【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 21:近世の文化

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本モジュールの目的と構成

「近世」とは、世界史において、中世的な秩序が崩壊し、近代的な世界システムが胎動を始める、巨大な地殻変動の時代です。ヨーロッパでは、ルネサンスと宗教改革がキリスト教という単一の世界観を揺るgし、「人間」と「理性」が新たな時代の主役として躍り出ました。科学革命は、天動説という神学的な宇宙観を覆し、世界を数学の言葉で記述可能な、客観的な研究対象へと変えました。一方で、アジアでは、オスマン、ムガル、明清といった強大な帝国が最後の輝きを放ち、それぞれに円熟した独自の文化を花開かせると同時に、内なる変革の論理や、遠来の西洋文明との接触という新しい課題に直面していました。

本モジュール「近世の文化」は、この地球規模で進行した、多元的でありながらも次第に相互に結びついていく文化のダイナミズムを、比較史的な視点から深く探求することを目的とします。それは、一つの価値観が崩れ、新しい知のパラダイムが生まれる瞬間の知的興奮と、異なる文明圏がそれぞれに到達した文化的な達成の高みを、以下の10のテーマを通じて描き出す試みです。

  1. ルネサンスの美術: なぜ近世の扉は、イタリアのフィレンツェで開かれたのか。神中心の中世世界から、人間中心の価値観(ヒューマニズム)へと移行する時代の精神が、ダ・ヴィンチやミケランジェロの作品にいかにして結晶したのかを探ります。
  2. 宗教改革と聖書翻訳: 一枚の紙(九十五カ条の論題)が、いかにしてヨーロッパの宗教的地図を永遠に塗り替え、近代的な国家や言語の形成を促したのか。活版印刷という新しいメディアと結びついた、聖書の母国語翻訳が持つ、革命的な力に迫ります。
  3. 科学革命: 人類の世界観を根底から覆した、コペルニクスからニュートンに至る知の革命の軌跡をたどります。教会や古典の権威から独立し、観察・実験・数学という新しい方法論を武器に、自然界の法則を解き明かしていった、近代科学の誕生のドラマを描きます。
  4. バロック様式とロココ様式: 宗教改革後のカトリック教会の威信と、絶対王政の栄光を、壮大なスケールで視覚化したバロック。そして、その重厚さから一転し、貴族たちの私的な空間を軽やかで優美に飾ったロココ。二つの対照的な芸術様式から、近世ヨーロッパの権力と社会の変化を読み解きます。
  5. 啓蒙思想: 「理性の光」によって、旧弊や迷信を打ち破り、人間社会を進歩させようとした18世紀の知的運動の核心に触れます。ロック、モンテスキュー、ルソーといった思想家たちが、いかにしてアメリカ独立革命やフランス革命の理論的支柱を築いたのかを検証します。
  6. 古典派音楽: バッハの荘厳な教会音楽から、モーツァルトの軽快なオペラへ。啓蒙時代の合理主義と調和の精神を反映し、ウィーンで花開いた古典派音楽の様式的な特徴と、ハイドン、モーツァルト、そしてベートーヴェンという三大巨匠の業績を考察します。
  7. 明清の考証学と実学: ヨーロッパで科学革命が進行していた頃、中国の知識人たちはどのような知的探求を行っていたのか。空理空論に陥った朱子学への反省から生まれた、文献に即して実証的に真理を探究する考証学と、社会に役立つ実用的な学問(実学)の精神に光を当てます。
  8. 江戸時代の国学と蘭学: 鎖国下の日本で展開された、二つの対照的な学問の潮流を分析します。外来思想を排し、日本古来の精神を探求した国学と、長崎の出島を通じて西洋の科学技術を吸収した蘭学。この両者が、いかにして近代日本の幕開けを準備したのかを探ります。
  9. ムガル帝国の美術と建築: イスラーム文化とインド文化の壮麗な融合の極致である、ムガル帝国の芸術世界を探訪します。タージ・マハルに代表される建築美や、精緻を極めたミニアチュール(細密画)が、いかにして帝国独自の複合文化を体現していたかを解き明かします。
  10. オスマン帝国の文化: ビザンツ帝国とイスラーム世界の二つの遺産を継承したオスマン帝国が、コンスタンティノープルで花開かせた円熟の文化を考察します。建築家ミマール・スィナンのモスク建築や、イズニク・タイル、そしてコーヒーハウスという新しい社会空間の誕生に触れます。

このモジュールを通じて、読者は「近世」が、ヨーロッパにおける「近代」の序章であったと同時に、アジアの諸帝国が最後の文化的爛熟期を迎えた時代であったことを理解するでしょう。それは、世界が一体化していく激動の時代の前夜に、各文明が放ったそれぞれの強烈な光芒を追体験する、知的な探検となるはずです。

目次

1. ルネサンスの美術

14世紀のイタリアに始まり、15世紀から16世紀にかけてヨーロッパ各地に広がった「ルネサンス」は、「再生」を意味する言葉です。それは、中世の神中心の世界観の束縛から人間を解放し、ギリシア・ローマの古典古代の文化を模範として、人間そのものの価値と可能性を再発見しようとする、広範な文化運動でした。この時代の精神、すなわちヒューマニズム(人文主義)が、最も鮮やかで、永続的な形で表現されたのが、美術の分野でした。ルネサンスの芸術家たちは、もはや名もなき職人ではなく、才能と知性を備えた「万能の天才」として尊敬を集め、遠近法や解剖学といった科学的な知識を駆使して、現実の世界と人間を、かつてないほどのリアリティと理想的な美しさをもって描き出したのです。

1.1. なぜイタリアで始まったのか

ルネサンスが、アルプスの北ではなく、イタリア半島で始まったのには、いくつかの明確な理由がありました。

  • 古典古代の遺産: イタリアは、かつてのローマ帝国の中心地であり、いたるところに神殿や彫刻といった古代の遺跡が残っていました。これらは、芸術家たちにとって、インスピレーションの尽きない源泉となりました。
  • 都市国家の繁栄: 当時の北・中部イタリアは、神聖ローマ帝国の支配が緩み、フィレンツェ、ヴェネツィア、ミラノといった都市国家が、地中海貿易によって経済的に繁栄していました。これらの都市では、封建的な身分制度よりも、個人の才覚が重視される、自由な市民社会が形成されていました。
  • 強力なパトロンの存在: 都市の富裕な市民階級、特にフィレンツェのメディチ家のような大商人や銀行家、そしてローマ教皇といった人々が、有力な「パトロン(芸術後援者)」として、自らの富と権威を示すために、芸術家たちに競って作品を注文しました。この旺盛な需要が、芸術の革新を強力に後押ししました。

1.2. 初期ルネサンス:フィレンツェの革新(15世紀)

15世紀のフィレンツェは、ルネサンス芸術が産声を上げた、まさにその揺り籠でした。この時代、三人の天才が、それぞれ建築、彫刻、絵画の分野で、中世の伝統を打ち破る革命的な業績を成し遂げます。

  • ブルネレスキ(建築): 彼は、フィレンツェの象徴であるサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂に、古代ローマのパンテオンを研究して、巨大な円蓋(クーポラ)を架けるという、当時不可能とさえ思われた難事業を成し遂げました。また、彼は絵画における「線遠近法(透視図法)」の発明者ともされ、二次元の平面上に、三次元のリアルな空間を数学的に再現する方法を確立しました。
  • ドナテッロ(彫刻): 彼は、古代以来、約千年間途絶えていた、独立した等身大の裸体像を復活させました。彼の初期の傑作である、青銅製の『ダヴィデ』像は、ゴリアテを倒した若き英雄ダヴィデを、神々しい理想像としてではなく、思春期の少年の、まだあどけなさを残した、生身の人間として表現しています。
  • マザッチオ(絵画): ブルネレスキが発明した線遠近法を、絵画において初めて本格的に応用したのがマザッチオです。彼のフレスコ画『聖三位一体』では、完璧な遠近法を用いて、礼拝堂の奥に神々が存在するかのような、圧倒的な空間の奥行きが描き出されています。また、人物像は、中世絵画のような平面的で象徴的なものではなく、光と影を巧みに用いて、重量感と実在感のある、彫刻のような立体感をもって描かれています(キアロスクーロ)。

この三人の革新の上に、15世紀後半のフィレンツェでは、サンドロ・ボッティチェッリが、異教的な神話の世界を、優美で繊細な線描で描き出し、『ヴィーナスの誕生』や『春(プリマヴェーラ)』といった、ルネサンス美術を代表する傑作を生み出しました。

1.3. 盛期ルネサンス:三大巨匠の時代(16世紀初頭)

15世紀末から16世紀初頭にかけての約30年間は、ルネサンス芸術がその頂点を迎えた「盛期ルネサンス」の時代です。芸術の中心は、フィレンツェから、ユリウス2世のような野心的な教皇が強力なパトロンとなったローマへと移ります。この時代に、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロ、ラファエロという、西洋美術史上不滅の名を刻む、三人の巨匠が活躍しました。

  • レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519): 画家、彫刻家、建築家、科学者、技術者、解剖学者と、あらゆる分野で天才的な才能を発揮した「万能人(ウオーモ・ウニヴェルサーレ)」の典型です。彼の絵画は、科学的な探求心に裏打ちされていました。ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ聖堂の食堂に描かれた『最後の晩餐』では、一点透視図法を駆使した厳密な空間構成の中に、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」というイエスの言葉に、弟子たちが示す、それぞれの動揺や驚きといった、人間の心理が劇的に描き分けられています。また、『モナ・リザ』では、「スフマート」と呼ばれる、輪郭線をぼかして描く技法を用いて、人物に神秘的な生命感と、深い内面性を与えることに成功しました。
  • ミケランジェロ・ブオナローティ(1475-1564): 彫刻家、画家、建築家として、超人的な情熱とスケールで、神と人間のドラマを描き出した天才です。彼の芸術の根底には、人間の肉体こそが、神的な美しさを宿す「魂の器」であるという、新プラトン主義的な思想がありました。フィレンツェのために制作した巨大な『ダヴィデ』像は、均整の取れた肉体美と、敵を前にした強靭な精神力を見事に表現し、ルネサンスの人間賛歌の象徴となりました。ローマ教皇ユリウス2世に命じられて制作した、ヴァチカンのシスティーナ礼拝堂の天井画は、旧約聖書の創世記の物語を、躍動感あふれる無数の人間像で埋め尽くした、壮大な作品です。
  • ラファエロ・サンティ(1483-1520): レオナルドの深い陰影と、ミケランジェロの力強い動感とを学び、それらを融合させて、優雅で、調和に満ちた、古典的な美の様式を完成させました。彼の描く聖母子は、その穏やかで慈愛に満ちた表情から、多くの人々に愛されました。ヴァチカン宮殿の「署名の間」に描いたフレスコ画『アテナイの学堂』は、プラトンやアリストテレスをはじめとする古代ギリシアの哲学者たちを、壮大な建築空間の中に一堂に会させたもので、古代の知への敬意と、調和の取れた美という、盛期ルネサンスの理想を最も完璧に表現した作品と言えるでしょう。

1.4. 北方ルネサンス

イタリアで始まったルネサンスの波は、アルプスを越えて、フランドル(現在のベルギー、オランダ)やドイツといった、北ヨーロッパの国々にも広がりました。しかし、北方ルネサンスは、イタリアとは異なる特徴を持っていました。

  • 写実主義と宗教性: イタリアの芸術家が、古代の理想美や、壮大な物語性を追求したのに対し、北方の芸術家たちは、より経験的な、目の前の現実を細部まで忠実に描写する写実主義を特徴としました。また、その精神は、ヒューマニズムの中でも、聖書の原典研究などを通じて、より敬虔で内面的なキリスト教信仰を目指す「キリスト教的ヒューマニズム」と結びついていました。
  • 油彩技法の完成: フランドルのファン・エイク兄弟は、油絵の具の技法を完成させました。油絵の具は、乾燥が遅く、透明な層を塗り重ねることができるため、宝石の輝きや、布地の質感、そして光そのものを、驚くほどリアルに描き出すことを可能にしました。
  • デューラー: ドイツのアルブレヒト・デューラーは、イタリアを旅してルネサンスの理論を学び、それを北方の写実主義の伝統と融合させました。彼は、版画の分野でも優れた作品を残し、その芸術を広く普及させました。

ルネサンス美術は、西洋の芸術家たちを、中世の無名の職人から、個人の創造性を尊重される知識人へと引き上げました。彼らが確立した、遠近法、解剖学、理想的なプロポーションといった造形言語は、その後の西洋美術の揺るぎない基礎となったのです。

2. 宗教改革と聖書翻訳

16世紀初頭、ドイツのヴィッテンベルクという小さな大学町の一人の修道士が投げかけた問いが、ヨーロッパ全土を巻き込む巨大な嵐となり、中世以来、千年にわたってヨーロッパを精神的に支配してきたローマ・カトリック教会の権威を根底から揺るがしました。この「宗教改革」は、単なる教会内部の改革運動に留まらず、政治、社会、そして文化のあらゆる側面に深刻な影響を及ぼし、ヨーロッパを近世という新しい時代へと押し進める、決定的な原動力となりました。この革命的な運動の中心にあったのが、「信仰のみ」「聖書のみ」という原則であり、それを可能にしたのが、グーテンベルクが発明した活版印刷術と、それによって可能になった「聖書の母国語翻訳」でした。聖書の言葉が、ラテン語の壁を越えて、初めて民衆自身の手に渡ったこと。これこそが、宗教改革が持つ、真に革命的な力の中核だったのです。

2.1. 改革前夜:教会の腐敗と新しい動き

16世紀初頭のローマ・カトリック教会は、深刻な問題を抱えていました。

  • 教会の世俗化: 教皇や高位聖職者たちは、宗教的な指導者というよりも、領地や権力を争う世俗の君主のように振る舞っていました。聖職売買(シモニア)が横行し、聖職者の妻帯も珍しくありませんでした。
  • 贖宥状(しょくゆうじょう、免罪符)の問題: 当時のカトリック教会の教えでは、罪を犯した信者は、告解によって罪そのものは赦されるものの、その罪に対する罰(てん罰)は、この世か、死後の煉獄(れんごく)で償わなければならないとされていました。贖宥状とは、この罰を、金銭の寄進などの善行によって、教会が免除・軽減することを証明する証書でした。しかし、この仕組みは次第に、教会の財源確保のための手段として、安易に利用されるようになります。特に、1517年、ローマのサン・ピエトロ大聖堂の改築資金を集めるために、ドイツで大規模に販売された贖宥状は、「金貨が箱にチャリンと音を立てて入ると、魂は煉獄から飛び上がる」といった、極めて俗悪な謳い文句で宣伝され、多くの人々の反発を招きました。

一方で、ルネサンスのヒューマニズム(人文主義)は、聖書研究にも新しい光を当てていました。エラスムスのようなキリスト教的ヒューマニストは、「原典へ(アド・フォンテス)」を合言葉に、中世のラテン語訳(ウルガタ)ではなく、ギリシア語の原典から新約聖書を校訂・出版し、教会の教義や慣行を、聖書そのものの教えに照らして批判的に見直す気運を高めていました。

2.2. マルティン・ルターと「九十五カ条の論題」

この贖宥状販売に、真っ向から異議を唱えたのが、ヴィッテンベルク大学で神学を教えていた、アウグスティヌス修道会士マルティン・ルター(1483-1546)でした。

  • 魂の救済をめぐる苦悩: ルターは、極めて真摯な信仰心を持つ人物で、自らの罪深さに深く悩み、修道院での厳しい修行によっても、魂の平安を得ることができずにいました。彼が救いを見出したのは、聖書の「ローマの信徒への手紙」にある、「神の義は、福音のうちに啓示され、信仰に始まり、信仰に至らせる。『正しい者は信仰によって生きる』と書いてあるとおりである」という一節でした。
  • 信仰義認説: この言葉から、ルターは、人間は、善行や教会の儀式によって義(ただ)とされる(救われる)のではなく、ただひたすらに神の恵みを信じる「信仰のみ」によって救われるのだ(信仰義認説)、という核心的な思想に到達します。この立場からすれば、贖宥状のような、人間の行いによって救済が左右されるかのような教えは、神の恵みを冒涜する、許しがたいものに他なりませんでした。
  • 論題の提示: 1517年10月31日、ルターは、この贖宥状の問題点を神学的な観点から批判する、「九十五カ条の論題」を、ヴィッテンベルク城教会の扉に掲示(あるいは関係者に送付)し、学術的な討論を呼びかけました。この論題は、当時発明されたばかりの活版印刷術によって、瞬く間にドイツ中に広まり、ルターの意図を超えて、教皇や教会の権威そのものに対する、広範な批判の口火を切ることになります。

2.3. 聖書翻訳の革命的意義

教皇レオ10世は、ルターに自説の撤回を求めますが、ルターはこれを拒否。ライプツィヒの討論などで、教皇や教会会議の権威よりも、「聖書のみ」がキリスト者の信仰の唯一の根拠である(聖書中心主義)と主張し、教会との断絶は決定的となります。1521年、ヴォルムスの帝国議会に召喚されたルターは、皇帝カール5世の前でも自説を撤回せず、「われここに立つ。ほかになしあたわず」と述べたと伝えられています。

議会の後、ザクセン選帝侯フリードリヒにかくまわれたヴァルトブルク城で、ルターは彼の最も偉大な仕事の一つに着手します。それは、新約聖書のドイツ語への翻訳でした。

  • 万人祭司主義: ルターは、聖職者だけが神と信者の仲介者であるというカトリックの教えを否定し、全ての信者は、キリストを信じる信仰によって、直接神の前に立つことができる「祭司」である(万人祭司主義)と説きました。この教えを真に実現するためには、全ての信者が、自分自身で聖書の言葉を読み、理解できることが不可欠でした。
  • ルター訳聖書のインパクト: 1522年に新約聖書が、1534年に旧約聖書を含む全訳が出版されると、ルターのドイツ語訳聖書は、前例のないベストセラーとなります。その影響は、計り知れないほど大きいものでした。
    1. 宗教的インパクト: 聖書は、もはやラテン語を解する聖職者の独占物ではなくなりました。民衆は、初めて自らの言葉で、神のメッセージに直接触れることができるようになり、個人の内面的な信仰が、教会の権威よりも重視されるという、近代的な宗教観の基礎が築かれました。
    2. 言語的・文化的インパクト: ルターは、特定の地方の方言ではなく、ザクセン地方の chancery(官庁)で使われていた言葉を基に、力強く、民衆に分かりやすいドイツ語を作り上げました。彼の聖書は、後のドイツ語の文章語の標準(近代標準ドイツ語)を形成し、ドイツ文学の不朽の記念碑となりました。
    3. 政治的インパクト: 聖書のドイツ語への翻訳は、ローマ教皇の普遍的な権威からの離脱と、ドイツという言語共同体意識の形成を促し、ドイツの諸侯が教皇から独立して、自らの領内の教会を支配する(領邦教会制)動きを、思想的に後押ししました。

2.4. 宗教改革の拡大と各国語への翻訳

ルターの改革に続き、スイスのチューリヒではツヴィングリが、ジュネーヴではカルヴァンが、より徹底した改革を進めました。カルヴァンの思想(カルヴァン主義)は、フランス、オランダ、スコットランド、そしてイギリスのピューリタンへと広まり、各地で聖書の母国語への翻訳が活発に行われました。イギリスでは、ウィリアム・ティンダルが命がけで聖書の英訳を行い、その訳は、1611年に完成した『欽定訳聖書(King James Version)』の基礎となりました。この格調高い名訳は、シェイクスピアの作品と並んで、英語という言語そのものと、英語圏の文化に、絶大な影響を与え続けています。

宗教改革は、ヨーロッパのキリスト教世界を、カトリックとプロテスタントに二分し、その後一世紀以上にわたる悲惨な宗教戦争の時代をもたらしました。しかし、その一方で、聖書翻訳を通じて、個人の内面的な信仰の価値を確立し、近代的な国民国家と言語の形成を促したという点で、西洋史における画期的な出来事であったことは間違いありません。

3. 科学革命

16世紀から17世紀にかけて、ヨーロッパの知の世界で、人類の世界観を根底から、そして永遠に覆すような、静かでありながらも決定的な革命が進行しました。それが「科学革命」です。この革命は、古代ギリシアのプトレマイオス以来、千数百年にわたって誰もが信じてきた、地球が宇宙の中心で静止しているという「天動説」を覆し、太陽が中心で地球がその周りを公転しているという「地動説」を確立した、天文学の分野から始まりました。しかし、その影響は天文学に留まりません。それは、世界を、神の神秘的な意志の現れとしてではなく、人間の理性が数学の言葉で解読できる、法則に基づいた客観的な「機械」として捉える、全く新しい自然観の誕生でした。コペルニクス、ケプラー、ガリレオ、そしてニュートンといった天才たちのリレーによって成し遂げられたこの革命は、近代科学の方法論を確立し、後の啓蒙思想や産業革命の知的基盤を準備する、西洋近代の成立における最大の画期でした。

3.1. 古代・中世の宇宙観:天動説の世界

科学革命が打倒すべきであった、伝統的な宇宙観は、古代ギリシアの天文学者プトレマイオス(2世紀)が、アリストテレスの自然学を基に体系化した、天動説(地球中心説)でした。

  • プトレマイオスの宇宙: このモデルでは、宇宙の中心には、不純で変化する物質からなる地球が静止しています。その周りを、月、水星、金星、太陽、火星、木星、土星という七つの惑星が、それぞれ固有の透明な天球(水晶のような球体)にはめ込まれて、完全な円運動をしながら公転しています。そして、その最も外側には、全ての恒星が貼り付けられた恒星天球があり、さらにその外側に、神の住まう至高天が存在すると考えられていました。
  • キリスト教神学との融合: この宇宙観は、キリスト教神学と極めて親和性が高いものでした。地球は、神が人間を創造した特別な舞台であり、その中心的な位置は、神の救済ドラマにおける人間の中心性を象徴していました。天上の世界は、完璧で不変な神の領域であり、地上の世界は、罪深く、変化と腐敗に満ちた人間の領域であるという、明確な階層秩序が存在していました。このアリストテレス=プトレマイオス的な宇宙観は、中世のスコラ学によってキリスト教の教義と完全に一体化し、疑うことのできない絶対的な権威となっていました。

3.2. 革命の序曲:コペルニクスと地動説

この堅固な宇宙観に、最初の亀裂を入れたのが、ポーランドの聖職者であり天文学者であったニコラウス・コペルニクス(1473-1543)です。

  • 『天球の回転について』: 彼は、天動説が惑星の複雑な動き(逆行など)を説明するために、周転円などのあまりに不自然な仕組みを必要とすることに不満を抱いていました。そして、古代ギリシアにも存在した地動説のアイデアに基づき、もし太陽を宇宙の中心に置き、地球を惑星の一つとしてその周りを公転させれば、惑星の動きが、より単純で調和の取れた数学的な体系で説明できることを発見します。彼は、この革新的な理論を、その死の直前である1543年に、『天球の回転について』という書物で発表しました。
  • 限定的なインパクト: しかし、コペルニクスの地動説は、すぐには受け入れられませんでした。彼自身、惑星の軌道を依然として完全な円であると考えていたため、その予測精度は天動説と大差ありませんでした。また、常識(動いている地球を感じない)や、聖書の記述(太陽が動くと書かれている)に反するため、当初は、実際の宇宙の姿というよりは、計算を便利にするための単なる数学的な「仮説」として扱われました。

3.3. 天体の法則の発見:ティコ・ブラーエとケプラー

地動説が、単なる仮説から、精密な科学理論へと飛躍する上で、二人の天文学者の共同作業が決定的な役割を果たしました。

  • ティコ・ブラーエ(1546-1601): デンマークの偉大な観測天文学者です。彼は、望遠鏡のない時代に、巨大な観測機器を用いて、生涯にわたって惑星の位置を、前例のない精度で観測し、膨大なデータを記録しました。
  • ヨハネス・ケプラー(1571-1630): ティコの助手となった、ドイツの数学者・天文学者です。彼は、師が残した火星の観測データと、自らの地動説への信念、そしてプラトン的な数理的調和への情熱を武器に、長年にわたる困難な計算に取り組みました。そして、古代ギリシア以来の「惑星は完全な円運動をする」というドグマを放棄したときに、ついに惑星の運動を支配する、驚くべき数学的な法則を発見します。
    • ケプラーの三法則:
      1. 惑星は、太陽を一つの焦点とする楕円軌道上を動く。(楕円軌道の法則)
      2. 惑星と太陽を結ぶ線分が、一定時間に掃く面積は、常に一定である。(面積速度一定の法則)
      3. 惑星の公転周期の2乗は、軌道の長半径の3乗に比例する。(調和の法則)ケプラーの法則は、天体の運動が、神秘的な力ではなく、厳密な数学的法則によって支配されていることを初めて明らかにしました。

3.4. 望遠鏡による証拠:ガリレオ・ガリレイ

ケプラーが理論的な法則を発見したのと同じ頃、イタリアの物理学者ガリレオ・ガリレイ(1564-1642)は、新しい道具「望遠鏡」を天体に向け、地動説を支持する、決定的な観測的証拠を次々と発見しました。

  • ガリレオの発見:
    • 月の表面: 月が、アリストテレスが考えたような完全な球体ではなく、山や谷のある、地球と同じような凹凸のある天体であることを発見。
    • 木星の衛星: 木星に四つの衛星が周回しているのを発見。これは、全ての天体が地球の中心を回っているわけではないことの、動かぬ証拠でした。
    • 金星の満ち欠け: 金星が、月のように満ち欠けすることを観測。これは、金星が太陽の周りを公転していなければ説明できない現象でした。
  • 教会との対立: ガリレオは、これらの発見を、一般の人々にも分かりやすいイタリア語の対話形式の書物『天文対話』で発表し、地動説を強力に擁護しました。しかし、これは聖書の権威を揺るがすものとして、ローマ・カトリック教会との深刻な対立を招きます。1633年、彼は異端審問所に召喚され、地動説の放棄を強制されました。「それでも地球は動く」と呟いたという有名な逸話は、後世の創作ですが、権威に対する科学的真理の勝利を象徴する物語として語り継がれています。

3.5. ニュートンによる大総合

科学革命を完成させ、近代物理学の揺るぎない基礎を築いたのが、イギリスのアイザック・ニュートン(1642-1727)です。彼は、リンゴが木から落ちるのを見て、その力(重力)が、月を地球の周回軌道に留めている力と、同じものではないかと考えたという逸話で知られています。

  • 『プリンキピア』: 1687年に出版された彼の主著『自然哲学の数学的諸原理(プリンキピア)』において、ニュートンは、地上の物体の運動(ガリレオの法則)と、天体の運動(ケプラーの法則)を、単一の普遍的な法則によって統一的に説明することに成功します。
    • 万有引力の法則: その核心が、「万有引力の法則」です。すなわち、宇宙の全ての物体は、互いに引き合う力を及ぼしあっており、その力は、物体の質量の積に比例し、物体間の距離の2乗に反比例する、というものです。
    • 運動の三法則: 彼はまた、慣性の法則、運動方程式(F=ma)、作用・反作用の法則という、古典力学の基本となる三つの法則を定式化しました。
  • 機械論的自然観: ニュートンの体系は、宇宙全体を、巨大な機械(時計)にたとえる、「機械論的自然観」を完成させました。一度、神が初期設定を与えれば、宇宙は、人間の理性が発見した、普遍的で数学的な法則に従って、正確に、そして永遠に運行し続けると考えられました。この思想は、後の啓蒙思想に絶大な影響を与え、「理性の時代」の到来を告げることになります。

科学革命は、単に宇宙のモデルを変えただけではありません。それは、真理の源泉を、神の啓示や古典の権威から、人間の理性と経験へと移行させ、近代という新しい時代の知的パラダイムそのものを創り出した、人類史における最も深遠な革命の一つだったのです。

4. バロック様式とロココ様式

17世紀から18世紀にかけてのヨーロッパは、絶対王政がその絶頂期を迎え、また宗教改革によって分裂したカトリックとプロテスタントの対立が、文化や芸術の領域にも深い刻印を記した時代でした。この時代の精神を反映して生まれたのが、「バロック」と「ロココ」という、二つの対照的でありながらも密接に関連した芸術様式です。バロックが、教会の権威と王の栄光を、壮大で劇的なスケールで表現した「公」の芸術であったとすれば、ロココは、その重厚さから解放された貴族たちが、私的なサロンで享受した、軽やかで優美な「私」の芸術でした。この二つの様式の変遷は、近世ヨーロッパ社会における、権力のあり方と人々の感性の変化を、鮮やかに映し出しています。

4.1. バロック様式:動感と劇性の芸術(17世紀)

「バロック(Baroque)」とは、元々ポルトガル語で「歪んだ真珠」を意味する言葉で、当初は、ルネサンスの均整の取れた古典的な美を破壊する、過剰で奇妙な様式として、否定的な意味で使われました。しかし、今日では、17世紀ヨーロッパを代表する、ダイナミックで感情豊かな芸術様式を指す言葉として確立しています。

  • 時代背景: バロック様式が生まれた背景には、二つの大きな歴史的な力が働いていました。
    1. 対抗宗教改革(カトリック改革): 宗教改革の嵐に直面したカトリック教会は、プロテスタントの簡素な信仰に対抗して、芸術の力を最大限に利用し、人々の感情に直接訴えかけることで、信仰心を再燃させようとしました。芸術の目的は、奇跡や殉教の瞬間を、あたかも目の前で起きているかのように劇的に描き出し、観る者を圧倒し、カトリック教会の栄光を感覚的に体験させることでした。
    2. 絶対王政の確立: フランスのルイ14世に代表される絶対君主たちは、自らの絶大な権力を誇示し、国家の威信を高めるための壮麗な舞台装置として、バロック様式を積極的に採用しました。
  • 芸術的特徴: バロック芸術は、ルネサンスの静的な調和とは対照的に、見る者の心を揺さぶる「動き」と「感情」を特徴とします。
    • 劇的な光と影: イタリアの画家カラヴァッジョは、暗闇の中から人物が光によって劇的に浮かび上がる、「キアロスクーロ(明暗法)」という技法を完成させ、バロック絵画の方向性を決定づけました。
    • 躍動感あふれる構図: 画面には、安定した水平線や垂直線ではなく、斜めの線が多用され、登場人物たちは、激しい身振りや渦巻くような動きで描かれました。フランドルの巨匠ルーベンスの作品は、その豊満な肉体表現と、エネルギッシュな動感において、バロック絵画の頂点を示しています。オランダのレンブラントは、光と影を、人物の内面的な精神性や、深い人間性を探求するために用いました。
    • 感情の激発: イタリアの彫刻家・建築家ベルニーニは、大理石を、まるで生きている肉体かのように彫り上げました。彼の代表作『聖テレジアの法悦』は、聖女が神の愛の矢に貫かれる恍惚の瞬間を、極めて官能的で劇的な迫真性をもって表現しています。
  • 建築:ヴェルサイユ宮殿: バロック建築の世俗的な頂点が、フランスの「太陽王」ルイ14世が建設したヴェルサイユ宮殿です。広大な庭園と左右対称の壮大な宮殿建築、そして「鏡の間」に代表される、金と鏡で埋め尽くされた豪華絢爛な内装は、王の権力がフランス全土を隅々まで支配し、その栄光が世界を照らすことを象徴する、巨大な政治的プロパガンダでした。

4.2. ロココ様式:優美と軽快の芸術(18世紀)

1715年にルイ14世が死去すると、フランスの宮廷生活の厳格な雰囲気は和らぎ、貴族たちはヴェルサイユからパリの私邸(オテル)へと戻り、より自由で洗練された生活を楽しむようになります。このような貴族たちの私的なサロン文化を背景に、18世紀前半のフランスで生まれたのがロココ様式です。

  • 「ロココ」の語源: 「ロココ(Rococo)」という言葉は、バロック庭園の洞窟(グロット)を飾るために用いられた、貝殻(ロカイユ)や小石による人工的な岩組装飾に由来します。この言葉が示すように、ロココは、バロックの壮大さとは対照的な、より小規模で、優美で、装飾的な性格を持っていました。
  • 芸術的特徴: ロココは、バロックの重厚さに対する、軽やかな反動でした。
    • 主題の変化: 宗教的な殉教や、英雄的な歴史といった、重々しい主題は避けられ、貴族たちの雅な遊びや、神話を舞台にした甘美な恋愛、田園風景といった、軽快で、時には官能的で享楽的なテーマが好まれました。
    • 色彩と筆致: 暗く劇的な色彩に代わって、白や金色を基調とした、明るく淡いパステルカラー(水色、桃色など)が多用されました。筆致も、より自由で軽やかになりました。
    • 装飾: S字やC字の、植物の蔓のような、非対称で優雅な曲線(ロカイユ装飾)が、壁や天井、家具調度品に至るまで、室内空間を埋め尽くしました。ロココは、絵画や彫刻が建築と一体化して、心地よく洗練された室内空間全体を創り出す、総合的な装飾芸術でした。
  • 代表的な画家:
    • ヴァトー: ロココ様式の創始者の一人です。彼の代表作『シテール島への巡礼』は、愛の女神ヴィーナスの伝説の島へと、貴族の男女が雅な恋愛の遊びに興じながら旅立つ(あるいは帰還する)様子を、どこか物悲しい詩的な雰囲気で描いており、「雅宴画(フェート・ギャラント)」という新しいジャンルを確立しました。
    • フラゴナール: ロココ後期の画家で、その代表作『ブランコ』は、ブランコに乗る若い女性のスカートがめくれ、その下の茂みに隠れた愛人の男性がそれを覗き見るという、軽薄で官能的な主題を、明るい色彩と巧みな筆致で描いており、ロココ美術の性格を象徴しています。
  • 建築と広がり: ロココ建築の傑作は、フランスのパリにあるスービーズ邸の「皇妃のサロン」や、プロイセンのフリードリヒ大王がポツダムに建てた、夏の離宮「サンスーシ宮殿」に見ることができます。この様式は、フランスからドイツやオーストリアの宮廷へと広まり、各地で独自の華麗な展開を見せました。

バロックが、教会と絶対君主の権威が一体となった「公的な劇場」であったとすれば、ロココは、その舞台から解放された貴族たちが、私的なサロンで繰り広げた「優雅な夢」でした。しかし、この貴族たちの甘美な夢は、長くは続きませんでした。18世紀後半になると、啓蒙思想の普及とともに、ロココの享楽的な文化は不道徳であるとして批判され、古代ギリシア・ローマの厳格な美を範とする「新古典主義」へと、芸術の潮流は移っていきます。そして、その先には、フランス革命という、貴族社会そのものの終わりが待ち受けていたのです。

5. 啓蒙思想

18世紀のヨーロッパは、「理性の時代」あるいは「光の世紀」と呼ばれます。この時代、ニュートンが解き明かした自然界の法則のように、人間社会や政治、宗教といった世界にも、普遍的な理性の光を当てることによって、中世以来の古い権威や、非合理的な偏見、迷信といった「闇」を払い、人類を無限に進歩させることができると信じる、強力な知的運動がヨーロッパ全土を席巻しました。これが「啓蒙思想(The Enlightenment)」です。フランスの「フィロゾフ(philosophes、哲学者)」と呼ばれる思想家たちを中心としたこの運動は、個人の自由、理性、そして人権を至上の価値として掲げ、後のアメリカ独立革命やフランス革命の理論的な武器となり、近代的な民主主義社会の思想的基礎を築いた、西洋近代における決定的な精神革命でした。

5.1. 思想的背景:科学革命とロック哲学

啓蒙思想が花開くための土壌は、17世紀の知の変革によって準備されていました。

  • 科学革命の影響: アイザック・ニュートンが、万有引力の法則によって、天体の運行から地上の物体の落下まで、全ての自然現象を、単一の数学的な法則で説明できることを示したことは、18世紀の知識人たちに絶大な影響を与えました。彼らは、ニュートンが自然界の法則を発見したように、人間の理性を用いれば、人間社会を支配する「自然法」や、道徳の「自然的法則」も発見できるはずだと考えました。世界は、もはや神の気まぐれな意志に左右される神秘的なものではなく、理性の力で分析し、改良できる、合理的なシステムであると見なされるようになったのです。
  • ジョン・ロックの政治思想: イギリスの名誉革命を理論的に正当化した、ジョン・ロック(1632-1704)の政治哲学は、啓蒙思想の直接的な出発点となりました。彼は、その著書『統治二論』において、人間は生まれながらにして、生命、自由、そして財産を所有する、侵すことのできない「自然権」を持っていると主張しました。政府(国家)は、人々がこの自然権をよりよく守るために、互いの合意(社会契約)に基づいて設立したものであり、もし政府がこの契約に違反し、人民の権利を侵害するならば、人民はそれに抵抗し、新たな政府を樹立する権利(革命権)を持つ、と論じました。この思想は、王権神授説のような絶対王政のイデオロギーを根本から覆すものでした。

5.2. フランスのフィロゾフたち

18世紀の啓蒙思想の中心地は、絶対王政の矛盾が最も先鋭的に現れていた、フランスのパリでした。貴族の女性が主宰する「サロン」が、思想家たちの重要な交流の場となり、彼らはここで自由闊達に議論を交わし、その思想を広めていきました。

  • モンテスキュー(1689-1755): イギリスの政治制度を研究し、その主著『法の精神』において、国家の権力を、立法、行政、司法の三つに分離し、それぞれを抑制し均衡させる(チェック・アンド・バランス)ことによって、個人の自由が最もよく保障されると説きました(三権分立論)。この思想は、後のアメリカ合衆国憲法の起草に、決定的な影響を与えました。
  • ヴォルテール(1694-1778): 啓蒙思想の精神を最も体現した、当時のヨーロッパ最高の知識人でした。彼は、特にカトリック教会の不寛容と、それに起因する狂信を、辛辣な筆致で生涯にわたって攻撃し続けました。彼の有名な言葉「私はあなたの意見には反対だ。だが、あなたがそれを主張する権利は、命をかけて守る」は、言論の自由と寛容の精神を象実に表しています。彼は、理神論(神は世界を創造したが、その後は自然法則に委ねて介入しないとする考え)の立場から、理性的で賢明な君主による統治(啓蒙専制君主)を、現実的な改革の道として支持しました。
  • ジャン=ジャック・ルソー(1712-1778): 他の啓蒙思想家たちとは、やや異質な、よりラディカルで情熱的な思想を展開しました。彼は、文明の進歩が人間を堕落させたと主張し、「自然に帰れ」と説きました。その主著『社会契約論』の冒頭で、「人間は自由なものとして生まれた。しかし、いたるところで鉄鎖につながれている」と述べ、既存の社会制度を鋭く批判しました。彼によれば、真に正当な国家は、各個人が自由な意志で結んだ「社会契約」に基づいており、その国家の主権は、人民全体の共通の利益を目指す「一般意志」に存する(人民主権)、と説きました。この思想は、他のフィロゾフの穏健な改革論を超えて、フランス革命の急進派(ジャコバン派)に、絶大な影響を与えることになります。

5.3. 『百科全書』:知の集大成と普及

啓蒙思想の記念碑的な成果が、ディドロとダランベールを中心に、当代一流の思想家たちが総力を挙げて編纂した、『百科全書(アンシクロペディ)』です。

  • 目的: その正式名称は『科学・芸術・工芸の合理的辞典』であり、その目的は、単に知識を羅列することではなく、全ての知識を、理性の光の下に体系的に整理し直し、その知識を広く人々に普及させることで、旧来の偏見や迷信を打破することにありました。
  • 内容と影響: 1751年から1772年にかけて、本文17巻、図版11巻が刊行されたこの巨大な出版物は、科学技術から、政治、哲学に至るまで、あらゆる分野の最新の知見を含んでいました。特に、手工業の技術を図版で詳細に紹介したことは、画期的でした。その記述の端々には、巧みに、絶対王政やカトリック教会への批判が織り込まれており、政府や教会から何度も出版禁止の弾圧を受けましたが、多くの読者の熱狂的な支持を得て、刊行は続けられました。百科全書は、啓蒙思想の理念と成果を、ヨーロッパ中の知識人階級に広める上で、計り知れない役割を果たしました。

5.4. 啓蒙思想の広がりと影響

フランスで頂点を迎えた啓蒙思想は、ヨーロッパ各地、さらには新大陸アメリカにも広がりました。

  • イギリス: 経済学の分野では、アダム・スミスが『国富論(諸国民の富)』で、個人の自由な利己心に基づく経済活動が、「見えざる手」によって、結果的に社会全体の利益をもたらすと説き、自由放任主義(レッセ・フェール)を提唱し、古典派経済学の父となりました。
  • ドイツ: イマヌエル・カントは、『啓蒙とは何か』という論文で、「啓蒙とは、人間が自らの未成年状態から抜け出すことである。…汝自身の悟性を用いる勇気を持て!それこそが啓蒙の標語である」と述べ、啓蒙の精神を最も簡潔に定義しました。
  • 啓蒙専制君主: プロイセンのフリードリヒ2世や、ロシアのエカチェリーナ2世といった一部の君主は、啓蒙思想に影響を受け、上からの近代化改革(宗教的寛容、法典編纂、産業育成など)を行いました。

啓蒙思想は、理性の普遍性を信じるがゆえに、非ヨーロッパ世界に対する優越感といった、後の帝国主義に繋がる負の側面も持っていました。しかし、それが掲げた、個人の自由、基本的人権、国民主権、そして権力分立といった理念は、近代的な憲法と民主主義社会の不可欠な礎石として、現代に至るまで、世界中の人々が、より良い社会を目指して戦う際の、最も重要な思想的遺産であり続けているのです。

6. 古典派音楽

18世紀半ばから19世紀初頭にかけて、ヨーロッパの音楽は、バロック時代の荘厳で複雑な様式から、より明快で、均整の取れた、普遍的な美しさを目指す新しいスタイルへと大きく転換しました。この時代は、音楽史において「古典派(Classical period)」と呼ばれます。その中心地は、ハプスブルク家の帝都であり、ヨーロッパ中の才能が集まる国際都市であったウィーンでした。この時代は、啓蒙思想がヨーロッパの精神を支配していた時期と重なります。理性を重んじ、普遍的な自然法則を探求した啓蒙の精神は、音楽の世界にも反映され、感情の過剰な表出を抑え、論理的で明晰な構成美と、自然で親しみやすい旋律を理想とする、新しい音楽の美学を生み出したのです。この古典派の様式を完成させ、その頂点を築いたのが、フランツ・ヨーゼフ・ハイドン、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト、そしてルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンという、ウィーンで活躍した三人の偉大な作曲家たちでした。

6.1. バロックから古典派へ:様式の転換

バロック後期の音楽は、ヨハン・セバスティアン・バッハに代表されるように、複数の独立した旋律が複雑に絡み合う、「対位法(ポリフォニー)」の技法が頂点に達していました。その音楽は、しばしば一つの基本的な感情( अफेक्ट)を、壮麗で、時には過剰とも言える装飾を伴って、徹底的に表現するものでした。

これに対し、18世紀半ばに現れた新しい「ギャラント様式」や「多感様式」は、このような複雑さに対する反動として、よりシンプルで、耳に心地よい音楽を目指しました。

  • ホモフォニーへの移行: 複雑なポリフォニーに代わって、一つの明快な主旋律を、和音による伴奏が支えるという、「ホモフォニー」の書法が主流となります。これにより、音楽はより聴きやすく、旋律の美しさが際立つようになりました。
  • 構成美の重視: 感情の激しい起伏よりも、楽曲全体の構成的なバランスと、論理的な展開が重視されるようになります。特に、二つの対照的な主題が、提示・展開・再現というドラマティックな構成をとる、「ソナタ形式」が、この時代の最も重要な楽曲形式として確立されました。
  • 普遍性への志向: 古典派の音楽は、特定の国民性や、過度に個人的な感情を超えて、理知的な人間であれば誰もが理解し、共感できるような、普遍的な音楽言語を創造することを目指しました。

6.2. ウィーン古典派の三大巨匠

古典派音楽の様式は、ウィーンで活躍した三人の天才によって、その完成と発展の極致を迎えました。彼らは、互いに影響を与え合いながらも、それぞれに個性的な音楽世界を創造しました。

  • フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(1732-1809): 「交響曲の父」そして「弦楽四重奏曲の父」と称される、古典派様式の最大の確立者です。彼は、長年にわたってハンガリーの富裕な貴族エステルハージ家に仕え、その宮廷楽団のために、膨大な数の作品を作曲しました。
    • 交響曲と弦楽四重奏曲の定型化: ハイドンは、まだ形式が固まっていなかった交響曲を、通常四つの楽章(第一楽章:ソナタ形式、第二楽章:緩徐楽章、第三楽章:メヌエット、第四楽章:フィナーレ)からなる、安定した形式へと確立しました。また、二つのヴァイオリン、ヴィオラ、チェロからなる弦楽四重奏曲を、親密な対話を楽しむ、室内楽の最も重要なジャンルへと高めました。
    • 作風: 彼の音楽は、明快な形式感、機知に富んだユーモア、そして健全で楽天的な気風に満ちており、古典派音楽の理想を最も純粋な形で体現しています。
  • ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791): 神童として幼少期からヨーロッパ中を旅し、あらゆる音楽様式を吸収した、比類のない天才です。彼は、35年という短い生涯の間に、交響曲、協奏曲、室内楽曲、そしてオペラに至るまで、全てのジャンルで完璧な傑作を残しました。
    • 旋律の天才: モーツァルトの音楽の最大の特徴は、その天上的なまでに美しく、自然で、歌心にあふれた旋律にあります。彼の音楽は、一見すると軽やかで優雅ですが、その奥には、深い哀愁や、人間的な感情の機微が、絶妙なバランスで織り込まれています。
    • オペラの革新: モーツァルトは、特にオペラの分野で、その劇的な才能を遺憾なく発揮しました。『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『魔笛』といった傑作オペラにおいて、彼は、登場人物の複雑な心理を、音楽を通じて生き生きと描き分け、音楽と演劇を、かつてない高い次元で融合させることに成功しました。
  • ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827): ドイツのボンに生まれ、後にウィーンで活躍したベートーヴェンは、古典派の様式を極限まで突き詰め、その枠を打ち破って、次の時代のロマン派への扉を開いた、音楽史上の巨大な転換点となる作曲家です。
    • 古典派の完成者として: 彼の初期の作品は、ハイドンやモーツァルトの影響下にあり、古典派の様式を完全に習得しています。
    • ロマン派への橋渡し: しかし、持病の難聴が悪化し、音楽家として致命的な危機に直面する中で、彼の作風は大きく変化します。交響曲第3番『英雄(エロイカ)』は、その巨大な規模、激しい感情の表出、そして英雄的な闘争と勝利というテーマにおいて、もはや古典派の枠を超えた、新しい時代の到来を告げる作品でした。
    • 個人の表現: ベートーヴェンの音楽では、ハイドンやモーツァルトの普遍的な美しさとは異なり、作曲家自身の個人的な苦悩、意志、そして歓喜といった、主観的な感情が、かつてないほどの力強さで表現されています。彼は、貴族に仕える音楽家から、自らの内面を表現する独立した「芸術家」へと、作曲家の社会的地位をも変革しました。交響曲第5番『運命』や第9番『合唱付き』は、その人間的なドラマと精神的な深さにおいて、西洋音楽の金字塔となっています。

古典派音楽の時代は、ソナタ形式や交響曲といった、その後の音楽の発展の基礎となる、普遍的な形式を生み出しました。それは、啓蒙時代の理性的で調和の取れた世界観を、音の世界で体現したものでした。しかし、その時代の終わりには、ベートーヴェンという巨人が、その均整の取れた形式の中に、近代的な個人の情熱と意志を注ぎ込み、音楽が、来るべきロマン主義の時代の、自己表現の芸術となる道筋を切り拓いたのです。

7. 明清の考証学と実学

ヨーロッパで科学革命や啓蒙思想が、旧来の権威を覆し、知のパラダイムを大きく転換させていた17世紀から18世紀にかけて、東アジアの中国では、明朝から清朝への王朝交代という大きな変動の中で、独自の知的探求が深化していました。それは、ヨーロッパのような外部世界への関心や、自然界の法則の探求というよりは、むしろ内向きの、自らの文化的な伝統の源流へと遡ろうとする、厳密で実証的な学問でした。空疎な思弁に陥った宋明理学(朱子学や陽明学)への反省から生まれたこの新しい学問の潮流は、「考証学(こうしょうがく)」と呼ばれます。それは、「事実から真理を求める(実事求是)」という、科学的とも言える精神に貫かれており、同時に、学問は社会に役立つべきであるという「実学」の思想とも結びついていました。

7.1. 考証学の成立背景:宋明理学への批判

宋代に朱熹(朱子)が体系化した朱子学は、元・明・清の時代を通じて、科挙の必須科目となり、国家の公認イデオロギー(官学)として、絶対的な権威を誇っていました。朱子学は、宇宙の根本原理である「理」と、人間の内面的な心性を結びつけ、壮大な哲学体系を構築しました。しかし、その思想が固定化・形骸化するにつれて、いくつかの問題点が露呈します。

  • 空理空論への批判: 朱子学や、その乗り越えを目指した明代の陽明学は、「理」や「心」といった、形而上学的な概念をめぐる、抽象的で思弁的な議論に陥りがちでした。学者たちは、経典の解釈をめぐって果てしない論争を繰り広げましたが、それは現実の社会や、人々の生活からかけ離れた「空理空論」である、という批判が高まります。
  • 経典の原義への回帰: また、宋代の儒学者たちは、自らの哲学体系に合わせて、孔子や孟子の時代の古い経典(古注)を、新しい解釈(新注)で読み替えました。明末清初の学者たちは、このような後代の解釈のフィルターを通してではなく、漢代やそれ以前の注釈に立ち返り、文献学的な手法を駆使して、経典の本来の意味、すなわち聖人の真意を客観的に明らかにすべきだと考えました。
  • 明末清初の動乱: 17世紀、明王朝が内乱と満州族(後の清)の侵入によって滅亡するという、国家的なカタストロフは、知識人たちに深刻な反省を促しました。彼らは、明代の学者たちが、空疎な心学の議論に明け暮れ、現実の政治や社会の問題から目をそむけていたことが、国家の滅亡を招いた一因であると考え、より実践的で、確実な知のあり方を模索し始めます。

7.2. 考証学の方法論:「実事求是」

このような反省の中から、明末清初の顧炎武(こえんぶ)や黄宗羲(こうそうぎ)といった思想家たちによって、考証学の基礎が築かれました。清朝の支配が安定し、特に乾隆・嘉慶の時代(18世紀半ば〜19世紀初頭)に、考証学はその最盛期を迎えます。

考証学の精神は、「実事求是(じつじきゅうぜ)」という言葉に集約されます。これは、「事実に基づいて、真理を探求する」という意味で、主観的な憶測や、権威ある学説を鵜呑みにすることを戒め、客観的な証拠に基づいて結論を導き出すという、厳密な学問的態度を指します。

その研究は、主に三つの分野に集中しました。

  1. 文字学・音韻学: 経典の正しい意味を理解するためには、まず古代の文字の形(字形)と、その発音(字音)を正確に知る必要があると考え、金石文(青銅器や石碑の文字)や、古い韻書の研究が盛んに行われました。
  2. 訓詁学(くんこがく): 古い言葉の意味を、他の古典籍での用例を網羅的に比較検討することによって、実証的に解明する学問です。
  3. 歴史地理学: 経典に登場する地名が、現在のどこにあたるのかを、史書や地理書を博捜して特定する研究です。

これらの研究は、一見すると非常に地味で、専門的ですが、その根底には、曖昧さを排し、一つ一つの事実を積み上げていくことで、聖人の教えの確かな土台を再建しようとする、強い情熱がありました。それは、ある意味で、ヨーロッパのルネサンス期における、聖書の原典研究にも通じる、文献批判の精神でした。

7.3. 実学の思想:「経世致用」

考証学が、古典研究における実証主義であったとすれば、「実学」は、より広く、社会に実際に役立つ学問全般を指す言葉でした。その理念は、「経世致用(けいせいちよう)」、すなわち「世を経(おさ)め、用を致(いた)す(社会を治め、実用をもたらす)」という言葉で表されます。

考証学者たちも、その研究が究極的には、正しい統治のあり方を明らかにするという、経世致用の目的を持つと考えていましたが、より直接的に、現実社会の具体的な問題に取り組む学者たちも数多く現れました。

  • 『天工開物』: 明末の宋応星(そうおうせい)が著したこの書物は、農業、製紙、製陶、冶金、火薬製造、造船といった、当時の中国のあらゆる産業技術を、詳細な挿絵と共に網羅的に解説した、百科全書的な産業技術書です。
  • 『農政全書』: 明末の徐光啓(じょこうけい)は、イエズス会の宣教師マテオ・リッチから西洋の科学知識を学び、中国の伝統的な農学と西洋の知識を融合させた、包括的な農学書を編纂しました。
  • 『本草綱目』: 明代の李時珍(りじちん)は、長年にわたる実地調査に基づき、1800種以上の薬物を、その性質や効能によって分類した、巨大な薬学(本草学)の書物を完成させました。

これらの実学の成果は、中国の伝統科学技術が、明清の時代に、一つの到達点に達していたことを示しています。

7.4. 考証学と実学の意義と限界

明清の考証学と実学は、宋明理学の思弁性への反動として、中国の伝統的な学問の中に、客観性と実証性を重んじる、近代科学にも通じる知の態度を育んだという点で、極めて重要な知的運動でした。

しかし、その探求は、いくつかの限界も抱えていました。

  • 内向的な性格: 考証学の研究対象は、あくまで中国の古典文献の世界に限定されており、ヨーロッパの科学革命のように、自然界そのものを対象とする、新しい知のパラダイムを創出するには至りませんでした。
  • 体制教学の枠内: 考証学は、その批判精神にもかかわらず、儒教の経典と、それに基づく社会秩序そのものを疑うことはありませんでした。清朝政府も、政治的な批判に繋がらない、非政治的な古典研究を奨励したため、考証学は、体制教学の枠内に留まる傾向がありました。

それでも、考証学が培った、厳密な文献批判と実証主義の精神は、19世紀後半、中国が西洋の衝撃に直面した際に、西洋の近代的な学問を受け入れるための、知的な土壌を準備する役割を果たしたのです。

8. 江戸時代の国学と蘭学

17世紀初頭から19世紀半ばにかけての約250年間、徳川幕府の下で、日本は「鎖国」と呼ばれる、対外交流を厳しく制限する政策をとりました。この平和で安定した時代に、国内では、独自の文化が爛熟期を迎えます。この江戸時代の思想界を特徴づけるのが、「国学(こくがく)」と「蘭学(らんがく)」という、一見すると全く正反対の方向を向いた、二つの知の潮流でした。国学が、外来思想、特に中国の儒教や仏教の影響を排し、文献考証を通じて「純粋な日本古来の精神」を探求する、内向きの運動であったのに対し、蘭学は、唯一の開かれた窓であった長崎の出島を通じて、オランダ語を介して西洋の近代的な科学技術を貪欲に吸収しようとする、外向きの運動でした。この内向と外向という、二つの異なるベクトルを持つ知的探求が、皮肉にも、共に江戸時代の思想的枠組みを揺るがし、近代日本の幕開けを準備する上で、重要な役割を果たしたのです。

8.1. 国学の成立と展開

江戸時代の公式な学問(官学)は、幕府の封建的な身分秩序を正当化する、朱子学でした。国学は、この朱子学の持つ、外来の、そして理屈っぽい(漢意的、からごころ)性格に対する、国粋的な学問的・文芸的運動として、18世紀に本格化しました。

  • 国学の源流: その源流は、江戸時代初期の僧・契沖(けいちゅう)による、『万葉集』の実証的な研究に求められます。彼は、仏教や儒教の先入観を排し、厳密な文献考証によって、古代の日本人の言葉と心を、ありのままに理解しようとしました。
  • 荷田春満(かだのあずままろ)と賀茂真淵(かものまぶち): 契沖の方法論を受け継ぎ、国学を一つの学問として組織したのが、荷田春満とその弟子の賀茂真淵です。真淵は、『万葉集』に表現されている、素朴で、力強く、男性的な精神(ますらおぶり)こそが、日本本来の精神であると考えました。
  • 本居宣長(もとおりのりなが)による大成: 国学を、単なる古典研究から、包括的な思想体系へと高め、その学問的な頂点を築いたのが、本居宣長(1730-1801)です。
    • 『古事記伝』: 宣長は、35年もの歳月をかけて、それまでほとんど読まれることのなかった『古事記』の、精密な注釈書である『古事記伝』を完成させました。彼は、儒教的な合理主義(漢意)を徹底的に排除し、神々の時代の物語を、荒唐無稽な作り話としてではなく、ありのままの事実として読み解くべきだと主張しました。
    • 「もののあはれ」: 宣長は、日本の文芸の精髄は、『源氏物語』に象徴される、物事に触れて自然に湧き上がる、しみじみとした感受性、「もののあはれ」にあると論じました。これは、理屈で物事を割り切ろうとする儒教の「漢意」とは対極にある、日本固有の豊かな感情の世界でした。
    • 「惟神の道(かんながらのみち)」: 宣長は、『古事記』の研究を通じて、古代日本には、儒教や仏教が伝来する以前の、純粋な道、すなわち「惟神の道(古道)」が存在したと結論づけました。その核心は、天地を創造した皇祖神アマテラスの神勅に基づき、万世一系の天皇が日本を統治するという、古代の政治体制にありました。
  • 平田篤胤(ひらたあつたね)と国学の政治化: 宣長の死後、国学は平田篤胤によって、より宗教的で、国粋主義的な思想へと展開されます。彼は、日本の「古道」こそが、世界の全ての教えの根源であり、日本の皇国は世界に冠たる国であると説き、その思想は幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を与えました。

国学は、古代の文献研究を通じて、儒教的な秩序とは異なる、天皇を中心とする日本の独自の国体を「発見」しました。この思想は、結果として、徳川幕府の支配の正当性を、思想的な側面から揺るがす力となったのです。

8.2. 蘭学の発展

江戸幕府は、キリスト教の禁教を徹底するため、鎖国政策をとりましたが、中国とオランダとの通商関係だけは、長崎の出島に限って維持しました。このオランダを通じて、もたらされたヨーロッパの学問・技術が「蘭学」です。

  • 初期の蘭学: 当初、蘭学は、医学や天文学といった、実用的な分野に限られていました。8代将軍徳川吉宗は、実学を奨励し、漢訳洋書の輸入を一部緩和したことで、蘭学研究の気運が高まります。
  • 『解体新書』の衝撃: 蘭学が、単なる珍奇な知識から、本格的な学問へと飛躍するきっかけとなったのが、1774年(安永3年)に、杉田玄白、前野良沢らによって刊行された、日本で最初の本格的な西洋解剖学の翻訳書『解体新書』でした。
    • 実証精神: 玄白たちは、オランダ語の解剖書『ターヘル・アナトミア』を入手し、実際に人間の腑分け(解剖)に立ち会い、その図の驚くべき正確さに衝撃を受けます。これは、人体の内部構造を、空想的な陰陽五行説で説明する伝統的な漢方医学とは全く異なる、観察と実証に基づく近代科学の世界でした。彼らは、辞書もない困難な状況で、苦心の末に翻訳を完成させます。
    • 影響: 『解体新書』の刊行は、日本の知識人たちに、西洋の科学技術の圧倒的な水準の高さを見せつけ、蘭学への関心を爆発的に高めることになりました。
  • 蘭学の多様化: その後、蘭学の研究分野は、医学だけでなく、物理学、化学、地理学、そして砲術や航海術といった軍事技術にまで広がっていきました。大槻玄沢(おおつきげんたく)は、江戸に蘭学塾「芝蘭堂(しらんどう)」を開き、多くの蘭学者を育てました。シーボルトが長崎に開いた鳴滝塾も、日本の蘭学研究の重要な拠点となりました。

8.3. 鎖国体制の動揺と二つの潮流の帰結

19世紀に入り、ロシアやイギリス、アメリカといった欧米列強の船が日本近海に出没するようになると、幕府の対外政策は大きく揺らぎます。この国難の時代に、国学と蘭学は、それぞれの立場から、日本の進むべき道を提言しました。

  • 攘夷論と開国論: 国学の思想は、外国を「穢れた(けがれた)」ものとして退け、天皇の下で日本古来の精神に立ち返るべきだとする、「尊王攘夷」論のイデオロギー的な支柱となりました。一方、蘭学者の中から、渡辺崋山や高野長英のように、西洋の国情を研究し、日本の海防の危機を訴え、無謀な攘夷を批判して、近代的な開国を主張する者たちが現れます(彼らは幕府によって弾圧されました-蛮社の獄)。

江戸時代の国学と蘭学は、内と外、精神と科学、伝統と近代という、対照的な関心から出発しました。しかし、両者は、既存の朱子学的な知の体系に疑問を付し、実証的な方法で真理を探求するという点で、共通の知的態度を持っていました。そして、幕末の動乱期において、国学が提供した「天皇中心の国家」という理念と、蘭学が蓄積した「西洋の科学技術」の知識は、思いがけない形で結びつき、明治維新後の日本の急速な近代化を成し遂げるための、二つの重要な知的遺産となったのです。

9. ムガル帝国の美術と建築

16世紀初頭、中央アジアから侵入した、ティムールの子孫であるバーブルによって建国されたムガル帝国は、その後300年以上にわたってインド亜大陸の大部分を支配しました。ムガル朝は、支配者階級がイスラーム教徒(スンナ派)であり、被支配者の大多数がヒンドゥー教徒であるという、複合的な社会構造を持っていました。この帝国が生み出した文化は、支配者の故郷であるペルシアや中央アジアの洗練されたイスラーム文化と、インド土着の豊かでダイナミックなヒンドゥー文化とが、壮麗に融合した、世界史上でも類を見ない、独創的なハイブリッド文化でした。その輝かしい成果は、皇帝たちの強力な庇護の下で花開いた、建築と絵画の分野に、最も顕著に現れています。タージ・マハルに代表されるムガル建築と、精緻を極めたムガル細密画は、この帝国の栄光と、文化的な統合の理想を、今に伝える不滅の記念碑です。

9.1. ムガル建築:ペルシアとインドの融合

ムガル帝国の建築は、歴代皇帝の個性と、時代の精神を色濃く反映しながら、独自の様式を発展させていきました。

  • 初期の様式(アクバル帝): ムガル建築の基礎を築いたのは、第3代皇帝アクバル(在位1556-1605)です。彼は、宗教的寛容政策を推し進め、ヒンドゥー教徒との融和を積極的に図りました。彼がデリー近郊に建設した新都ファテープル・シークリーの建築群は、その精神を象徴しています。全体の構成はイスラーム建築の様式に従いながらも、建物の柱や梁、装飾の細部には、ヒンドゥー建築やジャイナ教建築の要素が、大胆に取り入れられています。赤砂岩を主建材とする、力強く男性的なこの様式は、帝国の草創期の活気を伝えています。
  • 最盛期の様式(シャー・ジャハーン帝): ムガル建築が、その最も洗練され、優美な頂点に達したのは、第5代皇帝シャー・ジャハーン(在位1628-1658)の治世です。彼は、建築に情熱を注いだ皇帝として知られ、赤砂岩に代わって、純白の大理石を好んで用いました。
    • タージ・マハル: シャー・ジャハーンが、亡くなった最愛の妃ムムターズ・マハルのために、アーグラーのヤムナー川のほとりに建設させた、巨大な墓廟(マウソレウム)です。これは、ムガル建築の最高傑作であると同時に、世界で最も美しい建築物の一つと称されています。
      • 構成: 巨大な基壇の上に、玉ねぎ形の優美な中央ドームと、四隅に配された尖塔(ミナレット)を持つ、完全な左右対称の廟堂が建てられています。建物全体は、純白の大理石で覆われ、その壁面には、アラベスク文様やコーランの章句、そしてラピスラズリや瑪瑙といった貴石を嵌め込んだ、精緻な象嵌(ぞうがん)細工が施されています。
      • 象徴性: タージ・マハルは、単なる墓廟ではなく、イスラーム神学における、天上の楽園(ジャンナ)を、地上に具現化したものと解釈されています。その完璧な調和と、純粋な美しさは、皇帝の妃への愛と、神の栄光を、同時に表現しているのです。
      • 様式の融合: その様式は、ペルシア建築のアーチやドーム、中央アジアのティムール朝建築の壮大なスケール、そしてインド建築の繊細な装飾技法といった、様々な要素が、完璧な調和のうちに融合した、ムガル文化の理念そのものを体現しています。

9.2. ムガル細密画(ミニアチュール):写実性と装飾性の極致

建築と並んで、ムガル帝国の皇帝たちが情熱を注いだのが、書籍の挿絵や、アルバムに収めるための、細密画(ミニアチュール)の制作でした。

  • ペルシア細密画からの出発: ムガル細密画の源流は、洗練された描線と、鮮やかな色彩、そして装飾的な構成を特徴とする、ペルシアの細密画にあります。第2代皇帝フマーユーンは、亡命先のサファヴィー朝の宮廷から、二人のペルシア人画家を連れ帰り、これがムガル宮廷工房の基礎となりました。
  • アクバル帝の工房とインド的要素の導入: ムガル絵画を、独自の様式として確立したのも、アクバル帝でした。彼は、デリーに巨大な宮廷絵画工房を設立し、ペルシア人の画家に加えて、インド各地から多数の優れたヒンドゥー教徒の画家をリクルートしました。
    • 様式の融合: この工房で、ペルシア画の優美で様式的な伝統と、インドの伝統絵画が持つ、生き生きとした動感、力強い色彩、そして写実的な表現とが、見事に融合しました。
  • 主題の拡大: 従来のイスラーム世界の絵画が、主に物語の挿絵として描かれたのに対し、ムガル絵画は、その主題を大きく広げました。
    • 歴史記録画: アクバル帝は、自らの事績を記録した年代記『アクバル・ナーマ』を制作させ、その挿絵として、戦闘の場面や、宮廷の儀式の様子を、詳細かつ写実的に描かせました。これは、絵画を、歴史の記録という新しい役割に用いた、画期的な試みでした。
    • 肖像画: 第4代皇帝ジャハーンギールは、絵画の熱烈な愛好家であり、特に肖像画を好みました。彼の時代には、皇帝や廷臣の横顔を、その個性や心理までをも描き出す、極めて写実的な肖像画が発達しました。
    • 自然観察: ジャハーンギールはまた、珍しい動物や植物に深い関心を示し、宮廷画家に、それらを細密に観察して描かせました。これらの動植物画は、科学的な博物図鑑のような、驚くべき精密さを備えています。
  • アウラングゼーブ帝以降の衰退: 第6代皇帝アウラングゼーブは、厳格なスンナ派のイスラーム教徒であったため、偶像崇拝につながるとして絵画制作を抑制し、宮廷工房は衰退しました。しかし、そこで育った画家たちは、地方の藩王(ラージプート)の宮廷などに移り、現地の様式と融合して、「ラージプート絵画」と呼ばれる、新しい魅力的な絵画様式を生み出すことになります。

ムガル帝国の美術と建築は、イスラームとヒンドゥーという、二つの異なる偉大な文明が、支配と被支配の関係にありながらも、創造的な対話と融合を成し遂げた、奇跡的な成果でした。その壮麗で、洗練された美は、インド亜大陸が世界に誇る、かけがえのない文化遺産として、今なお多くの人々を魅了し続けているのです。

10. オスマン帝国の文化

1453年、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服し、イスタンブルと改称したオスマン帝国は、その後、アジア、アフリカ、ヨーロッパの三大陸にまたがる広大な世界帝国を築き上げ、16世紀のスレイマン1世(大帝)の治世に、その最盛期を迎えます。オスマン帝国の文化は、その広大な領土が反映するように、極めて多層的で、豊かなものでした。それは、テュルク(トルコ)系民族としての遊牧民的な伝統、ペルシア文化の洗練、そして彼らが征服し、継承したビザンツ帝国(東ローマ帝国)と、イスラーム世界の二つの偉大な遺産とが、複雑に融合した、壮大な複合文化でした。その成果は、イスタンブルのスカイラインを飾る壮麗なモスク建築や、宮殿を彩る色鮮やかなイズニク・タイル、そしてコーヒーハウスという新しい都市文化などに、鮮やかに見て取ることができます。

10.1. オスマン建築:ビザンツの継承と発展

オスマン帝国の建築家たちは、イスタンブルの征服後、キリスト教世界最高の聖堂であったハギア・ソフィア大聖堂の、巨大なドームが創り出す、広大で一体的な内部空間に、深い感銘と、強い対抗意識を抱きました。彼らの建築、特にモスク(イスラーム教の礼拝堂)の設計における最大の目標は、このハギア・ソフィアの構造をイスラーム建築の様式で再現し、そしてそれを超えることでした。

  • ミマール・スィナン(1489頃-1588): この壮大な目標を、驚くべき独創性と構造的な合理性をもって実現し、オスマン建築をその頂点に導いたのが、スレイマン大帝に仕えた、天才建築家ミマール・スィナンです。彼は、50年近いキャリアの中で、300以上もの建築物の設計に携わりました。
    • スレイマニエ・モスク: スィナンが、イスタンブルに建設した、スレイマン大帝のためのモスクです。彼は、ハギア・ソフィアの構造に学び、巨大な中央ドームを、前後の半ドームで支えるという形式を採用し、柱の数を減らすことで、より広々とした、光に満ちた、完全に統一された礼拝空間を創り出すことに成功しました。四隅にそびえる、鉛筆のようにシャープな尖塔(ミナレット)は、オスマン・モスクの典型的なスタイルを確立しました。
    • セリミエ・モスク: スィナンが、晩年に古都エディルネに建設し、自ら「最高の作品」と称したモスクです。ここでは、彼はさらに構造を洗練させ、8本の巨大な柱によって、ハギア・ソフィアのドームを超える、直径31.5メートルの巨大なドームを支えるという、構造的な極致を達成しました。その内部空間の完全な調和と、ステンドグラスから差し込む光の美しさは、オスマン建築の最高傑作とされています。
  • スルタンアフメト・モスク(ブルー・モスク): 17世紀初頭に建設されたこのモスクは、6本のミナレットを持つ、イスタンブルの最も有名なランドマークの一つです。その内部が、数万枚の青を基調としたイズニク・タイルで飾られていることから、「ブルー・モスク」の愛称で知られています。

10.2. 装飾芸術の華:イズニク・タイルと細密画

オスマン帝国の宮殿やモスクの壁面は、色鮮やかな装飾タイルで彩られました。

  • イズニク・タイル: 16世紀から17世紀にかけて、帝国の庇護の下、イズニクという都市で生産された陶磁器タイルは、その品質と美しさにおいて、イスラーム陶芸の頂点とされています。純白の素地の上に、鮮やかなコバルトブルー、トルコ青、そして「トマト・レッド」と呼ばれる、盛り上がった独特の赤色を用いて、チューリップ、カーネーション、ヒヤシンスといった花々や、唐草文様、幾何学文様が、流麗な筆致で描かれています。これらのタイルは、建築空間に、天上の楽園のような、華やかで明るい雰囲気を与えました。
  • 細密画(ミニアチュール): オスマン帝国でも、ペルシアの伝統を受け継ぐ、書籍の挿絵としての細密画が盛んに制作されました。その主題は、スルタンの肖像や、宮廷の儀式、軍事遠征の記録といった、歴史的な記録画に特徴がありました。その画風は、ペルシアの様式的な美しさよりも、より写実的で、ドキュメンタリー的な性格が強いものでした。

10.3. 文学と学問

オスマン帝国の公用語はオスマン・トルコ語でしたが、文学や学問の世界では、アラビア語とペルシア語も依然として高い権威を持っていました。宮廷詩人たちは、ペルシア詩の洗練された形式と主題にならって、優美な詩作を行いました。また、歴史学の分野では、帝国の事績を記録する、多くの年代記が編纂されました。旅行家エヴリヤ・チェレビーが著した、広大な帝国領内の風俗を記録した『旅行記』は、当時の社会を知る上での貴重な資料となっています。

10.4. コーヒーハウス:新しい公共空間の誕生

16世紀半ば、オスマン帝国の首都イスタンブルに、世界で初めての「コーヒーハウス(カフヴェハーネ)」が登場しました。コーヒーは、エチオピアが原産で、アラビア半島のイエメンを経て、オスマン帝国にもたらされた、新しい覚醒作用のある飲み物でした。

  • 社交の場: コーヒーハウスは、モスクや家庭、職場とは異なる、新しいタイプの「公共空間」として、急速に都市民の生活に浸透しました。様々な身分の男性たちが、ここに集い、一杯のコーヒーを飲みながら、政治談議に花を咲かせ、噂話を交換し、バックギャモンやチェスといったゲームに興じ、メッダフと呼ばれる講談師の物語に耳を傾けました。
  • 情報の拠点: コーヒーハウスは、政府の公式発表から、市井のゴシップまで、あらゆる情報が集まる、都市の情報ネットワークの拠点となりました。時には、政府への不満や批判が議論される場ともなったため、当局からは、社会の風紀を乱し、反乱の温床となる危険な場所として、しばしば警戒され、閉鎖令が出されることもありました。

コーヒーを飲むという習慣と、人々が集い語り合うコーヒーハウスという文化は、オスマン帝国からヨーロッパへと伝わり、ロンドンやパリ、ウィーンのカフェ文化の発展に、直接的な影響を与えました。

オスマン帝国の文化は、帝国の絶頂期において、建築、装飾芸術、そして市民文化の各分野で、高い成熟度と独創性を達成しました。それは、多様な文化的遺産を、帝国の威信とイスラームの価値観の下に統合し、一つの壮大な世界文明を築き上げた、オスマン人の自信と活力を物語っています。

「Module 21:近世の文化」の総括:多元化する世界と「近代」の胎動

本モジュールで探求した近世という時代は、世界史が、それまでの「複数の文明圏の並行的な歴史」から、「地球規模で相互に連関する単一の歴史」へと、大きく舵を切り始める、重大な転換期でした。ヨーロッパでは、ルネサンス、宗教改革、科学革命、啓蒙思想という、息もつかせぬ知のパラダイムシフトが連続し、神の権威に代わって、人間の理性が世界の中心に据えられました。そのダイナミズムは、やがて来るべき市民革命と産業革命の、知的・精神的なインフラを準備しました。一方で、同時期のアジアでは、オスマン、ムガル、明清、そして徳川日本といった、それぞれの帝国や幕藩体制が、独自の文脈の中で、円熟した、あるいは内省的な文化の最後の輝きを放っていました。近世文化を学ぶことの醍醐味は、このヨーロッパにおける「近代」の爆発的な胎動と、アジアにおける伝統文化の爛熟と変容とを、同時に、そして比較的な視野で見渡せる点にあります。それは、まさにグローバル・ヒストリーの黎明期に、各文明がどのような知的・芸術的応答を示したのかを検証する、スリリングな知的作業に他ならないのです。

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