【基礎 物理(熱力学)】Module 7:様々な状態変化の比較と応用

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本モジュールの目的と構成

これまでのモジュールで、私たちは熱力学の基本的な「登場人物」と「ルール」を学んできました。Module 4では、エネルギー保存則の舞台である「熱力学第一法則」を、Module 5と6では、その舞台で演じられる四つの基本的な「演劇」—定積、定圧、等温、断熱変化—の脚本を、それぞれ読み解きました。個々のプロセスがどのように進行し、エネルギーの収支がどうなるかを理解した今、私たちは次の、より高い次元の問いへと進む準備が整いました。

それは、「これらのプロセスを比較し、組み合わせ応用する」ことです。本モジュールは、これまでに獲得した知識を総動員し、それらを統合して、より複雑で現実的な熱現象を分析するための「応用編」であり、「総合演習」です。

このモジュールでは、まず四つの基本変化を同じ土俵の上で比較し、その違いをP-V図やエネルギー収支の観点から徹底的に明らかにします。次に、「自由膨張」という特殊なプロセスを通じて、理想気体の内部エネルギーの性質を再確認するとともに、「可逆変化」と「不可逆変化」という、熱力学の深淵に触れる重要な概念を導入します。これは、後の熱力学第二法則への重要な橋渡しとなります。

そして、本モジュールのハイライトとして、複数の状態変化を組み合わせた「熱サイクル」の解析に挑みます。熱サイクルは、エンジンや冷蔵庫といった、熱を仕事に、あるいは仕事を熱の移動に変換するあらゆる装置の基本原理です。サイクル全体の仕事や熱の出入りを計算する技術を習得することで、熱力学の持つ、現実世界の問題を解決するための強力な応用力を実感することができるでしょう。

このモジュールを学習することで、あなたは以下の能力を獲得します。

  1. 4つの基本状態変化の総括: 四つのプロセス(定積、定圧、等温、断熱)の定義、法則、エネルギー収支を体系的に整理し、記憶を確固たるものにします。
  2. P-V図上での各変化の軌跡の比較: P-V図上で各プロセスが描く軌跡の違いを視覚的に理解し、仕事の大小関係などを直感的に判断する能力を養います。
  3. 各変化における内部エネルギー、仕事、熱量の関係整理: 各プロセスにおける\(\Delta U, W, Q\)の関係をまとめることで、いつでも参照可能な知識のデータベースを頭の中に構築します。
  4. 自由膨張の概念と内部エネルギー変化: 理想気体の内部エネルギーが温度のみに依存するという法則を、自由膨張という思考実験を通じて再確認します。
  5. 不可逆変化の概念とその例: 現実のプロセスが持つ「元に戻れない」という性質を理解し、理想的なモデルとの違いを認識します。
  6. 可逆変化の理想的プロセスとしての理解: 熱力学の理論が基礎を置く、理想的な「可逆変化」の概念を学びます。
  7. 複数の状態変化を組み合わせたサイクルの解析: 熱力学第一法則をサイクル全体に適用し、正味の仕事や熱量を計算する技術を習得します。
  8. 状態変化の順序と全体の仕事・熱量の関係: 仕事と熱が「経路関数」であることを、具体的な例を通して深く理解します。
  9. 気体の混合とエントロピーの定性的理解: 自発的な変化の方向性を支配する「エントロピー」という重要な概念に、初めて触れます。
  10. 状態方程式と第一法則を組み合わせた問題解決: 複雑な設定の問題に対し、これまで学んだすべての法則を総動員して立ち向かう、総合的な問題解決能力を完成させます。

このモジュールを終えたとき、あなたはもはや個別の法則を知っているだけの学習者ではありません。それらの法則を自在に組み合わせ、比較し、応用することで、複雑な熱現象の背後にあるエネルギーの流れを読み解くことができる、真の「熱力学の分析家」となっているはずです。


目次

1. 4つの基本状態変化(定積、定圧、等温、断熱)の総括

熱力学の応用問題に取り組む前に、まずは私たちの武器庫にある四つの基本的な道具(状態変化)の性能と特徴を、完全に整理し、いつでも引き出せるようにしておく必要があります。ここでは、定積、定圧、等温、断熱の各変化について、その定義、関係式、第一法則の適用、そしてP-V図上での表現を、改めて体系的に総括します。

1.1. 定積変化 (Isochoric Process)

  • 定義・制約体積 \(V\) = 一定。固く閉じた容器内での加熱・冷却。
  • 状態量の関係式: ゲイ=リュサックの法則。圧力と絶対温度が比例。[ \frac{P}{T} = \text{一定} \quad \implies \quad \frac{P_1}{T_1} = \frac{P_2}{T_2} ]
  • 仕事 \(W\): 体積が変化しないため、仕事のやり取りは一切ない。[ W = 0 ]
  • 内部エネルギーの変化 \(\Delta U\): あらゆるプロセスで共通。温度変化にのみ依存。[ \Delta U = nC_V \Delta T ]
  • 熱量 \(Q\): 第一法則 \(\Delta U = Q + W\) より、\(W=0\) なので、[ Q_V = \Delta U = nC_V \Delta T ]加えられた熱は、すべて内部エネルギーの増加に使われる。
  • P-V図上の軌跡: 体積が一定なので、P軸に平行な垂直線。加熱で上昇、冷却で下降。

1.2. 定圧変化 (Isobaric Process)

  • 定義・制約圧力 \(P\) = 一定。なめらかに動くピストン付きシリンダーでの加熱・冷却。
  • 状態量の関係式: シャルルの法則。体積と絶対温度が比例。[ \frac{V}{T} = \text{一定} \quad \implies \quad \frac{V_1}{T_1} = \frac{V_2}{T_2} ]
  • 仕事 \(W\): 外部から「される仕事」。体積変化と符号が逆。[ W = -P\Delta V ]
  • 内部エネルギーの変化 \(\Delta U\): あらゆるプロセスで共通。[ \Delta U = nC_V \Delta T ]
  • 熱量 \(Q\): 第一法則 \(Q = \Delta U – W\) より、[ Q_P = nC_V \Delta T – (-P\Delta V) = nC_V \Delta T + P\Delta V ]定圧モル比熱 \(C_p\) を使うと、[ Q_P = nC_p \Delta T ]加えられた熱は、内部エネルギーの増加と外部への仕事に分配される。
  • P-V図上の軌跡: 圧力が一定なので、V軸に平行な水平線。加熱(膨張)で右へ、冷却(圧縮)で左へ移動。

1.3. 等温変化 (Isothermal Process)

  • 定義・制約温度 \(T\) = 一定。熱浴に接した系を、準静的に変化させる。
  • 状態量の関係式: ボイルの法則。圧力と体積が反比例。[ PV = \text{一定} \quad \implies \quad P_1V_1 = P_2V_2 ]
  • 仕事 \(W\): P-V図の面積。計算には積分が必要 (\(W = nRT\ln(V_1/V_2)\))。
  • 内部エネルギーの変化 \(\Delta U\): 温度が一定なので、内部エネルギーも変化しない。[ \Delta U = 0 ]
  • 熱量 \(Q\): 第一法則 \(\Delta U = Q + W\) より、\(\Delta U=0\) なので、[ Q = -W \quad (= W_{by}) ]吸収した熱は、すべて外部への仕事に使われる。
  • P-V図上の軌跡: 反比例のグラフである双曲線(等温線)

1.4. 断熱変化 (Adiabatic Process)

  • 定義・制約熱の出入りがゼロ \(Q=0\)。断熱材で囲むか、高速に変化させる。
  • 状態量の関係式: ポアソンの法則。\(\gamma = C_p/C_V\) は比熱比。[ PV^\gamma = \text{一定} \quad \implies \quad P_1V_1^\gamma = P_2V_2^\gamma ](\(TV^{\gamma-1} = \text{一定}\) の形も重要。)
  • 仕事 \(W\): P-V図の面積。
  • 内部エネルギーの変化 \(\Delta U\): あらゆるプロセスで共通。[ \Delta U = nC_V \Delta T ]
  • 熱量 \(Q\): 定義より、[ Q = 0 ]
  • 第一法則の適用: \(\Delta U = Q + W\) より、\(Q=0\) なので、[ \Delta U = W ]外部からされた仕事は、すべて内部エネルギーの増加になる。
  • P-V図上の軌跡等温線よりも傾きが急な曲線(断熱線)

この四つのプロセスの特徴をまとめた「知識の引き出し」を頭の中に整理しておくことが、複雑な問題を解くための第一歩となります。


2. P-V図上での各変化の軌跡の比較

四つの基本変化の個々の特徴を理解した上で、それらを同じP-V図という「舞台」の上で共演させ、その軌跡を比較することで、それぞれのプロセスの違いがより一層鮮明になります。

2.1. 比較のシナリオ設定

比較を明確にするため、共通の初期状態 A (\(P_0, V_0, T_0\)) から出発する、二つのシナリオを考えます。

  • シナリオ1:体積を2倍 (\(2V_0\)) まで膨張させる
  • シナリオ2:体積を半分 (\(V_0/2\)) まで圧縮する

この膨張・圧縮を、定圧、等温、断熱の三つの異なるプロセスで行った場合、それぞれの最終状態と、その間に気体がした仕事(P-V図の面積)は、どのように異なるでしょうか。

2.2. シナリオ1:膨張プロセスの比較

初期状態A (\(P_0, V_0\)) から、体積 \(V_f = 2V_0\) まで膨張させます。

  • 定圧膨張 (A → B):
    • 軌跡: 圧力 \(P_0\) を保ったまま、体積が \(2V_0\) になるまで水平に右へ移動します。最終状態Bの座標は (\(P_0, 2V_0\))。
    • 温度: シャルルの法則 (\(V/T=\text{一定}\)) より、体積が2倍になったので、絶対温度も2倍 (\(2T_0\)) になります。
    • 仕事 \(W_{by, isobaric}\): P-V図の下側の長方形の面積となり、\(P_0 \times (2V_0 – V_0) = P_0V_0\)。
  • 等温膨張 (A → C):
    • 軌跡: 温度 \(T_0\) を保ったまま、ボイルの法則 \(PV=P_0V_0\) に従って、双曲線を描きながら右下へ移動します。最終状態Cでは、体積が \(2V_0\) なので、圧力は \(P_0/2\) となります。座標は (\(P_0/2, 2V_0\))。
    • 温度: 等温なので、\(T_0\) のままです。
    • 仕事 \(W_{by, isothermal}\): 定圧膨張の軌跡(水平線)よりも常に下に位置するため、その面積は定圧膨張の仕事よりも小さくなります。
  • 断熱膨張 (A → D):
    • 軌跡: Module 6で学んだように、断熱線は等温線よりも傾きが急です。したがって、軌跡は等温線を横切って、さらにその内側へと落ち込む、より急な曲線を描きます。
    • 温度: 断熱膨張では温度が下降するため、最終状態Dの温度は \(T_0\) よりも低くなります。
    • 圧力: 温度も下がるため、最終状態Dの圧力は、等温膨張の最終圧力 \(P_0/2\) よりも、さらに低くなります。
    • 仕事 \(W_{by, adiabatic}\): 断熱線の軌跡は等温線の軌跡よりも常に下に位置するため、その面積は等温膨張の仕事よりも、さらに小さくなります。

2.2.1. 膨張の結論

同じ体積変化 (\(V_0 \to 2V_0\)) であっても、

  • 最終圧力: \(P_{isobaric} > P_{isothermal} > P_{adiabatic}\)
  • 最終温度: \(T_{isobaric} > T_{isothermal} > T_{adiabatic}\)
  • 外部にした仕事: \(W_{by, isobaric} > W_{by, isothermal} > W_{by, adiabatic}\)

という、明確な大小関係が成り立ちます。最も効率よく(少ない熱で)大きな仕事を取り出せるのは、圧力と温度を高く保てる定圧膨張である、と直感的に理解できます。

2.3. シナリオ2:圧縮プロセスの比較

初期状態A (\(P_0, V_0\)) から、体積 \(V_f = V_0/2\) まで圧縮させます。

  • 定圧圧縮 (A → B’): 圧力 \(P_0\) のまま、体積が \(V_0/2\) になるまで水平に左へ移動。温度は \(T_0/2\) に下がります。
  • 等温圧縮 (A → C’): 温度 \(T_0\) のまま、双曲線に沿って左上へ移動。体積が \(V_0/2\) なので、圧力は \(2P_0\) になります。
  • 断熱圧縮 (A → D’): 等温線より急な断熱線に沿って、さらにその外側へと急上昇します。温度は \(T_0\) よりも上昇し、最終圧力は \(2P_0\) よりもさらに高くなります。

2.3.1. 圧縮の結論

同じ体積変化 (\(V_0 \to V_0/2\)) であっても、外部からされる仕事の大きさ(\(|W| = |-W_{by}|\))を比較すると、

  • 必要な仕事の大きさ: \(|W_{adiabatic}| > |W_{isothermal}| > |W_{isobaric}|\)

となります。断熱圧縮では、加えられた仕事が内部エネルギーの増加(温度上昇)も引き起こすため、圧力が急激に上昇し、それをさらに押し込むためには、より大きな力(仕事)が必要になるのです。

このP-V図上での比較は、単なる知識として覚えるだけでなく、なぜそのような大小関係になるのかを、各プロセスの物理的な意味(温度変化や熱の出入りの有無)と結びつけて、論理的に説明できるようになることが重要です。


3. 各変化における内部エネルギー、仕事、熱量の関係整理

これまでの議論を、熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) の観点から、最終的に整理しまとめます。この表は、熱力学の計算問題に取り組む際の、強力な「公式リファレンスシート」となります。

前提: \(n\) mol の単原子分子理想気体を考えます。\(C_V = \frac{3}{2}R\), \(C_p = \frac{5}{2}R\), \(\gamma = 5/3\)。

\(W\) は気体が外部からされる仕事 (\(W = -W_{by}\)) とします。

プロセス制約条件内部エネルギーの変化 \(\Delta U\)仕事 \(W\)熱量 \(Q\)
定積変化\(V = \text{一定}\)<br>\(\Delta V = 0\)\(\Delta U = nC_V \Delta T\)<br>=\(\frac{3}{2}nR\Delta T\)\(W = 0\)\(Q_V = \Delta U\)<br>=\(nC_V \Delta T\)
定圧変化\(P = \text{一定}\)\(\Delta U = nC_V \Delta T\)<br>=\(\frac{3}{2}nR\Delta T\)\(W = -P\Delta V\)<br>=\(-nR\Delta T\)\(Q_P = \Delta U – W\)<br>=\(nC_p \Delta T\)
等温変化\(T = \text{一定}\)<br>\(\Delta T = 0\)\(\Delta U = 0\)\(W = nRT\ln\frac{V_1}{V_2}\)\(Q = -W\)<br>=\(-nRT\ln\frac{V_1}{V_2}\)
断熱変化\(Q = 0\)\(\Delta U = nC_V \Delta T\)<br>=\(\frac{3}{2}nR\Delta T\)\(W = \Delta U\)<br>=\(nC_V \Delta T\)\(Q = 0\)

この表から読み解くべき重要なポイント:

  • \(\Delta U\) の普遍性: 内部エネルギーの変化量 \(\Delta U\) の計算式 \(nC_V\Delta T\) は、あらゆるプロセスで共通です。これは、\(U\) が経路によらない状態量であることの現れです。問題で \(\Delta U\) を求められたら、まず温度変化 \(\Delta T\) を求めることに集中するのが鉄則です。
  • 仕事 \(W\) と熱 \(Q\) の多様性: 一方で、仕事 \(W\) と熱 \(Q\) は、プロセスによってその計算方法が全く異なります。これらは、始点と終点が同じでも、途中の経路によって値が変わる「経路関数」であることの現れです。
  • 第一法則による繋がり: どのようなプロセスであっても、これら三つの量は、常に \(\Delta U = Q + W\) という関係で結びついています。三つのうち二つが分かれば、残りの一つは自動的に決まります。多くの問題は、この関係を利用して、直接計算しにくい量(しばしば \(Q\))を、他の二つの量から間接的に求める、という構造になっています。

この表を単に暗記するのではなく、各セルの式が、なぜその形になるのかを、第一法則と各プロセスの定義に立ち返って、いつでも自分の力で導出できるようになることが、真の理解への道です。


4. 自由膨張の概念と内部エネルギー変化

4.1. 特殊な断熱膨張:自由膨張

断熱変化の一種として、物理学の思考実験において非常に重要な役割を果たす、特殊なプロセスがあります。それが「自由膨張 (free expansion)」です。

自由膨張とは、以下のような状況設定で起こる、断熱的な膨張プロセスです。

外部から断熱された容器が、仕切りによって二つの部分に分けられている。片方には理想気体が、もう片方は真空になっている。この状態で、仕切りを突然取り除いたとき、気体が容器全体に広がっていく現象。

このプロセスは、以下の二つの重要な特徴を持っています。

  1. 断熱的である (\(Q=0\)): 容器全体が外部から断熱されているため、この膨張の過程で、外部との熱のやり取りはありません。
  2. 外部に対して仕事をしない (\(W=0\)): これが通常の断熱膨張との決定的な違いです。気体が膨張する先の空間は「真空」であり、そこにはピストンのような、気体が押しのけるべき相手が何も存在しません。したがって、気体は外部の何ものにも力を及ぼさず、外部に対してする仕事はゼロです。

4.2. 第一法則の適用と驚くべき結論

この二つの条件 (\(Q=0, W=0\)) を、熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) に適用すると、驚くほどシンプルで、かつ深遠な結論が導かれます。

[ \Delta U = 0 + 0 ]

自由膨張における内部エネルギー変化:

[ \Delta U = 0 ]

これは、「理想気体が自由膨張する際には、その内部エネルギーは変化しない」ということを意味します。

4.3. 自由膨張が意味するもの

この結論は、私たちがModule 4で学んだ、理想気体の内部エネルギーに関する重要な性質を、全く別の角度から裏付けるものとなります。

  • 内部エネルギーと温度の関係: 理想気体の内部エネルギーは、絶対温度のみに依存するのでした (\(U \propto T\))。
  • 結論: 自由膨張によって内部エネルギーが変化しない (\(\Delta U = 0\)) ということは、すなわち、自由膨張の前後で、理想気体の温度は変化しない (\(\Delta T = 0\)) ということです。

これは、一見すると奇妙に思えるかもしれません。通常の断熱膨張では、気体は仕事をするために内部エネルギーを消費し、温度が下がるのでした。しかし、自由膨張では、仕事をする必要がないため、内部エネルギーを消費する必要もなく、温度も下がらないのです。

ミクロな視点で見れば、仕切りを取り除いた後、分子はただ、より広い空間へと広がっていくだけです。分子間力がないため、分子間の距離が大きくなってもポテンシャルエネルギーは変化せず、また、外部とエネルギーをやり取りする壁(動くピストンなど)もないため、分子の運動エネルギーも変化する理由がありません。したがって、平均運動エネルギー、すなわち温度は一定に保たれるのです。

この自由膨張の思考実験は、理想気体の内部エネルギーが体積には依存しない(ジュールの法則)という性質を、熱力学第一法則から導き出すための、エレガントな論理的手段を提供してくれます。また、次のセクションで学ぶ「不可逆変化」の最も代表的な例としても、重要な役割を果たします。


5. 不可逆変化の概念とその例

5.1. 現実世界のプロセスが持つ「一方通行」の性質

私たちの身の回りで起こる現象のほとんどは、「元に戻ることができない」という、強い方向性を持っています。

  • コップから床に落ちたインクは、部屋中に広がっていきますが、広がったインクが自然に集まってコップに戻ることはありません。
  • 熱いコーヒーを部屋に置いておくと、やがて冷めて室温と同じになりますが、室温のコーヒーが、周りの空気から熱を集めて自然に熱くなることはありません。
  • 二つの異なる気体を混ぜ合わせると、均一な混合気体になりますが、その混合気体が自然に元の二つの純粋な気体に分離することはありません。

このように、外部から特別な操作を加えることなく、逆向きのプロセスが自発的に起こることがないような、一方通行の変化のことを「不可逆変化 (irreversible process)」と呼びます。

熱力学が扱うマクロな現象は、そのほとんどが、この不可逆性という性質を本質的に持っています。

5.2. 不可逆変化の熱力学的な特徴

不可逆変化は、熱力学的には、以下のような特徴を持っています。

  • 非平衡状態を経由する: プロセスが進行している途中、系の中の温度や圧力は一様ではなく、明確に定義できない「非平衡状態」を経由します。例えば、前節の自由膨張では、仕切りを外した直後、気体は激しい流れや渦(乱流)を伴いながら広がっていき、系内の圧力は場所によって大きく異なります。
  • P-V図上に軌跡を描けない: 熱力学的な状態量(P, V, T)が定義できるのは、系が平衡状態にあるときだけです。不可逆変化では、途中の状態が非平衡であるため、P-V図上に、そのプロセスを示す連続的な軌跡(線)を描くことができません。描くことができるのは、変化の前の始状態(平衡状態)と、変化が終わって十分に時間が経った後の終状態(新しい平衡状態)の、二つの点だけです。
  • 散逸的な効果を伴う: 摩擦、粘性、拡散、抵抗といった、エネルギーがより無秩序な形態(熱)へと散らばっていく「散逸的な効果」を伴うプロセスは、すべて不可逆です。

5.3. 不可逆変化の代表例

  • 自由膨張: 前節で見たように、これは不可逆変化の典型例です。容器全体に広がった気体が、何もしないのに自発的に片方の部屋に集まり、もう片方を真空にすることはありません。
  • 熱伝導: 高温物体と低温物体を接触させたときに、高温側から低温側へと熱が移動する現象。逆向きに、低温物体から高温物体へと熱が自発的に移動することはありません。
  • 気体の混合(拡散): 異なる気体が混じり合うプロセス。
  • 摩擦を伴う運動: ピストンとシリンダーの間に摩擦がある場合、ピストンを動かすと、その仕事の一部が摩擦熱として失われます。この熱は元に戻せないため、プロセスは不可逆になります。

現実のプロセスは、厳密に言えばすべて、何らかの不可逆的な要素を含んでいます。では、なぜ私たちは、これまでP-V図上に軌跡を描き、理想的な計算を行ってきたのでしょうか。それは、次の「可逆変化」という、理想化されたモデルを考えてきたからです。


6. 可逆変化の理想的プロセスとしての理解

6.1. 熱力学の理論が立脚する「理想的な変化」

現実のプロセスがすべて「不可逆」であるのに対し、熱力学の理論体系、特に熱サイクルの効率などを議論する上で、極めて重要な役割を果たすのが、「可逆変化 (reversible process)」という、理想化された概念です。

可逆変化とは、

あるプロセスを進めた後、外部の条件を微小量だけ逆向きに変化させることで、系と外部環境の両方を、完全に元の状態に戻すことができる、理想的なプロセス。

を指します。それは、まるで映画を逆再生するように、たどってきた道筋を完全に逆向きにたどることができる、時間的に対等な変化です。

6.2. 可逆変化が満たすべき条件

あるプロセスが可逆であるためには、以下の二つの厳しい条件が満たされなければなりません。

  1. 準静的過程であること:プロセスは、無限にゆっくりと進行しなければなりません。これにより、プロセスのどの瞬間においても、系は常に平衡状態にあり、その状態をP-V図上の一点として明確にプロットすることができます。私たちがこれまで描いてきたP-V図上の連続的な線(軌跡)は、すべて、この準静的過程を暗黙の前提としています。
  2. 散逸的な効果が存在しないこと:プロセスの中に、摩擦、粘性、抵抗といった、エネルギーを不可逆的に熱に変えてしまうような効果が一切存在しないことが必要です。

もちろん、現実の世界で、無限にゆっくりとしたプロセスや、摩擦がゼロの状況を実現することは不可能です。したがって、可逆変化は、あくまで現実には存在しない、理論上の理想化です。

6.3. なぜ可逆変化という理想モデルを考えるのか

では、なぜ現実には存在しない可逆変化というモデルを、わざわざ考えるのでしょうか。それには、いくつかの重要な理由があります。

  • 計算の可能性: 可逆変化は、常に平衡状態を経由するため、その軌跡をP-V図上に描くことができ、仕事の量(面積)などを積分によって厳密に計算することが可能になります。不可逆変化では、このような計算は原理的に不可能です。
  • 効率の理論的な上限: 熱を仕事に変換する熱機関などを考える際、可逆的なプロセス(例えば、後で学ぶカルノーサイクル)は、達成可能な効率の理論的な最大値を与えてくれます。現実の不可逆なエンジンは、摩擦などの損失があるため、この理想的な効率を超えることは絶対にできません。可逆変化は、私たちが目指すべき「理論的な限界(ベンチマーク)」を示す役割を果たします。
  • 熱力学第二法則の定式化: エントロピーや熱力学第二法則といった、より高度な概念は、この可逆変化という理想的なプロセスを基準として、厳密に定式化されます。

私たちがこれまで扱ってきた、定積、定圧、等温、断熱といった四つの基本変化は、特に断りがない限り、すべてこの**準静的かつ散逸のない「可逆変化」**として扱われています。この理想的なモデルをまず理解し、その上で、現実の不可逆性がどのような違い(効率の低下など)をもたらすのかを考える。これが、熱力学を学ぶ上での基本的な思考のステップとなります。


7. 複数の状態変化を組み合わせたサイクルの解析

7.1. 熱機関の心臓部:熱サイクル

これまでに学んだ四つの基本的な状態変化は、それぞれが熱力学的なプロセスの「部品」です。そして、これらの部品を巧みに組み合わせることで、熱エネルギーを継続的に仕事に変換したり、その逆を行ったりする、実用的な装置の理論モデルを構築することができます。

特に重要なのが、「熱サイクル (thermodynamic cycle)」です。熱サイクルとは、

ある作動物質(通常は気体)が、一連の状態変化を経た後、最終的に完全に元の初期状態に戻る、循環的なプロセス。

を指します。エンジンが、ピストンの上下運動を何度も繰り返して動き続けるように、サイクルは、同じプロセスを何度も繰り返すことで、継続的にエネルギー変換を行うことを可能にします。

7.2. サイクルの解析における第一法則の鉄則

熱サイクルのエネルギー収支を解析する上で、出発点となるのは、状態量である「内部エネルギー」の性質です。

  • 内部エネルギー (\(U\)) は状態量: その値は、現在の系の状態(温度)だけで決まり、経路にはよりません。
  • サイクルの定義: サイクルは、出発した状態に、最終的に戻ってくるプロセスです。
  • 結論: 始状態と終状態が全く同じなので、その内部エネルギーも全く同じです。したがって、

任意の熱サイクルを1周したときの、内部エネルギーの正味の変化量 (\(\Delta U_{cycle}\)) は、常にゼロである。

[ \Delta U_{cycle} = 0 ]

この \(\Delta U_{cycle}=0\) という事実が、サイクル解析における絶対的な大原則です。

この原則を、熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) に適用してみましょう。

[ \Delta U_{cycle} = Q_{cycle} + W_{cycle} ]

[ 0 = Q_{cycle} + W_{cycle} ]

熱サイクルにおける第一法則:

[ Q_{cycle} = -W_{cycle} ]

ここで、\(Q_{cycle}\) は「1サイクルで系が吸収した正味の熱量」、\(W_{cycle}\) は「1サイクルで系がされた正味の仕事」です。

\(-W_{cycle} = W_{by, cycle}\)(1サイクルで系がした正味の仕事)なので、この式は、

[ Q_{cycle} = W_{by, cycle} ]

と書くこともできます。

この式が意味するのは、

熱サイクルが1周する間に、作動物質が外部から吸収した正味の熱量は、そのサイクルが外部に対してした正味の仕事に、正確に等しい。

これこそが、熱機関(エンジン)が機能する基本原理です。気体は、熱を吸収し、それを仕事に変換し、そして元の状態に戻る、というサイクルを繰り返すことで、熱エネルギーを力学的な仕事へと継続的に変換するのです。

7.3. サイクル解析の具体例

問題:

単原子分子理想気体が、P-V図上で、A→B→C→A という長方形のサイクルを行う。

A: (\(P_0, V_0\))

B: (\(P_0, 2V_0\))

C: (\(2P_0, 2V_0\))

この1サイクルについて、各過程とサイクル全体での \(\Delta U, W, Q\) を求めよ。

思考プロセス:

  1. 各頂点の温度を求める: 状態方程式 \(T=PV/nR\) を使う。A点の温度を \(T_0 = P_0V_0/nR\) とする。
    • \(T_A = T_0\)
    • \(T_B = P_0(2V_0)/nR = 2(P_0V_0/nR) = 2T_0\)
    • \(T_C = (2P_0)(2V_0)/nR = 4(P_0V_0/nR) = 4T_0\)
  2. 各過程の \(\Delta U, W, Q\) を計算:
    • 過程 A→B (定圧膨張):
      • \(\Delta T = T_B – T_A = T_0\)。\(\Delta U_{AB} = \frac{3}{2}nR\Delta T = \frac{3}{2}nRT_0 = \frac{3}{2}P_0V_0\)。
      • \(W_{AB} = -P_0 \Delta V = -P_0(2V_0 – V_0) = -P_0V_0\)。
      • \(Q_{AB} = \Delta U_{AB} – W_{AB} = \frac{3}{2}P_0V_0 – (-P_0V_0) = \frac{5}{2}P_0V_0\)。
    • 過程 B→C (定積加熱):
      • \(\Delta T = T_C – T_B = 2T_0\)。\(\Delta U_{BC} = \frac{3}{2}nR(2T_0) = 3nRT_0 = 3P_0V_0\)。
      • \(W_{BC} = 0\) (定積なので)。
      • \(Q_{BC} = \Delta U_{BC} – W_{BC} = 3P_0V_0\)。
    • 過程 C→A: (これは基本プロセスではないので、2段階に分けるか、始点と終点だけで考える)
      • おっと、問題設定が A→B→C→A なので、CからAに戻るパスが必要です。例えば、C→D(2P₀, V₀)→A のように。ここでは簡単のため、C→Aが直線のプロセスだと仮定して進めます。(より一般的な問題では、サイクルは4つの頂点で構成されます。)
      • ここでは、C→Aが断熱や等温でない、ある一般的なプロセスだとします。
      • \(\Delta T = T_A – T_C = -3T_0\)。\(\Delta U_{CA} = \frac{3}{2}nR(-3T_0) = -\frac{9}{2}nRT_0 = -\frac{9}{2}P_0V_0\)。
      • 仕事 \(W_{CA}\) は、台形の面積として計算できる。\(W_{by, CA} = \frac{(P_0+2P_0)(2V_0-V_0)}{2} = \frac{3}{2}P_0V_0\)。これは圧縮過程なので、された仕事 \(W_{CA}\) は正の値だが、ここでは始点から終点への変化なので、\(W_{by, CA}\) は負、\(W_{CA}\)は正となるべき。始点C、終点Aなので、\(\Delta V = V_0 – 2V_0 = -V_0\)。台形の面積は \(\frac{(P_A+P_C)(V_A-V_C)}{2}\) ではない。仕事は面積なので、\(W_{by, CA} = -\frac{1}{2}(P_0+2P_0)(2V_0-V_0) = -\frac{3}{2}P_0V_0\)。よって \(W_{CA} = \frac{3}{2}P_0V_0\)。
      • \(Q_{CA} = \Delta U_{CA} – W_{CA} = -\frac{9}{2}P_0V_0 – \frac{3}{2}P_0V_0 = -6P_0V_0\)。
  3. サイクル全体の合計を計算:
    • \(\Delta U_{cycle}\): \(\Delta U_{AB} + \Delta U_{BC} + \Delta U_{CA} = \frac{3}{2}P_0V_0 + 3P_0V_0 – \frac{9}{2}P_0V_0 = 0\)。(これは計算するまでもなく、常にゼロになるはず。検算として機能します。)
    • \(W_{cycle}\): \(W_{AB} + W_{BC} + W_{CA} = -P_0V_0 + 0 + \frac{3}{2}P_0V_0 = \frac{1}{2}P_0V_0\)。
    • \(Q_{cycle}\): \(Q_{AB} + Q_{BC} + Q_{CA} = \frac{5}{2}P_0V_0 + 3P_0V_0 – 6P_0V_0 = -\frac{1}{2}P_0V_0\)。
  4. 第一法則の検証:
    • \(Q_{cycle} = -\frac{1}{2}P_0V_0\)
    • \(-W_{cycle} = -(\frac{1}{2}P_0V_0) = -\frac{1}{2}P_0V_0\)
    • 確かに、\(Q_{cycle} = -W_{cycle}\) が成り立っていることが確認できます。
    • このサイクルは反時計回りなので、\(W_{by, cycle} = -W_{cycle} = – \frac{1}{2}P_0V_0\) となり、全体として仕事をされるサイクルです。

この例のように、複雑なサイクルも、各プロセスに分解し、一つひとつの収支を丁寧に計算して足し合わせることで、全体のエネルギーの流れを完全に把握することができます。


8. 状態変化の順序と全体の仕事・熱量の関係

8.1. 経路に依存する量:仕事と熱

熱力学第一法則 \(\Delta U = Q + W\) の中で、内部エネルギーの変化 \(\Delta U\) は、始点と終点の状態だけで決まる「状態量」でした。

しかし、仕事 \(W\) と熱 \(Q\) は、そうではありません。これらは、始点と終点が同じであっても、どのような「経路(プロセス)」をたどったかによって、その値が大きく変わる「経路関数」です。この性質を理解することは、熱力学の法則を深く理解する上で不可欠です。

8.2. 具体例による比較証明

この「経路依存性」を、具体的な例で証明してみましょう。

P-V図上で、ある初期状態 A (\(P_1, V_1\)) から、ある最終状態 C (\(P_2, V_2\)) へと、二つの異なる経路で状態を変化させます。

  • 経路1: A → B → C
    • A→B:定圧膨張(圧力 \(P_1\) のまま、体積を \(V_1\) から \(V_2\) へ)
    • B→C:定積加熱(体積 \(V_2\) のまま、圧力を \(P_1\) から \(P_2\) へ)
  • 経路2: A → D → C
    • A→D:定積加熱(体積 \(V_1\) のまま、圧力を \(P_1\) から \(P_2\) へ)
    • D→C:定圧膨張(圧力 \(P_2\) のまま、体積を \(V_1\) から \(V_2\) へ)

8.2.1. 仕事 \(W_{by}\) の比較

気体が外部にした仕事 \(W_{by}\) は、P-V図のグラフの下側の面積に対応します。

  • 経路1の仕事 \(W_{by, 1}\):
    • A→B の仕事: 長方形 AB’V₂V₁ の面積 = \(P_1(V_2 – V_1)\)
    • B→C の仕事: 0 (定積なので)
    • 合計: \(W_{by, 1} = P_1(V_2 – V_1)\)
  • 経路2の仕事 \(W_{by, 2}\):
    • A→D の仕事: 0 (定積なので)
    • D→C の仕事: 長方形 DCV₂V₁ の面積 = \(P_2(V_2 – V_1)\)
    • 合計: \(W_{by, 2} = P_2(V_2 – V_1)\)

図から明らかに \(P_2 > P_1\) なので、

[ W_{by, 2} > W_{by, 1} ]

となります。同じ始点と終点を選んでも、経路が違えば、気体がする仕事の量は全く異なるのです。

8.2.2. 熱 \(Q\) の比較

次に、吸収した熱 \(Q\) を比較します。

  • 内部エネルギーの変化 \(\Delta U\):どちらの経路でも、始状態はA、終状態はCで共通です。内部エネルギーは状態量なので、その変化量 \(\Delta U_{AC} = U_C – U_A\) は、経路1と経路2で完全に等しくなります。
  • 第一法則の適用:第一法則を \(Q\) について解くと、\(Q = \Delta U – W = \Delta U + W_{by}\) となります。
    • 経路1の熱: \(Q_1 = \Delta U_{AC} + W_{by, 1}\)
    • 経路2の熱: \(Q_2 = \Delta U_{AC} + W_{by, 2}\)
  • 結論:\(\Delta U_{AC}\) は共通ですが、先ほど見たように \(W_{by, 2} > W_{by, 1}\) です。したがって、[ Q_2 > Q_1 ]となります。同じ状態変化でも、経路が違えば、吸収する熱の量もまた、全く異なるのです。

この結論は極めて重要です。「状態Aから状態Cへの変化で、気体は○○ジュールの熱を吸収した」という言い方は、経路が指定されない限り、意味をなさないのです。

仕事と熱は、ある状態が持つ固有の量ではなく、あくまで、ある状態から別の状態へと移り変わる「プロセス」の中で現れる、エネルギーの移動形態に過ぎません。この「状態量」と「経路関数」の明確な区別が、熱力学の論理構造の根幹を支えています。


9. 気体の混合とエントロピーの定性的理解

9.1. 自発的に起こるプロセスとその方向性

これまでの熱力学の議論は、主にエネルギー保存則(第一法則)という、「何が可能で、その際の収支はどうなるか」という観点から進められてきました。しかし、自然界の現象には、エネルギー保存則だけでは説明できない、もう一つの重要な側面があります。それが、**変化の「方向性」**です。

前にも例を挙げましたが、

  • インクは水に広がるが、広がったインクが自然に一箇所に集まることはない。
  • 熱は高温物体から低温物体へ伝わるが、その逆は起こらない。
  • 仕切りを外せば、二つの気体は混ざり合うが、混ざった気体が自然に分離することはない。

これらのプロセスはすべて、エネルギー保存則には全く反していません。広がったインクが集まっても、エネルギーの総量は変わらないはずです。それでも、これらの逆向きのプロセスは、私たちの経験上、決して自発的には起こりません。

自然界の変化には、明らかに「進みやすい向き」と「決して進まない向き」、すなわち「時間の矢 (arrow of time)」が存在するのです。熱力学第一法則は、この方向性については、何も教えてくれません。

9.2. 乱雑さの指標:エントロピー

この変化の不可逆的な方向性を、定量的に説明するために導入されたのが、熱力学における最も重要かつ難解な概念の一つ、「エントロピー (Entropy, 記号: \(S\))」です。

エントロピーの厳密な定義は大学レベルの熱力学や統計力学に譲りますが、高校物理の段階では、その物理的なイメージを定性的に理解しておくことが、熱力学の世界観を広げる上で非常に有益です。

エントロピーとは、非常に大雑把に言えば、

あるマクロな状態(温度、圧力などが決まった状態)に対応する、ミクロな状態(個々の分子の配置や運動状態)の「場合の数」の多さ、あるいは系の「乱雑さ(無秩序さ)」の度合いを示す状態量。

と理解することができます。

  • エントロピーが低い状態:
    • ミクロな状態の「場合の数」が少ない、秩序だった、整然とした状態。
    • 例:すべての分子が箱の左半分にきれいに集まっている状態。トランプのカードが、スートと番号順に完璧に並べられている状態。
  • エントロピーが高い状態:
    • ミクロな状態の「場合の数」が非常に多い、無秩序な、ごちゃごちゃの状態。
    • 例:分子が箱全体にランダムに広がっている状態。シャッフルされた後のトランプのカードの束。

9.3. エントロピー増大の法則

気体の混合の例で考えてみましょう。

仕切りで隔てられた容器の、左半分に気体A、右半分に気体Bが入っている初期状態を考えます。この状態は、Aの分子はすべて左、Bの分子はすべて右、という「秩序だった」状態であり、ミクロな配置の場合の数は比較的少ない(エントロピーが低い)です。

ここで仕切りを取り除くと、分子のランダムな熱運動によって、二つの気体は自然に混じり合い、やがて容器全体で均一な混合気体となります。この最終状態では、個々の分子は容器内のどこにでも存在しうるため、ミクロな配置の「場合の数」は、初期状態に比べて天文学的に増大しています。したがって、この状態は「無秩序」であり、エントロピーは非常に高い状態です。

自然界で自発的に起こる変化の方向性を支配する根本法則は、「熱力学第二法則」として知られており、その一つの表現が「エントロピー増大の法則」です。

外部から孤立した系(断熱系)において、自発的に起こる不可逆変化は、常にエントロピーが増大する方向に進む。

自然は、より秩序だった状態(確率の低い状態)から、より無秩序な状態(確率の高い状態)へと、常に移り変わろうとする、というわけです。インクが広がるのも、熱が均一になろうとするのも、気体が混ざり合うのも、すべて、その方がミクロな「場合の数」が多く、確率的に圧倒的に起こりやすいからなのです。

エントロピーは、単なる物理学の概念にとどまらず、情報理論や宇宙論、さらには生命現象の理解にも関わる、極めて広範で深遠な概念です。この定性的な理解は、熱力学が単なるエネルギー計算の学問ではなく、自然界における変化の「なぜ」と「方向性」を探る、より哲学的な側面を持っていることを示唆しています。


10. 状態方程式と第一法則を組み合わせた問題解決

10.1. 熱力学問題解決の二本柱

これまでのモジュールで、私たちは熱力学の問題を解決するための、二つの強力な柱を打ち立てました。

  1. 理想気体の状態方程式 (\(PV=nRT\)):
    • 気体の「状態」を支配する法則。
    • 圧力、体積、物質量、温度という四つの状態量のうち、三つが分かれば残りの一つを決定できる。
    • 特に、二つの状態を比較する際の \(\frac{P_1V_1}{T_1} = \frac{P_2V_2}{T_2}\) という形(物質量一定の場合)は、極めて有用。
  2. 熱力学第一法則 (\(\Delta U = Q + W\)):
    • 気体の「状態変化」におけるエネルギーの収支を支配する法則。
    • 内部エネルギーの変化、熱の出入り、仕事のやり取りという三つの量を結びつける。

熱力学の応用問題の多くは、この二つの法則を巧みに組み合わせることで、解決へと導かれます。どちらか一方だけでは解けない問題も、二つを連立させることで、未知数を特定することができるのです。

10.2. 問題解決の統合的フレームワーク

複雑な問題に直面した際に、思考を整理し、着実に解へと進むための、統合的なフレームワークを以下に示します。

ステップ0:状況の可視化

  • 問題文を読み、どのような装置で、どのような作動物質が、どのようなプロセスを経るのかを把握する。
  • 可能であれば、P-V図を自分で描いてみる。これは、プロセスの全体像を視覚的に捉え、仕事の符号や大小関係を直感的に理解する上で、絶大な効果を発揮します。

ステップ1:各状態(点)の特定

  • サイクルの頂点や、変化の始点・終点となる各状態(A, B, C, …)について、分かっている状態量(\(P, V, n, T\))を整理する。
  • 未知の状態量があれば、状態方程式 \(PV=nRT\) を使って、計算できるものはすべて計算しておく。

ステップ2:各プロセス(線)の解析

  • 状態間を結ぶ各プロセス(A→B, B→C, …)が、四つの基本変化(定積、定圧、等温、断熱)のどれに該当するかを特定する。
  • 特定したプロセスに応じて、熱力学第一法則を適用し、\(\Delta U, W, Q\) を計算していく。
    • まず \(\Delta U = nC_V\Delta T\) を計算する。(状態量なので、経路によらず、温度変化だけで決まるため。)
    • 次に \(W\) を計算する。(定積なら0、定圧なら \(-P\Delta V\)、P-V図の面積など、経路に応じて計算する。)
    • 最後に \(Q = \Delta U – W\) で \(Q\) を求める

ステップ3:全体(サイクルなど)の集計

  • 問題がサイクル全体の仕事や熱量を問うている場合は、ステップ2で計算した各プロセスの値を、符号に注意してすべて足し合わせる。
  • サイクル全体では、\(\Delta U_{cycle} = 0\) および \(Q_{cycle} = -W_{cycle} = W_{by, cycle}\) が成り立つことを、検算として利用する。

このフレームワークは、どんなに複雑に見える問題でも、それを「点(状態)」と「線(プロセス)」の集まりへと分解し、それぞれの部分で適切な法則(状態方程式 or 第一法則)を適用し、最後にそれらを統合するという、システマティックなアプローチです。この思考法を身につけることで、熱力学の問題解決能力は飛躍的に向上します。


Module 7:様々な状態変化の比較と応用 の総括:知識を編み上げ、応用へと昇華させる

本モジュールは、これまでに学んだ熱力学の個々の知識を、一つの強固なネットワークへと編み上げる、決定的なステップでした。私たちは、四つの基本的な状態変化を、単なる個別の現象としてではなく、同じP-V図の舞台の上で共演する、それぞれに個性を持った「役者」として比較・対照しました。膨張や圧縮といった同じ目的を達成するために、彼らがたどる軌跡、要する仕事、そして最終的な状態がいかに異なるかを理解することで、私たちの熱力学的な描像は、平面的で断片的なものから、立体的でダイナミックなものへと深化しました。

この総合的な視点の上に、私たちは「自由膨張」というユニークなプロセスを通じて、理想気体の内部エネルギーが持つ、温度のみに依存するという特異な性質を再確認しました。さらに、「可逆」と「不可逆」という、熱力学のより深淵な世界観に触れました。理論が立脚する理想的な「可逆変化」と、現実世界の「一方通行性」を体現する「不可逆変化」。この区別は、自然現象の方向性を司る、より高次の法則(熱力学第二法則)への扉を開くものでした。そして、気体が混ざり合うという自発的なプロセスから、「エントロピー」という乱雑さの指標の概念を垣間見ました。

本モジュールの実践的なクライマックスは、複数のプロセスを組み合わせた「熱サイクル」の解析でした。私たちは、サイクル全体では内部エネルギーの変化がゼロになるという状態量の性質を基盤に、第一法則が \(Q_{cycle} = W_{by, cycle}\) という、熱機関の根本原理へと姿を変えることを見出しました。状態方程式で「点」を定め、第一法則で「線」を解析するという統合的な問題解決フレームワークは、複雑な熱現象を論理的に解き明かすための、強力な思考の武器です。

個々の知識を比較し、組み合わせ、応用することで、それらがいかにしてより大きな力を持つかを、私たちはこのモジュールを通じて学びました。私たちの手元には、熱力学的な世界を分析するための、ほぼすべての基本的なツールが揃いました。次なるモジュールでは、このツールキットを携え、熱力学の応用における最大のテーマである「熱機関」とその効率の限界に、本格的に挑んでいきます。

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