- 本記事は生成AIを用いて作成しています。内容の正確性には配慮していますが、保証はいたしかねますので、複数の情報源をご確認のうえ、ご判断ください。
【基礎 日本史(通史)】Module 18:大正デモクラシーと政党政治
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは明治日本が日清・日露戦争の勝利を経て欧米列強と肩を並べる帝国主義国家へと変貌していく過程を追いました。しかしその強大な国家の内部では政治のあり方をめぐる新たな対立が生まれていました。政治を壟断する薩長中心の藩閥政府に対し国民の代表である政党がその主導権を奪おうとする動きです。明治天皇が崩御し大正時代が始まるとこの対立は「大正デモクラシー」と呼ばれる一連の民主化運動として花開きます。本モジュールではこの日本近代史における束の間の自由で活気に満ちた時代の光と影を探ります。
本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず藩閥政府を打倒し憲政の擁護を掲げた第一次護憲運動と大正政変を見ます。次に日本が参戦した第一次世界大戦がもたらした大戦景気とその後の米騒動そして日本初の本格的な政党内閣である原敬内閣の成立を分析します。戦後の国際秩序であるベルサイユ体制とワシントン会議の中で日本の国際的地位がどのように変化したかを探ります。そして再び藩閥打倒を掲げた第二次護憲運動から普通選挙法の成立と同時に制定された治安維持法という「アメとムチ」の政策を解き明かします。さらにこの時代に活発化した労働運動や農民運動女性運動といった様々な社会運動の展開を見ます。最後に「憲政の常道」として政党内閣の時代が確立されるもその内部に潜む問題点を探ります。
- 第一次護憲運動と大正政変: 藩閥打倒を掲げた国民運動が初めて内閣を倒した画期的な事件を分析する。
- 第一次世界大戦への参戦: 日本が第一次世界大戦に参戦した動機とそれが東アジアの国際関係に与えた影響を探る。
- 大戦景気: 第一次世界大戦が日本にもたらした空前の好景気とその社会的な影響を見る。
- 米騒動と原敬内閣: 好景気の裏で起こった米価の高騰と民衆の暴動が日本初の本格的な政党内閣をいかにして誕生させたかを解明する。
- ベルサイユ体制と国際連盟: 戦勝国の一員として日本が新たな国際秩序の構築にどう関わったかその栄光と挫折を探る。
- ワシントン会議と軍縮: 大国間の軍縮交渉が日本の海軍力にいかなる制約を課しそれが後の軍部の不満にどう繋がったかを見る。
- 第二次護憲運動と普通選挙法: 再び起こった護憲運動が悲願であった普通選挙をいかにして実現させたかを分析する。
- 治安維持法の制定: 普通選挙法と同時に制定されたこの法律がなぜその後の日本の自由を奪う最大の武器となったのかその危険性を探る。
- 社会運動の展開: 大正デモクラシーの時代に花開いた労働・農民・女性・部落解放といった多様な社会運動の軌跡を追う。
- 政党内閣の時代: 「憲政の常道」として確立した政党政治がどのような問題を抱えやがて衰退していったのかを考察する。
このモジュールを学び終える時皆さんは大正という時代が単なる次の戦争への序章ではなく日本の近代史において民主主義と自由が最も輝いた重要な時代であったことそしてその輝きがいかに脆くはかないものであったかを深く理解することができるでしょう。
1. 第一次護憲運動と大正政変
1912年(明治45年)明治天皇が崩御し元号が大正と改まります。絶対的なカリスマであった明治天皇の死は同時に彼を支えてきた薩長出身の元老(げんろう)たちによる藩閥政治の時代の終わりが近いことも予感させました。国民の間では藩閥の専横に反対し憲法に基づく議会中心の政治(憲政)を求める声が高まっていました。そしてその声は陸軍の増強問題をきっかけに「第一次護憲運動」として爆発し藩閥内閣を退陣に追い込む「大正政変」へと発展します。これは国民の力が初めて藩閥の力を打ち破った画期的な事件でした。
1.1. 陸軍増師問題と内閣の崩壊
日露戦争後陸軍はロシアを仮想敵国として軍備の拡張を計画していました。特に朝鮮に駐留する部隊を2個師団増やすことを政府に強く要求していました(二個師団増設問題)。
しかし当時首相であった西園寺公望(さいおんじきんもち)が率いる立憲政友会の内閣は財政難を理由にこの要求を拒否します。これに反発した陸軍は陸軍大臣を辞職させその後任の大臣を送らないという手段で内閣に圧力をかけました。陸海軍大臣は現役の軍人でなければならないという「軍部大臣現役武官制」の規定があったため陸軍が大臣を出さなければ内閣は成立できません。
この陸軍のサボタージュにより西園寺内閣は1912年12月総辞職に追い込まれました。
1.2. 桂園時代と藩閥政治への不満
西園寺内閣の後に首相となったのが長州藩出身で陸軍の長老山県有朋(やまがたありとも)の子飼いであった桂太郎(かつらたろう)でした。
20世紀初頭の日本の政治は立憲政友会の西園寺公望と藩閥の桂太郎が交互に政権を担当する安定期にあり「桂園時代(けいえんじだい)」と呼ばれていました。しかしその実態は元老たちが裏で操る藩閥政治でした。
国民や議会を無視した陸軍の横暴とそれに続く藩閥の巨頭・桂太郎の三度目の組閣は国民の怒りを爆発させました。
1.3. 「閥族打破、憲政擁護」
この桂内閣の成立に対し「藩閥勢力が陸軍と結託して議会を無視し政権を壟断している」と激しく批判する運動が起こります。これが「第一次護憲運動」です。
運動の中心となったのは立憲国民党の犬養毅(いぬかいつよし)や立憲政友会の尾崎行雄(おざきゆきお)といった政党政治家そして新聞記者たちでした。彼らは「閥族打破(ばつぞくだは)、憲政擁護(けんせいようご)」をスローガンに掲げました。これは「藩閥の徒党を打ち破り憲法に基づく政治を守れ」という意味です。
この運動は東京や大阪などの大都市で大規模な民衆の集会やデモへと発展しました。
1.4. 大正政変(1913年)
追い詰められた桂太郎は自らも新政党(立憲同志会)を結成して対抗しようとします。また天皇の詔勅(天皇の命令)を利用して政友会の切り崩しを図るなどしましたがもはや運動の勢いを止めることはできませんでした。
1913年2月議会を取り巻いた数万の民衆の怒号の中尾崎行雄は桂首相に対して「玉座(ぎょくざ)の蔭に隠れて政敵を倒そうとするとは何事か」と痛烈な弾劾演説を行いました。
議会で不信任案が可決されることが確実となり民衆の暴動が日比谷の警察署を焼き討ちにするなど事態が緊迫する中桂太郎内閣は発足からわずか53日で総辞職に追い込まれました。
この一連の出来事を「大正政変」と呼びます。
この事件は日本の憲政史において極めて重要な意味を持っています。それは政党と民衆の世論が一体となって藩閥の内閣を打倒した最初の成功例であったからです。これにより元老たちの力は相対的に低下しその後の政治は政党の意向を無視できなくなりました。大正デモクラシーの時代の幕はまさにこの大正政変によって切って落とされたのです。
2. 第一次世界大戦への参戦
第一次護憲運動によって藩閥政治が大きな打撃を受けた直後の1914年ヨーロッパで「第一次世界大戦」が勃発します。この戦争は人類が初めて経験する総力戦でありヨーロッパの国際秩序を根底から覆しました。日本はこのヨーロッパの戦争に対し日英同盟を口実に連合国側として参戦します。しかしその真の狙いは戦争に苦しむ欧米列強の隙をついて東アジアにおける日本の権益を拡大することにありました。本章では日本が第一次世界大戦に参戦した動機とその具体的な行動そしてそれが国際社会に与えた影響を探ります。
2.1. 参戦の動機
第一次世界大戦はオーストリア皇太子がサラエボで暗殺されたことをきっかけにドイツ・オーストリアなどの同盟国とイギリス・フランス・ロシアなどの連合国(協商国)との間で始まりました。
日本にはこのヨーロッパの戦争に直接参戦する義務はありませんでした。しかし当時大隈重信(おおくましげのぶ)が率いる内閣はいくつかの戦略的な計算から参戦を決定します。
- 日英同盟の履行:表向きの最大の理由は日英同盟でした。イギリスからドイツの東アジアにおける拠点への攻撃を要請されたことを口実に参戦しました。
- 国際的地位の向上:戦勝国の一員となることで国際社会における日本の発言力を高めたいという狙いがありました。
- 中国大陸における権益拡大:これが最大の目的でした。欧米列強がヨーロッパでの戦争に集中している隙にドイツが中国に持つ権益(特に山東省)を奪い取りさらに中国における日本の影響力を一気に拡大しようと考えたのです。
2.2. 日本の軍事行動
日本の軍事行動はヨーロッパの主戦場から遠く離れたアジア太平洋地域に限定されていました。
- 山東(さんとん)省の占領:日本はドイツに対して宣戦布告するとただちに中国にあるドイツの租借地・青島(チンタオ)を攻撃しこれを占領しました。さらに鉄道に沿って山東省全域にその支配を広げました。
- 南洋諸島の占領:また日本海軍は赤道以北の太平洋にあるドイツ領の南洋諸島(マリアナ諸島、カロリン諸島、マーシャル諸島)を占領しました。
2.3. 対華二十一カ条要求(1915年)
中国における軍事行動と並行して大隈内閣は日本の帝国主義的な野心を露骨に示す行動に出ます。1915年1月日本は中国の袁世凱(えんせいがい)政府に対し「対華二十一カ条要求」と呼ばれる秘密の要求リストを突きつけました。
その内容は極めて高圧的で中国の主権を著しく侵害するものでした。
- 第一号: ドイツが山東省に持っていた権益を日本が継承すること。
- 第二号: 旅順・大連の租借期限の延長と南満州鉄道の権益強化。
- 第五号: 中国政府に日本人顧問を置くことや警察を日中共同にすることなど中国を事実上日本の保護国とする要求。(これは希望条項とされた)
この要求は中国の民衆の激しい反発(反日運動)を招きました。また要求の内容が欧米列強に漏れると彼らからも強い批判を浴び日本の国際的な信用は大きく失墜しました。
最終的に日本は最も問題の大きい第五号を取り下げ要求の大部分を中国に認めさせました。しかしこの強引な手法は中国のナショナリズムを刺激しその後の日中関係に長く続く不信の種を蒔くことになりました。
2.4. シベリア出兵(1918年)
第一次世界大戦の末期にロシア革命が勃発し社会主義政権が誕生すると日本はアメリカやイギリスなどと共に「革命軍に捕らわれたチェコスロバキア軍を救出する」という名目でシベRIA(シベリア)に軍隊を派遣しました(シベリア出兵)。
しかし他の国々が早々に撤兵する中日本だけはその後も駐留を続けその真の目的がシベリアにおける権益の確保にあることを露呈させました。この出兵は明確な戦略もなく巨額の戦費と多くの人命を失うだけで終わり大きな失敗となりました。
日本の第一次世界大戦への関与は最小限の犠牲で戦勝国の一員となるという外交的な成功を収めました。しかしその裏で行われた対華二十一カ条要求やシベリア出兵といった行動は日本の帝国主義的な野心を世界に示すものでありその後の国際的な孤立を招く遠因ともなったのです。
3. 大戦景気
第一次世界大戦はヨーロッパに未曾有の破壊と混乱をもたらしました。しかし戦場から遠く離れていた日本にとってはこの大戦は予期せぬ経済的な恩恵「大戦景気(たいせんけいき)」をもたらしました。ヨーロッパの国々が戦争に総力を挙げていたためアジア市場から彼らの製品が姿を消し日本の輸出品がその空白を埋める形となったのです。この空前の好景気によって日本の工業は飛躍的な発展を遂げ日本は史上初めて債務国から債権国へと転換しました。本章ではこの大戦景気の実態とその社会的な影響を探ります。
3.1. 好景気のメカニズム
大戦景気が起こったメカニズムはシンプルでした。
- ヨーロッパ諸国の生産力低下:イギリスやドイツといった工業国が戦争に突入したため彼らの工場は軍需品の生産に追われ民生品の生産力は著しく低下しました。
- アジア市場の独占:これによりアジアやアフリカの市場からヨーロッパ製品が姿を消しました。日本の製品は競争相手がいなくなったこの市場を独占することができました。
- 連合国からの特需:さらに日本は連合国側として参戦したためイギリスやロシアといった国々から船や武器弾薬といった軍需品の大量注文(特需)を受けました。
3.2. 輸出の飛躍的増大と工業の発展
この結果日本の輸出は爆発的に増加しました。
- 貿易収支の黒字化:開国以来ずっと輸入超過(赤字)に苦しんできた日本の貿易収支は1915年に初めて輸出超過(黒字)に転じました。大戦中日本の正貨(金)保有量は6倍以上に増え日本は史上初めて債務国から債権国へと転換しました。
- 工業生産の拡大:輸出の主役であった綿織物などの軽工業はもちろんのこと鉄鋼・造船・化学といった重化学工業もこの時期に飛躍的な発展を遂げました。日本の工業生産額は農業生産額を上回り日本は名実ともに工業国となりました。
- 電力の普及:水力発電所の建設が進み産業の動力源が蒸気から電力へと移行し始めました。
3.3. 「成金」の出現と社会の変化
この急激な好景気は日本の社会に大きな変化をもたらしました。
- 成金(なりきん)の登場:造船業や海運業貿易業などで莫大な富を築いた人々が「成金」と呼ばれました。彼らは派手な金遣いで世間の注目を集め料亭で札束を燃やして明かり代わりにしたといった逸話も残っています。
- 都市への人口集中:工業の発展に伴い多くの人々が職を求めて農村から都市へと流入し都市のサラリーマン(俸給生活者)や工場労働者が急増しました。
- 生活の洋風化:ラジオや雑誌といった新しいメディアが普及し都市部を中心に洋食や洋服といった西洋的な生活様式が広まり始めました(大正文化)。
3.4. 好景気の影:インフレーションと格差の拡大
しかしこの華やかな大戦景気の裏側では深刻な社会問題が進行していました。
- 激しいインフレーション:急激な好景気は物価の異常な高騰(インフレーション)を引き起こしました。特に米の価格は暴騰し庶民の生活を直撃しました。
- 格差の拡大:成金が生まれる一方で給料の上昇が物価の上昇に追いつかないサラリーマンや工場労働者そして小作農たちの生活はますます苦しくなりました。富は一部の人々に集中し社会の格差は著しく拡大したのです。
この庶民の不満と生活苦はやがて次の米騒動という大規模な社会不安へと繋がっていきます。大戦景気は日本の経済を大きく成長させましたがそれは同時に日本の社会が抱える矛盾をより一層深刻化させるものでもあったのです。
4. 米騒動と原敬内閣
大戦景気がもたらした熱狂の裏で庶民の生活は激しいインフレーションによって苦しめられていました。特に日々の糧である米の価格は異常な高騰を続け人々の不満は爆発寸前に達していました。そして1918年(大正7年)富山県の漁村の主婦たちの小さな抗議行動をきっかけにその不満は全国的な「米騒動(こめそうどう)」として燃え上がります。この日本近代史上最大規模の民衆暴動は藩閥出身の寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣を退陣に追い込みそしてついに日本で最初の本格的な政党内閣である原敬(はらたかし)内閣を誕生させる直接的な引き金となりました。
4.1. 米価高騰の背景
1918年に米の価格が異常なまでに高騰した背景にはいくつかの要因がありました。
- 大戦景気によるインフレーション:好景気によって人々の所得が増え米の需要が高まりました。
- シベリア出兵:政府がシベリア出兵を決定すると地主や米商人が軍隊による大量の米の買い付けを見越して米を売り惜しみ市場に出回る米の量が減少しました。
- 投機的な買い占め:この状況に乗じて米商人が投機目的で米を買い占めたことも米価の高騰に拍車をかけました。
庶民にとって米は生活必需品です。その価格が手の届かないものになった時彼らの怒りは頂点に達しました。
4.2. 米騒動の勃発と全国への拡大
1918年7月富山県魚津(うおづ)の漁村の主婦たちが米の積み出しを阻止しようと米問屋に押しかけました。この小さな行動が全国的な騒動の始まりでした。
このニュースが新聞で報じられると騒動は燎原の火のように全国へと広がっていきます。
- 騒動の担い手:主婦、労働者、農民、そして被差別部落の人々など普段は抑圧されていた様々な階層の民衆が騒動に参加しました。
- 騒動の形態:人々は米問屋や豪商高利貸しの家を襲撃する「打ちこわし」を行い米を安く売るよう要求したり米俵を奪い取ったりしました。
- 騒動の規模:騒動は発生から約50日間にわたり38市153町177村にまで拡大。参加者は数百万人規模に達したとされています。
この米騒動は特定の指導者がいない自然発生的で大規模な民衆暴動であったことが大きな特徴でした。
4.3. 寺内内閣の崩壊
この全国的な騒動に対し藩閥の巨頭・山県有朋の側近であった寺内正毅首相の超然内閣(政党に基盤を置かない内閣)は有効な手を打つことができませんでした。
政府は軍隊を出動させて騒動を鎮圧しようとしましたが事態は収まらずその統治能力の欠如を露呈してしまいます。結局寺内内閣はこの米騒動の責任をとる形で1918年9月に総辞職しました。
4.4. 原敬内閣の成立:「平民宰相」の登場
寺内内閣が崩壊した後元老たちは後継の首相の選定に苦慮します。もはや藩閥の力だけでは国民の不満を抑えきれないことは明らかでした。
そこで元老の西園寺公望は衆議院の第一党であった立憲政友会の総裁原敬を次の首相として強く推薦します。山県有朋らはこれに難色を示しましたが他に選択肢はありませんでした。
1918年9月原敬は日本の第19代内閣総理大臣に就任します。彼の内閣の成立は日本の憲政史において画期的な意味を持っていました。
- 日本初の本格的な政党内閣:原内閣は陸軍・海軍・外務の三大臣を除く全ての閣僚を立憲政友会の党員で固めました。これは日本で最初の本格的な政党内閣の誕生でした。
- 「平民宰相」:原敬は薩長出身の藩閥政治家ではなくまた華族でもない平民出身の初の総理大臣でした。彼の登場は国民に新しい時代の到来を期待させました。
米騒動という民衆の巨大なエネルギーが20年以上続いた藩閥政治の壁を打ち破りついに政党政治の扉を開いたのです。原敬内閣は国民の期待を背負いながら選挙制度の改革や高等教育の拡充といった様々な政策を推し進めていくことになります。
5. ベルサイユ体制と国際連盟
第一次世界大戦は1918年11月に終結しました。4年以上にわたるこの大戦はヨーロッパに深い傷跡を残しそれまでの国際秩序を根底から覆しました。そして1919年戦勝国である連合国はフランスのパリで講和会議を開き戦後の新しい国際秩序を構築しようとします。日本もまた「五大国」の一員としてこの会議に参加し新たな国際秩序である「ベルサイユ体制」と史上初の国際平和機関である「国際連盟」の創設に関わりました。しかしこの会議で日本は栄光と同時に深い挫折も味わうことになります。
5.1. パリ講和会議と日本の参加
1919年1月から始まったパリ講和会議には日本もまた主要な戦勝国(アメリカ、イギリス、フランス、イタリア、日本)の一員として参加しました。日本の全権大使は元老の西園寺公望でした。
会議の主な議題は敗戦国ドイツに対する講和条約(ベルサイユ条約)の内容と新しい国際平和機関の設立でした。
5.2. 日本の要求と成果
この会議における日本の主な要求は以下の二点でした。
- ドイツ権益の継承:大戦中に日本が占領した中国・山東省における旧ドイツ権益を正式に日本が継承すること。
- 南洋諸島の委任統治:同じく日本が占領した赤道以北の旧ドイツ領南洋諸島を日本の委任統治領とすること。
これらの要求は中国の強い反対にもかかわらずほぼ認められました。日本は戦勝国としてその国際的な地位を高めアジア太平洋地域における新たな権益を確保することに成功したのです。
5.3. 人種的差別撤廃提案の挫折
一方で日本はこの会議で深い挫折も経験します。日本全権団は会議で設立が討議されていた国際連盟の規約の中に「人種的差別撤廃」を明記するよう提案しました。
- 提案の背景:この提案の背景には当時アメリカやカナダ、オーストラリアなどで日本人移民が差別的な扱いを受けているという現実がありました。日本はこの提案を通じて人種的な偏見をなくし国際社会における日本の平等を認めさせようとしたのです。
- 提案の否決:この日本の提案は多くの国から賛成を得ました。しかし議長国であったアメリカのウィルソン大統領と植民地に多くの有色人種を抱えるイギリスやオーストラリアがこれに強く反対。最終的にこの提案は全会一致ではないという理由で否決されてしまいました。
この人種差別撤廃提案の否決は日本国民に大きな失望感と欧米列強に対する不信感を抱かせました。日本は五大国の一員となりながらも人種的な偏見の壁を打ち破ることができなかったのです。
5.4. ベルサイユ体制と国際連盟
こうして1919年6月にベルサイユ条約が調印され第一次世界大戦は正式に終結。この条約によって生まれた新しい国際秩序を「ベルサイユ体制」と呼びます。
そしてこの条約に基づいて史上初の集団安全保障機関である国際連盟が1920年に発足しました。
- 国際連盟の理念:アメリカのウィルソン大統領が提唱した「十四カ条の平和原則」に基づき国際紛争を武力ではなく話し合いで解決することを目指しました。
- 日本の地位:日本はイギリス、フランス、イタリアと共に常任理事国となり国際社会の中心的な役割を担うことになりました。
- 国際連盟の限界:しかしこの国際連盟はいくつかの大きな限界を抱えていました。
- アメリカの不参加: 提唱国であるアメリカ自身が議会の反対で加盟しなかった。
- ソ連・ドイツの不参加: 当初ロシア革命後のソ連や敗戦国のドイツは加盟を認められなかった。
- 経済制裁のみ: 軍事的な制裁手段を持たなかったためその実効性には乏しかった。
ベルサイユ体制と国際連盟の成立は日本を名実ともに世界の一等国へと押し上げました。しかしその裏で味わった人種差別撤廃提案の挫折は日本のナショナリズムを刺激しその後の日本の外交政策に複雑な影を落としていくことになります。
6. ワシントン会議と軍縮
第一次世界大戦後のベルサイユ体制はヨーロッパの秩序を再編しましたがアジア太平洋地域には新たな緊張が生まれていました。大戦中に勢力を拡大した日本と太平洋に進出してきたアメリカとの間で建艦競争が激化し日米関係は悪化の一途をたどっていました。この緊張を緩和しアジア太平洋地域に新たな国際秩序を構築するため1921年から1922年にかけてアメリカの提唱で「ワシントン会議」が開催されます。この会議は史上初の本格的な軍縮会議でありその結果結ばれた海軍軍縮条約は日本のその後の運命を大きく左右することになりました。
6.1. 会議の背景:日米対立の激化
ワシントン会議が開催された背景にはいくつかの要因がありました。
- 海軍建艦競争:第一次世界大戦後日本は「八八艦隊(戦艦八隻・巡洋戦艦八隻)」の建設計画を進め海軍力の増強を図りました。これに対しアメリカやイギリスも大規模な建艦計画で対抗。三国の間で終わりなき海軍拡張競争が始まりこれは各国の財政を著しく圧迫していました。
- 日英同盟への懸念:アメリカは1902年以来続く日英同盟をアジアにおける日本の膨張を助長するものとして強く警戒していました。
- 中国問題:対華二十一カ条要求や山東省権益の継承など日本の露骨な中国進出に対しアメリカは中国の門戸開放・機会均等を主張し日本と対立していました。
これらの問題を一挙に解決するためアメリカのハーディング大統領は主要9カ国をワシントンに招き国際会議を開催したのです。
6.2. ワシントン会議で結ばれた主な条約
この会議ではいくつかの重要な条約が結ばれこれによって構築されたアジア太平洋地域の新たな国際秩序を「ワシントン体制」と呼びます。
- 四カ国条約(1921年):日本・イギリス・アメリカ・フランスの間で結ばれました。太平洋における互いの島の領有権を尊重し紛争は共同会議で解決することを定めました。この条約の発効に伴い20年間続いた日英同盟は廃棄されることになりました。
- 九カ国条約(1922年):上記四カ国に中国・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガルを加えた九カ国で結ばれました。中国の主権尊重・領土保全・門戸開放を約束するものでした。これにより日本の山東省権益は中国に返還されることになり特定の国が中国で排他的な利益を追求することは困難になりました。
6.3. ワシントン海軍軍縮条約(1922年)
この会議の最も重要な成果が日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの五カ国間で結ばれたワシントン海軍軍縮条約でした。
- 条約の主な内容:
- 主力艦の保有比率: 各国の主力艦(戦艦・巡洋戦艦)の保有トン数の上限をアメリカ:5、イギリス:5、日本:3、フランス:1.67、イタリア:1.67という比率に制限しました。
- 建造の10年間停止: 主力艦の新規建造を10年間停止することも定められました。
- 太平洋の要塞化の禁止: 太平洋の島々(ハワイ、シンガポールなどを除く)に新たな海軍基地や要塞を造ることを禁止しました。
6.4. 条約が日本に与えた影響
この海軍軍縮条約は日本国内で大きな論争を巻き起こしました。
- 国際協調派の評価:当時の日本の全権であった海軍大臣の加藤友三郎(かとうともさぶろう)や幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)らはこの条約を高く評価しました。
- 財政負担の軽減: 建艦競争を停止できたことは日本の財政にとって大きなプラスでした。
- 国防上の利益: 主力艦の比率は対米英6割でしたが太平洋の要塞化禁止条項によって米英海軍が日本近海で作戦を行うことは困難になりました。そのため日本の国防上は十分な戦力であると判断しました。
- 艦隊派の反発:しかし海軍の内部にはこの条約を「屈辱的な敗北」と見なす強硬派(艦隊派)がいました。
- 対米英劣勢の固定化: 主力艦の比率が「5:5:3」と定められたことは日本の海軍力をアメリカ・イギリスよりも劣った地位に固定化するものであり彼らのプライドを深く傷つけました。
- 軍令部(作戦担当)の不満: 彼らは政府(条約派)が軍の作戦に関わる兵力量を勝手に決めたこと(統帥権干犯、とうすいけんかんぱん)に強く反発しました。
このワシントン体制は1920年代の日本の国際協調外交の基礎となりました。しかしその一方で海軍軍縮条約によって生まれた海軍内部の亀裂は1930年代に軍部が政治に介入し日本が軍国主義へと傾いていく大きな伏線となったのです。
7. 第二次護憲運動と普通選挙法
原敬の本格的な政党内閣の登場は日本の憲政史における大きな前進でした。しかし彼の暗殺とその後に関東大震災という未曾有の災害が起こると元老たちは再び政党政治家を忌避し藩閥や官僚を中心とする非政党内閣(超然内閣)を次々と組織します。この藩閥政治への回帰に対し「憲政の常道(議会政治の正常なあり方)を確立せよ」と再び国民的な運動が起こります。これが「第二次護憲運動」です。この運動は1924年の総選挙で圧勝し政党内閣の時代を復活させそしてついに国民が長年求め続けた悲願「普通選挙法」を成立させるという輝かしい成果を勝ち取りました。
7.1. 藩閥政治への回帰
原敬が1921年に暗殺された後海軍大将の加藤友三郎内閣などを経て1923年に関東大震災が発生。その混乱を収拾するため海軍大将の山本権兵衛(やまもとごんべえ)が第二次内閣を組織します。
しかしその内閣も虎ノ門事件(皇太子裕仁親王が狙撃された事件)の責任をとって総辞職。その後元老たちは枢密院議長であった清浦奎吾(きようらけいご)を首相とする陸海軍と貴族院の議員を中心とした内閣を組織させました。
この清浦内閣は衆議院に全く基盤を持たない超然内閣であり藩閥政治への完全な逆行でした。
7.2. 護憲三派の結成と第二次護憲運動
この清浦内閣の成立に対し政党勢力は激しく反発します。「藩閥を打倒し政党内閣を樹立せよ」というスローガンのもと三つの主要な政党が手を結びました。
- 憲政会: 総裁は加藤高明(かとうたかあき)。
- 立憲政友会: 総裁は高橋是清(たかはしこれきよ)。(ただし床次竹二郎らは離党)
- 革新倶楽部: 総裁は犬養毅。
この三党派による連合を「護憲三派(ごけんさんぱ)」と呼びます。彼らが中心となって展開した藩閥打倒・政党内閣樹立の運動が「第二次護憲運動」です。
1924年1月護憲三派は清浦内閣の打倒を決議。これに対し清浦首相は衆議院を解散し総選挙で国民の信を問うことになります。
7.3. 護憲三派の圧勝と加藤高明内閣
1924年5月に行われた総選挙は護憲三派の圧勝に終わりました。国民は藩閥政治に対して明確な「ノー」を突きつけ政党政治を支持したのです。
この選挙結果を受け清浦内閣は総辞職。元老の西園寺公望もこの国民の意思を無視することはできず衆議院の第一党となった憲政会の総裁・加藤高明を次の首相に推薦しました。
こうして護憲三派の連立による加藤高明内閣が成立。ここに第一次護憲運動以来の目標であった政党内閣の確立という原則が日本の政治に定着することになります。この後1932年の五・一五事件まで衆議院の多数派を占める政党の党首が首相となる「憲政の常道(けんせいのじょうどう)」と呼ばれる時代が続きます。
7.4. 普通選挙法の成立(1925年)
加藤高明内閣が成し遂げた最大の功績が長年の懸案であった普通選挙法の成立でした。
それまでの選挙権は「直接国税15円以上」(後に3円以上に改正)を納める25歳以上の男子にしか与えられていませんでした。普通選挙の実現は自由民権運動以来の国民的な悲願でした。
加藤内閣はついにこの財産による制限を撤廃する普通選挙法案を議会に提出。貴族院の一部からの強い反対はありましたが1925年3月ついに法律として成立しました。
- 法律の内容:
- 納税資格の撤廃: これまで選挙権の条件であった納税額の制限を完全に撤廃。
- 満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられる。
この法律によって有権者の数はそれまでの約330万人から一気に約1240万人へと約4倍に増加しました。
7.5. 普通選挙の光と影
普通選挙法の成立は大正デモクラシーの最大の成果であり日本の民主主義の歴史における大きな一歩でした。
しかしこの改革にはいくつかの限界もありました。
- 女性参政権の不在:選挙権は依然として男子にしか与えられず女性の参政権は認められませんでした。
- 貴族院の存在:国民の代表である衆議院に対して選挙で選ばれたわけではない貴族院が同等の権限を持つという矛盾は残されたままでした。
そしてこの普通選挙法という「アメ」と同時に政府は国民の思想を厳しく取り締まる「ムチ」を用意していました。それが同じ議会で成立した治安維持法だったのです。
8. 治安維持法の制定
1925年(大正14年)加藤高明内閣は普通選挙法を成立させ国民の政治参加への道を大きく広げました。しかしその一方で同じ議会で全く正反対の性格を持つ一つの法律を成立させます。それが「治安維持法(ちあんいじほう)」です。この法律は共産主義などの国体を変革しようとする思想を取り締まることを目的として制定されました。しかしその曖見な条文は後に政府による国民への思想統制と人権弾圧の万能の道具として濫用され日本の自由な言論を窒息させ軍国主義への道を準備する最大の悪法となっていきます。本章ではこの治安維持法がなぜ制定されその内容がいかに危険なものであったのかを探ります。
8.1. 制定の背景
政府が普通選挙法と同時に治安維持法を制定した背景にはいくつかの要因がありました。
- ロシア革命と社会主義思想の拡大:1917年のロシア革命の成功は世界中に衝撃を与えました。日本でも社会主義や共産主義といった思想が知識人や労働者の間に広まり始めていました。1922年には非合法の日本共産党が結成されます。
- 普通選挙への警戒感:政府や保守層は普通選挙によって有権者が急増するとこれらの「危険な思想」が労働者や農民の間に広まり社会体制を転覆させる運動に繋がるのではないかという強い警戒感を抱いていました。
- 治安警察法の限界:それまでも社会運動を取り締まる法律として治安警察法がありましたがこれは具体的な行動を取り締まるものであり思想そのものを罰することはできませんでした。
政府は普通選挙という「アメ」を与える以上社会体制の根幹を揺るがす思想を事前に摘み取るための強力な「ムチ」が必要であると考えたのです。
8.2. 治安維持法の内容(1925年)
1925年に制定された治安維持法の核心は第一条にありました。
「第一条 国体ヲ変革シ又ハ私有財産制度ヲ否認スルコトヲ目的トシテ結社ヲ組織シタル者又ハ情ヲ知リテ之ニ加入シタル者ハ十年以下ノ懲役又ハ禁錮ニ処ス」
(「国体を変革すること」または「私有財産制度を否定すること」を目的として団体(結社)を組織した者や事情を知ってそれに加入した者は10年以下の懲役または禁錮に処する。)
この条文にはいくつかの極めて危険な問題点が含まれていました。
- 「国体」という言葉の曖昧さ:法律の最大のキーワードである「国体(こくたい)」とは一体何を指すのか。この法律にはその明確な定義がありませんでした。当初は「天皇を中心とする国家体制」といった意味で考えられていましたがその解釈は政府の都合でいくらでも拡大することが可能でした。
- 目的罪:この法律は実際に犯罪行為を行わなくても「国体を変革する」という目的を持っているだけで罰することができる「目的罪」でした。これは人の内心の自由を罰するものであり近代法の原則に反するものでした。
- 結社罪:一人で思想を持っているだけでは罰せられず「結社(団体)」を組織したりそれに加入したりすることが処罰の対象でした。
8.3. 法の改悪と弾圧の拡大
当初治安維持法の対象は主に共産主義者に限定されていました。しかし1928年に田中義一(たなかぎいち)内閣は法律をさらに厳しく改正します。
- 1928年の改正:
- 最高刑の引き上げ: 「国体を変革する」目的で結社を組織した者の最高刑が死刑にまで引き上げられました。
- 目的遂行罪の追加: 結社の組織だけでなくその「目的を遂行するための行為」も処罰の対象となりました。
この改正によって治安維持法は政府に反対するあらゆる思想や言論を取り締まるための強力な武器へと変貌しました。
- 弾圧の対象の拡大:当初の共産主義者だけでなくやがては社会主義者自由主義者の学者キリスト教などの宗教団体そして戦争に反対する人々など政府の方針に少しでも批判的な者は全て「国賊」「非国民」として治安維持法の対象となっていきました。
- 特別高等警察(特高):この法律を運用するための専門の思想警察として「特別高等警察(とっこうけいさつ)」が全国に設置されました。彼らは盗聴や拷問といった非合法な手段も用いて人々を監視し多くの人々を逮捕・投獄しました。作家の小林多喜二(こばやしたきじ)のように拷問によって命を落とした者も少なくありませんでした。
8.4. 治安維持法の歴史的意義
治安維持法の制定は日本の民主主義の歴史における大きな汚点でした。
- 思想・言論の自由の圧殺:この法律の存在によって人々は政府を批判することを恐れるようになり自由な言論は社会から失われていきました。
- 軍国主義への道:1930年代に軍部が台頭すると治安維持法は軍の方針に反対する人々を弾圧するための最も有効な道具として使われました。これにより日本は戦争へと突き進む道を誰も止めることができなくなってしまったのです。
普通選挙法と治安維持法。この二つの法律が同じ年に制定されたという事実は大正デモクラシーが内包していた光と影を象徴しています。国民に参政権という扉を開くと同時にその自由な精神を縛るための見えない鎖を用意した。この矛盾こそがその後の日本の悲劇的な歴史へと繋がっていく大きな要因となったのです。
9. 社会運動の展開
大正デモクラシーの時代は政治の世界だけでなく社会のあらゆる階層で人々が自らの権利を主張し始めたいわば「社会の目覚め」の時代でもありました。第一次世界大戦後の工業化の進展と都市への人口集中は新たな社会問題(労働問題など)を生み出しロシア革命の成功は社会主義思想を広めました。このような時代背景の中で労働者農民女性そして被差別部落の人々がそれぞれ団結し自らの生活の向上と差別の撤廃を求めて活発な社会運動を展開しました。本章では大正時代に花開いた多様な社会運動の軌跡を追います。
9.1. 労働運動の高揚
大戦景気によって日本の工業は飛躍的に発展しましたがそこで働く労働者の権利はほとんど保護されていませんでした。低賃金・長時間労働そして劣悪な労働環境。これらの問題に対し労働者たちは団結して自らの権利を主張し始めます。
- 労働組合の結成:1912年に鈴木文治(すずきぶんじ)によって結成された友愛会(ゆうあいかい)は当初は労働者と資本家の協調を目指す穏健な組織でした。しかし次第にその性格を急進化させ1921年には大日本労働総同盟へと発展し労働者の権利を主張する全国的な労働組合の中心となりました。
- 労働争議の激化:労働者たちは賃上げや労働条件の改善を求めてストライキ(同盟罷業、どうめいひぎょう)などの労働争議を頻繁に行うようになります。1921年の神戸での三菱・川崎造船所の労働者による大規模なストライキなどが有名です。
- メーデーの開催:1920年には日本で最初のメーデーが東京の上野公園で開かれ労働者の国際的な連帯が示されました。
9.2. 農民運動の展開
都市の労働者だけでなく農村でも変化が起こっていました。日本の農村は依然として地主が大きな力を持つ封建的な社会でした。土地を持たない小作人たちは地主に対して高い小作料を納めなければならずその生活は常に不安定でした。
- 小作争議の頻発:小作人たちは団結し地主に対して小作料の引き下げなどを求める小作争議を各地で起こしました。
- 日本農民組合の結成:1922年には賀川豊彦(かがわとよひこ)や杉山元治郎(すぎやまもとじろう)らによって全国的な農民の組織である日本農民組合が結成されました。この組合は小作争議を指導し農民の権利の擁護に努めました。
9.3. 女性運動の始まり
江戸時代の封建的な家制度の下で女性は「家」に従属する存在とされ参政権はもちろんのこと多くの基本的な人権が認められていませんでした。大正デモクラシーの自由な雰囲気の中で女性たちもまた自らの解放を求めて立ち上がります。
- 青鞜社(せいとうしゃ):1911年平塚らいてう(ひらつからいちょう)は「元始、女性は実に太陽であった」という有名な宣言で始まる文芸雑誌『青鞜』を創刊。青鞜社を結成しました。彼女たちは因習的な家制度や「良妻賢母」の思想を批判し女性の自立と解放を訴えました。
- 新婦人協会(しんふじんきょうかい):1920年には平塚らいてう市川房枝(いちかわふさえ)奥むめお(おくむめお)らが新婦人協会を設立。女性の政治的権利を制限していた治安警察法第5条の改正(女性の政治集会への参加の自由)を求める運動を展開しこれを実現させました。これは日本における女性参政権運動の第一歩でした。
9.4. 部落解放運動:水平社の創立
近代化が進む中でも被差別部落出身の人々に対する社会的な差別は依然として根強く残っていました。この不合理な差別に苦しむ人々が自らの手でその解放を勝ち取るために立ち上がります。
1922年(大正11年)3月3日京都で全国の被差別部落の代表者が集まり**全国水平社(ぜんこくすいへいしゃ)**の創立大会が開かれました。
その創立宣言(水平社宣言)は人間の尊厳と平等を高らかに謳い上げた画期的な人権宣言でした。
「…人の世に熱あれ、人間に光あれ。」
(人の世に温かい心が通うように、人間としての光り輝く生き方ができるように。)
水平社は「我々に対する差別的な言動に対しては徹底的に糾弾する」という方針を掲げました。そして差別的な裁判や行政の対応に対しては激しい抗議運動(糾弾闘争)を展開しました。
水平社の創立は被差別部落の人々がもはや同情や憐れみを待つのではなく自らの誇りと力で差別と闘うことを宣言した日本の人権史における金字塔でした。
大正デモクラシーの時代に花開いたこれらの多様な社会運動。それは日本の近代社会が内包する様々な矛盾を映し出す鏡でした。そしてこれらの運動の中から生まれた平等と人権を求める声はその後の日本の社会をより良いものへと変えていくための貴重な遺産となったのです。
10. 政党内閣の時代
第二次護憲運動の成功によって1924年に加藤高明の護憲三派内閣が成立して以降日本の政治は一時的な安定期を迎えます。それは衆議院の多数を占める政党の党首が総理大臣となって内閣を組織するというイギリス流の議会政治の慣例が定着した時代でした。この「憲政の常道(けんせいのじょうどう)」と呼ばれた時代は日本の議会制民主主義が最も成熟した時期であり大正デモクラシーの黄金期とされています。しかしその一方で政党は財閥と癒着し汚職事件が頻発するなど国民の信頼を失い始めます。そして世界恐慌の波と軍部の台頭という内外の危機に対応できずこの束の間の政党政治の時代は終わりを告げることになります。
10.1. 憲政の常道
「憲政の常道」とは憲法に基づく政治の正常なあり方という意味です。具体的には以下の原則が確立されたことを指します。
- 衆議院の多数党が内閣を組織する。
- 内閣が総辞職した場合は次の内閣は野党第一党の党首が組織する。
この慣例が定着したことで元老による首相の指名(御下名拝受、ごかしめいはいじゅ)も形式的なものとなり日本の政治は二大政党である立憲政友会と**憲政会(後の立憲民政党)**が交互に政権を担う二大政党制の時代に入りました。
10.2. 二大政党の政策
この二つの政党はそれぞれ異なる支持基盤と政策を持っていました。
- 立憲政友会(せいゆうかい):
- 支持基盤: 地方の地主や富農層。
- 政策: 地方の利益を重視し道路や鉄道港湾といった公共事業を積極的に行う「積極政策」を掲げました。その財源として国債の増発も辞さない立場でした。財閥では三井と密接な関係がありました。
- 立憲民政党(みんせいとう):
- 支持基盤: 都市部の商工業者や知識人層。
- 政策: 財政の健全化を重視し緊縮財政と産業の合理化を主張しました。また国際協調を重んじる外交政策を掲げました。財閥では三菱と密接な関係がありました。
10.3. 政党政治の腐敗と限界
この政党内閣の時代は日本の民主主義にとって大きな前進でした。しかしそれは同時に多くの問題を抱えていました。
- 財閥との癒着:両党は選挙資金などを得るため特定の財閥と深く結びついていました。そのため政府の政策が財閥の利益を優先するものとなり汚職事件(疑獄事件)が頻発しました。
- 国民生活の軽視:政党は選挙での勝利を最優先するあまり党利党略に走り国民の生活を向上させるための抜本的な政策を打ち出すことができませんでした。
- 軍部への無力さ:政党内閣は軍部の統帥権の独立という憲法上の制約のため軍を十分にコントロールすることができませんでした。軍部は政党内閣を軽視し次第に独自の行動をとるようになります。
10.4. 田中義一内閣と張作霖爆殺事件
政友会の田中義一(たなかぎいち)内閣の時代(1927-29)には軍部の暴走を政党内閣が抑えきれないことを象徴する事件が起こります。
中国で勢力を拡大していた満州の軍閥・**張作霖(ちょうさくりん)**が次第に日本の言うことを聞かなくなったため日本の関東軍は1928年に彼を列車ごと爆殺してしまいます(張作霖爆殺事件)。
田中首相は当初昭和天皇に「事件の犯人を厳罰に処す」と約束しました。しかし関東軍の強い抵抗にあい犯人を処罰することができませんでした。そのことを天皇に報告すると天皇は「それでは話が違うではないか」と激怒。天皇の信頼を失った田中内閣は総辞職に追い込まれました。
この事件は軍部が政府の意向を無視して独自の行動をとりしかも政党内閣がそれを全く抑えられないという統帥権の問題を露呈させました。
10.5. 浜口雄幸内閣とロンドン海軍軍縮条約
民政党の浜口雄幸(はまぐちおさち)内閣の時代(1929-31)にも同様の問題が起こります。
1930年に結ばれたロンドン海軍軍縮条約は補助艦の保有量に制限を設けるものでした。浜口内閣は国際協調と財政緊縮の観点からこの条約に調印します。
しかしこれに対し海軍の艦隊派や右翼勢力は「補助艦の保有量を制限することは天皇の統帥権を政府が侵すものである(統帥権干犯)」と激しく政府を攻撃しました。
この統帥権干犯問題は国民の間に「軟弱な政党内閣が軍の足を引っ張っている」という印象を広めました。そしてその翌年浜口首相は右翼の青年に東京駅で狙撃され重傷を負いこれが原因で内閣は総辞職します。
政党政治は財閥との癒着によって国民の信頼を失い軍部の暴走を抑えることができない無力さを露呈しました。そして世界恐慌の波が日本を襲い満州事変が勃発すると国民はもはや政党政治家ではなく軍部に国の未来を託すようになっていくのです。
Module 18:大正デモクラシーと政党政治の総括:束の間の自由と体制の脆さ
本モジュールでは第一次護憲運動に始まり「憲政の常道」として政党内閣の時代が確立されるまでの「大正デモクラシー」と呼ばれる時代の光と影を追った。我々は藩閥打倒を掲げた民衆の力が内閣を倒し第一次世界大戦がもたらした好景気と米騒動を経て日本初の本格的な政党内閣が誕生する様を見た。戦後の国際協調の時代の中で日本は常任理事国として国際連盟に参加し普通選挙法によって国民の政治参加への道を大きく広げた。しかしその自由な空気の裏では人種差別撤廃提案の挫折という国際社会の壁に直面し国内では治安維持法という思想弾圧の武器が用意されていた。労働運動や農民運動女性運動といった多様な社会運動が花開く一方で政党は財閥と癒着し軍部の台頭を抑えきれないという構造的な脆さを抱えていた。大正デモクラシーは日本の近代史において議会制民主主義が最も輝いた束の間の時代であったがその基盤はあまりにも脆弱であり次の時代の経済恐慌と軍国主義の嵐の前に脆くも崩れ去る運命にあった。