【基礎 世界史】Module 5: 世界の一体化と諸地域の変容(1450-1750年)

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【本記事の目的と構成】

本記事は、西暦1450年から1750年頃まで、世界史における決定的な転換期、すなわち「近世(Early Modern Period)」を探求します。この300年間は、Module 4で見たような、それぞれが独自の秩序を持つ「諸地域世界」が、海洋によって初めて直接的に結びつけられ、地球規模の一つのシステムへと統合され始める、画期的な時代でした。この「世界の一体化」を主導したのは西ヨーロッパでしたが、それは決してヨーロッパの一方的な膨張の物語ではありません。同時期、アジアではオスマン、サファヴィー、ムガル、明、清といった強大な「陸の帝国」が繁栄の頂点を迎え、世界史の重要なプレイヤーとして君臨していました。

本稿は、この複雑な時代を構造的に理解するため、以下の四部構成で探求を進めます。

  • 第1部 ヨーロッパの内部変革:近代の黎明: 大航海時代を可能にした、ヨーロッパ内部で起きていた精神的・知的・宗教的な大変革、すなわちルネサンス、宗教改革、科学革命の三つの連動する動きを分析し、近代ヨーロッパの思想的基盤がいかにして形成されたかを探ります。
  • 第2部 海洋世界の出現とグローバル経済の誕生: ポルトガルとスペインが先鞭をつけた大航海時代が、いかにしてアメリカ大陸という「新世界」をヨーロッパ人の世界システムに組み込み、大西洋を舞台とする三角貿易や、動植物・病原体・文化の大規模な交換(コロンブス交換)を通じて、世界初のグローバルな経済・生態系を誕生させたかを見ます。
  • 第3部 ヨーロッパの政治的再編:主権国家と絶対王政: 宗教戦争の激動の中から、国境と主権を明確にした「主権国家」体制がいかにして生まれ、それがフランスの絶対王政やイギリスの立憲君主制といった、多様な近代国家の形態へと発展していったのか。また、プロイセンやロシアといった新たな強国が台頭する過程を追います。
  • 第4部 アジアにおける陸の帝国の繁栄と変容: 大航海時代のヨーロッパと同時期に、ユーラシア大陸で絶頂期を迎えていたオスマン、サファヴィー、ムガル、明、清といった諸帝国の統治構造と社会、文化の特質を分析し、ヨーロッパとの接触がこれらの帝国にどのような変容をもたらしたのかを考察します。

このモジュールを学び終える時、あなたは1450年から1750年という時代を、単に「ヨーロッパの台頭」と見るのではなく、海洋を軸とした世界の一体化と、大陸における諸帝国の爛熟という、二つの大きな力が相互に作用し、今日のグローバル化した世界の直接的な原型を形作った、ダイナミックなプロセスとして立体的に把握することができるでしょう。


目次

第1部 ヨーロッパの内部変革:近代の黎明

15世紀後半、ヨーロッパはなぜ、他の文明圏に先駆けて広大な海洋へと乗り出し、世界を「発見」し、やがて支配するに至ったのか。その原動力は、単なる経済的な動機や技術的な優位性だけでは説明できません。その根底には、中世以来のキリスト教的な世界観や社会構造を根底から揺るがす、 profound な精神的・知的・宗教的革命がありました。本章では、ルネサンス、宗教改革、科学革命という、相互に深く関連し合う三つの大変革を解き明かし、近代ヨーロッパを特徴づける新しい人間観と世界観が、いかにして誕生したのかを探ります。

第1章 ルネサンス:人間の「再発見」と個の覚醒

「ルネサンス(Renaissance)」とは、フランス語で「再生」を意味します。これは、14世紀から16世紀にかけて、主にイタリアで始まり、やがて西ヨーロッパ各地に広がった、文化・芸術・思想の革新運動です。その本質は、中世のキリスト教的(神中心的)な価値観から脱却し、ギリシア・ローマの古典古代の文化を理想として、人間そのものに関心を向け、その理性や感性、可能性を称揚するという、新しい人間中心主義(ヒューマニズム)にありました。

1.1. なぜイタリアで始まったのか?

ルネサンスがイタリア、特にフィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノといった都市で始まったのには、明確な歴史的背景があります。

  • 経済的繁栄: イタリアの諸都市は、十字軍以降、**地中海貿易(東方貿易、レヴァント貿易)**を独占し、香辛料や絹織物など東方の奢侈品をヨーロッパにもたらすことで莫大な富を蓄積しました。これにより、文化・芸術を支援する経済的な余裕が生まれました。
  • 古代ローマの遺産: イタリアは、かつてのローマ帝国の中心地であり、いたる所に古代ローマの遺跡や彫刻、建築が残っていました。これらは、古典古代への関心をかき立てる直接的な刺激となりました。
  • 都市の自由な空気: イタリアの諸都市は、神聖ローマ皇帝やローマ教皇の権力が及びにくい、独立した**都市共和国(コムーネ)**でした。ここでは、市民たちが自由な政治・経済活動を行っており、個人の能力や才覚が重視される気風がありました。
  • 東ローマ(ビザンツ)帝国からの影響: 1453年にオスマン帝国によってコンスタンティノープルが陥落すると、多くのビザンツの学者が、ギリシア語の古典文献を携えてイタリアに亡命してきました。彼らは、プラトンをはじめとする、西ヨーロッパでは失われていた古代ギリシアの知を直接伝え、ルネサンスを大きく刺激しました。

1.2. イタリア・ルネサンスの展開

  • ヒューマニズム(人文主義): ルネサンスの思想的な中核をなすのがヒューマニズムです。これは、神学のような神中心の学問ではなく、古典古代の文献研究を通じて、人間らしい生き方を探求する学問態度を指します。
    • ダンテ: トスカーナ地方の方言で、地獄・煉獄・天国を旅する長編叙事詩『神曲』を著し、中世からルネサンスへの橋渡しをしました。
    • ペトラルカ: 古代ローマのキケロを崇拝し、ラテン語の古典を研究する一方、理想の女性ラウラへの愛をソネット形式で謳った『カンツォニエーレ』を著し、近代叙情詩の先駆者となりました。彼は最初のヒューマニストとされます。
    • ボッカチオ: ペストが蔓延するフィレンツェを舞台に、10人の男女が語る100の物語集『デカメロン』を著しました。聖職者の偽善や人間の欲望を赤裸々に描き、人間中心の新しい文学を確立しました。
  • 芸術の革新: ルネサンス芸術は、ヒューマニズムの精神を視覚的に表現しました。中世の平面的で象徴的な宗教画とは異なり、写実的で立体的な人間像や、人間の感情、美しさを追求しました。
    • 三大巨匠:
      • レオナルド・ダ・ヴィンチ: 画家であると同時に、科学、建築、解剖学など万般に通じた「万能人(ウオモ・ウニヴェルサーレ)」の典型。『モナ・リザ』や『最後の晩餐』で知られ、人間の心理や感情を深く表現しました。
      • ミケランジェロ: 彫刻家、画家、建築家として活躍。ダヴィデ像で人間の肉体美を完璧に表現し、システィーナ礼拝堂の天井画や壁画『最後の審判』で、壮大なドラマを描き出しました。
      • ラファエロ: 聖母子像を数多く描き、その優美で調和のとれた作風で知られます。『アテネの学堂』は、古代ギリシアの哲学者たちを一堂に会させ、ルネサンスの古典への憧憬を象徴しています。
  • 政治思想:
    • マキァヴェリ: フィレンツェの外交官であった彼は、イタリアが外国勢力に翻弄される現実を憂い、『君主論』を著しました。彼は、宗教や道徳から切り離された、冷徹で現実的な政治権力(権謀術数)の必要性を説き、近代政治学の祖とされます。

1.3. 北方ルネサンスの特色

イタリア・ルネサンスが、主に美的・個人的な側面を重視したのに対し、アルプス以北のネーデルラント、ドイツ、フランス、イギリスなどで展開した北方ルネサンスは、より社会的・宗教的な関心が強いという特徴がありました。

  • キリスト教的ヒューマニズム: 北方のヒューマニストたちは、古典研究を、個人の完成だけでなく、キリスト教会の改革や社会の改善に結びつけようとしました。彼らは、聖書の原典研究を通じて、初代教会の純粋な信仰に立ち返ることを目指しました。
    • エラスムス: ネーデルラント出身で、「ヒューマニストの王」と称された当代一の知識人。聖職者の腐敗や堕落を痛烈に風刺した『愚神礼賛』を著し、宗教改革に大きな影響を与えました。
    • トマス・モア: イギリスのヒューマニスト。私有財産制のない、理想的な共産主義社会を描いた『ユートピア』を著し、当時のイギリス社会を批判しました。
  • 写実主義の芸術:
    • 北方ルネサンスの美術は、イタリアのような理想化された美ではなく、現実の人間や風景を、細部に至るまで精密に描写する写実主義を特徴とします。これは、油彩画の技法がフランドル地方で確立されたことと深く関係しています。
    • ファン・アイク兄弟(ネーデルラント)、デューラー(ドイツ)、ブリューゲル(ネーデルラント)らが活躍しました。

ルネサンスは、人間を神の束縛から解放し、その理性と感性、そして無限の可能性に目覚めさせました。この「個」の覚醒は、絶対的な権威であったカトリック教会への疑念を生み、次の宗教改革の精神的な土壌となるとともに、自然界そのものを人間の理性で解明しようとする科学革命へとつながっていくのです。

第2章 宗教改革:信仰の個人化と国家の自立

16世紀、ルネサンスによってもたらされた個人の意識の覚醒と、教会の腐敗への批判は、ついにキリスト教世界そのものを根底から揺るがす巨大な運動、宗教改革へと発展します。それは、単に教会の改革を求める運動に留まらず、ヨーロッパの政治、社会、経済のあり方を大きく変え、近代国家の形成を促す一大分水嶺となりました。

2.1. 改革の火蓋:ルターとドイツ宗教改革

  • 背景:
    • ローマ教皇と教会の腐敗: 15世紀から16世紀にかけて、ローマ教皇庁はルネサンスの保護者として、サン=ピエトロ大聖堂の改築など、壮大な事業に莫大な資金を費やしました。その財源を確保するため、**贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)**の販売を大々的に行いました。贖宥状とは、購入すれば罪が赦され、煉獄での苦しみが短縮されるとされる札です。これは、人々の素朴な信仰心につけ込んだ、あからさまな金儲けでした。
    • ドイツの政治状況: 当時のドイツ(神聖ローマ帝国)は、皇帝の権力が弱く、数百の領邦国家に分裂していました。そのため、教皇庁による搾取(「ローマの牝牛」と呼ばれた)に対して、領主や民衆の不満が特に高まっていました。
  • ルターの挑戦:
    • 1517年、ヴィッテンベルク大学の神学教授マルティン・ルターは、教皇レオ10世による贖宥状の販売に抗議し、ヴィッテンベルク城教会の扉に「九十五カ条の論題」を掲示しました。
    • 彼の思想の核心は、以下の二点にあります。
      1. 福音主義(聖書中心主義): 信仰の唯一の拠り所は、聖書のみである。教皇や教会会議の権威は、聖書の教えに反するならば認められない。
      2. 信仰義認説: 人が救われるのは、贖宥状の購入や善行(巡礼、寄進など)によるのではなく、ただひたすらに神を信じる信仰によってのみ義とされる(救われる)。
    • この思想は、個人の内面的な信仰を重視し、高価な儀式や聖職者の仲介なしに、誰もが直接神と向き合える道を開くものでした。
  • 改革の拡大と農民戦争:
    • ルターの論題は、当時発明されたばかりの活版印刷術によって、急速にドイツ全土に広まり、大きな反響を呼びました。
    • ルターは教皇から破門されますが、ザクセン選帝侯フリードリヒに保護され、聖書のドイツ語訳を完成させました。これにより、一般の民衆も、ラテン語の読めない者でも、直接神の言葉に触れることができるようになりました。
    • ルターの教えに影響を受け、農奴制の廃止などを求めてドイツ農民戦争(1524-25年)が起こりますが、ルター自身は、社会秩序の混乱を恐れてこれを批判し、領主側について鎮圧を支持しました。
  • 宗教戦争とアウクスブルクの和議:
    • ルターを支持する諸侯(プロテスタント)と、皇帝カール5世を中心とするカトリック派との間で、宗教戦争が勃発します。
    • 長い闘争の末、1555年にアウクスブルクの和議が結ばれ、「領主の宗教が、その地に行われる」という原則が確立されました。これにより、諸侯はカトリックかルター派かを選択する権利を得ましたが、個人の信仰の自由は認められませんでした。この和議によって、ドイツにおけるルター派の存在が法的に認められ、キリスト教世界の分裂は決定的となりました。

2.2. カルヴァンとスイス宗教改革

  • カルヴァンの改革:
    • スイスのジュネーヴでは、フランス出身のジャン・カルヴァンが、ルターよりもさらに徹底した宗教改革を行いました。
    • 彼の主著は『キリスト教綱要』で、その思想の核心は「予定説」にあります。
      • 予定説: 人が救われるか否かは、その人間が生まれる前に、神によってあらかじめ定められている。人間の行いによってその運命を変えることはできない。
    • この厳しい教えは、人々を絶望させるのではなく、むしろ「自分が救われるべき選ばれた人間である」という確信を得るために、神から与えられた職業(天職)に禁欲的に励むことを促しました。
    • カルヴァンは、勤勉に働き、利潤を追求し、富を蓄積することを、神の栄光を現す行いとして肯定しました。このカルヴィニズムの倫理が、勃興しつつあった商工業者(市民階級、ブルジョワジー)の精神と合致し、後の資本主義の発展に大きな影響を与えたと、社会学者マックス・ヴェーバーは『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で論じています。
  • 改革の国際的広がり:
    • カルヴァン派の教えは、各国に広まり、以下のように呼ばれました。
      • フランス:ユグノー
      • ネーデルラント:ゴイセン
      • スコットランド:プレスビテリアン
      • イングランド:ピューリタン(清教徒)
    • これらの地域では、カルヴァン派はしばしばカトリックの絶対君主と対立し、革命や独立戦争の担い手となっていきました。

2.3. イギリス宗教改革

  • 国王の離婚問題から始まる改革:
    • イギリスの宗教改革は、ルターやカルヴァンのような神学的な動機ではなく、国王ヘンリ8世の離婚問題という、極めて政治的な理由から始まりました。
    • 彼は、男子の世継ぎが得られないことを理由に、皇后カテリーナとの離婚を望みましたが、カテリーナが神聖ローマ皇帝カール5世の叔母であったため、教皇はこれを認めませんでした。
  • 国王至上法とイギリス国教会の成立:
    • これに激怒したヘンリ8世は、1534年に国王至上法(首長法)を発布し、ローマ教皇と決別。自らがイギリス国教会の唯一最高の首長であると宣言しました。
    • 彼は、修道院を解散させてその広大な土地と財産を没収し、王室の財政を潤すとともに、それを貴族やジェントリ(郷紳)に払い下げることで、彼らの支持を取り付けました。
  • エリザベス1世と国教会の確立:
    • ヘンリ8世の死後、カトリックに復帰しようとする動きなど、宗教的な揺り戻しがありましたが、その娘エリザベス1世の時代に、統一法(1559年)が制定され、イギリス国教会の教義と制度が確立しました。
    • イギリス国教会は、教義的にはカルヴァン主義に寄せつつも、司教制などの教会制度はカトリックのものを残すという、中道的な性格を持ちました。この曖昧さが、後のイギリス革命における宗教対立の火種となります。

2.4. 対抗宗教改革(カトリック改革)

プロテスタンティズムの拡大に危機感を抱いたカトリック教会側も、内部から改革を行い、失地回復を図ろうとしました。これを対抗宗教改革と呼びます。

  • イエズス会の設立:
    • 1534年、スペインの貴族イグナティウス・ロヨラフランシスコ・ザビエルらが、イエズス会を設立しました。
    • イエズス会は、教皇への絶対的な服従と、厳格な軍隊的な規律を特徴とし、教育活動と海外布教に力を注ぎました。
    • 彼らは、ヨーロッパでプロテスタントに奪われた信者を、アジアやラテンアメリカなど、海外での布教によって補おうとしました。ザビエルの日本伝道はその一環です。
  • トリエント公会議(1545-63年):
    • この公会議で、カトリック教会は、プロテスタントの教義を改めて否定し、教皇の至上権と、聖書だけでなく教会の伝統も信仰の拠り所であることを再確認しました。
    • 一方で、聖職者の規律粛正や、贖宥状の販売の制限など、内部の腐敗を是正する改革も行われました。
    • この会議により、カトリック教会は内部の結束を固め、プロテスタントへの反撃の態勢を整えました。この結果、ヨーロッパは、カトリックとプロテスタントが激しく対立し、血で血を洗う「宗教戦争の時代」へと突入していくのです。

第3章 科学革命:宇宙観の転換と近代合理主義の確立

宗教改革が、神と人間の関係を問い直す運動であったとすれば、科学革命は、自然と人間の関係、そして知のあり方そのものを根底から覆した、巨大な知的パラダイムシフトでした。16世紀から17世紀にかけて、天文学、物理学、数学などの分野で、古代ギリシア以来の伝統的な自然観が覆され、近代的な科学の方法論が確立されました。

3.1. 天文学の革命:地動説の提唱と確立

  • 伝統的な宇宙観(天動説):
    • 中世ヨーロッパの世界観は、古代ギリシアのアリストテレスプトレマイオスによって体系化された天動説に基づいていました。
    • 天動説では、地球は宇宙の中心で静止しており、太陽、月、惑星がその周りを完全な円軌道で公転していると考えられていました。この宇宙観は、地球を特別な存在と見なすキリスト教の教義とも合致し、絶対的な権威とされていました。
  • コペルニクスの挑戦:
    • 1543年、ポーランドの天文学者コペルニクスは、その死の直前に主著『天球の回転について』を出版し、プトレマイオスの体系の複雑さに疑問を呈し、全く新しい宇宙モデルを提唱しました。
    • それが、太陽を中心に置き、地球が他の惑星とともにその周りを公転するという地動説です。この発想の転換は、地球を宇宙の中心という特権的な地位から引きずり下ろし、無数の天体の一つに過ぎないものとする、革命的なものでした(コペルニクス的転回)。
  • 地動説の発展と証明:
    • コペルニクスの地動説は、当初は観測データとの不一致などもあり、すぐには受け入れられませんでした。しかし、その後の学者たちの研究によって、次第にその正しさが証明されていきます。
    • ケプラー(ドイツ):惑星の軌道が、太陽を一つの焦点とする楕円軌道であることを発見し(ケプラーの法則)、地動説の数学的な精度を高めました。
    • ガリレオ・ガリレイ(イタリア):自作の望遠鏡で天体を観測し、木星の衛星や月のクレーター、太陽の黒点などを発見しました。これらは、天体が神の創った完全な球体であるという従来の見方を覆し、地動説を支持する強力な経験的証拠となりました。しかし、彼の主張は教会から危険視され、宗教裁判にかけられて、地動説の放棄を強要されました。

3.2. 近代科学の方法論の確立

科学革命の本質は、個々の発見以上に、自然を探求するための新しい方法論が確立された点にあります。

  • イギリス経験論:
    • フランシス・ベーコンは、アリストテレス以来の、権威や前提から結論を導き出す演繹法を批判しました。
    • 彼は、自然を注意深く観察し、実験を繰り返すことによって、先入観(イドラ)を排し、個別の事実から一般的な法則を見出す帰納法こそが、真の知に至る道であると説きました。彼の「知は力なり」という言葉は、自然を支配し、人間の生活を豊かにするという、近代科学の目的を象徴しています。
  • 大陸合理論:
    • フランスの哲学者ルネ・デカルトは、感覚的な経験は疑わしいと考え、疑い得ない明晰な心理から出発して、論理的な演繹によって真理を構築しようとしました。
    • 彼は、すべてを疑う方法的懐疑の末に、疑っている自己の存在だけは疑い得ないという結論に達し、「われ思う、ゆえにわれあり(コギト・エルゴ・スム)」という近代哲学の第一原理を打ち立てました。彼の合理主義的な探求方法は、数学の発展にも大きく貢献しました。

3.3. ニュートンによる統合:近代物理学の完成

  • アイザック・ニュートン(イギリス)は、17世紀科学革命の集大成者であり、近代物理学の父です。
  • 1687年に出版された主著『プリンキピア(自然哲学の数学的諸原理)』において、彼は、地上における物体の運動(リンゴが木から落ちる)と、天体の運動(惑星が太陽の周りを回る)とが、**同一の法則(万有引力の法則)**によって支配されていることを数学的に証明しました。
  • これは、天上の世界と地上の世界を区別していた古代・中世的な世界観を完全に打ち破り、宇宙のすべての現象が、単一の数学的な法則によって記述できることを示した、壮大な統合でした。ニュートン力学の確立によって、宇宙は神秘的な場所ではなく、予測可能で合理的な秩序を持つ、巨大な機械のようなもの(機械論的自然観)と見なされるようになりました。

科学革命は、自然界から神の意志を追放し、それを人間の理性が解明できる対象へと変えました。この合理主義と実証主義の精神は、やがて人間社会そのものにも向けられ、次の時代の啓蒙思想や産業革命、近代市民社会の成立へとつながる、強力な知的エンジンとなったのです。


(以下、第2部、第3部、第4部、結論と続く)

(文字数制限のため、残りの部分の生成は省略しますが、上記思考プロセスに基づき、各部を同様の詳細さで記述します)

(前回の続き)


第2部 海洋世界の出現とグローバル経済の誕生

15世紀後半、ヨーロッパで始まった精神と知の革命は、物理的な世界の拡大へと直結しました。羅針盤や造船技術の改良に後押しされ、ヨーロッパ人、とりわけポルトガルとスペインの人々は、大西洋の荒波へと乗り出していきました。彼らの動機は、アジアの香辛料への渇望、キリスト教布教の情熱、そして未知なる世界への探求心といった、複合的なものでした。この「大航ontinuous代」は、単に新しい航路を発見しただけではありません。それは、アメリカ大陸という、ヨーロッパ人にとって全く未知の「新世界」を世界システムに組み込み、地球規模での富の収奪と再分配の構造、すなわち最初のグローバル経済を誕生させる、壮大な、そしてしばしば暴力的なプロセスでした。

第4章 大航海時代の開幕:ポルトガルとスペインの動向

イベリア半島の二つの王国、ポルトガルとスペインが、大航海時代の先鞭をつけました。両国には、イスラーム勢力からの国土回復運動(レコンキスタ)を完了させたばかりの、宗教的情熱と軍事的なエネルギーが満ち溢れていました。

4.1. ポルトガルの挑戦:アフリカ迂回航路の開拓

  • 背景と動機:
    • ポルトガルは、大西洋に面しているものの、国土が狭く、地中海貿易から疎外されていました。そのため、ヴェネツィア商人やムスリム商人が独占する、高価なアジアの香辛料(胡椒、クローブなど)を、直接手に入れるための新たなルートを開拓する必要がありました。
    • その目標とされたのが、アフリカ大陸を南に迂回してインド洋に至る航路でした。
  • エンリケ航海王子と段階的な探検:
    • この事業を強力に推進したのが、「航海王子」と称されるエンリケ(15世紀前半)です。彼は、探検家や船乗りを支援し、アフリカ西岸の探検を段階的に進めました。
    • ポルトガルの探検家たちは、アフリカ西岸を南下しながら、金や奴隷を獲得していきました。
  • 喜望峰の発見とインド航路の完成:
    • 1488年、バルトロメウ=ディアスが、ついにアフリカ大陸南端の喜望峰に到達。インド洋への道が開かれました。
    • そして1498年、ヴァスコ=ダ=ガマの船隊が喜望峰を回り、イスラーム教徒の水先案内人の助けを得てインド洋を横断し、インド西岸のカリカットに到達しました。これにより、ヨーロッパとアジアを直接結ぶ、念願のインド航路が開かれました。
  • アジアにおける海上帝国の建設:
    • ポルトガルは、インド航路の完成後、圧倒的な海軍力(火砲を搭載したキャラベル船)を駆使して、インド洋の交易を支配していたムスリム商人の勢力を排除していきました。
    • 彼らは、広大な領土を支配するのではなく、ゴア(インド)、マラッカ(マレー半島)、マカオ(中国)といった、交易に重要な港市(拠点)を占領し、香辛料貿易を独占する「海上帝国」を築き上げました。

4.2. スペインの挑戦:西回り航路と「新世界」の発見

  • コロンブスの逆転の発想:
    • ジェノヴァ生まれの船乗りコロンブスは、地球球体説に基づき、西へまっすぐ進めばアジア(インディアス)に到達できると信じていました。
    • 彼はこの計画をポルトガル王に売り込みますが、ディアスが喜望峰に到達したことで、ポルトガルは東回り航路に集中していたため、拒否されます。
  • スペイン女王イサベルの決断:
    • コロンブスは、次にスペインに援助を求めます。当時、スペインはレコンキスタの最終段階にあり、グラナダを陥落させた(1492年)直後でした。国土統一を成し遂げた女王イサベルは、ポルトガルに対抗する好機と捉え、コロンブスの航海を承認しました。
  • 「新世界」への到達:
    • 1492年、コロンブスの船隊は、大西洋を横断し、現在の西インド諸島(バハマ諸島)のサンサルバドル島に到達しました。彼は、その地をアジアの一部(インド)であると生涯信じ続け、先住民を「インディオ」と呼びました。
    • 彼の「発見」は、ヨーロッパ人の世界観を根底から覆し、その後の歴史を大きく変えることになります。
  • 地球周航とアメリカ大陸の植民地化:
    • スペイン王室に仕えたポルトガル人マゼランの船隊は、1519年に西回りで出発し、南米大陸南端のマゼラン海峡を通過、太平洋を横断してフィリピンに到達。マゼラン自身は現地で戦死しますが、その部下が航海を続け、1522年に史上初の世界周航を達成しました。これにより、地球が球体であることが実証されました。
    • スペインは、コロンブス以降、コンキスタドール(征服者)と呼ばれる人々をアメリカ大陸に送り込みました。コルテスアステカ王国を、ピサロインカ帝国を、わずかな兵力で滅ぼしました。その背景には、鉄砲や馬といった、先住民が持たない軍事技術だけでなく、先住民の間に蔓延したヨーロッパ由来の**伝染病(天然痘など)**の壊滅的な影響がありました。
    • スペインは、広大なアメリカ大陸を植民地とし、ポトシ銀山などで先住民やアフリカから連れてきた奴隷を酷使して、莫大な銀を採掘しました。この銀が、ヨーロッパ、そして世界経済を大きく動かしていくことになります。
  • トルデシリャス条約:
    • ポルトガルとスペインの海外領土獲得競争が激化すると、ローマ教皇の仲介で、1494年にトルデシリャス条約が結ばれました。これは、大西洋上に分界線を引き、その東側で発見された新領土をポルトガル領、西側をスペイン領とするもので、両国による世界分割の取り決めでした。

第5章 コロンブス交換:グローバル生態系の誕生

アメリカ大陸と「旧世界」(ユーラシア・アフリカ大陸)との出会いは、単に人間社会の交流に留まりませんでした。それは、それまで数億年にわたって隔絶されていた二つの生態系が衝突し、混ざり合う、地球規模での生物学的な大変動を引き起こしました。歴史家アルフレッド・クロスビーが「コロンブス交換」と名付けたこの現象は、その後の世界の食糧事情、人口動態、そして景観を不可逆的に変えていきました。

5.1. 旧世界から新世界へ:馬・小麦・そして病原菌

  • 動植物:
    • ヨーロッパ人は、アメリカ大陸に、馬、牛、豚、羊といった家畜や、小麦、大麦、ブドウ、オリーブ、サトウキビといった農作物を持ち込みました。
    • 特に、馬は先住民の狩猟や移動の手段を劇的に変え、小麦はキリスト教のパンの文化を、サトウキビは後のプランテーション経済の基盤を築きました。
  • 病原菌のインパクト:
    • しかし、旧世界から新世界への最大のインパクトは、目に見えない病原菌によってもたらされました。
    • ユーラシア大陸の人々は、長年にわたって家畜と共存する中で、天然痘、麻疹(はしか)、インフルエンザといった、動物由来の伝染病に対する免疫を世代から世代へと受け継いでいました。
    • 一方、大型家畜がいなかったアメリカ大陸の先住民は、これらの病原菌に対して全く免疫を持っていませんでした。そのため、ヨーロッパ人が持ち込んだ病原菌は、先住民の間に爆発的に流行し、その人口を激減させました。地域によっては、人口の90%以上が失われたとも言われ、アステカやインカといった帝国が容易に崩壊した最大の要因となりました。この「史上最大の人口災害」が、その後のアメリカ大陸における植民地支配と労働力不足(アフリカからの奴隷導入につながる)の前提条件となったのです。

5.2. 新世界から旧世界へ:ジャガイモ・トウモロコシ・銀

  • 新大陸原産の作物:
    • アメリカ大陸からも、多くの有用な作物が旧世界にもたらされ、世界中の人々の食生活を豊かにしました。
      • ジャガイモ、トウモロコシ: これらの作物は、痩せた土地でも比較的容易に栽培でき、単位面積あたりの収穫量も多かったため、ヨーロッパや中国の人口を爆発的に増加させる大きな要因となりました。特にジャガイモは、アイルランドやドイツなどで主食となり、トウモロコシやサツマイモは、中国の山間部での人口扶養力を高め、明・清時代の人口増を支えました。
      • その他、トマト、唐辛子、カカオ、タバコ、インゲンマメ、カボチャなど、今日の我々の食卓に欠かせない多くの作物が、この時に世界に広まりました。
  • 銀の世界規模での流通:
    • スペインがアメリカ大陸で採掘した莫大なは、ヨーロッパに流入し、価格革命(物価の著しい上昇)を引き起こし、封建領主層の没落を加速させました。
    • さらに、この銀の多くは、当時、銀を渇望していた中国(明)の絹や陶磁器、あるいはインドの綿製品や香辛料を購入するための決済手段として、アジアへと流出しました。
    • こうして、アメリカ大陸の銀を媒介として、ヨーロッパとアジアを結ぶ、世界規模での貿易ネットワークが初めて成立したのです。

第6章 大西洋システム:三角貿易とプランテーション奴隷制

大航海時代がもたらしたグローバル経済の形成は、光の側面ばかりではありませんでした。その繁栄は、大西洋を舞台に展開された、極めて暴力的で非人道的なシステムによって支えられていました。それが「三角貿易」と、その中核をなす奴隷制プランテーションです。

  • 三角貿易の構造:
    • 17世紀から18世紀にかけて、ヨーロッパ(特にイギリスやフランス)、アフリカ西岸、そしてアメリカ大陸(西インド諸島や南北アメリカ)を結ぶ、三つの辺からなる貿易システムが確立しました。
      1. 第1辺(ヨーロッパ → アフリカ): ヨーロッパの港から、銃、火薬、綿織物、ラム酒などを船に積み込み、アフリカ西岸へ向かう。
      2. 第2辺(アフリカ → アメリカ): アフリカで、現地の王や商人にこれらの商品を売り渡し、その対価として黒人奴隷を買い付ける。奴隷たちは、鎖につながれ、劣悪な環境の船底(「中間航路(ミドル・パッセージ)」)に詰め込まれ、アメリカ大陸へ輸送された。輸送中の死亡率も極めて高かった。
      3. 第3辺(アメリカ → ヨーロッパ): アメリカ大陸で奴隷を売りさばき、その利益で、奴隷労働によって生産された砂糖、タバコ、綿花、コーヒーといったプランテーション作物を大量に買い付け、ヨーロッパへ持ち帰る。
  • 奴隷制プランテーション:
    • アメリカ大陸、特にカリブ海の西インド諸島やブラジル、北米南部では、ヨーロッパ向けの単一の商品作物(特に砂糖)を大規模に生産する、プランテーションと呼ばれる大農園が発達しました。
    • コロンブス交換によって激減した先住民労働力に代わり、このプランテーションの過酷な労働を担わされたのが、アフリカから強制的に連れてこられた黒人奴隷でした。
    • このシステムは、人種に基づいて人間を「物(動産)」として扱う、近代特有の人種的奴隷制であり、数世紀にわたって約1000万人以上のアフリカ人が、故郷から引き離されてアメリカ大陸へ送られたと推定されています。
  • 歴史的意義:
    • 大西洋三角貿易は、ヨーロッパ、特にイギリスの産業革命の前提となる資本の蓄積に巨大な貢献をしました。リヴァプールやブリストルといった港湾都市は、奴隷貿易で大いに繁栄しました。
    • このシステムは、アフリカ社会に深刻な破壊と人口の歪みをもたらした一方で、アメリカ大陸に、アフリカにルーツを持つ人々の独自の文化(クレオール文化など)を生み出すきっかけともなりました。
    • そして、この大規模な奴隷制の存在は、後のアメリカ独立革命や南北戦争など、近代世界の歴史に、人種問題をめぐる深刻で長期的な影を落とし続けることになります。

(以下、第3部以降に続く)

(前回の続き)


第3部 ヨーロッパの政治的再編:主権国家と絶対王政

大航海時代と宗教改革は、ヨーロッパの政治地図を根底から塗り替えました。アメリカ大陸からの銀の流入は、国家間のパワーバランスを変動させ、宗教改革に端を発した深刻な対立は、約一世紀にわたる血で血を洗う「宗教戦争の時代」をもたらしました。しかし、この激しい動乱と混乱の中から、ヨーロッパは新しい国際秩序の形を模索し始めます。それが、国境によって明確に区切られた領域と、その領域内において絶対的な権力を持つ「主権」を基盤とする、主権国家体制の形成です。そして、この主権国家の内部では、権力をいかに集中させ、効率的に行使するかをめぐって、大陸の絶対王政と、イギリスの立憲君主制という、対照的な二つの国家モデルが確立されていきました。

第7章 宗教戦争の時代と主権国家体制の誕生

16世紀から17世紀半ばにかけて、ヨーロッパは宗教的な対立を名分としながら、実際には各国の覇権をめぐる政治的な思惑が複雑に絡み合った、大規模な戦争の時代を経験します。この時代の主役は、アメリカ大陸の富を独占し、カトリックの守護者を自認するハプスブルク家のスペインでした。

7.1. スペイン・ハプスブルク家の帝国とオランダの独立

  • 「太陽の沈まぬ帝国」:
    • 16世紀、ハプスブルク家のカール5世は、スペイン王、神聖ローマ皇帝、ネーデルラント君主などを兼ね、ヨーロッパと広大なアメリカ植民地にまたがる巨大な帝国を支配しました。
    • 彼の退位後、帝国はオーストリア系とスペイン系に分割され、息子のフェリペ2世がスペイン王位を継承しました。彼の治世に、スペインは最盛期を迎え、アメリカ大陸からの莫大な銀収入を背景に、その国力は「太陽の沈まぬ帝国」と称されました。1571年のレパントの海戦では、オスマン帝国海軍を破り、地中海の制海権を確保。1580年にはポルトガルをも併合しました。
  • スペインの衰退とオランダ独立戦争:
    • しかし、その栄華は長くは続きませんでした。フェリペ2世は、熱心なカトリック教徒として、国内のプロテスタントを弾圧しました。
    • 特に、当時ヨーロッパで最も商工業が発達し、カルヴァン派(ゴイセン)の信者が多かったネーデルラント(現在のオランダ・ベルギー)に対して、カトリックの強制と重税を課したことは、激しい反発を招きました。
    • 1568年、オラニエ公ウィレムの指導のもと、ネーデルラントの諸州はスペインに対する大規模な反乱を開始しました。これが**オランダ独立戦争(八十年戦争)**です。
    • 北部7州はユトレヒト同盟を結んで結束し、1581年にネーデルラント連邦共和国としての独立を宣言。スペインの無敵艦隊がイギリスに敗れる(1588年)など、スペインの国力が衰える中で、ネーデルラントは事実上の独立を勝ち取りました(正式承認は1648年)。
    • この新しい共和国、特にアムステルダムは、17世紀にはスペインに代わって世界貿易の覇権を握り、ヨーロッパ経済の中心として黄金時代を迎えました。

7.2. 三十年戦争とウェストファリア条約

  • ヨーロッパ最後にして最大の宗教戦争:
    • 17世紀前半のドイツ(神聖ローマ帝国)を舞台に、ヨーロッパ中を巻き込む大規模な国際戦争が勃発しました。それが三十年戦争(1618-1648)です。
    • 発端は、ボヘミア(現在のチェコ)で、神聖ローマ皇帝によるカトリック強制政策にプロテスタントの住民が反抗したことでした。
    • この宗教的な対立は、次第にハプスブルク家の強大化を恐れる周辺諸国の政治的思惑と結びつき、デンマーク、スウェーデン(グスタフ=アドルフ王の活躍)、そしてカトリック国でありながらハプスブルク家を敵視するフランス(宰相リシュリューの指導)が、次々とプロテスタント側で参戦しました。
  • ウェストファリア条約(1648年)と主権国家体制の確立:
    • 30年にも及ぶ悲惨な戦争の末、ヨーロッパ史上初の本格的な国際講和会議が開かれ、ウェストファリア条約が結ばれました。この条約は、近代ヨーロッパの国際秩序を画する、極めて重要な意味を持っています。
      1. 個人の信仰の自由の承認: アウクスブルクの和議の原則が再確認されるとともに、新たにカルヴァン派の信仰も公認されました。これにより、宗教戦争の時代は終わりを告げました。
      2. 神聖ローマ帝国の事実上の解体: 帝国内の各領邦国家は、外交権を含むほぼ完全な主権を認められ、神聖ローマ帝国は有名無実化しました。
      3. 主権国家体制の確立: この条約を通じて、明確な国境で区切られた領域(領土)とその住民を、他国の干渉を受けずに排他的に支配する権利(主権)を持つ、主権国家が国際社会の基本単位であるという原則が確立しました。これ以降、ヨーロッパの国際関係は、教皇や皇帝といった普遍的な権威ではなく、主権を持つ国家間の勢力均衡(バランス・オブ・パワー)によって動いていくことになります。
    • また、この条約で、スイスとオランダの独立が国際的に正式承認されました。

第8章 国家権力の多様な道:絶対王政と立憲君主制

主権国家体制が確立される中で、各国は、国内の権力をいかにして君主のもとに集中させ、国家を富ませ、強力な軍隊を維持するかという課題に直面しました。この課題への対応として、大陸のフランスでは絶対王政が、島国のイギリスでは立憲君主制が、それぞれ典型的な形で発展しました。

8.1. フランスの絶対王政:太陽王の時代

  • 絶対王政の理論:
    • 王権神授説: フランスの司教ボシュエらが唱えた、国王の権力は神から直接授けられたものであり、人民はそれに絶対服従しなければならないという思想。これは、絶対王政を正当化する理論的支柱となりました。
  • ルイ14世の治世(1643年~1715年):
    • フランス絶対王政の最盛期を現出したのが、「太陽王」と呼ばれたルイ14世です。「朕は国家なり」という彼の言葉は、絶対君主の権力を象徴しています。
    • 中央集権体制の強化: 宰相マザランの死後、親政を開始。高等法院の権限を制限し、地方に監察官(アンタンダン)を派遣するなど、国内の貴族勢力を抑え、権力を国王のもとに集中させました。
    • ヴェルサイユ宮殿の建設: パリ郊外に、壮麗なヴェルサイユ宮殿を建設。これは、単なる王の住居ではなく、全国の有力貴族を宮殿に住まわせ、豪華な宮廷儀礼に参加させることで彼らを骨抜きにし、国王の権威を視覚的に誇示するための、壮大な政治的装置でした。
    • 重商主義政策: 財務総監コルベールを登用し、典型的な重商主義政策を推進しました。国内の産業(特に王立マニュファクチュアでの毛織物などの奢侈品生産)を保護・育成し、輸出を促進する一方、輸入には高い関税をかけて、国内に貨幣(金銀)を蓄積し、国富を増大させようとしました。
    • 対外戦争: コルベールが築いた富を背景に、ルイ14世は、ネーデルラント侵略戦争やスペイン継承戦争など、相次ぐ侵略戦争を行いました。しかし、これらの戦争は、フランスに大きな領土的拡大をもたらさなかった一方で、国家財政を著しく疲弊させ、後のフランス革命の遠因となりました。また、ナントの王令を廃止(1685年)してユグノー(カルヴァン派)を弾圧したため、多くの有能な商工業者が国外に亡命し、フランスの経済に打撃を与えました。

8.2. イギリス革命と立憲君主制の確立

  • 背景:ステュアート朝と議会の対立:
    • エリザベス1世の死後、ステュアート朝が始まると、国王と議会の対立が深刻化しました。国王ジェームズ1世やチャールズ1世は、王権神授説を信奉し、議会を無視した専制政治を行おうとしました。
    • また、国王が国教会を強制したため、カルヴァン派の**ピューリタン(清教徒)**の不満が高まりました。ピューリタンには、ジェントリ(郷紳)やヨーマン(独立自営農民)、そして新興の商工業者が多く、彼らは議会(特に下院)の多数を占めていました。
  • ピューリタン革命(イギリス革命、1642年~1649年):
    • 国王チャールズ1世が、議会の同意なしに課税しようとしたことに対し、議会は権利の請願を提出して抵抗。国王と議会の対立はついに武力衝突へと発展しました。
    • 議会派は、オリヴァー=クロムウェル率いる鉄騎隊の活躍により、王党派に勝利。1649年、国王チャールズ1世は処刑され、イギリスは**共和政(コモンウェルス)**となりました。国王が裁判によって処刑されたことは、ヨーロッパに衝撃を与えました。
  • 王政復古から名誉革命へ:
    • クロムウェルの厳格な独裁政治は不評を買い、彼の死後、王政復古が実現します。
    • しかし、チャールズ2世、ジェームズ2世が再び専制政治とカトリックの復活を図ったため、議会は反発。議会は、国王の専制に反対するホイッグ党と、国王の権利を擁護するトーリー党(後の自由党と保守党)に分かれながらも、結束して国王に対抗しました。
    • 1688年、議会はジェームズ2世を追放し、オランダから彼の娘メアリとその夫ウィレム(オラニエ公ウィリアム)を、新たな共同統治者として迎えました。この時、一滴の血も流されずに政変が達成されたため、「名誉革命」と呼ばれます。
  • 立憲君主制の確立:
    • ウィリアム3世とメアリ2世は、即位にあたり、議会が起草した権利の宣言を承認し、翌1689年に「権利の章典」として法律になりました。
    • 「権利の章典」は、国王の権力は法と議会によって制限されることを明確に定め、国民(実際には議会)の自由と権利を保障しました。これにより、イギリスでは、国王は「君臨すれども統治せず」という原則のもと、法に従って統治を行う立憲君主制と、議会政治の基礎が確立されました。

第9章 中欧・東欧における新興国の台頭

西ヨーロッパで主権国家体制が確立していく一方、三十年戦争で荒廃した中欧や、ヨーロッパの周縁と見なされていた東欧でも、絶対王政をモデルとしながら、独自の国家建設を進める新しい強国が台頭してきました。

9.1. プロイセンとオーストリア

  • プロイセンの台頭:
    • 神聖ローマ帝国内の領邦国家の一つであったプロイセンは、ホーエンツォレルン家のもと、17世紀後半から急速に国力を増強しました。
    • その特徴は、強力な常備軍と、それを支える効率的な官僚制度にありました。社会全体が軍隊を維持するために組織されているような、「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世に代表される、徹底した軍国主義・官僚主義国家でした。貴族(ユンカー)は、将校や高級官僚として国家に奉仕しました。
  • オーストリアの多民族国家:
    • オーストリアのハプスブルク家は、神聖ローマ皇帝位を世襲していましたが、三十年戦争後は、その関心をドイツ内部よりも、オーストリア大公国を中心とする世襲領地の経営に向けました。
    • オスマン帝国からハンガリーを奪回するなど、東方へと領土を拡大しましたが、その支配下には、ドイツ人、マジャール人、スラヴ人など、多数の民族が含まれており、その統治は常に困難を伴う多民族国家でした。

9.2. ロシア帝国の成立と西欧化

  • ロマノフ朝の成立:
    • 16世紀にイヴァン4世(雷帝)が「ツァーリ(皇帝)」の称号を正式に採用して以来、モスクワ大公国は強国への道を歩み始めましたが、彼の死後は「動乱時代」と呼ばれる混乱期に陥りました。
    • 1613年、全国会議でミハイル=ロマノフが新たなツァーリに選出され、ロマノフ朝が始まりました。
  • ピョートル1世の改革:
    • 17世紀末に即位したピョートル1世(大帝)は、西ヨーロッパの技術や文化に比べてロシアが著しく立ち遅れていることを痛感し、抜本的な西欧化政策を断行しました。
    • 彼は、自ら身分を隠して西欧諸国を視察し、造船技術や軍事技術を学びました。
    • 帰国後、彼は西欧式の常備軍と海軍を創設し、貴族にひげを剃らせて西欧風の服装を強制するなど、強権的に改革を進めました。
    • 北方戦争(1700-1721): バルト海の覇権をめぐってスウェーデンと戦い、勝利を収めました。これにより、バルト海への出口を確保し、その沿岸に新たな首都サンクトペテルブルクを建設しました。この新首都は、ロシアにとって「ヨーロッパへの窓」となりました。
    • 彼の改革によって、ロシアは後進的なアジア的国家から脱皮し、ヨーロッパの国際政治に影響力を持つ、強力なロシア帝国へと変貌を遂げたのです。

(以下、第4部、結論と続く)

(前回の続き)


第4部 アジアにおける陸の帝国の繁栄と変容

ヨーロッパ人が大洋へ乗り出し、世界の一体化を推し進めていた16世紀から17世紀にかけて、アジアでは、その動きと並行、あるいはそれに対抗するように、強大な「陸の帝国」が繁栄の絶頂期を迎えていました。オスマン帝国、サファヴィー朝、ムガル帝国といったイスラーム世界の大国、そして東アジアの明・清帝国は、いずれも広大な領土と多数の人口、洗練された官僚機構と強力な軍事力を備え、この時代のもう一つの世界の中心軸を形成していました。本章では、これらのアジアの諸帝国が、いかにしてその繁栄を築き、ヨーロッパ勢力の進出にどう対応し、そしてどのような内部的変容を遂げていったのかを考察します。

第10章 イスラーム世界の「火薬帝国」

15世紀以降、イスラーム世界では、大砲や鉄砲といった火薬兵器をいち早く導入・活用し、強力な常備軍を編成した三つの大帝国が、西アジアからインドにかけての広大な地域に君臨しました。これらは「火薬帝国(Gunpowder Empires)」と総称されます。

10.1. オスマン帝国:二つの世界にまたがる巨人

  • 帝国の成立と拡大:
    • アナトリア北西部に興ったテュルク系のオスマン朝は、ビザンツ帝国の領土を侵食しながら勢力を拡大。1453年、スルタンのメフメト2世が、難攻不落とされたコンスタンティノープルを陥落させ、ビザンツ帝国を滅ぼしました。彼は、この都市を帝国の新たな首都イスタンブルと定め、オスマン帝国は、アジアとヨーロッパにまたがる世界帝国としての地位を確立しました。
  • 最盛期と統治制度:
    • 16世紀、第10代スルタンの**スレイマン1世(大帝)**の治世に、オスマン帝国は最盛期を迎えます。
      • 領土の拡大: 陸では、ハンガリーを征服してウィーンを包囲し(第1次ウィーン包囲、1529年)、ハプスブルク家を脅かしました。海では、プレヴェザの海戦でスペイン・ヴェネツィア連合艦隊を破り、地中海の制海権をほぼ掌握。さらに、イラク、エジプト、北アフリカを支配下に収め、その版図は三大陸に及びました。
      • 洗練された統治システム:
        • スルタン=カリフ制: 16世紀初頭にエジプトのマムルーク朝を滅ぼした際、オスマン帝国のスルタンは、イスラーム世界全体の宗教的権威であるカリフの地位をも継承したとされ、スンナ派イスラームの盟主となりました。
        • デヴシルメとイェニチェリ: 帝国の強さを支えたのが、デヴシルメと呼ばれる、バルカン半島のキリスト教徒の少年を徴集し、イスラーム教に改宗させてスルタン直属の官僚や兵士として育成するシステムです。この中から、皇帝親衛隊である精鋭歩兵軍団イェニチェリが編成され、帝国軍の中核を担いました。
        • ミッレト制: 帝国は、その支配下の多様な非ムスリム(ギリシア正教徒、アルメニア教会派、ユダヤ教徒など)に対し、それぞれの宗教共同体(ミッレト)ごとの自治を認め、信仰や言語、慣習を維持することを許しました。この寛容な統治が、多民族・多宗教帝国の安定を支えました。
  • ヨーロッパとの関係と制度疲労:
    • オスマン帝国は、ヨーロッパ諸国にとって深刻な脅威であったと同時に、重要な政治的プレイヤーでもありました。フランスは、宿敵ハプスブルク家に対抗するため、しばしばオスマン帝国と同盟を結びました。また、フランスに対しては、治外法権や通商上の特権(カピチュレーション)を与えました。
    • しかし、17世紀後半になると、第2次ウィーン包囲(1683年)の失敗を機に、軍事的な劣勢が明らかになります。また、デヴシルメやイェニチェリといった帝国の根幹を支える制度が硬直化・形骸化し(制度疲労)、帝国は長期的な衰退の時代へと入っていきます。

10.2. サファヴィー朝:シーア派国家イランの誕生

  • 建国とシーア派の国教化:
    • 16世紀初頭、イランで神秘主義教団の指導者であったイスマーイール1世が、サファヴィー朝を建国しました。
    • 彼の最も重要な政策は、それまでスンナ派が多数を占めていたイランにおいて、イスラームの少数派であるシーア派(十二イマーム派)を国教としたことです。
    • これにより、イランは、西のスンナ派オスマン帝国と、東のスンナ派ムガル帝国に挟まれた、独自のシーア派国家としてのアイデンティティを確立しました。この宗派対立は、オスマン帝国との絶え間ない戦争の原因となりました。
  • アッバース1世とイスファハーンの繁栄:
    • 17世紀初頭、第5代シャー(王)のアッバース1世の時代に、サファヴィー朝は最盛期を迎えます。
    • 彼は、オスマン帝国のイェニチェリにならい、白人奴隷からなる親衛隊を創設して軍制改革を行い、オスマン帝国からイラクの一部を奪回しました。
    • 首都をイスファハーンに移し、壮麗なモスクや宮殿、市場を建設しました。その壮麗さは「イスファハーンは世界の半分」と称えられるほどでした。
    • 彼は、ヨーロッパ諸国と積極的に関係を結び、アルメニア商人などを保護して、ペルシア絨毯や陶器などの輸出を奨励し、国の経済を発展させました。

10.3. ムガル帝国:インドにおけるイスラーム統治

  • 建国とアクバル大帝の融和政策:
    • 16世紀前半、ティムールとチンギス=ハンの血を引くバーブルが、アフガニスタンからインドに侵入し、パーニーパットの戦いでロディー朝を破り、ムガル帝国を建国しました。
    • 帝国の基礎を築いたのが、第3代皇帝アクバル(在位:1556-1605)です。彼は、圧倒的多数のヒンドゥー教徒を支配するため、巧みな宗教融和政策をとりました。
      • ヒンドゥー教徒の有力部族であるラージプート族と婚姻関係を結び、彼らを帝国の官僚や将軍として登用しました。
      • ムスリム以外の異教徒に課せられていた人頭税(ジズヤ)を廃止しました。
      • 自ら、イスラーム、ヒンドゥー、キリスト教などを融合させた「神聖宗教(ディーネ・イラーヒー)」を創始するなど、宗教間の対話と融和を試みました。
  • インド=イスラーム文化の爛熟:
    • ムガル帝国時代には、ペルシア・イスラーム文化とインドの伝統文化が融合した、壮麗なインド=イスラーム文化が花開きました。
    • 第5代皇帝シャー=ジャハーンは、愛妃ムムターズ=マハルのために、デリー近郊のアーグラに、白大理石の霊廟タージ=マハルを建設しました。これはインド=イスラーム建築の最高傑作とされます。
  • 帝国の衰退:
    • 第6代皇帝アウラングゼーブは、熱心なスンナ派ムスリムであり、アクバル以来の宗教融和政策を放棄しました。
    • 彼は、ジズヤを復活させ、ヒンドゥー寺院を破壊するなど、非ムスリムを弾圧したため、マラーター族やシク教徒など、各地でヒンドゥー教徒の反乱が相次ぎました。
    • この内乱によって帝国は弱体化し、18世紀になると、イギリスやフランスといったヨーロッパ勢力の進出を許すことになります。

第11章 東アジアの変容と安定

ヨーロッパ人がアジアの海に到達した頃、東アジアの盟主であった中国では、モンゴル支配を脱した漢人王朝の明が、そしてそれに続く満州人の清が、巨大な帝国を統治していました。一方、日本では、100年以上にわたる戦乱の時代が終わりを告げ、強力な武家政権のもとで、独自の安定と発展の道を歩み始めます。

11.1. 明朝の成立と朝貢体制

  • 建国と洪武帝の独裁体制:
    • 14世紀半ば、元末の農民反乱である紅巾の乱の中から台頭した貧農出身の朱元璋が、モンゴル勢力をモンゴル高原に追いやり、南京を都としてを建国しました(1368年)。彼が洪武帝です。
    • 洪武帝は、モンゴル支配の痕跡を払拭し、漢人王朝の伝統を復活させるとともに、皇帝の権力を極度に強化する独裁体制を築きました。彼は、宰相(中書省)を廃止して皇帝が直接六部を指揮し、厳しい思想統制(文字の獄)を行いました。
  • 永楽帝の積極策と鄭和の南海遠征:
    • 第3代永楽帝は、甥の建文帝から帝位を奪い、都を北方の北京に遷都しました。
    • 彼は、モンゴルへの親征を行うなど積極的な対外政策をとり、その一環として、イスラーム教徒の宦官である鄭和に、大船団を率いての南海遠征を命じました。
    • 鄭和の遠征(1405-1433): 鄭和の船団は、7回にわたり、東南アジア、インド、ペルシア湾、アラビア半島、そしてアフリカ東岸のマリンディまで到達しました。その目的は、明の威光を海外に示し、周辺諸国を朝貢体制(中国皇帝の徳を慕って、周辺諸国の使節が貢物を持って来訪し、皇帝はそれ以上の価値のある返礼品を与えるという、名目的な君臣関係に基づく国際秩序)に組み込むことにありました。
  • 朝貢体制と海禁政策:
    • 鄭和の遠征は、永楽帝の死後、多額の費用などを理由に中止されます。
    • 明朝は、朝貢以外の私的な海外渡航や貿易を禁じる海禁政策をとりました。しかし、この政策は、かえって密貿易を横行させ、16世紀には、日本人を含む**倭寇(後期倭寇)**の活動が活発化する原因ともなりました。

11.2. 明清交代と清の多民族帝国統治

  • 明の衰退:
    • 16世紀後半、張居正の改革によって一時的に財政は再建されますが、彼の死後、再び政治は混乱。皇帝が政務を顧みず、宦官が実権を握るようになります。
    • 豊臣秀吉の朝鮮出兵(壬辰・丁酉の倭乱)への援軍派遣も、明の財政を圧迫しました。
    • 17世紀に入ると、国内では李自成の率いる農民反乱が拡大し、北方では満州で勢力を蓄えた**満州人(女真人)**が脅威となっていました。
  • 清の成立と中国支配:
    • 満州人の指導者ヌルハチは、女真の諸部族を統一し、後金を建国。その子のホンタイジは、国号をと改め、モンゴルや朝鮮を服属させて、中国本土への侵攻の機会をうかがっていました。
    • 1644年、李自成の反乱軍が北京を占領し、明が滅亡すると、清は明の将軍であった呉三桂の手引きで北京に入城。その後、約40年にわたって中国各地の抵抗勢力を平定し、中国全土の支配を確立しました。
  • 清の統治政策:
    • 清は、人口で圧倒的に少数派である満州人が、広大な漢人社会と、モンゴル、チベット、ウイグルといった多様な非漢人地域を統治するため、極めて巧みな「アメとムチ」の政策をとりました。
      • 懐柔策(アメ): 統治の制度や文化は、明のものをほぼ継承し、儒教を尊重して、科挙を通じて漢人官僚を積極的に登用しました(満漢併用制)。
      • 威圧策(ムチ): 一方で、満州人のアイデンティティを維持するため、漢人男性に満州人の髪型である**辮髪(べんぱつ)**を強制し、満州人への悪口や批判を厳しく取り締まる思想弾圧(文字の獄)を行いました。
  • 康熙・雍正・乾隆の三世の春:
    • 17世紀後半から18世紀末にかけて、康熙帝、雍正帝、乾隆帝という3人の優れた皇帝が続き、清は130年以上にわたる安定と繁栄の時代、すなわち「三世の春」を迎えました。
    • この時代に、清はモンゴル、チベット、新疆(東トルキスタン)を版図に組み込み、現在の中国とほぼ同じ広さの、広大な多民族帝国を完成させました。

11.3. 日本:戦国時代から徳川の平和へ

  • 戦国時代とヨーロッパ人の来航:
    • 15世紀後半から16世紀後半にかけて、日本では室町幕府の権威が失墜し、各地の戦国大名が実力で覇権を争う戦国時代が続きました。
    • この戦乱の最中、1543年に種子島に漂着したポルトガル人によって鉄砲が、1549年にはイエズス会の宣教師フランシスコ=ザビエルによってキリスト教が伝えられました。これらは、その後の日本の歴史に大きな影響を与えます。
  • 天下統一事業:
    • 戦国時代の末期、織田信長が、鉄砲を効果的に用いて勢力を拡大。彼が志半ばで倒れると、その家臣であった豊臣秀吉が天下統一事業を完成させました。
  • 徳川幕府と鎖国体制:
    • 秀吉の死後、関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康が、1603年に江戸に徳川幕府を開き、その後約260年続く、安定した武家政権の基礎を築きました。
    • 幕府は、キリスト教の布教が、スペインやポルトガルによる植民地化の尖兵となることを恐れ、キリスト教を厳しく弾圧しました。
    • 1639年までに、ポルトガル船の来航を禁止し、日本人の海外渡航と帰国を厳しく制限するなど、鎖国と呼ばれる対外的な孤立政策を完成させました。ただし、完全に国を閉ざしたわけではなく、オランダと中国との交易は、長崎の出島という限定された窓口を通じて継続されました。この「鎖国」体制の下で、日本は、江戸時代を通じて独自の文化と社会を発展させていくことになります。

【Module 5 結論:一体化する世界と多元的な中心】

1450年から1750年に至るこの300年間は、人類の歴史における真のグローバル時代の幕開けでした。ヨーロッパの内部で起きたルネサンス、宗教改革、科学革命は、彼らを大洋へと駆り立てる精神的・知的エネルギーとなり、その結果として始まった大航海時代は、それまで隔絶されていたアメリカ大陸を世界システムに組み込み、地球上のあらゆる地域を直接・間接的に結びつけました。

この「世界の一体化」は、しかし、決して均質なプロセスではありませんでした。それは、ヨーロッパを中心とする海洋ネットワークの形成と、アジアにおける強大な陸上帝国の繁栄という、二つの大きな潮流が並行して進む、複合的な現象でした。

一方では、ヨーロッパ勢力、特にポルトガルとスペイン、そして後にはオランダ、イギリス、フランスが、強力な海軍力と商業資本を武器に、アジアの香辛料貿易やアメリカ大陸の銀をめぐるグローバルな覇権争いを繰り広げました。コロンブス交換は、地球全体の生態系を塗り替え、大西洋三角貿易は、アフリカの人々の犠牲の上に、ヨーロッパに莫大な富をもたらし、近代資本主義の土台を築きました。ヨーロッパ内部では、宗教戦争の苦い経験を経て、国境と主権を基礎とする主権国家体制が生まれ、絶対王政や立憲君主制といった近代的な国家形態が模索されました。

しかし、この時代、世界の他の地域は、決してヨーロッパの動きに一方的に従属していたわけではありません。アジアでは、オスマン帝国が地中海と東ヨーロッパでキリスト教世界を脅かし、サファヴィー朝が独自のシーア派文化を、ムガル帝国が壮麗なインド=イスラーム文化を花開かせました。東アジアでは、明・清帝国が、朝貢という自己中心的な国際秩序を維持し、その経済力と文化的影響力は絶大なものがありました。これらの「陸の帝国」は、ヨーロッパ勢力を、限定された沿岸部の交易相手として扱い、内陸部への侵入を許しませんでした。

したがって、この時代は、ヨーロッパによる一方的な「世界の征服」の始まりというよりも、海を制したヨーロッパと、陸を支配するアジアの諸帝国という、多元的な中心を持つグローバル・システムが形成された時代と捉えるべきでしょう。しかし、ヨーロッパ内部で静かに進行していた科学革命は、やがて技術の圧倒的な格差を生み出し、次の時代、すなわち18世紀半ば以降、この多元的な世界のパワーバランスを、決定的にヨーロッパへと傾けていくことになるのです。

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