【基礎 世界史】 Module 7: 二つの世界大戦と現代世界(1914年-現在)
【本記事の目的と構成】
本記事は、1914年の第一次世界大戦勃発から、激動の20世紀を経て、私たちが今を生きる現代に至るまでの歴史を探求します。この約100年間は、人類がそれまでの数千年で経験したことのない、根源的で、暴力的で、そして加速的な変革を経験した時代でした。19世紀にヨーロッパが築き上げた近代文明の秩序とその楽観的な進歩への信頼は、二つの世界大戦という未曾有の「巨大災害」によって、自らの中から崩壊します。
その廃墟の中から、世界は、アメリカとソ連という二つの超大国が、資本主義と共産主義という相容れないイデオロギーを掲げて対峙する、「冷戦」という新たな秩序(あるいは非秩序)へと再編されました。そして、その冷戦が終結した時、人類は、瞬時に世界が結びつく「グローバリゼーション」の時代を迎えますが、それは同時に、新たな対立や、地球規模の深刻な課題を露呈させる時代の幕開けでもありました。
本稿は、この激動の現代史を構造的に理解するため、以下の三部構成で探求を進めます。
- 第1部 巨大災害の時代:二つの世界大戦と旧秩序の崩壊(1914-1945): 19世紀のヨーロッパが生み出したナショナリズム、帝国主義、工業化といった力が、いかにして第一次世界大戦という破局を引き起こし、ヨーロッパ中心の国際秩序を崩壊させたか。そして、その混乱の中から、ロシア革命、世界恐慌、ファシズムといった新しい挑戦が登場し、世界が再び第二次世界大戦という、さらに大規模な破滅へと突き進んでいく過程を分析します。
- 第2部 冷戦の時代:二極化する世界と第三世界の台頭(1945-1991): 第二次世界大戦後、アメリカとソ連が、いかにして世界を二分する「冷戦」体制を築き上げたか。また、その一方で、アジア・アフリカでヨーロッパの植民地支配が終焉を迎え、新たに独立した国々(第三世界)が、この二極対立の中で、独自の道を模索し始めた様を追います。
- 第3部 グローバル化の時代:冷戦後の世界とその課題(1991-現在): 冷戦の終結が、世界にどのような新たな秩序と混乱をもたらしたのか。そして、グローバリゼーションの進展がもたらす光と影、中東問題や地球環境問題、テロリズムといった、現代人類が直面する地球規模の課題を考察します。
このモジュールを学び終える時、あなたは、私たちが生きる現代世界が、決して平坦な道のりを歩んできたわけではなく、20世紀の巨大な悲劇と、その中から生まれた希望とが複雑に織りなす、壮大な歴史の延長線上にあることを、深い解像度で理解することができるでしょう。
第1部 巨大災害の時代:二つの世界大戦と旧秩序の崩壊(1914-1945)
20世紀の幕開けは、多くのヨーロッパ人にとって、理性の勝利と無限の進歩を信じられる、輝かしい時代の頂点に見えました。しかし、その繁栄と自信の足元では、19世紀を通じて培われた帝国主義的対立、先鋭化したナショナリズム、そして工業化された軍事力という、巨大な破壊のエネルギーが、爆発の時を待っていました。1914年に始まった第一次世界大戦は、このエネルギーを解き放ち、ヨーロッパ文明そのものを根底から揺るがす、巨大な断層を生み出したのです。
第1章 第一次世界大戦:総力戦とヨーロッパの没落
1.1. 大戦の原因:夢遊病者たちのように破局へ
第一次世界大戦は、特定の一つの原因によって引き起こされたわけではなく、19世紀後半からのヨーロッパの国際関係に内在していた、複数の構造的な要因が複雑に絡み合った結果でした。
- 帝国主義的対立: 19世紀末以降、欧米列強は、植民地や勢力圏をめぐって世界中で激しく対立していました。特に、工業化でイギリスを猛追していたドイツが、積極的な世界政策(3B政策など)を掲げて海外進出を図ったことは、既に広大な植民地帝国を築いていたイギリス(3C政策)や、ロシアとの対立を激化させました。
- 複雑な同盟関係: ヨーロッパは、二つの敵対的な軍事同盟ブロックに固く分断されていました。
- 三国同盟:ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリア
- 三国協商:イギリス、フランス、ロシア
- この硬直した同盟システムは、一つの地域的な紛争が、またたく間にヨーロッパ全体を巻き込む大戦争へとエスカレートする危険性をはらんでいました。
- ナショナリズムの高揚と「ヨーロッパの火薬庫」: バルカン半島では、オスマン帝国の衰退に乗じて、独立したスラヴ系民族のナショナリズム(パン=スラヴ主義、ロシアが支援)と、この地域への進出を狙うオーストリアのゲルマン系ナショナリズム(パン=ゲルマン主義)が激しく衝突し、一触即発の「ヨーロッパの火薬庫」と化していました。
- 開戦の引き金:サラエヴォ事件:
- 1914年6月28日、オーストリアの皇位継承者フランツ=フェルディナント夫妻が、ボスニアの州都サラエヴォで、セルビア人の青年に暗殺されました。
- オーストリアは、これをセルビア政府の陰謀であるとして宣戦布告。すると、セルビアを支援するロシアが総動員令を発令し、それに対しドイツがロシアとフランスに宣戦布告。ドイツが中立国ベルギーに侵攻すると、イギリスもドイツに宣戦布告し、ヨーロッパは全面戦争へと突入しました。
1.2. 総力戦という新たな戦争
当初、誰もが「クリスマスまでには終わる」と楽観視していたこの戦争は、指導者たちの予想をはるかに超える、前例のない様相を呈しました。
- 西部戦線の膠着と塹壕戦: ドイツ軍の速攻作戦がマルヌの戦いで頓挫すると、スイスから北海に至る西部戦線では、両軍が深く掘った塹壕に立てこもり、互いににらみ合う膠着状態に陥りました。兵士たちは、機関銃の掃射と砲撃が飛び交う中、劣悪な環境で何年もの間、消耗戦を強いられました。
- 新兵器の登場: 産業革命の「成果」である科学技術は、戦車、飛行機、潜水艦(Uボート)、毒ガスといった、殺戮を効率化するための新兵器を次々と生み出し、死傷者の数を天文学的に増大させました。
- 総力戦体制: 戦争が長期化するにつれ、国家は、兵士だけでなく、銃後の国民、経済、資源、思想といった、国が持つすべての力を戦争遂行のために動員する「総力戦」の体制へと移行しました。女性が軍需工場で働くようになり、食料は配給制となり、政府はプロパガンダによって国民の戦意を煽りました。
1.3. 戦争の終結とヨーロッパの没落
- アメリカの参戦とロシアの離脱:
- 1917年、ドイツが無制限潜水艦作戦を再開し、アメリカの商船を撃沈したことなどから、アメリカが協商国側で参戦。その圧倒的な工業力と人的資源が、戦局を決定づけました。
- 同じ年、戦争の重圧に耐えかねたロシアで革命が起こり、戦争から離脱しました(後述)。
- ドイツの敗北と休戦:
- 1918年秋、ドイツ国内でも革命(キール軍港の水兵反乱)が起こり、皇帝ヴィルヘルム2世は亡命。新たに成立した共和国政府が、協商国と休戦協定を結び、4年以上にわたる大戦は終結しました(1918年11月11日)。
- 歴史的影響:
- ヨーロッパの没落: 約1000万人の戦死者を出し、ヨーロッパ全土を荒廃させたこの戦争は、19世紀を通じて世界を支配してきたヨーロッパの相対的な地位を、決定的に低下させました。ヨーロッパは、債権国から債務国へと転落し、世界の中心としての地位をアメリカに譲り渡すことになります。
- 四つの帝国の崩壊: ロシア帝国、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国という、四つの多民族帝国が、この戦争の結果、崩壊しました。
- 新たな思想と社会: 戦争の悲惨な現実は、19世紀的な楽観的な進歩史観を打ち砕き、人々の価値観を大きく揺さぶりました。また、総力戦は、国家の社会・経済への介入を強め、女性の社会進出を促すなど、社会の構造をも変容させました。
第2章 戦間期:束の間の平和とその崩壊(1919-1939)
第一次世界大戦後の20年間は、二度とあのような悲劇を繰り返すまいとする、平和への希求と、戦争が生み出した新たな対立とが激しくせめぎ合う、矛盾に満ちた時代でした。
2.1. ロシア革命とソヴィエト連邦の成立
大戦の最中、ロシアでは、20世紀の世界史を大きく規定する、もう一つの巨大な地殻変動が起こっていました。
- 二月革命(三月革命): 1917年3月、首都ペトログラードで、食糧不足に苦しむ労働者や兵士が蜂起。皇帝ニコライ2世は退位し、ロマノフ朝は崩壊しました。革命後、自由主義者を中心とする臨時政府が成立しますが、戦争の継続を決定したため、国民の支持を失いました。
- 十月革命(十一月革命)とソヴィエト政権:
- このような状況下で、亡命先から帰国したレーニン率いる、急進的な社会主義政党ボリシェヴィキが、「すべての権力をソヴィエトへ」というスローガンを掲げて支持を拡大。
- 1917年11月、ボリシェヴィキは武装蜂起によって臨時政府を打倒し、世界初の社会主義政権を樹立しました。新政府は、「平和に関する布告」(無併合・無賠償・民族自決)と「土地に関する布告」を採択しました。
- ソヴィエト連邦の成立:
- ボリシェヴィキ政権は、ドイツと単独講和(ブレスト=リトフスク条約)を結んで大戦から離脱しますが、その後、反革命派(白軍)や、革命への干渉を目指す連合国軍との間で、厳しい内戦を戦い抜きました。
- 内戦に勝利した後、1922年、ロシア、ウクライナ、ベラルーシなどが連合して、**ソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)**が成立しました。
- スターリン体制:
- レーニンの死後、党内で激しい権力闘争が繰り広げられ、スターリンが、トロツキーらを追放して独裁権を確立しました。
- 彼は、1928年から五カ年計画を開始し、農業の集団化(コルホーズ、ソフホーズ)と、重工業化を強行しました。この急激な工業化は、ソ連を欧米に匹敵する工業国へと押し上げましたが、その過程で、多くの農民が犠牲となり、また、反対派は容赦なく粛清されました。こうして、スターリン個人への崇拝と、党による一党独裁、そして秘密警察による恐怖政治を特徴とする、全体主義体制が確立されました。
2.2. ヴェルサイユ体制と国際協調の時代
- パリ講和会議とヴェルサイユ条約:
- 1919年、戦勝国がパリに集まり、講和会議が開かれました。アメリカ大統領ウィルソンは、理想主義的な「十四カ条の平和原則」(秘密外交の廃止、民族自決、国際平和機構の設立など)を提唱しましたが、イギリスやフランスの厳しい対独復讐心に阻まれ、その理念は骨抜きにされました。
- ドイツとの間に結ばれたヴェルサイユ条約は、
- すべての海外植民地の放棄
- アルザス・ロレーヌのフランスへの割譲
- 巨額の賠償金の支払い
- 軍備の厳格な制限などをドイツに課す、極めて過酷な内容でした。この「懲罰的な平和」は、ドイツ国民に深い屈辱感を植え付け、後のナチズム台頭の温床となりました。
- 国際連盟の設立:
- ウィルソンの提唱に基づき、史上初の集団安全保障機構である国際連盟が設立されました。
- しかし、提唱国であるアメリカが、議会の反対で参加しないという致命的な欠陥を抱えていました。また、ドイツやソ連も当初は加盟が認められず、さらに、規約違反国に対する軍事的な制裁手段を持たなかったため、その無力さは早くから露呈していました。
- 束の間の国際協調(1920年代):
- 1920年代には、賠償金問題を緩和するドーズ案やヤング案、ドイツの国際社会復帰を認めたロカルノ条約(1925年)、そして15カ国が参加し、「国家の政策の手段として」の戦争を放棄することを約した不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)(1928年)などが結ばれ、一時的に国際協調の機運が高まりました。
- この時期の国際政治の安定を、ヴェルサイユ体制と呼びます。
2.3. 戦間期の欧米社会と世界恐慌
- 大衆社会の到来:
- 1920年代、特にアメリカでは、大量生産・大量消費を特徴とする大衆社会が到来しました。フォード社に代表される自動車産業の発展、ラジオや映画といった新しいマスメディアの普及、ジャズなどの大衆音楽の流行、そして女性参政権の実現など、社会は大きく変貌しました。
- 世界恐慌(1929年):
- しかし、この「狂騒の20年代」の繁栄は、1929年10月24日、ニューヨークのウォール街での**株価大暴落(暗黒の木曜日)**をきっかけに、突如として終わりを告げます。
- アメリカ発の金融危機は、またたく間に全世界に波及し、生産の縮小、企業の倒産、失業者の増大といった、深刻な世界恐慌を引き起こしました。
- 各国の対応:
- 各国は、この未曾有の経済危機に対し、それぞれの方法で対応を試みます。
- アメリカ: フランクリン=ルーズヴェルト大統領は、ニューディール政策を実施。政府が公共事業(テネシー川流域開発公社など)を大規模に行い、失業者を救済するとともに、全国産業復興法(NIRA)や農業調整法(AAA)によって、経済活動に積極的に介入しました。これは、従来の自由放任主義(レッセフェール)からの大きな転換でした。
- イギリス・フランス: 本国と植民地からなる、排他的な経済圏(ブロック経済)を形成し、高い関税によって他国の製品を締め出すことで、自国の経済を守ろうとしました(イギリスのスターリング=ブロックなど)。
- このようなブロック経済化は、広大な海外植民地や国内市場を持たないドイツ、イタリア、日本といった国々を、世界経済から孤立させました。これらの国々は、不況を乗り切るため、対外的な侵略によって、自国の生存圏を確保する道、すなわちファシズムへの道を選んでいくことになります。
- 各国は、この未曾有の経済危機に対し、それぞれの方法で対応を試みます。
2.4. ファシズムとナチズムの台頭
世界恐慌による経済的混乱と社会不安は、議会制民主主義への不信感を増大させ、極端なナショナリズムと、強力な指導者による独裁を求める、全体主義的な運動の温床となりました。
- イタリアのファシズム:
- イタリアでは、第一次世界大戦の戦勝国でありながら、領土的な要求が満たされなかったことへの不満や、戦後の経済混乱が広がる中、ムッソリーニ率いるファシスト党が台頭。
- 1922年、黒シャツ隊を率いてのローマ進軍によって政権を掌握し、一党独裁体制を確立しました。
- ドイツのナチズム:
- ドイツでは、ヴェルサイユ条約への屈辱感と、世界恐慌による深刻な経済危機(600万人以上の失業者)を背景に、ヒトラー率いる**国民社会主義ドイツ労働者党(ナチス)**が、国民の絶大な支持を集めました。
- ヒトラーは、ヴェルサイユ体制の打破、失業者の救済、そして、ドイツ民族の苦境の原因はすべてユダヤ人と共産主義者にあるとする、巧みなプロパガンダと人種差別的なイデオロギーを掲げました。
- 1933年、ナチスは選挙で第一党となり、ヒトラーは首相に就任。国会議事堂放火事件を口実に、政敵である共産党を弾圧し、全権委任法を成立させて、議会の承認なしに法律を制定できる権限を獲得。これにより、ワイマール憲法は事実上停止され、一党独裁体制が確立されました。
- 第二次世界大戦への道:
- 政権を握ったヒトラーは、国際連盟を脱退し、再軍備を宣言。ラインラント進駐、オーストリア併合、そしてチェコスロヴァキアのズデーテン地方の割譲要求と、次々とヴェルサイユ体制を破壊していきました。
- イギリスやフランスは、戦争を恐れるあまり、ヒトラーの要求を黙認する宥和政策をとりました(ミュンヘン会談)。しかし、この政策は、ヒトラーの野心を増長させる結果にしかなりませんでした。
- 独ソ不可侵条約を結んで、背後の安全を確保したヒトラーが、1939年9月、ポーランドに侵攻したことで、英仏はドイツに宣戦布告。ここに、第二次世界大戦が勃発しました。
2.5. アジアの民族運動
第一次世界大戦は、ヨーロッパの威信を失墜させ、ウィルソンの民族自決の原則は、アジア・アフリカの被支配民族の独立への願望を強く刺激しました。
- インド:
- 大戦への協力の見返りに、イギリスが約束した自治が実現されなかったことへの反発から、民族運動が激化。
- ガンディーは、「非暴力・不服従」を掲げ、イギリス製品のボイコット(スワデーシ)や、塩の行進といった、大衆的な抵抗運動を指導しました。
- 中国:
- ヴェルサイユ条約で、ドイツが山東省に持っていた権益が、中国に返還されずに日本に譲渡されることが決まると、北京の学生を中心に、抗議運動が全国に広がりました(五・四運動、1919年)。これは、中国における本格的な反帝国主義・反封建主義の民族運動の出発点となりました。
- この運動を背景に、中国共産党が結成され、孫文の中国国民党も、ソ連と結んで(第1次国共合作)、国内統一と反帝国主義を目指すようになります。
- その他:
- トルコでは、ムスタファ=ケマルが、オスマン帝国のスルタン制を廃止し、政教分離を原則とする近代的なトルコ共和国を樹立しました。
- 朝鮮では、三・一独立運動が、オスマン帝国領のアラブ地域では、反英・反仏の運動が、それぞれ高まりを見せました。
第3章 第二次世界大戦とその帰結
第二次世界大戦(1939-1945)は、人類が経験した、最も広範で、最も破壊的な戦争でした。その戦いは、枢軸国(ドイツ、イタリア、日本)と連合国(イギリス、フランス、ソ連、アメリカ、中国など)との間で、ヨーロッパ、アジア、太平洋、北アフリカを舞台に繰り広げられました。
3.1. 枢軸国と連合国の死闘
- ヨーロッパ戦線:
- ドイツは、電撃戦によって、ポーランド、デンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーを次々と占領。1940年にはパリを陥落させ、フランスを降伏させました。
- 孤立したイギリスは、チャーチル首相の指導のもと、ドイツの猛爆に耐え抜きました。
- 1941年、ヒトラーは独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻。また、日本が真珠湾を攻撃したことで、アメリカが参戦し、戦争は文字通り全世界を巻き込むものとなりました。
- スターリングラードの戦いでのソ連軍の勝利と、連合軍のノルマンディー上陸作戦(1944年)を転機として、連合国が反攻に転じ、1945年5月、ドイツは無条件降伏しました。
- アジア・太平洋戦線:
- 日本は、真珠湾攻撃後、東南アジアから太平洋の広大な地域を占領しましたが、ミッドウェー海戦(1942年)での敗北を機に、戦局は転換。
- アメリカ軍の反攻と、広島・長崎への原子爆弾投下、そしてソ連の対日参戦を受け、1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾し、無条件降伏しました。
3.2. ホロコーストと戦争犯罪
第二次世界大戦は、その戦闘の規模だけでなく、国家による組織的な民間人虐殺という、文明の根幹を問うような蛮行が、前例のない規模で行われた点でも、特筆されるべき戦争でした。
- ホロコースト:
- ナチス・ドイツは、「最終的解決」と称して、ヨーロッパ中のユダヤ人を絶滅させることを目指しました。
- ユダヤ人は、ゲットーに隔離された後、貨物列車でアウシュヴィッツなどに代表される絶滅収容所へと送られ、ガス室で組織的に殺害されました。このジェノサイド(集団虐殺)によって、約600万人のユダヤ人が犠牲になったとされています。ロマ(ジプシー)や、政治犯、同性愛者なども、同様に虐殺の対象となりました。
- 戦争犯罪の追及:
- 戦後、連合国は、ニュルンベルクと東京で国際軍事裁判を開き、ドイツと日本の戦争指導者たちの、侵略戦争を計画・実行した罪(平和に対する罪)や、捕虜の虐待、民間人の殺害といった戦争犯罪、そしてホロコーストなどの「人道に対する罪」を裁きました。
- これらの裁判は、勝者による一方的な裁きであるという批判もありますが、国家の指導者であっても、その行為の責任を国際法廷で問われるという、新しい原則を確立する試みでした。
(以下、第2部以降に続く)
(前回の続き)
第2部 冷戦の時代:二極化する世界と第三世界の台頭(1945-1991)
第二次世界大戦の硝煙が晴れた時、世界はかつてとは全く異なる姿を現していました。ヨーロッパの伝統的な列強は疲弊し、その植民地帝国は解体の時を待っていました。代わって世界の覇権を握ったのは、戦勝国の中でも突出した国力を持つに至った、アメリカ合衆国とソヴィエト連邦という二つの超大国でした。しかし、この二つの超大国は、一方が自由民主主義と資本主義を、もう一方が共産主義と計画経済を掲げる、根本的に相容れないイデオロギーと社会システムを持っていました。戦時中の協力関係は急速に消え去り、世界は、核兵器による破滅の恐怖を背景に、両陣営が世界のあらゆる場所で激しく対立する、約半世紀にわたる「冷たい戦争(Cold War)」の時代へと突入します。
第4章 冷戦の開始と世界の二極化
4.1. 戦後処理と対立の始まり
- ヤルタ会談とポツダム会談:
- 大戦末期の1945年、連合国の首脳(アメリカのローズヴェルト、イギリスのチャーチル、ソ連のスターリン)は、ヤルタ会談やポツダム会談で、戦後の国際秩序について協議しました。
- ドイツの分割占領や、国際連合の設立などでは合意が見られましたが、ドイツの賠償問題や、ソ連が解放した東ヨーロッパ諸国の扱いをめぐって、米ソ間の不信感と対立が早くも表面化しました。スターリンは、自国の安全保障のため、東欧諸国をソ連の衛星国として勢力圏に組み込もうとしました。
- 「鉄のカーテン」と封じ込め政策:
- 1946年、イギリスの元首相チャーチルは、アメリカでの演説で、ソ連が東ヨーロッパを支配し、ヨーロッパが東西に分断されてしまった現状を「鉄のカーテン」と表現し、西側世界の警戒を促しました。
- これに対し、アメリカのトルーマン大統領は、ギリシアやトルコにおける共産主義勢力の拡大を阻止するため、共産主義の脅威にさらされている国々を軍事的・経済的に支援するという「トルーマン=ドクトリン」を発表(1947年)。これは、ソ連の勢力拡大を食い止める「封じ込め政策」の始まりを宣言するものでした。
- マーシャル=プランとヨーロッパの分断:
- さらにアメリカは、戦争で疲弊した西ヨーロッパ経済を復興させるため、大規模な経済援助計画である「マーシャル=プラン」を発表しました。これは、西ヨーロッパ諸国の経済的安定を図り、共産主義の浸透を防ぐという、強力な反共政策でもありました。
- ソ連は、この計画をアメリカによるヨーロッパ支配の道具であるとして拒否し、東欧諸国にも受け入れさせませんでした。
- この対立は、ドイツの分割を決定的なものとしました。1948年、ソ連が、西側管理地区への交通路を封鎖するベルリン封鎖を断行すると、西側諸国は、大空輸作戦によって対抗。翌1949年、ドイツは、西側の**ドイツ連邦共和国(西ドイツ)と、東側のドイツ民主共和国(東ドイツ)**に、正式に分裂しました。
- 軍事同盟の結成:
- 1949年、アメリカと西ヨーロッパ諸国は、集団防衛機構である北大西洋条約機構(NATO)を結成。これに対し、ソ連は、1955年に東欧諸国との間でワルシャワ条約機構を結成しました。
- こうして、ヨーロッパは、二つの敵対的な軍事同盟によって、政治的・経済的・軍事的に完全に二分されることになりました。
第5章 冷戦の世界化と第三世界の挑戦
冷戦は、ヨーロッパだけの問題ではありませんでした。米ソ両国は、アジア、アフリカ、ラテンアメリカを舞台に、自らの影響力を拡大しようと、激しい覇権争いを繰り広げました。一方、第二次世界大戦後、長い植民地支配から解放された国々は、この米ソの対立の中で、自らの独自の道を模索し始めます。
5.1. 中華人民共和国の成立とアジアの冷戦
- 国共内戦と中華人民共和国の成立:
- 日本が降伏した後、中国では、アメリカが支援する蔣介石率いる国民党と、ソ連が支援する毛沢東率いる共産党との間で、国共内戦が再開しました。
- 農民の支持を得た共産党が勝利を収め、1949年10月1日、毛沢東は北京で中華人民共和国の建国を宣言しました。敗れた蔣介石は台湾へと逃れ、中華民国政府を維持しました。
- 世界最大の人口を抱える中国が共産化したことは、アメリカにとって大きな衝撃であり(「中国の喪失」)、アジアにおける冷戦の構図を決定づけました。
- 朝鮮戦争(1950-1953):
- アジアにおける冷戦は、早くも熱い戦争(Hot War)へと転化します。
- 日本の降伏後、北緯38度線で南北に分割占領されていた朝鮮半島で、北朝鮮(金日成が指導)が、韓国に侵攻。国連(実質的にはアメリカ軍主体)が韓国を支援し、中国が義勇軍を送って北朝鮮を支援するなど、東西陣営の代理戦争となりました。
- 戦争は、三年にわたって甚大な被害を出した後、休戦協定が結ばれ、南北の分断は固定化されました。
- 毛沢東時代の中国:
- 建国後の中国は、ソ連をモデルとしながらも、独自の社会主義建設を目指しました。
- 大躍進政策(1958年~):鉄鋼生産の増産などを目指した急進的な政策。しかし、無謀な計画は、数千万人規模の餓死者を出す大失敗に終わりました。
- 文化大革命(1966年~):大躍進の失敗で権威が低下した毛沢東が、自らの権力を回復するため、若者の紅衛兵を動員して、政敵や古い文化を徹底的に攻撃させた、10年間にわたる政治・社会的大混乱。
5.2. アジア・アフリカ諸国の独立と非同盟運動
- 脱植民地化の波:
- 第二次世界大戦は、ヨーロッパ列強の権威を失墜させ、その植民地支配を維持する力を奪いました。アジア・アフリカの各地で、民族独立の気運が最高潮に達し、1940年代から60年代にかけて、多くの国が次々と独立を達成しました(特に1960年は「アフリカの年」と呼ばれます)。
- バンドン会議と非同盟運動:
- このようにして誕生した新しい独立国家(第三世界、サードワールド)の多くは、米ソいずれの陣営にも属さず、独自の立場を維持しようとしました。
- 1955年、インドネシアのバンドンで、アジア=アフリカ会議が開催されました。インドのネルー、中国の周恩来、インドネシアのスカルノ、エジプトのナセルらが主導し、「平和十原則」を採択。植民地主義への反対と、平和共存を訴えました。
- このバンドン会議の精神は、1961年の第1回非同盟諸国首脳会議(ユーゴスラヴィアのチトーも参加)へと発展し、東西の軍事ブロックから距離を置く非同盟運動として、国際政治における一定の影響力を持つようになりました。
5.3. ベトナム戦争:泥沼化した代理戦争
冷戦下の代理戦争の中でも、最も長期にわたり、世界に大きな影響を与えたのがベトナム戦争でした。
- 背景:
- フランスの植民地であったインドシナでは、ホー=チ=ミン率いるベトナム独立同盟(ベトミン)が、日本の降伏後に独立を宣言。しかし、フランスは再び植民地支配を確立しようとし、第一次インドシナ戦争が勃発します。
- ベトナムが勝利し、ジュネーヴ協定で南北の統一選挙が定められますが、アメリカは、共産主義の拡大を恐れるドミノ理論(一国が共産化すれば、ドミノ倒しのように周辺国も共産化するという理論)に基づき、南ベトナムに親米的な政権を樹立させ、選挙を妨害しました。
- アメリカの本格介入と戦争の泥沼化:
- 南ベトナムで、北ベトナムに支援された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)の活動が活発化すると、アメリカは、トンキン湾事件を口実に、北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始(1965年)、本格的な軍事介入へと踏み切りました。
- しかし、ジャングルでのゲリラ戦に苦しみ、戦争は泥沼化。テレビなどを通じて、枯葉剤の散布や、民間人の虐殺といった戦争の悲惨な実態が、アメリカ国内にも伝えられるようになりました。
- 影響と終結:
- アメリカ国内では、大規模な反戦運動が巻き起こり、若者文化(ヒッピーなど)と結びついて、アメリカ社会を大きく揺るがしました。
- 1973年、パリ和平協定が結ばれ、アメリカ軍は撤退。その後、1975年にサイゴンが陥落し、翌年、ベトナムは社会主義国として統一されました。
- ベトナム戦争は、アメリカに初めての敗北をもたらし、その軍事的な威信と、道義的な正当性を大きく傷つけ、国内に深刻な分裂を残しました。
第6章 冷戦の変容と終結
1970年代に入ると、米ソの対立は一時的な緊張緩和(デタント)の時期を迎えますが、それは長続きしませんでした。しかし、80年代後半、ソ連内部から始まった改革の動きが、誰も予想しなかった形で、冷戦そのものを終結へと導きます。
6.1. ヨーロッパの統合:戦火の地から一つの共同体へ
二度の世界大戦の震源地となったヨーロッパでは、二度と悲劇を繰り返すまいとする動きが、冷戦という状況の中で、着実に進んでいました。
- 経済統合の始まり:
- 1952年、フランスと西ドイツの石炭・鉄鋼資源を共同で管理する**ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)**が設立されました。これは、戦争の火種となりうる重要資源を、超国家的な機関の管理下に置くことで、両国の恒久的な和解を目指すものでした。
- この成功を基に、1967年、**ヨーロッパ共同体(EC)**が発足。加盟国間の関税を撤廃し、人、モノ、資本の自由な移動を目指す、より包括的な経済共同体へと発展しました。
- ECの拡大と深化:
- 当初6カ国で始まったECは、イギリス、アイルランド、デンマーク、さらにギリシア、スペイン、ポルトガルと、次々に加盟国を増やしていきました。
- 1993年のマーストリヒト条約発効により、ECは、経済統合だけでなく、外交・安全保障政策の共通化や、単一通貨ユーロの導入をも目指す、より強力な政治的連合体である**ヨーロッパ連合(EU)**へと発展しました。
6.2. 冷戦の終結とソ連の解体
- 新冷戦とソ連の停滞:
- 1970年代のデタントは、1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻によって終わりを告げ、米ソ関係は再び緊張状態(新冷戦)に戻りました。
- しかし、この頃のソ連は、計画経済の非効率性から、経済は長期的に停滞し、西側との軍拡競争の負担は、国家財政を圧迫していました。
- ゴルバチョフの改革:
- 1985年、ソ連共産党の書記長に就任したゴルバチョフは、この危機的状況を打開するため、ペレストロイカ(立て直し、経済改革)とグラスノスチ(情報公開)と呼ばれる、抜本的な改革を開始しました。
- 外交面では、アメリカのレーガン大統領との対話を重ね、中距離核戦力(INF)全廃条約を結ぶなど、軍縮を進めました。
- 東欧革命とベルリンの壁崩壊:
- ゴルバチョフが、東欧の衛星国に対し、ソ連がもはや武力介入を行わないことを示唆すると(新思考外交)、1989年、東欧諸国で、堰を切ったように民主化革命が連鎖的に発生しました(東欧革命)。
- ポーランドの自主管理労組「連帯」の政権獲得、ハンガリーの民主化、チェコスロヴァキアの「ビロード革命」などが続きました。
- そして、1989年11月9日、東西分断の象徴であった「ベルリンの壁」が、歓喜する市民の手によって破壊されました。翌1990年、東西ドイツは統一を達成しました。
- ソ連の解体:
- 東欧革命の波は、ソ連自身にも及びました。グラスノスチによって、各構成共和国で民族主義の動きが活発化。
- 1991年、ゴルバチョフの改革に反対する共産党保守派がクーデタを起こしますが、ロシア共和国大統領エリツィンらの抵抗によって失敗。この事件で、共産党の権威は完全に失墜しました。
- 同年末、各共和国が次々と独立を宣言し、ソヴィエト連邦は消滅。ここに、第二次世界大戦後、半世紀近く続いた冷戦は、名実ともに終わりを告げました。
第3部 グローバル化の時代:冷戦後の世界とその課題(1991-現在)
冷戦の終結は、世界に新たな希望をもたらしました。イデオロギー対立の時代が終わり、アメリカ主導のもと、自由民主主義と市場経済が全世界に広まる、平和で安定した「新しい世界秩序」が到来するかに思われました。しかし、現実はより複雑でした。冷戦という巨大な対立の蓋が取り払われたことで、それまで抑えられていた民族・宗教紛争が各地で噴出し、また、グローバリゼーションの急速な進展は、新たな格差や、地球規模の課題を生み出しています。
第7章 新たな秩序と、その影で
7.1. 中東問題:終わらない紛争
冷戦中も、そして冷戦後も、世界で最も紛争が絶えない地域の一つが中東です。
- パレスチナ問題:
- イギリスの二枚舌外交(アラブ人、ユダヤ人、フランスへの三つの矛盾した約束)に端を発する、この地域の根深い対立。
- 1948年のイスラエル建国以来、アラブ諸国とイスラエルの間で、4度にわたる中東戦争が繰り返されました。
- 占領地に住むパレスチナ人の抵抗運動(インティファーダ)や、パレスチナ解放機構(PLO)によるテロ活動、そして近年では、イスラエルと、イスラーム原理主義組織ハマスとの間の、絶望的な暴力の連鎖が続いています。
- イスラーム原理主義の台頭:
- 西欧的な価値観や、世俗的な独裁政権への反発、そしてアメリカのイスラエル支援政策などへの反感から、イスラームの教えに厳格に立ち返ることで、社会を改革しようとする**イスラーム原理主義(イスラーム復興運動)**が、広範な支持を集めるようになりました。
- 1979年のイラン革命は、その象徴的な出来事です。
- 一部の過激派は、テロリズムを手段として、西側諸国やその同盟国への攻撃を繰り返しています。
7.2. グローバリゼーションの進展と格差問題
- グローバル化とは:
- 冷戦の終結と、インターネットに代表される情報通信技術の革命は、ヒト、モノ、カネ、情報が、国境を越えて瞬時に、かつ大規模に移動するグローバリゼーションを、飛躍的に加速させました。
- 多国籍企業が、生産拠点を世界中に展開し、金融市場は24時間一体となって動いています。
- 光と影:
- グローバリゼーションは、世界経済の成長を促し、多くの人々を貧困から救い出した一方で、深刻な格差問題を生み出しています。
- グローバルな競争に勝ち抜いた一部の国や企業、個人に富が集中する一方、競争に敗れた国や、国内の伝統的産業は、貧困や失業に苦しんでいます(南北問題、南南問題)。
- また、金融のグローバル化は、アジア通貨危機やリーマン=ショックのような、世界規模の金融危機のリスクを増大させました。
第8章 21世紀の地球的課題
冷戦後の世界は、国家間の戦争という伝統的な脅威だけでなく、どの国も単独では解決できない、地球規模の新しい課題に直面しています。
- 国際テロリズム:
- 2001年9月11日、イスラーム過激派組織アルカイダによる、アメリカ同時多発テロ事件は、世界に衝撃を与えました。
- これに対し、アメリカは「テロとの戦い」を宣言し、アフガニスタンやイラクへの武力介入を行いましたが、それは中東地域にさらなる混乱をもたらし、テロの根絶には至っていません。
- 地球環境問題:
- 人間の経済活動の拡大は、地球温暖化、オゾン層の破壊、砂漠化、生物多様性の喪失といった、地球環境の深刻な危機を引き起こしています。
- これらの問題は、国境を越えて影響を及ぼすため、国際的な協調が不可欠ですが、先進国と途上国の利害対立などから、有効な対策は遅々として進んでいません。
- 人口問題:
- 発展途上国を中心に世界人口が増加し続ける一方で、日本やヨーロッパなどの先進国では、少子高齢化が深刻な社会問題となっています。
- 新たな国際秩序の模索:
- アメリカの一極支配の時代は終わり、経済的に急成長した中国や、インド、ロシア、ブラジルといったBRICS諸国が、国際社会における影響力を増し、世界は多極化の時代へと移行しつつあります。
- この新しい時代の中で、人類は、ナショナリズムの壁を乗り越え、地球規模の課題に共同で対処していくための、新たな知恵と国際協調の枠組みを模索し続けています。
【Module 7 結論:破局と再生の世紀を超えて】
1914年から現代に至るこの100年余りは、人類が自らの生み出した力によって、破滅の淵を覗き込み、そしてそこから再生の道を必死に模索し続けてきた、苦闘の記録でした。
19世紀のヨーロッパが信じた進歩と理性の理想は、二つの世界大戦という、総力戦とホロコーストに象徴される、前例のない野蛮さの中で、無惨に打ち砕かれました。ヨーロッパ中心の旧秩序は崩壊し、その廃墟から、アメリカとソ連という二つの超大国が、イデオロギーの旗を掲げて世界を二分する冷戦体制が生まれました。核兵器による絶滅の恐怖が、かろうじて「長い平和」を維持する一方で、アジアやアフリカでは、植民地支配の軛から逃れた第三世界が、大国の論理の狭間で、自らのアイデンティティを求めて苦闘しました。
1991年の冷戦終結は、この二極対立の時代に終止符を打ち、世界は、国境の壁が溶けていくグローバリゼーションの奔流に飲み込まれました。それは、経済的な繁栄と文化の交流をもたらす一方で、富の偏在、新たな紛争の火種、そして地球環境の危機といった、より複雑で、より根源的な課題を私たちに突きつけています。
私たちは今、20世紀という巨大な実験の時代を経て、その膨大な成果と、それ以上に巨大な教訓を手にしています。ナショナリズムの熱狂、イデオロギーの硬直、そして文明の衝突が、いかに悲惨な結末を招くか。私たちはそれを、身をもって学びました。
現代世界が直面する、テロリズム、環境破壊、貧困といった地球規模の課題は、もはや一つの国家や一つの文明の力だけで解決することはできません。21世紀を生きる私たちに問われているのは、20世紀の破局の歴史から何を学び、異なる文化や価値観を持つ人々といかにして共存し、地球という限られた宇宙船の中で、持続可能な未来を築いていくことができるのか、その普遍的な知恵に他ならないのです。