【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 22:近代の文化

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本モジュールの目的と構成

「近代」と呼ばれる19世紀は、フランス革命と産業革命という「二重革命」がもたらした巨大なエネルギーが、ヨーロッパ社会の構造と、そこに生きる人々の精神を根底から作り変えた時代でした。それは、蒸気機関の轟音と工場の煙が都市の風景を一変させ、国民国家という新しい共同体が人々の帰属意識を規定し、そしてブルジョワジーとプロレタリアートという新しい階級が社会の主要な対立軸となる、動的で、混沌とした、そして希望と不安が交錯する、全く新しい世界の到来でした。

本モジュール「近代の文化」は、この激動の19世紀が生み出した、多様な思想的・文化的な応答を深く探求することを目的とします。それは、啓蒙思想の合理主義への反動として生まれたロマン主義の情熱から、新しい社会を動かすイデオロギーとなった自由主義とナショナリズム、産業社会の矛盾から生まれた社会主義思想、そして科学の世紀にふさわしい実証主義や進化論の登場、さらには都市の現実を直視した写実主義や、光そのものを描こうとした印象派の芸術に至るまで、近代人の精神が経験した、壮大なドラマを追体験する試みです。

  1. ロマン主義: 「理性の時代」への反動として、感情、個性、想像力、そして雄大な自然の力を賛美したロマン主義が、文学、美術、音楽の各分野でいかにして新しい感性の時代を切り拓いたのかを探ります。
  2. 自由主義とナショナリズム: フランス革命が生み落とした二つの巨大なイデオロギーが、19世紀ヨーロッパの政治史をいかにして動かしたのか。個人の自由を求める自由主義と、国民的統一を求めるナショナリズムの、時に協力し、時に反発しあう複雑な関係を分析します。
  3. 社会主義思想: 産業革命がもたらした貧困と不平等という新しい社会問題に対し、資本主義システムそのものを批判し、より公正な社会を目指した社会主義思想の系譜をたどります。初期の空想的社会主義から、マルクスによる科学的社会主義の確立までを概観します。
  4. 実証主義と歴史学: 科学の世紀にふさわしく、「観察可能な事実」のみを知識の源泉とみなした実証主義の精神と、それが歴史研究にもたらした革命に焦点を当てます。ランケによる、史料批判に基づく「科学としての歴史学」の確立が持つ意味を考察します。
  5. 進化論(ダーウィン): 生物界、そして人間そのものの見方を永遠に変えてしまった、ダーウィンの進化論の衝撃を検証します。「自然選択」というメカニズムの発見が、科学と宗教の関係にいかなる激震をもたらし、また社会にいかに誤用された(社会ダーウィニズム)かを探ります。
  6. 写実主義と自然主義: ロマン主義の夢想から覚め、産業化された都市の現実を、ありのままに、客観的に描こうとした写実主義(リアリズム)と、それをさらに推し進め、人間を遺伝と環境の産物として科学的に分析しようとした自然主義(ナチュラリスム)の文学と美術を考察します。
  7. 印象派: アカデミズムの権威に反旗を翻し、伝統的な絵画のルールを打ち破った印象派の画家たちの芸術革命を追います。彼らが、移ろいゆく光そのものの「印象」を捉えるために、いかにして新しい描画技術を生み出したのかを分析します。
  8. 近代の科学技術: 19世紀後半、科学と技術が直結し、電力、石油、化学といった新しい産業分野を生み出した「第二次産業革命」の実態に迫ります。この時代の技術革新が、人々の生活をいかに劇的に変えたかを見ていきます。
  9. 大衆文化の成立: 都市化、識字率の向上、そして余暇の増大を背景に、歴史上初めて、不特定多数の「大衆」を享受者とする、新しい文化、すなわちマス・カルチャーが誕生する過程を描き出します。
  10. 新聞、雑誌、映画の普及: 大衆文化の成立を可能にした、新しいマス・メディアの発展に焦点を当てます。輪転機の導入による新聞の大量発行から、大衆雑誌の創刊、そして19世紀末に誕生した全く新しいメディア「映画」が、いかにして人々の情報環境と娯楽を一変させたかを探ります。

このモジュールを通じて、読者は「近代」が、単一の進歩の物語ではなく、様々な思想や文化が、互いに激しく対立し、影響を与え合った、ダイナミックな闘争の場であったことを理解するでしょう。それは、現代を生きる私たちの思考と社会の原型が、まさにこの時代に鋳造されたことを発見する、スリリングな知的探求となるはずです。

目次

1. ロマン主義

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ヨーロッパの精神世界は、啓蒙思想が掲げた冷徹な「理性」と、新古典主義の厳格な「形式美」に対する、情熱的な反動の時代を迎えました。それが「ロマン主義(Romanticism)」です。この広範な文化運動は、普遍的な理性の光よりも、個人の内面に燃え上がる抑えがたい「感情」を、普遍的な法則よりも、それぞれの民族が持つ固有の「個性」を、そして文明化された社会の秩序よりも、荒々しく、人知を超えた「自然」の力を、至上の価値として称揚しました。ロマン主義は、文学、美術、音楽といったあらゆる芸術分野を席巻し、近代的な自我の感覚と、ナショナリズムの精神を育む上で、計り知れないほど大きな役割を果たした、近代最初の本格的な芸術運動でした。

1.1. 啓蒙思想への反逆:感情と個性の復権

ロマン主義の出発点は、18世紀の啓蒙思想がもたらした世界観への深い不満でした。啓蒙思想家たちは、ニュートンの物理学のように、世界と人間を、合理的に分析可能な、普遍的な法則に従う機械と見なしました。しかし、この理性の光は、世界から神秘と情熱を奪い、人間を平均化された抽象的な存在へと変えてしまう、とロマン主義者たちは感じたのです。

  • ジャン=ジャック・ルソーの影響: 啓蒙思想家でありながら、その内部から、理性万能主義を批判したルソーは、ロマン主義の最も重要な先駆者と見なされています。彼は、その自伝『告白』において、社会の仮面を剥ぎ取り、自らの唯一無二の、矛盾に満ちた内面を赤裸々にさらけ出しました。この徹底した自己探求と、個人の感情の正当性の主張は、ロマン主義の「個性」の崇拝の源流となりました。
  • ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラング: ロマン主義の最初の明確な現れは、1770年代のドイツで起こった、「シュトゥルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)」と呼ばれる文学運動でした。ゲーテやシラーといった若い世代の作家たちが、既成の社会規範や文学的伝統に反抗し、天才的な個人の、激しい感情のほとばしりを、奔放な形式で表現しました。ゲーテの初期の小説『若きウェルテルの悩み』は、報われない恋に悩み、社会に適合できずに自殺する、繊細な芸術家の魂を描き、ヨーロッパ中の若者の心を捉え、一大センセーションを巻き起こしました。

1.2. ロマン主義文学:英雄、異国、そして超自然

ロマン主義の文学は、平凡な日常から遠く離れた、異常な状況における、異常な個人の魂のドラマを描き出すことを好みました。

  • イギリス:
    • 湖水地方の詩人たち: ワーズワースやコールリッジといった詩人たちは、産業革命によって汚染されていく都市文明を離れ、イングランド北部の湖水地方の美しい自然の中に、神聖さや、人間の根源的な感情の源泉を見出しました。
    • バイロン的英雄: ジョージ・ゴードン・バイロンは、その波乱に満ちた生涯と、異国情緒あふれる詩作によって、ロマン主義の精神を体現する存在となりました。彼の作品に登場する、憂鬱を秘め、社会に背を向け、孤独に戦う反逆的な英雄像は、「バイロン的英雄(Byronic hero)」と呼ばれ、大きな影響力を持ちました。
    • ゴシック小説: ロマン主義の、超自然的なものや、中世への憧憬は、『フランケンシュタイン』(メアリー・シェリー作)や、『アイヴァンホー』(ウォルター・スコット作)のような、ゴシック小説や歴史小説という新しいジャンルを生み出しました。
  • フランス: フランスでは、ナポレオンの没落後、ヴィクトル・ユゴーがロマン主義運動の旗手となります。彼の長大な歴史小説『レ・ミゼラブル』は、社会の底辺で生きる人々の苦悩と、その中に宿る人間性の輝きを、壮大なスケールで描き出した、ロマン主義文学の金字塔です。

1.3. ロマン主義美術:色彩、動感、そして崇高なる自然

ロマン主義の画家たちは、新古典主義の彫刻のような明確な輪郭線と、静的な構図を拒否し、感情的な効果を生み出すための、豊かな「色彩」と、激しい「動き」を重視しました。

  • フランス:
    • テオドール・ジェリコー: 彼の代表作『メデューズ号の筏』は、実際に起きた海難事故を題材に、極限状況に置かれた人々の、死と絶望、そして救済への微かな希望を、劇的な構図と写実的な筆致で描き出し、サロン(官展)に衝撃を与えました。
    • ウジェーヌ・ドラクロワ: フランス・ロマン主義絵画の最も偉大な画家です。彼は、古代の英雄よりも、同時代のギリシア独立戦争や、七月革命といった、情熱的な主題を好みました。代表作『民衆を導く自由の女神』では、革命の動乱のまっただ中、自由の象徴である女神マリアンヌが、三色旗を掲げて民衆を率いる姿を、躍動感あふれる構図と、鮮やかな色彩で描き出しています。
  • ドイツとイギリス:
    • カスパー・ダーヴィト・フリードリヒ: ドイツのフリードリヒは、人間の存在を圧倒するような、神秘的で、荘厳な自然の風景を描きました。『雲海の上のさすらい人』のように、彼の絵画に登場する人物は、しばしば広大な自然に対して、後ろ向きに描かれます。これは、自然の無限性と、それに対する人間の畏敬の念、すなわち「崇高(the Sublime)」の感覚を表現しています。
    • ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー: イギリスのターナーは、嵐の海や、燃えるような夕焼け、そして蒸気機関車といった、自然や近代文明の持つ、荒々しいエネルギーを、光と大気の渦として、ほとんど抽象絵画のようなスタイルで描き出しました。

1.4. ロマン主義音楽:個性の爆発

音楽の分野では、ベートーヴェンが古典派の形式を内側から爆発させ、ロマン主義への道を切り開きました。ロマン派の作曲家たちは、音楽を、個人の感情や、文学的な物語を表現するための、最も直接的な言語であると考えました。

  • シューベルト: 「歌曲の王」と呼ばれ、ゲーテなどの詩に、美しい旋律と、情景を豊かに描写するピアノ伴奏を付けた、数多くの「リート(ドイツ歌曲)」を作曲しました。
  • ショパン: 「ピアノの詩人」。ポーランド出身の彼は、故国への愛国心を、マズルカやポロネーズといった民族舞踊のリズムに託し、ピアノという楽器の表現の可能性を極限まで追求しました。
  • ワーグナー: ドイツの民族神話を題材に、音楽、文学、演劇、美術を統合した「楽劇(ムジークドラマ)」という、壮大な総合芸術を創造しました。

ロマン主義はまた、それぞれの民族が持つ、固有の民謡や伝説、歴史に光を当てることで、19世紀を通じてヨーロッパ全土を席巻する、ナショナリズムの運動と、深く結びついていきました。ドイツのグリム兄弟による民話収集は、その代表的な例です。理性の普遍性に対する、感情と個性の反乱として始まったロマン主義は、近代人の自己意識を深く形作り、その情熱的なエネルギーは、芸術だけでなく、政治の世界をも、大きく動かしていくことになるのです。

2. 自由主義とナショナリズム

19世紀のヨーロッパ史は、フランス革命という巨大な火山の噴火によって、地表に流れ出した二つの溶岩流、すなわち「自由主義(リベラリズム)」と「ナショナリズム」が、旧来の地形(アンシャン・レジーム)を破壊し、大陸の政治地図を全く新しく作り変えていくプロセスであったと言えます。この二つのイデオロギーは、共にフランス革命の落とし子であり、19世紀前半には、神聖同盟が主導するウィーン体制の反動的な秩序に挑戦する、革命の「双子のエンジン」として、しばしば手を取り合って進みました。個人の自由を抑圧する絶対主義からの解放(自由主義)と、異民族の支配からの解放(ナショナリズム)は、多くの場面で、同じコインの裏表でした。しかし、19世紀後半、国民国家が次々と誕生すると、両者の関係はより複雑なものとなり、時にはナショナリズムが、自由主義の理念を脅かすことさえありました。

2.1. 自由主義:ブルジョワジーのイデオロギー

自由主義は、啓蒙思想とフランス革命の「第一の原則」、すなわち個人の自由と権利の尊重を、その核心とする政治思想です。

  • 思想の核心:
    • 個人の自由: 国家権力からの自由、特に、思想・信教の自由、言論・出版の自由、そして経済活動の自由を、最も重要な価値とします。
    • 法の下の平等: 封建的な身分制や特権を否定し、全ての人間が、法の下では平等な権利を持つべきであると主張します。
    • 代議制と憲法: 国家の権力は、人民の代表(議会)によって制限・監視されるべきであり、その権力の範囲と人民の権利は、憲法によって明確に規定されなければならないとします(立憲主義)。
  • 経済的自由主義: 経済の分野では、イギリスの経済学者アダム・スミスが『国富論』で体系化した、古典派経済学が、その理論的な支柱となりました。政府は、市場への介入を最小限に留め、個人の自由な利己心に基づく経済活動に任せるべきである(自由放任主義、レッセ・フェール)。そうすれば、「見えざる手」によって、社会全体の富は最大化される、と説かれました。
  • 担い手: このような自由主義の理念を、最も熱心に支持したのは、産業革命を通じて経済的な力をつけ、旧来の貴族階級に代わって、社会の新しい支配層となりつつあった、産業資本家や、専門職に従事する都市の「ブルジョワジー(市民階級)」でした。彼らにとって、自由主義は、自らの経済活動の自由を保障し、政治的な発言権を確保するための、強力なイデオロギーでした。
  • 19世紀前半の限界: しかし、19世紀前半の自由主義者たちが主張した「人民」とは、必ずしも全ての国民を意味しませんでした。彼らの多くは、一定の財産を持つ、教養あるブルジョワジーのみが、政治に参加する能力と資格を持つと考え、選挙権を財産額によって制限する「制限選挙」を支持しました。労働者や農民、そして女性は、この「自由」の主体から、依然として排除されていました。

2.2. ナショナリズム:国民国家の創出

ナショナリズムとは、言語、文化、歴史、あるいは共通の起源といった絆で結ばれていると信じる人々の集団を「国民(ネーション)」とみなし、この「国民」が、自らの政治的な運命を自ら決定する権利、すなわち民族自決権を持つべきであり、理想的には一つの「国民」が一つの「国家」を形成すべきである(国民国家)、という思想です。

  • 二つの源流: 近代的なナショナリズムには、二つの異なる源流があります。
    1. フランス革命的なナショナリズム: フランス革命は、「国民」を、血統や文化ではなく、共通の法の下に、自由な意志で共に国家を形成することを選んだ「市民の共同体」として定義しました。これは、政治的な意志に基づく、主観的なナショナリズムです。
    2. ロマン主義的なナショナリズム: ドイツの思想家ヘルダーやフィヒテに代表される、文化的なナショナリズムです。彼らは、それぞれの「国民(フォルク)」が、固有の言語、文化、そして精神(民族精神)を持っており、これが国家の基礎となるべきだと考えました。これは、客観的な文化的特徴に基づく、ロマン主義的なナショナリズムです。
  • 19世紀における展開: ナポレオン戦争は、皮肉にも、ナポレオンが掲げたフランスの「自由」の理念と、その侵略に対する抵抗という二つの側面から、ヨーロッパ全土にナショナリズムの意識を覚醒させました。ウィーン会議は、このナショナリズムの要求を無視し、正統主義の原則に基づいて、ヨーロッパの国境線を、大国の都合で引き直しました。その結果、19世紀を通じて、ナショナリズムは、ウィーン体制に対する、最も強力な革命的な力となります。
    • 統合のナショナリズム: ドイツやイタリアのように、同じ「国民」でありながら、多数の小国に分裂していた地域では、ナショナリズムは、国家の統一を目指す力として働きました。
    • 分離・独立のナショナリズム: オーストリア帝国やオスマン帝国、ロシア帝国のように、多数の異なる民族を支配する「多民族帝国」では、ナショナリズムは、支配下の諸民族(ギリシア人、セルビア人、ポーランド人、ハンガリー人など)が、独立を目指して帝国を内側から崩壊させる、分離主義的な力として作用しました。

2.3. 1848年の革命とその後の変容

1848年、フランスの二月革命をきっかけに、ヨーロッパ全土で、自由主義とナショナリズムを掲げた革命が一斉に勃発しました(「諸国民の春」)。ウィーンやベルリンでは市民が蜂起し、憲法の制定を要求し、フランクフルトではドイツ統一のための国民議会が開かれ、ハンガリーやベーメンでは、オーストリアからの自治や独立を求める運動が高まりました。

しかし、これらの革命は、ブルジョワ自由主義者と、より急進的な労働者階級との分裂や、諸民族間の対立などにより、最終的には全て失敗に終わります。

この1848年の失敗は、その後の自由主義とナショナリズムの性格を、大きく変える転換点となりました。

  • ナショナリズムの現実政治(リアルポリティーク)化: 革命の理想主義的な情熱が挫折した後、ナショナリズムは、理想や民衆の蜂起によってではなく、国家による、より現実的で、権力主義的な「上からの」統一事業へと変貌していきます。プロイセンのビスマルクによる「鉄血政策」を通じたドイツ統一や、サルデーニャ王国のカヴールによるイタリア統一が、その典型です。
  • ナショナリズムの排他性: 19世紀末になると、ナショナリズムは、しばしば、自由主義的な個人の権利よりも、国家の利益を優先し、他国民に対する優越感や敵対心を煽る、排他的で、攻撃的な性格を強めていきます。国内の少数派(例えば、ユダヤ人)を敵視する動きや、海外の領土獲得を正当化する帝国主義のイデオロギーと、ナショナリズムは密接に結びついていくことになります。

19世紀を通じて、自由主義とナショナリズムは、近代ヨーロッパの政治的景観を形成する、最もダイナミックな力でした。それらは、絶対主義と封建的な遺制を打ち破り、国民国家という、現代世界の基本的な政治単位を創出しました。しかし、その内包する矛盾と、19世紀末の攻撃的な変容は、来るべき20世紀の、二つの世界大戦という、未曾有の悲劇の種子をも、はらんでいたのです。

3. 社会主義思想

産業革命は、人類に前例のない生産力と富をもたらしましたが、その光の裏側には、深刻な影が投げかけられていました。都市には、劣悪な環境のスラム街が広がり、工場では、労働者(プロレタリアート)が、低賃金と長時間労働、そして非人間的な労働条件の下で、搾取されていました。富が一握りの資本家の手に集中する一方で、貧富の格差は拡大し、社会不安は増大していきました。このような、初期資本主義がもたらした悲惨な社会問題に、正面から向き合い、その根本原因である私有財産制度と自由競争を批判し、より公正で、平等な、協同的な社会の実現を目指したのが、「社会主義思想(Socialism)」です。19世紀を通じて、社会主義思想は、多様な潮流を生み出しながら発展し、自由主義とナショナリズムに並ぶ、近代の第三の主要なイデオロギーとして、その後の世界史に絶大な影響を及ぼすことになります。

3.1. 初期社会主義(空想的社会主義)

19世紀前半に登場した、最初の社会主義者たちは、資本主義の不正を、主に倫理的・人道的な観点から批判し、理性的な説得や、小規模なモデル共同体の実験を通じて、理想的な社会を実現しようと試みました。彼らの思想は、後のマルクスによって、その科学的な分析の欠如を批判され、「空想的社会主義(Utopian Socialism)」と呼ばれることになります。

  • サン=シモン(フランス): 彼は、社会を、生産に貢献しない聖職者や貴族といった「遊民」と、産業家、科学者、労働者といった「産業者(サン・シモンは銀行家や工場主もこれに含めた)」に分け、後者が社会を合理的に管理・計画する、新しい産業社会を構想しました。
  • シャルル・フーリエ(フランス): 彼は、抑圧的な近代文明を批判し、人間が自らの情熱を自由に解放できる、理想的な協同組合的共同体「ファランジュ」の設立を提唱しました。そこでは、人々は自らの好みに応じて、楽しく、創造的な労働に従事するとされました。
  • ロバート・オーウェン(イギリス): 彼は、空想家ではなく、成功した紡績工場の経営者でした。彼は、人間は環境の産物であるという信念に基づき、自らが経営するスコットランドのニュー・ラナークの工場で、労働者の労働時間を短縮し、良好な住居や、子供たちのための学校を提供するなど、労働環境の改善に努め、それでもなお、工場が高い生産性と利益を上げられることを、実践によって証明しました。彼は後に、アメリカのインディアナ州で、財産を共有する共産主義的な共同体「ニュー・ハーモニー」の実験を試みましたが、これは失敗に終わりました。

これらの初期社会主義者たちの思想は、素朴で、時には奇想天外なものでしたが、資本主義社会の病理を鋭く告発し、協同組合運動や、後の社会主義思想に、多くのインスピレーションを与えました。

3.2. マルクス主義(科学的社会主義)の成立

1848年の革命の失敗の後、社会主義思想は、ドイツのユダヤ人思想家カール・マルクス(1818-1883)と、その盟友フリードリヒ・エンゲルス(1820-1895)によって、全く新しい、そして強力な理論体系へと発展させられます。マルクスは、自らの社会主義を、先行する「空想的」な社会主義と区別し、歴史と経済の法則を客観的に分析することに基づいた、「科学的社会主義(Scientific Socialism)」であると主張しました。

  • 『共産党宣言』: 1848年、マルクスとエンゲルスは、「共産主義者同盟」の綱領として、『共産党宣言』を発表しました。「今日まであらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」という有名な一文で始まるこの文書は、ブルジョワジーが成し遂げた歴史的な役割を認めつつも、資本主義が、いかにして自らの墓掘り人であるプロレタリアートを生み出したかを分析し、「万国のプロレタリア、団結せよ!」と、国境を越えた労働者の連帯と、革命による資本主義の打倒を、力強く呼びかけました。
  • マルクス主義の核心理論: マルクスの思想は、ドイツの観念論哲学、イギリスの古典派経済学、そしてフランスの社会主義思想という、三つの源泉を、批判的に総合したものです。
    1. 史的唯物論(唯物史観): ヘーゲルの弁証法哲学を逆転させ、歴史を動かす根源的な力は、観念や精神ではなく、物質的な生産活動、すなわち「生産様式(生産力と生産関係の総体)」であるとしました。そして、生産力の発展と、既存の生産関係(所有関係)との間に矛盾が生じたときに、階級闘争を通じて、社会は次の発展段階へと移行する(革命)、と考えました。
    2. 資本主義分析と剰余価値説: 主著『資本論』において、マルクスは、資本主義経済を徹底的に分析しました。彼によれば、資本家が得る利潤の源泉は、労働者が、自らの労働力を再生産するために必要な価値(賃金)以上に、余分に生み出した価値、すなわち「剰余価値」を、資本家が無償で搾取することにあります。
    3. 階級闘争とプロレタリア革命: 資本主義は、その本質的な矛盾(利潤率の傾向的低下、恐慌の周期的発生)により、必然的に崩壊へと向かう。そして、資本主義が生み出した、財産を持たないプロレタリアート階級が、自らを解放するための革命を遂行し、生産手段を社会の共有財産とする、新しい社会を樹立すると予言しました。
    4. 共産主義社会: 革命後、プロレタリアート独裁という過渡期を経て、最終的には、国家も階級も消滅した、各人が「その能力に応じて働き、その必要に応じて受け取る」、真に自由で平等な「共産主義」社会が到来する、と展望しました。

3.3. その他の社会主義の潮流

マルクス主義は、19世紀後半の社会主義運動の主流となりますが、それ以外にも、多様な思想が存在しました。

  • アナーキズム(無政府主義): プルードン(「所有とは盗みである」と述べた)や、バクーニン、クロポトキンといった思想家たちは、マルクス主義と同様に資本主義を批判しましたが、同時に、国家という、あらゆる形態の権力をも、個人の自由を抑圧するものとして否定しました。彼らは、革命によって国家を即座に廃絶し、自由な個人による、自発的な連合体を基礎とする社会を目指しました。アナーキズムは、第一インターナショナルにおいて、マルクス主義と激しく対立しました。
  • 社会民主主義(改良主義): 19世紀末、ドイツ社会民主党などを中心に、マルクスの革命理論を修正し、議会制民主主義の枠内で、選挙を通じて政権を獲得し、社会改良を積み重ねることで、平和的に社会主義を実現しようとする、改良主義的な社会主義(社会民主主義)が、大きな力を持つようになります。

社会主義思想は、産業社会が生み出した、自由主義の理念だけでは解決できない、深刻な社会問題に対する、最もラディカルな応答でした。それは、19世紀を通じて、労働組合運動や、社会主義政党の結成を促し、20世紀には、ロシア革命をはじめとする、世界史を揺るがす巨大な政治的実験のイデオロギーとなるのです。

4. 実証主義と歴史学

19世紀は、科学が、自然界の謎を次々と解き明かし、その成果が技術革新を通じて、社会を劇的に変えていった、「科学の世紀」でした。この、科学の圧倒的な成功を背景に、哲学と思想の世界でも、新しいパラダイムが支配的な力を持つようになります。それが「実証主義(Positivism)」です。この思想は、確実な知識の源泉を、形而上学的な思弁や、神学的な啓示ではなく、もっぱら、観察や実験によって検証可能な、客観的な「事実」に求めました。この科学的な精神は、人間社会を研究対象とする、社会学や歴史学といった、人文・社会科学の分野にも、大きな影響を及ぼし、学問の方法論そのものを、大きく変革させることになります。特に歴史学の分野では、ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケによって、史料に厳密に基づいた「科学としての歴史学」が確立され、近代的な歴史研究の基礎が築かれました。

4.1. 実証主義の哲学:オーギュスト・コント

実証主義を、一つの哲学体系として最初に提唱したのは、フランスの社会学者オーギュスト・コント(1798-1857)でした。彼は、自らが生きる、フランス革命後の混乱した社会を、科学的な原理に基づいて再組織する必要があると考え、そのための新しい学問「社会学」の創始者となりました。

  • 三段階の法則: コントによれば、人類の知性は、歴史的に、三つの段階を経て発展するという、必然的な法則(三段階の法則)に従います。
    1. 神学的段階: 世界のあらゆる現象を、神々や超自然的な力の働きとして説明する段階。(例:雷は神の怒り)
    2. 形而上学的段階: 現象を、人格的な神に代わって、「自然」や「理性」といった、抽象的な本質や原理によって説明する段階。(例:雷は自然の力)
    3. 実証的段階(科学的段階): これが、人類の知性が到達すべき、最終的で最も完成された段階です。この段階では、もはや、現象の究極的な原因や本質といった、検証不可能な問い(「なぜ」)は放棄されます。その代わりに、観察と実験を通じて、現象の間に成り立つ、不変の法則性(「どのように」)を発見することに、知的な探求は限定されます。
  • 科学の階層: コントは、全ての学問が、この実証的な段階へと移行すべきであると考え、数学を基礎として、天文学、物理学、化学、生物学、そして最後に、最も複雑な対象を扱う、新しい学問である「社会学」が、その頂点に立つという、科学の階層を構想しました。

コントの実証主義は、科学的な方法こそが、唯一の確実な知識の源泉であると主張し、19世紀後半のヨーロッパの思想界に、絶大な影響を与えました。イギリスでは、ジョン・スチュアート・ミルや、ハーバート・スペンサーといった思想家が、この実証主義の精神を受け継ぎ、発展させました。

4.2. 近代歴史学の父:レオポルト・フォン・ランケ

実証主義の精神が、歴史学の分野で、最も徹底した、そして実り豊かな形で結実したのが、ドイツの歴史家レオポルト・フォン・ランケ(1795-1886)の仕事においてでした。彼は、「近代歴史学の父」と称され、その方法論は、その後の歴史研究の国際的な標準となりました。

  • ランケ以前の歴史叙述: ランケ以前の歴史叙述は、大きく二つのタイプに分かれていました。一つは、啓蒙思想家たちのように、過去の出来事を、自らの哲学的理念(例えば、「理性の進歩」)を例証するための材料として用いる、教訓的な歴史。もう一つは、ロマン主義の歴史家たちのように、過去を、生き生きとした物語として、文学的に再現しようとする、叙事詩的な歴史でした。ランケは、これらのいずれの態度も、歴史家の主観が入り込みすぎるとして、厳しく批判しました。
  • 「科学としての歴史学」: ランケが目指したのは、歴史学を、主観や憶測から切り離された、厳密で客観的な「科学」へと高めることでした。そのための彼のスローガンが、「ただ、それが本来いかにあったか(wie es eigentlich gewesen)を示す」という、有名な言葉です。歴史家の務めは、過去を裁いたり、現代のために教訓を引き出したりすることではなく、過去そのものの姿を、ありのままに、忠実に復元することにある、と彼は主張しました。
  • 史料批判の方法: この客観性を担保するための、ランケの最も重要な貢献が、「史料批判(Quellenkritik)」という、厳格な方法論の確立です。
    1. 一次史料の重視: 彼は、歴史家が依拠すべきは、後世に書かれた年代記や、他の歴史家の著作(二次史料)ではなく、出来事が起こったのと同時代に、直接の当事者によって作成された、文書や記録(一次史料)でなければならないと主張しました。
    2. 公文書への信頼: 特に、彼は、国家間の外交交渉の記録など、ヴェネツィア大使の報告書に代表されるような、国家の公文書館(アーカイブ)に眠る、客観的な記録としての価値が最も高いと考え、ヨーロッパ各地の公文書館で、精力的に史料の発掘と収集を行いました。
    3. 史料の内的・外的批判: 発見された史料は、それが本物であるか(外的批判)、その記述内容は信頼できるか、筆者の意図や偏見は何か(内的批判)といった、厳密な吟味にかけられなければならないとしました。
  • ランケの歴史観: ランケは、客観性を追求しましたが、完全に価値中立であったわけではありません。彼は、敬虔なプロテスタントであり、歴史の背後には、神の摂理が働いていると信じていました。また、彼は、国家を、それぞれが神から与えられた固有の使命を持つ、個性的な生命体であると見なし、特に、ヨーロッパの歴史を、列強(大国)間のパワーバランス(勢力均衡)のダイナミズムとして捉えました。

4.3. 歴史学の制度化と影響

ランケが、ベルリン大学のゼミナール(演習)を通じて、史料批判の方法を弟子たちに教え込んだことは、歴史学が、専門的な訓練を受けた「プロの歴史家」による、学問の一分野として制度化される上で、決定的な役割を果たしました。彼の弟子たちは、ヨーロッパやアメリカの各大学で、この「ランケ学派」の方法を広め、歴史学は、近代的な大学制度の中核的な学問分野の一つとしての地位を確立します。

19世紀後半、実証主義の精神は、歴史学だけでなく、法学、経済学、社会学、文化人類学といった、あらゆる人文・社会科学の分野に浸透し、それぞれが「科学」としての専門性を高めていきました。

しかし、この「科学としての歴史学」の理念も、20世紀に入ると、マルクス主義歴史学や、アナール学派といった、新しい歴史学の潮流から、その限界を批判されることになります。彼らは、ランケ学派が、政治史や外交史に偏重し、経済や社会、あるいは民衆の文化といった、より広範な歴史の側面を見過ごしていることや、その客観性が、実際には、19世紀の国民国家や、ブルジョワ社会の価値観を、無自覚に反映したものであったことを、鋭く指摘したのです。とはいえ、ランケが確立した、史料に厳密に基づいて歴史を語るという、実証的な精神は、これらの批判を乗り越えて、現代に至るまで、歴史研究の不可欠な根幹であり続けているのです。

5. 進化論(ダーウィン)

19世紀という「科学の世紀」において、ニュートンの物理学革命に匹敵する、あるいはそれ以上に、人類の世界観、人間観、そして宗教観に、根源的な衝撃を与えた科学理論が登場しました。それが、イギリスの博物学者チャールズ・ダーウィン(1809-1882)が提唱した、「進化論(Theory of Evolution)」です。1859年に出版された、その主著『種の起源』は、生物の多様性と、その驚くべき環境への適応が、神による天地創造の結果ではなく、極めて長い時間をかけた、目的のない自然なプロセスによって生じたものであることを、圧倒的な証拠と、明快な論理によって示しました。ダーウィンの理論の中核である「自然選択(Natural Selection)」というメカニズムは、生命の世界から、神の計画という最後の砦を取り払い、人間を、特別な存在ではなく、他の全ての生物と連続した、自然界の一員として位置づけ直すものでした。この革命的な思想は、生物学のあらゆる分野を統一するパラダイムとなっただけでなく、社会、政治、倫理の領域にまで、巨大な論争の渦を巻き起こしたのです。

5.1. ダーウィン以前の進化思想

生物が、不変の存在ではなく、時間をかけて変化してきたという「進化」の考え方自体は、ダーウィン以前にも存在していました。

  • ラマルクの「用不用説」: 19世紀初頭、フランスの博物学者ジャン=バティスト・ラマルクは、体系的な進化論を初めて提唱しました。彼は、生物が、その生涯の間に、環境に適応するために、よく使う器官は発達し、使わない器官は退化し、そのようにして獲得した形質(獲得形質)が、子孫に遺伝することによって、進化が起こると考えました(用不用説)。キリンの首が、高い木の葉を食べようと、世代を重ねて首を伸ばすうちに、長くなった、という例えは、彼の理論を象徴しています。しかし、獲得形質が遺伝するという、彼の考えは、後の遺伝学によって否定されることになります。
  • ダーウィンの着想: ダーウィンが、進化の正しいメカニズムを発見する上で、二つの重要な着想源がありました。一つは、地質学者チャールズ・ライエルが『地質学原理』で示した、地球の歴史が、聖書が示唆するよりも、はるかに長く、緩やかで、連続的な変化の積み重ねによって形成されてきたという「斉一説」の考え方です。もう一つは、経済学者トマス・マルサスが『人口論』で述べた、人口は幾何級数的に増加するが、食糧は算術級数的にしか増加しないため、常に「生存競争」が生じる、という議論でした。

5.2. ビーグル号の航海と『種の起源』

若き博物学者であったダーウィンは、1831年から5年間にわたって、イギリスの測量船ビーグル号に乗船し、世界一周の航海に出ます。この航海、特に、南米沖のガラパゴス諸島での観察が、彼の思想を形成する上で、決定的な役割を果たしました。

  • ガラパゴスのフィンチ: ダーウィンは、ガラパゴス諸島の島々で、近縁でありながら、島ごとに、くちばしの形が、それぞれの島の食性(木の実を割る、昆虫を捕るなど)に、見事に適応した形で、わずかに異なっているフィンチ(アトリ科の鳥)の群れを発見します。彼は、これらの多様なフィンチが、もともと南米大陸からやってきた、単一の共通の祖先から、それぞれの島の環境に適応する過程で、分岐していったのではないか、と推論しました。
  • 「自然選択」による進化のメカニズム: 帰国後、ダーウィンは、20年以上にわたって、膨大な観察データと、鳩の品種改良などの知見を基に、自らの理論を慎重に練り上げていきます。そして、アルフレッド・ラッセル・ウォレスという、別の博物学者が、独立に同様の理論に到達したことを知り、1859年、ついに『種の起源(正式名称:自然選択による種の起源、ならびに生存闘争における有利な品種の保存について)』を出版します。
    • ダーウィンの理論の骨子:
      1. 変異: 同じ種の個体の間にも、生まれつき、わずかな個体差(変異)が存在する。
      2. 遺伝: これらの変異の一部は、親から子へと遺伝する。
      3. 生存競争: マルサスの言うように、生まれてくる子の数に対して、資源は限られているため、生存と繁殖をめぐる、厳しい競争が生じる。
      4. 自然選択(適者生存): その特定の環境において、生存と繁殖に、わずかでも有利な変異を持つ個体が、他の個体よりも、生き残り、より多くの子孫を残す可能性が高い。このプロセスが、何世代にもわたって繰り返されることで、有利な形質が、集団の中に次第に広まっていく。この、目的も、計画もなく、ただ環境によるふるい分け(自然選択)が、長い地質学的な時間をかけて積み重なることで、生物が、あたかも意図的に設計されたかのように、見事に環境に適応した姿へと変化していく、というのが、ダーウィンの進化論の核心でした。

5.3. ダーウィン・ショック:科学と社会への影響

『種の起源』の出版は、ヴィクトリア朝の社会に、巨大な衝撃と、激しい論争を巻き起こしました。

  • 科学へのインパクト: ダーウィンの理論は、それまでバラバラな知識の集積であった生物学の諸分野を、「進化」という、単一の壮大な理論的枠組みの下に統一しました。全ての生物は、単一の共通祖先から、生命の樹のように分岐してきたという考えは、分類学、比較解剖学、古生物学といった分野に、新しい光を当てました。
  • 宗教との対立: 進化論は、聖書に書かれた、神が数日間で、全ての生物種を、現在の形のまま、個別に創造したという「天地創造説」を、真っ向から否定するものでした。特に、ダーウィンが後の著作『人間の由来』で、人間もまた、類人猿のような祖先から進化した、動物の一種であることを示唆したことは、人間の特別な地位を信じる、キリスト教の世界観に対する、深刻な挑戦と受け止められました。ダーウィンを、猿の姿で描いた風刺画が、数多く描かれたことは、当時の論争の激しさを物語っています。
  • 社会ダーウィニズムの誤用: ダーウィンの理論は、生物学の領域を超えて、人間社会を説明するための理論として、しばしば誤用されました。イギリスの哲学者ハーバート・スペンサーは、ダーウィンの「生存競争」と「適者生存」の概念を、人間社会に直接適用し(ダーウィン自身は、この用語を限定的にしか用いなかった)、「社会ダーウィニズム」と呼ばれる思想を体系化しました。
    • 思想内容: この思想によれば、社会における貧富の差や、国家間の競争は、自然な「生存競争」の現れであり、強者(富者、先進国)が、弱者(貧者、後進国)を打ち負かすのは、自然の摂理であり、進歩のために必要なことである、と正当化されました。
    • 影響: 社会ダーウィニズムは、19世紀後半の、格差を容認する自由放任の資本主義( laissez-faire capitalism)、他民族を支配する帝国主義(imperialism)、そして、優生学(eugenics)や人種差別(racism)といった、極めて危険な思想の、疑似科学的な根拠として、広く利用されることになります。

ダーウィンの進化論は、生命の世界に関する、我々の理解を、不可逆的に変えてしまいました。それは、近代科学の最も偉大な達成の一つであると同時に、その思想が、いかに社会的な文脈の中で、予期せぬ、そして時には有害な形で、解釈され、利用されうるかという、科学と社会の関係をめぐる、重要な問題を、私たちに突きつけているのです。

6. 写実主義と自然主義

19世紀半ば、ヨーロッパの文学と美術の世界では、ロマン主義が掲げた、情熱的な主観性や、中世や異国への憧憬といった夢想的な態度に対する、力強い反動が起こります。1848年の革命の挫折と、産業化の非情な現実を目の当たりにした新しい世代の芸術家たちは、もはや、感情や理想の世界に逃避するのではなく、彼らが生きる、ありのままの「現実」を、客観的に、そして批判的に見つめることこそが、芸術の務めであると考え始めました。この新しい芸術運動は、「写実主義(リアリズム)」と呼ばれます。さらに、19世紀後半になると、ダーウィンの進化論や、実証主義といった、科学思想の強い影響の下で、この写実主義を、より徹底させ、人間を、遺伝と環境によって決定される、科学的な分析の対象として描こうとする、「自然主義(ナチュラリスム)」が、その最も急進的な表現として登場します。これらの運動は、芸術の主題と方法を、英雄や神々から、ごく普通の、名もなき市民や労働者の、ありふれた日常へと、大きく引き下げるものでした。

6.1. 写実主義(リアリズム):現実をありのままに

写実主義の芸術家たちのスローガンは、「現代的であれ(be of one’s time)」でした。彼らは、過去の神話や歴史ではなく、今、ここで起きている、同時代の社会の姿を、美化も、感傷も交えずに、忠実に描き出すことを目指しました。

  • 文学における写実主義:
    • フランス: フランスは、写実主義小説の最も豊かな土壌となりました。
      • スタンダール: 彼は、その代表作『赤と黒』で、ナポレオン後の王政復古の時代を、「道端に掲げられた鏡」のように、客観的に映し出し、野心的な青年の立身出世の夢と、その挫折を描きました。
      • オノレ・ド・バルザック: 彼は、約90篇の小説からなる、壮大な作品群『人間喜劇』において、金銭への欲望が、あらゆる人間関係を支配する、19世紀フランスのブルジョワ社会の全体像を、百科全書的なスケールで、克明に描き出そうとしました。
      • ギュスターヴ・フロベール: 彼の『ボヴァリー夫人』は、写実主義小説の金字塔とされています。この作品は、ありふれた田舎の医者の妻が、平凡な現実に飽き足らず、恋愛小説のような夢を見て、不倫と借金を重ね、破滅していく物語を、作者の感情を一切排した、冷徹で、完璧な客観描写(非人情性)によって描き、大きなスキャンダルを巻き起こしました。
    • ロシア: 19世紀後半のロシアでは、社会の矛盾を、深い心理的な洞察と共に描く、偉大なリアリズム文学が花開きました。トルストイの『戦争と平和』は、ナポレオン戦争を舞台に、歴史と個人の運命を壮大に描き、ドストエフスキーの『罪と罰』は、貧しい学生の犯した殺人の動機と、その後の魂の葛藤を、強烈な筆致で探求しました。
  • 美術における写実主義:
    • ギュスターヴ・クールベ: フランスの画家クールベは、写実主義の最も戦闘的な旗手でした。彼は、「私は天使を描くことはできない。なぜなら、見たことがないからだ」と豪語し、アカデミーが称揚する、神話や歴史といった、高尚な主題を退け、名もなき労働者や、故郷オルナンの人々の、ありふれた日常を、英雄的な歴史画と同じ、巨大なスケールで描きました。代表作『石割り』は、過酷な労働に従事する、二人の貧しい労働者の姿を、一切の感傷を排して、記念碑的に描き出し、当時のブルジョワ社会に衝撃を与えました。

6.2. 自然主義(ナチュラリスム):科学としての文学

19世紀後半になると、写実主義の客観的な態度は、同時代の科学思想、特に、ダーウィンの進化論、クロード・ベルナールの『実験医学序説』、そしてイポリット・テーヌの決定論(人間は、人種、環境、時代の産物であるとする)などと結びつき、より極端な形をとります。これが「自然主義」です。

  • 自然主義の理念: 自然主義の作家たちは、文学を、一種の科学的な「実験」と見なしました。小説家は、実験室の科学者のように、特定の遺伝的素質を持った主人公を、特定の社会環境の中に置き、その人物が、いかにして、遺伝と環境という、不可避的な力によって、運命づけられていくかを、客観的に観察し、記録するべきである、と考えました。
  • エミール・ゾラ: 自然主義文学の理論的指導者であり、最も偉大な実践者が、フランスの作家エミール・ゾラでした。
    • ルーゴン=マッカール叢書: 彼は、第二帝政下のフランス社会を舞台に、ある一つの家系(ルーゴン=マッカール家)の血筋が、世代を重ね、様々な社会階層に枝分かれしていく中で、遺伝的な欠陥(特に、アルコール依存症)と、社会環境が、いかに彼らの運命を決定していくかを、20巻にも及ぶ、壮大な連作小説群で描きました。
    • 『居酒屋』と『ジェルミナール』: 『居酒屋』では、パリの洗濯女ジェルヴェーズが、アルコール依存という遺伝と、貧困という環境の中で、いかにして身を持ち崩していくかを、容赦ない筆致で描きました。『ジェルミナール』は、炭鉱労働者たちの、悲惨な労働条件と、そのストライキの敗北を、社会学的な調査に基づいて、圧倒的な迫力で描いています。
  • 自然主義の特徴: 自然主義の作品は、しばしば、社会の最も暗く、醜い側面(貧困、売春、暴力、病気)を、露悪的なまでに詳細に描き出す傾向がありました。その根底には、人間の自由意志を否定し、人間を、生物学的な法則と、社会的な力によって動かされる、一種の動物と見なす、決定論的な人間観がありました。しかし、その描写は、しばしば、社会の不正に対する、強い告発の力を持っていました。

写実主義と自然主義は、芸術の世界に、近代的な都市の現実と、科学の時代の精神を、本格的に導入しました。彼らは、芸術の視線を、天上の理想から、地上の、時には泥まみれの現実に引き戻すことで、文学と美術が、現代社会を分析し、批判するための、強力な道具となりうることを証明したのです。この、現実を直視する精神は、次の時代の芸術家たちに、さらなる革新への道を開くことになります。

7. 印象派

19世紀後半のフランス・パリ。近代的な大都市として急速に変貌を遂げるこの街で、西洋美術の歴史を永遠に変えることになる、革命的な芸術運動が起こりました。それが「印象派(Impressionism)」です。アカデミー(官立美術学校)が支配する、伝統的で保守的な美術の世界に反旗を翻した、モネ、ルノワール、ドガといった若い画家たちは、アトリエを飛び出し、刻一刻と移ろいゆく、屋外の光の効果を、キャンバスの上に捉えようとしました。彼らの芸術は、対象を、固定された、固有の形と色を持つものとしてではなく、光の反射によって、我々の網膜に映し出される、 fleeting(束の間の)「印象」として捉え直すものでした。当初は、保守的な批評家から、「描きかけの、単なる印象に過ぎない」と嘲笑されたこの運動は、しかし、近代人の新しい視覚体験を、鮮やかに表現し、絵画を、現実の忠実な再現という呪縛から解放する、近代絵画の、真の出発点となったのです。

7.1. 印象派前夜:サロンへの反抗と新しい視覚

印象派が登場する以前から、19世紀半ばのフランスの画壇では、新しい動きが始まっていました。

  • バルビゾン派: コローやミレーといった画家たちは、パリ郊外のバルビゾン村に集い、アトリエで理想化された風景を描くのではなく、ありのままの自然を、直接観察して描きました。彼らの、屋外での制作態度は、印象派の画家たちに、直接的な影響を与えました。
  • エドゥアール・マネ: マネは、印象派の画家たちから、指導者として尊敬された、重要な先駆者です。彼の作品『草上の昼食』や『オランピア』は、伝統的な名画の構図を借用しながらも、その主題(現代のパリの男女)と、陰影を排した、平面的で大胆な描法が、大きなスキャンダルを巻き起こしました。彼は、絵画が、三次元の現実を再現するイリュージョンであることを暴き、絵画は、絵具が塗られた、二次元の平面であることを、観る者に意識させました。この、絵画の自己言及的な態度は、近代絵画の始まりを告げるものでした。
  • 新しい時代の視覚: 19世紀のパリでは、鉄道の開通、ブルヴァール(大通り)の整備、そして写真の発明といった、新しいテクノロジーと都市環境が、人々の視覚体験を大きく変えていました。窓の外を高速で過ぎ去る風景、雑踏の中の断片的な光景、そして、一瞬を切り取る写真のフレーミング。印象派の芸術は、このような、近代的な都市生活が生み出した、新しい「まなざし」を、絵画の言語で表現しようとする試みでもありました。

7.2. 「印象、日の出」と第一回印象派展

印象派の運動が、公式にその名を歴史に刻んだのは、1874年のことでした。サロン(官展)の審査に、ことごとく落選していたモネ、ルノワール、ドガ、ピサロ、シスレーといった画家たちは、自分たちでグループ展を、写真家ナダールのスタジオで開催しました。この、歴史的な第一回印象派展に出品された、クロード・モネの作品が、その名前の由来となります。

  • クロード・モネの『印象、日の出』: この作品は、モネの故郷である、ル・アーヴル港の、朝靄の中の風景を描いたものです。港のシルエットや、船の形は、ぼんやりとした輪郭でしかなく、画面全体は、朝の光を反射する、水面の揺らめきと、大気の色彩を描き出す、素早い筆致で覆われています。
  • 「印象派」という名の誕生: この展覧会を訪れた、批評家ルイ・ルロワは、このモネの作品の題名をとって、彼らのグループを、「単なる印象を描いただけの、未完成な絵描きども」という意味を込めて、「印象派(Impressionnistes)」と、揶揄的に呼びました。しかし、画家たちは、この名前を、逆手にとって、自らのグループ名として採用したのです。

7.3. 印象派の技法と理念

印象派の画家たちが目指したのは、アトリエの中で、記憶や構想に基づいて、念入りに仕上げられた、伝統的な絵画とは、全く異なるものでした。

  • 戸外制作(En plein air): 彼らは、チューブ入りの絵の具という、新しい画材の登場にも助けられて、積極的にアトリエの外に出て、太陽の光が降り注ぐ、現実の風景の中で制作しました(戸外制作)。
  • 光と色彩の探求: 彼らの真の主題は、風景そのものというよりは、その風景の上で、時間や天候と共に、刻一刻と変化する「光」の効果でした。彼らは、固有色(リンゴは赤い、空は青い、といった固定観念)を否定し、対象の色は、それに当たる光の条件によって、絶えず変化すると考えました。
  • 筆触分割(色彩分割): この光の効果を、キャンバス上で再現するために、彼らは、パレットの上で絵の具を混ぜ合わせることを極力避け、純粋な色の小さな筆触(タッチ)を、キャンバスの上に並べて置く、「筆触分割」という技法を用いました。これらの色彩は、観る者の網膜の上で、視覚的に混合され、より明るく、鮮やかな色彩効果を生み出すとされました。影は、もはや黒や灰色ではなく、対象の補色(例えば、黄色の光が当たった部分の影は、青紫色)で描かれました。
  • 日本の浮世絵の影響: 印象派の画家たちは、当時ヨーロッパで流行していた、日本の浮世絵版画(ジャポニスム)からも、大きな影響を受けました。彼らは、北斎や広重の作品に見られる、大胆な構図、平坦な色彩、そして、日常的な主題に、新しい絵画の可能性を見出したのです。

7.4. ポスト印象派:印象派を超えて

1880年代半ばになると、印象派の運動は、その最初の勢いを失い、参加した画家たちは、それぞれ独自の方向性を模索し始めます。彼らは、印象派の、明るい色彩と、自由な筆致を受け継ぎながらも、その感覚的な、うつろいやすい世界の描写だけでは満足できず、より永続的で、構造的なものや、より主観的で、精神的なものを、絵画に回復しようと試みました。この、印象派に続く、多様な画家たちの動向を、総称して「ポスト印象派(Post-Impressionism)」と呼びます。

  • ポール・セザンヌ: 「印象派を、美術館の芸術のように、堅固で、永続的なものにしたい」と語った彼は、自然を、その背後にある、円筒、球、円錐といった、基本的な幾何学的形態に還元して捉えようとし、後のキュビスムへの道を切り開きました。
  • フィンセント・ファン・ゴッホ: オランダ出身のゴッホは、印象派の明るい色彩を、自らの内面の激しい感情を表現するための手段として用いました。渦巻くような、力強い筆致と、強烈な色彩は、彼の魂の叫びそのものでした。
  • ポール・ゴーギャン: 彼は、近代文明に背を向け、タヒチの原始的な自然と生活の中に、神秘的で、象徴的な世界を見出し、平坦で装飾的な色面を特徴とする、総合主義(サンテティスム)というスタイルを確立しました。
  • ジョルジュ・スーラ: 彼は、印象派の筆触分割を、より科学的で、秩序だったシステムへと発展させ、純粋な色彩の小さな点(点描)によって画面を構成する、「点描法(ポワンティリスム)」を生み出しました。

印象派は、絵画を、「何を描くか」から、「いかに見るか、いかに描くか」という問いへと、その重心を移行させました。この、絵画の自律性への目覚めは、20世紀の、キュビスムや抽象絵画といった、あらゆる前衛的な芸術運動の、真の出発点となったのです。

8. 近代の科学技術

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパとアメリカを中心とする先進工業国は、「第二次産業革命」と呼ばれる、新しい波の技術革新の時代を経験しました。第一次産業革命が、石炭をエネルギー源とし、蒸気機関を動力とする、鉄と繊維の産業を中核としていたのに対し、第二次産業革命は、電力石油という、新しいエネルギー源の利用と、科学研究の成果が、直接、新しい産業(化学鉄鋼など)の創出に結びついたことに、その大きな特徴があります。この時代の科学技術の爆発的な発展は、人々の生活様式、コミュニケーション、そして戦争のあり方までもを、不可逆的に変容させ、現代にまで直接つながる、高度な技術社会の基礎を築き上げたのです。

8.1. 新しいエネルギー:電力と石油

  • 電力の時代:
    • 基礎技術の開発: 19世紀前半、ファラデーが電磁誘導の法則を発見するなど、電気に関する基礎的な科学的知見が蓄積されていました。1870年頃には、実用的な発電機が開発され、電力を大規模に生産することが可能になります。
    • エジソンの発明: アメリカの発明家トーマス・エジソンは、この電力を、一般家庭や都市の生活に導入する上で、決定的な役割を果たしました。彼は、1879年に、長時間点灯可能な、実用的な白熱電球を発明しただけでなく、発電所から、送電網、そして家庭のソケットに至るまでの、総合的な「電力供給システム」をニューヨークで事業化しました。これにより、夜は、ガス灯やロウソクの薄暗い光から、安全で明るい電気の光の時代へと変わりました。
    • 動力としての利用: 電力は、照明だけでなく、新しい動力源としても、産業に革命をもたらしました。モーターの発明により、工場では、巨大な蒸気機関から、個々の機械を、より効率的に動かす、電動モーターへの置き換えが進みました。また、路面電車(トラム)や、地下鉄といった、新しい都市交通システムも、電力によって動かされました。
  • 石油の時代:
    • 内燃機関の発明: 19世紀後半、ドイツのダイムラーとベンツは、それぞれ独立に、ガソリンを燃料とする、小型で軽量な内燃機関(ガソリン・エンジン)を開発し、これを搭載した、世界初の自動車を実用化しました。また、同じくドイツのディーゼルは、より効率の高いディーゼル・エンジンを発明しました。
    • 交通革命: 当初は、富裕層の贅沢品であった自動車は、20世紀初頭、アメリカのヘンリー・フォードが、ベルトコンベアによる大量生産方式(フォード・システム)を導入し、安価な「T型フォード」を発売したことで、大衆の乗り物となります。自動車の普及は、人々の移動の自由を飛躍的に高め、都市の郊外化を促進するなど、社会の景観を一変させました。また、飛行機(1903年、ライト兄弟が初飛行に成功)も、内燃機関によって可能となった、新しい交通手段でした。

8.2. 新しい産業:鉄鋼と化学

  • 鉄鋼業: 1850年代に、イギリスのベッセマーによって、安価で大量に、鋼鉄を生産できる転炉法が発明され、鉄鋼の時代が到来しました。鋼鉄は、従来の銑鉄よりも、はるかに強靭で、加工しやすかったため、鉄道レール、橋梁、高層ビル、そして軍艦や大砲といった、あらゆる分野で、主要な構造材料となりました。
  • 化学工業: 19世紀後半、特にドイツでは、大学での有機化学の基礎研究が、新しい巨大な化学工業の創出に直結しました。
    • 合成染料: 石炭を乾留した際に生じるコールタールを原料として、それまで高価な天然の染料にしかなかった、紫や青といった、鮮やかな色彩を、人工的に合成することに成功しました。
    • 化学肥料: 人口増加に伴う食糧問題に対し、空気中の窒素を固定して、化学肥料(硫安など)を工業的に生産する技術(ハーバー・ボッシュ法)が開発され、農業生産を飛躍的に増大させました。
    • その他の化学製品: 化学工業は、火薬(ダイナマイトの発明者ノーベル)、医薬品(アスピリンなど)、そして人造繊維(レーヨン)といった、次々と新しい製品を生み出していきました。

8.3. コミュニケーションと物理学の革命

  • 通信革命:
    • 電信: 19世紀半ば、アメリカのモールスによって実用化された電信は、電気信号によって、遠隔地に、瞬時に情報を伝えることを可能にしました。海底ケーブルが、大西洋や太平洋に敷設され、19世紀末には、世界を結ぶグローバルな通信ネットワークが完成し、経済や政治のあり方を一変させました。
    • 電話: 1876年、アメリカのベルが電話を発明し、人の声を、直接、遠隔地に伝えることが可能になりました。
    • 無線通信: 19世紀末、イタリアのマルコーニが、ヘルツが発見した電磁波を利用して、無線電信を実用化しました。これにより、船舶間など、有線の引けない場所との通信も可能になりました。
  • 物理学の新しい地平: 19世紀末から20世紀初頭にかけて、それまでニュートン力学によって、完全に解明されたと思われていた物理学の世界は、根底から揺らぎ始めます。
    • 電磁気学: マクスウェルが、電気と磁気の現象を、統一的な方程式で記述し、光が電磁波の一種であることを理論的に予言しました。
    • 新しい発見: 1895年のレントゲンによるX線の発見、1896年のベクレルによる放射能の発見、そして、1897年のJ.J.トムソンによる電子の発見は、原子が、それ以上分割できない、安定した粒子であるという、従来の原子論を覆すものでした。
    • 相対性理論と量子論へ: これらの新しい発見は、20世紀初頭、アインシュタインの相対性理論と、プランクに始まる量子論という、二つの大きな物理学革命へと繋がっていきます。これにより、ニュートン的な、絶対的な時間と空間という、近代科学の前提そのものが、問い直されることになります。

8.4. 医学と公衆衛生の進歩

19世紀後半、細菌学の発展は、人類の健康と寿命に、絶大な貢献をしました。

  • 細菌学の確立: フランスの化学者パスツールは、発酵や腐敗が、微生物の働きによるものであることを証明し、伝染病もまた、特定の病原菌によって引き起こされるという「病原菌説」を提唱しました。ドイツの医師コッホは、炭疽菌、結核菌、コレラ菌といった、具体的な病原菌を次々と発見し、その研究方法を確立しました。
  • 予防と治療: これらの発見は、予防接種(ワクチン)の開発や、消毒法(イギリスの外科医リスターによる、石炭酸を用いた手術野の消毒)の確立に繋がり、手術の成功率と、病院での生存率を、劇的に向上させました。また、公衆衛生の観点から、上下水道の整備や、食品衛生の管理の重要性が認識されるようになり、都市の衛生環境は大きく改善されました。

第二次産業革命は、科学の力が、人類の生活を、良くも悪くも、根源的に変えうることを、誰の目にも明らかにした時代でした。それは、豊かな物質文明と、便利な生活の基礎を築いた一方で、新しい強力な兵器の開発や、環境問題といった、現代にも通じる、新しい課題を生み出す、両刃の剣でもあったのです。

9. 大衆文化の成立

19世紀後半の西ヨーロッパとアメリカでは、産業化と都市化が急速に進展し、社会の姿は大きく様変わりしました。この変化の中で、それまでの歴史には存在しなかった、新しい文化の形態が生まれます。それが「大衆文化(マス・カルチャー)」です。かつて、文化の享受とは、一握りの貴族や、裕福なブルジョワジーといった、教養と余暇を持つ、限られた階層の特権でした。しかし、この時代、様々な社会的・技術的要因が重なり合った結果、文化は、初めて、都市に集中する、不特定多数の「大衆(マス)」を、その主要な受け手とする、巨大な市場へと変貌を遂げたのです。大衆文化の成立は、近代社会の到来を告げる、最も重要な指標の一つでした。

9.1. 大衆社会の誕生

大衆文化が成立するための、社会的な前提条件は、19世紀後半に、次々と整えられていきました。

  • 都市への人口集中: 産業革命は、農村から都市への、大規模な人口移動を引き起こしました。ロンドン、パリ、ニューヨークといった大都市には、工場労働者をはじめとする、様々な階層の人々が、密集して暮らすようになります。この、伝統的な共同体の絆から切り離された、匿名的な都市の群衆が、「大衆」の母体となりました。
  • 公教育の普及と識字率の向上: 19世紀後半、多くの先進国で、初等教育が義務化され、公教育制度が整備されました。これにより、それまで文字を読むことができなかった、労働者階級の子供たちを含め、国民全体の識字率が、飛躍的に向上しました。文字を読める人々の数が爆発的に増えたことは、後述する、新聞や大衆雑誌といった、印刷メディアが、巨大な市場を獲得するための、決定的な前提条件でした。
  • 実質所得の向上と余暇の増大: 労働組合運動の成果などにより、労働者の実質的な賃金は、徐々に上昇し、また、労働時間も短縮される傾向にありました。これにより、労働者階級にも、わずかながら、生活必需品以外のものに、お金や時間を使う「余暇」が生まれました。
  • 交通網の発達: 鉄道網が国中に張り巡らされたことで、人々の移動が、格段に容易になりました。これにより、スポーツ観戦や、海水浴といった、新しいレジャーが、大衆的な広がりを持つようになります。

9.2. 大衆文化の生産と消費

このような「大衆社会」の出現に対応して、文化そのものも、新しい生産と消費の様式を獲得します。

  • 文化の商業化: 大衆文化は、特定のパトロンのために作られる、一点ものの芸術作品ではなく、市場で販売され、利潤を生むための「商品」として、大量生産されるという特徴を持っていました。
  • 標準化と類型化: 不特定多数の、多様な大衆に、広く受け入れられるために、大衆文化の内容は、分かりやすく、刺激的で、ある程度、決まったパターン(類型)に沿って作られる傾向がありました。例えば、勧善懲悪の物語や、メロドラマ的な恋愛、センセーショナルな事件などが、繰り返し好まれる主題となりました。
  • 新しい消費空間: 大衆が、新しい文化商品を消費するための、新しい空間も、都市の中に次々と生まれます。
    • デパート(百貨店): パリのボン・マルシェに代表されるデパートは、正札販売、ショーウィンドウによる陳列、そして、あらゆる種類の商品を一つの建物の中に集めるという、新しい販売方法を導入し、買い物を、一種の娯楽へと変えました。
    • ミュージック・ホールやヴォードヴィル: 労働者階級が、気軽に楽しむことのできる、歌や踊り、曲芸、寸劇などを、安価な料金で提供する、大衆的な演芸場が、人気を博しました。

9.3. 大衆文化の具体的なかたち

  • 大衆文学: 識字率の向上は、新しい読者層を生み出し、安価な大衆小説の市場を拡大させました。アメリカでは、10セントで買える「ダイムノヴェル」が、西部劇や冒険譚といった、刺激的な物語を提供し、若者を中心に人気を博しました。イギリスでは、アーサー・コナン・ドイルが生み出した、名探偵シャーロック・ホームズのシリーズが、雑誌連載を通じて、爆発的な人気を得ました。
  • スポーツのスペクタクル化: それまで、地域的な遊びであった、サッカーや野球、ラグビーといったスポーツが、19世紀後半に、統一されたルールブックと、プロのリーグ組織を持つ、観戦するための「スペクタクル(見世物)」へと変貌しました。都市対抗の試合には、数万人の観衆が詰めかけ、労働者階級の、地域的なアイデンティティや、帰属意識を育む、新しい祝祭の場となりました。
  • ツーリズム(大衆観光): イギリスのトーマス・クックは、鉄道を利用した、団体割引の企画旅行を、世界で初めて事業化しました。万国博覧会への日帰り旅行や、海水浴場への小旅行は、それまで富裕層の特権であった「旅」を、中産階級や、一部の労働者階級にまで、開かれたものにしました。
  • 万国博覧会: 1851年にロンドンの水晶宮(クリスタル・パレス)で開催された、第一回万国博覧会を皮切りに、万博は、19世紀後半を通じて、ヨーロッパやアメリカの主要都市で、繰り返し開催されました。万博は、各国の最新の工業製品や、技術の成果を、一堂に会して展示する、産業と進歩の祭典であると同時に、植民地から持ち込まれた、珍しい文物や人々を展示する、帝国主義のスペクタクルでもあり、何百万人もの人々を動員する、巨大な大衆娯楽イベントでした。

大衆文化の成立は、文化の「民主化」という、肯定的な側面を持つと同時に、文化の質の低下や、商業主義による画一化といった、批判も、当初から伴っていました。20世紀に入ると、この大衆文化を、いかに評価するかという問題(大衆社会論)は、社会学や哲学の、重要なテーマとなっていきます。しかし、良くも悪くも、大衆文化は、近代以降の社会において、人々の価値観や、ライフスタイルを形成する上で、最も強力な力の一つとなったことは、紛れもない事実です。

10. 新聞、雑誌、映画の普及

19世紀後半に成立した大衆文化は、その情報を、不特定多数の大衆へと、効率的に、そして大規模に伝達するための、新しいメディアの発達によって、その勢いを加速させていきました。技術革新によって、かつてないほどの安価で、大量に生産することが可能になった「新聞」や「雑誌」は、人々の情報環境を劇的に変え、世論を形成する、強力な力を持つようになります。そして、19世紀の末、まさに世紀の変わり目に、音も、色もない、動く影に過ぎなかった「映画」が、全く新しいメディアとして誕生します。これらのマス・メディアは、20世紀を通じて、大衆社会における、最も影響力のある、文化の担い手へと成長していくことになるのです。

10.1. 新聞の巨大化と「第四の権力」

新聞そのものは、17世紀頃から存在していましたが、それが真に「マス・メディア」と呼べる存在になるのは、19世紀後半のことです。

  • 技術革新: 二つの大きな技術革新が、新聞の大量生産を可能にしました。
    1. 輪転機(ロータリー・プレス): 蒸気力を動力とし、円筒形の版胴を用いることで、それまでの平圧式の印刷機とは比較にならないほどの、高速印刷を可能にしました。
    2. ライノタイプ: キーボードを打つことで、一行分の活字を、自動的に鋳造する機械です。これにより、植字の作業効率が、飛躍的に向上しました。これらの技術により、新聞は、一面あたり、1ペニーや1セントといった、極めて安価な価格で、何十万部も印刷することが可能になりました。
  • 「ペニー・プレス」の登場: この安価な新聞は、「ペニー・プレス」と呼ばれ、それまでの、政党機関紙や、高級な商業紙とは異なり、労働者階級を含む、広範な読者層を対象としました。その内容は、難しい政治論説よりも、犯罪、スキャンダル、ゴシップ、スポーツといった、大衆の興味を引く、センセーショナルな話題が中心となりました。また、広告収入が、新聞社の主要な財源となったことで、新聞は、巨大な商業的企業へと変貌していきます。
  • イエロー・ジャーナリズム: 19世紀末のアメリカでは、新聞の発行部数を伸ばすための競争が、極端な形で現れます。新聞王と呼ばれた、ジョーゼフ・ピューリツァーの『ニューヨーク・ワールド』紙と、ウィリアム・ランドルフ・ハーストの『ニューヨーク・ジャーナル』紙は、読者の感情に訴えかけるため、扇情的な見出し、誇張された記事、そして、時には事実を捏造してまで、販売部数を競い合いました。この手法は、当時連載されていた、黄色い服を着た少年(the Yellow Kid)の漫画にちなんで、「イエロー・ジャーナリズム」と呼ばれました。特に、1898年の米西戦争の際には、彼らの新聞が、愛国心を煽り、好戦的な世論を形成する上で、大きな役割を果たしたとされています。
  • 第四の権力: このように、新聞は、単に情報を伝達するだけでなく、世論を操作し、政府の政策にさえ影響を与える、立法・行政・司法に次ぐ「第四の権力」としての性格を、明確に持つようになったのです。

10.2. 雑誌の多様化

新聞と同様に、雑誌もまた、19世紀後半に、大衆的なメディアとして、大きく発展しました。印刷技術の向上と、識字率の上昇、そして、全国的な鉄道網による流通システムの確立が、その背景にありました。新聞が、日々のニュースの速報性を特徴とするのに対し、雑誌は、週刊や月刊という発行サイクルを活かして、特定の読者層の関心に合わせた、より専門的で、多様なコンテンツを提供しました。

  • 総合雑誌とイラストレーション: 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』のような、銅版画や木版画の美しい挿絵を多用した、総合的な画報誌が人気を博しました。
  • 専門誌の登場: 中産階級の家庭の主婦を対象とした、ファッションや家事に関する記事を掲載する女性雑誌、子供向けの物語や教育的な記事を載せた少年少女雑誌、そして、特定の趣味や、職業分野に特化した、様々な専門誌が、次々と創刊されました。
  • 連載小説の場: 多くの雑誌は、読者を惹きつけるための目玉として、人気作家による小説を、分割して連載しました。ディケンズや、コナン・ドイルの作品が、雑誌連載によって、国民的な人気を得たことは、その代表例です。雑誌は、作家にとって、安定した収入源となると同時に、新しい読者層を開拓するための、重要なプラットフォームとなりました。

10.3. 映画の誕生:新しい大衆娯楽

19世紀末、科学技術と大衆文化の発展が交差する点で、全く新しい、そして20世紀を代表することになるメディアが誕生します。それが「映画(シネマ)」です。

  • 発明: 映画は、一人の天才の発明によるものではなく、多くの人々が関わった、技術の積み重ねの結果でした。人間の目が、連続する静止画を、動きとして認識する「残像現象」を利用した、様々な視覚玩具が、その前史として存在します。
    • エジソンのキネトスコープ: 1891年、アメリカの発明家エジソンは、「キネトスコープ」という、箱を覗き込むと、短い映像が見える装置を開発しました。これは、一人で楽しむ、個人的な見世物でした。
    • リュミエール兄弟のシネマトグラフ: フランスのリュミエール兄弟は、撮影と映写の両方が可能な、軽量のカメラ「シネマトグラフ」を開発し、1895年12月28日、パリのカフェの地下室で、世界で初めて、スクリーンに映像を投影する、有料の公開上映会を行いました。この日が、「映画の誕生日」とされています。彼らが上映したのは、『工場の出口』や、『列車の到着』といった、日常の風景を、ありのままに記録した、ごく短いフィルム(「アクチュアリテ(現実の記録)」と呼ばれた)でした。
  • 初期の発展: 当初は、見世物小屋の珍しい出し物の一つに過ぎなかった映画は、すぐに、安価で、言葉の壁を越えて、誰もが楽しめる、新しい大衆娯楽として、急速に普及していきます。
    • 物語映画の登場: フランスの奇術師であったジョルジュ・メリエスは、映画に、物語と、トリック撮影(特殊効果)の可能性を見出しました。彼の代表作『月世界旅行』(1902年)は、人間がロケットで月に行くという、空想的な物語を描いた、初期のSF映画の傑作です。
    • 映画文法の確立: アメリカの監督D.W.グリフィスは、『國民の創生』(1915年)などの作品を通じて、クローズアップ、カットバック、移動撮影といった、今日に至る、基本的な「映画の文法」を確立しました。
  • 社会的なインパクト: 常設の映画館(ニッケルオデオンと呼ばれた)が、都市の労働者階級の居住区に、次々とオープンしました。映画は、読み書きのできない移民たちにとっても、唯一、気軽に楽しむことのできる娯 E楽であり、彼らにとって、新しい国(アメリカ)の文化や、価値観を学ぶ、重要な窓口となりました。そして、スクリーンに登場する俳優たちは、大衆の憧れの的、「ムービー・スター」として、新しいタイプの有名人となっていきました。

新聞、雑誌、そして映画。これらの新しいマス・メディアの普及は、人々の世界認識の方法を、根本的に変えました。人々は、もはや、自らの直接的な経験や、地域社会での噂話だけでなく、メディアによって、遠隔地で起きた出来事や、全く異なる人々の生活を、リアルタイムで、あるいは、あたかも現実であるかのように、知ることができるようになったのです。この、メディアによって媒介された、新しい「現実」の感覚こそが、20世紀以降の、大衆社会の文化を規定していく、決定的な特徴となるのです。

「Module 22:近代の文化」の総括:二重革命が生み出した、光と影の思想圏

本モジュールで探求した19世紀という「近代」は、フランス革命が掲げた「自由と平等」の理念と、産業革命がもたらした「生産力の爆発」という、二つの巨大なエンジンによって駆動された時代でした。その文化と思想は、この「二重革命」がもたらした、かつてないほどの希望と、同時に、それまで経験したことのない、深刻な社会の歪みに対する、直接的な応答として生まれました。ロマン主義は理性の普遍性への反抗であり、自由主義とナショナリズムは新しい政治的主体の誕生を告げ、社会主義は産業社会の矛盾そのものへのラディカルな処方箋でした。そして、科学の精神は、進化論によって人間観を揺るがし、実証主義として学問の方法を規定し、写実主義として芸術に現実を直視させ、ついには印象派の網膜の上で光そのものを分解するに至ります。この時代の文化は、多様な「主義(イズム)」が、互いに激しく論争し、影響を与え合う、ダイナミックな思想の戦場でした。それは、現代を生きる私たちが直面する、ほとんどすべての思想的・社会的問題の、まさに「起源(オリジン)」が鋳造された、光と影の錯綜する、偉大な世紀の記録なのです。

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