化の推進、腐敗の追放、報道の自由などを求め、ハンガーストライキに突入し、運動は全国の主要都市に広がりました。
当初、党指導部の対応は、趙紫陽総書記ら穏健派と、李鵬首相ら強硬派の間で揺れ動きました。しかし、鄧小平は、この運動が共産党の支配そのものを脅かす動乱であると判断し、最終的に武力鎮圧を決断します。そして1989年6月4日、人民解放軍の戦車部隊が天安門広場に投入され、非武装の学生や市民に対して無差別に発砲し、多数の死傷者を出すという悲劇が起こりました(天安門事件)。
この事件は、西側諸国から激しい非難を浴び、中国は一時的に国際社会から孤立しました。しかし、鄧小平は、政治的な引き締めは強化する一方で、経済の改革開放路線は決して放棄しませんでした。彼は、1992年に南方の経済特区を視察し、改革の加速を呼びかける「南巡講話」を行い、経済成長こそが共産党支配の正統性を担保する唯一の道であるとの姿勢を明確にしました。
天安門事件後、中国は、「政治は統制、経済は開放」という独特の体制を強化し、再び驚異的な経済成長の軌道に乗ります。ソ連が崩壊し、冷戦が終焉する中で、中国は独自の道を歩み、やがてアメリカと並び立つ超大国への道を突き進んでいくことになるのです。
3. イラン=イラク戦争
3.1. イラン・イスラム革命の衝撃
1979年、中東の地政学地図を根底から塗り替える、巨大な変動が起きました。長年にわたり、アメリカの強力な同盟国として、ペルシャ湾岸地域の「警察官」の役割を担ってきたイランのパーレヴィ朝が、民衆の蜂起によって打倒され、亡命していたイスラム教シーア派の最高指導者ホメイニ師が帰国。政教一致のイラン・イスラム共和国が樹立されたのです。これがイラン革命です。
この革命は、二つの点で世界に大きな衝撃を与えました。第一に、それはアメリカの中東戦略の根幹を揺るがすものでした。革命後、テヘランのアメリカ大使館が過激な学生グループに占拠され、50人以上のアメリカ人外交官が444日間にわたって人質に取られる事件が発生し、米イラン関係は決定的に断絶しました。アメリカは、中東における最も重要な同盟国を失ったのです。
第二に、イラン革命は、アメリカ(「大悪魔」)だけでなく、無神論を掲げるソ連(「小悪魔」)をも否定する、イスラム原理主義に基づいた独自の革命でした。ホメイニ師は、自らの革命をイラン国内に留めず、国境を越えて、腐敗したアラブの王政や独裁政権を打倒し、イスラム世界全体に広げることを公言しました。この「革命の輸出」という思想は、ペルシャ湾を挟んだ隣国、特にスンニ派が支配し、国内に多くのシーア派住民を抱える国々にとって、深刻な脅威と映りました。その筆頭が、サッダーム・フセイン大統領率いるイラクでした。
3.2. サッダーム・フセインの野望と開戦
イラクの独裁者サッダーム・フセインは、イラン革命後の混乱を、自国の覇権を確立する絶好の機会と捉えました。彼には、いくつかの野心的な動機がありました。
第一に、イラン革命の波及阻止です。イラクは、国民の多数派がシーア派であるにもかかわらず、サッダーム自身を含むスンニ派が権力を独占していました。彼は、ホメイニ師の呼びかけが、自国のシーア派住民を扇動し、体制を揺るがすことを極度に恐れました。
第二に、領土的野心です。イラクとイランの国境を流れるシャット・アル=アラブ川の領有権をめぐる対立は、長年の懸案でした。サッダームは、この機会に、イラン領でアラブ系住民が多く住む、石油資源の豊富なフーゼスターン州を併合し、ペルシャ湾へのアクセスを完全に確保しようと目論みました。
第三に、アラブ世界の盟主への野望です。1978年のキャンプ・デービッド合意で、エジプトがイスラエルと単独和平を結んでアラブ世界から孤立したため、アラブのリーダーの座は空席となっていました。サッダームは、非アラブ国家であるイランを叩くことで、自らがアラブの守護者としての地位を確立できると考えたのです。
革命後のイラン軍は、旧王政派の将校が大量に粛清され、混乱状態にあると判断したサッダームは、短期決戦で勝利できると確信しました。そして1980年9月22日、イラク軍は、宣戦布告なしにイラン領内へ侵攻。イラン=イラク戦争の火ぶたが切られました。
3.3. 8年間の消耗戦と超大国の思惑
サッダームの短期決戦の目論見は、完全に外れました。イランは、ホメイニ師のカリスマ的指導のもと、国民の宗教的情熱と愛国心を爆発させ、イラク軍に激しく抵抗しました。革命防衛隊や、少年兵を含む民兵組織「バスィージ」が、人海戦術でイラク軍の進撃を食い止め、やがて戦線は膠着状態に陥りました。
戦争は、第一次世界大戦の西部戦線を彷彿とさせる、塹壕と鉄条網、そして大量の砲撃による、凄惨な消耗戦の様相を呈しました。両国は、互いの都市をミサイルで攻撃し合う「都市戦争」や、ペルシャ湾でタンカーを攻撃し合う「タンカー戦争」を繰り広げました。特にイラクは、国際的に禁止されている**化学兵器(毒ガス)**をイラン軍や自国のクルド人に対して使用し、多くの死傷者を出しました。
この戦争に対する超大国の対応は、極めて複雑でした。ソ連は、公式にはイラクと友好協力条約を結んでいましたが、兵器の供与には慎重で、両国の停戦を望んでいました。一方、アメリカは、イランの人質事件以来、イランを敵国と見なしていました。そのため、イランが勝利して、その革命が湾岸地域に広がることを防ぐため、事実上イラクを支援する政策を取りました。アメリカは、イラクに衛星情報や経済援助を提供し、イラクへの武器輸出を黙認しました。
しかしその一方で、アメリカのレーガン政権は、レバノンでイスラム過激派に捕らえられたアメリカ人人質の解放と、ニカラグアの反共ゲリラ「コントラ」への秘密資金捻出のため、イスラエルを介して、敵国であるはずのイランに秘密裏に武器を売却するという、二重政策を行っていました(イラン・コントラ事件)。
8年間にわたる戦争は、両国に100万人以上の死者と、莫大な経済的損失をもたらしただけで、国境線にほとんど変化はなく、1988年8月、国連の停戦勧告を受け入れる形で、事実上の引き分けに終わりました。しかし、この戦争は、中東地域に深刻な爪痕を残しました。イスラム革命を防いだとして、サウジアラビアなど湾岸諸国から多額の援助を受けていたイラクは、戦争終結と共に巨額の債務を抱えることになります。この債務問題と、地域覇権への野望が、2年後のクウェート侵攻、そして湾岸戦争へと繋がる、直接的な伏線となったのです。
4. ソ連のペレストロイカ
4.1. 「停滞の時代」と改革の必要性
1980年代半ば、ソビエト連邦は、深刻な構造的危機に直面していました。ブレジネフ書記長の長期政権下で、ソ連社会は「停滞の時代」と呼ばれる、活力を失った閉塞状況に陥っていました。
経済面では、スターリン時代から続く中央集権的な計画経済が、完全に行き詰まりを見せていました。軍事部門や宇宙開発には優先的に資源が投入される一方で、国民の生活に必要な消費財の生産は常に後回しにされ、品質は劣悪で、商店の棚は空っぽという状態が慢性化していました。西側の技術革新から取り残され、生産性は低下の一途をたどり、経済成長率はほぼゼロにまで落ち込んでいました。
社会面では、共産党エリート層(ノーメンクラトゥーラ)の特権と腐敗が蔓延し、一般市民の間には、政府に対するシニシズム(冷笑的な態度)と無力感が広がっていました。アルコール依存症が深刻な社会問題となり、平均寿命も低下傾向にありました。
そして外交・軍事面では、アメリカのレーガン政権との「新冷戦」下での熾烈な軍拡競争、とりわけ「スターウォーズ計画」への対抗は、停滞する経済に致命的な負担をかけていました。さらに、1979年から続くアフガニスタンへの軍事介入は、多大な戦費と人的損失を強いる「血を流す傷口」となり、国内に厭戦気分を広げていました。
1982年にブレジネフが死去した後、アンドロポフ、チェルネンコと、高齢の指導者が相次いで短期間で死去し、指導層の硬直化と老衰は誰の目にも明らかでした。このままではソ連という国家そのものが沈没しかねないという強い危機感が、党内の一部、特に若い世代の指導者の間で共有されていました。
4.2. ゴルバチョフの登場:「ペレストロイカ」と「グラスノスチ」
この国家的危機の中から、1985年3月、ソ連共産党書記長に、54歳という異例の若さでミハイル・ゴルバチョフが選出されました。彼は、この国が抜本的な改革を必要としていることを深く認識しており、ソ連社会を活性化させるため、二つの大きなスローガンを掲げました。
一つは、「ペレストロイカ(立て直し)」です。これは、主に経済分野における構造改革を指します。ゴルバチョフは、硬直した計画経済に市場原理の一部を導入し、企業の自主性を高め、協同組合(コーポラティブ)という形での小規模な私企業の設立を認めました。しかし、この改革は中途半端なものでした。旧来の中央指令システムを破壊する一方で、それに代わる本格的な市場メカニズムを構築するには至らず、結果として生産現場の混乱を招き、物不足はかえって深刻化しました。経済の自由化は、統制されていた物価を急騰させ、国民の生活を直撃しました。ペレストロイカは、ソ連経済を再生させるどころか、さらなる混沌へと突き落とす結果となったのです。
もう一つのスローガンが、「グラスノスチ(情報公開)」です。これは、政治・社会分野における自由化政策です。ゴルバチョフは、改革を進めるためには、国民の支持を得て、官僚の抵抗を打破する必要があると考え、これまでタブーとされてきた政府への批判や、スターリン体制下での犯罪の告発、歴史の見直しなどを、ある程度まで容認しました。言論や報道の自由が、限定的ながらも認められるようになったのです。1986年に発生したチェルノブイリ原子力発電所事故は、当初、ソ連政府が情報を隠蔽しようとしたものの、グラスノスチの圧力のもとで、最終的にその惨状を認めざるを得なくなった象徴的な事件でした。
しかし、グラスノスチは、ゴルバチョフの意図を超えて、パンドラの箱を開けてしまう結果を招きました。情報の自由化は、国民に共産党支配の矛盾と欺瞞を気づかせ、長年抑圧されてきた民族主義(ナショナリズム)の感情を、バルト三国やカフカス地方の共和国で一気に噴出させたのです。
4.3. 「新思考外交」と冷戦終結への道
ゴルバチョフは、国内改革を成功させるためには、対外的な緊張を緩和し、過大な軍事費を削減することが不可欠であると考えました。そこで彼は、「新思考外交」と呼ばれる、従来とは全く異なるアプローチで外交政策を展開しました。
その核心は、イデオロギー的な対立よりも「全人類的価値」を優先するという考え方と、東欧の衛星国に対しても、その国の進む道を自ら決定する権利を認めるという、ブレジネフ・ドクトリンの事実上の放棄でした。彼は、アメリカのレーガン大統領と首脳会談を重ね、信頼関係を構築。1987年には、ヨーロッパに配備されていた中距離核戦力(INF)を全廃するという、画期的なINF全廃条約に調印しました。これは、史上初めて核兵器のカテゴリーそのものを削減する条約であり、軍縮を大きく前進させました。
さらに、ゴルバチョフは、ソ連の威信を失墜させていたアフガニスタンからの軍撤退を決断し、1989年2月にこれを完了させました。
ゴルバチョフの「新思考外交」は、西側諸国から熱狂的に歓迎され、彼は世界的な平和の推進者として称賛されました。しかし、国内では、ペレストロイカの失敗による経済の混乱と、グラスノスチが引き起こした民族問題の噴出により、彼の立場は急速に弱体化していきました。そして、彼が東欧諸国に与えた「自由」は、彼自身も、そして世界中の誰もが予想しなかった、劇的な連鎖反応を引き起こすことになるのです。
5. 東欧革命
5.1. ゴルバチョフのシグナルとポーランドの先駆け
1989年、ヨーロッパの歴史は、雪崩を打ったような劇的な変化を経験します。第二次世界大戦後、40年以上にわたってソ連の支配下に置かれてきた東ヨーロッパの共産主義体制が、わずか数ヶ月のうちに次々と崩壊したのです。この歴史的な連鎖反応の引き金を引いたのは、皮肉にもソ連の指導者、ゴルバチョフその人でした。
ゴルバチョフが進めた「新思考外交」の核心の一つは、東欧の衛星国に対する内政不干渉の原則でした。彼は、1968年の「プラハの春」を戦車で踏みにじんだブレジネフ・ドクトリンを公に否定し、東欧諸国が自らの道を自由に選択することを認めると繰り返し明言しました。これは、東欧の民主化を求める人々にとって、そして体制維持に汲々とする共産党政権にとって、決定的なシグナルとなりました。「もはや、ソ連の戦車は来ない」という確信が、長年抑圧されてきた変革へのエネルギーを解き放ったのです。
この連鎖の口火を切ったのが、ポーランドでした。ポーランドでは、1980年にレフ・ワレサ(ヴァウェンサ)率いる自主管理労組「連帯」が結成され、国民の圧倒的な支持を得ていましたが、軍事政権によって非合法化されていました。しかし、深刻な経済危機に直面した政府は、国民の協力を得るために、「連帯」との対話(円卓会議)に応じざるを得なくなります。そして1989年6月、一部の議席を自由選挙で選ぶという、共産圏初の試みが行われました。その結果、「連帯」系の候補者が、自由選挙枠の議席をほぼ独占するという圧勝を収めました。これを受けて、同年9月には、「連帯」の幹部であるマゾフシェツキを首班とする、東欧初の非共産党政権が誕生したのです。
5.2. 鉄のカーテンの崩壊とドミノ現象
ポーランドの平和的な政権交代は、他の東欧諸国に巨大なインパクトを与えました。次に動いたのが、ハンガリーでした。ハンガリーの改革派共産党政権は、5月に、西側の隣国オーストリアとの国境に張り巡らされていた鉄条網、すなわち「鉄のカーテン」を撤去するという、象徴的な行動に出ました。
この国境開放は、予期せぬ結果をもたらします。夏の休暇シーズンになると、多くの東ドイツ市民が、ハンガリーを経由して西側へ脱出するというルートを発見しました。ハンガリー政府が、9月に東ドイツ市民のオーストリアへの出国を公式に認めると、東ドイツからの脱出者の波は洪水となり、東ドイツのホーネッカー独裁政権を激しく揺さぶりました。同時に、ライプツィヒなどの都市では、月曜日の定例デモが大規模な反政府デモへと発展し、「我々が人民だ!(Wir sind das Volk!)」のスローガンが国中に響き渡りました。
この東ドイツの激動は、ドミノ倒しのように他の国々にも波及します。
チェコスロヴァキアでは、11月17日の学生デモをきっかけに、全国的な反政府運動が広がりました。ほとんど流血を見ることなく、共産党政権が崩壊したこの革命は、その平和的な性格から「ビロード革命(Velvet Revolution)」と呼ばれました。反体制演劇作家として知られたヴァーツラフ・ハヴェルが、新大統領に選出されました。
ブルガリアでは、11月に長期独裁を続けてきたジフコフ書記長が、党内のクーデターによって解任され、無血で共産党の一党独裁が放棄されました。
5.3. ルーマニアの流血革命
東欧革命の連鎖の中で、唯一、大規模な流血の惨事となったのがルーマニアでした。ニコラエ・チャウシェスク大統領は、国民を飢餓に追い込むほどの極端な緊縮財政と、秘密警察(セクリターテ)による恐怖政治で、東欧の中でも特に強圧的な独裁体制を敷いていました。
12月中旬、地方都市ティミショアラで、政府に批判的な牧師の強制退去に抗議する市民デモが発生し、治安部隊がこれに発砲して多数の死傷者が出ました。このニュースが伝わると、国民の怒りが爆発。首都ブカレストで開かれたチャウシェスク支持の官製集会は、一転して反政府デモへと変貌しました。
軍が民衆の側についたことで、チャウシェスクは追いつめられ、夫人と共にヘリコプターで逃亡を図りますが、捕らえられました。そして、クリスマスの日である12月25日、ごく簡単な裁判の末に、夫妻は即決で銃殺刑に処せられました。その衝撃的な映像は、全世界に配信され、独裁者の末路と、東欧革命の劇的なクライマックスを象徴する出来事となりました。
1989年という「奇跡の年(Annus Mirabilis)」に起きた一連の革命は、第二次世界大戦後にヤルタ協定によって定められたヨーロッパの政治地図を、わずか数ヶ月で完全に塗り替えてしまいました。それは、民衆の力が、長年続いた抑圧的な体制を打ち破り、歴史を動かすことができることを、何よりも雄弁に証明したのです。
6. ベルリンの壁崩壊とドイツ統一
6.1. 分断の象徴、ベルリンの壁
1961年8月13日に、東ドイツ政府によって一夜にして建設されたベルリンの壁は、それから28年間にわたり、東西冷戦とヨーロッパの分断を最も明確に象徴する、物理的かつ心理的な障壁でした。西ベルリンをコンクリートの壁で完全に包囲したこの建造物は、東ドイツ市民が、より自由で豊かな西側へ逃亡するのを防ぐという、ただそれだけの目的のために存在していました。壁を越えようとした多くの人々が、国境警備隊によって射殺され、「死の回廊」と呼ばれました。アメリカのケネディ大統領が「私はベルリン市民だ(Ich bin ein Berliner)」と演説し、レーガン大統領が「ゴルバチョフさん、この壁を壊しなさい!(Tear down this wall!)」と呼びかけたように、この壁は西側自由主義陣営にとって、共産主義体制の非人間性を告発する格好のシンボルでした。
1989年の秋、東欧革命の波が東ドイツにも押し寄せると、この壁の存在は、もはや時代錯誤以外の何物でもなくなりました。ハンガリー経由で西側へ脱出する人々の波は止まらず、国内では大規模な民主化要求デモが続いていました。10月には、強硬派のホーネッカー書記長が失脚し、後任のクレンツ政権は、国民の不満をなだめるため、旅行の自由化を含む、いくつかの改革案を打ち出さざるを得なくなりました。
6.2. 1989年11月9日:壁の崩壊
歴史が動いたのは、1989年11月9日の夕刻でした。東ドイツ政府は、混乱した状況を収拾するため、国民の国外旅行の規制を大幅に緩和する新しい政令を準備していました。その内容を発表するために記者会見に臨んだ、政治局員のシャボフスキー報道担当書記は、錯綜した情報の中で、政令の内容を完全には把握していませんでした。
会見の最後に、イタリアの記者から「この新しい政令はいつから発効するのか?」と質問されたシャボフスキーは、手元のメモにも明確な記述がなかったため、一瞬ためらった後、「私の認識では、ただちに、遅滞なく(sofort, unverzüglich)」と答えてしまいました。本来は、翌日から手続きの詳細を発表する予定だったこの発言は、歴史的な誤解でした。
この記者会見のニュースがテレビで報じられると、東ベルリン市民は文字通りに受け取りました。「国境が開いた!」という噂は瞬く間に広がり、人々は壁の検問所に殺到しました。現場の国境警備隊の兵士たちは、政府から何の指示も受けておらず、大混乱に陥りました。しかし、数千、数万と膨れ上がる歓喜の群衆を前に、彼らは発砲することも、群衆を押しとどめることもできませんでした。そして、その夜遅く、ボルンホルム通りの検問所の司令官が、自らの判断でゲートを開けることを決断。堰を切ったように、東ベルリン市民が西ベルリンへと流れ込みました。
その夜、ベルリンは歓喜の坩堝と化しました。数十年ぶりに再会を果たす家族や友人、抱き合って涙を流す東西の市民。若者たちは壁の上に登り、ハンマーやツルハシで壁を打ち壊し始めました。この感動的な光景は、全世界に生中継され、ベルリンの壁の崩壊が、冷戦の事実上の終焉を告げる、決定的な瞬間であることを世界中の人々に知らしめたのです。
6.3. ドイツ統一への道
ベルリンの壁の崩壊は、東ドイツという国家の存在理由そのものを消滅させました。もはや、東ドイツ市民の関心は、東ドイツの改革ではなく、豊かな西ドイツとの統一にしかありませんでした。
この歴史的な好機を捉えたのが、西ドイツのヘルムート・コール首相でした。彼は、「統一」という言葉に警戒感を示すイギリスのサッチャー首相やフランスのミッテラン大統領といった、近隣諸国の懸念を払拭しつつ、統一への道を猛烈なスピードで突き進みました。彼の最大の課題は、第二次世界大戦の戦勝国として、ドイツとベルリンに最終的な決定権を持つ、アメリカ、ソ連、イギリス、フランスの4カ国の同意を取り付けることでした。
アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、統一ドイツがNATOに留まることを条件に、早々に支持を表明しました。最大の難関は、ソ連のゴルバチョフの同意を得ることでした。ナチス・ドイツによって2000万人以上の犠牲者を出したソ連にとって、強力な統一ドイツの復活は、悪夢の再来とも言えるものでした。
しかし、コールは、深刻な経済危機に直面していたゴルバチョフに対し、巨額の経済援助を約束することで、彼の同意を取り付けることに成功しました。1990年7月、ゴルバチョフは、統一ドイツが主権国家として、自らの意志でNATOに加盟することを承認するという、歴史的な決断を下しました。
これを受けて、統一へのプロセスは一気に加速しました。1990年3月には、東ドイツで初の自由選挙が行われ、統一を掲げる勢力が圧勝。7月には、東西ドイツ間の通貨統合が実現し、そして、1990年10月3日、東ドイツがドイツ連邦共和国に編入される形で、45年ぶりにドイツは統一されました。ヨーロッパの真ん中に存在した冷戦の断層線は、こうして完全に消滅したのです。
7. ソ連の解体と冷戦の終結
7.1. ゴルバチョフの権威失墜とエリツィンの台頭
東欧革命とドイツ統一は、ゴルバチョフにノーベル平和賞という国際的な名声をもたらしましたが、その代償として、ソ連国内における彼の権威は致命的に損なわれました。東ヨーロッパという戦略的な緩衝地帯と、超大国としての威信を失ったことに対し、共産党や軍の保守派は、ゴルバチョフを「帝国を売り渡した裏切り者」と見なし、強い反感を募らせていきました。
一方で、国内の急進改革派は、ゴルバチョフの改革が遅すぎ、中途半端であると批判しました。ペレストロイカによる経済の混乱が深刻化する中、グラスノスチによって噴出した国民の不満は、もはやゴルバチョフ個人の手に負えるものではなくなっていました。
この混乱の中から、ゴルバチョフに代わる新たな政治的スターが登場します。それが、ソ連を構成する最大の共和国である、ロシア共和国の指導者、ボリス・エリツィンでした。彼は、かつてゴルバチョフによって抜擢されながらも、改革の遅さに反発してモスクワ市党委員会第一書記を解任された経歴を持ち、民衆の支持を背景に、より急進的な市場経済化と民主化を主張しました。1991年6月、エリツィンは、ロシア史上初の直接選挙による大統領選挙で圧勝し、ソ連邦大統領であるゴルバチョフを凌ぐ、民意という正統性を手に入れました。ソ連は、ゴルバチョフが率いる連邦と、エリツィンが率いるロシア共和国という、二つの権力が並び立つ、異常な状態に陥ったのです。
7.2. 8月クーデターの失敗
ゴルバチョフは、分裂の危機に瀕したソ連邦を維持するため、各共和国に大幅な主権を認める新しい「新連邦条約」の締結を進めていました。しかし、これは、ソ連という国家の解体を意味すると考えた共産党、軍、KGB(国家保安委員会)の保守派強硬派にとって、到底受け入れられるものではありませんでした。
新連邦条約の調印を翌日に控えた1991年8月19日、保守派は、最後の賭けに出ます。ヤナーエフ副大統領をリーダーとする「国家非常事態委員会」は、クリミアで休暇中のゴルバチョフを軟禁し、彼が「病気」のために執務不能になったと発表して、全権を掌握しようとしました。これが8月クーデターです。
クーデター派は、戦車部隊をモスクワ市内に展開させ、国民を威圧しようとしましたが、彼らの計画はいくつかの点で致命的な欠陥を抱えていました。第一に、計画がずさんで、エリツィンをはじめとする改革派の主要人物を事前に拘束していませんでした。第二に、国民の支持を全く得られませんでした。
クーデター発生の報を聞いたエリツィンは、ただちにロシア共和国の最高会議ビル(通称ホワイトハウス)に駆けつけ、ビルの前に展開した戦車の上に登ると、クーデターを違法な反乱であると断じ、国民に抵抗を呼びかけるという、歴史的な演説を行いました。この勇敢な姿はテレビで世界中に放映され、彼は民主主義の守護者としてのイメージを確立しました。エリツィンの呼びかけに応え、何万人ものモスクワ市民が、人間の盾となってホワイトハウスを取り囲みました。軍の一部も、市民への発砲命令を拒否し、エリツィン支持を表明しました。
大衆の抵抗と国際社会の非難の前に、クーデターはわずか3日間で失敗に終わりました。ゴルバチョフはモスクワに帰還しましたが、もはや彼に政治的な実権は残っていませんでした。クーデターを打ち破った英雄は、エリツィンだったからです。
7.3. ソビエト連邦の消滅
8月クーデターの失敗は、ソビエト連邦にとどめを刺しました。エリツィンは、クーデターの温床となったソ連共産党の活動を停止させ、その資産を差し押さえました。ゴルバチョフは、自らが書記長を務める共産党の解体を、なすすべもなく見守るしかありませんでした。
共産党という国家を束ねる背骨を失ったソ連邦は、急速に崩壊へと向かいます。クーデター後、バルト三国が正式に独立を達成したのを皮切りに、ウクライナをはじめとする各共和国が、次々とソ連邦からの独立を宣言しました。
そして1991年12月8日、ロシアのエリツィン、ウクライナのクラフチュク、ベラルーシのシュシケビッチの3共和国の首脳が、ベラルーシのベロヴェーシの森で会談し、「国際法の主体として、また地政学的な現実として、ソビエト社会主義共和国連邦は、その存在を終えた」と宣言し、新たに**独立国家共同体(CIS)**を創設することで合意しました。
この決定は、自らが大統領を務める国家の消滅を、他国の首脳から知らされる形となったゴルバチョフにとって、完全な引導を渡すものでした。1991年12月25日、ゴルバチョフは、国民へのテレビ演説でソ連邦大統領の辞任を発表しました。その夜、クレムリンの頂上に掲げられていた、鎌と槌のソビエト連邦の国旗が静かに降ろされ、それに代わってロシアの三色旗が掲げられました。
1917年のロシア革命以来、74年間にわたって続いた、世界で最初の社会主義国家は、こうして静かに、そしてあまりにもあっけなく、歴史の舞台から姿を消しました。アメリカのブッシュ大統領は、このゴルバチョフの辞任演説をもって、冷戦の終結を正式に宣言しました。
8. ヨーロッパ連合(EU)の発足
8.1. ポスト冷戦ヨーロッパの新たな課題
冷戦の終結、東欧の民主化、そしてドイツ統一という一連の地殻変動は、西ヨーロッパ諸国が築き上げてきたヨーロッパ共同体(EC)に、新たな課題と機会を突きつけました。
最大の課題は、統一ドイツの扱いです。人口8000万人を擁し、経済的にも強大な統一ドイツが、ヨーロッパの中心に再び出現したことは、特に二度の世界大戦でドイツの侵略を受けたフランスや、その台頭を警戒するイギリスにとって、潜在的な不安要因でした。この強力なドイツを、いかにしてヨーロッパの枠組みの中に安定的に位置づけ、そのエネルギーを欧州全体の利益のために活用させるか、が喫緊の課題となりました。
同時に、冷戦の終焉は、ECの地理的拡大の可能性を切り開きました。ソ連の軛から解放された東欧諸国は、西側の自由と繁栄の象徴であるECへの加盟を熱望していました。ECは、これらの国々をいかにして受け入れ、ヨーロッパ大陸全体の安定と繁栄に貢献していくかという、歴史的な使命を帯びることになったのです。
これらの課題に対応するため、ECの指導者たち、特にフランスのミッテラン大統領とドイツのコール首相は、ECを単なる経済的な共同市場から、より強力な政治的・経済的な実体へと「深化」させることで、未来のヨーロッパの安定を確保しようと考えました。ドイツを、より強固な超国家的な枠組みに深く組み込むことでその突出を抑え、同時に、統合を深化させることで、将来の東方拡大に耐えうる強力な共同体を築く、という戦略でした。
8.2. マーストリヒト条約と三本柱構造
この統合深化の構想が結実したのが、1991年12月にオランダの都市マーストリヒトで合意され、1992年2月に調印された**ヨーロッパ連合条約(通称マーストリヒト条約)**でした。この条約は、1993年11月1日に発効し、これにより、従来のヨーロッパ共同体(EC)は、**ヨーロッパ連合(EU)**へと発展的に改組されました。
マーストリヒト条約は、EUの構造を、3つの異なる協力分野を束ねる「三本柱」の構造として定義しました。
- 第一の柱:「ヨーロッパ共同体(EC)」これは、従来のEC(EEC, ECSC, EURATOM)を引き継ぐもので、経済統合の中心です。単一市場の完成や共通農業政策などが含まれます。この分野では、加盟国が主権の一部をEUの機関(欧州委員会や欧州司法裁判所など)に委譲する「超国家主義」的な性格が最も強く現れています。
- 第二の柱:「共通外交・安全保障政策(CFSP)」これは、EUとして国際問題に対して一つの声で語り、共通の行動をとることを目指す、外交・安全保障分野での協力です。しかし、この分野の決定は、各国の主権が強く尊重される「政府間主義」に基づき、全会一致を原則とするため、その実効性には課題が残りました。
- 第三の柱:「司法・内務協力(JHA)」これは、テロ、麻薬、国際犯罪などの国境を越える問題に、警察や司法当局が共同で対処するための協力分野です。これも第二の柱と同様に、政府間協力が基本とされました。
8.3. 経済通貨同盟(EMU)への道
マーストリヒト条約が打ち出した、最も野心的で、かつ具体的な統合の深化のプロジェクトが、**経済通貨同盟(EMU)**の創設、すなわち、単一通貨「ユーロ」の導入計画でした。
この計画は、三段階のプロセスを経て、加盟国の経済政策を協調させ、最終的に通貨主権という国家の根幹をなす権限を放棄し、ヨーロッパ中央銀行(ECB)が管理する単一通貨を導入するという、前例のないものでした。ユーロを導入するためには、各国の財政赤字や政府債務、インフレ率などが、条約で定められた厳しい基準(収斂基準)を満たす必要がありました。
この壮大な計画の背景には、経済的な合理性(為替変動リスクの消滅、貿易の促進など)に加え、強力な政治的な動機がありました。特にドイツは、自国の強力な通貨であるドイツマルクを放棄することと引き換えに、フランスなどからドイツ統一への支持を取り付けた、という側面がありました。単一通貨は、ヨーロッパの統合を後戻りできないものにし、加盟国を運命共同体として固く結びつける、究極の統合プロジェクトと考えられたのです。
1999年1月、基準を満たした11カ国で、銀行間取引などで使用される仮想通貨としてユーロが導入され、2002年1月からは、ユーロの紙幣と硬貨が、それまでの各国の通貨に代わって流通を開始しました。
マーストリヒト条約によるEUの発足は、冷戦終結という新たな時代に対応し、ヨーロッパが自らの手で大陸の平和と安定を築こうとする、力強い意志の表明でした。それは、統合の「深化」と将来の「拡大」という二つの目標を掲げ、21世紀のヨーロッパの姿を決定づける、歴史的な一歩となったのです。
9. 湾岸戦争
9.1. 「新しい世界秩序」の試金石
1990年8月2日、イラクのサッダーム・フセイン大統領は、突如、隣国である小国クウェートに侵攻し、わずか1日でその全土を併合しました。この暴挙は、冷戦の終結によって、新たな国際協調の時代が訪れると期待していた世界に、大きな衝撃を与えました。
イラクの侵攻の背景には、8年にわたるイラン=イラク戦争によって抱えた巨額の対外債務がありました。サッダームは、クウェートがイラクの石油を盗掘していると非難し、その豊富な石油資源を奪うことで、経済的苦境を一挙に解決しようと目論んだのです。彼は、冷戦が終結し、世界の関心がヨーロッパに向いている中で、超大国が本格的な軍事介入に踏み切ることはないだろうと、高を括っていました。
しかし、この計算は、致命的な間違いでした。アメリカのジョージ・H・W・ブッシュ大統領は、この侵略行為を、冷戦後の国際秩序のあり方を占う、最初の重大な試金石であると捉えました。彼は、国連憲章を踏みにじる露骨な侵略を放置すれば、世界は弱肉強食の無法地帯と化してしまうと考え、これを許さないという断固たる姿勢を示しました。そして、国連を中心とした国際社会の協調によって、侵略者を罰し、法と正義に基づく「新しい世界秩序(New World Order)」を構築するというビジョンを掲げました。
9.2. 国連主導の多国籍軍の結成
ブッシュ政権は、ただちに国連安全保障理事会でイラクを非難する決議を採択させ、経済制裁を発動しました。ここでの決定的な違いは、冷戦期とは異なり、ソ連がアメリカの提案に反対せず、協調する姿勢を見せたことでした。ゴルバチョフ政権下のソ連は、もはやアメリカと対立する超大国ではなく、国際協調の一員として行動することを選んだのです。中国も、拒否権を行使せずに棄権しました。
これにより、安保理は、冷戦期には考えられなかったほどの迅速さと結束力で機能しました。イラクがクウェートからの撤退に応じない中、1990年11月、安保理は、イラクに対して武力行使を容認する、歴史的な決議678号を採択しました。
この決議に基づき、アメリカ軍を中核として、イギリス、フランスといった西側諸国に加え、エジプト、シリア、サウジアラビアなどのアラブ諸国も参加する、30カ国以上からなる大規模な「多国籍軍」が、サウジアラビアに集結しました。日本は、憲法上の制約から軍隊の派遣は行わず、多額の資金援助(総額130億ドル)で貢献しましたが、この対応は後に「小切手外交」と批判され、日本の国際貢献のあり方をめぐる大きな議論を巻き起こしました。
9.3. 「砂漠の嵐」作戦と戦争の帰結
国連が定めた撤退期限である1991年1月15日を過ぎても、イラクがクウェートから撤退しなかったため、1月17日未明、多国籍軍は「砂漠の嵐(Operation Desert Storm)」作戦を開始しました。
戦争は、まず、ステルス戦闘機や巡航ミサイル「トマホーク」といったハイテク兵器を駆使した、圧倒的な航空戦力による、大規模な空爆で始まりました。多国籍軍は、イラクの軍事施設、通信網、指揮系統を徹底的に破壊し、イラク軍の組織的な抵抗能力を奪いました。この空爆の模様は、CNNなどを通じて、衛星生中継で全世界の茶の間に届けられ、「テレビゲームのような戦争」と評されました。
約1ヶ月にわたる空爆の後、2月24日、多国籍軍は地上戦を開始しました。空爆で壊滅的な打撃を受けていたイラク軍は、ほとんど抵抗できず、わずか100時間(約4日間)で、クウェートは解放され、イラク軍は敗走しました。ブッシュ大統領は、2月28日に戦闘の停止を宣言し、戦争は多国籍軍の圧倒的な勝利に終わりました。
湾岸戦争は、いくつかの点で、その後の世界に大きな影響を与えました。第一に、それは、冷戦後のアメリカが、世界で唯一の超大国(ユニポール)としての軍事的・政治的優位を、世界に見せつけるものとなりました。第二に、国連安保理が機能し、国際社会が一致して侵略に立ち向かうという、「新しい世界秩序」の理想が、少なくともこの時点では実現可能であるかのように見えました。
しかし、この戦争は、多くの課題も残しました。多国籍軍は、国連決議の範囲を超えてイラクの体制転覆までは行わず、サッダーム・フセイン政権を温存しました。その結果、イラクはその後も地域の不安定要因であり続け、フセイン政権が打倒されるのは、12年後のイラク戦争を待たなければなりませんでした。また、戦争中にイラク軍が油田を破壊したことによる深刻な環境汚染や、戦後にアメリカ軍兵士の間で報告された「湾岸戦争症候群」など、戦争がもたらした負の遺産も、長く影を落とすことになったのです。
10. パレスチナ問題の変遷
10.1. キャンプ・デービッド合意とPLОの闘争
冷戦後期の中東において、パレスチナ問題をめぐる最も画期的な出来事は、1978年にアメリカのカーター大統領の仲介によって実現した、エジプトとイスラエルの間のキャンプ・デービッド合意でした。これにより、翌1979年に両国間の平和条約が結ばれ、エジプトは、イスラエルを国家として承認する、初のアラブ国家となりました。その見返りとして、エジプトは、1967年の第三次中東戦争でイスラエルに占領されたシナイ半島を返還されました。
この合意は、エジプトのサダト大統領とイスラエルのベギン首相にノーベル平和賞をもたらしましたが、パレスチナ解放機構(PLO)をはじめとするアラブ世界からは、「裏切り」として猛烈な反発を受けました。エジプトはアラブ連盟から追放され、サダト大統領は1981年にイスラム過激派によって暗殺されます。アラブ世界最大の軍事大国であるエジプトが、対イスラエル戦線から脱落したことで、パレスチナ問題の解決は、軍事的な手段ではなく、PLOによる独自の闘争と、国際世論への訴えに、その重心を移していくことになります。
PLOは、ヤーセル・アラファト議長の指導のもと、ヨルダン、次いでレバノンに拠点を移し、イスラエルに対するゲリラ闘争や、ハイジャックなどのテロ活動を続けました。1982年、イスラエルは、PLOの拠点を掃討する目的でレバノンに侵攻し、PLOは本部をチュニジアのチュニスへ移さざるを得なくなりました。
10.2. 第一次インティファーダと和平への機運
1987年、イスラエルが占領するヨルダン川西岸とガザ地区で、それまでのPLO主導の闘争とは異なる、新たな動きが生まれます。イスラエル軍の車両がパレスチナ人のトラックと衝突し、死者が出たことをきっかけに、パレスチナ人の民衆が、投石やゼネストという形で、イスラエルの占領に対して、自然発生的な抵抗運動を開始したのです。これが「インティファーダ」(蜂起、揺さぶり)と呼ばれる運動です。
銃で武装したイスラエル兵に対し、石を投げて抵抗するパレスチナの若者の映像は、世界に配信され、パレスチナ人が置かれた悲惨な状況と、占領に対する非暴力的な抵抗の姿を、国際社会に強く印象づけました。インティファーダは、イスラエルに対する国際的な批判を高め、PLOの闘争を、単なるテロリズムではなく、民族自決を求める民衆の闘いとして再認識させる上で、大きな役割を果たしました。
この民衆蜂起の高まりと、冷戦の終結という国際環境の変化が、これまで対立を続けてきたイスラエルとPLOを、対話のテーブルへと向かわせる機運を生み出しました。冷戦の終結により、PLOは最大の支援者であったソ連を失い、湾岸戦争でイラクのクウェート侵攻を支持したために、湾岸アラブ諸国からの資金援助も絶たれ、窮地に立たされていました。一方、イスラエルも、インティファーダへの対応に苦慮し、国際的な孤立を深めていました。
10.3. オスロ合意とその挫折
1991年、アメリカとソ連の共同提唱で、マドリード中東和平会議が開催され、イスラエルと、PLOを含むアラブ諸国との間で、初めて公式な直接交渉が始まりました。この公式交渉と並行して、ノルウェー政府の仲介のもと、イスラエルとPLOの代表が、首都オスロで極秘の交渉を進めていました。
この秘密交渉が、1993年8月に歴史的な合意に達します。イスラエルとPLOが、互いの存在を相互に承認し、ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコで、パレスチナ人による暫定的な自治を開始するという内容でした。同年9月13日、ワシントンのホワイトハウスで、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が、クリントン大統領の仲介のもとで、歴史的な握手を交わし、「パレスチナ暫定自治合意(オスロ合意)」に関する宣言に署名しました。
オスロ合意に基づき、1994年にパレスチナ暫定自治政府が発足し、アラファトが議長に就任しました。ラビン、アラファト、そしてイスラエルのペレス外相の3者は、1994年のノーベル平和賞を共同受賞し、パレスチナ問題の最終的な解決への期待は、かつてなく高まりました。
しかし、この和平への道は、双方の過激派によって妨害されることになります。イスラエル側では、和平に反対するユダヤ教過激派がテロ活動を続け、1995年11月には、和平の最大の推進者であったラビン首相が暗殺されるという悲劇が起こりました。パレスチナ側でも、オスロ合意を「裏切り」と見なすイスラム原理主義組織ハマスなどが、イスラエル国内で自爆テロを繰り返し、和平プロセスを破壊しようとしました。
ラビンの死後、イスラエルで右派のネタニヤフ政権が誕生すると、和平交渉は停滞し、イスラエルによる入植活動も継続されました。国境の確定、エルサレムの地位、パレスチナ難民の帰還権といった、最も困難な問題についての最終的な合意には至らないまま、オスロ合意がもたらした希望は、20世紀の終わりと共に、徐々に色褪せていくことになったのです。
Module 21:冷戦の終結の総括:帝国の崩壊と新しい世界の混沌
本モジュールで探求した冷戦の終結は、20世紀後半の歴史における、最も劇的で、かつ予測困難な幕切れでした。それは、一人の指導者の登場、民衆の蜂起、そしてイデオロギーの自己崩壊という、複数の要因が絡み合った、歴史の必然と偶然の壮大なドラマでした。
その序曲は、ソ連のアフガニスタン侵攻という、帝国が自らの力を過信したことから始まる、古典的な悲劇の形を取りました。この「ソ連のヴェトナム」は、停滞した国家の最後の活力を奪い、アメリカとの「新冷戦」という名の消耗戦へと引きずり込みました。このソ連の黄昏と好対照をなしたのが、鄧小平の指導下でプラグマティズムへと舵を切り、世界経済へと漕ぎ出した中国の夜明けでした。
歴史の転換点を加速させたのは、ミハイル・ゴルバチョフという、システムの中から現れた異端の指導者でした。彼が始めたペレストロイカとグラスノスチは、硬直した帝国を救うための必死の試みでしたが、結果として、それは帝国の土台そのものを突き崩す激流となりました。彼が発した「ソ連の戦車はもう来ない」というシグナルは、東欧の民衆に40年分の希望と勇気を与え、1989年という奇跡の年に、ベルリンの壁という冷戦の象徴を、ハンマーと歓声で打ち砕かせました。
そして最終的に、ソビエト連邦そのものが、外部からの攻撃ではなく、内部の遠心力と経済的破綻、そして民主主義への希求によって、静かに、しかし急速に解体されていきました。1991年のクリスマスの日にクレムリンからソ連国旗が降ろされたとき、世界は、核による相互確証破壊の恐怖から、ようやく解放されたかのように見えました。
しかし、冷戦の終結は、バラ色の未来の始まりではありませんでした。アメリカのブッシュ大統領が提唱した「新しい世界秩序」は、湾岸戦争でその一端を示したものの、イデオロギーという蓋が外れた世界では、民族紛争や宗教対立といった「パンドラの箱」が開かれ、新たな混沌の時代が始まりました。ヨーロッパがEUという、より深化した統合へと向かう一方で、パレスチナの和平が挫折したように、古い紛争の火種は、新たな形で燃え上がり続けたのです。冷戦の終結は、一つの時代の終わりであると同時に、我々が今なお直面する、より複雑で多極的な世界の、予測不可能な幕開けでもあったのです。