【基礎 物理(熱力学)】Module 12:実在気体への入門

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本モジュールの目的と構成

これまでの長い旅路で、私たちは「理想気体」という、シンプルで美しいモデルを羅針盤として、熱力学の広大な海を航海してきました。理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) や、その内部エネルギーの性質は、熱力学の法則を理解し、基本的な熱現象を分析するための、揺るぎない土台となってくれました。しかし、この理想化された世界は、あくまで現実の近似に過ぎません。

現実の気体—すなわち「実在気体」—は、理想気体が無視した二つの重要な性質、「分子自身の体積」と「分子間に働く力(分子間力)」を持っています。普段、私たちが生活している常温・常圧の環境では、これらの影響は小さく、理想気体のモデルは驚くほど良い近似を与えてくれます。しかし、気体を高圧に圧縮したり、低温に冷却したりすると、この理想化は破綻し、理想気体の法則では説明できない、全く新しい現象が現れ始めます。その最も劇的な例が、気体が液体へと姿を変える「液化」です。

本モジュールでは、この理想から現実への架け橋を渡ります。なぜ、そしてどのような条件下で、理想気体の近似は成り立たなくなるのか。分子の体積と分子間力という二つの「現実の要素」を、どのように理論モデルに組み込み、より現実に近い「ファンデルワールスの状態方程式」を構築するのか。そして、この新しいモデルが、理想気体では決して説明できなかった「気体の液化」や「臨界点」といった、豊かで複雑な現象を、いかにして見事に説明するのかを探求します。

このモジュールを学習することで、あなたは以下の知的な探求に乗り出します。

  1. 理想気体の近似が成り立たない条件(低温・高圧): なぜ低温・高圧で理想気体の法則が破れるのか、その物理的な理由を、分子レベルの描像から理解します。
  2. 分子間力の影響と圧力の補正: 分子間に働く引力が、観測される圧力をどのように変化させるか、そしてそれをどう理論的に補正するかを学びます。
  3. 分子自身の体積の影響と体積の補正: 分子が持つ有限の大きさが、気体の振る舞いにどう影響するか、そしてそれをどう理論的に補正するかを学びます。
  4. ファンデルワールスの状態方程式の概念: 理想気体の状態方程式を改良した、より現実に近い状態方程式を理解します。
  5. 理想気体からのずれの視覚的理解: 圧縮率因子Zを用いて、実在気体の振る舞いが理想気体からどのようにずれていくかを、グラフを通じて視覚的に捉えます。
  6. 気体の液化現象: 気体が液体になる、という相転移現象が、P-V図上でどのように表現されるかを学びます。
  7. 臨界温度と臨界点の概念: これ以上はいくら圧縮しても液化しない、という限界温度「臨界温度」の概念を理解します。
  8. ジュール・トムソン効果の定性的理解: 冷凍技術の基本原理である、実在気体の断熱膨張に伴う温度変化について学びます。
  9. 相図(P-T図)の導入: 物質が、温度と圧力によってどのような状態(固体・液体・気体)をとるかを示す「地図」である相図を学びます。
  10. 三重点と物質の状態: 固体・液体・気体の三つの相が共存する、物質固有の特別な点「三重点」の重要性を理解します。

このモジュールは、科学的なモデルが、いかにして現実の複雑さに挑戦し、それを説明するためにより洗練され、進化していくかを示す、感動的な一例です。理想気体という完璧な世界から、より豊かで、時には扱いにくい、現実の世界へと、思考の地平を広げていきましょう。


目次

1. 理想気体の近似が成り立たない条件(低温・高圧)

1.1. 理想気体モデルの二つの柱

理想気体の理論が、その美しいシンプルさを保っていられるのは、現実の気体の複雑な性質を、二つの大胆な仮定によって理想化しているからでした。その二つの仮定を、改めて確認しておきましょう。

  • 仮定1:分子自身の体積はゼロとみなす (大きさの無視)気体分子を、体積を持たない「質点」として扱います。分子が飛び回る空間(容器の体積 \(V\))に比べて、分子自身の大きさが無視できる、という仮定です。
  • 仮定2:分子間力は働かないとみなす (相互作用の無視)分子と分子の間には、引力も反発力も一切働かないとします。分子は、衝突の瞬間を除き、互いの存在を完全に無視して独立に運動します。

この二つの仮定は、いわば理想気体モデルを支える二本の柱です。したがって、理想気体の近似が成り立たなくなるのは、この二つの柱のどちらか、あるいは両方が、もはや無視できないほど現実からかけ離れてしまったときに他なりません。

そのような状況は、どのような条件下で訪れるのでしょうか。それは、分子同士の距離が、平均的に非常に近くなるような状況です。分子同士が接近すれば、その「大きさ」も「相互作用」も、無視できなくなるのは当然です。

1.2. 近似が破綻する条件

分子間の平均距離を縮めるための、最も直接的な方法は二つあります。それは、「圧力を高くする」ことと、「温度を低くする」ことです。

1.2.1. 高圧の条件 (High Pressure)

  • 物理的な状況: 気体をシリンダーに入れ、ピストンで強い力で押し込み、小さな体積に閉じ込める状況を想像してください。
  • 分子レベルの描像:気体が占める空間全体が小さくなるため、分子は互いにひしめき合うようになります。分子間の平均距離は劇的に縮まります。
  • 破綻する仮定:
    1. 仮定1(大きさの無視)の破綻: 分子が密集してくると、分子自身の体積の合計が、容器全体の体積に対して、もはや無視できない割合を占めるようになります。気体が自由に動き回れる「真の空間」は、容器の体積 \(V\) よりも、実質的に小さくなります。
      • アナロジー: 広大な公園に数人の人がいる場合、一人ひとりの大きさを無視しても問題ありません。しかし、満員電車の中では、一人ひとりの乗客が占める体積は、全体の空間に対して極めて重要になります。
    2. 仮定2(相互作用の無視)の破綻: 分子間の距離が近くなることで、それまで無視できていた分子間力が、顕著に影響を及ぼし始めます。特に、分子が非常に接近した際には、強い反発力が働き、気体は理想気体が予測するよりも「硬く」、圧縮しにくくなります。

1.2.2. 低温の条件 (Low Temperature)

  • 物理的な状況: 気体の圧力を一定に保ったまま、その温度をどんどん下げていく状況を想像してください。
  • 分子レベルの描像:温度を下げるということは、分子の平均運動エネルギーを減少させることを意味します。分子は、活発に飛び回るのをやめ、より「ゆっくり」と、そして「穏やか」に運動するようになります。
  • 破綻する仮定:
    1. 仮定2(相互作用の無視)の破綻: 分子の運動エネルギーが小さくなると、分子同士がすれ違う際に、比較的弱い分子間引力によっても、その軌道が容易に曲げられたり、一時的に「捕らえられたり」するようになります。高速で飛び交う戦闘機は互いの重力を無視できますが、ゆっくりと歩く人は、隣の人の引力(?)に影響されやすくなるようなものです。分子の運動は、もはや独立ではなくなり、互いの引力の影響を強く受け始めます。

結論:

理想気体の近似は、分子がまばらに、かつ高速で飛び回っている状況、すなわち**「低圧・高温」の条件下で、最もよく成り立ちます。

逆に、分子が密集し、かつゆっくりと運動している状況、すなわち「高圧・低温」**の条件下では、分子自身の体積と分子間力の影響が顕著になり、理想気体の法則からの「ずれ」が大きくなります。

この「ずれ」を理論的に説明し、より現実に近い気体のモデルを構築することが、次のステップの課題となります。


2. 分子間力の影響と圧力の補正

2.1. 分子間に働く、目に見えない力

理想気体モデルでは無視されましたが、現実の分子の間には「分子間力 (intermolecular force)」と呼ばれる力が働いています。これは、分子を構成する原子核(正電荷)と電子(負電荷)の間の、電磁気的な相互作用に由来する、比較的弱い力です。

分子間力は、分子間の距離によって、その性質が変化します。

  • 遠距離(分子が比較的離れている場合): 主に引力が働きます。これは、分子内の一時的な電荷の偏り(分極)が、隣の分子の分極を誘発し、互いに引き合う「ファンデルワールス力」などが原因です。この引力が、気体を凝集させて液体や固体にする、根本的な原因となります。
  • 近距離(分子が接触するほど近づいた場合): 分子を構成する電子雲同士が重なり合うため、極めて強い反発力が働きます。これにより、分子が互いにすり抜けて重なり合うことはありません。この反発力が、分子が有限の「大きさ」を持つことの現れです。

2.2. 分子間引力が圧力に及ぼす影響

実在気体の振る舞いを考える上で、まず重要になるのが、比較的遠くまで及ぶ「引力」の効果です。

シリンダー内の気体を考えます。容器の内部にいる分子は、あらゆる方向の分子から、ほぼ均等に引力を受けているため、正味の力は平均するとゼロに近くなります。

しかし、容器の壁のすぐ近くを運動している分子は、状況が異なります。

壁に向かって飛んでいる分子を考えてみましょう。この分子の前方には壁しかなく、後方には、気体の本体を構成する、多数の仲間たちがいます。したがって、この分子は、気体本体の方向へ、後ろ向きに引っ張られるような、正味の引力を受けることになります。

この「後ろ髪を引かれる」効果は、分子が壁に衝突する際の勢いを、わずかに弱めることになります。

  • 分子が壁に衝突するときの速度が、本来あるべき速度よりも小さくなる。
  • その結果、壁に与える力積も小さくなる。
  • これが無数の分子について起こるため、容器の壁で観測される圧力 \(P_{real}\) は、もし分子間引力がなかったとした場合に観測されるであろう圧力 \(P_{ideal}\) よりも、小さくなるはずです。

\[ P_{real} < P_{ideal} \]

2.3. 圧力の補正項:ファンデルワールスの洞察

オランダの物理学者ファンデルワールスは、この分子間引力による圧力の「減少分」を、理論的に見積もることを試みました。彼は、この圧力の減少分(補正項)が、気体の密度に依存すると考えました。

  1. 壁に衝突する分子の数: 壁の近くにいる分子の数は、気体全体の密度に比例します。
  2. 後ろから引く分子の数: 壁近くの分子を後ろから引く、気体本体の分子の数もまた、気体全体の密度に比例します。

圧力の減少分は、この「引かれる分子の数」と「引く分子の数」の両方に比例するはずなので、結果として密度の2乗に比例する、と考えたのです。

気体の密度は、物質量 \(n\) を体積 \(V\) で割った \(n/V\) で表せるので、

\[ (\text{圧力の減少分}) \propto \left(\frac{n}{V}\right)^2 \]

この比例関係を等式にするための比例定数を \(a\) とすると、

\[ (\text{圧力の減少分}) = a \left(\frac{n}{V}\right)^2 \]

となります。この定数 \(a\) は、分子間引力の強さを反映する、気体の種類に固有の定数です(ファンデルワールス定数)。引力が強い気体ほど、\(a\) の値は大きくなります。

したがって、理想気体が示すはずだった真の圧力 \(P_{ideal}\) は、実際に観測される圧力 \(P_{real}\) に、この減少分を「足し戻して」補正することで得られます。

圧力の補正:

\[ P_{ideal} = P_{real} + a \left(\frac{n}{V}\right)^2 \]

これが、分子間力の影響を考慮に入れるための、第一の補正です。


3. 分子自身の体積の影響と体積の補正

3.1. 分子が占める「排除体積」

次に、理想気体モデルのもう一つの仮定、「分子自身の体積はゼロ」という点を修正します。現実の分子は、有限の大きさを持っています。

この分子自身の体積は、気体の振る舞いに、どのように影響するでしょうか。

気体分子が、容器の中を自由に動き回れる空間の体積、すなわち「自由体積」を考えてみましょう。

もし分子が大きさゼロの質点であれば、自由体積は容器の体積 \(V\) そのものです。

しかし、分子が有限の大きさを持つ場合、分子自身の体積の分だけ、他の分子が入り込むことができない「排除領域」が生まれます。

その結果、分子が実際に運動できる自由体積は、容器の体積 \(V\) よりも、この「排除体積」の分だけ、小さくなります。

\[ V_{free} = V – (\text{排除体積}) \]

理想気体の法則が、本来関係しているのは、この「自由体積」の方であるはずです。

3.2. 体積の補正項

ファンデルワールスは、この排除体積を、シンプルに、気体の物質量 \(n\) に比例する量としてモデル化しました。

\[ (\text{排除体積}) = nb \]

ここで、比例定数 \(b\) は、分子1モルあたりの排除体積を表す、気体の種類に固有の定数です(ファンデルワールス定数)。\(b\) の値は、分子自身の大きさに関係しており、一般に、大きい分子ほど \(b\) の値も大きくなります。

(補足:\(b\) の値は、単純に分子1モルの体積そのものではなく、分子が衝突する際の中心間距離などを考慮した結果、分子1モルの体積の約4倍程度の値になることが知られています。)

したがって、理想気体の法則で使うべき「真の体積 \(V_{ideal}\)」は、実際に測定される容器の体積 \(V_{real}\) から、この排除体積の分を「差し引いて」補正することで得られます。

体積の補正:

\[ V_{ideal} = V_{real} – nb \]

これが、分子自身の大きさの影響を考慮に入れるための、第二の補正です。この補正項 \(nb\) は、しばしば「補正体積」と呼ばれます。この補正は、分子間の近距離での強い反発力の効果を、実質的に取り入れたものと解釈することができます。


4. ファンデルワールスの状態方程式の概念

4.1. 二つの補正の統合

私たちは今、理想気体の法則を、より現実に近づけるための、二つの重要な「補正パーツ」を手に入れました。

  1. 圧力の補正(分子間引力の影響):\[ P_{ideal} = P_{real} + a \left(\frac{n}{V}\right)^2 \]
  2. 体積の補正(分子自身の大きさの影響):\[ V_{ideal} = V_{real} – nb \]

ファンデルワールスの偉大な功績は、これら二つの、全く異なる物理的起源を持つ補正を、理想気体の状態方程式という一つの枠組みの中に、見事に統合したことにあります。

その論理は、非常に明快です。

「理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) は、もし分子間引力と分子の大きさを正しく補正した『理想的な圧力』と『理想的な体積』を用いれば、実在気体に対しても、近似的に成り立つはずだ」

4.2. ファンデルワールスの状態方程式

この考えに従い、理想気体の状態方程式

\[ P_{ideal} V_{ideal} = nRT \]

の \(P_{ideal}\) と \(V_{ideal}\) に、上記の補正式を、それぞれ代入します。

(以降、実際に観測される圧力を \(P\)、容器の体積を \(V\) と、添字なしで書くのが慣例です。)

ファンデルワールスの状態方程式 (van der Waals equation of state):

\[ \left( P + a\frac{n^2}{V^2} \right) (V – nb) = nRT \]

これが、理想気体モデルの限界を乗り越え、実在気体の振る舞いを、より広い範囲の温度・圧力で説明することを可能にした、画期的な方程式です。

4.3. この方程式が持つ意味

  • 理想気体への回帰:もし、気体の密度が非常に低い(\(V\) が非常に大きい)状況を考えると、
    • 圧力補正項 \(a(n/V)^2\) は、分母が非常に大きくなるため、ゼロに近づき、\(P\) に比べて無視できます。
    • 体積補正項 \(nb\) は、\(V\) に比べて無視できます。その結果、ファンデルワールスの状態方程式は、\((P)(V) \approx nRT\) となり、理想気体の状態方程式へと自然に回帰します。これは、低圧・高温の条件下では、実在気体が理想気体のように振る舞う、という事実と完全に一致しており、この方程式の正しさを示唆しています。
  • 気体の個性:定数 \(a\) と \(b\) の値は、気体の種類によって異なります。
    • \(a\) が大きい: 分子間引力が強い気体(例:水蒸気、アンモニアなど、極性を持つ分子)
    • \(b\) が大きい: 分子自身のサイズが大きい気体(例:二酸化炭素、ブタンなど)ファンデルワールスの状態方程式は、これらの気体の「個性」をパラメータ \(a, b\) によって取り込むことで、より現実に即した記述を可能にしているのです。
  • 液化の可能性:理想気体の状態方程式は、決して気体が液体になることを予測できません。しかし、ファンデルワールスの状態方程式は、その数式の中に、分子が互いに引き合う「\(a\) の効果」と、反発しあう「\(b\) の効果」の両方を含んでいます。この二つの効果のバランスによって、ある条件下では、気体が凝縮して液体になるという「相転移」の可能性を、数学的に記述することができるのです。これが、この方程式がもたらした、最大のブレークスルーの一つでした。

5. 理想気体からのずれの視覚的理解

5.1. 「理想性」を測るものさし:圧縮率因子 Z

実在気体の振る舞いが、理想気体のそれから、どの程度「ずれて」いるのか。この「ずれ」を定量的に、そして視覚的に表現するための、便利な指標があります。それが「圧縮率因子 (compressibility factor)」または「圧縮係数」と呼ばれる量で、記号 \(Z\) で表されます。

圧縮率因子 \(Z\) の定義は、以下の通りです。

\[ Z = \frac{PV}{nRT} \]

この式の意味を考えてみましょう。

もし、気体が完璧な理想気体であれば、\(PV=nRT\) が常に成り立つので、\(Z\) の値は、圧力や温度によらず、常に 1 となります。

\[ Z = \frac{nRT}{nRT} = 1 \quad (\text{for ideal gas}) \]

したがって、\(Z\) の値が 1 からどれだけずれているかを見れば、その気体が、その条件下で、どれだけ理想気体からかけ離れた振る舞いをしているかを、一目で判断することができるのです。

  • \(Z=1\): 理想気体と見なせる。
  • \(Z \neq 1\): 実在気体としての性質(分子間力や分子の大きさ)が、顕著に現れている。

5.2. Z-Pグラフによるずれの可視化

この圧縮率因子 \(Z\) を縦軸に、圧力 \(P\) を横軸にとって、様々な実在気体の振る舞いをプロットしたグラフ(Z-Pグラフ)は、理想気体からのずれを、非常に明快に示してくれます。

  • 理想気体のグラフ:\(Z=1\) の水平な直線となります。これが、すべての実在気体の振る舞いを比較するための「基準線」です。
  • 実在気体のグラフ(典型的な形状):実在気体のグラフは、この \(Z=1\) の直線から、以下のように特徴的にずれます。
    1. 極低圧領域 (\(P \to 0\)):圧力がゼロに近づく極限では、気体の密度もゼロに近づきます。このとき、分子間の平均距離は無限大となり、分子間力も分子の大きさも無視できるため、すべての実在気体は、理想気体のように振る舞います。したがって、どんな実在気体のグラフも、圧力ゼロの点で、必ず \(Z=1\) の値から出発します。
    2. 低圧〜中圧領域:圧力を上げていくと、多くの気体(水素やヘリウムのような一部の例外を除く、常温での)のグラフは、まず \(Z=1\) の線よりも下に沈み込みます(\(Z<1\))。
      • 物理的意味: \(Z = PV/nRT < 1\) ということは、\(PV < nRT\) であることを意味します。これは、同じ \(n, R, T\) の条件下で、実在気体の体積 \(V\) が、理想気体が占めるはずの体積よりも小さくなっている、すなわち、「理想気体よりも圧縮されやすい」状態にあることを示しています。
      • 原因: この領域では、分子間の距離が適度に縮まり、分子自身の反発力よりも、分子間引力の効果が支配的になります。分子同士が引き合うことで、気体は外部の圧力だけが原因である場合よりも、より小さくまとまろうとするのです。
    3. 高圧領域:さらに圧力を上げていくと、グラフは沈み込みから転じて上昇し始め、やがて \(Z=1\) の線を突き抜け、\(Z>1\) の領域へと入っていきます。
      • 物理的意味: \(Z = PV/nRT > 1\) ということは、\(PV > nRT\) であり、**実在気体が「理想気体よりも圧縮されにくい」**状態にあることを示しています。
      • 原因: この領域では、分子が極度に密集し、分子自身の大きさに起因する分子間反発力の効果が、引力を圧倒し始めます。分子が、それ以上縮むことに強く抵抗するため、体積がなかなか小さくならず、結果として \(PV\) の積が理想気体よりも大きくなるのです。

5.3. 温度によるZ-Pグラフの変化

このZ-Pグラフの形状は、温度によっても変化します。

  • 高温の場合:温度が高いと、分子の運動エネルギーが非常に大きくなります。そのため、多少圧力をかけても、分子は分子間引力を振り切って飛び回り、理想気体に近い振る舞いをします。したがって、温度が高いほど、Z-Pグラフの \(Z=1\) からのずれは全体的に小さくなり、より水平な直線に近づいていきます。特に、中圧域での沈み込み(\(Z<1\) の領域)が、浅く、そして狭くなっていきます。

このZ-Pグラフは、ファンデルワールスが導入した二つの補正項(引力と反発力)のせめぎ合いが、圧力や温度によってどのように変化するかを、実験データとして見事に描き出したものなのです。


6. 気体の液化現象

6.1. 理想気体モデルでは説明できない現象

理想気体の状態方程式 \(PV=nRT\) に従う限り、どんなに圧力を高くし、温度を低くしても、気体は気体のままであり続け、決して液体になることはありません。理想気体モデルは、分子間に働く「引力」を完全に無視しているため、分子が互いに引き合って凝集し、液体を形成するという、最も劇的な相転移を、原理的に記述することができないのです。

気体が液体になる「液化 (liquefaction)」は、実在気体に特有の、分子間力が主役となる現象です。

6.2. 等温圧縮による液化のプロセス

実在気体を液化させる、最も一般的な方法の一つが、「温度を一定に保ったまま、圧力をかけて圧縮していく(等温圧縮)」というものです。このプロセスを、P-V図上で見ていきましょう。

ある比較的低い温度 \(T\)(後述する臨界温度より低い)に保たれた、シリンダー内の実在気体を、ゆっくりと圧縮していきます。

  1. 領域1:気相 (Gas Phase)
    • 体積が大きい(圧力が低い)うちは、気体は理想気体に近い振る舞いをします。ピストンを押し込むと、圧力は上昇していきます。P-V図上では、等温線は理想気体の双曲線に似た、右下がりの曲線を描きます。
  2. 領域2:気液共存 (Gas-Liquid Coexistence)
    • 圧縮を進め、圧力が特定の飽和蒸気圧 (saturated vapor pressure) に達すると、驚くべきことが起こります。ピストンをさらに押し込んでも、圧力が全く上昇しなくなるのです。
    • その代わり、シリンダーの中では、気体の一部が液化を始め、液体(凝縮液)の小さな水滴が現れます。
    • この領域では、ピストンを押し込むにつれて、気体の量が減り、液体の量が増えていきますが、その間の圧力は、飽和蒸気圧で完全に一定に保たれます。
    • P-V図上では、このプロセスは、**V軸に平行な、水平な直線(プラトー)**として現れます。この水平線上で、気体と液体が「共存」しています。
  3. 領域3:液相 (Liquid Phase)
    • ピストンをさらに押し込み、容器内の気体がすべて液体に変わった瞬間、状況は再び一変します。
    • 液体は、気体に比べて、極めて「非圧縮性」が高い、すなわち、非常に圧縮しにくい物質です。
    • そのため、ピストンをほんの少し押し込むだけで、圧力は急激に、そして爆発的に上昇します。
    • P-V図上では、このプロセスは、ほとんど垂直に近い、極めて傾きの急な曲線として現れます。

この、理想気体の滑らかな双曲線とは全く異なる、水平なプラトーを持つ、特徴的な等温線こそが、気体の液化という相転移を、実験的に示すものなのです。ファンデルワールスの状態方程式は、このS字カーブに似た形状を、数学的に再現することに、ある程度成功しました。


7. 臨界温度と臨界点の概念

7.1. 液化の限界温度

前節で見た、等温圧縮による液化のプロセスは、任意の温度で起こるわけではありません。気体の種類ごとに、それを液化させることが可能な、温度の上限が存在します。

例えば、二酸化炭素は、室温(約25℃)では、十分に高い圧力をかければ液体にすることができます(ドライアイスを作る前の工程)。しかし、もし二酸化炭素を 35℃ に保った場合、いくら圧力をかけても、決して液体になることはありません。

この、気体を液化させることが可能な上限の温度のことを、「臨界温度 (critical temperature, \(T_c\))」と呼びます。

臨界温度の定義:

ある気体は、その臨界温度より高い温度では、どれだけ高い圧力をかけても、液化させることはできない。

7.2. P-V図上での臨界点の振る舞い

実在気体のP-V図上で、異なる温度の等温線を描いていくと、臨界温度の物理的な意味が、より明確になります。

  • \(T < T_c\) (臨界温度より低い温度) の場合:等温線は、前節で見たように、水平な「気液共存プラトー」を持ちます。
  • \(T > T_c\) (臨界温度より高い温度) の場合:等温線は、もはや水平なプラトーを持たず、理想気体の双曲線のように、単調な右下がりの曲線となります。この温度領域では、圧縮しても、気体と液体の明確な区別(相転移)は現れません。
  • \(T = T_c\) (ちょうど臨界温度) の場合:この温度で描かれる特別な等温線を、「臨界等温線 (critical isotherm)」と呼びます。この線上では、気液共存プラトーの長さがちょうどゼロになり、グラフはただ一点だけ、傾きが水平になる変曲点を持ちます。

この、臨界等温線上にある、傾きがゼロになる特別な状態点のことを、「臨界点 (critical point)」と呼びます。臨界点は、その物質に固有の臨界圧力 (\(P_c\)) と臨界体積 (\(V_c\)) によって特徴づけられます。

臨界点の物理的意味:

臨界点とは、気体と液体の区別が、完全になくなる点です。

  • 臨界温度以下では、気体と液体は、密度が異なる、明確に区別できる二つの相(状態)として存在します。
  • しかし、温度と圧力を臨界点に近づけていくと、液体の密度は減少し、気体の密度は増加していき、ついに臨界点で、両者の密度は等しくなり、区別がつかなくなります。

臨界点を超えた、臨界温度・臨界圧力以上の領域にある物質の状態は、「超臨界流体 (supercritical fluid)」と呼ばれます。超臨界流体は、気体のように低い粘性と高い拡散性を持ちながら、液体のように高い密度で物質を溶かす能力を持つ、非常にユニークで有用な状態です。

各物質の臨界温度の例:

  • 水 (\(H_2O\)): 374 ℃
  • 二酸化炭素 (\(CO_2\)): 31 ℃
  • 酸素 (\(O_2\)): -119 ℃
  • 窒素 (\(N_2\)): -147 ℃
  • ヘリウム (He): -268 ℃ (5.2 K)

この表は、なぜ酸素や窒素、ヘリウムが、常温常圧で常に気体として存在するのかを説明しています。これらの気体は、臨界温度が非常に低いため、室温(約25℃)では、臨界温度をはるかに超えた「超臨界流体」に近い状態にあるのです。これらの気体を液化させるためには、まず、それぞれの臨界温度以下まで、強力に冷却する必要があるのです。


8. ジュール・トムソン効果の定性的理解

8.1. もう一つの断熱膨張

Module 6で、私たちは二つの断熱膨張を学びました。

  1. 可逆断熱膨張: 気体がピストンを押して、外部に仕事をする膨張。温度は下がる
  2. 自由膨張: 気体が真空へ、仕事ゼロで膨張する。理想気体の場合、温度は変わらない

ここでは、実在気体の性質が鍵となる、第三の膨張プロセス、「ジュール=トムソン効果 (Joule-Thomson effect)」を定性的に理解します。これは、現代の冷凍技術やガスの液化技術の、心臓部とも言える重要な原理です。

ジュール=トムソン効果が起こる状況(絞り膨張):

断熱された管の途中に、綿や多孔質のセラミックのような「絞り(多孔栓)」を設け、その両側に圧力差をつけて、高圧の気体を低圧側へとゆっくりと流出させる。

このプロセスは「絞り膨張 (throttling process)」と呼ばれます。

8.2. エネルギー収支の考察

このプロセスは、全体が断熱されているため、外部との熱のやり取りは \(Q=0\) です。

しかし、自由膨張とは異なり、このプロセスでは仕事がなされています。

  • 高圧側 (\(P_1\)): 後ろの気体が、考えいる気体部分(体積 \(V_1\))を、絞りへと押し込む仕事をする。系がされる仕事は \(W_1 = P_1V_1\)。
  • 低圧側 (\(P_2\)): 考えいる気体部分が、前の気体を押しのけながら、体積 \(V_2\) まで膨張する。系がする仕事は \(W_{by, 2} = P_2V_2\)。

1モルの気体に対する第一法則 \(\Delta U = Q + W\) を適用すると、\(Q=0\) なので \(U_2 – U_1 = W\) となります。ここで、\(W\) は系がされた正味の仕事なので、\(W=W_1 – W_{by, 2} = P_1V_1 – P_2V_2\)。

したがって、\(U_2 – U_1 = P_1V_1 – P_2V_2\)。

これを整理すると、

\[ U_1 + P_1V_1 = U_2 + P_2V_2 \]

となります。この \(H = U+PV\) という量は「エンタルピー」と呼ばれ、絞り膨張の前後で、エンタルピーは保存される、という重要な結論が得られます。(これは大学レベルの内容です。)

8.3. なぜ温度が変化するのか

エンタルピーが保存されるとき、気体の温度はどうなるのでしょうか。これは、実在気体の二つの性質の、微妙なせめぎ合いによって決まります。

  • 効果1:外部への仕事(冷却効果):気体は、高圧側から低圧側へ移動する際に、全体として正味の外部への仕事(\(P_2V_2 – P_1V_1\))をします。この仕事をするためのエネルギーは、どこかから持ってこなければなりません。
  • 効果2:分子間力からの解放(冷却効果):気体が膨張すると、分子間の平均距離は大きくなります。分子間には引力が働いているため、この引力に逆らって分子を引き離すためには、エネルギーが必要です。このエネルギーは、分子自身の運動エネルギーから「支払われる」ことになります。その結果、分子の運動は穏やかになり、温度は下降します。
  • 効果3:衝突の効果(加熱効果):一方で、現実の気体では、理想気体とは異なり、温度が一定でも \(PV\) の値が一定ではありません。多くの場合、膨張によって \(PV\) の積は増加し、この分のエネルギーが運動エネルギーに転化して、温度を上昇させる効果もあります。

8.4. 結論と応用

ほとんどの気体では、常温常圧付近では、分子間力からの解放による冷却効果(効果2)が支配的となります。

その結果、

ほとんどの気体は、ジュール=トムソン効果によって、絞り膨張させると、その温度が下降する。

この冷却効果こそが、エアコンや冷蔵庫の基本原理です。

  1. コンプレッサーで冷媒ガスを圧縮し、高圧にする(このとき、熱は外部へ放出)。
  2. 高圧になった冷媒を、室内機の中にある細い管(キャピラリーチューブなどの絞り)を通過させて、一気に断熱膨張させる。
  3. ジュール=トムソン効果により、冷媒は極低温になる。
  4. この冷たくなった冷媒が、室内機の中を循環し、部屋の空気から熱を奪うことで、冷房が行われるのです。

この効果は、天然ガスの液化など、工業的にも極めて重要な役割を果たしています。


9. 相図(P-T図)の導入

9.1. 物質の状態の「地図」

私たちはこれまで、P-V図というツールを使って、気体の状態変化(特に、圧縮や膨張といった体積変化)を分析してきました。しかし、物質がとりうる状態は、気体だけではありません。固体や液体も存在します。

ある物質が、与えられた圧力 (\(P\)) と温度 (\(T\)) の条件下で、どの状態(固体、液体、気体)でいるのが最も安定か。その関係を、一枚の図にまとめた「地図」が、「相図 (phase diagram)」です。一般的に、縦軸に圧力 \(P\)、横軸に温度 \(T\) をとった P-T図が、最もよく用いられます。

(「相 (phase)」とは、固体、液体、気体のような、物質の均一な状態を指す言葉です。)

9.2. P-T相図の基本的な構造

ほとんどの純物質のP-T相図は、いくつかの「線」によって、三つの「領域」に分割された、共通の基本構造を持っています。

  • 領域 (Regions):
    • 固体 (Solid) 領域: 一般に、低温・高圧の領域に位置します。
    • 液体 (Liquid) 領域: 固体と気体の中間の、高温・高圧の領域に位置します。
    • 気体 (Gas) 領域高温・低圧の領域に位置します。
  • 境界線 (Boundary Lines):これらの領域を隔てる線の上では、二つの相が共存し、平衡状態にあります。
    1. 融解曲線 (Fusion/Melting Curve):
      • 固体領域と液体領域を隔てる線。
      • この線上の各点は、その圧力における**融点(凝固点)**を示しています。
      • ほとんどの物質(水を除く)では、圧力を高くすると融点が上がるため、この線は右上がりになります。
    2. 蒸気圧曲線 (Vapor Pressure Curve):
      • 液体領域と気体領域を隔てる線。
      • この線上の各点は、その温度における沸点(または、飽和蒸気圧)を示しています。
      • 温度が高いほど、液体は蒸発しやすくなる(蒸気圧が高くなる)ため、この線は常に右上がりになります。
      • この曲線は、臨界点 (critical point) で、突然終わりを迎えます。臨界点を超えると、液体と気体の区別がなくなるためです。
    3. 昇華曲線 (Sublimation Curve):
      • 固体領域と気体領域を隔てる線。
      • この線の上では、固体と気体(蒸気)が共存します。固体が直接気体になる「昇華」が起こる条件を示しています。
      • ドライアイス(固体の二酸化炭素)が、室温常圧で液体にならずに直接気体になるのは、二酸化炭素の相図において、常圧 (1 atm) が、この昇華曲線と交差する領域にあるためです。

9.3. 相図から読み取れること

相図は、ある物質の熱的な振る舞いに関する、膨大な情報を凝縮しています。

  • ある圧力下で物質を加熱していくと(P-T図上で、水平に右へ移動)、どの温度で融解し、どの温度で沸騰するかが、一目でわかります。
  • ある温度下で圧力を下げていくと(P-T図上で、垂直に下へ移動)、固体が融解したり、液体が沸騰したりする様子がわかります。
  • スケートの刃の下で氷が融けやすい理由(圧力をかけると融点が下がる、水の特異な性質)や、高山では低い温度で水が沸騰する理由なども、すべてこの相図から説明することができます。

10. 三重点と物質の状態

10.1. 三つの相が共存する、ただ一点

P-T相図を注意深く見ると、三つの境界線—融解曲線、蒸気圧曲線、昇華曲線—が、ただ一点で交わっていることがわかります。この、物質に固有の、極めて特別な圧力・温度の点を、「三重点 (triple point)」と呼びます。

三重点の定義:

ある物質の、固体、液体、気体の三つの相が、すべて同時に、互いに熱力学的な平衡状態を保って共存することができる、唯一の温度と圧力の点。

三重点の容器の中を覗くと、そこには、氷と水と水蒸気が、あたかも魔法のように、同時に安定して存在している、という不思議な光景が広がっています。

10.2. 三重点の重要性:温度の基準として

三重点は、単なる物理的な珍奇さにとどまりません。それは、現代の科学技術において、極めて重要な役割を果たしています。

三重点は、物質ごとに、物理法則によって一意に定まる、極めて再現性の高い状態です。例えば、純粋な水の三重点は、どんなに優れた実験者が、世界のどこで測定しても、常に同じ温度と圧力の値を示します。

  • 水の三重点温度: 約 0.01 ℃
  • 水の三重点圧力: 約 611.7 Pa (約 0.006 atm)

この完璧な再現性のため、水の三重点は、国際的な温度の基準、すなわちケルビン (K) を定義するための、基本的な基準点として採用されています。

国際単位系(SI)では、

絶対温度の単位であるケルビンは、水の三重点の熱力学的温度の 1/273.16 と定義される。

と定められています。すなわち、水の三重点の温度は、定義によって、正確に 273.16 K とされているのです。(セルシウス度の 0℃ が 273.15 K なので、三重点はそれよりわずかに高い 0.01℃ となります。)

この定義により、温度という、最も基本的な物理量の一つが、特定の物質(水)の、最も安定的で普遍的な性質(三重点)と、固く結びつけられているのです。

10.3. 相図の多様性

本モジュールで紹介したのは、水や二酸化炭素のような、比較的単純な物質の相図です。しかし、世の中には、複数の固相(例えば、氷には、圧力によって構造が異なる、10種類以上の異なる氷が存在する)を持つ物質や、超流動のような特殊な相を持つ物質(ヘリウム)など、はるかに複雑で豊かな相図を示す物質も数多く存在します。

相図の研究は、物質のミクロな構造と、それが示すマクロな性質とを結びつける、物性物理学の中心的なテーマの一つであり、新しい材料の開発などにも不可欠な、現代科学のフロンティアなのです。


Module 12:実在気体への入門の総括:理想の終わり、そして現実の豊かさの始まり

本モジュールを通じて、私たちは、これまで頼りにしてきた「理想気体」という安全な港を離れ、より複雑で、しかし、はるかに豊かな「実在気体」の海へと漕ぎ出しました。それは、物理学におけるモデルが、いかにして現実の挑戦を受け止め、自己を変革し、より深い説明能力を獲得していくか、その進化のプロセスを追体験する旅でした。

旅の始まりは、理想気体の法則が破綻する、低温・高圧という未知の海域の特定でした。私たちは、その破綻の根本原因が、理想気体モデルが無視してきた二つの現実—「分子自身の大きさ(反発力)」と「分子間に働く引力」—にあることを見出しました。ファンデルワールスは、これら二つの現実の効果を、「体積補正項 \(-nb\)」と「圧力補正項 \(+a(n/V)^2\)」として、理想気体の状態方程式に巧みに組み込み、「ファンデルワールスの状態方程式」という、より強力な羅針盤を私たちに与えてくれました。

この新しい羅針盤を手に、私たちは、理想気体では決して到達できなかった新しい大陸を発見しました。圧縮率因子Zのグラフは、実在気体が理想からどうずれるかを視覚的に示し、P-V図上の等温線は、ついに気体が液体へとその姿を変える「液化」という劇的な相転移の風景を描き出しました。そして、その風景の中には、これ以上は液化しえない上限温度である「臨界点」という、物質の個性を象徴するランドマークがそびえ立っていました。

さらに、ジュール=トムソン効果の探求は、実在気体の分子間力が、現代の冷凍・空調技術のまさに心臓部であることを明らかにし、理論と技術の間の深い繋がりを示してくれました。最後に、私たちは、物質の状態を鳥瞰する「相図」という地図を手に入れ、固体・液体・気体という三つの大陸が、「三重点」という特異な一点で出会う、世界の美しい地理を学びました。

理想気体というモデルは、そのシンプルさゆえに、熱力学の基本法則を学ぶ上で、かけがえのない道しるべでした。しかし、そのモデルを乗り越え、現実の複雑さを受け入れたとき、私たちは、液化、臨界点、相転移といった、はるかに豊かで、私たちの生活と技術に深く関わる現象を、物理学の言葉で語ることができるようになったのです。理想の終わりは、現実の豊かさの始まりでした。次なるモジュールでは、これまでに築いた熱力学の体系全体を、改めて統合的な視点から見つめ直し、その全体像を確固たるものにしていきます。

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