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【基礎 日本史(通史)】Module 11:江戸幕府の成立と幕藩体制
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは豊臣秀吉が戦国の乱世を統一するも彼の死後に後継者問題と内部対立から豊臣政権が崩壊し天下分け目の「関ヶ原の戦い」へと至る道筋を見ました。本モジュールではこの最終決戦を制した徳川家康がどのようにして新たな武家政権「江戸幕府」を創設しその後260年以上にわたる長期的な平和「天下泰平」の礎を築いたのかその過程を探ります。家康の事業は単なる軍事的な勝利にとどまりませんでした。それは二度と戦乱の世に戻らないようにするための極めて巧妙で緻密な支配システム「幕藩体制(ばくはんたいせい)」の構築でした。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず関ヶ原の戦いの実態とその後の家康による巧みな戦後処理を分析します。次に江戸幕府の成立と大坂の陣による豊臣氏の滅亡という天下統一の最終段階を見ます。そして江戸時代の日本の統治の根幹をなした「幕藩体制」の構造を解き明かします。幕府が大名や朝廷を統制するために用いた「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」といった法律そして「参勤交代」という画期的な制度の機能に迫ります。さらに三代将軍・家光の時代に確立された武断政治と士農工商という厳格な身分制度の実態を考察しこれらの支配体制がいかにして完成していったのかを総括します。
- 関ヶ原の戦いと徳川家康の覇権確立: 天下分け目の決戦がどのようにして決着し家康が新たな支配者となったのかを見る。
- 江戸幕府の成立: 家康が征夷大将軍に就任し江戸に新たな武家政権を樹立した意義を探る。
- 大坂の陣と豊臣氏の滅亡: 徳川氏が最後のライバルである豊臣家をいかにして滅ぼし戦国の世を完全に終わらせたかを分析する。
- 幕藩体制の構造: 幕府と藩が並立する江戸時代独特の統治システム「幕藩体制」の仕組みを解明する。
- 武家諸法度と大名の統制: 幕府が大名たちを厳しくコントロールするために用いた法律の内容とその狙いを考察する。
- 禁中並公家諸法度と朝廷の統制: 幕府が天皇と公家を政治の舞台からいかにして排除したかを見る。
- 徳川家光と武断政治: 三代将軍・家光の時代に幕府の支配がいかにして絶対的なものとなったかを探る。
- 参勤交代制度の確立: 大名支配の切り札となった参勤交代という巧みな制度の仕組みとその影響を分析する。
- 士農工商の身分制度: 江戸時代の社会秩序の根幹をなした厳格な身分制度の実態を解明する。
- 幕府による全国支配の完成: これら一連の政策によって徳川幕府による盤石な全国支配がいかにして完成したかを総括する。
このモジュールを学び終える時皆さんは戦国という混沌の時代が終わりを告げ近世という安定した社会がいかにして設計され構築されていったのかその壮大な国家建設のプロセスを深く理解することになるでしょう。
1. 関ヶ原の戦いと徳川家康の覇権確立
豊臣秀吉の死後彼が遺した統治システムは急速に崩壊し天下の覇権は五大老筆頭の徳川家康と五奉行筆頭の石田三成という二人の実力者の間で争われることになりました。そして1600年(慶長5年)9月15日両者は美濃国関ヶ原(現在の岐阜県不破郡関ケ原町)で激突します。この「関ヶ原の戦い」は日本史上最大規模の野戦でありその勝敗は単に一つの合戦の雌雄を決するだけでなくその後の日本の歴史の進路を決定づける文字通りの天下分け目の決戦でした。本章ではこの関ヶ原の戦いの実態とその後の家康による巧みな戦後処理を探ります。
1.1. 両軍の対峙
豊臣政権の主導権をめぐる対立は徳川家康を総大将とする東軍と石田三成を中心とする西軍の対決という形で頂点に達しました。
- 東軍:徳川家康を総大将とし福島正則黒田長政細川忠興といった豊臣恩顧の武断派の大名の多くが味方しました。彼らは石田三成に対する個人的な反感が強く家康を支持しました。兵力は約7万4千。
- 西軍:毛利輝元を名目上の総大将とし石田三成が実質的な指揮を執りました。宇喜多秀家小西行長島津義弘といった西国の大名が多く参加しました。兵力は約8万2千。
兵力では西軍がやや優勢でした。西軍は関ヶ原の西側に陣を敷き東から進軍してくる家康の本隊を鶴翼の陣で包み込むような有利な地形で待ち構えていました。
1.2. 戦いの経過と小早川秀秋の裏切り
決戦の火蓋は9月15日の早朝濃い霧の中で切られました。当初戦いは西軍優勢で進みます。石田三成や宇喜多秀家の軍勢が奮戦し東軍を押し込みました。
しかし西軍には一つの大きな不安要素がありました。それは松尾山に陣取っていた**小早川秀秋(こばやかわひであき)**の存在です。彼は豊臣秀吉の甥にあたる有力大名でしたが石田三成との関係が悪くかねてより家康から寝返りの誘いを受けていました。
戦いが中盤に差し掛かり両軍が激しくぶつかり合う中家康は動向の不明な小早川軍に対して威嚇射撃を命じます。これに驚いた小早川秀秋はついに決断。彼は寝返って西軍の大谷吉継(おおたによしつぐ)の陣に側面から襲いかかりました。
この小早川秀秋の裏切りが戦いの流れを決定づけました。味方からの突然の攻撃に西軍は総崩れとなります。これをきっかけに脇坂安治(わきざかやすはる)ら他の西軍の諸将も次々と東軍に寝返りました。
西軍は完全に崩壊し石田三成や小西行長らは敗走。後に捕らえられて京都で処刑されました。島津義弘は敵中突破でかろうじて薩摩への撤退に成功します。関ヶ原の戦いは開戦からわずか半日で東軍の圧勝に終わったのです。
1.3. 巧みな戦後処理(論功行賞)
関ヶ原の戦いの後徳川家康の真の恐ろしさはその巧みな戦後処理(論功行賞、ろんこうこうしょう)において発揮されました。彼はこの勝利を最大限に利用し徳川氏による盤石な支配体制を築き上げるための大規模な「領地の再配分」を断行します。
- 西軍大名への厳しい処分:西軍に味方した大名に対しては容赦ない処分が下されました。
- 改易(かいえき): 石田三成宇喜多秀家小西行長といった首謀者格の大名は領地を完全に没収されました。
- 減封(げんぽう): 総大将であった毛利輝元は120万石から37万石へ上杉景勝は120万石から30万石へと領地を大幅に削減されました。
- 東軍大名への寛大な恩賞:一方東軍に味方した大名には没収した西軍大名の領地が恩賞として惜しみなく与えられました。福島正則や黒田長政といった豊臣恩顧の大名も大幅な加増を受けました。
- 徳川家の勢力拡大:この領地再配分によって没収された領地の多くは徳川家の直轄地や徳川一門の大名(親藩)譜代の大名に与えられました。その結果全国の総石高約1800万石のうち徳川家とその家臣団が支配する土地は700万石以上に達しました。これは他の全ての大名を合わせた石高を上回る圧倒的なものでした。
この戦後処理によって全国の大名の配置は徳川氏にとって極めて有利な形に再編成されました。豊臣恩顧の大名の多くは西国に封じられ江戸を中心とする日本の枢要な地域は徳川一門と譜代大名で固められたのです。
関ヶ原の戦いは単なる軍事的な勝利ではありませんでした。それは徳川家康がその卓越した政治力によって日本の支配構造を根本から作り変え徳川の世の礎を築いた歴史的な大事業だったのです。
2. 江戸幕府の成立
関ヶ原の戦いに勝利し事実上の天下人となった徳川家康。彼の次なる目標は自らが築き上げた支配体制を個人的な権力ではなく永続的な制度として確立することでした。そのための最も重要なステップが1603年の征夷大将軍への就任と江戸における幕府の開設でした。これにより鎌倉・室町に続く第三の武家政権「江戸幕府」が正式に誕生します。本章では家康がなぜ江戸を本拠地として選んだのかそして将軍職をわずか2年で息子に譲った真の狙いとは何か江戸幕府成立の意義を探ります。
2.1. 1603年、征夷大将軍就任
関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼は依然として大坂城にあり形式的には日本の支配者でした。しかし政治の実権は完全に徳川家康の手にありました。
1603年(慶長8年)家康は朝廷に対して征夷大将軍の地位を要求しこれに任命されます。この任命には二つの重要な意味がありました。
- 武家の棟梁としての正統性の確立:征夷大将軍は源頼朝以来武家の棟梁の象徴的な地位でした。この職に就くことで家康は自らが頼朝の正統な後継者であり全国の武士を支配する権利を持つことを内外に宣言しました。
- 豊臣政権からの分離:秀吉は関白として朝廷の権威のもとに天下を支配しました。これに対し家康はあえて武家政権の伝統である「幕府」という形式を選びました。これは豊臣秀頼を頂点とする公家的な政権から距離を置き徳川氏を頂点とする全く新しい武家政権を創設するという明確な意志の表れでした。
この1603年の征夷大将軍就任をもって「江戸幕府」が正式に成立したとされています。
2.2. なぜ江戸だったのか
家康は自らの政権の本拠地として京都や大坂ではなく関東の江戸を選びました。この選択には彼の深い戦略的思考が反映されています。
- 政治的意図:鎌倉幕府の源頼朝と同様に家康は天皇や公家たちがいる京都の古い権威から物理的に距離を置くことを望みました。政治の中心を自らの本拠地である関東に置くことで朝廷の影響力を排除し武家による独自の政治を徹底しようとしたのです。
- 経済的・地理的利点:江戸は広大な関東平野の中心に位置し農業生産力に優れていました。また利根川などの河川や江戸湾を利用した水運の便も良く経済的な発展の大きな可能性を秘めていました。
- 防御上の利点:江戸は箱根の山々によって西からの攻撃を防ぎやすい地形でした。
秀吉から江戸を与えられた当初そこは寂れた漁村に過ぎませんでした。しかし家康は大規模な土木事業を行い城を築き町を整備し江戸を新たな政治の中心地へと変貌させていったのです。
2.3. 将軍職の世襲:二代将軍・秀忠への継承
征夷大将軍に就任した家康ですが驚くべきことにわずか2年後の1605年にはその将軍職を息子の**徳川秀忠(ひでただ)**に譲ってしまいます。
そして自らは駿府(すんぷ、現在の静岡市)に隠居し**大御所(おおごしょ)**として政治の実権を握り続けました。なぜ家康はこれほど早く将軍職を譲ったのでしょうか。
その最大の狙いは**「征夷大将軍の地位は徳川家が世襲するものである」という事実を天下に示す**ことでした。
戦国の世では実力者が天下を支配するのが常でした。家康は自らが生きているうちに将軍職の継承を円滑に行うことで徳川政権が家康個人の力に依存した一代限りのものではなく永続的な制度であることを内外に誇示したのです。
この家康の思惑通り秀忠への将軍職の継承は問題なく行われました。これにより諸大名は徳川氏による世襲支配の現実を受け入れざるを得なくなりました。
2.4. 大御所政治
駿府に隠居した家康ですがその政治的影響力は全く衰えませんでした。江戸の二代将軍・秀忠が幕府の日常的な政務を行う一方大坂の豊臣氏への対応や外交問題といった国家の重要案件は依然として駿府の大御所・家康が決定権を握っていました。
この江戸の「将軍」と駿府の「大御所」による二元的な統治体制を「大御所政治」と呼びます。
この体制の下で家康は最後の仕上げに取り掛かります。それは徳川氏の支配を脅かす唯一の潜在的な脅威である豊臣家の完全な滅亡でした。
江戸幕府の成立は単に新しい政権が誕生したというだけではありません。それは徳川家康という稀代の政治家が戦国の乱世を終わらせ徳川家による260年以上の長期的な平和の時代を築くための周到な布石だったのです。
3. 大坂の陣と豊臣氏の滅亡
1603年に江戸幕府を開き将軍職を息子の秀忠に譲った後も大御所として実権を握り続けた徳川家康。彼の天下は盤石に見えました。しかしその支配を完全なものにするためにはまだ最後にして最大の障害が残っていました。それは大坂城に拠点を置きなおも大きな影響力を持つ豊臣秀頼の存在です。秀頼は豊臣恩顧の大名たちにとって依然として主君であり反徳川勢力の象徴となりうる危険な存在でした。家康はこの豊臣家を完全に滅ぼすことで戦国の世に終止符を打ち徳川による盤石な支配体制を確立しようとします。そしてその最終戦争が1614年から1615年にかけて行われた「大坂の陣(おおさかのじん)」でした。
3.1. 豊臣家の存在という脅威
関ヶ原の戦いの後豊臣秀頼は摂津・河内・和泉の約65万石の一大名としてその存続を許されていました。しかしその存在は家康にとって常に目の上のたんこぶでした。
- 潜在的な反徳川の核:関ヶ原で敗れた西軍の大名や改易された武士(浪人)たちは秀頼を旗頭として徳川氏に復讐する機会を窺っていました。大坂城には全国から数万の浪人たちが集結し一大軍事拠点となっていました。
- 莫大な財力:秀吉が遺した莫大な金銀が豊臣家には残されておりその財力は幕府にとっても脅威でした。
- 権威の正統性:秀頼は依然として多くの人々にとって天下人・秀吉の正統な後継者でした。徳川氏が豊臣家から政権を「篡奪した」という見方も根強くありました。
家康は豊臣家が徳川幕府に従順な一大名として存続する限り徳川の天下は安泰ではないと考えていました。
3.2. 戦争の口実:方広寺鐘銘事件
家康は豊臣家を滅ぼすための口実(大義名分)を探していました。その絶好の機会となったのが1614年の「方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)」です。
豊臣家は京都の方広寺の再建を進めていました。その一環として鋳造された巨大な梵鐘の銘文に家康は意図的にいちゃもんをつけます。
問題とされたのは「国家安康 君臣豊楽」という銘文でした。
- 家康への呪詛:幕府の儒学者・林羅山らは「国家安康」の句は「家康」の名を分断しその身を呪うものであると主張しました。
- 豊臣家の繁栄の祈願:「君臣豊楽」の句は豊臣家の繁栄を祈るものであり徳川をないがしろにするものだと非難しました。
これは明らかに言いがかりでしたが豊臣家は弁明の機会も与えられず「家康への呪詛」という大罪を着せられてしまいます。家康はこれを口実に豊臣家に対して大坂城からの退去かあるいは母である淀殿を人質として江戸に送るかの選択を迫りました。豊臣家がこれを拒否したためついに両者は開戦に至ります。
3.3. 大坂冬の陣(1614年)
1614年11月家康は20万の大軍を率いて大坂城を包囲しました。これが「大坂冬の陣」です。
大坂城には真田幸村(信繁)や後藤又兵衛といった歴戦の勇将に率いられた約10万の浪人たちが立てこもっていました。大坂城は秀吉が築いた天下の名城でありその防御は極めて堅固でした。
幕府軍は力攻めを仕掛けますが城の守りは固く大きな損害を出します。攻めあぐねた家康は戦術を大砲による心理戦に切り替えました。城内に向けて無差別に大砲を撃ち込み天守閣にも着弾させ淀殿らを恐怖に陥れます。
そして家康は和議を提案しました。その条件は「城の外堀を埋めること」でした。疲弊していた豊臣方はこれを受け入れ和議が成立します。
しかしこれは家康の罠でした。幕府軍は和議の条件であった外堀だけでなく約束を破って二の丸や三の丸の堀までをも埋め立ててしまいました。これにより大坂城はその防御機能を完全に失い裸の城となってしまったのです。
3.4. 大坂夏の陣と豊臣家の滅亡(1615年)
堀を埋められ裸城にされた豊臣家に対して家康はさらなる挑発として大坂城からの退去を要求します。豊臣家がこれを拒否すると家康は和議を破棄。1615年5月再び大軍を率いて大坂城に攻め寄せました。これが「大坂夏の陣」です。
もはや籠城は不可能と判断した豊臣方の武将たちは城から打って出て野戦で決着をつけようとします。道明寺の戦いや天王寺・岡山の戦いでは真田幸村らが鬼神のごとき奮戦を見せ家康の本陣にまで迫るなど幕府軍を大いに苦しめました。
しかし圧倒的な兵力差の前についに豊臣方は力尽きます。5月8日大坂城は炎上し豊臣秀頼と母の淀殿は城中で自害しました。秀頼の幼い息子も捕らえられ処刑され豊臣家の血筋は完全に断絶しました。
3.5. 元和偃武(げんなえんぶ)
大坂の陣の終結をもって室町幕府の足利義昭が追放されてから42年間続いた戦乱の時代は名実ともに終わりを告げました。戦いが終わった直後の1615年7月朝廷は元号を「慶長」から「元和(げんな)」へと改めます。
そして幕府は「これより後世は天下泰平である」と宣言しました。この大坂の陣による戦乱の終結を「元和偃武(げんなえんぶ)」と呼びます。「偃武」とは武器を伏せて収めるという意味です。
この元和偃武をもって応仁の乱から約150年間続いた「戦国時代」は完全に終わりを告げました。徳川家康は最後の敵を滅ぼし日本に長期的な平和をもたらすための全ての障害を取り除いたのです。そしてここから徳川幕府による250年以上にわたる安定した統治の時代が始まります。
4. 幕藩体制の構造
大坂の陣で豊臣家を滅ぼし名実ともに日本の唯一の支配者となった徳川幕府。その次なる課題は二度と戦乱の世に戻らないための永続的な統治システムを構築することでした。こうして確立されたのが江戸時代約260年間の日本の統治の根幹をなした「幕藩体制(ばくはんたいせい)」です。これは江戸の幕府が全国を統一的に支配する一方で各地の大名にはその領地(藩)における一定の自治を認めるという二重の支配構造を特徴とする極めて日本的な封建制度でした。本章ではこの幕藩体制の複雑な構造を解き明かします。
4.1. 幕藩体制とは何か
「幕藩体制」とは「幕府(ばくふ)」と「藩(はん)」が全国を統治する体制という意味の歴史学上の用語です。
- 幕府(Bakufu):江戸に置かれた徳川将軍家による中央政府のこと。幕府は日本の最高統治機関として全国的な政策(外交・軍事など)を決定し全ての藩(大名)をその支配下に置きました。
- 藩(Han):各大名が支配する領地とその統治機構のこと。藩は幕府の統制下にありながらもその領内においては一定の自治権を持ち独自の法律や税制を持つ半独立的な「国家」のような存在でした。
この幕府と藩の関係は将軍を頂点とする主従関係(封建制度)によって結ばれていました。将軍は藩主である大名の領地所有を保証する(御恩)代わりに大名は将軍に対して軍役などの義務を果たす(奉公)という関係です。
つまり幕藩体制とは幕府という中央政府が藩という地方政府を封建的な主従関係を通じて統制するという二元的で重層的な支配システムだったのです。
4.2. 幕府の支配構造
幕府は全国支配を盤石にするため日本の枢要な地域と富の源泉を直接その管理下に置きました。
- 幕領(ばくりょう、天領):幕府の直轄地のこと。全国の総石高の約4分の1にあたる約700万石に及びました。これには広大な関東平野や東海道沿いの重要な土地が含まれていました。
- 重要な都市と鉱山:江戸、京都、大坂の三都をはじめ長崎や堺といった重要な商業都市も幕府の直轄でした。また佐渡の金山や石見の銀山といった主要な鉱山も幕府が直接経営しその利益を独占しました。
これらの直轄地と都市・鉱山から上がる莫大な収入が幕府の圧倒的な財政基盤となり諸大名を凌駕する力の源泉となりました。幕領の管理は**代官(だいかん)や郡代(ぐんだい)**といった役人が行いました。
4.3. 大名の種類と配置
幕府は大名たちを将軍との親疎(関係の近さ)によって三つの種類に分類し巧みに配置することで謀反を防ぐ仕組みを構築しました。
- 親藩(しんぱん):徳川家康の息子たちを祖とする徳川一門の大名のこと。尾張・紀伊・水戸の**御三家(ごさんけ)**を筆頭とし将軍家に跡継ぎが絶えた際には将軍を出すことができる家柄でした。彼らは江戸の周辺や名古屋、和歌山といった全国の戦略的要衝に配置されました。
- 譜代(ふだい):関ヶ原の戦い以前から徳川家に仕えていた家臣(大名)のこと。井伊氏、酒井氏、本多氏などが代表です。彼らは徳川家への忠誠心が極めて高く幕府の要職である老中(ろうじゅう)や若年寄(わかどしより)、あるいは京都所司代や大坂城代といった重要な役職に就くことができました。彼らの領地も江戸の周辺や東海道沿いなど重要な地域に配置されました。
- 外様(とざま):関ヶ原の戦いの前後から徳川家に臣従した大名のこと。前田氏、島津氏、毛利氏、伊達氏といったかつての有力戦国大名が多く含まれていました。彼らは大きな石高を持っていましたが幕府の政治に参加することは原則として許されず江戸から遠い西国や東北地方に配置されました。
この大名の配置は江戸の周辺を親藩・譜代で固め潜在的な敵となりうる外様大名を遠隔地に置くことで幕府の安全を確保するという巧みな地政学的戦略でした。
4.4. 藩の統治
各大名は自らの領地(藩)において「殿様」として君臨しその統治を行いました。
- 藩政:藩の政治は**家老(かろう)**などの重臣たちによって運営されました。藩は独自の法律(藩法)を持ち独自の軍隊(藩士)を抱え領内の百姓から年貢を徴収しました。その意味で藩は一つの独立した国家のようなものでした。
- 家臣団:大名に仕える武士(藩士)たちは城下町に住み大名から**俸禄(ほうろく)**として米を受け取って生活しました。これも兵農分離の徹底を示しています。
しかし藩の自治権は無制限ではありませんでした。後述する武家諸法度や参勤交代によって大名は常に幕府の厳しい統制下に置かれていたのです。
幕藩体制は中央集権と地方分権の要素を巧みに組み合わせた極めて洗練された統治システムでした。幕府が全国的な支配の「骨格」を定め藩がそれぞれの地域で「血肉」となる統治を行う。この絶妙なバランスこそが江戸時代260年以上の長期的な平和と安定を可能にした最大の要因だったのです。
5. 武家諸法度と大名の統制
江戸幕府は幕藩体制という統治の「器」を創設すると同時にその器の中で大名たちがどのように振る舞うべきかその行動を厳しく規制するための「ルールブック」を制定しました。それが「武家諸法度(ぶけしょはっと)」です。この法度は大名が守るべき義務と禁止事項を具体的に定めたものでありこれに違反した大名は領地没収(改易)などの厳しい罰則を受けました。武家諸法度は江戸時代を通じて数回改訂されながらも幕府が大名たちを統制し徳川の平和を維持するための最も基本的な法律として機能し続けました。本章ではこの武家諸法度の内容とその狙いを探ります。
5.1. 元和令(1615年):最初の武家諸法度
最初の武家諸法度は大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した直後の1615年(元和元年)に二代将軍・徳川秀忠の名で発布されました。これを「元和令(げんなれい)」と呼びます。
この法令の起草にあたったのは家康の側近であった禅僧の崇伝(すうでん)らでした。家康は伏見城に全国の大名を集め彼らの目の前でこの法度を読み上げさせました。これは戦国時代が完全に終わりを告げこれからは幕府が定めた法が大名たちの行動の唯一の規範となることを宣言する象徴的なセレモニーでした。
元和令は全13カ条からなりその内容は戦国時代の気風を戒め大名を幕府の秩序の中に組み込むことに主眼が置かれていました。
5.2. 武家諸法度の主な内容
武家諸法度の内容は歴代将軍によって一部改訂されますがその骨子は一貫していました。
- 第一条「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」:「武士は学問(文)と武芸(武)の両方に専念しなければならない」という条文です。これは武士としての本分を忘れるなという訓戒であると同時に政治的な活動よりも学問や武芸にエネルギーを向けさせるという狙いもありました。
- 城郭の修補の制限:「居城の石垣や堀を修復する際には必ず幕府に届け出ること。新しい城を築くことは固く禁じる」。これは大名が軍事力を強化することを防ぐための極めて重要な規定でした。これと関連して**一国一城令(いっこくいちじょうれい)**も出され大名は自らの居城以外の城を破却することを命じられました。
- 徒党の禁止:「国元で徒党を組んだり幕府の法に背く盟約を結んだりしてはならない」。これは大名同士が結託して幕府に反抗することを防ぐための規定です。
- 私的な婚姻の禁止:「大名同士が幕府の許可なく勝手に婚姻関係を結んではならない」。政略結婚は戦国時代には同盟を結ぶための常套手段でした。これを禁じることで幕府は大名間の自由な同盟形成を阻害しました。
- 参勤交代の義務化(寛永令で追加):後に三代将軍・家光の時代になると「参勤交代(さんきんこうたい)」が武家諸法度の中に明記され全ての大名に義務付けられます。これは大名統制の最も効果的な手段となりました。
5.3. 法律の狙い:大名の無力化
これらの条文が目指したものは明確でした。それは大名が政治的・軍事的な力を持つことをあらゆる側面から防ぎ彼らを幕府の統制下に置かれた一地方官僚へと変質させることでした。
幕府は武家諸法度を厳格に運用しました。特に三代将軍・家光の時代には些細な法令違反や家臣団の統制不足などを理由に多くの大名が容赦なく改易(領地没収)されました。福島正則のような関ヶ原の功臣でさえも城の無断修復を理由に改易されています。
この厳しい処分は他の大名たちに「幕府の法に逆らえばいかに有力な大名であろうと取り潰される」という恐怖を植え付けました。これにより大名たちは幕府に対して絶対的に服従するようになったのです。
武家諸法度は江戸幕府が武断(軍事力)による支配から文治(法による支配)へと移行していくことを象徴するものでした。この法によって大名たちはもはや独立した君主ではなく幕府の定めた秩序の中で生きることを義務付けられた存在となったのです。
6. 禁中並公家諸法度と朝廷の統制
江戸幕府は武家諸法度によって大名たちを厳しく統制する一方もう一つの潜在的な権威である京都の天皇と朝廷(公家)に対してもその行動を厳しく制限する法律を制定しました。それが1615年(元和元年)に武家諸法度とほぼ同時に制定された「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」です。この法律は天皇の役割を学問と儀礼に限定し公家たちの行動を細かく規定することで朝廷が二度と政治の舞台に登場し幕府の権威に挑戦することがないようにするための巧妙な制度的拘束でした。本章ではこの法律の内容とその歴史的意義を探ります。
6.1. 制定の背景
徳川家康は日本の歴史を深く学んでいました。彼は鎌倉幕府が承久の乱で後鳥羽上皇に討幕の兵を挙げられた苦い経験を忘れていませんでした。武家政権にとって朝廷の権威は利用すべき対象であると同時に常に警戒すべき存在でもありました。
家康は朝廷の伝統的な権威そのものを否定するのではなくその権威を尊重し保護する一方でその政治的な権限を完全に剥奪するという巧みな方法を選びました。そのための法的根拠として制定されたのがこの禁中並公家諸法度でした。
この法度は全17カ条からなり大御所・家康二代将軍・秀忠そして元関白の二条昭実の連署という形で発布されました。これは幕府と朝廷の合意のもとに定められたという形式をとっていますがその実態は幕府から朝廷に対する一方的な命令でした。
6.2. 天皇の役割の規定
この法律の第一条は天皇の役割について明確に定義しています。
「第一条 天子諸芸能の事、第一御学問なり。」
(天皇が第一になすべきことは学問である。)
これは極めて重要な条文です。幕府は天皇の最も重要な務めは政治(政務)ではなく学問や和歌、そして伝統的な儀式を執り行うことであると規定したのです。これにより天皇は現実の政治からは完全に切り離され文化的な象徴としての役割に押し込められました。
6.3. 公家の統制
法律の大部分は天皇に仕える公家たちの行動を細かく規制する内容でした。
- 官位の序列の厳守:摂政・関白や大臣といった公家の官位の序列を厳格に定めました。
- 服装の規定:公家が身につけるべき服装についてまで細かく規定しています。
- 行動の制限:公家たちがみだりに京都所司代の許可なく外出することや武家と関係を結ぶことを禁じました。
これらの規定は公家たちを序列の中に閉じ込め彼らが団結して政治的な行動を起こすことを防ぐためのものでした。
6.4. 紫衣事件(1627年)
幕府がこの法律をいかに厳格に運用したかを示す象徴的な事件が三代将軍・家光の時代に起こった「紫衣事件(しえじけん)」です。
「紫衣」とは高僧に与えられる紫色の法衣のことでこれを天皇が僧侶に与える(勅許)ことは朝廷の重要な権威の一つでした。
しかし幕府は禁中並公家諸法度の中で「紫衣の勅許には事前に幕府の許可が必要である」と定めていました。後水尾(ごみずのお)天皇がこの規定を無視して十数人の僧侶に紫衣を与えたところ幕府はこれを無効であると宣言し勅許を取り消してしまいました。
この幕府の強硬な態度は朝廷の権威に対する公然とした侵害でした。これに激しく抗議した高僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)らは流罪に処せられます。そして屈辱を感じた後水尾天皇は幕府に何一つ相談することなく突然譲位してしまうという事態にまで発展しました。
この事件は天皇の意思よりも幕府の法律が上位にあるという事実を天下に示す決定的な出来事でした。これにより朝廷が幕府の決定に逆らうことはもはや不可能であることが誰の目にも明らかになったのです。
6.5. 幕府による朝廷支配の仕組み
幕府は禁中並公家諸法度という法律だけでなく具体的な役職を置くことで朝廷をその監視下に置きました。
- 京都所司代(きょうとしょしだい):幕府が京都に置いた出先機関の長官。朝廷の監視、公家の統制、そして西国大名の監視という絶大な権限を持っていました。
- 武家伝奏(ぶけてんそう):幕府の命令を朝廷に伝え朝廷の要望を幕府に取り次ぐ窓口として公家の中から選ばれた役職。しかしその実態は幕府の意向を朝廷内部に浸透させるための連絡役に過ぎませんでした。
この禁中並公家諸法度と京都所司代の設置によって朝廷は完全に幕府のコントロール下に置かれました。家康は朝廷の権威を滅ぼすのではなくそれを「骨抜き」にし幕府の支配を正当化するための道具として利用するという極めて高度な政治的支配を完成させたのです。
7. 徳川家光と武断政治
江戸幕府の支配体制は初代・家康がその基本構想を作り二代・秀忠がそれを制度として整えました。そしてその支配を絶対的で揺るぎないものとして完成させたのが三代将軍・**徳川家光(いえみつ)**でした。彼の治世は「武断政治(ぶだんせいじ)」と呼ばれ幕府の強大な軍事力を背景に大名や朝廷、そして民衆に対して一切の抵抗を許さない強硬な姿勢で臨んだ時代でした。家光の時代に武家諸法度の改訂による参勤交代の制度化やキリスト教の禁教と鎖国の完成など現在私たちが「江戸時代」としてイメージする社会の仕組みの多くが確立されます。本章ではこの家光の武断政治の実態とその歴史的意義を探ります。
7.1. 「生まれながらの将軍」
徳川家光は二代将軍・秀忠の次男として生まれました。幼少期には弟の忠長(ただなが)の方が両親から寵愛されその立場は不安定でした。しかし乳母である春日局(かすがのつぼね)が大御所・家康に直訴したことなどもあり家光が三代将軍の後継者となることが決定します。
1623年に将軍職を継いだ家光は自らの権力の正統性について強い自負を持っていました。彼は諸大名に対して「余は生まれながらの将軍である」と言い放ったと伝えられています。
これは極めて重要な宣言でした。初代・家康は自らの実力で天下を取りましたがその権威の一部は朝廷からの任命に依存していました。しかし家光は「自分の将軍としての権威は朝廷から与えられたものではなく徳川家という血筋に生まれたこと自体に由来するのだ」と宣言したのです。これは将軍の権威が天皇の権威から独立したものであることを主張するものであり徳川幕府の支配の絶対性を示すものでした。
7.2. 武断政治の展開
この強い自己意識を背景に家光は幕府の権威に少しでも逆らう者に対しては容赦ない態度で臨む「武断政治」を展開しました。
- 大名の改易・減封:家光は武家諸法度の些細な違反や跡継ぎがいないこと(末期養子の禁止)などを理由に多くの大名の領地を容赦なく没収(改易)しました。特に弟でありライバルであった徳川忠長や加藤清正の子・忠広といった有力大名さえも改易の対象となりました。これにより大名たちは幕府への恐怖を植え付けられ完全に服従するようになります。一方で改易によって主君を失った数多くの武士が「浪人(ろうにん)」となり社会の不安定要因となるという負の側面も生み出しました。
- 幕府機構の整備:家光は幕政を安定させるため老中(ろうじゅう)や若年寄(わかどしより)、そして大目付(おおめつけ)や勘定奉行・寺社奉行・町奉行の**三奉行(さんぶぎょう)**といった幕府の主要な役職を制度として確立しました。これにより幕府の行政システムはより機能的なものとなりました。
7.3. 島原・天草一揆と鎖国の完成
家光の武断政治が直面した最大の危機が1637年に起こった「島原・天草一揆(しまばら・あまくさいっき)」でした。
これは肥前国島原(長崎県)と肥後国天草(熊本県)で起こった大規模な一揆です。その原因は領主による過酷な年貢の取り立てと厳しいキリスト教の弾圧でした。**天草四郎(あまくさしろう)**を総大将としてキリスト教の信仰で結びついた約3万7千人の農民たちが蜂起し原城(はらじょう)に立てこもりました。
幕府は12万を超える大軍を派遣しますが巧みな籠城戦の前に苦戦を強いられます。最終的に兵糧攻めとオランダ船からの砲撃の助けを借りて一揆を鎮圧。立てこもった農民たちは一人残らず虐殺されました。
この一揆は幕府に大きな衝撃を与えました。幕府は一揆の根本原因がキリスト教にあると考えキリスト教の禁教を国家の根幹政策として徹底させることを決意します。
これが「鎖国(さこく)」体制の完成へと繋がっていきます。
- 1639年:ポルトガル船の来航を禁止。
- 全国の寺院に**宗門改帳(しゅうもんあらためちょう)**の作成を命じ全ての民衆が仏教のいずれかの宗派の檀家であることを強制する(寺請制度、てらうけせいど)。これによりキリシタンの根絶を図りました。
この後日本の対外的な窓口は長崎の出島におけるオランダと中国(清)との貿易そして対馬藩を介した朝鮮、薩摩藩を介した琉球、松前藩を介したアイヌとの交流(四つの口)に限定されることになります。
7.4. 家光の治世の歴史的意義
徳川家光の治世は徳川幕府の支配体制が完成した時代として極めて重要な意味を持ちます。
- 幕藩体制の確立:参勤交代の制度化や大名の厳しい統制によって幕府の優位性は絶対的なものとなりました。
- 鎖国体制の完成:キリスト教の禁教と貿易の管理・制限によって幕府は国内の安定を優先する体制を築き上げました。
- 「天下泰平」の実現:家光の強力なリーダーシップによって戦国の遺風は一掃され日本はその後200年以上にわたる長期的な平和の時代「天下泰平」を迎えることになります。
家光の武断政治は強権的で非情な側面も持っていました。しかし彼の時代に築かれた盤石な支配体制こそがその後の江戸時代の安定と文化の爛熟を可能にした土台であったこともまた事実なのです。
8. 参勤交代制度の確立
江戸幕府が大名たちを統制するために用いた様々な政策の中で最も巧妙で最も効果的であったのが「参勤交代(さんきんこうたい)」の制度でした。これは全国の大名に対して定期的に江戸と自らの領国(藩)を往復することを義務付けたものです。一見すると単なる出勤制度のようにも見えますがその本質は幕府が大名の力を削ぎ徳川家への絶対的な服従を誓わせるための極めて洗練された政治的・経済的な支配のメカニズムでした。本章ではこの参勤交代がどのようにして確立されどのような仕組みで運営されそして大名や日本社会にどのような影響を与えたのかを解き明かします。
8.1. 制度の確立
大名が江戸に参勤し将軍に奉公するという慣行は江戸幕府の初期から存在していました。しかしそれが全ての大名に対する厳格な制度として確立されたのは三代将軍・徳川家光の時代でした。
1635年(寛永12年)家光は武家諸法度を改訂しその中に参勤交代の義務を明確に規定しました。
「大名小名在江戸交替相定むる所なり。毎歳夏四月中、参勤致すべき事。」
(大名・小名は江戸に交代で勤務することが定められている。毎年4月中に参勤すべきである。)
この改訂によって参勤交代は全ての大名(一部免除された大名もいる)が守らなければならない法的な義務となったのです。
8.2. 参勤交代の仕組み
参勤交代の具体的なルールは以下の通りでした。
- 交代制:全国の大名は原則として1年おきに江戸と国元を行き来しました。1年間は江戸の藩邸に住んで幕府の公務に就き(参勤)次の1年間は自らの領国に帰って藩の政治を執る(交代)というサイクルです。ただし関東の大名は半年に一度、遠国の大名は二年に一度など例外もありました。
- 妻子之人質:大名の正室(せいしつ)と世継ぎ(跡継ぎの息子)は常に江戸の藩邸に住むことを義務付けられました。彼らは事実上の人質であり大名が幕府に謀反を起こさないようにするための強力な担保でした。もし大名が謀反を企てれば江戸にいる妻子は処罰されることになっていました。
- 大名行列:大名が江戸と国元を往復する際にはその家格に応じた大規模な行列(大名行列)を組まなければなりませんでした。「下にー、下にー」の掛け声で知られるこの行列は単なる移動ではなく大名の権威と格式を沿道の人々に見せつけるための重要な政治的パフォーマンスでした。
8.3. 制度の狙い:大名の無力化
この一見すると非効率にも思える制度には幕府の巧妙な狙いが隠されていました。
- 経済力の削剥:参勤交代の最大の目的は大名の財政を圧迫しその経済力を削ぐことでした。
- 莫大な旅費: 大名行列には数百人から時には数千人もの家臣が付き従いました。その往復にかかる旅費や宿泊費は莫大なものでした。
- 二重の生活費: 大名は国元と江戸の両方に巨大な屋敷(藩邸)を維持する必要がありその維持費も大きな負担でした。藩の財政支出の半分以上がこの参勤交代関連の費用で占められることも珍しくありませんでした。これにより大名は軍備を増強したり城を修築したりするための経済的な余力を奪われ幕府に反抗することが困難になりました。
- 謀反の防止:妻子を江戸に人質として取られている以上大名は幕府に逆らうことができませんでした。また1年おきに領国を留守にしなければならないため地元で謀反の準備をすることも困難でした。
- 幕府への服従儀礼:定期的に江戸に参勤し将軍に拝謁することは大名が将軍の家臣であることを再確認する重要な服従儀礼でした。
8.4. 参勤交代がもたらした副次的効果
参勤交代は大名統制という本来の目的以外にも江戸時代の日本社会にいくつかの予期せぬ大きな影響を与えました。
- 全国的な交通網の整備:大名行列が安全かつ円滑に移動できるよう幕府は**五街道(ごかいどう)をはじめとする全国の主要な道路網を整備しました。また街道沿いには宿場町(しゅくばまち)**が発達し人々の往来が活発になりました。
- 経済の活性化:大名行列が各地の宿場町に立ち寄ることでそこで莫大な消費が生まれました。これにより全国的な規模での商品経済が大きく発展しました。大名たちは参勤交代の費用を捻出するため領国の特産物の生産を奨励しそれを大坂などの市場で販売する必要にも迫られました。
- 文化の全国的な伝播:大名と共に江戸にやってきた家臣たちは江戸の洗練された文化や情報を国元に持ち帰りました。これにより江戸を中心とする文化が全国の津々浦々にまで広まり日本全体の文化的な一体性が高まりました。
参勤交代は幕府にとっては大名を統制するための完璧に近いシステムでした。そしてそれは大名たちの財政を圧迫するという負の側面を持ちながらも結果として日本の経済と文化の発展に大きく貢献するという二つの顔を持った極めて重要な制度だったのです。
9. 士農工商の身分制度
江戸幕府は長期的な社会の安定を維持するため人々を「士(し)・農(のう)・工(こう)・商(しょう)」という四つの主要な身分に分けその身分を世襲で固定化するという厳格な社会制度を確立しました。この士農工商の身分制度は豊臣秀吉の兵農分離政策をさらに徹底させたものであり人々の職業や居住地服装に至るまでを厳しく規定し社会の流動性をなくすことで支配体制を盤石にすることを目的としていました。本章ではこの江戸時代の社会秩序の根幹をなした身分制度の実態とその特徴を探ります。
9.1. 身分制度の目的
幕府が士農工商という厳格な身分制度を確立した目的は明確でした。それは社会の秩序を固定化し安定させることです。戦国時代のような下剋上が二度と起こらないようにするため人々をそれぞれの身分と役割に縛り付け相互の移動を禁じることで社会全体の変動を防ごうとしたのです。
この思想の背景には儒教特に朱子学の影響がありました。朱子学は君臣・父子といった上下関係の秩序(大義名分論)を重んじる思想であり幕府はこの思想を支配の正当化のために積極的に利用しました。
9.2. 四つの身分:士・農・工・商
江戸時代の主要な身分は以下の四つに区分されていました。
- 士(し) – 武士:支配階級であり人口の約7%を占めていました。彼らは名字を名乗り刀を二本差すこと(苗字帯刀、みょうじたいとう)を特権とされていました。また「切捨御免(きりすてごめん)」といって無礼を働いた百姓や町人を斬り殺しても処罰されないという特権も持っていました。彼らは城下町に住み農業などの生産活動には従事せず大名から俸禄(米)を受け取って生活する専門の軍人・官僚でした。
- 農(のう) – 百姓:人口の約85%を占める被支配階級の根幹でした。彼らは国家の経済を支える米を生産する最も重要な階級と位置づけられていました(農は国の本なり)。しかしその地位は武士の下であり年貢の納入という重い義務を負っていました。彼らは検地帳に登録され土地を自由に離れること(村替)を禁じられていました。また贅沢を禁じられ質素な生活を強いられました。
- 工(こう) – 職人:道具や工芸品などを製作する職人たちのことです。彼らも城下町に住み生産活動を担う重要な階級と見なされていました。
- 商(しょう) – 商人:商品を売買する商人たちのことです。儒教的な価値観では自らは何も生産せず利潤を追求する商人は最も卑しい身分とされていました。しかし江戸時代を通じて商品経済が発展するにつれて彼らは莫大な富を蓄積し武士の経済を支配するほどの力を持つようになります。
この士農工商の序列は必ずしも絶対的なものではありませんでした。例えば貧しい下級武士よりも裕福な商人の方が遥かに良い生活をしているという現実もありました。しかし原則として身分は世襲であり異なる身分間の結婚は禁じられるなど厳格な区別がなされていました。
9.3. その他の身分
この四つの主要な身分の枠外にも様々な人々が存在しました。
- 天皇・公家:京都に住み政治的な実権は持たないものの伝統的な権威を持つ特別な存在として武家とは区別されていました。
- 僧侶・神職:寺社に属し仏事や祭祀を司る人々。彼らもまた武士や百姓とは異なる身分にありました。
- えた・ひにん:士農工商のさらに下に置かれた被差別部落の人々です。
- えた(穢多): 死んだ牛馬の処理や皮革の加工といった特定の職業に世襲的に従事させられた人々。「穢れが多い」とされ居住地や服装結婚に至るまで厳しい差別を受けました。
- ひにん(非人): 犯罪者の処刑や物乞い芸能などを行う人々。えたとは異なり一部は通常の身分に戻ることも可能でした。
これらの人々は社会の最も低い場所に置かれ非人間的な差別と抑圧の中で生活することを強いられました。この差別構造は江戸幕府が社会秩序を維持するために作り出した負の遺産でありその影響は現代に至るまで根深い問題として残っています。
9.4. 身分制度の歴史的意義
士農工商の身分制度は江戸時代の日本の社会に大きな影響を与えました。
- 社会の安定化:身分を固定化し人々の役割を定めることで社会は極めて安定しました。これは260年以上にわたる長期的な平和の大きな要因となりました。
- 文化の発展:それぞれの身分が自らの役割に専念したことで武士の文化(武士道など)や町人の文化(元禄文化・化政文化)といったそれぞれの階層独自の文化が爛熟する土壌が生まれました。
- 社会の停滞:一方で身分が固定化され自由な移動が禁じられたことは社会の活力を奪い硬直化させる原因ともなりました。幕末になるとこの厳格な身分制度は新しい時代に対応できなくなり社会変革の大きな障害となっていきます。
江戸幕府が築いた身分制度は安定という名の秩序を社会にもたらしましたがそれは同時に自由と平等を犠牲にすることで成り立っていたのです。
10. 幕府による全国支配の完成
徳川家康が江戸幕府を開いてから三代将軍・家光の治世が終わるまでの約50年間。この半世紀は徳川氏が戦国時代の勝者から日本の恒久的な支配者へとその地位を確立していく過程でした。家康がその基本構想を描き秀忠が制度を整えそして家光がその権力を絶対的なものとする。この三代にわたるリレーによって幕府による全国支配のシステムは盤石なものとして完成しました。本章ではこれまでに見てきた様々な政策がどのように組み合わさり徳川の平和「天下泰平」を支える巨大な統治システムを創り上げたのかを総括します。
10.1. 軍事的支配の確立
全ての支配の根源は軍事力にありました。幕府は二段階のプロセスを経てその軍事的優位性を絶対的なものとしました。
- 関ヶ原の戦いと大坂の陣:この二つの大きな戦いによって徳川氏は敵対する可能性のある全ての有力大名を武力で屈服させました。豊臣家の滅亡(元和偃武)は戦国時代が完全に終わりを告げたことを象徴する出来事でした。
- 大名の配置転換と改易:戦後処理において幕府は全国の大名の配置を徳川氏に有利なように再編しました。江戸周辺を親藩・譜代で固め外様大名を遠隔地に置くことで軍事的な反乱のリスクを最小限に抑えました。さらに家光の時代には些細な理由で多くの大名を改易し幕府に逆らうことの恐怖を植え付けました。
10.2. 政治的・法的支配の確立
軍事的な優位性を背景に幕府は大名や朝廷を法的に支配下に置くシステムを構築しました。
- 武家諸法度:この法律によって大名たちの行動は厳しく制限されました。城の修築や婚姻の禁止は彼らが軍事力や政治的な同盟を形成することを防ぎました。
- 禁中並公家諸法度:この法律によって天皇と朝廷は政治から完全に切り離され文化的な象徴としての役割に押し込められました。紫衣事件は天皇の意思よりも幕府の法が上位にあることを明確に示しました。
10.3. 経済的支配の確立
幕府は大名たちの経済力を削ぎ自らの財政基盤を強化するための巧妙なシステムを創り上げました。
- 幕領の確保:全国の最も豊かで重要な土地を直轄地(幕領)とすることで幕府は他の全ての大名を圧倒する財政基盤を確保しました。
- 参勤交代:この制度は莫大な出費を大名に強いることでその経済力を計画的に削剥する最も効果的な手段でした。大名たちは常に財政難に苦しみ幕府に反抗する経済的余力を失いました。
10.4. 社会的・思想的支配の確立
幕府の支配は人々の社会構造と思想にまで及びました。
- 士農工商の身分制度:身分を固定化し人々の役割を定めることで社会の流動性をなくし支配体制を安定させました。刀狩と兵農分離の徹底により武士階級が武力を独占する体制が完成しました。
- 鎖国とキリスト教の禁教:島原・天草一揆をきっかけに完成した鎖国体制は海外からの思想的な影響(特にキリスト教)を排除し幕府の支配を揺るがしかねない外部要因を遮断しました。また寺請制度によって民衆を仏教組織の管理下に置きました。
- 朱子学の奨励:幕府は上下の身分秩序を重んじる朱子学を正統な学問(官学)として奨励しその思想を武士の支配の正当化のために利用しました。
10.5. 完成された支配システム
このように徳川幕府は軍事的・政治的・経済的・社会的・思想的というあらゆる側面から緻密で重層的な支配の網を日本全土に張り巡らせました。
- 幕府は幕藩体制を通じて全国を支配し
- 武家諸法度と参勤交代で大名を統制し
- 禁中並公家諸法度で朝廷を無力化し
- 士農工商の身分制で民衆を固定化し
- 鎖国で海外からの脅威を遮断したのです。
この家光の時代までに完成した支配システムは極めて強力でありその後の日本に200年以上にわたる未曾有の平和と安定をもたらしました。戦国時代の混沌を知る人々にとってそれはまさに理想的な時代の到来であったかもしれません。しかしこの安定は厳格な統制と自由の制限の上に成り立っていました。そしてこの盤石に見えたシステムもやがて時代の変化とともにその内部から綻びを見せ始めることになるのです。
## Module 11:江戸幕府の成立と幕藩体制の総括:恒久平和へのシステム設計
本モジュールでは関ヶ原の決戦から三代将軍・家光の治世に至る江戸幕府の草創期を追った。我々は徳川家康が軍事的勝利に満足せずその後の巧みな戦後処理と制度設計によっていかにして徳川による恒久的な支配の礎を築いたかを見た。大坂の陣による豊臣氏の滅亡は戦国の世の完全な終焉を告げ幕藩体制という新たな統治の枠組みが日本を覆った。幕府は武家諸法度や参勤交代によって大名の力を削ぎ禁中並公家諸法度で朝廷を政治から切り離し士農工商の身分制で社会を固定化するという重層的な支配システムを完成させた。家光の武断政治と鎖国体制の確立は二度と戦乱を起こさせないという強い意志の表れであった。この約半世紀はまさに徳川による「天下泰平」という壮大な社会実験のための緻密なシステム設計の時代でありその後の日本のあり方を決定づける画期であった。