【基礎 日本史(通史)】Module 16:自由民権運動と憲法制定

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは明治新政府が廃藩置県や地租改正といった急進的な改革を断行し近代的な中央集権国家の基礎を築き上げた様を見ました。しかしこの「上からの革命」を主導したのは薩摩・長州を中心とする旧藩の出身者たちによる寡占的な政府(藩閥政府)でした。五箇条の御誓文で「広く会議を興し万機公論に決すべし」と約束されたにもかかわらず国民が政治に参加する道は閉ざされていました。本モジュールではこの藩閥政府の専制に反対し国会の開設と憲法の制定を求めて起こった日本で最初の本格的な政党政治運動「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」の軌跡を追います。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず明治政府の最初の大きな分裂となった征韓論をめぐる政変とそれに続く士族の反乱の最大のものである西南戦争を見ます。次に武力による抵抗の道が絶たれた後板垣退助らがいかにして言論による抵抗「自由民権運動」を開始したのかを探ります。運動が高まりを見せる中で政府がどのような弾圧と懐柔でこれに対応したのかそして松方財政が農村に与えた影響とそれが引き起こした秩父事件などの激化事件を分析します。一方で政府内部でも伊藤博文らによって憲法制定の準備が進められやがて大日本帝国憲法が発布される過程を解き明かします。最後に帝国議会の開設と初期議会における政府と民党の対立そして明治政府の悲願であった条約改正の道のりを探ります。

  1. 明治六年の政変と征韓論: 政府部内で起こった最初の深刻な対立「征韓論」の争点とその政治的帰結を探る。
  2. 士族の反乱(西南戦争): 新政府に対する士族の不満が爆発した最大にして最後の内戦「西南戦争」の実態と意義を分析する。
  3. 自由民権運動の始まり: 武力から言論へ。板垣退助らによる国会開設を求める運動がいかにして始まったかを見る。
  4. 国会開設の要求: 自由民権運動が全国の豪農層などを巻き込み国民的な運動へと発展していく様相を追う。
  5. 松方財政: 深刻なインフレを収束させた松方デフレがなぜ農村を疲弊させ民権運動を急進化させたのかを解明する。
  6. 秩父事件: 困窮した農民たちが蜂起した秩父事件に自由民権運動の理想と挫折を見る。
  7. 大日本帝国憲法の制定: 政府が国民の要求に応える形でプロイセンをモデルとした憲法をいかにして作り上げていったかを分析する。
  8. 帝国議会の開設と初期議会: 日本初の議会が開設され政府と民党が激しく対立した初期議会の攻防を探る。
  9. ノルマントン号事件: 不平等条約の不公正さを国民に痛感させた象徴的な事件を考察する。
  10. 条約改正交渉: 幕末以来の国家的な悲願であった不平等条約の改正がいかなる困難の末に達成されたかその道のりを追う。

このモジュールを学び終える時皆さんは今日の日本の議会制民主主義の原型が政府と民衆の間の激しい対立と妥協の中からいかにして生み出されていったのかその苦難に満ちた道のりを深く理解することができるでしょう。


目次

1. 明治六年の政変と征韓論

岩倉使節団が欧米を歴訪し日本の近代化の青写真を描いていた頃国内で政府を預かっていた留守政府の首脳たちの間では国の方針をめぐる深刻な対立が進行していました。その最大の争点となったのが朝鮮半島に対する外交方針「征韓論(せいかんろん)」でした。この問題をめぐる対立は1873年(明治6年)に使節団の帰国をきっかけに頂点に達し政府の分裂という深刻な政治危機「明治六年の政変」を引き起こします。これは明治維新を成し遂げた元勲たちの最初の大きな決裂でありその後の日本の政治の流れを大きく左右する出来事でした。

1.1. 征韓論の台頭

征韓論が政府内で大きな問題となった背景にはいくつかの要因がありました。

  • 朝鮮の開国拒否:明治新政府は江戸幕府に代わる日本の新しい統治機関として対馬藩を通じて朝鮮(李氏朝鮮)に国交の樹立を求めました。しかし朝鮮側は日本の国書がそれまでの形式と異なることなどを理由にこれを受理せず日本の使節を追い返しました。これは新政府にとって国家の威信を傷つけられる屈辱的な出来事でした。
  • 士族の不満:当時政府内では版籍奉還や廃藩置県といった改革が進められており多くの士族(旧武士)がその特権を失い将来への不安と不満を募らせていました。

この状況の中留守政府の中心人物であった参議の**西郷隆盛(さいごうたかもり)板垣退助(いたがきたいすけ)**らは強硬な対朝鮮政策を主張し始めます。

1.2. 西郷隆盛の遣使計画

西郷隆盛は自らが全権大使として朝鮮に赴き交渉を開くことを提案します。彼は「もし交渉が決裂し自分が殺されるようなことがあればそれが朝鮮を攻める大義名分となる」と考えていました。

西郷のこの提案の真の狙いは朝鮮との戦争そのものよりも不平士族たちの鬱屈したエネルギーを対外的な戦争に向けることで国内の不満を解消し彼らに活躍の場を与えることにありました。これは士族という階級の存在意義を守ろうとする西郷の武士としての最後の情でした。

1873年8月西郷のこの遣韓使節派遣は留守政府の閣議で正式に決定されます。

1.3. 岩倉使節団の帰国と対立

しかしその直後の9月岩倉具視や大久保利通木戸孝允といった岩倉使節団の首脳たちが欧米から帰国します。

欧米の圧倒的な国力を目の当たりにしてきた彼らは留守政府が決定した征韓論の方針に衝撃を受けこれに猛反対しました。

  • 大久保・木戸らの主張(内治優先論):彼らの主張は明確でした。「今の日本は欧米列強に比べて国力が圧倒的に劣っている。このような状態で外国と戦争をすれば国が滅びかねない。今は外国との戦争よりも国内の改革(内治)を最優先し国力を充実させることが先決である」と。この「内治優先」こそが彼らが2年近くにわたる欧米視察で得た結論でした。

1.4. 明治六年の政変

こうして政府は西郷・板垣ら征韓派(遣韓派)と大久保・木戸ら内治派の二つに分裂。明治天皇をも巻き込んだ激しい議論が連日繰り広げられました。

最終的に天皇の信任を得た大久保利通ら内治派がこの政争に勝利します。西郷の遣韓使節派遣は無期延期と決定されました。

この決定に敗れた西郷隆盛は参議の職を辞し故郷の鹿児島へと下野します。これに続いて板垣退助後藤象二郎江藤新平副島種臣といった征韓派の参議たちも一斉に辞職してしまいました。

この1873年(明治6年)に起こった政府の大分裂を「明治六年の政変」と呼びます。

この政変は明治政府のその後の方向性を決定づけました。

  • 大久保利通による独裁政権の確立:政敵がいなくなった政府内で大久保利通の権力は絶対的なものとなり彼の強力なリーダーシップのもとで殖産興業政策が強力に推進されていくことになります。
  • 二つの反政府運動の源流:政府を去った人々はそれぞれ異なる形で反政府運動の担い手となっていきます。
    • 西郷隆盛・江藤新平: 不平士族を率いて武力による反乱(士族の反乱)へと向かう。
    • 板垣退助・後藤象二郎: 言論の力で政府に国会開設を要求する「自由民権運動」を開始する。

明治六年の政変は維新を成し遂げた元勲たちの最初のそして決定的な亀裂でした。そしてこの亀裂からその後の日本の近代史を形作る二つの大きな流れが生まれていくのです。


2. 士族の反乱(西南戦争)

明治六年の政変で西郷隆盛らが下野した後大久保利通を中心とする明治政府は急進的な近代化政策を次々と打ち出しました。地租改正徴兵令廃刀令そして秩禄処分。これらの改革は武士階級であった「士族」から経済的特権と精神的プライドを根こそぎ奪い去るものでした。この急激な変化に対応できず没落していった士族たちの不満はついに新政府に対する武力反乱という形で爆発します。その最大にして最後のものが1877年に西郷隆盛を盟主として起こった「西南戦争(せいなんせんそう)」でした。これは日本の歴史における最後の本格的な内戦であり近代的な国民軍が旧来の武士の力を完全に打ち破った象徴的な戦いでした。

2.1. 不平士族の反乱

明治政府の改革によって困窮した士族の不満は全国各地で小規模な反乱として噴出していました。

  • 佐賀の乱(1874年):征韓論政変で下野した江藤新平を盟主として佐賀の不平士族が起こした反乱。政府は迅速に軍隊を派遣しこれを鎮圧。江藤は捕らえられ処刑されました。
  • 神風連の乱(1876年):熊本で廃刀令などに反発した復古的な攘夷思想を持つ士族たちが起こした反乱。
  • 秋月の乱(1876年):福岡で神風連の乱に呼応して起こった反乱。
  • 萩の乱(1876年):長州で吉田松陰の弟子であった前原一誠(まえばらいっせい)らが起こした反乱。

これらの反乱はいずれも政府の近代的な軍隊の前に短期間で鎮圧されました。しかし不平士族たちの不満のマグマは日本最大の士族集団を抱える鹿児島で最後のそして最大の大噴火を迎えようとしていました。

2.2. 西郷隆盛と私学校

政府を去り鹿児島に帰った西郷隆盛は直接政治に関わることなく静かに隠棲生活を送っていました。しかし彼の周りには政府のやり方に不満を持つ多くの不平士族たちが集まってきます。

西郷は彼らの教育のため**私学校(しがっこう)**という学校を設立します。ここでは青少年に対して儒学や洋式の軍事訓練が教えられました。私学校は急速にその規模を拡大し鹿児島県内には多くの分校が作られその組織は県庁をも凌ぐほどの力を持つに至りました。

政府にとってこの鹿児島に存在する西郷を中心とした巨大な士族の自治組織は潜在的な脅威でした。政府は私学校の動向を監視するため密偵を送り込みます。

2.3. 西南戦争の勃発(1877年)

1877年1月政府が鹿児島に保管されていた武器弾薬を大坂へ移そうとしたことをきっかけに事態は急変します。これを政府による弾圧の準備とみた私学校の生徒たちが激昂し政府の火薬庫を襲撃してしまう事件が発生しました。

もはや後戻りはできない。私学校の生徒たちの熱意に押される形でこれまで慎重な姿勢を保っていた西郷隆盛もついに立つことを決意します。「新政大総督・西郷隆盛」を名乗り「政府に問いただす事あり」として1万数千の薩摩士族軍を率いて熊本へと進軍を開始しました。

2.4. 戦いの経過

西郷軍の進撃に対し政府も直ちに討伐軍を派遣。ここに日本最後の内戦である西南戦争の火蓋が切られました。

  • 熊本城の攻防:西郷軍は九州の政府軍の拠点である熊本城を包囲します。しかし政府軍の司令官・谷干城(たにたてき)の巧みな防戦の前に攻めあぐねます。
  • 田原坂の戦い:熊本城の救援に向かう政府軍と西郷軍は熊本北方の田原坂(たばるざか)で激しい攻防戦を繰り広げました。雨の中での白兵戦は凄惨を極めましたが最新の銃と豊富な弾薬を持つ政府軍が最終的にこの戦いを制しました。
  • 政府軍の勝利:物量で圧倒的に勝る政府軍の前に西郷軍は徐々に追い詰められていきます。人吉、都城と敗走を重ね西郷はわずか数百の兵と共に故郷・鹿児島の城山(しろやま)に立てこもりました。

1877年9月24日政府軍は城山に総攻撃を開始。西郷隆盛は銃弾に倒れ「もうここらでよか」と述べ側近の介錯によってその49年の生涯を閉じました。

2.5. 西南戦争の歴史的意義

西南戦争は明治政府と日本の社会にいくつかの重要な影響を与えました。

  1. 士族の時代の完全な終焉:この戦争は士族という階級が武力で政府に抵抗する最後の試みでした。そしてその敗北は武士の時代が名実ともに完全に終わったことを意味しました。
  2. 国民軍の有効性の証明:士族出身者だけでなく農民出身者も多く含む政府の徴兵軍が最強と謳われた薩摩士族を破ったという事実は国民皆兵に基づく近代的な国軍の有効性を証明しました。
  3. 大久保政権の確立と財政難:最大のライバルであった西郷が亡くなったことで政府内での大久保利通の権力は絶対的なものとなりました。しかしこの戦争にかかった莫大な戦費は明治政府の財政を著しく圧迫し深刻なインフレーションを引き起こす原因ともなりました。

西郷隆盛の死をもって武力による反政府運動の時代は終わります。そしてこれ以降政府への抵抗の舞台は戦場から言論の場へと移っていくのです。


3. 自由民権運動の始まり

西南戦争によって士族による武力抵抗の道が完全に断たれた後新政府への反対運動は新たな形をとって現れます。それは剣ではなく「言論」を武器とする戦いでした。明治六年の政変で西郷隆盛と共に下野した土佐藩出身の板垣退助(いたがきたいすけ)は武力による抵抗ではなく国民に政治参加の権利を要求し議会を開設することで藩閥政府の専制を打破しようとしました。彼が始めたこの「自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)」は日本で最初の本格的な政党政治運動でありその後の日本の民主主義の発展の礎を築くことになります。

3.1. 運動の指導者:板垣退助

自由民権運動の中心となった板垣退助は戊辰戦争で活躍した土佐藩の武将でした。彼は征韓論政変で政府を去った後武力による反乱ではなく言論を通じて国民の権利を主張する道を選びます。

彼はフランスの思想家ルソーの『社会契約論』などを学び天賦人権論(人は生まれながらにして自由で平等な権利を持つという思想)に強い影響を受けていました。

3.2. 民撰議院設立建白書(1874年)

1874年(明治7年)1月板垣退助は同じく政府を去った後藤象二郎や江藤新平副島種臣らと共に政府に対して一つの建白書を提出しました。これが自由民権運動の始まりを告げる記念碑的な文書「民撰議院設立建白書(みんせんぎいんせつりつけんぱくしょ)」です。

この建白書の中で板垣らは当時の政府を痛烈に批判しました。

  • 藩閥政府による専制政治の批判:「現在の政治権力は天皇にも人民にもなくただ有司(ゆうし、役人)の手にのみある(有司専制)。」と述べ政府が薩長出身者によって独占されている現状を批判しました。
  • 国会開設の要求:そしてこの問題を解決するためには「国民が選挙で選んだ議員からなる議会(民撰議院)を開設しそこで政治を議論すべきである」と主張しました。彼らは国会を開設することが五箇条の御誓文に掲げられた「万機公論に決すべし」という約束を果たす道であり国民の不満を解消し国家を強くする唯一の方法であると訴えたのです。

この建白書は新聞に掲載され国民の間に大きな反響を呼びました。

3.3. 愛国公党と立志社の結成

建白書を提出した直後板垣退助らは日本で最初の政党である「愛国公党(あいこくこうとう)」を結成しました。愛国公党はすぐに解散してしまいますが板垣は故郷の土佐に帰り1874年に新たな政治結社「立志社(りっししゃ)」を設立します。

立志社は土佐の士族たちを中心に結成され以下のような理念を掲げました。

  • 天賦人権の主張: 人々の自由と権利は生まれながらのものである。
  • 国会開設の要求: 国民の代表からなる議会を開設すること。
  • 地租の軽減: 重い地租に苦しむ農民の負担を軽くすること。

立志社は単なる言論団体にとどまらず地域の産業を振興したり法律や経済の勉強会を開いたりするなど実践的な活動も行いました。

3.4. 大阪会議(1875年)

自由民権運動の高まりに対し政府も手をこまねいていたわけではありませんでした。政府の中心人物であった大久保利通は運動の指導者である板垣退助や当時政府と距離を置いていた木戸孝允を政府に復帰させることで運動の懐柔を図ります。

1875年大久保は大阪で板垣木戸と会談し政治体制の改革について合意しました(大阪会議)。

この合意に基づき政府は以下のようないくつかの改革を行いました。

  • 元老院(げんろういん)の設置:立法に関する審議機関として元老院を設置。
  • 大審院(だいしんいん)の設置:司法権の独立を図るため最高裁判所として大審院を設置。
  • 地方官会議の開催:地方の意見を政治に反映させるため地方の長官を集めた会議を開催。

そして「漸次(ぜんじ)立憲政体を立てる」という詔が出され将来的に憲法を制定し国会を開設する方針が示唆されました。

この大阪会議の結果板垣退助は一時的に政府の参議に復帰します。しかし政府の改革が形式的なものに過ぎず国会開設がなかなか実現しないことに失望し再び下野。自由民権運動はここからさらに全国的な広がりを見せていくことになります。


4. 国会開設の要求

板垣退助の立志社に始まった自由民権運動は当初は政府を去った士族たちが中心でした。しかし運動の理念である「自由と権利」そして「国会開設」という要求はより広い層の人々の共感を呼び全国的な国民運動へと発展していきます。特に地租改正によって重い税負担を負わされながらも政治に参加する権利を持たなかった地方の裕福な農民(豪農)層がこの運動の強力な担い手となりました。本章では自由民権運動がどのようにして全国組織を形成し政府に対して国会開設を求める大きな圧力となっていったのかその高揚期の様相を追います。

4.1. 運動の担い手の拡大:豪農層の参加

自由民権運動が士族だけの運動から国民的な運動へと発展した最大の要因は**豪農層(ごうのうそう)**の参加でした。

  • 豪農層とは:彼らは江戸時代から村の名主などを務め広い土地を所有する地域のリーダーでした。彼らは寺子屋などで教育を受けており高い知識と教養を持っていました。
  • 参加の動機:
    1. 地租改正への不満: 彼らは地租改正によって近代的な土地所有者と認められましたが同時に国家に対して重い現金納税の義務を負わされることになりました。しかし彼らにはその税の使い道を決定する政治に参加する権利(参政権)がありませんでした。「税を納める者には政治に参加する権利があるはずだ(代表なくして課税なし)」という考え方が彼らを民権運動へと駆り立てました。
    2. 松方財政による困窮: 後の松方デフレによって米価が下落すると多くの豪農が経済的に困窮しその不満はますます強まりました。

これらの豪農層は自らの財力と地域のネットワークを活かして各地に政社(政治結社)を設立し自由民権運動の経済的・組織的な基盤を支えていきました。

4.2. 全国組織の形成:愛国社の再興

土佐の立志社をはじめ全国各地で政社が結成されるとそれらの組織を一つにまとめる全国的な連合組織の必要性が認識されるようになります。

1878年(明治11年)板垣退助らはかつて一度解散した愛国公党の名を継ぐ「愛国社(あいこくしゃ)」を大阪で再興しました。愛国社は各地の政社の連合体として国会開設を求める運動の全国的なセンターとしての役割を果たしました。

4.3. 国会期成同盟の結成

1880年(明治13年)愛国社は第四回大会を大阪で開催。この大会で運動は新たな段階へと入ります。

  • 国会期成同盟(こっかいきせいどうめい):愛国社はその名称を「国会期成同盟」へと発展的に解消します。これはもはや単なる政治結社ではなく「国会を開設させる」というただ一つの明確な目標に向かって活動する全国的な圧力団体でした。
  • 国会開設請願:同盟は全国の支持者から署名を集め「国会を開設して下さい」という請願書を政府に提出する運動を組織しました。この運動には数十万人の人々が署名したと言われています。

この国会期成同盟の結成によって国会開設を求める国民の声はもはや政府が無視できないほどの大きなうねりとなっていったのです。

4.4. 政府の対応:弾圧と懐柔

この自由民権運動の急速な高まりに対し政府は弾圧と懐柔という二つの手段(アメとムチ)で対応しました。

  • 弾圧(ムチ):政府は運動が過激化し政府転覆に繋がることを恐れ言論や集会を取り締まる法律を次々と制定しました。
    • 讒謗律(ざんぼうりつ)・新聞紙条例(1875年): 政府を批判する新聞や雑誌の出版を厳しく取り締まりました。
    • 集会条例(1880年): 政府の許可なく政治的な集会を開くことや政社間が連絡を取り合うことを禁じました。
  • 懐柔(アメ):一方で政府は民権派の要求を一部受け入れる姿勢も見せました。
    • 府県会(ふけんかい)の設置(1878年):地方自治の第一歩として各府県に選挙で選ばれた議員からなる府県会を設置しました。これは後の国会の予行演習としての意味合いも持っていました。

しかし政府の弾圧は民権派の士気を削ぐことはできずむしろ彼らの反発をさらに強める結果となりました。そして政府部内で起こったあるスキャンダルが事態を大きく動かすことになります。


5. 松方財政

自由民権運動が国会開設を求めてその勢いを増していた1880年代初頭。明治政府はもう一つの深刻な問題に直面していました。それは西南戦争の戦費調達のために不換紙幣(政府紙幣)を乱発したことによって引き起こされた激しいインフレーションでした。物価は高騰し政府の財政は破綻寸前の危機にありました。この経済危機を収拾するため1881年に大蔵卿に就任した薩摩藩出身の松方正義(まつかたまさよし)は極めて強力な緊縮財政政策を断行します。この「松方財政」はインフレの鎮静化に成功し近代的な銀行制度を創設するなど日本の資本主義の基礎を築きました。しかしその一方で深刻なデフレーション(松方デフレ)を引き起こし農村を疲弊させ自由民権運動の急進化を招くという大きな副作用ももたらしました。

5.1. 深刻なインフレーション

西南戦争(1877年)は明治政府にとって大きな財政的負担でした。政府はこの莫大な戦費を賄うため銀行に引き換えることができない不換紙幣を大量に発行しました。

これにより市場に出回るお金の量が急増しお金の価値が下落。物価が急激に上昇する悪性のインフレーションが発生しました。米価は数年で2倍近くに跳ね上がり庶民の生活は著しく圧迫されました。また政府が地租として受け取る現金の実質的な価値も目減りし政府の財政はますます悪化するという悪循環に陥っていました。

5.2. 松方正義のデフレ政策

この危機的な状況を打開するため大蔵卿に就任した松方正義は強力なデフレーション政策(市場に出回るお金の量を減らし物価を引き下げる政策)を開始します。

  • 緊縮財政:松方は政府のあらゆる歳出を削減し増税(酒税・タバコ税など)を行って財政の黒字化を目指しました。そしてその黒字分を使って市場に溢れた不換紙幣を償却(回収・処分)していきました。
  • 官営事業の払い下げ:政府が殖産興業政策の一環として運営してきた富岡製糸場などの官営工場や鉱山を三井や三菱といった特定の政商に非常に安い価格で払い下げました。これは政府の財政負担を軽減すると同時に財閥が形成される大きなきっかけとなりました。
  • 日本銀行の設立(1882年):松方は近代的な通貨制度を確立するためヨーロッパの中央銀行をモデルとした日本銀行を設立しました。そして1885年には日本銀行が唯一の発券銀行として兌換紙幣(だかんしへい、銀と交換できる銀行券)である日本銀行券を発行する制度を確立しました。これにより政府紙幣や国立銀行紙幣が乱立していた通貨制度は統一され日本の金融システムは安定しました。

5.3. 松方デフレが農村に与えた影響

松方のこれらの政策はインフレーションを収束させ政府の財政を再建するという点では大きな成功を収めました。しかしその一方で深刻なデフレーション(松方デフレ)を引き起こし日本経済特に農村に深刻な打撃を与えました。

  • 農産物価格の暴落:デフレによって米や生糸といった農産物の価格は暴落しました。
  • 農民の困窮:農民の収入は農産物価格の暴落によって激減しました。しかし彼らが現金で納めなければならない地租の額は変わりません。そのため多くの農民が地租を支払うことができなくなりました。
  • 寄生地主制の進行:地租を払えなくなった農民は土地を手放さざるを得なくなり自らはその土地を借りて耕作する**小作人(こさくにん)**に転落していきました。一方で裕福な地主や商人はこれらの土地を買い集め働かずに小作料だけで生活する「寄生地主(きせいじぬし)」として成長していきました。

この松方デフレによって自作農が没落し寄生地主制が広まるという日本の農村の構造的な問題が決定づけられていきます。

5.4. 自由民権運動への影響

この農村の深刻な疲弊は自由民権運動の性格を大きく変えました。

当初士族や豪農が中心であった運動に生活に困窮した多くの貧しい農民たちが参加するようになります。そして彼らの要求は国会開設といった政治的なものだけでなく借金の帳消し(徳政)といったより直接的で経済的なものへと変化していきました。

政府の経済政策への絶望と生活の困窮。これらが結びつき自由民権運動は一部で政府を武力で転覆させようとする過激な事件(激化事件)へと突き進んでいくことになるのです。松方財政は日本の近代資本主義の礎を築きましたがそれは同時に多くの農民の犠牲の上に成り立ったものでした。


6. 秩父事件

松方財政が引き起こした深刻なデフレは日本の農村を疲弊させ多くの農民を生活のどん底に突き落としました。国会開設という言論による改革を求める自由民権運動は彼らの絶望的な状況を救うことはできませんでした。そしてついに1884年(明治17年)生活に困窮した農民たちが武装蜂起し自らの力で社会を変革しようとする自由民権運動の中で最大かつ最も激しい事件が勃発します。それが埼玉県の秩父地方で起こった「秩父事件(ちちぶじけん)」です。この事件は単なる農民一揆ではなく自由民権運動の思想と農民の経済的な要求が結びついた「革命」を目指した闘争でした。

6.1. 事件の背景

事件の舞台となった秩父地方は山がちな地形で米の生産は少なく多くの農民が生糸の生産(養蚕)で生計を立てていました。

  • 松方デフレの直撃:松方デフレによって生糸の価格は暴落。秩父の農民たちの収入は激減しました。
  • 高利貸しの収奪:多くの農民は生活のために高利貸しから多額の借金をしていました。生糸価格の暴落で返済が不可能になると彼らは土地や家財を差し押さえられようとしていました。
  • 自由党員の活動:この地域では自由党員が活動しており農民たちに天賦人権論などの民権思想を広めていました。困窮した農民たちは彼らをリーダーとして団結し始めます。

6.2. 困民党の結成と蜂起

1884年10月31日秩父郡の農民数千人が蜂起。彼らは自らを「困民党(こんみんとう)」と名乗りその指導者には自由党員であった田代栄助(たしろえいすけ)らが就きました。

彼らの要求は明確でした。

  • 借金の10年据え置き
  • 学費の軽減
  • 村の経費の削減

彼らは「圧制政府」を打倒し「自由自治」の新しい政府を樹立することを宣言。竹槍や猟銃で武装し役場や高利貸しの家を次々と襲撃し借金の証文を焼き捨てました。

困民党軍は規律がとれておりその数は1万人近くにまで膨れ上がりました。彼らは郡役所を占拠し一時的に秩父一帯をその支配下に置きました。

6.3. 政府による鎮圧

この農民による革命的な蜂起に対し明治政府はこれを国家に対する重大な反乱と見なし断固たる姿勢で臨みました。

政府は警察隊だけでなく憲兵隊東京鎮台(ちんだい)の軍隊を動員。最新の武器を持つ政府軍の前に竹槍で武装した困民党はなすすべもなく敗走。蜂起からわずか10日ほどで完全に鎮圧されました。

指導者であった田代栄助をはじめ多くの参加者が逮捕され死刑などの厳しい処罰を受けました。

6.4. 激化事件とその後の民権運動

秩父事件は自由民権運動の過程で発生した多くの急進的な武装蜂起事件(激化事件)の最大のものでした。

  • その他の激化事件:
    • 群馬事件(1884年): 群馬県の民権運動家が蜂起を計画。
    • 加波山事件(1884年): 茨城県の加波山で民権運動家が政府高官の暗殺を計画し蜂起。

これらの激化事件は自由民権運動そのものに大きな影響を与えました。

  • 自由党の解党:運動の指導者であった板垣退助ら自由党の幹部たちはこれらの農民の過激な行動をコントロールすることができませんでした。彼らは運動が革命的な暴力闘争へと変質していくことを恐れ秩父事件の直前に「時期尚早である」として自由党を解党してしまいます。
  • 運動の衰退:政府の厳しい弾圧と指導者たちの離反によって自由民権運動はその勢いを急速に失っていきました。

秩父事件は困窮した民衆の切実な叫びであり自由と平等を求める崇高な理想を掲げた戦いでした。しかしそのラディカルな行動は結果として自由民権運動の主流派から見放されその運動の寿命を縮めるという皮肉な結果を招きました。この事件を最後に自由民権運動は言論による国会開設の準備という穏健な路線へと回帰していくことになります。


7. 大日本帝国憲法の制定

自由民権運動の激化と衰退という波乱の過程と並行して政府内部では着実に新しい国家の基本法「憲法」を制定する準備が進められていました。藩閥政府の指導者たちもまた国家を安定させ欧米列強と対等な国として渡り合うためには近代的な憲法と議会が必要であると認識していたのです。しかし彼らが目指したのは国民が主権を持つイギリスやフランスのような憲法ではありませんでした。彼らは天皇に強大な権力を与え政府(藩閥)がそのもとで主導権を握り続けることができる権威主義的な憲法を理想としました。本章では伊藤博文(いとうひろぶみ)を中心に政府がいかにして大日本帝国憲法を作り上げていったのかその過程を探ります。

7.1. 国会開設の勅諭と政党の結成

自由民権運動の高まりと政府部内のスキャンダル(開拓使官有物払下げ事件)が絡み合った「明治十四年の政変(1881年)」は日本の憲政史における大きな転換点でした。

この政変で政府はイギリス流の議院内閣制を主張した大隈重信(おおくましげのぶ)を政府から追放します。しかし同時に高まる国会開設の要求を無視できず「10年後の1890年に国会を開設する」という国会開設の勅諭を出しました。

この約束を受け自由民権運動の指導者たちは国会開設に備えて本格的な政党を結成します。

  • 自由党(1881年):板垣退助を党首としフランス流の急進的な思想(天賦人権論、主権在民)を掲げました。士族や豪農層に多くの支持者を持っていました。
  • 立憲改進党(1882年):政府を追われた大隈重信を党首としイギリス流の穏健な議会政治(立憲君主制)を理想としました。都市部の知識人や実業家に支持者が多くいました。

7.2. 伊藤博文のヨーロッパ調査

国会開設を約束した政府は憲法制定の準備を本格化させます。その中心人物となったのが長州藩出身の伊藤博文でした。

1882年伊藤博文は憲法調査のため約1年半にわたるヨーロッパ視察の旅に出ます。彼はイギリスの自由主義的な議会政治よりもドイツ(プロイセン)の権威主義的な憲法に強い感銘を受けました。

プロイセン憲法は

  • 君主(皇帝)に強大な権力が与えられていること(君主主権)。
  • 議会の権限が比較的弱いこと。
  • 政府(内閣)が議会に対してではなく君主に対してのみ責任を負うこと。

といった特徴を持っていました。伊藤はこれこそが天皇の権威を維持しながら強力な国家を建設しようとする日本の国情に最もふさわしいモデルであると考えたのです。

7.3. 憲法制定への国内準備

ヨーロッパから帰国した伊藤博文は憲法制定と議会開設に向けた国内の制度改革を急ピッチで進めます。

  1. 華族令(1884年):将来開設される議会の上院(貴族院)の母体とするため旧公家や旧大名を華族とし公・侯・伯・子・男の五段階の爵位を与えました。
  2. 内閣制度の創設(1885年):それまでの太政官制を廃止し内閣制度を創設しました。初代内閣総理大臣には伊藤博文が就任。これにより政府の責任体制が明確化されました。
  3. 枢密院(すうみついん)の設置(1888年):憲法草案を審議するための天皇の最高諮問機関として枢密院を設置。初代議長には伊藤博文が就任しました。

7.4. 大日本帝国憲法の発布(1889年)

これらの準備を経て伊藤博文や井上毅(いのうえこわし)、ドイツ人顧問のロエスレルらが中心となり憲法草案は極秘のうちに起草されました。

そして1889年(明治22年)2月11日(神武天皇即位の日とされる紀元節)「大日本帝国憲法(だいにっぽんていこくけんぽう)」は国民からの選挙で選ばれた議会で審議されるのではなく**天皇が国民に下し与える(欽定憲法、きんていけんぽう)**という形で発布されました。

その内容は伊藤が学んだプロイセン憲法の影響を色濃く反映したものでした。

  • 天皇主権:第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と定め主権が天皇にあることを明確にしました。天皇は神聖にして侵すべからざる存在とされ陸海軍の統帥権や条約の締結権、議会の解散権など強大な権限(天皇大権)を持っていました。
  • 臣民の権利:国民は「臣民(しんみん)」とされ言論・出版・集会・結社の自由などの権利が認められました。しかしそれは「法律の範囲内において」という厳しい制限付きのものであり国家の安寧を妨げる場合にはいつでも制限できるものでした。
  • 帝国議会:貴族院(皇族・華族・勅選議員からなる)と衆議院(公選議員からなる)の二院制でした。議会は法律の制定や予算の審議を行いましたがその権限は限定的でした。
  • 内閣:内閣総理大臣をはじめとする国務大臣は議会に対してではなく天皇に対してのみ責任を負うとされました(超然内閣主義)。

大日本帝国憲法はアジアで最初の近代的な憲法であり日本の立憲政治の第一歩となる画期的なものでした。しかしそれは同時に天皇に強大な権力を集中させ臣民の権利を大きく制限した権威主義的な性格を持つ憲法でもあったのです。


8. 帝国議会の開設と初期議会

1889年に大日本帝国憲法が発布され翌1890年ついに自由民権運動以来の悲願であった第一回帝国議会が開催されました。ここに日本はアジアで最初の立憲国家としてその歩みを始めます。しかし憲法によって開設された帝国議会は政府(藩閥)と国民の代表である民党が激しく対立する舞台となりました。藩閥政府が掲げる「富国強兵」と民党が要求する「民力休養(減税)」は真っ向から対立し初期の議会は予算をめぐる攻防に明け暮れることになります。本章では日本初の議会がどのように運営され政府と民党がいかなる対立を繰り広げたのかを探ります。

8.1. 第一回衆議院議員総選挙(1890年)

1890年7月日本で最初の衆議院議員総選挙が行われました。

  • 選挙権:選挙権が与えられたのは直接国税15円以上を納める25歳以上の男子のみでした。これは当時の全人口のわずか**1.1%**に過ぎませんでした。
  • 選挙結果:選挙の結果自由民権運動の流れをくむ立憲自由党(旧自由党)と立憲改進党(旧改進党)などの民党が過半数を占める圧勝を収めました。

8.2. 帝国議会の構成

大日本帝国憲法の下で設置された帝国議会は二院制でした。

  • 貴族院:皇族や華族そして天皇が任命した勅選議員などで構成されました。解散はなく議員の多くは終身制でした。貴族院は藩閥政府の政策を支持する牙城としての役割を果たしました。
  • 衆議院:選挙で選ばれた議員で構成されました。任期は4年でした。法律案や予算案は両院の可決がなければ成立しませんでした。

8.3. 初期議会における政府と民党の対立

第一回帝国議会が始まると早速政府と衆議院の過半数を占める民党との間で激しい対立が起こりました。

  • 政府の立場(超然内閣):当時の第一次山県有朋(やまがたありとも)内閣は「政府は政党の意向に左右されることなく独立して行動すべきである(超然主義)」という立場をとっていました。
  • 民党の立場:民党は「政府は議会の多数派の支持を得て運営されるべきだ」と主張し政府が提出する予算案に対して激しく抵抗しました。

対立の最大の争点は予算でした。

  • 政府の要求:藩閥政府は「富国強兵」を推進するため軍備の拡張や殖産興業に多額の予算を要求しました(経費の拡張)。
  • 民党の要求:民党は地租改正以来の重い税負担に苦しむ国民の生活を守るため減税と政府の無駄な支出の削減を要求しました(民力休養・政費節減)。

8.4. 政府の対抗策

民党の激しい抵抗に対し政府は様々な手段でこれに対抗しました。

  • 議会内での切り崩し:政府は民党の一部を買収したり切り崩したりして分裂を図りました。第一議会では立憲自由党の土佐派の一部を切り崩すことでかろうじて予算を成立させました(土佐派の裏切り)。
  • 選挙干渉:第二回総選挙(1892年)では第一次松方正義内閣が警察を動員して民党の選挙運動を妨害し有権者に圧力をかけるという大規模な選挙干渉を行いました。この選挙では多くの死傷者が出ました。
  • 天皇の詔勅(和協の詔):選挙干渉にもかかわらず第二議会でも民党が勝利。軍艦建造費をめぐって政府と民党の対立が再び激化すると政府は最後の手段として**天皇の詔勅(和協の詔、わきょうのみことのり)**を利用しました。明治天皇は「政府と議会が協調するように」と呼びかけ自らも宮中経費を節約し軍艦建造費に充てることを表明。この天皇の言葉の前に民党も予算案に同意せざるを得ませんでした。

8.5. 初期議会の意義

初期議会は政府と民党の間の激しい対立に終始しました。しかしこの対立の過程で日本の議会政治は少しずつですが着実に根付いていきました。

  • 政党の成長:民党は政府との対決を通じて政党としての組織力と政策立案能力を高めていきました。
  • 国民の政治意識の向上:議会での論戦は新聞などを通じて国民に伝えられ人々の政治への関心を高めました。

「富国強兵」か「民力休養」か。この初期議会での対立は近代日本の国家建設における二つの重要な価値観の衝突でした。そしてこの対立は次の日清戦争の勃発によって新たな段階へと入っていくことになります。


9. ノルマントン号事件

帝国議会で政府と民党が激しい対立を繰り広げていた頃の日本。国民全体の心に共通の怒りと屈辱感を植え付けた一つの事件が起こりました。1886年(明治19年)に紀州沖で発生したイギリスの貨物船ノルマントン号の沈没事件です。この事件は幕末に結ばれた不平等条約の根幹にある「領事裁判権(治外法権)」がいかに不公正なものであるかを白日の下に晒しました。そしてこの事件をきっかけに「条約改正」を求める国民世論はかつてないほどの高まりを見せることになります。

9.1. 事件の発生

1886年10月24日イギリスの貨物船ノルマントン号は横浜から神戸へ向かう途中和歌山県沖で台風のため座礁し沈没しました。

この時船にはイギリス人の船長や船員26名と日本人乗客25名が乗っていました。

船が沈む中イギリス人の船長と船員たちは全員救命ボートで脱出し無事に生き残りました。しかし日本人乗客25名は一人も助かることなく全員が船と運命を共にしました

9.2. 領事裁判権の問題と不公正な判決

生き残ったイギリス人船長は「自分たちは日本人乗客を助けようとしたが彼らが言うことを聞かなかった」と主張しました。しかし嵐の中で屈強な船員たちが全員助かり非力な乗客が全員死亡するという事態はあまりにも不自然でした。船員たちが自分たちだけが助かるために日本人乗客を見殺しにしたのではないかという強い疑惑が持ち上がりました。

しかしこの事件の裁判は日本の裁判所では行われませんでした。不平等条約の**領事裁判権(治外法権)**の規定によりイギリス人船長の裁判は神戸にあるイギリスの領事裁判所で行われたのです。

そしてその判決は日本国民の怒りを爆発させるものでした。イギリス人の領事は船長に対してわずか3ヶ月の禁固刑という極めて軽い判決を下しただけでした。日本人25人の命はイギリス人の船長の3ヶ月の禁固刑としか釣り合わなかったのです。

9.3. 国民世論の激化

この不公正な判決は新聞などで全国に伝えられ日本中に激しい怒りの声が渦巻きました。

  • ナショナリズムの高揚:「これは日本人に対する人種差別である」「日本の司法権が独立していないからこのような不当な判決がまかり通るのだ」という世論が沸騰。国民の間に国家の主権と独立を求めるナショナリズム(国権意識)が急速に高まりました。
  • 条約改正への要求:この事件をきっかけに「領事裁判権を撤廃し不平等条約を改正せよ」という声はもはや一部の知識人だけでなく国民全体の共通の要求となりました。

9.4. 政府の対応と事件の余波

この国民世論の高まりは当時の外務卿・井上馨(いのうえかおる)が進めていた条約改正交渉にも大きな影響を与えました。

井上は欧米諸国に日本の近代化をアピールするため鹿鳴館(ろくめいかん)で舞踏会を開くなど極端な欧化政策を進めていました。しかしこの事件によって彼の弱腰な外交姿勢は国民から「国家的屈辱である」と激しい批判を浴びることになります。

政府もこの国民の怒りを無視できずイギリス政府に強く抗議。結果として民事裁判では遺族に対して慰謝料が支払われることになりました。

ノルマントン号事件は一隻の船の沈没事件でした。しかしそれは領事裁判権という不平等条約の核心的な問題点を誰の目にも明らかな形で突きつけました。そしてこの事件が喚起した国民的なエネルギーこそがその後の困難な条約改正交渉を政府が粘り強く進めていくための大きな後ろ盾となったのです。


10. 条約改正交渉

幕末に欧米列強と結ばされた不平等条約。その二大核心である「領事裁判権(治外法権)」の存在と「関税自主権」の欠如は明治政府にとって国家主権を侵害された国家的屈辱でありその改正は発足以来の最大の外交課題でした。政府は欧米並みの近代国家であることを示すことで条約改正を実現しようと試みますがその道のりは極めて険しいものでした。鹿鳴館に象徴される極端な欧化政策の失敗や国権論者によるテロなど幾多の困難を経て日本がこの悲願を達成するには日清戦争の勝利という大きな代償が必要でした。本章ではこの困難な条約改正交渉の道のりを追います。

10.1. 岩倉使節団の失敗と内治優先

明治新政府は発足当初から条約改正の重要性を認識していました。1871年に派遣された岩倉使節団の最大の目的も条約改正の予備交渉でした。

しかし欧米諸国は日本の法律や制度がまだ未整備であることを理由に交渉に全く応じませんでした。この失敗から岩倉や大久保利通らはまずは国内の近代化(内治)を優先し国力を高めなければ欧米は日本を対等な交渉相手として認めないという教訓を得ます。

10.2. 井上馨の欧化政策と鹿鳴館外交

1880年代に入り外務卿(後の外務大臣)となった**井上馨(いのうえかおる)**は条約改正交渉を本格的に再開します。彼の戦略は日本の急速な近代化を欧米の外交官たちにアピールし彼らの歓心を買うことで改正への同意を得ようというものでした。

その象徴が東京の日比谷に建てられた「鹿鳴館(ろくめいかん)」でした。この煉瓦造りの洋館では毎夜のように政府高官やその夫人たちが外国の外交官を招いて舞踏会やパーティーを繰り広げました。

この極端な欧化政策は日本の文明開化をアピールするものでした。しかしその一方で

  • 国粋主義者からの批判:「日本の伝統をないがしろにし外国に媚びへつらう屈辱的な外交だ」という国権論者からの激しい批判を浴びました。
  • ノルマントン号事件(1886年):この事件によって領事裁判権の不公正さが国民に知れ渡ると井上の弱腰な外交姿勢への批判は頂点に達しました。

さらに井上が秘密裏に進めていた改正案の内容(外国人判事を日本の裁判所に任命するなど)が暴露されると政府内部からも猛反発が起こり井上は辞任。彼の条約改正交渉は失敗に終わりました。

10.3. 大隈重信の交渉と挫折

井上の次に外務大臣となった大隈重信は異なるアプローチをとりました。彼は全ての国と同時に交渉するのではなくまずアメリカやドイツといった比較的交渉しやすい国と個別に改正案に合意しその既成事実をもって最も強硬なイギリスを説得しようとしました。

彼の改正案は領事裁判権の撤廃については前進が見られましたが関税自主権の回復は依然として認められませんでした。そしてこの改正案の内容(大審院に外国人判事を任命するなど)もまた「譲歩しすぎである」として国内の強硬な反対派の怒りを買います。

1889年大隈重信は条約改正に反対する国粋主義者(玄洋社の来島恒喜)に爆弾を投げつけられ片足を失うという重傷を負いました。これにより大隈もまた外務大臣を辞任し交渉は再び中断してしまいます。

10.4. 陸奥宗光と領事裁判権の撤廃

二度にわたる失敗と外相の遭難。もはや条約改正は不可能かと思われました。しかし1890年代に入ると国際情勢の変化が日本にとって追い風となります。

ロシアがシベリア鉄道の建設を進めアジアへの進出を強めていました。このロシアの南下を警戒するイギリスは極東におけるロシアの対抗馬として日本の軍事力に注目し始めます。

この好機を逃さなかったのが第二次伊藤博文内閣で外務大臣を務めた陸奥宗光(むつむねみつ)でした。彼はイギリスとの粘り強い交渉の末1894年7月日英通商航海条約の調印に成功します。

  • 条約の内容:
    • 領事裁判権(治外法権)の撤廃:これが最大の成果でした。
    • 関税自主権の一部回復:関税率は依然として協定に基づくものでしたが一部の品目については日本が自主的に税率を決めることができるようになりました。

この条約が調印されたのはまさに日本が日清戦争の開戦に踏み切る直前のことでした。イギリスは日本の勝利を期待し極東における新たなパートナーとして日本を認めたのです。

このイギリスとの合意を皮切りに日本は他の欧米諸国とも同様の条約を結ぶことに成功。幕末以来の悲願であった領事裁判権の撤廃がついに達成されたのです。

10.5. 関税自主権の完全回復

しかしもう一つの悲願であった関税自主権の完全な回復はまだ先のことでした。

この課題が達成されたのは日清戦争だけでなくその後の**日露戦争(1904-05年)**で日本がロシアというヨーロッパの大国に勝利し世界の一等国としての地位を不動のものにした後のことでした。

1911年外務大臣・**小村寿太郎(こむらじゅたろう)**の尽力によりついに日米通商航海条約が改正され日本は関税自主権を完全に回復します。

1858年の安政の五か国条約の調印から実に半世紀以上。日本は二度の大きな戦争を経てようやく欧米列強と対等な国家としての地位を勝ち取ったのでした。条約改正の道のりは日本の近代化の道のりそのものであり国家の独立を求める明治の人々の苦闘の歴史だったのです。


Module 16:自由民権運動と憲法制定の総括:内なる民主と外なる主権の闘争

本モジュールでは明治政府の草創期における二つの大きな闘争の軌跡を追った。一つは征韓論政変で政府を去った板垣退助らが始めた「自由民権運動」という内なる闘争である。藩閥政府の専制に対し国会開設を求めるこの運動は士族から豪農そして困窮した農民へと担い手を広げ秩父事件のような激しい抵抗に至った。もう一つは「条約改正」を求める外なる闘争である。ノルマントン号事件は領事裁判権の屈辱を国民に痛感させ国家主権の回復は国民的な悲願となった。政府は一方では民権運動を弾圧しつつもその圧力を利用しプロイセンをモデルとする大日本帝国憲法を制定し帝国議会を開設。そして日清戦争という対外的な勝利を背景に陸奥宗光の尽力でついに領事裁判権の撤廃を勝ち取った。この時代は「公論」を求める国民の声と「国権」の確立を目指す政府の思惑が激しく衝突しそして時には共鳴しながら日本の近代的な政治・外交の骨格を形成していった苦難と創造の時代であった。

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