【基礎 世界史】Module 2: 古代オリエントと地中海世界
【本記事の目的と構成】
本記事は、Module 1で学んだ「文明の誕生」という普遍的現象が、歴史上、最初に壮大なドラマとして展開された二つの舞台――「オリエント」と「地中海世界」――に焦点を当てます。この二つの世界は、決して孤立して存在したわけではありません。ティグリス・ユーフラテス川とナイル川のほとりで生まれた巨大な専制国家、東地中海の活発な交易民族、エーゲ海に花開いた市民たちの共同体、そしてイタリア半島から興りすべてを飲み込んでいく軍事帝国。これらの多様な文明は、時に平和的に交流し、時に激しく衝突しながら、互いに深く影響を及ぼし合いました。やがて、アレクサンドロス大王の東方遠征とローマ帝国による統一を通じて、オリエントと地中海は一つの「世界」へと統合されていきます。
本稿は、このダイナミックな歴史のうねりを構造的に理解するため、以下の三部構成で探求を進めます。
- 第1部 古代オリエント世界の興亡: 文明の揺りかごであるメソポタミアとエジプトから始まり、周辺諸民族の活動を経て、オリエント全土を初めて統一する「世界帝国」の統治モデルが創出されるまでを追います。
- 第2部 ギリシア世界の形成と展開: エーゲ海の青銅器文明から、市民が主役となる「ポリス」の成立、オリエント世界との大戦争、そしてポリス間の覇権争いによる衰退まで、西洋文明の精神的源流をたどります。
- 第3部 ヘレニズムとローマによる地中海世界の統一: ギリシアとオリエントの文化が融合したヘレニズム世界、そしてそのすべてを継承・発展させ、地中海を「我らが海」としたローマ帝国の興亡、さらにその遺産としてキリスト教がいかにして世界宗教へと飛躍したのかを解き明かします。
このモジュールを学び終える時、あなたは西洋古典古代世界の全体像を、個々の文明の興亡史としてだけでなく、文明間の相互作用と統合のプロセスとして立体的に把握する視点を獲得しているはずです。それでは、人類史における最初の国際社会の物語を始めましょう。
第1部 古代オリエント世界の興亡
「オリエント」とは、ラテン語で「日の昇るところ」を意味し、ヨーロッパから見た東方、すなわち現在の中東地域を指します。この地は、世界で最も早く農耕が始まり、都市と国家が誕生した、まさに文明の揺りかごでした。本章では、まず二つの大河文明、メソポタミアとエジプトの対照的な発展を概観し、次に両者をつなぐ東地中海地域で活躍した諸民族の活動に目を向けます。最後に、これらの多様な地域と文化を史上初めて一つの政治的枠組みのもとに統合した「世界帝国」、アッシリアとアケメネス朝ペルシアの挑戦と、その統治システムの革新性を分析します。
第1章 二つの大河文明:メソポタミアとエジプト
文明の誕生には大河の存在が不可欠でしたが、その河がもたらす地理的条件の違いは、そこに生まれる文明の性格を大きく左右しました。ティグリス・ユーフラテス川とナイル川、二つの大河が育んだ文明は、あらゆる面で対照的な姿を見せています。
1.1. メソポタミア:「川間の地」のダイナミズム
- 地理的環境と歴史的特質:
- メソポタミアとは、ギリシア語で「川の間の土地」を意味し、ティグリス川とユーフラテス川に挟まれた肥沃な沖積平野を指します。
- この地域は、四方を砂漠や山脈に囲まれてはいるものの、完全に閉ざされてはおらず、地理的に開放的な地形でした。
- このため、歴史を通じて周辺のさまざまな民族(セム語系のアッカド人、アムル人、アラム人や、インド=ヨーロッパ語系のヒッタイト、ペルシア人など)が絶えず侵入し、文明の担手が次々と交代しました。
- その結果、メソポタミアの歴史は、王朝の興亡が激しい、極めてダイナミックな展開を見せます。しかし、担い手は変わっても、シュメール人が築いた高度な文明(文字、宗教、法、科学技術)は後続の諸民族に継承・発展され、強い文化的な連続性を保ちました。
- シュメール人の都市国家(紀元前3000年頃~):
- 紀元前3000年頃、民族系統不明のシュメール人がメソポタミア南部にウル、ウルク、ラガシュといった多数の都市国家を建設しました。これらが世界最古の都市文明とされます。
- 各都市国家は、ジッグラトと呼ばれる煉瓦で造られた巨大な聖塔を中心に形成されていました。ジッグラトは、都市の守護神を祀る神殿であり、政治・経済の中心でもありました。
- 政治形態は、神官や王が神の代理人として統治する神権政治でした。
- シュメール人は、人類史における極めて重要な発明を成し遂げました。
- 楔形(くさびがた)文字: 粘土板に葦のペンで刻みつける表音・表意文字。法律、行政文書、文学作品、科学的記録など、あらゆる情報の記録に用いられ、後の中東世界の共通文字の基盤となりました。
- 六十進法: 時間(1時間=60分、1分=60秒)や角度(円周=360度)の計測に、その名残が現代にまで受け継がれています。
- 太陰暦: 月の満ち欠けを基準とする暦。農業や宗教儀礼の基準となりました。
- アッカド王国と古バビロニア王国:
- 紀元前24世紀頃、セム語系のアッカド人がシュメール人の都市国家を征服し、メソポタミア最初の統一国家であるアッカド王国を建てました。しかし、その支配は長続きしませんでした。
- 紀元前19世紀頃、同じくセム語系のアムル人がバビロンを都として**古バビロニア王国(バビロン第1王朝)**を建国し、メソポタミアを再統一しました。
- その最盛期の王が、第6代のハンムラビ王(在位:前1792頃~前1750頃)です。彼は、武力で全メソポタミアを支配下に収めるとともに、内政の安定に力を注ぎました。
- ハンムラビ法典: 彼の最大の功績は、シュメール以来の法慣習を集大成したハンムラビ法典を発布したことです。
- 目的: 法典の序文には、王が正義の神から王権を授かり、「強者が弱者を虐げぬように」するために法を制定したと記されており、王の正義と権威を示す目的がありました。
- 原則: 「目には目を、歯には歯を」という**同害復讐法(タリオの法)**が原則として知られています。これは、際限のない復讐の連鎖を防ぎ、公平な裁きを実現しようとするものでした。
- 身分による不平等: しかし、その適用は、被害者と加害者の身分(自由人、半自由民、奴隷)によって異なっていました。例えば、自由人が他の自由人の目を潰せば自分の目も潰されますが、奴隷の目を潰した場合は、銀を支払うだけで済みました。これは、当時の社会が明確な階級社会であったことを示しています。
- 意義: 成文化された法典によって国家を統治するという理念は、その後の国家建設の重要なモデルとなりました。
1.2. エジプト:「ナイルの賜物」の静態性
- 地理的環境と歴史的特質:
- ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と述べたように、エジプト文明のすべてはナイル川に依存していました。
- ナイル川は、毎年夏に定期的に増水・氾濫し、上流から肥沃な黒土を運んできました。このおかげで、人々は天水に頼ることなく、安定した農業生産を行うことができました。
- 地理的には、東西を広大な砂漠、南を急流地帯、北を地中海に囲まれた閉鎖的な地形でした。
- このため、メソポタミアとは対照的に、異民族の侵入が少なく、長期にわたって単一の王朝による安定した統治が維持されました。エジプトの歴史は、古王国・中王国・新王国という3つの安定期と、その間の混乱期(中間期)という、比較的静態的なパターンを繰り返します。
- 統一国家の形成とファラオの神聖王権:
- 紀元前3000年頃、伝説的なメネス王によって上エジプトと下エジプトが統一され、強固な中央集権国家が形成されました。
- エジプトの王はファラオと呼ばれ、単なる統治者ではなく、太陽神ラーの化身、あるいは神の子と見なされる現人神(あらひとがみ)でした。この神聖王権が、エジプトの絶対的な国家権力の源泉でした。
- ファラオは、ナイル川の氾濫を予測し(太陽暦の発達につながる)、治水・灌漑事業を指揮し、国土と民衆の豊穣を保証する責任を負っていました。
- 古王国時代(ピラミッド時代):
- 紀元前27世紀~紀元前22世紀頃。ファラオの権力が最も神格化された時代です。
- 王の絶大な権力を象徴するのが、ギーザに建設されたクフ王のピラミッドに代表される、巨大なピラミッド群です。
- ピラミッドは、王の墓であると同時に、王の魂が天に昇り、永遠の生命を得るための装置でした。その建設には、高度な測量技術、天文学的知識、そして何よりも多数の民衆を組織的に動員する国家の統治能力が必要でした。
- 独特の文化と宗教:
- 死生観: エジプト人は、死後の世界の存在を強く信じていました。魂が来世で生き続けるためには、その肉体が保存される必要があると考え、ミイラを製作する技術を発達させました。墓には、死者が来世で困らないように、来世への案内書である**『死者の書』**などが納められました。
- 文字: 神聖文字(ヒエログリフ)と呼ばれる象形文字が、主に神殿や墓の壁に刻まれました。これは、フランスのシャンポリオンがロゼッタ=ストーンを手がかりに解読しました。一方、行政文書など日常的な記録には、より簡略化された民用文字(デモティック)などがパピルス草から作られた紙に書かれました。
- 科学: ナイル川の氾濫後に土地を再測量する必要から測地術(幾何学の起源)が発達し、正確な暦の必要性から太陽暦(1年を365日とする)が発明されました。これは、後にローマでユリウス暦として採用され、現在のグレゴリオ暦の基礎となっています。
第2章 民族の十字路:東地中海の諸民族
メソポタミアとエジプトという二大文明圏に挟まれたシリア・パレスチナ地域は、古来より「民族の十字路」として、さまざまな民族が活動し、大国の影響を受けながらも独自の文化を育んだ地域でした。紀元前2千年紀後半から紀元前1千年紀にかけて、この地で活躍した3つの民族は、後の世界に大きな影響を与えました。
2.1. ヒッタイト:鉄と戦車を操る印欧語族
- 活動と特徴:
- 紀元前18世紀頃、インド=ヨーロッパ語族に属するヒッタイトが、アナトリア高原(現在のトルコ)に強力な王国を建国しました。
- 彼らの強さの秘密は、鉄製の武器と、軽快な**戦車(チャリオット)**を巧みに用いた戦術にありました。
- 当時、オリエント世界では武器や道具は主に青銅製でした。鉄は青銅よりも硬く、原料の鉄鉱石も豊富に存在しましたが、精錬にはより高温の炉と高度な技術が必要でした。ヒッタイトは、この製鉄技術を世界で初めて本格的に実用化・独占し、圧倒的な軍事力を誇りました。
- 歴史的意義:
- 紀元前1286年頃、ヒッタイトはシリアの覇権をめぐって、エジプト新王国のラメセス2世とカデシュの戦いで激突しました。この戦いは決着がつかず、世界最古の平和条約とされる条約が結ばれました。
- 紀元前1200年頃、謎の民族集団「海の民」の襲来などによってヒッタイト王国が滅亡すると、彼らが独占していた製鉄技術がオリエント全域に拡散しました。これにより、青銅器時代は終わりを告げ、鉄器時代が本格的に到来します。鉄器の普及は、農具の改良による農業生産力の向上や、武器の性能向上による戦争の激化など、社会に大きな変革をもたらしました。
2.2. フェニキア人:地中海に生きた交易の民
- 活動と特徴:
- 紀元前12世紀頃から、シリアの地中海沿岸に位置するシドン、ティルスなどの港市国家を拠点に、セム語系のフェニキア人が海上交易で活躍しました。
- 彼らは、レバノン杉の木材、紫色の染料、ガラス製品などを商品として、エジプト、メソポタミア、ギリシア、北アフリカを結ぶ広大な交易ネットワークを築きました。
- 地中海の各地に、交易の拠点として植民市を建設しました。その中でも、北アフリカに建設されたカルタゴは、後に西地中海の覇権をめぐってローマと死闘を繰り広げる強国へと成長します。
- 最大の文化的貢献:アルファベットの起源:
- フェニキア人の歴史における最大の功績は、フェニキア文字の存在です。
- 複雑な楔形文字やヒエログリフとは異なり、彼らは交易の記録を効率的に行うため、シナイ文字などを改良し、わずか22個の子音からなる、シンプルで実用的な表音文字を作り出しました。
- この文字体系は、すべてのアルファベットの起源となりました。
- 東方へ:アラム人に伝わり、アラム文字となる。アラム文字は、後にヘブライ文字、アラビア文字、さらにはソグド文字を経てウイグル文字、モンゴル文字、満州文字の源流ともなった。
- 西方へ:交易を通じてギリシアに伝わり、母音が加えられてギリシア文字が成立した。ギリシア文字は、さらにエトルリア人を通じてローマに伝わりラテン文字(ローマ字)となり、またスラヴ世界に伝わってキリル文字となった。
- 文字が少数の専門家(書記)の独占物から、商人でも習得できる便利な道具へと変わったことは、知識の普及と社会の活性化に計り知れない影響を与えました。
2.3. ヘブライ人:唯一神ヤハウェとの契約
- 歴史と信仰:
- シリア南部のパレスチナに定住したセム語系のヘブライ人(イスラエル人、ユダヤ人)は、軍事力や経済力ではなく、その特異な宗教によって世界史に巨大な足跡を残しました。
- 彼らの歴史は、旧約聖書に記されています。アブラハムに率いられてメソポタミアからパレスチナに移住し、一部はエジプトに移ったものの、指導者モーセに率いられてエジプトを脱出(出エジプト)し、シナイ山で唯一絶対の神ヤハウェと契約を結んだとされます。
- この契約とは、イスラエルの民がヤハウェのみを崇拝し、ヤハウェが与えた十戒などの律法を守るならば、ヤハウェは彼らを「選ばれた民」(選民思想)として保護するというものです。
- 紀元前11世紀末、ダヴィデ王、ソロモン王のもとでイスラエル王国として全盛期を迎えますが、ソロモンの死後、北のイスラエル王国と南のユダ王国に分裂しました。
- バビロン捕囚とユダヤ教の確立:
- 分裂後、北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(前722年)、南のユダ王国も新バビロニアによって滅ぼされ、都イェルサレムは破壊されました。そして、王や貴族、神官、職人など多くの人々が、首都バビロンへ強制移住させられました(バビロン捕囚、前586年)。
- この国家滅亡と捕囚という苦難の経験の中で、ヘブライ人の信仰は大きな変容を遂げ、普遍的なユダヤ教へと発展しました。
- 唯一神信仰の深化: なぜ神は我々を見捨てたのかという問いに対し、預言者たちは、それは民が神との契約を破り、偶像崇拝などの罪を犯したからだと説きました。そして、苦難は神の試練であり、悔い改めて律法を守れば、いつか神は救世主(メシア)を遣わし、我々を救済してくださると考えました。
- 律法主義と聖典の編纂: 異教の地バビロンで自らのアイデンティティを保つため、神殿での儀式に代わって、神の言葉である**律法(トーラー)**を学び、厳格に遵守することが信仰の中心となりました。この時期に、旧約聖書の核となる部分が編纂されたと考えられています。
- ユダヤ教が確立した、唯一神、偶像崇拝の否定、選民思想、律法主義、救世主思想といった観念は、後に誕生するキリスト教とイスラーム教に極めて大きな影響を与え、今日の世界を形成する精神的基盤の一つとなりました。
第3章 世界帝国の出現:アッシリアとアケメネス朝ペルシア
紀元前1千年紀に入ると、オリエント世界は新たな時代を迎えます。それは、特定の地域や民族だけでなく、オリエントの主要な文明圏のほぼすべてを、一つの巨大な政治権力のもとに支配する「世界帝国」の時代です。その先鞭をつけたアッシリアと、それを完成させたアケメネス朝ペルシアは、対照的な統治モデルを後世に示しました。
3.1. アッシリア帝国:恐怖による支配
- 興隆と軍事国家体制:
- メソポタミア北部に起源を持つセム語系のアッシリア人は、ヒッタイト滅亡後にいち早く鉄製武器を導入し、強力な軍事国家を建設しました。
- 彼らは、改良された戦車部隊、重装歩兵、そして巧みな攻城兵器を駆使し、征服活動を展開。紀元前7世紀前半のアッシュール=バニパル王の時代に最大版図を迎え、史上初めてオリエント全土の統一を成し遂げました。その領域は、メソポタミア、シリア・パレスチナ、そしてエジプトにまで及びました。
- 過酷な支配政策:
- アッシリアは、征服した地域に対して極めて過酷な支配を行いました。
- 反抗した都市は徹底的に破壊し、住民を虐殺しました。
- また、被征服民のアイデンティティを奪い、反乱を防ぐため、多数の住民を別の土地へ強制移住させる政策を大規模に実施しました。イスラエル王国を滅ぼした後の住民の強制移住はその一例です。
- 首都ニネヴェにアッシュール=バニパル王が建設した大図書館には、メソポタミアの粘土板文書が多数収集され、古代オリエント文化の継承に貢献しましたが、その統治は恐怖と圧政に依存するものでした。
- 短期間での崩壊:
- このような恐怖政治は、被支配諸民族の激しい憎悪と絶え間ない反乱を招きました。
- その結果、アッシリア帝国は、オリエント統一からわずか1世紀足らずで、メディアと新バビロニアの連合軍によって滅ぼされ(前612年)、巨大な帝国は再び4王国(メディア、リディア、新バビロニア、エジプト)が分立する状態に戻りました。
3.2. アケメネス朝ペルシア:寛容と共存の統治モデル
- 建国と発展:
- アッシリア崩壊後のオリエントを再統一したのが、イラン高原に住むインド=ヨーロッパ語系のペルシア人が建てたアケメネス朝です。
- 建国者のキュロス2世は、メディア、リディア、新バビロニアを次々と征服。彼は、新バビロニアに捕囚されていたユダヤ人を解放して帰国を許すなど、被征服民の伝統や宗教に寛容な政策をとりました。
- 第3代のダレイオス1世(在位:前522~前486)の時代に、帝国は東はインダス川から西はエーゲ海、南はエジプトに至る空前の大帝国へと発展し、その統治体制が確立されました。
- 革新的な統治システム:
- ダレイオス1世は、アッシリアの失敗に学び、広大で多様な帝国を効率的に、かつ安定して統治するための、極めて洗練されたシステムを構築しました。これは、その後の多くの帝国の手本となります。
- 中央集権体制:
- サトラップ(総督)制: 帝国全土を約20の州(サトラピー)に分け、それぞれにサトラップと呼ばれる総督を派遣して統治させました。サトラップには主にペルシア人の貴族が任命されました。
- 王の目・王の耳: サトラップの反乱や不正を防ぐため、「王の目・王の耳」と呼ばれる監察官を定期的に巡回させ、中央への報告を義務付けました。
- インフラ整備と経済統一:
- 王の道: 都のスサから小アジアのサルデスに至る、総延長約2500kmの駅伝制を完備した軍用・公用道路を建設。これにより、中央からの情報伝達と軍隊の迅速な移動が可能になりました。
- 度量衡・貨幣の統一: 帝国全土で通用する金貨・銀貨を鋳造し、税制を統一しました。これにより、帝国規模での経済活動が活発化しました。
- 寛容政策:
- キュロス2世以来の寛容政策を継承し、被征服民に対しては、税金と兵役の義務さえ果たせば、それぞれの宗教、言語、慣習を維持することを認めました。この柔軟な姿勢が、帝国の長期にわたる安定の基盤となりました。
- 帝国の宗教:ゾロアスター教:
- ペルシア人の間では、ゾロアスター教が広く信仰されていました。これは、預言者ゾロアスターが開いた宗教で、世界のすべてを光明・善の神アフラ=マズダと、暗黒・悪の神アーリマンとの絶え間ない闘争として捉える二元論的な世界観を特徴とします。
- そして、最後の審判の日に、善の神が最終的に勝利し、世界は救われると説きました。この最後の審判や天国と地獄、救世主の到来といった観念は、ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教にも影響を与えたと考えられています。
アケメネス朝ペルシアは、単なる武力による支配ではなく、巧妙な統治システムと寛容の精神によって、多様な民族と文化を内包する巨大な「世界帝国」を初めて長期的に安定させることに成功しました。このペルシア帝国が、次なる舞台であるギリシア世界と衝突するところから、歴史は新たな局面を迎えます。
第2部 ギリシア世界の形成と展開
地中海の東、バルカン半島南部とエーゲ海の島々。この岩がちで痩せた土地に、西洋文明の源流となる、極めてユニークな文明が花開きました。それは、巨大な専制君主が支配するオリエントとは全く異なる、自由な市民たちが主体となって築き上げた「ポリス(都市国家)」の世界です。本章では、まずポリス文明の先駆けとなったエーゲ海の青銅器文明を概観し、次にアテネの民主政とスパルタの軍国主義という対照的なポリスの発展モデルを分析します。そして、オリエントの大帝国ペルシアとの存亡をかけた戦争、その勝利がもたらしたアテネの栄光と、それに続くポリス同士の悲劇的な内乱を経て、ギリシア世界全体が変質していく過程を追います。
第4章 エーゲ海の黎明とポリスの誕生
ギリシア本土でポリスが成立する以前、エーゲ海ではオリエント文明の影響を受けながら、独自の青銅器文明が栄えていました。これらの文明は、後のギリシア神話の記憶の源泉ともなっています。
4.1. ミノア文明とミケーネ文明
- ミノア文明(クレタ文明、紀元前20世紀頃~):
- エーゲ海の南に浮かぶクレタ島を中心に栄えた、ヨーロッパ最古の本格的な青銅器文明です。イギリスの考古学者エヴァンズによって発見されました。
- 中心地は、伝説のミノス王の宮殿とされる、複雑な構造を持つクノッソス宮殿です。この宮殿には城壁がなく、壁にはイルカやタコなどを描いた明るく開放的なフレスコ画が見られます。このことから、ミノア文明は平和で海洋的な性格を持っていたと考えられています。
- 線文字Aと呼ばれる、未解読の文字を使用していました。エジプトやシリアと活発な海上交易を行っていたことが分かっています。
- ミケーネ文明(紀元前16世紀頃~):
- ギリシア本土のペロポネソス半島を中心に、ミケーネ、ティリンス、ピュロスなどで栄えた青銅器文明です。ドイツの考古学者シュリーマンが、ホメロスの叙事詩を信じて発掘に成功しました。
- ミケーネ文明を担ったのは、南下してきたインド=ヨーロッパ語系のアカイア人(初期のギリシア人)と考えられています。
- 巨大な石を積み上げた堅固な城壁(獅子門が有名)や、王の墓から発見された黄金のマスク、豪華な武具などから、戦闘的で尚武的な性格を持っていたことがうかがえます。王(ワナックス)を中心とした官僚制的な支配体制が敷かれていました。
- 彼らは、ミノア文明から文字を借用・改良し、初期のギリシア語を記述した線文字Bを使用しました。これは、イギリスの建築家ヴェントリスによって解読され、ミケーネ文明がギリシア人の文明であることが確定しました。
- 伝説のトロイア戦争は、このミケーネ文明の時代(紀元前13世紀頃)の出来事であったと考えられています。
4.2. 暗黒時代とポリスの成立
- ミケーネ文明の崩壊と「暗黒時代」:
- 紀元前1200年頃、ミケーネ文明は突如として崩壊し、宮殿は破壊され、線文字Bの使用も途絶えました。この原因は、北方からの異民族(ドーリア人など)の侵入説、内紛説、そして東地中海全体を混乱に陥れた「海の民」の活動など、諸説ありますが、確定していません。
- 文明が崩壊した後の約400年間(前1200~前800年頃)は、文字記録が全く存在しないため、「暗黒時代」と呼ばれます。
- しかし、この時代は単なる停滞期ではなく、後のギリシア世界を形成する重要な変化が進行していました。ヒッタイト滅亡後にオリエントから伝わった鉄器が普及し、王政が崩壊した後の新たな社会秩序が模索されていました。
- ポリス(都市国家)の成立(紀元前8世紀頃~):
- 暗黒時代を経て、紀元前8世紀頃になると、ギリシア各地にポリスと呼ばれる数百の都市国家が成立します。
- ポリスの構造: ポリスは通常、アクロポリスと呼ばれる城山(非常時の砦であり、守護神を祀る神殿が置かれた)と、アゴラと呼ばれる広場(市場や民会の場)を中心に形成されていました。
- 市民(ポリーテース): ポリスの最大の特徴は、王や神官ではなく、市民がその運営の主体であったことです。市民とは、ポリスの防衛義務を担う成人男性を指し、彼らが民会に参加してポリスの意思決定を行いました。オリエントの専制国家のように、王が民を支配する「臣民」とは根本的に異なる存在です。
- 重装歩兵(ホプリタイ)とファランクス: ポリスの防衛の主力を担ったのは、自前で武具を購入できる中産階級の市民からなる**重装歩兵(ホプリタイ)**でした。彼らが密集隊形(ファランクス)を組んで戦う戦術が主流となると、個人の武勇よりも集団としての規律と結束が重要になりました。これにより、ポリスの防衛を担う平民の発言権が増大し、貴族による支配を揺るがし、後の民主政発展の軍事的基盤となりました。
- 植民活動:
- 人口増加と土地不足から、多くのポリスは紀元前8世紀から6世紀にかけて、地中海や黒海の沿岸に活発な植民市を建設しました。
- 植民市は、母市(メトロポリス)と宗教的・文化的なつながりを保ちながらも、独立したポリスとして発展しました。これにより、ギリシア人の活動領域は大きく広がり、南イタリア(マグナ・グラエキア)やマルセイユ、ビザンティオン(後のコンスタンティノープル)などが建設されました。
4.3. アテネ:民主政への道
アテネは、数あるポリスの中でも、市民による政治参加の理念を最も徹底させたポリスでした。その民主政は、一朝一夕に完成したのではなく、約2世紀にわたる改革と闘争の積み重ねの末に実現しました。
- 貴族政治の動揺と改革の始まり:
- 当初のアテネは、土地を独占する貴族が、最高執政官(アルコン)などの要職を独占して統治する貴族政治でした。
- しかし、貨幣経済の浸透により、土地を失って債務奴隷に転落する平民が続出し、社会不安が増大しました。また、重装歩兵として活躍する平民たちは、政治参加の権利を要求するようになりました。
- ソロンの改革(前594年):
- この危機的状況を収拾するため、調停者としてアルコンに選ばれたソロンは、一連の改革を行いました。
- 債務の帳消しと、身体を抵当とする貸借の禁止(債務奴隷の防止)。
- 市民を財産の額に応じて4つの階級に分け、財産に応じて政治参加の権利と軍役の義務を定める(財産政治)。これにより、貴族でなくても富裕な平民であれば上級職に就く道が開かれました。
- ソロンの改革は、貴族と平民の双方から不満が残り、抜本的な解決には至りませんでしたが、アテネ民主政の基礎を築いたものとして高く評価されています。
- ペイシストラトスの僭主政治(前561年頃~):
- ソロンの改革後も対立は収まらず、その混乱に乗じて、貴族出身のペイシストラトスが、貧しい農民たちの支持を得て非合法な手段で権力を握りました。このような独裁者を**僭主(せんしゅ、テュランノス)**と呼びます。
- 彼は、亡命貴族の土地を貧しい農民に分配したり、公共事業を興して雇用を創出したりするなど、平民を保護する政策をとったため、民衆からは支持されました。皮肉なことに、彼の独裁政治が貴族の力を弱め、民主政への道をさらに推し進める結果となりました。
- クレイステネスの改革(前508年):
- 僭主政治が打倒された後、改革者クレイステネスが、アテネ民主政の基礎を確立する決定的な改革を行いました。
- 従来の血縁に基づく4部族制を廃止し、居住区(デーモス)を基礎とする10部族制に再編しました。これにより、貴族の政治的基盤であった地縁・血縁的な結びつきが解体され、全市民が平等な資格で政治に参加する基盤が作られました。
- 僭主の出現を防止するため、市民が投票によって危険人物を10年間国外追放する「陶片追放(オストラキスモス)」の制度を創設しました。
- これらの改革により、アテネは**民主政(デモクラティア)**の基礎を確立したとされます。
4.4. スパルタ:軍国主義と鎖国体制
アテネとは対極的な発展を遂げたのが、ペロポネソス半島南部に位置するスパルタです。
- 支配構造:
- スパルタを建国したドーリア人は、少数の支配者階級(スパルティアタイ)として、圧倒的多数の先住民を征服し、支配しました。
- 被征服民は、農業に従事する国有の奴隷ヘイロータイ(ヘロット)と、商工業に従事する不完全市民ペリオイコイに分けられました。
- スパルタの社会は、常にヘイロータイの反乱の恐怖に晒されており、その国家体制のすべては、この軍事的な支配を維持・強化するという一点に集約されていました。
- リュクルゴスの制:
- 伝説的な立法者リュクルゴスによって定められたとされる、極端な軍国主義と鎖国主義の体制で知られます。
- スパルティアタイの男性市民は、幼少期から家庭を離れて共同生活を送り、厳しい軍事訓練を受けました。彼らの唯一の任務は、最強の戦士となることでした。農業や商業は、ヘイロータイやペリオイコイに任され、市民は生産活動から完全に切り離されていました。
- 市民間の平等を維持するため、私有財産の蓄積は厳しく制限され、食事も共同で行われました。また、外部からの影響で体制が揺らぐことを恐れ、市民の海外渡航や外国人の滞在を制限し、贅沢品や貨幣の使用を禁じるなど、徹底した鎖国体制を敷きました。
- 政治体制:
- 政治的には、2人の王、長老会(ゲルーシア)、そして全市民による民会が存在しましたが、実権は少数のエリートが握る寡頭政治でした。その閉鎖的で保守的な体制は、ペロポネソス同盟の盟主としてギリシア世界に大きな影響力を持つ一方で、文化的な創造性を育むことはありませんでした。
第5章 栄光と悲劇:ペルシア戦争からペロポネソス戦争へ
紀元前5世紀、ギリシア世界は、その存亡をかけた大戦争を経験し、栄光の頂点を極めますが、その栄光はやがて内なる対立によって崩壊へと向かいます。
5.1. ペルシア戦争(前500年~前449年)
- 原因と勃発:
- アケメネス朝ペルシアが小アジア(アナトリア)西岸のイオニア地方に住むギリシア系植民市を支配下に置いたことが直接の原因です。
- 前499年、イオニア植民市の中心ミレトスが、アテネの支援を受けてペルシアに反乱を起こしました。この反乱は鎮圧されますが、ペルシアのダレイオス1世は、反乱を支援したアテネに報復するため、ギリシア本土への遠征を決意します。
- 主要な戦闘:
- マラトンの戦い(前490年): ダレイオス1世が派遣したペルシア軍がアテネ近郊のマラトンに上陸。アテネのミルティアデス率いる重装歩兵軍が、数で劣りながらも劇的な勝利を収め、ペルシア軍を撃退しました。
- 第2回遠征(クセルクセス王):ダレイオス1世の子クセルクセス1世が、数十万ともいわれる大軍を率いて再度侵攻。
- テルモピュライの戦い(前480年): スパルタのレオニダス王率いるわずか300人の兵士が、狭い隘路でペルシアの大軍を食い止め、玉砕。その英雄的行為はギリシア人の士気を高めました。
- サラミスの海戦(前480年): アテネの指導者テミストクレスの策略により、ペルシア海軍をサラミス島沖の狭い海峡におびき寄せ、小型で機動性に富むアテネの三段櫂船艦隊が壊滅的な打撃を与えました。これにより、ペルシア軍は制海権を失い、戦争の趨勢は決定的となりました。
- 歴史的意義:
- ギリシア世界の自由の防衛: 東方の専制君主国家の支配を退け、ポリスの自由と独立を守り抜いたことは、ギリシア人に強烈な自己意識と連帯感(ヘレネス意識)をもたらしました。
- アテネの覇権確立: サラミスの海戦での勝利に最も貢献したアテネが、ギリシア世界における指導的な地位を確立するきっかけとなりました。
- 西洋史の転換点: もしギリシアがペルシアに敗れていれば、その後のヨーロッパで花開く哲学、科学、民主主義といった文化は生まれなかったかもしれず、その意味で西洋史における極めて重要な転換点と見なされています。
5.2. アテネ海上帝国とペリクレスの時代
- デロス同盟の結成と変質:
- ペルシアの再来に備えるため、前478年、アテネを盟主としてエーゲ海の島々やイオニアのポリスが参加する軍事同盟「デロス同omelonos)」が結成されました。
- 加盟ポリスは、軍艦を拠出するか、あるいはそれに代わる同盟金(フォロス)を納める義務を負いました。同盟の金庫は、アポロン神殿のあるデロス島に置かれました。
- しかし、ペルシアの脅威が遠のくと、アテネは次第にこの同盟を私物化し始めます。同盟からの脱退を許さず、同盟金をアテネの国庫に流用し、加盟ポリスにアテネの貨幣や度量衡の使用を強制するなど、事実上、アテネを盟主とする「アテネ帝国」へと変貌させていきました。
- ペリクレス時代(前443年~前429年):
- このアテネ帝国の繁栄が頂点に達したのが、指導者ペリクレスが十数年にわたって将軍(ストラテゴス)の職に選ばれ続けた時代です。
- 民主政の完成: ペリクレスは、それまで財産のない市民が政治に参加しにくかった現状を改めるため、民会の出席者や役職者に手当を支給する制度を導入しました。これにより、最も貧しい階層の市民(無産市民)でも、日当を気にすることなく政治活動に参加できるようになり、アテネの民主政は完成の域に達しました。この政治体制の財源は、デロス同盟の同盟金によって賄われていました。
- 文化の黄金時代: ペリクレスは、デロス同盟の資金を投じて、ペルシア戦争で破壊されたアクロポリスの再建事業を行いました。
- パルテノン神殿: 女神アテナを祀る、ドーリア式建築の最高傑作。彫刻家フェイディアスが総監督を務めました。
- 三大悲劇詩人: アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスが、神々や英雄の運命を通じて人間の苦悩を描く悲劇を上演しました。
- 歴史: ペルシア戦争史を物語風に著した「歴史の父」ヘロドトス、ペロポネソス戦争を客観的・科学的に分析したトゥキディデスが登場しました。
- 哲学: 万物の根源を探求する自然哲学から、人間の生き方や社会のあり方を問うソフィストが登場し、やがて彼らを批判して普遍的な真理の探求を説いたソクラテスが現れます。
5.3. ペロポネソス戦争(前431年~前404年)
- 原因と経過:
- アテネの帝国主義的な拡大政策は、スパルタを盟主とするペロポネソス同盟との対立を激化させました。ギリシア世界を二分するこの二大勢力の対立は、ついに全面戦争へと発展します。
- 戦争は、強力な海軍を持つアテネと、最強の陸軍を持つスパルタとの間で、一進一退の攻防が続きました。
- 戦争の最中、アテネでは疫病が発生し、指導者ペリクレスが病死。その後のアテネでは、扇動的な政治家(デマゴーゴス)が民衆を煽り、無謀なシチリア遠征を強行して大敗するなど、衆愚政治に陥っていきました。
- 結果と影響:
- 最終的に、スパルタが宿敵ペルシアから資金援助を受けるという皮肉な形で海軍を再建し、アテネを破りました。
- アテネ帝国の崩壊: アテネは城壁を破壊され、海軍も解体され、その覇権は完全に失われました。
- ポリス社会の衰退: 長年にわたる戦争は、ギリシア全土を疲弊させ、市民の間に個人主義や利己主義が蔓延しました。市民がポリスのために戦うという共同体意識は失われ、傭兵が戦争の主役となっていきました。
- 覇権を握ったスパルタも、その強圧的な支配は長続きせず、やがてテーベに敗れるなど、ギリシア世界はポリス間の絶え間ない抗争と混乱の時代へと突入します。かつてペルシア帝国を打ち破ったポリス社会の活力は、内なる対立によって失われ、北方のマケドニアに征服される素地が作られていったのです。
第3部 ヘレニズムとローマによる地中海世界の統一
ペロポネソス戦争によってギリシアのポリス社会が自滅的な衰退を遂げる中、その北方に位置するマケドニア王国が急速に台頭します。マケドニアの若き王アレクサンドロスは、ギリシア世界を統一するや、空前の大遠征を敢行し、宿敵ペルシア帝国を滅ぼして、ギリシアとオリエントをまたぐ巨大な世界を現出させました。これが「ヘレニズム世界」です。一方、西地中海では、イタリア半島の一都市国家ローマが着実に力を蓄え、やがて地中海の覇権を握り、ヘレニズム世界をもその版図に収めて、古代地中海世界の最終的な統一者となります。本章では、この二つの大きなうねり、すなわちヘレニズムによる東西文化の融合と、ローマによる地中海世界の政治的統一、そしてその帝国の中から生まれたキリスト教が世界宗教へと飛躍する過程を詳述します。
第6章 東西世界の融合:ヘレニズム時代
「ヘレニズム」とは、ギリシア風の文化を意味します。歴史学的には、紀元前334年のアレクサンドロス大王の東方遠征開始から、紀元前30年に最後のヘレニズム王朝であるプトレマイオス朝エジプトがローマに滅ぼされるまでの約300年間を指します。この時代は、ギリシアの文化や思想がオリエント世界に広まり、現地の文化と深く融合した、独特の混合文化が栄えた時代でした。
6.1. アレクサンドロス大王の帝国
- マケドニアの台頭:
- マケドニアは、ギリシア人の一派が住む地域でしたが、他のポリスからは「野蛮人」と見なされていました。
- 紀元前4世紀半ば、国王フィリッポス2世が登場すると、巧みな外交と軍事改革(サリッサと呼ばれる長槍を用いた強力なファランクス)によって国力を増強し、カイロネイアの戦い(前338年)でアテネ・テーベ連合軍を破り、全ギリシアを制圧しました(コリントス同盟結成)。
- 東方遠征(前334年~前323年):
- フィリッポス2世が暗殺されると、その子アレクサンドロス(20歳)が王位を継ぎ、父の遺志であったペルシア遠征を開始します。
- イッソスの戦い(前333年): 小アジアでペルシア皇帝ダレイオス3世の軍を破る。
- アルベラの戦い(ガウガメラの戦い、前331年): メソポタミアで再びダレイオス3世の主力軍と激突し、決定的な勝利を収め、アケメネス朝ペルシアを事実上滅亡させました。
- その後も遠征を続け、バクトリア、ソグディアナ(中央アジア)を経て、インダス川流域まで到達しましたが、兵士の疲労から引き返しました。
- 帰還の途中、都と定めたバビロンで熱病にかかり、32歳という若さで急死しました。
- アレクサンドロスの帝国とその理念:
- 彼の帝国は、マケドニアからエジプト、メソポタミア、イラン、そしてインダス川に至る、史上類を見ない広大な領域を支配しました。
- アレクサンドロスは、単なる征服者ではありませんでした。彼は、ギリシア人とペルシア人をはじめとするオリエントの諸民族とを融合させることを目指しました。
- ペルシアの王宮儀礼を採用し、自らペルシアの王女を妃に迎えるとともに、部下の将兵にペルシア人女性との集団結婚を奨励しました。
- 帝国の各地に、アレクサンドリアと名付けた70以上の都市を建設し、ギリシア人を移住させて、東西文化融合の拠点としました。
- この政策は、ギリシア至上主義のマケドニア人将兵からは不評でしたが、ポリスという狭い枠組みを超えた、普遍的な「世界帝国」の理念を示すものでした。
6.2. ヘレニズム世界の成立と文化
- 後継者(ディアドコイ)戦争と3王国の分立:
- アレクサンドロスの死後、彼の広大な帝国は、有力な部下たち(ディアドコイ)による激しい後継者争いの舞台となりました。
- 約40年にわたるディアドコイ戦争の結果、帝国は最終的に3つの大きな王国に分裂して安定しました。
- アンティゴノス朝マケドニア: ギリシアとマケドニア本土を支配。
- セレウコス朝シリア: アナトリアからインダス川に至る、最も広大なアジア領土を支配。
- プトレマイオス朝エジプト: エジプトを支配。首都アレクサンドリアは、ヘレニズム世界最大の都市として繁栄した。
- ヘレニズム文化の特徴:
- 世界市民主義(コスモポリタニズム): ポリスという共同体が崩壊し、人々が巨大な帝国の一員となったことで、自分は特定のポリスの市民ではなく「世界市民(コスモポリーテース)」であるという考え方が生まれました。これは、個人が国家から自立し、自己の内面的な平安を求める哲学の隆盛につながりました。
- ストア派: ゼノンが創始。禁欲によって精神の平穏(アパテイア)を求める思想。後のローマで広く受け入れられた。
- エピクロス派: エピクロスが創始。精神的な快楽(アタラクシア)を追求することを説いた。
- 共通語コイネー: ギリシア語(特にアテネ方言)が、ヘレニズム世界の公用語・共通語(コイネー)として、交易や行政、学問の場で広く使われました。新約聖書もこのコイネーで書かれています。
- 自然科学の発展:
- 中心地は、プトレマイオス朝の首都アレクサンドリアに設立された王立研究所ムセイオン(ミュージアムの語源)でした。ここには巨大な図書館が併設され、世界中から学者たちが集まりました。
- 天文学:アリスタルコスが地球の公転と自転を唱える地動説を主張した。
- 数学:**エウクレイデス(ユークリッド)**が『幾何学原論』を著し、平面幾何学を大成した。
- 物理学:シチリア島のシラクサ出身のアルキメデスが、浮体の原理(アルキメデスの原理)やてこの原理を発見した。
- 美術: 写実性が極度に高まり、人間の激しい感情や肉体の動きを表現した作品が多く作られました。『ミロのヴィーナス』や『ラオコーン』などがその代表です。
- 世界市民主義(コスモポリタニズム): ポリスという共同体が崩壊し、人々が巨大な帝国の一員となったことで、自分は特定のポリスの市民ではなく「世界市民(コスモポリーテース)」であるという考え方が生まれました。これは、個人が国家から自立し、自己の内面的な平安を求める哲学の隆盛につながりました。
第7章 ローマの飛躍:共和政から帝国へ
ヘレニズム世界が東地中海で華やかな文化を展開している頃、西地中海のイタリア半島では、一都市国家ローマが着実にその力を伸ばしていました。彼らは、まずイタリア半島を統一し、次いで地中海の覇権を握り、最終的にはヘレニズム諸国をも飲み込んで、古代地中海世界の統一を完成させます。
7.1. 共和政の成立と発展
- 建国と王政の打倒:
- 伝説では紀元前753年、狼に育てられた双子の兄弟ロムルスによって建国されたとされます。当初は王政でしたが、紀元前509年、圧政を敷いた王を追放し、**共和政(レス・プブリカ、「公共のもの」)**が始まりました。
- 共和政の仕組みと身分闘争:
- 共和政ローマの政治は、任期1年で2名が選ばれる最高官職コンスル(執政官)、定員300名の終身議員からなる諮問機関元老院、そして市民の総会である民会によって運営されました。
- しかし、当初はコンスルや元老院議員の職は、パトリキと呼ばれる世襲の貴族に独占されており、プレブスと呼ばれる一般平民は政治から排除されていました。
- ローマ共和政の歴史は、このプレブスがパトリキに対して政治的権利を要求していく、約200年にわたる身分闘争の歴史でした。プレブスは、重装歩兵として国防の主力であったことを背景に、時には兵役を拒否する聖山事件のような集団行動によって、権利を勝ち取っていきました。
- 護民官と平民会の設置(前494年): プレブスを守るための官職護民官(元老院やコンスルの決定に対する拒否権を持つ)と、プレブスのみで構成される平民会が設置された。
- 十二表法(前450年頃): ローマ最初の成文法。法の内容が明文化され、パトリキによる法の恣意的な運用が防がれた。
- リキニウス・セクスティウス法(前367年): コンスルのうち1名は必ずプレブスから選出されること、公有地の占有を制限することなどを定めた。
- ホルテンシウス法(前287年): 平民会の決議が、元老院の承認なしに国法となることを定めた。これにより、パトリキとプレブスの法的な平等が達成され、身分闘争は終結しました。
- イタリア半島の統一:
- ローマは、この身分闘争と並行して、周辺の諸都市や諸民族との戦争を勝ち抜き、紀元前3世紀前半にはイタリア半島を統一しました。
- その統治の秘訣は、分割統治と呼ばれる巧みな政策にありました。征服した都市に対し、ローマとの関係に応じて、市民権や自治権に差をつけ、彼らの間に同盟関係が結ばれるのを防ぎました。これにより、被支配諸都市の反乱を防ぎ、ローマへの忠誠心を確保したのです。
7.2. 地中海世界の征服
- ポエニ戦争(前264年~前146年):
- イタリア半島を統一したローマが、次なる目標としたのが西地中海の制海権でした。その前に立ちはだかったのが、フェニキア人の植民市から発展した強大な海洋国家カルタゴでした。ローマとカルタゴの間で、3回にわたって繰り広げられた死闘がポエニ戦争(ポエニとはラテン語でフェニキア人の意)です。
- 第2次ポエニ戦争では、カルタゴの天才的将軍ハンニバルが、象部隊を率いてアルプスを越え、イタリア半島に侵入し、カンネーの戦いでローマ軍を壊滅させるなど、ローマを滅亡寸前まで追い込みました。
- しかし、ローマはスキピオの活躍により、ザマの戦いでハンニバルを破り、最終的に勝利を収めました。第3次ポエニ戦争でカルタゴ市は徹底的に破壊され、ローマは西地中海の覇権を確立しました。
- 東地中海への進出:
- ポエニ戦争と並行して、ローマは東地中海のヘレニズム世界にも進出。マケドニアやセレウコス朝シリアを次々と破り、属州としていきました。紀元前30年、最後のヘレニズム国家プトレマイオス朝エジプトを滅ぼしたことで、**地中海は完全にローマの「内海」**となりました。
7.3. 共和政の動揺と「内乱の1世紀」
- 社会の変質:
- 広大な属州の獲得は、ローマ社会に富をもたらしましたが、同時に共和政の基盤を揺るがす深刻な問題を生み出しました。
- ラティフンディアの拡大: 属州から安価な穀物が大量に流入し、また征服戦争で得た奴隷労働力を利用した、貴族による大土地経営(ラティフンディア)が拡大しました。
- 中小農民の没落: これにより、ローマの軍隊の根幹を支えてきた自作農(中小農民)は、価格競争に敗れて土地を失い、都市に流入して無産市民となりました。
- 改革の試みと内乱の始まり:
- この問題を解決しようとしたのが、護民官のグラックス兄弟(兄ティベリウス、弟ガイウス)です。彼らは、貴族が不法に占有する公有地を没収し、無産市民に再分配する農地改革を試みましたが、元老院の保守派と対立し、兄弟ともに非業の死を遂げました(前133年、前121年)。
- グラックス兄弟の改革の失敗後、ローマは有力な将軍たちが私兵を率いて権力闘争を繰り広げる、「内乱の1世紀」と呼ばれる時代に突入します。平民派のマリウスと閥族派のスラの抗争、大規模な奴隷反乱であるスパルタクスの反乱などが続きました。
- 三頭政治とカエサル:
- スラの後、ポンペイウス、クラッスス、そしてカエサルの3人が、元老院に対抗して私的な盟約を結び、政治を動かしました(第1回三頭政治)。
- ガリア(現在のフランス)遠征で名声と実力を高めたカエサルは、ポンペイウスを破って独裁権を握り、数々の改革を行いましたが、共和政の伝統を重んじる元老院議員たちによって暗殺されました(前44年)。
- カエサルの死後、その後継者であるオクタウィアヌス、部下のアントニウス、そしてレピドゥスによる第2回三頭政治が始まりますが、これもやがて内部対立で崩壊します。
- 最終的に、オクタウィアヌスが、エジプト女王クレオパトラと結んだアントニウスをアクティウムの海戦(前31年)で破り、内乱の1世紀に終止符を打ちました。
7.4. ローマ帝政と「パクス・ロマーナ」
- プリンキパトゥス(元首政)の開始:
- 内乱を収拾したオクタウィアヌスは、カエサルのようにあからさまな独裁者として振る舞うのではなく、共和政の形式を尊重し、自らを「プリンケプス(元首、第一の市民)」と称しました。
- 前27年、彼は元老院から「アウグストゥス(尊厳者)」の称号を贈られ、事実上の皇帝となりました。このアウグストゥスから始まる統治形態を**プリンキパトゥス(元首政)**と呼びます。表向きは共和政でも、実質的には皇帝が軍事権と行政権を握る帝政でした。
- パクス・ロマーナ(ローマの平和):
- アウグストゥスから五賢帝時代の終わり(後180年)までの約200年間は、帝国全土で大規模な戦争がなく、平和と繁栄が続いたため、「パクス・ロマーナ」と呼ばれます。
- 五賢帝時代: ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌス・ピウス、マルクス・アウレリウス・アントニヌスという5人の有能な皇帝が続いた時代。帝国の領土はトラヤヌス帝の時代に最大となりました。
- 帝国の繁栄を支えたもの:
- 属州統治: 広大な属州から得られる税収が帝国の財政を支えた。
- インフラ整備:「すべての道はローマに通ず」と言われるように、軍用・商業用のローマ街道が帝国中に張り巡らされた。また、都市には水道橋や公共浴場、円形闘技場(コロッセウム)などが建設された。
- ローマ法: 市民権の拡大に伴い、ローマ市民にのみ適用される市民法から、帝国内のすべての人々に適用される万民法へと発展した。その合理的で体系的な法思想は、後の大陸法の基礎となった。
第8章 ローマ帝国の変容とキリスト教の台頭
「パクス・ロマーナ」の時代が終わりを告げると、巨大なローマ帝国は深刻な危機に見舞われ、その体制を大きく変えながら、やがて崩壊へと向かいます。しかし、その帝国の普遍的な枠組みの中で育まれた一つの宗教が、帝国の滅亡後も生き続け、新たなヨーロッパ世界を形成する精神的な礎となりました。
8.1. 「3世紀の危機」と帝国の変質
- 軍人皇帝時代(235年~284年):
- 五賢帝時代の後、政治は混乱し、各地の軍団が勝手に皇帝を擁立し、殺害する事態が頻発しました。この約50年間に26人もの皇帝が乱立した時代を軍人皇帝時代と呼びます。
- 内乱に加え、北方からはゲルマン人、東方からはイランに興ったササン朝ペルシアの侵入が激化し、帝国は内外の危機に瀕しました。
- ラティフンディアの経営も行き詰まり、奴隷に代わって、土地に縛り付けられた小作人**コロナートゥス(コロヌス制)**による生産が主流となっていきます。これは、後の中世ヨーロッパの荘園制の先駆けとなる変化でした。
- ドミナートゥス(専制君主政)への移行:
- この危機を収拾するため、ディオクレティアヌス帝は強力な改革を断行しました。
- 彼は、自らをプリンケプス(元首)ではなく**ドミヌス(専制君主)**と称し、オリエント風の専制君主政(ドミナートゥス)を導入しました。
- また、広大な帝国を効率的に統治・防衛するため、帝国を東西に分け、それぞれに正帝(アウグストゥス)と副帝(カエサル)を置く**四分統治制(テトラルキア)**を開始しました。
- コンスタンティヌス帝の改革:
- ディオクレティアヌス帝の引退後、再び内乱が起こりますが、それを制圧して帝国の単独支配者となったのがコンスタンティヌス帝です。
- キリスト教の公認(313年): ミラノ勅令を発し、それまで迫害されてきたキリスト教を公認しました。これは、帝国の精神的統合を図るため、信者を増やしていたキリスト教の力を利用しようとしたものと考えられます。
- 首都の移転(324-330年): 帝国の重心が東方に移っていた実情に合わせ、首都をローマからギリシアの植民市ビザンティウムに移し、コンスタンティノープルと改称しました。
8.2. キリスト教の成立と国教化
- イエスの登場と教え:
- ローマの属州であったパレスチナで、イエスが登場。「神の国の到来は近い」と説き、ユダヤ教の律法主義を批判し、「神への愛」と「隣人愛」を教えの中心に据えました。彼は、身分や民族、性別を問わない**普遍的な愛(アガペー)**を説き、罪深い者や貧しい者こそが神に救われるとしました。
- イエスの教えは、ユダヤ教の指導者たちから異端と見なされ、ローマ総督によって十字架にかけられて処刑されました。
- 原始キリスト教の成立と布教:
- しかし、弟子たちはイエスが「復活」したと信じ、彼こそがユダヤ教で待望されていた救世主(ギリシア語でキリスト)であると確信しました。
- 第一の弟子ペテロや、元はキリスト教徒を迫害していたが回心したパウロらの使徒たちが、地中海世界各地で精力的な布教活動を行いました。特にパウロは、キリスト教をユダヤ人の民族宗教の枠から解放し、異邦人(非ユダヤ人)にも開かれた世界宗教へと発展させる上で決定的な役割を果たしました。
- 迫害から公認、そして国教化へ:
- ローマ皇帝への崇拝を拒否するキリスト教は、当初、国家の秩序を乱すものとして、ネロ帝やディオクレティアヌス帝の時代に大迫害を受けました。しかし、信者は殉教を恐れず、かえってその結束を強めていきました。
- 前述の通り、313年にコンスタンティヌス帝によって公認されます。
- ニケーア公会議(325年): コンスタンティヌス帝が主催した、最初の公会議。イエスを神と同一視するアタナシウス派が正統とされ、イエスの神性を否定するアリウス派が異端とされました。これにより、教義の統一が図られました。
- 国教化(392年): テオドシウス帝が、キリスト教(アタナシウス派)をローマ帝国の国教とし、他のすべての宗教を禁止しました。
- こうして、パレスチナの片隅で生まれた小さな宗教は、ローマ帝国という普遍的世界のインフラ(道路、共通語)と、社会不安の中で救いを求める人々の心をとらえ、ついに帝国そのものを精神的に支配するに至ったのです。
8.3. 西ローマ帝国の滅亡
- ゲルマン人の大移動:
- 4世紀後半、アジアの遊牧民フン人が西方に移動を開始したことが引き金となり、彼らに押される形で、ゲルマン人の諸部族が大規模にローマ領内へ侵入を開始しました(ゲルマン人の大移動)。
- 東西最終分裂と西ローマの滅亡:
- テオドシウス帝の死後、帝国は彼の二人の息子によって東ローマ帝国と西ローマ帝国に最終的に分割されました(395年)。
- 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、その後も約1000年にわたって存続しますが、西ローマ帝国は、ゲルマン人の侵入と内乱によって急速に衰退。
- 476年、ゲルマン人傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスが廃位され、西ローマ帝国はあっけなく滅亡しました。
西ローマ帝国の滅亡は、一般に「古代の終わり」と見なされます。しかし、それは決して古代世界の完全な消滅を意味するものではありませんでした。ローマが築いた法、言語(ラテン語)、建築技術、そして何よりも国教となったキリスト教は、侵入してきたゲルマン人たちに受け継がれ、やがて新たな「ヨーロッパ世界」を形成するための、豊かで力強い土壌となっていくのです。
【Module 2 結論:オリエントと地中海、二つの源流の合流】
本モジュールでは、人類史における最初の「国際社会」ともいえる、古代オリエントと地中海世界の約3000年にわたる壮大な歴史を概観してきました。
第1部では、対照的な二つの大河文明、すなわち民族交代の激しい開放的なメソポタミアと、単一王朝が長期にわたり安定した閉鎖的なエジプトが、それぞれ独自の政治・社会・文化を築き上げたことを見ました。そして、両者をつなぐ東地中海の回廊地帯で、鉄器をもたらしたヒッタイト、アルファベットの源流を生んだフェニキア人、そして唯一神教を確立したヘブライ人といった個性的な民族が、世界史に大きな影響を与えたことを確認しました。最終的に、これらの多様な世界は、まずアッシリアの恐怖政治によって、次いでアケメネス朝ペルシアの寛容と共存に基づく巧妙な統治システムによって、一つの「世界帝国」へと統合されました。
第2部では、舞台をエーゲ海に移し、オリエントの専制国家とは全く異なる、市民が主役の共同体「ポリス」の誕生とその展開を追いました。特に、民主政を極限まで推し進めたアテネと、軍国主義に徹したスパルタという二つの代表的なポリスのあり方を比較しました。ペルシア戦争での奇跡的な勝利は、ギリシア人に栄光と自信をもたらし、アテネに文化の黄金時代を現出させましたが、その覇権主義はポリス間の猜疑心と対立を招き、悲劇的なペロポネソス戦争によって、ギリシア世界は共倒れの道を歩むことになりました。
第3部で、我々はこの二つの世界の劇的な合流を目撃しました。ギリシアの衰退に乗じて台頭したマケドニアのアレクサンドロス大王は、ペルシア帝国を滅ぼし、ギリシアとオリエントを融合させた広大な「ヘレニズム世界」を創出しました。そこでは、ポリスの枠を超えた世界市民主義が生まれ、文化と科学が爛熟の時を迎えます。そして、このヘレニズム世界の遺産をすべて引き継ぎ、さらに地中海全域を政治的に統一したのが、イタリア半島の一都市国家から興ったローマでした。共和政における市民の権利闘争、巧みな分割統治、そして合理的な法体系を武器に、ローマは地中海を「我らが海」とする空前の大帝国を築き上げ、「パクス・ロマーナ」という長きにわたる平和を実現しました。
しかし、その巨大な帝国もやがて内側から変質し、ゲルマン人の大移動という外圧の中で、西半分は崩壊します。しかし、ローマ帝国がその末期に国教として受け入れたキリスト教は、帝国の滅亡後も、ローマが遺した文化や言語とともに生き続けました。
こうして、オリエントに起源を持つ専制国家の統治技術と一神教の思想、そしてギリシア・ローマに由来する市民共同体の理念、哲学・科学的思考、合理的な法体系という、西洋文明を形成する二つの巨大な源流は、ローマ帝国という坩堝(るつぼ)の中で一つに溶け合ったのです。この複雑で豊かな遺産の上に、次なる時代、すなわちヨーロッパ中世世界が築かれていくことになります。