【基礎 化学(理論)】Module 9:化学平衡と平衡移動

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本モジュールの目的と構成

これまでのモジュールで、私たちは化学反応がどのように起こり(反応機構)、どれくらいの速さで進むか(反応速度)を学んできました。しかし、多くの化学反応は、反応物がすべて生成物に変わりきる「一方通行」のプロセスではありません。むしろ、生成物が反応して元の反応物に戻る「逆方向」のプロセスも同時に起こる、いわば「双方向通行」の道路のようなものです。このような反応では、やがて反応は完結することなく、反応物と生成物がある一定の割合で共存する「行き止まり」のような状態に達します。しかし、この行き止まりは、すべての動きが停止した静的な状態なのでしょうか。

本モジュールでは、この反応の「終着点」である「化学平衡 (Chemical Equilibrium)」の状態に焦点を当てます。化学平衡が、正反応と逆反応の速度が釣り合った、ミクロなレベルでは絶えず変化が続く「動的平衡」であることを理解することが、最初の目標です。次に、この平衡状態が、反応物と生成物のどちら側にどれだけ偏っているのかを定量的に示す「平衡定数」を導入します。

そして、本モジュールの後半では、この確立された平衡状態が、外部からの「揺さぶり」に対してどのように応答するのかを探ります。濃度、圧力、温度といった条件を変化させると、平衡は新たな安定点を求めて移動します。この平衡の移動を予言する、極めて強力で普遍的な指導原理が「ルシャトリエの原理」です。この原理をマスターすることは、化学反応の収率を最大化するなど、工業的にも極めて重要な化学プロセスを、意のままに制御するための思考法を身につけることに他なりません。

このモジュールは、化学平衡という状態の静的・動的な側面を理解し、それを支配する法則を用いて、反応の挙動を予測・制御する能力を養うため、以下の論理的なステップで構成されています。

  1. 可逆反応と不可逆反応: まず、すべての化学反応を、一方通行の「不可逆反応」と、双方向通行の「可逆反応」に分類し、化学平衡が後者においてのみ成立する現象であることを学びます。
  2. 化学平衡の状態の本質: 化学平衡が決して静的な状態ではなく、正反応と逆反応の速度が等しくなった「動的平衡」であるという、最も重要な基本概念を理解します。
  3. 平衡定数Kcの導入: 平衡状態における反応物と生成物の濃度比を定量的に表す「濃度平衡定数 (Kc)」を定義し、その式の立て方とルールを学びます。
  4. 圧平衡定数Kpの導入: 気体反応に特有の、分圧を用いた「圧平衡定数 (Kp)」を定義し、Kcとの関係性を理解します。
  5. 平衡定数の意味: 平衡定数の値の大小が、その反応が生成物側に進みやすいのか、あるいは反応物側に留まりやすいのか、反応の「偏り」をどのように示しているかを解釈します。
  6. ルシャトリエの原理: 平衡状態にある系に外部から変化(ストレス)を加えたとき、その変化を和らげる方向に平衡が移動するという、普遍的な「ルシャトリエの原理」を学びます。
  7. 濃度変化と平衡移動: ルシャトリエの原理を応用し、反応物や生成物の濃度を変化させたときに、平衡がどちらの方向に移動するのかを予測します。
  8. 圧力変化と平衡移動: 気体反応において、全圧を変化させたときに、気体分子の総数が変化する方向に平衡がどのように移動するのかを予測します。
  9. 温度変化と平衡移動: 温度を変化させたときに、反応熱(発熱か吸熱か)に応じて平衡がどのように移動するのかを予測します。これは、平衡定数Kそのものの値を変える唯一の要因です。
  10. 触媒と平衡の関係: 最後に、反応速度を速める触媒が、化学平衡の状態にどのような影響を与えるのか(あるいは与えないのか)を明確にします。

このモジュールを完遂したとき、皆さんは化学反応の終着点を定量的に記述し、外部条件の変化に対してその終着点がどのように変化するかを論理的に予測するという、化学プロセスを制御するための根源的な思考法を身につけているでしょう。


目次

1. 可逆反応と不可逆反応

化学反応は、その進行の方向性によって、大きく二つのタイプに分類することができます。それは、反応がほぼ完全に一方向にしか進まない「不可逆反応」と、順方向にも逆方向にも進むことができる「可逆反応」です。化学平衡という現象は、このうち可逆反応においてのみ見られる、特有の状態です。

1.1. 不可逆反応 (Irreversible Reaction)

不可逆反応とは、反応が実質的に一方向にしか進行せず、一度生成物ができると、その生成物が自発的に元の反応物に戻ることはほとんどない反応のことです。

  • 特徴:
    • 反応は「完結する」と表現されます。つまり、反応条件が整っていれば、反応物のうち少なくとも一つは、ほぼ100%消費されます。
    • 化学反応式では、反応の方向を示す矢印を、一方向の  で表します。
  • 不可逆反応となる典型的な例:
    1. 燃焼: メタンやエタノールが燃えて二酸化炭素と水になる反応。生成した二酸化炭素と水が、自発的に集まってメタンやエタノールに戻ることはありません。\[ CH_4 + 2O_2 \rightarrow CO_2 + 2H_2O \]
    2. 気体が発生する反応: 亜鉛に塩酸を加えると水素ガスが発生しますが、発生した水素が溶液に戻って亜鉛と反応することはありません。\[ Zn + 2HCl \rightarrow ZnCl_2 + H_2 \uparrow \]
    3. 沈殿が生成する反応: 硝酸銀水溶液と塩化ナトリウム水溶液を混ぜると、塩化銀の白色沈殿が生成します。この沈殿は非常に水に溶けにくいため、元のイオンに戻る反応はほとんど起こりません。\[ AgNO_3(aq) + NaCl(aq) \rightarrow AgCl(s) \downarrow + NaNO_3(aq) \]
    4. 強酸と強塩基の中和反応: 塩酸と水酸化ナトリウムの中和反応は、非常に強く右方向に偏っており、実質的に不可逆です。

1.2. 可逆反応 (Reversible Reaction)

可逆反応とは、正反応(左から右へ進む反応)と、逆反応(右から左へ戻る反応)の両方が同時に起こりうる反応のことです。

  • 特徴:
    • 反応は「完結しない」。反応物を混ぜて反応を開始させても、反応物が完全になくなることはなく、ある時点で、反応物と生成物が混ざり合った状態で、見かけ上反応が停止します。
    • 化学反応式では、正反応と逆反応の両方が起こることを示すため、可逆記号(二重矢印) ⇌ を用いて表します。
  • 正反応 (Forward Reaction): 反応式において、左から右へ進む反応。
  • 逆反応 (Reverse Reaction): 反応式において、右から左へ進む反応。

可逆反応の代表例:

  • アンモニアの合成(ハーバー・ボッシュ法):\[ N_2(g) + 3H_2(g) \rightleftharpoons 2NH_3(g) \]窒素と水素が反応してアンモニアを生成する正反応と、生成したアンモニアが分解して窒素と水素に戻る逆反応が、どちらも起こりえます。
  • エステルの合成と加水分解:\[ CH_3COOH + C_2H_5OH \rightleftharpoons CH_3COOC_2H_5 + H_2O \]酢酸とエタノールから酢酸エチルが生成する正反応(エステル化)と、酢酸エチルが水と反応して元の酢酸とエタノールに戻る逆反応(加水分解)は、代表的な可逆反応です。
  • 弱酸・弱塩基の電離:\[ CH_3COOH \rightleftharpoons CH_3COO^- + H^+ \]酢酸が水中で電離して酢酸イオンと水素イオンになる反応は、一部しか電離が進まない可逆反応です。

「不可逆」と「可逆」の区別は、絶対的なものではありません。厳密に言えば、すべての反応は可逆的である可能性を持っています。しかし、反応の偏りが極端に大きい場合(例えば、生成物側が圧倒的に安定な場合)、逆反応の速度が無視できるほど小さいため、実用上「不可逆」として扱われます。

化学平衡の議論は、この正反応と逆反応の両方が、無視できない速さで起こる「可逆反応」を舞台として展開されます。


2. 化学平衡の状態:正反応と逆反応の速度が等しい状態

可逆反応では、反応は完結せず、ある時点で反応物と生成物が共存したまま、見かけ上、反応が停止したかのような状態に至ります。この状態を「化学平衡 (Chemical Equilibrium)」と呼びます。しかし、この「停止」は、本当にすべての分子の動きが止まってしまった静的な状態なのでしょうか。答えは「No」です。化学平衡は、ミクロな視点で見ると、絶え間ない変化が続く、きわめてダイナミックな状態なのです。

2.1. 平衡に至るまでのプロセス:反応速度の変化

可逆反応 A ⇌ B を例に、密閉容器内で反応物 A だけを入れて反応を開始させた場合の、反応速度の時間変化を見てみましょう。

  1. 反応開始直後 (t=0):
    • 容器内には反応物 A のみが存在し、その濃度は最大です。したがって、正反応 (A → B) の速度 (v_正) は最大値からスタートします。
    • 一方、生成物 B はまだ存在しないため、その濃度はゼロです。したがって、逆反応 (B → A) の速度 (v_逆) はゼロです。
  2. 反応の進行中:
    • 反応が進むにつれて、反応物 A は消費され、その濃度 [A] は減少していきます。反応速度は濃度に依存するため、正反応の速度 v_正 は、時間と共にだんだんと遅くなっていきます。
    • 同時に、生成物 B が生成され、その濃度 [B] は増加していきます。そのため、逆反応の速度 v_逆 は、時間と共にだんだんと速くなっていきます。
  3. 平衡状態への到達:
    • 正反応の速度が遅くなり、逆反応の速度が速くなるという変化が続くと、やがて両者の速度が等しくなる瞬間が訪れます。\[ \boldsymbol{v_{正} = v_{逆}} \]
    • この、正反応の速度と逆反応の速度が等しくなった状態が、化学平衡の状態です。

2.2. 動的平衡 (Dynamic Equilibrium)

化学平衡の状態に達すると、

  • 反応物 A が生成物 B に変わる速さ
  • 生成物 B が反応物 A に戻る速さが、ちょうど釣り合っています。そのため、A と B のそれぞれの濃度は、もはやそれ以上変化することがなく、一定の値に保たれます。私たちの目(マクロな視点)から見ると、あたかも反応が完全に停止したかのように見えます。

しかし、分子レベル(ミクロな視点)では、正反応と逆反応の両方が、依然として同じ速度で活発に起こり続けています。ただ、その速さが等しいために、変化が相殺されているだけなのです。

このような、マクロな変化は停止しているが、ミクロなレベルでは互いに逆向きの同じ速さの変化が続いている平衡状態のことを、「動的平衡 (Dynamic Equilibrium)」と呼びます。

アナロジー:エスカレーター

化学平衡は、デパートの上りエスカレーターと下りエスカレーターに、同じ人数が絶えず乗り降りしている状況に例えられます。

  • 1階から2階へ、1分間に10人が上っていく(正反応)。
  • 2階から1階へ、1分間に10人が下りてくる(逆反応)。このとき、1階と2階にいる人の総数は、それぞれ一定に保たれます(濃度が一定)。しかし、個々の人は絶えず移動しており、フロアは決して静的な状態ではありません。これが動的平衡のイメージです。

化学平衡の状態は、反応の「終わり」ではありません。それは、変化の速度が釣り合った、ダイナミックな「安定点」なのです。では、この安定点が、反応物と生成物のどちら側にどれだけ偏っているのか。それを定量的に示すのが、次に学ぶ「平衡定数」です。


3. 平衡定数(濃度平衡定数 Kc)の定義

化学平衡の状態は、正反応と逆反応の速度が等しくなった動的な状態です。では、その平衡状態における反応物と生成物の量の関係は、どのように記述されるのでしょうか。19世紀、ノルウェーの科学者であるグルベルグとボーゲは、多くの可逆反応を研究する中で、平衡状態にある物質の濃度間に、温度が一定であれば常に成り立つ、ある普遍的な関係性があることを見出しました。この関係性は「質量作用の法則 (Law of Mass Action)」と呼ばれ、そこから「平衡定数 (Equilibrium Constant)」という、化学平衡を定量的に特徴づける極めて重要な概念が導かれます。

3.1. 平衡定数の導出

一般的な可逆反応 aA + bB ⇌ cC + dD を考えます。

  • 正反応 (aA + bB → cC + dD) の速度 \(v_{正}\) は、反応物の濃度に依存し、一般に \(v_{正} = k_{正}[A]^a[B]^b\) と表せます。(\(k_{正}\)は正反応の速度定数)
  • 逆反応 (cC + dD → aA + bB) の速度 \(v_{逆}\) は、生成物の濃度に依存し、\(v_{逆} = k_{逆}[C]^c[D]^d\) と表せます。(\(k_{逆}\)は逆反応の速度定数)

化学平衡の状態では、\(v_{正} = v_{逆}\) なので、

\[ k_{正}[A]^a[B]^b = k_{逆}[C]^c[D]^d \]

が成り立ちます。

この式を、速度定数を左辺に、濃度項を右辺に集めるように変形すると、

\[ \frac{k_{正}}{k_{逆}} = \frac{[C]^c[D]^d}{[A]^a[B]^b} \]

となります。

温度が一定であれば、速度定数 \(k_{正}\) と \(k_{逆}\) はそれぞれ一定の値をとるため、その比である \(k_{正}/k_{逆}\) もまた、一定の値となります。この新しい定数を K と書いたものが、平衡定数です。

3.2. 濃度平衡定数 (Kc) の定義

濃度を基準にした平衡定数は、特に濃度平衡定数 (Concentration Equilibrium Constant) と呼ばれ、記号 Kcで表されます。

濃度平衡定数 (Kc): 可逆反応 aA + bB ⇌ cC + dD が平衡状態にあるとき、以下の式で定義される定数。

\[

\boldsymbol{K_c = \frac{[C]^c[D]^d}{[A]^a[B]^b}}

\]

  • [A], [B], [C], [D]: 平衡状態における各物質のモル濃度 [mol/L]
  • a, b, c, d: 化学反応式の係数

この式は、平衡状態であれば、反応物と生成物の濃度の間に、常にこの関係が成り立つことを示しています。反応をどの濃度から開始したとしても、最終的に平衡に達したときの各物質の濃度をこの式に代入すると、温度が同じであれば、必ず同じ K_c の値になるのです。

3.3. 平衡定数の式の書き方に関するルール

平衡定数の式を正しく書くためには、いくつかの重要なルールがあります。

ルール1:生成物が分子、反応物が分母

  • 式の分子には、**生成物(右辺の物質)**の濃度項を置きます。
  • 式の分母には、**反応物(左辺の物質)**の濃度項を置きます。

ルール2:係数はべき指数(累乗)になる

  • 各物質の濃度の肩には、化学反応式における係数が、**べき指数(累乗)**として乗じられます。

ルール3:固体と純粋な液体は式に含めない

  • 固体 (s) や純粋な液体 (l)(溶媒でない場合)は、その濃度(単位体積あたりの物質量)が、反応が進行してもほぼ一定であると見なせます。
  • そのため、これらの物質の濃度は、平衡定数 K_c の値の中にすでに含まれているものとして扱い、平衡定数の式には書き入れません。(数学的には、濃度を「1」として扱います。)
  • 例:炭酸カルシウムの熱分解\[ CaCO_3(s) \rightleftharpoons CaO(s) + CO_2(g) \]この反応の平衡定数の式では、固体である CaCO₃ と CaO は除外します。\[ K_c = [CO_2] \]この場合、平衡定数は、平衡時の二酸化炭素の濃度そのものになります。

ルール4:水が溶媒の場合は式に含めない

  • 水溶液中の反応で、水 (H₂O) が溶媒として大量に存在する場合、反応によって水の量が多少変化しても、その濃度はほぼ一定(約 55.6 mol/L)と見なせます。
  • そのため、溶媒としての水も、平衡定数の式には通常含めません
  • 例:酢酸の電離\[ CH_3COOH(aq) + H_2O(l) \rightleftharpoons CH_3COO^-(aq) + H_3O^+(aq) \]溶媒である H₂O は式から除外します。\[ K_c (\text{この場合、特に酸解離定数 } K_a) = \frac{[CH_3COO^-][H_3O^+]}{[CH_3COOH]} \]

平衡定数 K_c は、ある温度における化学平衡の状態を、ただ一つの数値で特徴づける、極めて強力な指標です。この値を見るだけで、その反応がどれだけ進むのかを予測することが可能になります。


4. 圧平衡定数 Kp の定義

濃度平衡定数 (Kc) は、液相反応や、気相反応でも濃度で議論する場合に非常に便利です。しかし、反応物と生成物がすべて気体である「気相均一平衡」においては、各成分の量を濃度 [mol/L] ではなく、「分圧 (Partial Pressure)」で扱う方が、測定上も理論上も便利なことがよくあります。そこで、気体反応の平衡を分圧を用いて記述するために定義されたのが、「圧平衡定数 (Pressure Equilibrium Constant)」、記号 Kpです。

4.1. 圧平衡定数 (Kp) の定義

圧平衡定数 (Kp) は、濃度平衡定数 Kc の濃度の代わりに、各気体成分の平衡状態における分圧を用いて定義されます。

圧平衡定数 (Kp): 気相の可逆反応 aA(g) + bB(g) ⇌ cC(g) + dD(g) が平衡状態にあるとき、以下の式で定義される定数。

\[

\boldsymbol{K_p = \frac{(P_C)^c (P_D)^d}{(P_A)^a (P_B)^b}}

\]

  • \(P_A, P_B, P_C, P_D\): 平衡状態における各気体成分の分圧。圧力の単位は通常、Pa (パスカル) または atm (気圧) が用いられます。(Kpの値は、用いる圧力の単位に依存します。)
  • a, b, c, d: 化学反応式の係数

Kc と同様に、Kp も温度が一定であれば、反応がどの圧力や組成から出発したとしても、平衡に達したときの各成分の分圧は、常にこの関係式を満たします。

例:アンモニアの合成反応

\[ N_2(g) + 3H_2(g) \rightleftharpoons 2NH_3(g) \]

この反応の圧平衡定数 Kp は、

\[ K_p = \frac{(P_{NH_3})^2}{(P_{N_2})(P_{H_2})^3} \]

と表されます。

4.2. 濃度平衡定数 (Kc) と 圧平衡定数 (Kp) の関係

Kc と Kp は、同じ平衡状態を異なる尺度(濃度と分圧)で表現したものであり、両者の間には明確な数学的関係が存在します。この関係は、理想気体の状態方程式から導くことができます。

理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) を変形すると、モル濃度 \(C=n/V\) は \(C = P/RT\) となります。

したがって、ある気体成分 A の濃度 [A] と分圧 \(P_A\) の関係は、

\[ [A] = \frac{P_A}{RT} \quad \Leftrightarrow \quad P_A = [A]RT \]

となります。

この関係を、反応 aA(g) + bB(g) ⇌ cC(g) + dD(g) の Kp の定義式に代入してみましょう。

\[

K_p = \frac{(P_C)^c (P_D)^d}{(P_A)^a (P_B)^b} = \frac{([C]RT)^c ([D]RT)^d}{([A]RT)^a ([B]RT)^b}

\]

\[

= \frac{[C]^c[D]^d}{[A]^a[B]^b} \times \frac{(RT)^{c+d}}{(RT)^{a+b}}

\]

ここで、式の最初の部分は Kc の定義そのものです。また、RT の指数部分は、\((c+d) – (a+b)\) となります。これは、反応式の生成物側の気体分子の係数の和から、反応物側の気体分子の係数の和を引いたものであり、反応における気体分子のモル数の変化量 \(\Delta n\) を表します。

\[

\Delta n = (\text{生成物の気体の係数の合計}) – (\text{反応物の気体の係数の合計}) = (c+d) – (a+b)

\]

以上をまとめると、Kc と Kp の間に以下の関係式が成り立ちます。

\[

\boldsymbol{K_p = K_c(RT)^{\Delta n}}

\]

  • R: 気体定数
  • T: 絶対温度 [K]
  • \(\Delta n\): 反応前後の気体の分子数の変化 (生成物 – 反応物)

この関係式からわかること:

  • 気体の分子数が変化しない反応 (\(\Delta n = 0\)):例えば、H₂(g) + I₂(g) ⇌ 2HI(g) の反応では、反応物の気体は (1+1)=2 mol, 生成物の気体も 2 mol なので、\(\Delta n = 2-2 = 0\) です。この場合、\((RT)^0 = 1\) となるため、Kp = Kc となります。
  • 気体の分子数が増加する反応 (\(\Delta n > 0\)):Kp は Kc よりも大きくなります。
  • 気体の分子数が減少する反応 (\(\Delta n < 0\)):例えば、アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g) では、\(\Delta n = 2 – (1+3) = -2\) です。この場合、Kp は Kc よりも小さくなります。 (\(K_p = K_c(RT)^{-2} = K_c / (RT)^2\))

Kp は、特に工業的な気相反応プロセスを設計・解析する際に、分圧を直接扱うことができるため、非常に重要なパラメーターとなります。


5. 平衡定数と反応の進みやすさの関係

平衡定数 K (Kc または Kp) は、単に平衡状態での濃度や分圧の関係を示すだけでなく、その値の大きさ自体が、その可逆反応の「性質」や「方向性」に関する極めて重要な情報を含んでいます。温度が一定であれば、ある反応の平衡定数は固有の値をとります。この値を見ることで、その反応が平衡に達したときに、生成物が優位に存在するのか、それとも反応物がほとんどそのまま残っているのか、すなわち**反応がどれだけ進みやすいか(あるいは進みにくいか)**を、定量的に判断することができます。

5.1. 平衡定数の式の意味

平衡定数の定義式をもう一度見てみましょう。

\[

K_c = \frac{[\text{生成物}]^{\text{係数}}}{[\text{反応物}]^{\text{係数}}}

\]

この式の形から、K_c の値の大小が何を意味するかが直感的にわかります。

  • 分子には生成物の濃度が、分母には反応物の濃度が置かれています。
  • したがって、K_c の値が大きいということは、平衡状態において、分母の[反応物]に比べて、分子の[生成物]の濃度が相対的に高いことを意味します。
  • 逆に、K_c の値が小さいということは、[生成物]の濃度が[反応物]の濃度に比べて、相対的に低いことを意味します。

5.2. 平衡定数の大きさによる反応の分類

平衡定数 K の値の大きさによって、反応の偏りは以下のように分類できます。

5.2.1. K の値が非常に大きい (K >> 1)

  • : \(K_c = 1 \times 10^{10}\)
  • 意味: 平衡状態において、生成物の濃度が反応物の濃度を圧倒的に上回っていることを示します。
  • 反応の偏り: 平衡は、**極めて右(生成物側)**に偏っています。
  • 解釈: この反応は、ほぼ完全に進行すると見なすことができます。反応物を混ぜると、そのほとんどが生成物へと変化します。私たちが「不可逆反応」として扱っている多くの反応は、厳密には、平衡定数が極めて大きい可逆反応であると考えることができます。

5.2.2. K の値が非常に小さい (K << 1)

  • : \(K_c = 1 \times 10^{-10}\)
  • 意味: 平衡状態において、反応物の濃度が生成物の濃度を圧倒的に上回っていることを示します。
  • 反応の偏り: 平衡は、**極めて左(反応物側)**に偏っています。
  • 解釈: この反応は、ほとんど進行しないと見なすことができます。反応物を混ぜても、ごくわずかしか生成物に変化せず、ほとんどが未反応のまま残ります。弱酸の電離などがこの例に相当します。

5.2.3. K の値が 1 に近い

  • : \(K_c = 0.1 \sim 10\) の範囲
  • 意味: 平衡状態において、反応物と生成物が、どちらも無視できない量で共存していることを示します。
  • 反応の偏り: 平衡は、右にも左にも極端には偏っていません。
  • 解釈: このような反応では、反応条件を変化させることで、平衡の位置を有利な方向へ移動させる(ルシャトリエの原理)ことが、特に重要な意味を持ちます。エステルの合成反応などがこのケースに当たります。

まとめ

  • K >> 1: 生成物側に大きく偏る(ほぼ完結)
  • K << 1: 反応物側に大きく偏る(ほぼ進行しない)
  • K ≈ 1: 反応物と生成物が共存

5.3. 平衡定数に関する重要な注意点

  • K は温度に依存する:ある反応の平衡定数 K の値は、温度が一定である限り、一定の値をとります。しかし、温度が変われば、K の値そのものが変化します。反応が発熱反応か吸熱反応かによって、温度を上げると K が大きくなるか小さくなるかが決まります(これは後のセクションで学びます)。したがって、平衡定数の値を議論する際には、必ず温度を明記する必要があります。
  • K は反応速度とは無関係:平衡定数 K の値が大きいことが、その反応の速度が速いことを意味するわけでは全くありません。
    • 平衡定数 (K): 反応の「方向性」と「最終的な到達点(平衡の位置)」に関する情報(熱力学的な量)。
    • 反応速度定数 (k): 反応がその到達点にどれだけ「速く」向かうかに関する情報(速度論的な量)。
    • 例えば、ダイヤモンドが黒鉛に変化する反応は、平衡定数が非常に大きく、熱力学的には自発的に進行するはずですが、その反応速度は極めて遅いため、私たちの時間スケールでは事実上起こりません。

平衡定数は、化学反応の「ポテンシャル」を教えてくれる、強力な指標です。この値を理解することで、私たちは反応の全体像を把握し、その制御に向けた第一歩を踏み出すことができます。


6. ルシャトリエの原理:平衡移動の法則

化学平衡は、正反応と逆反応の速度が釣り合った、ダイナミックで安定した状態です。しかし、この安定は絶対的なものではありません。もし、平衡状態にある系に対して、外部から何らかの変化(ストレス)を加えると、その釣り合いは一時的に破れます。すると、系はまるで生き物のように、その変化の影響を打ち消し、新しい条件下で再び安定な平衡状態を築こうとします。この、化学平衡の「自己調整能力」ともいえる応答の仕方を予言するのが、「ルシャトリエの原理 (Le Chatelier’s Principle)」です。この原理は、化学平衡を理解し、制御する上で、最も強力で普遍的な指導原理です。

6.1. ルシャトリエの原理の声明

19世紀後半、フランスの化学者アンリ・ルシャトリエは、様々な平衡系を観察する中で、以下の法則性を見出しました。

ルシャトリエの原理可逆反応が平衡状態にあるとき、その系の状態を変化させる条件(濃度、圧力、温度など)を外部から加えると、その変化を和らげる(打ち消す)方向に平衡が移動し、新しい平衡状態に達する。

この原理の核心は、「変化を和らげる方向に」という部分にあります。系は、加えられた変化に対して、ただ受動的に従うのではなく、その変化に「抵抗」するような形で応答するのです。

6.2. 原理の本質を理解するためのアナロジー

ルシャトリエの原理は、私たちの身の回りの様々なバランスの取れたシステムに見られる応答と似ています。

アナロジー1:満員電車

  • 平衡状態: 電車のドア付近で、降りる人と乗る人の流れが釣り合っており、ドア付近の人の密度が一定に保たれている。
  • ストレス(変化): 外から、さらに多くの人が無理やり乗ってくる(濃度を増加させる)。
  • 応答(平衡移動): ドア付近の密度が高くなりすぎるというストレスを和らげるため、中にいる人が車両の奥へと移動し、ドア付近の混雑を緩和しようとする。これが「変化を和らげる方向への移動」です。

アナロジー2:シーソー

  • 平衡状態: 二人の子どもが乗ったシーソーが、水平に釣り合っている。
  • ストレス(変化): 片方の子供が、少し前に乗り出す(圧力を変化させるイメージ)。
  • 応答(平衡移動): シーソーは傾き、もう片方の子供が少し後ろに下がることで、再びバランスの取れた新しい位置を見つけようとする。

ルシャトリエの原理は、化学平衡が、加えられた「ストレス」に対して、その影響が最小になるような新しい安定点(平衡点)を自ら見つけ出す、自己調整メカニズムを持っていることを示しています。

6.3. 平衡を移動させる要因

ルシャトリエの原理によれば、平衡状態にある系に以下のような変化を加えると、平衡の位置が移動します。この、平衡が右(生成物側)または左(反応物側)にずれることを「平衡移動 (Equilibrium Shift)」と呼びます。

平衡移動を引き起こす主な要因は、以下の三つです。

  1. 濃度 (Concentration) の変化
  2. 圧力 (Pressure) の変化 (気体反応の場合)
  3. 温度 (Temperature) の変化

重要触媒を加えても、平衡の位置は移動しません。触媒は、正反応と逆反応の速度を同じ割合で速めるだけであり、平衡に達するまでの時間を短縮しますが、平衡状態そのものを変えることはありません。

6.4. 「変化を和らげる方向」の具体的な考え方

ルシャトリエの原理を適用する際の思考の鍵は、「加えられた変化」と、それを「和らげる方向」を具体的に結びつけることです。

  • [A]を増加させた → Aを消費する方向へ移動する。
  • 圧力を増加させた → 圧力を減少させる方向(気体分子の総数が減る方向)へ移動する。
  • 温度を上昇させた(加熱した) → 温度を低下させる方向(熱を吸収する、すなわち吸熱反応の方向)へ移動する。

以降のセクションでは、この具体的な思考プロセスを、濃度・圧力・温度の各要因について、詳しく見ていきます。ルシャトリエの原理をマスターすれば、複雑に見える化学平衡の挙動を、シンプルで直感的な因果関係として予測できるようになります。


7. 濃度変化による平衡移動

ルシャトリエの原理が最も直感的に適用できるのが、平衡系における物質の濃度を変化させた場合です。反応に関わる特定の物質の濃度を人為的に増減させると、系はその物質を消費または生成する方向へ反応を進めることで、その変化の影響を和らげようとします。

7.1. 反応物または生成物を「加える」場合

7.1.1. 反応物を加える

結論平衡状態にある系に反応物を加えると、その反応物を消費して生成物を生成する方向、すなわち平衡は右(正反応の方向)に移動する。

例:アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g)

この反応が平衡に達している容器に、窒素 (N₂) を追加で注入したとします。

  • 加えられた変化(ストレス): N₂ の濃度(分圧)の増加。
  • 変化を和らげる方向加えられた N₂ を消費する方向
  • 平衡移動: N₂ を消費するのは正反応 (N₂ + 3H₂ → 2NH₃) なので、平衡は右に移動します。

結果:

  • N₂ と H₂ が消費され、NH₃ が新たに生成します。
  • 再び平衡に達したとき、[NH₃] は元の平衡状態より高くなり、[H₂] は低くなります。
  • [N₂] は、一度増加した後、正反応が進むことで一部消費されますが、それでも元の平衡状態よりは高い濃度になります。

7.1.2. 生成物を加える

結論平衡状態にある系に生成物を加えると、その生成物を消費して反応物を生成する方向、すなわち平衡は左(逆反応の方向)に移動する。

例:アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g)

この平衡系に、アンモニア (NH₃) を追加で注入したとします。

  • 加えられた変化(ストレス): NH₃ の濃度の増加。
  • 変化を和らげる方向加えられた NH₃ を消費する方向
  • 平衡移動: NH₃ を消費するのは逆反応 (2NH₃ → N₂ + 3H₂) なので、平衡は左に移動します。

結果:

  • NH₃ が分解され、N₂ と H₂ が新たに生成します。
  • 新しい平衡状態では、[N₂] と [H₂] は元の平衡状態より高くなり、[NH₃] も元の平衡状態よりは高い濃度になります。

7.2. 反応物または生成物を「取り除く」場合

7.2.1. 反応物を取り除く

結論平衡状態にある系から反応物を取り除くと、その反応物を補充する方向、すなわち平衡は左(逆反応の方向)に移動する。

例:アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g)

この平衡系から、水素 (H₂) を選択的に取り除いたとします。

  • 加えられた変化(ストレス): H₂ の濃度の減少。
  • 変化を和らげる方向取り除かれた H₂ を生成する(補充する)方向
  • 平衡移動: H₂ を生成するのは逆反応なので、平衡は左に移動します。

7.2.2. 生成物を取り除く

結論平衡状態にある系から生成物を取り除くと、その生成物を補充する方向、すなわち平衡は右(正反応の方向)に移動する。

これは、化学工業において収率を高めるための極めて重要な戦略です。

例:アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g)

この平衡系から、生成したアンモニア (NH₃) を連続的に冷却・液化して取り除いたとします。(NH₃はN₂やH₂に比べて沸点が高いため、冷却により容易に液化できる。)

  • 加えられた変化(ストレス): NH₃ の濃度の減少。
  • 変化を和らげる方向取り除かれた NH₃ を生成する(補充する)方向
  • 平衡移動: NH₃ を生成するのは正反応なので、平衡は右に移動します。

結果:

生成物であるアンモニアを系から取り除き続けることで、ルシャトリエの原理により、平衡は絶えず右へ右へと移動し続けます。これにより、本来ならば平衡の制約によって限られてしまうアンモニアの収率を、劇的に向上させることができるのです。

7.3. 濃度変化と平衡定数

重要反応物や生成物の濃度を変化させても、平衡の位置は移動しますが、温度が一定である限り、平衡定数 (K_c) の値そのものは変化しません。

濃度を変化させると、平衡定数の式の分子または分母の値が一時的に変わるため、濃度比が K_c と等しくない状態になります。系は、この比が再び K_c の値に戻るように、正反応または逆反応を進めることで、各物質の濃度を自己調整するのです。平衡移動とは、この「K_c の値を維持するための調整プロセス」に他なりません。


8. 圧力変化による平衡移動

気体が関与する可逆反応では、圧力の変化も平衡の位置を移動させる重要な要因となります。ただし、圧力変化が平衡移動を引き起こすのは、反応の前後で気体分子の総数が変化する場合に限られます。ルシャトリエの原理によれば、系は加えられた圧力の変化を和らげる、すなわち気体分子の総数を変える方向に反応を進めます。

8.1. 圧力変化が平衡移動に影響する条件

圧力変化による平衡移動を考える際の最初のステップは、その反応が以下の条件を満たすかどうかを確認することです。

  1. 反応系に気体が含まれていること: すべてが固体や液体、水溶液の反応では、圧力変化の影響はほとんどありません。
  2. 反応式の左辺と右辺で、気体分子の係数の合計が異なること:\( \Delta n = (\text{生成物の気体の係数合計}) – (\text{反応物の気体の係数合計}) \neq 0 \)

もし、反応の前後で気体分子の総数が変化しない反応(例: H₂(g) + I₂(g) ⇌ 2HI(g), \(\Delta n = 2-2=0\))では、圧力を変えても、どちらの方向に進んでも圧力は緩和されないため、平衡は移動しません

8.2. 圧力を増加させた場合

結論平衡状態にある気体系の全圧を増加させると、気体分子の総数が減少する方向に平衡が移動する。

圧力を増加させる方法:

  • 体積を減少させる: ピストンで容器を圧縮する。
  • 不活性ガスを加える: 体積一定のまま、反応に関与しないヘリオンやアルゴンなどを加える。(注意: この場合、全圧は増加しますが、各反応物の分圧は変化しないため、平衡は移動しません。体積を可変(ピストン付き容器)にして全圧を一定に保ちながら不活性ガスを加えると、分圧が下がるため、圧力を減少させた場合と同じ効果になります。)

例:アンモニア合成 N₂(g) + 3H₂(g) ⇌ 2NH₃(g)

  • 気体分子数の変化:
    • 反応物側:(1 + 3) = 4 mol
    • 生成物側:2 mol
    • この反応は、気体分子の数が減少する (4 mol → 2 mol) 反応です。
  • 圧力を増加させた場合:
    • 加えられた変化(ストレス): 全圧の増加。
    • 変化を和らげる方向: 圧力を下げる方向。気体の場合、圧力を下げるには、気体分子の数を減らすのが最も効果的です。
    • 平衡移動: 気体分子の数が減る方向は、**正反応の方向(右)**です。
    • したがって、圧力を高くすると、平衡は右に移動し、アンモニアの収率が増加します。ハーバー・ボッシュ法が高圧(数百気圧)で行われるのは、この原理に基づいています。

8.3. 圧力を減少させた場合

結論平衡状態にある気体系の全圧を減少させると、気体分子の総数が増加する方向に平衡が移動する。

例:二酸化窒素の平衡 2NO₂(g) ⇌ N₂O₄(g)

  • 気体分子数の変化:
    • 反応物側(NO₂): 2 mol
    • 生成物側(N₂O₄): 1 mol
    • この反応の正反応は、気体分子の数が減少する (2 mol → 1 mol) 反応です。
  • 圧力を減少させた場合(体積を膨張させる):
    • 加えられた変化(ストレス): 全圧の減少。
    • 変化を和らげる方向: 圧力を上げる方向、すなわち気体分子の数を増やす方向。
    • 平衡移動: 気体分子の数が増える方向は、**逆反応の方向(左)**です。
    • したがって、圧力を低くすると、平衡は左に移動し、無色の N₂O₄ が分解して、赤褐色の NO₂ が増えます。注射器にこの平衡状態の気体を入れて圧縮したり膨張させたりすると、圧力変化によって色の濃さが変わるのが観察できます。

8.4. 圧力変化と平衡定数

濃度変化の場合と同様に、圧力(または体積)を変化させても、平衡の位置は移動しますが、温度が一定である限り、平衡定数 (Kc や Kp) の値そのものは変化しません

圧力を変えると、各成分の分圧(または濃度)が一時的に変化し、分圧(濃度)の比が Kp (Kc) と等しくない状態になります。系は、この比が再び Kp (Kc) の値に戻るように、気体分子数が変化する方向へ反応を進めることで、各成分の分圧(濃度)を再調整するのです。平衡移動は、この「平衡定数を維持するための調整」と見なすことができます。


9. 温度変化による平衡移動

濃度や圧力の変化は、平衡の位置を移動させましたが、平衡定数 K の値そのものは変えませんでした。しかし、温度の変化は、これらとは根本的に異なります。温度を変化させると、平衡が移動するだけでなく、平衡定数 K の値自体が変化します。これは、温度が反応速度定数(k_正, k_逆)に直接影響を与え、その比である平衡定数 K (= k_正 / k_逆) を変えてしまうためです。

平衡がどちらの方向に移動するかは、その反応が発熱反応吸熱反応かによって決まります。ルシャトリエの原理によれば、系は加えられた熱的ストレス(加熱または冷却)を和らげる方向に反応を進めます。

9.1. 温度変化とルシャトリエの原理

ルシャトリエの原理を温度変化に適用する際は、熱をあたかも化学物質(反応物または生成物)の一つであるかのように扱うと、非常に直感的に理解できます。

  • 発熱反応 (\(\Delta H < 0\)): 反応が進むと熱を放出するので、「熱」を生成物として扱います。\[ \text{反応物} \rightleftharpoons \text{生成物} + \text{熱} \]
  • 吸熱反応 (\(\Delta H > 0\)): 反応が進むために熱を吸収するので、「熱」を反応物として扱います。\[ \text{反応物} + \text{熱} \rightleftharpoons \text{生成物} \]

この考え方に基づき、加熱・冷却した場合の平衡移動を予測します。

9.2. 温度を上昇させた場合(加熱)

結論平衡状態にある系を加熱すると、その熱を吸収する方向、すなわち吸熱反応の方向に平衡が移動する。

  • 発熱反応 (反応物 ⇌ 生成物 + 熱) の場合:
    • 加えられた変化(ストレス): 加熱(「生成物」である熱の増加)。
    • 変化を和らげる方向: 熱を消費する方向。
    • 平衡移動: 熱を消費するのは**逆反応の方向(左)**です。
    • 結果: 平衡は左に移動し、生成物が減少して反応物が増加します。平衡定数 K は小さくなります
  • 吸熱反応 (反応物 + 熱 ⇌ 生成物) の場合:
    • 加えられた変化(ストレス): 加熱(「反応物」である熱の増加)。
    • 変化を和らげる方向: 熱を消費する方向。
    • 平衡移動: 熱を消費するのは**正反応の方向(右)**です。
    • 結果: 平衡は右に移動し、反応物が減少して生成物が増加します。平衡定数 K は大きくなります

9.3. 温度を低下させた場合(冷却)

結論平衡状態にある系を冷却すると、その熱を補う方向、すなわち発熱反応の方向に平衡が移動する。

  • 発熱反応 (反応物 ⇌ 生成物 + 熱) の場合:
    • 加えられた変化(ストレス): 冷却(「生成物」である熱の減少)。
    • 変化を和らげる方向: 熱を生成する(補充する)方向。
    • 平衡移動: 熱を生成するのは**正反応の方向(右)**です。
    • 結果: 平衡は右に移動し、反応物が減少して生成物が増加します。平衡定数 K は大きくなります
  • 吸熱反応 (反応物 + 熱 ⇌ 生成物) の場合:
    • 加えられた変化(ストレス): 冷却(「反応物」である熱の減少)。
    • 変化を和らげる方向: 熱を生成する(補充する)方向。
    • 平衡移動: 熱を生成するのは**逆反応の方向(左)**です。
    • 結果: 平衡は左に移動し、生成物が減少して反応物が増加します。平衡定数 K は小さくなります

9.4. 工業的応用:ハーバー・ボッシュ法

アンモニア合成反応は、この温度と平衡・速度の関係を考える上で、極めて重要な実例です。

\[ N_2(g) + 3H_2(g) \rightleftharpoons 2NH_3(g) \quad \Delta H = -92 \text{ kJ} (\text{発熱反応}) \]

  1. 平衡論的考察(収率を上げるには):
    • この反応は発熱反応です。したがって、ルシャトリエの原理によれば、平衡を右に移動させてアンモニアの収率を最大にするためには、温度は低い方が有利です。
    • また、この反応は気体分子の数が減少する反応 (4 mol → 2 mol) です。したがって、圧力は高い方が有利です。
    • つまり、「低温・高圧」が、平衡論的には最適な条件です。
  2. 速度論的考察(速く反応させるには):
    • しかし、化学反応の速度は、温度が低いと極端に遅くなってしまいます。低温では、たとえ平衡的に有利であっても、平衡に達するまでに何日も何年もかかってしまい、工業的には全く実用的ではありません。
    • 反応速度を上げるためには、温度は高い方が有利です。
  3. 現実の工業プロセスでの妥協点:
    • このように、「収率(平衡)」と「速度」は、温度に関してトレードオフの関係にあります。
    • 実際のハーバー・ボッシュ法では、この両者のバランスをとり、経済的に見合う生産性を達成するために、鉄系の触媒を用いて反応速度を確保した上で、**400〜600℃**という、平衡的には不利だが速度的には十分な「妥協点」の温度が採用されています。

このように、温度は平衡の位置と反応速度の両方に影響を与える、化学プロセスを制御する上で最も重要なパラメーターなのです。


10. 触媒と平衡状態の関係

化学反応の速度を劇的に向上させる「触媒」。化学工業や生命活動に不可欠なこの物質が、化学平衡というデリケートなバランス状態に、一体どのような影響を与えるのでしょうか。結論から言うと、触媒は平衡に達するまでの時間を短縮しますが、平衡の状態そのもの(平衡の位置や平衡定数)を変えることはありません。この一見矛盾したような振る舞いを理解することは、触媒の役割と限界を正しく認識する上で非常に重要です。

10.1. 触媒の役割の再確認

まず、触媒が反応速度を速めるメカニズムを思い出しましょう。

  • 触媒は、反応物と相互作用することで、元の反応経路とは異なる、活性化エネルギーがより低い、新しい反応経路を提供します。
  • 活性化エネルギーという「山」が低くなるため、同じ温度でも、その山を越えることができる分子の割合が飛躍的に増加し、反応速度が大きくなります。

10.2. 触媒と平衡移動

では、この触媒の働きを、可逆反応 A ⇌ B に当てはめて考えてみましょう。

触媒が提供する新しい低エネルギー経路は、一方通行ではありません。それは、正反応 (A → B) と逆反応 (B → A) の両方に対して、等しく有効な「トンネル」として機能します。

  • 正反応への影響: 触媒は、正反応の活性化エネルギー (\(E_{a,正}\)) を下げ、その速度 (\(v_{正}\)) を速めます。
  • 逆反応への影響: 同時に、触媒は、逆反応の活性化エネルギー (\(E_{a,逆}\)) も、全く同じ量だけ下げます。そのため、逆反応の速度 (\(v_{逆}\)) も、正反応と同じ割合で速められます。

エネルギー図による理解:

エネルギー図で考えると、触媒は反応物と生成物の間のエネルギーの「山」全体を、均等に引き下げるようなイメージです。

  • 出発点(反応物)と山の頂点との高さの差(正反応の活性化エネルギー)も、
  • 終着点(生成物)と山の頂点との高さの差(逆反応の活性化エネルギー)も、両方とも同じだけ低くなります。しかし、出発点と終着点の標高差、すなわち反応熱 (\(\Delta H\)) は、全く変化しません。

結論:

触媒は、正反応の速度と逆反応の速度を、全く同じ割合で増大させます。

10.3. 触媒が平衡状態に与える影響

化学平衡とは、正反応の速度 = 逆反応の速度 となった状態でした。

触媒を加えると、\(v_{正}\) と \(v_{逆}\) の両方が、例えば100万倍に加速されたとします。しかし、両者が同じ割合で速くなるため、両者の速度が釣り合っているという「平衡の状態」そのものは、全く影響を受けません。

したがって、触媒が平衡状態に与える影響は、以下のようにまとめられます。

  1. 平衡の位置は移動しない:触媒を加えても、反応物と生成物のどちらか一方だけが有利になることはありません。したがって、平衡が右や左に移動することはありません。平衡状態における反応物と生成物の濃度(または分圧)の比は、触媒がない場合と全く同じです。
  2. 平衡定数 (K) は変化しない:平衡状態の濃度比が変わらないので、当然、平衡定数 K の値も、触媒の有無によって変化することはありません。
  3. 平衡に達するまでの時間が短縮される:触媒の唯一の役割は、正反応と逆反応の両方を加速させることで、v_正 = v_逆 という平衡状態に、より短時間で到達させることです。

アナロジー:エスカレーターの速度

再び、デパートのエスカレーターの例えを考えます。

  • 触媒なし: 上りエスカレーターと下りエスカレーターが、通常の速度で動いており、1分間に10人ずつが上下して、各階の人数が平衡状態にある。
  • 触媒あり: 最新式の高速エスカレーターを導入した。上りも下りも、1分間に100人ずつが移動できるようになった。このとき、上下の移動速度は10倍になりましたが、移動する人数が釣り合っているというバランス(平衡)は保たれたままです。各階の人数比は変わりません。ただ、開店直後に客が各階に分散して、この平衡状態に達するまでの時間が、劇的に短縮されるだけです。

触媒は、ルシャトリエの原理における「平衡を移動させる要因」には含まれません。それは、化学平衡という「目的地」を変えるのではなく、そこへ至る「時間」を支配する因子なのです。


Module 9:化学平衡と平衡移動の総括:化学反応の「終着点」を予測し、制御する

本モジュールでは、多くの化学反応が目指す最終的な状態、すなわち「化学平衡」の世界を探求しました。私たちはまず、反応が一方向に完結する「不可逆反応」とは異なり、正逆両方向に進行しうる「可逆反応」こそが、平衡という現象の舞台であることを学びました。そして、化学平衡の核心が、反応が静止した状態ではなく、正反応と逆反応の速度が完全に釣り合った「動的平衡」であるという、ミクロな視点からの本質を理解しました。

この動的なバランス状態を定量的に記述するため、私たちは「平衡定数 (K)」という強力な指標を導入しました。平衡定数は、ある温度における反応の「終着点」が、どれだけ生成物側に、あるいは反応物側に偏っているのかを、ただ一つの数値で示してくれます。この値の大小から反応の進みやすさを読み解くことは、反応の全体像を把握するための第一歩です。

モジュールの後半では、この安定した平衡状態が、外部からの「揺さぶり」に対して、いかに巧みに応答するかを学びました。濃度、圧力、温度といった条件の変化に対し、その変化を和らげる方向に平衡が移動するという「ルシャトリエの原理」は、化学平衡を制御するための普遍的な羅針盤となりました。私たちは、この原理を具体的な指針として、

  • 濃度を変えれば、その物質を増減させる方向に、
  • 圧力を変えれば、気体分子の総数を変える方向に、
  • 温度を変えれば、熱を吸収または放出する方向に、平衡が移動することを、論理的に予測する能力を身につけました。

特に、温度だけが平衡定数 K の値そのものを変える唯一の因子であること、そして触媒は、平衡の「位置」を変えることなく、そこへ至る「時間」を短縮するだけである、という厳密な区別は、化学プロセスを精密に制御する上で不可欠な知見です。

このモジュールを完遂した皆さんは、もはや化学反応を、ただ矢印で結ばれた物質の変化として見ることはないでしょう。その矢印が可逆記号(⇌)で描かれるとき、その先には、反応物と生成物が絶妙なバランスで共存する、ダイナミックな平衡の世界が広がっています。その平衡の位置を平衡定数で定量化し、ルシャトリエの原理でその移動を予測・制御する力。それこそが、化学反応の「終着点」を科学的に理解し、望む結果へと導くための、本質的な思考法なのです。


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