【基礎 世界史】Module 4: 諸地域世界の形成と展開(500-1450年)

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【本記事の目的と構成】

本記事は、ローマ帝国や漢帝国といった古代世界帝国が崩壊・変質した後、西暦500年頃から大航海時代前夜の1450年頃まで、約1000年間にわたる世界の歴史を扱います。この時代は、しばしば「中世」と呼ばれますが、それはヨーロッパ中心の視点に過ぎません。地球規模で見れば、この時代は古代文明の遺産を受け継ぎつつも、東アジア、イスラーム世界、ヨーロッパといった主要文明圏が、それぞれ独自の社会・文化・政治システムを確立し、成熟させていった「諸地域世界の形成期」でした。

これらの地域世界は、決して孤立していたわけではありません。内陸アジアの遊牧民の活動、インド洋やサハラ砂漠を越える交易ネットワークの拡大は、人、モノ、技術、そして思想の交流を活発化させ、地域間の相互作用を深化させました。そして13世紀、ユーラシア大陸の大部分を覆うモンゴル帝国が出現し、これらの諸地域世界を暴力的に、しかし同時に緊密に結びつけ、ユーラシア規模での一体化を空前のレベルで実現します。

本稿は、この多極的でありながらも連動していく世界のダイナミズムを構造的に理解するため、以下の五部構成で探求を進めます。

  • 第1部 東アジア世界の再編と成熟: 漢帝国崩壊後の長い分裂期を乗り越え、隋・唐という世界帝国が、完成された律令体制を基盤に、周辺諸国をも巻き込む巨大な文化圏をいかにして形成したか。そして、唐の衰退後に、社会経済の劇的な変革を経て、宋代に士大夫を中心とする新たな社会がいかに成熟したかを見ます。
  • 第2部 イスラーム世界の成立と拡大: アラビア半島に誕生したイスラーム教が、いかにして普遍的な信仰共同体(ウンマ)を形成し、西はイベリア半島から東は中央アジアに至る広大なイスラーム帝国を築き上げたか。そして、その帝国の下で、ギリシア・ペルシア・インドの知が融合し、世界最高水準の学術と文化が花開いた様を追います。
  • 第3部 キリスト教世界の多元的展開: 西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパで、ゲルマン的伝統とローマ文化、そしてカトリック教会が融合して、地方分権的な「封建社会」がいかに形成されたか。また、東方でローマ帝国の継承者として存続したビザンツ帝国が、西ヨーロッパとは異なる独自の発展を遂げた様を比較検討します。
  • 第4部 ユーラシアを揺るがす諸勢力とモンゴル帝国による再編: テュルク系民族の西進がイスラーム世界やビザンツ帝国に与えた衝撃、そしてチンギス=ハンに始まるモンゴル帝国の征服活動が、ユーラシアの政治地図を塗り替え、東西交流をいかに劇的に変容させたかを分析します。
  • 第5部 ユーラシア大陸以外の諸地域世界: ユーラシアの激動と並行して、東南アジア、アフリカ、そしてアメリカ大陸で、独自の環境に適応した多様な文明がどのように形成・展開していたのかを概観します。

このモジュールを学び終える時、あなたは古代から近代へと至る世界史の大きな転換期を、単一の発展史ではなく、多元的な地域世界が織りなす壮大な相互作用のドラマとして理解する、深い歴史的思考力を手にしていることでしょう。


目次

第1部 東アジア世界の再編と成熟

後漢帝国の崩壊後、中国は約400年にわたる長い分裂と動乱の時代を経験します。しかし、この混乱の中から、北方の遊牧民文化と南方の漢人文化が融合し、新たなエネルギーが生まれました。このエネルギーを基盤に、中国は隋・唐という、漢代をしのぐ壮大な世界帝国を現出させます。唐の高度な統治システムと洗練された文化は、周辺諸国に絶大な影響を与え、漢字、儒教、仏教、律令制を共有する「東アジア文化圏」を形成しました。やがて唐帝国が内側から崩壊すると、中国社会は再び大きな変革期を迎え、宋代には、経済の飛躍的な発展と、新たな支配階級である士大夫の登場によって、近世へとつながる新しい社会の姿を現し始めます。

第1章 隋・唐帝国の出現と東アジア文化圏

1.1. 魏晋南北朝:分裂と融合の時代(220年~589年)

  • 三国時代から西晋の短い統一へ:
    • 後漢が滅亡すると、中国は魏・呉・蜀の三国が鼎立する時代に入ります。この時代は、英雄たちの活躍を描いた物語『三国志演義』で有名ですが、実際には戦乱の続く不安定な時代でした。
    • 魏から禅譲を受けた司馬炎の西晋が、一時的に中国を統一しますが、内紛(八王の乱)によってすぐに弱体化しました。
  • 五胡十六国と南北朝時代:
    • 西晋の混乱に乗じ、北方の諸遊牧民(五胡:匈奴、鮮卑、羯、氐、羌)が華北に侵入・建国し、多数の王朝が興亡する五胡十六国時代が始まります。
    • 一方、漢人の貴族たちは、戦乱を逃れて江南(長江下流域)に渡り、東晋を建国しました。
    • やがて、鮮卑族の拓跋氏が建てた北魏が華北を統一し、江南の漢人王朝(宋・斉・梁・陳)と対峙する南北朝時代へと移行します。
  • 分裂期の社会と文化:
    • 貴族社会の形成: この長い分裂と動乱の時代を通じて、漢代の豪族は、名門の家柄を誇る貴族へと変貌しました。彼らは、九品中正(官吏推薦制度)を利用して高級官職を世襲独占し、政治・経済・文化のあらゆる面で社会を支配しました。
    • 江南の開発: 華北から多数の漢人が移住したことで、それまで開発が遅れていた江南の農業生産力が飛躍的に向上しました。
    • 仏教・道教の隆盛: 社会不安を背景に、個人の救済を説く宗教が広く受け入れられました。
      • 仏教: 北朝の諸王朝は、外来の宗教である仏教を国家の保護下に置き、雲崗竜門といった壮大な石窟寺院を造営しました。江南では、貴族層の間で、仏教は清談(老荘思想に基づく哲学的談義)と結びつき、学問として研究されました。
      • 道教: 中国古来の神仙思想や民間信仰が、老荘思想の影響を受けて体系化され、道教として教団組織が確立しました。
    • 胡漢融合: 華北では、遊牧民の文化と漢人の伝統文化が長期にわたって接触・融合し、隋・唐帝国の活力の源泉となりました。北魏の孝文帝による漢化政策(洛陽への遷都、胡服・胡語の禁止など)はその象徴的な例です。

1.2. 隋:短命ながら偉大な再統一王朝(581年~618年)

  • 中国の再統一:
    • 北朝の隋の**楊堅(文帝)**が、南朝の陳を滅ぼして、約400年ぶりに中国を再統一しました。
    • 文帝は、貴族の権力を抑制し、皇帝の中央集権を強化するため、科挙(学科試験による官吏任用制度)を開始し、全国に均田制(土地制度)や租庸調制(税制)を施行するなど、後の唐の律令制度の基礎を築きました。
  • 煬帝と大運河の建設:
    • 第2代**煬帝(ようだい)**は、父の事業を引き継ぎ、華北の政治・軍事の中心と、経済的に発展した江南とを結びつけるため、大運河を建設しました。
    • この大運河は、その後の中国の南北一体化と経済発展に計り知れない貢献をしましたが、その建設工事と、3度にわたる高句麗遠征の失敗は、民衆に過大な負担を強いました。
    • その結果、全国で反乱が続発し、隋は統一からわずか38年で滅亡しました。

1.3. 唐:世界帝国の完成と律令体制(618年~907年)

  • 建国と「貞観の治」:
    • 隋末の混乱の中から台頭した李淵(高祖)が、長安を都として唐を建国。その子の**李世民(太宗)**が、優れた臣下を登用し、対外的にも東方の突厥を討って勢力を広げるなど、安定した治世を現出させました(貞観の治)。
  • 律令体制の確立:
    • 唐は、隋の制度を受け継ぎ、極めて精緻で体系的な統治システムである律令体制を完成させました。これは、刑法典である「律」、行政法典である「令」、そして施行細則である「格」「式」からなる法体系を国家統治の基本とするものです。
    • 中央官制(三省六部): 皇帝の権力を補佐・抑制する機関として、中書省(詔勅の起草)、門下省(詔勅の審議)、尚書省(詔勅の執行)の三省が置かれ、尚書省の下に実務を担当する六部が設置されました。
    • 土地・税制:
      • 均田制: 国家が人民に土地を給付し、その死後に返還させる土地公有制。
      • 租庸調制: 均田制を基盤とし、成年男性に穀物()、労役または絹・布()、地方の特産物(調)を課す税制。
    • 軍事制度:
      • 府兵制: 均田農民から兵士を徴発し、一定期間、都の警備や辺境の防衛にあたらせる兵農一致の制度。
  • 東アジア文化圏の形成:
    • 唐の高度な律令体制と洗練された文化は、周辺の国々にとって偉大な模範となりました。
    • 新羅(朝鮮半島)、渤海(満州)、そして日本(奈良・平安時代)は、積極的に遣唐使などを派遣して唐の制度や文化を導入し、律令国家の建設を進めました。
    • これらの国々は、漢字儒教仏教、そして律令という共通の文化的要素を持つようになり、唐を中心とする一つの巨大な国際文化圏、すなわち東アジア文化圏が形成されました。

1.4. 唐代の国際的文化

  • 都・長安のコスモポリタンな性格:
    • 唐の首都長安は、人口100万を擁する世界最大の国際都市でした。シルクロードを通じて、西方の商人(ソグド人など)、使節、留学生、僧侶たちが数多く来訪し、多様な文化が交錯しました。
    • 外来宗教の伝来: イスラーム教、マニ教のほか、キリスト教の一派である**景教(ネストリウス派)や、ペルシア起源の祆教(けんきょう、ゾロアスター教)**も伝来し、長安にはそれぞれの寺院が建立されました。
  • 文化の爛熟:
    • 詩:李白杜甫白居易など、中国文学史上最高の詩人たちが輩出されました。
    • 書道:顔真卿らが力強い書風を確立しました。
    • 絵画:呉道玄らが活躍し、人物画や山水画が発展しました。
    • 陶磁器:白磁や青磁とともに、色彩豊かな唐三彩が作られ、西域の人物やラクダをかたどったものが多く見られます。

1.5. 安史の乱と唐の衰退

  • 玄宗の治世と楊貴妃:
    • 8世紀前半、玄宗皇帝の治世初期は「開元の治」と呼ばれ、唐の国力は頂点に達しました。
    • しかし、治世の後半になると、玄宗は政治に倦み、絶世の美女楊貴妃を寵愛して、楊一族を重用するようになりました。
  • 募兵制と節度使の台頭:
    • 均田制が崩壊し始め、府兵制が機能しなくなると、政府は辺境防衛のために兵士を募集する募兵制へと移行しました。
    • 辺境の防衛と行政を担う軍司令官である節度使は、募兵を通じて強大な私兵集団を抱え、管轄区内の財政権と軍事権を掌握して、独立した軍閥のような存在になっていきました。
  • 安史の乱(755年~763年):
    • 節度使の一人であったソグド系の安禄山と、その部下の史思明が、楊一族との対立から大規模な反乱を起こしました。これが安史の乱です。
    • 反乱軍は一時、長安や洛陽を占領し、玄宗は蜀へと逃亡しました。
    • 唐政府は、ウイグルなどの遊牧民の援助を得て、8年がかりでようやく乱を鎮圧しましたが、この反乱は唐帝国に致命的な打撃を与えました。
  • 乱後の社会変容:
    • 藩鎮の割拠: 乱の平定に功績のあった節度使たちが、そのまま任地に居座り、中央政府の統制が及ばない半独立政権(藩鎮)となりました。
    • 税制の変化: 均田制と租庸調制は完全に崩壊し、代わって、個人の資産(土地と財産)に応じて夏と秋の2回、銭で納税させる両税法(780年)が施行されました。これは、土地私有を公認し、税を貨幣で納めることを原則とするもので、中国の税制史における大きな転換点でした。
    • 唐は、安史の乱後も約150年存続しますが、藩鎮の反乱や、塩の密売人を中心とした黄巣の乱(875年~884年)によって国力は完全に尽き、907年に節度使の朱全忠によって滅ぼされました。

第2章 唐から宋へ:社会経済の大変革

唐の滅亡後、中国は再び分裂の時代を迎えますが、それは唐代後半から始まっていた社会経済の大変革が、新たな社会体制を生み出すための産みの苦しみでもありました。この変革を経て成立した宋代の中国は、それ以前の貴族社会とは全く異なる、新しい様相を呈していました。

2.1. 五代十国と宋の中国統一

  • 五代十国の分裂時代(907年~960年):
    • 唐が滅亡した後、華北では5つの王朝(後梁、後唐、後晋、後漢、後周)が目まぐるしく交代し(五代)、華中・華南では10余りの地方政権(十国)が分立しました。
    • この時代は、唐末以来の武人(節度使)が実権を握る、武断的な風潮が支配しました。
  • 宋(北宋)の成立と文治主義:
    • 960年、五代最後の後周の将軍であった趙匡胤(ちょうきょういん、太祖)が、部下に推されて皇帝となり、宋を建国しました。都は開封
    • 彼は、唐が節度使の強大化によって滅んだことを深く反省し、軍人の力を徹底的に削ぎ、皇帝の権力を強化する政策をとりました。
      • 節度使の権力剥奪: 節度使から財政権と軍事権を取り上げ、中央から文人官僚を派遣して地方を治めさせました。
      • 皇帝直属軍の強化: 禁軍と呼ばれる皇帝直属の軍隊を強化し、地方軍を弱体化させました。
    • このように、武力ではなく、教養ある文人官僚によって国を治めるという宋の統治理念を文治主義と呼びます。

2.2. 宋代の社会経済と文化

  • 科挙制度の完成と士大夫の登場:
    • 宋代には、隋・唐で始まった科挙が、最終的な試験を皇帝自らが行う殿試を導入するなどして完成の域に達しました。
    • これにより、家柄に関係なく、個人の学問的実力さえあれば誰でも高級官僚になる道が開かれました。
    • この科挙を通じて官僚となった人々を士大夫と呼びます。彼らは、儒教的な教養を身につけた知識人であり、官僚として政治を担うとともに、地域の指導者として文化を牽引する、新しい支配階級となりました。魏晋南北朝以来の貴族社会は、宋代に完全に終焉を迎えました。
  • 経済の飛躍的発展:
    • 宋代は、中国史上、商業が最も発展した時代の一つです。
      • 農業生産力の向上: ベトナムから伝わった早稲の占城稲の導入や、江南での棚田の開発などにより、農業生産が飛躍的に増大しました。
      • 商業の活性化石炭が燃料として実用化され、製鉄業や陶磁器業が発展。大運河や河川交通網が整備され、国内商業が活発化しました。
      • 貨幣経済の浸透: 銅銭が大量に鋳造されたほか、重い銅銭の代わりに、世界初の紙幣である交子会子が四川や江南で使用されました。
      • 海上交易の隆盛: 陸のシルクロードが、タングート(西夏)などの勢力に阻まれたため、中国商人はジャンク船を用いて、南方の海へと活発に進出しました。泉州や広州には、海外貿易を管理する役所である市舶司が置かれ、東南アジアやインド、イスラーム世界から多くの商人が来航しました。
  • 士大夫文化の成熟:
    • 新興の支配階級である士大夫たちは、洗練された都市文化の担い手となりました。
      • 儒学の革新(宋学): 宇宙の原理(理)と人間の心(心)を探求する、思弁的な新しい儒学である宋学が興りました。南宋の朱熹(朱子)は、これを大成して朱子学を確立し、後の東アジア世界に絶大な思想的影響を与えました。
      • 禅宗の流行: 士大夫の間では、経典の解釈よりも座禅による実践的な悟りを重視する禅宗が流行しました。
      • 歴史学: 司馬光が、編年体の通史『資治通鑑』を著しました。
      • 芸術: 詩や詞、そして自然や内面を静かに描く山水画や文人画が、士大夫の趣味として洗練されていきました。

(以下、第2部、第3部、第4部、第5部、結論と続く)

(文字数制限のため、残りの部分の生成は省略しますが、上記思考プロセスに基づき、各部を同様の詳細さで記述します)

世界史の構造的理解:文明の並行発展と地球規模の相互作用 – Module 4: 諸地域世界の形成と展開(500-1450年)

(前回の続き)


第2部 イスラーム世界の成立と拡大

7世紀、アラビア半島という、それまで世界の歴史の舞台からは周縁と見なされていた場所から、世界史を根底から変える巨大な力が生まれました。それがイスラーム教です。イスラームは、単なる宗教にとどまらず、神の教えのもとに信者が一つに結びつく共同体(ウンマ)の理念を掲げ、わずか1世紀あまりで西はイベリア半島から東はインダス川流域に至る広大な世界帝国を築き上げました。このイスラーム世界は、ビザンツ帝国や西ヨーロッパ、そしてインドや中国といった諸文明と接する世界の中心に位置し、多様な文化を吸収・融合させながら、世界最高水準の学術と経済的繁栄を謳歌しました。

第3章 イスラームの誕生と帝国の形成

3.1. イスラーム教の成立とウンマの形成

  • 7世紀初頭のアラビア半島:
    • 当時のアラビア半島は、東のササン朝ペルシアと西のビザンツ帝国という二大勢力に挟まれ、その影響下にありました。
    • 住民の多くは、部族社会を形成するアラブ人(ベドウィン)で、宗教的には多神教が信仰されていました。
    • 西部のヒジャーズ地方には、インド洋と地中海を結ぶ隊商交易路が通り、その中継都市としてメッカが繁栄していました。メッカには、カーバ神殿と呼ばれる聖所があり、多数の神々の像が祀られ、多くの巡礼者を集めていました。
  • ムハンマドの登場:
    • 6世紀後半、メッカの有力部族クライシュ族のハーシム家に、**ムハンマド(マホメット)**が生まれました。
    • 彼は、隊商交易に従事する中で、ユダヤ教やキリスト教に触れ、アラブ社会の多神教や部族間の対立、貧富の差の拡大といった現実に深く悩み、瞑想にふけるようになります。
    • 610年頃、40歳になったムハンマドは、ヒラー山の洞窟で、大天使ジブリール(ガブリエル)を通じて、唯一絶対の神アッラーからの啓示を受けたとされます。これがイスラーム教の始まりです。
  • イスラームの教え:
    • イスラームとは「神への絶対的帰依」を意味し、その信者をムスリムと呼びます。
    • その教えの核心は、厳格な一神教にあります。「アッラーの他に神はなし、ムハンマドは神の使徒(預言者)なり」という信仰告白(シャハーダ)にそのすべてが集約されています。
    • ムハンマドは、アブラハム、モーセ、イエスといった預言者たちの系譜に連なる、「最後にして最大の預言者」と位置づけられます。そのため、イスラーム教はユダヤ教やキリスト教を不完全なものと見なしつつも、その聖典や預言者を尊重します。
    • イスラーム教は、偶像崇拝を徹底的に否定し、神の前ではすべての信者が平等であると説きました。この教えは、部族や血縁を超えた、信仰に基づく新しい共同体、すなわちウンマの形成を目指すものでした。
  • ヒジュラ(聖遷)とウンマの成立:
    • ムハンマドがメッカで布教を始めると、その教えは、多神教の巡礼によって利益を得ていたメッカの大商人たちの激しい迫害を受けました。
    • 622年、ムハンマドは信者たちを率いて、迫害から逃れて北方の都市**ヤスリブ(後のメディナ)へと移住しました。この出来事をヒジュラ(聖遷)**と呼び、イスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年とされます。
    • メディナで、ムハンマドは部族間の調停者として迎えられ、ここに初めて信仰に基づく共同体ウンマを樹立しました。ウンマは、宗教・政治・軍事が一体となった共同体でした。
    • その後、メディナのウンマはメッカのクライシュ族との戦いを経て勢力を拡大し、630年にはメッカを無血征服。カーバ神殿の偶像をすべて破壊し、イスラームの最も神聖な聖所と定めました。ムハンマドの死(632年)までに、アラビア半島の大部分がイスラームの旗のもとに統一されました。

3.2. 正統カリフ時代とウマイヤ朝の拡大

  • 正統カリフ時代(632年~661年):
    • ムハンマドの後継者問題は、ウンマの重大な課題でした。結局、有力な信者たちの合意(シューラー)によって、後継者(カリフ)が選出されることになりました。
    • 初代から4代までのカリフ(アブー=バクル、ウマル、ウスマーン、アリー)の時代を、正統カリフ時代と呼びます。
    • この時代、イスラーム軍は「ジハード(聖戦)」のスローガンのもと、驚異的な速度で征服活動を展開しました。
      • シリア、エジプトでビザンツ帝国軍を破り、ニハーヴァンドの戦い(642年)でササン朝ペルシアを事実上滅亡させました。
    • この急速な拡大の背景には、ビザンツ・ササン両帝国の長年の抗争による疲弊や、両帝国の宗教的圧政(単性論など)に苦しんでいたシリア・エジプトの住民が、比較的寛容なイスラームの支配を歓迎したことなどがありました。
  • 内乱と分裂の始まり:
    • 帝国の急拡大は、征服地からの莫大な富(戦利品)の分配をめぐる対立を生みました。
    • 第3代カリフのウスマーンが、自分の出身であるウマイヤ家の者を優遇したことから不満が高まり、彼は暗殺されます。
    • 第4代カリフに選出されたアリー(ムハンマドの従弟で娘婿)に対し、ウマイヤ家のシリア総督ムアーウィヤが反発し、ウンマは内乱状態に陥りました。アリーが暗殺された後、ムアーウィヤがカリフとなり、ウマイヤ朝を開きます。
    • この内乱の過程で、イスラーム世界は二つの大きな宗派に分裂しました。
      • スンナ派: 歴代カリフの正統性を認め、ムハンマドの言行(スンナ)と慣行に従う多数派。
      • シーア派: 第4代カリフのアリーとその子孫のみを、ウンマの正統な指導者(イマーム)と認める少数派。
  • ウマイヤ朝(661年~750年):
    • ムアーウィヤは、都をシリアのダマスクスに定め、カリフの地位を世襲としました。これにより、カリフはウンマの選挙による指導者から、帝国を支配する王朝の君主へと性格を変えました。
    • ウマイヤ朝時代、イスラーム帝国はさらに拡大を続け、東は中央アジア・インダス川流域、西は北アフリカ全域からイベリア半島までを征服しました。732年のトゥール・ポワティエ間の戦いでフランク王国に敗れ、西ヨーロッパへの進出は阻止されました。
    • ウマイヤ朝の統治は、アラブ人第一主義を特徴とします。アラブ人ムスリムは、税制面などで優遇されたのに対し、非アラブ人の改宗者(マワーリー)は、アラブ人と同じ権利を与えられず、人頭税(ジズヤ)や地租(ハラージュ)の支払いを義務付けられるなど、差別的な扱いを受けました。このマワーリーの不満が、やがてウマイヤ朝を揺るがす大きな力となっていきます。

3.3. アッバース朝革命とイスラーム帝国の黄金時代

  • アッバース朝革命(750年):
    • ウマイヤ朝のアラブ人第一主義に不満を抱くマワーリー(特にペルシア人)と、シーア派や、ムハンマドの叔父アッバースの子孫を担ぐ勢力が結集し、大規模な反乱が起こりました。
    • 750年、この革命勢力がウマイヤ朝を打倒し、アッバース家のアブー=アルアッバースが新たなカリフとなり、アッバース朝が成立しました。
  • 普遍的イスラーム帝国の建設:
    • アッバース朝は、ウマイヤ朝の失敗に学び、アラブ人の特権を廃止し、すべてのムスリムを人種に関係なく平等に扱うという、普遍的なイスラーム帝国の建設を目指しました。
    • 第2代カリフのマンスールは、都をメソポタミアのバグダードに建設しました。バグダードは、東西交易路の結節点に位置し、円形の計画都市として建設され、瞬く間に世界有数の大都市へと発展しました。
    • 第5代カリフのハールーン=アッラシードの時代(8世紀末~9世紀初頭)に、アッバース朝は最盛期を迎えました。その繁栄は、『千夜一夜物語(アラビアン=ナイト)』の世界として、後世に語り継がれています。

第4章 イスラーム世界の学術と文化

アッバース朝時代のバグダードは、政治・経済の中心であるだけでなく、世界の知が集まる学術の中心地でもありました。イスラーム世界は、ギリシア、ペルシア、インドなど、征服した地域の高度な文化遺産を積極的に吸収・翻訳し、それらを融合させて、独自の輝かしい学術文化を創造しました。

  • 知恵の館(バイト=アルヒクマ):
    • ハールーン=アッラシードの子である第7代カリフのマームーンは、バグダードに王立の学術研究所兼図書館である「知恵の館」を設立しました。
    • ここでは、国家事業として、ギリシア語、シリア語、サンスクリット語、ペルシア語など、様々な言語の文献がアラビア語に翻訳されました。
    • アリストテレスの哲学、エウクレイデスの幾何学、プトレマイオスの天文学、ガレノスの医学など、ギリシアの学問の多くが、この翻訳活動によってアラビア語世界に保存・継承されました。これらの知は、後に十字軍やイベリア半島を通じてヨーロッパに逆輸入され、12世紀ルネサンスやイタリア・ルネサンスの引き金の一つとなります。
  • 各分野における学問の発展:
    • 哲学: ギリシア哲学、特にアリストテレス哲学の研究が盛んに行われ、イスラーム神学と融合されました。中央アジア出身の**イブン=シーナー(アヴィケンナ)**は、哲学者であると同時に医学者でもあり、その主著『医学典範』は、近世までヨーロッパの医学界で教科書として用いられました。イベリア半島では、**イブン=ルシュド(アヴェロエス)**が、アリストテレス哲学の精緻な注釈を残しました。
    • 歴史学イブン=ハルドゥーンは、主著『世界史序説』の中で、都市と遊牧民の関係性から歴史の法則性を考察する、独自の文明史論を展開しました。
    • 数学: インドから伝わったゼロの概念十進法を取り入れ、これを「アラビア数字」として完成させました。また、フワーリズミーは、インド数学とギリシア数学を融合させて、**代数学(アルジェブラ)**を確立しました。
    • 化学: 錬金術の研究から、実験に基づく科学的な手法が発達しました。アルコールや硝酸、硫酸などの物質が発見され、蒸留器などの実験器具も発明されました。**アルケミー(錬金術)**という言葉自体がアラビア語起源です。
    • 天文学: ギリシアの天文学を基礎に、正確な天文台( обсерватория)が各地に建設され、精密な観測が行われました。
    • 地理学: 広大な帝国を統治する必要性と、活発な交易活動を背景に、地理学の知識も集積されました。イブン=バットゥータは、14世紀にアフリカから中国まで、広大なイスラーム世界を旅し、詳細な旅行記を残しました。

(以下、第3部以降に続く)

(前回の続き)


第3部 キリスト教世界の多元的展開

西ローマ帝国の滅亡(476年)後、かつて一つの帝国であった地中海世界の西と東は、全く異なる歴史の道を歩み始めます。東方では、**ビザンツ帝国(東ローマ帝国)**が、首都コンスタンティノープルを拠点に、古代ローマの伝統とギリシア文化、そして独自のキリスト教(ギリシア正教)を融合させ、1000年にわたって存続しました。一方、西方では、ローマ帝国という政治的な統一が失われた混乱の中から、侵入してきたゲルマン人の要素と、ローマの遺産、そしてローマ=カトリック教会が結びつき、西ヨーロッパ世界という新しい文明圏が、地方分権的な「封建社会」としてゆっくりと形成されていきました。本章では、この二つのキリスト教世界の、対照的でありながらも相互に関わり合う、多元的な展開を追います。

第5章 ビザンツ帝国:東方のローマ

ビザンツ帝国は、自らを「ローマ帝国」そのものであると見なし、その皇帝はカエサルやアウグストゥスの直接の後継者を自認していました。しかし、その実態は、ラテン的というよりもギリシア的、西方的というよりも東方的な、独自の文明を築き上げた国家でした。

5.1. ローマ帝国の継承者

  • 首都コンスタンティノープル:
    • 帝国の中心は、ボスポラス海峡に面する難攻不落の要塞都市コンスタンティノープルでした。アジアとヨーロッパを結ぶ戦略的な位置にあり、東西交易の結節点として、中世を通じてキリスト教世界最大の都市として繁栄しました。
  • ユスティニアヌス帝の治世(527年~565年):
    • ビザンツ帝国の初期における最も偉大な皇帝がユスティニアヌス帝です。彼は、かつてのローマ帝国の栄光を回復することを目指しました。
    • 地中海世界の再征服: 有能な将軍ベリサリウスらを派遣し、北アフリカのヴァンダル王国、イタリアの東ゴート王国を滅ぼし、西地中海の一部を回復しました。しかし、この遠征は帝国の財政を圧迫し、その成果は長続きしませんでした。
    • 『ローマ法大全』の編纂: 彼の最大の功績は、法学者トリボニアヌスらに命じて、古代から続く膨大なローマ法を体系的に集大成させた**『ローマ法大全』**を編纂したことです。これは、後のヨーロッパの法体系に絶大な影響を与え、ローマ法の最も重要な継承文献となりました。
    • ハギア=ソフィア大聖堂の建立: 首都に、ビザンツ建築の最高傑作であるハギア=ソフィア大聖堂を再建しました。その巨大なドームと、内部を飾る壮麗なモザイク画は、皇帝の権威とキリスト教信仰の偉大さを示しています。
  • 帝国の防衛:
    • ユスティニアヌス帝の死後、帝国は西方領土の多くを失い、東方からのササン朝ペルシア、後にはイスラーム勢力、北方からのスラヴ人やブルガール人の侵入に絶えず脅かされるようになります。
    • ビザンツ帝国は、約1000年にわたり、イスラーム勢力に対するヨーロッパキリスト教世界の防波堤として、極めて重要な歴史的役割を果たしました。

5.2. 皇帝教皇主義とギリシア正教

  • 皇帝教皇主義(ツェーザロパピズム):
    • ビザンツ帝国の政治と宗教のあり方を特徴づけるのが、皇帝教皇主義です。これは、皇帝が世俗の最高権力者であると同時に、教会の最高指導者(教皇)をも兼ねるという原則です。
    • 皇帝は、コンスタンティノープル総主教をはじめとする聖職者の任免権を握り、宗教会議を主宰するなど、教会組織を国家の統制下に置きました。これは、教皇権が世俗権力から独立し、時には皇帝をも凌駕する権威を持った西ヨーロッパとは対照的です。
  • 東西教会の対立と分裂:
    • このような政治構造の違いに加え、神学上の解釈や典礼のあり方をめぐって、コンスタンティノープル教会とローマ=カトリック教会の対立は次第に深まっていきました。
    • 聖像崇拝論争(8~9世紀): ビザンツ皇帝レオン3世が、偶像崇拝を禁じるイスラーム教の影響などから聖像禁止令を発布したことが、大きな対立の引き金となりました。ゲルマン人への布教に聖像を有効な手段としていたローマ教会はこれに激しく反発し、両教会の亀裂は決定的なものとなりました。
    • 最終的な分裂(1054年): 最終的に、両教会は互いを破門しあい、キリスト教世界は、ローマ教皇を首長とするローマ=カトリック教会と、コンスタンティノープル総主教を最高位とするギリシア正教会とに、恒久的に分裂しました。
  • ビザンツ文化とその影響:
    • ビザンツ文化は、ギリシア・ローマの古典文化、ヘレニズムの伝統、そしてギリシア正教の信仰が融合した、洗練されたものでした。特に、金地を背景とする荘厳なモザイク画や**イコン(聖像画)**が特徴的です。
    • ビザンツ帝国は、ギリシア語の古典文献を保存・研究し、西ヨーロッパが「暗黒時代」にあった時期に、古典古代の知の灯を守り続けました。
    • また、ギリシア正教は、ブルガリア、セルビア、そしてキエフ公国などのスラヴ世界の国々に伝わり、その宗教、文字(キリル文字)、文化の形成に決定的な影響を与えました。

第6章 西ヨーロッパ世界の成立

西ローマ帝国滅亡後の西ヨーロッパは、政治的には分裂し、経済的には停滞し、文化的には後退した、まさに「暗黒時代」と呼ぶにふさわしい状況から再出発しました。この混沌の中から、ゲルマン人の活力、キリスト教の精神的権威、そしてわずかに残されたローマの伝統という三つの要素が、長い時間をかけて融合し、独自の「西ヨーロッパ世界」が形作られていきます。

6.1. フランク王国とカール大帝

  • ゲルマン人国家の興亡:
    • 5世紀から6世紀にかけて、西ヨーロッパ各地にゲルマン人の諸国家が建国されましたが、その多くは短命に終わりました。
    • その中で、ガリア(現在のフランス)北部に建国されたフランク王国が、最も有力な国家として発展しました。その理由は、建国者のクローヴィスが、他のゲルマン人国家の多くがアリウス派であったのに対し、正統派のアタナシウス派キリスト教(カトリック)に改宗したことです。これにより、彼はローマ系住民やカトリック教会の支持を得ることができ、安定した統治の基盤を築きました。
  • カール=マルテルの活躍とピピンの即位:
    • 8世紀前半、フランク王国の宮宰(宰相)であったカール=マルテルは、**トゥール・ポワティエ間の戦い(732年)**で、イベリア半島から侵入してきたイスラーム(ウマイヤ朝)軍を撃退し、西ヨーロッパへのイスラームの拡大を阻止しました。
    • その子ピピンは、教皇の支持を得て、メロヴィング朝の王を廃し、自ら王位についてカロリング朝を開きました。その見返りとして、彼は北イタリアのランゴバルド王国を討ち、その土地を教皇に寄進しました。これが教皇領の始まりであり、フランク王権とローマ教皇との提携関係を象徴する出来事でした。
  • カールの戴冠(800年):
    • ピピンの子**カール大帝(シャルルマーニュ)**の時代に、フランク王国は最盛期を迎え、その版図は現在のフランス、ドイツ、イタリアにまたがる広大なものとなりました。
    • 800年のクリスマス、カールはローマを訪れた際、教皇レオ3世から「ローマ皇帝」の冠を授けられました。
    • 歴史的意義: この「カールの戴冠」は、西ヨーロッパ史における極めて重要な象徴的出来事です。
      1. ここに、西ローマ帝国滅亡以来、初めて西ヨーロッパに「帝国」が復活した。
      2. この帝国は、ゲルマン人の王権、ローマの古典文化の継承(カロリング=ルネサンス)、そして**キリスト教(カトリック)**という三つの要素が融合した、新しい「西ヨーロッパ世界」の誕生を象徴していました。
      3. これにより、西ヨーロッパは、コンスタンティノープルのビザンツ皇帝や、バグダードのイスラームのカリフと並び立つ、独自の文明圏としてのアイデンティティを確立しました。
  • フランク王国の分裂:
    • カール大帝の死後、帝国は急速に分裂へと向かいます。843年のヴェルダン条約と870年のメルセン条約によって、帝国は最終的に東フランク(後のドイツ)、西フランク(後のフランス)、イタリアの3つに分割されました。これは、現在のドイツ、フランス、イタリアという国々の直接的な原型となります。

6.2. 封建社会の成立と荘園制

  • 背景:ヴァイキングとマジャール人の侵入:
    • 9世紀から10世紀にかけて、西ヨーロッパは、北方からのヴァイキング(ノルマン人)、東方からのマジャール人、南方からのイスラーム勢力といった、新たな外敵の侵入に苦しめられました(第2次民族移動)。
    • フランク王国分裂後の各国の王権は弱体化しており、これらの侵入から民衆を守ることができませんでした。
  • 封建社会(フューダリズム)の成立:
    • このような混乱と不安の中から、西ヨーロッパ独特の社会システムである封建社会が成立しました。封建社会は、二つの要素から成り立っています。
      1. 主従制(レーン制): 騎士や諸侯といった有力者たちは、より強力な王や大諸侯と、主君家臣の関係を結びました。家臣は、主君に対して軍役奉仕や助言の義務を負う一方、主君は、家臣の生活を保障するために、**封土(レーン、フュードゥム)**を与えました。この契約は、一方的な支配ではなく、双務的な契約関係であったことが重要です。
      2. 荘園制(グルントヘルシャフト): 封土の経済的な基盤となったのが荘園です。荘園は、領主の館と教会を中心に、領主直営地と農民保有地から成り立っていました。農民の多くは、移動の自由を持たず、土地に縛り付けられた農奴であり、領主に対して**賦役(労働地代)貢納(生産物地代)**の義務を負うとともに、領主の裁判権(領主裁判権)に服していました。
    • このように、政治的には主君と家臣の個人的な結びつきが連鎖し、経済的には自給自足的な荘園が単位となる、極めて地方分権的な社会が、西ヨーロッパ中世社会の基本構造となりました。

6.3. カトリック教会の権威と叙任権闘争

  • 教会の権威:
    • 封建社会の中で政治権力が分散していた西ヨーロッパにおいて、唯一、普遍的な権威を保ち続けたのが、ローマ教皇を頂点とするローマ=カトリック教会でした。
    • 教会は、ラテン語を公用語とし、聖職者の階層組織(ヒエラルキー)を通じて、ヨーロッパの隅々にまでその影響力を及ぼしました。人々の誕生から結婚、死に至るまで、その生涯は教会の儀礼(サクラメント)と密接に結びついていました。
    • また、教会や修道院は、広大な荘園を持つ大領主でもあり、文化の担い手として、写本などを通じて古典の知識を保存する役割も果たしました。
  • 教会の世俗化とクリュニー修道院:
    • 10世紀頃になると、教会の高位聖職者が、皇帝や諸侯によって任命されるようになり、聖職売買(シモニア)や聖職者の妻帯など、教会は腐敗し、世俗化していきました。
    • このような状況を批判し、教会の改革と刷新を求める運動が、フランスのクリュニー修道院から始まりました。彼らは、教皇庁の改革を訴え、聖職者の規律粛正を求めました。
  • 叙任権闘争とカノッサの屈辱:
    • この教会改革運動は、やがて教会の最高指導者である聖職者を任命する権利(聖職叙任権)をめぐって、ローマ教皇と神聖ローマ皇帝との間で激しい対立を引き起こしました。
    • 改革派の教皇グレゴリウス7世は、聖職叙任権は教会固有の権利であるとして、皇帝による叙任を禁止しました。
    • これに対し、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は反発しますが、教皇から破門され、家臣たちの支持を失います。追い詰められた皇帝は、1077年、雪の降る北イタリアのカノッサ城で、教皇の許しを三日三晩にわたって乞いました。これが「カノッサの屈辱」です。
    • この事件は、教皇権が皇帝権に対して優位に立つことを象徴する出来事であり、教皇権の絶頂期への道を開きました。最終的に、この闘争は**ヴォルムス協約(1122年)**で妥協が成立しましたが、教会の権威は大きく高まりました。

6.4. 十字軍運動とその多面的影響

  • 十字軍の開始:
    • 11世紀末、イスラーム世界では、中央アジアから西進してきたセルジューク朝(テュルク系)が、バグダードを占領し、さらにアナトリアでビザンツ帝国を破り、聖地イェルサレムを占領しました。
    • ビザンツ皇帝アレクシオス1世からの救援要請を受けたローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年、フランスのクレルモン公会議で、聖地イェルサレムをイスラーム教徒から奪回するための大遠征軍を提唱しました。これが十字軍の始まりです。
  • 動機と実態:
    • 十字軍には、宗教的な熱意だけでなく、様々な人々の世俗的な動機が複雑に絡み合っていました。
      • 教皇: 東西教会を再統一し、ヨーロッパキリスト教世界における自らの主導権を確立しようとした。
      • 諸侯・騎士: 新たな領地を獲得する機会を求めた。
      • イタリア商人: ヴェネツィアやジェノヴァなどの商人は、東方貿易(レヴァント貿易)の拠点を確保し、利益を拡大しようとした。
      • 民衆: 罪の赦しや、封建社会の貧しい生活からの逃避を求めた。
    • 約200年間にわたり、7回(少年十字軍などを含めるとそれ以上)の十字軍が派遣されましたが、聖地の完全な奪回という当初の目的を達成できたのは、第1回十字軍(イェルサレム王国を建国)のみでした。特に、ヴェネツィア商人の策略に乗せられた第4回十字軍は、聖地に向かわず、商売敵であったビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを占領・略奪するという暴挙に及び(ラテン帝国建国)、十字軍の理念は完全に変質しました。
  • 多面的な影響:
    • 十字軍は、軍事的には失敗に終わりましたが、その後の西ヨーロッパ社会に、極めて大きな影響を及ぼしました。
      • 教皇権の衰退: 十字軍の失敗により、それを提唱した教皇の権威は、長期的には失墜していきました。
      • 諸侯・騎士の没落: 遠征に参加した多くの諸侯や騎士が、多額の戦費や戦死によって没落し、相対的に国王の権力が増大しました。
      • 商業の復活と都市の発展: 十字軍をきっかけに、東方との交流が活発化し、香辛料、絹織物、砂糖といった東方の物産が大量に流入しました。これにより、ヴェネツィア、ジェノヴァ、ピサなどのイタリアの港市が莫大な富を築き、ヨーロッパの商業ルネサンスが本格化しました。
      • 文化・技術の流入: イスラーム世界やビザンツ世界の進んだ文化や学術(医学、数学、建築術など)が西ヨーロッパに伝わり、後のルネサンスの土壌を豊かにしました。

6.5. 中世都市の発展とギルド

  • 商業の復活と都市の再生:
    • 十字軍や人口増加を背景に、11世紀頃から西ヨーロッパでは商業活動が再び活発化しました。地中海貿易圏(イタリア商人)と、北海・バルト海貿易圏(ハンザ同盟)という二つの大きな商業圏が形成され、両者を結ぶ内陸のシャンパーニュ地方では、定期的な大市が開かれました。
    • これに伴い、古代ローマ時代以来、衰退していた都市が各地で再生・発展しました。
  • 自治都市とギルド:
    • 都市の住民(商人や手工業者)は、封建領主の支配から逃れ、自由な経済活動を行うため、領主から特許状(営業の自由、自治権などを認める証書)を買い取り、自治都市を形成しました。
    • 都市内部では、商人や手工業者はギルド(同職組合)を結成しました。ギルドは、製品の品質や価格、生産量を統制して自由競争を抑制し、組合員の利益を守るとともに、都市の自治運営においても中心的な役割を果たしました。

(以下、第4部以降に続く)

(前回の続き)


第4部 ユーラシアを揺るがす諸勢力とモンゴル帝国による再編

これまで見てきた東アジア、イスラーム世界、キリスト教世界といった定住民の農耕文明は、その歴史を通じて、常にユーラシア内陸部の乾燥地帯に生きる遊牧民の動向と深く関わり合ってきました。彼らは、優れた騎馬技術と軍事力を武器に、時には略奪者として、時には交易のパートナーとして、そして時には征服者として、定住民の世界に巨大なインパクトを与えてきました。特にこの時代、11世紀以降のテュルク系民族の西進と、13世紀のモンゴル帝国による空前の大征服は、ユーラシア大陸の政治地図を塗り替え、諸地域世界を暴力的に、しかし同時に緊密に結びつける、決定的な役割を果たしました。

第7章 内陸アジアの動向:テュルクとモンゴル

7.1. テュルク系民族のイスラーム化と西進

  • テュルク系民族の台頭:
    • 6世紀にモンゴル高原に強大な遊牧国家、**突厥(とっけつ)**を建国して以来、テュルク系の遊牧民は、中央アジアの歴史の主要な担い手となりました。
    • 8世紀にウイグル帝国が成立すると、彼らはイラン系のソグド商人との接触を通じて、マニ教など定住民の文化を受け入れました。ウイグル滅亡後、多くのテュルク系部族は、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル地方(アム川とシル川に挟まれた地域)へと西進しました。
  • イスラーム化と王朝の建設:
    • この地で、彼らはサーマーン朝などのペルシア系イスラーム王朝の支配下に入り、傭兵(マムルーク)や官僚として仕えるうちに、次第にイスラーム教を受容していきました。
    • 10世紀末、テュルク系のカラハン朝が中央アジアに成立。これは、テュルク系の王朝として初めてイスラームを国教とした国家として重要です。
    • アフガニスタンでは、サーマーン朝のマムルーク出身者が自立してガズナ朝を建国し、インド北西部への侵攻を繰り返しました。
  • セルジューク朝の登場と西アジア世界の変容:
    • 11世紀、中央アジアから起こったテュルク系のセルジューク朝が、西アジアの政治情勢を大きく塗り替えました。
    • 1055年、セルジューク朝の指導者トゥグリル=ベクは、当時衰退していたアッバース朝の都バグダードに入城。彼は、シーア派のブワイフ朝からアッバース朝カリフを保護し、その功績により、カリフからスルタン(「権威」を意味する、世俗の君主号)の称号を授けられました。
    • これ以降、イスラーム世界では、宗教的な権威であるカリフと、世俗の政治・軍事権力を握るスルタンとが並び立つ、カリフ=スルタン制が確立していきます。
    • アナトリアへの進出とビザンツ帝国との衝突: セルジューク朝はさらに西進し、1071年の**マラーズギルトの戦い(マンジケルトの戦い)**でビザンツ帝国軍に壊滅的な打撃を与え、アナトリア(小アジア)の大部分を奪いました。この出来事は、ビザンツ帝国に深刻な危機感を与え、西ヨーロッパに救援を求めるきっかけとなり、十字軍運動の直接的な引き金となりました。
    • このように、テュルク系民族の西進とイスラーム化は、イスラーム世界内部の権力構造を変化させるとともに、キリスト教世界との関係にも大きな影響を及ぼしたのです。

7.2. モンゴル帝国の興亡

13世紀初頭、モンゴル高原から現れた遊牧民の力が、それまでの歴史の枠組みをすべて吹き飛ばすほどの巨大な衝撃を、ユーラシア大陸全域にもたらしました。それがモンゴル帝国です。

  • チンギス=ハンによる統一:
    • 12世紀末までのモンゴル高原は、モンゴル、ケレイト、ナイマン、タタルといった部族が分立し、抗争を繰り返していました。
    • このような状況の中、モンゴル部族のテムジンが、数々の苦難と戦いを乗り越えて、ライバルたちを次々と打ち破っていきます。
    • 1206年、彼はモンゴル高原の全部族を統一し、部族長たちのクリルタイ(集会)で、チンギス=ハン(「偉大な君主」の意)の称号を贈られました。
    • チンギス=ハンは、モンゴルの遊牧民を千戸制と呼ばれる軍事・行政組織に再編し、強力な騎馬軍団を創り上げました。
  • 世界帝国の建設:
    • 統一を成し遂げたチンギス=ハンは、その強大な軍事力を、周辺の定住文明へと向けました。
      • まず、北中国の西夏を服属させ、次にを攻撃。
      • 中央アジアのイスラーム国家ホラズム=シャー朝を、通商使節団を殺害された報復として、徹底的に破壊・征服。
      • さらに、カフカス山脈を越えて南ロシア平原にまで軍を進めました。
    • チンギス=ハンの死後も、その後継者たちによって征服活動は続けられました。
      • 第2代皇帝オゴタイの時代には、金の残党を滅ぼし(1234年)、バトゥ率いる遠征軍がロシアの諸公国を征服し、さらにポーランド・ドイツ・ハンガリー連合軍を**ワールシュタットの戦い(リーグニッツの戦い)**で破り(1241年)、ヨーロッパ世界を震撼させました。
      • 第4代皇帝モンケの時代には、弟のフラグが西アジア遠征を行い、アッバース朝を滅ぼして(1258年)西アジアを征服し、もう一人の弟クビライが南宋の征服を進めました。
    • こうして、わずか半世紀ほどの間に、東は朝鮮半島から西は東ヨーロッパ、北はシベリアから南はベトナム北部に至る、人類史上最大の版図を持つ陸上帝国が築き上げられたのです。

7.3. パクス・モンゴリカ:モンゴルの平和

  • ユーラシアの一体化:
    • モンゴル帝国は、暴力的な征服によって成立しましたが、その広大な領域が単一の政治権力の下に統合された結果、13世紀半ばから14世紀半ばにかけて、ユーラシア大陸に空前の安定と平和がもたらされました。これを「パクス・モンゴリカ(モンゴルの平和)」と呼びます。
  • 駅伝制(ジャムチ)の整備:
    • この平和と交流を支えたのが、帝国全土に張り巡らされた**駅伝制(ジャムチ)**でした。
    • ジャムチは、一定の間隔で宿舎、食料、替え馬などを常備した駅(ジャム)を設置し、使者や商人が公的な許可証(パイザ)を持っていれば、迅速かつ安全に帝国を横断できるというシステムでした。
  • 東西交流の活発化:
    • ジャムチの整備により、陸のシルクロードは、かつてないほど安全な交通路となり、東西間の人、モノ、技術、文化の交流が劇的に活発化しました。
    • 人々の往来:
      • ヴェネツィアの商人マルコ=ポーロは、元を訪れ、クビライに仕え、その見聞を『世界の記述(東方見聞録)』に著しました。これは、ヨーロッパ人のアジアへの関心を大いにかき立てました。
      • モロッコ出身のイスラーム法学者イブン=バットゥータは、アフリカ、西アジア、中央アジア、インド、中国まで、広大な世界を旅し、『三大陸周遊記』を残しました。
      • ローマ教皇の使節としてプラノ=カルピニルブルックがモンゴルの宮廷を訪れました。
    • 技術・文化の伝播:
      • 中国の火薬羅針盤印刷術といった三大発明が、イスラーム世界を経てヨーロッパに伝わり、その後のヨーロッパ社会を大きく変革する(騎士の没落、大航海時代の到来、ルネサンス・宗教改革の促進)重要な要因となりました。
      • イスラーム世界の天文学や数学、医学も中国に伝わりました。
      • 一方で、モンゴル軍の西進は、中央アジアのペスト菌をヨーロッパに運び、14世紀にヨーロッパの人口の3分の1を死に至らしめた**ペスト(黒死病)**の大流行を引き起こす原因ともなりました。

7.4. モンゴル帝国の分裂とその後

  • 後継者争いと4ハン国の成立:
    • 巨大すぎる帝国は、チンギス=ハンの子孫たちの間で後継者争いが絶えず、モンケ・ハンの死後、事実上、4つの緩やかな連合国家(ウルス)へと分裂しました。
      1. 元(大元ウルス): チンギス=ハンの孫クビライが、中国の伝統的な王朝名を採用して建国。都を大都(現在の北京)に置き、中国全土を支配しました。しかし、漢人などを差別するモンゴル人第一主義をとり、その支配は長続きせず、14世紀半ばの紅巾の乱をきっかけに、明によってモンゴル高原へ追われました。
      2. チャガタイ=ハン国: 中央アジアのトルキスタンを支配。後に東西に分裂し、その西側からティムールが登場します。
      3. イル=ハン国: フラグがイラン高原を中心に建国。当初は仏教徒でしたが、次第にイスラーム化し、ペルシア文化と融合しました。
      4. キプチャク=ハン国: バトゥが南ロシアの草原地帯に建国。ロシアの諸公国を約250年間にわたって支配しました(「タタールのくびき」)。
  • モンゴル帝国の歴史的意義:
    • モンゴル帝国は、既存の文明や国家を容赦なく破壊しましたが、その結果として、ユーラシア大陸の諸地域世界を一つのシステムの中に強制的に統合し、それまでになかった規模での交流を可能にしました。
    • この「パクス・モンゴリカ」の時代に促進された東西交流は、各文明圏に大きな刺激と変容をもたらし、結果的に、陸の道がモンゴル帝国の崩壊とともに再び不安定になると、ヨーロッパ人たちは、アジアの富を求めて、海からの新たなルート(大航海時代)を模索するようになるのです。

第5部 ユーラシア大陸以外の諸地域世界

1450年までの世界史は、ユーラシア大陸の諸文明の動向が中心となりがちですが、同時期、ユーラシアの枠外でも、独自の環境に適応した多様な国家や文明が形成・展開していました。それらは、ユーラシアの動向と間接的に結びついている場合もあれば、完全に独立して発展している場合もありました。

第8章 交流の海:東南アジア

東南アジアは、インド洋と南シナ海を結ぶ海上交通の要衝に位置し、古来よりインド文化と中国文化という二つの大きな文明の影響を受けながら、両者を巧みに取り入れ、独自の文化と国家を育んできました。

  • 大陸部:
    • カンボジア: 9世紀初頭にアンコール朝が成立。ヒンドゥー教と仏教が融合した独特の宗教観を持ち、その王は「神王(デーヴァラージャ)」として崇拝されました。12世紀に建てられた壮大な石造寺院アンコール=ワット(当初はヒンドゥー教、後に仏教寺院)は、その繁栄を物語っています。
    • タイ: 13世紀、タイ族が南下してスコータイ朝を建国。スリランカから伝わった上座部仏教を国教とし、独自のタイ文字を創りました。
    • ベトナム: 長く中国の支配下にありましたが、10世紀に独立して大越国が成立。中国の官僚制度や儒教を取り入れつつも、独自の文化を守り続けました。
  • 島嶼部:
    • シュリーヴィジャヤ王国: 7世紀から、スマトラ島を中心に、マラッカ海峡を扼する海上交易国家として繁栄。港市を拠点に、インドと中国を結ぶ中継貿易で栄え、大乗仏教の中心地ともなりました。
    • マジャパヒト王国: 13世紀末にジャワ島に成立し、シュリーヴィジャヤに代わって東南アジアの海上交易を支配しました。ヒンドゥー教を国教としましたが、次第にこの地域にもイスラーム商人の活動を通じてイスラーム教が広まっていきます。

第9章 アフリカとアメリカ大陸の文明

9.1. アフリカの諸文明

  • 西アフリカの内陸帝国:
    • サハラ砂漠の南縁、サバンナ地帯では、古くからサハラ縦断交易が栄えていました。北アフリカのイスラーム商人が、貴重な岩塩を運び込み、南の森林地帯で産出される豊富なと交換しました。
    • この交易の利益を独占することで、ニジェール川流域に、強力な黒人王国が次々と興亡しました。
      • ガーナ王国(8世紀~11世紀)
      • マリ王国(13世紀~15世紀):最盛期の王マンサ=ムーサは、莫大な金を携えてメッカ巡礼を行い、その富はカイロの金相場を暴落させたほどでした。この時代、中心都市トンブクトゥは、イスラーム学術の中心地としても栄えました。
      • ソンガイ王国(15世紀~16世紀)
  • 東アフリカの交易都市:
    • インド洋に面したアフリカ東岸では、アラビア半島やインドからのイスラーム商人(ダウ船を使用)との交易を通じて、マリンディモンバサキルワといった多くの港市国家が繁栄しました。
    • この地域では、アラビア語と現地のバントゥー語が融合して、スワヒリ語が形成され、独自のスワヒリ文化が生まれました。

9.2. アメリカ大陸の諸文明

1492年にコロンブスが到達するまで、アメリカ大陸はユーラシア・アフリカ大陸から完全に隔絶された世界でした。しかし、そこでは独自の高度な文明が、数千年にわたって築かれていました。

  • メソアメリカ(中央アメリカ):
    • マヤ文明(4世紀~9世紀に最盛期):ユカタン半島を中心に、多くの都市国家が栄えました。ピラミッド状の神殿、マヤ文字と呼ばれる精緻な絵文字、そしてゼロの概念を含む二十進法を駆使した極めて正確な暦など、高度な知識体系を持っていました。
    • アステカ王国(14世紀~16世紀):メキシコ高原に、テノチティトラン(現在のメキシコシティ)を首都とする強力な軍事国家を建設。太陽神への生贄の儀式で知られます。
  • アンデス地方:
    • インカ帝国(15世紀~16世紀):ペルーのクスコを都とし、アンデス山脈に沿って南北に広がる広大な帝国を築き上げました。
    • 皇帝(インカ)を太陽の子として崇拝する神権政治を行い、キープ(結縄)と呼ばれる縄の結び目で情報を記録・伝達し、帝国全土に張り巡らされた精巧な道路網によって、効率的な統治を実現しました。

これらのアメリカ大陸の諸文明は、鉄器や、ウマ・ウシなどの大型家畜、そして車輪を持たないまま、独自の技術と社会システムを発展させました。しかし、その隔絶ゆえに、15世紀末に到来するヨーロッパ人が持ち込む、鉄砲、そして何よりも病原菌に対して、全く免疫を持っていなかったのです。


【Module 4 結論:多極化する世界とユーラシアの一体化】

西暦500年から1450年に至る約1000年間は、古代帝国が崩壊した後の混沌とした時代ではなく、むしろ世界史が新たな段階へと移行するための、ダイナミックな「諸地域世界の形成期」でした。

東アジアでは、隋・唐が律令という高度な統治システムを完成させ、周辺諸国を巻き込む一つの文化圏を形成しました。唐の崩壊後、宋代には経済と文化が新たな支配階級である士大夫のもとで成熟し、近世社会の様相を呈し始めました。

西アジア・北アフリカでは、イスラームという新たな普遍的理念が、人種や部族を超えた巨大な帝国を築き上げ、世界の知が集まる学術の中心地となりました。

ヨーロッパでは、西ローマ帝国滅亡後の廃墟から、ゲルマン、ローマ、キリスト教という三要素が融合して、独自の地方分権的な封建社会が生まれました。その中でカトリック教会が精神的な支柱となり、ビザンツ帝国やイスラーム世界との接触(十字軍など)を通じて、次第に自己意識と活力を取り戻していきました。

そして、これらの定住民の文明圏に常に揺さぶりをかけてきたのが、内陸アジアの遊牧民でした。11世紀以降のテュルク系民族の西進は、イスラーム世界とビザンツ帝国の力関係を塗り替え、十字軍の遠因となりました。そして13世紀、モンゴル帝国という空前の遊牧帝国が、ユーラシア大陸の大部分を覆い尽くしました。その征服は破壊的でしたが、結果として生まれた「パクス・モンゴリカ」は、諸地域世界間の壁を打ち破り、人、モノ、技術、思想、そして病原菌までもが、大陸を横断して駆け巡る、未曾有の交流の時代を現出させました。

また、ユーラシアの枠外でも、東南アジア、アフリカ、アメリカ大陸で、独自の環境と歴史の中で多様な文明が花開いていました。

この約1000年を通じて、世界は多極化し、各地域がそれぞれの個性を深めると同時に、交易や征服、宗教の伝播を通じて、相互の結びつきを強めていきました。特にモンゴル帝国によって実現されたユーラシアの一体化は、各文明に大きな衝撃と変化をもたらし、次の時代、すなわちヨーロッパ人が海を越えて世界を直接結びつけようとする「大航海時代」への、壮大な序曲となったのです。

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