【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 15:アフリカ大陸
本モジュールの目的と構成
アフリカ。その名を聞いて、多くの人々が思い浮かべるのは、サバンナの野生動物、貧困、そして紛争といった、断片的でステレオタイプ化されたイメージかもしれません。ヨーロッパ中心の歴史観の中では、アフリカは長く「歴史なき暗黒大陸」として、その固有の文明や発展のダイナミズムを無視されてきました。しかし、この広大な大陸こそが、人類が誕生した「揺りかご」であり、古代エジプト文明をはじめとする数々の高度な文明が花開き、イスラーム世界やインド洋世界と深く結びついた、独自の豊かな歴史を育んできた舞台なのです。
本モジュールは、このような一方的なアフリカ観を根本から覆し、この大陸が持つ、壮大で多様、そしてダイナミックな歴史の全貌を構造的に理解することを目的とします。ナイルの賜物である古代エジプト文明から、サハラを越える黄金と塩の道に栄えた西アフリカの諸帝国、インド洋の季節風に乗って繁栄したスワヒリの都市国家群まで、私たちはまず、植民地化以前のアフリカが、いかに活気に満ちた世界であったかを探求します。
そして、その歴史が奴隷貿易という未曾有の悲劇によっていかに傷つけられ、19世紀の「アフリカ分割」によって、民族や文化を無視した直線的な国境線の下に、いかにヨーロッパの支配に組み込まれていったのかを検証します。さらに、その過酷な植民地支配に対するアフリカの人々の粘り強い抵抗と、第二次世界大戦後の独立への熱い道のり、そして南アフリカにおけるアパルトヘイトという極端な人種差別の克服の軌跡を辿ります。
この学びを通じて、読者はアフリカ史を、単なる受難の歴史としてではなく、外部からの大きな影響を受けながらも、常に主体的に自らの社会を形成し、困難な課題に立ち向かってきた、人々の力強い営みの歴史として捉え直す視座を獲得するでしょう。
本モジュールは、以下の学習項目によって構成されています。
- まず、アフリカが生んだ最も偉大な文明の一つである古代エジプト文明の成立と特質を探り、この大陸の古代史の金字塔を理解します。
- ナイル川を南下し、エジプトと密接な関係を持ちながら独自の文化を育んだクシュ王国とアクスム王国の歴史を追い、古代アフリカ世界の広がりを認識します。
- 舞台を西へ移し、サハラ砂漠を越える交易に支えられて繁栄した西アフリカのサハラ交易国家(ガーナ、マリ、ソンガイ)の興亡を詳述します。
- 大陸の東海岸に目を向け、インド洋交易の拠点として栄えた国際色豊かなスワヒリ都市群の歴史とその文化の特質を解明します。
- アフリカ南部の内陸部に強大な王国を築いたモノモタパ王国の実像に迫り、アフリカ史の多様性を確認します。
- 近代の幕開けと共にアフリカを襲った最大の悲劇である奴隷貿易の破壊的影響が、アフリカ社会にいかに深刻な傷跡を残したかを分析します。
- 19世紀、ヨーロッパ列強による探検とアフリカ分割が、いかなる論理で進められ、大陸全体が植民地化されていったのか、その過程を克明に描きます。
- ヨーロッパ諸国が実施した植民地支配の形態(直接統治と間接統治)を比較し、それらがアフリカ社会に与えた長期的な影響を考察します。
- 20世紀におけるアフリカの独立運動の高揚と、多くの国々が独立を達成した「アフリカの年」に至るまでの苦難の道のりを辿ります。
- 最後に、人種差別が制度化された南アフリカのアパルトヘイトとその撤廃への闘争を詳述し、人間の尊厳をかけた闘いの歴史から学びます。
このモジュールは、人類発祥の地であるアフリカ大陸が、幾多の試練を乗り越え、現代の「希望の大陸」へと変貌を遂げつつある、その重層的な歴史を解き明かす知的な旅です。
1. 古代エジプト文明
アフリカ大陸の北東、ナイル川が砂漠地帯を貫いて地中海へと注ぐ流域に、世界で最も古く、そして最も長く続いた文明の一つである古代エジプト文明が誕生しました。ギリシアの歴史家ヘロドトスが「エジプトはナイルの賜物」と述べたように、この文明の存立は、ナイル川が毎年もたらす定期的な氾濫と、その恵みに完全に依存していました。ファラオと呼ばれる神なる王の下で統一されたエジプトは、巨大なピラミッドや神殿を建設し、独自の文字体系を発達させ、精緻な死生観を持つ、極めて高度で安定した文明を3000年近くにわたって維持しました。その輝かしい遺産は、後のギリシア・ローマ文明にも大きな影響を与え、人類の歴史における不滅の金字塔として、今なお人々を魅了し続けています。
1.1. ナイルの賜物と統一国家の形成
エジプトの大部分は、雨のほとんど降らない不毛の砂漠地帯です。しかし、その中央を流れるナイル川は、上流のエチオピア高原に降る季節的な豪雨により、毎年7月から10月にかけて定期的に氾濫を起こしました。この洪水は、破壊的なものではなく、上流から運ばれてきた肥沃な黒土を、川の両岸に堆積させるという、計り知れない恩恵をもたらしました。水が引いた後の土地は、天然の肥料によって潤い、農民たちは容易に小麦や大麦を栽培することができました。
このナイル川の恵みを最大限に活用するためには、氾濫を予測し、水を管理するための灌漑事業や堤防の建設を、村落を超えて組織的に行う必要がありました。こうした共同作業の必要性が、人々を統合し、強力な政治的権力を生み出す原動力となりました。紀元前3500年頃には、ナイル川流域に「ノモス」と呼ばれる多くの小国家が形成され、これらはやがて上エジプト(ナイル上流域)と下エジプト(ナイル下流のデルタ地帯)の二つの王国へと統合されていきました。
そして紀元前3100年頃、伝説的な王メネス(ナルメルと同一人物とされる)が、上下エジプトを統一し、エジプト第1王朝を創始したと伝えられています。これにより、古代エジプト文明の長い歴史の幕が開かれました。
1.2. ファラオと神権政治
統一王朝以降のエジプトの王は、「ファラオ」(「大きな家」の意)と呼ばれ、単なる人間の王ではなく、天空神ホルスの化身であり、生きながらにして神であると見なされました。ファラオは、政治・軍事・宗教のすべてを司る絶対的な権力者であり、その統治は神の意志そのものであるとする「神権政治」が行われました。
エジプトの歴史は、強力な中央集権体制が維持された時代(古王国、中王国、新王国)と、ファラオの権威が衰え、地方勢力が乱立した混乱期(中間期)とが、交互に繰り返される形で展開します。
- 古王国時代(紀元前27世紀頃 – 紀元前22世紀頃): ファラオの権力が頂点に達した最初の繁栄期であり、「ピラミッド時代」とも呼ばれます。首都メンフィスを中心に、クフ王、カフラー王、メンカウラー王の三大ピラミッドがギザの地に建設されたのはこの時代です。巨大なピラミッドは、ファラオの絶大な権力と、それを支える高度な統治機構、天文学、測量技術、そして労働力を動員する能力の証左です。
- 中王国時代(紀元前21世紀頃 – 紀元前18世紀頃): テーベ(現在のルクソール)を都として再統一され、国内の安定と繁栄を取り戻しました。しかし、末期には、西アジアから馬と戦車(チャリオット)をもたらした遊牧民ヒクソスの侵入を受け、一時的に支配されるという屈辱を経験します。
- 新王国時代(紀元前16世紀頃 – 紀元前11世紀頃): ヒクソスを追放して再び統一を回復したエジプトは、この時代に最も強大な帝国を築き上げました。トトメス3世やラメセス2世といった偉大なファラオたちは、シリアやヌビア(現在のスーダン)へ積極的に遠征を行い、その版図を最大に広げました。カルナック神殿やルクソール神殿、そして「王家の谷」に代表される壮麗な神殿や墓が建設され、アメンホテプ4世(イクナートン)によるアトン一神教の宗教改革といった、特異な出来事もこの時代に起こりました。
1.3. 宗教、文字、そして文化
古代エジプト人の世界観は、その隅々にまで宗教的な観念が浸透していました。
- 多神教と死生観: エジプトの宗教は、太陽神ラーを中心とする、極めて多くの神々を崇拝する多神教でした。中でも特徴的なのが、来世への強い信仰です。エジプト人は、死後の世界で魂が永遠に生き続けるためには、肉体が保存されることが不可欠であると考えました。この思想から、遺体を乾燥させて保存処理を施すミイラ作りの技術が発達しました。死者は、『死者の書』と呼ばれる来世への案内書と共に埋葬され、冥界の神オシリスによる審判を受け、心臓が真実の羽根よりも軽ければ、永遠の生命を得られると信じられていました。
- 文字(ヒエログリフ): エジプト人は、神殿の壁や公的な記録のために、神聖文字(ヒエログリフ)と呼ばれる、精巧な絵文字を使用しました。この文字は、1799年にナポレオン軍の兵士によって発見されたロゼッタ=ストーンを手がかりに、19世紀にフランスのシャンポリオンによって解読されました。日常的な記録には、ヒエログリフを簡略化した民衆文字(デモティック)や神官文字(ヒエラティック)が、パピルスと呼ばれる植物の茎から作られた紙の一種に書かれました。
- 科学技術: ナイル川の氾濫を正確に予測する必要性から、エジプトでは早くから天文学が発達し、1年を365日とする太陽暦が作られました。これは、現在の暦の原型となっています。また、氾濫のたびに流されてしまう畑の境界を引き直す必要性から、測量術と幾何学が発達し、これがピラミッドのような巨大建造物の正確な設計と建設を可能にしました。
紀元前7世紀以降、アッシリア、アケメネス朝ペルシア、そしてアレクサンドロス大王の侵攻を受け、エジプトは次第に外国の支配下に置かれるようになります。最終的に、紀元前30年、女王クレオパトラ7世の死をもってプトレマイオス朝が滅亡し、ローマ帝国の属州となったことで、古代エジプト文明はその独立した歴史に幕を閉じました。しかし、その豊かな文化遺産は、人類共通の至宝として、ナイルの岸辺に永遠の輝きを放ち続けています。
2. クシュ王国とアクスム王国
古代エジプト文明の輝かしい光は、ナイル川を遡った南方、すなわち現在のスーダン北部からエチオピアにかけての地域にも及び、そこに独自の高度な文明の発展を促しました。エジプトの南に位置したクシュ王国(ヌビア)は、金や象牙の供給地として、また時にはエジプトを征服するほどの強大なライバルとして、エジプトと密接な関係を築きました。さらに南東、紅海に面したエチオピア高原に栄えたアクスム王国は、インド洋交易の十字路として繁栄し、アフリカで最も早くキリスト教を受容した国の一つとして、独自の文化を花開かせました。これらの王国の歴史は、古代アフリカが、ナイル川や紅海を通じて、地中海世界やアジアと深く結びついた、ダイナミックな世界であったことを物語っています。
2.1. クシュ王国:黒いファラオの国
エジプト人がヌビアと呼んだ地域、ナイル川中流域(アスワンからハルツームにかけて)は、古くからアフリカ内陸の金、象牙、黒檀、そして奴隷をエジプトへ供給する、重要な交易の中継地でした。この地に、エジプト文明の強い影響を受けながら、独自の文化を持つ黒人王国、クシュ王国が興りました。
- エジプトとの関係: クシュ王国の歴史は、エジプトとの複雑な関係の歴史でもあります。エジプトの中王国・新王国時代、ヌビアはエジプトの支配下に置かれ、その文化や宗教(アメン神信仰など)を広く受け入れました。エジプトの神殿がヌビアにも建設され、現地の支配者層はエジプトの文字や慣習を学びました。
- エジプト第25王朝: エジプトの新王国が衰退し、混乱期に入ると、立場は逆転します。紀元前8世紀、クシュ王国の王ピアンキは、ナイル川を下ってエジプト全土を征服し、自らがファラオとして即位しました。これに始まる王朝は、エジプト史において第25王朝、あるいはヌビア王朝と呼ばれています。クシュの王たちは、自らをエジプト文化の正統な後継者・復興者と見なし、古王国時代の伝統に倣って、故郷のヌビアに小規模ながらピラミッドを建設しました。このため、彼らは「黒いファラオ」とも称されます。しかし、彼らのエジプト支配は長くは続かず、紀元前7世紀にオリエントから侵攻してきたアッシリアの鉄製武器の前に敗れ、ヌビアへと撤退しました。
- メロエ王国と鉄の生産: エジプトから撤退した後、クシュ王国は都を、より南方のナパタからメロエへと移しました。メロエ時代(紀元前6世紀 – 紀元後4世紀)のクシュ王国は、エジプトの影響から次第に脱却し、独自の文化を発展させます。独自の線文字であるメロエ文字が創られ、ライオンの頭を持つアペデマク神など、土着の神々が崇拝されるようになりました。特に重要なのが、メロエがアフリカにおける鉄の一大生産地となったことです。周辺地域で産出される鉄鉱石と、燃料となる豊富な森林資源を利用して、メロエでは大規模な製鉄が行われました。ここで生産された鉄製品は、クシュ王国の軍事力と経済力を支え、ナイル川やサハラを越える交易路を通じて、アフリカの他の地域へも広まっていったと考えられています。このため、メロエは、アフリカ内陸への鉄器文化の伝播において、重要な役割を果たしたとされています。
メロエ王国は、4世紀頃に、東方から台頭してきたアクスム王国によって滅ぼされ、その歴史に幕を閉じました。
2.2. アクスム王国:紅海交易とキリスト教の国
現在のエチオピア北部、ティグレ地方の高原地帯に、紀元前後にアクスム王国が興りました。この王国は、地理的に極めて恵まれた位置にありました。紅海に面した港アドゥリスを拠点とし、ナイル川流域のアフリカ内陸部と、紅海・インド洋を結ぶ交易路の結節点を支配したのです。
- 交易による繁栄: アクスム王国は、アフリカ内陸から集められる象牙、金、香料、奴隷などを輸出し、ローマ帝国やインド、ペルシアからは、織物、ぶどう酒、金属製品などを輸入する、中継貿易によって大きな富を築きました。ギリシア語が交易の公用語として広く使われ、独自の金貨や銀貨も鋳造されました。その繁栄の様子は、当時のローマの著述家によっても記録されています。
- 巨大石柱(オベリスク): アクスムの繁栄を象arctする遺物が、首都アクスムの地に林立する、巨大な石柱(ステラ、オベリスク)です。これらは、一枚岩から削り出されたもので、大きいものでは高さ30メートルを超え、王の墓標、あるいは権力の象徴として建てられたと考えられています。その表面には、高層建築を模した精巧な彫刻が施されており、アクスムの高度な石工技術と、強大な王の権力を示しています。
- キリスト教の受容: 4世紀半ば、アクスム王国のエザナ王の治世に、この国は歴史的な転換点を迎えます。シリアからやってきた宣教師フルメンティウスの影響で、エザナ王がキリスト教に改宗し、キリスト教を国教と定めたのです。これにより、アクスム王国は、アルメニアに次いで、世界で最も早くキリスト教を国家の宗教として受け入れた国の一つとなりました。アクスムが受容したのは、エジプトのコプト教会と同じく、単性論(イエス・キリストの神性のみを認める)の教義を持つキリスト教でした。7世紀にイスラーム勢力がエジプトや北アフリカを征服し、紅海沿岸に進出すると、アクスム王国はイスラーム世界の中に孤立することになります。しかし、彼らはイスラームへの改宗を拒み、独自のキリスト教信仰を頑なに守り続けました。このアクスム王国の伝統は、後の中世エチオピア帝国へと受け継がれ、今日に至るまで続くエチオピア正教会の基礎を築きました。
アクスム王国は、7世紀以降、イスラーム勢力との競合によって紅海交易の拠点を失い、次第に衰退していきます。しかし、クシュ王国とアクスム王国の歴史は、アフリカ大陸が古代から孤立していたわけではなく、ナイル川、紅海、インド洋といったルートを通じて、地中海世界やアジア世界と活発に交流し、その中で独自の高度な文明を育んでいたことを、雄弁に物語っているのです。
3. 西アフリカのサハラ交易国家
サハラ砂漠。広大で灼熱のこの大砂漠は、北アフリカと、サハラ以南のブラックアフリカとを隔てる、越えがたい障壁のように思えます。しかし、歴史上、サハラ砂漠は障壁であると同時に、二つの異なる世界を結びつける壮大な「海」でもありました。この「砂の海」を渡る隊商(キャラバン)交易、すなわちサハラ交易を支配することによって、8世紀から16世紀にかけての西アフリカ、現在のマリ、モーリタニア、ニジェールなどにまたがるサバンナ地帯(スーダン地方)に、ガーナ、マリ、ソンガイという、強大で豊かなイスラーム帝国が次々と興亡しました。これらの国家の繁栄は、アフリカ大陸に独自の黒人イスラーム文明が花開いたことを示しています。
3.1. サハラ交易:黄金と塩の道
サハラ交易が本格的に発展する上で、決定的な役割を果たしたのが、4世紀頃に北アフリカに導入されたラクダでした。乾燥に強く、長距離の移動に耐えることができるラクダは、「砂漠の舟」として、サハラ砂漠を越える大規模な隊商交易を可能にしたのです。
この交易の根幹をなしたのが、二つの重要な商品の交換でした。
- 南の黄金: 西アフリカの森林地帯(現在のガーナやギニアのあたり)では、豊富な金が産出されました。しかし、この地域では岩塩が採れず、生命維持に不可欠な塩は極めて貴重でした。
- 北の岩塩: 一方、サハラ砂漠の中のタガザなどのオアシスでは、岩塩が豊富に産出されました。
この「南の金」と「北の塩」を交換することが、サハラ交易の最大の目的でした。北アフリカのベルベル人の商人たちは、サハラの岩塩をラクダの背に乗せて南へ運び、西アフリカの黒人たちが採掘した金と、ほぼ同じ重量で交換したと言われています。これに加えて、北からは織物、馬、銅製品、武器などが、南からは象牙や奴隷などが商品として運ばれました。
3.2. ガーナ王国(8世紀頃 – 11世紀)
このサハラ交易の富を独占することで、西アフリカに最初に現れた強大な国家が、ガーナ王国です。首都をクンビ=サレーに置いたとされるこの王国は、北アフリカと西アフリカを結ぶ交易路の結節点を支配下に置き、交易品、特に金と塩の取引に厳しい関税を課すことで、莫大な富を蓄積しました。
ガーナの王は、金の採掘地そのものを支配していたわけではありませんでしたが、金の輸出を完全に管理し、大きな金塊はすべて王が所有し、砂金のみが交易を許されたと言われています。アラブの地理学者の記録によれば、ガーナ王の宮殿は金で飾られ、王は金の装身具を身につけ、金の鎖で繋がれた犬を従えるなど、その富は伝説的なものでした。
ガーナ王国は、土着の宗教を信仰していましたが、交易を通じて北アフリカからやってきたイスラーム商人の影響を受け、イスラーム教が徐々に広まっていきました。しかし、11世紀に、北アフリカで勃興したイスラーム原理主義的なベルベル人の王朝、ムラービト朝の攻撃を受けて衰退し、滅亡しました。
3.3. マリ帝国(13世紀 – 15世紀)
ガーナ王国の滅亡後、西アフリカの覇権を握ったのが、ニジェール川上流域から興ったマリンケ人のマリ帝国です。マリ帝国は、ガーナの旧領土を遥かにしのぐ広大な領域を支配し、サハラ交易を再び活性化させ、その最盛期を現出させました。
マリ帝国の名を不朽のものとしたのが、14世紀前半の王マンサ・ムーサです。敬虔なイスラーム教徒であった彼は、1324年から1325年にかけて、メッカへの巡礼(ハッジ)を行いました。数万の従者と、数百頭のラクダに満載した莫大な黄金を伴った彼の巡礼団は、カイロに立ち寄った際に、市場にあまりにも多くの金を施したため、エジプトの金相場が暴落し、その後10年以上にわたって回復しなかったという逸話が残っています。この出来事は、ヨーロッパの地図制作者にも伝わり、当時の地図には、金の王笏を持つマンサ・ムーサの姿が描かれるようになりました。これにより、「黄金の国マリ」の名は、遠くヨーロッパにまで知れ渡ることになりました。
マンサ・ムーサは、メッカからの帰途、多くのイスラーム学者や建築家を伴って帰国し、帝国の主要都市であるトンブクトゥやジェンネに、壮麗なモスクや大学を建設しました。特にトンブクトゥは、サハラ交易の経済的な中心地であるだけでなく、西アフリカにおけるイスラーム学問の最高学府として、世界中から学者が集まる文化的な中心地としても栄えました。
3.4. ソンガイ帝国(15世紀 – 16世紀)
マリ帝国が内紛によって衰退すると、その東方、ニジェール川中流域のガオを拠点とするソンガイ帝国が台頭し、西アフリカ最後の、そして最大の帝国を築き上げました。
ソンガイ帝国は、スンニ・アリ王の時代に軍事的な拡大を遂げ、イスラーム教を国教として統治体制を整備したアスキア・ムハンマド王の時代に最盛期を迎えました。その領土は西アフリカの広大な範囲に及び、トンブクトゥは引き続き学問の中心地として繁栄を続けました。
しかし、16世紀末、ソンガイ帝国の繁栄は、予期せぬ方向からの攻撃によって、あっけなく終焉を迎えます。北アフリカのモロッコが、サハラ交易の利権を狙い、ヨーロッパから導入した鉄砲で武装した軍隊を、サハラ砂漠を越えて派遣したのです。剣や槍といった伝統的な武器しか持たないソンガイの軍隊は、鉄砲の前に為す術なく敗れ去り、帝国は崩壊しました。
モロッコによる支配も長続きせず、その後の西アフリカは、政治的な統一を失い、多くの小国家が乱立する時代へと入っていきます。そして、大航海時代以降、ヨーロッパ人が大西洋岸に交易拠点を築くと、交易の中心はサハラを越えるルートから、大西洋沿岸へと移っていき、かつてサハラ交易に栄えた内陸の帝国は、次第に歴史の表舞台から姿を消していきました。
4. スワヒリ都市とインド洋交易
西アフリカの内陸部で、サハラ砂漠を越える隊商交易によって巨大な帝国が栄えていた頃、大陸の反対側、東アフリカのインド洋沿岸では、全く異なる形の、国際色豊かな文明が花開いていました。インド洋を渡る季節風(モンスーン)を利用した海上交易によって、アフリカ、アラビア半島、ペルシア、インド、さらには中国までをも結ぶ広大な交易ネットワークが形成され、その結節点として、多くの港湾都市国家が繁栄しました。この地域で生まれた、アフリカのバントゥー文化とイスラーム文化が融合した独自の文化は「スワヒリ文化」と呼ばれ、その担い手たちが暮らした都市は、コスモポリタンな活気に満ち溢れていました。
4.1. インド洋の季節風(モンスーン)と海上交易
インド洋の海上交易の歴史は古く、古代ローマの時代から、ギリシア人やアラブ人の船乗りたちが、季節風を利用して、紅海からインド洋沿岸を航海していました。『エリュトゥラー海案内記』という1世紀頃にギリシア語で書かれた航海案内書にも、東アフリカ沿岸の港や交易品についての記述が見られます。
この交易を可能にしたのが、**季節風(モンスーン)**の存在です。インド洋では、季節によって風向きがほぼ正反対に変わります。11月から翌年3月頃までは、北東からの風が吹くため、アラビア半島やインドからアフリカへ向かう航海が容易になります。逆に、4月から9月頃までは、南西からの風が吹くため、アフリカからアラビア半島やインドへ戻る航海が順風となります。
この規則的な風のサイクルを利用して、アラブ人やペルシア人の商人たちは、「ダウ船」と呼ばれる三角帆の木造船を操り、インド洋を横断する定期的な交易を行いました。彼らは、東アフリカ沿岸に数ヶ月間滞在し、現地の産物を買い付け、風向きが変わるのを待って故郷へ帰っていきました。
4.2. スワヒリ文化の形成
8世紀以降、イスラーム帝国が拡大し、インド洋交易がさらに活発化すると、多くのアラブ人やペルシア人のイスラーム商人が、東アフリカ沿岸に移住し、現地のバントゥー系アフリカ人と交易を行うようになりました。彼らは現地の女性と結婚し、定住するようになり、長い時間をかけて両者の血と文化は混じり合っていきました。
こうして生まれたのが、独自の「スワヒリ文化」です。
- スワヒリ語: スワヒリ文化を象徴するのが、スワヒリ語です。その文法的な骨格は、アフリカのバントゥー諸語に属しますが、語彙にはアラビア語からの借用語が非常に多く含まれています。当初はアラビア文字で表記されていましたが、現在ではラテン文字で書かれます。「スワヒリ」という言葉自体が、アラビア語で「海岸(サワーヒル)」を意味する言葉に由来します。
- イスラーム教: スワヒリの人々は、イスラーム教を共通の宗教として受け入れました。海岸沿いの都市には、石造りのモスクが数多く建設され、イスラーム法(シャリーア)が社会の規範となりました。
- 都市生活: 彼らは、アフリカ内陸部の村落とは異なる、石やサンゴで家を建てる都市型の生活様式を営んでいました。
このように、スワヒリ文化は、アフリカの文化を基盤としながら、イスラーム・アラブ文化の要素を色濃く取り入れた、混血的で国際的な性格を持つ文化でした。
4.3. 都市国家の繁栄
12世紀から15世紀にかけて、東アフリカ沿岸には、北のモガディシュ(現在のソマリア)から、マリンディ、モンバサ(現在のケニア)、ザンジバル、キルワ(現在のタンザニア)、ソファラ(現在のモザンビーク)に至るまで、数多くのスワヒリ都市国家が点在し、その最盛期を迎えました。
これらの都市は、統一した帝国を形成せず、それぞれがスルタン(王)によって統治される、独立した政治単位でした。彼らの富の源泉は、アフリカ内陸部から集められる産物を、インド洋を越えてやってくる商人たちに売る、中継貿易でした。
- 輸出品: アフリカ内陸からは、ジンバブエ高原で産出される金、象牙、鉄、そして奴隷などが、キャラバンによって海岸の都市へ運ばれました。
- 輸入品: アラビア半島やペルシアからは、綿織物や絨毯、インドからはビーズや香辛料、そして遠く中国からは陶磁器(青磁や白磁)がもたらされました。東アフリカ沿岸の遺跡からは、大量の中国陶磁の破片が発見されており、当時の交易がいかに広範囲にわたるものであったかを物語っています。
これらの都市国家の中で、特に繁栄を極めたのがキルワです。14世紀にこの地を訪れた大旅行家イブン・バットゥータは、その旅行記『三大陸周遊記』の中で、キルワを「世界で最も美しい町の一つ」と称賛しています。キルワのスルタンは、内陸のソファラを支配下に置き、ジンバブエからの金の輸出を独占することで莫大な富を築き、精巧なドームを持つモスクや、サンゴ石で建てられた壮麗な宮殿を建設しました。
4.4. ポルトガルの到来と衰退
15世紀末、スワヒリ都市国家の平和と繁栄は、予期せぬ闖入者によって、突然終わりを告げます。1498年、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられたポルトガルの艦隊が、喜望峰を回ってインド洋に到達し、東アフリカ沿岸に姿を現したのです。
インド航路の確保と、香辛料貿易の独占を目指すポルトガル人は、スワヒリ都市の富に目をつけました。彼らは、圧倒的な火力を持つ大砲で武装しており、伝統的なダウ船しか持たないスワヒリの都市は、その攻撃の前に全く無力でした。ポルトガルは、キルワやモンバサといった主要な港を次々と砲撃・占領し、その交易を武力で支配下に置きました。
ポルトガルの目的は、既存の交易ネットワークに参加することではなく、それを破壊して自らが独占することでした。彼らの過酷な支配と搾取によって、インド洋交易は混乱し、かつて繁栄を誇ったスワヒリの都市国家群は、急速に衰退していきました。こうして、数世紀にわたって続いた、平和な共存と交易に基づくコスモポリタンな文明は、ヨーロッパの軍事力の前に、その輝きを失っていったのです。
5. モノモタパ王国
アフリカ大陸の歴史を語る際、エジプトや西アフリカのサハラ交易国家、東アフリカのスワヒリ都市国家に光が当てられる一方で、サハラ以南の内陸部、特に南部アフリカの歴史は見過ごされがちです。しかし、この地域にも、15世紀から17世紀にかけて、広大な領域を支配し、豊かな鉱物資源を背景に国際交易とも結びついた、強力な王国が存在しました。それが、現在のジンバブエとモザンビークにまたがる高原地帯に栄えたモノモタパ王国です。この王国の歴史は、その前身である大ジンバブエの壮大な石造建築と共に、南部アフリカに高度な社会組織と独自の文化が存在したことを力強く証明しています。
5.1. 前身としての「大ジンバブエ」
モノモタパ王国のルーツは、11世紀から15世紀にかけて、同じジンバブエ高原に繁栄した、巨大な石造建築で知られる「大ジンバブエ」に遡ります。ショナ語で「石の家」を意味する「ジンバブエ」は、この地域に点在する石造遺跡の総称であり、その中でも最大規模を誇るのが「大ジンバブエ遺跡」です。
- 石造建築: この遺跡は、精密に切り出された花崗岩のブロックを、漆喰などを一切使わずに積み上げた「空積み」の技法で建設されています。遺跡は、丘の上の「アクロポリス」、谷間の「神殿」、そして高さ10メートル、周囲250メートルに及ぶ巨大な円形の壁を持つ「グレート・エンクロージャー(大囲壁)」から構成されています。これほど巨大で精巧な石造建築を築き上げるには、高度な建築技術だけでなく、多数の労働力を組織し、動員することができる、強力な政治権力と、それを支える安定した社会経済基盤が存在したことを示唆しています。
- 経済基盤: 大ジンバブエの繁栄を支えたのは、周辺地域で豊富に産出される金と、牧畜(牛)、そして農業でした。彼らは、内陸の金を採掘し、それを東海岸のスワヒリ商人たちが支配する港ソファラへと運び、インド洋を越えてもたらされるインドのガラスビーズや中国の陶磁器などと交換しました。大ジンバブエ遺跡からは、これらの外来の遺物が多数出土しており、この内陸の王国が、インド洋の広大な交易ネットワークに深く組み込まれていたことを物語っています。
15世紀頃、大ジンバブエは、その衰退の原因についてはいまだ多くの謎が残されていますが(気候変動や資源の枯渇などが説として挙げられています)、放棄されました。そして、その政治的な中心は、北方のザンベジ川流域へと移っていきました。
5.2. モノモタパ王国の成立と繁栄
大ジンバブエの文化的・政治的伝統を受け継ぎ、15世紀半ばにジンバブエ高原の北部からザンベジ川流域にかけて建国されたのが、ショナ人の一派によって築かれたモノモタパ王国です。
- 「ムウェネ・ムタパ」: 「モノモタパ」という名称は、この王国の支配者の称号であった「ムウェネ・ムタパ」が、ポルトガル人によって訛って伝えられたものです。この称号は、「征服された土地の主」あるいは「属州の主」といった意味を持つとされ、王の強大な権力を示しています。王は、神聖な存在と見なされ、その権威は、祖先崇拝と結びついた宗教的な儀式によって支えられていました。
- 交易による富: モノモタパ王国の経済もまた、大ジンバブエと同様に、金の採掘と交易に大きく依存していました。王国は、広大な領域に点在する金の鉱山を支配下に置き、採掘された金を、ザンベジ川を下って東海岸のソファラやキリマネといった港へ運び、スワヒリ商人を介して、インド洋の交易ネットワークへと供給しました。金だけでなく、象牙も重要な輸出品でした。これらの交易によって得られた富が、王の権力と宮廷の繁栄を支えました。16世紀初頭にこの地を訪れたポルトガル人の記録には、モノモタパ王の宮廷が、象牙や金で豪華に飾られていた様子が記されています。
5.3. ポルトガル人の介入と衰退
16世紀初頭、ポルトガル人がインド洋に進出し、東アフリカ沿岸のスワヒリ都市を支配下に置くと、彼らはその富の源泉である、内陸の金の産地に関心を抱くようになります。ポルトガル人は、スワヒリ商人に代わって、内陸の金交易を直接支配しようと試み、ザンベジ川を遡ってモノモタパ王国の領内へと侵入し始めました。
当初、ポルトガル人は、モノモタパ王国と通商条約を結び、交易拠点を築くなど、比較的平和な関係を保っていました。しかし、次第に彼らは、王国の後継者争いなどの内政に介入し、自らに都合の良い人物を王位に就けようと画策するようになります。彼らは、銃器を提供して内乱を煽り、王国を内部から弱体化させていきました。
17世紀、ついにモノモタパ王国は、ポルトガルの軍事侵攻を受け、その属国となることを余儀なくされました。王はポルトガルへの金の貢納を約束させられ、国内の鉱山の採掘権もポルトガル人に奪われました。これにより、王国の経済基盤は崩壊し、王の権威は失墜しました。
さらに、南からロズウィ王国という新たな勢力が台頭し、モノモタパ王国の領土を侵食し始めます。ポルトガルの搾取と、新たな敵の出現という、内外からの圧力によって、かつて南部アフリカに君臨した強大な王国は、17世紀末には完全に崩壊し、歴史の舞台から姿を消しました。
モノモタパ王国の興亡は、ヨーロッパの勢力がアフリカの内陸部にまでその影響を及ぼし、既存の政治・経済秩序をいかに破壊していったかを示す、初期の典型的な事例と言えるでしょう。その歴史は、南部アフリカにも独自の力強い文明が存在したことを示すと同時に、ヨーロッパとの接触が、この大陸に悲劇的な結末をもたらす前兆でもあったのです。
6. 奴隷貿易の破壊的影響
15世紀後半から19世紀にかけて、アフリカ大陸は、二つの異なる方向から、かつてない規模の奴隷貿易という巨大な渦に巻き込まれました。一つは、大航海時代以降にヨーロッパ人が主導し、アメリカ大陸のプランテーション経済と結びついた「大西洋奴隷貿易」。もう一つは、それ以前から存在し、19世紀に最盛期を迎えた、アラブ商人やスワヒリ商人が主導し、中東やインド洋世界へと奴隷を供給した「インド洋奴隷貿易」および「サハラ横断奴隷貿易」です。これらの奴隷貿易、特に規模において圧倒的であった大西洋奴隷貿易は、数世紀にわたってアフリカ社会の人口構造、政治、経済、そして人々の精神に、回復しがたいほど深刻で破壊的な影響を及ぼしました。
6.1. 人口構造への打撃
奴隷貿易がアフリカに与えた最も直接的で明白な影響は、深刻な人口の喪失でした。
- 規模: 大西洋奴隷貿易だけでも、約400年間に、少なくとも1200万人のアフリカ人が、生きたままアメリカ大陸へ「輸出」されたと推定されています。これは、航海の途中で命を落とした数百万人を含まない数字です。これにインド洋やサハラを越えて連れ去られた人々を加えると、その総数はさらに膨れ上がります。
- 質の高い労働力の喪失: 奴隷として求められたのは、プランテーションでの過酷な労働に耐えうる、最も若く、健康で、強壮な男女でした。つまり、社会の生産と再生産を担うべき、最も重要な層が、世代から世代へと継続的に奪われ続けたのです。これは、アフリカ社会の発展にとって、計り知れない損失でした。
- 男女比の不均衡: アメリカ大陸のプランテーションでは、男性の労働力への需要が高かったため、男性が女性の約2倍の割合で連れ去られました。これにより、アフリカの多くの地域で深刻な男女比の不均衡が生じ、伝統的な家族制度や社会構造が大きく揺らぎました。
この長期にわたる人口の流出と、それに伴う社会の活力の低下は、同時代にヨーロッパやアジアが人口増加と経済発展を遂げていたのとは対照的に、アフリカ大陸が長期的な停滞に陥る大きな原因となりました。
6.2. 政治・社会の不安定化
奴隷貿易は、アフリカの政治秩序を根底から覆し、社会を恒常的な暴力と不信の状態に陥れました。
- 銃の流入と軍事化: ヨーロッパの奴隷商人は、奴隷を獲得するための対価として、アフリカの沿岸の王や首長に、大量の銃や火薬を供給しました。銃を手に入れた国家は、軍事的に優位に立ち、奴隷狩りを目的として近隣の部族を攻撃するようになります。攻撃された側も、自衛のためには、自らが奴隷狩りを行ってでも銃を手に入れるしかなく、こうして、奴隷狩りのための戦争が、アフリカ大陸の広範囲で自己増殖的に拡大していくという、悪循環が生まれました。
- 奴隷狩り国家の台頭: この過程で、奴隷貿易に積極的に協力することで強大化する国家が現れました。西アフリカのダホメ王国やアシャンティ王国、コンゴ川流域のコンゴ王国などがその例です。これらの国家の経済は、奴隷の捕獲と輸出に完全に依存するようになり、その社会は極度に軍事化されました。国家の指導者たちは、自らの権力と富を維持するために、国民や周辺の民族を商品として売り渡すことに、もはや何の躊躇も感じなくなっていきました。
- 社会の荒廃と不信感の増大: 恒常的な戦争と奴隷狩りは、村々を焼き払い、農地を荒廃させ、正常な経済活動を不可能にしました。人々は、いつ隣人や見知らぬ者に襲われ、奴隷として売り飛ばされるか分からないという、絶え間ない恐怖の中で生活しなければなりませんでした。これは、社会の内部における信頼関係を破壊し、民族間の対立や憎悪を助長しました。19世紀のヨーロッパ人探検家たちは、この奴隷貿易によって荒廃したアフリカの惨状を目の当たりにし、それを「アフリカの後進性の証拠」と見なしましたが、それは皮肉にも、ヨーロッパ人自身が作り出した状況だったのです。
6.3. 経済発展の阻害
奴隷貿易は、アフリカの正常な経済発展の道を完全に閉ざしてしまいました。
- 現物経済の停滞: ヨーロッパから流入したのは、銃やラム酒、ガラス玉といった、生産性の向上には全く寄与しない消費財ばかりでした。アフリカは、最も価値のある「人的資源」を輸出し、その見返りに安価な工業製品を受け取るという、極めて不平等な交易構造に組み込まれました。これにより、アフリカ内部での手工業や農業技術の発展が阻害され、経済は停滞しました。
- 従属的な経済構造の確立: 奴隷貿易を通じて、アフリカは、ヨーロッパの産業資本主義のシステムの中に、原料(人的資源)の供給地として、従属的な形で組み込まれていきました。この構造は、19世紀後半に奴隷貿易が廃止された後も、形を変えて存続します。奴隷に代わって、パーム油、ラッカセイ、ゴムといった、ヨーロッパの工業に必要な農産物や林産物を生産するモノカルチャー経済が、アフリカに強制されることになるのです。
奴隷貿易がアフリカに残した傷跡は、あまりにも深く、広範囲にわたるものでした。それは、単なる人口の喪失に留まらず、社会の構造、政治のあり方、経済の発展、そして人々の心の中にまで、永続的な影響を及ぼしました。19世紀後半、ヨーロッパ列強がアフリカを分割し、植民地化を進めた際、彼らが遭遇したのは、奴隷貿易によってすでに深く疲弊し、分断されたアフリカでした。この悲劇的な遺産は、現代アフリカが抱える政治的・経済的な多くの問題の、遠い、しかし確かな起源となっているのです。
7. 19世紀の探検とアフリカ分割
19世紀半ばまで、ヨーロッパ人にとってアフリカ大陸の大部分は、沿岸部を除いて、地図上に空白が広がる「暗黒大陸」でした。しかし、19世紀後半、産業革命を背景としたヨーロッパの国力が飛躍的に増大する中で、宣教師、探検家、そして商人が、次々とアフリカ内陸部の探検に乗り出しました。彼らがもたらした地理的な知識と資源に関する情報は、ヨーロッパ列強のアフリカへの関心を一気に高め、それはやがて、わずか20年ほどの間に、アフリカ大陸のほぼ全土がヨーロッパ諸国の植民地として分割されてしまうという、人類史上前例のない領土争奪戦、すなわち「アフリカ分割」へと発展しました。
7.1. 内陸部への「探検」の時代
19世紀のアフリカ内陸探検を象徴する人物が、イギリスの宣教師であり探検家でもあったデイヴィッド・リヴィングストンです。彼は、キリスト教の布教と、非人道的な奴隷貿易の実態を告発することを目的として、30年近くにわたってアフリカ南部から中央部を探検し、ヴィクトリアの滝を「発見」し、ザンベジ川やコンゴ川の源流を調査しました。彼の探検報告は、ヨーロッパの人々の地理的好奇心と、アフリカへの人道主義的な関心をかき立てました。
リヴィングストンが探検の途中で消息を絶つと、アメリカの新聞社『ニューヨーク・ヘラルド』は、探検家のヘンリー・スタンリーを派遣して、彼の捜索に当たらせました。1871年、タンガニーカ湖畔でリヴィングストンを発見した際の、「リヴィングストン博士でいらっしゃいますか?(Dr. Livingstone, I presume?)」というスタンリーの言葉は、あまりにも有名です。
リヴィングストンの死後、スタンリーは探検を引き継ぎ、コンゴ川の全流域を踏破するという偉業を成し遂げました。しかし、彼の探検は、リヴィングストンのような人道主義的な動機よりも、商業的な可能性の探求という側面が強いものでした。スタンリーは、コンゴ盆地の豊かな資源(ゴムや象牙)に目をつけ、この地域の植民地化を熱心に説きました。彼の活動に注目したのが、ベルギー国王のレオポルド2世でした。彼は、スタンリーを雇い入れ、コンゴ川流域の現地の首長たちと、その土地の支配権を譲渡させるという、詐欺的な内容の条約を次々と結ばせました。
7.2. アフリカ分割の動機(新帝国主義)
1880年頃から、ヨーロッパ列強のアフリカ進出は、突如として激しい領土獲得競争の様相を呈します。この「新帝国主義」と呼ばれる動きの背景には、いくつかの複合的な動機がありました。
- 経済的動機: 産業革命が進展したヨーロッパ諸国は、自国の工業製品を売り込むための新たな市場と、機械を動かすための原料(ゴム、綿花、パーム油、鉱物資源など)の安定した供給地を、国外に求めるようになりました。アフリカは、この二つの要求を満たす、最後の巨大な未開拓地と見なされました。
- 政治的・戦略的動機: 統一を達成したばかりのドイツやイタリアといった新興国も加わり、ヨーロッパの国際政治は、激しい勢力均衡のゲームの様相を呈していました。海外に植民地を所有することは、**国威(ナショナル・プレステージ)**を高め、国際的な発言力を増すための重要な要素と考えられました。また、スエズ運河のような、本国とアジアの植民地(特にイギリスにとってのインド)を結ぶ重要な海上交通路(シーレーン)を確保するため、その周辺地域を戦略的に支配する必要性も高まりました。
- 思想的・文化的動機: 当時のヨーロッパでは、社会ダーウィニズム(ダーウィンの進化論を人間社会に適用し、適者生存の論理で強者の支配を正当化する思想)が広まっていました。多くのヨーロッパ人は、自らの白色人種が、有色人種よりも優れており、劣った民族を「文明化」し、キリスト教化することは、**「白人の責務(White Man’s Burden)」**であると本気で信じていました。この人種差別的な傲慢さが、侵略行為を道徳的に正当化しました。
7.3. ベルリン会議と「地図上の分割」
列強によるアフリカでの領土争奪戦が激化し、コンゴ川流域を巡る対立が深刻化すると、紛争を避けるための国際的なルール作りが必要となりました。1884年から1885年にかけて、ドイツの宰相ビスマルクの提唱で、ベルリン会議が開催されました。
この会議には、イギリス、フランス、ドイツ、ベルギー、ポルトガルなど、ヨーロッパの14カ国とアメリカが参加しましたが、アフリカ人は一人も招かれませんでした。会議では、アフリカ分割に関する以下の原則が合意されました。
- コンゴ川流域の自由航行: 誰でも自由に交易ができることを確認した。
- 奴隷貿易の禁止: 人道的なポーズとして、奴隷貿易を禁止することが謳われた。
- 先占権の原則(実効支配): アフリカの沿岸部を新たに領有した国は、その領有を他の調印国に通告し、領域内の秩序を維持するのに十分な権力を確立していること(実効支配)を証明すれば、その土地の領有権が認められる。
この「実効支配」の原則は、列強によるアフリカ内陸部への進出競争を、むしろ加速させる結果を招きました。各国は、少しでも広い土地を自国の領土として確保するため、先を争って内陸部へ軍隊や役人を送り込み、現地の首長に保護条約への署名を強制しました。
その結果、アフリカの国境線は、ヨーロッパの会議室のテーブルの上で、現地の民族分布、言語、文化、そして地理的な特徴を完全に無視して、経線や緯線に沿った直線的なものが多く引かれました。これにより、一つの民族が複数の植民地に分断されたり、互いに敵対する民族が、一つの植民地の中に無理やり押し込められたりする事態が、大陸の至る所で発生しました。この人為的で不自然な国境線は、独立後のアフリカ諸国が抱える、深刻な民族紛争や国境問題の、直接的な原因となったのです。
1914年までに、第一次世界大戦の勃発までに、アフリカ大陸で独立を維持できたのは、アメリカの解放奴隷が建国したリベリアと、イタリアの侵攻を一度は撃退したエチオピアの、わずか二カ国だけとなってしまいました。アフリカは、文字通りヨーロッパ列強によって、ケーキのように切り分けられてしまったのです。
8. 植民地支配の形態
19世紀末の「アフリカ分割」によって、アフリカ大陸のほぼ全土はヨーロッパ列強の支配下に置かれました。植民地を獲得した宗主国は、それぞれの国益と統治哲学に基づき、多様な形態で植民地支配を行いました。これらの支配方式は、大きく、フランスなどが採用した「直接統治」と、イギリスが主に行った「間接統治」に大別することができます。しかし、その形態がどうであれ、植民地支配の本質は、アフリカの人的・物的資源を宗主国のために搾取し、現地の社会と文化をヨーロッパの価値観の下に再編成することにありました。この支配の経験は、アフリカ社会に、今日まで続く深い構造的変化と、多くの傷跡を残しました。
8.1. 直接統治:同化政策と中央集権
フランス、ベルギー、ポルトガル、ドイツなどが採用したのが「直接統治」と呼ばれる方式です。
- 統治の理念(同化政策): 直接統治の背景には、「文明化の使命」という思想が色濃くありました。フランスは、自国の優れた文化、言語、そして共和制の理念をアフリカ人に教え込み、彼らを「黒いフランス人」へと**同化(assimilation)**させることを、統治の理想としました。この理念に基づき、現地の伝統的な政治制度や法体系は、基本的に否定され、フランス本国の法律や行政システムが、そのまま植民地に持ち込まれました。
- 統治の構造: 宗主国は、本国から多数の官僚や軍人を植民地へ派遣し、植民地政府の頂点から末端の地方行政に至るまで、すべての行政機構を直接的に管理・運営しました。現地の伝統的な首長(王や族長)の権威は認められず、彼らは単なる宗主国の行政官の手先として、あるいは完全に排除されました。植民地は、本国の一部である海外県や海外領土として位置づけられ、強力な中央集権的な支配が行われました。
- 教育と言語: 同化政策の一環として、フランス語による教育が推進されました。一部のエリート層には、フランス本国への留学の道も開かれ、彼らの中から、宗主国の価値観を内面化した、現地の協力者層が育成されました。しかし、この「同化」の機会は、ごく一握りのエリートに限定されており、大多数のアフリカ人は、二級市民として差別的な扱いの下に置かれました。
直接統治は、植民地に強力な中央集権国家の枠組みをもたらしましたが、その一方で、現地の伝統的な社会構造や政治文化を根こそぎ破壊し、人々のアイデンティティを深く傷つけました。
8.2. 間接統治:伝統的支配者の利用
主にイギリスが、ナイジェリアやウガンダなどで採用したのが「間接統治」と呼ばれる方式です。
- 統治の理念(プラグマティズム): 間接統治は、フランスのような高邁な理念よりも、むしろ、広大な植民地を、できるだけ少ないコストと人員で、効率的に支配するという、極めて現実主義的(プラグマティック)な発想から生まれました。イギリスは、現地の社会や文化を尊重する姿勢を(少なくとも表向きには)示し、既存の政治・社会構造を、そのまま植民地支配の道具として利用しようとしました。
- 統治の構造: イギリスは、植民地に総督などの少数の高等弁務官を置くのみで、実際の地方行政は、現地の伝統的な首長(スルタン、王、族長など)に委ねました。首長たちは、イギリスの監督の下で、自らの伝統的な権威を用いて、民衆から税を徴収し、労働力を動員し、治安を維持する役割を担いました。これにより、イギリスは、直接的な支配に伴うコストと、民衆からの反発を最小限に抑えることができました。
- 問題点: しかし、この間接統治も、多くの深刻な問題を生み出しました。
- 権力の固定化と変質: イギリスは、自らにとって都合の良い首長を選んで支援し、その権力を絶対的なものとして固定化しました。本来、伝統社会では長老たちの合議や民衆の支持によって抑制されていた首長の権力が、植民地政府の後ろ盾を得て、専制的なものへと変質してしまいました。
- 「部族」意識の創出: イギリスの統治官は、アフリカの複雑で流動的な社会を、自分たちに理解しやすい、固定的な「部族(トライブ)」という単位に分類・整理しようとしました。この過程で、本来は存在しなかった、あるいは希薄であった「部族」という意識が人為的に創り出され、特定の「部族」を優遇する分割統治政策(divide and rule)と相まって、後の民族対立の火種が蒔かれることになりました。ルワンダにおける、ベルギー(当初はドイツ)がツチ族を優遇し、フツ族との対立を煽った例は、その悲劇的な帰結を示しています。
8.3. 植民地経済の本質:モノカルチャーと搾取
統治の形態に違いはあれど、その経済的な本質は、いずれの植民地においても、宗主国の利益のための搾取であるという点で共通していました。
- モノカルチャー経済: 植民地政府は、宗主国の産業が必要とする特定の商品作物の生産を、アフリカの人々に強制しました。西アフリカではカカオやラッカセイ、東アフリカでは綿花やコーヒー、コンゴではゴムといった形で、地域全体が単一の作物(モノカルチャー)の生産に特化させられました。これにより、伝統的な自給自足の食料生産システムは破壊され、アフリカ経済は、国際市場の価格変動に極めて脆弱な、宗主国に依存する構造へと変えられてしまいました。
- 資源の収奪: ベルギー領コンゴでは、国王レオポルド2世の私有地として、ゴムや象牙が、現地住民への残虐な強制労働によって収奪されました。南アフリカや南ローデシア(ジンバブエ)では、金やダイヤモンド、銅といった鉱物資源が、ヨーロッパの資本によって開発され、その富は、アフリカ人労働者の低賃金労働を犠牲にして、ヨーロッパへと流出していきました。
- インフラ整備の目的: 植民地政府は、鉄道や港湾といったインフラの整備も行いました。しかし、これらの鉄道は、内陸部の鉱山やプランテーションと、産物を船積みする港とを、一直線に結ぶためだけに建設されたものであり、アフリカ内部の地域間の経済的な結びつきを強めることには、ほとんど貢献しませんでした。
植民地支配は、アフリカを世界経済のシステムに強制的に組み込みましたが、それは常に、宗主国を頂点とする、不平等で従属的な関係性においてでした。この経験は、独立後のアフリカ諸国が、自立的な国民経済を建設する上で、極めて重い負の遺産となったのです。
9. アフリカの独立運動
20世紀前半、ヨーロッパ列強による植民地支配の下で、アフリカの人々は過酷な搾取と差別に苦しんでいました。しかし、この支配に対する抵抗の意志が、消え去ることはありませんでした。第一次・第二次世界大戦という二つの世界大戦は、宗主国の力を著しく弱め、植民地支配の正当性を揺るがしました。この歴史的な好機を捉え、欧米で学んだ新世代のアフリカ人指導者たちを中心に、ナショナリズムの炎が燃え上がり、大陸全土で独立を求める運動が力強く展開されました。そして1960年の「アフリカの年」を頂点として、アフリカ諸国は次々と独立を達成し、国際社会の新たな一員として、その歩みを開始したのです。
9.1. ナショナリズムの萌芽
アフリカにおける近代的なナショナリズムの思想は、皮肉にも、植民地支配そのものの中から生まれました。
- 西欧教育を受けたエリート層: 宗主国は、植民地統治の補助的な役人を育成するため、ごく一部のアフリカ人に、欧米式の教育の機会を与えました。彼らは、ヨーロッパやアメリカの大学に留学し、そこで自由、平等、民主主義、そして民族自決といった、西洋近代の理念を学びました。しかし、彼らが故郷に帰った時、そこで目にしたのは、それらの理念とは全く相容れない、人種差別と抑圧の現実でした。この理想と現実のギャップが、彼らを植民地支配からの解放を目指す、ナショナリズムの指導者へと変えていきました。ガーナのエンクルマ、ケニアのケニヤッタ、セネガルのサンゴール、タンザニアのニエレレなどが、その代表的な存在です。
- パン・アフリカニズム: 20世紀初頭から、アメリカやカリブ海に住むアフリカ系知識人たち(デュボイスやマーカス・ガーヴィなど)を中心に、「パン・アフリカニズム」という思想が提唱されました。これは、人種的な連帯に基づき、世界中のアフリカ系の人々(ディアスポラを含む)の解放と、アフリカ大陸の統一を目指す運動です。パン・アフリカ会議が、欧米の主要都市で繰り返し開催され、アフリカ大陸のナショナリストたちに、大きな思想的影響と国際的な連帯の意識を与えました。
9.2. 第二次世界大戦の影響と独立への道
アフリカの独立運動が、第二次世界大戦後に一気に加速した背景には、いくつかの重要な要因があります。
- 宗主国の疲弊: 二度にわたる世界大戦、特に第二次世界大戦は、イギリスやフランスといった主要な宗主国を経済的に疲弊させ、もはや広大な海外植民地を維持する国力を失わせました。
- 植民地支配の権威の失墜: 戦争中、多くのアフリカ人兵士が、宗主国の軍隊の一員として、ヨーロッパやアジアの戦線で戦いました。彼らは、そこで「無敵」であるはずの白人が、殺し合い、敗北する姿を目の当たりにし、ヨーロッパ文明の優越性という神話が崩れ去るのを経験しました。
- 国際世論の変化: 第二次世界大戦後、国際連合が設立され、その憲章では「人民の同権及び自決の原則の尊重」が謳われました。また、新たに世界の超大国となったアメリカとソ連が、それぞれの思惑から、旧来のヨーロッパによる植民地主義に反対する姿勢を示したことも、独立運動にとって追い風となりました。
- アジアの独立: 1947年のインドの独立は、アフリカのナショナリストたちに、巨大な帝国からの独立が可能であるという、大きな希望とインスピレーションを与えました。
独立への道は、国や宗主国によって、大きく二つの異なる様相を呈しました。
- 平和的な独立(主にイギリス・フランス植民地): 第二次世界大戦後、労働党政権下のイギリスは、植民地の独立を容認する方針へと転換しました。1957年、エンクルマに率いられたゴールドコーストが、サハラ以南のアフリカで最初にガーナとして独立を達成すると、これが他の植民地の独立への大きな弾みとなりました。フランスも、ド・ゴール政権の下で、植民地の独立を認める方向にかじを切りました。その結果、1960年には、フランス共同体からの13カ国を含む、17もの国々が次々と独立を達成し、この年は「アフリカの年」と呼ばれています。
- 武力闘争による独立(入植者の多い植民地): 一方で、白人入植者(セトラー)が多く居住し、彼らが政治的・経済的な特権を失うことを恐れた地域では、独立は激しい武力闘争(独立戦争)を伴いました。
- アルジェリア: フランスからの100万人を超える入植者がいたアルジェリアでは、民族解放戦線(FLN)が、1954年から8年間にわたる壮絶な独立戦争を戦い、多大な犠牲の末に、1962年に独立を勝ち取りました。
- ポルトガル植民地: ポルトガルは、アンゴラ、モザンビーク、ギニアビサウといった植民地の独立を最後まで認めようとせず、長期にわたる独立戦争が続きました。これらの植民地が独立を達成したのは、1974年にポルトガル本国で独裁政権が倒れるクーデター(カーネーション革命)が起こった後のことでした。
- ケニア: 白人入植者が肥沃な土地を独占していたケニアでは、「マウマウ団の反乱」と呼ばれる、激しい抵抗運動が起こりました。
- 南ローデシア(ジンバブエ): 少数の白人入植者政権が、一方的に独立を宣言し、多数の黒人を支配する体制を維持しようとしましたが、黒人ゲリラ組織との長い内戦の末、1980年に黒人主導のジンバブエとして独立しました。
9.3. 独立後の課題
輝かしい独立を達成したアフリカ諸国でしたが、その前途は、植民地支配が残した負の遺産によって、多くの困難に満ちていました。
- 人為的な国境線: 植民地時代に引かれた不自然な国境線は、そのまま独立国家の国境となり、多くの国で深刻な民族紛争や内戦の原因となりました。
- 経済的従属: 独立後も、経済は依然として旧宗主国に依存し、特定の一次産品の輸出に頼るモノカルチャー経済から脱却することはできませんでした(新植民地主義)。
- 政治的不安定: 議会制民主主義が導入されたものの、国民国家としての経験の浅さや、民族対立を背景に、多くの国でクーデターが頻発し、軍事独裁政権や、特定の個人が長期にわたって権力を握る個人独裁体制へと陥りました。
アフリカの独立は、長い苦難の歴史の終わりであると同時に、自立した国家を建設するための、新たな挑戦の始まりでもあったのです。
10. アパルトヘイトとその撤廃
アフリカ諸国が次々と独立を達成し、人種差別的な植民地支配からの解放を祝っていた20世紀後半、大陸の最南端に位置する南アフリカ共和国では、時代に逆行するように、世界で最も残酷で体系的な人種差別制度が法制化され、強化されていきました。それが「アパルトヘイト」です。アフリカーンス語で「分離、隔離」を意味するこの政策は、少数の白人が、圧倒的多数の非白人(黒人、カラード、アジア系)を、政治的、経済的、社会的に、そして空間的に、徹底的に支配し、隔離するための国家的なシステムでした。この非人道的な体制に対する、ネルソン・マンデラをはじめとする人々の粘り強い闘いと、国際社会からの圧力は、20世紀後半における人権闘争の最も象徴的な物語の一つとなりました。
10.1. アパルトヘイトの成立
南アフリカの複雑な人種社会の起源は、17世紀にオランダからの移民(ボーア人、後のアフリカーナー)が入植したことに始まります。その後、イギリスがケープ植民地を支配し、19世紀末の南アフリカ戦争(ボーア戦争)を経て、1910年に、イギリス系とアフリカーナーの白人が支配する南アフリカ連邦が成立しました。
白人支配層は、当初から非白人に対する差別的な政策を実施していましたが、それが国家の基本理念として体系化されたのは、1948年の総選挙で、アフリカーナーのナショナリズムを掲げる国民党が勝利してからです。彼らは、白人(特にアフリカーナー)の優位性を永遠に確保するため、「アパルトヘイト」と呼ばれる、極端な人種隔離政策を次々と法制化していきました。
アパルトヘイトは、主に二つのレベルで実施されました。
- ミクロ・アパルトヘイト( petty apartheid): 日常生活のあらゆる場面における、人種間の接触を禁じるための、屈辱的な差別政策です。公共の施設(バス、公園のベンチ、トイレ、病院、学校など)は、すべて白人用と非白人用に厳格に分離されました。異人種間の結婚や恋愛も、法律で固く禁じられました。
- グランド・アパルトヘイト(Grand Apartheid): 国土全体を人種に基づいて分割し、黒人を政治的な領域から完全に排除するための、より大規模な政策です。
- 人口登録法: 全国民を「白人」「カラード(混血)」「アジア系(主にインド系)」「バンツー(黒人)」の4つの人種に分類し、登録することを義務付けた。
- 集団地域法: 人種ごとに居住地を厳密に指定し、都市部の一等地は白人居住区とされ、多くの非白人が、先祖代々の土地から強制的に立ち退かされました。
- バンツー・ホームランド(バンツー諸国)法: 南アフリカの国土のわずか13%の、痩せた不毛な土地を、黒人のための10の「ホームランド(祖国)」として指定しました。政府は、すべての黒人を、出身の「部族」に基づいていずれかのホームランドの「国民」と見なし、彼らから南アフリカ共和国の国籍を剥奪しました。これにより、黒人は、自らが生まれ育った国において、出稼ぎに来ている「外国人労働者」という法的地位に貶められました。ホームランドは、名目上は「独立国」とされましたが、国際社会からは承認されず、実態は、安価な労働力を供給するための、巨大な隔離居住区に過ぎませんでした。
- パス法: すべての黒人は、身分証明書(パス)の携帯を義務付けられ、許可なく白人居住区に立ち入ることは厳しく制限されました。パス不携帯は、即座に逮捕・投獄の対象となりました。
10.2. 反アパルトヘイト闘争
この非人道的な体制に対して、アフリカ民族会議(ANC)を中心とする、黒人解放組織による抵抗運動が粘り強く続けられました。
- 非暴力抵抗の時代: 当初、ANCは、ガンディーの非暴力主義に影響を受け、デモやボイコットといった、平和的な手段でアパルトヘイトへの抗議を行っていました。しかし、1960年、パス法に反対する平和的なデモ隊に対して、警察が無差別に発砲し、69人の死者を出したシャープビル虐殺事件が起こると、状況は一変します。
- 武装闘争への転換: シャープビル事件を機に、政府はANCを非合法化し、弾圧を強化しました。これに対し、ANCの若き指導者であったネルソン・マンデラらは、もはや平和的な手段だけでは解放は勝ち取れないと判断し、ANCの軍事部門「ウムコント・ウェ・シズウェ(民族の槍)」を組織し、武装闘争へと転換しました。しかし、1962年にマンデラは逮捕され、国家反逆罪で終身刑を宣告され、ケープタウン沖のロベン島に投獄されました。
- 闘争の継続と国際社会の圧力: マンデラが獄中にあっても、反アパルトヘイト闘争の火は消えませんでした。1976年には、黒人居住区ソウェトで、アフリカーンス語の教育強制に反対する学生たちのデモから始まったソウェト蜂起が起こり、国内外に大きな衝撃を与えました。国際社会でも、アパルトヘイトへの非難が日増しに高まっていきました。国連は、南アフリカに対する武器の禁輸や、経済制裁を決議しました。また、オリンピックやサッカーのワールドカップといった、スポーツの世界からも南アフリカは追放され、文化的な交流も断絶されるなど、国際的な孤立が深まっていきました。
10.3. アパルトヘイトの終焉と「虹の国」へ
1980年代末、南アフリカの白人政府は、国内外からの圧力によって、もはやアパルトヘイト体制の維持が不可能であると認識するようになります。経済制裁は国内経済に深刻な打撃を与え、黒人居住区の反乱は恒常化していました。
1989年に大統領に就任した、国民党のデクラークは、歴史的な改革へと踏み切ります。1990年2月、彼は、ANCの非合法化を解き、そして、27年半もの間、獄中にあったネルソン・マンデラを無条件で釈放するという、世界を驚かせる決断を下しました。
釈放されたマンデラは、復讐ではなく、白人との「和解」を呼びかけ、デクラーク大統領と共に、アパルトヘイト後の新たな国家建設に向けた、困難な交渉を開始しました。1991年、アパルトヘイト関連法は、ついに全て撤廃されました。
そして1994年4月、南アフリカ史上初めて、全ての人種が参加する、民主的な総選挙が実施されました。この選挙でANCは圧勝し、ネルソン・マンデラが、南アフリカ初の黒人大統領に就任しました。就任演説で、マンデラは、多様な人種と文化が共存する「虹の国(Rainbow Nation)」の建設を誓いました。
アパルトヘイトの撤廃は、人間の尊厳と平等の理念が、最も絶望的に見える状況下でも、不屈の闘いによって勝利を収めることができることを示した、20世紀の偉大な成果です。しかし、その後の南アフリカは、アパルトヘイトが残した、深刻な経済格差、高い失業率、犯罪といった、多くの負の遺産と、今なお向き合い続けています。
Module 15:アフリカ大陸の総括:「人類の揺りかご」から「希望の大陸」へ――苦難の歴史を乗り越える力
本モジュールを通じて、私たちは「暗黒大陸」という、ヨーロッパ中心主義が生んだ偏見のフィルターを取り払い、アフリカ大陸が本来持つ、豊かで重層的な歴史の深淵を覗き込んできました。その物語は、人類の文明がこの地で産声を上げた輝かしい記憶に始まり、幾多の試練と悲劇を経験しながらも、常に再生し、未来への歩みを止めなかった、人々の強靭な生命力の記録です。
ナイルのほとりのエジプト、南方のクシュやアクスム、西アフリカの黄金の帝国群、そしてインド洋に開かれたスワヒリの国際都市。植民地化以前のアフリカは、決して孤立し停滞した世界ではありませんでした。大陸の内部で、そしてサハラ砂漠や広大な海洋を越えて、人々は活発に交流し、交易し、独自の高度な文明を築き上げていました。その多様性こそが、アフリカ史の本来の豊かさの証左です。
しかし、近代世界との遭遇は、この大陸に、奴隷貿易と植民地支配という、二重の深刻な断絶をもたらしました。人的資源の流出と社会の破壊、そして経済的搾取と人為的な国境線による分断。ヨーロッパが押し付けたこの負の遺産は、独立後のアフリカ諸国が、国民国家として自立していく上で、あまりにも重い足枷となりました。民族紛争、政治的不安定、経済的従属という、現代アフリカが直面する多くの課題は、その根源をこの苦難の時代に持つものが少なくありません。
それでも、アフリカの物語は、決して受難と悲劇だけで終わるものではありません。植民地支配という屈辱の中から、人々はナショナリズムに目覚め、粘り強い闘いの末に、自らの手で独立を勝ち取りました。そして、南アフリカにおけるアパルトヘイトとの闘いは、最も非人道的な制度でさえも、人間の尊厳を求める不屈の意志の前には、いずれ崩れ去る運命にあることを、世界に示しました。
21世紀、アフリカは、かつてない人口増加と、多くの国々での目覚ましい経済成長を背景に、「最後のフロンティア」として、そして「希望の大陸」として、世界から新たな注目を集めています。もちろん、その前途には、未だ多くの課題が山積しています。しかし、人類の揺りかごとして、数千年の文明を育み、近代の最も過酷な試練を乗り越えてきたこの大陸の人々が持つ、底知れぬレジリエンス(回復力)と創造性は、必ずやその未来を切り拓いていくことでしょう。アフリカの歴史を学ぶことは、人類の過去を深く知ることであると同時に、人類の未来の可能性を信じることに、他ならないのです。