【基礎 物理(原子)】Module 3:光の粒子性(2)コンプトン効果
本モジュールの目的と構成
Module 2では、アインシュタインの光量子仮説が、光電効果という不可解な現象をいかに鮮やかに解き明かしたかを見てきました。光がエネルギーの塊、すなわち「光子」として振る舞うという考えは、古典物理学の常識を覆す革命的なものでした。しかし、科学の世界では、一つの理論が完全に受け入れられるためには、複数の、そして独立した実験的証拠によってその正しさが裏付けられる必要があります。光電効果は、光がエネルギーの「粒」として物質と相互作用することを示しましたが、粒子が粒子であるためのもう一つの決定的な性質、すなわち「運動量」については、まだ直接的な証拠がありませんでした。
もし光子が本当にビリヤードの球のような粒子なのだとすれば、それは電子のような他の粒子と衝突した際に、エネルギーだけでなく運動量も保存則に従ってやり取りするはずです。この「粒子としての光」の決定的な証拠を求めて行われたのが、アメリカの物理学者アーサー・コンプトンによるX線の散乱実験でした。
本モジュールでは、この「コンプトン効果」と呼ばれる現象を深く探求していきます。驚くべきことに、その探求の舞台となるX線は、コンプトンの実験のわずか10年ほど前に、結晶による回折現象が確認され、その「波動性」が確固たるものと信じられていたばかりでした。まさにそのX線が、光の粒子性を最も雄弁に物語る証人となったのです。この物語は、物理学がいかに逆説的で、奥深いものであるかを私たちに教えてくれます。
本モジュールは、以下の学習項目で構成されています。まずX線そのものの性質と、その波動性の確立という歴史的背景から始め、コンプトンが発見した驚くべき実験事実、そしてそれが古典物理学といかに矛盾するかを明らかにします。
- X線の発見とその性質: まず、コンプトン効果の主役であるX線が、どのように発見され、どのような性質を持つのか、その基本的な知識を学びます。
- X線の波動性(回折・干渉): コンプトン効果の衝撃を理解するための前提として、X線が結晶格子によって回折するという、その「波動性」を証明した決定的な証拠について学びます。
- コンプトン効果の実験結果: アーサー・コンプトンが行った歴史的な実験の概要と、彼が発見した、古典物理学の予測を裏切る驚くべき観測事実を正確に把握します。
- 散乱X線の波長が長くなる現象: コンプトン効果の核心である、散乱されたX線の波長が元々の波長よりも長くなる、という現象の詳細とその定性的な意味を探ります。
- 光の波動説では説明できない理由: なぜ、確立されていたはずの光の波動説が、この「波長が長くなる」という単純な事実を全く説明できないのか、その論理的な矛盾を徹底的に解き明かします。
- 光子と電子の衝突という描像: この行き詰まりを打破するためにコンプトンが採用した、X線を「光子」、電子を「粒子」と見立て、両者の衝突として捉えるという、革命的な発想の転換について学びます。
- 光子の運動量の定義(p = h/λ): 衝突現象を解析するために不可欠な、光子が持つ「運動量」の定義とその物理的意味を理解します。
- エネルギー保存則と運動量保存則の適用: 光子と電子の衝突という描像に、物理学の最も基本的な二つの保存則を適用し、現象を数学的にモデル化するプロセスを追体験します。
- コンプトン散乱の理論的説明: 二つの保存則から、実験結果を寸分の違いなく説明する「コンプトンの式」を導出し、理論と実験の美しい一致を確認します。
- 光の粒子性の確固たる証拠: なぜコンプトン効果が、光の粒子性を疑いようのない事実として物理学の世界に確立させた、決定的な証拠と見なされているのか、その歴史的意義を総括します。
このモジュールを通じて、皆さんは光子がエネルギーだけでなく運動量をも備えた、完全な「粒子」として振る舞う瞬間を目撃することになります。これは、「波と粒子の二重性」という量子論の中心概念を、より深く、そして確信をもって理解するための、極めて重要なステップとなるでしょう。
1. X線の発見とその性質
コンプトン効果の物語を始める前に、その主役である「X線」について理解を深めておく必要があります。X線は、19世紀末の物理学における一連の驚くべき発見の一つであり、その正体不明な性質と驚異的な透過能力によって、科学界だけでなく社会全体に大きな衝撃を与えました。その発見は、原子物理学の黎明期を告げる重要な出来事でした。
1.1. レントゲンによる偶然の発見
X線は、1895年11月8日、ドイツの物理学者ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンによって、全くの偶然から発見されました。彼は当時、多くの物理学者が研究していた陰極線(Module 1参照)の性質を調べるため、黒い厚紙で完全に覆ったクルックス管(陰極線管)を用いて実験を行っていました。可視光が一切漏れ出さないようにした暗室で放電実験を行っていたところ、管から少し離れた机の上に置いてあった蛍光紙(シアン化白金バリウムを塗った紙)が、緑色にぼんやりと光っていることに気づきました。
放電を止めると蛍光は消え、再び放電させるとまた光りだします。彼は、陰極線管から、黒い厚紙を透過する、未知の「何か」が放出されているに違いないと直感しました。陰極線そのものは、空気中を数センチメートルしか進めないことが知られていたため、これは陰極線とは別の、新しい種類の放射線であると考えられました。
レントゲンは、この未知の放射線の性質を徹底的に調べ始めました。彼は、この放射線が、紙だけでなく、薄い金属板や木片なども透過する、驚異的な透過力を持つことを見出しました。そして、自身の妻の手を、この放射線を使って写真乾板に写し出した有名な実験では、肉は透過し、骨は影として写ることを発見し、医学的な応用の可能性を世界に示しました。
その正体が全く不明であったため、レントゲンは数学で未知数を表す「X」の文字を使い、この新しい放射線を「X線(X-ray)」と名付けました。この謙虚な仮の名称が、今日まで使われ続けています。この偉大な発見により、レントゲンは1901年、記念すべき第1回のノーベル物理学賞を受賞しました。
1.2. X線の基本的な性質
レントゲンをはじめとする多くの科学者たちのその後の研究により、X線の基本的な性質が次々と明らかにされていきました。
- 高い透過性: X線の最も顕著な特徴は、物質を透過する能力が高いことです。この透過の度合いは、物質の密度や原子番号に依存します。密度が高い物質(骨や金属など)ほど透過しにくく、密度が低い物質(筋肉や脂肪などの軟部組織)ほど透過しやすいです。この性質が、レントゲン写真(X線撮影)として、医療診断や非破壊検査に応用されています。
- 電場・磁場による不偏向: X線の進路に電場や磁場をかけても、陰極線(電子の流れ)のように軌道が曲がることはありませんでした。この事実は、X線が電荷を持っていないことを示しています。
- 直進性: 陰極線と同様に、X線も光源から直進します。X線の進路に物体を置くと、はっきりとした影ができます。
- 写真作用・蛍光作用: X線は、写真乾板を感光させたり(写真作用)、特定の物質に当たって蛍光を発させたり(蛍光作用)します。レントゲンがX線を発見したのも、この蛍光作用がきっかけでした。
- 電離作用: X線が気体を通過すると、その気体分子から電子を弾き出し、イオン化する作用(電離作用)があります。この性質は、放射線の検出器や、がん治療(放射線治療)などに応用されています。
これらの性質、特に電荷を持たず、高い透過性を持つという点は、X線が光(可視光)と同じ電磁波の仲間であり、ただ可視光よりもずっと波長が短く、エネルギーが高いのではないか、という推測を生みました。しかし、もしX線が本当に波なのであれば、波に特有の現象である「回折」や「干渉」を示すはずです。この最後のピースを埋めることが、X線の正体を決定づける上での最大の課題となりました。
2. X線の波動性(回折・干渉)
X線の正体を巡る議論は、発見から十数年間にわたって続きました。その性質の多くは、X線が極めて波長の短い電磁波であることを示唆していましたが、決定的な証拠、すなわち波の最大の特徴である「回折」と「干渉」の現象が、なかなか観測できなかったのです。この難問に終止符を打ち、X線の波動性を確立したのが、ドイツの物理学者マックス・フォン・ラウエとその共同研究者たちによる、歴史的な実験でした。
2.1. 回折現象を観測する難しさ
まず、なぜX線の回折を観測するのが難しかったのか、その理由を理解しておく必要があります。
**回折(Diffraction)**とは、波が障害物の後ろ側に回り込んだり、スリット(隙間)を通過した後に広がったりする現象です。この回折が顕著に起こるための条件は、「波の波長と、障害物やスリットの大きさが、同程度であること」です。
例えば、海の波は、防波堤の隙間を通過すると、その後ろに回り込むように広がっていきます。これは、波の波長(数メートルから数十メートル)と、防波堤の隙間の大きさが同程度だからです。しかし、可視光(波長が約 400 nm ~ 800 nm)を、ドアの隙間(数センチメートル)に通しても、はっきりとした回折は見られません。光の波長が、隙間の大きさに比べてあまりにも小さすぎるため、ほぼ直進してしまうからです。
可視光の回折を観測するためには、「回折格子(Diffraction Grating)」という、1 mm あたりに数百から数千本もの非常に細いスリットを、等間隔に並べた道具が用いられます。
科学者たちは、X線が非常に波長の短い電磁波であると推測していました。もしそうなら、X線の回折を観測するためには、可視光用の回折格子よりも、さらに桁違いに間隔の狭いスリットが必要になります。しかし、そのような微細な構造を人工的に作り出すことは、当時の技術では不可能でした。
2.2. ラウエの閃き:「結晶を回折格子として使う」
この行き詰まりを打破したのが、1912年、マックス・フォン・ラウエの天才的な閃きでした。彼は、ミュンヘン大学の同僚との議論の中で、全く異なる二つの分野の知識を結びつけました。
- 一方の知識: 物理学の世界では、X線の波長が \(10^{-10}\) m(0.1 nm)のオーダーではないかと推測されていた。
- もう一方の知識: 結晶学の世界では、結晶とは、原子や分子がまるでジャングルジムのように、三次元的に規則正しく周期的に配列した構造を持つと考えられていた。そして、その原子間の距離も、奇しくも \(10^{-10}\) m のオーダーであると見積もられていた。
ラウエは、この二つの事実が一致していることに気づき、次のような大胆な仮説を立てました。
「もし、結晶が本当に原子の規則的な配列でできているのなら、その原子の配列そのものが、X線に対する天然の三次元的な回折格子として機能するのではないか?」
人工的に作れないのなら、自然界に存在する究極の微細構造、すなわち原子の結晶格子を利用すればよい、と考えたのです。
2.3. ラウエ実験とブラッグの法則による波動性の確立
ラウエのアイデアに基づき、彼の共同研究者であるフリードリッヒとクニッピングは、早速実験を行いました。彼らは、硫酸銅の結晶に細く絞ったX線のビームを照射し、結晶を透過したX線を、その後ろに置いた写真乾板で捉えました。
もしX線が粒子線であり、回折しないならば、写真乾板には結晶の影と、中心に透過したX線のスポットが写るだけのはずです。しかし、現像された乾板に現れたのは、中心のスポットの周りに、幾何学的に規則正しく配置された、多数の斑点模様でした。これは「ラウエ斑点」と呼ばれ、X線が結晶格子によって回折・干渉を起こした結果、特定の方向にだけ強く進む波が作り出した干渉縞に他なりませんでした。
この実験の成功は、二つの偉大な事実を同時に証明しました。
- X線は、紛れもなく波動である。
- 結晶は、原子が規則正しく配列した格子構造を持つ。
その後、イギリスの物理学者であるブラッグ親子(ウィリアム・ヘンリー・ブラッグとウィリアム・ローレンス・ブラッグ)は、ラウエの発見をさらに発展させました。彼らは、X線の回折を、結晶内部の規則正しく並んだ原子面(格子面)からの「反射」が、互いに強め合う条件として捉え直しました。
これにより、隣り合う原子面で反射したX線の経路差が、波長の整数倍になるときに強い反射が起こる、という非常にシンプルで強力な条件式を導き出しました。これが「ブラッグの条件」または「ブラッグの法則」です。
\[ 2d \sin\theta = n\lambda \]
(ここで \(d\) は格子面の間隔、\(\theta\) は格子面とX線のなす角、\(\lambda\) はX線の波長、\(n\) は整数)
ブラッグの法則を用いることで、X線の回折が起こる角度を測定すれば、逆にX線の波長 \(\lambda\) や、結晶の格子面間隔 \(d\) を精密に決定できるようになりました。
こうして、ラウエの発見とブラッグの法則によって、X線の正体は、可視光よりもはるかに波長が短く(約 0.01 nm ~ 10 nm)、エネルギーの高い電磁波であるということが、疑いようのない事実として確立されたのです。この「波動性の確立」という背景があったからこそ、後にコンプトンが発見したX線の粒子的な振る舞いが、物理学界にこれほどまでの衝撃を与えることになったのです。
3. コンプトン効果の実験結果
X線が結晶格子によって回折するという事実が明らかになり、その波動性は物理学の世界で広く受け入れられていました。X線は、単に波長の短い光(電磁波)の一種である。これが1920年代初頭の共通認識でした。しかし、まさにそのX線を用いて物質による散乱を研究していたアメリカの物理学者アーサー・コンプトンは、この常識的な描像では説明のつかない、奇妙な現象に遭遇します。彼の精密な実験が明らかにした事実は、アインシュタインの光量子仮説の正しさを裏付ける、第二の、そして極めて強力な証拠となるものでした。
3.1. コンプトンの実験設定
コンプトンが1923年に行った実験の目的は、「物質中の電子によってX線がどのように散乱されるか」を詳しく調べることでした。彼の実験装置は、主に以下の要素から構成されていました。
- X線源:モリブデンなどの金属ターゲットから発生する、特定の波長を強く含むX線(特性X線)を、単色X線(ほぼ単一の波長 \(\lambda_0\) を持つX線)として利用しました。
- 散乱体(ターゲット):グラファイト(炭素)の塊のような、比較的軽い元素で構成された物質を用いました。軽い元素の原子では、外側の電子は原子核との結びつきが比較的弱く、ほぼ「自由な電子」と見なすことができるため、現象を単純化して捉えることができます。
- X線分光器(スペクトロメーター):これがコンプトンの実験の核心部分です。彼は、方解石などの結晶と電離箱(X線検出器)を組み合わせた精密な分光器を開発しました。この装置を、散乱体の周りを回転できるゴニオメーター(角度計)に乗せることで、入射X線に対して様々な角度(散乱角 \(\theta\))に散乱されたX線の波長 \(\lambda’\) とその強度を、非常に高い精度で測定することができました。
実験の手順は、
- 単色X線(波長 \(\lambda_0\))をグラファイトのターゲットに照射する。
- ある特定の散乱角 \(\theta\)(例えば、\(\theta = 45^\circ, 90^\circ, 135^\circ\) など)を設定し、その方向に散乱されてくるX線を分光器で捉える。
- 分光器を用いて、散乱X線の波長の分布(スペクトル)と強度を測定する。
- 散乱角 \(\theta\) を変えて、同様の測定を繰り返す。
というものでした。
3.2. 古典論からの予測
もし、X線が純粋な波動であるならば、この実験で何が観測されるはずでしょうか。
古典的な電磁気学によれば、物質に電磁波が入射すると、物質内の電子が、入射波と同じ振動数で強制的に振動させられます。そして、振動する荷電粒子(電子)は、それ自体がアンテナのように振る舞い、周囲に電磁波を再放射します。この現象が「トムソン散乱」として知られており、これがX線散乱の古典的な描像です。
この描像から導かれる予測は、極めて明確です。
【古典論の予測】: 散乱されるX線は、電子を振動させた元の入射X線と、全く同じ振動数、すなわち全く同じ波長を持つはずである。したがって、どの散乱角 \(\theta\) で観測しても、散乱X線の波長は、入射X線の波長 \(\lambda_0\) と等しくなるはずである。
つまり、グラフ(横軸:波長、縦軸:強度)を描けば、入射X線と同じ波長 \(\lambda_0\) の位置に、一本の鋭いピークが観測されるだけ、と予測されていました。
3.3. 予測を裏切る実験結果
しかし、コンプトンが精密な測定の末に得た実験結果は、この単純な予測を完全に裏切るものでした。
【実験事実】: 散乱角 \(\theta\) がゼロでない限り、散乱X線には、元の入射X線と同じ波長 \(\lambda_0\) の成分に加えて、それよりも波長が長い**、新たな波長 \(\lambda’\) (ただし \(\lambda’ > \lambda_0\)) の成分が観測された。**
つまり、観測されたスペクトルには、ピークが二つ現れたのです。
- ピークA: 元の波長 \(\lambda_0\) と同じ位置に現れる成分。
- ピークB: 元の波長 \(\lambda_0\) よりも長い、\(\lambda’\) の位置に現れる成分。
さらに、この新しいピークBの性質を詳しく調べると、以下の驚くべき規則性があることがわかりました。
- 波長のずれ(シフト)の散乱角依存性:元の波長からのずれの大きさ、すなわち波長シフト \(\Delta \lambda = \lambda’ – \lambda_0\) は、散乱角 \(\theta\) が大きいほど、大きくなる。
- 散乱角 \(\theta = 0^\circ\)(前方散乱)では、波長のずれは観測されず、ピークは一つだけ。
- 散乱角 \(\theta\) を大きくしていくと、ピークBはピークAからどんどん離れていき、波長のずれ \(\Delta \lambda\) が増大する。
- 散乱角 \(\theta = 180^\circ\)(後方散乱)で、波長のずれは最大となる。
- 波長シフトの普遍性:この波長シフト \(\Delta \lambda\) の大きさは、散乱体(ターゲット)の物質の種類や、入射X線の波長 \(\lambda_0\) には依存しない。散乱角 \(\theta\) だけで一意的に決まる、普遍的な量であった。
この、散乱によってX線の波長が長くなる(つまり、振動数が小さくなる=エネルギーが減少する)という現象は、「コンプトン効果(Compton Effect)」または「コンプトン散乱」と名付けられました。これは、古典的な電磁波の理論では全く説明のつかない、全く新しい現象の発見でした。
4. 散乱X線の波長が長くなる現象
コンプトンの実験が明らかにした「散乱X線の波長が長くなる」という現象は、単なる小さなずれや誤差ではありませんでした。それは、光と物質の相互作用に関する我々の理解の根幹を揺るがす、極めて重大な意味を持つ発見でした。この現象がなぜそれほど重要なのか、その物理的な意味を深く掘り下げてみましょう。
4.1. 波長、振動数、エネルギーの関係の復習
まず、光(電磁波)の基本的な関係式を再確認します。光の波長を \(\lambda\)、振動数を \(\nu\)、真空中での速さを \(c\) とすると、これらの間には
\[ c = \nu \lambda \]
という関係が成り立ちます。この式から、波長 \(\lambda\) と振動数 \(\nu\) は反比例の関係にあることがわかります。
- 波長が長くなる \(\iff\) 振動数が小さくなる
- 波長が短くなる \(\iff\) 振動数が大きくなる
一方、アインシュタインの光量子仮説によれば、光子1個のエネルギー \(E\) は、その振動数 \(\nu\) に比例します。
\[ E = h\nu \]
(ここで \(h\) はプランク定数)
これら二つの式を組み合わせると、光子のエネルギー \(E\) は、その波長 \(\lambda\) に反比例することがわかります。
\[ E = h \frac{c}{\lambda} \]
4.2. 「波長が長くなる」ことの物理的意味
これらの関係を踏まえると、コンプトンの実験結果が持つ物理的な意味は、次のように翻訳できます。
「散乱されたX線の波長 \(\lambda’\) が、入射したX線の波長 \(\lambda_0\) よりも長くなった」
これは、言い換えれば、
「散乱されたX線の振動数 \(\nu’\) が、入射したX線の振動数 \(\nu_0\) よりも小さくなった」
ということであり、さらに光子のエネルギーの観点から言えば、
「散乱されたX線を構成する光子1個のエネルギー \(E’\) が、入射したX線を構成する光子1個のエネルギー \(E_0\) よりも小さくなった」
ということになります。
つまり、コンプトン効果とは、X線が電子によって散乱される際に、そのエネルギーの一部を失う現象である、と解釈することができます。
4.3. 失われたエネルギーはどこへ行ったのか?
物理学における最も重要な基本法則の一つが「エネルギー保存則」です。エネルギーは、勝手に消えたり生まれたりすることはなく、その形態を変えるだけです。もし、散乱の前後でX線のエネルギーが減少した(\(E’ < E_0\))のであれば、その失われたエネルギー(\(E_0 – E’\))は、どこか別の場所へ移動したはずです。
そのエネルギーを受け取った最も自然な候補は、X線と相互作用した相手、すなわち散乱体の電子です。
失われたX線のエネルギーは、それまでほぼ静止していた電子に与えられ、電子の運動エネルギーに変換されたのではないか。つまり、電子はX線に「はね飛ばされた(recoil)」のではないか。
このように考えると、コンプトン効果の全体像は、
「入射したX線が、物質中の電子と衝突し、自身のエネルギーの一部をその電子に与えて運動させ、自らはエネルギーを失って(=波長が長くなって)別の方向へ飛び去っていく現象」
として捉えることができます。
この描像は、まるでビリヤードの球(手球)が、静止している的球に衝突し、的球を飛ばして自らは勢いを失い、向きを変えて転がっていく様子と酷似しています。この「衝突」という粒子的なアナロジーは、コンプトン効果の謎を解く上で極めて重要な示唆を与えるものでした。しかし、この直感的な描像は、X線を連続的な波と考える古典的な物理学の立場とは、全く相容れないものだったのです。
5. 光の波動説では説明できない理由
コンプトン効果の実験結果、特に「散乱によってX線の波長が長くなる」という事実は、当時の物理学者たちにとって大きな謎でした。なぜなら、X線の波動性が確立されたばかりであったにもかかわらず、その波動論ではこの現象を全く説明することができなかったからです。ここでは、なぜ古典的な光の波動説がコンプトン効果の前で完全に無力であったのか、その論理的な理由を詳しく見ていきます。
5.1. 古典電磁気学による散乱のモデル(トムソン散乱)
まず、古典的な電磁気学の枠組みで、電磁波(X線)が電子によって散乱されるプロセスを考えてみましょう。このモデルは「トムソン散乱」として知られています。
- 入射波による電子の強制振動:入射してくるX線は、周期的に振動する電場と磁場を持つ電磁波です。この振動する電場が、物質中にある電子(負の電荷を持つ)に力を及ぼし、電子を強制的に振動させます。重要なのは、この電子の振動の振動数は、入射してきた電磁波の振動数と全く同じになる、という点です。これは、音叉を特定の周波数の音で鳴らすと、その音叉も同じ周波数で共鳴して振動するのと同じ原理です。
- 振動する電子による電磁波の再放射:物理学の基本法則によれば、加速度運動(振動もその一種)をする荷電粒子は、それ自体が電磁波を放射します。したがって、入射X線によって振動させられた電子は、アンテナのように振る舞い、自身の周りの空間に新しい電磁波を放射します。この再放射された電磁波が、私たちが観測する「散乱X線」です。
- 再放射される波の振動数:このプロセスにおける決定的なポイントは、再放射される電磁波の振動数がどうなるか、という点です。アンテナが放射する電波の周波数が、アンテナを流れる交流電流の周波数によって決まるのと全く同じように、振動する電子が放射する電磁波の振動数は、その電子自身の振動数によって決まります。そして、その電子の振動数は、ステップ1で見たように、入射してきたX線の振動数と等しいのです。
5.2. 波動説の必然的な結論とその破綻
以上のプロセスを論理的にたどると、古典的な波動説は、X線散乱に関して以下の必然的な結論を導き出します。
(入射X線の振動数) = (電子の振動数) = (散乱X線の振動数)
これは、つまり、散乱の前後でX線の振動数は変化しない、ということを意味します。振動数が変化しないのであれば、当然、波長も変化するはずがありません(\(c = \nu \lambda\) の関係から)。
【古典波動説の結論】: 散乱X線の波長は、入射X線の波長と等しくなければならない。
この結論は、コンプトンの実験結果と真っ向から対立します。実験では、元の波長 \(\lambda_0\) とは異なる、より長い波長 \(\lambda’\) の成分がはっきりと観測されたのです。
5.3. 波動説の根本的な限界
なぜ波動説は、この波長の変化を説明できないのでしょうか。その根本的な理由は、波動説におけるエネルギーの考え方にあります。
- エネルギーの連続性と広がり: 波動モデルでは、光のエネルギーは波面全体に連続的に、そして薄く広がって分布していると考えます。電子は、この広がったエネルギーの海から、少しずつエネルギーを吸収して振動します。
- エネルギー授受のメカニズムの欠如: このモデルには、X線という波が、自身のエネルギーの一部を塊として電子に「渡し」、残りのエネルギーで再び波として飛び去っていく、というような不連続なエネルギー授受のメカニズムが存在しません。波は、電子を揺さぶることはできても、自身の性質(振動数)を変えることなく通り過ぎていく、としか考えられないのです。
また、散乱された波長のずれ \(\Delta \lambda = \lambda’ – \lambda_0\) が、散乱角 \(\theta\) だけで決まり、入射X線の強度や波長、あるいは散乱体の物質によらない、という実験事実の普遍性も、波動説では全く説明できません。
このように、X線の波動性を証明したはずの「回折」と同じX線が、散乱という別の現象では、その波動説と完全に矛盾する振る舞いを見せたのです。これは、物理学にとって深刻なパラドックスでした。光電効果が突きつけたのと同じ問題、すなわち、光と物質のエネルギーのやり取りの場面では、波動モデルが根本的に破綻しているという事実が、再び、しかし今度はより鮮明な形で目の前に現れたのです。このパラドックスを解決するためには、アインシュタインの光量子仮説に再び立ち返り、それをさらに一歩推し進める必要がありました。
6. 光子と電子の衝突という描像
古典的な波動説が完全に行き詰まった状況で、アーサー・コンプトンは、アインシュタインが光電効果を説明するために用いた「光量子」のアイデアに活路を見出しました。もし、X線が単なる波ではなく、エネルギーと運動量を持つ「粒子(光子)」の流れなのだとしたら、X線の散乱は、波が電子を揺さぶる現象ではなく、一個の光子と一個の電子が衝突する、純粋な粒子対粒子の力学的なイベントとして捉え直せるのではないか。この発想の転換こそが、コンプトン効果の謎を解く鍵でした。
6.1. ビリヤードの球のアナロジー
コンプトンが採用した新しい描像は、ビリヤード台の上での球の衝突に例えると、非常に直感的に理解できます。
- 入射X線 → 手球(キューで突かれる最初の球)
- 静止している電子 → 的球(静止しているターゲットの球)
- 散乱X線 → 衝突後の手球
- 反跳電子 → 衝突後にはじき飛ばされた的球
このアナロジーで考えてみましょう。
- 衝突前:手球(光子)は、ある運動エネルギーと運動量を持って、静止している的球(電子)に向かって直進してきます。
- 衝突:手球(光子)と的球(電子)が衝突します。このとき、手球は的球に力とエネルギーを伝えます。
- 衝突後:
- 的球(電子)は、手球からエネルギーと運動量を受け取り、ある角度(反跳角)の方向へとはじき飛ばされます。これを**反跳電子(recoil electron)**と呼びます。
- 手球(光子)は、的球にエネルギーと運動量の一部を分け与えたため、自身のエネルギーと運動量は減少します。つまり、速度(勢い)が落ち、進行方向も元の方向からある角度(散乱角)だけずれます。
このビリヤードの球の衝突という、単純明快な力学的な描像は、コンプトン効果の実験事実を定性的に見事に説明します。
- なぜX線のエネルギーが減少する(波長が長くなる)のか?
- 衝突によって、光子が自身のエネルギーの一部を電子に運動エネルギーとして与えるからです。エネルギーを失った光子は、\(E=h\nu\) の関係から振動数が小さくなり、\(c=\nu\lambda\) の関係から波長が長くなります。
- なぜ電子がはね飛ばされるのか?
- 光子との衝突によって、運動量を受け取るからです。実際に、コンプトンは散乱X線と同時に、反跳電子も観測することに成功しています。
- なぜ波長のずれが散乱角に依存するのか?
- ビリヤードの衝突でも、手球が的球に「正面衝突」する(散乱角が大きい)場合と、「かすめるように」当たる(散乱角が小さい)場合とで、エネルギーのやり取りの仕方が変わります。同様に、光子と電子の衝突でも、散乱角によって電子に与えるエネルギー(と運動量)が変化するため、結果として光子が失うエネルギー、すなわち波長のずれも変化すると考えられます。
6.2. 衝突モデルの含意
この「光子と電子の衝突」という描像は、単なる分かりやすい例え話以上の、深い物理的な意味を持っています。
- 光の粒子性の強調: このモデルは、光がエネルギーの塊であるだけでなく、明確な運動量を持ち、他の粒子と力学的な相互作用を行う、完全な粒子として扱われるべきことを要求します。光電効果が光の「エネルギーの粒子性」を示したとすれば、コンプトン効果は光の「運動量の粒子性」を明らかにしようとしていました。
- ミクロな世界の力学: この衝突は、私たちの目に見えるマクロな世界のビリヤードとは異なり、相対性理論の効果も考慮しなければならない、ミクロなスケールでの衝突です。光子は光速で運動し、はね飛ばされた電子も非常に高速になる可能性があるため、ニュートン力学だけでなく、アインシュタインの特殊相対性理論に基づいたエネルギーと運動量の関係式を用いる必要があります。
この衝突モデルが正しいかどうかを証明するためには、この直感的な描像を、厳密な物理法則である「エネルギー保存則」と「運動量保存則」を用いて数式化し、その数式が予測する波長のずれ \(\Delta \lambda\) の値と、実験で測定された値とを、定量的に比較する必要がありました。コンプトンの次なる挑戦は、まさにこの理論的な計算でした。
7. 光子の運動量の定義(p = h/λ)
コンプトンが提唱した「光子と電子の衝突」というモデルを、単なるアナロジーから厳密な物理理論へと昇華させるためには、衝突現象を記述する上で不可欠な物理量、すなわち「運動量」を、光子に対して明確に定義する必要がありました。古典的な粒子では \(p=mv\) と定義される運動量を、質量がゼロの光子にどう割り当てるか。この問いに対する答えは、アインシュタインの特殊相対性理論とプランクの量子仮説の融合の中にありました。
7.1. 相対性理論からの要請
ニュートン力学における運動量の定義 \(p=mv\) は、物体の速さが光速に比べて十分に小さい場合にのみ成り立つ近似的なものです。アインシュタインの特殊相対性理論は、エネルギー、質量、運動量の関係を、より普遍的な形で記述します。
ある粒子の静止質量を \(m_0\)、運動量を \(p\)、全エネルギーを \(E\) とすると、これらの間には以下の関係式(エネルギーと運動量の関係式)が成り立ちます。
\[ E^2 = (pc)^2 + (m_0 c^2)^2 \]
(ここで \(c\) は光速)
この式は、特殊相対性理論における最も重要な帰結の一つです。
さて、Module 2で学んだように、光子は静止質量がゼロ(\(m_0 = 0\))の特殊な粒子です。したがって、光子の場合、この普遍的な関係式は、
\[ E^2 = (pc)^2 + (0 \cdot c^2)^2 = (pc)^2 \]
となり、両辺の平方根をとると、
\[ E = pc \]
という、非常にシンプルな関係になります。これは、静止質量を持たない粒子(光子)の全エネルギーは、その運動量に光速 \(c\) を掛けたものに等しい、ということを意味しています。
この式を運動量 \(p\) について解くと、
\[ p = \frac{E}{c} \]
となります。つまり、光子の運動量は、そのエネルギー \(E\) を光速 \(c\) で割ることで得られる、と特殊相対性理論は要請します。
7.2. 量子仮説との結合
ここで、アインシュタインの光量子仮説から得られる、光子1個のエネルギーの式 \(E = h\nu\) を登場させます。この式を、上記の相対論的な運動量の式に代入すると、
\[ p = \frac{h\nu}{c} \]
という関係が得られます。
さらに、光の波としての関係式 \(c = \nu \lambda\) を使うと、\(\nu/c = 1/\lambda\) となるので、これを代入することで、光子の運動量 \(p\) を、その波長 \(\lambda\) を用いて表すことができます。
\[ p = \frac{h}{\lambda} \]
この式が、光子の運動量を定義する、量子論における極めて重要な関係式です。
7.3. 運動量の式の物理的意味
この式 \(p = h/\lambda\) は、エネルギーの式 \(E=h\nu\) と同様に、量子論の二重性の本質を見事に捉えています。
- 左辺の \(p\) (運動量)は、明らかに「粒子」としての性質を表す量です。運動量は、衝突の際にやり取りされる、力学的な実体です。
- 右辺の \(\lambda\) (波長)は、疑いようもなく「波」としての性質を表す量です。波長は、波の空間的な周期性を示す、波動現象の根幹をなす量です。
そして、これら粒子と波の性質を、再びプランク定数 \(h\) が結びつけています。この式は、「光子の運動量は、その波長が短いほど大きくなる」ということを示しています。これは、波長の短いX線やガンマ線が、波長の長い可視光や電波に比べて、粒子としてより「力強い(運動量が大きい)」振る舞いをすることの理論的な根拠となります。
コンプトンは、この \(p = h/\lambda\) という武器を手にしたことで、光子と電子の衝突というミクロな世界の出来事を、エネルギーと運動量という二つの側面から、完全に記述する準備が整いました。次のステップは、この定義を用いて、物理学の金字塔である二つの保存則を適用し、理論的な予測を導き出すことです。
8. エネルギー保存則と運動量保存則の適用
「光子と電子の弾性衝突」という物理モデルと、光子のエネルギー(\(E=h\nu\))および運動量(\(p=h/\lambda\))の定義が揃いました。いよいよ、このモデルが正しいかどうかを検証する、理論計算の核心部分に入ります。コンプトンは、このミクロな衝突現象に、マクロな世界の力学現象と全く同じように、物理学で最も信頼されている二つの基本法則、「エネルギー保存則」と「運動量保存則」を適用しました。
8.1. 衝突前後の状態設定
まず、衝突の前後で、登場人物である光子と電子の状態を、物理量を用いて正確に記述します。ここでは、電子は原子核との束縛が非常に弱い、ほぼ静止した自由電子と見なします。また、電子の運動は相対論的な効果を考慮する必要があります。
【衝突前 (Before)】
- 入射光子:
- エネルギー: \(E_0 = h\nu_0\)
- 波長: \(\lambda_0\)
- 運動量(大きさ): \(p_0 = h/\lambda_0\)
- 進行方向: x軸の正の向き
- 静止電子:
- エネルギー: 静止エネルギー \(E_e = m_e c^2\) (\(m_e\) は電子の静止質量)
- 運動量: \(p_e = 0\)
【衝突後 (After)】
- 散乱光子:
- エネルギー: \(E’ = h\nu’\)
- 波長: \(\lambda’\)
- 運動量(大きさ): \(p’ = h/\lambda’\)
- 進行方向: x軸から角度 \(\theta\) の方向(散乱角)
- 反跳電子:
- エネルギー: \(E_e’ = K_e + m_e c^2\) (\(K_e\) は電子の運動エネルギー)
- 運動量: ベクトル \(\vec{p_e’}\) (大きさ \(p_e’\)、x軸から角度 \(\phi\) の方向(反跳角))
8.2. エネルギー保存則の適用
まず、衝突の前後で、系の全エネルギーは保存されるはずです。
(衝突前の全エネルギー) = (衝突後の全エネルギー)
\[ (h\nu_0) + (m_e c^2) = (h\nu’) + (K_e + m_e c^2) \]
両辺にある電子の静止エネルギー \(m_e c^2\) を消去すると、
\[ h\nu_0 = h\nu’ + K_e \quad \cdots ① \]
この式は、失われた光子のエネルギー(\(h\nu_0 – h\nu’\))が、すべて反跳電子の運動エネルギー \(K_e\) に変換されたことを示しており、私たちの直感的な描像と一致しています。
8.3. 運動量保存則の適用
次に、運動量もベクトルとして保存されます。つまり、x成分とy成分のそれぞれについて、衝突の前後で和が等しくなります。
【x成分の運動量保存】
(衝突前のx成分の和) = (衝突後のx成分の和)
\[ p_0 + 0 = p’ \cos\theta + p_e’ \cos\phi \]
光子の運動量の定義(\(p=h/\lambda\))を代入すると、
\[ \frac{h}{\lambda_0} = \frac{h}{\lambda’} \cos\theta + p_e’ \cos\phi \quad \cdots ② \]
【y成分の運動量保存】
(衝突前のy成分の和) = (衝突後のy成分の和)
\[ 0 + 0 = p’ \sin\theta – p_e’ \sin\phi \]
(反跳電子のy成分は、散乱光子のy成分と逆向きなのでマイナス符号がつく)
同様に光子の運動量を代入すると、
\[ 0 = \frac{h}{\lambda’} \sin\theta – p_e’ \sin\phi \quad \cdots ③ \]
8.4. 計算の目標
これで、現象を記述するための3つの方程式(①, ②, ③)が揃いました。私たちの目標は、これらの式から、実験では直接観測することが難しい反跳電子の情報(\(p_e’\) と \(\phi\))を消去し、観測可能な量である入射光子の波長 \(\lambda_0\)、散乱光子の波長 \(\lambda’\)、そして散乱角 \(\theta\) の間の関係式を導き出すことです。
もし、この計算の末に得られる理論的な関係式が、コンプトンの実験結果、すなわち「波長のずれ \(\Delta\lambda = \lambda’ – \lambda_0\) が散乱角 \(\theta\) だけで決まる」という事実を、 quantitatively(定量的に)再現することができれば、この「光子と電子の衝突」というモデルの正しさが証明されることになります。
この計算には、もう一つ、相対論的な電子のエネルギーと運動量の関係式 \( (E_e’)^2 = (p_e’ c)^2 + (m_e c^2)^2 \) を使う必要があります。次章では、これらの方程式を実際に解いて、コンプトンの式を導出します。
9. コンプトン散乱の理論的説明
前章で立てたエネルギー保存則と運動量保存則の式を用いて、いよいよコンプトン散乱の核心である、波長シフトと散乱角の関係を理論的に導出します。この計算過程は、一見すると複雑に見えますが、高校で学ぶ三角関数と基本的な代数学を組み合わせることで、着実に進めることができます。物理学の理論が、いかにして実験結果を予測し、説明するのかを実感できる、美しいプロセスです。
9.1. 反跳電子の運動量の消去
私たちの目標は、3つの方程式から、反跳電子の運動量 \(p_e’\) と角度 \(\phi\) を消去することです。まず、運動量保存則の式(②と③)を変形して、\(p_e’\) に関連する項を左辺にまとめます。
- 式②より: \(p_e’ \cos\phi = \frac{h}{\lambda_0} – \frac{h}{\lambda’} \cos\theta \quad \cdots ②’\)
- 式③より: \(p_e’ \sin\phi = \frac{h}{\lambda’} \sin\theta \quad \cdots ③’\)
次に、三角関数の基本的な関係式 \(\sin^2\phi + \cos^2\phi = 1\) を利用するために、②’式と③’式の両辺をそれぞれ2乗して、足し合わせます。
- 左辺の和: \((p_e’ \cos\phi)^2 + (p_e’ \sin\phi)^2 = (p_e’)^2 (\cos^2\phi + \sin^2\phi) = (p_e’)^2\)
- 右辺の和: \( (\frac{h}{\lambda_0} – \frac{h}{\lambda’} \cos\theta)^2 + (\frac{h}{\lambda’} \sin\theta)^2 \)
- これを展開・整理します。
- \(= (\frac{h^2}{\lambda_0^2} – \frac{2h^2}{\lambda_0 \lambda’} \cos\theta + \frac{h^2}{(\lambda’)^2} \cos^2\theta) + (\frac{h^2}{(\lambda’)^2} \sin^2\theta) \)
- \(= \frac{h^2}{\lambda_0^2} – \frac{2h^2}{\lambda_0 \lambda’} \cos\theta + \frac{h^2}{(\lambda’)^2} (\cos^2\theta + \sin^2\theta) \)
- \(= \frac{h^2}{\lambda_0^2} – \frac{2h^2}{\lambda_0 \lambda’} \cos\theta + \frac{h^2}{(\lambda’)^2} \)
これにより、反跳電子の角度 \(\phi\) が消去され、その運動量の2乗 \((p_e’)^2\) が、光子の情報(\(\lambda_0, \lambda’, \theta\))だけで表せました。
\[ (p_e’)^2 = h^2 \left( \frac{1}{\lambda_0^2} – \frac{2\cos\theta}{\lambda_0 \lambda’} + \frac{1}{(\lambda’)^2} \right) \quad \cdots ④ \]
9.2. エネルギーの関係式との結合
次に、エネルギーに関する情報を導入します。エネルギー保存則の式①(\(h\nu_0 = h\nu’ + K_e\))と、相対論的な電子のエネルギーと運動量の関係式(\( (K_e + m_e c^2)^2 = (p_e’ c)^2 + (m_e c^2)^2 \))を結びつけます。
まず、エネルギー保存則の式①を、反跳電子の運動エネルギー \(K_e\) について解きます。
\(K_e = h\nu_0 – h\nu’ = hc(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’}) \)
これを、相対論のエネルギー・運動量関係式に代入します。
\( { hc(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’}) + m_e c^2 }^2 = (p_e’ c)^2 + (m_e c^2)^2 \)
左辺を展開します。
\( (hc(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’}))^2 + 2hc(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’})(m_e c^2) + (m_e c^2)^2 = (p_e’ c)^2 + (m_e c^2)^2 \)
両辺にある \((m_e c^2)^2\) を消去し、\(c^2\) で両辺を割ると、
\( h^2(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’})^2 + 2hm_e c(\frac{1}{\lambda_0} – \frac{1}{\lambda’}) = (p_e’)^2 \)
左辺を展開・整理します。
\( h^2(\frac{1}{\lambda_0^2} – \frac{2}{\lambda_0 \lambda’} + \frac{1}{(\lambda’)^2}) + 2hm_e c(\frac{\lambda’ – \lambda_0}{\lambda_0 \lambda’}) = (p_e’)^2 \quad \cdots ⑤ \)
9.3. コンプトンの式の導出
これで、\((p_e’)^2\) を二つの異なる方法で表す式(④と⑤)が得られました。両者は等しいはずなので、④ = ⑤ と置きます。
\( h^2 \left( \frac{1}{\lambda_0^2} – \frac{2\cos\theta}{\lambda_0 \lambda’} + \frac{1}{(\lambda’)^2} \right) = h^2(\frac{1}{\lambda_0^2} – \frac{2}{\lambda_0 \lambda’} + \frac{1}{(\lambda’)^2}) + 2hm_e c(\frac{\lambda’ – \lambda_0}{\lambda_0 \lambda’}) \)
この式をよく見ると、両辺に共通する項がたくさんあることがわかります。
\(h^2/\lambda_0^2\) と \(h^2/(\lambda’)^2\) は両辺から消去できます。
残る項は、
\( -h^2 \frac{2\cos\theta}{\lambda_0 \lambda’} = -h^2 \frac{2}{\lambda_0 \lambda’} + 2hm_e c(\frac{\lambda’ – \lambda_0}{\lambda_0 \lambda’}) \)
両辺を \(2h\) で割り、\(\lambda_0 \lambda’\) を掛けて分母を払います。
\( -h \cos\theta = -h + m_e c(\lambda’ – \lambda_0) \)
\(h – h \cos\theta = m_e c(\lambda’ – \lambda_0) \)
\(h(1 – \cos\theta) = m_e c(\lambda’ – \lambda_0) \)
最後に、この式を波長のシフト \(\lambda’ – \lambda_0\) について解くと、最終的な結論が得られます。
\[ \lambda’ – \lambda_0 = \frac{h}{m_e c} (1 – \cos\theta) \]
この式が、**コンプトンの式(Compton’s formula)**です。
この理論計算の最終結果は、コンプトンの実験が示した事実を、完璧に再現していました。
- 波長のシフト \(\Delta\lambda = \lambda’ – \lambda_0\) は、プランク定数 \(h\)、電子の静止質量 \(m_e\)、光速 \(c\) という普遍的な定数と、散乱角 \(\theta\) のみに依存する。
- 入射X線の波長 \(\lambda_0\) や強度、散乱体の物質には依存しない。
- \(\theta = 0^\circ\) のとき \(\cos\theta=1\) なので \(\Delta\lambda=0\) となり、波長シフトは起こらない。
- \(\theta = 180^\circ\) のとき \(\cos\theta=-1\) なので \(\Delta\lambda = 2h/m_e c\) となり、波長シフトは最大となる。
理論と実験の、この見事なまでの一致。それは、「光子と電子の衝突」という、当初は大胆な仮説に過ぎなかった描像が、自然界の真実の姿を的確に捉えていることの、何より雄弁な証明でした。
(補足:元の波長と同じ成分(ピークA)は、原子核に強く束縛された内殻電子との相互作用で、電子が反跳せず、実質的に原子全体と光子が衝突したと見なせる場合に相当します。原子の質量は電子に比べて極めて大きいため、式の \(m_e\) が巨大な原子の質量に置き換わり、波長シフトがほぼゼロになる、と説明されます。)
10. 光の粒子性の確固たる証拠
コンプトンの実験と、その理論的説明が物理学の歴史に与えたインパクトは、計り知れないものがありました。それは、アインシュタインが光電効果によって灯した「光の粒子性」という小さな灯火を、誰にも否定できない太陽のような輝きへと変える、決定的な出来事でした。なぜコンプトン効果は、光の粒子性を確立する上で、それほどまでに決定的な証拠と見なされているのでしょうか。その理由を、これまでの学びを総括しながら考えてみましょう。
10.1. 光電効果との比較:運動量の証明
まず、先行する光電効果の証明と、コンプトン効果の証明が持つ意味合いの違いを明確にすることが重要です。
- 光電効果が証明したもの:光電効果は、光が**エネルギーの塊(\(E=h\nu\))**として、電子と一対一でエネルギーをやり取りすることを示しました。これは、光の「エネルギーの粒子性」または「エネルギーの量子化」を証明するものでした。しかし、この現象だけでは、光が力学的な「運動量」を持つ粒子であると断定するには、まだ議論の余地がありました。エネルギーの授受が、何か特殊な共鳴現象のような未知のメカニズムで起こっている可能性を、完全に排除することは難しかったのです。
- コンプトン効果が証明したもの:コンプトン効果は、その説明にエネルギー保存則と運動量保存則の両方を同時に必要とした点が、決定的に重要でした。特に、運動量保存則は、衝突する物体が空間的な方向性を持つベクトル量として振る舞うことを前提としています。\(\lambda’ – \lambda_0 = \frac{h}{m_e c} (1 – \cos\theta)\)という式の見事な成功は、光子が単なるエネルギーの塊であるだけでなく、明確な方向性を持った**運動量(\(p=h/\lambda\))**を運び、ビリヤードの球のように他の粒子と衝突し、その軌道を変える、完全な力学的粒子として振る舞うことを証明したのです。
エネルギーと運動量の両方を併せ持って初めて、ある存在は物理学的な意味で完全な「粒子」と見なされます。コンプトン効果は、その最後の、そして最も重要なピースを埋めたのでした。
10.2. 波動説への最終的な反証
X線が結晶によって回折するという事実は、X線が波であることの動かぬ証拠でした。しかし、コンプトン効果は、その同じX線が粒子として振る舞うことを示しました。これにより、物理学者たちは、好むと好まざるとにかかわらず、「波と粒子の二重性」という、古典物理学の常識とは相容れない奇妙な現実を、正面から受け入れざるを得なくなりました。
もはや、光を「波である」あるいは「粒子である」と、どちらか一方の性質だけで記述することは不可能であることが明らかになったのです。光は、その本性として両方の性質を内に秘めており、観測する状況(どの現象を見るか)によって、波としての顔を見せたり、粒子としての顔を見せたりする、というのが唯一の合理的な解釈となりました。
コンプトン効果は、光の波動説が「間違い」であると証明したわけではありません。そうではなく、光の波動説が「不完全」であり、光と物質の相互作用のようなミクロな現象を記述するには、粒子的な側面を考慮に入れた、より包括的な理論(量子論)が必要であることを示したのです。
10.3. 物理学の新たな扉
コンプトン効果の成功は、物理学のその後の発展に大きな影響を与えました。
光が粒子として振る舞うことが確実となった今、フランスの若き物理学者ルイ・ド・ブロイは、その思考を逆転させ、次のような大胆な問いを立てます。
「光という波が粒子のように振る舞うのなら、電子という粒子もまた、波のように振る舞うのではないだろうか?」
この問いが、量子力学のもう一つの柱である「物質の波動性」の発見へとつながっていきます(Module 6参照)。
アーサー・コンプトンは、この偉大な功績により、1927年にノーベル物理学賞を受賞しました。彼の仕事は、光の粒子性を巡る長年の論争に終止符を打ち、量子力学という新しい物理学の時代の到来を、確固たるものとして告げたのです。
Module 3:光の粒子性(2)コンプトン効果の総括:ビリヤードのように衝突する光
本モジュールでは、X線が電子によって散乱される際に、その波長が長くなるという「コンプトン効果」について探求してきました。この旅の出発点は、X線が結晶格子によって回折するという、その「波動性」を証明した輝かしい成功の確認でした。しかし、その確立されたはずの波動の描像は、コンプトンの精密な散乱実験が明らかにした単純な事実、「波長が長くなる」という現象の前で、完全に沈黙してしまいました。
この深刻なパラドックスを打ち破ったのは、X線を「光子」という粒子、電子をもう一つの粒子と見なし、両者の衝突を古典的なビリヤードの球の衝突のように捉え直す、という大胆な発想の転換でした。この粒子描像に基づき、物理学の最も基本的な法則であるエネルギー保存則と運動量保存則を適用した理論計算は、実験結果を寸分の狂いもなく予測することに成功しました。
この理論と実験の見事な一致は、光が単なるエネルギーの塊であるだけでなく、明確な運動量を備え、他の粒子と力学的に相互作用する、完全な「粒子」であることを疑いようのない形で証明しました。光電効果が明らかにした「エネルギーの粒」としての性質に、コンプトン効果が「運動量の粒」としての性質を付け加えたことで、光の粒子性は磐石のものとなったのです。
こうして物理学者たちは、光が、観測する状況に応じて波と粒子の二つの顔を見せるという「二重性」を、自然界の根源的な真実として受け入れざるを得なくなりました。この奇妙で、しかし美しい光の本質の発見は、次なる大きな謎、「では、電子のような粒子もまた、波の顔を持つのではないか?」という問いへと、科学の探求を導いていくことになります。