【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 16:中東の近現代史

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本モジュールの目的と構成

アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸を結ぶ結節点に位置する中東。この地域は、古代文明の発祥地であり、ユダヤ教、キリスト教、イスラームという三大一神教の聖地として、人類の精神史に計り知れない影響を与えてきました。しかし、近現代におけるこの地域の歴史は、かつて世界を席巻したイスラーム帝国の栄光が色褪せ、内部からの衰退と、ヨーロッパ列強による外部からの圧倒的な圧力という、二重の挑戦に直面する苦難の物語でもあります。

本モジュールは、19世紀初頭のオスマン帝国の「東方問題」から筆を起こし、20世紀末のイラン革命に至るまでの中東世界の激動の歴史を、構造的に解き明かすことを目的とします。私たちは、衰退する帝国が自己改革を試みたタンジマートの苦闘、ムハンマド=アリーによるエジプトの近代化の野心、そしてスエズ運河の開通が象徴するヨーロッパによる経済的浸透の過程を追います。さらに、第一次世界大戦がいかにしてこの地域の政治地図を根底から塗り替え、トルコ革命による新たな国民国家の誕生と、今日まで続くパレスチナ問題という悲劇的な遺産を生み出したのかを検証します。

この学びを通じて、読者は、中東の近現代史を、単なる紛争の歴史としてではなく、西洋近代との対峙の中で、自らのアイデンティティを求め、独立と自尊をかけて闘い続けた人々――世俗的なナショナリスト、イスラーム改革主義者、伝統的な王族――の、多様で複雑な応答の歴史として捉え直す視座を獲得するでしょう。それは、現代世界を揺るがし続ける、石油、宗教、そしてナショナリズムが複雑に絡み合う、この地域の深層を理解するための、不可欠な知的探求です。

本モジュールは、以下の学習項目によって構成されています。

  1. まず、かつて広大な領域を支配した**オスマン帝国の衰退と「東方問題」**が、いかにしてヨーロッパ列強の介入を招く舞台となったのか、その全体像を把握します。
  2. 帝国の一地方総督でありながら、独自の近代化を強力に推進したムハンマド=アリーによるエジプトの近代化の試みとその限界を分析します。
  3. オスマン帝国自身が、帝国の延命をかけて行った上からの西欧化改革であるタンジマートの実態と、それが抱えた矛盾を深く掘り下げます。
  4. ヨーロッパの技術と資本が中東を貫いた象徴であるスエズ運河の開通が、いかにしてエジプトの財政破綻とイギリスによる支配を招いたかを解明します。
  5. 舞台をイラン(ペルシア)に移し、外国の浸透と専制に抵抗したイランの立憲革命の意義と、その挫折の過程を考察します。
  6. 中東の旧秩序を完全に破壊した第一次世界大戦とアラブの反乱、そしてその裏で交わされた列強の密約が、いかに未来の紛争の種を蒔いたかを詳述します。
  7. 帝国の灰燼の中から、アタテュルクに率いられたトルコ革命が、いかにして世俗主義を掲げる新たな国民国家を創造したのかを追います。
  8. 第一次世界大戦中のイギリスの三枚舌外交が生み出した、最も解決困難な問題であるパレスチナ問題の起源を、その原点に遡って分析します。
  9. アラビア半島を舞台に、ワッハーブ主義を掲げたイブン=サウードによるサウジアラビアの建国と、石油の発見がもたらした激変を描きます。
  10. 最後に、アメリカの強力な同盟国であったパーレヴィ朝を打倒したイラン革命が、イスラームを政治理念とする新たな国家体制をいかに樹立し、世界に衝撃を与えたかを検証します。

このモジュールは、帝国の崩壊から国民国家の形成へ、そして西洋化とイスラームの復興という二つの潮流の間で揺れ動いた、中東の人々の苦闘と選択の物語です。


目次

1. オスマン帝国の衰退と「東方問題」

16世紀のスレイマン1世の治世に最盛期を迎えたオスマン帝国は、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広大な領域を支配し、ヨーロッパキリスト教世界にとって最大の脅威と見なされていました。しかし、17世紀末の第二次ウィーン包囲の失敗を転機として、帝国の力は長期にわたる、構造的な衰退の過程に入ります。19世紀になると、この巨大な帝国の衰退と、それに伴う領土の解体を巡って、ヨーロッパ列強の利害が複雑に絡み合う、一連の国際問題が生じました。これが、いわゆる「東方問題」です。オスマン帝国は、自らの意思とは無関係に、列強の外交ゲームの駒となり、「ヨーロッパの瀕死の病人」と揶揄されるほどの苦境に立たされました。

1.1. 帝国の内的衰退

オスマン帝国の衰退は、外部からの圧力だけでなく、深刻な内部の構造的問題によって引き起こされていました。

  • 軍事技術の立ち遅れ: かつてヨーロッパを震撼させたオスマン帝国の軍事力、特に火器で武装した常備歩兵軍団イェニチェリは、時代と共にその優位性を失いました。ヨーロッパで軍事革命が進展し、戦術や兵器が日進月歩で改良されていく一方、オスマン軍は旧態依然としたままでした。さらに、かつては精鋭であったイェニチェリは、次第に既得権益化し、世襲化して、しばしばスルタンの改革に反対し、反乱を起こす政治的な圧力団体へと変質していました。
  • 統治システムの硬直化: スルタンを頂点とする中央集権的な統治システムも、帝国の拡大が停止すると、その綻びが露呈し始めました。有能なスルタンが輩出されなくなり、宮廷では宦官や母后が政治に介入して腐敗が蔓延しました。地方では、徴税を請け負うアーヤーンと呼ばれる地方有力者が力をつけ、中央政府の統制が次第に及ばなくなっていきました。
  • 経済の停滞: 16世紀以降、大航海時代によって、アジアとヨーロッパを結ぶ新たな海上交易路(喜望峰ルート)が開かれると、オスマン帝国が独占していた伝統的な地中海経由の東西交易(中継貿易)は、その重要性を失い、帝国の商業的利益は大きく損なわれました。さらに、アメリカ大陸から流入した安価な銀が、帝国内に激しいインフレーションを引き起こし、経済を混乱させました。ヨーロッパで産業革命が起こると、安価な機械製の工業製品が大量に流入し、帝国内の伝統的な手工業(ギルド)は壊滅的な打撃を受けました。

1.2. 外部からの圧力と領土の縮小

内部の衰退と並行して、オスマン帝国は、強大化したヨーロッパ列強からの絶え間ない軍事的・政治的圧力に晒されました。

  • ロシアの南下政策: ロシア帝国は、不凍港を求めて黒海方面への南下政策を執拗に追求し、18世紀を通じてオスマン帝国と繰り返し戦争を行いました。1774年のキュチュク=カイナルジ条約は、オスマン帝国にとって屈辱的なもので、黒海北岸のクリミア=ハン国の独立(後のロシアによる併合)を認めさせられ、黒海の制海権を失いました。さらに、ロシアは、オスマン帝国内のギリシア正教徒の保護権を口実として、内政干渉を繰り返すようになりました。
  • バルカン半島におけるナショナリズムの台頭: フランス革命によってヨーロッパに広まったナショナリズムの思想は、オスマン帝国が支配するバルカン半島の諸民族(ギリシア人、セルビア人、ルーマニア人など)の間にも伝播しました。彼らは、オスマン帝国の支配からの独立を目指して、次々と反乱を起こすようになります。1821年に始まったギリシア独立戦争には、イギリス、フランス、ロシアが介入し、1829年、ギリシアは独立を達成しました。これは、帝国内のキリスト教徒臣民が、ナショナリズムによって初めて独立を勝ち取った事例であり、他のバルカン諸民族の独立運動をさらに刺激することになりました。

1.3. 「東方問題」と列強の思惑

「東方問題」とは、このように衰退していくオスマン帝国の領土と利権を、ヨーロッパ列強が、自国の国益のために、いかにして分割し、あるいはその勢力バランスを維持するかという、複雑な外交的駆け引きの総称です。

各列強は、それぞれ異なる思惑を抱いていました。

  • ロシア: 南下政策を国是とし、オスマン帝国を解体して、その首都イスタンブル(コンスタンティノープル)と、黒海から地中海へ抜けるボスポラス・ダーダネルス両海峡の支配権を掌握することを、最終的な目標としていました。また、汎スラヴ主義を掲げ、バルカン半島の独立運動を積極的に支援しました。
  • イギリス: ロシアの地中海進出を、自国のインドへの海上交通路(シーレーン)に対する重大な脅威と見なしていました。そのため、ロシアの南下を阻止することを外交の最優先課題とし、オスマン帝国の「領土保全」を支持するという、一貫した立場を取りました。つまり、イギリスは、オスマン帝国を、ロシアの南下を防ぐための「防波堤」として、延命させようとしたのです。
  • フランス: ナポレオンのエジプト遠征以来、地中海東部に関心を持ち、特にエジプトやシリアにおけるカトリック教徒の保護を口実として、影響力の拡大を狙っていました。
  • オーストリア: ロシアと同様に、バルカン半島への進出を狙っており、特にボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合に関心を持っていました。そのため、ロシアの汎スラヴ主義を警戒しつつ、オスマン帝国の弱体化に乗じて、自国の領土を拡大しようとしました。

これらの列強の利害が衝突したのが、クリミア戦争(1853年-1856年)です。ロシアが、聖地管理権問題を口実にオスマン帝国に侵攻すると、オスマン帝国の「領土保全」を掲げるイギリスとフランスがオスマン帝国側について参戦し、ロシアは敗北しました。この戦争は、オスマン帝国がもはや自力で領土を維持できず、その運命が完全に列強の思惑によって左右される存在であることを、世界に知らしめる結果となりました。この絶望的な状況の中で、オスマン帝国の支配者たちは、帝国の生き残りをかけた、必死の近代化改革へと乗り出していくことになるのです。


2. ムハンマド=アリーによるエジプトの近代化

オスマン帝国が「瀕死の病人」として衰退の一途を辿っていた19世紀前半、帝国の版図の内部から、その宗主権を脅かし、独自の近代化を強力に推進して、一時は中東に独立した大帝国を築き上げようとした、傑出した人物が現れました。それが、エジプト総督ムハンマド=アリーです。彼は、オスマン帝国の一兵士から身を起こし、ナポレオン軍撤退後の混乱に乗じてエジプトの実権を掌握すると、富国強兵をスローガンに掲げ、西欧の技術と制度を積極的に導入する、上からの徹底的な近代化改革を断行しました。彼の試みは、非西欧世界における、最初の本格的な近代化の試みとして、後のオスマン帝国のタンジマートや日本の明治維新にも影響を与えましたが、最終的にはヨーロッパ列強の介入によって、その野望は挫折を余儀なくされました。

2.1. 権力の掌握

ムハンマド=アリーは、オスマン帝国領内のマケドニア(現在のギリシア北部カヴァラ)で、アルバニア系のイスラーム教徒の家に生まれました。彼は、1798年にナポレオンがエジプトに遠征してきた際に、それを撃退するために派遣されたオスマン帝国の軍隊の一員として、初めてエジプトの土を踏みました。

フランス軍が1801年に撤退した後、エジプトは、オスマン帝国から派遣された総督、旧来の支配者層であるマムルーク、そして現地のイスラーム知識人(ウラマー)といった、様々な勢力が権力を争う、混乱状態に陥りました。ムハンマド=アリーは、この混乱の中で、アルバニア人部隊の司令官として、巧みな政治的手腕と軍事力を発揮し、ライバルを次々と排除していきました。彼は、カイロの民衆やウラマーの支持を取り付け、1805年、ついにオスマン帝国のスルタンから、エジプト総督(パシャ)の地位を公認させられました。その後、残存するマムルーク勢力を一掃し、エジプトにおける絶対的な支配権を確立しました。

2.2. 富国強兵のための改革

エジプトの支配者となったムハンマド=アリーの目標は、単にオスマン帝国の一地方総督に留まることではなく、エジプトを自立した強大な国家にし、自らの子孫が世襲する王朝を築くことでした。その目的を達成するために、彼は「富国強兵」を至上命題とし、あらゆる分野で、ヨーロッパ(特にフランス)をモデルとした、急進的な改革を推進しました。

  • 軍事改革: 彼の改革の核心は、西欧式の近代的な常備軍の創設でした。彼は、フランス人の軍事顧問(セーヴ、後のスレイマン=パシャ)を雇い入れ、エジプトの農民(ファッラー)を徴兵して、ヨーロッパ式の訓練と装備を施した、規律ある新しい陸軍と海軍を創り上げました。この近代的な軍隊が、彼の権力と対外進出の最大の支えとなりました。
  • 行政・財政改革: 強大な軍隊を維持するためには、莫大な財源が必要でした。ムハンマド=アリーは、旧来の徴税請負制を廃止し、全国の土地を事実上国有化して、国家が直接税を徴収する、中央集権的な財政システムを確立しました。これにより、国家の歳入は飛躍的に増大しました。また、行政機構も、ヨーロッパの省庁制度を模倣して再編され、効率的な官僚支配が目指されました。
  • 産業の育成(殖産興業): 彼は、武器や軍服を自給するため、国営の兵器工場や紡績工場を次々と設立し、上からの工業化を試みました。また、ナイル川の灌漑事業を大規模に進め、ヨーロッパ市場で高く売れる長繊維綿やサトウキビの栽培を奨励し、それらの生産と販売を国家が独占しました。この専売制度によって、彼は莫大な利益を上げ、改革の資金源としました。
  • 教育改革: 近代的な軍隊と官僚機構を担う人材を育成するため、ヨーロッパへ数多くの留学生を派遣しました。彼らは、ヨーロッパの進んだ技術、言語、思想を学び、帰国後は、近代的な学校の教師や、政府の官僚、技術者として、エジプトの近代化に貢献しました。リファーア・アッ=タフターウィーのように、留学経験を通じて、ヨーロッパの近代思想をアラブ世界に紹介した知識人も現れました。

2.3. 対外進出と列強の介入

近代的な軍事力を手に入れたムハンマド=アリーは、その力を背景に、積極的な対外膨張政策に乗り出しました。

  • オスマン帝国への協力と自立: 彼は、宗主国であるオスマン帝国のスルタンの要請に応じ、アラビア半島で勃興したワッハーブ王国を討伐し、ギリシア独立戦争では、反乱鎮圧のために軍隊を派遣しました。しかし、ギリシア独立戦争で、彼の近代的なエジプト海軍が、イギリス・フランス・ロシアの連合艦隊によってナヴァリノの海戦で壊滅させられると、彼はオスマン帝国に見切りをつけ、自らの帝国を築く道を選びます。
  • エジプト=トルコ戦争: ギリシア派兵の代償として要求したシリアの領有を、スルタンが拒否すると、ムハンマド=アリーは、息子イブラーヒームを総司令官とする軍隊をシリアへ侵攻させました(第一次エジプト=トルコ戦争、1831年-1833年)。エジプト軍は、旧態依然としたオスマン軍を各地で破り、シリア全土を征服し、その勢いはオスマン帝国の首都イスタンブルにまで迫りました。

このムハンマド=アリーの台頭は、ヨーロッパ列強、特にイギリスにとって、深刻な脅威と映りました。イギリスは、ロシアの南下を防ぐためにオスマン帝国の「領土保全」を国策としており、ムハンマド=アリーによる独立帝国の樹立は、オスマン帝国を崩壊させ、地域の勢力バランスを覆しかねない事態だったからです。また、ムハンマド=アリーの国家独占による貿易政策は、イギリスが推進する自由貿易の原則とも相容れないものでした。

1839年、再びオスマン帝国との間で第二次エジプト=トルコ戦争が勃発し、エジプト軍がまたもや圧勝すると、イギリスは、オーストリア、プロイセン、そして宿敵であるはずのロシアまでも誘い、ムハンマド=アリーに対する武力介入を行いました。この列強の圧倒的な軍事力の前に、ムハンマド=アリーも屈服せざるを得ませんでした。

1840年のロンドン条約により、彼は、シリアをはじめとする征服地をすべてオスマン帝国に返還し、軍備を大幅に縮小させられました。その代償として、彼の一族によるエジプトとスーダンの総督位の世襲が認められました。これにより、ムハンマド=アリー朝が成立し、名目上はオスマン帝国の主権下にありながらも、事実上の半独立国家として、1952年のエジプト革命まで続くことになります。

ムハンマド=アリーの野心的な近代化の試みは、最終的にヨーロッパ列強の壁に阻まれました。しかし、彼の改革は、エジプトを中東における先進的な地域大国へと押し上げ、その後のエジプト史の方向性を決定づける、大きな画期となったのです。


4. スエズ運河の開通

19世紀半ば、産業革命によって世界の工場となったイギリスをはじめとするヨーロッパ諸国にとって、アジア、特に広大な市場と原料の供給地であるインドとの間の交通時間を短縮することは、死活的に重要な課題でした。地中海と紅海を隔てる、わずか160キロメートルほどのスエズ地峡に運河を建設するという構想は、古代エジプトの時代から存在しましたが、それを近代的な技術と巨大な資本によって実現させたのが、1869年のスエズ運河の開通です。この運河は、世界の海上交通に革命をもたらし、「世界の幹線航路」として繁栄しました。しかしその一方で、運河の建設は、エジプトを深刻な財政破綻へと追い込み、最終的には、運河の支配権を巡るヨーロッパ列強、特にイギリスによるエジプトの植民地化を招くという、皮肉な結果をもたらしました。

4.1. レセップスと運河の建設

スエズ運河建設のプロジェクトを強力に推進したのは、フランスの元外交官、フェルディナン・ド・レセップスです。彼は、エジプト総督ムハンマド=アリーの息子サイード・パシャと旧知の間柄であったことを利用し、1854年に、運河の建設と、開通後99年間の独占的運営権を獲得しました。

1858年、レセップスは万国スエズ運河会社を設立し、株式を公募しました。株式の約半分はフランスの投資家が購入し、残りの約44%は、エジプト総督サイード自身が引き受けざるを得ませんでした。当初、イギリスは、スエズ運河の開通が、フランスの影響力を増大させ、自国のインドへのルートを脅かすものと考え、このプロジェクトに強く反対しました。

運河の建設工事は1859年に始まり、10年の歳月をかけて、極めて困難な条件下で進められました。灼熱の砂漠地帯での工事であり、初期には、数十万人のエジプト人農民が、強制労働(賦役)によって動員され、つるはしとシャベルだけという原始的な道具で、過酷な労働に従事させられました。コレラの流行や劣悪な労働環境により、多くの労働者が命を落としたと言われています。後に、ヨーロッパから最新の蒸気式掘削機が導入され、工事は加速しました。

4.2. 開通式とエジプトの財政破綻

1869年11月17日、スエズ運河は、ヨーロッパ各国の王侯貴族を招いた、壮大な開通式典と共に、華々しく開通しました。イタリアの作曲家ヴェルディは、この式典のためにオペラ『アイーダ』を作曲したことでも知られています。

スエズ運河の開通は、世界の海上交通の地図を文字通り塗り替えました。ロンドンからインドのボンベイまでの航路は、アフリカの喜望峰を回る従来のルートに比べて、距離が約40%も短縮されました。これにより、ヨーロッパとアジアの間の貿易は飛躍的に拡大し、運河は莫大な通行料収入を生み出す「金のなる木」となりました。

しかし、この栄光の影で、エジプトの国家財政は、破滅的な状況に陥っていました。サイードの後を継いだ総督イスマーイール・パシャは、スエズ運河の建設費や、豪華な開通式典の費用、そして自身の浪費と性急な近代化政策の資金を、ヨーロッパの銀行からの高利の借金で賄いました。その結果、エジプトの対外債務は雪だるま式に膨れ上がり、国家は破産の危機に瀕しました。

4.3. イギリスによる介入とエジプトの植民地化

1875年、財政的に追い詰められたイスマーイールは、苦肉の策として、エジプト政府が所有していたスエズ運河会社の株式を売りに出します。この情報をいち早く掴んだのが、イギリスの保守党首相ディズレーリでした。彼は、かつての反対の立場を百八十度転換し、議会の承認を得ずに、ロスチャイルド家から融資を受けて、エジプト所有の株式をすべて買い取りました。これにより、イギリスは、宿敵フランスと並んで、スエズ運河会社の筆頭株主となり、運河の経営に絶大な発言権を持つことになりました。ディズレーリは、この買収を「インドへの鍵を手に入れた」と誇りました。

しかし、株式の売却だけでは、エジプトの財政危機は収まりませんでした。1876年、エジプト政府はついに財政破綻を宣言します。これを機に、イギリスとフランスは、エジプトの財政を、両国の管理下に置くことを決定しました。これは、事実上の内政干渉であり、エジプトの主権を著しく侵害するものでした。

ヨーロッパによる内政干渉と、増税に苦しむ民衆の間で、外国の支配に反対するナショナリズムの感情が急速に高まっていきます。1881年、陸軍将校のウラービーが、「エジプト人のためのエジプト」をスローガンに掲げて反乱を起こし、カイロで実権を掌握しました(ウラービー革命)。彼は、憲法の制定と、外国の支配からの脱却を目指しました。

このウラービーのナショナリズム運動を、自国の利権、特にスエズ運河の安全に対する脅威と見なしたイギリスは、1882年、単独でエジプトへの軍事介入を断行しました。イギリス軍は、アレクサンドリアを砲撃し、テル=エル=ケビールの戦いでウラービーの軍隊を破り、首都カイロを占領しました。

この軍事占領により、ウラービー革命は鎮圧され、エジプトは、オスマン帝国の宗主権下に留まるという名目上の体裁を保ちながらも、事実上、イギリスの保護国となり、その植民地支配下に置かれることになりました。

スエズ運河は、エジプトの近代化の象徴となるはずでした。しかし、それは結果として、エジプトをヨーロッパの金融資本に従属させ、最終的には政治的な独立さえも奪い去る、帝国主義の強力な道具となったのです。この経験は、非西欧世界が、西欧主導のグローバル経済に組み込まれていく過程で、いかに多くの罠と危険が待ち受けているかを物語っています。


5. イランの立憲革命

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、オスマン帝国が西欧化改革(タンジマート)によって近代化を模索していた頃、その東隣に位置するイラン(当時の呼称はペルシア)のガージャール朝もまた、ロシアとイギリスという二つの帝国主義国家による、北と南からの絶え間ない圧力に晒され、国家存亡の危機に立たされていました。外国への利権譲渡を繰り返す無能な王朝と、深まる経済的従属に対する国民の不満は、やがて、専制的な王権を憲法によって制限し、議会を設立して、外国の支配から国家の独立を守ろうとする、アジアで最初の本格的な市民革命の一つである「イラン立憲革命」へと発展しました。この革命は、多くの困難の末に一時的な成功を収めますが、最終的には、国内の対立と、英露の帝国主義的介入によって、その理想を十分に実現することなく挫折しました。

5.1. 英露による「グレート・ゲーム」と利権の収奪

19世紀のイランは、北から南下政策を進めるロシアと、南からインドの安全保障を最優先するイギリスという、二つの巨大な帝国が、中央アジアの覇権を巡って繰り広げる、冷徹な戦略的角逐、いわゆる「グレート・ゲーム」の主要な舞台となりました。

ガージャール朝のシャー(国王)は、この二大国の圧力の前でなすすべもなく、次々と不平等な条約を結ばされ、領土を割譲し、国内の様々な利権を外国に売り渡すことで、王朝の延命を図りました。

  • 領土の喪失: ロシアとの二度にわたる戦争(1804年-1813年、1826年-1828年)に敗北したイランは、トルコマンチャーイ条約などにより、カフカス地方(現在のジョージア、アルメニア、アゼルバイジャン)の広大な領土をロシアに割譲させられました。
  • 経済的従属: イランは、英露両国に対して、治外法権を認め、関税自主権を喪失しました。これにより、安価なヨーロッパの工業製品が大量に流入し、イランの伝統的な手工業は大きな打撃を受けました。シャーは、自らの浪費の資金を得るため、電信、銀行、鉱山採掘、道路建設といった、国内のほとんどすべての利権を、外国の資本家に売り渡しました。

この外国による経済的収奪に対する、最初の全国的な抵抗運動が、1890年に起こったタバコ・ボイコット運動です。ナーセロッディーン・シャーが、国内のタバコの生産・販売・輸出の独占権を、イギリス人の事業家に売り渡したことがきっかけでした。これに対し、タバコ商人や、シーア派のイスラーム指導者(ウラマー)たちが中心となり、国民にタバコの不買を呼びかけました。このボイコット運動は全国的な広がりを見せ、シャーは最終的に、利権の譲渡契約を撤回せざるを得ませんでした。この成功体験は、イラン国民に、団結すれば王朝や外国の圧力にも対抗できるという自信を与え、後の立憲革命への大きな伏線となりました。

5.2. 立憲革命の勃発と憲法の制定

20世紀初頭、日露戦争(1904年-1905年)で、アジアの立憲君主国である日本が、専制国家ロシアに勝利したというニュースは、イランの知識人や改革派に大きな衝撃と希望を与えました。「アジアの国でも、憲法を持ち、近代化すれば、ヨーロッパの強国に勝てる」という認識が広まったのです。

このような状況の中、1905年、ガージャール朝の圧政と経済的苦境に対する民衆の不満が、ついに爆発します。商人、知識人、そしてタバコ・ボイコット運動でも重要な役割を果たしたシーア派ウラマーが連携し、憲法(マシュルーテ)の制定と、国民議会(マジュレス)の開設を要求する、大規模な抗議運動を開始しました。彼らは、モスクに立てこもり(バスト)、首都テヘランの市場(バザール)を閉鎖し、イギリス大使館に保護を求めてなだれ込むなど、様々な手段でシャーに圧力をかけました。

追い詰められたモザッファロッディーン・シャーは、1906年8月、ついに国民の要求を受け入れ、議会の開設を勅許し、同年12月には、王の権力を制限し、国民の基本的な権利を保障するイラン憲法が制定されました。これは、イスラーム世界において、オスマン帝国のミドハト憲法に次ぐ、本格的な憲法であり、イランの近代史における画期的な出来事でした。

5.3. 革命への反動と英露の介入

しかし、立憲革命の前途は、多くの困難に満ちていました。革命勢力の内部では、西洋的な立憲主義を主張する知識人たちと、イスラーム法(シャリーア)の優越を主張する保守的なウラマーたちとの間で、目指すべき国家像を巡る対立が早くも生じていました。

さらに、革命にとって決定的な打撃となったのが、外国からの干渉でした。イランの立憲革命と国内の混乱を、自国の勢力圏を拡大する好機と見たイギリスとロシアは、それまでの対立関係から一転して、手を結びます。1907年、両国は英露協商を締結し、イランを、北部のロシア勢力圏、南東部のイギリス勢力圏、そして中央部の緩衝地帯へと、秘密裏に分割することを合意しました。

この協商の後ろ盾を得た、新国王モハンマド・アリー・シャーは、1908年にクーデターを決行します。ロシアのコサック旅団の支援を受けて、彼は議会を砲撃し、多くの立憲派を逮捕・処刑して、憲法を停止しました。

しかし、立憲派は、タブリーズなどの地方都市を拠点に抵抗を続け、1909年にはテヘランを奪回し、シャーを退位させて、憲政を復活させることに成功しました。革命政府は、財政再建のために、アメリカ人の財政顧問モーガン・シャスターを招聘し、改革を進めようとしました。しかし、自国の勢力圏である北部イランにおける、シャスターによる徴税の動きを、内政干渉と見なしたロシアは、1911年、イランに軍隊を派遣して、シャスターの解任を要求し、議会を解散させました。

このロシアによる直接的な軍事介入と、それを黙認したイギリスの姿勢によって、イラン立憲革命は、事実上、その息の根を止められました。革命の理想は挫折し、イランは、第一次世界大戦を経て、再び外国の半植民地状態へと逆戻りしていきました。

しかし、立憲革命の経験は、イラン国民の間に、ナショナリズムと、立憲主義・議会主義への強い願望を深く刻み付けました。この記憶は、その後のイランの歴史、特に、外国の支配と専制に抵抗した、1950年代のモサッデクによる石油国有化運動や、1979年のイラン・イスラーム革命にも、形を変えて受け継がれていくことになるのです。


6. 第一次世界大戦とアラブの反乱

20世紀初頭のヨーロッパを震源地とする第一次世界大戦(1914年-1918年)は、その戦火を中東地域にも拡大し、この地の政治秩序を根底から覆す、決定的な転換点となりました。ドイツとの同盟関係から中央同盟国側として参戦したオスマン帝国は、この戦争に敗北し、数世紀にわたって続いた帝国は完全に解体されました。戦争の過程で、連合国であるイギリスは、オスマン帝国を内部から切り崩すため、アラブ人、ユダヤ人、そしてフランスという、三つの異なる相手に対して、互いに矛盾する内容の密約や宣言を乱発しました。この「三枚舌外交」は、戦後の中東に、今日まで続く深刻な対立と紛争の火種を蒔き散らす、悲劇的な結果をもたらしました。

6.1. オスマン帝国の参戦とアラブの状況

1914年に第一次世界大戦が勃発すると、青年トルコ人革命によって実権を握っていたオスマン帝国の指導者(エンヴェル・パシャら)は、長年の宿敵であるロシアと対抗するため、ドイツ・オーストリア=ハンガリーからなる中央同盟国側について参戦を決定しました。これにより、中東は、イギリス、フランス、ロシアからなる連合国との、新たな戦場となりました。

オスマン帝国のスルタンは、全世界のイスラーム教徒の精神的指導者であるカリフの地位を兼ねていたため、連合国が支配する植民地のイスラーム教徒(インドやエジプトなど)に対し、宗主国への「ジハード(聖戦)」を呼びかけました。これは、イギリスにとって大きな脅威でした。

この状況を打開するため、イギリスは、オスマン帝国内のアラブ人の間に高まっていた、トルコ人支配からの独立を目指すナショナリズムの動きに注目しました。彼らは、アラブ人を利用して、オスマン帝国を内側から攪乱しようと画策したのです。

6.2. アラブの反乱とフサイン=マクマホン協定

イギリスが協力相手として選んだのが、イスラームの聖地メッカの太守(シャリーフ)であった、ハーシム家のフサイン・イブン・アリーでした。彼は、預言者ムハンマドの直系の子孫であり、アラブ世界において高い権威を持っていました。

1915年から1916年にかけて、イギリスのカイロ駐在高等弁務官ヘンリー・マクマホンは、フサインとの間で、秘密の往復書簡を交わしました。これがフサイン=マクマホン協定です。この中で、マクマホンは、フサインがオスマン帝国に対して反乱を起こすことを条件に、戦後、パレスチナを含む、アラビア半島の大部分からなる、広大なアラブの独立国家を承認すると約束しました。

この約束を信じたフサインは、1916年6月、オスマン帝国に対して「アラブの反乱」を開始しました。彼の息子ファイサルやアブドゥッラーが率いるアラブの武装勢力は、イギリス軍の支援を受け、特にイギリスの将校**T.E.ロレンス(「アラビアのロレンス」)**の助言の下で、ヒジャーズ鉄道の破壊などのゲリラ戦を展開し、オスマン軍の背後を脅かしました。アラブの反乱は、イギリスの中東戦線を有利に進める上で、重要な貢献をしました。

6.3. イギリスの二重、三重の密約

しかし、イギリスがアラブ人に独立を約束していた、まさにその同じ時期に、イギリスは、その約束を根本から裏切る、二つの秘密の取り決めを、並行して進めていました。

  • サイクス=ピコ協定(1916年5月): イギリスは、中東における協力相手であるフランス(そしてロシアも)との間で、戦後のオスマン帝国領(アラブ地域)の分割に関する秘密協定を結んでいました。イギリスの外交官マーク・サイクスと、フランスの外交官フランソワ・ジョルジュ=ピコによってまとめられたこの協定では、アラブの独立国家の約束とは全く異なり、以下のように定められました。
    • イラクの大部分とパレスチナの地中海沿岸部は、イギリスが直接統治または勢力圏とする。
    • シリアとレバノンの沿岸部は、フランスが直接統治または勢力圏とする。
    • パレスチナの主要部分は、英仏露の国際管理下に置く。この協定の存在は、1917年にロシア革命で成立したソヴィエト政権によって暴露され、アラブ人を激怒させました。
  • バルフォア宣言(1917年11月): さらにイギリスは、戦争を有利に進めるため、全世界のユダヤ人(特に、強大な金融力を持つアメリカのユダヤ人)の支持と協力を得ることを狙いました。イギリスの外務大臣アーサー・バルフォアは、イギリスのシオニスト連盟の指導者であるロスチャイルド卿に対し、書簡を送りました。これがバルフォア宣言です。この宣言で、イギリス政府は、**「パレスチナにおけるユダヤ人のための民族的郷土(a national home for the Jewish people)の設立」**を支持し、その目標達成のために最大限の努力を払うことを約束しました。ただし、この宣言には、「パレスチナに現存する非ユダヤ人共同体(アラブ人住民を指す)の市民的及び宗教的権利が、害されることがないように」という、但し書きが付されていました。

6.4. 戦後の裏切りと混乱の始まり

こうして、イギリスは、第一次世界大戦中に、中東の一つの地域(特にパレスチナ)をめぐって、

  1. アラブ人には、独立を約束し(フサイン=マクマホン協定)、
  2. フランスには、国際管理と分割を約束し(サイクス=ピコ協定)、
  3. ユダヤ人には、民族的郷土の設立を約束する(バルフォア宣言)、

という、互いに全く相容れない、三つの約束を同時に行ってしまったのです。この矛盾に満ちた「三枚舌外交」は、イギリスの戦時下の国益を最優先した、極めて無責任なものでした。

戦争が連合国の勝利で終わると、イギリスとフランスは、アラブの独立の約束を反故にし、サイクス=ピコ協定を基に、中東地域を分割しました。サン=レモ会議(1920年)の決定に基づき、国際連盟は、イギリスにイラクとパレスチナの、フランスにシリア(レバノンを含む)の委任統治を認めました。

フサインの息子ファイサルが、ダマスカスで樹立したアラブ王国も、フランス軍によって武力で打倒されました。イギリスは、アラブ側の不満を和らげるため、ファイサルをイラク王国の、アブドゥッラーをトランスヨルダン王国の、それぞれ国王とすることで、体裁を整えようとしました。

しかし、このヨーロッパ列強による一方的な線引きと、特にパレスチナにおける、アラブ人とユダヤ人の双方の願望を無視した政策は、この地に、解決不可能な対立の構造を植え付けました。第一次世界大戦がもたらしたオスマン帝国の解体は、アラブの独立ではなく、新たな植民地支配の始まりであり、今日まで続くパレスチナ問題という、終わりの見えない悲劇の、まさに序章となったのです。


7. トルコ革命

第一次世界大戦の敗北は、600年以上にわたって存続したオスマン帝国に、完全な終焉をもたらしました。帝国の首都イスタンブルは連合国軍に占領され、スルタン政府は、国土の大部分を外国に分割されるという、屈辱的な講和条約(セーヴル条約)を受け入れざるを得ませんでした。この国家存亡の危機的状況の中で、一人の傑出した軍人指導者が立ち上がり、トルコ人のナショナリズムを結集して、侵略者である外国軍と、それに屈したスルタン政府の両方に戦いを挑みました。それが、ムスタファ・ケマル、後の「アタテュルク(トルコの父)」です。彼に率いられたトルコ革命は、祖国解放戦争を勝ち抜き、旧態依然としたオスマン帝国を打倒して、政教分離(世俗主義)を国是とする、近代的なトルコ共和国を樹立するという、イスラーム世界において前例のない、ラディカルな変革を成し遂げました。

7.1. 祖国解放戦争とスルタン制の打倒

第一次世界大戦後、連合国は、オスマン帝国の領土を、戦時中の密約に基づいて分割し始めました。特にギリシャは、イギリスの支援を受け、古代ギリシアの植民地であったアナトリア(トルコ本土)西部のイズミル地方に軍隊を上陸させ、領土拡大の野心を露わにしました。スルタン・メフメト6世の政府は、この侵略に対して、なすすべもなく、1920年8月、連合国が提示したセーヴル条約に調印しました。この条約は、アナトリア東部でのアルメニアの独立やクルド人の自治、イズミル周辺のギリシャへの割譲、海峡地帯の国際管理などを定める、トルコ人にとって到底受け入れがたい、国家の解体を意味するものでした。

この屈辱的な状況に対し、大戦中のガリポリの戦いで英雄として名を馳せた軍人、ムスタファ・ケマルは、アナトリア内陸部のアンカラに拠点を移し、トルコ国民の抵抗運動を組織し始めます。彼は、1920年4月、アンカラでトルコ大国民議会を招集し、自ら議長に就任して、スルタン政府とは別の、トルコ国民を代表する新たな政府の樹立を宣言しました。アンカラ政府は、セーヴル条約の無効を宣言し、国土を占領する外国軍、特にギリシャ軍との、全面的な祖国解放戦争に突入しました。

ケマル率いるトルコ国民軍は、ソヴィエト=ロシアからの支援も受けながら、数年にわたる激しい戦いを繰り広げ、1922年9月、ついにギリシャ軍をアナトリアから完全に駆逐することに成功しました。この軍事的な勝利によって、アンカラ政府の権威は不動のものとなり、同年11月、大国民議会は、オスマン家によるスルタン制の廃止を全会一致で決議しました。これにより、1299年から続いたオスマン帝国は、名実ともに滅亡しました。

7.2. ローザンヌ条約と共和国の樹立

祖国解放戦争の勝利を受けて、アンカラ政府は、連合国との間で新たな講和条約の交渉を開始しました。1923年7月、スイスのローザンヌで調印されたローザンヌ条約は、セーヴル条約を完全に覆す、トルコ側にとっての外交的な大勝利となりました。この条約により、

  • トルコは、アナトリア、東トラキア(イスタンブルを含むヨーロッパ側領土)からなる、現在のトルコの国境線を、国際的に承認させた。
  • ギリシャとの間での、住民交換(トルコ在住のギリシャ正教徒と、ギリシャ在住のイスラーム教徒の、大規模な強制移住)が合意された。
  • 治外法権(カピチュレーション)など、オスマン帝国時代からの不平等な経済的特権は、完全に撤廃され、トルコは完全な主権を回復した。

この外交的勝利を背景に、1923年10月29日、大国民議会は、トルコ共和国の樹立を宣言し、ムスタファ・ケマルが、その初代大統領に選出されました。首都は、帝都イスタンブルから、革命の拠点であったアンカラへと移されました。

7.3. アタテュルクの西欧化改革

初代大統領となったムスタファ・ケマルは、新生トルコを、オスマン帝国の多民族・多宗教的な帝国の理念から完全に決別し、ヨーロッパの近代国家をモデルとする、政教分離された、トルコ民族による、世俗的な国民国家へと、根本から作り変えるための、一連の急進的な改革を断行しました。彼の改革は、ケマル主義と呼ばれる六つの原則(共和主義、民族主義、人民主義、世俗主義、国家主義、革命主義)に集約されます。

  • カリフ制の廃止(1924年): 革命の最もラディカルな一歩が、スルタン制廃止後も、象徴的に存続していたカリフ制の廃止でした。これは、政治と宗教を完全に分離し、国家の正統性を、イスラームではなく、国民の主権に置くという、世俗主義の原則を確立するための、決定的な措置でした。これにより、イスラーム世界全体に大きな衝撃が走りました。
  • 法制度の改革: イスラーム法(シャリーア)に基づく裁判所を廃止し、スイスの民法、イタリアの刑法、ドイツの商法など、ヨーロッパの近代的な法典を、ほぼそのまま導入しました。これにより、一夫多妻制は禁止され、女性の権利(離婚や財産相続など)が法的に認められました。
  • 文字改革(1928年): トルコ語の表記を、伝統的なアラビア文字から、**ラテン文字(ローマ字)**へと、全面的に切り替えました。これは、識字率を向上させるという教育的な目的と同時に、アラブ・イスラーム文化圏からの脱却を象徴する、文化的な革命でした。ケマル自身が、黒板の前に立って、国民に新しい文字を教えたと言われています。
  • 服飾の改革: 伝統的なフェズ帽(トルコ帽)の着用を禁止し、ヨーロッパ風の帽子の着用を義務付けました。また、女性のスカーフ(チャドル)の着用を抑制し、洋装を奨励しました。
  • 姓の創設(1934年): 国民に、ヨーロッパ風の「姓」を持つことを義務付けました。ムスタファ・ケマル自身も、この時に、大国民議会から**「アタテュルク(父なるトルコ人)」**という姓を贈られました。

アタテュルクの改革は、上からの、極めて権威主義的な手法で進められましたが、それは、後進的なイスラーム帝国という過去の遺産を断ち切り、トルコを近代的な文明国の一員として生まれ変わらせるという、彼の強固な意志の現れでした。彼の革命と改革は、その後のトルコの国家のあり方を決定づけ、他のイスラーム諸国が近代化を目指す際の、一つの(しかし、必ずしも模倣可能ではない)モデルとなったのです。


8. パレスチナ問題の起源

現代の中東における、最も複雑で、解決が困難な紛争、それがパレスチナ問題です。この問題は、一つの土地(パレスチナ)に対して、二つの民族(ユダヤ人とアラブ人)が、それぞれ自らの民族的な故郷であるとして、その領有権と主権を主張していることに、その根源があります。この悲劇的な対立の構造は、自然発生的に生まれたものではなく、20世紀初頭、特に第一次世界大戦中から戦後にかけての、イギリスの帝国主義的な中東政策と、ヨーロッパで高まった二つのナショナリズム――シオニズムとアラブ・ナショナリズム――が、パレスチナの地で衝突することによって、人為的に作り出されたものです。

8.1. シオニズムの誕生とユダヤ人移民

ユダヤ人は、紀元1世紀にローマ帝国によって故郷パレスチナを追われて以来、世界中に離散(ディアスポラ)し、各地で少数派として生活してきました。特にヨーロッパでは、キリスト教社会から「キリストを殺した民」として、長年にわたり差別と迫害の対象となってきました。

19世紀後半、近代的なナショナリズムが高揚するヨーロッパにおいて、ユダヤ人に対する差別は、宗教的なものから、人種的な反ユダヤ主義へと変質し、特に東欧やロシアでは、「ポグロム」と呼ばれる大規模な虐殺が頻発しました。

このような状況の中、オーストリアのユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルが、1896年に『ユダヤ人国家』を著し、ユダヤ人が迫害から逃れ、他の民族と対等に生きるためには、自らの民族国家を建設するしかないと訴えました。そして、その建設地として、古代の故郷であるパレスチナ(シオンの地)を目指す運動、すなわちシオニズムを提唱しました。1897年には、スイスのバーゼルで第1回シオニスト会議が開催され、シオニズムは国際的な政治運動として組織化されました。

このシオニズムの呼びかけに応じ、19世紀末から、主に東欧のユダヤ人たちが、オスマン帝国領であったパレスチナへ、少数ながら移住を始めました(第一次、第二次の「アリーヤー(帰還)」)。彼らは、土地を購入し、「キブツ」と呼ばれる集団農業共同体を建設するなど、パレスチナにユダヤ人社会の拠点を築き始めました。

8.2. イギリスの「三枚舌外交」の遺産

パレスチナにおける対立を決定的なものにしたのは、第一次世界大戦中のイギリスの無責任な外交政策でした。前述の通り、イギリスは、

  1. アラブ人に対し、パレスチナを含むアラブ地域の独立を約束し(フサイン=マクマホン協定)、
  2. ユダヤ人に対し、パレスチナにおける「民族的郷土」の建設を支持する(バルフォア宣言)、

という、全く矛盾した約束を同時に行いました。

戦後、国際連盟は、パレスチナをイギリスの委任統治領とすることを決定しました。イギリスは、この地で、アラブ人とユダヤ人の双方の願望を巧みに操りながら、自国の帝国主義的な利益を維持しようとしました(分割統治)。

8.3. 委任統治下のパレスチナ:対立の激化

イギリスの委任統治下(1920年-1948年)で、パレスチナの状況は、急速に悪化していきました。

  • ユダヤ人移民の急増: バルフォア宣言を後ろ盾に、ヨーロッパからのユダヤ人移民の波が続きました。特に、1930年代にドイツでナチスが台頭し、ユダヤ人迫害が激化すると、多くのユダヤ人がパレスチナへと逃れてきました。その結果、1922年にはパレスチナの総人口の約11%(約8万4千人)であったユダヤ人の人口は、1947年には約33%(約60万人)にまで急増しました。
  • 土地問題と経済的摩擦: シオニストの組織は、潤沢な資金を用いて、不在地主(多くはレバノンのベイルートなどに住んでいた)から、パレスチナの土地を次々と購入していきました。その土地で働いていたアラブ人の小作農たちは、立ち退きを強制され、土地を失い、生活の糧を奪われました。ユダヤ人移民がもたらした資本と技術は、パレスチナ経済を活性化させましたが、その恩恵は主にユダヤ人社会に向けられ、アラブ人との経済格差は広がる一方でした。
  • アラブ人の抵抗とイギリスの弾圧: 土地を奪われ、自分たちの故郷がユダヤ人の国になってしまうという危機感を募らせたパレスチナのアラブ人たちは、ユダヤ人移民と、それを許しているイギリス委任統治政府に対する、暴動や武装蜂起を繰り返すようになりました。特に、1936年から1939年にかけて起こった「アラブ大反乱」は、大規模なものでしたが、イギリス軍によって、多数の犠牲者を出しながら、容赦なく鎮圧されました。

8.4. 国連分割案とイスラエル建国

第二次世界大戦後、ホロコーストという未曾有の悲劇を経験したユダヤ人に対する国際的な同情が高まる中、もはやパレスチナの統治能力を失ったイギリスは、この問題を国際連合に委ねました。

1947年11月、国連総会は、パレスチナ分割案を採択しました。これは、パレスチナを、

  • ユダヤ人国家(国土の約56%)
  • アラブ人国家(国土の約43%)
  • 国際管理都市エルサレム

の三つに分割するという内容でした。当時、人口で3分の1に過ぎないユダヤ人に、国土の半分以上を与えるという、この分割案は、ユダヤ人側は受け入れましたが、アラブ側(パレスチナのアラブ人および周辺のアラブ諸国)は、当然のことながら、これを完全に拒否しました。

そして、イギリスが委任統治を終結させ、パレスチナから軍隊を撤退させた1948年5月14日、ユダヤ人指導者ダヴィド・ベン=グリオンは、テルアビブでイスラエル国の独立を宣言しました。

この独立宣言の直後、エジプト、シリア、ヨルダン、レバノン、イラクといった周辺のアラブ諸国連合軍が、イスラエルに一斉に侵攻し、**第一次中東戦争(パレスチナ戦争)**が勃発しました。しかし、国際的な支援を受け、軍事的に優位に立った新生イスラエルは、この戦争に勝利しました。

戦争の結果、イスラエルは、国連分割案で定められた以上の領土(パレスチナの約78%)を占領しました。そして、本来アラブ人国家が建国されるはずだった土地は、イスラエル、ヨルダン(ヨルダン川西岸地区)、エジプト(ガザ地区)によって分割されてしまい、アラブ人国家は樹立されませんでした。

さらに、この戦争の過程で、70万人以上とも言われるパレスチナのアラブ人が、戦闘やユダヤ人武装組織による虐殺を逃れ、故郷を追われて、周辺のアラブ諸国へと流出しました。これがパレスチナ難民の発生であり、パレスチナ人にとっては**「ナクバ(大災厄)」**と呼ばれる悲劇です。この故郷を失ったパレスチナ難民問題と、イスラエルによる占領地の問題が、その後のパレスチナ問題の中核となって、今日に至るまで、中東に平和の影を落とし続けているのです。


9. サウジアラビアの建国

20世紀初頭、第一次世界大戦によってオスマン帝国が崩壊し、中東の政治地図が大きく塗り替えられていく中で、アラビア半島の大部分は、いまだ近代的な国民国家の枠組みの外にありました。この広大で乾燥した土地を、一つの政治思想と一つの家族のリーダーシップの下に統一し、現代世界に巨大な影響力を持つ王国を築き上げたのが、サウード家です。彼らは、18世紀に生まれたイスラームの厳格な改革運動であるワッハーブ主義をイデオロギー的な支柱とし、巧みな部族連合と軍事力によって、アラビア半島を征服しました。そして、その建国の過程で発見された、世界最大級の石油資源は、この貧しい砂漠の王国を、一夜にして世界で最も裕福な国の一つへと変貌させ、その後の世界のエネルギー地図と国際政治を大きく左右することになりました。

9.1. ワッハーブ主義と第一次サウード王国

サウジアラビア王国の思想的根源は、18世紀半ばに、アラビア半島中央部のナジュド地方で生まれた、イスラーム改革運動に遡ります。

  • ワッハーブ主義: この運動を始めたのは、イスラーム学者ムハンマド・イブン・アブドゥルワッハーブです。彼は、当時のオスマン帝国下で広まっていた、聖者崇拝やスーフィズム(神秘主義)といったイスラームの実践を、預言者ムハンマドの時代の純粋な教えから逸脱した「異端」であると厳しく批判しました。そして、イスラームの唯一の聖典であるクルアーンと、預言者の言行(スンナ)のみに厳格に従い、唯一神アッラーへの絶対的な信仰を回復すべきであると説きました。この厳格な純化運動は、一般にワッハーブ主義として知られています(彼ら自身は、自らを「ムワッヒドゥーン(神の唯一性を信じる者)」と呼びます)。
  • サウード家との同盟: 当初、アブドゥルワッハーブの教えは、既存の勢力から危険視され、彼は故郷を追われました。1744年、彼は、ナジュド地方のディルイーヤというオアシス都市の首長であった、ムハンマド・イブン・サウードのもとに身を寄せます。両者は、イブン・サウードが政治と軍事を、アブドゥルワッハーブが宗教とイデオロギーを担うという、歴史的な盟約を結びました。

この「剣(サウード家)」と「聖典(ワッハーブ主義)」の同盟は、絶大な力を発揮しました。ワッハーブ主義の教えは、砂漠のベドウィン(遊牧民)たちに、部族の枠を超えた強固な結束をもたらし、彼らは「ジハード(聖戦)」の名の下に、サウード家の指導の下で、アラビア半島統一へと乗り出しました。これが第一次サウード王国です。19世紀初頭には、その勢力は、イスラームの二大聖地であるメッカとマディーナを占領するまでに至りました。しかし、この動きを、自らの宗主権への挑戦と見なしたオスマン帝国は、エジプト総督ムハンマド=アリーに討伐を命じ、1818年、第一次サウード王国は破壊されました。

9.2. イブン=サウードによる再興と王国建国

サウード家は、その後もナジュド地方で再起を図りますが、19世紀末には、ライバルであるラシード家に敗れ、一族はクウェートへ亡命するという苦境に立たされます。

この亡命先で育ったのが、後のサウジアラビア建国の父、アブドゥルアズィーズ・イブン=サウードです。カリスマ的な指導力と、卓越した軍事的才能に恵まれた彼は、1902年、わずか数十人の部下を率いて、サウード家の故郷であるリヤドの奪回に劇的に成功し、サウード家の再興の狼煙を上げました。

彼は、第一次世界大戦中、イギリスからの支援を受けつつ、ライバル部族との戦いを勝ち抜き、その勢力を着実に拡大していきました。彼の力の源泉となったのが、「イフワーン(同胞団)」と呼ばれる、ワッハーブ主義の熱狂的な信者からなる、強力なベドウィンの軍事組織でした。

  • ヒジャーズ地方の征服: 第一次世界大戦後、イギリスの支援を受けてヒジャーズ王国を建国していた、メッカの太守フサイン(アラブの反乱の指導者)が、カリフを称すると、これをイスラームへの背信行為と見なしたイブン=サウードは、ヒジャーズへの侵攻を開始します。1924年から1925年にかけて、彼はメッカとマディーナを占領し、フサインを追放して、イスラームの二大聖地の守護者としての地位を確立しました。
  • サウジアラビア王国の成立: アラビア半島の主要部をほぼ手中に収めたイブン=サウードは、1927年にイギリスから独立を承認され、1932年9月、国名を、自らの家名にちなんだ**「サウジアラビア王国」**とすることを宣言しました。ここに、現代のサウジアラビアが誕生したのです。

9.3. 石油の発見とアメリカとの同盟

建国当初のサウジアラビアは、聖地への巡礼者からの収入に頼る、世界で最も貧しい国の一つでした。しかし、この国の運命を、そして世界のエネルギー地図を、一変させる出来事が起こります。

1938年、イブン=サウードが探査権を与えたアメリカの石油会社(スタンダード・オイル・オブ・カリフォルニア、後のアラムコ)が、東部のダーランで、巨大な油田を発見したのです。

第二次世界大戦後、世界のエネルギー源が石炭から石油へと移行する中で、サウジアラビアの石油の戦略的重要性は、飛躍的に高まりました。アメリカのフランクリン・ローズヴェルト大統領は、1945年、ヤルタ会談からの帰途、イブン=サウード国王と会談し、**「石油と安全保障の交換」**を基本とする、歴史的な同盟関係を築きました。これは、アメリカが、サウジアラビアの石油の安定供給を確保する見返りに、サウード家の王制の安全を保障するという、暗黙の了解でした。

この同盟関係と、石油収入の莫大な富を背景に、サウジアラビアは、急速な近代化を遂げると同時に、イスラーム世界における、保守的な盟主としての地位を確立しました。サウード家は、石油の富を、インフラ整備、教育、医療の普及に用いる一方で、ワッハーブ主義に基づく厳格なイスラーム法(シャリーア)を、国家の隅々にまで適用し続けました。

1973年の第四次中東戦争の際には、OAPEC(アラブ石油輸出国機構)の中心として、イスラエルを支援する西側諸国に対し、石油の輸出を停止または削減する石油戦略を発動し、世界経済を大混乱(第一次石油危機)に陥れました。これは、サウジアラビアが、単なる産油国ではなく、その石油を武器として、国際政治を動かすことができる、強力なアクターであることを世界に知らしめる出来事でした。サウジアラビアの建国と発展の物語は、宗教的イデオロギー、部族のダイナミズム、そして石油という天然資源が、いかにして20世紀に新たな国家を創造し、世界の力学を塗り替えていったかを示す、劇的な事例なのです。


10. イラン革命

20世紀後半、米ソ冷戦が世界の構造を規定する中で、中東地域は、両大国の戦略的な角逐の舞台となりました。特にイランは、ソ連と国境を接し、かつ豊富な石油資源を持つという地政学的な重要性から、アメリカにとって、中東における最も重要な同盟国、いわば「反共の砦」として位置づけられていました。親米的なパーレヴィー朝のシャー(国王)の下で、イランは、急速な西欧化と工業化を進め、一見すると安定した近代国家へと変貌を遂げているように見えました。しかし、その水面下では、独裁的な政治体制、急激な社会変動がもたらす格差、そして伝統的なイスラームの価値観の破壊に対する、国民の深い不満がマグマのように蓄積していました。そして1979年、このマグマは、亡命中のシーア派指導者ホメイニー師を精神的支柱として、世界を震撼させる大爆発を起こします。それが、イラン・イスラーム革命です。この革命は、親米的な王政を打倒し、イスラーム法学者が統治する、世界でも類を見ない「イスラーム共和国」を樹立するという、20世紀の歴史における一大転換点となりました。

10.1. パーレヴィー朝の「白色革命」と独裁

イラン革命の背景を理解するためには、その前代のパーレヴィー朝の統治、特に、最後のシャーであるモハンマド・レザー・パーレヴィーの政策を見る必要があります。

  • モサッデクの失脚と王政の強化: 1951年、イランのナショナリストの首相モサッデクが、イギリスが独占していた石油の国有化を断行すると、これを容認できないイギリスとアメリカは、秘密裏にクーデターを画策しました(アジャックス作戦)。1953年、このクーデターによってモサッデクは失脚し、一時亡命していたシャーが帰国して、再び権力の座に返り咲きました。この事件以降、シャーは、アメリカの全面的な支援を背景に、絶対的な権力を持つ独裁君主として、イランに君臨するようになります。
  • 「白色革命」: 1960年代初頭から、シャーは、「王と国民の革命」、通称**「白色革命」**と呼ばれる、上からの急進的な西欧化・近代化政策を開始しました。その主な内容は、農地改革、国営工場の民営化、女性参政権の承認、識字率向上のための「識字軍団」の派遣など、多岐にわたりました。これらの政策は、イランを近代的な工業国家へと変貌させることを目的としていましたが、多くの深刻な副作用をもたらしました。
    • 農地改革の失敗: 農地改革は、伝統的な大地主層の力を削ぎましたが、多くの農民に分配された土地は、自立経営するにはあまりにも小さく、結果として、多くの農民が土地を捨てて、都市へ流入し、スラムの住民となりました。
    • 格差の拡大: 石油収入に支えられた工業化は、シャーの一族や、彼らに連なる一部の特権階級に富を集中させ、貧富の格差を著しく拡大させました。
    • 伝統的価値観との軋轢: 女性参政権の承認や、西欧的な文化の流入は、伝統を重んじるシーア派の宗教指導者(ウラマー)や、敬虔なイスラーム教徒である市場(バザール)の商人たちの、強い反発を招きました。
  • 独裁と弾圧: シャーの独裁体制は、秘密警察(SAVAK)による、容赦ない監視と弾圧によって支えられていました。反体制的な言動は、思想の左右を問わず、厳しく取り締まられ、多くの人々が拷問され、処刑されました。

10.2. ホメイニー師と革命の勃発

シャーの白色革命と親米的な姿勢に、最も早くから、そして最も激しく反対したのが、シーア派の有力な宗教指導者であった、アーヤトッラー・ホメイニーでした。彼は、1963年にシャーの政策を公然と批判したため、逮捕され、翌年、国外追放処分となりました。

ホメイニーは、トルコ、イラク、そして最終的にはフランスのパリへと亡命先を移しながらも、イラン国内の支持者に向けて、カセットテープに録音した説教を送り続けました。その中で彼は、シャーの独裁政権を、アメリカの傀儡であり、イスラームを破壊する「悪魔的」な存在であると断じ、王政を打倒して、イスラーム法学者が統治する、真のイスラーム国家を樹立すべきであると説きました(「ヴェラーヤテ・ファギーフ(法学者の統治)」理論)。

1978年に入ると、イラン国内の反政府運動は、急速に激化します。当初は、学生や知識人によるデモが中心でしたが、政府の弾圧によって犠牲者が出るたびに、その追悼集会が、さらなる大規模なデモへと発展するという、連鎖反応が起こりました。やがて、石油労働者のストライキが経済を麻痺させ、軍の一部にも反乱の動きが広がるなど、シャーの支配体制は、完全に崩壊状態に陥りました。

10.3. イスラーム共和国の樹立とその影響

1979年1月、国内の統制を完全に失ったシャーは、イランから亡命しました。そして、同年2月1日、ホメイニー師が、15年ぶりにパリからテヘランの空港に凱旋すると、数百万人の熱狂的な民衆が、彼を迎えました。この瞬間、イラン革命は決定的な勝利を収めました。

同年4月、国民投票が行われ、イランは、王政を廃止し、イスラーム共和国となることが宣言されました。年末には、新憲法が制定され、ホメイニー師が、国家の最高権力を持つ「最高指導者」として、終身その地位に就くことが定められました。

イラン革命は、国内政治だけでなく、国際関係にも巨大な衝撃を与えました。

  • アメリカとの断絶: 1979年11月、シャーの身柄引き渡しを求めた学生たちが、テヘランのアメリカ大使館を占拠し、50人以上の外交官を人質に取る事件が発生しました。この人質事件は、444日間にわたって続き、イランとアメリカの関係を、決定的に断絶させました。イランは、アメリカを「大悪魔」と呼び、反米・反イスラエルの旗幟を鮮明にしました。
  • イラン・イラク戦争: 隣国イラクの独裁者サッダーム・フセインは、イラン革命によるシーア派革命の波及を恐れ、また、イラン国内の混乱に乗じて、国境地帯の領有権を主張し、1980年にイランへ侵攻しました。これに始まるイラン・イラク戦争は、8年間にわたり、100万人以上の死者を出す、消耗戦となりました。
  • イスラーム世界への影響: イラン革命の成功は、世界中のイスラーム教徒、特に、既存の親米的なアラブ諸国の支配に不満を持つ人々に、大きな影響を与えました。それは、西洋的なモデル(資本主義、社会主義)に頼らずとも、イスラームの理念に基づいて、外国の支配を打倒し、新たな国家を建設することが可能であるという、強力なメッセージとなりました。これにより、エジプトやレバノンなど、中東各地で、イスラームの政治的な復興を目指す「イスラーム主義」の運動が、勢いを増していくことになります。

イラン革命は、冷戦下における、アメリカとソ連という二つの超大国のイデオロギー対立の構図に、イスラームという「第三の極」を突きつける、画期的な出来事でした。それは、近代化が必ずしも西欧化を意味するものではないことを、劇的に示した、20世紀最後の、そして最も影響力のある革命の一つだったのです。


Module 16:中東の近現代史の総括:帝国の遺産と石油の呪縛――自己変革と外部介入が刻んだ百年

本モジュールで描き出してきた中東の近現代史は、かつて世界文明の中心の一つであった広大な地域が、いかにして自己変革の苦闘と、容赦ない外部からの介入という、二つの巨大な力の狭間で、その運命を翻弄されてきたかの記録です。それは、オスマン帝国という多民族帝国の長い黄昏に始まり、その遺産を巡る、内と外の熾烈な闘争の物語でした。

19世紀、ヨーロッパの「近代」という圧倒的な力の前に、「瀕死の病人」と化したオスマン帝国と、それに連なる中東世界は、生き残りをかけて必死の近代化を模索しました。ムハンマド=アリーのエジプトでの富国強兵、オスマン本国のタンジマート、そしてイランの立憲革命。これらはすべて、西欧の力を学び、それに対抗しようとする、痛切な自己改革の試みでした。しかし、これらの改革は、常に内部の抵抗と、改革の果実さえも奪い去っていくヨーロッパ列強の帝国主義的野心の前に、その多くが挫折、あるいは骨抜きにされていきました。スエズ運河は、近代化の象徴であると同時に、金融従属への入り口でもあったのです。

第一次世界大戦は、この地域に数世紀続いたオスマン帝国の秩序を、最終的に粉砕しました。しかし、その後に訪れたのは、アラブの独立という夜明けではなく、英仏による委任統治という、新たな植民地支配の黄昏でした。特に、パレスチナを巡るイギリスの「三枚舌外交」は、この地に、癒えることのない傷口を残し、今日に至る紛争の原点を刻み付けました。

帝国の瓦礫の中から、二つの異なるタイプの近代国家が立ち上がりました。一つは、アタテュルクに率いられ、イスラームと帝国という過去を大胆に断ち切り、徹底した世俗主義とナショナリズムによって自己を再創造したトルコ共和国。もう一つは、ワッハーブ主義という厳格な宗教改革運動を拠り所に、サウード家が部族社会を統合して建国したサウジアラビア王国です。

そして、この地域の運命を決定的に変えたのが、地中から噴き出した黒い黄金、石油でした。石油は、サウジアラビアのような砂漠の王国に未曾有の富をもたらし、国際政治における強力な武器を与えましたが、同時に、この地域を、冷戦下における超大国の、さらに熾烈な戦略的角逐の場へと変えてしまいました。

その最終的な帰結の一つが、1979年のイラン・イスラーム革命です。アメリカの強力な支援の下で進められた、上からの性急な西欧化への、民衆と宗教が一体となった激しい拒絶反応は、西洋的近代の普遍性そのものに、根源的な問いを突きつけました。

帝国の遺産、列強の介入、ナショナリズムの相克、そして石油の富と呪縛。これらすべてが複雑に絡み合い、織りなすタペストリーこそが、中東の近現代史です。その歴史を理解することなくして、21世紀の世界が直面する、最も深刻な課題の根源を理解することはできないでしょう。

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