【基礎 化学】Module 10: 無機化学:元素の性質
本モジュールの学習目標
これまでの9つのモジュールにわたる壮大な旅を通じて、私たちは化学の世界を探検するための、いわば普遍的な「文法」と「物理法則」を学んできました。原子の構造、結合の仕組み、エネルギーの法則、反応の速度と平衡。これらは、あらゆる化学現象を理解するための、強力無比な理論的枠組みです。
そして今、私たちはその理論的枠組みを手に、いよいよ具体的な物質の世界、すなわち無機化学 (Inorganic Chemistry) の探求へと乗り出します。無機化学とは、周期表に並ぶ118の元素たちが、それぞれどのような個性を持ち、どのような化合物を形成し、私たちの世界でどのような役割を果たしているのかを解き明かす、広大でカラフルな分野です。
このモジュールでは、無機化学を単なる知識の暗記に終始させることはしません。私たちの武器は、これまでに習得した周期律という最強の「地図」です。周期表上の位置(電子配置)から、なぜその元素がそのような性質を示すのか、なぜ同族の元素は似た挙動を示すのかを、常に基本原理に立ち返って論理的に解き明かしていきます。
典型元素たちの個性あふれる性質から、遷移元素が織りなす色彩豊かな錯体の世界、そしてそれらの知識を応用した分析化学の真髄であるイオンの系統分離まで。このモジュールを終えるとき、あなたはバラバラに見えた元素の知識が、周期表という美しいタペストリーの上に、見事に織り込まれていることを実感するでしょう。それは、物質世界を貫く法則性と多様性を、同時に楽しむための新しい「眼」を手に入れることに他なりません。さあ、元素たちが織りなす物語の世界へ、旅立ちましょう。
1. 無機化学への招待:周期表を羅針盤とする探求
無機化学の学習は、しばしば膨大な暗記事項との戦いだと誤解されがちです。しかし、それは本質ではありません。無機化学の真髄は、周期表を羅針盤として、元素の性質の背後にある法則性を見出し、理解し、予測することにあります。
1.1. なぜ周期表が最強のツールなのか?
Module 2で学んだように、元素の化学的性質を決定づける最も重要な要因は、原子の**最外殻電子配置(価電子の配置)**です。
- 周期表の「族(縦の列)」: 同じ族に属する元素は、価電子の配置が同じです。そのため、互いに非常によく似た化学的性質を示します。例えば、1族のアルカリ金属は、どれも価電子を1個持ち、電子を1個失って+1価の陽イオンになりやすい、という共通の性質を持ちます。
- 周期表の「周期(横の行)」: 同じ周期を左から右へ進むにつれて、原子番号が増加し、原子核の正電荷が強くなる一方、電子は同じ電子殻に充填されていきます。これにより、原子半径、イオン化エネルギー、電気陰性度といった基本的な物理的性質が、予測可能な形で周期的に変化します。この物理的性質の変化が、化学的性質の変化(例:金属から非金属へ)となって現れるのです。
したがって、ある元素の性質を学ぶとき、常にその元素が周期表のどこに位置するかを確認し、「なぜこの位置にあるから、こういう性質を示すのか」を自問自答する習慣をつけることが、無機化学を制覇する鍵となります。
1.2. 典型元素と遷移元素:二つの個性
無機化学の世界は、大きく二つの勢力に分かれています。
- 典型元素 (Main Group Elements):
- 位置: 周期表の1, 2族および12~18族に属する元素。
- 特徴: 電子がs軌道またはp軌道に充填されていきます。価電子の数が族番号と直結しており、同族元素の性質の類似性が非常に顕著です。性質の変化が「典型的」で、周期律がはっきりと現れます。金属元素も非金属元素も含まれ、多様性に富んでいます。
- 遷移元素 (Transition Elements):
- 位置: 周期表の3~11族に属する元素。
- 特徴: 電子がd軌道(またはf軌道)に充填されていきます。隣り合う元素同士の性質が似ており、性質の変化が比較的緩やかです。ほとんどが金属元素であり、典型元素とは異なる、以下のような特徴的な性質を示します。
- 多様な酸化数をとる
- イオンや化合物が有色であるものが多い
- 錯体を形成しやすい
- 触媒として働くものが多い
このモジュールでは、まず典型元素の各族の性質を周期律に沿って概観し、次に遷移元素の魅力的な世界を探求していきます。
2. 典型元素の世界Ⅰ:アルカリ金属とアルカリ土類金属 (1, 2族)
周期表の最も左側に位置する1族と2族の元素は、典型的な金属元素の代表格です。価電子を放出して陽イオンになりやすいという共通の性質を持ち、その反応性の高さから、自然界では単体として存在することはありません。
2.1. 1族元素:アルカリ金属 (Alkali Metals)
- 構成元素: リチウム(Li), ナトリウム(Na), カリウム(K), ルビジウム(Rb), セシウム(Cs), フランシウム(Fr) (水素Hは除く)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns1。価電子を1個持つ。
- 物理的性質: イオン化エネルギーが全元素中で最も小さく、電気陰性度も小さい。原子半径は各周期で最大。
- 単体の性質:
- 製法: 化合物が非常に安定であるため、単体を得るには強力な還元法が必要です。主に、塩化物の融解塩電解によって製造されます。
- 例: 2NaCl融解塩電解
2Na+Cl2
- 例: 2NaCl融解塩電解
- 物理的性質: 銀白色の光沢を持つ、非常に軟らかい軽金属(ナイフで切れるほど)。密度も小さく、Li, Na, Kは水に浮きます。融点も金属としては非常に低いです。
- 化学的性質(反応性):
- 価電子1個を容易に放出して、+1価の陽イオンになりやすく、極めて反応性が高い。
- 空気中ですぐに酸化されるため、石油中に保存します。
- 水との反応: 常温の水と激しく反応し、水素ガスを発生して、強塩基性の水酸化物となります。2Na+2H2O→2NaOH+H2↑この反応は、同族内で下にいくほど(K, Rb, Cs)、より激しくなります。
- 製法: 化合物が非常に安定であるため、単体を得るには強力な還元法が必要です。主に、塩化物の融解塩電解によって製造されます。
- 化合物の性質:
- 炎色反応: Li(赤), Na(黄), K(紫), Rb(紅紫), Cs(青紫)といった、特有の炎色反応を示します。これは、高温によって励起された電子が、元のエネルギー準位に戻る際に、特定の波長の光を放出するためです。花火や分析化学に応用されます。
- 水酸化物: NaOH, KOHはいずれも強塩基であり、潮解性(空気中の水分を吸収して溶ける性質)を持ちます。CO₂をよく吸収します。
- 塩: 多くの塩(NaCl,KNO3など)は水に溶けやすく、無色透明のイオン結晶を形成します。
2.2. 2族元素:アルカリ土類金属 (Alkaline Earth Metals)
- 構成元素: ベリリウム(Be), マグネシウム(Mg), カルシウム(Ca), ストロンチウム(Sr), バリウム(Ba), ラジウム(Ra)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns2。価電子を2個持つ。
- 物理的性質: 1族のアルカリ金属よりはイオン化エネルギーが大きく、原子半径も小さいですが、金属全体で見れば陽イオンになりやすいグループです。
- 単体の性質:
- 製法: やはり融解塩電解で製造されます。(例: MgCl2→Mg+Cl2)
- 物理的性質: 銀白色の金属。アルカリ金属よりは硬く、融点も高いです。
- 化学的性質:
- 価電子2個を放出して、+2価の陽イオンになります。
- 反応性はアルカリ金属ほどではありませんが、非常に高いグループです。Mgは空気中で燃焼させると、強い光と熱を出して酸化マグネシウム(MgO)になります。
- 水との反応: Be, Mgは熱水と反応。Ca, Sr, Baは常温の水と反応して、水素を発生し水酸化物となります。Ca+2H2O→Ca(OH)2+H2↑
- 化合物の性質:
- 炎色反応: Ca(橙赤), Sr(紅), Ba(黄緑)。
- 酸化物・水酸化物:
- 酸化物(CaOなど)は水と反応して水酸化物となります。
- 水酸化物(Ca(OH)2,Ba(OH)2)は強塩基です(Be(OH)₂, Mg(OH)₂は弱塩基)。
- Ca(OH)2(消石灰)の水溶液である石灰水は、二酸化炭素を吹き込むと、水に難溶な炭酸カルシウム(CaCO3)の白色沈殿を生じるため、CO2の検出反応に用いられます。Ca(OH)2+CO2→CaCO3↓+H2O
- 塩の溶解性:
- 硫酸塩:CaSO4(セッコウ)はやや溶けにくく、BaSO4は水にも酸にも溶けない白色沈殿で、X線造影剤などに利用されます。
- 炭酸塩:CaCO3(石灰石、大理石)、BaCO3は水に難溶です。
3. 典型元素の世界Ⅱ:炭素族と窒素族 (14, 15族)
周期表の中央右寄りに位置する14族と15族は、非金属、半金属、金属の元素を含み、私たちの生活や生命活動に不可欠な、極めて重要な元素が属しています。
3.1. 14族元素:炭素(C)とケイ素(Si)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns2np2。価電子を4個持つ。
- 性質の変化: 周期表を上から下へ、C(非金属)→ Si(半金属)→ Ge(半金属)→ Sn, Pb(金属)と、非金属性から金属性へと性質が劇的に変化します。
- 炭素(C)の化学:
- 単体(同素体): ダイヤモンド(正四面体構造、共有結合結晶、硬い)、黒鉛(グラファイト、層状構造、導電性あり)、フラーレン、カーボンナノチューブなど、多様な同素体を持ちます。
- 水素化物: メタン(CH4)を始めとする、無数の有機化合物を形成します。C-C結合、C=C結合、C≡C結合を安定に作ることができ、鎖状、分岐状、環状の多様な骨格を構築できることが、有機物の多様性の根源です。
- 酸化物:
- 一酸化炭素(CO): 不完全燃焼で生成。無色・無臭の有毒な気体。水にほとんど溶けず、還元性を持ちます。
- 二酸化炭素(CO₂): 完全燃焼で生成。無色・無臭の気体。水に少し溶けて弱酸性の炭酸(H2CO3)となります。固体はドライアイス。CO2+H2O⇌H2CO3
- ケイ素(Si)の化学:
- 存在: 地殻中に酸素に次いで多く存在する元素(クラーク数第2位)。岩石や土砂の主成分。
- 単体: ダイヤモンド型の共有結合結晶。純粋なものは、真性半導体として、トランジスタや集積回路(IC)など、エレクトロニクス産業の基盤となる材料です。
- 酸化物:
- 二酸化ケイ素(SiO2): 水晶や石英の主成分。Si原子とO原子が交互に共有結合した、極めて硬く融点の高い共有結合結晶です。CO₂が分子であるのとは対照的です。
- ガラスは、このSiO2を主成分とするアモルファス(非晶質)固体です。
- ケイ酸とケイ酸塩: SiO2は酸性酸化物ですが、水には溶けません。強塩基と反応させて得られるケイ酸ナトリウム(Na2SiO3)に水を加えたものが水ガラスです。これに酸を加えると、ゲル状のケイ酸(H2SiO3)が生成します。
3.2. 15族元素:窒素(N)とリン(P)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns2np3。価電子を5個持つ。
- 性質の変化: N, P(非金属)→ As, Sb(半金属)→ Bi(金属)と変化します。
- 窒素(N)の化学:
- 単体(N2): 空気の約78%を占める。N≡Nという非常に強い三重結合を持つため、極めて安定で反応性に乏しい(不活性)。
- 工業的製法: 液体空気を分留して得られます。
- アンモニア(NH3):
- 特徴的な刺激臭を持つ、無色の気体。水によく溶け、弱塩基性を示します。
- ハーバー・ボッシュ法: 窒素と水素から、高圧・高温・触媒(鉄系)下で合成されます。N2+3H2⇌2NH3
- 窒素酸化物(NOx):
- 一酸化窒素(NO): 無色の気体。空気中で容易に酸化され、NO2になります。
- 二酸化窒素(NO2): 赤褐色の有毒な気体。水と反応して硝酸と亜硝酸を生じます。光化学スモッグの原因物質の一つ。
- 硝酸(HNO3):
- 代表的な強酸であり、強い酸化作用を持つ酸化性酸です。
- 銅(Cu)や銀(Ag)のような、イオン化傾向が水素より小さい金属も溶かすことができます。
- オストワルト法: アンモニアを白金触媒下で酸化して製造されます。
- リン(P)の化学:
- 単体(同素体): 黄リン(P4)(正四面体分子、猛毒、空気中で自然発火)と、赤リン(網目状構造、比較的安定)が重要です。
- 酸化物:
- 十酸化四リン(P4O10): Pを完全燃焼させるとできる白色の固体。極めて強い脱水作用・吸湿性を持ち、乾燥剤として用いられます。水と激しく反応してリン酸(H3PO4)を生じます。P4O10+6H2O→4H3PO4
- リン酸(H3PO4): 中程度の強さの三価の酸。潮解性のある安定な固体。DNAやATPなど、生体内の重要物質の構成要素でもあります。
4. 典型元素の世界Ⅲ:酸素族とハロゲン (16, 17族)
周期表の右側に位置する16族と17族は、典型的な非金属元素であり、電子を受け取って陰イオンになりやすいという共通の性質を持ちます。
4.1. 16族元素:酸素(O)と硫黄(S)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns2np4。価電子を6個持つ。あと2個電子を受け取ると、希ガスと同じ電子配置になるため、-2価の陰イオンになりやすいです。
- 性質の変化: O, S, Se(非金属)→ Te(半金属)→ Po(金属)と変化します。
- 酸素(O)の化学:
- 単体(同素体): 酸素(O2)(無色無臭、助燃性)と、オゾン(O3)(淡青色・特異臭、強い酸化作用)が存在します。
- 製法: 工業的には液体空気の分留。実験室では、酸化マンガン(IV)を触媒として過酸化水素(H2O2)を分解するなどして得ます。
- 化合物: 地殻中に最も多く存在する元素であり、酸化物や水として、あらゆる場所に存在します。
- 硫黄(S)の化学:
- 単体: 淡黄色の固体。同素体が多く、常温では斜方硫黄が安定。ゴムに硫黄を加えて加熱する「加硫」は、ゴムの弾性を増す重要なプロセスです。
- 硫化水素(H2S): 腐卵臭を持つ、有毒な気体。水に溶けて弱酸性を示します。また、強い還元剤として働きます。
- 二酸化硫黄(SO2): 刺激臭のある無色の気体。水に溶けて亜硫酸(H2SO3)となり酸性を示します。漂白作用や還元作用を持ちますが、相手によっては酸化剤としても働きます。
- 硫酸(H2SO4):
- 接触法: 二酸化硫黄を酸化バナジウム(V)(V2O5)触媒を用いて酸化し、三酸化硫黄(SO3)とし、これを濃硫酸に吸収させて製造します。化学工業で最も重要な基礎薬品の一つです。2SO2+O2⇌2SO3SO3+H2O→H2SO4
- 性質: 不揮発性の強酸。濃硫酸は、吸湿性・脱水作用が強く、また加熱すると強い酸化作用を示します。
4.2. 17族元素:ハロゲン (Halogens)
- 構成元素: フッ素(F), 塩素(Cl), 臭素(Br), ヨウ素(I), アスタチン(At)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: ns2np5。価電子を7個持つ。あと1個電子を受け取るだけでオクテットが完成するため、**-1価の陰イオン(ハロゲン化物イオン)**に非常になりやすいです。
- 電気陰性度: 全元素中で最も大きいグループ。
- 単体の性質:
- 状態: F₂(淡黄色・気体), Cl₂(黄緑色・気体), Br₂(赤褐色・液体), I₂(黒紫色・固体)と、周期表を下に行くにつれて分子間力(分散力)が大きくなるため、融点・沸点が上昇します。
- 反応性: 価電子を7個もつため、電子を1個奪おうとする傾向が非常に強く、酸化力が極めて強いです。酸化力の強さは、F2>Cl2>Br2>I2 の順になります。
- 単体の置換反応: 酸化力の強いハロゲン単体は、酸化力の弱いハロゲンのイオンを溶液中から追い出すことができます。Cl2+2KBr→2KCl+Br2
- 水素化物 (HX):
- いずれも無色の刺激臭のある気体で、水によく溶けて強酸となります(HFのみ弱酸)。
- 酸性の強さは、H-X結合の強さが弱くなる順に、HF≪HCl<HBr<HI となります。
- ハロゲン化銀 (AgX):
- AgFは水に溶けますが、AgCl(白), AgBr(淡黄), AgI(黄)は水に難溶な沈殿を生成します。この性質は、ハロゲン化物イオンの検出に利用されます。
- ハロゲン化銀は光によって分解される性質(感光性)があるため、写真フィルムの感光材として利用されてきました。
5. 周期表の孤高と完成:水素と希ガス (1, 18族)
周期表の両端に位置する水素と18族の希ガスは、それぞれが極めてユニークな性質を持ち、無機化学の世界で特別な地位を占めています。一方はあらゆる元素と結びつく化学の万能選手、もう一方は何物とも交わらない孤高の貴族です。
5.1. 水素(H):周期表の孤児、万能の非金属
- ユニークな位置: 水素は原子番号1、電子配置は1s1です。
- 価電子を1個持つ点では1族のアルカリ金属に似ていますが、電子を失って$H^+$になるだけでなく、電子を1個受け取って$H^-$(水素化物イオン)となり、希ガス(He)と同じ電子配置になれる点では17族のハロゲンにも似ています。
- しかし、その性質はどちらとも大きく異なるため、周期表ではしばしば少し離して配置される、いわば「孤児」のような存在です。
- 単体(H2)の性質:
- 製法:
- 工業的: メタン(CH4)などの炭化水素を水蒸気と反応させる(水蒸気改質)などして得ます。
- 実験室: 亜鉛(Zn)などのイオン化傾向が水素より大きい金属に、塩酸(HCl)や希硫酸(H2SO4)を加えて発生させます。Zn+2HCl→ZnCl2+H2↑
- 物理的性質: 無色・無臭の気体。宇宙で最も豊富に存在する元素であり、すべての気体の中で最も軽く(密度が小さい)、拡散速度が速いです。
- 化学的性質:
- 可燃性であり、空気中(または酸素中)で燃焼(爆発的に反応)して水を生成します。
- 還元剤として働き、多くの金属酸化物を加熱しながら反応させることで、金属単体に還元することができます。CuO+H2加熱
Cu+H2O
- ニッケル(Ni)や白金(Pt)などを触媒として、エチレン(C2H4)などの不飽和結合を持つ有機物に付加(水素化)し、飽和化合物(エタン C2H6)を生成します。
- 製法:
5.2. 18族元素:希ガス (Noble Gases)
- 構成元素: ヘリウム(He), ネオン(Ne), アルゴン(Ar), クリプトン(Kr), キセノン(Xe), ラドン(Rn)
- 電子的特徴:
- 価電子配置: 最外殻電子が完全に満たされた閉殻構造(HeはK殻に2個、他は最外殻に8個)を形成しています。
- 物理的性質: この極めて安定な電子配置のため、イオン化エネルギーは各周期で最大、電子親和力はほぼゼロ。他の原子と結合を作る傾向が全くと言っていいほどありません。
- 単体と化合物の性質:
- 存在と性質: 空気中に微量(Arが約0.93%)に含まれる、無色・無臭の単原子分子の気体です。
- 分子間力: 分子間に働く力は、非常に弱い分散力のみであるため、融点・沸点が極めて低いです。
- 反応性: かつては「不活性ガス」と呼ばれたように、化学的に極めて安定で、通常は化合物を形成しません。しかし、1962年に、Xeのような重い希ガスは、Fのような非常に電気陰性度の大きい元素と特定の条件下で反応し、化合物(例: XeF4)を作ることが発見されました。
- 用途:
- ヘリウム(He): 水素に次いで軽く、不燃性であるため、飛行船や風船に利用されます。また、沸点が極めて低いため、超伝導磁石などの冷却材(液体ヘリウム)としても重要です。
- ネオン(Ne): 放電管に入れると、鮮やかな赤橙色の光(ネオンサイン)を放ちます。
- アルゴン(Ar): 空気中で3番目に多く、安価であるため、電球の封入ガスや、溶接の際に金属が高温で酸化されるのを防ぐための保護ガス(不活性雰囲気)として広く利用されます。
6. 彩り豊かな元素たち:遷移元素の一般的性質
周期表の中央、3族から11族に広がる元素群、それが遷移元素 (Transition Elements) です。典型元素が見せる明快な周期性とは異なり、遷移元素はより複雑で、色彩豊かで、魅力的な化学の世界を展開します。
6.1. 遷移元素に共通する特徴
遷移元素は、最外殻のs軌道に電子が入った後、その一つ内側の(n-1)d軌道に電子が充填されていく元素群です。このd軌道の電子が、遷移元素のユニークな性質の鍵を握っています。
- すべて金属: すべての遷移元素は金属であり、一般に典型金属よりも融点・沸点が高く、密度も大きい、硬い金属です。
- 隣り合う元素の性質が似ている: d軌道に電子が一つずつ入っていくため、最外殻電子の数は1個か2個でほとんど変わりません。そのため、周期表で隣り合う元素同士の化学的性質が非常に似通っています。
- 特有の化学的性質:
- 多様な酸化数をとる:
- イオンや化合物に有色のものが多い:
- 錯体を形成しやすい:
- 触媒として優れた能力を持つものが多い:
6.2. 多様な酸化数
- 理由: 遷移元素では、最外殻のns軌道と、その内側の(n-1)d軌道のエネルギー準位が非常に近接しています。そのため、結合を形成する際に、ns電子だけでなく、(n-1)d電子も比較的容易に反応に関与することができます。どのd電子までが反応に関わるかによって、多様な酸化数をとることが可能になるのです。
- 例:マンガン(Mn): +2, +3, +4, +6, +7など、非常に多くの酸化数をとることができます。(例: Mn2+, MnO2(+4), K2MnO4(+6), KMnO4(+7))
- 対照的に: 典型元素では、とる酸化数は通常、族番号と関連した限られた数(例:Naは+1のみ)です。
6.3. 有色の化合物
- 理由: 遷移元素のイオンが水溶液中や結晶中に存在すると、周りの水分子や他のイオン(配位子)の影響で、縮重していた5つのd軌道のエネルギー準位が、いくつかのグループに分裂します。
- この分裂したd軌道間のエネルギー差は、ちょうど可視光のエネルギー領域に相当します。
- そのため、化合物が白色光(様々な波長の光の混合物)を吸収すると、特定のエネルギー(波長)の光を使って、d電子が低いエネルギーのd軌道から高いエネルギーのd軌道へと遷移(d-d遷移)します。
- 結果として、吸収された光の補色にあたる色の光が、私たちの目に色として認識されます。
- 例: $Cu^{2+}$水溶液が青く見えるのは、黄色~赤色の光を吸収し、その補色である青色の光を透過・反射するためです。
- 対照的に: 典型元素のイオン($Na^+, Al^{3+}$など)は、d軌道に電子がないか、あるいはd軌道が完全に満たされているため、このようなd-d遷移が起こらず、無色のものが多いです。
6.4. 錯体の形成
- 錯体 (Complex): 金属イオン(主に遷移元素)を中心として、その周りに配位子と呼ばれる分子やイオンが配位結合してできた、構造的にまとまった化学種のこと。全体として電荷を持つものを錯イオンといいます。
- 中心金属イオン: 電子対を受け取るルイス酸として働きます。
- 配位子 (Ligand): 非共有電子対を持ち、中心金属イオンに電子対を提供するルイス塩基として働きます。
- 例: H2O(アクア), NH3(アンミン), Cl−(クロリド), CN−(シアニド)
- 配位数 (Coordination Number): 中心金属イオンに直接配位結合している配位子の原子の数。
- 形状: 配位数に応じて、錯イオンは特有の立体構造をとります。
- 配位数4: 正四面体形(例: [Zn(NH3)4]2+)、または平面正方形(例: [Cu(NH3)4]2+, [PtCl4]2−)
- 配位数6: ほとんどの場合、正八面体形(例: [Fe(CN)6]3−, [Fe(H2O)6]3+)
7. 産業と生命の中心金属:鉄・銅・亜鉛・銀の化学
遷移元素の中でも、特に鉄、銅、亜鉛、銀は、私たちの文明や生命活動と極めて深く関わっています。ここでは、これらの重要な元素の化学的性質を具体的に見ていきましょう。
7.1. 鉄(Fe)
- 存在と製法: 地殻中に豊富に存在する金属。工業的には、製鉄所の高炉において、鉄鉱石(主成分: Fe2O3)をコークス(C)で還元して製造されます。
- 性質: 銀白色の金属。湿った空気中では容易にさび(赤さび: 主成分は含水酸化鉄(III) Fe2O3⋅nH2O)を生じます。
- 酸化数とイオン: 主に、安定な +2価 と +3価 の酸化数をとります。
- 鉄(II)イオン (Fe2+): 水溶液中では淡緑色。還元性を持ち、空気中の酸素によって容易に酸化され、$Fe^{3+}$になります。
- 鉄(III)イオン (Fe3+): 水溶液中では黄褐色。酸化性を持ちます。
- 沈殿反応:
- Fe2+ も Fe3+ も、塩基性水溶液中で水酸化物の沈殿を生じます。
- Fe2++2OH−→Fe(OH)2↓ (緑白色)
- Fe3++3OH−→Fe(OH)3↓ (赤褐色)
- Fe2+ も Fe3+ も、塩基性水溶液中で水酸化物の沈殿を生じます。
- 呈色反応(検出):
- ヘキサシアニド鉄(III)酸カリウム(K3[Fe(CN)6])水溶液を加えると、$Fe^{2+}$イオンと反応してターンブル青と呼ばれる濃青色の沈殿を生じます。
- ヘキサシアニド鉄(II)酸カリウム(K4[Fe(CN)6])水溶液を加えると、$Fe^{3+}$イオンと反応して**紺青(プルシアンブルー)**と呼ばれる濃青色の沈殿を生じます。
- チオシアン酸カリウム(KSCN)水溶液を加えると、$Fe^{3+}$イオンと反応して血赤色の溶液となります。
7.2. 銅(Cu)
- 性質: 特有の赤みを帯びた金属光沢(赤銅色)を持つ。電気・熱の伝導性が非常に高く、展性・延性にも富むため、電線や調理器具などに広く利用されます。
- 酸化数とイオン: 主に +1価 と +2価 の酸化数をとりますが、水溶液中では**+2価が安定**です。
- 銅(I)イオン (Cu+): 無色。不安定で、不均化反応(2Cu+→Cu+Cu2+)を起こしやすい。
- 銅(II)イオン (Cu2+): 水溶液中では、水和イオン$[Cu(H_2O)_4]^{2+}$として存在し、青色を示します。
- 化合物:
- 酸化銅(I) (Cu2O): 赤色の固体。フェーリング反応で生成する沈殿として有名。
- 酸化銅(II) (CuO): 黒色の固体。
- 硫酸銅(II)五水和物 (CuSO4⋅5H2O): 青色の結晶。加熱すると無水物(CuSO4, 白色)になります。
- 水酸化銅(II) (Cu(OH)2): 青白色の沈殿。アンモニア水を過剰に加えると、深青色のテトラアンミン銅(II)イオン [Cu(NH3)4]2+ となって溶解します。
7.3. 亜鉛(Zn)と銀(Ag)
- 亜鉛(Zn):
- 性質: 青みを帯びた銀白色の金属。鉄よりもイオン化傾向が大きく、鉄のさびを防ぐための**めっき(トタン)**に利用されます。
- イオン: 常に +2価 の陽イオン(Zn2+)となります。$Zn^{2+}$イオンは無色です。
- 両性元素: 亜鉛の単体、酸化物(ZnO)、水酸化物(Zn(OH)2)は、いずれも酸とも強塩基とも反応する両性の性質を示します。
- Zn(OH)2+2HCl→ZnCl2+2H2O
- Zn(OH)2+2NaOH→Na2[Zn(OH)4] (テトラヒドロキシド亜鉛(II)酸ナトリウム)
- 銀(Ag):
- 性質: 美しい白色の金属光沢を持ち、金属の中で最大の電気・熱伝導性を示します。
- イオン: 常に +1価 の陽イオン(Ag+)となります。$Ag^+$イオンは無色です。
- ハロゲン化銀: ハロゲン化物イオンと反応して、水に難溶な沈殿を形成します(AgCl白, AgBr淡黄, AgI黄)。
- 錯イオン: アンモニア水を加えると、ジアンミン銀(I)イオン [Ag(NH3)2]+ となって溶解します。チオ硫酸ナトリウム水溶液を加えると、ビス(チオスルファト)銀(I)酸イオン [Ag(S2O3)2]3− となって溶解します。これらの性質は、写真の現像・定着プロセスで利用されます。
8. 知識の集大成:金属イオンの系統分離
水溶液中に複数種類の金属イオンが混在しているとき、特定の試薬を順に加えていくことで、各種イオンを沈殿として分離・特定することができます。この操作を金属イオンの系統分離といいます。これは、これまで学んできた沈殿反応、酸・塩基、酸化還元、錯体形成といった無機化学の知識を総動員する、総合的な応用問題です。
8.1. 分離の原理
系統分離の原理は、各金属イオンが、特定の条件下で溶解度の大きく異なる沈殿を形成するという性質を利用することにあります。主に、塩化物、硫化物、水酸化物、炭酸塩としての溶解度の違いを利用して、イオンをグループ分けしていきます。
- 硫化物の沈殿と液性:
- 金属硫化物の溶解度は、水溶液の液性(pH)に大きく依存します。
- 酸性条件 (H2Sを通じる): イオン化傾向が小さい金属イオン($Cu^{2+}, Ag^+$など)だけが、硫化物として沈殿します。
- 塩基性条件 (H2Sを通じる): イオン化傾向がより大きい金属イオン($Zn^{2+}, Fe^{2+}, Ni^{2+}$など)も、硫化物として沈殿します。
- 水酸化物の沈殿:
- 多くの金属イオンは、水酸化物として沈殿しますが、その沈殿が生成し始めるpHは、イオンの種類によって異なります。また、Al, Zn, Sn, Pbなどの両性元素の水酸化物は、過剰の強塩基に再溶解します。
8.2. 分離操作のフロー(代表的な例)
ここでは、一般的な陽イオンの系統分離のフローの概要を示します。
第1属:塩酸で沈殿するイオン (Ag+,Pb2+)
- 操作: 試料溶液に**塩酸(HCl)**を加える。
- 沈殿: AgCl(白), PbCl2(白)。PbCl2は熱水には溶けるので、分離可能。
第2属:酸性条件下、硫化水素で沈殿するイオン ($Cu^{2+}, Cd^{2+}$など)
- 操作: 第1属をろ別した溶液を酸性にし、**硫化水素(H2S)**を通じる。
- 沈殿: CuS(黒), CdS(黄)など、イオン化傾向が小さい金属の硫化物。
第3属:塩基性条件下、硫化水素で沈殿するイオン ($Zn^{2+}, Fe^{2+}, Ni^{2+}$など)
- 操作: 第2属をろ別した溶液に、アンモニア水と塩化アンモニウム(緩衝液)を加えて塩基性にし、**硫化水素(H2S)**を通じる。
- 沈殿: ZnS(白), FeS(黒), NiS(黒)など。
第4属:水酸化物として沈殿するイオン ($Al^{3+}, Fe^{3+}, Cr^{3+}$など)
- 操作: (硫化物分離の前に) 溶液を煮沸してH2Sを追い出し、硝酸で酸化した後、過剰のアンモニア水を加える。
- 沈殿: Al(OH)3(白), Fe(OH)3(赤褐), Cr(OH)3(灰緑)。Al(OH)3とCr(OH)3は両性水酸化物なので、強塩基(NaOH)を加えて分離可能。
第5属:炭酸塩として沈殿するイオン (Ca2+,Sr2+,Ba2+)
- 操作: これまでの操作で沈殿しなかった溶液に、**炭酸アンモニウム((NH4)2CO3)**水溶液を加える。
- 沈殿: CaCO3(白), SrCO3(白), BaCO3(白)。
第6属:最後まで溶液中に残るイオン ($Na^+, K^+, Mg^{2+}$など)
- 操作: これらのイオンは、一般的な試薬では沈殿しにくい。炎色反応などで確認する。
この系統分離のプロセスは、一見すると複雑な暗記作業に思えますが、その各ステップには、溶解度積平衡、酸塩基平衡、錯体形成平衡といった、化学平衡論に基づいた明確な論理が存在しているのです。
Module 10:結論と次への展望
このModule 10では、理論化学の世界から一歩踏み出し、周期表に並ぶ元素たちが織りなす、具体的で個性豊かな無機化学の世界を探求しました。
- 周期律という羅針盤: 私たちは、無機化学の学習が単なる暗記ではなく、周期表という地図を読み解く作業であることを確認しました。元素の周期表上の位置、すなわち電子配置が、その物理的・化学的性質を支配する根本原因であり、同族元素の類似性や周期的な性質の変化は、すべて基本原理から論理的に説明できることを見ました。
- 元素の個性: 私たちは、典型元素(アルカリ金属、ハロゲン、炭素族、窒素族など)が示す明快で「典型的」な性質から、遷移元素が示す複雑でカラフルな性質(多様な酸化数、有色の化合物、錯体形成、触媒能)まで、多種多様な元素の個性に触れました。
- 社会との繋がり: 私たちは、ハーバー・ボッシュ法(アンモニア合成)や接触法(硫酸製造)、ホール・エルー法(アルミニウム製錬)といった工業的製法、そして半導体や合金といった材料を通じて、無機化学が私たちの現代文明を根底から支える、極めて実践的な学問であることを実感しました。
- 知識の統合: 最後に、金属イオンの系統分離というテーマを通じて、沈殿平衡、酸塩基、錯体形成といった、これまで学んだ無機化学の知識を総動員し、問題を解決する論理的な思考プロセスを学びました。
無機化学は、私たちの身の回りの物質世界、地球の地殻から最先端の電子材料まで、その成り立ちと機能を理解するための基礎を与えてくれます。
さて、無機化学が主に炭素以外のすべての元素を扱ってきたのに対し、化学にはもう一つの巨大な領域が存在します。それは、たった一つの元素、「炭素」が主役となる、驚くほど多様で複雑な化合物の世界です。
次の Module 11: 有機化学Ⅰ:構造と官能基 では、いよいよこの有機化学の世界の扉を開きます。なぜ炭素はこれほどまでに多様な化合物を形成できるのか、その構造の基本ルールと、化合物の性質を決定づける「官能基」という概念を学んでいきます。無機化学で培ったマクロな視点から、再び分子レベルのミクロな構造の世界へ。化学の旅は、生命の化学へと繋がる、新たな領域へと進んでいきます。