【基礎 化学(理論)】Module 11:電離平衡(2)中和と塩
本モジュールの目的と構成
Module 10では、酸と塩基の基本的な定義を学び、pHという尺度を用いて水溶液の性質を定量的に記述する方法をマスターしました。しかし、化学の真の面白さは、異なる物質が出会い、相互作用する場面にあります。酸と塩基が出会うと何が起こるのでしょうか。その答えは、互いの性質を打ち消し合う、化学における最も基本的かつ重要な反応の一つ、「中和」です。
本モジュールでは、この中和反応をさらに深く掘り下げ、その応用としての化学分析技術、そして中和の結果として生まれる「塩(えん)」が示す、驚くほど多様な性質を探求します。前半では、未知の濃度の酸や塩基を正確に決定するための実験手法「中和滴定」に焦点を当てます。滴定の操作手順から、その過程で起こるpHの劇的な変化を可視化した「滴定曲線」の理論的解釈、そして反応の終点を見極める「pH指示薬」の適切な選択まで、分析化学の根幹をなすスキルを体系的に学びます。
後半では、中和の主役から脇役へと視点を移し、反応の産物である「塩」そのものが、水溶液中でどのような「個性」を示すのかを解き明かします。なぜ食塩水は中性なのに、炭酸ナトリウム水溶液は塩基性を示すのか。その謎は、「塩の加水分解」という現象によって説明されます。さらに、酸や塩基を加えてもpHがほとんど変化しない不思議な溶液、「緩衝液」のメカニズムと、そのpH計算を学びます。最後に、電離平衡の考え方を、ほとんど水に溶けない「難溶性塩」へと拡張し、「溶解度積」を用いて沈殿の生成を予測する方法を探ります。
このモジュールは、酸と塩基に関する理論的知識を、化学分析、生化学、工業プロセスといった、より実践的な応用へと橋渡しすることを目的としています。
- 中和反応の量的関係: まず、酸と塩基が過不足なく反応する「中和」の量的関係を、価数と濃度、体積を用いた基本公式から理解します。
- 中和滴定の技術: 未知の濃度の溶液を決定する「中和滴定」について、その目的から、ビュレットやホールピペットといった精密な器具の使い方、正確な実験操作手順までを学びます。
- 滴定曲線の解釈(強酸-強塩基): 中和滴定の過程をpHの変化として可視化した「滴定曲線」を導入し、最も基本的な強酸と強塩基の滴定における、特徴的なpHジャンプの意味を解釈します。
- 滴定曲線の解釈(弱酸・弱塩基が関わる場合): 弱酸や弱塩基が関わる滴定では、滴定曲線がどのように変化するのか、特に中和点のpHが7にならない理由を、塩の加水分解と関連付けて学びます。
- pH指示薬の選択: 中和の終点を色で知らせる「pH指示薬」が、なぜ変色するのか、その原理と、滴定の種類に応じて適切な指示薬を選択するための論理的な基準をマスターします。
- 塩の定義と分類: 中和によって生成する「塩」を、元になった酸と塩基の強弱に基づいて体系的に分類します。
- 塩の加水分解: なぜ塩の種類によって水溶液の液性が変わるのか、「塩の加水分解」という現象を通じて、塩を構成するイオンが水と反応するメカニズムを解き明かします。
- 緩衝液の原理: 少々の酸や塩基を加えてもpHの変化を和らげる「緩衝液」の仕組みを探ります。弱酸とその共役塩基のペアが、どのようにしてこの緩衝作用を発揮するのかを学びます。
- 緩衝液のpH計算: 緩衝液のpHが、構成成分の濃度比と酸解離定数によってどのように決まるのか、ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式を用いた定量的な計算方法を習得します。
- 溶解度積と沈殿生成: 最後に、電離平衡の考え方を、AgClのような難溶性塩のわずかな溶解に適用し、「溶解度積」という新しい平衡定数を導入します。これを用いて、溶液を混合した際に沈殿が生成するか否かを予測する方法を学びます。
このモジュールを完遂したとき、皆さんは酸と塩基の相互作用を深く理解し、その応用範囲の広大さを実感していることでしょう。
1. 中和反応の量的関係
酸と塩基が互いの性質を打ち消し合う反応、「中和」。その本質は、酸から生じる水素イオン (H⁺) と、塩基から生じる水酸化物イオン (OH⁻) が結びついて、水 (H₂O) を生成する反応にあります。
\[ H^+ + OH^- \rightarrow H_2O \]
この中和反応は、非常に速く、そして極めて定量的に進行するため、化学分析の基礎として広く利用されます。中和反応の計算を行う上で、最も重要なのは、酸と塩基が「過不足なく」反応する点、すなわち**中和点(当量点)**における量的関係を正確に把握することです。
1.1. 中和点における量的関係
中和が完了する点(中和点)では、酸が放出した H⁺ の総物質量 [mol] と、塩基が放出した(または受け取った) OH⁻ の総物質量 [mol] が、ちょうど等しくなります。
\[
\boldsymbol{(\text{酸から生じる } H^+ \text{ の物質量}) = (\text{塩基から生じる } OH^- \text{ の物質量})}
\]
この基本的な関係式が、すべての中和計算の出発点となります。
1.2. 公式の導出と応用
酸や塩基の溶液について、H⁺ や OH⁻ の物質量を計算する方法を考えてみましょう。
ある酸の水溶液について、
- モル濃度を \(C_a\) [mol/L]
- 体積を \(V_a\) [L]
- 価数を \(a\)とすると、この溶液に含まれる酸の物質量は \(C_a V_a\) [mol] です。酸 1分子は H⁺ を \(a\) 個放出するので、この溶液から生じる H⁺ の総物質量は、\[ H^+ \text{ の物質量} = a \times C_a \times V_a \]となります。同様に、塩基の水溶液について、
- モル濃度を \(C_b\) [mol/L]
- 体積を \(V_b\) [L]
- 価数を \(b\)とすると、この溶液から生じる OH⁻ の総物質量は、\[ OH^- \text{ の物質量} = b \times C_b \times V_b \]となります。
中和点では、これら二つの量が等しくなるので、以下の極めて重要な公式が導かれます。
\[
\boldsymbol{a C_a V_a = b C_b V_b}
\]
この式を用いることで、濃度、体積、価数のうち、一つが未知であっても、他が分かっていればその値を算出することができます。これが、次に学ぶ中和滴定の基本原理です。
注意:
体積の単位は、両辺で揃っていれば L でも mL でも構いません。通常は mL のまま計算することが多いので、その場合は \(V_a, V_b\) に mL の数値をそのまま代入します。
\[ a \times C_a \times \frac{V_a[\text{mL}]}{1000} = b \times C_b \times \frac{V_b[\text{mL}]}{1000} \quad \Leftrightarrow \quad a C_a V_a[\text{mL}] = b C_b V_b[\text{mL}] \]
1.3. 計算例題
例題:
濃度未知の硫酸 (H₂SO₄) 10 mL を完全に中和するのに、0.10 mol/L の水酸化ナトリウム (NaOH) 水溶液が 20 mL 必要であった。この硫酸のモル濃度は何 mol/L か。
解答プロセス:
- 各物質の価数、濃度、体積を整理する:
- 酸(硫酸 H₂SO₄):
- 価数 \(a = 2\)
- モル濃度 \(C_a = ?\) [mol/L]
- 体積 \(V_a = 10\) mL
- 塩基(水酸化ナトリウム NaOH):
- 価数 \(b = 1\)
- モル濃度 \(C_b = 0.10\) mol/L
- 体積 \(V_b = 20\) mL
- 酸(硫酸 H₂SO₄):
- 中和の量的関係の公式に代入する:\[ a C_a V_a = b C_b V_b \]\[ 2 \times C_a \times 10 = 1 \times 0.10 \times 20 \]
- 未知の濃度 \(C_a\) について解く:\[ 20 C_a = 2.0 \]\[ C_a = \frac{2.0}{20} = \boldsymbol{0.10 \text{ mol/L}} \]したがって、硫酸のモル濃度は 0.10 mol/L である。
この単純な公式は、強酸・強塩基だけでなく、弱酸・弱塩基が関わる中和においても、中和点における量的関係として、全く同じように成り立ちます。なぜなら、中和反応は不可逆的に進行するため、弱酸や弱塩基も、加えられた強塩基や強酸によって、最終的には完全に反応させられるからです。
2. 中和滴定の操作と器具
化学実験において、ある溶液の正確な濃度を知ることは、極めて重要です。そのための最も基本的かつ精密な分析手法の一つが「滴定 (Titration)」です。特に、酸と塩基の中和反応を利用して、未知の濃度の酸または塩基の濃度を決定する操作を「中和滴定 (Acid-Base Titration)」と呼びます。この操作は、前のセクションで学んだ aCaVa = bCbVb
という中和の量的関係を、実験的に応用したものです。正確な滴定を行うためには、適切なガラス器具を選択し、それらを正しい手順で用いる技術が不可欠です。
2.1. 中和滴定の目的と原理
- 目的: 濃度が不明な酸または塩基の水溶液(試料)のモル濃度を、正確に決定すること。
- 原理: 試料と過不足なく反応する、濃度が正確にわかっている酸または塩基の水溶液(標準溶液, Standard Solution)を少しずつ加え、ちょうど中和が完了した点(中和点, Equivalence Point)を特定します。その中和点までに要した標準溶液の体積を正確に測定することで、
aCaVa = bCbVb
の関係式から、未知の濃度を算出します。
2.2. 中和滴定に用いる主要な器具
中和滴定では、体積を精密に測定・操作するために、以下のような特殊なガラス器具(体積計)が用いられます。
- ビュレット (Buret)
- 用途: 標準溶液(滴下する側の溶液)を入れ、その滴下した体積を精密に読み取るための、細長いガラス管。
- 特徴: 下端にコックがついており、一滴ずつ溶液を滴下できるように流量を調節できます。側面には精密な目盛りが刻まれており、液面の最初の位置と最後の位置の差から、滴下量を 0.01 mL の単位まで正確に読み取ることが可能です。
- 使用前の準備: 使用する標準溶液で数回、内部を洗浄する(共洗い)。これは、器具内部に付着した水滴で標準溶液の濃度が薄まるのを防ぐためです。
- ホールピペット (Volumetric Pipet)
- 用途: 濃度を測定したい試料溶液を、一定の体積(例: 10.00 mL)だけ正確に量り取り、反応容器に移すための器具。
- 特徴: 中央が膨らんだガラス管で、首の部分に一本の線(標線)が刻まれています。この標線まで溶液を吸い上げ、排出することで、極めて高い精度で決まった体積を量り取ることができます。
- 使用前の準備: 量り取る試料溶液で内部を共洗いします。
- 操作: 安全ピペッター(ゴム球)を用いて溶液を標線の上まで吸い上げ、液面の底が標線に一致するように調整した後、溶液をコニカルビーカーに移します。先端に残った最後の一滴は、吹き出さずにそのまま残します(その分はあらかじめ体積に含まれています)。
- メスフラスコ (Volumetric Flask)
- 用途: 正確な濃度の標準溶液を調製したり、試料を正確に希釈したりするために用いる、底が平らなフラスコ。
- 特徴: ホールピペットと同様に、首の部分に一本の標線が刻まれており、その線まで溶媒を加えることで、極めて正確な体積(例: 100.0 mL)の溶液を調製できます。
- 使用前の準備: 固体から溶液を調製する場合、純水(蒸留水)で洗浄し、濡れたまま使用します。(共洗いはしません。溶質の量が変わってしまうため。)
- コニカルビーカー (Conical Flask)
- 用途: ホールピペットで量り取った試料溶液を入れ、滴定反応を行うための容器。
- 特徴: 三角フラスコとも呼ばれます。滴下中に溶液を振り混ぜても中身がこぼれにくい形状をしています。
- 使用前の準備: 純水で洗浄し、濡れたまま使用します。(共洗いはしません。試料の物質量が変わらなければ、水で薄まっても中和に必要な滴下量は変わらないため。)
2.3. 中和滴定の基本操作手順
例:濃度未知の酢酸水溶液を、0.100 mol/L 水酸化ナトリウム標準溶液で滴定する
- 器具の準備:
- ビュレットを、0.100 mol/L NaOH 水溶液で共洗いし、NaOH水溶液を満たしてスタンドに固定する。先端の空気を抜き、液面の初期の目盛りを読み取る。
- ホールピペット(10 mL)を、濃度未知の酢酸水溶液で共洗いする。
- コニカルビーカーを純水で洗浄する。
- 試料の採取:
- ホールピペットを用いて、酢酸水溶液 10.00 mL を正確に量り取り、コニカルビーカーに入れる。
- 指示薬の添加:
- コニカルビーカーに、pH指示薬(この場合はフェノールフタレイン溶液)を1〜2滴加える。
- 滴定の実施:
- ビュレットのコックを開き、コニカルビーカーを絶えず振り混ぜながら、NaOH水溶液を滴下していく。
- 滴下した点の色が消えにくくなってきたら、一滴ずつ慎重に滴下する。
- 終点の判断:
- 指示薬の色が、かすかに、しかし振り混ぜても元に戻らなくなった点(この場合は、無色から薄い赤色に変わった点)を終点 (End Point) とする。
- ビュレットのコックを閉じ、液面の最終の目盛りを正確に読み取る。
- 計算:
- (最終目盛り)-(初期目盛り)から、滴下したNaOH水溶液の体積を求める。
aCaVa = bCbVb
の公式を用いて、酢酸水溶液の濃度を算出する。
この一連の精密な操作によって、目には見えない溶液の濃度という値を、高い信頼性をもって決定することができるのです。
3. 滴定曲線の理論と解釈(強酸-強塩基)
中和滴定のプロセスをより深く理解するために、滴下量とpHの関係をグラフにした「滴定曲線 (Titration Curve)」が非常に有効です。滴定曲線は、中和反応が進行するにつれて、溶液のpHがどのように変化していくかを視覚的に示したものであり、その形から、反応の進行状況や中和点の特定、適切な指示薬の選択など、多くの重要な情報を読み取ることができます。まずは、最もシンプルで基本的な「強酸を強塩基で滴定する」(またはその逆)場合の滴定曲線について、その特徴的な形がなぜ生まれるのかを理論的に解釈します。
3.1. 滴定曲線とは
- 定義: 滴定において、加えた滴定液(標準溶液)の体積を横軸に、混合溶液のpHを縦軸にプロットしたグラフ。
- 目的:
- 中和反応の全過程におけるpH変化を可視化する。
- 中和点(当量点)を正確に特定する。
- 中和点付近で起こるpHの急激な変化(pHジャンプ)の範囲を知る。
- 適切なpH指示薬を選択するための根拠とする。
3.2. 強酸(HCl)を強塩基(NaOH)で滴定する場合の滴定曲線
例:0.1 mol/L 塩酸 10 mL を、0.1 mol/L 水酸化ナトリウム水溶液で滴定する
この滴定曲線は、大きく4つの領域に分けて解釈することができます。
領域1:滴定開始前(NaOH滴下量 = 0 mL)
- 状態: 0.1 mol/L の塩酸のみ。
- pHの計算: 強酸のpH計算。
- [H⁺] = 0.1 mol/L = 10⁻¹ mol/L
- pH = -log₁₀(10⁻¹) = 1
- グラフ: 滴定は pH=1 の点からスタートします。
領域2:中和点より前(例:NaOH 5 mL 滴下時)
- 状態: 塩酸(H⁺)が過剰に存在する状態。加えられたNaOH(OH⁻)は、すべてH⁺との中和反応で消費されます。
- pHの計算:
- 初めのH⁺: 0.1 mol/L × 0.01 L = 0.001 mol
- 加えたOH⁻: 0.1 mol/L × 0.005 L = 0.0005 mol
- 残ったH⁺: 0.001 – 0.0005 = 0.0005 mol
- 総体積: 10 mL + 5 mL = 15 mL = 0.015 L
- [H⁺] = 0.0005 mol / 0.015 L ≈ 0.033 mol/L
- pH = -log₁₀(0.033) ≈ 1.5
- グラフ: NaOHを加えていくと、H⁺が消費されて濃度が下がるため、pHはゆっくりと上昇していきます。中和点に近づくにつれて、その上昇率は徐々に大きくなります。
領域3:中和点(当量点)(NaOH滴下量 = 10 mL)
- 状態:
aCaVa = bCbVb
(1×0.1×10 = 1×0.1×10) が成立。加えたOH⁻の物質量と、初めに存在したH⁺の物質量がちょうど等しくなった点。 - pHの計算:
- H⁺ と OH⁻ は完全に反応して H₂O になります。
- 溶液中に存在する主な溶質は、中和によって生成した塩である塩化ナトリウム (NaCl) です。
- NaCl は、強酸 (HCl) と強塩基 (NaOH) からできた塩なので、そのイオン (Na⁺, Cl⁻) は加水分解せず、水溶液は中性となります。
- したがって、25℃における中和点の pHは正確に 7.0 となります。
- pHジャンプ (pH Jump):中和点の極めて近く(例えば、滴下量が9.99 mL から 10.01 mL になるごくわずかな範囲)で、pHが劇的に、ほぼ垂直に急上昇します。この領域を pHジャンプ と呼びます。この例では、pHは約3から約11まで、一気に変化します。これは、H⁺ がほぼゼロになったところに、わずかでも過剰のOH⁻ が加わることで、[H⁺] のオーダーが大きく変わるためです。
領域4:中和点以降(例:NaOH 15 mL 滴下時)
- 状態: 加えられたNaOH(OH⁻)が過剰になった状態。
- pHの計算:
- 総OH⁻: 0.1 mol/L × 0.015 L = 0.0015 mol
- 中和に使われたOH⁻: 0.001 mol
- 過剰なOH⁻: 0.0015 – 0.001 = 0.0005 mol
- 総体積: 10 mL + 15 mL = 25 mL = 0.025 L
- [OH⁻] = 0.0005 mol / 0.025 L = 0.02 mol/L = 2 × 10⁻² mol/L
- pOH = -log₁₀(2 × 10⁻²) ≈ 1.7
- pH = 14 – pOH ≈ 12.3
- グラフ: 中和点を超えると、過剰なOH⁻によってpHは急上昇し、その後はNaOH水溶液を薄めているだけになるため、pHの変化は再び緩やかになり、徐々に滴定液のpHに近づいていきます。
3.3. 強塩基を強酸で滴定する場合
例:0.1 mol/L NaOH 10 mL を 0.1 mol/L HCl で滴定する
この場合の滴定曲線は、上記の曲線を上下反転させた形になります。
- スタート: 高いpH(この例ではpH=13)から始まる。
- 中和点: pH = 7 で、急激なpHの降下(pHジャンプ)が起こる。
- 終了: 低いpH(この例ではpH=1)に近づいていく。
強酸-強塩基の滴定曲線が示す、中和点でのシャープなpHジャンプは、滴定の終点を明確に捉えることを可能にし、この滴定が非常に高い精度を持つ理由を物語っています。
4. 滴定曲線の理論と解釈(弱酸-強塩基、強酸-弱塩基)
強酸と強塩基の滴定では、中和点はpH=7となり、その前後で大きなpHジャンプが見られました。しかし、反応に関わるのが弱酸または弱塩基である場合、滴定曲線の形は大きく変化します。これは、弱酸・弱塩基の不完全な電離と、中和によって生成する「塩の加水分解」という現象が、溶液のpHに複雑な影響を及ぼすためです。
4.1. 弱酸を強塩基で滴定する場合 (例: CH₃COOH + NaOH)
例:0.1 mol/L 酢酸水溶液 10 mL を、0.1 mol/L 水酸化ナトリウム水溶液で滴定する
この滴定曲線は、強酸-強塩基の場合と比較して、主に以下の三つの点で異なります。
- 滴定開始時のpHが高い:
- 理由: 滴定前の溶液は、0.1 mol/L の弱酸である酢酸の水溶液です。酢酸は一部しか電離しないため、同じ濃度の強酸である塩酸(pH=1)に比べて、初期の [H⁺] ははるかに低く、pHは高い値(この例では約2.87)からスタートします。
- 中和点までの前半に緩衝領域が現れる:
- 理由: 滴定が進むと、溶液中には、未反応の弱酸 (CH₃COOH) と、中和によって生成したその共役塩基 (CH₃COO⁻) の両方が、かなりの量で共存することになります。この「弱酸とその共役塩基の混合物」は、緩衝液 (Buffer Solution) としての性質を持ちます。
- 緩衝領域 (Buffer Region): 緩衝作用のため、この領域では強塩基を加えても、pHは非常にゆっくりとしか上昇しません。滴定曲線は、比較的平坦な領域(プラトー)を示します。特に、中和点の半分の量を滴下した半中和点では、[CH₃COOH] = [CH₃COO⁻] となり、pHは酢酸の酸解離定数のpKaと等しくなります(pH = pKa)。
- 中和点のpHが7より大きい(塩基性):
- 理由: 中和点では、酢酸はすべて、強塩基であるNaOHによって消費され、溶液中の主な溶質は、生成した塩である酢酸ナトリウム (CH₃COONa) となります。
- 酢酸ナトリウムは、弱酸 (CH₃COOH) と強塩基 (NaOH) からできた塩です。この塩の陰イオンである酢酸イオン (CH₃COO⁻) は、水と反応して加水分解を起こし、水酸化物イオン (OH⁻) を生じさせます。\[ CH_3COO^- + H_2O \rightleftharpoons CH_3COOH + OH^- \]
- このOH⁻の生成により、中和点における水溶液は塩基性を示し、そのpHは7よりも大きくなります(この例では約8.72)。
- pHジャンプが小さい:
- 滴定開始時のpHが高く、中和点付近の緩衝作用があるため、中和点でのpHジャンプの幅は、強酸-強塩基の滴定に比べて小さく、狭くなります。
4.2. 強酸を弱塩基で滴定する場合 (例: HCl + NH₃)
例:0.1 mol/L アンモニア水 10 mL を、0.1 mol/L 塩酸で滴定する
この滴定曲線は、弱酸-強塩基の曲線と対称的な特徴を持ちます。
- 滴定開始時のpHが(同じ濃度の強塩基よりは)低い:
- 理由: 滴定前は0.1 mol/L の弱塩基であるアンモニア水なので、同じ濃度の強塩基NaOH(pH=13)よりも、pHは低い値(この例では約11.13)からスタートします。
- 緩衝領域:
- 滴定が進むと、溶液中には弱塩基 (NH₃) とその共役酸 (NH₄⁺) が共存し、緩衝領域が形成されます。
- 中和点のpHが7より小さい(酸性):
- 理由: 中和点において、溶液中の主な溶質は、生成した塩である塩化アンモニウム (NH₄Cl) です。
- 塩化アンモニウムは、強酸 (HCl) と弱塩基 (NH₃) からできた塩です。この塩の陽イオンであるアンモニウムイオン (NH₄⁺) が加水分解を起こし、水素イオン (H⁺、実際にはH₃O⁺) を生じさせます。\[ NH_4^+ + H_2O \rightleftharpoons NH_3 + H_3O^+ \]
- このH⁺の生成により、中和点における水溶液は酸性を示し、そのpHは7よりも小さくなります(この例では約5.28)。
- pHジャンプが小さい:
- 弱酸-強塩基の場合と同様に、pHジャンプの幅は強酸-強塩基の場合よりも小さくなります。
まとめ
滴定の種類 | スタートpH | 中和点pH | pHジャンプ |
強酸-強塩基 | 低い (例: 1) | = 7 (中性) | 大きい |
弱酸-強塩基 | やや高い (例: 3) | > 7 (塩基性) | 小さい |
強酸-弱塩基 | やや低い (例: 11) | < 7 (酸性) | 小さい |
弱酸や弱塩基が関わる滴定曲線の形は、電離平衡と塩の加水分解という、二つの重要な平衡概念が複合的に作用した結果として現れるのです。
5. pH指示薬の変色原理と適切な選択
中和滴定において、中和点(当量点)という、目には見えない化学的な「完了点」を、私たちはどのようにして知ることができるのでしょうか。その役割を担うのが、「pH指示薬 (pH Indicator)」です。指示薬は、溶液のpHに応じて特定の色を示すことで、滴定の終点を視覚的に知らせてくれます。しかし、どんな滴定にも同じ指示薬が使えるわけではありません。適切な指示薬を選択するためには、指示薬がなぜ変色するのか、その原理と、各滴定曲線が示すpHジャンプの特性を、正しく理解する必要があります。
5.1. pH指示薬の変色原理
pH指示薬の正体は、それ自身が弱酸または弱塩基として振る舞う、複雑な構造を持つ有機色素です。
指示薬が弱酸である場合、その分子を HIn と表すことができます(InはIndicatorの略)。
この弱酸 HIn は、水溶液中で以下のような電離平衡の状態にあります。
\[
\underset{\text{酸性形 (Color A)}}{\ HIn\ } \rightleftharpoons H^+ + \underset{\text{塩基性形 (Color B)}}{\ In^-\ }
\]
ここでの最も重要な特徴は、酸性形 (HIn) の分子と、その共役塩基である塩基性形 (In⁻) のイオンとで、色が異なるという点です。
- 酸性の溶液中では:
- 周囲に H⁺ が豊富に存在するため、ルシャトリエの原理により、平衡は左に大きく移動します。
- その結果、指示薬は主に酸性形 (HIn) として存在し、溶液は色Aを呈します。
- 塩基性の溶液中では:
- 周囲の H⁺ が少ない(OH⁻ によって消費される)ため、平衡は右に大きく移動します。
- その結果、指示薬は主に塩基性形 (In⁻) として存在し、溶液は色Bを呈します。
このように、pH指示薬の変色は、溶液のpH([H⁺])の変化に応じて、自身の電離平衡が左右に移動し、どちらの化学種(HInかIn⁻)が優勢になるかが変わるために起こるのです。
5.2. 変色域 (Transition Range)
指示薬の変色は、ある特定のpH値で瞬時に起こるわけではありません。酸性形の色から塩基性形の色へと、色が完全に変化するには、ある程度のpHの範囲が必要です。この、指示薬の色が変化するpHの範囲を「変色域」と呼びます。
- 変色域の中心: 変色域のほぼ中心では、[HIn] と [In⁻] の濃度がほぼ等しくなり、色Aと色Bが混ざり合った中間色を示します。このときのpHは、その指示薬の酸解離定数 Ka に対して、pH ≈ pKa となります。
- 変色域の幅: 一般的に、変色域の幅は pKa を中心として、およそ ±1 の範囲となります(pH = pKa ± 1)。
代表的な指示薬とその変色域:
指示薬 | 酸性側の色 | 塩基性側の色 | 変色域 (pH) |
メチルオレンジ | 赤色 | 黄色 | 3.1 – 4.4 |
メチルレッド | 赤色 | 黄色 | 4.2 – 6.2 |
BTB(ブロモチモールブルー) | 黄色 | 青色 | 6.0 – 7.6 |
フェノールフタレイン | 無色 | 赤色(桃色) | 8.0 – 9.8 |
リトマス | 赤色 | 青色 | 5.0 – 8.0 |
5.3. 適切な指示薬の選択
中和滴定の目的は、**中和点(当量点)**を正確に知ることです。私たちが実験で観測するのは、指示薬の色が変化する「終点」です。したがって、この「終点」が、理論的な「中和点」とできるだけ一致するように、指示薬を選択しなければなりません。
選択の基本原則:
指示薬の変色域が、滴定曲線における pHジャンプの範囲内に完全に含まれているものを選ぶ。
pHジャンプの領域では、ごくわずか(通常は一滴以下)の滴下でpHが大きく変化します。そのため、変色域がこの急峻な部分にあれば、指示薬が変色した「終点」と、真の「中和点」との誤差は、実質的に無視できるほど小さくなります。
5.3.1. 強酸-強塩基の滴定
- 特徴: pHジャンプが非常に大きい(例: pH 3 〜 11)。
- 選択:
- メチルオレンジ(変色域 3.1-4.4)も、フェノールフタレイン(変色域 8.0-9.8)も、どちらもpHジャンプの範囲内に含まれています。
- したがって、どちらの指示薬も使用可能です。
5.3.2. 弱酸-強塩基の滴定
- 特徴: 中和点は塩基性側 (pH > 7) にあり、pHジャンプは比較的小さく、塩基性側に偏っています(例: pH 7 〜 11)。
- 選択:
- フェノールフタレイン(変色域 8.0-9.8)は、このpHジャンプの範囲にぴったりと収まります。
- 一方、メチルオレンジ(変色域 3.1-4.4)は、pHジャンプが始まるよりもはるか手前の、中和点に達するずっと前に変色を完了してしまいます。
- したがって、フェノールフタレインを使用しなければならない。
5.3.3. 強酸-弱塩基の滴定
- 特徴: 中和点は酸性側 (pH < 7) にあり、pHジャンプは比較的小さく、酸性側に偏っています(例: pH 3 〜 7)。
- 選択:
- メチルオレンジ(変色域 3.1-4.4)は、このpHジャンプの範囲内にあります。
- 一方、フェノールフタレイン(変色域 8.0-9.8)は、pHジャンプが完全に終わった後、中和点をはるかに通り過ぎてからでないと変色を始めません。
- したがって、メチルオレンジを使用しなければならない。
(弱酸と弱塩基の滴定では、明確なpHジャンプが見られないため、通常、指示薬を用いた滴定は行われません。)
適切な指示薬の選択は、滴定の成否を分ける重要な判断です。それは、滴定される酸と塩基の「強弱」を理解し、その結果として生じる滴定曲線の「形」を予測する能力に基づいているのです。
6. 塩の定義と分類
酸と塩基が中和反応を起こすと、水の他に、必ず「塩(えん, Salt)」と呼ばれる物質が生成します。食塩(塩化ナトリウム)がその代表例ですが、化学の世界では、「塩」ははるかに広範な物質群を指す総称です。塩は、私たちの身の回りの物質(重曹、石膏、ミョウバンなど)や、化学工業、生命活動において、極めて重要な役割を果たしています。このセクションでは、化学における塩の厳密な定義と、その性質を予測するための基本となる、生成由来に基づいた分類方法を学びます。
6.1. 塩の定義
化学における「塩」は、以下のように定義されます。
塩:
- 酸と塩基の中和反応によって、水と共に生成する化合物。
- 酸の陰イオンと、塩基の陽イオンとが、イオン結合してできたイオン結晶。
- 酸のプロトン (H⁺) が、金属イオンやアンモニウムイオン (NH₄⁺) で置き換えられた化合物。
これらの定義は、異なる側面から同じものを説明しています。
例えば、塩酸 (HCl) と水酸化ナトリウム (NaOH) の中和反応を考えます。
\[ \underset{\text{酸}}{HCl} + \underset{\text{塩基}}{NaOH} \rightarrow \underset{\text{塩}}{NaCl} + \underset{\text{水}}{H_2O} \]
- 塩化ナトリウム (NaCl) は、酸 (HCl) の陰イオンである Cl⁻ と、塩基 (NaOH) の陽イオンである Na⁺ から構成されています。
- また、酸 (HCl) のプロトン H⁺ が、塩基由来の陽イオン Na⁺ で置き換えられた化合物、と見ることもできます。
6.2. 塩の分類:生成由来による分類
塩の最も重要な性質は、水に溶かしたときに、その水溶液が酸性、中性、塩基性のいずれを示すかという点です。この液性は、その塩がどのような「親」(酸と塩基)から生まれてきたかによって、決まります。
したがって、塩を、それを生成した酸と塩基の「強弱」の組み合わせによって分類することは、その性質を予測する上で非常に有効です。
塩は、以下の四つのタイプに大別されます。
6.2.1. 正塩 (Normal Salt)
正塩とは、酸のH⁺も、塩基のOH⁻も、分子内に残っていない塩のことです。中和が完全に進行してできた、最も一般的な塩です。
- 例: NaCl, KNO₃, CuSO₄, CH₃COONa
正塩は、さらに以下の4つに細分類されます。
- 強酸と強塩基からなる塩
- 例: NaCl (← HCl + NaOH), KNO₃ (← HNO₃ + KOH), BaCl₂ (← HCl + Ba(OH)₂)
- 強酸と弱塩基からなる塩
- 例: NH₄Cl (← HCl + NH₃), CuSO₄ (← H₂SO₄ + Cu(OH)₂), AgNO₃ (← HNO₃ + AgOH)
- 弱酸と強塩基からなる塩
- 例: CH₃COONa (← CH₃COOH + NaOH), Na₂CO₃ (← H₂CO₃ + NaOH), KCN (← HCN + KOH)
- 弱酸と弱塩基からなる塩
- 例: CH₃COONH₄ (← CH₃COOH + NH₃), (NH₄)₂S (← H₂S + NH₃)
この分類が、次のセクションで学ぶ「塩の加水分解」と水溶液の液性を理解する鍵となります。
6.2.2. 酸性塩 (Acid Salt)
酸性塩とは、多価の酸と塩基の中和が段階的に起こり、酸のプロトン (H⁺) がまだ分子内に残っている塩のことです。
- 特徴: 名前に「酸性」とありますが、その水溶液が必ずしも酸性を示すとは限りません。あくまで、化学式の中に電離可能な H が残っている、という意味です。
- 例:
- 炭酸水素ナトリウム (NaHCO₃): 炭酸(H₂CO₃, 2価)とNaOHの中和で、Hが1つ残った塩。
- 硫酸水素ナトリウム (NaHSO₄): 硫酸(H₂SO₄, 2価)とNaOHの中和で、Hが1つ残った塩。
- リン酸二水素ナトリウム (NaH₂PO₄): リン酸(H₃PO₄, 3価)が1段階だけ中和された塩。
6.2.3. 塩基性塩 (Basic Salt)
塩基性塩とは、多価の塩基と酸の中和が段階的に起こり、塩基の水酸化物イオン (OH⁻) がまだ分子内に残っている塩のことです。
- 特徴: 名前に「塩基性」とありますが、その水溶液が必ずしも塩基性を示すとは限りません。
- 例:
- 塩化水酸化マグネシウム (MgCl(OH)): 水酸化マグネシウム(Mg(OH)₂, 2価)とHClの中和で、OHが1つ残った塩。
- 炭酸水酸化銅(II) (Cu₂(OH)₂CO₃): 緑青の主成分。
この分類法を身につけることで、塩の化学式を見ただけで、その「出自」を読み解き、水溶液中での振る舞いを予測するための第一歩を踏み出すことができます。
7. 塩の加水分解と水溶液の液性
中和反応によってできる塩は、酸の陰イオンと塩基の陽イオンから構成されるイオン化合物です。多くの人は、塩の水溶液は食塩水のように「中性」であると考えがちです。しかし、実際には、炭酸ナトリウム(重曹の仲間)の水溶液は塩基性を、塩化アンモニウムの水溶液は酸性を示します。なぜ、塩の種類によって水溶液の液性が異なるのでしょうか。その答えは、塩を構成する特定のイオンが、水分子と反応するという「塩の加水分解 (Hydrolysis of Salts)」という現象にあります。
7.1. 塩の加水分解とは
塩の加水分解とは、塩を水に溶かしたときに、その塩を構成するイオンの一部が、水分子と反応して、H⁺ または OH⁻ を生じ、その結果、水溶液のpHが変化する現象のことです。
「加水分解」は、文字通り「水が加わって分解する」反応を意味しますが、この文脈では、イオンが水と反応して平衡状態を作るプロセスを指します。
7.2. 加水分解するイオン、しないイオン
どのようなイオンが加水分解を起こすのでしょうか。ここには、非常に明確なルールが存在します。
弱酸に由来する陰イオンは、加水分解して OH⁻ を生じる(塩基性)。
弱塩基に由来する陽イオンは、加水分解して H⁺ を生じる(酸性)。
強酸に由来する陰イオンと、強塩基に由来する陽イオンは、加水分解しない。
理由:
- 強酸の共役塩基(例:Cl⁻): HCl は強酸であり、H⁺ を完全に放出します。その共役塩基である Cl⁻ は、プロトン (H⁺) を引きつけて HCl に戻ろうとする傾向が全くない、非常に「弱い」塩基です。そのため、水分子から H⁺ を奪うことはなく、加水分解しません。
- 強塩基の共役酸(例:Na⁺): NaOH は強塩基であり、水中で完全に Na⁺ と OH⁻ に電離します。その共役酸である Na⁺ は、水分子に H⁺ を与える能力は全くなく、加水分解しません。
- 弱酸の共役塩基(例:CH₃COO⁻): 酢酸 (CH₃COOH) は弱酸であり、一部しか電離せず、CH₃COO⁻ と H⁺ の間で平衡状態にあります。その共役塩基である CH₃COO⁻ は、H⁺ と結びついて CH₃COOH に戻ろうとする傾向が比較的強い、「強い」塩基です。そのため、水分子から H⁺ を奪い、結果として OH⁻ を残します。
- 弱塩基の共役酸(例:NH₄⁺): アンモニア (NH₃) は弱塩基であり、H⁺ を受け取る傾向があります。その共役酸である NH₄⁺ は、逆に H⁺ を放出して NH₃ に戻ろうとする傾向が比較的強い、「強い」酸です。そのため、水分子に H⁺ を与え、結果として H₃O⁺ を生じさせます。
7.3. 塩の分類と水溶液の液性
この加水分解のルールを、前のセクションで学んだ塩の分類に適用すると、各塩の水溶液が示す液性を、完全に論理的に予測することができます。
7.3.1. 強酸と強塩基からなる塩 (例: NaCl, KNO₃)
- 構成イオン: Na⁺ (強塩基由来), Cl⁻ (強酸由来)
- 加水分解: どちらのイオンも加水分解しない。
- 液性: H⁺ も OH⁻ も生成されないため、水溶液は中性 (pH = 7) となります。
7.3.2. 強酸と弱塩基からなる塩 (例: NH₄Cl, CuSO₄)
- 構成イオン: NH₄⁺ (弱塩基 NH₃ 由来), Cl⁻ (強酸 HCl 由来)
- 加水分解: 陽イオンである NH₄⁺ のみが加水分解します。\[ NH_4^+ + H_2O \rightleftharpoons NH_3 + H_3O^+ \quad (\text{または } H^+) \]
- 液性: この反応によって H⁺ (H₃O⁺) が生じるため、水溶液は酸性 (pH < 7) となります。
7.3.3. 弱酸と強塩基からなる塩 (例: CH₃COONa, Na₂CO₃)
- 構成イオン: Na⁺ (強塩基 NaOH 由来), CH₃COO⁻ (弱酸 CH₃COOH 由来)
- 加水分解: 陰イオンである CH₃COO⁻ のみが加水分解します。\[ CH_3COO^- + H_2O \rightleftharpoons CH_3COOH + OH^- \]
- 液性: この反応によって OH⁻ が生じるため、水溶液は塩基性(アルカリ性) (pH > 7) となります。炭酸ナトリウム(炭酸ソーダ)や炭酸水素ナトリウム(重曹)が、洗浄剤として使われるのは、この加水分解による塩基性のためです。
7.3.4. 弱酸と弱塩基からなる塩 (例: CH₃COONH₄)
- 構成イオン: NH₄⁺ (弱塩基 NH₃ 由来), CH₃COO⁻ (弱酸 CH₃COOH 由来)
- 加水分解: 陽イオンと陰イオンの両方が加水分解します。\[ NH_4^+ + H_2O \rightleftharpoons NH_3 + H_3O^+ \]\[ CH_3COO^- + H_2O \rightleftharpoons CH_3COOH + OH^- \]
- 液性: 最終的な液性は、NH₄⁺ の酸としての強さ(Kaで表される)と、CH₃COO⁻ の塩基としての強さ(Kbで表される)の、どちらがより強いかによって決まります。
- CH₃COONH₄ の場合、NH₄⁺ の Ka (≈ 5.6×10⁻¹⁰) と CH₃COO⁻ の Kb (≈ 5.6×10⁻¹⁰) が偶然ほぼ同じ値なので、その水溶液はほぼ中性となります。
- 他の塩では、KaとKbの大小関係によって、酸性にも塩基性にもなりえます。
塩の加水分解は、酸と塩基の「強弱」という概念が、生成物である塩の性質にまで影響を及ぼすことを示す、美しい例です。
8. 緩衝液の原理とその働き
私たちの血液のpHは、食事や運動によって体内で様々な酸性・塩基性の物質が生成されるにもかかわらず、常に 7.4±0.05 という、極めて狭い範囲に厳密に維持されています。もし血液のpHがこの範囲からわずかでも外れると、生命活動に深刻な支障をきたします。このように、外部から少量の酸や塩基を加えたり、あるいは水で多少薄めたりしても、そのpHの変化を最小限に抑えようとする、驚くべき作用を持つ溶液が存在します。このような溶液を「緩衝液 (Buffer Solution)」と呼び、その作用を「緩衝作用 (Buffer Action)」といいます。緩衝液は、生化学、化学分析、工業プロセスなど、pHを一定に保つことが重要なあらゆる場面で、不可欠な役割を果たしています。
8.1. 緩衝液の構成
緩衝液は、どのような物質からできているのでしょうか。
典型的な緩衝液は、以下のいずれかの組み合わせの混合溶液です。
1. 弱酸とその共役塩基の混合物
(例: 酢酸 (CH₃COOH) と 酢酸ナトリウム (CH₃COONa) の混合水溶液)
2. 弱塩基とその共役酸の混合物
(例: アンモニア (NH₃) と 塩化アンモニウム (NH₄Cl) の混合水溶液)
ここでの鍵は、「弱酸/弱塩基」とその「共役なパートナー」が、両方ともかなりの濃度で共存しているという点です。
- 酢酸ナトリウムは、水中で完全に電離して、多量の酢酸イオン (CH₃COO⁻) を供給します。
- 塩化アンモニウムは、水中で完全に電離して、多量のアンモニウムイオン (NH₄⁺) を供給します。
8.2. 緩衝作用の原理
では、なぜこの「弱酸+共役塩基」の組み合わせが、pHの変化を和らげることができるのでしょうか。そのメカニズムを、酢酸と酢酸ナトリウムの緩衝液を例に見ていきましょう。
この溶液中には、弱酸である酢酸分子 (CH₃COOH) と、その共役塩基である酢酸イオン (CH₃COO⁻) が、どちらも豊富に存在しています。
8.2.1. 酸 (H⁺) が加えられた場合
この緩衝液に、外部から少量の強酸(例:塩酸)を加えたとします。加えられた H⁺ は、緩衝液中のどの成分と反応するでしょうか。
弱酸である CH₃COOH よりも、塩基として働く能力がはるかに高い、共役塩基の酢酸イオン (CH₃COO⁻) が、この H⁺ を捕らえます。
\[
\boldsymbol{CH_3COO^- (\text{豊富にある}) + H^+ (\text{加えられた}) \rightarrow CH_3COOH}
\]
この反応により、加えられた強酸 (H⁺) は、弱酸 (CH₃COOH) に変換されます。弱酸はほとんど電離しないため、溶液中の [H⁺] の増加は最小限に抑えられ、pHはほとんど変化しません。
8.2.2. 塩基 (OH⁻) が加えられた場合
この緩衝液に、外部から少量の強塩基(例:NaOH)を加えたとします。加えられた OH⁻ は、緩衝液中のどの成分と反応するでしょうか。
塩基である CH₃COO⁻ よりも、酸として働く能力を持つ、弱酸の酢酸分子 (CH₃COOH) が、この OH⁻ を中和します。
\[
\boldsymbol{CH_3COOH (\text{豊富にある}) + OH^- (\text{加えられた}) \rightarrow CH_3COO^- + H_2O}
\]
この反応により、加えられた強塩基 (OH⁻) は、弱塩基 (CH₃COO⁻) と水に変換されます。弱塩基はpHを大きく変化させないため、溶液のpHの上昇は最小限に抑えられます。
結論:
緩衝液は、**「酸に対する防衛要員(共役塩基)」と「塩基に対する防衛要員(弱酸)」**の両方を、あらかじめ溶液中に配備しておくことで、外部からの酸・塩基の「攻撃」を効果的に吸収し、pHの恒常性を維持しているのです。
8.3. 緩衝作用の限界
緩衝液の能力は無限ではありません。その緩衝作用が有効に働くpHの範囲(緩衝域)があり、また、処理できる酸・塩基の量(緩衝容量)にも限界があります。
- 緩衝容量: 緩衝液に含まれる弱酸と共役塩基の濃度が高いほど、より多くの酸や塩基を中和できるため、緩衝容量は大きくなります。
- 緩衝域: 弱酸と共役塩基の濃度比が極端に偏ると、緩衝作用は低下します。最も効果的な緩衝作用は、[弱酸] ≈ [共役塩基] のときに発揮され、そのときのpHは、その弱酸の pKa に近い値となります。
緩衝液は、化学平衡の原理(ルシャトリエの原理)を巧みに利用して、系の安定性を維持するための、自然界と人間が生み出した見事なシステムです。
9. 緩衝液のpH計算
緩衝液がpHを安定に保つ仕組みを理解した次は、その緩衝液が具体的にどのpH値を示すのかを、定量的に計算する方法を学びます。緩衝液のpHは、その構成成分である弱酸(または弱塩基)の酸解離定数 (Ka) と、弱酸とその共役塩基の濃度比によって決まります。この関係を明快に示すのが、「ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式」です。
9.1. 緩衝液のpHを決定する平衡
弱酸 HA とその塩(共役塩基 A⁻ を供給)からなる緩衝液を考えます。
この溶液のpHを決定している支配的な平衡は、弱酸 HA の電離平衡です。
\[ HA \rightleftharpoons H^+ + A^- \]
この平衡に対する酸解離定数 Ka の式は、
\[ K_a = \frac{[H^+][A^-]}{[HA]} \]
となります。
この式を、私たちが求めたい [H⁺] について解くと、
\[
\boldsymbol{[H^+] = K_a \frac{[HA]}{[A^-]}}
\]
となります。
この式が、緩衝液のpH計算の基本となります。
この式が示す重要なこと:
- 緩衝液の水素イオン濃度 [H⁺] は、
- 弱酸の強さ (Ka)
- 弱酸とその共役塩基の濃度比 ([HA]/[A⁻])の二つの因子だけで決まることがわかります。
9.2. ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式 (Henderson-Hasselbalch Equation)
上記の基本式は、対数 (log) を用いることで、pH を直接計算できる、より便利な形に変換できます。
\[ [H^+] = K_a \frac{[HA]}{[A^-]} \]
この式の両辺の常用対数 (-log₁₀) をとります。
\[ -\log_{10}[H^+] = -\log_{10}\left(K_a \frac{[HA]}{[A^-]}\right) \]
\[ -\log_{10}[H^+] = -\log_{10}K_a – \log_{10}\frac{[HA]}{[A^-]} \]
ここで、\(-\log_{10}[H^+] = pH\)、\(-\log_{10}K_a = pK_a\) であり、また \(-\log_{10}(x/y) = +\log_{10}(y/x)\) なので、
\[
\boldsymbol{pH = pK_a + \log_{10}\frac{[A^-]}{[HA]}}
\]
この式を「ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式」と呼びます。
- pH: 緩衝液のpH
- pKa: 緩衝液を構成する弱酸の酸解離定数の対数値 (\(-\log_{10}K_a\))
- [A⁻]: 共役塩基のモル濃度
- [HA]: 弱酸のモル濃度
近似について:
厳密には、[HA] と [A⁻] は平衡状態での濃度ですが、緩衝液中では弱酸の電離や共役塩基の加水分解は、共通イオン効果によって大きく抑制されています。そのため、平衡時の濃度は、それぞれの初濃度(混合したときの濃度)にほぼ等しいと近似して、この式に代入して問題ありません。
9.3. 計算例題
例題:
0.20 mol/L の酢酸水溶液 100 mL と、0.10 mol/L の酢酸ナトリウム水溶液 100 mL を混合して調製した緩衝液のpHを求めよ。ただし、酢酸の酸解離定数を \(K_a = 2.0 \times 10^{-5}\) mol/L、log₁₀2 = 0.30 とする。
解答プロセス:
方法1:基本式 [H⁺] = Ka * ([HA]/[A⁻])
を使う
- 混合後の各成分の濃度を計算する:
- 混合すると、総体積は 100 mL + 100 mL = 200 mL になる。
- 各成分の濃度は、体積が2倍になったので、半分に希釈される。
- [CH₃COOH] = 0.20 mol/L ÷ 2 = 0.10 mol/L
- [CH₃COO⁻] = 0.10 mol/L ÷ 2 = 0.050 mol/L
- 基本式に代入して [H⁺] を求める:\[ [H^+] = K_a \frac{[CH_3COOH]}{[CH_3COO^-]} = (2.0 \times 10^{-5}) \times \frac{0.10}{0.050} \]\[ = (2.0 \times 10^{-5}) \times 2 = 4.0 \times 10^{-5} \text{ mol/L} \]
- pHを計算する:\[ pH = -\log_{10}(4.0 \times 10^{-5}) = -(\log_{10}4 – 5) = -(2\log_{10}2 – 5) \]\[ = -(2 \times 0.30 – 5) = -(0.60 – 5) = -(-4.4) = \boldsymbol{4.4} \]
方法2:ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式を使う
- pKa を計算する:\[ pK_a = -\log_{10}K_a = -\log_{10}(2.0 \times 10^{-5}) = -(\log_{10}2 – 5) \]\[ = -(0.30 – 5) = 4.7 \]
- 濃度比を計算する:
- \(\frac{[CH_3COO^-]}{[CH_3COOH]} = \frac{0.050}{0.10} = \frac{1}{2}\)
- (混合前の物質量で比を考えても同じ:\(\frac{0.10 \times 100}{0.20 \times 100} = \frac{1}{2}\))
- 式に代入して pH を求める:\[ pH = pK_a + \log_{10}\frac{[A^-]}{[HA]} = 4.7 + \log_{10}\left(\frac{1}{2}\right) \]\[ = 4.7 – \log_{10}2 = 4.7 – 0.30 = \boldsymbol{4.4} \]
緩衝液のpHの調整:
ヘンダーソン・ハッセルバルヒの式から、緩衝液のpHは pKa と濃度比で決まることがわかります。
- [弱酸] = [共役塩基] のとき、log₁₀(1) = 0 なので、pH = pKa となります。このとき、緩衝作用は最も効果的になります。
- したがって、使いたいpHの値に近いpKaを持つ弱酸ペアを選び、その濃度比を微調整することで、目的のpHを持つ緩衝液を調製することができます。
10. 溶解度積と沈殿生成の平衡
これまでの電離平衡の議論は、主に水によく溶ける物質を対象としてきました。しかし、「不溶性」とされる塩(えん)も、実はごくわずかながら水に溶けて、その飽和水溶液中では、固体と溶解したイオンとの間で溶解平衡の状態にあります。この、ほとんど溶けない塩(難溶性塩)の溶解平衡を定量的に扱うために導入されるのが、「溶解度積 (Solubility Product)」という特殊な平衡定数です。溶解度積を用いることで、溶液を混合した際に沈殿が生成するかどうかを、正確に予測することが可能になります。
10.1. 難溶性塩の溶解平衡
塩化銀 (AgCl) は、代表的な難溶性塩であり、水にほとんど溶けません。しかし、AgCl の固体を水に入れると、ごく一部が溶解し、銀イオン (Ag⁺) と塩化物イオン (Cl⁻) に電離します。同時に、溶液中のイオンが再び結合して固体の AgCl として析出する逆反応も起こります。やがて、両者の速度が等しくなり、以下の溶解平衡の状態に達します。
\[
\boldsymbol{AgCl(s) \rightleftharpoons Ag^+(aq) + Cl^-(aq)}
\]
この平衡は、極端に左(固体側)に偏っていますが、溶液中には常に微量のイオンが存在しています。
10.2. 溶解度積定数 (Solubility Product Constant, Ksp)
この溶解平衡に、平衡定数の法則を適用してみましょう。
\[ K_c = \frac{[Ag^+][Cl^-]}{[AgCl(s)]} \]
ここで、AgCl(s) は固体なので、その「濃度」は一定と見なせ、平衡定数の式には含めません(数学的には1として扱います)。
そこで、固体の項を除いた新しい平衡定数を定義します。これが「溶解度積定数」、あるいは単に「溶解度積 (\(K_{sp}\))」です。添え字の sp は solubility product の略です。
\[
\boldsymbol{K_{sp} = [Ag^+][Cl^-]}
\]
Kspの定義:
難溶性塩の飽和水溶液中における、陽イオン濃度と陰イオン濃度の積。(ただし、各イオン濃度は、化学反応式の係数をべき指数として乗じる)
- 一般的な表現: 難溶性塩 \(A_mB_n\) の溶解平衡 AₘBₙ(s) ⇌ m Aⁿ⁺(aq) + n Bᵐ⁻(aq) に対する溶解度積は、\[ \boldsymbol{K_{sp} = [A^{n+}]^m [B^{m-}]^n} \]
- 定数性: Ksp は平衡定数の一種なので、温度が一定であれば、物質ごとに決まった一定の値をとります。
例 (25℃):
- AgCl: \(K_{sp} = [Ag^+][Cl^-] = 1.8 \times 10^{-10} \ (\text{mol/L})^2\)
- BaSO₄: \(K_{sp} = [Ba^{2+}][SO_4^{2-}] = 1.1 \times 10^{-10} \ (\text{mol/L})^2\)
- CaF₂: \(K_{sp} = [Ca^{2+}][F^-]^2 = 3.2 \times 10^{-11} \ (\text{mol/L})^3\)
Ksp の値が小さいほど、その塩は水に溶けにくい(溶解度が小さい)ことを意味します。
10.3. 沈殿生成の条件の予測
溶解度積は、ある溶液中で沈殿が生成するかどうかを判断するための、極めて強力な予測ツールです。
判断のためには、溶液中のイオン濃度から計算される「イオン積 (Ion Product, Q)」と、その物質の「溶解度積 (Ksp)」を比較します。
イオン積 Q は、Ksp と同じ形で計算されますが、平衡状態にあるとは限らない、任意の時点での濃度を用いて計算する点が異なります。
沈殿生成の条件:
溶液を混合した直後のイオン濃度を用いてイオン積 Q を計算し、
- Q > Ksp の場合:
- イオンの濃度積が、飽和状態で許される最大値 (Ksp) を超えています。
- この状態は過飽和であり、不安定です。
- 系は平衡状態に戻ろうとして、イオン濃度を減少させる方向、すなわち沈殿が生成する方向に反応が進みます。
- Q ≤ Ksp の場合:
- イオンの濃度積が、飽和状態に達していないか、ちょうど飽和状態です。
- この状態は安定であり、沈殿は生成しません。
例題:
0.010 mol/L の硝酸銀 (AgNO₃) 水溶液 50 mL と、0.010 mol/L の塩化ナトリウム (NaCl) 水溶液 50 mL を混合した。塩化銀 (AgCl) の沈殿は生成するか。ただし、AgCl の Ksp を \(1.8 \times 10^{-10}\) とする。
解答プロセス:
- 混合直後のイオン濃度を計算する:
- 混合すると、総体積は 50 mL + 50 mL = 100 mL になる。
- 各溶液の体積が2倍になったので、濃度は半分になる。
- 混合後の [Ag⁺] = 0.010 mol/L ÷ 2 = 0.0050 mol/L = 5.0 × 10⁻³ mol/L
- 混合後の [Cl⁻] = 0.010 mol/L ÷ 2 = 0.0050 mol/L = 5.0 × 10⁻³ mol/L
- イオン積 (Q) を計算する:
- Q = [Ag⁺][Cl⁻] = (5.0 × 10⁻³) × (5.0 × 10⁻³) = 25 × 10⁻⁶ = 2.5 × 10⁻⁵
- Q と Ksp を比較する:
- Q = 2.5 × 10⁻⁵
- Ksp = 1.8 × 10⁻¹⁰
- 明らかに Q > Ksp である。
- 結論:イオン積が溶解度積を上回っているので、AgCl の沈殿は生成する。
10.4. 共通イオン効果による溶解度の減少
共通イオン効果とは、難溶性塩の飽和水溶液に、その塩を構成するイオンのいずれか一方(共通イオン)を含む、別の可溶性塩を加えると、元の難溶性塩の溶解度がさらに減少する現象です。
- 例: AgCl の飽和水溶液に、NaCl (Cl⁻を供給) を加える。
- 原理:
AgCl(s) ⇌ Ag⁺(aq) + Cl⁻(aq)
の平衡系に、Cl⁻ を加えることになります。ルシャトリエの原理によれば、増加した Cl⁻ を消費する方向、すなわち平衡は左に移動します。 - 結果: Ag⁺ と Cl⁻ が結合して AgCl(s) がさらに沈殿し、溶液中の [Ag⁺] が減少します。つまり、AgCl の溶解度が減少するのです。
溶解度積は、化学分析におけるイオンの分離(分別沈殿)や、温泉成分の析出といった、様々な現象を定量的に理解するための基礎となる概念です。
Module 11:電離平衡(2)中和と塩の総括:酸と塩基の相互作用を制御し、応用する
本モジュールでは、酸と塩基が織りなす化学の核心的なドラマ、すなわち「中和」とその周辺現象を探求しました。私たちの旅は、中和反応が aCaVa = bCbVb
という厳密な量的関係に従うことを確認することから始まり、この原理が、未知の溶液の濃度を精密に決定する「中和滴定」という強力な分析技術の基盤となっていることを見ました。ビュレットやホールピペットといった器具の精密な操作の背後にある、論理的な必然性を理解したことでしょう。
次に、私たちは滴定プロセスを「滴定曲線」として可視化しました。強酸と強塩基が描くシャープなpHジャンプ、そして弱酸や弱塩基が関わることで現れる緩やかな緩衝領域と、中和点が中性からずれるという興味深い現象。これらの曲線の形状は、電離平衡と、次に学んだ「塩の加水分解」の原理によって、見事に説明されることを学びました。なぜ中和の産物である「塩」の水溶液が、酸性や塩基性を示すのか。その答えは、弱酸・弱塩基に由来するイオンが水と反応し、プロトンのバランスを変化させるという、精妙な平衡の世界にありました。
さらに、私たちはpHを一定に保つという、生命や化学分析において不可欠な機能を持つ「緩衝液」の仕組みを解き明かしました。弱酸とその共役塩基が、外部からの酸と塩基の双方に対する「防衛ライン」として機能する様は、化学平衡の自己調整能力を巧みに利用した見事なシステムです。
最後に、私たちの平衡への探求は、ほとんど溶けない物質の世界へと拡張されました。「溶解度積 (Ksp)」という新しい平衡定数は、難溶性塩のわずかな溶解を定量化し、イオンの濃度積と比較することで、沈殿が生成するか否かを正確に予測する力を私たちに与えてくれました。
このモジュールを完遂した皆さんは、酸と塩基の化学を、単なる個々の物質の性質としてではなく、それらが相互作用し、新たな物質(塩)を生み出し、そしてその産物までもが水と相互作用するという、ダイナミックな「関係性の化学」として捉えることができるようになったはずです。中和滴定による定量分析、緩衝液によるpH制御、沈殿生成の予測。これらはすべて、電離平衡という一つの原理から派生する、強力で実践的な化学の応用技術なのです。