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【基礎 日本史(通史)】Module 2:律令国家の成立
本モジュールの目的と構成
前モジュールでは、日本列島に国家の「原型」が誕生する過程を探求しました。しかし、氏姓制度に代表されるヤマト政権の統治は、血縁と豪族の私的な力に大きく依存した、いわば「公」と「私」が未分化な状態でした。本モジュールでは、この古代国家が、内外の深刻な危機を乗り越える過程で、どのようにして成文法典「律令」に基づく体系的な中央集権国家へと、劇的な変貌を遂げたのかを解き明かします。この変革の時代を学ぶことの戦略的重要性は、単に官僚制度や税制の仕組みを暗記することではありません。それは、日本の歴史上、初めて「公(おおやけ)」という概念が確立され、天皇の下にすべての土地と人民が属するという国家理念(公地公民)が、どのようにして構想され、制度として実装され、そしてやがて変質していくのか、そのダイナミックなプロセスを理解することにあります。
本モジュールは、以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず、蘇我氏の専横を打破した「大化の改新」とその理念を検証し、次に、東アジアを揺るがした「白村江の戦い」での敗戦が、いかに国家の存亡をかけた体制刷新を加速させたかを見ます。そして、古代最大の内乱である「壬申の乱」が、皮肉にも天皇の権威を絶対的なものとし、強力な中央集権化を決定づけた過程を分析します。これらの動乱を経て結実したのが、律令国家の完成形である「大宝律令」とその統治システムです。私たちは、その精緻な官僚機構と、人民支配の根幹をなした班田収授法を詳細に検討します。しかし、理想を掲げた律令国家も、やがて内部矛盾を露呈し始めます。「墾田永年私財法」による公地公民原則の崩壊、そして聖武天皇の時代に頂点に達する鎮護国家思想と、その末に訪れる道鏡事件に見る政治の動揺まで、光と影の両側面から、この日本初の本格的な法治国家の実像に迫ります。
- 大化の改新と公地公民制: 豪族支配から天皇中心の「公」の国家へ、その理念の誕生を探る。
- 白村江の戦いと国防体制: 対外的な軍事的敗北が、いかに国内の中央集権化を加速させる触媒となったかを分析する。
- 壬申の乱と天武・持統朝の政治: 古代最大の内乱が、なぜ天皇の権力を絶対化し、強力な国家建設へと繋がったのか、その逆説を解き明かす。
- 大宝律令の制定と律令国家の完成: 日本初の本格的な法典の構造と、唐の模倣にとどまらない独自の工夫を理解する。
- 二官八省と地方統治制度: 天皇の意思を全国の末端まで届けるための、精緻な官僚機構の仕組みを解剖する。
- 班田収授法と租・庸・調: 「公地公民」理念を経済的に支えた人民支配のシステムと、その負担の実態を明らかにする。
- 平城京遷都と奈良時代の政治: 唐の長安をモデルとした壮大な都が持つ、政治的・象徴的な意味を考察する。
- 墾田永年私財法と荘園の始まり: 律令国家が自らの理念を自ら崩していく画期的な政策転換と、その歴史的帰結を追う。
- 聖武天皇と鎮護国家思想: 不安と混乱の時代に、仏教の力で国家を救おうとした天皇の苦悩と巨大プロジェクトの実態を探る。
- 称徳天皇と道鏡、律令政治の動揺: 仏教勢力の政治介入が、律令国家の根幹である皇位継承にいかなる危機をもたらしたかを検証する。
このモジュールを通じて、皆さんは、法と制度によって国家を運営するという壮大な社会実験の成功と挫折の物語を追体験します。それは、現代にまで繋がる日本の「公」と「私」の関係性や、理想と現実の相克を考える上で、欠くことのできない知的基盤となるでしょう。
1. 大化の改新と公地公民制
推古朝の時代に蒔かれた天皇中心の中央集権国家という種は、7世紀半ば、ついに劇的な形で芽吹くことになります。蘇我氏の権勢がその頂点に達し、天皇の権威をも凌駕しかねない状況の中、皇族と一部の有力豪族がクーデターを決行し、政治の実権を奪還。そして、「大化の改新」と呼ばれる一連の政治改革を宣言します。この改革が掲げた核心的な理念こそ、「公地公民(こうちこうみん)」、すなわち全ての土地と人民は豪族の私有物ではなく、天皇が支配する「公(おおやけ)」のものである、というものでした。本章では、乙巳の変に至るまでの政治的背景、改新の詔の内容とその歴史的意義、そしてこの改革が本当に詔通りに実行されたのかという史料批判の問題まで、深く掘り下げていきます。
1.1. 乙巳の変(645年):蘇我氏本宗家の滅亡
推古天皇、聖徳太子、蘇我馬子の三頭政治によって保たれていた均衡は、彼らの相次ぐ死によって崩れ去ります。蘇我馬子の跡を継いだ蝦夷(えみし)、そしてその子・入鹿(いるか)の時代になると、蘇我氏の権力は歯止めのないものとなり、その専横は目に余るものとなっていきました。
1.1.1. 蘇我氏の専横と高まる不満
- 山背大兄王の討滅: 643年、蘇我入鹿は、聖徳太子の子であり、皇位継承の有力候補であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)とその一族を、斑鳩宮(いかるがのみや)に軍勢を差し向けて襲撃し、自害に追い込みます。これは、自らが推す古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)を確実に即位させるための暴挙であり、皇位継承に臣下が武力で介入するという、許されざる越権行為でした。
- 私的な権威の誇示: 蘇我蝦夷・入鹿親子は、自らの祖先の墓を「大陵(おおみささぎ)」と称し、人民を使役して造営しました。「みささぎ」とは、本来、天皇の墓(陵)のみに許される呼称です。また、自らの邸宅を「宮門(みかど)」と呼ばせ、その子らを「王子(みこ)」と称させるなど、その振る舞いは天皇家に比肩しようとするものであり、他の豪族たちの強い反発を招きました。
このような蘇我氏の専横に対し、危機感を募らせていたのが、皇族の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ、後の天智天皇)と、代々祭祀を司ってきた名門豪族である中臣鎌子(なかとみのかまこ、後の藤原鎌足)でした。二人は、隋・唐で学んだ南淵請安や僧旻から大陸の進んだ政治思想を学び、蘇我氏の私的な支配を打倒し、天皇を中心とする公的な国家体制を樹立する必要性を痛感していました。
1.1.2. クーデターの決行
645年6月12日、中大兄皇子と中臣鎌足らは、蘇我氏への不満を持つ豪族たちを味方につけ、クーデターを決行します。舞台は、飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大極殿。朝鮮三国の使者が貢物を献上する儀式の最中でした。
計画では、中大兄皇子の合図で伏兵が飛び出し、入鹿を斬り殺す手はずでしたが、恐怖のあまり誰も動けません。業を煮やした中大兄皇子自らが剣を抜いて入鹿に斬りかかり、それをきっかけに伏兵も続いて入鹿を殺害しました。この劇的な事件を、干支にちなんで「乙巳の変(いっしのへん)」と呼びます。
息子の非業の死を知った父・蝦夷は、自らの邸宅に火を放って自害。この時、『天皇記』『国記』といった、聖徳太子が編纂したとされる貴重な国史も焼失したと伝えられています。こうして、約半世紀にわたり絶大な権力を誇った蘇我氏の本宗家は、一日で滅亡しました。
1.2. 大化の改新:新政権の国家構想
乙巳の変の後、新政権は直ちに新たな国家体制の構築に着手します。
- 新政権の発足: 皇極天皇は退位(譲位)し、その弟である軽皇子(かるのみこ)が即位して孝徳(こうとく)天皇となりました。中大兄皇子は皇太子となり、政治の実権を握ります。大臣には左大臣として阿倍内麻呂(あべのうちまろ)、右大臣として蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ、蘇我氏の傍流でクーデターに協力)が、そして内臣(うちつおみ、天皇の側近筆頭)に中臣鎌足が就任しました。さらに、隋からの帰国留学生である僧旻と高向玄理(たかむこのげんり)が、国博士(くにはかせ)という顧問官に任命され、彼らの知識が改革の理論的支柱となりました。
- 元号「大化」の制定: 新政権は、日本で初めての元号(年号)として「大化(たいか)」を定めました。元号を定めるという行為は、中国皇帝に倣ったものであり、時間をも支配する独立した君主であることを内外に宣言する、極めて象徴的な意味を持っていました。これ以降、日本の歴史は元号と共に歩むことになります。
- 難波宮への遷都: 都を飛鳥から、海外との交通の便が良い摂津の難波(なにわ、現在の大阪市)に移し、新たな宮殿を造営しました。これは、旧来の豪族たちの影響力が強い飛鳥の地を離れ、心機一転、新しい政治を始めるという決意の現れでした。
1.3. 改新の詔とその理念:公地公民の宣言
646年(大化2年)正月、孝徳天皇は、新しい国家が目指すべき基本方針を四カ条からなる「改新の詔(かいしんのみことのり)」として発布しました。これは、日本の古代国家が、豪族の私的な連合体から、天皇が支配する公的な法治国家へと転換することを宣言した、歴史的なマニフェストでした。
1.3.1. 四カ条の内容
- 第一条(公地公民制):「昔在(むかし)の天皇等の立てたまへる、子代(こしろ)の民、処々の屯倉(みやけ)、及び臣(おみ)・連(むらじ)・伴造(とものみやつこ)・国造(くにのみやつこ)・村首(むらのおびと)の所有(たも)てる部曲(かきべ)の民、処々の田荘(たどころ)を罷(や)めよ。」(これまでの天皇が設定した子代・屯倉や、豪族たちが私的に所有してきた部曲(人民)と田荘(土地)を、全て廃止する。)これは、ヤマト政権の根幹であった氏姓制度・部民制の解体を意味します。豪族による土地(私有地)と人民(私有民)の支配を全面的に否定し、全ての土地(公地)と人民(公民)は、天皇が直接支配する、という「公地公民」の原則を打ち立てたのです。これが改新の理念の核心です。
- 第二条(中央・地方行政制度の整備):「初めて京師(みやこ)を修(おさ)め、畿内・国司・郡司・関塞(せきそこ)・斥候(うかみ)・防人(さきもり)・駅馬(はゆま)・伝馬(つたわりうま)を置け。」(初めて都の制度を定め、中央(京師)と地方(国・郡)の行政区画と官職を設け、国境の関所や防人、通信・交通のための駅伝制度などを整備せよ。)これは、全国を画一的な行政単位で再編し、中央から役人を派遣して統治する、中央集権的な行政システムの構築を目指すものです。
- 第三条(戸籍・計帳の作成と班田収授法の施行):「初めて戸籍(こせき)・計帳(けいちょう)・班田収授(はんでんしゅうじゅ)の法を造れ。」(全国的な戸籍と計帳(税を計算するための台帳)を作成し、それに基づいて、人民に口分田(くぶんでん)を分け与え、死ねば返させる班田収授法を実施せよ。)これは、公地公民の理念を経済的に実現するための具体的な方法です。国家が人民一人一人を戸籍によって直接把握し、生活の基盤となる田ん универсально(ひとしく)与える代わりに、そこから税を徴収するという、後の律令制の根幹をなす制度の導入を宣言しています。
- 第四条(統一的な税制の導入):「旧(もと)の賦役(ちからしごと)を罷(や)め、別に田の調(みつき)を為(おこな)へ。」(これまでの豪族による不統一で恣意的な税の徴収をやめ、国家による統一的な新しい税制(租・庸・調)を導入せよ。)これにより、豪族の中間搾取を排除し、国家の財政基盤を確立することを目指しました。
1.3.2. 史料批判:「改新の詔」は後世の創作か?
この改新の詔は、『日本書紀』にのみ記されており、その内容は、約半世紀後に完成する「大宝律令」の条文と酷似しています。そのため、歴史学者の間では、この詔が646年に発布されたそのままの記録ではなく、8世紀に『日本書紀』が編纂される際に、後の律令の条文を参考にして、大化の改新の理念をより理想的な形で「潤色(じゅんしょく)」、あるいは創作したのではないか、という見方が有力になっています。
しかし、たとえ詔の文言が後世の創作であったとしても、大化の改新において、「豪族の私的な土地・人民支配を廃止し、天皇中心の公的な一元支配を目指す」という根本的な改革の方向性が示されたこと自体は、史実として疑いようがありません。実際に、改新後、豪族の私有民であった部曲の廃止が進められたことを示す木簡なども発見されています。
大化の改新は、一夜にして全てが実現した完成された革命ではありませんでした。むしろ、それは、律令国家という壮大なゴールを目指して走り出した、長期にわたる国家改造計画の「キックオフ宣言」だったのです。その理念が、現実の制度として全国に完全に浸透するには、この後、白村江での敗戦という国家的危機と、壬申の乱という最大の内乱を経る必要があったのです。
2. 白村江の戦いと国防体制
大化の改新によって、国内の政治体制を刷新しようと動き出した矢先、ヤマト政権(この頃から「日本」という国号が意識され始める)は、国家の存亡を揺るがす、未曾有の対外的危機に直面します。その舞台となったのが、長年の友好国であった百済(くだら)の復興をかけた、朝鮮半島での大規模な国際戦争でした。663年、白村江(はくすきのえ、現在の錦江河口)で、日本の救援軍は、当時の東アジア最強の軍事大国であった唐・新羅の連合軍と激突し、壊滅的な敗北を喫します。この敗戦は、日本の対外政策の根本的な転換を迫ると同時に、強大な外敵の来襲というリアルな脅威に直面したことで、国内の中央集権化と国防体制の整備を、もはや待ったなしの課題として強力に推進させる、最大の契機となりました。
2.1. 激動の朝鮮半島と百済の滅亡
7世紀半ばの東アジア情勢は、中国大陸に隋に代わって誕生した、より強大で安定した統一帝国・唐(とう)を中心に展開していました。唐は、周辺諸国にその支配を及ぼそうとし、特に、依然として服属しない高句麗への圧力を強めていました。
この中で、朝鮮半島の三国関係も大きく変動します。新羅は、高句麗と百済という二つの敵に挟撃される危機を打開するため、積極的に唐に接近し、その軍事力を利用して半島統一を果たそうという戦略(事大主義)をとります。こうして、唐・新羅の同盟が結成され、高句麗・百済・日本の三国間連携と対峙するという、明確な国際対立の構図が形成されました。
660年、唐・新羅の連合軍は、まず百済に侵攻します。唐の水軍が海から、新羅の陸軍が東から首都・泗沘(しび)城に迫り、百済はほとんど抵抗もできないまま、あっけなく滅亡。義慈(ぎじ)王をはじめとする王族や重臣たちは、捕虜として唐の都・長安へと連れ去られてしまいました。
2.2. 百済復興支援と日本の国家的意思決定
長年にわたる友好国であった百済の滅亡は、日本にとって衝撃的な出来事でした。百済の滅亡は、日本の朝鮮半島における影響力の完全な喪失を意味し、次は強大な唐・新羅連合軍の矛先が、日本自身に向けられるかもしれないという、深刻な安全保障上の危機をもたらしました。
まもなく、百済の旧臣であった鬼室福信(きしつふくしん)らが、百済の故地で復興のための抵抗運動を開始します。そして、日本に人質として滞在していた百済の王子・豊璋(ほうしょう)の帰国と、日本の軍事支援を熱烈に求めてきました。
この要請に対し、当時の政権を主導していた中大兄皇子(皇太子)は、国家の総力を挙げた大規模な救援軍の派遣を決定します。これは、単なる友好国への義理立てや、朝鮮半島における権益の回復という目的だけではありませんでした。もし百済の復興に成功すれば、唐・新羅に対する防波堤を再建できる。もし失敗すれば、次は日本が直接戦場になる。これは、日本の将来の運命を賭けた、国家的な大博打でした。
この意思決定の背景には、大化の改新を経て、国家としての意思決定能力と、全国から兵力や物資を動員する中央集権的な力が、以前の豪族連合国家の時代とは比較にならないほど高まっていたことがあります。斉明(さいめい)天皇(皇極天皇が重祚)と中大兄皇子は、自ら九州の筑紫まで赴き、戦争の最高指揮を執りました。しかし、天皇は遠征の準備中に、この地で崩御してしまいます。
2.3. 白村江の海戦(663年):大敗とその意味
斉明天皇の死を乗り越え、中大兄皇子は遠征を続行します。日本は、2万7000人ともいわれる大軍を派遣し、百済復興軍の拠点であった周留(する)城を包囲する唐・新羅の軍を、海と陸から攻撃する作戦をとりました。
そして663年8月、白村江の河口で、日本の水軍と、唐の水軍が激突します。これが「白村江の戦い」です。
『日本書紀』によれば、日本の将軍たちは、敵の陣形が堅固であるのを見て、十分に戦備を整えずに突撃を敢行してしまいました。
「日本の諸将、軍の衆と相謂ひて曰く、『我ら先を争はば、敵自づから退くべし』と。更に日本の乱れたる隊の卒を率て、進みて大唐の軍の堅く陣したる船を打つ。」
(日本の将軍たちは、兵たちと相談して、「我々が我先にと攻めかかれば、敵は自ずから退却するだろう」と言った。そして、日本の乱れた部隊を率いて進み、唐軍の堅固な陣を敷いた船団を攻撃した。)
しかし、これは無謀な作戦でした。数と装備、そして戦術に勝る唐の水軍は、左右から日本の艦隊を挟み撃ちにします。日本の船は次々と炎上し、海は血で赤く染まったと伝えられています。この戦いで、日本の水軍は、実に400隻以上の船と、1万人以上の兵士を失うという、壊滅的な敗北を喫しました。
この敗戦により、百済復興の夢は完全に潰え、王子・豊璋は高句麗へ亡命。百済は歴史から姿を消しました。そして日本は、朝鮮半島における全ての足がかりを失い、建国以来、初めて、強大な外国勢力の侵攻という直接的な脅威に、単独で向き合わなければならない状況に立たされたのです。
2.4. 亡国の危機と国防体制の緊急整備
白村江での惨敗は、日本の指導者たちに、国防の脆弱さという厳しい現実を突きつけました。唐・新羅連合軍が、勢いに乗って海を渡り、日本に攻め込んでくるかもしれない。この「亡国の危機」という切迫した認識が、その後の日本の国家建設の方向性を決定づけることになります。
中大兄皇子(この時まだ即位せず、称制を続ける)は、矢継ぎ早に、全国的な国防体制の緊急整備に着手します。その内容は、極めて大規模かつ体系的なものでした。
- 水城(みずき)の設置:唐・新羅軍が上陸する可能性が最も高い九州の玄関口、博多湾岸を守るため、大宰府の北方に、全長約1.2キロメートルに及ぶ巨大な土塁と、その外側に幅60メートルの濠を巡らせた、長大な防衛ライン「水城」を築きました。これは、敵の上陸部隊の進撃を食い止めるための、巨大な防壁でした。
- 朝鮮式山城の建設:水城の後方、および瀬戸内海から畿内に至る要衝の山々には、百済からの亡命貴族たちの指導のもと、「朝鮮式山城(ちょうせんしきやまじろ)」と呼ばれる防衛拠点を次々と築きました。大野城(福岡県)や基肄城(きいじょう、佐賀・福岡県境)、屋嶋城(香川県)、金田城(長崎県対馬)などがその代表例で、これらは籠城戦を想定した堅固な要塞でした。
- 烽(とぶひ)と防人(さきもり)の配備:敵の襲来をいち早く中央に伝えるための、狼煙(のろし)による通信システム「烽」を、対馬・壱岐から九州、そして瀬戸内沿岸にわたって整備しました。また、九州北部の沿岸防備のために、主に関東地方など東国の兵士を徴発して派遣する「防人」の制度を本格的に開始しました。家族と離れて厳しい任務に就いた防人たちの心情は、後に『万葉集』に数多く詠まれ、私たちの胸を打ちます。
これらの国防プロジェクトは、膨大な労働力と物資、そして高度な計画性を必要とするものでした。これを可能にしたのは、大化の改新以来、着実に進められてきた中央集権化の成果に他なりません。そして、この国家総動員ともいえる国防体制の構築は、皮肉にも、さらに強力な中央集権化、すなわち全国の人民と土地を国家が一元的に管理する律令制の完成を、不可逆的に加速させる最大の原動力となったのです。
白村江の敗戦は、軍事的には大惨事でしたが、その後の日本の歴史にとっては、外部の脅威によって国民国家としての意識が鍛えられ、統一国家の建設が飛躍的に進展するという、極めて重要な転換点となったのです。
3. 壬申の乱と天武・持統朝の政治
白村江の敗戦という国家的危機を乗り越え、天智天皇(中大兄皇子)は、近江大津宮(おうみおおつのみや)で律令国家の建設を着実に進めていました。しかし、彼の死後、その後継者の座をめぐり、日本古代史上最大の内乱が勃発します。672年に起こった「壬申の乱(じんしんのらん)」です。この戦いは、天智天皇の子である大友皇子(おおとものみこ)と、天皇の弟である大海人皇子(おおあまのみこ)との間で、皇位と国家の未来を賭けて繰り広げられました。この内乱は、それまでの豪族間の争いとは比較にならないほど大規模なものであり、その勝利者である大海人皇子、すなわち天武(てんむ)天皇は、絶大な権力を手中に収めます。そして、彼はその権力を基盤に、これまでの改革を遥かに凌駕する、強力かつ専制的な中央集権化を断行し、律令国家の完成への道を決定づけたのです。本章では、壬申の乱の勃発の経緯とその勝敗を分けた要因、そして勝利した天武天皇とその跡を継いだ持統(じとう)天皇が、どのようにして日本の国家体制を築き上げていったのかを探ります。
3.1. 皇位継承をめぐる対立:天智天皇の苦悩
天智天皇は、大化の改新を主導し、白村江の敗戦後の難局を乗り切った、優れた政治家でした。彼は日本初の本格的な律令法典とされる「近江令(おうみりょう)」や、初の全国的な戸籍である「庚午年籍(こうごねんじゃく)」を作成するなど、中央集権国家の基盤を着々と固めていました。
しかし、彼の最大の悩みは、後継者問題でした。彼には、聡明な弟である大海人皇子と、溺愛する息子である大友皇子という、二人の有力な皇位継承候補がいました。
- 大海人皇子: 天智天皇の同母弟であり、文武両道に優れた実力者でした。天智天皇の右腕として、数々の政策に関与し、多くの豪族からも人望を集めていました。皇位継承の序列から言っても、彼が次の天皇となるのが自然な流れでした。
- 大友皇子: 天智天皇の長子であり、父からの寵愛は非常に深いものがありました。天智天皇は、自らの血を引く息子に皇位を継がせたいという強い願望を持っており、671年には、まだ新しい役職であった太政大臣(だじょうだいじん)に大友皇子を任命します。これは、事実上、彼を後継者として内外に宣言するものであり、朝廷内に深刻な緊張を生み出しました。
この状況に、自らの身の危険を感じたのが大海人皇子でした。天智天皇が病に倒れると、彼は病床に呼ばれます。そこで天皇から後事を託されそうになりますが、大海人皇子はこれを固辞し、病気療養を名目に、全ての官職を辞して出家し、吉野(奈良県南部)へと隠棲してしまいます。これは、皇位への野心がないことを示すことで、天智天皇や大友皇子側の警戒心を解き、来るべき時に備えるための、高度な政治的パフォーマンスでした。
3.2. 壬申の乱(672年)の勃発と展開
671年12月、天智天皇が崩御すると、事態は一気に動き出します。近江大津宮の朝廷(大友皇子側)が、大海人皇子を討つための準備を進めているという情報が、吉野の彼のもとに届きました。
もはや躊躇している時間はない。大海人皇子は、先手を打って挙兵することを決意します。672年6月、彼はわずか数十人の従者と共に吉野を脱出し、東国(美濃・尾張方面)へと向かいました。彼の戦略は、地方の豪族たちを味方につけ、兵力を集めてから、近江の朝廷を東西から挟撃するというものでした。
この戦略は、見事に功を奏します。
- 東国豪族の支持: 大海人皇子は、まず、東国への交通の要衝である不破(ふわ)の関(岐阜県関ケ原)を封鎖し、近江朝廷が東国に動員をかけるのを阻止しました。そして、美濃や尾張の地方豪族たちは、天智天皇の中央集権的な政治に不満を抱いていた者も多く、人望の厚い大海人皇子に続々と味方しました。これにより、大海人皇子は短期間で数万の兵力を集めることに成功します。
- 近江朝廷の対応の遅れ: 一方、大友皇子側の近江朝廷は、初動が遅れました。大友皇子の即位が正式なものではなかった(『日本書紀』は彼を天皇として歴代に数えていない)ため、その命令系統は必ずしも盤石ではなく、豪族たちの動員は思うように進みませんでした。
- 決戦と大友皇子の自害: 東国から進撃する大海人皇子軍は、各地で近江朝廷軍を破り、ついに瀬田川(滋賀県)で決戦となります。この戦いで大敗を喫した近江朝廷軍は総崩れとなり、追い詰められた大友皇子は、翌日、自害しました。挙兵からわずか1ヶ月余り。古代史上最大の内乱は、大海人皇子の圧勝に終わったのです。
3.3. 天武天皇の登場と専制的な政治
壬申の乱に勝利した大海人皇子は、翌673年、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位し、天武天皇となります。この内乱の勝利は、彼の権力に、それ以前のどの大王とも比較にならないほどの強さと正当性を与えました。彼は、敵対した多くの豪族を粛清し、自らの力で皇位を勝ち取った、まさに「軍事的な覇者」でした。この絶対的な権力を背景に、天武天皇は、強力なリーダーシップのもと、中央集権化を徹底的に推し進めていきます。その政治は、「皇親政治(こうしんせいじ)」とも呼ばれる、極めて専制的な性格を帯びていました。
3.3.1. 皇親政治の展開
天武天皇は、壬申の乱で豪族たちがそれぞれの利害で寝返った苦い経験から、もはや有力豪族に国政の重要ポストを委ねることをやめました。代わりに、自らの子供たちをはじめとする皇族(皇親)を、政治の中枢に任命し、全ての権力を天皇家(皇室)に集中させようとしました。太政大臣などの、豪族が就く最高位の官職も、天武朝では置かれませんでした。これは、豪族の力を徹底的に削ぎ、天皇が直接、官僚機構を支配する「天皇専制」体制を確立するための、断固たる措置でした。
3.3.2. 律令国家建設の加速
この強大な権力を基盤に、天武天皇は律令国家の建設を急ピッチで進めます。
- 八色の姓(やくさのかばね): 684年、従来の氏姓制度を再編成し、新たな身分秩序として「八色の姓」を制定しました。これは、皇族に次ぐ最高位の姓として、真人(まひと)、朝臣(あそん)、宿禰(すくね)などを設け、天皇との血縁の近さや、壬申の乱での功績に応じて、豪族たちを再ランク付けするものでした。これにより、旧来の臣・連といった姓の価値は相対的に低下し、天皇を中心とする新しい身分秩序が創出されました。
- 富本銭(ふほんせん)と無文銀銭: 日本で最初の鋳造貨幣とされる「富本銭」を発行しました。これは、物品交換が中心であった経済に、国家が価値を保証する貨幣を導入し、経済をも一元的に支配しようとする試みでした。
- 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定: 天智天皇の近江令を引き継ぎ、より体系的な律令法典の編纂を進め、その制定を命じました。この律令は、天武天皇の死後、皇后であった持統天皇の時代に施行されることになります。
- 国史編纂と「日本」国号: 『古事記』『日本書紀』の編纂を命じ、天皇を中心とする国家の歴史を、神代から続く万世一系の物語として体系化しようとしました。また、対外的に用いる国号を、それまでの「倭」から、日の昇る国を意味する「日本」へと改め、君主の称号も「大王」から「天皇」へと正式に定めたのも、この天武・持統朝の時代であったと考えられています。
3.4. 持統天皇と藤原京への遷都
686年に天武天皇が崩御すると、その遺志を継いで、皇后であった鵜野讃良皇女(うののさららのひめみこ)が、自ら即位して持統天皇となります。彼女は、夫である天武天皇の政策を忠実に引き継ぎ、律令国家の完成に向けて、最後の仕上げを行いました。
3.4.1. 飛鳥浄御原令の施行と庚寅年籍
689年、持統天皇は、天武天皇が編纂を命じていた飛鳥浄御原令を施行します。これにより、日本の統治は、属人的な支配から、法典に基づく体系的な支配へと、大きく舵を切りました。
さらに、翌690年には、全国的な戸籍である「庚寅年籍(こういんねんじゃく)」を作成させます。これは、後の班田収授法の基礎となるものであり、国家が人民一人一人を直接把握し、支配するための、画期的なインフラ整備でした。
3.4.2. 藤原京への遷都
持統天皇の最大の事業が、日本初の本格的な都城(とじょう)である「藤原京(ふじわらきょう)」の造営と、そこへの遷都(694年)です。
藤原京は、それまでの宮とは異なり、唐の都・長安をモデルとした、碁盤の目状の道路網(条坊制)を持つ、壮大な計画都市でした。その中央には、大極殿や朝堂院といった宮殿や官庁街が配置され、天皇の住まいと政治の場が一体化していました。この都の構造自体が、天皇の権威と、その下に整然と組織された官僚国家の秩序を、目に見える形で人々に示す、巨大な装置(モニュメント)だったのです。
壬申の乱という大動乱を経て、天武・持統の両天皇は、わずか30年ほどの間に、日本の国家体制を根底から作り変えました。彼らの強力なリーダーシップがなければ、その後の律令国家の完成はあり得なかったでしょう。天武天皇は、武力によって天皇の権威を絶対化し、持統天皇は、その権威を、法と都城という永続的なシステムの中に結晶化させたのです。この二人の共同作業によって、日本は、ついに体系的な法治国家への扉を開くことになります。
4. 大宝律令の制定と律令国家の完成
天武・持統朝によって強力に推し進められた中央集権国家の建設事業は、8世紀の初頭、ついにその集大成を迎えます。701年(大宝元年)、文武(もんむ)天皇の時代に、日本史上初となる、律・令の二法典がそろった本格的な法典、「大宝律令(たいほうりつりょう)」が完成し、全国に施行されました。これは、それまでの慣習法や個別の法令を統合し、国家の統治に関するあらゆる事柄を、体系的かつ網羅的に規定した、国家の一大基本法典でした。この大宝律令の制定・施行をもって、日本の「律令国家」は名実ともに完成したとされています。本章では、律令の構造、その手本となった唐の律令との関係、そして大宝律令が持つ歴史的な意義について、詳細に解説します。
4.1. 律令法典の構造:律・令・格・式
律令国家の法体系は、「律(りつ)」「令(りょう)」「格(きゃく)」「式(しき)」という四つの要素から構成されていました。このうち、国家の根幹をなすのが、律と令です。
- 律(Ritsu) – 刑法典:「律」は、現代の法律で言えば、主に「刑法」にあたります。どのような行為が犯罪となり、それに対してどのような罰(笞・杖・徒・流・死の五刑)が科されるのかを、体系的に定めたものです。律の目的は、罪を犯した者を罰することによって社会の秩序を維持し、国家の支配に反する行為を抑止することにありました。大宝律令の律は、全6巻から構成されていました。
- 令(Ryō) – 行政法・民法典:「令」は、律が禁止事項と罰則を定めた「~してはならない」法であるのに対し、国家の統治システムそのものを規定した、いわば「行政法」や「民法」にあたるものです。官僚制度(官制)、役人の服務規程(職員令)、身分制度(戸令)、土地制度(田令)、税制(賦役令)、軍事制度(軍防令)など、国家の運営に関するあらゆる基本ルールが、この令に定められていました。令の目的は、国家という巨大な組織を、円滑かつ効率的に運営するための仕組みを定めることにありました。大宝律令の令は、全11巻から構成されていました。
アナロジーを用いるなら、律令国家という巨大なコンピュータシステムにおいて、**令がそのシステムを動かすための基本プログラム(オペレーティングシステム)**であり、律がシステムに損害を与えるウイルスや不正アクセスを排除するためのセキュリティソフトであった、と考えると分かりやすいでしょう。
- 格(Kyaku) – 改正法・補充法:律令は国家の基本法典ですが、社会の変化に対応するためには、その内容を修正したり、新たな規定を追加したりする必要があります。そのために制定されたのが「格」です。格は、律令の条文を補ったり、改正したりするための一括の法令パッケージ(勅や太政官符など)であり、時代ごとのニーズに合わせて、律令をアップデートする役割を果たしました。
- 式(Shiki) – 施行細則:律令や格に定められた規定を、実際にどのように運用するのか、その具体的な手続きや書式などを定めたものが「式」です。これは、法律を現場で執行するための、詳細なマニュアル(施行細則)にあたります。
大宝律令の制定当初は、律と令のみでしたが、その後、奈良時代から平安時代にかけて、格と式が追加で編纂されていき、「律・令・格・式」の四つがそろった法体系が完成します。
4.2. 唐律令の継受と日本の独自性
日本の律令は、当時、世界で最も先進的な法体系であった唐の律令を、全面的に手本として作成されました。大化の改新以来、遣隋使や遣唐使として大陸に渡った留学生たちが、命がけで持ち帰った知識が、その基盤となっています。特に、653年に制定された唐の「永徽律令(えいきりつりょう)」が、直接的なモデルになったと考えられています。
しかし、日本の律令は、単なる唐の律令の丸写し(コピー)ではありませんでした。そこには、日本の社会や文化、国情に合わせて、唐の制度を主体的に取捨選択し、あるいは大胆に改変した、「継受(けいじゅ)と変容」の跡が明確に見られます。
4.2.1. 日本独自の改変点
- 神祇官の設置:日本の官僚制度の最大の特徴は、行政全般を司る「太政官(だじょうかん)」と並んで、全国の神々の祭祀を司る「神祇官(じんぎかん)」が、独立した機関として、しかも形式上は太政官よりも上位に置かれた点です。唐の制度では、祭祀は礼部という一つの省の職務に過ぎませんでしたが、日本では、古来の神祇信仰を国家祭祀として重視し、それを律令国家の精神的な支柱と位置づけたのです。これは、祭政一致という日本の伝統的な統治理念を、律令制の中に組み込んだ、日本独自の工夫でした。
- 官職名の和風化:唐の官職名をそのまま使うのではなく、大臣(おとど、おおまえつぎみ)・大納言(おおものもうすつかさ)・少納言(すないものもうすつかさ)のように、日本の古来の呼称(和風諡号)を当てはめるなど、文化的な配慮が見られます。
- 宦官制度の不採用:唐の宮廷では、皇帝の私的な空間である後宮を管理するために、去勢された男性官僚である「宦官(かんがん)」が重要な役割を果たしていましたが、日本ではこの制度は採用されませんでした。
- 科挙の不採用と官位蔭位の制:唐では、官僚登用試験である「科挙」が、家柄によらず有能な人材を登用するための重要な制度となっていました。しかし、日本では、科挙は本格的には導入されませんでした。代わりに重視されたのが、「官位蔭位(おんい)の制」です。これは、高位の官人の子や孫は、無試験で、父祖の位階に応じた一定以上の位階を与えられ、官僚になることができるという制度でした。これは、日本の社会が、依然として氏姓制度以来の貴族的な家柄や血縁を重んじる社会であったことを示しています。律令国家は、理念としては天皇の下の平等を掲げつつも、現実には、上級貴族層による権力の世襲を制度的に保障していたのです。
これらの改変点からは、日本の律令編纂者たちが、唐の先進的なシステムを学びつつも、それを鵜呑みにするのではなく、日本の伝統や社会の実情に合わせて、主体的に「国家の形」を設計しようとした、強い意志と創意工夫を読み取ることができます。
4.3. 大宝律令制定の歴史的意義
大宝律令の制定と施行は、日本の歴史において、画期的な意味を持つ出来事でした。
- 法治国家の完成:それまでの、為政者の個人的な判断や、慣習に頼った統治から、全国で統一された成文法典に基づいて国家を運営する「法治国家」へと、名実ともに移行したことを意味します。これにより、統治の公平性や予見可能性が高まり、国家システムは格段に安定しました。
- 中央集権体制の確立:天皇を頂点とするピラミッド型の官僚機構、全国一律の地方行政制度、そして統一された税制や軍事制度が法的に定められたことで、中央集権的な統治体制が、制度的に完成しました。天皇の命令が、法と官僚機構を通じて、全国の隅々にまで及ぶシステムが構築されたのです。
- 「日本」という国家意識の確立:大宝律令は、国内向けの法典であると同時に、対外的に、日本が唐と対等な、独自の君主(天皇)と法体系を持つ、独立した文明国家であることを宣言する、という重要な役割も担っていました。702年に派遣された遣唐使は、この大宝律令を携えて大陸に渡り、国号を正式に「日本」と改めたことを報告しました。これにより、日本は東アジアの国際社会に、新たな国家としてデビューを果たしたのです。
大宝律令は、その後、一部が修正されながらも、平安時代を通じて、日本の政治・社会の根幹をなす基本法典として機能し続けました。そして、その精神や法概念の一部は、後の武家法や、さらには現代の法体系にも、見えない形で影響を与え続けています。大宝律令の完成は、まさに日本の「公的な国家」が誕生した瞬間であり、その後の日本の歴史の軌道を決定づけた、一大分岐点だったのです。
5. 二官八省と地方統治制度
大宝律令によって設計された国家は、天皇を唯一絶対の主権者として頂点に戴き、その意思を、精緻に張り巡らされた官僚機構を通じて、全国の隅々にまで効率的に伝達・実行することを目指した、巨大なピラミッド型の統治システムでした。その骨格をなすのが、中央の「二官八省(にかん はっしょう)」と呼ばれる官庁組織と、地方の「国・郡・里(こく・ぐん・り)」という行政区分です。本章では、この律令国家の神経網ともいえる中央・地方の統治制度の具体的な仕組みを解剖し、その構造に込められた政治思想と、それがどのように機能したのかを詳細に見ていきます。
5.1. 中央官制の頂点:二官(神祇官・太政官)
日本の律令官制の最大の特徴は、中央の統治機構が、祭祀を司る「神祇官」と、一般政務を司る「太政官」という、二つの最高機関によって構成されていた点にあります。
5.1.1. 神祇官(Jingikan):祭祀による国家の統合
神祇官は、全国の神社の祭祀や、宮中での儀式、卜占(ぼくせん)などを司る役所です。令の規定上、神祇官は太政官よりも上位に、つまり官制の筆頭に置かれていました。これは、唐の律令には見られない、日本独自の極めて重要な特徴です。
その背景には、律令という先進的な中国の法思想を導入しつつも、国家の根幹には、古来からの日本の神々への信仰を据えるという、強い意志がありました。天皇は、政治的な統治者であると同時に、神々の子孫として、全国の神々を祀る最高神官でもありました。神祇官を太政官の上に置くことで、この国の統治が、神々の意志に基づいた神聖なものである(祭政一致)ということを、理念的に示したのです。これは、多様な氏神を持つ豪族たちを、天皇を最高祭主とする一つの国家祭祀の体系の中に統合し、精神的な一体感を醸成するという、高度な政治的意図も含まれていました。
5.1.2. 太政官(Daijōkan):国家の最高政治機関
太政官は、神祇官が司る祭祀以外の、あらゆる一般政務を統括する、事実上の最高行政機関でした。太政官の組織は、今日の内閣にあたる「議政官(ぎじょうかん)」と呼ばれる合議体と、その下で実務を分担する四つの事務局から構成されていました。
議政官(公卿):
太政官の最高首脳部であり、国家の重要事項を合議によって決定しました。この構成員は「公卿(くぎょう)」と呼ばれ、律令貴族の頂点に立つ人々でした。
- 太政大臣(だじょうだいじん): 全ての官職の長。ただし、常設の職ではなく、天皇の師範となるべき、徳望の優れた人物が任命される名誉職的な側面が強く、任命されないことも多かった。
- 左大臣(さだいじん)・右大臣(うだいじん): 常設の官職としては最高位。国政の全てを総理し、天皇を補佐しました。
- 大納言(だいなごん): 大臣を補佐し、大臣と共に国政を審議し、天皇の詔勅(しょうちょく)を下に伝え、下からの上奏を取り次ぐ重要な役割を担いました。定員は初め4名。
- 参議(さんぎ): 大納言に次ぐ地位で、同じく国政の審議に参加しました。令には定められていない令外官(りょうげのかん)でしたが、後に常設化されます。
太政官の意思決定は、この公卿たちによる合議が基本でした。天皇の裁可を得た決定事項は、太政官符(だいじょうかんぷ)として、下の八省へと伝えられ、実行に移されました。
太政官の事務局:
- 少納言(しょうなごん): 天皇の印(内印)や太政官の印(外印)の管理、詔勅の起草など、天皇と太政官の機密文書に関わる事務を担当しました。
- 左弁官局(さべんかんきょく)・右弁官局(うべんかんきょく): それぞれが後述する八省のうちの四省を監督し、太政官の決定を各省に伝達し、その実行を監督する役割を担いました。行政の円滑な運営を確保するための、重要なコントロールタワーでした。
- 巡察使(じゅんさつし): 地方官の勤務状況や、地方政治の実態を監察するために、定期的に中央から派遣される監察官。地方行政の腐敗を防ぎ、中央集権を維持するための重要な仕組みでした。
5.2. 行政の実務を担う:八省(Hasshō)
太政官の下には、実際の行政事務を分担して執行する、八つの省が置かれました。これらは、現代の中央省庁にあたります。八省は、太政官の左弁官と右弁官によって、それぞれ四省ずつが管轄されていました。
【左弁官の管轄】
- 中務省(なかつかさしょう): 天皇の側近にあって、詔勅の作成や宮中の事務など、最も重要で機密性の高い政務を担当しました。八省の中でも筆頭の省とされました。
- 式部省(しきぶしょう): 文官の人事、大学・国学の管理、礼式の監督など、文治に関する幅広い業務を担当しました。現代の人事院と文部科学省を合わせたような役割です。
- 治部省(じぶしょう): 氏姓に関すること、外交、仏事や雅楽の監督などを担当しました。
- 民部省(みんぶしょう): 全国の戸籍・計帳の管理、班田収授の実施、租税の徴収など、人民支配と国家財政の根幹を担う、極めて重要な省でした。現代の総務省と財務省を合わせたような役割です。
【右弁官の管轄】
- 兵部省(ひょうぶしょう): 武官の人事、軍事、兵器の管理など、国防に関する一切を担当しました。現代の防衛省にあたります。
- 刑部省(ぎょうぶしょう): 全国の裁判の審理、刑罰の執行、囚人の管理などを担当しました。現代の法務省・最高裁判所にあたります。
- 大蔵省(おおくらしょう): 政府の財貨(庸・調として納められた物品など)の出納・管理、貨幣の鋳造、度量衡の統一などを担当しました。現代の財務省(国庫担当)や日本銀行の一部機能にあたります。
- 宮内省(くないしょう): 天皇家の家政、すなわち宮中の食事や掃除、医療、施設の管理などを担当しました。現代の宮内庁にあたります。
この二官八省の体系の下には、さらにそれぞれの職務を遂行するための「職(しき)」「寮(りょう)」「司(つかさ)」といった下部機関が置かれ、精緻で巨大な官僚ピラミッドを形成していました。
5.3. 地方統治のネットワーク:国・郡・里
中央の二官八省の決定を、全国の人民にまで浸透させるための地方行政制度も、律令によって体系的に整備されました。全国は、「国(くに)」「郡(ぐん、こおり)」「里(り、さと)」という、三段階の行政単位に区分されました。
- 国(Kuni):全国は約60余りの「国」に分けられました。これは、令制国(れいせいこく)と呼ばれ、現在の都道府県の原型となります(例:武蔵国、大和国)。国の長官である**国司(こくし)**は、中央の貴族が任命され、任国に赴任しました。国司は、守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)の四等官から構成され、任国内の行政・司法・警察の全権を握り、人民の戸籍管理、班田、税の徴収、軍団の指揮など、絶大な権限を持っていました。国司が政務を執る役所は「国府(こくふ)」または「国衙(こくが)」と呼ばれ、その国の政治・経済・文化の中心地でした。
- 郡(Gun):国は、さらに複数の「郡」に分けられました。郡の長官である**郡司(ぐんじ)**は、中央から派遣される国司とは異なり、その土地の伝統的な有力豪族(旧国造など)が、終身官として世襲的に任命されました。これは、律令国家が、地方の隅々までを直接支配するのではなく、在地の有力者の権威を利用して、間接的に地方を統治するという、現実的な選択をしたことを示しています。郡司は、国司の監督の下で、班田の実施や税の徴収・都への運搬など、人民と直接接する行政の最前線を担いました。郡司が政務を執る役所は「郡家(ぐうけ)」または「郡衙(ぐんが)」と呼ばれました。
- 里(Ri):郡は、さらに「里」という末端の行政単位に分けられました。1里は50戸で構成され、その長である**里長(りちょう、さとおさ)**が、里内の人民をまとめ、税の徴収や雑徭(ぞうよう)の割り当てなど、最も身近な行政を担いました。里長も、その里の有力な農民が任命されました。
この国・郡・里という三段階のシステムを通じて、中央政府の意思は、国司から郡司へ、郡司から里長へと伝達され、最終的に個々の人民(戸)にまで及ぶことになっていました。これは、天皇を頂点とする一元的な支配を、全国津々浦々にまで実現しようとする、壮大な統治ネットワークだったのです。
5.4. 特別行政区:京職と大宰府
上記の国郡里制とは別に、律令国家には二つの重要な特別行政区が置かれました。
- 京職(きょうしき):首都(京)の行政を担当する役所です。京は、左京・右京に分けられ、それぞれの長官が置かれました。首都の治安維持や戸籍管理、インフラ整備などを担いました。
- 大宰府(だざいふ):九州地方全体を統括し、特に対外的な防衛と外交の最前線を担った、極めて重要な役所です。その長官は、中央から有力な皇族や貴族が派遣され、「西の小朝廷」とも呼ばれるほどの大きな権限を持っていました。水城の維持管理、防人の指揮、外国使節の応対や接待、貿易の管理などを担当し、律令国家の西の玄関口として、国防上・外交上、不可欠な役割を果たしました。
このように、大宝律令が定めた中央・地方の統治制度は、唐の制度をモデルとしながらも、日本の国情に合わせて巧みにカスタマイズされた、精緻かつ合理的なシステムでした。このシステムによって、日本は初めて、法と官僚機構に基づく、統一的な国家運営の基盤を確立したのです。
6. 班田収授法と租・庸・調
律令国家が掲げた核心的な理念、「公地公民」――すなわち、日本中の全ての土地と人民は、天皇が統べる「公(おおやけ)」のものであるという思想。この理念を、経済的な側面から具体的に実現するための根幹をなしたのが、「班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)」と、それに基づく税制「租・庸・調(そ・よう・ちょう)」でした。このシステムは、国家が国民一人一人を直接把握し、生活の基盤となる土地を公平に分配する代わりに、国民が国家に対して一定の納税と労役の義務を負うという、壮大な国家と人民の間の契約でした。本章では、この律令国家の経済的基盤となった制度の具体的な仕組み、人民支配のインフラである戸籍制度、そして農民たちが負った過酷な負担の実態について、詳細に見ていきます。
6.1. 人民支配のインフラ:戸籍と計帳
班田収授法と租税制度を全国で統一的に実施するためには、その大前提として、国家が「どこに、どのような家族構成の人民が、何人住んでいるのか」を、正確に把握する必要がありました。そのための基本的な台帳が、「戸籍(こせき)」と「計帳(けいちょう)」です。
- 戸籍(Koseki):戸籍は、6年ごとに作成される、国家の最も基本的な人民台帳でした。1戸(ここでの「戸」は、複数の家族からなる行政上の単位)ごとに、戸主(こしゅ)の氏名、そしてその戸を構成する各家族員の氏名、性別、年齢、そして天皇との血縁関係や身分(良民か賤民かなど)が詳細に記録されました。この戸籍は、班田収授、すなわち土地を分配するための基礎資料となると同時に、徴兵や身分関係の証明など、あらゆる人民支配の根本台帳として機能しました。正倉院には、702年(大宝2年)に作成された最古級の戸籍の一部が奇跡的に現存しており(御野国(みののくに)など)、当時の家族構成や人口動態を知るための、第一級の史料となっています。
- 計帳(Keichō):計帳は、毎年作成される、租税を徴収するための台帳でした。戸籍を基にして、各戸の構成員の年間を通じた異動(出生、死亡など)を反映させ、その年の課税対象となる人数(課口、かこう)を確定するために作られました。計帳には、各人の年齢に応じて、庸・調を納める義務があるかどうかが記録されており、国司や郡司はこれに基づいて税の徴収を行いました。
この戸籍と計帳の作成・管理は、国司・郡司にとって最も重要な職務の一つでした。この二つの台帳によって、律令国家は、それまでの豪族を介した間接的な支配から脱却し、人民一人一人を「公民(こうみん)」として、直接的かつ個別的に把握するシステムを、史上初めて確立したのです。
6.2. 土地制度の根幹:班田収授法
全国の人民を戸籍によって把握した上で、国家は、公地公民の理念に基づき、彼らに土地を分け与えました。これが「班田収授法」です。
6.2.1. 制度の仕組み
- 班給の対象と年齢:班田は、6歳以上の全ての良民(男女を問わない)に対して行われました。賤民(せんみん)にも班給はありましたが、良民より少ない面積でした。
- 口分田(くぶんでん):人民に班給される田地を「口分田」と呼びます。その面積は、令の規定では、**良民の男子に2段(たん、約2,300平方メートル)、女子にはその3分の2(1段120歩)**と定められていました。ただし、これはあくまで原則であり、実際には人口に対して田地の面積が不足している地域も多く、規定通りの面積が給付されないこともありました。
- 班田の実施サイクル:班田は、戸籍の作成に合わせて、6年に一度、定期的に実施されることになっていました(六年一班)。この際に、新たに6歳になった者に口分田を与え、死亡した者の口分田は国家に収公(返還)しました。これにより、土地の私有を認めず、全ての田地を国家が一元的に管理・再分配するという原則が維持されました。
- 土地の売買禁止と終身利用:口分田は、あくまで国家から貸し与えられた土地(公地)であり、売買したり、他人に譲渡したりすることは、固く禁じられていました。農民は、その土地を生涯にわたって耕作する権利を与えられましたが、所有権は認められていませんでした。
この班田収授法は、全ての公民に生活の基盤となる土地を保障することで、安定した農民層を育成し、彼らを国家の財政基盤として確実に掌握しようとする、極めて合理的で壮大な土地制度でした。
6.3. 律令国家の税制:租・庸・調と雑徭
口分田を与えられた公民は、その見返りとして、国家に対して納税の義務を負いました。律令国家の税制は、主に「租(そ)」「庸(よう)」「調(ちょう)」、そして労役である「雑徭(ぞうよう)」からなる、複合的なシステムでした。
- 租(So) – 土地(米)にかかる税:「租」は、口分田の収穫物に対して課される、唯一の地税でした。税率は、**収穫された稲の約3%**と定められており、これを稲のまま国府の倉庫に納めました。この租は、主に地方の行政機関である国衙(こくが)の運営経費や、備蓄米として使われました。3%という税率は、現代の感覚からすると比較的低いように見えますが、これは農民が負う負担のほんの一部に過ぎませんでした。
- 庸(Yō) – 都での労役の代納物:「庸」は、成人の男子(正丁、せいてい)に対して課される税で、本来は、年に10日間、都(京)で労役(歳役、さいえき)に従事する義務を負うものでした。しかし、遠方の農民が都まで出てきて労役に従事するのは非現実的であるため、多くの場合、その労役の代わりとして、布(麻布)を納めることになっていました。庸として納められた布は、中央政府で働く下級役人の給与などに充てられました。
- 調(Chō) – 地方の特産物を納める税:「調」も、成人の男子に課される税で、それぞれの地方の**特産物(主に絹、布、糸、塩、海産物など)**を納めるものでした。調として納められた物品は、中央の貴族や役人の生活物資として消費されました。
- 運脚(うんきゃく):農民にとって最も過酷な負担の一つが、この庸・調として納める物品を、自らの負担で、地方の国府から都まで運搬する義務、「運脚」でした。往復に数ヶ月を要することも珍しくなく、その間の食料も自弁であったため、農民の労働力を大きく奪い、疲弊させる原因となりました。
- 雑徭(Zōyō) – 地方での労役:「雑徭」は、成人の男子が、国司の命令によって、年に最大60日間、自らが住む国内で、土木工事(道路、堤防、国府の建設など)に従事する労役でした。これも無償の労働であり、農繁期と重なることも多く、農民にとっては大きな負担でした。
6.4. その他の負担:出挙と兵役
上記の正規の税以外にも、農民の生活を圧迫する負担がありました。
- 出挙(すいこ):本来は、春に稲の種籾(たねもみ)などを農民に貸し付け、秋に利息と共に返済させる、一種の公的な融資制度でした。しかし、これが次第に強制的な貸付となり、**秋に5割(50%)**という高利を付けて返済させられる、事実上の税金と化していきました。この出挙による収入は、国衙の重要な財源となり、農民を苦しめる最大の要因の一つとなっていきます。
- 兵役(へいえき):成人の男子の中から、およそ3~4人に1人の割合で、兵士として徴発される義務がありました。兵士は、各国の**軍団(ぐんだん)**に所属し、訓練を受けました。その中から、一部は都の宮城を警備する衛士(えじ)として1年間、あるいは九州北部の防衛にあたる防人(さきもり)として3年間、厳しい任務に就かなければなりませんでした。これらの任務の間、武器や食料は、多くが自己負担であり、これも農民の生活を著しく圧迫しました。
このように、律令国家の農民は、国家から土地を与えられる一方で、その何倍もの価値を、物納、労役、兵役という形で国家に吸い上げられるという、極めて過酷な状況に置かれていました。この重すぎる負担が、やがて農民たちに口分田を捨てて逃亡(浮浪・逃亡)するという選択をさせ、班田収授法そのものを内側から崩壊させていく、最大の原因となっていくのです。律令国家の壮大な理想は、その足元で、公民たちの重い呻きによって支えられていたのです。
7. 平城京遷都と奈良時代の政治
710年、元明(げんめい)天皇の時代、日本の首都は、天武・持統朝が築いた藤原京から、その北方の奈良盆地へと移されました。こうして誕生したのが、日本史上初の本格的な国際都市ともいえる「平城京(へいじょうきょう)」です。これより、桓武天皇が長岡京に都を移す784年までの約70年間を、一般に「奈良時代」と呼びます。この時代は、大宝律令の制定によって完成した律令国家が、実際にどのように運用され、どのような政治的・社会的な展開を見せたのか、その光と影が最も鮮やかに現れた時代でした。本章では、平城京という壮大な都の構造とその政治的意味、そして奈良時代前期における、律令国家の主導権をめぐる藤原氏と皇族たちの激しい権力闘争の様相を追います。
7.1. 平城京遷都(710年):律令国家のシンボル
なぜ、完成からわずか16年しか経っていない藤原京を捨ててまで、新たな都を造営する必要があったのでしょうか。平城京への遷都には、いくつかの複合的な理由がありました。
- より本格的な唐風都城への希求: 藤原京は、日本初の条坊制(碁盤の目状の道路網)を持つ都城でしたが、その構造は『周礼(しゅらい)』という古い書物に基づいたものであり、宮城が都の中心に位置するなど、同時代の唐の長安とは異なる点も多くありました。これに対し、平城京は、唐の首都・長安を、より忠実に、かつ壮大なスケールで模倣して建設されました。都の北端に宮城を置き、そこから南に朱雀大路(すざくおおじ)を貫かせ、左右対称に市街地(左京・右京)を配置するその構造は、まさに最新の国際標準都市でした。この壮麗な都を建設すること自体が、日本が唐と肩を並べる文明国家であることを、内外に誇示する、強力な国家事業だったのです。
- 地理的・経済的要因: 藤原京は内陸にあり、水運の便が悪かったのに対し、平城京は、奈良盆地の河川を通じて、難波津(なにわづ、現在の大阪港)へと至る水上交通のアクセスが比較的容易でした。全国から庸・調として集められる物資の輸送や、遣唐使船との連携を考えた場合、平城京の方が有利であったと考えられます。
- 政治的一新の意図: 藤原京は、旧来の飛鳥の地と近接しており、伝統的な豪族たちの影響力が根強く残っていました。新たな地に、全く新しい設計思想の都を建設することは、旧弊を断ち切り、天皇を中心とする新しい律令の秩序を、改めて視覚的に示すという、政治的なリセットの意味合いも持っていました。
7.2. 平城京の構造と人々の暮らし
平城京は、東西約4.3km、南北約4.8km(北側の外京を含むと約5.3km)に及ぶ、広大な長方形の計画都市でした。
- 宮城(平城宮): 都の北端中央に位置し、周囲を高い塀で囲まれた、天皇の住まい(内裏、だいり)と、国家の政務を執り行う官庁街(朝堂院、ちょうどういん)が一体となった区域です。大極殿(だいごくでん)では即位式や元日朝賀などの国家儀式が執り行われ、朝堂院には二官八省の役所が整然と立ち並び、数千人の役人たちが働いていました。平城宮は、まさに律令国家の中枢神経であり、権力の源泉でした。
- 条坊制と朱雀大路: 宮城の南門である朱雀門から、都の南端の羅城門(らじょうもん)まで、幅約74mものメインストリート「朱雀大路」がまっすぐに貫いていました。そして、都全体が、この朱雀大路を軸に、碁盤の目状の道路(坊条)によって整然と区画されていました。この幾何学的な都市計画は、宇宙の秩序を地上に再現するという思想に基づいたものであり、天皇が世界の中心として君臨し、その支配が整然と隅々まで及んでいることを象徴していました。
- 京での暮らし: 平城京の人口は、最盛期には10万人にも達したと推定されています。その住民の多くは、天皇や貴族、そして全国から集められた役人たちとその家族でした。彼らの生活を支えるため、都の東西には、官営の市(東市・西市)が設けられ、全国から庸・調として集められた品々や、海外からの輸入品などが取引されました。また、大安寺、薬師寺、興福寺、東大寺、西大寺といった巨大な寺院が次々と建立され、平城京は政治の中心であると同時に、仏教文化の中心地としても栄えました。しかし、その華やかな姿の裏では、多くの人々が狭い住居に暮らし、衛生状態も悪かったことが、出土した木簡などからわかっています。
7.3. 律令政治の担い手:藤原不比等の活躍
奈良時代前期の政治は、天武天皇の孫である文武天皇、その母である元明天皇、姉である元正(げんしょう)天皇という、女帝や若い天皇が続く中で、一人の傑出した実力者によって、事実上、主導されていました。その人物こそ、大化の改新の功労者・中臣鎌足の子である、**藤原不比等(ふじわらのふひと)**です。
不比等は、天武・持統朝では、まだその才能を十分に発揮する機会に恵まれませんでした。しかし、文武天皇が即位すると、その類稀なる法律知識と政治手腕を武器に、頭角を現します。
- 大宝律令の編纂: 不比等は、刑部親王(おさかべしんのう)らと共に、大宝律令の編纂事業の中心人物として活躍しました。彼は、日本の国情に合わせた律令の制定に、決定的な役割を果たしたと考えられています。
- 巧みな婚姻政策: 不比等は、父・鎌足の戦略に倣い、自らの娘たちを巧みに天皇家と結びつけ、藤原氏が天皇の外戚として権力を掌握するための、揺るぎない基盤を築きました。娘の宮子(みやこ)は文武天皇の夫人となり、後の聖武天皇を産みます。また、もう一人の娘・光明子(こうみょうし)は、臣下の娘としては異例なことに、聖武天皇の皇后(光明皇后)となります。これにより、藤原氏は、他の貴族とは一線を画す、特別な地位を獲得しました。
- 養老律令の編纂: 不比等は、大宝律令をさらに日本の実情に合わせて改訂する作業にも着手し、「養老律令(ようろうりつりょう)」を編纂しました(施行は彼の死後)。
不比等は、自ら大臣などの最高位の官職に就くことはありませんでしたが、その絶大な影響力によって、奈良時代前期の政治を動かしました。彼の死後、その4人の息子たち(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)は、それぞれ藤原氏の四家(南家・北家・式家・京家)の祖となり、奈良時代を通じて、政界の中核を担っていくことになります。
7.4. 長屋王の変(729年):藤原氏と皇親勢力の対立
藤原不比等の死後、政界の主導権を握ったのは、天武天皇の孫にあたる皇族、**長屋王(ながやおう)**でした。彼は、右大臣、そして左大臣として、皇親勢力の中心人物として、律令政治を安定的に運営しました。
しかし、長屋王の存在は、勢力を拡大しようとする藤原不比等の4人の息子たち(藤原四子)にとって、最大の障害でした。両者の対立は、聖武天皇の皇太子が夭折し、その次の皇位継承者を誰にするかという問題で、決定的なものとなります。藤原四子は、自らの妹である光明子が生んだ皇子(基王、もといおう)を皇太子に立てようと画策しますが、基王もまた、生まれてすぐに亡くなってしまいます。
この状況下で、藤原四子は、政敵である長屋王を排除するための陰謀を企てます。729年2月、彼らは、「長屋王が、密かに左道(さどう、邪な呪術)を学んで、国家を転覆させようとしている」という、根も葉もない罪状をでっち上げ、朝廷に密告しました。
この密告を受け、藤原宇合(うまかい)が率いる軍勢が、長屋王の邸宅を完全に包囲。一切の弁明の機会も与えられないまま、長屋王は、妻である吉備内親王(きびないしんのう、元明天皇の娘)と、その間に生まれた子供たちと共に、自害に追い込まれました。これが「長屋王の変」です。
この事件は、律令に定められた正規の裁判手続きを無視して、政敵を陰謀によって葬り去るという、律令国家の理念を根底から揺るがすものでした。これにより、藤原四子は政界の主導権を完全に掌握し、同年、彼らの強い後押しによって、光明子が、臣下の身から初めて「皇后」となることが実現します。
長屋王の変は、奈良時代の政治が、もはや律令の理念通りに運営されるのではなく、特定の氏族(藤原氏)の権力闘争の場と化していく、その始まりを告げる、暗い影を落とす事件でした。そして、この長屋王の無念の死が、後の聖武天皇の治世に、大きな祟りとなって降りかかってくると、当時の人々は信じたのです。
8. 墾田永年私財法と荘園の始まり
律令国家の経済的根幹をなした「公地公民」の原則と、それを具現化した「班田収授法」。それは、全ての土地を国家(天皇)が所有し、人民に公平に分配するという、壮大かつ理想的なシステムでした。しかし、この理想は、施行からわずか数十年で、深刻な現実問題に直面し、制度疲労をきたし始めます。人口の増加に対して、班給すべき口分田が絶対的に不足するという、構造的な問題です。この危機に対応するため、政府は、当初の理念を徐々に譲歩させる政策を打ち出し、ついに743年、国家の根幹を揺るがす画期的な法令、「墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)」を発布します。これは、新たに開墾した土地の永久私有を認めるものであり、公地公民の原則を、国家自らが崩壊させる、歴史的な大転換でした。本章では、班田制の行き詰まりから、この法が制定されるまでの経緯と、それが後の日本の社会構造を決定づける「荘園(しょうえん)」の発生へと、どのようにつながっていったのかを探ります。
8.1. 班田収授法の行き詰まり:人口増と口分田の不足
班田収授法は、理論上は非常に優れた制度でした。しかし、そのシステムが円滑に機能するためには、一つの重要な前提条件がありました。それは、「人口の増加に見合うだけの、新たな田地を供給し続けることができる」という点です。
奈良時代に入り、社会が安定し、農業技術も向上すると、人口は著しく増加していきました。しかし、一方で、新たに開墾できる良質な土地には限りがあります。都の周辺や畿内などの先進地域では、6年に一度の班田で、新たに6歳になった人々に与えるべき口分田が、絶対的に不足するという事態が深刻化していきました。
この口分田不足は、二つの深刻な問題を引き起こしました。
- 国家財政の悪化:農民に口分田を班給できなければ、国家は、その農民から租税(特に、重要な財源である租)を徴収することができなくなります。これは、国家財政の基盤を揺るがす、死活問題でした。
- 農民の生産意欲の減退:農民にとって、口分田はあくまで国家からの借地であり、6年ごとに収公される可能性がある土地でした。そのため、苦労して土地を改良したり、新たな水路を引いたりしても、それが自分のものになる保証はなく、土地そのものへの投資や、長期的な生産性向上へのインセンティブが働きにくいという構造的な欠陥がありました。
この状況を打開するため、政府は、国家の財源を確保し、食糧の増産を図るという、緊急の課題に直面します。その解決策として浮上したのが、「新たな田地の開墾(開田)を、国家の力だけでなく、民間の力(資本と労働力)を利用して促進する」という政策でした。
8.2. 開墾奨励への政策転換:三世一身法(723年)
民間の人々に、時間と費用をかけて未開の土地を開墾してもらうためには、彼らに何らかの「見返り(インセンティブ)」を与える必要があります。その最初の試みが、723年、長屋王が政権を主導していた時代に発布された、「三世一身法(さんぜいっしんのほう)」でした。
8.2.1. 法令の内容
この法律は、以下のような内容でした。
- 新たな灌漑施設を造って開墾した田地については、開墾者本人・子・孫の三代にわたって、その土地の所有(私有)を認める。
- 既存の灌漑施設を利用して開墾した田地については、開墾者本人一代に限り、その所有を認める。
8.2.2. 三世一身法の意義と限界
この法律は、律令国家の歴史において、画期的なものでした。それは、班田収授法の原則である「土地の公有」に、初めて公式に例外を設け、「条件付きで土地の私有を認めた」という点です。これは、公地公民の理念からの、大きな後退であり、譲歩でした。政府は、土地の永久私有までは認められないものの、「三代」または「一代」という期間限定の私有権をインセンティブとして、貴族や寺社、そして富裕な農民層に、開墾への投資を促そうとしたのです。
この政策は、一定の成果を上げ、新たな開田が進みました。しかし、同時に、その「期間限定」という点が、大きな限界となって現れます。
土地の所有が認められる期間(三代または一代)が終わりに近づくと、その土地は結局、国家に収公されてしまいます。そのため、所有者たちは、期限が切れる直前になると、土地の維持管理を怠るようになり、せっかく開墾した田地が、再び荒廃してしまうというケースが頻発しました。これでは、安定した食糧増産という、政府の本来の目的を達成することはできません。
三世一身法は、開墾を促進するには、インセンティブがまだ不十分であることを示したのです。より強力な、そして恒久的なインセンティブが必要である。この認識が、次なる、そしてより根本的な政策転換へと繋がっていきます。
8.3. 墾田永年私財法(743年):公地公民原則の崩壊
三世一身法から20年後、聖武(しょうむ)天皇の時代、政府は、ついに歴史的な決断を下します。743年(天平15年)に発布された「墾田永年私財法」です。
8.3.1. 法令の内容とその衝撃
その内容は、極めてシンプルかつ、衝撃的なものでした。
「今より以後、任(おもむ)けに百姓(ひゃくせい)の墾田(こんでん)を、限る年紀無く、並びに永年私財と為すことを聴(ゆる)す。」
(今後は、人々が私的に開墾した田地については、年限を設けることなく、永久に私有財産とすることを許可する。)
ただし、この永久私有には、いくつかの条件が付されていました。開墾を行う者は、まず国司に申請して許可を得る必要があり、また、開墾できる面積も、その者の位階(身分)に応じて上限が定められていました(一位の貴族は500町、一般農民は10町など)。これは、無秩序な開墾を防ぎ、国家の管理下に置こうとする意図の現れでした。
しかし、その本質的な意味は、**「国家が、土地の永久私有を、法的に認めた」**という点にあります。これは、もはや「例外」や「譲歩」ではありません。律令国家が自らの基本理念であった「公地公民」の原則を、国家の政策として、公式に放棄したことを意味します。アナロジーを用いるなら、それまで国の全ての情報が保存されていた公的な中央サーバーに、身分に応じて、個人が自由に使える「私的なフォルダ」を作成し、その永久所有を認めたようなものです。この瞬間、律令国家の経済システムの根幹は、取り返しのつかない形で変質を始めたのです。
8.3.2. なぜこの法が制定されたのか
このラディカルな政策転換の背景には、聖武天皇の治世が、天災や疫病(天然痘の大流行)、そして藤原広嗣の乱といった、深刻な社会不安に見舞われていたことがあります。政府は、食糧不足が社会不安をさらに助長することを恐れ、とにかく米の増産を確保することを、国家の最優先課題としました。そのためには、土地の永久私有という、最大限のインセンティブを与えてでも、民間の力を利用して開墾を促進する必要があったのです。
8.4. 初期荘園の発生と社会の変容
墾田永年私財法は、政府の狙い通り、全国的な開墾ブームを引き起こしました。しかし、その恩恵を最も受けたのは、一般の農民ではありませんでした。大規模な開墾事業には、灌漑施設を建設するための莫大な費用と、多数の労働者を動員する組織力が必要です。そのような力を持っていたのは、以下の三つの階層でした。
- 中央の有力貴族(皇族・藤原氏など):彼らは、その高い位階に応じて広大な面積の開墾を許可され、その財力と政治力を利用して、地方の国司と結託し、大規模な開墾を進めました。
- 大寺社(東大寺など):国家から手厚い保護を受けていた大寺院も、信者からの寄進や、国家から与えられた資金を元手に、大規模な開墾を行いました。
- 地方の富裕農民層(田堵、たと):地方に在住し、郡司などを務める有力豪族や、富を蓄えた農民たちも、自らの労働力や、周辺の農民を雇い入れて開墾を進め、新たな土地所有者として台頭していきました。
こうして、彼ら有力者たちの手によって開墾され、私有地となった田地。これが「初期荘園(しょきしょうえん)」の始まりです。
初期荘園は、まだ輸租田(ゆそでん)であり、国家に対して「租」を納める義務はありましたが、それ以外の様々な特権を持つ、事実上の私領でした。この荘園の拡大は、日本の社会構造に、長期的かつ決定的な変化をもたらしました。
- 土地所有の二極化:土地は、国家が所有する「公領(こうりょう、口分田など)」と、貴族や寺社が所有する「荘園(私領)」という、二つの形態に分かれていきました。そして、時代が下るにつれて、荘園の割合はどんどん増大していきます。
- 新たな支配関係の出現:荘園の所有者(本家・領家)は、その土地を耕作する農民たちを、自らの支配下に置くようになります。これにより、天皇と公民という、律令国家が目指した一元的な支配関係は崩れ、荘園領主と荘民という、重層的で私的な支配関係が、社会のいたるところで生まれていきました。
- 貴族・寺社の経済基盤化:荘園からの収入は、貴族や寺社の経済的な基盤となり、彼らが中央政界で権勢を振るうための、強力な力の源泉となりました。
墾田永年私財法は、当面の食糧危機を回避するという短期的な目的は達成したかもしれません。しかし、その代償として、律令国家の根幹である公地公民制を崩壊させ、後の摂関政治や武家社会の経済的土台となる「荘園公領制」への扉を開いてしまったのです。それは、日本の歴史が、古代国家から中世社会へと移行していく、まさにその起点となる、不可逆的な一歩でした。
9. 聖武天皇と鎮護国家思想
奈良時代の政治史において、聖武(しょうむ)天皇(在位724-749)の治世は、ひときわ異彩を放っています。この時代は、天平文化(てんぴょうぶんか)と呼ばれる、国際色豊かで華やかな仏教文化が頂点を迎えた一方で、政治的には、藤原氏による長屋王の変という陰謀、深刻な飢饉や疫病(天然痘)の大流行、そして藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)の乱という大規模な内乱など、社会を揺るがす災厄が次々と国を襲った、極めて不安定な時代でもありました。この深刻な社会不安と政治的混乱の中で、深く仏教に帰依していた聖武天皇は、仏の偉大な力によって国家の災いを鎮め、安泰をもたらそうとする「鎮護国家(ちんごこっか)思想」に強く傾倒していきます。そして、その思想を具現化するために、国分寺・国分尼寺の建立や、奈良の大仏(盧舎那仏、るしゃなぶつ)の造立といった、国家の財政を傾けるほどの巨大な仏教プロジェクトに、情熱の全てを注ぎ込みました。本章では、聖武天皇がなぜこれほどまでに仏教に救いを求めたのか、その時代の背景と、鎮護国家思想に基づく壮大な事業の実態、そしてその歴史的意義を探ります。
9.1. 相次ぐ災厄と社会不安:聖武天皇の苦悩
聖武天皇の治世は、まさに災厄の連続でした。
- 長屋王の変(729年)とその影響:藤原四子(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)の陰謀によって、皇族の重鎮であった長屋王が自殺に追い込まれたこの事件は、聖武天皇の心に大きなトラウマと罪悪感を残したと言われています。政敵を非合法な手段で葬り去ったという事実は、律令政治の正当性を揺るがし、人々の心に不信と不安の影を落としました。
- 天然痘の大流行(735-737年):大陸から伝わったとみられる天然痘のパンデミックは、日本社会に壊滅的な打撃を与えました。当時の人々には免疫がなく、感染すれば高い致死率を示しました。この疫病は、一般民衆だけでなく、都の貴族層にも容赦なく襲いかかり、長屋王を陥れた藤原四子が、4人とも相次いで病死するという劇的な事態を招きます。当時の人々は、これを「長屋王の祟り」であると噂し、恐怖しました。
- 藤原広嗣の乱(740年):藤原四子の死後、政権の中心には、皇族出身の橘諸兄(たちばなのもろえ)や、唐からの帰国留学生である吉備真備(きびのまきび)、僧玄昉(げんぼう)らが登用されました。これに強い不満を抱いたのが、藤原式家の藤原広嗣でした。彼は、九州の大宰府に左遷されたことを恨み、「君側の奸(くんそくのかん、君主のそばにいる邪悪な家臣)である吉備真備と玄昉を除け」と称して、九州で大規模な反乱を起こしました。この乱は、政府軍によって鎮圧されましたが、律令国家が完成して以来、初めての本格的な内乱であり、政治体制の脆弱性を露呈しました。
- 頻繁な遷都:これらの政治的・社会的な混乱から逃れるかのように、聖武天皇は、短期間のうちに都を転々と移し替えます。740年に平城京から恭仁京(くにきょう、京都府木津川市)へ、744年には難波宮(なにわのみや、大阪市)へ、そして同年のうちに紫香楽宮(しがらきのみや、滋賀県甲賀市)へと遷都し、結局745年に再び平城京へ戻るという、極めて異例の行動をとりました。これは、天皇自身が、精神的に極度に不安定な状態にあったことを示唆しています。
相次ぐ政変、疫病、天災、そして内乱。これらの災厄を前に、律令という法や制度だけでは、もはや国家の秩序と人心の安定を保つことはできない。聖武天皇は、人知を超えた、より偉大な力に救いを求めるようになります。その力こそが、仏教でした。
9.2. 鎮護国家思想と国分寺建立の詔(741年)
「鎮護国家」とは、仏法(仏の教え)を篤く敬い、保護することによって、仏や菩薩、四天王といった諸天善神が、その国を災厄から守り、平和と繁栄をもたらしてくれる、という思想です。この思想は、仏教伝来当初から存在しましたが、聖武天皇の時代に、国家の公式イデオロギーとして、最も強く、そして大規模に実践されました。
741年(天平13年)、聖武天皇は、全国の国々に、国分寺(こくぶんじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)を建立せよ、という詔(みことのり)を発します。
- 国分寺(金光明四天王護国之寺、こんこうみょうしてんのうごこくのてら):各国に、七重の塔を持つ壮大な寺院を建立し、僧20人を置いて、『金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)』を読誦させることが命じられました。この経典には、これを読誦し、敬う国は、四天王(持国天・増長天・広目天・多聞天)によって守護されると説かれています。
- 国分尼寺(法華滅罪之寺、ほっけめつざいのてら):各国に、尼寺を建立し、尼僧10人を置いて、『法華経(ほけきょう)』を読誦させることが命じられました。『法華経』は、全ての人が救われるという教えと共に、罪を懺悔し、消滅させる力を持つと信じられていました。
この国分寺・国分尼寺の全国的なネットワークは、仏教の力を通じて、中央から地方の隅々にまで、天皇の権威と国家の安寧を祈るという、精神的な支配網を張り巡らそうとする壮大な試みでした。それは、律令の行政システム(国・郡・里)と並行する、もう一つの、宗教による国家統合システムだったのです。
9.3. 大仏造立の詔(743年):盧舎那仏に込められた願い
国分寺建立の詔から2年後の743年(天平15年)、聖武天皇は、その鎮護国家思想の集大成ともいえる、さらに壮大なプロジェクトに着手します。それが、奈良の大仏として知られる、盧舎那仏(るしゃなぶつ)の造立です。
聖武天皇は、紫香楽宮において、次のような詔を発しました。
「夫れ天下の富を有つは朕なり。天下の勢を有つも朕なり。此の富勢を以て、此の尊き像を造らむ。…一人(いちにん)の夫(おのこ)も労(いたづき)に預(あづか)らざること無く、一人の人民も税に苦しむこと無く、自然に成就せしめむ。…若し更に人の一枝の草、一握りの土を以て、像を助け造らむと情(こころ)に願ふ者有らば、恣(ほしいまま)にこれを聴(ゆる)せ。」
(この世の全ての富を持つ者は、私(天皇)である。この世の全ての権力を持つ者も、私である。この富と権力をもって、この尊い仏像を造ろうと思う。…一人として労役に苦しむことなく、一人として税に苦しむことなく、自然に完成させよう。…もし、人々の中に、一本の草、一握りの土でも捧げて、この仏像造りを助けたいと心から願う者がいるならば、誰でも自由に参加を許す。)
この詔には、聖武天皇の深い思いが込められています。
- 盧舎那仏とは:大仏のモデルとなった盧舎那仏(びるしゃなぶつ)は、『華厳経(けごんきょう)』に説かれる、宇宙の真理そのものを体現した仏です。その巨大な蓮華座には、無数の小さな仏が描かれ、その一つ一つがまた世界を内包しているとされます。盧舎那仏という中心的な存在(天皇)のもとに、全てのものが秩序づけられ、調和しているという華厳経の世界観は、聖武天皇が目指した理想の国家像そのものでした。
- 国民総参加のプロジェクト:詔の中で、天皇は、この事業を権力で強制するのではなく、人々の自発的な協力によって成し遂げたいと呼びかけています。これは、大仏造立という一つの巨大な目標に向かって、天皇から民衆まで、全ての国民が心を一つにすることで、国全体の連帯感を生み出し、社会の分裂を乗り越えようとする、強い願いの現れでした。
9.4. 行基と東大寺の建立
この国民的な大事業を推進する上で、極めて重要な役割を果たしたのが、僧・**行基(ぎょうき)**です。行基は、それまで国家の管理下にあった仏教を、民衆の中に広め、各地で橋を架けたり、用水路を造ったりする社会事業を行って、人々から絶大な支持を得ていました。政府は当初、このような行基の活動を、人心を惑わすものとして弾圧していましたが、聖武天皇は、その民衆への影響力に着目し、方針を転換。行基とその教団を、大仏造立のための勧進(かんじん、寄付を集める活動)のリーダーとして、公式に起用したのです。
行基の協力によって、大仏造立は全国的な運動となり、多くの人々が労働力や資材を提供しました。大仏は、当初は紫香楽宮で造られ始めましたが、都が平城京に戻ると、その造立場所も東大寺へと移されます。そして、752年(天平勝宝4年)、ついに完成した大仏の開眼供養会(かいげんくようえ)が、盛大に執り行われました。この儀式には、聖武上皇・光明皇太后・孝謙(こうけん)天皇をはじめ、国内外から1万人以上が参列し、インドから招かれた僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が、大仏の眼に筆で魂を入れる儀式を執り行いました。
東大寺は、全国の国分寺の総本山(総国分寺)と位置づけられ、鎮護国家仏教の中心的な拠点となりました。聖武天皇の治世は、災厄と不安に満ちた時代でしたが、その苦悩の中から、天平文化の粋を集めた、世界に誇るべき偉大な宗教芸術が生み出されたのです。それは、法や制度だけでは救いきれない人間の苦しみに対し、仏教という精神的な支柱を国家の中心に据えようとした、一人の天皇の、切実な祈りの結晶でした。
10. 称徳天皇と道鏡、律令政治の動揺
聖武天皇と光明皇后による仏教を中心とした国家運営は、東大寺大仏の開眼という輝かしい頂点を迎えました。しかし、その一方で、仏教勢力が政治に深く関与することは、律令国家の根幹をなす秩序に、新たな、そして深刻な動揺をもたらす危険性を孕んでいました。その危機が最も劇的な形で表面化したのが、聖武天皇の娘である孝謙(こうけん)天皇(後の称徳天皇)の治世です。病に倒れた女帝を、看病を通じて救った一人の僧・道鏡(どうきょう)が、天皇の絶大な寵愛を背景に、異例の出世を遂げ、ついには皇位(天皇の位)をも窺うという、前代未聞の事態が発生します。本章では、この道鏡事件の経緯と、それがなぜ律令国家にとって深刻な危機であったのか、そしてこの事件がその後の政治にどのような影響を与えたのかを分析します。
10.1. 孝謙上皇と道鏡の出会い
聖武天皇の跡を継いで即位した孝謙天皇は、父と同様に深く仏教に帰依していました。彼女は、758年に一度、淳仁(じゅんにん)天皇に位を譲り、上皇となります。しかし、政界の実権は、光明皇太后と、その甥にあたる藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ、後の恵美押勝、えみのおしかつ)が握っていました。
この状況の中、761年、病に倒れた孝謙上皇の看病にあたったのが、弓削(ゆげ)氏出身の法相宗の僧、道鏡でした。道鏡は、禅の修行を通じて身につけたとされる呪術的な力(看病禅)によって、上皇の病を癒したとされています。これをきっかけに、孝謙上皇は道鏡に深く心酔し、絶大な信頼と寵愛を寄せるようになります。
上皇の寵愛を背景に、道鏡の政治的な地位は急速に上昇していきました。これに強い危機感を抱いたのが、権力者であった藤原仲麻呂です。彼は、道鏡の権勢を削ごうと画策しますが、逆に孝謙上皇の怒りを買い、両者の対立は抜き差しならないものとなっていきます。
10.2. 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)と称徳天皇の重祚
764年、孝謙上皇が、淳仁天皇から天皇の権限の象徴である鈴印(内印と駅鈴)を取り上げ、国家の重要事を自ら決裁すると宣言したことをきっかけに、藤原仲麻呂はついに武力による反乱を決意します。彼は、自らが持つ兵力を動員し、道鏡と孝謙上皇を排除しようとしました。これが「藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)」です。
しかし、この反乱計画は事前に発覚。孝謙上皇は迅速に行動し、先手を打って仲麻呂の軍を討伐。仲麻呂は近江で敗死し、彼が擁立していた淳仁天皇は廃位され、淡路国へと流されてしまいました。
この乱を鎮圧し、全ての政敵を排除した孝謙上皇は、同年のうちに、再び天皇の位に復帰(重祚、ちょうそ)します。これが称徳(しょうとく)天皇です。一度退位した天皇が再び即位するのは、極めて異例のことであり、彼女の強い政治的意志を示しています。
10.3. 道鏡の権勢と宇佐八幡神託事件(769年)
称徳天皇の治世において、道鏡の権力は、まさに頂点に達します。
- 太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ): 764年、道鏡は、それまで臣下としては最高位であった太政大臣に、僧侶の身のまま就任するという、前代未聞の地位を与えられます。
- 法王(ほうおう): 766年には、さらに「法王」という、天皇に次ぐとされる、この時代にしか見られない特別な位が与えられました。道鏡の食事や衣服は天皇に準じるものとされ、その権威は俗界と仏界の両方に君臨する、絶大なものとなりました。
そして769年、律令国家の根幹を揺るがす、衝撃的な事件が起こります。九州の宇佐八幡宮(うさはちまんぐう)から、大宰府の役人を通じて、次のような神のお告げ(神託)がもたらされたのです。
「道鏡を皇位に即(つ)かしめば、天下太平ならむ」
(道鏡を天皇の位に就かせたならば、天下は平和になるであろう。)
これが「宇佐八幡宮神託事件」です。
この神託は、道鏡自身、あるいはその意を受けた者による、皇位簒奪(さんだつ)のための陰謀であったと考えられています。天皇の位は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子孫であるとされる、特定の血筋(皇統)によって、万世一系、受け継がれるというのが、日本の国家の根幹をなす理念(国体)でした。僧侶であり、皇族の血を全く引かない道鏡が天皇になることは、この国体を根底から覆す、ありえないことでした。
この異常事態に対し、称徳天皇は、さすがにその神託の真偽を確かめる必要があると考え、側近であった女官・**和気広虫(わけのひろむし)**の弟である、**和気清麻呂(わけのきよまろ)**を、勅使として宇佐八幡宮に派遣しました。
清麻呂は、宇佐に赴き、再び神託を伺います。そして、彼が持ち帰った報告は、最初の神託とは全く逆の内容でした。
「我が国は開闢(かいびゃく)以来、君臣の分(ぶん)定まれり。臣を以て君と為すこと、未だ之れ有らず。天日嗣(あまつひつぎ、皇位)は、必ず皇緒(こうちょ、皇族)を立てよ。無道の者は、宜しく早(すみやか)に掃い除くべし。」
(我が国は、天地が始まって以来、君主と臣下の身分は定まっている。臣下が君主となったことは、いまだかつてない。天皇の位は、必ず皇族の血を引く者を立てなければならない。道理に外れた望みを持つ者(道鏡)は、速やかに排除すべきである。)
この報告に、道鏡は激怒。和気清麻呂は、名前を「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」と変えさせられ、大隅国(鹿児島県)へと流罪にされてしまいました。
10.4. 事件の結末と律令政治への影響
皇位に就くという道鏡の野望は、和気清麻呂の命がけの報告によって、寸でのところで阻止されました。そして翌770年、最大の庇護者であった称徳天皇が崩御すると、道鏡の権力は、一夜にして崩れ去ります。
藤原永手(ながて)・百川(ももかわ)といった藤原氏の貴族たちは、直ちに道鏡を捕らえ、法王の位を剥奪。下野国(しもつけのくに、栃木県)の薬師寺に追放しました。道鏡は、その地でひっそりと生涯を終えたと伝えられています。
称徳天皇の死後、藤原氏らが新しい天皇として擁立したのは、天武天皇の系統ではなく、天智天皇の孫にあたる白壁王(しらかべおう)、すなわち光仁(こうにん)天皇でした。これにより、壬申の乱以来、約100年間にわたって続いてきた、天武天皇系の皇統は断絶し、皇位は天智天皇の系統へと戻ることになります。これは、日本の皇位継承史における、極めて大きな転換点でした。
道鏡事件が、その後の律令政治に与えた影響は、計り知れないほど大きいものでした。
- 仏教勢力の政治からの排除:この事件への強い反省から、仏教寺院や僧侶が、政治に過度に介入することへの強い警戒感が生まれました。僧侶が太政大臣などの高位の官職に就くことは二度となく、政治と宗教の分離が進められることになります。後の桓武天皇による平安京への遷都の背景にも、奈良の巨大寺院の政治的影響力から脱却したいという意図があったと言われています。
- 皇統の転換と藤原氏の権力確立:天武系の皇統が断絶し、天智系の光仁天皇、そしてその子である桓武天皇へと皇位が移ったことで、天武朝以来の「皇親政治」の理念は後退しました。そして、この皇位継承を主導した藤原氏(特に北家)の政治的発言力は、決定的なものとなり、後の摂関政治へと繋がる道が、ここに開かれたのです。
道鏡事件は、律令国家が内包していた、天皇の個人的な資質や感情が国政を大きく左右しかねないという脆弱性と、仏教という外来思想との緊張関係が、最も劇的に噴出した事件でした。この危機を乗り越えたことで、律令国家は、そのあり方を大きく変え、次の平安時代へと、その姿を変容させていくことになるのです。
Module 2:律令国家の成立の総括:法典と現実のダイナミズム
本モジュールでは、日本の古代国家が、大化の改新の理念から出発し、白村江の敗戦や壬申の乱という内外の激しい動乱を経て、大宝律令という精緻な法典に基づく体系的な「律令国家」を完成させるまでの、壮大な歴史のプロセスを追った。我々は、二官八省や国郡里制といった官僚システムが、いかにして天皇の意思を全国に伝えようとしたか、そして班田収授法と租庸調が、いかにして公地公民という理想を経済的に支えようとしたかを学んだ。しかし、その理想は、墾田永年私財法という現実的な政策転換によって自らその原則を譲り、また、鎮護国家思想に救いを求めた聖武天皇の苦悩と、道鏡事件に見る政治の動揺は、法典という「制度」だけでは律しきれない、人間の感情や社会の変化という、生々しい現実を我々に突きつけた。律令国家の成立とは、単なるシステムの完成ではない。それは、唐という先進文明の模倣と格闘し、日本の国情に合わせてそれを変容させ、そして法典という静的な理想と、絶えず変化する動的な現実との間で揺れ動き続けた、ダイナミックな社会実験の記録そのものなのである。