【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 24:ジェンダーの歴史

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本モジュールの目的と構成

歴史を学ぶとは過去の出来事を辿ることですが、その歴史は誰の視点から語られてきたのでしょうか。本モジュールでは「ジェンダー」という視点から日本の歴史を再検討していきます。これは単に「女性史」を学ぶことに留まりません。それぞれの時代社会が「女性らしさ」「男性らしさ」という規範をいかに構築し人々の役割や生き方を規定してきたか、そしてその規範が政治、経済、文化とどのように結びついてきたかを解き明かす試みです。

私たちは日本神話に登場する力強い女性神の姿から始め、古代の女性天皇が実在した事実を探ります。そして平安時代になぜ女性たちが日本文学の金字塔を打ち立て得たのか、その文化的背景に迫ります。しかし時代が武家社会へと移行する中で「家」制度が確立され女性の地位は大きく変化しました。近世には儒教的道徳観が浸透し男女の役割分担はより明確になります。

近代化の波は「良妻賢母」という新しい規範を生み出し、女性を国家の枠組みの中に位置づけようとしました。これに対し自らの解放を求めて立ち上がった女性たちの運動、そして戦後に憲法で保障された「男女平等」の理想と現実。高度経済成長期に定着した性別役割分業とそれに伴う家族観の変容。最終的に現代日本が直面するジェンダー・ギャップという課題まで、私たちは壮大な時の流れの中でジェンダーという秩序がいかに構築され、時に揺らぎ、そして変容してきたかを追跡します。

このモジュールを通じて皆さんは歴史を複眼的に捉えるための新しいレンズを手にするでしょう。それは過去をより深く理解するだけでなく、現代社会の構造や私たちが無意識に内面化している価値観を批判的に見つめ直すための知的基盤となるはずです。

本モジュールは以下の10のステップを通じて、日本のジェンダー史のダイナミックな変遷を体系的に解き明かしていきます。

  1. 日本神話における女性像: 天照大神と伊邪那美命。日本の創世神話が描く太陽神としての女性と国生みにおける女性の役割。そこに込められた古代のジェンダー観を読み解きます。
  2. 古代の女性天皇: 推古天皇から称徳天皇まで。なぜ古代には複数の女性天皇が存在し得たのか。彼女たちの政治的役割と、その存在が途絶えた背景を探ります。
  3. 平安女流文学: 『源氏物語』と『枕草子』。政治的には周縁に置かれた女性たちがなぜ日本文学史上の最高傑作を生み出すことができたのか。その文化的・社会的条件を分析します。
  4. 武家社会における「家」と女性: 鎌倉時代以降に確立する武家の「家」制度。女性の役割が「家」の存続と繁栄に従属していく中で、その地位や権利がどのように変化したかを検証します。
  5. 近世の男女の役割分担: 儒教思想の浸透と「男は外、女は内」という規範の確立。武家、町人、農民といった身分ごとに異なる近世社会の具体的なジェンダー秩序を詳述します。
  6. 近代化とジェンダー規範: 明治国家が創出した「良妻賢母」というイデオロギー。国民国家の形成過程で女性がどのように位置づけられ、女子教育がどのような目的で推進されたかを考察します。
  7. 婦人運動の歴史: 「元始、女性は実に太陽であった」。平塚らいてうの青鞜社から市川房枝らの婦人参政権運動まで。近代的な自我に目覚めた女性たちが自らの権利と解放を求めて闘った軌跡を追います。
  8. 戦後の男女平等: 日本国憲法によって保障された男女同権の原則。GHQの占領政策の下で実現した婦人参政権など、法的な平等の達成と社会に根強く残る現実とのギャップを分析します。
  9. 家族観の変容: 高度経済成長が生んだ「サラリーマンと専業主婦」という家族モデル。核家族化の進展とその後の非婚化・少子化の中で、日本の家族観がどのように多様化してきたかを探ります。
  10. 現代社会とジェンダー・ギャップ: 世界経済フォーラムのジェンダー・ギャップ指数で常に下位に位置する現代日本。その構造的な要因を分析し、現代社会が直面する課題と未来への展望を考察します。

この歴史の旅はジェンダーという秩序が固定不変のものではなく、時代と共に作られ変えられてきたダイナミックな構築物であることを明らかにするでしょう。


目次

1. 日本神話における女性像

日本のジェンダー史を探求する旅の出発点は、その文化の源流である日本神話の世界にあります。『古事記』と『日本書紀』は単なる空想の物語ではありません。それらは古代国家が自らの起源と秩序を語るために構築した壮大なイデオロギーであり、そこには当時の人々が抱いていた人間観や社会観、そしてジェンダー観が色濃く反映されています。特に神話に登場する女性像は決して一様ではなく、太陽のように世界を照らす至高の存在から死と穢れを象徴する存在まで、極めて多様で重層的な姿を見せています。この神話の奥深くに分け入ることは日本におけるジェンダー観の原型を探る上で不可欠な作業です。

1.1. 至高神アマテラス:太陽と統治の象徴

日本神話のパンテオン(神々の体系)において最も中心的な位置を占めるのが、太陽神である**天照大神(あまてらすおおみかみ)**です。彼女は皇室の祖先神(皇祖神)とされ、その存在は古代のジェンダー観を考える上で極めて重要な示唆に富んでいます。

1.1.1. 女性の最高神という事実

世界の多くの神話体系で太陽神が男性神として描かれる中で、日本神話が女性神を最高神として位置づけている事実は注目に値します。これは古代の日本社会に女性が持つ宗教的・呪術的な権威に対する深い敬意が存在したことの現れかもしれません。実際に『魏志』倭人伝に記された3世紀の女王・卑弥呼の姿は呪術的な力で国を治める女性首長の存在を伝えており、アマテラスの姿にその記憶が投影されている可能性も指摘されています。

アマテラスは単に世界を照らす自然神であるだけでなく、高天原(たかまのはら)という神々の世界を統治する主権者であり、地上の支配者である天皇に統治の正統性を与える存在です。彼女が機織りをする神聖な空間(斎服殿)は古代の祭祀において女性が中心的な役割を果たしたことを彷彿とさせます。

1.1.2. 天岩戸神話に見る多様な側面

アマテラスの性格が最もよく現れているのが有名な天岩戸(あまのいわと)神話です。弟であるスサノオノミコトの乱暴狼藉に怒ったアマテラスが天岩戸に隠れてしまい、世界が闇に包まれる。困り果てた神々が岩戸の前で様々な儀式を行い、最終的にアメノウズメノミコトの滑稽でエロティックな踊りによってアマテラスが外に誘い出され世界に光が戻るという物語です。

この物語はアマテラスの多面的な性格を示しています。彼女は世界を維持する秩序の象徴であると同時に、怒り傷ついて引きこもるという人間的な感情も見せます。また世界を危機から救うきっかけを作るのがアメノウズメという女性のシャーマン的な狂態であったことも重要です。ここに描かれているのは画一的な女性像ではなく、統治者、祭司、そして感情を持つ個人という多様な女性の姿です。

1.2. 国生み神話のイザナミ:創造と死の二面性

アマテラスが天上の秩序を象徴する光の女神であるとすれば、それと対照的な形で描かれるのが日本の国土を産んだとされる女神**伊邪那美命(いざなみのみこと)**です。彼女の物語は女性が持つ生命の創造力と死や穢れという負の側面が、表裏一体のものとして認識されていたことを示唆しています。

1.2.1. 国生みにおける男女の序列

『古事記』によれば男神イザナキと女神イзанамиは天の御柱を巡って出会い、結婚の言葉を交わします。最初の試みでは女神であるイザナミの方から先に「あなにやし、えをとこを(ああ、なんと素敵な男性でしょう)」と声をかけたため、不具の子であるヒルコが生まれてしまいます。神々の助言に従って二度目の試みで男神であるイザナキの方から先に声をかけると、今度は日本の島々を次々と産むことに成功します。

このエピソードは男女の間にはあるべき序列が存在し女性が男性に先行することは不吉な結果を招くという、父権的な社会秩序を正当化するための神話的説明であると解釈されることが一般的です。律令国家が形成される過程で中国から導入された儒教的な思想の影響が、すでに神話の編纂段階で及んでいた可能性を示唆しています。

1.2.2. 黄泉の国の女神

イザナミは国生みの後、火の神カグツチを産んだ際の火傷が原因で死んでしまい黄泉の国(よみのくに)へと下ります。彼女を追ってきたイザナキは見てはならないという禁を破ってイザナミの腐乱した醜い姿を見てしまい、恐怖のあまり逃げ出します。激怒したイザナミはイザナキを追いかけますが最終的に二人は黄泉比良坂(よもつひらさか)で離別し、イザナミは死者を支配する黄泉の国の神となります。

この物語は生命を産み出す聖なる存在であったイザナミが死と腐敗、そして夫を呪う怨念を象徴する恐ろしい存在へと変貌する姿を描いています。ここには女性が持つ生命力(生)と死や穢れという根源的な恐怖とを結びつける、古代人の世界観が反映されていると言えるでしょう。

1.3. 神話が語るジェンダー秩序

日本神話における女性像はアマテラスという至高の太陽神に象徴されるように、決して単純な男性優位の物語ではありません。そこには女性が持つ宗教的・政治的な権威への記憶が色濃く残されています。しかし同時にイザナミの物語に見られるように、国家的な秩序を構築していく過程で女性を特定の役割の中に位置づけ、その力を制御しようとする父権的なイデオロギーの萌芽も明確に見て取ることができます。

この神話に描かれた女性に対する尊敬と統制の間の緊張関係は、その後の日本のジェンダー史を貫く一つの通奏低音となっていくのです。そしてこの神話の時代から人間の時代へと移行する古代において、実際に国家の最高権力者として君臨した女性たちが存在しました。それが女性天皇です。


2. 古代の女性天皇

日本神話の世界において最高神が女性である天照大神であったという事実は、古代日本社会における女性の地位を考える上で重要な示唆を与えます。そしてその神話の時代から歴史の時代へと移行する飛鳥・奈良時代(7〜8世紀)において、実際に国家の最高統治者として君臨した**女性天皇(女帝)**が複数存在したという事実は、日本のジェンダー史における極めて特徴的で重要な現象です。彼女たちは決して例外的な存在ではなく、当時の皇位継承のルールの中で正統な資格を持つ統治者として国家の舵取りを担いました。なぜ古代には女性天皇が存在し得たのか、そしてなぜその伝統は途絶えてしまったのか。その謎を解き明かすことは古代日本の政治構造とジェンダー観の特質を理解する上で不可欠の鍵となります。

2.1. 推古天皇から称徳天皇まで:実在した女帝たち

日本の歴史上、正式に即位した女性天皇は全部で8人10代存在します(一人の天皇が再び即位する重祚を含む)。そのうち古代に集中しているのが以下の6人8代です。

  1. 推古天皇 (在位: 592-628)
  2. 皇極天皇 (在位: 642-645) → 斉明天皇 (重祚、在位: 655-661)
  3. 持統天皇 (在位: 690-697)
  4. 元明天皇 (在位: 707-715)
  5. 元正天皇 (在位: 715-724)
  6. 孝謙天皇 (在位: 749-758) → 称徳天皇 (重祚、在位: 764-770)

江戸時代に即位した後桜町天皇と明正天皇を除けば、日本の女性天皇はすべてこの約180年間の飛鳥・奈良時代に集中しています。これはこの時代の皇位継承が後世とは異なる独自の原理に基づいていたことを示しています。

2.2. なぜ女性天皇は存在し得たのか

古代に女性天皇が多数存在した背景には、いくつかの複合的な要因が考えられます。

2.2.1. 血統原理の重視

最も根本的な要因は当時の皇位継承が男女の性別よりも**天皇の血を引いていること(血統)**を、絶対的な最優先事項としていたことにあります。女性天皇はすべて歴代天皇の后妃、皇女、あるいは孫娘であり、その血統の正統性においては何ら疑いのない存在でした。

古代の皇位継承は必ずしも父から子へと直系で継承される「父系原理」が厳格に確立されていたわけではありませんでした。兄弟間での継承や時には后妃への継承も有力な選択肢の一つでした。重要なのはいかにして天武・天智系の神聖な血統を途絶えさせることなく維持していくか、という点にあったのです。

2.2.2. 「中継ぎ」としての役割

多くの女性天皇は先代の天皇(夫や父)が亡くなった後、後継者となるべき皇子がまだ幼かったり、あるいは複数の皇子の間で後継者争いが起こったりした場合に、その**「中継ぎ(リリーフ)」**として即位するケースが多く見られます。

例えば最初の女性天皇である推古天皇は、夫である敏達天皇の死後、崇峻天皇が暗殺されるという政治的混乱の中で甥である聖徳太子を皇太子として政治を安定させるために擁立されました。また持統天皇は夫である天武天皇の死後、息子の草壁皇子が早世したため孫の軽皇子(後の文武天皇)が成長するまでの間、自らが天皇として国政を担いました。

彼女たちは次代の正統な男性天皇へと円滑に皇位を継承させるための、重要な調整役としての役割を果たしたのです。しかし「中継ぎ」であったからといって彼女たちが単なる名目上の君主であったわけでは決してありません。

2.3. 女帝たちの政治的業績

古代の女性天皇たちはその治世において、日本の国家形成に関わる極めて重要な政治的業績を数多く残しています。

  • 推古天皇: 聖徳太子を摂政として冠位十二階や十七条憲法の制定、遣隋使の派遣といった画期的な国政改革を推進しました。
  • 斉明天皇: 中大兄皇子(後の天智天皇)と共に積極的な土木事業や対外政策を展開。白村江の戦いでは自ら筑紫まで軍を率いました。
  • 持統天皇: 夫・天武天皇の遺志を継ぎ日本初の本格的な律令である飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を施行し、藤原京への遷都を断行するなど律令国家の基礎を固めました。
  • 元明天皇: 平城京への遷都を実現し、日本初の流通貨幣である和同開珎を発行。また『古事記』の編纂を完成させました。
  • 称徳天皇: 仏教を篤く信仰し西大寺の建立や「百万塔陀羅尼」の制作など、仏教による鎮護国家政策を強力に推し進めました。

これらの業績は彼女たちが単なる飾り物の君主ではなく、自らの強い意志を持って国家の舵取りを担った正真正銘の統治者であったことを雄弁に物語っています。

2.4. 女性天皇の断絶

しかし奈良時代の最後の女帝である称徳天皇の死後、古代における女性天皇の伝統はぷっつりと途絶えてしまいます。そしてその後約860年間にわたり、女性が天皇の位に就くことはありませんでした。なぜでしょうか。

  • 道鏡事件の影響: 直接的なきっかけとなったのが称徳天皇が寵愛した僧侶・道鏡(どうきょう)を太政大臣禅師、さらには法王の位に就け皇位を継がせようとしたとされる道鏡事件です。この事件は皇族以外の者が皇位を簒奪(さんだつ)しようとしたスキャンダルとして大きな政治的混乱を招きました。事件の収拾後、藤原氏などの貴族たちは女性天皇の存在そのものがこのような政治的混乱を招く危険なものであると考え、女性を皇位から排除する動きを強めました。
  • 儒教思想の浸透: より根本的な要因として律令国家の整備と共に中国から導入された儒教の思想が、貴族社会に深く浸透していったことが挙げられます。儒教は男女の役割を明確に分け、政治は男性が担うべきものであるとする父権的なイデオロギーです。この思想が広まるにつれて「女性は君主たるにふさわしくない」という観念が次第に定着していきました。
  • 皇位継承ルールの変化: 平安時代以降、皇位継承が次第に父から子へと直系で継承される父系原理が確立していく中で、女性が皇位に就く余地そのものが失われていったことも大きな要因です。

古代にあれほど当たり前のように存在した女性天皇の伝統が途絶えたという事実は、日本の社会と政治の根底でジェンダーに関する価値観が大きく転換したことを示す象徴的な出来事でした。天皇という最高の公的な地位から女性が排除された後、彼女たちの活躍の舞台は政治の表舞台から文化の内奥へと移っていくことになります。それが平安時代の女流文学の類稀な開花でした。


3. 平安女流文学

古代において女性が国家の最高統治者である天皇として君臨した時代があった後、平安時代(9世紀末〜12世紀末)に入ると女性は政治の表舞台から次第に姿を消していきます。藤原氏による摂関政治が確立する中で女性の役割は天皇の外戚となる后妃を輩出することに限定され、その活動の場は内裏(だいり)の後宮(こうきゅう)という閉ざされた空間へと移っていきました。しかしこの政治的な周縁化とは裏腹に文化の領域において彼女たちは、日本史上空前絶後とも言える輝かしい成果を生み出します。紫式部(むらさきしきぶ)の『源氏物語』や清少納言(せいしょうなごん)の『枕草子』に代表される平安女流文学の誕生です。なぜ政治的に無力であったはずの女性たちが日本文学史上の最高傑作を次々と生み出すことができたのか。その背景にはこの時代特有の文化的・社会的な条件が存在しました。

3.1. 仮名文字と女性の表現手段

平安女流文学が花開いた最も根本的な技術的・文化的前提は、日本独自の表音文字である仮名(かな)文字の発明と成熟でした。

3.1.1. 漢字(真名)と仮名の使い分け

奈良時代まで日本語を表記するための文字は中国から輸入された漢字しかありませんでした。公的な文書や学問の世界では漢文をそのまま用いるか、あるいは漢字を日本語の語順に並べ替えて読む漢文訓読体が使われていました。この漢字・漢文の知識は主に男性官僚が身につけるべき公的な教養(才(ざえ))とされていました。

これに対し平安時代に入ると漢字の草書体を簡略化した**「ひらがな」や漢字の一部を抜き出した「カタカナ」**が生み出されます。これらの仮名文字は日本語の音をそのまま表記できるため、人々の日常的な感情や会話をより自由にそして繊細に表現することを可能にしました。

この新しい文字である仮名は当初、漢文の正式な知識を持たない女性や子供が用いる私的な文字と見なされていました。男性が公的な場で用いる漢字を「真名(まな)」と呼んだのに対し、仮名は「女手(おんなで)」とも呼ばれそこには明確なジェンダーによる文字の使い分け(ジェンダー・バイアス)が存在しました。

3.1.2. 「女手」が拓いた文学の新地平

しかし皮肉なことにこの仮名が「女性の文字」とされたことこそが、女流文学の隆盛をもたらす最大の要因となったのです。

漢文が中国の古典に基づく硬直した表現の型や儒教的な道徳観に縛られていたのに対し、仮名はそのような制約から自由でした。女性たちはこの新しい表現ツールを使ってそれまでの漢文学では描かれることのなかった個人の内面的な感情の機微、恋愛の喜びや苦悩、そして宮廷生活の日常的な観察といった新しい文学の領域を切り拓いていったのです。

紀貫之(きのつらゆき)が代表的な仮名文学である『古今和歌集』の編纂にあたった後、自らが女性になりすまして仮名で日記文学の傑作『土佐日記』を書いたという事実は、「仮名=女性の表現領域」という観念がいかに定着していたかを象徴しています。

3.2. 後宮という文化的サロン

平安女流文学の担い手となったのは主に天皇の后妃に仕える**女房(にょうぼう)**と呼ばれる、中流貴族出身の才媛たちでした。彼女たちが生きた後宮という空間が特異な文化的土壌を形成しました。

摂関政治の全盛期、藤原道長に代表される権力者たちは自らの娘を天皇の后として入内させ、その娘が産んだ皇子を次の天皇に立てることで外戚としての地位を固めようと激しく競い合いました。

この后妃たちの威信を高めるためその父親である権力者たちは、后妃の周りに優れた才能を持つ女房たちを集めました。彼女たちの役割は后妃の身の回りの世話をするだけでなく、和歌や物語、音楽といった高い文化的教養によって后妃のサロンを華やかに演出し、その文化的な名声を高めることにありました。

紫式部が一条天皇の中宮であった藤原彰子(道長の娘)に仕え、清少納言が同じく一条天皇の皇后であった藤原定子(道長の姪)に仕えたのはその最も有名な例です。彰子のサロンと定子のサロンは互いにその文化的な華やかさを競い合っており、このライバル関係が二人の天才的な女流作家の創造性を大いに刺激したと言われています。後宮は政治的には閉ざされた空間でしたが文化的には当代一流の才能が集い競い合う、極めて知的で刺激的なサロンだったのです。

3.3. 女性の視点から描かれた世界

平安女流文学の最大の価値はそれが歴史上初めて、女性自身の視点から世界を体系的に描き出した文学であるという点にあります。

  • 紫式部と『源氏物語』: 世界最古の長編小説とも言われる『源氏物語』は、主人公・光源氏の華麗な恋愛遍歴を軸としながら、その周囲にいる数多くの女性たちの喜び、苦悩、嫉妬、そして運命を驚くほど深くそして共感的に描き出しています。それは男性中心の貴族社会の中で女性がいかに政治的な道具として扱われ、その尊厳を踏みにじられ、それでもなお自らの感情と人生を生きようとしたか、その壮大なパノラマです。
  • 清少納言と『枕草子』: 『枕草子』は「春はあけぼの」の有名な一節に代表されるように、鋭い感受性と知的な観察眼で自然の美や宮廷生活の日常を生き生きと切り取った随筆文学の傑作です。「うつくしきもの(かわいらしいもの)」「にくきもの(気に食わないもの)」といった独自のカテゴリーで世界を分類していくその感性は極めてモダンであり、清少納言という一人の聡明な女性のパーソナリティを鮮やかに浮かび上がらせます。
  • 日記文学: 『蜻蛉日記(かげろうにっき)』の藤原道綱母や『和泉式部日記』の和泉式部、『更級日記(さらしなにっき)』の菅原孝標女らは、夫との不安定な関係や宮仕えの苦労、そして物語への憧れといった自らの内面的な葛藤を赤裸々に日記として書き記しました。これらの作品は平安貴族の女性たちが抱えていた実存的な悩みを、知る上で第一級の史料となっています。

平安女流文学は女性が政治的な権力から遠ざけられた時代に彼女たちが仮名文字という新しい武器を手に、自らの内面と世界を見つめそれを普遍的な文学へと昇華させた輝かしい成果でした。しかしこの貴族女性の華やかな文化が爛熟の極みに達した頃、日本の社会は貴族に代わって武士が支配する新しい時代へと大きく移行していきます。そしてその武家社会の到来と共に、女性を取り巻く状況は再び大きく変貌を遂げることになるのです。


4. 武家社会における「家」と女性

平安時代の貴族社会において女性たちが文化の中心的な担い手として輝かしい成果を生み出した後、日本のジェンダー史は再び大きな転換点を迎えます。鎌倉時代(12世紀末〜14世紀前半)に入り貴族に代わって武士が社会の支配階級として登場すると、女性の地位と役割はそれまでとは全く異なる新しい社会規範の中に位置づけられるようになります。その新しい規範の中核をなしたのが**「家(いえ)」**という概念でした。武家社会における「家」とは単なる家族が住む建物や血縁集団を意味するものではありません。それは父系の血統を通じて代々受け継がれていく家名、財産(所領)、そして武士としての名誉を一体化した社会的な存続体でした。この「家」の存続と繁栄が何よりも優先される価値観の中で、女性の役割は大きく限定されその地位は次第に低下していくことになります。

4.1. 「家」制度の確立と女性の役割の変化

武家社会の成立は女性の婚姻や財産に関する権利に、 profound な変化をもたらしました。

4.1.1. 婚姻形態の変化と「嫁」の登場

平安時代の貴族社会では夫が妻の実家に通う**「妻問婚(つまどいこん)」**が一般的でした。この形態では妻は結婚後も自らの親族集団の中で生活し、生まれた子供も母方の一族によって養育されるため女性は比較的高い自立性を保つことができました。

しかし武家社会では次第に女性が夫の家に入る**「嫁入婚(よめいりこん)」が主流となります。これは武士の本拠地である所領(土地)と家の結びつきが極めて強かったためです。女性は結婚によって生まれ育った実家を離れ、「嫁」として夫の「家」の一員となりその家の家風やルールに従うことを求められました。彼女の第一の役割は夫の家の跡継ぎとなる男子を出産すること**であり、それができない場合は離縁されることも珍しくありませんでした。

婚姻はもはや個人の恋愛感情に基づくものではなく、「家」と「家」とが同盟関係を結ぶための政略的な道具としての意味合いを強く持つようになります。女性の意思はほとんど尊重されず、家の利益のためにその運命が決められていきました。

4.1.2. 財産相続権の縮小

古代から平安時代にかけて女性は親から財産(土地や財産)を相続する権利を持っていました。しかし鎌倉時代に入ると、この女性の財産相続権は次第に制限されていきます。

武士の所領は一族の軍事的な奉公の見返りとして将軍から与えられたものであり、それを娘に相続させて分割されてしまうと「家」全体の軍事力が低下してしまうという問題がありました。そのため所領の相続は次第に男子、特に嫡男(ちゃくなん)による単独相続が原則となっていきます。

鎌倉幕府が制定した最初の武家法である**『御成敗式目(ごせいばいしきもく)』**(1232年)では、まだ女性の所領相続権もある程度認められていましたが、時代が下るにつれてその権利は形骸化し女性の経済的な自立性は大きく損なわれていきました。

4.2. 武家社会における女性の多様な姿

しかし武家社会における女性の地位が一方的に低下したと単純に言い切ることはできません。その役割はより家の枠組みの中に限定されたものの、その中で重要な機能を果たしていました。

4.2.1. 妻の役割:「家の内」の管理者

夫が合戦や幕府への奉公で領地を留守にすることが多い武士の妻は、単に従順なだけの存在ではありませんでした。彼女は夫に代わって広大な所領の経営を監督し、家臣団や使用人たちを取り仕切る**「家の内」の有能な管理者**としての役割を担っていました。

その最も有名な例が鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝の妻**北条政子(ほうじょうまさこ)**です。頼朝の死後彼女は出家して尼となりながらも幕府の実質的な最高権力者として君臨し、「尼将軍(あましょうぐん)」と呼ばれました。承久の乱の際には動揺する御家人たちを前に「頼朝公の御恩は山よりも高く海よりも深い」という歴史的な名演説を行い、彼らを奮い立たせたと伝えられています。彼女の存在は武家の女性がその能力と器量次第で、極めて大きな政治的な影響力を持ち得たことを示しています。

4.2.2. 母の役割:次代の育成

女性のもう一つの重要な役割は母として次代の武士を育成することでした。彼女たちは子供たちに武士の子としての心構えや礼儀作法を教え込み、「家」の伝統と価値観を継承させていく重要な教育者でした。

4.3. 「家」イデオロギーの深化

室町時代から戦国時代にかけて社会の動乱が激しくなるにつれて、「家」の存続を最優先するイデオロギーはさらに強化されていきます。

戦国大名は自らの領国を統治するための独自の法律(分国法)を制定しますが、その中には家臣団の婚姻を厳しく統制する条文が数多く見られます。結婚は完全に主君の許可制となり、女性は同盟関係を強化するための人質として敵対する大名の家に嫁がされることも珍しくありませんでした。織田信長の妹お市の方が浅井長政に嫁いだのは、その典型的な例です。

この時代に生きた女性たちの運命は、まさに「家」という非情な論理に翻弄される過酷なものでした。

鎌倉時代から戦国時代にかけて確立されたこの「家」を中心とするジェンダー秩序と父系的な価値観は、次の江戸時代に入り儒教思想と結びつくことでさらに強固な社会規範として日本社会全体に根付いていくことになるのです。


5. 近世の男女の役割分担

戦国乱世が終焉を迎え徳川幕府の下で約260年間にわたる平和な時代が訪れた近世(江戸時代)。この安定した社会の中で武家社会で形成された「家」を中心とするジェンダー秩序は、さらに洗練され社会の隅々にまで浸透していきます。そのイデオロギー的な支柱となったのが幕府が公式の学問として採用した**朱子学(しゅしがく)**でした。朱子学が説く身分秩序や家族道徳は男女の役割を明確に分離し、「男は外、女は内」という規範を社会全体の常識として確立させました。しかしこの規範は武士、町人、農民といったそれぞれの身分によってその現れ方が異なっており、近世のジェンダーの実像は決して一枚岩ではありませんでした。

5.1. 儒教思想の浸透と「女大学」

江戸時代のジェンダー観に最も大きな影響を与えたのが、朱子学に基づく儒教的な道徳思想でした。

5.1.1. 三従の教え

朱子学は宇宙の根本原理である「理」とそれが個々の事物に現れる「気」を区別し、社会においても君臣、父子、夫婦といった上下の秩序(名分)を重んじる思想です。この思想が家族関係に適用された時、女性は男性に従属するべき存在として位置づけられました。

女性が生涯を通じて従うべき三つの道徳として**「三従(さんじゅう)の教え」**が広く説かれました。すなわち「幼にしては父兄に従い、嫁しては夫に従い、老いては子に従う」。女性は常に男性の保護と監督の下にあるべきであり、自立した人格として行動することは想定されていませんでした。

5.1.2. 『女大学』という規範

この儒教的な女性観を体系的にそして平易にまとめた女子用の教訓書として、江戸時代中期以降広く普及したのが**『女大学(おんなだいがく)』**です。一般的に本草学者として有名な貝原益軒の著作とされています。

『女大学』は女性にとって最も重要なことは夫の家に順従に仕えることであると説きます。その内容は「女は陰なれば夜のごとく、ひそかにして人に見えざるをよしとす」に始まり、舅姑(しゅうと・しゅうとめ)への孝行、夫への貞節、そして嫉妬や多弁を戒めるなど、女性が守るべき心得を微に入り細を穿ち説いています。

この『女大学』は武家や裕福な町人・農民の家庭で女子教育の教科書として広く用いられ、近世における「理想の女性像」を形作る上で絶大な影響力を持ちました。

5.2. 身分ごとに異なるジェンダーの実像

しかし『女大学』が示す従順な女性像が江戸時代のすべての女性の実態であったわけでは決してありません。現実の女性たちの暮らしや役割は、彼女たちが属する身分によって大きく異なっていました。

5.2.1. 武家の女性:「家」の象徴

武家の女性はまさに「家の内」を守る存在でした。彼女たちの最大の役割は跡継ぎを産み育てること、そして大名家であれば大奥(おおおく)に代表されるような複雑な人間関係を取り仕切り「家」の体面と秩序を維持することにありました。その生活は厳格な作法と規律に縛られていましたが、同時に「奥方様」として家臣や使用人たちの上に立つ一定の権威を持っていました。

5.2.2. 町人の女性:家業のパートナー

商工業が大きく発展した都市部で暮らす町人の家庭では、女性はしばしば家業において重要な役割を果たしました。商家の妻は夫のビジネスパートナーとして店の経営や財務管理に深く関わることが珍しくありませんでした。特に夫が亡くなった後、妻が事業を引き継ぐ「後家(ごけ)経営」も広く見られました。彼女たちは『女大学』が説くような奥に引っ込んだ存在ではなく、むしろ家の経済を支える活動的な働き手でした。

5.2.3. 農村の女性:生産の担い手

人口の圧倒的多数を占めた農村においては女性は極めて重要な労働力でした。田植えや稲刈りといった米作りにおける重労働はもちろんのこと、養蚕(ようさん)や機織(はたおり)といった家内工業は主に女性の手によって担われ農家の貴重な現金収入源となっていました。

農村の女性たちは「家の内」に留まることなく男性と同じように、あるいはそれ以上に過酷な生産活動に従事する不可欠な存在だったのです。彼女たちの生活は経済的には厳しかったものの共同体の中での役割は明確であり、ある意味では武家の女性よりも高い実質的な発言力を持っていた側面もあります。

5.3. 近世社会のジェンダー秩序の特質

近世社会は「男は外、女は内」という明確な性別役割分業のイデオロギーを確立しました。しかしその実態は身分ごとに大きく異なっており、特に町人や農民の世界では女性が家の経済活動に深く関与する現実がありました。

この時代に形成されたジェンダー秩序は単に男性が女性を支配するという単純な構造ではありません。それは「家」という共同体を維持し存続させていくという共通の目的のために、男女がそれぞれ異なるしかし相互補完的な役割を担うという一種の機能的なシステムでした。

この「家」を中心とするジェンダー観と性別役割分業の思想は近代に入り西洋の新しい思想と出会う中で変容しながらも、その根強い影響力を持ち続けることになります。そして明治国家はこの近世の遺産を利用しつつ、それを全く新しい国民国家のイデオロギーへと再編成していくのです。


6. 近代化とジェンダー規範

明治維einは日本を封建社会から近代的な国民国家へと生まれ変わらせる一大革命でした。この巨大な社会変動の中で女性のあり方もまた大きな転換を迫られます。明治政府は「富国強兵」をスローガンに西洋に追いつくための近代化を急ぐ中で、女性をこの新しい国家建設のための重要な資源として位置づけました。しかしそれは女性を個人として解放することを意味するものではありませんでした。むしろ国家は**「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」**という新しいジェンダー規範を創出し、女性を「国家のために尽くす母」として教育し家庭という領域に位置づけようとしたのです。この近代化のプロセスは女性に新しい教育の機会を与える一方で、その生き方を国家の目的の下に従属させるという深い矛盾をはらんでいました。

6.1. 明治国家が創出した「良妻賢母」イデオロギー

江戸時代の「家」制度が個々の「家」の存続を最優先したとすれば、明治国家が目指したのは国民一人ひとりを天皇を中心とする「国家」という巨大な家族の一員として統合することでした。この新しい国家観の中で女性に与えられた役割が「良妻賢母」でした。

6.1.1. 近代的な規範としての発明

「良妻賢母」という言葉はしばしば日本の伝統的な女性像であるかのように語られますが、実際には明治中期になって創出された極めて近代的なイデオロギーです。

その思想的な源流の一つは1870年代に中村正直が翻訳・紹介した西洋の啓蒙思想書、スマイルズの『西国立志編』やミルの『自由之理』に見出すことができます。これらの書物は近代国家の発展のためには国民の知的水準を向上させることが不可欠であり、そのためには子供の最も身近な教育者である母親が高い教養を身につけるべきであると説きました。

この西洋の「近代的な家庭」の理想が日本の儒教的な家族道徳と結びつき、「国家のために有能な国民(息子)を育て上げる教育熱心な母親」であり、かつ「夫に献身的に仕える良き妻」という二つの側面を併せ持つ「良妻賢母」という理想像が生み出されたのです。

6.1.2. 国家の目的と女子教育

明治政府はこの「良妻賢母」を育成することを女子教育の明確な目標として掲げました。1872年(明治5年)に公布された学制は国民皆学を目指し、女子にも男子と同様に小学校への就学を奨励しました。

しかし高等教育においては男女の間に明確な差が設けられました。男子のための大学が国家の指導者を育成するエリート機関であったのに対し、女子のための高等女学校(1899年、高等女学校令)はその教育内容が裁縫や家事、作法といった将来家庭に入るための花嫁修業的な科目に重点が置かれていました。

女子教育の目的は女性が個人として自立し社会で活躍することではなく、あくまで家庭の中で「良妻賢母」としての役割を効率的に果たし、それを通じて間接的に国家に貢献することにあるとされたのです。

6.2. 近代産業と女性労働者

しかしこの「女性は家庭を守るべき」という国家の公式イデオロギーとは全く逆の現実が、近代化のもう一方の側面で進行していました。

日本の産業革命を牽引したのは製糸業や紡績業といった繊維産業でした。そしてこれらの工場の生産現場を支えたのは、「富国強兵」の美名の下に貧しい農村から安価な労働力として集められた**「女工(じょこう)」**と呼ばれる若い女性たちでした。

彼女たちは劣悪な労働環境と低賃金の下で長時間労働を強いられ、日本の近代化のまさに人柱となりました。国家は一方では「良妻賢母」として女性を家庭に押し込めようとしながら、もう一方では工業化のための労働力として女性を工場へと動員するという大きな矛盾を抱えていたのです。

6.3. 明治民法と「家」制度の法的確立

近代化のもう一つの重要な側面は、西洋の法体系をモデルとした近代的な法典の整備でした。この過程で女性の法的な地位は、むしろ江戸時代よりも後退する側面さえありました。

1898年(明治31年)に施行された明治民法は戸主(こしゅ)に絶大な権限を与える**「戸主権」**を定め、日本の伝統的な「家」制度を近代的な法律の中に再生産しました。

この民法の下で妻は「無能力者」とされ、夫の許可なくして財産の処分や契約といった法的な行為を行うことができませんでした。女性の相続権も著しく制限され、財産は原則として長男が単独で相続する「家督相続」が定められました。

このように明治国家は西洋の近代的な制度を導入しながらも、その中身は日本の伝統的な家父長的な価値観を温存、あるいはむしろ強化する形で再編成したのです。

近代化は女性に新しい教育の機会や職業の可能性を開いた一方で、「良妻賢母」というイデオロギーと明治民法という法的な枠組みによって、女性を「家」と「国家」の二重の鎖で縛り付ける結果ともなりました。しかしこの近代がもたらした教育と新しい思想は、やがて女性たちの中に自らの権利と尊厳に目覚め、この男性中心の社会に異議を申し立てる新しい動きを生み出していくことになります。それが婦人運動の始まりでした。


7. 婦人運動の歴史

明治国家が「良妻賢母」という規範を女性に押し付け明治民法によってその法的な無能力を定めた、まさにその時代の中からこの男性中心の社会秩序に対して根本的な疑問を投げかけ、自らの権利と人間としての解放を求める女性たちの声が上がり始めます。当初はごく一部の知識人女性によるささやかな動きでしたがそれは次第に大きなうねりとなり、日本の近代史に確かな足跡を残す**婦人運動(ふじんうんどう)**へと発展していきました。日本のフェミニズムの源流とも言えるこの運動の歴史は、女性たちがいかにして近代的な自我に目覚め社会変革のために闘ったか、その苦難と情熱の記録です。

7.1. 明治期の啓蒙活動と自由民権運動

女性解放運動の最初の萌芽は、明治初期の文明開化の気運の中で見られます。福沢諭吉はその著書『学問のすゝめ』の中で日本の男尊女卑の風習を批判し、男女平等を主張しました。また森有礼らが結成した明六社の知識人たちも、一夫一婦制の重要性を説くなど女性の地位向上を訴えました。

この啓蒙思想の影響を受け自由民権運動の中から、女性の政治参加を求める声が上がります。**岸田俊子(きしだとしこ)は「箱入娘」という演題で全国を遊説し、女性が因習の箱から出て社会で活躍すべきであると情熱的に訴え多くの女性たちを勇気づけました。また福田英子(ふくだひでこ)**は自由民権運動の急進派として大阪事件に連座して投獄されるなど、果敢に行動しました。

しかし自由民権運動が政府の弾圧によって衰退し1890年(明治23年)、女性の政治活動への参加を全面的に禁止する集会及政社法が制定されると、女性の政治的な声は完全に封じ込められてしまいます。

7.2. 青鞜社と「新しい女」の登場

政治的な活動の道が閉ざされた後、女性解放の動きは文化・思想の領域へとその舞台を移します。その象徴となったのが1911年(明治44年)、**平塚らいてう(ひらつからいちょう)が中心となって結成した文学結社「青鞜社(せいとうしゃ)」**とその機関誌『青鞜』でした。

7.2.1. 「元始、女性は実に太陽であった」

『青鞜』の創刊号の巻頭を飾った平塚らいてうの「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他に依って生き、他の光に依って輝く、病人のやうな蒼白い顔の月である」という宣言は、あまりにも有名です。

この一節は女性がかつて持っていたはずの本来の輝き(主体性)を男性中心の社会によって奪われているという現状を痛烈に告発し、女性たちに自らの内に眠る天才を発揮し「隠された太陽」を取り戻すことを呼びかけるものでした。

青鞜社には与謝野晶子、伊藤野枝、神近市子といった多くの才能ある女性たちが集い、『青鞜』の誌面を通じて恋愛の自由、結婚制度の批判、そして女性の性的自己決定権といった、それまでタブーとされてきたテーマについて大胆な議論を展開しました。

彼女たちは因習に縛られない自由な生き方を実践し世間からは「新しい女」として好奇の目と激しいバッシングに晒されましたが、その思想と行動は多くの若い女性に近代的な自我の目覚めを促しました。

7.3. 母性保護論争と婦人参政権運動

大正デモクラシーの自由な雰囲気の中で婦人運動は再び社会的なテーマへと、その関心を広げていきます。

7.3.1. 母性保護論争

『青鞜』の誌上で展開された母性保護論争は、近代日本のフェミニズム思想の方向性を決定づけた重要な論争でした。

詩人の与謝野晶子は女性が経済的に自立することの重要性を説き、国家は女性を母として特別扱いするべきではないと主張しました。これに対し平塚らいてうは子供を産み育てるという母としての役割は国家にとって極めて重要であり、国家は母性を保護するための経済的な支援(母性保護)を行うべきであると反論しました。

この論争は女性の解放を「男性と同じようになること(平等)」と捉えるか、あるいは「女性としての特性(母性)を尊重すること(差異)」と捉えるかという、現代にも通じるフェミニズムの根源的な問いを提示するものでした。

7.3.2. 婦人参政権獲得運動

第一次世界大戦後、世界的に女性参政権を認める国が増える中で、日本でも女性に選挙権を求める運動が本格化します。

その中心的な役割を果たしたのが平塚らいてう、市川房枝(いちかわふさえ)らが1920年に結成した新婦人協会でした。彼女たちはまず女性の政治活動を禁じた治安警察法第5条の改正を求めるロビー活動を粘り強く展開し、1922年ついに女性が政談集会に参加し発起人となることを認めさせるという画期的な勝利を勝ち取ります。

その後、市川房枝は婦人参政権獲得期成同盟会を結成し、女性参政権の実現を目指して精力的に活動を続けます。普選運動(男子普通選挙を求める運動)と連携しながらその声は次第に社会的な広がりを見せましたが、軍部が台頭し戦時体制へと向かう時代の大きな流れの中でその実現は阻まれ続けました。

日本の女性たちが悲願であった参政権をその手にするのは、戦争が終わり全く新しい時代が訪れるのを待たなければなりませんでした。

明治から昭和初期にかけての婦人運動は限られた数の女性たちによる運動でしたが、その思想と闘いは男性中心の社会に風穴を開け、後の時代の女性たちのための道を切り拓く貴重な第一歩でした。彼女たちが蒔いた種は戦後の新しい憲法の下で、ようやく芽吹くことになるのです。


8. 戦後の男女平等

1945年の敗戦は日本のジェンダー史において、まさに地殻変動と呼ぶべき巨大な断絶をもたらしました。大日本帝国憲法と明治民法の下で構築された家父長的な国家・社会システムは、そのイデオロギー的支柱であった皇国史観と共に崩壊しました。そして連合国軍最高司令官総司令官(GHQ)の強力な指導の下で進められた戦後の民主化改革は、法制度の上において日本の女性にそれまでとは比較にならないほどの包括的な権利を保障しました。特に日本国憲法に明記された男女平等の原則は画期的なものでした。しかしこの法的な平等の達成は必ずしも社会の現実における差別の解消を意味するものではありませんでした。戦後のジェンダーの歴史はこの「理想としての平等」と「現実としての不平等」との間の大きなギャップを、いかにして埋めていくかという長く困難な闘いの歴史でもありました。

8.1. 日本国憲法と両性の平等

戦後の男女平等の法的基盤を確立したのが1947年に施行された日本国憲法です。その条文にはジェンダー平等を実現するための明確な理念が示されています。

8.1.1. 第14条:法の下の平等

第十四条 すべて国民は法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

この条文は性別を理由とするあらゆる差別を禁止する、包括的な平等の原則を定めています。これは明治民法の下で妻を「無能力者」として扱ってきた法体系からの完全な決別を意味しました。

8.1.2. 第24条:個人の尊厳と両性の本質的平等

第二十四条 婚姻は両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。

2 配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。

この条文は特に家族関係における男女平等を保障するものです。結婚が「家」と「家」との契約ではなく個人の自由な意思(両性の合意)に基づくものであること、そして家族のあり方を決める法律は「個人の尊厳」と「両性の本質的平等」という二つの理念に基づかなければならないと宣言しました。これは戸主権を中心とする明治民法の「家」制度を明確に否定するものでした。

この憲法の理念を受けて民法も改正され、戸主制は廃止、家督相続は均分相続へと改められ、妻の法的無能力も撤廃されるなど家族の中での女性の法的地位は劇的に向上しました。

8.2. 婦人参政権の実現

憲法の制定に先立ち、戦後改革の最も象徴的な成果の一つとして女性参政権が実現します。

1945年12月、GHQの指示を受けて改正された衆議院議員選挙法によって、20歳以上のすべての男女に選挙権が与えられました。市川房枝ら戦前の婦人運動家たちが長年闘い続けてきた悲願が、敗戦という皮肉なきっかけによって達成されたのです。

1946年4月10日に行われた戦後初の衆議院議員総選挙では39名の女性議員が誕生しました。これは女性が初めて国政の場に進出した歴史的な瞬間であり、日本の民主主義の新しい時代の幕開けを象徴する出来事でした。

8.3. 高度経済成長と性別役割分業の定着

しかしこの法制度上の劇的な平等化が達成された一方で、戦後の日本社会は経済の領域において新しいそして極めて強固な性別役割分業のモデルを確立していきます。

1950年代後半から始まる高度経済成長期、日本の企業は終身雇用と年功序列を特徴とする日本的経営を確立します。このシステムの中で理想とされたのが、企業のために滅私奉公で働く男性の**「サラリーマン(企業戦士)」と、その夫が仕事に専念できる環境を整え家事、育児、そして地域の付き合いを一手きに引き受ける「専業主婦」**という組み合わせでした。

この「夫は仕事、妻は家庭」という役割分業モデルは高度経済成長を効率的に達成するための社会的なメカニズムとして、極めて合理的に機能しました。企業は家庭の心配をせずに長時間労働できる男性労働力を確保でき、男性は安定した収入と昇進を保障され、女性は上昇する生活水準の中で家電製品(三種の神器)に囲まれた近代的な家庭生活を享受することができました。

このモデルは多くの国民にとって幸福な生活の象徴とされ、テレビドラマなどを通じて社会全体の標準的なライフスタイルとして広く定着していきました。

しかしこの性別役割分業の定着は、いくつかの深刻な問題を内包していました。

  • 女性の社会進出の阻害: 女性は結婚や出産を機に退職すること(寿退社)が半ば当然とされ、働き続ける意思のある女性も補助的な職務にしか就けず昇進の道は閉ざされていました。
  • 経済的従属: 専業主婦は経済的に完全に夫に依存する立場に置かれ、離婚などの際には深刻な経済的困窮に陥るリスクを抱えていました。
  • 固定的なジェンダー観の再生産: この社会モデルは「男は稼ぐもの」「女は家庭を守るもの」という固定的なジェンダー観を社会の隅々にまで再生産し、人々の生き方の選択肢を狭める結果を招きました。

戦後の日本は憲法という世界で最も先進的な男女平等の理念を掲げながら、その実社会では極めて伝統的な性別役割分業を温存、あるいはむしろ近代的な形で強化するという大きなねじれを抱え込むことになったのです。この構造的な矛盾が顕在化し揺らぎ始めるのが、高度経済成長が終わりを告げ日本社会が成熟期へと移行する1970年代以降のことになります。


9. 家族観の変容

戦後の日本社会が経験した最も大きな構造変動の一つが、「家族」のあり方の変化でした。明治民法の下で法的に規定された複数の世代が同居する**「家(いえ)」制度は戦後の新憲法と民法改正によって法的には解体されました。そしてそれに代わって高度経済成長期の都市化とサラリーマンの増加を背景に、夫婦とその未婚の子供だけで構成される「核家族(かくかぞく)」**が標準的な家族モデルとして急速に普及しました。しかしこの高度経済成長期に確立された「近代家族」の姿もまた永遠のものではありませんでした。1980年代以降、日本社会が安定成長期からバブル経済、そして長期的な停滞期へと移行する中で人々のライフスタイルや価値観は大きく多様化し、それに伴い家族観もまた劇的な変容を遂げつつあります。

9.1. 高度経済成長と「近代家族」の誕生

高度経済成長は日本の家族のあり方を根底から変えました。

9.1.1. 都市化と核家族化

工業化の進展は農村から都市へと大規模な人口移動を引き起こしました。地方の農家の次男、三男たちは集団就職で都市の工場や企業へと吸収され、そこで新たな家庭を築きました。彼らが形成したのは親世代とは同居しない夫婦と子供だけの核家族でした。

都市部の団地などに住むこの新しい家族の形態は、古いしがらみから解放された自由で近代的な暮らしの象徴とされました。

9.1.2. 「サラリーマンと専業主婦」モデルの確立

前述の通りこの核家族の内部では「夫は仕事、妻は家庭」という明確な性別役割分業が確立しました。夫であるサラリーマンは会社という共同体に忠誠を誓い長時間労働も厭わず働くことで、家族の経済的な安定を保障しました。一方、妻である専業主婦は家庭に専念し家事や育児、そして子供の教育(教育ママ)にそのエネルギーを注ぎました。

この役割分業は経済成長を効率的に支える社会システムであったと同時に、愛情で結ばれた夫婦が協力して子供を育てマイホームを築くという新しい「幸福な家庭」のイメージを人々に提供しました。

9.2. 安定成長期以降の家族の多様化

しかし1970年代の石油危機を経て高度経済成長が終わりを告げ社会が成熟期に入ると、この標準的とされた家族モデルは次第に揺らぎ始めます。

9.2.1. 女性の社会進出と意識の変化

女子の大学進学率の上昇や男女雇用機会均等法(1986年施行)の制定などを背景に女性の社会進出が進み、職業を持つ女性が増加しました。これにより結婚後も仕事を続けたいと考える女性が増え、専業主婦を前提とした従来の家族モデルは現実との乖離を見せ始めます。

またフェミニズム思想の影響などもあり女性たちの間では、結婚や家庭だけに自らの人生を限定しない自立した生き方を求める意識が高まっていきました。

9.2.2. 非婚化・晩婚化・少子化の進行

個人の価値観が多様化する中で結婚を人生の必須のコースと考えない人々が増え、非婚化(生涯未婚率の上昇)と晩婚化が急速に進展します。

また女性の高学歴化や社会進出、そして子育てにかかる経済的負担の増大などを背景に夫婦が持つ子供の数も減少し、深刻な少子化が社会の最大の問題の一つとして認識されるようになります。1989年に合計特殊出生率が1.57となり戦後の最低記録を更新した**「1.57ショック」**は、この問題を社会に広く知らしめるきっかけとなりました。

9.3. 現代における家族の姿

21世紀に入り日本の家族の姿は、もはや単一のモデルでは捉えきれないほど多様化しています。

  • 共働き世帯の一般化: 現在では専業主婦世帯の数を共働き世帯が大きく上回っており、性別役割分業モデルは統計的にはもはや標準ではなくなっています。しかし依然として家事・育児の負担は女性側に大きく偏っているという現実も存在します。
  • 世帯の小規模化: 核家族化がさらに進み夫婦のみの世帯や一人暮らしの単独世帯が、全体の半数以上を占めるようになっています。
  • 多様な家族の形: 事実婚や同性カップル、あるいは血縁関係にとらわれない新しい共同生活の形など、従来の「家族」の枠組みでは捉えきれない多様なパートナーシップや生活形態が社会に現れています。

明治時代に法的に確立された「家」制度が戦後の経済成長の中で「核家族」へとその姿を変え、そして社会の成熟と停滞の中でさらに多様な形へと分化していく。この家族観の大きな変容は現代日本が直面する多くの社会的課題(少子高齢化、労働問題、社会保障など)の根源に深く関わっています。そしてこの変化の根底には、常にジェンダーを巡る規範と現実の間のダイナミックな相互作用が存在しているのです。


10. 現代社会とジェンダー・ギャップ

戦後の日本国憲法によって法的な男女平等が保障されてから半世紀以上が経過しました。しかし現代の日本社会は依然として様々な領域において深刻な**ジェンダー・ギャップ(男女間の格差)**が存在するという厳しい現実に直面しています。特に世界経済フォーラムが毎年発表しているジェンダー・ギャップ指数において、日本は先進国の中で常に最低レベルに位置づけられており、その不平等な実態は国際的にも広く知られています。なぜ法的な平等が達成されているにもかかわらずこれほど大きな格差が残り続けているのか。その構造的な要因を分析し現代社会が直面する課題を考察することは、日本のジェンダー史の最終章として避けては通れないテーマです。

10.1. データが示す日本のジェンダー・ギャップ

ジェンダー・ギャップ指数は「経済」「教育」「医療へのアクセス」「政治」という四つの分野で各国の男女平等の達成度を数値化したものです。この中で日本は「教育」や「医療」の分野では比較的高いスコアを示す一方で、「経済」と「政治」の分野における格差が際立って大きいという特徴があります。

  • 経済分野:
    • 賃金格差: 同じ仕事をしていても男性の賃金を100とした場合、女性の賃金は70台に留まっておりその格差は先進国の中でも最大級です。
    • 管理職比率の低さ: 企業や組織の意思決定層(役員、管理職)に占める女性の割合が極端に低い。
    • M字型カーブ: 女性の労働力率が結婚・出産期である30代で一旦大きく落ち込み、子育てが一段落した40代で再び上昇するという**「M字型カーブ」**が依然として存在します。これは多くの女性が出産を機にキャリアを中断せざるを得ない状況を示しています。
  • 政治分野:
    • 国会議員の女性比率: 衆議院、参議院ともに国会議員に占める女性の割合は世界平均を大きく下回っており、政治の意思決定の場に女性の声が十分に反映されていない状況があります。

10.2. 格差を生み出す構造的要因

なぜこのような大きなギャップが温存され続けているのでしょうか。その背景には単なる個人の意識の問題だけでなく、日本社会に深く根ざした構造的な要因が存在します。

10.2.1. 固定的性別役割分業意識

最大の要因は高度経済成長期に確立された「夫は仕事、妻は家庭」という固定的性別役割分業の意識が、社会の様々な制度や慣行の中に深く埋め込まれていることです。

  • 長時間労働を前提とした企業文化: 日本の多くの企業では依然として残業や転勤を厭わない男性正社員を中心とした働き方が標準とされています。育児や介護の責任を主に担うことが多い女性は、このような働き方から排除されがちです。
  • 女性に偏る家事・育児負担: 共働き世帯が主流となった現代においても家事や育児に費やす時間は、女性が男性の数倍にのぼるというデータがあります。この「無償労働」の不均等な負担が女性のキャリア形成を大きく阻害しています。
  • 保育制度の不備: 保育所の不足(待機児童問題)など女性が仕事と育児を両立させるための、社会的なインフラの整備が依然として不十分です。

10.2.2. 非正規雇用の増大

キャリアを中断した女性が再就職しようとする際、その多くがパートタイムや契約社員といった非正規雇用に就かざるを得ないという現実があります。非正規雇用は賃金が低く雇用も不安定であり、スキルアップの機会も限られています。女性労働者の約半数が非正規雇用であることが、男女間の賃金格差を生み出す大きな要因となっています。

10.3. 現代の動きと未来への展望

しかしこうした厳しい現実の中で変化の兆しも見え始めています。

  • #MeToo運動と意識の変化: 2010年代後半から世界的に広がった性暴力やセクシャルハラスメントを告発する**「#MeToo」**運動は、日本でもジャーナリストの伊藤詩織さんの告発などをきっかけに社会的な関心を集めました。この運動はこれまで見過ごされてきた女性の人権問題を可視化し、若い世代を中心にジェンダー平等への意識を大きく高めるきっかけとなりました。
  • 選択的夫婦別姓制度を巡る議論: 結婚後、夫婦が望めばそれぞれ結婚前の姓を名乗ることを認める選択的夫婦別姓制度の導入を巡る議論が活発になっています。これは個人のアイデンティティやキャリアの継続性を尊重する新しい家族観を象徴する動きです。
  • 「女性活躍推進」という国策: 少子高齢化による労働力人口の減少という危機感を背景に、政府も「女性活躍推進法」を制定するなど女性の社会進出を後押しする政策(ウィメノミクス)を打ち出しています。

日本のジェンダー・ギャップの解消への道のりはまだ長く険しいものです。それは単に制度を変えるだけでなく、私たち一人ひとりが無意識のうちに内面化している固定的なジェンダー観(アンコンシャス・バイアス)を見つめ直し変革していくという文化的な課題でもあります。

神話の時代から現代に至るまで日本のジェンダー秩序は常にその時代の政治・経済の要請と結びつきながら、ダイナミックに変動してきました。現代日本が直面するジェンダー平等という課題は、単に「女性の問題」ではありません。それは少子高齢化や経済のグローバル化といった大きな構造変動の中で、日本社会全体がその持続可能性を維持していくための死活的に重要な課題なのです。この歴史的な課題に私たちがどう応えていくのか。その答えは未来の歴史によって厳しく問われることになるでしょう。


Module 24:ジェンダーの歴史の総括:構築され、揺らぎ、再構築される秩序

本モジュールを通じて私たちは神話の時代の女性神から現代社会のジェンダー・ギャップの問題に至るまで、「ジェンダー」という鋭い光を当てて日本の歴史を貫くもう一つの巨大な構造を照らし出してきました。その光の下に浮かび上がってきたのは男女の役割や関係性が決して自然で固定不変のものではなく、それぞれの時代の政治的な要請、経済的な合理性、そして文化的な価値観によって常に「構築」され、時に激しく「揺らぎ」、そしてまた新たに「再構築」されてきたダイナミックな歴史の姿でした。

古代において女性は太陽神として崇拝され天皇として君臨する力強い存在でした。しかし律令国家の形成と儒教思想の浸透の中でその公的な役割は次第に後退していきます。平安の宮廷で女性たちが仮名文字を手に文学の金字塔を打ち立てたのは、政治の周縁へと追いやられた彼女たちが文化という内なる宇宙にその創造性を見出した輝かしい逆説でした。

武家社会の到来は「家」という父系的な秩序を社会の絶対的な中心に据え、女性の役割をその存続と繁栄のための道具へと変えました。近世の泰平はその秩序を儒教的な道徳によって洗練させ、「男は外、女は内」という規範を人々の心にまで深く刻み込みます。

近代国家は「富国強兵」のスローガンの下、女性を「良妻賢母」として国家のために子供を産み育てる存在として再定義しました。しかし近代がもたらした教育と自我の目覚めはその規範に亀裂を入れ、女性たちは自らの声で権利と平等を叫び始めます。戦後の憲法はその長年の闘いに法的な勝利をもたらしましたが、高度経済成長は再び「サラリーマンと専業主婦」という新しい性別役割分業を生み出し、その構造は現代日本のジェンダー・ギャップの根深い温床となっています。

この壮大な歴史の物語が私たちに教える最も重要な教訓。それは私たちが今当たり前のものとして受け入れているジェンダー観もまた、歴史的に構築された一つの秩序に過ぎないという事実です。そして歴史が示すようにいかなる秩序も永遠ではありません。

この歴史的な視座を持つこと。それこそが現代社会が直面するジェンダーを巡る様々な課題に対して感情論や決めつけに陥ることなく、その構造的な根源から冷静に思考しより公正で多様な未来を築くための対話に参加するための第一歩となるのです。

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