【基礎 日本史(通史)】Module 10:豊臣秀吉の天下統一事業

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは革命家・織田信長が旧来の権威を破壊し天下統一への道を切り開くも本能寺の変に倒れるまでを見ました。信長の突然の死は再び日本を混沌の渦へと引き戻しかねない巨大な権力の空白を生み出しました。この危機的状況の中から信長の後継者として名乗りを上げ見事その事業を完成させたのが百姓の子から天下人へと駆け上がった戦国時代最大の出世物語の主人公豊臣秀吉でした。本モジュールではこの秀吉が信長の死後いかにしてライバルたちを打ち破り天下統一を成し遂げたのかその過程を追跡します。さらに彼が日本の社会構造を根底から作り変えた太閤検地や刀狩といった画期的な政策の実態そしてその野心が大陸にまで及び悲劇的な結果を招いた朝鮮出兵の真相に迫ります。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず信長の死という絶体絶命の危機を秀吉が「中国大返し」という離れ業で乗り切り明智光秀を討つまでを分析します。次に信長の後継者の座をめぐる柴田勝家との「賤ヶ岳の戦い」を探ります。そして秀吉が「惣無事令」を巧みに用いて四国九州関東を平定し天下統一を完成させる過程を見ます。秀吉の最も重要な政策である「太閤検地」と「刀狩」がもたらした兵農分離という社会革命を解明します。また彼の治世下でのキリスト教との関係やその死が豊臣政権にいかなる動揺をもたらしたのかを考察します。最後に秀吉が遺した五大老・五奉行という統治システムがなぜ機能せず次なる天下分け目の戦い「関ヶ原の戦い」へと繋がっていったのかその必然性を探ります。

  1. 羽柴秀吉の台頭と山崎の戦い: 信長の死を好機に変え電光石火の行動で主君の仇を討った秀吉の最初の戦いを見る。
  2. 賤ヶ岳の戦い: 信長の後継者の地位をめぐり筆頭家老・柴田勝家との間に繰り広げられた決戦の様相を探る。
  3. 惣無事令と全国統一の完成: 秀吉が「戦争の停止命令」という巧みな大義名分を使い全国を平定していく過程を分析する。
  4. 太閤検地と石高制の確立: 日本の中世的な土地所有のあり方を終わらせ近世的な社会の基礎を築いた画期的な土地政策を解明する。
  5. 刀狩と兵農分離の徹底: 農民から武器を取り上げ武士と農民の身分を固定した「刀狩」がもたらした社会変革の意義を考察する。
  6. バテレン追放令: 当初キリスト教を保護していた秀吉がなぜ弾圧へと方針を転換したのかその理由を探る。
  7. 文禄・慶長の役(朝鮮出兵): 天下統一を果たした秀吉がなぜ無謀な大陸侵攻へと突き進んだのかその野望と悲劇的な結末を見る。
  8. 秀吉の死と豊臣政権の動揺: 圧倒的な権力を誇った豊臣政権がなぜその創設者の死と共に急速に不安定化したのかその構造的欠陥を探る。
  9. 五大老・五奉行: 秀吉が遺した集団指導体制がいかにして内部対立を激化させていったかを分析する。
  10. 関ヶ原の戦いへ: 豊臣政権の内部対立が徳川家康と石田三成の二大派閥の対立へと収斂し天下分け目の決戦へと至る道筋を追う。

このモジュールを学び終える時皆さんは豊臣秀吉が単なる信長の後継者ではなく日本の社会を中世から近世へと大きく移行させるための制度的・社会的な「設計者」であったことを深く理解するでしょう。そしてその偉大な事業が彼の死と共にいかに脆く崩れ去っていったのかという歴史の非情さをも学ぶことになります。


目次

1. 羽柴秀吉の台頭と山崎の戦い

1582年6月2日本能寺の変。織田信長の突然の死は織田家の家臣たちに衝撃と混乱をもたらしました。主君であり絶対的な権力者であった信長の不在は巨大な権力の空白を生み出し次に天下を担うのは誰かという熾烈な後継者争いの始まりを告げました。この混沌の中から誰よりも早くそして誰よりも巧みに行動し信長の後継者としての地位を確立したのが当時中国地方で毛利氏と対峙していた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)でした。本章では秀吉が主君の死という最大の危機をいかにして最大の好機へと転換させたのかその驚くべき行動力と山崎の戦いでの勝利を探ります。

1.1. 百姓の子から信長の重臣へ

羽柴秀吉の出自は戦国武将の中でも極めて異例でした。彼は尾張国の貧しい百姓の子として生まれその幼少期は明らかになっていません。彼は自らの才覚一つでのし上がっていった戦国時代を象徴する人物でした。

若き日の秀吉(当時は木下藤吉郎)は織田信長の家臣となり最初は草履取り(主君の草履を温めておく役)という最も身分の低い役職からキャリアをスタートさせました。しかし彼はその人懐っこさと機転の利く頭脳で信長の目に留まります。墨俣に一夜にして城を築いたという伝説(墨俣一夜城)に象徴されるように彼は土木事業や兵站管理といった分野で抜群の才能を発揮し信長の信頼を勝ち取っていきました。

やがて彼は柴田勝家や明智光秀と並ぶ織田家でも屈指の軍団長へと出世。羽柴秀吉と名を改め近江国長浜に城主として封じられます。そして本能寺の変の直前には信長の命令を受け中国地方の雄・毛利輝元を攻略する方面軍の総大将を任されるまでになっていました。

1.2. 中国大返し:神がかり的な撤退行

本能寺の変が起こった時秀吉は備中高松城(岡山県)を水攻めにしている真っ最中でした。主君信長の横死という絶望的な知らせは毛利方の使者よりも早く秀吉のもとに届けられました。

この絶体絶命の状況で秀吉の天才的な機転が爆発します。彼は動揺する配下の武将たちを抑え冷静にそして迅速に行動を開始しました。

  1. 毛利氏との即時講和:秀吉は信長の死を敵である毛利氏にひた隠しにしました。そして城主の切腹を条件に有利な講和条約を大至急結びます。もし毛利氏に信長の死を知られていれば秀吉軍は逆に窮地に追い込まれていたでしょう。
  2. 全軍撤退:講和が成立するやいなや秀吉は全軍に対して京都への撤退を命じます。備中高松城から京都までの距離は約200km。通常であれば10日以上かかる道のりです。

しかし秀吉軍は驚異的なスピードでこの距離を駆け抜けました。彼は事前に街道沿いの村々に金銭をばらまいて食料や松明を用意させ兵士たちが夜通し走り続けられるように手配していました。この神がかり的ともいえる迅速な軍団移動を「中国大返し(ちゅうごくおおがえし)」と呼びます。

1.3. 山崎の戦い(1582年):天下への道

秀吉が京都へ向かっているという報は明智光秀を驚愕させました。光秀は信長の他の有力家臣たちが駆けつける前に京都周辺の地盤を固めようとしていました。しかし彼の予想を遥かに超える速さで秀吉は現れたのです。

本能寺の変からわずか11日後の6月13日。秀吉軍約4万と光秀軍約1万6千は京都の手前にある山崎の地(京都府大山崎町)で激突しました。これが「山崎の戦い」です。

戦いは兵力で勝る秀吉軍が終始優勢に進めました。秀吉は巧みな用兵で光秀軍を包囲しこれを撃破。光秀は敗走する途中で落ち武者狩りの農民に討たれその天下はわずか13日間で終わりを告げました。「三日天下」という言葉の語源です。

1.4. 後継者レースの勝利

この山崎の戦いの勝利が持つ意味は単に主君の仇を討ったというだけではありませんでした。

  • 後継者としての地位確立:信長の他の有力家臣たち、例えば北陸の柴田勝家や関東の滝川一益が光秀討伐のために身動きが取れない間に誰よりも早く主君の仇を討ったという事実は秀吉を信長の後継者として最もふさわしい人物として内外に印象づけました。
  • 政治的主導権の掌握:秀吉はこの軍事的な功績を背景に信長の死後の織田家の体制を決める清洲会議で主導権を握ります。そして自らのライバルとなる柴田勝家を巧みに抑え込み天下人への道を歩き始めるのです。

本能寺の変という織田家最大の危機を秀吉は自らの機転と行動力によって最大のチャンスへと変えました。百姓の子であった彼が天下人へと至る道はまさにこの中国大返しと山崎の戦いから始まったのです。


2. 賤ヶ岳の戦い

山崎の戦いで明智光秀を討ち主君・織田信長の仇討ちを果たした羽柴秀吉。この功績により彼は信長の後継者レースで一歩リードしました。しかし彼の前には織田家筆頭家老であり「鬼柴田」と恐れられた猛将柴田勝家という大きな壁が立ちはだかっていました。信長の死後織田家の支配体制と天下の覇権をめぐり秀吉と勝家の対立は避けられないものとなります。そして1583年両者は近江国の賤ヶ岳(しずがたけ)で激突。この「賤ヶ岳の戦い」は秀吉が信長の実質的な後継者としての地位を確立し天下統一へと大きく前進する決定的な戦いとなりました。

2.1. 清洲会議:後継者をめぐる攻防

山崎の戦いの後1582年6月織田家の後継者と遺領の配分を決めるための重要な会議が清洲城で開かれました。これが「清洲会議(きよすかいぎ)」です。

この会議には織田家の四人の宿老羽柴秀吉柴田勝家丹羽長秀池田恒興が出席しました。議題の中心は誰を信長の後継者とするかでした。

  • 柴田勝家の主張:勝家は信長の三男であり武勇に優れた**織田信孝(のぶたか)**を後継者として強く推しました。これは織田家の血筋と序列を重んじる正論でした。
  • 羽柴秀吉の対抗策:これに対し秀吉は亡き信長の嫡男・信忠の子であり信長の正統な嫡孫にあたるわずか3歳の**三法師(さんほうし、後の織田秀信)**を後継者として擁立することを主張しました。そして自らはその後見人となることで実権を握ろうと画策したのです。

この秀吉の提案は「信長の血を引く嫡流を立てる」という大義名分において勝家の主張を上回るものでした。丹羽長秀や池田恒興も秀吉を支持したため会議は秀吉の思惑通りに決着。三法師が織田家の家督を継ぐことになり秀吉はその後見人として絶大な権力を手中にしました。

2.2. 対立の激化

清洲会議で主導権を握った秀吉はその後大坂に新たな拠点を築きその勢力を急速に拡大させていきます。一方会議で面目を潰された柴田勝家は信孝と手を組み秀吉への反撃の機会を窺っていました。

勝家は信長の妹であり浅井長政の妻であった絶世の美女**お市の方(おいちのかた)**と結婚。織田家の一門としての立場を強化し反秀吉派の諸将を結集させようとします。こうして織田家の家臣団は秀吉派と勝家派の二大派閥に分裂し武力衝突はもはや時間の問題となりました。

2.3. 賤ヶ岳の戦い(1583年)

1582年の冬勝家は同盟者であった滝川一益らと共に秀吉に対して兵を挙げます。これに対し秀吉も迅速に対応。両軍は雪深い北近江と越前の国境地帯で対峙しました。

翌1583年4月戦況が動きます。秀吉が美濃で織田信孝を攻めている隙をついて勝家の猛将・佐久間盛政(さくまもりまさ)が秀吉方の砦を急襲しこれを陥落させました。

この知らせを聞いた秀吉は再び驚異的な機動力を見せます。彼は美濃の大垣からわずか5時間で約52kmの距離を駆け抜け(美濃大返し)一気に賤ヶ岳の戦場に駆けつけました。

秀吉の予期せぬ速さでの帰還に佐久間盛政軍は動揺。そこに秀吉軍が総攻撃をかけました。この時秀吉の子飼いの武将であった**福島正則(ふくしままさのり)加藤清正(かとうきよまさ)**らが大活躍し敵将を次々と討ち取りました。彼らは後に「賤ヶ岳の七本槍(しずがたけのしちほんやり)」としてその武名を天下に轟かせます。

佐久間軍の敗走をきっかけに勝家軍は総崩れとなりました。

2.4. 勝家の最期と秀吉の勝利

賤ヶ岳で大敗を喫した柴田勝家はもはやこれまでと覚悟を決めます。彼は居城である越前の北ノ庄城(きたのしょうじょう)へと逃れ妻となったお市の方と共に城に火を放ち自害しました。お市の方と前夫・浅井長政との間に生まれた三人の娘(茶々・初・江)は城から逃され後に秀吉に保護されます。

この賤ヶ岳の戦いの勝利によって秀吉は信長の後継者の地位を争う最大のライバルを排除しました。彼は信長の遺産である織田家の領地と家臣団を事実上全て手中に収め天下統一への道を大きく前進させたのです。この戦いの後秀吉は彼の支配の象徴となる壮大な大坂城の築城を開始します。

清洲会議での巧みな政略と賤ヶ岳での圧倒的な軍事的勝利。この二つを通じて秀吉は信長亡き後の日本の覇者が誰であるのかを天下に明確に示したのでした。


3. 惣無事令と全国統一の完成

賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を破り織田信長の実質的な後継者となった羽柴秀吉。彼は大坂城を拠点に天下統一事業を本格化させます。彼の統一事業は信長のように敵対勢力を全て武力で殲滅するという手法だけではありませんでした。彼は巧みな外交戦略と「惣無事令(そうぶじれい)」という画期的な法令を駆使して全国の大名を巧みに従わせていきました。本章では秀吉が四国九州そして関東を平定し1590年についに全国統一を完成させるまでの過程を探ります。

3.1. 小牧・長久手の戦いと徳川家康

秀吉の天下統一の前に立ちはだかった強敵の一人が信長の盟友であった徳川家康でした。家康は信長の次男・織田信雄(のぶかつ)と手を組み秀吉の急激な台頭に反旗を翻します。

1584年両者は尾張の小牧・長久手(こまき・ながくて)で激突しました(小牧・長久手の戦い)。この戦いで徳川軍は局地的な戦闘では秀吉軍を破るなど軍事的な才能を見せつけました。しかし全体的な国力では秀吉が圧倒的に優位でした。

戦いは長期化し膠着状態に陥ります。ここで秀吉はその政治的な手腕を発揮します。彼は家康と直接戦うことを避け家康を担ぎ出していた織田信雄と単独で和睦を結んでしまいました。これにより家康は戦うための大義名分を失い秀吉と和睦せざるを得なくなります。

この戦いの結果秀吉は家康を武力で屈服させることはできませんでした。しかし家康を臣従させることには成功しその後の統一事業における最大の障害を取り除いたのです。

3.2. 惣無事令:戦争を禁じる命令

全国の大名を従わせるために秀吉が用いた極めて巧みな政策が「惣無事令」でした。

「惣無事」とは「天下全体の平和」を意味します。惣無事令とは秀吉が天皇の権威を背景に全国の大名に対して私的な領土争い(私戦)を停止するよう命じた法令です。そして大名間の領土紛争は全て秀吉が裁定を下すのでそれに従うよう命じました。

これは画期的な政策でした。

  • 大義名分の獲得:この命令に従わない大名は「天下の平和を乱す者」すなわち「朝敵」となります。秀吉はこれを口実としてその大名を討伐する正当な理由(大義名分)を得ることができました。
  • 天下人としての地位確立:全国の大名間の争いを調停する権限を独占することで秀吉は自らが将軍や天皇に代わる日本の最高統治者(天下人)であることを内外に示したのです。

秀吉はこの惣無事令を巧みに利用してまだ服属していなかった地方の有力大名を次々と従わせていきます。

3.3. 四国平定(1585年)

秀吉はまず四国の覇者となっていた**長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)**に対して惣無事令を発し領土の一部を返上するよう命じました。元親がこれを拒否すると秀吉は彼を「天下の秩序に背く者」として10万を超える大軍を四国に派遣。圧倒的な兵力差の前に元親は降伏し土佐一国のみを安堵される形で秀吉の軍門に下りました。

3.4. 九州平定(1587年)

次に秀吉が標的としたのが九州の統一を目前にしていた薩摩の**島津義久(しまづよしひさ)**でした。秀吉は島津氏と豊後の大友宗麟との争いに介入し惣無事令を発します。島津氏がこれに従わないと見るや今度は自ら20万もの大軍を率いて九州へと乗り込みました。

島津軍は勇猛で知られていましたが秀吉の圧倒的な物量の前になすすべもなく降伏。島津氏もまた秀吉の支配下に入りました。

3.5. 小田原征伐と全国統一の完成(1590年)

秀吉の天下統一の総仕上げとなったのが関東に広大な領地を誇る後北条氏の征伐でした。

秀吉は北条氏政・氏直親子に対しても上洛して臣従するよう何度も求めます。しかし北条氏は難攻不落の小田原城を頼りにこれを拒否し続けました。

1590年秀吉は全国の大名に動員をかけ20万を超える空前の大軍で小田原城を完全に包囲します。これは単なる軍事作戦ではありませんでした。秀吉は包囲陣の周辺に茶会や能の舞台を催し全大名に対して自らの圧倒的な権威を見せつける一大政治デモンストレーションでした。

3ヶ月にわたる包囲の末北条氏はついに降伏。氏政・氏直は自害または追放され関東の後北条氏は滅亡しました。

この小田原征伐の最中東北地方の有力大名であった伊達政宗らも秀吉のもとに参上し臣従を誓いました。これにより1590年ついに秀吉による日本の全国統一が完成したのです。

応仁の乱以来約120年間にわたって続いた戦国の乱世は織田信長がその基礎を築き豊臣秀吉という類稀なる英雄の手によってついに終わりを告げたのでした。


4. 太閤検地と石高制の確立

1590年に全国統一を完成させた豊臣秀吉。彼の次なる目標は戦乱で荒廃した日本の社会経済を再建し自らが築き上げた豊臣政権の支配を恒久的なものにするための国家的な大改革でした。その改革の核心をなしたのが全国の土地を測量しその生産力を米の量で表示する「太閤検地(たいこうけんち)」とそれによって確立された「石高制(こくだかせい)」です。この政策は単なる土地調査にとどまらず中世以来の複雑な土地所有関係を根本から破壊し日本の社会構造を近世へと大きく移行させる画期的な社会革命でした。

4.1. 検地の目的

秀吉が全国規模での検地を強行した目的は複数ありました。

  1. 全国の生産力の統一的把握:それまでの日本の土地支配は荘園公領制の下で極めて複雑でした。一つの土地に貴族寺社武士といった複数の権利者が重なり合っており国家全体の生産力を正確に把握することは不可能でした。秀吉は全国の田畑の面積と質を測量することで日本の総生産力を数字として一元的に把握しそれに基づいた合理的で効率的な支配体制を築こうとしました。
  2. 確実な税収の確保:土地の生産力を正確に把握することは大名や農民から徴収する年貢の基準を明確にし確実な税収を確保することに繋がります。これは豊臣政権の財政基盤を確立する上で不可欠でした。
  3. 大名の軍役の基準設定:大名が支配する土地の総生産力(石高)を確定することでその石高に応じて大名が動員すべき軍役(兵士の数など)を公平に割り当てることが可能になりました。

4.2. 太閤検地の方法とその革新性

「太閤」とは摂政・関白をその子に譲った人物の尊称であり秀吉を指します。太閤検地はそれまでの検地とは一線を画すいくつかの革新的な特徴を持っていました。

  • 全国統一の基準:秀吉は検地を行うにあたりそれまで地域によってバラバラであった測量単位を全国で統一しました。
    • 枡(ます): 米の量を測る枡として**京枡(きょうます)**を公定の枡としました。
    • 面積単位: 1反(たん)=300歩(ぶ)、1町(ちょう)=10反といったように面積の単位を統一しました。
  • 石盛(こくもり)と石高(こくだか):検地の役人は田畑をその質に応じて上・中・下・下々といった等級に分けました。そしてそれぞれの等級の土地1反あたりから標準的に収穫できる米の量(石盛)を定めました。そして土地の面積にこの石盛を掛け合わせることでその土地の生産力を米の量(石高)として算出しました。例えば1反あたりの石盛が1石5斗の「上田」が2反あればその土地の石高は「3石」となります。この石高制は土地の価値を米という全国共通の客観的な指標で表す画期的な方法でした。
  • 検地帳への登録:検地の結果は村ごとに作成された検地帳(けんちちょう)に詳細に記録されました。そして検地帳にはその土地を実際に耕作している農民(作人、さくにん)の名前が直接登録されました。

4.3. 検地がもたらした社会革命

この検地帳への登録こそが太閤検地がもたらした最も大きな社会変革でした。

  1. 荘園制の完全な解体:検地帳に耕作者の名前を登録するということはその土地に対する荘園領主(貴族・寺社)などの中間的な権利を全て否定することを意味しました。これにより平安時代から続いてきた複雑な権利関係を特徴とする荘園公領制は完全に解体されました。日本の土地支配は「土地を支配する領主(大名)」と「土地を耕作し年貢を納める農民(百姓)」という二つの階層によるシンプルな構造へと再編成されたのです。
  2. 農民の地位の変化:検地帳に登録された農民はその土地を耕作する権利(耕作権)を国家から公式に保障されることになりました。彼らはもはや荘園領主の支配下にある農奴ではなく領主に対して年貢を納める義務を負う代わりにその地位が保証された「百姓」として位置づけられました。その一方で彼らは検地帳に登録された土地(村)から自由に移動することを禁じられ土地に縛り付けられる存在ともなりました。
  3. 村請制(むらうけせい)の確立:年貢は個々の農民が直接領主に納めるのではなく村全体が共同で領主に対して納入するという村請制が確立しました。これにより村の自治的な機能は強化される一方で村全体で年貢を納める連帯責任を負うことになりました。

太閤検地と石高制は戦国時代の流動的な社会に終止符を打ちその後の江戸時代の社会の基礎となる幕藩体制の根幹をなすシステムを創り上げました。秀吉はこの改革によって日本の中世を終わらせ近世という新しい時代の扉を開いたのです。


5. 刀狩と兵農分離の徹底

太閤検地によって日本の土地支配のあり方を根底から変えた豊臣秀吉。彼の次なる改革の目標は人々の身分と役割を明確に分けることでした。戦国時代は農民が武器を持って一揆を起こしたり武士が普段は農業を営んだりするなど武士と農民の区別が極めて曖昧な時代でした。秀吉はこの状況が社会を不安定にする根源であると考えました。そして1588年彼は全国の農民から武器を取り上げるという前代未聞の法令「刀狩令(かたながりれい)」を発布します。この政策は太閤検地と並行して進められ日本の社会を「支配する武士」と「支配される百姓」という二つの階級に明確に分離する「兵農分離(へいのうぶんり)」を決定づけるものでした。

5.1. 刀狩令(1588年)

1588年(天正16年)秀吉は関白の名において全国に対して刀狩令を発布しました。その内容は「百姓が刀、脇差、弓、槍、鉄砲、その他の武具を持つことを固く禁じる」というものでした。

  • 表向きの理由(大義名分):秀吉はこの法令の目的を巧みに説明しています。
    1. 農民のため: 百姓が武器を持つと年貢を納めずに一揆などを起こすようになり結局は自らの土地を失うことになる。武器を捨てて農業に専念すれば子々孫々まで安泰に暮らせる。
    2. 仏教のため: 回収した刀や武具は溶かして京都の方広寺に建立する大仏の釘やかすがいに使う。そうすればこの世だけでなく来世までもが救われる。
  • 真の目的:もちろん秀吉の真の目的は別にありました。それは農民の武装を解除し一揆の力を削ぐことでした。戦国時代を通じて支配者を最も苦しめてきたのは惣村として団結し武器を手にした農民たちによる一揆でした。秀吉は彼らから武器を取り上げることで反乱の可能性を根絶し安定した支配体制を築こうとしたのです。

この命令に基づき全国で武器の没収が行われました。抵抗する者には厳しい罰が科されました。

5.2. 兵農分離の完成

この刀狩令は単独の政策ではありませんでした。それは太閤検地やその他の身分統制政策と連動することで「兵農分離」という大きな社会変革を完成させるものでした。

  • 太閤検地との連動:太閤検地は農民を検地帳に登録し彼らを土地に縛り付ける政策でした。これにより農民は「農業に専念する存在」として位置づけられました。
  • 刀狩との連動:刀狩は農民から武器を取り上げる政策でした。これにより農民は「武器を持たない存在」として規定されました。
  • 武士の城下町集住:一方で秀吉は家臣である武士たちに対しては自らの領地を離れ城下町に住むことを徹底させました。これにより武士は土地から切り離され「武器を持つことを特権とされた専門の軍人・官僚階級」として位置づけられました。

この三つの政策が一体となって機能することで日本の社会は

  • 武士: 苗字を名乗り刀を差すこと(苗字帯刀)を特権とされ城下町に住み領主から俸禄(給料)を得て軍事と政治を担う支配階級。
  • 百姓: 武器を持つことを禁じられ村に住み土地を耕作して年貢を納める被支配階級。

という二つの身分に明確に分離されたのです。これにより戦国時代の特徴であった「地侍(じざむらい)」のような半農半兵の武士は消滅し社会の流動性は失われました。

5.3. その他の身分統制令

秀吉は兵農分離をさらに徹底させるためいくつかの身分統制令を発布しました。

  • 海上賊船禁止令(1588年):刀狩令と同時に出されたもので倭寇などの海賊行為を厳しく禁じました。これもまた民間の武装勢力を解体する政策の一環でした。
  • 人掃令(ひとばらいれい、身分統制令、1591年):武士が百姓や商人になったり百姓が土地を捨てて商工業者になったりすることを禁じました。これにより**士農工商(しのうこうしょう)**という身分制度が固定化されていきました。人々は親の職業を継ぐことが強制され身分間の移動は原則として不可能になりました。

5.4. 兵農分離の歴史的意義

秀吉による兵農分離の徹底は日本の社会に長期的で決定的な影響を与えました。

  1. 近世的社会の確立:兵農分離によって武士と百姓の役割分担が明確になったことで安定した社会秩序が生まれました。これはその後の江戸時代約260年間の平和の基礎となる近世的な幕藩体制社会の骨格を創り上げたことを意味します。
  2. 支配体制の強化:農民を非武装化し武士階級が武力を独占することで支配者による統治は格段に容易かつ安定的になりました。一揆のリスクが減少したことで大名は安心して内政や戦争に専念できるようになりました。
  3. 職業の専門化:武士が戦闘と統治に専念し百姓が食料生産に専念するという社会的な分業が進みました。これはそれぞれの分野における専門性を高め結果として近世社会の安定と発展に寄与しました。

豊臣秀吉は太閤検地と刀狩という二つの大きな改革によって戦国時代の「万人が戦う社会」に終止符を打ち「武士が支配し百姓がそれを支える社会」という新しい時代の扉を開いたのです。この社会構造の変革こそが彼の成し遂げた最も永続的な功績であったと言えるでしょう。


6. バテレン追放令

織田信長は仏教勢力を弾圧する一方でキリスト教に対しては寛容な態度をとりその布教を保護しました。天下統一事業を継承した豊臣秀吉も当初はこの信長の方針を引き継ぎキリスト教宣教師(バテレン)との良好な関係を保っていました。しかし九州平定の過程でキリスト教が日本の社会に与える影響を目の当たりにした秀吉は突如としてその態度を硬化させます。1587年彼は宣教師たちに国外退去を命じる「バテレン追放令」を発布。ここに日本のキリスト教弾圧の歴史が始まります。本章では秀吉がなぜキリスト教弾圧へと方針を転換したのかその背景と追放令の内容そしてその影響を探ります。

6.1. 当初の融和政策

秀吉は信長と同様にキリスト教そのものに強い関心があったわけではありません。彼にとって重要だったのはキリスト教の背後にある南蛮貿易がもたらす莫大な利益でした。

宣教師たちが来航する場所には鉄砲や火薬生糸といった当時日本では手に入らない貴重な品々を積んだポルトガル船がやってきます。秀吉は宣教師たちと良好な関係を保つことでこの貿易の利益を独占しようと考えていました。彼は大坂に教会を建てることを許可するなど宣教師たちを手厚く遇しました。

6.2. 九州平定と方針転換

秀吉のキリスト教に対する認識を根底から覆すきっかけとなったのが1587年の九州平定でした。

九州はキリシタン大名が多くキリスト教が最も根付いている地域でした。現地を巡察した秀吉はいくつかの衝撃的な事実を目の当たりにします。

  1. 長崎のイエズス会への寄進:キリシタン大名であった大村純忠が貿易港である長崎の地をイエズス会に寄進しそこがイエズス会の領地として治外法権的な扱いを受けている事実を知り秀吉は愕然としました。日本の領土が外国の宗教団体に譲渡されているという事態は天下人である秀吉の主権を侵害する許しがたい行為でした。
  2. 神社仏閣の破壊:一部のキリシタン大名の領内でキリスト教徒が日本の伝統的な神社や仏閣を破壊しているという現実を知りました。これは日本の伝統的な宗教秩序を破壊する行為であり社会の混乱を招くと考えました。
  3. 日本人奴隷貿易:ポルトガル商人たちが日本人(特に女性や子供)を奴隷として買い付け東南アジアなどに売り飛ばしているという非人道的な行為が行われていることを知りました。この日本人奴隷貿易にキリスト教徒が関与していることに秀吉は激怒したと言われています。

これらの事実を目の当たりにした秀吉はキリスト教が単なる宗教ではなく日本の社会秩序を乱し将来的にはスペインやポルトガルによる日本侵略の尖兵となる危険性を孕んでいると判断するに至ります。

6.3. バテレン追放令(1587年)

九州平定を終え博多に滞在していた秀吉は1587年7月24日突如として11カ条からなる「バテレン追放令」(正式名称は「吉利支丹伴天連追放令」)を発布しました。

その主な内容は以下の通りです。

  • キリスト教の布教の禁止:「日本は神国である」とし神仏を破壊するキリスト教の教えを邪法としてその布教を固く禁じました。
  • 宣教師の国外退去:全国の宣教師(バテレン)に対して20日以内に日本から退去するよう命じました。
  • 南蛮貿易の継続:一方で「商船についてはこれまで通りである」とし布教活動を行わない商人たちの来航と貿易は引き続き許可しました。これは秀吉が南蛮貿易の利益は依然として重視していたことを示しています。

6.4. 追放令の影響と限界

この突然の追放令はキリシタン大名や宣教師たちに大きな衝撃を与えました。しかしこの時点での秀吉の弾圧は必ずしも徹底したものではありませんでした。

  • 不徹底な弾圧:実際に追放された宣教師は一部にとどまり多くの宣教師は潜伏して布教活動を続けました。秀吉自身も南蛮貿易への影響を考慮し黙認していた部分があったと言われています。
  • 長崎の直轄地化:秀吉はイエズス会領であった長崎を没収し豊臣家の直轄地としました。これにより南蛮貿易の利益を完全に自らの管理下に置くことに成功します。

秀吉のキリスト教政策は二つの側面を持っていました。一つは日本の伝統的な社会秩序を守り外国の侵略を防ぐという「国家の統一と安全保障」の側面。もう一つは南蛮貿易の利益は確保するという「経済的実利」の側面です。

この後秀吉の治世下では大きな迫害は起こりませんでした。しかし1596年にスペインの船サン=フェリペ号が土佐に漂着した際乗組員が「スペインは宣教師を尖兵として領土を拡大する」と発言したとされる事件(サン=フェリペ号事件)が起こります。これに激怒した秀吉は宣教師と信者26名を長崎で処刑しました(二十六聖人殉教)。

秀吉のバテレン追放令は日本の為政者が初めてキリスト教に対して明確な拒絶の姿勢を示したものでありその後の江戸幕府によるさらに厳しい禁教政策(鎖国)への道を開く画期となりました。


7. 文禄・慶長の役(朝鮮出兵)

1590年に日本全土の統一を完成させた豊臣秀吉。彼の野心は国内の平定だけでは収まりませんでした。彼の目は海を越えアジア大陸へと向けられます。秀吉は日本の支配者としてだけでなく明(当時の中国)を征服し広大なアジア帝国の皇帝となることを夢想し始めました。そしてその野望を実現するための第一歩として1592年彼は朝鮮半島に対して大規模な侵攻を開始します。この二度にわたる無謀な大陸侵攻は「文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)」または「朝鮮出兵」と呼ばれ豊臣政権の末期を彩る大きな悲劇となりました。

7.1. 出兵の動機

天下人となった秀吉がなぜこれほど巨大な犠牲を払ってまで大陸への侵攻を目指したのでしょうか。その動機については様々な説が議論されていますがいくつかの要因が複合的に絡み合っていたと考えられます。

  • 個人的な誇大妄想:百姓から天下人へと上り詰めた秀吉は自らの力を過信し自らを神に等しい存在と考えるようになっていた可能性があります。日本統一という事業を成し遂げた彼にとって次なる目標としてアジアの征服を夢見るのは自然な心理的帰結だったのかもしれません。
  • 国内の矛盾の解消:全国統一が完成したことで多くの大名や武士たちはその力を向けるべき「敵」を失いました。秀吉は彼らの強大な軍事エネルギーを国外に向けることで国内の不満を逸らし豊臣政権の支配を安定させようとしたという説があります。
  • 領土的野心と貿易利権:明を征服しその広大な領土と富を手に入れるという直接的な領土的野心。また勘合貿易に代わる新しい東アジアの貿易秩序を自らが主導して構築しようという経済的な野心も大きな動機でした。

秀吉はまず朝鮮に対して「明を征服するので道を貸せ(仮道入明)」と要求します。しかし明の冊封国であった朝鮮がこれを拒否すると秀吉はこれを口実に侵攻を開始しました。

7.2. 文禄の役(1592-1593年)

1592年4月小西行長や加藤清正らを将軍とする15万を超える日本の大軍が朝鮮半島に上陸。これが一度目の侵攻「文禄の役」です。

鉄砲を主力とする日本軍の戦闘力は圧倒的でした。釜山、漢城(現在のソウル)、平壌(ピョンヤン)といった朝鮮の主要都市は次々と陥落。朝鮮国王は都を捨てて逃亡し日本軍はわずか数ヶ月で朝鮮半島の大部分を制圧しました。

しかし戦況はここから膠着し始めます。

  • 朝鮮の義兵(ぎへい)の抵抗:正規軍が敗走した後朝鮮各地で民衆が自発的に組織したゲリラ部隊「義兵」が蜂起。彼らは地理を活かしたゲリラ戦で日本軍の補給路を脅かし大きな損害を与えました。
  • 水軍の活躍と補給路の寸断:朝鮮の水軍を率いた名将**李舜臣(りしゅんしん)**の活躍が戦局を大きく変えました。彼は亀甲船(きっこうせん)と呼ばれる装甲軍艦を駆使し日本の水軍を次々と撃破(閑山島海戦など)。これにより日本軍の海上補給路は寸断され内陸で戦う部隊は深刻な兵糧不足に陥りました。
  • 明の援軍:朝鮮からの救援要請を受けた明が大規模な援軍を派遣。平壌城の戦いで明・朝鮮の連合軍は日本軍を破り日本軍は南へと後退を余儀なくされます。

戦況が不利になったことを受け秀吉は明との間に講和交渉を開始。両軍は一時的に休戦状態に入りました。

7.3. 慶長の役(1597-1598年)

明との講和交渉は決裂します。秀吉の要求(明の皇女を日本の天皇の后とすることや朝鮮南部の割譲など)はあまりにも非現実的であり明側は秀吉を「日本国王」に封じることで事態を収拾しようとしましたが秀吉はこれに激怒しました。

1597年秀吉は再び14万の大軍を朝鮮に送り込みます。これが二度目の侵攻「慶長の役」です。

二度目の戦いは一度目以上に凄惨なものとなりました。日本軍は占領地で残虐な行為を繰り返し「鼻切り」や「耳そぎ」といった戦功の証として朝鮮の民衆の鼻や耳を切り取り塩漬けにして日本に送りました。京都にある「耳塚(みみづか)」は当時の戦いの残虐さを今に伝えています。

しかしこの戦いもまた朝鮮の民衆と水軍の頑強な抵抗そして明軍の介入によって膠着状態に陥りました。

7.4. 秀吉の死と撤退

戦いが泥沼化する中1598年8月侵攻の最高司令官であった豊臣秀吉が伏見城で病死します。享年62。

秀吉の死は五大老によって秘匿されました。そして彼らは全軍に対して朝鮮からの撤退を命令。日本の軍隊は1598年末までに朝鮮半島から完全に引き揚げました。

7年間にわたったこの大戦は関わった全ての国に巨大な爪痕を残しました。

  • 日本:膨大な戦費と兵力を消耗し多くの有能な武将を失いました。またこの出兵をめぐって石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派の対立が深刻化するなど豊臣政権の内部に修復不可能な亀裂を生み出しました。
  • 朝鮮:国土は焦土と化し多くの民衆が虐殺されあるいは捕虜として日本に連行されました。朝鮮の社会と経済は壊滅的な打撃を受けました。
  • 明:朝鮮への大規模な援軍は明の国力を著しく疲弊させました。これが後に北方の女真族(後の清)の台頭を許し明が滅亡する遠因になったとも言われています。

秀吉の朝鮮出兵は彼の誇大妄想が生んだ無謀な侵略戦争であり何一つ得るものなく終わりました。そしてその巨大な負の遺産は豊臣政権そのものを滅亡へと導く最大の要因となっていくのです。


8. 秀吉の死と豊臣政権の動揺

1598年8月絶対的な権力者として日本に君臨した豊臣秀吉がその波乱の生涯を閉じました。彼の死は7年間にわたる朝鮮出兵を終わらせましたがそれは豊臣政権の安泰を意味するものではありませんでした。むしろ秀吉という巨大な「重し」がなくなったことで彼が生前に抱えていた政権の構造的な矛盾と後継者問題が一気に噴出します。秀吉が自らの死の直前に作り上げた五大老・五奉行という集団指導体制は幼い跡継ぎを守るための苦肉の策でしたがそれは逆に有力大名たちの権力闘争の新たな舞台となり豊臣政権を急速な崩壊へと導いていくことになります。

8.1. 後継者問題:秀頼の誕生と秀次の悲劇

百姓から天下人へと上り詰めた秀吉でしたが彼には長年世継ぎとなる男子が生まれませんでした。そのため彼は甥の**秀次(ひでつぐ)**を養子とし1591年には関白の位を譲って自らは太閤となっていました。秀次は秀吉の後継者として政務をこなし将来を嘱望されていました。

しかし1593年秀吉が57歳にして側室の淀殿(よどどの、織田信長の妹・お市の方の長女)との間に待望の実子・**拾(ひろい、後の豊臣秀頼)**が誕生すると事態は一変します。

実子である秀頼に全てを継がせたいと願うようになった秀吉にとって甥である関白・秀次の存在は次第に邪魔なものとなっていきました。

1595年秀吉は秀次に対して謀反の疑いをかけます。秀次は無実を訴えましたが聞き入れられず高野山に追放されその地で切腹を命じられました。さらに秀吉の怒りは収まらず秀次の妻子や側室など一族30数名を京都の三条河原で公開処刑するという残虐な仕打ちを行いました。

この「秀次事件」は豊臣政権の内部に深刻な亀裂と恐怖を植え付けました。多くの大名は秀吉の常軌を逸した行動に恐怖し豊臣家の将来に大きな不安を抱くようになります。そしてこの事件によって豊臣家には幼い秀頼以外に有力な後継者がいなくなってしまったのです。

8.2. 五大老・五奉行制度の設立

自らの死期が近いことを悟った秀吉はまだ6歳の秀頼の将来を深く案じました。彼は自分が死んだ後有力大名たちが秀頼をないがしろにし天下を奪い合うのではないかと恐れたのです。

そこで秀吉は自らの死の直前有力大名たちに何度も秀頼への忠誠を誓わせると同時に彼らによる集団指導体制を構築しました。これが「五大老(ごたいろう)・五奉行(ごぶぎょう)」の制度です。

  • 五大老:政権の最高意思決定を行う合議体です。全国で最も有力な5人の大名が任命されました。
    • 徳川家康(関東250万石)
    • 前田利家(加賀100万石)
    • 毛利輝元(中国120万石)
    • 上杉景勝(会津120万石)
    • 宇喜多秀家(備前57万石)彼らの役割は秀頼が成人するまで合議によって天下の政を行うことでした。特に家康と利家はその筆頭として重い責任を負っていました。
  • 五奉行:豊臣家の実務を担う行政官僚です。秀吉の子飼いの家臣の中から特に実務能力に優れた5人が選ばれました。
    • 石田三成(近江19万石)
    • 浅野長政
    • 増田長盛
    • 長束正家
    • 前田玄以彼らの役割は五大老の指示のもとで太閤検地や財政といった豊臣政権の日常的な行政を執行することでした。

秀吉の狙いはこの五大老と五奉行が互いに牽制し合うことで権力の集中を防ぎ秀頼が成人するまでの間政権を安定させることにありました。

8.3. 豊臣政権の構造的欠陥

しかしこの秀吉が最後に考案した統治システムはいくつかの深刻な構造的欠陥を抱えていました。

  1. 権力の二重構造:五大老はそれぞれが独立した巨大な領国を持つ大名でありその力は五奉行を遥かに凌駕していました。しかし日常の行政は五奉行が取り仕切っていました。この「権力を持つ者(大老)と実務を握る者(奉行)の乖離」は必然的に両者の対立を生み出しました。
  2. 派閥対立:豊臣家の家臣団は大きく二つの派閥に分裂していました。
    • 武断派: 加藤清正や福島正則など朝鮮出兵で活躍した武勇派の武将たち。彼らは戦場で功績を立てた自分たちが冷遇され事務方の奉行たちが権力を握っていることに強い不満を持っていました。
    • 文治派: 石田三成を中心とする行政官僚たち。彼らは武断派の武将たちを「戦しか能がない」と見下していました。この両派の対立は朝鮮出兵の評価をめぐって決定的なものとなっていました。
  3. 徳川家康の存在:五大老の中でも徳川家康の力は突出していました。彼の石高は他の四人を合わせたものに匹敵するほどでありその政治手腕も老獪でした。秀吉が作ったこの集団指導体制のバランスは家康一人の意向で簡単に崩れてしまうほど脆弱なものだったのです。

8.4. 秀吉の死と権力闘争の始まり

1598年8月18日秀吉は「秀頼のことをくれぐれも頼む」という言葉を遺して亡くなりました。彼の死は朝鮮からの撤兵を決定づけましたが同時に豊臣政権内部の権力闘争の蓋を切る合図ともなりました。

絶対的な独裁者の死によってこれまで抑えられていた様々な対立や不満が一気に噴出し始めます。そしてその権力闘争はやがて豊臣家を支えるべき二人の中心人物徳川家康と石田三成の対立へと収斂していくことになるのです。秀吉が築き上げた壮大な天下は彼の死と共に急速に崩壊への道を歩み始めました。


9. 五大老・五奉行

豊臣秀吉がその死の床で幼い息子・秀頼の将来を託したのが五大老と五奉行という集団指導体制でした。これは秀吉が自らの死後に起こりうる権力闘争を予期しそれを防ぐために考案した最後の安全装置でした。しかしこのシステムは秀吉の期待とは裏腹に豊臣政権内部の対立を緩和するどころかむしろそれを増幅させる舞台となってしまいます。そしてその対立はやがて徳川家康を中心とする「天下の実力者たち(大老)」と石田三成を中心とする「豊臣家の忠臣たち(奉行)」との間の深刻な亀裂へと発展していきます。本章ではこの五大老・五奉行という制度の実態とそのメンバーそして彼らの関係がいかにして崩壊していったのかを分析します。

9.1. 五大老:天下を預かる有力大名

五大老は豊臣政権下で最も力を持つ5人の大大名によって構成されていました。彼らの役割は幼い秀頼が成人するまでの間合議によって天下の政を運営し豊臣家を守護することでした。

  • 徳川家康(とくがわいえやす):五大老の筆頭。関東地方に256万石という全国で断トツの石高を誇る最大の実力者。秀吉とはかつて小牧・長久手の戦いで敵対しましたがその後臣従。その政治手腕と忍耐力は誰もが認めるところでした。
  • 前田利家(まえだとしいえ):加賀を中心に約83万石を領有。秀吉とは若い頃からの親友でありその人望は厚く家康と対等に渡り合える唯一の人物と目されていました。秀吉は利家を幼い秀頼の傅役(もりやく、後見人)に任命し特にその忠誠を期待していました。
  • 毛利輝元(もうりてるもと):中国地方に120万石の広大な領地を持つ旧来の名門。織田信長の時代から秀吉と敵対していましたがその後臣従しました。
  • 上杉景勝(うえすぎかげかつ):越後の龍・上杉謙信の養子。会津に120万石を与えられていました。寡黙で義理堅い性格で知られていました。
  • 宇喜多秀家(うきたひでいえ):備前・美作を中心に57万石を領有。秀吉の養女を妻とし秀吉から特に寵愛されていました。五大老の中では最年少でした。

この五大老はそれぞれが独立した領国を持つ君主でありその立場は対等でした。彼らの合議が機能するためには相互の信頼と牽制が不可欠でした。

9.2. 五奉行:豊臣家を支える実務官僚

五奉行は五大老の下で豊臣政権の実際の行政事務を担当する5人の実務官僚でした。彼らは秀吉が身分の低い時代から育て上げた子飼いの家臣であり豊臣家への忠誠心は極めて厚いものでした。

  • 石田三成(いしだみつなり):五奉行の筆頭格。近江佐和山に19万石を領有。検地や朝鮮出兵の兵站管理などで抜群の行政手腕を発揮し秀吉の最も信頼する側近でした。しかしその合理的で融通の利かない性格は多くの武断派の武将から反感を買っていました。
  • 浅野長政(あさのながまさ):
  • 増田長盛(ましたながもり):
  • 長束正家(なつかまさいえ):
  • 前田玄以(まえだげんい):彼らはそれぞれ司法や財政土木といった専門分野を担当し豊臣家の直轄領(蔵入地)の管理などを行いました。

彼らは優れた官僚でしたがその石高は大老たちとは比較にならないほど小さくその権力はあくまで秀吉個人の信任に基づいたものでした。

9.3. 対立の構造

秀吉が意図したこの集団指導体制は当初から深刻な対立の火種を抱えていました。

  • 大老と奉行の対立:天下の政を動かす権力を持つ大老たちと豊臣家の日常業務を取り仕切る奉行たちとの間には必然的に対立が生じました。特に家康が秀吉の遺言を破って他の大名と私的に婚姻関係を結ぼうとした際には三成ら奉行たちがこれを激しく非難しました。
  • 武断派と文治派の対立:加藤清正や福島正則といった朝鮮出兵で活躍した武断派の武将たちは戦場での功績よりも行政手腕で出世した石田三成ら文治派の奉行たちを「戦も知らぬ算術侍」と見下し強い嫉妬と反感を抱いていました。
  • 家康の野心:そして最大の不安定要因は徳川家康の存在でした。彼は秀吉の死後巧みに武断派の武将たちを味方につけ豊臣政権内部の対立を利用しながら自らの政治的影響力を着実に拡大していきました。

9.4. 前田利家の死と対立の激化

この危ういバランスをかろうじて保っていたのが五大老の重鎮前田利家でした。彼は家康と三成の間に入り両者の対立を調停する役割を果たしていました。

しかし1599年秀吉の死からわずか8ヶ月後その前田利家が病死してしまいます。もはや家康を抑えることができる重石はいなくなりました。

利家の死の直後加藤清正福島正則ら七人の武断派の武将が石田三成を襲撃するという事件が発生します。三成はかろうじて難を逃れましたがこの事件を調停したのが家康でした。家康は三成を奉行の職から退かせ居城である佐和山に隠居させるという形で事態を収拾します。

この事件によって反家康派の中心人物であった石田三成は政治の中枢から排除され家康の権力はますます強大になりました。豊臣政権はもはや家康一人の意のままに動かされるようになっていったのです。

秀吉が遺した五大老・五奉行の制度は彼の死後わずか1年余りで完全に機能不全に陥りました。そして豊臣政権の内部対立はもはや修復不可能な段階に達し徳川家康を中心とする勢力と石田三成を中心とする反家康勢力との間の天下分け目の決戦へと突き進んでいくことになるのです。


10. 関ヶ原の戦いへ

豊臣秀吉の死後彼が築いた権力構造は急速に崩壊し始めました。五大老筆頭の徳川家康は秀吉の遺言を次々と破り天下人への野心を露わにします。これに対し豊臣政権の忠実な官僚である石田三成は家康の専横を阻止すべく反家康勢力の結集を図ります。豊臣政権内部の対立はついにこの二人の指導者を軸とする二大陣営の対決へと発展。そして1600年日本の歴史上最も有名で最も決定的な戦いである「関ヶ原の戦い」の火蓋が切られることになります。本章では秀吉の死から関ヶ原の戦いに至るまでの緊迫した政治過程を追います。

10.1. 徳川家康の野心と政権掌握

秀吉の死後徳川家康は周到な計画のもとに豊臣政権の乗っ取りを開始します。

  • 秀吉の遺言破り:秀吉は生前大名同士が私的に婚姻関係を結ぶことを固く禁じていました。これは大名たちが徒党を組むことを防ぐためでした。しかし家康は秀吉の死後すぐに伊達政宗や福島正則といった有力大名と次々と自分の子供たちの縁組を進めました。これは豊臣政権に対する公然とした挑戦でした。
  • 政敵の排除:前田利家の死後家康は石田三成と武断派の対立を巧みに利用し三成を奉行の職から失脚させ政治の中枢から排除しました。これにより豊臣政権は家康の独裁体制となっていきます。
  • 大坂城入城:家康は五大老の筆頭として幼い豊臣秀頼が居住する大坂城の西の丸に入り天下の政務を執るようになります。これは彼が事実上の天下人として振る舞い始めたことを意味しました。

10.2. 石田三成の決起

居城である佐和山城に隠居していた石田三成は家康の専横を座視することができませんでした。彼は豊臣家を守るためそして自らの政治的信念のために家康打倒を決意します。

三成は五大老の毛利輝元・上杉景勝・宇喜多秀家そして五奉行の増田長盛・長束正家らと連携し反家康連合(後の西軍)を組織します。

10.3. 会津征伐と西軍の挙兵

反家康連合の動きを察知した家康はこれを叩き潰すための策を巡らせます。1600年家康は五大老の一人である上杉景勝に謀反の疑いありとして豊臣秀頼の名のもとに会津(福島県)への討伐軍(会津征伐)を起こします。

これは家康の巧妙な罠でした。彼が全国の大名を率いて関東を留守にすれば必ずや三成が畿内で兵を挙げるであろうと予測していたのです。

家康の思惑通り彼が会津へ向けて出陣した隙をついて石田三成は毛利輝元を総大将として大坂で挙兵。家康に従わなかった伏見城を攻略し「家康は秀頼公に対して謀反を企てた逆賊である」という弾劾状を全国に発しました。

10.4. 小山評定と東西両軍の成立

家康が下野国(栃木県)の小山に滞在していた時三成挙兵の報が届きます。家康は直ちに諸将を集めて軍議を開きました(小山評定)。

この場で家康は「このまま上杉を討つべきか兵を返して三成を討つべきか」を諸将に問います。諸将の多くは妻子を大坂に人質として取られており動揺しました。

しかしここで福島正則ら豊臣家恩顧の武断派の武将たちが「三成憎し」の思いから家康に味方することを表明。他の多くの大名もこれに同調しました。

こうして会津征伐軍は反転し家康を総大見して西へ向かう「東軍」へと姿を変えました。ここに日本の天下を二分する東西両軍が成立し決戦は避けられないものとなったのです。

  • 東軍: 総大将は徳川家康。福島正則、黒田長政、細川忠興、加藤嘉明など豊臣恩顧の武断派大名や前田氏、伊達氏などが参加。兵力は約7万4千。
  • 西軍: 総大将は毛利輝元(ただし本人は大坂城にあって出陣せず)。石田三成を中心に宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、長宗我部盛親、そして毛利秀元、小早川秀秋などが参加。兵力は約8万2千。

両軍は美濃国(岐阜県)の関ヶ原で天下の覇権を賭けて激突することになります。豊臣秀吉が築き上げた秩序は彼の死後わずか2年でその家臣たちの手によって最終的な清算の時を迎えようとしていたのです。


## Module 10:豊臣秀吉の天下統一事業の総括:秩序の創造と王朝の限界

本モジュールでは百姓の子から天下人へと駆け上がった豊臣秀吉の天下統一事業を追った。主君・信長の非業の死を「中国大返し」という神業で好機に変え山崎の戦いで後継者レースの先頭に躍り出た。彼は賤ヶ岳の戦いで織田家中のライバルを制圧し惣無事令という巧みな大義名分を掲げて四国九州関東を平定し100年続いた戦国の乱世に終止符を打った。彼の事業は軍事的な征服にとどまらない。太閤検地と石高制は中世的な荘園制を完全に破壊し刀狩と兵農分離は近世的な身分社会の礎を築いた。しかしその絶頂期において彼の野心は朝鮮出兵という無謀な侵略戦争へと向かい豊臣政権に修復不可能な亀裂と消耗をもたらした。そして彼が自らの死後に託した五大老・五奉行という集団指導体制は後継者秀頼の幼さも相まって機能せず彼の死と共に豊臣家は徳川家康と石田三成を中心とする二大派閥に分裂。天下は再び関ヶ原での決戦へと向かう。秀吉は中世を終わらせ近世を創造した偉大な設計者であったが彼が築いた豊臣の天下は彼一代限りのものであり永続的な王朝とはなり得なかったのである。

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