【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 17:民族移動とアイデンティティ
本モジュールの目的と構成
人類の歴史は、定住の歴史である以上に、移動の歴史です。アフリカ大陸で誕生した我々の祖先が、全世界へと拡散していった壮大な旅から、現代のグローバル化した世界で国境を越える人々の流れに至るまで、移動は、文化を伝播させ、新たな社会を創造し、時には文明間の激しい衝突を引き起こす、歴史を動かす根源的な力であり続けました。私たちが当たり前のように感じている「故郷」や「国」、「民族」といったアイデンティティもまた、この絶え間ない人の移動の歴史の中で、形成され、変容し、時には人為的に創り出されてきた、極めて歴史的な産物なのです。
本モジュールは、「民族移動」というダイナミックな現象を縦糸に、そして「アイデンティティ」の形成という問題を横糸にして、世界史をテーマ史的に読み解くことを目的とします。私たちは、まず、ユーラシア大陸の言語地図の原型を形作ったインド=ヨーロッパ語族の拡散や、西ローマ帝国を崩壊させ、ヨーロッパ世界の新たな担い手となったゲルマン民族の大移動といった、古代から中世にかけての大きな人の流れを追います。
次に、近代世界を形作った二つの巨大な人の流れ――ヨーロッパから新大陸へと向かった移民の波と、アジアから世界各地のプランテーションや鉱山へと送られた移民労働者の潮流――を比較し、現代世界の多民族社会の起源を探ります。さらに、ディアスポラという苦難の歴史の中から、故郷への帰還を目指すシオニズムを生んだユダヤ人の軌跡を辿り、そして、民族的アイデンティティが最も歪んだ形で暴発した、民族浄化やジェノサイドという人類の闇にも目を向けます。
この学びを通じて、読者は、「国民国家」という近代の枠組みが、いかにして「国民」という均質なアイデンティティを創出しようとしてきたか、そしてその過程で、いかに多くの人々が翻弄されてきたかを理解するでしょう。それは、現代世界が直面する難民・移民問題の根源を歴史的に考察し、多様な人々が共に生きる未来を考えるための、知的視座を獲得する旅となります。
本モジュールは、以下の学習項目によって構成されています。
- まず、言語という痕跡を手がかりに、先史時代における人類の広大な移動の軌跡を探る、インド=ヨーロッパ語族の拡散の謎に迫ります。
- 古代末期の世界を震撼させ、ヨーロッパの新たな秩序を生み出した、ゲルマン民族の大移動のダイナミズムを多角的に分析します。
- ユーラシア大陸の内陸部を舞台に、騎馬遊牧民が繰り広げたトルコ系・モンゴル系民族の移動が、世界史にいかなる衝撃を与えたかを検証します。
- 海を舞台に、破壊と創造のエネルギーをヨーロッパに解き放ったヴァイキングの活動の実像を解明します。
- 近代世界の形成期における最大の人類移動である、**近代の移民(ヨーロッパから新大陸へ)**の背景と、それがもたらした光と影を考察します。
- 奴隷制廃止後の新たな労働力として、世界中に拡散した中国人・インド人の移民の歴史と、彼らが形成したディアスポラ共同体に光を当てます。
- 離散という苦難の歴史の中で、いかにして民族的アイデンティティを維持し、それが近代のナショナリズムと結びついたか、ユダヤ人のディアスポラとシオニズムの軌跡を辿ります。
- 民族的アイデンティティが、排他的で暴力的な形で発露した最悪の悲劇である民族浄化とジェノサイドの歴史的実例とその構造を分析します。
- 近代という時代が、いかにして国民国家と「国民」の創出というプロジェクトを推進し、人々の帰属意識を根本から作り変えていったのかを論じます。
- 最後に、これまでの歴史的文脈を踏まえ、グローバル化が進む世界が直面する現代の難民・移民問題の構造と課題を考察します。
このモジュールは、移動する人間と、形成されるアイデンティティという、人類史の根源的なテーマを探求する、時空を超えた壮大な旅です。
1. インド=ヨーロッパ語族の拡散
今日のヨーロッパのほぼ全域から、イラン、インド北部にかけての広大な地域で話されている、英語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、ペルシア語、ヒンディー語といった、一見すると全く異なる言語。しかし、これらの言語は、その基本的な単語(父、母、兄弟といった家族名称や、1、2、3といった数詞など)や文法の構造に、驚くほどの類似性が見られます。この類似性は、これらの言語が、遠い過去に、一つの共通の祖先となる言語(インド=ヨーロッパ祖語、印欧祖語)から分かれて発展してきたことを示唆しています。この印欧祖語を話していた人々が、いつ、どこから、どのようにして、これほど広大な地域へと拡散していったのか。それは、文字記録の存在しない先史時代の、人類史上最大規模の民族移動の謎であり、歴史学、言語学、考古学、そして近年の遺伝学が総力を挙げて解明に挑んでいる、壮大なテーマです。
1.1. 「語族」という概念
18世紀後半、イギリスの法学者で、インドに赴任していたウィリアム・ジョーンズが、古代インドの言語であるサンスクリット語が、ヨーロッパの古典語であるギリシア語やラテン語と、偶然とは思えないほど酷似していることを発見しました。この発見がきっかけとなり、共通の起源を持つ言語のグループを「語族」として分類する、比較言語学という学問が発展しました。
インド=ヨーロッパ語族は、その中でも最大規模の語族であり、以下のような多数の語派に分かれています。
- ゲルマン語派: 英語、ドイツ語、オランダ語、スウェーデン語など。
- イタリック語派: ラテン語、およびそこから派生したフランス語、スペイン語、イタリア語などのロマンス諸語。
- スラヴ語派: ロシア語、ポーランド語、セルビア語など。
- インド・イラン語派: ペルシア語、ヒンディー語、ウルドゥー語、そして古代のサンスクリット語など。
- ギリシア語派: 古代および現代のギリシア語。
- ケルト語派: アイルランド語、ウェールズ語など。
これらの言語の共通性から、かつてこれらの言語の祖先となる、単一の「インド=ヨーロッパ祖語」が存在したことが、理論的に再構されています。
1.2. 原郷を巡る仮説:クルガン仮説
では、この印欧祖語を話していた人々は、どこに住んでいたのでしょうか。彼らの「原郷(ウルハイマート)」については、長年にわたり様々な説が提唱されてきましたが、現在、最も有力な説として広く支持されているのが、考古学者マリヤ・ギンブタスが提唱した**「クルガン仮説」**です。
- 場所: この仮説によれば、印欧祖語の話者の原郷は、紀元前4500年から紀元前2500年頃の、**南ロシア(黒海とカスピ海の間のポントス草原)**であったとされます。
- 文化: この地に栄えた人々は、墳丘墓(クルガン)を築く文化を持っていました。彼らは、世界で最も早く馬を家畜化し、それを移動や戦争に利用しました。また、車輪付きの乗り物(戦車や荷車)を発明したのも、彼らであったと考えられています。
- 拡散の原動力: 馬と車輪がもたらした圧倒的な機動力が、彼らの急速な拡散を可能にした最大の要因でした。彼らは、家畜を連れて草原を移動する、半農半牧の社会を営んでおり、人口の増加や気候の変動、あるいはより良い牧草地を求めて、波状的に、そして爆発的に、周囲の地域へと移住していったと考えられています。
このクルガン仮説は、近年の古代DNAの解析研究によっても、強力に裏付けられています。南ロシアのクルガンから発見された人骨の遺伝子が、古代から現代に至るヨーロッパ人や南アジア人の遺伝子の中に、広範囲に見られることが明らかになってきたのです。
1.3. 拡散のプロセスと歴史への影響
印欧語族の話者の拡散は、一度に起こった単一の出来事ではなく、数千年にわたる、極めて複雑で多段階のプロセスでした。
- 最初の波(紀元前4000年頃〜): 彼らの一部は、西へ向かい、ヨーロッパのバルカン半島やドナウ川流域へと進出しました。彼らは、先住の農耕民(古代ヨーロッパ人)の社会を征服、あるいはそれと融合しながら、ヨーロッパのほぼ全域へと広がっていきました。
- アナトリアへの移動: 別のグループは、南下して、アナトリア(現在のトルコ)へと侵入しました。紀元前17世紀頃に、この地で強力な王国を築き、鉄を最初に使用したことで知られるヒッタイトは、現存する最古の記録を持つインド=ヨーロッパ語族の言語を話していました。
- ギリシア・イタリアへの移動: 紀元前2000年紀には、ギリシア人の祖先がバルカン半島を南下して、エーゲ文明の世界に入り、ミケーネ文明を築きました。同じ頃、イタリック語派の祖先も、イタリア半島へと南下していきました。
- 東方への移動: 東へ向かったグループは、中央アジアの草原地帯を越えて、イラン高原とインド亜大陸北部へと進出しました。イラン高原に入った人々は、後のペルシア人の祖先となり、インドへ侵入した人々は、自らをアーリヤ人と称し、先住のインダス文明と接触しながら、ガンジス川流域へと進出し、ヴェーダ時代のインド文化と、カースト制度の原型を形成しました。
このインド=ヨーロッパ語族の拡散は、単に言語が広まったというだけではありません。それは、馬と車輪の使用、父権的な社会構造、そして天空神を崇拝する宗教観といった、彼らが持っていた文化的なパッケージが、ユーラシア大陸の広大な地域に伝播し、その後の歴史の基層を形成していく、壮大なプロセスでした。今日、世界で最も多くの話者人口を持つこの語族のルーツを探ることは、現代世界の文化的・言語的な多様性が、いかにして先史時代のダイナミックな民族移動の中から生まれてきたのかを、私たちに教えてくれるのです。
2. ゲルマン民族の大移動
4世紀後半から6世紀にかけて、ヨーロッパ世界は、その政治地図と民族構成を根底から揺るがす、大規模で連鎖的な民族移動の時代を経験しました。一般に「ゲルマン民族の大移動」と呼ばれるこの現象は、アジアから到来した騎馬遊牧民フン族の圧力を引き金として、長年にわたってローマ帝国と国境を接してきた多くのゲルマン系部族が、帝国の領内へと、時には傭兵として、時には難民として、そして時には侵略者として、雪崩を打つように流れ込んだものです。この激動の時代は、西ローマ帝国の崩壊を決定づけ、ヨーロッパの古代を終わらせると同時に、その廃墟の上に、フランク王国や西ゴート王国といった、後の中世ヨーロッパ世界を形成する、新たなゲルマン系国家群を誕生させる、壮大な「産みの苦しみ」の時代でもありました。
2.1. 移動以前のゲルマン社会とローマ帝国
「ゲルマン人」とは、単一の民族を指す言葉ではなく、インド=ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属する、言語的に関連のある、多数の部族の総称です。彼らの原住地は、北欧のスカンディナヴィア半島や、北ドイツのユトランド半島あたりとされ、そこから南下して、ローマ帝国の国境であるライン川とドナウ川の北側に、広く居住していました。
カエサルの『ガリア戦記』や、タキトゥスの『ゲルマニア』によれば、彼らの社会は、農耕と牧畜を主とする、氏族制に基づいた部族社会でした。王の権力は絶対的なものではなく、民会(部族の成人男性による集会)が重要な意思決定を行っていました。彼らは、オーディンやトールといった神々を崇拝する多神教を信仰し、非常に好戦的であったと記録されています。
ローマ帝国にとって、ゲルマン人は、長年にわたり、国境を脅かす「蛮族」であると同時に、兵士の供給源(傭兵)や、奴隷、琥珀などの交易相手でもありました。帝国は、莫大な費用をかけて、国境線に長大な防壁(リーメス)を築き、ゲルマン人の侵入を防ごうとしましたが、帝国の国力が安定していた時代は、両者の関係は、比較的均衡が保たれていました。
2.2. フン族の到来と移動の連鎖反応
この均衡が破れる直接的なきっかけとなったのが、4世紀後半(375年頃)に、中央アジアの草原地帯から、突如として黒海北岸に現れた、アジア系の騎馬遊牧民フン族の西進でした。圧倒的な騎馬軍事力を持つフン族の攻撃を受け、この地に居住していたゲルマン系の一部族である東ゴート族が服属させられます。
このフン族の脅威から逃れるため、隣接していた西ゴート族は、パニック状態で、大挙してドナウ川を渡り、ローマ帝国の領内へ、保護を求める難民としてなだれ込みました。しかし、ローマの官吏による劣悪な扱いに耐えかねた彼らは反乱を起こし、378年のアドリアノープルの戦いで、皇帝ウァレンスを戦死させるという、ローマ帝国に壊滅的な打撃を与えました。
この西ゴート族の移動が、ドミノ倒しのように、他のゲルマン系部族の移動を次々と誘発していきました。フン族の圧力、より安全で豊かな土地への渇望、そしてローマ帝国の国境防衛力の低下といった要因が絡み合い、民族移動は、ヨーロッパ全土を巻き込む、巨大なうねりとなっていったのです。
2.3. 主要な部族の移動と建国
ゲルマン民族の大移動は、様々な部族が、それぞれ異なるルートを辿って、ローマ帝国の各地に侵入・定住する、複雑なプロセスでした。
- 西ゴート族: アドリアノープルの戦いの後、バルカン半島を略奪しながら西へ進み、410年には、アラリック王に率いられて、ついに帝国の首都ローマを劫掠しました。これは、建国以来800年間、外国軍に侵されることのなかった「永遠の都」の陥落であり、西欧世界に巨大な衝撃を与えました。その後、彼らは、南ガリア(フランス南部)を経て、イベリア半島に入り、西ゴート王国を建国しました。
- ヴァンダル族: ライン川を越えてガリアに侵入し、イベリア半島を南下した後、ジブラルタル海峡を渡って、ローマ帝国の穀倉地帯であった北アフリカ(カルタゴ)を占領し、ヴァンダル王国を建国しました。彼らは、強力な海軍を組織し、地中海を荒らし回り、455年には、海上からローマを再び略奪しました。
- フランク族: ライン川下流域の原住地から、ガリア北部に徐々に進出し、定住しました。他の部族が、アリウス派(イエス・キリストの神性を否定する異端)のキリスト教を受容したのに対し、フランク族の王クローヴィスは、496年に、ローマ=カトリック教会の正統な教えであるアタナシウス派に改宗しました。この選択が、ローマ系の住民やカトリック教会との融合を円滑にし、彼らがガリア全域を統一して、後の西ヨーロッパ世界の核となる、最も安定したフランク王国を築き上げる上で、決定的な要因となりました。
- アングロ=サクソン族: 5世紀半ば、ローマ軍団が撤退した後のブリタニア(イギリス)に、北ドイツのユトランド半島から、アングル人、サクソン人、ジュート人が海を渡って侵入しました。彼らは、先住のケルト系ブリトン人を、西のウェールズや北のスコットランドへと追いやり、イングランドに、七つの小王国(ヘプターキー)を建国しました。
- 東ゴート族: フン族の支配下にあった東ゴート族は、アッティラ大王の死後、独立を回復し、テオドリック大王に率いられて、イタリア半島へ移動しました。476年、ゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって、西ローマ皇帝が廃位され、西ローマ帝国が滅亡すると、テオドリックはオドアケルを倒し、イタリアに東ゴート王国を建国しました。
2.4. 移動の歴史的意義
ゲルマン民族の大移動は、西ヨーロッパ世界に、破壊と混乱をもたらしましたが、同時に、全く新しい文明を創造する、巨大な胎動でもありました。
第一に、西ローマ帝国の滅亡を決定づけ、ヨーロッパの古代が終わったことです。地中海を「我らの海」としていた統一帝国は解体され、その後に、多数のゲルマン系王国が乱立する、政治的に分裂したヨーロッパ世界が生まれました。
第二に、この大移動が、中世ヨーロッパ文明の基礎を築いたことです。ゲルマン系の人々がもたらした、素朴で力強いゲルマン文化(慣習法、従士制など)と、彼らが定住した土地に根強く残っていた古代ローマの文化(ラテン語、ローマ法、都市制度など)、そして、両者を結びつける接着剤の役割を果たしたキリスト教という、三つの要素が、数世紀にわたる時間をかけて融合していく中で、西ヨーロッパ独自の、新しい文明が形成されていきました。特に、フランク王国の発展は、この融合の最も成功した事例であり、後のフランス、ドイツ、イタリアの原型となったのです。
3. トルコ系・モンゴル系民族の移動
ユーラシア大陸の中央部に広がる、モンゴル高原からカスピ海の東に至る、広大な内陸乾燥地帯(ステップ地帯)。この厳しい自然環境の中で、古来、騎馬遊牧生活を営んできたのが、アルタイ諸語に属する、トルコ系、モンゴル系、そしてツングース系の諸民族です。彼らは、定住農耕民とは全く異なる社会構造と価値観を持ち、歴史上、部族の統一と分裂、そして周囲の農耕地帯への大規模な移動と征服を、周期的に繰り返してきました。特に、10世紀以降のトルコ系民族の西進と、13世紀のモンゴル帝国による空前の大征服は、イスラーム世界、ヨーロッパ、そして中国の歴史を根底から揺るがし、ユーラシア大陸全体の民族・政治地図を、劇的に塗り替える巨大なインパクトをもたらしました。
3.1. 騎馬遊牧民の世界
トルコ系・モンゴル系民族の歴史を理解するためには、彼らの生活様式である騎馬遊牧の特質を知る必要があります。
- 生活様式: 彼らは、羊や馬、ラクダといった家畜の群れを追い、季節ごとに水と牧草を求めて移動する生活を営んでいます。住居は、組み立て・解体・運搬が容易な、フェルト製の移動式住居(ゲル、ユルト)です。彼らの生活は、家畜の乳製品を主食とし、その肉や毛皮、そして交易によって得られる穀物や工業製品に依存しています。
- 社会構造: 社会の基本単位は、父系の血縁に基づく氏族や部族です。これらの部族は、通常は互いに独立していますが、カリスマ的な指導者が現れると、軍事的な目的のために、一時的に巨大な部族連合体を形成することがありました。
- 軍事力: 騎馬遊牧民の最大の強みは、その卓越した騎馬軍事力です。彼らは、幼い頃から馬上で生活し、馬を自在に操る技術を身につけています。特に、馬上で矢を射る騎馬弓射戦術は、彼らの得意とするところであり、その高い機動力と相まって、重装歩兵を主軸とする定住農耕民の軍隊に対して、圧倒的な優位性を誇りました。
歴史上、ステップ地帯の気候が寒冷化・乾燥化して、牧草地が減少すると、遊牧民は、生存をかけて、南の温暖で豊かな農耕地帯へと、しばしば大規模な侵入・征服を試みました。
3.2. トルコ系民族の西進とイスラーム化
「トルコ系民族」とは、トルコ語に近い言語を話す、多くの部族の総称です。彼らの原住地は、モンゴル高原からアルタイ山脈周辺とされ、古くは、中国の史書に「突厥」として登場します。
- ウイグルの西遷: 8世紀にモンゴル高原で強大なウイグル帝国を築いたトルコ系のウイグル人は、9世紀に、同じトルコ系のキルギスに敗れて西へ移動し、タリム盆地のオアシス地帯に定住しました。彼らは、遊牧生活を捨てて都市生活に入り、マニ教や仏教を受容して、高度なオアシス文明を築きました。
- セルジューク朝の成立: 10世紀頃、中央アジアのトルコ系遊牧民オグズの一部族が、イスラーム教を受容し、南下を開始しました。彼らは、指導者トゥグリル=ベクの下で、11世紀半ばに、イラン、イラクを支配していたブワイフ朝を打倒し、アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号を授けられました。これがセルジューク朝の始まりです。彼らの西進は、1071年のマンジケルトの戦いで、ビザンツ帝国の軍隊に壊滅的な打撃を与え、アナトリア(小アジア)が、トルコ人の定住地となる(トルコ化する)きっかけを作りました。この出来事は、ヨーロッパ世界に衝撃を与え、十字軍が派遣される遠因の一つとなりました。
- オスマン帝国の台頭: 13世紀にモンゴル帝国がアナトリアに侵攻し、ルーム・セルジューク朝が衰退すると、その跡地には、多くのトルコ系の小君主国(ベイリク)が乱立しました。その中の一つであった、オスマン家が、次第に勢力を拡大し、ビザンツ帝国を圧迫しながら、バルカン半島へと進出します。そして1453年、メフメト2世が、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを陥落させ、後に三大陸にまたがるオスマン帝国の基礎を築き上げました。
このように、トルコ系民族の西への移動は、彼らがイスラームを受容し、その擁護者となることで、イスラーム世界の新たな支配者として登場していく、ダイナミックなプロセスでした。
3.3. モンゴル帝国によるユーラシアの席巻
13世紀初頭、モンゴル高原に、人類史上、最も広大な陸上帝国を築き上げる、一人の英雄が登場します。それが、チンギス=カンです。
- モンゴル高原の統一: テムジン(後のチンギス=カン)は、分裂状態にあったモンゴル高原の諸部族を、その卓越した軍事的才能と政治的手腕によって、次々と統一していきました。1206年、彼は、部族長たちのクリルタイ(集会)で、全モンゴルの支配者「チンギス=カン」の称号を授けられました。彼は、従来の部族制を解体し、千戸制(ミンガン)と呼ばれる、軍事・行政組織へと人々を再編成し、モンゴルを、強力な軍事国家へと作り変えました。
- ユーラシア大陸の征服: チンギス=カンとその子孫たちは、この強力な騎馬軍団を率いて、四方へと空前の規模の征服戦争を開始しました。
- 東方では、西夏、金を滅ぼし、朝鮮半島を服属させ、孫のフビライ=カンの時代には、南宋を滅ぼして、中国全土を支配する元を建国しました。
- 西方では、中央アジアのホラズム=シャー朝を破壊し、チンギス=カンの孫バトゥが率いる遠征軍は、ロシア(キエフ公国)を蹂躙し、さらにポーランド、ハンガリーまで侵攻して、ヨーロッパ世界を震撼させました。バトゥは、南ロシアの草原にキプチャク=ハン国を建国しました。
- 西南方では、チンギス=カンの孫フラグが、アッバース朝の首都バグダードを陥落させてカリフを殺害し(1258年)、イラン、イラクにイル=ハン国を建国しました。
- パクス=モンゴリカ(モンゴルの平和): モンゴル帝国は、中国から東ヨーロッパに至る、広大なユーラシア大陸の東西を結ぶ、巨大な政治的・経済的空間を創出しました。帝国内には、**駅伝制(ジャムチ)**と呼ばれる、効率的な交通・通信網が整備され、使者や商人たちは、安全に、迅速に、帝国領内を旅することができました。これにより、東西の文物の交流が、かつてない規模で活発化し、「パクス=モンゴリカ(モンゴルの平和)」と呼ばれる、比較的安定した時代が出現しました。火薬、羅針盤、印刷術といった中国の三大発明がヨーロッパに伝わったのも、この時代です。マルコ=ポーロのようなヨーロッパの商人が、元朝の中国を訪れることができたのも、このパクス=モンゴリカのおかげでした。
14世紀半ば以降、モンゴル帝国は、後継者争いや、征服地の文化への同化、そしてペストの流行などにより、次第に分裂・衰退していきます。しかし、彼らがもたらした巨大な移動と征服は、ユーラシア大陸の諸文明の間に、破壊と同時に、新たな交流と融合をもたらし、その後の世界史の展開に、計り知れない影響を与え続けたのです。
4. ヴァイキングの活動
8世紀末から11世紀にかけて、西ヨーロッパ世界は、南からのイスラーム勢力、東からのマジャール人(アジア系遊牧民)の侵攻に加えて、北の海から、突如として現れた、恐るべき船乗りたちによる、破壊的な襲撃に苦しめられました。スカンディナヴィア半島(現在のデンマーク、ノルウェー、スウェーデン)を原住地とする彼らは、一般に「ヴァイキング」として知られています。彼らは、卓越した航海術と、残忍な略奪行為によって、ヨーロッパ各地のキリスト教修道院や都市を恐怖に陥れました。しかし、ヴァイキングの活動は、単なる破壊者・略奪者という側面に留まりません。彼らは、同時に、優れた商人であり、探検家であり、そして植民者でもありました。その活動範囲は、北米大陸から、ロシアの内陸河川を経て、遠くビザンツ帝国やイスラーム世界にまで及び、中世ヨーロッパ初期の政治・経済・社会の形成に、極めて重要な役割を果たしました。
4.1. ヴァイキングの船と航海術
ヴァイキングの広範な活動を可能にした最大の要因は、彼らが建造した、独特の高性能な船、いわゆる「ヴァイキング船(ロングシップ)」でした。
- 船の構造: これらの船は、オーク材で作られ、船体が細長く、喫水(船底から水面までの深さ)が浅いという特徴を持っていました。この浅い喫水のおかげで、彼らは、外洋を航海するだけでなく、水深の浅い河川を、内陸の奥深くまで遡上することができました。船は、一枚の大きな四角い帆で風を受けて進むと同時に、多数のオールを備えており、風のない時や、逆風の時、そして河川を遡る際には、人力で漕いで進むことができました。
- 航海術: 彼らは、羅針盤を持たない時代に、太陽や星の位置、海鳥の飛ぶ方向、そして沿岸の地形に関する、経験的に蓄積された知識を頼りに、外洋を航海しました。その航海技術は、同時代のヨーロッパにおいて、群を抜いていました。
この高性能な船と航海術が、彼らに、前例のない機動力と、神出鬼没の襲撃能力を与えたのです。
4.2. 三つの活動ルート
ヴァイキングの活動は、彼らの出身地に応じて、大きく三つの異なる方向へと展開しました。
- 西方ルート(主にノルウェー、デンマーク系): このルートのヴァイキングは、主に、略奪者および植民者として活動しました。
- ブリテン諸島: 793年、彼らがイングランド北東部のリンディスファーン修道院を襲撃した事件が、一般に「ヴァイキング時代」の始まりとされています。彼らは、その後、ブリテン諸島の各地を繰り返し襲撃し、特にデンマーク系のヴァイキング(デーン人)は、イングランド東部に大規模な入植地(デーンロウ)を築き、一時は、クヌート王の下で、イングランド、デンマーク、ノルウェーを支配する、広大な「北海帝国」を築き上げました。
- フランス: フランス北部のセーヌ川流域も、彼らの激しい襲撃に晒されました。911年、西フランク王シャルル3世は、ヴァイキングの首長ロロに対し、これ以上の侵攻を防ぐため、セーヌ川下流域の土地を与えました。この地に定住したヴァイキングは、「ノルマン人(北の人)」と呼ばれるようになり、彼らが建国した国がノルマンディー公国です。彼らは、急速にキリスト教とフランス文化を受け入れ、1066年には、ノルマンディー公ウィリアムが、イングランドを征服して、ノルマン朝を開きました(ノルマン・コンクェスト)。
- 北大西洋: ノルウェー系のヴァイキングは、さらに西の北大西洋へと進出しました。彼らは、アイスランド、グリーンランドに植民し、1000年頃には、レイフ・エリクソンに率いられた一団が、コロンブスよりも500年近く早く、北米大陸(彼らが「ヴィンランド」と呼んだ地)に到達していたことが、考古学的に確認されています。
- 東方ルート(主にスウェーデン系): スウェーデン系のヴァイキングは、「ヴァリャーグ」と呼ばれ、バルト海から、ロシアの河川網(ヴォルホフ川、ドニエプル川など)を南下するルートを開拓しました。彼らは、商人であり、傭兵でした。
- 彼らは、北方の毛皮や琥珀、そしてスラヴ人奴隷を、南のビザンツ帝国(ギリシア)や、イスラーム世界(アッバース朝)へと運び、銀や絹織物と交換しました。この交易路は、「ヴァリャーグからギリシアへの道」として知られています。
- 彼らは、この交易路の途上に、ノヴゴロドやキエフといった拠点を築き、現地のスラヴ系住民を支配しました。ロシアの最初の統一国家であるキエフ公国は、このヴァリャーグの首長リューリクの一族によって建国されたと伝えられています。彼らは、次第にスラヴ人と同化していきましたが、「ロシア(ルーシ)」という国名自体が、このヴァリャーグの一派の名に由来すると考えられています。
- 南方ルート(ノルマン人): 11世紀、フランスのノルマンディー公国に定住したノルマン人の一部は、傭兵として南イタリアへ赴き、そこでイスラーム勢力やビザンツ帝国と戦いながら、自らの国を築き上げました。1130年、ルッジェーロ2世が、南イタリアとシチリア島を統一して、両シチリア王国を建国しました。この国は、ノルマン、ビザンツ、イスラームの多様な文化が融合した、独創的で国際色豊かな文化を誇りました。
4.3. ヴァイキングの活動の終焉と歴史的影響
11世紀頃になると、ヴァイキングの活動は、次第に沈静化していきます。その背景には、スカンディナヴィア本国で、強力な王権が確立され、国家としてのまとまりが形成されたことや、彼らが定住したヨーロッパ各地で、キリスト教を受容し、現地の社会に同化していったことなどがあります。
ヴァイキングの時代は、西ヨーロッパ世界に、大きな混乱と破壊をもたらしました。しかし、その歴史的影響は、決して否定的なものだけではありません。
第一に、彼らの活動が、ヨーロッパ各地の政治的な再編成を促したことです。フランク王国の分裂と封建制の確立、イングランドやロシアにおける統一国家の形成など、ヴァイキングの脅威への対抗や、彼らによる国家建設が、中世ヨーロッパの国家の輪郭を形作る上で、重要な役割を果たしました。
第二に、彼らが、ヨーロッパの商業ネットワークを再活性化させたことです。彼らは、北海・バルト海から、ロシアの内陸河川を経て、地中海世界やイスラーム世界までを結ぶ、広大な交易網を築き上げ、西ヨーロッパ経済の停滞を打ち破る、一つの契機となりました。
破壊者と創造者、野蛮な異教徒と洗練された商人。ヴァイキングは、こうした多くの顔を持つ、ダイナミックな存在でした。彼らが歴史の舞台に残した荒々しい航跡は、中世ヨーロッパ世界の形成期における、力強い鼓動そのものであったと言えるでしょう。
5. 近代の移民(ヨーロッパから新大陸へ)
19世紀から20世紀初頭にかけて、人類の歴史は、かつてない規模の、大陸を越えた大規模な人口移動を経験しました。その最大の潮流が、ヨーロッパから、主にアメリカ合衆国を中心とする新大陸(南北アメリカ、オーストラリアなど)へと向かった、数千万人にのぼる移民の波です。この大西洋を越える巨大な人の流れは、旧大陸ヨーロッパが抱えていた深刻な社会問題を緩和する安全弁となると同時に、新大陸に、多様な民族的背景を持つ人々が混じり合う、新たな「移民社会」を創造しました。この近代移民の時代は、現代のグローバル化した世界の人的な基盤を築き、今日に至る多文化社会の光と影の、まさに原点となりました。
5.1. 移民を送り出すヨーロッパ(プッシュ要因)
19世紀のヨーロッパは、なぜ、これほど多くの人々を、故郷から新天地へと送り出すことになったのでしょうか。その背景には、人々を故郷から「押し出す」力、すなわち、いくつかの強力なプッシュ要因が存在しました。
- 人口の爆発的増加: 18世紀以降、ヨーロッパでは、農業革命による食料生産の増大と、医学の進歩による死亡率の低下(特に乳幼児死亡率の低下)により、歴史上例のない、急激な人口増加が起こりました。この結果、土地は不足し、多くの人々が、農村で生活の糧を得ることが困難になりました。
- 産業革命と都市化の進展: 産業革命は、多くの農村の伝統的な手工業を破壊し、職を失った人々は、都市へ流入して、工場の低賃金労働者となりました。しかし、都市の労働市場も、常にすべての人口を吸収できるわけではなく、多くの失業者が生まれました。
- 交通手段の革命: 蒸気船や鉄道といった、新たな交通手段の発達が、長距離の移動を、より安価で、迅速で、安全なものにしました。特に、大型の蒸気船は、一度に数千人の移民を、大西洋を越えて運ぶことを可能にしました。
- 政治的・宗教的迫害: 19世紀のヨーロッパは、革命やナショナリズムの動乱の時代でもありました。1848年革命の失敗後、多くの自由主義者や革命家が、政治的な迫害を逃れて、アメリカへ亡命しました。また、帝政ロシアでは、反ユダヤ主義に基づくポグロム(集団虐殺)が激化したため、多くのユダヤ人が、新大陸へと逃れました。
- 飢饉: 特定の地域を襲った深刻な飢饉も、大量移民の直接的な引き金となりました。その最も悲劇的な例が、1840年代半ばにアイルランドを襲った、ジャガイモ飢饉です。ジャガイモの疫病によって、主食を失ったアイルランドでは、100万人以上が餓死し、さらに100万人以上が、生きるために、故郷を捨ててアメリカへと渡りました。
5.2. 移民を受け入れる新大陸(プル要因)
一方で、新大陸には、ヨーロッパの人々を強く「引きつける」力、すなわち、魅力的なプル要因が存在しました。
- 経済的な機会: 19世紀のアメリカ合衆国は、西部開拓と工業化が急速に進展する、まさに「機会の国」でした。広大なフロンティアには、安価で手に入る、あるいは無償で獲得できる(ホームステッド法など)土地が広がっていました。急成長する都市や工場、そして大陸横断鉄道の建設現場では、常に大量の安価な労働力が求められていました。
- 「アメリカン・ドリーム」: アメリカは、ヨーロッパのような、固定的な身分制度や階級社会とは異なり、出自に関係なく、個人の努力と才能次第で、誰もが成功を掴むことができるという、「アメリカン・ドリーム」の理念を掲げていました。この夢が、貧困にあえぐヨーロッパの人々にとって、大きな希望の光となりました。
- 政治的・宗教的自由: アメリカ合衆国憲法は、信教の自由や、言論・出版の自由といった、基本的な人権を保障していました。これは、ヨーロッパで、専制的な政府や国教会の支配の下にあった人々にとって、大きな魅力でした。
5.3. 移民の変遷とアメリカ社会への影響
19世紀を通じて、アメリカへの移民の出身地は、大きく変化していきました。
- 旧移民(1880年代まで): この時期の移民の主流は、北・西ヨーロッパ(アイルランド、ドイツ、イギリス、スカンディナヴィア諸国)からの人々でした。彼らの多くは、プロテスタントであり(アイルランド人を除く)、比較的アメリカ社会に溶け込みやすかったとされています。
- 新移民(1880年代以降): 19世紀末から20世紀初頭にかけて、移民の主流は、南・東ヨーロッパ(イタリア、ポーランド、ロシア、オーストリア=ハンガリー帝国など)からの人々に変わりました。彼らの多くは、カトリックやギリシア正教、あるいはユダヤ教徒であり、英語を話せない場合が多く、その文化的な背景は、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)が主流であったアメリカ社会とは、大きく異なっていました。
この「新移民」の急増は、アメリカ社会に、いくつかの深刻な問題をもたらしました。彼らは、都市のゲットー(移民集中居住区)に住み、低賃金で過酷な労働に従事することが多く、先住の労働者との間で、職を巡る対立も生じました。また、彼らの異なる文化や宗教に対する、偏見や差別も強まり、移民の流入を制限すべきであるという、排外主義的な世論が高まっていきました。
その結果、1924年には、出身国別に移民の数を割り当てる、**移民法(排日移民法としても知られる)**が制定され、特に、南・東ヨーロッパやアジアからの移民が、厳しく制限されることになりました。こうして、19世紀以来の、比較的自由な移民の時代は、一旦、終わりを告げます。
しかし、この100年間にわたる大規模な移民の波は、アメリカを、世界中のあらゆる民族が共存する、人類史上前例のない**「人種のるつぼ(Melting Pot)」、あるいは「多文化社会」**へと、根本から作り変えました。移民たちがもたらした多様な文化は、アメリカの文化を豊かにし、彼らの労働力は、アメリカが世界一の経済大国へと発展するための、不可欠な原動力となったのです。この経験は、現代のグローバルな人の移動と、それがもたらす社会の変容を考える上で、極めて重要な歴史的先例と言えるでしょう。
6. 中国人・インド人の移民
19世紀、ヨーロッパから新大陸への巨大な移民の潮流と並行して、もう一つの、しかし、しばしば見過ごされがちな、大規模な大陸間の人口移動が、アジアを起点として展開されていました。それは、主に中国南部とインドから、世界各地のヨーロッパ植民地や、アメリカ大陸へと向かった、数百万人にのぼる、中国人・インド人労働者の流れです。彼らの多くは、「苦力(クーリー)」と呼ばれ、奴隷制が廃止された後のプランテーションや鉱山、鉄道建設現場で、新たな安価な労働力として、劣悪な条件下で働かされました。この移民の波は、今日の東南アジア、カリブ海地域、アフリカ、そして南北アメリカに、巨大な中国系・インド系のディアスポラ(離散民)共同体を形成し、世界の民族・文化地図を、より一層複雑で多様なものへと塗り替えました。
6.1. 移民の背景:奴隷制の廃止と労働力需要
19世紀の中国人・インド人移民の背景には、ヨーロッパからの移民とは異なる、植民地主義に深く根ざした、特殊な事情がありました。
- 奴隷制の廃止: 19世紀前半、イギリス(1833年)をはじめとするヨーロッパ諸国は、人道主義的な理由や、経済的な非効率性から、相次いで植民地における奴隷制を廃止しました。これにより、カリブ海のサトウキビプランテーションや、アフリカ、東南アジアの鉱山など、これまで奴隷労働に完全に依存してきた植民地経済は、深刻な労働力不足に直面しました。
- 新たな安価な労働力の探求: プランテーションの所有者や植民地政府は、解放された奴隷に代わる、安価で、従順で、大量に供給可能な、新たな労働力を、世界中に求めました。その供給源として白羽の矢が立てられたのが、当時、人口が過剰であり、貧困と社会的混乱(アヘン戦争、太平天国の乱など)に苦しんでいた、アジア、特に中国とインドでした。
この、植民地側の巨大な労働力需要と、アジア側の深刻な貧困という、プル要因とプッシュ要因が結びつくことで、「苦力貿易(クーリー・トレード)」と呼ばれる、新たな形の労働力移動システムが生まれます。
6.2. 「苦力貿易」の実態:年季契約労働
「苦力」とは、中国語の「苦しい力仕事」に由来する言葉です。彼らの多くは、自由な移民ではなく、**年季契約労働者(indentured labourer)**という、半ば強制的な制度の下で、海外へと送られました。
- 契約の仕組み: 募集業者は、中国やインドの貧しい農村で、「海外へ行けば、楽に金が儲かる」といった、甘い言葉で人々を誘いました。読み書きのできない農民たちは、内容を十分に理解しないまま、数年間(通常は5年から10年)の労働契約に署名(あるいは拇印)をさせられました。この契約は、渡航費用や前貸し金を、雇用主が肩代わりする代わりに、その返済が終わるまで、指定された場所で、低賃金で働くことを義務付けるものでした。
- 劣悪な輸送と労働環境: 苦力たちは、しばしば誘拐同然の方法で集められ、衛生状態の劣悪な船(「浮かぶ地獄」と呼ばれた)に、家畜のように詰め込まれて、海外へと輸送されました。航海中の死亡率も、極めて高いものでした。到着した先のプランテーションや鉱山での労働は、奴隷制時代とほとんど変わらないほど、過酷なものでした。長時間労働、わずかな食料、そして監督者による暴力的な仕打ちが日常茶飯事であり、多くの人々が、契約期間が終わる前に、病気や事故で命を落としました。契約が終わっても、借金が返済できずに、事実上、生涯にわたって、その土地に縛り付けられる者も少なくありませんでした。
この「苦力貿易」は、その非人道的な実態から、「新しい形の奴隷制」であると、しばしば批判されました。
6.3. 移民の行き先とディアスポラ共同体の形成
中国人・インド人移民は、主にイギリス帝国の広大なネットワークを通じて、世界中の様々な地域へと送られていきました。
- 中国人移民:
- 東南アジア: 中国南部(福建省、広東省)から、地理的に近い東南アジアへは、古くから、商人(華僑)の移動がありました。19世紀には、マレー半島の錫鉱山やゴムプランテーション、あるいはシンガポールやペナンの都市部で、大量の中国人労働者が働きました。彼らは、今日のマレーシアやシンガポールにおける、中国系住民のコミュニティの基礎を築きました。
- アメリカ大陸: 19世紀半ばのカリフォルニア・ゴールドラッシュや、大陸横断鉄道の建設に、多くの中国人労働者が動員されました。彼らは、安価な労働力として、危険な肉体労働に従事しましたが、その一方で、白人労働者からは、職を奪う存在として、激しい差別と排斥に遭いました。1882年には、中国人排斥法が制定され、中国人移民は、公式に禁止されました。ペルーやキューバのプランテーションにも、多くの中国人が送られました。
- インド人移民:
- カリブ海地域: 奴隷解放後の、トリニダード・トバゴやガイアナといった、イギリス領のサトウキビプランテーションに、多数のインド人が年季契約労働者として送られました。
- アフリカ: 南アフリカのナタール地方のサトウキビプランテーションや、東アフリカのケニア、ウガンダにおける鉄道建設などに、インド人労働者が動員されました。若き日のマハトマ・ガンディーが、南アフリカでインド系移民への差別に直面し、その人権のために闘った経験は、後のインド独立運動における、彼の思想の原点となりました。
- 東南アジア・太平洋: マレー半島や、フィジーのプランテーションにも、多くのインド人が移住しました。
これらの移民たちは、異国の地で、厳しい差別や困難に直面しながらも、同郷者同士で助け合い、独自の共同体を築き上げていきました。彼らは、故郷の言語、宗教(仏教、道教、ヒンドゥー教、イスラームなど)、食文化、そして祭りといった伝統を守り続け、定住した先の社会に、新たな文化的な多様性をもたらしました。今日、世界各地に存在する、チャイナタウンやリトル・インディアは、彼らが歩んだ、苦難と創造の歴史の、生き生きとした証人なのです。
8. 民族浄化とジェノサイド
民族的・宗教的なアイデンティティは、人々に帰属意識と文化的な豊かさをもたらす、重要な要素です。しかし、その一方で、近代の歴史は、このアイデンティティが、排他的で、狂信的なナショナリズムと結びついた時、他者への憎悪を煽り、特定の集団を組織的に排除、あるいは絶滅させようとする、想像を絶する暴力へと転化しうることを、繰り返し証明してきました。それが、「民族浄化」と「ジェノサイド」という、人類の歴史における最も暗い闇です。これらの行為は、単なる戦争の副産物ではなく、特定の民族、人種、宗教集団を、その存在そのものを理由として、計画的に抹殺しようとする、国家による意図的な犯罪であり、人類の良心に対する、最も深刻な挑戦です。
8.1. 用語の定義
「民族浄化」と「ジェノサイド」は、しばしば混同して用いられますが、その定義には、重要な違いがあります。
- 民族浄化(Ethnic Cleansing): この用語が国際的に広く使われるようになったのは、1990年代の旧ユーゴスラヴィア紛争がきっかけです。その目的は、特定の地域から、標的とされた民族集団を、物理的に強制追放することにあります。その手段として、殺害、集団レイプ、強制移住、財産の破壊、文化遺産の破壊などが、組織的に行われます。その究極的な目標は、ある地域を、単一の民族によって「浄化」された、均質な領域へと作り変えることです。
- ジェノサイド(Genocide): この用語は、ポーランド系ユダヤ人の法律家、ラファエル・レムキンによって、ナチス・ドイツによるホロコーストの蛮行を定義するために、1944年に造語されました。ギリシア語の “genos”(種族、民族)と、ラテン語の “cide”(殺害)を組み合わせた言葉です。1948年に国連で採択された「ジェノサイド条約」によれば、その核心的な定義は、「国民的、人種的、民族的、宗教的な集団を、全体として、あるいは部分的に、破壊する意図をもって行われる行為」とされています。つまり、民族浄化が「追放」を主眼とするのに対し、ジェノサイドは、その集団の「絶滅(破壊)」そのものを意図しているという点で、より究極的な犯罪と位置づけられています。
8.2. 歴史上の主要な事例
近代以降の歴史には、これらの悲劇が、痛ましいほど数多く記録されています。
- アルメニア人ジェノサイド(1915年-1916年): 第一次世界大戦中、オスマン帝国末期の青年トルコ人政権は、帝国内に居住していたキリスト教徒のアルメニア人を、敵国ロシアに内通する恐れのある「危険な第五列」と見なし、その絶滅を計画しました。男性は、軍隊によって即座に殺害され、女性、子供、老人は、「移住」という名目で、シリアの砂漠地帯への「死の行進」を強制されました。この過程で、100万人から150万人のアルメニア人が、飢餓、渇き、病気、そして護送兵による虐殺によって命を落としたとされています。これは、20世紀最初の、体系的なジェノサイドであると言われています。
- ホロコースト(1941年-1945年): ナチス・ドイツが、アドルフ・ヒトラーの指導の下で実行した、ヨーロッパのユダヤ人の組織的な絶滅計画は、人類史上、最も計画的で、工業的な規模で行われたジェノサイドです。ナチスは、反ユダヤ主義の人種イデオロギーに基づき、ユダヤ人を「劣等人種」であり、ドイツ民族を汚染する存在と見なしました。彼らは、ヨーロッパ中のユダヤ人を、ゲットーに強制隔離した後、貨物列車で、アウシュヴィッツ=ビルケナウをはじめとする、絶滅収容所へと移送しました。そこで、ガス室を用いた大量殺戮や、過酷な強制労働、非人道的な医学実験が行われ、約600万人のユダヤ人が、組織的に殺害されました。
- カンボジアのジェノサイド(1975年-1979年): ポル・ポト率いる過激な共産主義政権クメール・ルージュは、カンボジアを、原始的な共産主義的農業国家へと、強制的に作り変えようとしました。彼らは、都市の住民を、強制的に農村へ移住させ、知識人、教師、医者、技術者、あるいは単に眼鏡をかけているという理由だけで、「旧社会の寄生虫」「革命の敵」と見なし、次々と処刑しました。この4年弱の間に、飢餓、強制労働、拷問、処刑によって、当時の総人口の4分の1にあたる、150万人から200万人が死亡したと推定されています。これは、国民が、自国の政府によって、大規模に殺戮された、自己ジェノサイド(オートジェノサイド)の例です。
- ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける民族浄化(1992年-1995年): ユーゴスラヴィアが解体する過程で、ボスニア・ヘルツェゴヴィナでは、セルビア人、クロアチア人、そしてイスラーム教徒のボシュニャク人という、三つの民族が、領土を巡って、血で血を洗う内戦を繰り広げました。特に、セルビア人勢力は、「大セルビア主義」の実現のため、ボシュニャク人やクロアチア人に対し、計画的な民族浄化作戦を実行しました。1995年のスレブレニツァの虐殺では、数日間で、8000人以上のボシュニャク人の男性が、セルビア人勢力によって組織的に殺害されました。
- ルワンダのジェノサイド(1994年): アフリカの小国ルワンダで、多数派のフツ族の過激派が、少数派のツチ族と、穏健派のフツ族の絶滅を計画し、実行しました。ラジオ放送を通じて、「ゴキブリ(ツチ族の蔑称)を皆殺しにしろ」といった、憎悪のプロパガンダが流され、軍や警察だけでなく、一般のフツ族の市民も、マチェーテ(山刀)などの原始的な武器を手に、隣人であったツチ族の虐殺に加わりました。わずか100日間で、約80万人の人々が、想像を絶する残虐さで殺害されました。
8.3. ジェノサイドへの道筋
これらの悲劇は、なぜ繰り返されるのでしょうか。その背景には、いくつかの共通したパターンが見られます。
- 「われわれ」と「彼ら」の区別: 社会が、人種、民族、宗教といった基準で、多数派の「われわれ」と、少数派の「彼ら」とに、明確に分断される。
- 非人間化: 支配的な集団が、プロパガンダを通じて、標的となる集団を、人間以下の存在(害虫、病原菌、動物など)として描き、彼らに対する共感や道徳的抑制を麻痺させる。
- 組織化: 国家や、それに準ずる権力組織が、殺害や追放を、計画的、体系的に組織し、実行部隊を動員する。
- 国際社会の無関心: 周辺の国々や、国際社会が、内政不干渉の原則や、自国の利益の打算から、虐殺を見て見ぬふりをする、あるいは、介入が遅れる。
民族浄化とジェノサイドの歴史は、近代国家が持つ、国民を動員し、官僚機構を通じて効率的に殺戮を実行できるという、巨大な暴力の潜在能力と、人間が、特定の条件下では、いかに容易に、隣人に対する残虐行為に加担しうるかという、厳しい現実を、私たちに突きつけているのです。
9. 国民国家と「国民」の創出
現代の私たちが、国際社会の基本的な単位として、当たり前のように考えている「国民国家(nation-state)」。それは、明確な国境線で区切られた領土を持ち、その領土内に住む、均質な「国民(nation)」が、単一の主権の下に統合されている国家の形態です。しかし、このような国家のあり方は、人類の歴史を通じて、普遍的に存在したわけではありません。それは、ヨーロッパにおいて、フランス革命などを画期として、18世紀末から19世紀にかけて発明され、その後、全世界へと広まっていった、極めて近代的な産物です。国民国家の形成は、単に政治的な制度が変わっただけでなく、それまで地域や身分、宗教といった、より小さな共同体に帰属していた人々の意識を、「国民」という、想像上の巨大な共同体へと、根本から作り変える、壮大な文化的・社会的プロジェクトでもありました。
9.1. 国民国家以前の世界
近代以前の世界において、人々の帰属意識の単位は、現代とは大きく異なっていました。
- 帝国: ローマ帝国やオスマン帝国、あるいは清朝中国のような、広大な領域を支配していた「帝国」は、その版図の中に、極めて多様な言語、宗教、文化を持つ、多数の民族集団を包含していました。帝国の支配者は、臣民の文化的な均質性を求めることは、ほとんどありませんでした。彼らにとって重要だったのは、臣民が、皇帝やスルタンといった、君主個人に対して忠誠を誓い、税を納めることであり、彼らが家庭で何語を話し、何を信仰するかは、二の次でした。
- 封建国家: 中世ヨーロッパの封建国家では、人々の忠誠は、国家そのものではなく、自らが仕える、直接の封建領主(王、諸侯、騎士)に向けられていました。国境線も、現代のように明確なものではなく、領主同士の結婚や相続によって、常に流動的に変化していました。
- 小規模な共同体: 大多数の庶民にとって、最も重要なアイデンティティの基盤は、自らが生まれ育った村や都市、あるいは所属する同業者組合(ギルド)や教区といった、顔の見える範囲の、小規模な共同体でした。彼らが「フランス人」や「ドイツ人」といった、大きな国民意識を持つことは、ほとんどありませんでした。
9.2. 「国民」の誕生:フランス革命とナショナリズム
「国民」という、新しい共同体の理念が、歴史の表舞台に登場する、決定的な画期となったのが、1789年のフランス革命です。
革命以前のフランスでは、主権は、神から絶対的な権力を授かった、ブルボン朝の国王にありました。しかし、革命は、「主権は、国王にあるのではなく、国民(la Nation)にある」と宣言しました(国民主権)。ここで言う「国民」とは、それまでの、聖職者、貴族、平民といった、不平等な身分に分断されていた人々の集合体ではなく、**「自由で、平等で、法の下に結束した、単一の市民共同体」**という、全く新しい理念でした。
この「国民」という理念は、19世紀を通じて、ヨーロッパ全土へと広まっていきます。特に、ナポレオン戦争は、フランスの支配に対する、各地域の抵抗運動を通じて、スペイン、ドイツ、イタリアといった地で、それぞれの「国民」意識(ナショナリズム)を覚醒させる、大きなきっかけとなりました。人々は、共通の言語、文化、歴史、そして時には「人種」を持つ共同体として、自らを「国民」と意識し始め、それぞれの「国民」が、自らの「国民国家」を持つべきである、という民族自決の思想が、力を持つようになります。このナショナリズムの波が、19世紀後半の、イタリアやドイツの統一、そして、多民族帝国であったオスマン帝国やオーストリア=ハンガリー帝国の解体へと繋がっていきました。
9.3. 「国民」を創るための装置
しかし、「国民」という共同体は、自然に存在するものではありません。歴史学者のベネディクト・アンダーソンが『想像の共同体』で述べたように、国民とは、実際に会ったことのない、無数の他者と、自分たちが同じ共同体に属しているという、**「想像」**によって、初めて成り立つものです。近代国家は、この「想像」を、国民の隅々にまで浸透させるため、様々な「装置」を用いて、「国民」を積極的に「創り出して」いきました。
- 公教育(義務教育): 国家が、全国民の子供たちに対して、統一されたカリキュラムで教育を行うことは、「国民」を創出するための、最も強力な装置でした。学校では、標準語としての国語が教えられ、方言は抑制されました。また、国史の授業を通じて、自国の輝かしい歴史(しばしば、神話的に脚色された)が教え込まれ、国民としての誇りと一体感が育まれました。
- マス・メディア: 新聞や雑誌といった、マス・メディアの発達は、国民が、遠く離れた場所で起こっている出来事を、同時に、同じ言語で共有することを可能にしました。これにより、国民全体が、一つの物語を共有する、一体感のある共同体であるという感覚が、醸成されました。
- 国旗、国歌、国民の祝祭: 国旗への敬礼や、国歌の斉唱、独立記念日などの国民的な祝祭の挙行といった、儀礼やシンボルが、国家によって創り出され、人々は、それを繰り返す中で、無意識のうちに、国民としての一体感を内面化していきました。
- 徴兵制: 国民皆兵の制度は、様々な地方出身の若者たちを、軍隊という一つの組織の中で生活させ、共通の敵と、国家への忠誠心を持つ、「国民」の兵士へと作り変える、強力な装置でした。
9.4. 国民国家の光と影
国民国家の形成は、人々に、身分的な束縛からの解放、政治参加の権利、そして国民としての一体感といった、多くの肯定的な価値をもたらしました。しかし、その一方で、「国民」の創出というプロセスは、常に、暴力的な側面を伴っていました。
均質な「国民」を創り出すためには、その「国民」の枠組みから外れる、異質な人々を、排除したり、強制的に同化させたりする必要が生じます。国家が定めた「国語」を話さない、少数言語の集団や、多数派とは異なる宗教や文化を持つ、少数民族は、しばしば、抑圧や、強制的な同化政策の対象となりました。
そして、この「国民」の理念が、過激で、排他的なナショナリズムへと転化し、「我々の国民」が、他の「劣った国民」を支配するのは当然である、という思想にまで至った時、それは、帝国主義的な侵略や、前述の民族浄化、ジェノサイドといった、最悪の悲劇を引き起こす原因ともなったのです。
国民国家という枠組みは、現代世界を規定する、強力な現実です。しかし、その歴史を批判的に振り返ることは、私たちが、自らが属する「国民」というアイデンティティが、決して永遠不変のものではなく、歴史的に創られてきたものであることを自覚し、より寛容で、多様な人々と共存する未来を構想するために、不可欠な視点と言えるでしょう。
10. 現代の難民・移民問題
21世紀の今日、世界のグローバル化は、モノ、カネ、情報が、瞬時に国境を越えて移動する時代をもたらしました。そして、このグローバル化のもう一つの側面が、人の移動の増大です。経済的な機会を求めて、あるいは、紛争や迫害、そして気候変動から逃れるために、かつてない数の人々が、故郷を離れ、国境を越えて移動しています。この大規模な人の流れは、受け入れ国に、労働力の提供や文化の多様化といった、恩恵をもたらす一方で、社会的な緊張、排外主義の高まり、そして、国家の主権やアイデンティティを巡る、深刻な政治的・社会的な課題を突きつけています。現代の難民・移民問題は、本モジュールで探求してきた、人類の移動の歴史の、まさに最前線であり、国際社会全体が、その解決に向けて、知恵を試されている、喫緊の課題です。
10.1. 「難民」と「移民」の区別
現代の国際的な人の移動を考える上で、まず、法的な定義として、「難民」と「(経済)移民」を区別することが重要です。
- 難民(Refugee): 1951年に国連で採択された「難民条約」によれば、難民とは、**「人種、宗教、国籍、特定の社会的集団の構成員であること、または政治的意見を理由として、迫害を受けるおそれがあるという十分に理由のある恐怖を有するために、国籍国の外にいる者であって、その国籍国の保護を受けることができない、またはそのような恐怖を有するために、その国籍国の保護を受けることを望まない者」**と定義されています。つまり、難民とは、自らの生命や自由が、深刻な危険に晒されているため、やむを得ず故郷を逃れた人々であり、国際法上、保護される権利を持つ人々です。彼らを、迫害の恐れがある国へ、強制的に送還することは、「ノン・ルフールマン原則」によって、固く禁じられています。
- (経済)移民(Migrant): 一方で、移民とは、より良い経済的な機会や、教育、家族との再会といった、迫害以外の、自発的な理由で、居住国を移動する人々を指します。彼らは、難民のような、国際法上の特別な保護の対象とはならず、その受け入れは、各国の主権的な判断(出入国管理政策)に委ねられています。
しかし、現実には、この両者の区別は、しばしば曖昧です。例えば、経済的な困窮が、政府の圧政や内戦によって引き起こされている場合、その人を、単なる「経済移民」として切り捨てることは、困難です。このような人々を、「経済難民」と呼ぶこともあります。
10.2. 現代の難民・移民を生み出す要因
現代において、人々が国境を越えて移動する背景には、いくつかの複合的なグローバルな要因が存在します。
- 紛争と政治不安: 冷戦終結後も、世界の各地で、内戦や民族紛争、そしてテロ組織の活動が、後を絶ちません。2011年の「アラブの春」以降、長期にわたる内戦状態に陥ったシリアでは、国民の半数以上が、国内外への避難を余儀なくされ、21世紀最大の、人道危機を引き起こしました。アフガニスタン、南スーダン、ミャンマーのロヒンギャ問題なども、大量の難民を生み出しています。
- グローバルな経済格差: 先進国と発展途上国の間の、圧倒的な経済格差が、より良い職と収入を求める、国際的な労働力移動の、最大の駆動力となっています。特に、人口が増加し、若年層の失業率が高い、アフリカやラテンアメリカ、アジアの国々から、先進国へと向かう人の流れが、絶え間なく続いています。
- 交通・情報通信技術の発達: 安価な航空網や、インターネット、スマートフォンの普及は、人々が、海外の生活や仕事に関する情報を、容易に入手し、実際に国境を越えることを、物理的・心理的に、より容易にしました。
- 気候変動: 地球温暖化に伴う、砂漠化の進行、海面上昇、そして異常気象(干ばつ、洪水など)の頻発は、人々が、伝統的な土地で、農業や牧畜を続けていくことを、困難にしています。将来的には、この**「気候難民」**が、国際的な人の移動の、最も大きな要因の一つになる可能性が指摘されています。
10.3. 受け入れ国が直面する課題
大量の難民や移民の流入は、主に、ヨーロッパや北米の先進国を中心とする、受け入れ国の社会に、多くの複雑な課題を突きつけています。
- 社会統合の問題: 言語、文化、宗教的背景が異なる移民たちが、ホスト社会に、いかにして円滑に統合していくか、という問題です。教育、雇用、社会保障といった分野で、彼らをいかに支援し、社会の一員として包摂していくかが、大きな課題となります。統合がうまくいかない場合、移民コミュニティが、社会から孤立し、ゲットー化する現象も見られます。
- 経済的な影響: 移民は、しばしば、現地の人がやりたがらない、いわゆる3K(きつい、汚い、危険)の労働を担い、労働力不足を補うという、経済的に重要な役割を果たします。しかし、一方で、低賃金労働者の流入が、国内の非熟練労働者の賃金を押し下げるのではないか、あるいは、社会保障制度への負担を増大させるのではないか、といった懸念も、しばしば表明されます。
- 政治問題化と排外主義の高まり: 難民・移民問題は、受け入れ国において、最も政治的に対立の激しい争点の一つとなりがちです。特に、経済不安や、テロへの恐怖などを背景に、移民を、自国の文化や安全を脅かす「脅威」と見なし、その受け入れに反対する、ポピュリズム(大衆迎合主義)や、排外主義的な政治勢力が、ヨーロッパ各地で、近年、急速に支持を拡大しています。イギリスのEU離脱(ブレグジット)や、アメリカのトランプ政権の登場も、こうした反移民感情の高まりと、無関係ではありません。
10.4. 国際社会の挑戦
グローバルな人の移動は、もはや、一国だけの努力で管理・解決できる問題ではありません。難民の保護、人身売買の防止、そして、移民の権利の保障といった課題に取り組むためには、国際的な協調と、責任の分担が、不可欠です。
しかし、現実には、多くの国が、自国の国益を優先し、国境管理を強化する方向に動いており、国際協調の道のりは、険しいものとなっています。
人類の歴史が、移動の歴史であったことを振り返る時、私たちは、現代の難民・移民問題を、単なる「脅威」や「負担」としてではなく、グローバル化した世界が、共に取り組むべき、共通の課題として、捉え直す必要があります。国境を越えて移動する人々が持つ、多様な文化や活力は、正しく受け止められれば、ホスト社会を、より豊かで、ダイナミックなものへと変える、大きな可能性を秘めているのです。その可能性を、いかにして現実のものとしていくか。それは、21世紀の国際社会に課せられた、最も重要な問いの一つと言えるでしょう。
Module 17:民族移動とアイデンティティの総括:「移動」こそが人類史の本質――故郷と国民をめぐる永続的な問い
本モジュールを通じて、私たちは、人類の歴史が、定住よりも、むしろ「移動」によって、絶えず形作られ、動かされてきた、壮大な物語であることを確認してきました。先史時代のインド=ヨーロッパ語族の拡散から、グローバル化時代の難民・移民の流れに至るまで、人の移動は、ある時は緩やかな文化の伝播として、またある時は、激しい文明の衝突として、世界の姿を根本から塗り替えてきたのです。
古代から中世にかけての、ゲルマン民族やトルコ・モンゴル系民族、そしてヴァイキングの移動は、既存の帝国を打ち破り、その廃墟の上に、今日の世界地図の原型となる、新たな政治的・文化的秩序を創造しました。彼らの移動は、戦争と征服という、暴力的な側面を伴いましたが、同時に、ユーラシア大陸の広大な地域に、新たなダイナミズムと、文化の融合をもたらす、創造的な破壊でもありました。
近代に入ると、人の移動は、その規模と性質を、一変させます。ヨーロッパの人口爆発と貧困を背景とした、新大陸への数千万の移民の波は、アメリカをはじめとする、新たな多民族社会を創出しました。一方で、植民地主義が生み出した「苦力貿易」は、アジアの人々を、新たな形の隷属の下で、世界中へと拡散させました。これらの近代の移動は、現代世界の人的な基盤を築くと同時に、人種間の深い亀裂と、差別という、重い負の遺産も残しました。
私たちが、自明のものとして考えている「国民」というアイデンティティが、実は、近代の国民国家によって、公教育やマス・メディアといった装置を通じて、極めて意図的に「創り出された」ものであるという事実は、私たちの自己認識を、根底から揺さぶります。この「国民」を創出するプロセスは、しばしば、その枠組みから外れる人々への、同化の強制や、暴力的な排除を伴いました。その究極の、そして最も悲劇的な発露が、民族浄化とジェノサイドという、特定の集団の存在そのものを抹消しようとする、組織的な蛮行でした。
ディアスポラとして、世界中に離散しながらも、数千年にわたって、宗教と文化を拠り所に、民族的アイデンティティを維持し続けたユダヤ人の歴史は、故郷を失った民が、いかにして自己の連続性を保ち、そして、近代ナショナリズムの時代に、故郷の「再創造」を目指したかという、特異で、示唆に富む事例です。
現代の難民・移民問題は、これら全ての歴史的なテーマが、凝縮された形で現れている、現代世界の縮図です。紛争、貧困、そして環境破壊によって、故郷を追われる人々。彼らを受け入れる社会で渦巻く、寛容と排外主義の間の葛藤。それは、「われわれ」とは誰であり、「われわれの共同体」は、どこまで開かれているべきなのか、という、国民国家の理念そのものに対する、根源的な問いを、私たち一人ひとりに、突きつけています。
人類の歴史が、移動の歴史であるならば、未来の歴史もまた、移動の歴史であり続けるでしょう。この絶え間ない人の流れの中で、私たちは、排他的なアイデンティティに固執するのではなく、いかにして、多様な背景を持つ他者と共存し、より公正で、豊かな人間社会を築いていくことができるのか。その答えを探す旅は、これからも、続いていくのです。