【基礎 化学】Module 7: 化学反応の速さと平衡
本モジュールの学習目標
Module 6では、化学熱力学の法則を学び、化学反応が自発的に「どちらの方向へ」進むのかをギブズエネルギーという絶対的な指標で予測する力を得ました。ダイヤモンドはいずれ黒鉛に変化する運命にある、という反応の「ポテンシャル」を知ったのです。しかし、私たちの目の前でダイヤモンドが黒鉛に変わることはありません。熱力学は、反応の最終的な目的地は示してくれますが、そこに至る「速さ」や「道のり」については何も教えてくれないのです。
このModule 7では、化学反応のダイナミクスを完全に理解するための、残る二つの重要な側面、すなわち**「反応速度 (How fast?)」と「化学平衡 (How far?)」**を探求します。
前半の反応速度論では、反応が進行するペースを定量的に扱う「反応速度式」から始め、なぜ反応が進むために「活性化エネルギー」という山を越えなければならないのか、そのメカニズムに迫ります。そして、反応速度を自在にコントロールする三つの鍵(濃度、温度、触媒)が、このエネルギーの山にどのように作用するのかを解き明かします。
後半の化学平衡論では、多くの反応が一方的に進むのではなく、生成物から反応物へ戻る「可逆反応」であるという現実に目を向けます。正反応と逆反応の速度が釣り合った動的な「化学平衡」状態を理解し、その状態を普遍的に記述する「平衡定数」、そして平衡が外部の変化にどう応答するかを予測する「ル・シャトリエの原理」という強力な法則を学びます。
このモジュールを修了する時、あなたは化学反応を「方向性(熱力学)」「速さ(速度論)」「限界(平衡論)」という三つの側面から総合的に捉える、真に立体的な視野を獲得しているでしょう。それは、化学という学問の核心に触れる、知的にエキサイティングな旅になるはずです。
1. 変化のペースを測る:反応速度と反応速度式
化学反応の「速さ」を議論するためには、まずそれを客観的な数値として定義し、表現する方法を知る必要があります。この章では、反応速度の定義から始め、その速度が反応物の濃度にどのように依存するかを記述する「反応速度式」について学びます。
1.1. 反応速度の定義
- 反応速度 (Reaction Rate) とは、反応がどれくらいのペースで進行するかを示す尺度です。具体的には、単位時間あたりの、反応物または生成物の濃度変化量として定義されます。
- 例:反応 A→B の場合
- 反応物 A の減少速度で表す場合: v=−ΔtΔ[A]
- 生成物 B の増加速度で表す場合: v=ΔtΔ[B]
- ここで、[A],[B] はそれぞれのモル濃度 [mol/L]、Δt は経過時間 [s] を表します。
- 反応物の濃度は減少していくため、その変化量 Δ[A] は負の値になります。速度 v を正の値にするため、反応物の濃度変化で定義する際には、慣例的にマイナス符号をつけます。
- 係数が1でない場合:
- 反応 aA+bB→cC+dD のように、化学反応式に係数がついている場合、各物質の濃度変化の速さは異なります。
- 例えば、2H2O2→2H2O+O2 という反応では、H2O2 が2 mol 分解する間に、O2 は1 mol しか生成しません。つまり、H2O2 の減少速度は、O2 の生成速度の2倍です。
- このような場合に、反応の種類によらず一意の「反応速度 v」を定義するため、各物質の濃度変化速度をその化学反応式の係数で割る、という操作を行います。v=−a1ΔtΔ[A]=−b1ΔtΔ[B]=c1ΔtΔ[C]=d1ΔtΔ[D]
- このように定義することで、どの物質に着目しても、反応速度 v は同じ値となります。
1.2. 反応速度式:濃度と速度の関係
実験的に、多くの反応において、反応速度は反応物のモル濃度に依存することが知られています。この関係を数式で表したものが反応速度式 (Rate Law / Rate Equation) です。
- 一般的な形式: 反応 aA+bB→生成物 において、反応速度 v は以下のような形で表されることが多くあります。v=k[A]x[B]y
- 式の構成要素:
- v: 反応速度 [mol/(L·s)]
- [A],[B]: 反応物 A, B のモル濃度 [mol/L]
- k: 反応速度定数 (Rate Constant)。濃度には依存せず、温度と触媒によって変化する、その反応に固有の定数です。k が大きいほど、反応は速く進みます。
- x,y: 反応次数 (Reaction Order)。それぞれの反応物が、反応速度にどれくらい影響を与えるかを示す指数です。x を「Aに関する次数」、 y を「Bに関する次数」、そしてその和 (x+y) を「全反応次数(または単に反応次数)」と呼びます。
1.3. 反応次数と係数の重要な違い
【最重要注意点】
反応次数 x,y の値は、化学反応式の係数 a,b とは必ずしも一致しません。
- なぜ一致しないのか?:
- 私たちが見ている化学反応式は、多くの場合、反応全体の入口と出口を示しているに過ぎず、その裏では複数の単純なステップ(素反応)が連続して起こっています。この一連の素反応の連鎖を反応機構 (Reaction Mechanism) といいます。
- 全体の反応速度は、この反応機構の中で最も進行が遅いステップ(律速段階, Rate-Determining Step)によって支配されます。
- 反応速度式は、この律速段階に関与している分子の数や種類を反映するため、全体の化学反応式の係数とは異なる場合が多いのです。
- 反応次数の決定法:
- 反応次数は、理論的に予測することは難しく、実験によってのみ決定されるべき量です。
- 具体的には、一方の反応物の濃度だけを変化させ、もう一方は一定に保ち、そのときの反応速度の変化を測定する、といった実験を繰り返すことで決定されます。
- もし、[A]を2倍にしたら v が2倍になったら、v∝[A]1 なので、Aに関する次数 x=1。
- もし、[A]を2倍にしたら v が4倍になったら、v∝[A]2 なので、Aに関する次数 x=2。
- もし、[A]を2倍にしても v が変化しなかったら、v∝[A]0 なので、Aに関する次数 x=0。
反応速度式は、単に計算のためだけでなく、その反応がどのような素反応のステップを経て進行しているのか、そのミクロなメカニズムを探るための重要な手がかりを与えてくれるのです。
2. 反応へのエネルギー障壁:衝突理論と活性化エネルギー
なぜ反応物同士を混ぜただけで、瞬時に反応が完了しないのでしょうか? なぜ反応を進めるために、しばしば加熱する必要があるのでしょうか? これらの問いに答えるのが、反応が起こるための微視的なメカニズムを説明する衝突理論と活性化エネルギーの概念です。
2.1. 反応が起こるための三つの条件(衝突理論)
反応物の分子が生成物の分子に変化するためには、分子同士がただ出会うだけでは不十分です。衝突理論 (Collision Theory) によれば、反応が起こるためには、以下の三つの条件がすべて満たされた「有効な衝突」が起こる必要があります。
- 衝突すること (Collision):
- 当然ながら、反応する分子同士が出会わなければ、反応は始まりません。分子が衝突する頻度が高いほど、反応速度は大きくなる可能性があります。
- 十分なエネルギーを持つこと (Energy):
- 分子同士がただ軽く接触するだけでは、安定な化学結合を切断し、新しい結合を形成することはできません。
- 衝突する分子は、結合の組み換えを引き起こすのに十分な運動エネルギーを持っている必要があります。
- 適切な向きで衝突すること (Orientation):
- たとえ十分なエネルギーを持っていても、分子がでたらめな方向で衝突しては、反応は起こりにくいです。
- 反応に関与する原子や官能基が、互いに「正面」を向いて、効果的に相互作用できるような、適切な幾何学的配向で衝突する必要があります。
反応速度とは、単位時間あたりに、これら三つの条件をすべて満たした「有効衝突」がどれくらいの頻度で起こるか、によって決まるのです。
2.2. 活性化エネルギー:反応を阻むエネルギーの山
上記の条件のうち、特に重要なのが「エネルギー」の条件です。
- ポテンシャルエネルギー図: 化学反応が進行する際の、系のポテンシャルエネルギーの変化をグラフで考えてみましょう。横軸に「反応の進行度」、縦軸にポテンシャルエネルギーをとります。
- 反応系(出発点)と生成系(到達点)の間には、多くの場合、エネルギー的に非常に高い「山」が存在します。
- この山を越えるために、反応物が最低限持っていなければならないエネルギーのことを活性化エネルギー (Activation Energy) といい、記号 Ea で表します。
- 活性化エネルギーの定義:反応を起こすのに必要な、最小のエネルギー。または、反応物と、エネルギーが最も高い遷移状態とのエネルギー差。
- 遷移状態(活性化錯合体):
- エネルギーの山の頂上に相当する、極めて不安定な状態を遷移状態 (Transition State) といいます。
- この状態では、古い結合が切れかかり、新しい結合が形成されかかっている、中途半端で寿命の短い原子の複合体(活性化錯合体, Activated Complex)が形成されていると考えられます。
- 反応とは、反応物がこの活性化エネルギーの山を乗り越え、遷移状態を経て、より安定な生成物へと転がり落ちていくプロセスなのです。
2.3. 活性化エネルギーと反応速度の関係
活性化エネルギーは、反応の「進みにくさ」の指標です。
- 活性化エネルギーが大きいほど:
- 乗り越えるべきエネルギーの山が高く、険しいことを意味します。
- 有効衝突の条件を満たす分子の割合が非常に少なくなるため、反応速度は遅くなります。
- 活性化エネルギーが小さいほど:
- 乗り越えるべきエネルギーの山が低く、なだらかであることを意味します。
- 多くの分子が容易に山を越えることができるため、反応速度は速くなります。
ダイヤモンドが常温で黒鉛に変化しないのは、この反応の活性化エネルギーが非常に大きいため、常温ではほとんどの炭素原子がこのエネルギーの山を越えることができないからです。
3. 反応速度を操る三つの鍵:濃度・温度・触媒
反応速度式 v=k[A]x[B]y と活性化エネルギーの概念を理解した今、私たちは反応速度を変化させる要因が、具体的にどのように作用するのかを、分子レベルで説明することができます。反応速度をコントロールする主な要因は、濃度、温度、触媒の三つです。
3.1. 濃度 (Concentration) の影響
- 現象: 一般に、反応物の濃度を高くすると、反応速度は大きくなります。
- メカニズム(衝突理論による説明):
- 濃度が高いということは、単位体積あたりに存在する反応物分子の数が多いことを意味します。
- 分子の数が多いほど、分子同士が衝突する頻度が単純に増加します。
- 衝突頻度が増えれば、それに比例して、有効衝突の回数も増加するため、結果として反応速度が大きくなるのです。
- この関係は、反応速度式 v=k[A]x[B]y に直接的に反映されています。
3.2. 温度 (Temperature) の影響
- 現象: 一般に、温度を高くすると、反応速度は著しく大きくなります。
- 多くの場合、「温度が10℃上昇すると、反応速度は約2~3倍になる」という経験則が知られています。
- メカニズム(活性化エネルギーとの関係):
- 温度を上げると、衝突頻度もわずかに増加しますが、それだけでは速度の著しい増加を説明できません。より本質的な理由は、活性化エネルギー Ea 以上のエネルギーを持つ分子の「割合」が、指数関数的に増加することです。
- マクスウェル・ボルツマン分布: 気体分子の運動エネルギーの分布は、マクスウェル・ボルツマン分布という曲線で表されます。このグラフを見ると、温度が高くなるほど、曲線全体がエネルギーの高い方へシフトし、裾野が広がります。
- つまり、温度を上げることで、活性化エネルギーという「クリア基準」を超えるエネルギーを持った分子の数が、単なる比例関係ではなく、爆発的に増えるのです。これが、温度が反応速度に絶大な影響を与える理由です。
- この関係は、スウェーデンの科学者アレニウスによって、反応速度定数 k と絶対温度 T の関係式(アレニウスの式)として定量化されました。k=Ae−Ea/RT(Aは頻度因子、Rは気体定数)
3.3. 触媒 (Catalyst) の影響
- 定義: それ自身は反応の前後で変化しないが、反応に存在することで、反応速度を変化させる物質。
- 反応速度を大きくするものを正触媒(単に触媒という場合はこれを指すことが多い)。
- 反応速度を小さくするものを負触媒または反応抑制剤といいます。
- メカニズム(活性化エネルギーとの関係):
- 触媒は、反応物や生成物のエネルギー状態を変えるのではなく、反応が経由する「反応経路」そのものを変えます。
- 具体的には、触媒は反応物と一時的に結合するなどして、元の反応とは異なる、より低い活性化エネルギー (Ea′<Ea) を持つ新しい反応経路を提供するのです。
- エネルギーの山が低くなることで、それを越えられる分子の割合が劇的に増加し、結果として反応速度が飛躍的に増大します。
- 触媒の重要な特徴:
- 反応熱(ΔH)を変えない: 触媒は反応物と生成物のエネルギー準位には影響しないため、その差である反応熱(エンタルピー変化)は変化しません。
- 平衡の位置を変えない: 触媒は、正反応と逆反応の両方の活性化エネルギーを同じだけ下げるため、両方の反応速度を同じ割合で大きくします。その結果、反応が平衡状態に達する**「速さ」を上げることはできますが、最終的に到達する「平衡の位置(平衡定数)」を変えることはありません**。
- 触媒の種類:
- 均一触媒: 反応物と触媒が同じ相(気体、液体など)にある場合。(例:酢酸ビニル合成における酢酸パラジウム(II)触媒)
- 不均一触媒: 反応物と触媒が異なる相にある場合。固体触媒の表面で気体や液体の反応が起こるケースが多い。(例:ハーバー・ボッシュ法における鉄系触媒、自動車の排ガス浄化触媒)
- 酵素 (Enzyme): 生体内で働くタンパク質を主成分とする触媒。非常に高い反応選択性(基質特異性)と、穏やかな条件(常温、常圧、中性付近のpH)で驚異的な反応促進能を示す、究極の触媒です。
4. 止まらない変化の到達点:可逆反応と化学平衡
これまでの議論では、化学反応を A → B のように、反応物が生成物へと一方的に変化するプロセスとして扱ってきました。しかし、現実の化学反応の多くは、それほど単純ではありません。生成物が再び反応物へと戻る、逆方向の反応も同時に起こりうるのです。この章では、化学反応のより現実に即した姿である「可逆反応」と、その反応が最終的に行き着く動的な「化学平衡」状態について探求します。
4.1. 可逆反応:一方通行ではない化学の道
- 不可逆反応 (Irreversible Reaction):
- 反応が実質的に一方向にしか進行しない反応。生成物が非常に安定であったり、反応系から気体として逃げてしまったりする場合などに見られます。
- 例:燃焼反応 (CH4+2O2→CO2+2H2O)
- 可逆反応 (Reversible Reaction):
- 定義: 同じ条件下で、正反応(左から右へ進む反応)と逆反応(右から左へ進む反応)の両方が起こりうる反応。
- 化学反応式では、一方向の矢印(→)の代わりに、**両方向を向いた矢印(⇌)**を用いて表します。
- 例:アンモニアの合成(ハーバー・ボッシュ法)N2+3H2⇌2NH3この式は、窒素と水素が反応してアンモニアを生成する正反応と、アンモニアが分解して窒素と水素に戻る逆反応が、同時に起こりうることを示しています。
4.2. 化学平衡:静止ではなく、動的な釣り合いの状態
密閉容器の中で可逆反応を開始させると、何が起こるでしょうか。
- 反応開始直後:
- 容器内には反応物(例:N2,H2)しか存在しないため、正反応の速度は最大です。逆反応は、生成物(例:NH3)が存在しないため、まだ起こりません(逆反応速度=0)。
- 反応の進行:
- 正反応が進むにつれて、反応物の濃度は減少し、生成物の濃度は増加していきます。
- 反応物の濃度が減少するため、正反応の速度は次第に遅くなっていきます。
- 一方で、生成物の濃度が増加するため、逆反応の速度は次第に速くなっていきます。
- 平衡状態への到達:
- やがて、遅くなっていく正反応の速度と、速くなっていく逆反応の速度が、ついに等しくなる瞬間が訪れます。(正反応の速度 v1)=(逆反応の速度 v2)
- この状態に達すると、単位時間あたりに生成物ができる量と、反応物に戻る量が釣り合っているため、系全体の物質の濃度(反応物、生成物)は、もはや変化しなくなります。見かけ上、反応が停止したかのように見えるこの状態を、化学平衡 (Chemical Equilibrium) といいます。
【最重要概念】化学平衡は、反応が止まった静的な状態ではありません。
ミクロな視点で見れば、正反応も逆反応も、依然として活発に起こり続けています。ただ、その二つの変化のペースが完全に釣り合っているために、マクロな視点では変化が見えなくなっているだけなのです。これは、満員のエスカレーターで、上っていく人の数と下っていく人の数が同じであれば、エスカレーター上の総人数は変わらないのと似ています。このような動的な釣り合いの状態を、特に動的平衡 (Dynamic Equilibrium) と呼びます。
4.3. 化学平衡とギブズエネルギー
化学平衡の状態は、Module 6で学んだギブズエネルギーの観点からも説明できます。
- 化学反応は、系のギブズエネルギー(G)が減少する方向(ΔG<0)に自発的に進みます。
- 反応が進行し、反応物と生成物が混じり合うにつれて、系のギブズエネルギーはどんどん低下していきます。
- そして、これ以上ギブズエネルギーが低下できない、エネルギーの谷底に到達した状態が、まさに化学平衡の状態です。
- このエネルギーの谷底では、ギブズエネルギーの変化量はゼロ(ΔG=0)となり、系はそれ以上自発的にどちらかの方向へ変化することはありません。
化学平衡とは、速度論的には「正逆の反応速度が等しい状態」であり、熱力学的には「ギブズエネルギーが最小になった状態」なのです。この二つの視点は、同じ山頂を異なるルートから眺めているようなもので、本質的には同じ状態を指しています。
5. 平衡を支配する法則:平衡定数とル・シャトリエの原理
化学平衡は、一見すると反応が止まってしまったかのような、変化のない状態です。しかし、その静寂の裏には、反応の最終的な到達点を規定する、普遍的な量的法則が隠されています。この章では、平衡状態を定量的に記述する「平衡定数」と、平衡が外部の変化にどう応答するかを予測する「ル・シャトリエの原理」という、化学平衡論の二大巨頭を学びます。
5.1. 平衡定数(K):平衡状態の量的記述
1864年、ノルウェーの化学者グルベルグとボーゲは、多くの可逆反応を研究する中で、平衡状態にあるとき、反応物と生成物の濃度間に、温度が一定ならば常に成り立つ単純な関係があることを発見しました(質量作用の法則)。
- 濃度平衡定数 (Kc):
- 可逆反応 aA+bB⇌cC+dD が平衡状態にあるとき、以下の式で定義される値 Kc は、温度が一定であれば、反応を開始したときの初濃度によらず、常に一定の値をとります。Kc=[A]a[B]b[C]c[D]d
- この Kc を濃度平衡定数といいます。式の分母には反応物(左辺の物質)のモル濃度、分子には生成物(右辺の物質)のモル濃度が入り、それぞれの濃度には化学反応式の係数が指数として乗じられます。
- 平衡定数の意味:
- 平衡定数 K の値は、その反応が平衡状態に達したときに、どれだけ生成物側に偏っているかを示す指標です。
- K≫1(例: 1010): 平衡は大きく**右(生成物側)**に偏いています。反応はほぼ完全に進行し、平衡時にはほとんどが生成物になっています。
- K≪1(例: 10−10): 平衡は大きく**左(反応物側)**に偏いています。正反応はほとんど進行せず、平衡時にはほとんどが反応物のままです。
- K≈1: 平衡状態では、反応物と生成物がかなりの量で共存しています。
- 平衡定数 K の値は、その反応が平衡状態に達したときに、どれだけ生成物側に偏っているかを示す指標です。
- 平衡定数の重要な性質:
- 温度にのみ依存: 平衡定数 K の値は、温度によってのみ変化します。濃度や圧力を変えても、K の値そのものは変わりません(系は K の値を保つように変化します)。
- 固体の濃度: 固体の濃度は、その密度によって決まる一定値と見なせるため、平衡定数の式には含めません。([固体] = 1 として扱います)
- 溶媒の濃度: 水溶液中の反応で、水が反応に関与する場合でも、多量に存在する溶媒である水の濃度はほぼ一定と見なせるため、同様に式には含めません。([H2O] = 1 として扱います)
- 圧平衡定数 (Kp):
- 気体が関与する反応では、モル濃度の代わりに分圧を用いて平衡定数を定義することがあります。これを圧平衡定数 (Kp) といいます。Kp=PAa⋅PBbPCc⋅PDd
- Kc と Kp の間には、Kp=Kc(RT)Δn という関係があります。(Δn は(生成物の気体分子の係数の和)-(反応物の気体分子の係数の和))
5.2. ル・シャトリエの原理:変化に対する系の応答法則
平衡状態は、繊細なバランスの上に成り立っています。もし、この平衡状態にある系に、外部から何らかの変化(ストレス)を加えたら、系はどのように応答するのでしょうか? この問いに答えるのが、フランスの化学者アンリ・ル・シャトリエが見出した、極めて強力な経験則です。
ル・シャトリエの原理 (Le Chatelier’s Principle):
「可逆反応が平衡状態にあるとき、濃度、圧力、温度といった条件を変化させると、その変化を和らげる(緩和する)方向に平衡が移動する。」
これは、系が外部からの変化に対して「抵抗」し、できるだけ元の安定な状態を維持しようとする、一種の自己調整機能と解釈できます。
5.3. 各要因の変化と平衡の移動
ル・シャトリエの原理を、具体的な条件変化に適用してみましょう。
(1) 濃度変化の影響
- 原理の適用:
- ある物質の濃度を増加させると → その物質を消費して減少させる方向に平衡が移動する。
- ある物質の濃度を減少させると → その物質を生成して増加させる方向に平衡が移動する。
- 例: N2+3H2⇌2NH3 の平衡系で…
- N2 を加える → N2 を減らすため、正反応が進む(平衡は右に移動)。結果として、H2 は減少し、NH3 は増加する。
- NH3 を取り除く → NH3 を増やすため、正反応が進む(平衡は右に移動)。
- 本質的な理由: 平衡定数 Kc=[N2][H2]3[NH3]2 の値は、温度が一定なら変わりません。例えば、N2 を加えて分母の [N2] を大きくすると、この比の値(濃度商)は一時的に Kc より小さくなります。系は再び比の値を Kc に戻すために、分子の [NH3] を増やし、分母の [N2],[H2] を減らす方向、すなわち正反応の方向へ進むのです。
(2) 圧力変化の影響(気体反応の場合)
- 原理の適用:
- 全圧を増加させる(体積を減少させる)と → 圧力を減少させる方向、すなわち気体の総分子数が減少する方向に平衡が移動する。
- 全圧を減少させる(体積を増大させる)と → 圧力を増加させる方向、すなわち気体の総分子数が増加する方向に平衡が移動する。
- 例: N2(g)+3H2(g)⇌2NH3(g) の平衡系で…
- 反応物(左辺)の気体分子数は 1+3=4 mol、生成物(右辺)は 2 mol。
- 圧力を上げる → 分子数を減らすため、正反応が進む(平衡は右に移動)。
- 注意:
- 反応の前後で気体の総分子数が変化しない反応(例: H2(g)+I2(g)⇌2HI(g))では、圧力を変えても平衡は移動しません。
- 窒素やアルゴンのような、反応に関与しない不活性ガスを加えた場合の効果は、条件によって異なります。
- 体積一定で加えた場合:全圧は増加しますが、各反応気体の分圧は変化しないため、平衡は移動しません。
- 全圧一定で加えた場合:全圧を一定に保つために容器の体積が増加し、各反応気体の分圧は減少します。これは系全体の圧力を下げたのと同じ効果をもたらすため、気体分子数が増加する方向へ平衡が移動します。
(3) 温度変化の影響
- 原理の適用:
- 温度を上げる(加熱する)と → 熱を吸収して温度を下げる方向、すなわち吸熱反応の向きに平衡が移動する。
- 温度を下げる(冷却する)と → 熱を発生させて温度を上げる方向、すなわち発熱反応の向きに平衡が移動する。
- 例: N2(g)+3H2(g)⇌2NH3(g)ΔH=−92 kJ (発熱反応)
- この反応は、正反応が発熱反応、逆反応が吸熱反応です。
- 温度を上げる → 吸熱反応である逆反応が進む(平衡は左に移動)。アンモニアの収率は低下します。
- 温度を下げる → 発熱反応である正反応が進む(平衡は右に移動)。アンモニアの収率は向上します。
- 本質的な理由: 温度変化は、ル・シャトリエの原理を説明するだけでなく、平衡定数 K の値そのものを変化させる唯一の要因です。
- 発熱反応では、温度を上げると K は小さくなります。
- 吸熱反応では、温度を上げると K は大きくなります。
(4) 触媒の影響
- 原理の適用: 触媒は、正反応と逆反応の両方の活性化エネルギーを同じだけ下げ、両方の反応速度を同じ割合で速めます。
- 結論: 触媒を加えても、平衡状態における反応物と生成物の比率(平衡の位置)は全く変化しません。したがって、平衡は移動しません。
- 触媒の役割: 平衡に達するまでの時間を短縮すること。
5.4. 工業化学への応用:ハーバー・ボッシュ法
ル・シャトリエの原理と反応速度論は、化学工業において、目的物質の収率を最大化するために不可欠な考え方です。その最も古典的で有名な例が、空気中の窒素からアンモニアを合成するハーバー・ボッシュ法です。
N2(g)+3H2(g)⇌2NH3(g)ΔH=−92 kJ
- 平衡論(収率)からの要請:
- 圧力: 右辺の方が気体分子数が少ないので、高圧であるほど平衡は右に移動し、収率は上がる。
- 温度: 正反応は発熱反応なので、低温であるほど平衡は右に移動し、収率は上がる。
- 速度論(効率)からの要令:
- 温度: 低温では反応速度が極めて遅く、実用的な時間で平衡に達しない。反応速度を上げるためには高温が必要。
- 工業的最適化(トレードオフの克服):
- この「低温・高収率」と「高温・高速度」という、相反する要求(トレードオフ)を解決するために、ドイツの化学者フリッツ・ハーバーとカール・ボッシュは、高温でも効率的に反応を進めることができる鉄を主成分とする触媒を開発しました。
- これにより、反応速度を犠牲にすることなく、比較的穏当な高温(400~500℃)で、かつ高圧(200~300気圧)という条件を組み合わせることで、工業的なアンモニア生産が可能になったのです。これは、化学の理論が、食糧生産(化学肥料の原料)を支える巨大な産業技術へと結実した、輝かしい例と言えます。
Module 7:結論と次への展望
このModule 7で、私たちは化学反応のダイナミクスを支配する二つの大きな柱、反応速度論と化学平衡論を探求しました。
- 反応速度論(How fast?): 私たちは、反応が進行するペースである反応速度が、反応物の濃度に依存すること(反応速度式)、そして反応が進むためには活性化エネルギーというエネルギーの山を越える必要があることを学びました。さらに、濃度、温度、触媒という三つの要因が、このエネルギーの山への挑戦者(分子)の数や、山の高さそのものに影響を与えることで、反応速度を劇的に変化させるメカニズムを理解しました。
- 化学平衡論(How far?): 私たちは、多くの反応が一方通行ではなく、正逆両方向に進む可逆反応であり、最終的に化学平衡という動的な釣り合いの状態に達することを知りました。この平衡状態は、平衡定数という普遍的な定数によって定量的に記述され、その位置はル・シャトリエの原理に従って、外部からの変化に応答することを学びました。
Module 6の化学熱力学が反応の「方向性」(ΔG)を示し、そしてこのModule 7が反応の「速さ」(v,k,Ea)と「限界」(K)を明らかにしたことで、私たちは今や、化学反応という現象を、その主要な三つの側面から総合的に把握するための、強力な理論的枠組みを手に入れたことになります。
これまでのモジュールで学んできたのは、化学の世界を貫く、普遍的で一般的な法則でした。次のステージからは、これらの普遍的な原理を、より具体的で、私たちの身の回りに深く関わる化学の各分野へと適用していきます。
次の Module 8: 酸・塩基と水溶液の化学 では、化学反応の中でも最も基本的で重要なものの一つである、酸と塩基の反応を深掘りします。pH、中和、緩衝液といった概念は、すべてこのモジュールで学んだ化学平衡の原理に基づいています。化学反応の一般論から、具体的な物質が織りなす水溶液中の化学へ。私たちの旅は、新たな章へと進みます。