【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 19:教育の歴史

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本モジュールの目的と構成

教育とは、単に知識や技術を伝達する行為ではありません。それは、国家や社会が、自らの理想とする人間像を鋳造し、次代を担うべき国民の精神を形成するための、最も根源的で強力な営為です。ある時代の教育のあり方を深く見つめることは、その時代が何を価値あるものと考え、どのような社会を目指していたのか、その「OS(オペレーティング・システム)」ともいうべき思想の核心を理解することに繋がります。

本モジュール「教育の歴史」は、古代の官吏養成機関から、現代の多様な教育課題に至るまで、日本の教育が辿ってきた壮大な変遷を俯瞰することを目的とします。その歴史は、常に「国家の要請」と「個人の発達」という二つの極の間で揺れ動いてきました。律令国家の官僚を育成するための儒教教育、武士の忠誠心を育んだ藩校、近代化を急ぐ明治国家が全国民に課した国民教育、そして戦後民主主義が掲げた個人の尊厳。これらの教育の姿は、それぞれの時代の政治体制や社会構造と、分かちがたく結びついています。

この学びを通じて、皆さんは、教室で当たり前のように受けている「教育」というものが、決して普遍的なものではなく、時代ごとの要請に応じて、意図的に設計され、変革されてきた歴史的産物であることを深く理解するでしょう。そして、過去の教育が抱えていた光と影を学ぶことは、現代の教育が直面する課題を歴史的な文脈の中で捉え直し、未来の教育のあり方を考えるための、確かな視座を皆さんに与えてくれるはずです。

本モジュールは、以下の学習項目を通じて、日本の「人づくり」の歴史を探求します。

  1. 国家を支えるエリート養成:律令国家が、その統治機構を維持するために設置した大学・国学が、どのような目的で、誰を対象に、何を教えていたのかを探ります。
  2. 信仰と学問の融合:律令制度の衰退後、中世社会における学問の中心地となった仏教寺院が、いかにして貴族や武家の子弟の教育を担ったのかを分析します。
  3. 世界最高水準の識字率へ:泰平の世となった近世日本で、武士教育のための藩校と、庶民の「読み書きそろばん」を担った寺子屋が、いかにして社会の隅々にまで教育を浸透させたのかを概観します。
  4. 国民皆学への壮大な実験:明治新政府が「富国強兵」の礎として打ち立てた「学制」が、どのような理念に基づき、国民皆教育という壮大な目標を掲げたのか、その光と影を検証します。
  5. 天皇の臣民をつくる:近代天皇制国家の精神的支柱として発布された「教育勅語」と、その教えを具体化する「修身」教育が、いかにして国民の道徳観と国家観を形成しようとしたのかに迫ります。
  6. 近代化を牽引する知の拠点:帝国大学をはじめとする高等教育機関が、国家を指導するエリート官僚や技術者を養成する上で、どのような役割を果たしたのかを考察します。
  7. 「個」の発見と教育の革新:大正デモクラシーの風潮の中で、国家中心の画一的な教育を批判し、子どもの個性や自発性を尊重しようとした「自由教育運動」の理念と実践を探求します。
  8. ペンから銃へ:国家が総力戦体制へと突き進む中で、学校がいかにして軍事教練の場、勤労動員の担い手となり、子どもたちが戦時下のイデオロギーに染められていったのかを描き出します。
  9. 民主国家の礎を築く:敗戦と占領を経て、戦前の教育を根本から覆した「教育基本法」が、どのような理念を掲げ、日本の教育をどう変革しようとしたのかを分析します。
  10. 豊かさの中の新たな問い:高度経済成長期を経て、現代日本の教育が直面する、受験競争、いじめ、不登校、そしてグローバル化への対応といった、複雑で多岐にわたる課題を展望します。

このモジュールは、日本の社会が、その時代ごとに、人間の精神に何を求め、何を刻み込もうとしてきたのかを解き明かす、知的な探求の旅です。さあ、教室の窓から、時代の変遷を眺めてみましょう。


目次

1. 古代の大学・国学

日本の公的な教育制度の歴史は、7世紀後半から8世紀にかけて形成された、中央集権的な律令国家の成立と共に幕を開けます。唐の高度な統治システムを模範としたこの新しい国家を運営するためには、法律や行政実務、そしてその背景にある儒教の教養を身につけた、有能な官僚(役人)を、安定的かつ計画的に養成する必要がありました。この国家的要請に応えるために設置されたのが、中央の教育機関である「大学寮(だいがくりょう)」と、地方の教育機関である「国学(こくがく)」でした。これらは、国民すべてに開かれた教育機関ではなく、もっぱら支配階級の子弟を対象とした、エリート官僚養成のための専門機関でした。

1.1. 中央の官吏養成機関「大学寮」

大学寮は、律令で定められた中央官庁の一つである式部省(しきぶしょう)に所属する、国家直轄の最高学府でした。そのキャンパスは、都(平城京や平安京)の中に置かれ、全国から集められた優秀な学生たちが学んでいました。

1.1.1. 学生の資格

大学寮への入学は、厳しい身分制に基づいていました。原則として、学生(がくしょう)となることができるのは、五位以上の位階を持つ貴族や、特定の技術を持つ下級官人(史部、算部など)の子弟に限られていました。これは、大学寮が、支配階級の再生産装置としての役割を担っていたことを明確に示しています。才能ある地方の豪族の子弟などが、特別に入学を許可されることもありましたが、それは例外的なケースでした。

1.1.2. 教育内容

大学寮での教育は、大きく四つの学科(四道、しどう)に分かれていました。

  • 明経道(みょうぎょうどう):儒教の経典(経書)を学ぶ、最も重要視された学科です。『論語』『孝経』といった基本的なテキストから、『礼記』『春秋左氏伝』といった高度な経典まで、その解釈(訓詁学)を学びました。これは、官僚として必須の道徳的教養と、政治思想の基礎を身につけるためのものでした。
  • 紀伝道(きでんどう):元々は明経道の一部でしたが、平安時代に独立し、中国の歴史書(『史記』『漢書』など)と、文学(漢詩文)を学ぶ学科として、最も人気を集めるようになります。文章を作成する能力や、歴史の知識は、実務官僚として、また貴族社会のサロンで活躍する上で、極めて重要なスキルでした。菅原道真は、この紀伝道の出身者として有名です。
  • 明法道(みょうぼうどう):律令(法律)を専門に学ぶ学科です。国の法体系を理解し、裁判や行政実務に適用する能力を養いました。
  • 算道(さんどう):数学を学ぶ学科です。租税の計算や、土地の測量、暦の作成といった、国家財政や行政の技術的な側面を担う、専門的な官僚を養成しました。

学生たちは、これらの学科のいずれかに所属し、博士(はかせ)と呼ばれる教官の下で、数年から十数年にわたって学びました。そして、卒業試験(貢挙、こうきょ)に合格することで、官僚として任官される道が開かれたのです。

1.2. 地方の教育機関「国学」

大学寮が中央のエリート養成機関であったのに対し、地方(各国)に設置されたのが「国学」です。国学は、地方の行政を担う国司(こくし)の役所である国府(こくふ)に併設されていました。

1.2.1. 国学の目的と学生

国学の主な目的は、地方の有力な豪族(郡司、ぐんじ)の子弟を教育し、中央の律令国家の統治体制に協力する、地方の実務官僚として育成することでした。これにより、中央の統治理念を、地方の隅々にまで浸透させることが狙いでした。学生は、その国の郡司の子弟から選抜され、定員は国の規模に応じて20人から50人程度と定められていました。

1.2.2. 教育内容

国学では、大学寮と同様に、儒教の経典や法律が教えられました。しかし、大学寮ほど高度な学問ではなく、地方行政に必要な、より実務的な知識の習得に重点が置かれていたと考えられます。卒業後は、地方の役人として、郡司の補佐や、国府の下級役人などとして、そのキャリアをスタートさせました。

古代の大学・国学は、律令国家という精緻なシステムを支えるための、人材供給装置でした。その教育は、個人の人格的成長を目指すものではなく、国家に奉仕する有能な官吏を育成するという、明確な国家的目的に貫かれていました。しかし、平安時代中期以降、律令制度そのものが形骸化し、藤原氏による摂関政治のように、特定の家柄が朝廷の要職を独占するようになると、試験による官吏登用システムも機能しなくなります。その結果、大学寮や国学は次第に衰退し、日本の教育の中心は、次の時代、新たな担い手である仏教寺院へと移っていくことになるのです。

2. 中世の寺院教育

平安時代中期以降、律令制度の弛緩と共に、国家が運営していた官吏養成機関である大学寮や国学は、次第にその機能を失い、衰退していきました。しかし、学問の灯火そのものが消えてしまったわけではありません。古代の教育機関に代わって、中世(平安後期〜戦国時代)における学問と教育の中心地となったのが、全国に広がる仏教寺院でした。当初は、僧侶を養成するための教育が主でしたが、やがて、貴族や武士といった支配階級の子弟が、学問を修めるために寺に入るようになり、寺院は、宗教施設であると同時に、当時の最高学府としての役割を担うようになっていったのです。

2.1. 寺院が教育の中心となった背景

なぜ、仏教寺院が中世の教育を担うことになったのでしょうか。そこには、いくつかの理由があります。

  • 知識の集積地:寺院には、仏教の経典(仏典)だけでなく、中国から伝わった、儒教や道教の書物、歴史書、文学書など、膨大な量の書籍が、写本として蓄積されていました。これらは、当時の社会における、最も貴重な知識の宝庫でした。
  • 知識人としての僧侶:僧侶たちは、これらの書物を読み解くための高度な読解力(漢文の知識)を持つ、当代随一の知識人階級でした。また、寺院の運営には、経理や文書作成といった実務能力も必要とされたため、僧侶たちは学問だけでなく、実務的なスキルも身につけていました。
  • 社会的なネットワーク:有力な寺院は、朝廷や幕府、そして各地の武士とも密接な関係を持ち、広範な社会的ネットワークを構築していました。このため、寺院で学ぶことは、学問を修めるだけでなく、将来のキャリア形成に必要な人脈を築く上でも、有利に働きました。

2.2. 支配階級の子弟教育

平安時代後期になると、貴族(公家)や、台頭してきた武士階級は、自らの子弟に必要な教養を身につけさせるため、有力な寺院に預けるようになります。

  • 公家の子弟教育:摂関家である藤原氏の一族は、代々、奈良の興福寺(こうふくじ)や、京都の延暦寺(えんりゃくじ)といった、自らの氏寺(うじでら)に子弟を送り込み、学問を学ばせました。彼らは、仏道修行の傍ら、将来、朝廷で活躍するために必要な、漢詩文や書、歴史などを学びました。
  • 武家の子弟教育:鎌倉時代に入ると、武士たちも、子弟の教育の場として寺院を重視するようになります。特に、鎌倉幕府は、禅宗を厚く保護し、鎌倉五山(建長寺、円覚寺など)や、京都五山(天龍寺、相国寺など)といった禅宗の寺院は、武家社会の教育センターとしての役割を担いました。禅宗の寺院では、仏教の教えだけでなく、宋・元代の中国から伝わった、最新の文学(五山文学)や、水墨画、建築様式なども学ぶことができました。

2.3. 「学問所」としての寺院と足利学校

寺院の中には、特定の宗派の僧侶だけでなく、広く学問を志す人々に門戸を開き、総合的な学問所として発展するところも現れました。

その代表格が、下野国(現在の栃木県足利市)にあった「足利学校」です。その創設時期には諸説ありますが、室町時代に、関東管領であった上杉憲実(うえすぎのりざね)によって再興され、日本全国から多くの学徒が集まる、中世日本における最高の学府として、その名を馳せました。

足利学校は、特定の宗派に属さない、独立した教育機関でしたが、その運営には禅僧が深く関わっていました。ここでは、儒学(特に朱子学)を中心に、易学、医学、兵学など、幅広い学問が教えられました。戦国時代には、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが、「日本国中最も大にして、最も有名な坂東(関東)の大学」と、その存在を海外に紹介したほどでした。足利学校の存在は、戦乱の世にあっても、日本の学問の水準が、いかに高く維持されていたかを示す、重要な証拠です.

2.4. 庶民教育の萌芽

中世の寺院教育は、基本的には、貴族や武士といった支配階級の子弟や、専門の僧侶を対象とした、エリート教育でした。しかし、その一方で、寺院が、庶民の初等教育の場としての役割を、ごく限定的ながらも担い始めたのも、この時代でした。

一部の寺院では、近隣の村の子どもたちを集め、僧侶が、読み書きや、簡単な計算といった、実生活に必要な知識を教えることがありました。これは、後の江戸時代に、庶民教育の中心となる「寺子屋」の、遠い源流と見なすことができます。

中世の日本において、寺院は、単なる信仰の場にとどまらず、古代から受け継がれた学問の伝統を守り、それを新たな支配者である武士階級へと伝え、そして、次の近世における教育の爆発的な発展を準備するという、極めて重要な知的インフラストラクチャーの役割を果たしていたのです。

3. 近世の藩校と寺子屋

約260年間にわたる泰平の世が実現した江戸時代は、日本の教育史上、かつてないほどの発展と普及を遂げた時代でした。この時代の教育を特徴づけるのが、武士階級の子弟を教育するための公的な学校である「藩校(はんこう)」と、町人や農民といった庶民の子どもたちに「読み書きそろばん」を教えた私的な教育施設である「寺子屋(てらこや)」という、二つの異なるタイプの学校が、社会の両輪として機能していたことです。この二本立ての教育システムによって、日本の教育は、特定の支配階級だけのものではなく、社会のあらゆる階層の人々へと、その裾野を大きく広げていきました。その結果、幕末期の日本の識字率は、当時の世界のどの国と比較しても、驚くほど高い水準に達していたと言われています。

3.1. 武士階級の教育機関「藩校」

藩校は、各藩が、自らの藩に仕える武士(藩士)の子弟を教育するために、藩の費用で設立・運営した学校です。

  • 設立の目的:江戸時代初期、戦乱の世が終わり、武士の役割は、戦場で武功を立てることから、藩の行政や財政を担う「官僚」へと大きく変化しました。そのため、各藩は、武力だけでなく、統治に必要な知識と教養、そして藩主への忠誠心を持った、有能な人材を育成する必要に迫られました。藩校は、まさに、この新しい時代の武士を養成するための、中核的な機関でした。
  • 教育内容:藩校での教育の中心は、儒学、特に幕府の官学とされた「朱子学」でした。朱子学は、君臣の別や上下の秩序を重んじる思想であり、武士の封建的な身分道徳を支えるイデオロギーとして、理想的な学問と見なされたのです。生徒たちは、『四書五経』といった儒教の経典を、素読(そどく、意味を問わずに音読する)や輪読、講義といった形で学びました。
    • 学問(文)と並んで重要視されたのが、武芸(武)の鍛錬です。「文武両道」は、武士の理想とされ、剣術、弓術、馬術、槍術といった、様々な武術の稽古も、藩校の重要なカリキュラムでした。
    • 時代が下り、西洋の学問(蘭学)の重要性が認識されるようになると、一部の先進的な藩校では、医学、天文学、兵学といった、実用的な洋学の教育も行われるようになりました。
  • 代表的な藩校:岡山藩の「花畠教場(はなばたけきょうじょう)」(後に閑谷学校)、会津藩の「日新館(にっしんかん)」、長州藩の「明倫館(めいりんかん)」、薩摩藩の「造士館(ぞうしかん)」などは、全国的にも有名な藩校であり、幕末から明治維新にかけて、多くの優れた人材を輩出しました。

3.2. 庶民の教育機関「寺子屋」

藩校が、武士という特定の身分の子弟のための学校であったのに対し、町人や農民といった庶民の初等教育を担ったのが、「寺子屋」です。

  • 寺子屋の性格:寺子屋は、藩が設立した公的な学校ではなく、僧侶、神官、浪人、あるいは町人や農民自身が、自宅などを解放して子どもたちに教えた、私的な教育施設(私塾)でした。師匠は「手習師匠(てならいししょう)」と呼ばれ、子どもたちは、月謝(束脩、そくしゅう)として、少額の金銭や、米、野菜などを納めて学びました。
  • 教育内容:寺子屋での教育は、極めて実用的で、庶民の日常生活や、将来の職業に直結したものでした。その中心は、「読み」「書き」「そろばん」の三つでした。
    • 読み:教科書として使われたのは、「往来物(おうらいもの)」と呼ばれる、様々な手紙の文例集でした。例えば、商人の子どもであれば『商売往来』、農民の子どもであれば『農業往来』というように、それぞれの身分や職業に応じた、実用的な語彙や知識が学べるように工夫されていました。
    • 書き:手習師匠が書いた手本を、子どもたちが真似て書く、という方法で、文字(ひらがな、カタカナ、漢字)の練習をしました。
    • そろばん:商品の売買や、年貢の計算など、庶民の生活に欠かせない、計算能力を身につけるための、実用的な算術教育でした。
  • 驚異的な普及:寺子屋の数は、江戸時代を通じて爆発的に増加し、幕末期には、全国に1万数千以上も存在したと推定されています。就学率も非常に高く、都市部では70%〜80%に達していたと考えられています。この寺子屋の普及が、日本の庶民の識字率を、当時の世界でトップクラスの水準にまで押し上げた、最大の原動力でした。

3.3. 江戸時代の教育が残した遺産

藩校と寺子屋という二つの教育システムは、身分制社会を反映したものではありましたが、それぞれの階層が必要とする人材を、効果的に育成する役割を果たしました。藩校で学んだ武士たちは、明治維新後の近代国家建設の中核を担い、寺子屋で学んだ庶民の高い識字率と計算能力は、日本の急速な近代化と産業化を、下から支える、重要な土台となったのです。江戸時代の教育は、日本の近代が、決してゼロから始まったわけではないことを、雄弁に物語っています。

4. 学制の公布

1868年の明治維新によって、日本は、封建的な幕藩体制から、近代的な中央集権国家へと、大きく生まれ変わりました。欧米列強に追いつき、独立を維持するという、新政府の至上命題「富国強兵」を実現するためには、西洋の進んだ科学技術や制度を導入し、それを担う人材を、国民全体から育成することが、何よりも急務でした。この国家的課題に応えるため、明治政府は、教育を、国家建設の最重要政策と位置づけ、江戸時代までの身分や地域によって異なっていた教育のあり方を、根本からつくり変える、壮大な改革に着手します。その出発点となったのが、1872年(明治5年)に公布された、日本初の全国規模での体系的な学校制度を定めた法律、「学制(がくせい)」でした。

4.1. 学制の理念:「国民皆学」

学制の公布に先立ち、政府の教育政策を司る文部省は、「学制頒布の太政官布告(だじょうかんふこく)」、通称「被仰出書(おおせいだされしょ)」を発布しました。この文書は、新しい教育制度が、どのような理念に基づいているのかを、国民に力強く宣言するものでした。

その核心的なメッセージは、「邑(むら)に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期す」、すなわち、「すべての村に学校に行かない家はなく、すべての家に学校に行かない人はいない」という状態を目指す、というものでした。これは、江戸時代までの、武士や特定の階層だけのものであった学問を、身分、性別、貧富の差にかかわらず、すべての国民が享受すべきものであるとする、「国民皆学(こくみんかいがく)」の理念を、高らかに掲げたものでした。

また、この布告は、学問の目的についても、新しい価値観を提示しました。江戸時代の儒学のように、国家や君主のために修めるものではなく、「人たるもの、学ばざれば智識なく、智識なき者は愚人となる。故に学問は身を立てるの財本」であると述べ、学問を、個人が自らの人生を切り開き、立身出世するための資本(財産)であると位置づけたのです。この極めて功利主義的で、個人主義的な教育観は、新しい時代の到来を人々に強く印象づけました。

4.2. 学制の構想:フランス式の単線型学校体系

学制がモデルとしたのは、当時、最も中央集権的で、体系的と評価されていた、フランスの学校制度でした。

その最大の特徴は、「単線型(たんせんがた)」の学校体系を、全国一律で導入しようとしたことです。

  • 全国の学区制:全国を、8つの大学区に分け、各大学区を32の中学区に、さらに各中学区を210の小学区に分割するという、ピラミッド型の構想を立てました。そして、それぞれの学区に、大学1校、中学校32校、小学校210校を設置するという、壮大かつ極めて画一的な計画でした。
  • 小学校の義務教育化:満6歳になった男女は、すべて、8年制(下等4年、上等4年)の小学校に入学することが、原則として義務づけられました。

この計画は、江戸時代の藩校や寺子屋といった、地域や身分ごとに多様であった教育のあり方を、国家が一元的に管理する、近代的で統一されたシステムへと、一気に転換させようとする、野心的な試みでした。

4.3. 学制の挫折とその影響

しかし、この理念先行の壮大な計画は、発足当初から、多くの困難に直面し、結果として、公布からわずか7年後の1879年には廃止されることになります。

  • 財政的な困難:学校を建設し、教員を確保するための費用は、原則として、地域の住民の負担とされました。しかし、発足したばかりの明治政府には、十分な補助金を出す財政的な余裕はなく、また、多くの地域住民にとっても、この負担はあまりにも重すぎました。
  • 国民の反発:多くの農民にとって、子どもは貴重な労働力でした。その子どもを、授業料を払ってまで、長期間学校に通わせることは、生活を圧迫するものでしかありませんでした。また、教育内容も、都会的な、実生活からかけ離れたものであったため、国民の理解をなかなか得ることができませんでした。各地で、学校の建設に反対する一揆(学制反対一揆)が発生するほどでした。
  • 画一的すぎた計画:全国の地理的、経済的な実情を無視した、あまりにも画一的で、理念的な計画であったため、そもそも計画通りに学校を設置すること自体が、多くの地域で不可能でした。

学制は、短命に終わった改革でしたが、その歴史的意義は決して小さくありません。

  • 近代教育制度の出発点:その構想は、あまりにも理想主義的で失敗に終わりましたが、「すべての国民に教育の機会を提供する」という国民皆学の理念と、国家が教育制度を管理するという基本原則は、その後の日本の教育政策に、受け継がれていくことになります。
  • 小学校の普及:多くの困難にもかかわらず、学制期に、全国で小学校の建設は急速に進みました。これが、日本の就学率を、驚異的なスピードで向上させる、最初の大きな原動力となったのです。

学制は、近代日本の教育の、壮大なる「設計図」でした。その設計図は、現実の壁にぶつかり、修正を余儀なくされますが、それが描いた夢は、その後の日本の教育の進むべき道を、明確に指し示していたのです。

5. 教育勅語と修身教育

1872年の「学制」によって、近代的な国民教育の第一歩を踏み出した日本。しかし、その後の教育政策は、政府の財政難や国民の反発もあり、試行錯誤を繰り返していました。1879年には、より地方の実情に合わせた「教育令」が制定されますが、その自由主義的な内容が、逆に就学率の低下を招くなど、混乱が続きました。このような状況の中で、明治政府の指導者たちの間には、西洋の知識や技術を学ぶことだけが教育ではない、という強い問題意識が生まれていきます。近代国家として国民を統合するためには、その精神的な支柱となる、共通の道徳規範と国家観を、教育を通じて国民に植え付ける必要がある、と考えられたのです。この要請に応える形で、1890年(明治23年)に発布されたのが、「教育ニ関スル勅語」、通称「教育勅語」でした。

5.1. 教育勅語の成立背景と内容

教育勅語は、大日本帝国憲法(1889年公布)体制下における、国家の教育理念を、明治天皇が、国民に対して直接語りかける、という形式で示されたものです。

  • 成立背景:当時の日本は、急速な西洋化の中で、伝統的な価値観が揺らぎ、社会の混乱も生じていました。初代文部大臣であった森有礼(もりありのり)は、国家主義的な教育改革を進めましたが、その急進的な姿勢は、保守派からの反発を招き、彼が暗殺されるという事件も起こりました。このような思想的混乱の中で、政府は、儒教的な道徳と、近代的な国家への忠誠を融合させた、新たな国民道徳の確立を急ぎました。
  • 内容:教育勅語の本文は、わずか315文字の短いものですが、その内容は、二つの大きな柱から成り立っています。
    1. 普遍的な道徳:前半部分では、「父母ニ孝ニ、兄弟ニ友ニ、夫婦相和シ、朋友相信シ」といった、儒教をベースとした、家族や社会における普遍的な道徳(孝行、友愛、信義など)の実践を説いています。
    2. 国家への忠誠:後半部分では、それらの道徳が、日本の「国体ノ精華(こくたいのせいか)」、すなわち万世一系の天皇をいただく、日本の優れた国のあり方に基づいていると述べます。そして、国民に対し、「一旦緩急アレバ義勇公ニ奉ジ、以テ天壤無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スベシ」、すなわち、「ひとたび国家に危機が迫ったならば、正義と勇気をもって公のために身を捧げ、それによって永遠に続く天皇の運命を助けなさい」と、国家への絶対的な忠誠と、自己犠牲を求めています。

このように、教育勅語は、普遍的な道徳を説きながら、その最終的な目的を、天皇と国家への忠誠に収斂(しゅうれん)させるという、巧みな論理構造を持っていました。

5.2. 教育現場における神聖化

発布された教育勅語は、全国の学校に、天皇の写真(御真影、ごしんえい)と共に下賜され、教育現場において、絶対的な権威を持つ、神聖な文書として扱われるようになります。

  • 奉読式(ほうどくしき):学校の重要な儀式(入学式、卒業式など)の際には、校長が、白手袋をはめて、厳かな作法で、教育勅語を朗読(奉読)することが、義務づけられました。生徒たちは、直立不動の姿勢で、これを拝聴しました。
  • 奉安殿(ほうあんでん):御真影と教育勅語は、校内に特別に設けられた「奉安殿」と呼ばれる、金庫のような頑丈な建物に、丁重に保管されました。火災などの非常時には、校長は、命に代えても、これを守り出す責任があるとされました。

教育勅語は、もはや単なる教育理念ではなく、国民が暗唱し、その精神を体現すべき、神聖な「経典」となったのです。

5.3. 「修身」教育の確立

教育勅語の精神を、学校教育の中で、具体的に子どもたちに教え込むための中心的な役割を担ったのが、「修身(しゅうしん)」という教科でした。修身は、明治初期から存在していましたが、教育勅語の発布以降、その内容は、勅語の徳目を、体系的に解説し、実践させるためのものへと、完全に再編されました。

国が作成した修身の教科書には、楠木正成(くすのきまさしげ)のような、天皇に忠義を尽くした歴史上の人物の逸話や、親孝行な子どもの物語、あるいは、公共のために尽くした偉人伝などが、数多く掲載されました。子どもたちは、これらの物語を通じて、忠君愛国、親孝行、滅私奉公といった価値観を、繰り返し、そして深く、内面化していったのです。修身は、単なる道徳教育ではなく、近代天皇制国家の臣民(しんみん)として、ふさわしい精神を鋳造するための、最も重要なイデオロギー教育の教科でした。

教育勅語と、それを核とする修身教育は、その後の日本の教育を、半世紀以上にわたって規定し続けました。それは、国民の道徳水準を高め、社会の安定に貢献したという側面があった一方で、国家の価値観を絶対的なものとして、子どもたちに無批判に受け入れさせ、個人の自由な思考や、多様な価値観を抑圧するという、大きな負の側面も持っていました。この教育システムが、やがて日本を、無謀な戦争へと導く、精神的な土壌の一部となったことは、否定できない歴史の事実です。

6. 高等教育の発展

明治政府が「学制」によって、全国民を対象とする初等教育の礎を築く一方で、近代国家の建設と運営を担う、トップレベルの人材を育成するための「高等教育」の整備も、国家の最重要課題として、精力的に進められました。高等教育の頂点に位置づけられたのは、西洋の大学(ユニバーシティ)をモデルとする「帝国大学」であり、その目的は、国家に奉仕する高級官僚と、西洋の科学技術を導入・発展させるための、専門的な技術者や研究者を養成することにありました。この帝国大学を中核として、日本の高等教育は、国家の要請に応える形で、急速な発展を遂げていくことになります。

6.1. 帝国大学の設立と役割

日本の近代的な大学制度の出発点となったのが、1877年(明治10年)に設立された「東京大学」です。これは、江戸幕府以来の洋学研究機関であった、開成所(かいせいじょ)と医学所を母体として、法学、理学、文学、医学の四学部からなる、日本初の総合大学として誕生しました。

そして、1886年(明治19年)に、初代文部大臣・森有礼の主導で制定された「帝国大学令」によって、東京大学は「帝国大学」と改称され、その性格が、より明確に規定されることになります。

  • 国家のための大学:帝国大学令の第一条は、「帝国大学ハ国家ノ須要(すよう)ニ応スル学術技芸ヲ教授シ」と定め、その第一の目的が、個人の学問的探求ではなく、国家が必要とする学問と技術を教えることにある、と明確に宣言しました。
  • エリート官僚の養成:帝国大学、特にその法学部は、卒業と同時に、高等文官試験(高文試験)の合格者とほぼ同等の資格が与えられ、高級官僚への道が約束された、まさにエリート養成機関の頂点でした。
  • 研究機関としての役割:帝国大学には、大学院が設置され、西洋の科学技術を自らのものとし、日本独自の研究を発展させるための、最先端の研究機関としての役割も期待されました。

この東京の帝国大学に続き、京都(1897年)、東北(1907年)、九州(1911年)、北海道(1918年)と、全国の主要な都市に、次々と帝国大学が設立されていきました。これらの帝国大学は、それぞれの地域の産業や研究の拠点となると同時に、東京に次ぐ、地方のエリート層の供給源となっていったのです。

6.2. 私立大学の興隆

帝国大学が、国家主導のエリート養成機関であったのに対し、明治期には、民間の手によって設立された、特色ある高等教育機関も、数多く誕生しました。これらの「私立大学」は、それぞれが独自の「建学の精神」を掲げ、在野の精神に富んだ、多様な人材を育成しました。

  • 慶應義塾(けいおうぎじゅく):福沢諭吉が創設した蘭学塾を母体とし、「実学」の精神を掲げ、日本の近代的な経済界をリードする、多くの実業家を輩出しました。
  • 早稲田大学(わせだだいがく):大隈重信が創設した東京専門学校を母体とし、「学問の独立」を謳い、政治、ジャーナリズム、文学といった分野で、政府とは一線を画す、在野の精神を持った人材を数多く育てました。
  • 同志社大学(どうししゃだいがく):新島襄(にいじまじょう)が、キリスト教の精神に基づいて設立した同志社英学校を母体とし、国際的な視野と、道徳的良心を持った人物の育成を目指しました。

これらの私立大学は、官学である帝国大学とは異なる、自由な学風の中で、日本の近代化に、多様な側面から貢献していきました。

6.3. 専門教育機関の整備

帝国大学や私立大学といった、総合的な高等教育機関だけでなく、特定の分野の専門家を養成するための、専門教育機関の整備も進められました。

  • 高等師範学校(こうとうしはんがっこう):全国の中学校や師範学校の教員を養成するための、最高学府です。
  • 高等商業学校(こうとうしょうぎょうがっこう):近代的な商業や貿易の実務を担う、専門的な人材を育成しました。
  • 高等工業学校(こうとうこうぎょうがっこう):「殖産興業」を支える、高度な技術者を養成しました。
  • 陸軍士官学校・海軍兵学校:「富国強兵」の「強兵」を担う、近代的な軍隊の将校を養成する、エリート教育機関です。

このように、明治から大正にかけて、日本の高等教育は、帝国大学を頂点とする、極めて階層的で、目的別に分化した、重層的な構造を形成していきました。それは、近代国家が必要とする、あらゆる分野のエリートを、効率的に、そして計画的に養成するための、精緻なシステムでした。このシステムが、日本の急速な近代化を、人材面から支える、強力なエンジンとなったことは、間違いありません。

7. 大正期の自由教育運動

明治時代に確立された日本の教育制度は、帝国大学を頂点とするエリート教育と、教育勅語を核とする国民道徳教育を両輪として、近代国家の礎を築く上で、大きな成果を上げました。しかしその一方で、その教育は、国家の要請を最優先する、極めて画一的で、権威主義的な性格の強いものでした。個人の個性や、自発的な学習意欲は、しばしば軽視され、子どもたちは、上から与えられた知識を、無批判に暗記することが求められました。

1910年代から20年代にかけての「大正デモクラシー」の時代、政治や社会の各分野で、自由主義、民主主義の気運が高まる中で、この明治以来の国家主導型の教育に対する、根本的な批判と、新しい教育を求める動きが生まれます。これが、「大正自由教育運動」です。この運動は、教育の主役を、国家から「子ども」へと転換させ、一人ひとりの子どもの個性と、自発的な学びを尊重しようとする、画期的な試みでした。

7.1. 運動の思想的背景

大正自由教育運動は、いくつかの新しい思想的潮流を、その背景としていました。

  • 新教育思想の流入:20世紀初頭、欧米では、伝統的な注入主義(教師が一方的に知識を詰め込む)の教育を批判し、子どもの興味や関心に基づいた、主体的な学びを重視する「新教育」の思想が、大きな影響力を持っていました。アメリカの哲学者ジョン・デューイの「経験主義教育(なすことによって学ぶ)」や、ドイツの教育学者ゲオルク・ケルシェンシュタイナーの「労作学校(手仕事を通じて学ぶ)」といった思想が、日本の教育者たちに、大きな刺激を与えました。
  • 児童中心主義(じどうちゅうしんしゅぎ):この運動の最も核心的な理念は、「児童中心主義」です。これは、教育の出発点を、国家が定めた画一的なカリキュラムに置くのではなく、子ども一人ひとりの個性、発達段階、そして内発的な興味・関心に置くべきだ、という考え方です。教師の役割は、知識を教え込むことではなく、子どもが自ら学び、成長していくための環境を整え、それを助ける「援助者」であるべきだとされました。

7.2. 自由教育の実践者たち

これらの新しい教育理念は、志ある教育者たちによって、具体的な学校教育の実践として、形作られていきました。

  • 澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)と成城小学校:元文部次官という、教育行政の中枢にいた澤柳政太郎は、官僚主義的な教育を批判し、自ら理想の学校を創設しました。1917年に開校した成城小学校では、「個性尊重」「自然と親しむ」「心情の陶冶」「科学的研究を基とする」といった理念を掲げ、画一的な時間割を廃し、子どもの興味に応じた自由な研究や、野外での観察、劇の創作といった、当時としては極めて斬新な教育が実践されました。
  • 羽仁もと子(はにもとこ)と自由学園:ジャーナリストであった羽仁もと子夫妻は、キリスト教の精神に基づき、「思想し、生活し、祈る」ことを教育の柱とする、自由学園を1921年に設立しました。ここでは、生徒たちの自治が重んじられ、学校の運営や、食事の準備、校舎の建設に至るまで、生徒たちが主体的に関わる、生活そのものを教育の場とする、ユニークな教育が行われました。
  • 野口援太郎(のぐちえんたろう)と池袋児童の村小学校:野口は、芸術教育を通じて、子どもの創造性を育むことを重視しました。彼の学校では、絵画、音楽、舞踊といった表現活動が、カリキュラムの中心に据えられました。

これらの学校は、多くが私立学校であり、その教育を受けられたのは、裕福な都市部の家庭の子弟に限られていました。しかし、彼らが掲げた理想と、そのユニークな実践は、公教育の世界にも大きな影響を与え、多くの教師たちに、新しい教育の可能性を示唆しました。

7.3. 運動の限界と歴史的意義

大正自由教育運動は、1930年代に入り、日本が軍国主義へと傾斜していく中で、その「自由主義」「個人主義」的な性格が、国家主義的な風潮と相容れないものとして、次第に圧迫され、衰退していきます。

しかし、この運動が、日本の教育史に残した足跡は、決して小さくありません。

  • 明治教育へのアンチテーゼ:この運動は、明治以来の国家中心・画一主義の教育に対する、最初の本格的なアンチテーゼ(反対命題)でした。それは、教育の目的が、国家に従順な臣民を育てることだけにあるのではない、という重要な問題提起を行いました。
  • 戦後教育への橋渡し:大正自由教育が掲げた、「子どもの個性尊重」「主体的な学び」「体験学習」といった理念の多くは、第二次世界大戦後、日本の教育が、軍国主義から民主主義へと転換する中で、再び光を当てられることになります。戦後の新教育は、ある意味で、大正自由教育が目指した理想を、国民全体のレベルで実現しようとする、壮大な試みであったと、位置づけることもできるでしょう。

大正自由教育運動は、時代の波に翻弄され、短期間でその幕を閉じた、いわば「早すぎた春」でした。しかし、その蒔いた種は、戦後の民主主義教育の中に、確かに受け継がれ、芽吹いていくことになるのです。

8. 戦時下の教育

1931年の満州事変勃発以降、日本は、「十五年戦争」と呼ばれる、長い戦争の時代へと突入していきます。当初は、局地的な紛争と捉えられていた戦争は、日中戦争の全面化(1937年)、そして太平洋戦争の開戦(1941年)へと、際限なく拡大していきました。国家のすべての資源と国民を、戦争遂行のために動員する「総力戦体制」が構築される中で、教育もまた、その例外ではありえませんでした。学校は、もはや学問を学ぶ場ではなく、国家のために命を捧げる、忠良な「皇国民(こうこくみん)」を錬成するための、最も重要な国家装置と化していったのです。ペンは銃に持ち替えられ、教室は、戦場へと続く、最初の訓練の場となりました。

8.1. 教育内容の戦時色強化

政府は、教育の内容を、戦争遂行と国家主義イデオロギーの徹底という目的に沿うよう、全面的に改編していきました。

  • 教科書の国定化と内容の統制:それまで、一部の教科書には文部省の検定を経た民間発行のものが使われていましたが、次第にすべての教科書が、文部省が著作・発行する「国定教科書」に統一されていきました。その内容は、日本の侵略戦争を「聖戦」として正当化し、日本民族の優越性を説き、天皇のために死ぬことを、最高の美徳とする、極めて偏ったものでした。歴史の教科書は、「皇国史観(こうこくしかん)」に基づいて書き換えられ、地理の教科書は、日本の海外進出を正当化するために利用されました。
  • 修身教育の極端化:「修身」の授業では、教育勅語の精神が、さらに先鋭化された形で教えられました。「忠君愛国」「滅私奉公」の精神が、絶対的な価値として強調され、子どもたちは、個人としての幸福や生命よりも、国家への奉仕を優先するよう、繰り返し教え込まれました。
  • 軍事教練の強化:学校教育における、軍事的な訓練(教練)が、大幅に強化されました。中学校以上の男子生徒には、陸軍の現役将校が「配属将校」として派遣され、銃の扱い方や、戦闘訓練、行軍といった、実戦さながらの訓練が、正規の教科として課されました。女子生徒にも、竹槍(たけやり)を使った訓練や、応急救護訓練などが行われました。

8.2. 学校制度の戦時体制への再編

教育の内容だけでなく、学校制度そのものも、総力戦体制に対応する形へと、つくり変えられていきました。

1941年(昭和16年)には、「国民学校令」が公布され、それまでの尋常小学校は、「国民学校」と改称されました。

  • 「国民学校」への改称:「国民」という名称が示すように、この学校の目的は、子どもたちを、天皇に忠誠を誓う「少国民(しょうこくみん)」として育成することにありました。学校は、「錬成の場」と位置づけられ、集団での規律ある行動が、何よりも重視されました。
  • 教科の再編:修身、国語、国史、地理の教科は、「国民科」という一つの教科に統合され、皇国史観に基づく、イデオロギー教育が、さらに徹底されました。体育は「体錬科」と改められ、強靭な兵士を育成するための、身体的な鍛錬が中心となりました。

8.3. 学徒動員と学業の中断

戦争が末期に近づき、戦況が悪化すると、学校は、もはや正常な教育活動を行うことさえ、困難になっていきます。

  • 勤労奉仕(きんろうほうし):労働力不足を補うため、多くの子どもたちが、授業を中断して、軍需工場での労働や、農村での食糧増産に、動員されるようになりました。
  • 学徒出陣(がくとしゅつじん):1943年、兵力不足が深刻になると、政府は、それまで徴兵を猶予されていた、大学や専門学校の文科系の学生たちを、戦場へ送ることを決定しました。東京の神宮外苑競技場で行われた、壮行会(そうこうかい)の雨の中を、戦地へと行進していく学生たちの姿は、戦争が、日本の未来を担うべき若者たちの知性と生命を、いかに無残に踏みにじったかを、象徴する光景でした。
  • 学童疎開(がくどうそかい):戦争末期、アメリカ軍による本土空襲が激化すると、都市部の子どもたちを、空襲の被害から守るという名目で、地方の農村へ、集団で避難させる「学童疎開」が始まりました。親元を離れた子どもたちは、慣れない環境の中で、食糧不足や、いじめといった、多くの困難に苦しめられました。

戦時下の教育は、教育が、その本来の目的である、個人の人格の完成や、真理の探究といった理念を完全に失い、国家の暴力的な目的に、無批判に奉仕する道具と化した、痛ましい時代でした。この時代の経験は、戦後の日本が、二度と教育を、国家の誤った目的のために利用させてはならない、という強い決意を、その後の教育改革の原点とする、大きな歴史的教訓となったのです。

9. 教育基本法と戦後教育改革

1945年8月15日、日本の無条件降伏によって、長く続いた十五年戦争は終結しました。敗戦という未曾有の国難は、日本の社会のあり方を、根底から問い直すことを迫りました。特に、戦前の軍国主義と超国家主義を、精神的な面から支える役割を担ってしまった教育のあり方は、連合国軍総司令部(GHQ)と、新しい日本を築こうとした日本の指導者たちによって、最も根本的な改革の対象とされました。戦前の教育の過ちを二度と繰り返さない、という固い決意のもとで進められた一連の「戦後教育改革」。その中心的な理念を、法として明確に打ち立てたのが、1947年(昭和22年)に制定された「教育基本法」でした。これは、日本の教育の歴史における、最大のパラダイムシフト(価値観の転換)を象徴する、記念碑的な法律です。

9.1. 戦前教育の否定から始まった改革

日本の占領統治を開始したGHQは、日本の非軍事化と民主化を、その最大の目的としました。そして、その目的を達成するためには、日本の教育を、軍国主義的なものから、民主主義的なものへと、完全に作り変える必要があると考えました。

GHQの指令に基づき、文部省は、戦時教育体制の解体を、矢継ぎ早に進めていきました。

  • 軍国主義的教員の追放:戦時中に、積極的に戦争協力を行った教員や、軍国主義的な思想を持つと見なされた教員が、教壇から追放されました(教職追放)。
  • 修身・国史・地理教科の停止:超国家主義や神道指令に反するとされた、修身、日本歴史、地理の授業は、直ちに停止を命じられました。教科書は、生徒たちの手で、墨を塗って、不適切な記述を抹消させられる(墨塗り教科書)という、象徴的な措置がとられました。
  • 教育勅語の失効:戦前教育の精神的支柱であった教育勅語は、国会決議によって、その失効が確認され、奉安殿も撤去されました。

これらの「破壊」の作業と並行して、新しい民主主義国家にふさわしい、教育の理念と制度を「創造」するための、議論が始まりました。

9.2. 「教育基本法」の理念:個人の尊厳

新しい教育の理念を確立するため、日本の教育家や知識人たちが、GHQの担当者と協力しながら、起草したのが「教育基本法」です。この法律は、日本の「教育憲法」とも呼ばれ、その後の日本の教育の、すべての基本となる理念を、明確に示しました。

その核心は、教育の目的を、戦前の「国家のため」から、「個人のため」へと、180度転換させた点にあります。

  • 教育の目的(第一条):教育の目的を、「人格の完成」を目指し、「平和的な国家及び社会の形成者」として、「真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成」にある、と定めました。ここで、国家よりも先に「個人」の価値が謳われている点は、画期的でした。
  • 教育の機会均等(第三条):「すべての国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」と定め、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されないことを、明確に保障しました。
  • 政治教育と宗教教育の分離(第八条、第九条):教育が、特定の政党や、特定の宗教の教義のために利用されることを、厳しく禁じました。
  • 教育行政(第十条):教育が、「不当な支配に服することなく」、国民全体に対して直接に責任を負って行われるべきものである、と定め、教育への、国家権力による不当な介入を、戒めました。

9.3. 新しい学校制度の導入

この教育基本法の理念を、具体的な学校制度として実現するために、「学校教育法」も、同じく1947年に制定されました。これにより、日本の学校システムは、全面的につくり変えられました。

  • 6-3-3-4制単線型学校体系:戦前の、エリートコースと庶民コースが分かれた「複線型」の学校体系は、完全に廃止されました。そして、誰もが、小学校6年間、中学校3年間の、合計9年間の義務教育を、同じ学校で受け、その後、高等学校3年間、大学4年間へと、一つの道筋で進学できる、「6-3-3-4制」の「単線型」学校体系が、導入されました。これは、教育の機会均等を、制度的に保障するためのものでした。
  • 男女共学の原則化:小学校から大学に至るまで、男女が同じ教室で学ぶ、「男女共学」が、原則となりました。
  • 新制大学の発足:戦前の、帝国大学、旧制高等学校、師範学校といった、多様な高等教育機関は、すべて、新制の4年制大学へと、再編されました。これにより、大学への門戸は、以前よりも、はるかに大きく開かれることになりました。

戦後教育改革は、日本の教育の風景を、一変させました。それは、アメリカの民主主義をモデルとした、壮大な社会実験であり、その後の日本の、奇跡的な経済復興と、平和で安定した社会を築く上で、計り知れないほど大きな役割を果たしたのです。しかし、その一方で、この改革が、日本の伝統的な教育の良さまでをも、一律に否定してしまったのではないか、という批判も、後々まで続くことになります。

10. 現代の教育課題

1947年の教育基本法と学校教育法によって、戦後の民主主義教育の骨格が築かれて以降、日本の教育は、社会の急速な変化と連動しながら、新たな発展と、そして新たな課題に直面する、絶え間ない変革の過程を歩んできました。奇跡的な高度経済成長は、教育の世界に、激しい競争の原理をもたらし、その後の安定成長期、そしてバブル崩壊後の長期停滞期は、教育のあり方そのものを、社会全体で問い直す契機となりました。そして、グローバル化と情報化が、不可逆的に進展する現代において、日本の教育は、まさに、その存在意義そのものが問われる、大きな転換期を迎えています。

10.1. 高度経済成長期と「受験戦争」

1960年代から70年代にかけての高度経済成長期は、日本の社会に、学歴が、個人の社会的・経済的地位を決定づける、という「学歴社会」を、完全に定着させました。良い大学に入り、良い会社に就職することが、人生の成功モデルとされる中で、子どもたちは、幼い頃から、熾烈な受験競争に巻き込まれていきます。

  • 受験戦争の激化:特に、都市部を中心に、塾や予備校が、一大産業として成長し、学校の授業が終わった後も、子どもたちは、夜遅くまで、受験勉強に明け暮れるようになりました。この過酷な競争は、「受験戦争」あるいは「受験地獄」と呼ばれ、子どもたちの心身に、大きなストレスを与える、深刻な社会問題となりました。
  • 知識詰め込み教育への批判:この受験戦争を勝ち抜くために、学校教育は、どうしても、大学入試に出題される、細かな知識を、効率的に暗記させる、「知識偏重・詰め込み教育」へと、傾斜していきました。このことは、子どもたちの、自ら考える力や、創造性を、阻害しているのではないか、という批判を、教育界の内外から、招くことになります。

10.2. 「ゆとり教育」とその揺り戻し

受験戦争の弊害と、詰め込み教育への反省から、1980年代以降、文部省は、教育のあり方を、見直す動きを始めます。その流れが、一つの大きな形となったのが、2002年度から、小中学校で、本格的に実施された、新しい学習指導要領、通称「ゆとり教育」でした。

  • ゆとり教育の理念:その理念は、学校の授業時間と、教科書の内容を、約3割削減することで、子どもたちの学校生活に「ゆとり」を生み出し、その時間を使って、各学校が、体験学習や、国際理解教育といった、特色ある教育を展開したり、あるいは、子どもたちが、自らの興味・関心に基づいて、主体的に学ぶ「総合的な学習の時間」を、充実させたりすることにありました。
  • 学力低下論争と揺り戻し:しかし、この「ゆとり教育」は、開始直後から、「子どもの学力が、低下しているのではないか」という、「学力低下」論争を、社会に巻き起こしました。特に、PISA(OECD生徒の学習到達度調査)などの、国際的な学力調査で、日本の生徒の順位が、低下したことが、この論争を、さらに過熱させました。
    • このような社会的な批判を受け、政府は、再び、方針を転換。「脱ゆとり」を掲げ、2011年度以降の学習指導要領では、授業時間と、学習内容を、再び、増加させる方向へと、舵を切りました。

この「詰め込み」と「ゆとり」の間を、振り子のように揺れ動いてきた、戦後教育の歴史は、社会が、子どもたちに、どのような能力を身につけさせるべきか、その合意形成が、いかに難しいかを示しています。

10.3. 現代日本の教育が直面する課題

21世紀に入り、日本の教育は、さらに、複雑で、根深い課題に、直面しています。

  • いじめ・不登校・貧困:受験競争のストレスや、複雑化する人間関係を背景に、いじめや、学校に通うことができなくなる「不登校」の子どもたちの数は、依然として、深刻な問題です。また、日本社会の格差拡大を反映し、家庭の経済的な困難が、子どもたちの学力や、進学の機会に、直接的な影響を及ぼす、「子どもの貧困」問題も、クローズアップされています。
  • グローバル化への対応:経済のグローバル化が進む中で、国際社会で、主体的に活躍できる、コミュニケーション能力(特に、英語力)や、異文化理解能力を持った、人材の育成が、急務となっています。
  • 情報化社会への対応:AI(人工知能)や、IoT(モノのインターネット)が、社会を、根本から変えようとしている中で、もはや、既存の知識を、記憶するだけでは、通用しない時代が、到来しています。これからの教育には、子どもたちが、膨大な情報の中から、必要なものを、主体的に選び取り、批判的に吟味し、そして、新しい価値を、創造していく能力を、いかにして育むか、という、根本的な問いが、突きつけられています。

現代の教育が抱える課題は、もはや、教育界だけの問題ではありません。それは、日本の社会全体が、どのような未来を選択していくのか、という、私たち一人ひとりに関わる、大きな問いかけなのです。


Module 19:教育の歴史の総括:国家と個人の相克の物語

本モジュールを通して、私たちは、日本の教育が、古代の律令国家による官吏養成から、現代社会の複雑な課題に応えようとする試みに至るまで、いかにして時代と共にその姿を変え、また、社会を形作ってきたのか、そのダイナミックな歴史を旅してきました。その物語は、常に二つの強大な力の、緊張関係(相克)の中にありました。一つは、国家や社会が、その体制を維持し、発展させるために、国民に特定の知識や価値観を植え付けようとする、「上からの力」。もう一つは、人間が、個人として、より良く、より自由に生きたいと願い、自らの能力を開花させようとする、「下からの力」です。

古代の大学・国学、近世の藩校、そして近代の帝国大学と、教育勅語体制下の国民教育は、まさしく「上からの力」が、その時代の「理想の人間像」——すなわち、国家に忠実な官僚、武士、そして臣民——を、鋳造しようとした試みでした。それは、社会の秩序維持や、急速な近代化に、大きな貢献をした一方で、個人の自由な精神を、抑圧する側面も持っていました。

それに対し、中世の寺院が、多様な学問の自由な探求の場となり、近世の寺子屋が、庶民の生活に根ざした実学の場として、自生的に発展し、そして、大正自由教育運動が、「児童中心」という理念を掲げたことは、「下からの力」が、教育のあり方を、より人間的なものへと、引き戻そうとする、重要な動きでした。

敗戦という、最大の断絶を経て生まれた、戦後の教育基本法は、この振り子を、国家から「個人」へと、大きく振り戻す、画期的な宣言でした。しかし、その後の、受験戦争の激化や、「ゆとり」と「詰め込み」をめぐる議論の歴史は、この「国家(社会)の要請」と「個人の発達」という、二つの価値のバランスを、いかにして取っていくかという、終わりのない問いが、現代に至るまで、続いていることを、示しています。

教育の歴史を学ぶことは、この、国家と個人の、終わりのない対話の記録を、読み解くことです。そして、その歴史的な文脈の中に、自分自身が、今、立っている場所を、自覚することです。その自覚こそが、未来の教育を、より良いものにしていくための、思考の出発点となるのです。

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