【基礎 日本史(通史)】Module 9:織田信長の天下統一事業

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本モジュールの目的と構成

前モジュールでは応仁の乱によって室町幕府の権威が崩壊し日本が約100年にもわたる戦国時代へと突入した様を見ました。それは力こそが全てを決定する下剋上の時代であり数多の戦国大名が天下の覇権をめぐって熾烈な争いを繰り広げました。しかしこの長期にわたる動乱の中からやがて日本を再び一つの秩序のもとにまとめ上げようとする傑出した人物が登場します。その最初の人物こそ「うつけ者」と侮られながらも尾張一国から身を起こし旧来の権威をことごとく破壊し武力による天下統一を目前にした革命家織田信長でした。本モジュールではこの戦国時代の風雲児織田信長がどのようにして登場しどのような革新的な手法で天下統一事業を推し進めていったのかそしてなぜその夢が志半ばで潰えたのかその劇的な生涯を追跡します。

本モジュールは以下の論理的なステップに沿って構成されています。まず信長が尾張の小大名からいかにして国を統一し歴史の表舞台へと躍り出たのかその初期の戦いを探ります。次に日本の歴史を大きく変えた「桶狭間の戦い」での奇跡的な勝利を分析します。そして足利義昭を奉じて京都に上洛し室町幕府を事実上滅亡させる過程を追います。信長の革新性を象徴する「長篠の戦い」における鉄砲の組織的運用や比叡山延暦寺焼き討ちに代表される宗教勢力との徹底的な戦いの実態にも迫ります。さらに安土城の築城や楽市・楽座といった政策に見る彼の国家構想を解き明かしその統一事業がなぜ画期的であったのかを考察します。最後に天下統一を目前にしながら腹心の部下に裏切られ非業の死を遂げた「本能寺の変」の謎と信長の事業がその後の日本の歴史に与えた巨大な影響を分析します。

  1. 織田信長の登場と尾張統一: 「うつけ者」と呼ばれた若者がいかにして分裂した尾張国を統一したかその過程を探る。
  2. 桶狭間の戦い: 圧倒的な兵力差を覆した奇跡の勝利がなぜ可能だったのかその戦術と歴史的意義を分析する。
  3. 足利義昭を奉じての上洛: 信長が将軍候補を担ぐことでいかにして「天下人」への足がかりを掴んだかを理解する。
  4. 室町幕府の滅亡: 信長と将軍・義昭の関係がなぜ決裂し室町幕府が終焉を迎えたのかその経緯を追う。
  5. 長篠の戦いと鉄砲の組織的運用: 鉄砲という新兵器を駆使した戦術革命が最強の武田騎馬軍団をいかにして破ったかを見る。
  6. 石山戦争と宗教勢力との戦い: 聖域であった比叡山延暦寺や一向一揆といった宗教勢力を信長がなぜ容赦なく殲滅しようとしたのかその意図を探る。
  7. 安土城の築城と楽市・楽座: 壮麗な城と革新的な経済政策に込められた信長の天下統一構想を解き明かす。
  8. 信長の統一政策の革新性: 信長の政策がそれまでの戦国大名とどこがどう違っていたのかその本質を考察する。
  9. 本能寺の変: 天下統一を目前にした英雄がなぜ腹心に裏切られたのか日本史最大の謎に迫る。
  10. 信長政権の歴史的意義: 信長の事業が日本の歴史に何を残しその後の天下統一にいかなる影響を与えたかを総括する。

このモジュールを学び終える時皆さんは織田信長が単なる冷酷な破壊者ではなく中世という古い時代を終わらせ近世という新しい時代の扉を開いた偉大な革命家であったことを深く理解することができるでしょう。


目次

1. 織田信長の登場と尾張統一

戦国時代の日本列島において尾張国(現在の愛知県西部)は決して大きな国ではありませんでした。さらにその国内は守護大名であった斯波氏の権威が失墜しその家臣であった守護代の織田氏も複数の家に分裂。国人たちが互いに争う混沌とした状態にありました。この取るに足らない小国から後に天下を揺るがすことになる革命家織田信長が登場します。しかしその青年時代の信長は将来を期待される名君ではなく奇抜な服装と常軌を逸した行動から「尾張の大うつけ」と嘲笑される存在でした。本章ではこの信長が「うつけ者」から脱皮し分裂した尾張国を実力で統一していくまでの過程を探ります。

1.1. 尾張の大うつけ

織田信長は1534年尾張の守護代であった織田信秀の子として生まれました。父・信秀は優れた武将であり分裂した尾張国で勢力を拡大し隣国の三河や美濃の斎藤氏とも争うなど織田家を戦国大名へと成長させた人物でした。

しかしその跡を継ぐべき嫡男・信長は家臣たちの期待を裏切る存在でした。彼は髪を奇妙な形に結い派手な着物を着て町を闊歩しました。身分をわきまえず若者たちと一緒になって遊び歩き人の目もはばからず干し柿を立ち食いするなどその行動は常軌を逸していると見なされていました。

1.2. 父の葬儀での蛮行

信長の「うつけ」ぶりを象徴する最も有名な逸話が1551年の父・信秀の葬儀での出来事です。多くの家臣たちが正装で厳粛に儀式に臨む中信長は普段着のまま現れました。そして仏前に進み出ると抹香を位牌に投げつけて帰ってしまったのです。

この前代未聞の無礼な振る舞いは多くの家臣たちを失望させました。「あのようなうつけ者に織田家の将来は任せられない」と多くの者が考えたのです。

1.3. 家督相続と内部抗争

父・信秀の死後信長は家督を継ぎますがその前途は多難でした。織田家内部ではうつけ者の信長を廃し品行方正な弟の**信勝(信行)**を当主に立てようとする動きが公然と起こります。この動きを主導したのは織田家の筆頭家老であった林秀貞(はやしひでさだ)や柴田勝家(しばたかついえ)といった宿老たちでした。

しかし信長の「うつけ」は彼の真の姿を隠すための計算された演技であったのかもしれません。彼はここから冷徹で卓越した策略家としての一面を見せ始めます。

  • 叔父・信光との連携:まず信長は叔父である織田信光と手を組み清洲城を拠点とする織田家の本家を滅ぼし尾張国南半分の支配権を掌握します。
  • 稲生の戦い(1556年):次に彼は弟・信勝を擁立する反信長勢力との直接対決に臨みます。稲生の戦いで信長は自ら先頭に立って奮戦し数で劣りながらも弟の軍勢を打ち破りました。この戦いの後信長は一度は母のとりなしで信勝を許します。
  • 信勝の暗殺:しかしその2年後信勝が再び謀反を企てていることを知ると信長は病気と偽って信勝を自らの居城・清洲城に呼び寄せその場で暗殺してしまいました。

肉親であろうと自らの敵は容赦なく排除する。この非情な決断力こそが信長を戦国の覇者へと押し上げる原動力の一つでした。

1.4. 尾張統一の完成

弟・信勝を排除した後信長は尾張国北半分の支配者であった岩倉織田氏との対決に臨みます。1559年浮野の戦いでこれを打ち破りついに長年にわたって分裂状態にあった尾張国の統一を成し遂げました。時に信長26歳。

信長が尾張統一を成し遂げた要因は彼の卓越した軍事能力だけではありませんでした。

  • 経済政策:父・信秀の代から織田氏は津島や熱田といった港町を支配下に置き商業から上がる利益を重要な財源としていました。信長もまたこの経済基盤を重視し商業の保護・振興に努めました。
  • 人材登用:信長は身分や家柄にとらわれず実力のある者を積極的に登用しました。農民出身とされる後の豊臣秀吉(当時は木下藤吉郎)や浪人であった滝川一益(たきがわかずます)など彼の家臣団には多様な出自の者たちが集っていました。

うつけ者という仮面の下で信長は着実に力を蓄え自らの国を統一するという最初の関門を突破したのです。しかし彼の前には東から「海道一の弓取り」と恐れられた今川義元の大軍が迫っていました。尾張統一はゴールではなくさらなる苛烈な戦いの始まりに過ぎなかったのです。


2. 桶狭間の戦い

1560年(永禄3年)尾張を統一したばかりの織田信長の前に戦国時代最大ともいえる危機が訪れます。駿河・遠江・三河の三国を支配し「海道一の弓取り」と天下にその名を知られた大大名今川義元が数万の大軍を率いて尾張国へと侵攻してきたのです。対する信長の兵力はその10分の1にも満たない絶望的な状況でした。しかしこの誰もが信長の敗北と滅亡を予測した戦いで彼は日本の戦史に残る劇的な奇襲作戦を敢行し敵の総大将・義元の首を挙げるという奇跡的な勝利を収めます。この「桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)」は無名の地方領主に過ぎなかった織田信長の名を天下に轟かせその後の日本の歴史を大きく変えることになる画期的な戦いでした。

2.1. 今川義元の上洛作戦

今川義元は戦国大名の中でも屈指の実力者でした。彼は巧みな外交と軍事力で領国を拡大し分国法である「今川仮名目録」を制定するなど内政にも優れた手腕を発揮していました。

1560年義元は満を持して大規模な上洛作戦を開始します。その名目は「混乱した京都の秩序を回復し足利将軍家を助ける」というものでした。しかしその真の目的は自らが将軍家に代わって天下を支配することにあったと言われています。

義元が率いた軍勢は2万5千とも4万ともいわれる大軍でした。その進路上にある尾張国はまさに風前の灯火でした。

2.2. 信長の絶望的な状況

今川軍侵攻の報に対し信長が動員できた兵力はわずか2千から3千程度であったと言われています。兵力差は実に10倍以上。家臣たちの間では居城である清洲城に立てこもって籠城すべきだという意見が大多数を占めていました。籠城しても数日で兵糧が尽きるのは目に見えていましたが正面からの野戦では勝ち目がない以上それしか選択肢はないと誰もが考えていました。

しかし信長は重臣たちの意見を全く聞き入れず評定の場でも雑談に興じるばかりで明確な作戦を示しませんでした。家臣たちの間には「うつけ者の殿ではもはやこれまでか」という絶望感が広がっていきました。

2.3. 幸若舞「敦盛」と出陣

5月19日の未明今川軍の先鋒が織田方の砦を次々と攻略しその勢いが清洲城のすぐ近くまで迫っているという急報がもたらされます。

この知らせを聞いた信長は突如として寝床から起き上がると**幸若舞(こうわかまい)の「敦盛(あつもり)」**の一節を舞い始めました。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなり。一度生を享け、滅せぬもののあるべきか。」

(人の世の50年の歳月など天上の世界の時間の長さに比べれば夢や幻のようなものである。一度この世に生を受けた者で滅びない者などいるはずがない。)

これは人生の儚さを歌ったものであり死を覚悟した信長の決意表明でした。舞を終えた信長は鎧を身につけるとわずかな供回りだけを連れて闇の中へと出陣していきました。

2.4. 奇跡の奇襲作戦

信長はまず熱田神宮で戦勝を祈願し兵を集結させます。この時点で信長軍の兵力はようやく2千程度に達していました。

一方今川義元は連戦連勝に気をよくし田楽坪(でんがくつぼ)と呼ばれる窪地で休息をとり首実検(討ち取った敵の首を確認する儀式)を行っていました。

信長は義元が本陣にいることを突き止めると驚くべき作戦に出ます。彼は今川軍の正面に一部の兵を「おとり」として残し自らは主力部隊を率いて大きく迂回し義元の本陣の側面の丘の上へと進軍しました。

そしてその時天候が信長に味方します。突然の激しい豪雨が降り始めました。この豪雨に紛れて信長軍は義元の本陣のすぐ近くまで気付かれずに接近することに成功します。

雨が上がった瞬間信長は総攻撃を命じました。全く予期していなかった側面からの奇襲に今川軍の本陣は大混乱に陥ります。織田軍の精鋭は混乱する敵兵を蹴散らし義元の輿(こし)へと殺到しました。そして信長の家臣である服部小平太(はっとりこへいた)と毛利新介(もうりしんすけ)が激しい格闘の末ついに今川義元の首を討ち取ったのです。

2.5. 桶狭間の戦いの歴史的意義

総大将を失った今川軍は総崩れとなり敗走しました。この奇跡的な勝利は日本の歴史にいくつかの大きな影響を与えました。

  1. 織田信長の台頭:この戦いによって信長の名は全国に轟きました。彼はもはや尾張の小大名ではなく天下を狙う有力な戦国大名の一人としてその存在を認められることになります。
  2. 今川氏の没落:大大名であった今川氏は義元という優れた指導者を失ったことで急速に衰退していきます。
  3. 徳川家康の独立:当時今川氏の人質としてその配下にあった三河国の**松平元康(後の徳川家康)はこの戦いをきっかけに今川氏から独立。そして信長と清洲同盟(きよすどうめい)**と呼ばれる軍事同盟を結びます。この信長と家康の固い同盟関係がその後の天下統一事業の重要な基盤となりました。

桶狭間の戦いは単なる一つの合戦の勝利ではありません。それは古い権威であった今川氏が滅び新しい時代の担い手である織田信長が躍り出るという戦国時代の「下剋上」を象徴する出来事でした。そしてこの勝利によって東の憂いを断ち切った信長はついにその視線を西すなわち京都へと向けることになるのです。


3. 足利義昭を奉じての上洛

桶狭間の戦いで今川義元を破り徳川家康と同盟を結んだ織田信長。彼は東からの脅威を払拭すると次なる目標である美濃国(岐阜県)の攻略に着手します。斎藤道三亡き後の斎藤氏との長年にわたる戦いの末1567年に美濃国の稲葉山城を陥落させこの地を「岐阜」と改めました。そして「天下布武(てんかふぶ)」の印判を用い始め武力による天下統一への明確な意志を示します。しかし地方の一大名に過ぎない信長が天下に号令するためにはそれを正当化する「大義名分」が必要でした。その絶好の機会をもたらしたのが室町幕府の亡命将軍候補足利義昭の存在でした。本章では信長が足利義昭を担ぐことでいかにして上洛を果たし天下人への道を切り開いていったのかを探ります。

3.1. 美濃攻略と天下布武

美濃国は肥沃な濃尾平野に位置し東西の交通の要衝でもある戦略的に極めて重要な土地でした。信長は岳父であった斎藤道三がその子・義龍に殺害された後道三の弔い合戦を名目に美濃への侵攻を繰り返します。

苦戦の末1567年に斎藤氏の居城・稲葉山城を攻略。信長はこの城を岐阜城と改名し自らの本拠地としました。「岐」の字は古代中国で周の文王が天下統一の拠点とした「岐山」に由来すると言われ信長の天下統一への強い意志が込められています。

この頃から信長は「天下布武」と刻まれた印判を使い始めます。「天下を武力によって平定し統一する」という意味を持つこの言葉は彼の政治目標を簡潔にそして力強く示すものでした。

3.2. 亡命将軍候補・足利義昭

信長が天下への意志を固めていた頃一人の貴人が彼の助けを求めて美濃を訪れます。その人物こそ13代将軍・足利義輝の弟である**足利義昭(あしかがよしあき)**でした。

兄・義輝は1565年に三好三人衆と松永久秀によって殺害されていました(永禄の変)。義昭もまた命を狙われましたが細川藤孝(幽斎)らの助けで奈良を脱出。その後越前の朝倉義景など各地の有力大名を頼り自らを将軍として擁立し京都を回復してくれる強力な保護者を探し求めていました。

しかし朝倉義景はなかなか動こうとしません。業を煮やした義昭は当時飛ぶ鳥を落とす勢いであった織田信長に最後の望みを託したのです。

3.3. 上洛:天下への道

足利義昭の来訪は信長にとってまさに渡りに船でした。

  • 大義名分の獲得:将軍家の正統な後継者である義昭を保護し彼を将軍の位に就けるという目的は信長が京都に大軍を進めるためのこの上ない大義名分となりました。これにより信長は単なる一地方の侵略者ではなく「幕府の秩序を回復する正義の軍」として行動することが可能になったのです。

1568年9月信長は足利義昭を奉じ岐阜から大軍を率いて上洛を開始しました。その進軍は驚くほど迅速でした。

  • 六角氏の滅亡:南近江で信長の行く手を阻んだ守護大名・六角義賢はわずか数日でその居城・観音寺城を落とされ甲賀へと逃亡します。
  • 三好三人衆の敗走:京都を支配していた三好三人衆も信長軍の勢いを恐れて戦わずして阿波国(徳島県)へと撤退しました。

わずか半月ほどで信長はほとんど抵抗を受けることなく京都への無血入城を果たします。そして同年10月足利義昭は信長の強力な軍事力を背景に念願の第15代征夷大将軍に就任しました。

この電光石火の上洛劇は織田信長の軍事力と行動力を天下に知らしめました。彼は一躍歴史の表舞台の中心へと躍り出たのです。

3.4. 蜜月と対立の始まり

将軍となった義昭は信長を「御父(おんちち)」とまで呼びその功績に深く感謝しました。信長もまた将軍の権威を尊重し管領代として幕政を支える姿勢を見せます。当初両者の関係は極めて良好な蜜月関係にありました。

しかしこの関係は長くは続きませんでした。両者の間にはその目指す政治のあり方をめぐって根本的な考え方の違いがあったのです。

  • 足利義昭の思惑:義昭は自らがかつての将軍たちのような権威と実力を持つ「真の将軍」として君臨し幕府の権威を再興することを目指していました。彼にとって信長はあくまでそのための道具(武力)でした。
  • 織田信長の思惑:一方信長にとって義昭は自らが天下を支配するための権威(大義名分)に過ぎませんでした。彼は将軍の権威を尊重しつつも政治の実権は自らが握り続けることを望んでいました。

やがて信長は義昭の政治的自由を徐々に制限し始めます。義昭が信長の許可なく勝手に恩賞を与えたり他の大名と交渉したりすることを禁じるなど幕府の権力を骨抜きにしようとする動きを見せ始めます。

将軍としてのプライドを傷つけられた義昭は信長に対して深い不信感と敵意を抱くようになります。彼は水面下で信長に不満を持つ全国の大名たちに密書を送り「信長包囲網」を築き始めるのです。蜜月関係は終わりを告げ両者はやがて日本の覇権をめぐって決定的な対立へと向かっていくことになります。


4. 室町幕府の滅亡

織田信長によって擁立され15代将軍となった足利義昭。しかし彼らの蜜月関係は長くは続きませんでした。自らが幕府の主役として君臨したい義昭と政治の実権を掌握し続けたい信長との間の溝は次第に深まっていきます。そしてついに義昭は信長を打倒するため全国の反信長勢力に呼びかけ「信長包囲網」を形成。これに対し信長もまた将軍の権威を公然と無視し武力でこれに応戦します。この両者の対立は最終的に信長による義昭の京都追放という形で決着し200年以上にわたって続いてきた室町幕府の歴史に事実上の終止符を打つことになりました。

4.1. 将軍権力の制限と亀裂の深化

京都を支配下に置いた信長は将軍・足利義昭を傀儡化するための策を次々と打ち出します。1569年には義昭に対して「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」と呼ばれる9カ条の掟書を承認させました。これは事実上将軍の権力を著しく制限するものでした。

  • 将軍の行動の制限:「将軍は信長の同意なくして他の大名に命令を下してはならない」といった条項が含まれており義昭の政治的自由を奪いました。
  • 信長の優位性の明文化:この掟は信長の意向こそが幕府の最高意思であることを明確にするものでした。

さらに信長は翌年にも5カ条の追加条項を突きつけ義昭を追い詰めます。将軍としての権威をないがしろにされた義昭の信長への恨みは頂点に達しました。

4.2. 信長包囲網の形成

もはや信長との共存は不可能と判断した足利義昭は将軍の権威を用いて全国の有力大名に「信長討伐」の御内書(密書)を送り反信長連合の結成を画策します。これが世に言う「第一次信長包囲網」です。

この義昭の呼びかけに全国の有力な反信長勢力が次々と呼応しました。

  • 朝倉義景(あさくらよしかげ): 越前の大名。義昭がかつて頼った相手。
  • 浅井長政(あざいながまさ): 北近江の大名。信長の妹・お市の方を妻としていましたが信長が盟約を破って朝倉氏を攻撃したため信長を裏切ります。
  • 武田信玄(たけだしんげん): 甲斐の大名。当時最強と恐れられた武将。
  • 三好三人衆: かつて京都を支配していた勢力。
  • 比叡山延暦寺・石山本願寺: 強大な力を持つ宗教勢力。

この包囲網はまさにオールスターともいえる陣容でした。信長は東西南北を敵に囲まれ絶体絶命の危機に陥ります。

4.3. 包囲網の崩壊と義昭の挙兵

信長は姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を破り比叡山延暦寺を焼き討ちにするなど各地で激しく抵抗します。しかし西からは武田信玄が上洛を開始。三方ヶ原の戦いで徳川家康を破り信長の背後に迫ります。

もはやこれまでかと思われたその時信長に幸運が訪れます。1573年4月上洛の途上にあった武田信玄が病で急死したのです。最大の脅威であった武田軍が甲斐に引き返したことで信長包囲網はその中心を失い事実上崩壊しました。

この好機を逃さず信長は反撃に転じます。そして矛先を全ての黒幕である足利義昭に向けました。信玄の死を知らずにいた義昭はついに自ら兵を挙げ京都の槇島城(まきしまじょう)に立てこもり信長に対して公然と反旗を翻しました。

4.4. 義昭の追放と室町幕府の滅亡

1573年7月信長は自ら大軍を率いて義昭が立てこもる槇島城を攻撃します。義昭はわずか半日で降伏。信長は義昭の将軍職を解任しその身柄を河内国へと追放しました。

この1573年の足利義昭の京都追放をもって室町幕府は事実上滅亡したとされています。(義昭はその後も毛利氏などを頼り亡命政権として将軍の位を主張し続けますがもはや政治的な実権を回復することはありませんでした。)

足利尊氏が幕府を開いてから約240年。日本の武家政治を主導してきた室町幕府は信長という新たな時代の覇者の手によってその歴史に幕を下ろしたのです。

信長は将軍という古い権威を自らが利用しその大義名分のもとに上洛を果たしました。そしてその権威が自らの障害となると見るや今度は容赦なくそれを破壊しました。この古い権威に固執しない徹底した合理主義と実力主義こそが信長を他の戦国大名とは一線を画す存在にしたのです。そして彼は将軍に代わる新たな天下人として自らが日本の中心に君臨する新しい時代の創造へと突き進んでいくことになります。


5. 長篠の戦いと鉄砲の組織的運用

室町幕府を滅亡させ信長包囲網を打ち破った織田信長。しかし彼の前にはまだ最強の敵が残っていました。それは甲斐の武田氏です。武田信玄亡き後その跡を継いだ武田勝頼(たけだかつより)は父に劣らぬ武将であり当時最強と謳われた武田の騎馬軍団を率いていました。1575年この武田軍と織田・徳川連合軍が三河国の長篠(ながしの)で激突します。この「長篠の戦い」で信長は鉄砲という新兵器を画期的な戦術で組織的に運用し最強の騎馬軍団を完膚なきまでに打ち破りました。この戦いは日本の合戦の歴史を大きく変える戦術革命の象

徴であり信長の天下統一事業を決定づける重要な一歩となりました。

5.1. 武田勝頼の侵攻

武田信玄の死後その跡を継いだ勝頼は父の遺志を継ぎ再び上洛を目指して西への進軍を開始します。1575年5月勝頼は1万5千の大軍を率いて信長の同盟者である徳川家康の領国・三河国に侵攻。長篠城を包囲しました。

長篠城はわずか500の兵で必死の防衛を続けますが陥落は時間の問題でした。家康からの救援要請を受けた信長は自ら3万の大軍を率いて家康の軍8千と合流。長篠の地へと向かいました。

5.2. 信長の革新的な戦術

武田軍の強さの秘密は統率の取れた精強な騎馬軍団による突撃にありました。個々の武勇に優れた武田の赤備え(あかぞなえ)の騎馬武者たちが一体となって敵陣に突撃する戦法はこれまで無敵を誇っていました。

これに対し信長は全く新しい戦術で対抗しようとしました。その主役が鉄砲でした。

信長は決戦の地に設楽原(したらがはら)という広いはらっぱを選びました。そしてそこに**三重の馬防柵(うまぼうさく)**を築かせます。これは敵の騎馬軍団の突撃の勢いを殺ぐための野戦陣地でした。

そしてこの馬防柵の後ろに3000挺もの大量の鉄砲を配備しました。当時鉄砲は高価な武器でありこれほどの数を一つの戦場に投入すること自体が異例でした。

さらに信長は鉄砲の弱点である「弾込めに時間がかかる」という問題を克服するため画期的な戦法を考案します。それが有名な「三段撃ち」です。

  • 鉄砲隊を三列に分ける。
  • 第一列が射撃している間に第二列が射撃準備をし第三列が弾込めを行う。
  • 第一列が撃ち終わると後ろに下がり代わりに第二列が射撃する。
  • このローテーションを繰り返すことで途切れることなく連続して一斉射撃を浴びせかける。

(※この三段撃ちについては同時代の史料に明確な記述がなくその実在性については近年歴史家の間で見直しが進んでいます。しかし信長が鉄砲を効果的に集団運用したこと自体は間違いありません。)

5.3. 戦いの経過と武田騎馬軍団の壊滅

武田勝頼は信長が築いた馬防柵を見て一度は攻撃をためらいます。しかし武田家の宿老たちの反対を押し切り自軍の騎馬軍団の突撃力に賭けて正面からの攻撃を命じました。

武田の騎馬軍団は次々と織田・徳川連合軍の陣地へと突撃します。しかし彼らを待ち受けていたのは馬防柵とそこから放たれる鉄砲の弾丸の雨でした。

最強を誇った武田の騎馬武者たちも馬防柵に阻まれ思うように進めません。そしてその動きが止まったところを織田軍の鉄砲隊の一斉射撃が襲いました。馬は驚き兵は次々と撃ち倒されていきます。山県昌景(やまがたまさかげ)や馬場信春(ばばのぶはる)といった武田四天王と呼ばれた歴戦の勇将たちもこの戦いで次々と命を落としました。

この戦いで武田軍は1万人以上の死者を出しその主力である騎馬軍団は壊滅的な打撃を受けました。

5.4. 長篠の戦いの歴史的意義

長篠の戦いの勝利は信長の天下統一事業にとって決定的な意味を持つものでした。

  1. 武田氏の没落:この敗戦によって武田氏は急速に衰退し信長の最大のライバルの一つが事実上消滅しました。
  2. 戦術の革命:この戦いは日本の戦争のあり方を根底から変えました。
    • 個の戦いから集団の戦いへ: 伝統的な騎馬武者による一騎討ちの時代は終わりを告げました。訓練された足軽による組織的な集団戦法が合戦の主役となったのです。
    • 戦争における経済力の重要性: 大量の鉄砲を揃え兵士を組織的に訓練するには莫大な経済力が必要です。この戦いは戦争の勝敗がもはや武士個人の武勇ではなく大名の経済力と組織力によって決まる時代の到来を告げるものでした。
  3. 信長の先進性の証明:信長が鉄砲という新技術の重要性を誰よりも早く理解しそれを最大限に活用するための合理的なシステムを構築する能力を持っていたことを示しました。彼の先進性と合理主義が旧来の伝統と精神論に固執した武田氏を打ち破ったのです。

長篠の戦いは中世的な戦争の終わりと近世的な戦争の始まりを告げる日本の軍事史における大きな分水嶺でした。そしてこの勝利によって信長は天下統一への道を大きく前進させることになります。


6. 石山戦争と宗教勢力との戦い

長篠の戦いで最強のライバルであった武田氏を破った織田信長。しかし彼の天下統一事業の前にはもう一つの巨大な壁が立ちはだかっていました。それは戦国大名とは全く異なる原理で動く強大な組織「宗教勢力」です。特に京都の比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)と全国に門徒を持つ浄土真宗(一向宗)の本拠地・石山本願寺(いしやまほんがんじ)は広大な領地と数万の僧兵を抱え時には大名をも凌駕するほどの政治的・軍事的な力を持っていました。信長は自らの絶対的な支配を確立するためこれらの「聖域」に容赦なく戦いを挑んでいきます。

6.1. 比叡山延暦寺の焼き討ち(1571年)

比叡山延暦寺は天台宗の総本山であり桓武天皇以来朝廷や幕府から手厚い保護を受けてきた日本仏教の中心地でした。しかしその一方で数千の僧兵を擁し自らの権益を守るためには武力行使も辞さない強力な武装勢力でもありました。

信長が上洛を果たした後延暦寺は信長に敵対する浅井・朝倉氏をかくまうなど公然と反信長の姿勢を示します。信長は再三にわたって延暦寺に浅井・朝倉氏との手切れを要求しましたが寺側はこれを拒否しました。

1571年9月信長はついに非情な決断を下します。彼は数万の大軍で比叡山を完全に包囲。そして「山内の僧侶はもちろんのこと学者、上人、児童に至るまで一人残らず首を刎ねよ」という命令を下し麓から一斉に火を放ちました。

  • 焼き討ちの実態:火は瞬く間に山全体に燃え広がり根本中堂(こんぽんちゅうどう)をはじめとする壮大な堂塔伽藍は全て灰燼に帰しました。信長の兵は山中に逃げ惑う僧侶や学僧、そして女子供に至るまで数千人(一説には3000~4000人)を文字通り撫で斬りにしたと伝えられています。

この比叡山延暦寺焼き討ちは日本の歴史上例のない残虐な行為であり朝廷や他の寺社勢力に大きな衝撃と恐怖を与えました。信長はこの行為によって「仏敵」「第六天魔王(だいろくてんまおう)」と恐れられるようになります。しかしこれは信長が自らの支配を確立するためにはいかなる伝統的な権威や聖域も認めないという断固たる意志を天下に示した行動でもありました。

6.2. 一向一揆との死闘

信長にとって延暦寺以上に手ごわい敵だったのが浄土真宗本願寺の勢力でした。

  • 一向一揆とは:浄土真宗は「南無阿弥陀仏」と唱えれば身分に関係なく誰もが救われるという分かりやすい教えで農民や武士の間に爆発的に広まりました。その信者(門徒)たちは「一向宗」と呼ばれ強い信仰で結ばれた強固な自治組織(講)を各地に形成していました。彼らが領主の支配に抵抗して起こす武装蜂起が「一向一揆」です。彼らは「進者往生極楽、退者無間地獄(進めば極楽浄土へ往生でき退けば無間地獄に落ちる)」という旗を掲げ死を恐れずに戦うため戦国大名たちにとって最も厄介な敵でした。
  • 石山本願寺:その一向一揆の総本山が摂津国(大阪府)にあった石山本願寺でした。当時の法主(ほっす)であった**顕如(けんにょ)**は全国の門徒を支配する絶大な宗教的権威を持っていました。石山本願寺は周囲を川と海に囲まれた天然の要害であり内部に数千の僧兵と数万の門徒が立てこもる難攻不落の要塞寺院でした。

6.3. 石山戦争(1570-1580年)

信長が足利義昭を追放した後石山本願寺の顕如は信長こそが仏法の敵であるとして全国の門徒に信長打倒の檄を飛ばします。これに武田氏や毛利氏といった反信長大名が呼応し再び信長包囲網が形成されました。

ここから信長と石山本願寺との10年にもわたる壮絶な戦い「石山戦争」が始まります。

  • 長島一向一揆の殲滅:伊勢長島(三重県)の一向一揆は信長の弟を討ち取るなど激しく抵抗しました。これに対し信長は1574年数万の大軍で長島を包囲。逃げ場を失った門徒たち約2万人が立てこもる砦の周りに柵を築き火を放って全員を焼き殺すという残虐な兵糧攻めでこれを根絶やしにしました。
  • 越前一向一揆の殲滅:越前国(福井県)を支配していた一向一揆に対しても信長は徹底的な弾圧を行いました。
  • 石山本願寺との攻防:しかし総本山である石山本願寺は容易に落ちませんでした。信長軍は陸から本願寺を包囲しますが海からは中国地方の雄毛利輝元の強力な水軍が兵糧や弾薬を運び込み本願寺を支援しました。1576年信長の水軍(九鬼水軍)は毛利水軍に大敗を喫します(第一次木津川口の戦い)。これに対し信長は船全体を鉄の板で覆った巨大な「鉄甲船(てっこうせん)」を建造。1578年の第二次木津川口の戦いでこの鉄甲船が毛利水軍の焙烙火矢(ほうろくひや、陶器の爆弾)をものともせず大勝利を収めました。これにより本願寺への海上補給路は完全に断たれました。

6.4. 戦いの終結

海上からの補給を断たれ長期の籠城で疲弊した石山本願寺はついに信長との和睦を決意します。1580年朝廷の仲介(勅命講和)によって顕如は石山本願寺を信長に明け渡し紀伊国(和歌山県)へと退去しました。

この石山本願寺の降伏によって信長と宗教勢力との長年にわたる戦いはついに終わりを告げました。

信長の宗教勢力に対する徹底的な弾圧は多くの犠牲を生みその非情さを物語るものです。しかしそれは同時に政治と宗教を分離し国家の権力が宗教的な権威の上位に立つという日本の歴史における大きな転換点でした。中世を通じて国家の中に国家として君臨してきた宗教的権威は信長によって完全に破壊され統一的な国家権力の下に組み込まれることになったのです。


7. 安土城の築城と楽市・楽座

石山戦争に象徴される宗教勢力との死闘を制し天下統一事業を大きく前進させた織田信長。彼は単なる軍事の天才であっただけでなく新しい時代の国家を構想する優れたビジョンを持った為政者でもありました。そのビジョンを具現化したのが近江国に築かれた壮麗な「安土城(あづちじょう)」と城下で実施された革新的な経済政策「楽市・楽座(らくいち・らくざ)」でした。安土城はそれまでの城の概念を覆す新しい時代のシンボルであり楽市・楽座は中世的な経済秩序を破壊し自由な商業活動を促進する画期的な政策でした。本章ではこれらを通じて信長がどのような天下を構想していたのかその真意に迫ります。

7.1. 安土城:見せるための城

1576年信長は琵琶湖の東岸安土山に新しい居城の築城を開始しました。この安土城はそれまでの戦国時代の城とは全く異なる思想で設計されていました。

  • 立地:安土は京都に近く琵琶湖の水運を利用できる交通の要衝でした。これは信長が日本の中心地で天下に号令するという強い意志を示しています。
  • 天主(てんしゅ):安土城の最大の特徴は山頂にそびえ立つ壮大な「天主」(天守閣)でした。地上6階地下1階建てでその内部は狩野永徳(かのうえいとく)ら当代一流の絵師による豪華な障壁画で飾られ最上階は金色に輝いていたと伝えられています。それまでの城の天守が主に物見櫓や倉庫として使われたのに対し安土城の天主は大名が居住し政務を執り行うための空間でした。それは単なる軍事施設ではなく信長の絶対的な権力を人々に見せつけ畏怖させるための巨大なモニュメントだったのです。
  • 城下町の設計:城の麓には計画的な城下町が築かれました。家臣たちの屋敷が整然と配置され城の直下にはイエズス会の教会や神学校まで建てられました。これは信長が宗教的権威をも自らの足下に置こうとする意志の表れでした。

安土城は防御のための「戦う城」から天下人がその権威を「見せる城」へと日本の城の歴史を大きく転換させる画期的な城でした。

7.2. 楽市・楽座:経済による天下統一

信長は安土城の城下町を繁栄させるため革新的な経済政策を実施します。それが「楽市・楽座」です。

  • 楽市令:1577年に信長が安土城下に出した楽市令は城下での自由な商業活動を保障するものでした。
    • 諸役免除: 城下での営業税や様々な雑税を免除する。
    • 自由な往来: 誰でも自由に安土で商売ができる。
    • 徳政令の適用除外: もし幕府などが借金帳消しの徳政令を出しても安土の商人には適用しない。これにより商人は安心して金融活動を行えました。
  • 楽座:これは中世以来商工業者たちが結成していた同業者組合「座」が持つ独占的な特権を否定するものです。信長は座に属していない新しい商工業者でも自由に商売ができるようにしました。

7.3. 信長の経済政策の革新性

楽市・楽座の政策は信長が初めて行ったものではなく六角氏など他の戦国大名も実施していました。しかし信長の政策はより徹底しておりその背後には明確な国家構想がありました。

  1. 旧権威の否定:「座」の多くは朝廷や寺社といった古い権威に保護されていました。楽座令はこれらの旧権威の経済的基盤を破壊し経済の支配権を信長自身に集中させることを目的としていました。
  2. 商業の活性化:自由な競争を促進することで全国から商人や物資を安土に集め城下町を一大経済センターにしようとしました。
  3. 兵農分離の促進:城下町に家臣を集住させ商業を活性化させることは武士が土地から切り離され俸禄(給料)で生活する専門の軍人・官僚となる「兵農分離」を促進する効果も持っていました。

信長は軍事力だけでなく経済力こそが天下を支配する力の源泉であることを深く理解していました。彼は楽市・楽座や関所の撤廃といった政策を通じて中世的な荘園制の経済から近世的な市場経済へと日本の経済システムを大きく転換させようとしたのです。

安土城という壮大なシンボルと楽市・楽座という合理的な経済政策。この二つは信長が目指した新しい国家が単なる武力支配ではなく強力な権威と活発な経済活動を両輪とする統一国家であったことを雄弁に物語っています。


8. 信長の統一政策の革新性

織田信長は日本の歴史上最も革新的な為政者の一人でした。彼の行った天下統一事業はそれまでの戦国大名が行ってきた領国拡大とはその目的も手法も根本的に異なっていました。彼は単に領土を広げるだけでなく日本の社会を支配してきた中世的な政治・経済・宗教のシステムそのものを根底から破壊し全く新しい秩序を創造しようとしたのです。本章では信長の統一政策がいかに革新的であったのかを軍事・経済・政治・思想の各側面から総合的に分析します。

8.1. 軍事における革新

信長の軍事はそれまでの武士の常識を覆す合理主義と組織力に貫かれていました。

  • 鉄砲の組織的運用:長篠の戦いに象徴されるように信長は鉄砲という新兵器の価値を誰よりも早く見抜きそれを個人的な武具としてではなく集団で運用する「システム」として戦争に導入しました。
  • 兵農分離の徹底:彼は家臣を城下町に集住させ土地の支配から切り離すことで戦闘に専念するプロフェッショナルな軍人集団を創り上げました。これにより季節に関係なくいつでも大軍を動員することが可能になりました。
  • 兵站(へいたん)の重視:信長は戦争において戦闘そのものだけでなく兵糧や弾薬を前線に供給する兵站(ロジスティクス)を極めて重視しました。関所の撤廃や道路の整備といった政策も軍隊の迅速な移動を可能にするという軍事的な目的を持っていました。

信長の軍隊はもはや武士個人の武勇に頼る中世的な軍隊ではなく近代的な組織力と兵站に支えられた軍隊でした。

8.2. 経済における革新

信長は経済の力が軍事力を支えることを深く理解しており中世的な経済秩序を破壊する革新的な政策を次々と打ち出しました。

  • 楽市・楽座と関所の撤廃:座が持つ独占権や関所といった自由な経済活動を妨げる中世的な規制を徹底的に排除しました。これにより物資と人の流通を活性化させ全国的な市場の形成を促しました。
  • 貨幣の統一:領国内で流通する貨幣の質を一定に保つ「撰銭令(えりぜにれい)」を発布するなど貨幣経済の安定化にも努めました。
  • 都市の重視:安土や堺といった商業都市を自らの支配下に置きそこから上がる莫大な利益を統一事業の財源としました。

信長の経済政策は荘園からの年貢収入に依存した旧来の封建領主とは一線を画すものでした。彼は商業や流通を支配することこそが新たな時代の富の源泉であることを見抜いていたのです。

8.3. 政治・思想における革新

信長の政策の中で最もラディカルであったのが政治と思想の分野でした。彼は自らの支配を正当化するために既存のいかなる権威にも頼ろうとしませんでした。

  • 室町幕府の否定:彼は当初足利義昭を将軍として擁立することで上洛の大義名分を得ました。しかし義昭が自らの障害となると見るや容赦なく追放し室町幕府という権威そのものを滅ぼしてしまいました。彼は将軍の権威に頼るのではなく自らが将軍に取って代わることを目指したのです。
  • 宗教的権威の否定:比叡山延暦寺の焼き討ちや石山戦争に見るように彼は自らの支配に従わない宗教勢力を聖域として扱うことをせず徹底的に武力で殲滅しました。これは政治権力が宗教権威の上位に立つという「政教分離」の原則を日本の歴史上初めて確立するものでした。
  • 天皇との関係:信長は朝廷を保護しその儀式を復興させるなど天皇の権威を尊重する姿勢を見せました。しかしその一方で天皇の権威を自らの統一事業に利用しようとする明確な意図も持っていました。彼が正親町(おおぎまち)天皇に譲位を迫ったとされる事件などその行動からは天皇さえも自らの支配の道具と見なすような傲慢さが窺えます。

8.4. 天下布武の目指すもの

信長が目指した「天下布武」とはどのような国家だったのでしょうか。彼は征夷大将軍の職に就くことを望まなかったとされています。このことから彼が目指していたのは鎌倉・室町幕府のような伝統的な武家政権の再興ではなかったと考えられています。

安土城の天主が天皇の内裏を模したものであったことや自らを神格化しようとしたとされる動きなどから彼が目指していたのは天皇の権威をも超越した絶対的な君主として日本に君臨するという全く新しい形の専制国家だったのではないかという説も有力です。

信長は中世という古い時代を終わらせるための偉大な「破壊者」でした。彼の革新的な政策はそれまでの日本の社会のあり方を根底から覆しその後の豊臣秀吉による天下統一そして徳川幕府による近世社会の基礎を築きました。彼はまさに時代の転換期に現れた革命家であったと言えるでしょう。


9. 本能寺の変

1582年(天正10年)織田信長はまさにその権力の絶頂にありました。甲斐の武田氏を滅ぼし長年の宿敵であった宗教勢力も屈服させ残る敵は西国の毛利、四国の長宗我部、北陸の上杉、関東の後北条といった数えるほどの勢力となっていました。天下統一はもはや時間の問題であると誰もが信じていました。しかしその夢は最も信頼していたはずの腹心の部下の一人の裏切りによって一夜にして灰燼に帰します。同年6月2日未明京都の本能寺に滞在していた信長を家臣の明智光秀が急襲。信長は炎の中で自害しました。この「本能寺の変(ほんのうじのへん)」は日本の歴史の流れを大きく変えた劇的な事件でありその動機は今なお日本史最大の謎の一つとして多くの人々を魅了し続けています。

9.1. 天下統一目前の状況

1582年信長の天下統一事業は最終段階に入っていました。

  • 武田氏の滅亡:同年3月信長は嫡男の信忠を総大将とする大軍を甲斐に送り込み武田勝頼を滅ぼしました。これにより東日本の大半は信長の勢力圏となります。
  • 中国攻め:西国では羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が中国地方の雄・毛利輝元と対峙し備中高松城を水攻めにしている最中でした。
  • 四国・北陸への展開:信長の三男・信孝は四国の長宗我部元親を、重臣の柴田勝家は北陸の上杉景勝を、それぞれ攻略する準備を進めていました。

信長はこれらの戦線を総覧するため近畿に滞在していました。そして毛利氏との決戦に自ら出陣すべくわずかな供回りだけを連れて京都の本能寺を宿所としていたのです。

9.2. 明智光秀の謀反

明智光秀は信長の家臣団の中でも特に信長の信任が厚い武将の一人でした。彼はもともと足利義昭に仕えていましたが信長が義昭を擁立した際にその才能を見出され織田家の家臣となりました。

光秀は優れた武将であると同時に和歌や茶の湯にも通じた教養人であり信長と朝廷との交渉役を務めるなど行政官としても高い能力を発揮しました。彼は丹波国(京都府・兵庫県)一国を与えられるなど信長の家臣団の中でも最高の待遇を受けていました。

1582年5月信長は中国攻めの秀吉を支援するため光秀に対して出陣を命じます。光秀は1万3千の兵を率いて本拠地である丹波亀山城を出発しました。しかし京都近郊の桂川まで来た時光秀は突如として全軍に進路の変更を命じます。

敵は本能寺にあり

この有名な言葉と共に光秀は自らの主君である織田信長が滞在する本能寺へと全軍を向けたのです。

9.3. 本能寺の炎

6月2日未明。明智軍1万3千は完全に油断していた本能寺を完全に包囲しました。信長が率いていた兵はわずか100名ほど。もはや逃げ場はありませんでした。

信長は自らも槍を手に取り奮戦したと伝えられています。しかし圧倒的な兵力差の前になすすべもなくやがて燃え盛る本堂の奥へと入り自ら火を放って自害しました。享年49。

信長の嫡男で織田家の後継者であった織田信忠もまた妙覚寺に滞在していましたが父の異変を知ると近くの二条新御所に立てこもり奮戦します。しかし彼もまた明智軍の猛攻の前に自害しました。

このクーデターによって織田信長とその正統な後継者が同時に命を落とすという最悪の事態が発生したのです。

9.4. 光秀の動機:日本史最大の謎

なぜ明智光秀は謀反を起こしたのでしょうか。その動機については確かな史料がなく様々な説が提唱されており日本史最大のミステリーとなっています。

  • 怨恨説:最も一般的な説です。信長は些細なことで家臣を厳しく叱責したり人前で屈辱を与えたりすることがありました。光秀もまた宴席で信長に頭を叩かれたり領地を没収されるという噂があったりしたため長年の恨みが爆発したという説です。
  • 野望説:光秀自身が信長に代わって天下人になろうとしたという説。しかし彼がその後の天下をどう構想していたのかを示す証拠は乏しいです。
  • 朝廷黒幕説:信長が天皇の権威をも脅かす存在になりつつあったため朝廷(あるいは特定の公家)が光秀をそそのかして信長を討たせたという説。
  • 足利義昭黒幕説:信長に追放された前将軍・足利義昭が毛利氏などと結びつき光秀を動かして復権を狙ったという説。
  • 四国政策説:信長がそれまで光秀が担当していた四国の長宗我部氏との交渉方針を覆したため光秀の面目が失われ謀反に至ったという比較的新しい説。

これらの説はどれも一長一短があり真相は今なお歴史の闇の中です。しかし確かなことはこの一人の武将の決断がその後の日本の歴史を全く新しい方向へと導いていったということでした。信長の死によって生じた巨大な権力の空白をめぐり彼の家臣たちによる新たな覇権争いが始まろうとしていたのです。


10. 信長政権の歴史的意義

本能寺の変によって織田信長の天下統一事業は志半ばで終わりを告げました。彼は日本を完全に統一するという最終的な目標を達成することはできませんでした。しかし彼が日本の歴史に残した功績とその影響は計り知れないほど大きいものでした。彼は中世という長く続いた一つの時代を終わらせ近世という新しい時代の扉を開いた偉大な破壊者であり創造者でした。本章では信長政権の歴史的意義を総括します。

10.1. 中世的権威の破壊者

信長の最大の功績は日本の社会を約500年にわたって支配してきた中世的な権威と秩序を徹底的に破壊したことです。

  • 室町幕府の滅亡:彼は足利将軍家の権威を完全に否定し室町幕府という中世的な武家政権のあり方を終わらせました。これにより将軍を頂点とする守護大名の連合体という古い政治システムは崩壊しました。
  • 宗教勢力の無力化:彼は比叡山延暦寺や石山本願寺といった強大な武装宗教勢力を武力で屈服させました。これにより政治権力が宗教権威の上位に立つという「政教分離」の原則が確立され国家の中に国家として君臨してきた中世寺社の特権は失われました。
  • 荘園制の解体:楽市・楽座や関所の撤廃といった政策は荘園領主である貴族や寺社の経済的基盤を揺るがし荘園制という中世的な土地支配のシステムを事実上解体しました。

信長はまさに中世という古い世界の墓堀人でした。彼がいなければ日本社会の近世への移行はもっと遅くそして異なる形になっていたことは間違いありません。

10.2. 新しい時代の創造者

信長は単なる破壊者ではありませんでした。彼は破壊した古い秩序の跡に新しい時代の礎となるシステムを次々と創造しました。

  • 統一的な国家権力の創出:彼は将軍や天皇といった既存の権威に頼らない自らの実力のみを正統性の源泉とする全く新しい形の統一的な国家権力を目指しました。
  • 近世的な経済システムの導入:自由な市場経済を志向した彼の経済政策は日本の経済を大きく発展させ近世社会の経済的基盤を築きました。
  • 新しい軍事システムの確立:鉄砲の組織的運用と兵農分離の徹底は日本の戦争のあり方を一変させその後の豊臣秀吉や徳川家康の軍隊のモデルとなりました。

10.3. 天下統一事業の継承

信長は天下統一を完成させることはできませんでした。しかし彼の事業は無駄にはなりませんでした。

信長が約15年間にわたって日本の中心部(畿内近国)を平定しそこに強力な中央集権的な支配を確立したという事実がなければその後の豊臣秀吉による天下統一は不可能でした。秀吉はまさに信長が築き上げた強固な土台の上に最後の仕上げを行ったのです。

信長が破壊し秀吉が統一しそして家康がその体制を磐石なものにする。この三人の英雄によるリレーによって日本の近世は築かれました。信長はそのリレーの第一走者として最も困難で最も重要な役割を果たしたのです。

信長の非情で残虐な側面はしばしば強調されます。しかし彼が旧弊を打破し新しい時代を切り開こうとした革命家であったこともまた事実です。彼の出現がなければ日本の歴史は大きく異なっていたでしょう。その意味で織田信長は日本の歴史を動かした最も重要な人物の一人として永遠に記憶されるべき存在なのです。


## Module 9:織田信長の天下統一事業の総括:破壊と創造による近世の扉

本モジュールでは戦国時代の動乱の中から現れた革命家織田信長の天下統一事業を追った。「うつけ者」と侮られた青年が尾張を統一し桶狭間の奇跡的な勝利で歴史の表舞台に登場する。彼は足利義昭を奉じて上洛するという伝統的な手法で天下に号令する足がかりを掴むとたちまちその将軍を追放し室町幕府という中世の権威を自らの手で葬り去った。長篠の戦いでは鉄砲の組織的運用によって戦争の形態を一変させ比叡山や石山本願寺との死闘の末に宗教が政治に介入する時代に終止符を打った。安土城の壮麗な天主は彼の絶対的な権威を象徴し楽市・楽座は自由な経済活動による富国強兵を目指す彼のビジョンを物語る。信長の事業は旧来の権威をことごとく破壊する徹底した合理主義に貫かれておりそれは中世の終わりと近世の始まりを告げるものであった。天下統一を目前にした本能寺での非業の死さえも彼が破壊した古い秩序の中から新たな秩序が生まれようとする歴史の必然の劇的な一幕であった。彼の破壊なくして後の時代の創造はあり得なかったのである。

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