【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 24:歴史認識と史学史

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本モジュールの目的と構成

私たちが学校で学ぶ「歴史」は、過去に起きた出来事を集めた、客観的で揺るぎない事実の集積であるかのように思われがちです。しかし、そもそも「歴史」とは何でしょうか。誰が、どのような目的で、いかなる方法を用いて過去を記録し、物語ってきたのでしょうか。本モジュールは、この根源的な問いを探求する知的冒険、すなわち「歴史学の歴史(史学史)」への招待状です。歴史とは、単なる過去の記録ではなく、それぞれの時代や文化圏の人々が自らの過去と向き合い、意味づけようとしてきた、絶えざる知的格闘の産物なのです。

この探求は、歴史という営みがどのように生まれ、変容し、そして現代の私たちが直面する複雑な問題へと至ったのかを解き明かす旅路です。本モジュールでは、以下のステップを通じて、歴史を記述するという行為そのものの歴史をたどります。

  1. ヘロドトス、トゥキディデス: 古代ギリシアで、神話的説明から脱却し、人間中心の合理的な探求としての「歴史」を創始した二人の巨人の方法論を比較検討します。
  2. 司馬遷『史記』: 古代中国で、個人の運命と壮大な時代のうねりを多角的に描き出し、東アジアの歴史叙述の規範を確立した不朽の歴史書の構造と思想に迫ります。
  3. キリスト教的年代記: 中世ヨーロッパにおいて、神の摂理が支配する世界観のもと、歴史がいかにして道徳的教訓と救済への物語として語られたかを解明します。
  4. イブン=ハルドゥーン: イスラーム世界が生んだ孤高の天才が、社会の法則性に着目し、驚くほど近代的な視点から歴史を科学として捉えようとした試みを分析します。
  5. ランケと近代歴史学: 19世紀ドイツで、「事実をありのままに」語ることを目指し、厳密な史料批判に基づく「科学的」歴史学がどのように確立されたかを探ります。
  6. マルクス主義歴史学: 経済的な土台と階級闘争こそが歴史を動かす原動力であると捉え、歴史学の焦点を権力者から民衆へと転換させた思想のインパクトを検証します。
  7. アナール学派: 短期的な政治史を批判し、地理的構造や社会経済、人々の心性といった「長期的な視点」から歴史を総体的に捉えようとしたフランスの学派の革新性に光を当てます。
  8. オーラルヒストリー: 文字に残されなかった「声の歴史」に耳を傾け、名もなき人々の経験を記録することで、歴史像をより豊かで複眼的なものにした方法論の意義と課題を考察します。
  9. ポストコロニアル理論: 西洋中心的な歴史観を根底から問い直し、植民地化された人々の視点から歴史を書き換えることを目指す現代の批評的アプローチを学びます。
  10. 現代における歴史認識問題: 歴史の解釈が、現代の国家間の対立や国内の分断にいかに深く関わっているか、具体的な事例を通して歴史と社会のダイナミックな関係を明らかにします。

このモジュールを通じて、読者は「歴史」が固定された知識ではなく、常に解釈され、書き換えられ続けるダイナミックなプロセスであることを理解するでしょう。それは、過去を批判的に読み解き、現代社会が抱える問題の歴史的文脈を洞察するための、不可欠な知的リテラシーを養うことに他なりません。


目次

1. ヘロドトス、トゥキディデス

「歴史」という知の営みが、神話や伝説の領域から分離し、人間自身の理知的な探求の対象として確立されたのは、古代ギリシア世界においてでした。その黎明期に屹立する二人の巨人、ヘロドトスとトゥキディデスは、それぞれ異なる方法と目的意識をもって過去を探求し、後世の歴史叙述に決定的な影響を与えました。彼らはしばしば「歴史の父」と「科学的歴史学の祖」として対比されますが、そのアプローチの違いを理解することは、歴史学とは何かという根源的な問いを考える上での原点となります。

1.1. ヘロドトス:「探求」としての歴史

紀元前5世紀に生きたヘロドトスは、その著書『歴史(ヒストリアイ)』の冒頭で、自らの目的を「人間たちの行った事績がやがて時とともに忘れ去られ、ギリシア人やバルバロイ(異民族)によって示された、偉大にして驚嘆すべき行為の数々が、人知れず終わることがないように」するためであると記しています。彼の用いた「ヒストリア」という言葉は、元来「探求」や「調査」を意味し、彼が自らの足で各地を旅し、見聞し、人々の話を聞き集めるという能動的な調査活動を重視していたことを示しています。

彼の主題は、ギリシア世界とアケメネス朝ペルシアとの間で戦われたペルシア戦争ですが、その記述は単なる戦記にとどまりません。物語は、リディア王クロイソスの逸話から始まり、ペルシア帝国の成立、エジプト、スキタイなど、当時のギリシア人が知り得た世界の地理、風俗、習慣、伝説へと大きく脇道にそれながら展開します。この百科全書的な好奇心と、多様な文化を善悪の判断を差し挟まずに記述しようとする態度は、ヘロドトスの際立った特徴です。彼は、ギリシア人だけでなく、敵であるはずのペルシア人の側の偉業や動機にも光を当て、対立する双方の視点を記録しようと努めました。

しかし、その情報の多くは伝聞や又聞きに依拠しており、奇妙な風習やにわかには信じがたい物語も数多く含まれています。彼はしばしば「私は見聞した事柄を報告する義務があるが、それをすべて信じる義務はない」と述べ、情報源の信頼性について常に留保をつけました。このため、後世、特にトゥキディデス以降の歴史家からは、その記述の正確性を疑問視され、「嘘つきの父」と揶揄されることもありました。しかし、彼の壮大な構想と、人間世界の多様性を丸ごと捉えようとする包括的な視野は、物語としての歴史の豊かさを示しており、文化人類学や民俗学の先駆者としても評価されています。

1.2. トゥキディデス:厳密な分析と人間性の洞察

ヘロドトスより少し後の世代にあたるトゥキディデスは、自らが将軍として参加したペロポネソス戦争の歴史を記述しました。彼は、同時代のヘロドトスの著作を念頭に置き、自らの仕事がそれとは根本的に異なるものであることを明確に意識していました。彼は、物語的な面白さや神話的な要素を「非現実的」として断固として退け、厳密な事実の探求こそが歴史家の務めであると宣言します。

トゥキディデスの方法論の核心は、徹底した史料批判にあります。彼は、戦争の原因と経過を記述するにあたり、自らが直接見聞した事柄と、他の目撃者から注意深く聴取した情報のみを根拠としました。「それぞれの人が、それぞれひいきにする側や記憶力に応じて、同じ出来事について違ったことを語る」と述べ、情報の客観性を確保するために、複数の証言を突き合わせるという、現代の歴史学にも通じる厳格な姿勢を貫きました。

彼の歴史叙述のもう一つの特徴は、事件の表面的な経過を追うだけでなく、その背後にある根本的な原因を追究しようとする分析的な視点です。彼は、ペロポネソス戦争の真の原因が、アテナイの強大化と、それがスパルタに引き起こした「恐怖」にあると喝破しました。このように、国家や個人の行動を動かす普遍的な人間性(権力への欲望、恐怖、名誉心)を洞察し、歴史を動かす力学を解明しようとしたのです。

彼の著作に頻繁に登場する演説(例えば、ペリクレスの戦没者追悼演説)は、彼自身が創作したものであることを断った上で、「それぞれの状況で語られるべきだったと私が思うこと」を、実際に語られた「大意」に沿って記述したものです。これは、単なる事実の再現ではなく、歴史的状況の本質を読者に理解させるための文学的・分析的な手法でした。

トゥキディデスは、自らの歴史が「一時的な喝采を博するためというよりは、むしろ永久に役立つ財産として書かれた」と述べています。その厳密で分析的なアプローチは、政治史や国際関係史の古典として、後世の歴史家たちに計り知れない影響を与え、西洋における「科学的」歴史学の源流となったのです。ヘロドトスが歴史の「幅」を切り拓いたとすれば、トゥキディデスは歴史の「深さ」を掘り下げたと言えるでしょう。


2. 司馬遷『史記』

古代ギリシアで歴史叙述が産声を上げていた頃、遠く離れた東方の地、前漢時代の中国でもまた、歴史を記述するという営みは一つの頂点を迎えようとしていました。その中心にいたのが、司馬遷とその不朽の著作『史記』です。司馬遷は、ギリシアの歴史家たちとは全く異なる文化的土壌から出発しながら、人間とその時代を多角的かつ深く描き出すという、歴史叙述の普遍的な課題に対して、独創的な方法で応えました。その壮大な構想と人間洞察の深さは、『史記』を単なる歴史書にとどまらせず、中国文学の最高傑作の一つとしても位置づけています。

2.1. 司馬遷の生涯と執筆の動機

司馬遷(紀元前145年頃 – 紀元前86年頃)は、代々、天文や暦、そして歴史記録を司る太史令の家系に生まれました。父・司馬談は、孔子が編纂したとされる年代記『春秋』の後を継ぐ、包括的な歴史書の執筆を志していましたが、その夢半ばで病に倒れます。父は死の床で、遷の才能を認め、自らの遺志を継ぐよう涙ながらに託しました。この父の遺言は、司馬遷の生涯を決定づける重い使命となりました。

太史令の職を継いだ司馬遷は、宮廷の図書資料を自由に閲覧できる立場を活かし、精力的に執筆の準備を進めます。しかし、彼の運命を暗転させる事件が起こります。匈奴との戦いに敗れて投降した将軍・李陵を、朝廷でただ一人弁護したことで、皇帝・武帝の怒りを買い、死刑を宣告されたのです。当時の制度では、死刑を免れるには莫大な罰金を支払うか、あるいは宮刑(去勢)を受けるしかありませんでした。

屈辱的な宮刑を受け入れて生き長らえる道を選んだ司馬遷の胸中には、父との約束を果たすという強靭な意志がありました。彼は友人への手紙の中で、この時の苦悩を「腸は一日にして九回も転倒するが如し」と吐露しつつ、「究天人之際、通古今之変、成一家之言(天と人との関係を究め、古今の変化を通覧し、一家の言を成す)」という、歴史家としての壮大な目標を掲げ、それを成し遂げるために恥を忍んだと記しています。この個人的な悲劇と、それを乗り越えようとする不屈の精神は、『史記』全体を貫く、運命に翻弄されながらも懸命に生きる人間への深い共感の源泉となったのです。

2.2. 『史記』の革新的な構成:「紀伝体」

司馬遷が『史記』で採用した「紀伝体(きでんたい)」という形式は、中国の歴史叙述における画期的な発明でした。それまでの歴史書が、出来事を単に年代順に記述する「編年体」であったのに対し、紀伝体は複数の部門を組み合わせることで、歴史を立体的・多角的に描き出すことを可能にしました。

『史記』は以下の五つの部分から構成されています。

  1. 本紀(ほんき): 歴代の皇帝・天子の治績を年代順に記した、歴史の縦軸となる部分。
  2. 表(ひょう): 複雑な年代や系図を一覧形式で整理した年表。
  3. 書(しょ): 礼儀、音楽、天文、経済といったテーマ別の制度史・文化史。社会の構造的な側面を捉える部門。
  4. 世家(せいか): 皇帝以外の諸侯の歴史。春秋戦国時代の国々の興亡などが描かれる。
  5. 列伝(れつでん): 最も独創的で文学的価値が高いとされる部分。官僚、学者、将軍、思想家から、刺客、遊侠、商人、医者、占い師に至るまで、様々な個人の生涯を描いた伝記集。

この構成の最大の功績は、「列伝」を設けたことにあります。これにより、司馬遷は、歴史が皇帝や諸侯といった権力者だけで動くのではなく、多様な階層に属する無数の個人の生き様や思想、行動の総体として成り立っていることを示しました。彼は、必ずしも社会的に成功しなかった人物や、体制に反逆した人物にも筆を尽くし、その行動の背後にある人間的な動機や情熱を生き生きと描き出しました。

2.3. 歴史家としての態度と後世への影響

司馬遷は、歴史家として、単なる事実の記録者にとどまることを良しとしませんでした。彼は、各伝記の末尾に「太史公曰く(太史公言う)」という形式で自らの批評や感想を挿入し、歴史上の人物や出来事に対する評価を明確に示しています。その評価基準は、儒教的な道徳観に基づきつつも、形式的な成功や失敗にとらわれず、個人の信義や気概、そして人間の宿命といった、より普遍的な次元に及んでいます。

例えば、楚の項羽を、皇帝ではなかったにもかかわらず「本紀」に立て、その英雄的な悲劇を描き切ったことや、敗者である孔子の弟子たちや、秦に滅ぼされた国の刺客たちの伝記を立てたことなど、そこには公式の価値観に捉われない、彼自身の人間観と歴史観が色濃く反映されています。

『史記』が確立した紀伝体は、その後の中国歴代王朝の正史(公式の歴史書)の標準形式となり、朝鮮半島や日本、ベトナムといった東アジア漢字文化圏の歴史叙述にも絶大な影響を与えました。司馬遷の、個々の人間の具体的な生から歴史の全体像を再構成しようとするアプローチは、トゥキディデスの政治分析とも、ヘロドトスの地理的・民俗学的探求とも異なる、独自の地平を切り拓いたのです。それは、歴史とは究極的には「人間とは何か」を問う学問であるという、時代と文化を超えた真理を私たちに示唆しています。


3. キリスト教的年代記

西ローマ帝国の崩壊後、古代ギリシア・ローマの合理主義的な歴史探求の伝統は、西ヨーロッパ世界では一旦途絶えます。代わって、中世ヨーロッパの知的世界を支配したのは、キリスト教の教義でした。この時代、歴史とは、人間の行為の記録である以上に、神が創造し、導き、そして終末へと至らせる、壮大な救済の物語の一部として理解されました。歴史を記述する営みは、主に聖職者たちの手に委ねられ、その形式は「年代記(クロニクル)」として、神の計画を解き明かし、人々に道徳的教訓を与えることを目的としました。

3.1. アウグスティヌスの歴史神学:『神の国』

中世キリスト教の歴史観に決定的な理論的基礎を与えたのは、古代末期の教父アウグスティヌス(354-430)でした。彼の主著『神の国(De Civitate Dei)』は、410年に西ゴート族によってローマが略奪されたという衝撃的な事件への応答として書かれました。多くの人々が、キリスト教を国教としたために、ローマ古来の神々の怒りを買ってこの災厄が起きたのだと非難する中で、アウグスティヌスは歴史の真の意味をキリスト教の視点から再定義しようと試みたのです。

彼によれば、人類の歴史は、目に見える「地の国」と、目には見えない「神の国」という二つの共同体の闘争の歴史です。「地の国」は、自己愛と神への軽蔑に基づいており、地上的な権力や栄光を追求します。ローマ帝国もこの「地の国」に属します。一方、「神の国」は、神への愛と自己軽蔑に基づいており、神の救済を待ち望む信仰者の共同体です。

アウグスティヌスにとって、ローマの略奪のような地上の出来事は、一見すると悲劇ですが、究極的には神の壮大な計画の一部に過ぎません。「地の国」の栄枯盛衰は、それ自体に意味があるのではなく、「神の国」が終末の日に完成へと至るまでの、一時的な舞台装置に過ぎないのです。この思想は、歴史を、聖書の記述(天地創造、アダムの堕落、キリストの受肉、そして最後の審判)を骨格とする、直線的で目的論的な(テロロジカルな)プロセスとして捉える視点を確立しました。歴史はもはや繰り返すものではなく、神が定めた終着点に向かって進む、一度限りの物語となったのです。

3.2. 年代記の役割と特徴

アウグスティヌスが示した神学的な枠組みの中で、中世の歴史叙述は主に修道院において、修道士たちの手によって担われました。彼らが編纂したのが「年代記(クロニクル)」や「年代史(アンナレス)」です。これらの記録は、多くの場合、天地創造から始まり、聖書や古代の歴史家の記述を引用しながら、自分たちの時代へと至る普遍史の形式をとりました。

年代記の特徴は、その記述が厳密な因果関係の分析よりも、出来事の羅列に重点を置いている点にあります。ある年に日食が起きたこと、王が即位したこと、洪水が発生したこと、聖人の奇跡が起きたことなどが、しばしば同等の価値で並列的に記されます。これは、歴史家が人間的な視点から出来事の重要性を判断するのではなく、すべては神の計画の一部であるという世界観を反映しています。

出来事の原因は、トゥキディデスが探求したような人間的な動機や政治力学ではなく、神の意志に求められました。戦争での敗北や飢饉、疫病は、民衆の罪に対する神の罰として解釈され、勝利や豊作は、神の恩寵のしるしと見なされました。歴史叙述の主たる目的は、事実を客観的に記録することではなく、神の摂理の現れを読み取り、読者に信仰と道徳を教え諭すことにありました。そのため、聖人伝や奇跡譚が歴史の記述において重要な位置を占めたのです。

3.3. 中世歴史叙述の限界と遺産

近代的な歴史学の観点から見れば、中世の年代記は史料批判の精神に乏しく、超自然的な説明に満ちた、非科学的なものと評価されるでしょう。トゥール司教グレゴリウスの『フランク史』や、ベーダの『イングランド教会史』といった優れた著作でさえ、その記述は奇跡や神意への言及と分かちがたく結びついています。

しかし、キリスト教的歴史観は、西洋の歴史意識に重要な遺産も残しました。第一に、歴史を一つの始まりと終わりを持つ、普遍的で単一のプロセスとして捉える視点は、後の世俗的な「進歩史観」の無意識的な前提となりました。第二に、修道士たちによる根気強い年代記の編纂活動は、多くの歴史的出来事の記録を後世に伝え、ルネサンス以降の歴史家たちが利用できる貴重な史料の宝庫を形成しました。

中世の歴史家は、神という究極の観客のために、神の物語を書き記していたと言えます。それは、近代の歴史家が追求する「客観性」とは異なる論理で貫かれた、信仰の世界における真理の探求であったのです。この神中心の歴史観が、ルネサンスと宗教改革を経て、再び人間中心の視点へと回帰していく過程こそが、近代歴史学が誕生するまでの道のりでした。


4. イブン=ハルドゥーン

ヨーロッパがキリスト教的世界観の中で歴史を神の物語として紡いでいた時代、イスラーム世界では、歴史を社会の動態として捉え、その法則性を科学的に解明しようとした、驚くべき思想家が登場しました。14世紀の北アフリカに生きたイブン=ハルドゥーン(1332-1406)です。彼は、政治家、法学者、そして歴史家として激動の時代を生き抜き、その経験と深い思索から、主著『歴史序説(ムカッディマ)』を著しました。この著作で示された独創的な歴史理論は、同時代においてはほとんど理解されませんでしたが、数世紀後の近代ヨーロッパの社会科学の成立を予見させる、驚異的な先見性に満ちています。

4.1. 激動の時代と遍歴の生涯

イブン=ハルドゥーンが生きた14世紀のマグリブ(北アフリカ西部)地域は、かつてこの地を支配したムワッヒド朝が崩壊し、小王朝が乱立して絶え間ない抗争を繰り広げる、政治的混乱の時代でした。チュニス(現在のチュニジア)の名門の家に生まれた彼は、若くして学問に優れた才能を示しましたが、当時の多くの知識人と同じく、安定した地位を求めて各地の君主の宮廷を渡り歩く遍歴の生涯を送ります。

彼は、マリニ朝(モロッコ)、ザイヤーン朝(アルジェリア)、ハフス朝(チュニジア)など、様々な王朝に書記官や使節、宰相として仕え、権力の中枢で政治のダイナミズムを肌で感じました。しかし、宮廷内の陰謀に巻き込まれて投獄されたり、政争に敗れて亡命を余儀なくされたりと、そのキャリアは栄光と挫折の連続でした。このような激しい浮き沈みを経験する中で、彼は個々の王朝がなぜ興り、そしてなぜ衰退していくのかという、歴史の背後にある根本的な法則性について、深い思索を巡らせるようになります。

政治の世界から一時的に身を引いた彼は、アルジェリアの辺境の城砦に隠棲し、わずか数年の間に驚異的な集中力で、自らの世界史の著作『イバール( عبر )の書』とその序論である『歴史序説』を書き上げたのです。

4.2. 新しい学問「文化の科学」の提唱

『歴史序説』の冒頭で、イブン=ハルドゥーンは、従来の歴史家たちが、伝聞を無批判に受け入れたり、出来事の表面的な記述に終始したりしていると厳しく批判します。彼は、歴史家が犯す誤りの原因は、人間社会(ウムラーン)の本性についての知識が欠けていることにあると考えました。

そこで彼は、歴史を単なる記録の集成から、社会の法則性を探求する「新しい学問」へと高めることを提唱します。彼はこの学問を「文化の科学(イルム・アル=ウムラーン)」と呼び、その目的を、社会の様々な現象(国家、権力、生業、学問、技術など)が、なぜ、どのようにして生じるのかを、気候や風土といった地理的条件や、人々の生活様式といった社会経済的要因から合理的に説明することに置きました。これは、神の意志や個人の英雄的行為に原因を求めるのではなく、社会それ自体が持つ内在的なメカニズムを解明しようとする、極めて近代的な社会科学の方法論の宣言でした。

4.3. 中核理論:「アサビーヤ」と王朝の循環

イブン=ハルドゥーンの歴史理論の中核をなすのが、「アサビーヤ」という独創的な概念です。これは通常、「集団への連帯感」や「社会の結束力」と訳され、ある集団が共通の目的のために団結し、行動する力の源泉を指します。

彼によれば、最も強いアサビーヤを持つのは、砂漠や山岳地帯で暮らす遊牧民や部族民です。厳しい自然環境の中で生き抜くためには、血縁に基づく強い絆と、相互扶助の精神が不可欠だからです。この強固なアサビーヤを武器に、彼らは奢侈や内紛によってアサビーヤが弛緩した都市の定住民を征服し、新たな王朝を打ち立てます。

しかし、王朝を樹立し、都市での安楽な生活に慣れると、支配者集団のアサビーヤは世代を重ねるごとに徐々に衰退していきます。第一世代は、建国時の団結力と質実剛健さを保っていますが、第二世代は先代の栄光に安住し始め、第三世代になると、権力は生まれながらにして与えられたものとなり、建国時の苦難を忘れ、奢侈にふけり、アサビーヤは完全に失われます。そして、アサビーヤが失われた王朝は、支配の正統性を維持できなくなり、辺境で新たに強固なアサビーヤを培った別の集団によって滅ぼされるのです。

このように、イブン=ハルドゥーンは、アサビーヤの盛衰というメカニズムを通じて、王朝が約三世代(120年程度)で興亡を繰り返すという、歴史の循環的なパターンを明らかにしました。これは、歴史を個別の出来事の連なりとしてではなく、一つの動的なシステムとして捉える、壮大な社会理論でした。

イブン=ハルドゥーンの思想は、そのあまりの独創性ゆえに、イスラーム世界においてもオスマン帝国の一部で注目された程度で、長らく忘れ去られていました。しかし、19世紀にヨーロッパで再発見されると、その先見性が高く評価され、オーギュスト・コントやカール・マルクスといった近代社会学の創始者たちの先駆者と見なされるようになりました。彼は、特定の文化圏の枠を超えて、人間社会の普遍的な法則を探求しようとした、世界史的にも稀有な知性であったと言えるでしょう。


5. ランケと近代歴史学

19世紀のヨーロッパ、特にドイツにおいて、歴史学は大きな変革を遂げ、神学や哲学から独立した、独自の専門分野としての地位を確立しました。この変革の中心人物が、レオポルト・フォン・ランケ(1795-1886)です。彼は、厳密な史料批判に基づく実証的な研究方法を確立し、大学における歴史学の教育・研究体制を制度化することで、「近代歴史学の父」と称されています。彼が打ち立てた原則と方法は、その後の歴史学のあり方を決定づし、今日に至るまで大きな影響を及ぼし続けています。

5.1. 時代の精神とランケの登場

ランケが生きた19世紀前半のドイツは、ナポレオン戦争後の混乱から国家の再建を目指す、ナショナリズム高揚の時代でした。同時に、啓蒙主義の合理精神と、過去の固有の価値を尊重するロマン主義の思潮が交錯する、知的な活気に満ちた時代でもありました。

このような中で、ランケは、それまでの歴史叙述のあり方に根本的な疑問を抱きます。彼は、ヘーゲルのように、歴史を特定の哲学的な理念(例えば「世界精神」の自己実現)が展開するプロセスとして解釈する思弁的な歴史哲学を批判しました。また、歴史を道徳的な教訓を引き出すための材料として利用したり、現代の政治的目的のために過去を正当化したりする姿勢も退けました。

彼の歴史家としての根本的な態度は、その処女作『ラテンおよびゲルマン諸民族の歴史』(1824年)の序文にある有名な一節に集約されています。「歴史学には、過去を審判し、未来の利益のために同時代人を指導するという任務が与えられてきた。本書は、そのような高尚な任務を試みるものではない。それはただ、**本来それがどのようであったのか(wie es eigentlich gewesen)**を示そうとするだけである」。この「本来それがどのようであったのか」という言葉は、近代歴史学の基本精神を示すスローガンとなりました。それは、歴史家の主観や偏見を可能な限り排し、過去の事実そのものに語らせようとする、客観性への強い意志の表明でした。

5.2. 「科学的」歴史学の方法論

ランケが「客観的な」歴史叙述を可能にするために確立したのが、厳密な史料批判を中核とする研究方法です。これは、歴史学を憶測や物語から、「科学(Wissenschaft)」の域へと高めようとする試みでした。

その方法は、以下の要素からなります。

  1. 一次史料の重視: ランケは、歴史家が依拠すべきは、出来事の当事者によって残された、手垢のついていない「一次史料」(公文書、外交報告書、書簡、日記など)でなければならないと主張しました。彼は、年代記作者などの手による「二次史料」を、伝聞や著者の主観が混入している可能性が高いとして、二次的なものと位置づけました。ヴェネツィアの外交使節が本国に送った報告書など、これまで注目されてこなかった公文書館(アーカイブ)の史料を発掘し、その価値を明らかにした功績は特に大きいと言えます。
  2. 外的批判と内的批判: 史料を扱う際には、まずその史料が本物か偽物か、いつ、誰によって作成されたのかを確定する「外的批判」を行います。次に、史料の内容を吟味し、記述者の意図や立場、偏見を分析し、他の史料と突き合わせることで、その記述の信頼性を評価する「内的批判」を行います。
  3. 歴史家の没個性: 歴史家は、史料を解釈する際に、自らの感情や現代的な価値観を介入させてはならない、とランケは考えました。歴史家は自らを「消し去り」、史料に忠実に従うことで、初めて客観的な歴史像が浮かび上がると信じたのです。

5.3. 歴史主義とゼミナール方式の導入

ランケの歴史観の根底には、「歴史主義(Historismus)」と呼ばれる考え方があります。これは、あらゆる歴史上の時代や文化は、それぞれが固有の価値を持っており、他の時代の基準で優劣を判断することはできない、とする立場です。彼は、「どの時代も神に直接つながっている」と述べ、それぞれの時代を、その時代それ自体の文脈の中で理解すること(個別性の尊重)の重要性を説きました。これは、歴史を進歩の一直線とみなす啓蒙主義的な歴史観とは一線を画すものでした。

また、ランケはベルリン大学の教授として、自らの研究方法を弟子たちに伝授するために、「ゼミナール(演習)」という教育形式を歴史学に導入しました。これは、少人数の学生が、教授の指導のもとで史料の読解と批判の方法を実践的に訓練するもので、専門的な歴史家を養成するための画期的なシステムでした。このゼミナール方式は、ドイツから世界中の大学へと広がり、今日に至るまで人文科学における大学院教育の基本モデルとなっています。

ランケの歴史学は、その焦点を国家間の政治史や外交史に置いており、社会や経済、文化といった側面を軽視しているという批判を後に受けることになります。しかし、彼が確立した実証主義的な研究態度は、歴史学が専門的な学問として自立するための揺るぎない基礎を築きました。20世紀の歴史学の新たな展開は、すべてランケが築いたこの土台の上で、あるいはそれへの批判を通してなされていったのです。


6. マルクス主義歴史学

19世紀のヨーロッパが、ランケに代表される実証主義的な近代歴史学を生み出したとすれば、同じ時代はまた、その根底にある社会システム、すなわち産業資本主義への最もラディカルな批判者として、カール・マルクス(1818-1883)を生み出しました。マルクスの思想は、経済学、哲学、政治学にまたがる壮大な体系ですが、その核心には、歴史の展開を独自の視点から解明しようとする「史的唯物論(Historical Materialism)」と呼ばれる歴史理論が存在します。この理論は、歴史学の世界に巨大なインパクトを与え、ランケ以来の歴史観とは全く異なるアプローチ、「マルクス主義歴史学」という潮流を生み出しました。

6.1. 史的唯物論の基本構造

マルクスの歴史理論の出発点は、ヘーゲルの観念論哲学への批判です。ヘーゲルが、歴史を「絶対精神」が自己を展開していくプロセスとして観念的に捉えたのに対し、マルクスは、人間の意識や観念ではなく、人々が生きるための物質的な生産活動こそが、社会と歴史の土台をなしていると考えました。これが「唯物論」的アプローチです。

史的唯物論は、社会を二つの階層構造で捉えます。

  1. 土台(経済的基盤): 社会の根本を規定するのは、経済的な「土台」です。これは、人々が生産を行うための技術や道具である「生産力」と、生産過程で人々が結ぶ社会的な関係、特に生産手段(土地、工場、機械など)の所有関係である「生産関係」から構成されます。
  2. 上部構造: この経済的な土台の上に、法、政治、国家、宗教、文化、イデオロギーといった「上部構造」が成り立っています。マルクスによれば、上部構造は土台によって規定されており、支配階級の利益を正当化し、維持する役割を担っています。

歴史は、この土台部分の内部矛盾によって動いていく、とマルクスは考えました。すなわち、生産力が発展していくと、それはやがて既存の古い生産関係(例えば、封建的な土地所有制度)と矛盾し、その発展を妨げるようになります。この矛盾が激化したとき、革命が起こり、新たな生産関係を持つ社会体制へと移行するのです。

6.2. 歴史の原動力としての階級闘争

マルクスは、『共産党宣言』の冒頭で、「これまでのあらゆる社会の歴史は、階級闘争の歴史である」と高らかに宣言しました。彼にとって、生産関係とは、本質的に、生産手段を所有する「支配階級」と、所有しない「被支配階級」との間の対立・搾取関係に他なりません。

歴史は、この階級間の闘争を通じて、特定の発展段階をたどるとされます。古代の奴隷制社会(主人と奴隷)、中世の封建制社会(領主と農奴)、そして近代の資本主義社会(ブルジョワジーとプロレタリアート)へと、生産様式は移行してきました。そして、資本主義社会における階級闘争は、最終的にプロレタリアートが勝利する社会主義革命へと至り、階級のない究極の社会である共産主義社会が到来することで、歴史は終焉を迎える、とマルクスは予測しました。

この見方は、歴史に明確な方向性と終着点を与える「目的論的」な歴史観であり、その科学的客観性を主張しつつも、一種の壮大な「物語」としての性格を持っています。

6.3. 歴史学へのインパクト:「下からの歴史」

マルクス主義歴史学は、ランケに代表される伝統的な歴史学に対して、根本的な批判を突きつけました。

第一に、研究対象の転換です。ランケ流の歴史学が、国家、政治家、外交官といったエリート層の活動に焦点を当てていたのに対し、マルクス主義歴史学は、経済構造と階級関係こそが歴史の根幹であると主張しました。これにより、歴史学の関心は、これまでほとんど光が当てられてこなかった、名もなき民衆、労働者、農民の生活や闘争へと向けられることになります。これは、「下からの歴史(History from Below)」と呼ばれるアプローチの源流となり、20世紀の社会史研究に大きな影響を与えました。

第二に、歴史家の役割についての新たな見解です。ランケが歴史家の「客観性」や「中立性」を理想としたのに対し、マルクス主義の立場からは、そのような中立性は支配階級のイデオロギーを隠蔽するものであると批判されます。マルクス主義歴史家は、自らが被支配階級の立場に立ち、その解放のために歴史を研究するという、明確な党派性(実践的な関与)を自覚すべきであるとされました。

マルクス主義歴史学は、ソ連などの社会主義国家では公式のイデオロギーとして教条化され、その硬直性が批判されることもありました。しかし、西ヨーロッパ、特にイギリスやフランスでは、E・P・トムソンやエリック・ホブズボームといった優れた歴史家たちが、マルクスの理論をより柔軟に用いて、労働者階級の文化形成や社会運動に関する画期的な研究を生み出しました。

その決定論的な枠組みには多くの批判がありますが、マルクス主義が、歴史を分析するための強力な視点(経済、社会階級)を提供し、歴史学の研究対象を劇的に拡大した功績は、計り知れないものがあると言えるでしょう。


7. アナール学派

20世紀の歴史学に最も大きな変革をもたらした潮流を一つ挙げるとすれば、それはフランスに生まれた「アナール学派」でしょう。この学派は、19世紀的な歴史学、特にランケ流の、政治史・事件史・個人史を中心とするアプローチに根本的な不満を抱き、歴史学の視野を社会のあらゆる側面に広げようとする野心的な試みでした。経済、社会構造、地理的条件、さらには人々の心性(ものの考え方や感じ方)といった、これまで歴史学が扱ってこなかった領域に光を当て、社会科学との積極的な対話を通じて、「総合的(トータル)」な歴史を目指したのです。

7.1. 学派の誕生と第一世代の挑戦

アナール学派は、1929年にストラスブール大学の二人の歴史家、リュシアン・フェーヴル(1878-1956)とマルク・ブロック(1886-1944)が創刊した学術雑誌『アナール(年報)――経済社会史』にその名を発しています。雑誌のタイトルが示す通り、彼らの関心は、伝統的な政治史や外交史ではなく、経済や社会の長期的な構造にありました。

彼らは、歴史学が、専門分野の壁に閉じこもっていることを強く批判しました。フェーヴルは「歴史家よ、地理学者たれ、法学者たれ、そして社会学者、心理学者たれ」と呼びかけ、学際的なアプローチの重要性を訴えました。ブロックは、その主著『封建社会』で、単に法制史としてではなく、荘園経済、人々の主従関係、そして集合的な心性までをも含めた、社会全体の構造として封建制を立体的に描き出しました。また、『王の奇跡』では、フランスとイギリスの国王が、触れるだけで病を癒す力を持つと信じられていた現象を分析し、政治的な権威がいかに人々の心性や集合表象と結びついているかを明らかにしました。これは、後にアナール学派の重要なテーマとなる「心性史(メンタリティ史)」の先駆的な研究でした。

ナチス・ドイツのフランス占領下で、ユダヤ人であったブロックはレジスタンス運動に参加し、捕らえられて銃殺されました。彼の悲劇的な死は、アナール学派の精神を象徴する出来事として語り継がれています。

7.2. 第二世代:ブローデルと「長期持続(ロング・デュレ)」

第二次世界大戦後、アナール学派の旗手となったのが、フェルナン・ブローデル(1902-1985)です。彼は、アナール学派の思想をさらに発展させ、壮大なスケールの歴史像を提示しました。その核心にあるのが、歴史における「時間の多層性」という考え方です。

ブローデルは、主著『地中海』の中で、歴史が異なる速度で進む三つの時間的層から成り立っていると主張しました。

  1. 構造の時間(長期持続/ロング・デュレ): 最も深層にある、ほとんど動かない時間。地理的な環境(山、海、気候など)や、容易には変化しない社会構造、そして人々の思考の枠組み(心性)などがこれにあたります。これは、数世紀、時には数千年にわたって歴史の土台を規定する、いわば「歴史の牢獄」です。
  2. 局面の時間(コンジョンクチュール): 中間層にある、よりリズミカルに変動する時間。人口動態、物価の変動、貿易のサイクルといった、数十年単位の社会経済的な趨勢がこれにあたります。
  3. 事件の時間(エヴェヌマン): 最も表層にある、きらびやかで短い時間。伝統的な歴史学が扱ってきた、戦争、革命、個々の政治家の行動といった個別の「事件」の歴史です。

ブローデルにとって、最も重要なのは「長期持続」の構造であり、「事件」の歴史は、海の表面に立つさざ波のような、束の間の現象に過ぎないと見なされました。この視点は、個人の意志や政治的な出来事の重要性を相対化し、歴史を動かす非人間的な、より大きな構造の力に目を向けさせるものでした。彼の研究は、歴史学に地理学や経済学の視点を本格的に導入し、その後のグローバル・ヒストリーや環境史の隆盛にも道を開きました。

7.3. 第三世代と「心性史」の展開

1970年代以降、エマニュエル・ル=ロワ=ラデュリやジャック・ル・ゴフといった第三世代の歴史家たちは、アナール学派の研究をさらに文化的な側面へと推し進めました。彼らの関心は、経済構造だけでなく、過去の人々が世界をどのように認識し、感じ、生きていたのかという「心性(メンタリティ)」の歴史に向けられました。

ル=ロワ=ラデュリの『モンタイユー』は、14世紀初頭の南フランスの小さな村を舞台に、異端審問の記録という特殊な史料を駆使して、農民たちの日常生活、信仰、家族観、死生観を驚くほど詳細に再現し、世界的なベストセラーとなりました。これは、これまで歴史の主役ではなかった普通の人々の内面世界を描き出す「ミクロストリア(ミクロの歴史)」の代表例とされています。

アナール学派は、その後の歴史学のあらゆる分野に影響を及ぼし、もはや単一の「学派」と呼ぶことは困難になっています。しかし、歴史を総体的に、学際的に、そして長期的な視点で捉えようとするその基本精神は、歴史学の可能性を大きく押し広げ、今日の歴史研究の豊かな土壌を形成したと言えるでしょう。


8. オーラルヒストリー

歴史とは、文字によって書き残された記録、すなわち「史料」に基づいて研究される学問である、というのが長年の常識でした。公文書、年代記、書簡、新聞――これらはすべて、文字という媒体を通して過去を伝えています。しかし、もし過去の経験が文字として記録されていなかったとしたら、どうなるでしょうか。文字を持たなかった社会の人々、あるいは文字を読み書きする機会のなかった庶民やマイノリティの生活は、歴史から永遠に消え去ってしまうのでしょうか。こうした問いに対する一つの答えが、「オーラルヒストリー(口述歴史)」というアプローチです。

8.1. オーラルヒストリーとは何か

オーラルヒストリーとは、歴史的な出来事や社会状況を経験した人々に、計画的なインタビューを行い、その語りを録音・録画し、記録として保存・分析する研究手法です。その目的は、文字記録だけでは決して捉えることのできない、個人の生きた経験、記憶、感情、そして主観的な意味づけを明らかにすることにあります。

この手法が、歴史学の一分野として本格的に注目されるようになったのは、20世紀後半のことです。その背景には、いくつかの要因がありました。第一に、アナール学派やマルクス主義歴史学の影響を受け、「下からの歴史(History from Below)」への関心が高まり、エリート層だけでなく、普通の人々の歴史を掘り起こそうとする動きが活発になったこと。第二に、小型で高性能なテープレコーダーが普及し、インタビューの記録が容易になった技術的な進歩が挙げられます。

オーラルヒストリーは、特に、公的な記録からはこぼれ落ちてしまうような人々の経験を可視化する上で、強力な力を発揮します。例えば、工場労働者の労働条件、移民の苦難、戦争における兵士や市民の体験、社会運動に参加した人々の動機、あるいは特定の地域共同体の生活史など、その対象は多岐にわたります。

8.2. オーラルヒストリーの価値と可能性

オーラルヒストリーが歴史学にもたらした最大の貢献は、歴史像をより民主的で、多声的なものにしたことです。これまで「声」を持たなかった人々に発言の機会を与え、彼らを単なる歴史の客体ではなく、自らの経験を語る主体として位置づけ直しました。これにより、公式の歴史が語ってきた単一の物語に対して、異なる視点からの対抗的な物語(カウンター・ナラティブ)を提示することが可能になります。

例えば、ある戦争についての公的な戦史が、作戦の成功や英雄的な行為を中心に記述しているのに対し、兵士たちへのオーラルヒストリーは、戦闘の恐怖、日常の退屈、上官への不満といった、より人間的な側面を明らかにするかもしれません。このように、オーラルヒストリーは、既存の歴史像を豊かにし、時にはそれを根本から覆すような、新たな問いを投げかける力を持っています。

また、語り手の言葉遣い、声のトーン、沈黙、感情の表出といった、文字記録では伝わらない非言語的な情報も、重要な分析対象となります。それは、過去の出来事が、語り手の中でどのように記憶され、意味づけられているのかという、記憶とアイデンティティの問題に光を当てる貴重な手がかりとなるのです。

8.3. 課題と方法論的自覚

一方で、オーラルヒストリーは、その方法論的な課題についても常に意識的でなければなりません。最も重要な課題は、「記憶の信頼性」です。人間の記憶は、写真のように過去を正確に記録するものではありません。記憶は時間とともに変容し、曖昧になり、あるいは後の経験や現在の視点から再構築される、極めて主観的なものです。したがって、語られた内容を、そのまま客観的な「事実」として受け取ることはできません。

この課題に対し、オーラルヒストリーの研究者は、語りを一つの「歴史的解釈」として捉えます。つまり、重要なのは、その語りが「客観的に正しいか」どうかだけでなく、「なぜそのように記憶され、語られているのか」を問うことなのです。語りの中の矛盾や沈黙でさえ、語り手の心理や、社会的に語ることが許されなかった記憶の存在を示唆する、重要なデータとなり得ます。

また、インタビューという行為自体が、中立的なものではないことも認識する必要があります。歴史家(聞き手)の質問の仕方、態度、そして語り手との間の権力関係(年齢、性別、階級、民族など)が、語られる内容に影響を与えます。したがって、オーラルヒストリーの実践においては、他の文献史料と語りを突き合わせる(クロス・チェックする)ことや、インタビューのプロセスそのものを自己批判的に吟味することが不可欠とされます。

オーラルヒストリーは、歴史家を、書庫にこもる研究者から、人々と直接対話し、共同で過去を構築していく実践者へと変える可能性を秘めています。それは、過去をより身近で、生きたものとして蘇らせる、現代歴史学の重要な一翼を担っているのです。


9. ポストコロニアル理論

20世紀後半、アジアやアフリカの植民地が次々と独立を達成し、世界の政治地図が大きく塗り替えられる中で、思想や文化の領域でも、かつての宗主国と植民地の関係性を根底から問い直す動きが活発化しました。この知的潮流が「ポストコロニアル理論(Postcolonial Theory)」です。それは、単に植民地支配が終わった「後(post)」の時代を分析するだけでなく、植民地主義(コロニアリズム)が、政治的・経済的な支配のみならず、人々の知識、文化、アイデンティティに、いかに深く、そして今なお持続的な影響を及ぼしているかを批判的に解明しようとする、ラディカルな理論的実践です。

9.1. 『オリエンタリズム』と知の権力

ポストコロニアル理論の foundational text(基礎を築いた著作)とされるのが、パレスチナ出身の文学批評家エドワード・サイード(1935-2003)が1978年に発表した『オリエンタリズム』です。この著作でサイードは、西洋が「オリエント(東洋)」について記述してきた、学問、文学、芸術の膨大な蓄積を分析し、それらが決して客観的で中立的な知識ではなかったことを暴き出しました。

サイードによれば、「オリエンタリズム」とは、西洋が東洋を支配し、再構築し、威圧するための言説(ディスコース)の体系です。西洋は、東洋を、自らとは対照的な他者として、「神秘的」「非理性的」「官能的」「停滞的」「専制的」といった一連のステレオタイプなイメージで描き出してきました。このような表象を通じて、西洋は逆に自らを「理性的」「科学的」「進歩的」「民主的」な存在として自己定義し、優越的な立場を確立したのです。

重要なのは、この「知」が、植民地支配という「権力」と分かちがたく結びついていたという点です。東洋に関する知識は、植民地を効率的に統治・管理するための道具として機能しました。サイードの分析は、ミシェル・フーコーの「知は権力である」という思想を、西洋と非西洋の関係に応用したものであり、学問的な営みが決して政治的な権力関係と無縁ではありえないことを痛烈に示しました。

9.2. 歴史叙述への批判:ヨーロッパ中心主義をこえて

サイードの『オリエンタリズム』は、歴史学の世界にも大きな衝撃を与えました。ポストコロニアル理論の視点から見れば、ランケ以来の近代歴史学もまた、ヨーロッパの経験を普遍的な基準とし、世界の他の地域をその基準からの逸脱として記述する、「ヨーロッパ中心主義(Eurocentrism)」に深く囚われていたことが明らかになります。

例えば、世界の歴史を「古代・中世・近代」と区分する時代区分法は、本来ヨーロッパの歴史に固有のものですが、これが無批判にアジアやアフリカの歴史にも適用されてきました。また、近代化(モダニゼーション)とは、暗黙のうちに西洋化(ウェスタニゼーション)を意味し、非西洋社会は、西洋のモデルに追いつくべき「遅れた」存在として描かれがちでした。

これに対し、ポストコロニアルの歴史家たちは、ヨーロッパを中心とした単一の歴史像を解体し、多元的な視点からグローバルな過去を再構成することを目指します。彼らは、植民地支配を、単に西洋からの「衝撃」に対する非西洋の「反応」として描くのではなく、植民地化された人々が、支配に対して抵抗し、交渉し、あるいは協力するといった、主体的な「エージェンシー(行為能力)」を持っていたことを明らかにしようとします。

9.3. サバルタン・スタディーズ:周縁からの歴史

ポストコロニアル歴史学の具体的な実践として最も影響力を持ったのが、1980年代にインドの歴史家たちを中心に始まった「サバルタン・スタディーズ」という運動です。「サバルタン」とは、イタリアのマルクス主義思想家グラムシの用語で、社会の支配的な権力構造から排除された、従属的な地位にある人々(農民、労働者、女性、被差別カーストなど)を指します。

ラナジット・グハをはじめとするサバルタン・スタディーズの歴史家たちは、インドの歴史が、これまでイギリス植民地支配者のエリートの視点か、あるいはインド独立運動を担ったインド人のエリート(国民会議派など)の視点からしか語られてこなかったと批判します。彼らは、歴史の真の主役であるはずの、サバルタン(民衆)の意識や行動が、エリート中心の歴史叙述の中からいかにして周到に消し去られてきたかを問題にしました。

そして、植民地政府の警察記録や裁判記録といった、エリートが残した史料を、その字面通りに読むのではなく、その行間からサバルタンの抵抗の声を「読み解く」という、独創的な史料読解の方法を開発しました。彼らの研究は、インドの農民反乱などを、単なる経済的困窮からくる偶発的な暴動としてではなく、独自の政治的意識を持った行動として再評価し、「下からの歴史」をさらにラディカルに推し進めるものでした。

ポストコロニアル理論は、歴史家に対して、自らが用いる概念や史料、そして自らの立ち位置そのものを、常に批判的に問い直すことを要求します。それは、かつて声を与えられなかった人々の歴史を回復し、より公正で多元的な世界史を構築するための、現代歴史学における最も重要な知的プロジェクトの一つであり続けています。


10. 現代における歴史認識問題

歴史学は、書庫の中で完結する、過去についての静的な学問ではありません。それは、現代社会の価値観やアイデンティティ、そして国際関係と深く結びついた、極めてダイナミックで政治的な営みです。特に、戦争、虐殺、植民地支配といった国家や民族の集合的記憶に関わるトラウマ的な出来事をめぐって、その解釈や評価をめぐる激しい対立が生じることがあります。これが「歴史認識問題」です。この問題は、単なる学術論争にとどまらず、しばしば外交問題や国内の政治的・社会的な分断(いわゆる「歴史戦争(History Wars)」)へと発展します。

10.1. 歴史認識問題とは何か

歴史認識問題とは、ある歴史的出来事について、異なる立場(国家、民族、政治集団など)が、それぞれ自らの正当性やアイデンティティに基づいて異なる解釈や評価を行い、その隔たりが社会的な対立を生み出している状況を指します。

この問題の根底には、「歴史」と「記憶」の関係があります。歴史学が、史料に基づいて客観性を目指す知的な営みであるのに対し、「集合的記憶」は、ある共同体が自らの過去について共有し、語り継いでいく、より主観的で情動的な物語です。この集合的記憶は、共同体の結束を高め、現在のアイデンティティを支える上で重要な役割を果たしますが、しばしば自らにとって都合の良い部分を強調し、不都合な部分を忘却あるいは否認する傾向があります。

歴史認識問題は、歴史学的な事実認定のレベルと、その事実をどのように記憶し、道徳的に評価し、現在の自己認識に結びつけるかという、記憶とアイデンティティのレベルが複雑に絡み合って発生するのです。

10.2. 具体的な事例

現代世界は、数多くの歴史認識問題を抱えています。

  1. ホロコーストをめぐる記憶と否認: ナチス・ドイツによるユダヤ人等の大量虐殺(ホロコースト)は、その事実関係が膨大な証拠によって確定しているにもかかわらず、一部にその事実を否定したり、矮小化したりしようとする「歴史修正主義」の動きが存在します。戦後のドイツは、この負の歴史に国家として向き合い、謝罪と補償、そして徹底した教育を通じて、記憶の継承に努めてきました。ホロコーストの記憶は、現代ヨーロッパのアイデンティティと人権意識の根幹をなす、極めて重要な参照点となっています。
  2. 東アジアの歴史教科書問題: 日本と中国、韓国の間では、日本の近代における侵略や植民地支配の歴史記述をめぐり、長年にわたって対立が続いています。南京事件の犠牲者数、いわゆる従軍慰安婦問題、強制連行といった事柄について、各国の教科書における記述や政府の見解には大きな隔たりがあります。これらの問題は、単なる歴史解釈の違いにとどまらず、各国のナショナリズムや、現在および未来の二国間関係に直接的な影響を及ぼす、深刻な外交問題となっています。
  3. アメリカにおける奴隷制と人種差別の歴史: アメリカでは、奴隷制や、その後の人種隔離政策の歴史的評価をめぐる対立が続いています。南軍の将軍の銅像の撤去をめぐる論争や、奴隷制に対する国家的な謝罪や賠償を求める声、そして公教育で人種差別の歴史をどのように教えるべきかという「批判的人種理論」をめぐる論争など、過去の負の遺産が、現代のアメリカ社会を深く分断しています。
  4. 植民地主義の遺産: ヨーロッパの旧宗主国では、かつての植民地支配の歴史をどのように記憶するかが、大きな課題となっています。博物館に展示されている、植民地から略奪された文化財の返還問題や、奴隷貿易に関わった人物の顕彰の見直しなど、植民地主義の歴史を再評価し、その責任を問う動きが活発化しています。

10.3. 歴史家の役割と社会の責任

歴史認識問題を前にして、歴史家にはきわめて重い責任が課せられます。歴史家の第一の責務は、特定の政治的立場やナショナリズムに与することなく、史料に基づいて可能な限り正確な事実認定を行うことです。安易な歴史修正主義や陰謀論に対して、専門的な知見から反論し、歴史学的な議論の水準を維持することは、社会に対する重要な貢献です。

しかし同時に、歴史家は、自らの研究が社会に与える影響から無縁ではいられません。歴史家は、なぜ特定の解釈が社会的に受け入れられ、あるいは反発を招くのか、その背景にある集合的記憶やアイデンティティの力学を理解する必要があります。そして、異なる記憶を持つ人々の間で、対話と相互理解を促進するために、どのような貢献ができるかを問われます。

歴史認識問題は、歴史が決して過去のものではなく、常に「現在」において生き続け、未来を形作る力を持っていることを、私たちに教えてくれます。過去の負の遺産と誠実に向き合い、異なる歴史認識を持つ他者との対話を続ける努力こそが、より公正で平和な未来を築くための不可欠な一歩となるのです。


Module 24:歴史認識と史学史の総括:過去を問うことは、現在を生きる我々自身を問うことである

本モジュールが明らかにしてきたのは、「歴史」というものが、時代や文化によってその姿を大きく変える、きわめて人間的な営みであるという事実です。古代ギリシアの合理的な探求から、中世ヨーロッパの神学的な物語、そして近代の実証主義的な科学へ。さらに20世紀には、経済、社会、心性、そして周縁化された人々の声へと、その探求の領域は限りなく拡張されてきました。この変遷は、単なる方法論の進歩の歴史ではありません。それは、それぞれの時代の人々が、自らの生きる世界を理解するために、過去といかに格闘してきたかの軌跡そのものです。

ヘロドトス、司馬遷、イブン=ハルドゥーン、ランケ、そしてアナール学派の歴史家たち。彼らが用いたレンズはそれぞれ異なりますが、その視線の先には常に、人間社会の複雑な様相と、その変化の背後にある力学を捉えようとする共通の情熱がありました。ポストコロニアル理論やオーラルヒストリーの登場は、歴史を語る主体が単一ではないことを決定的に示し、誰の、そして何のための歴史なのかという、権力性をめぐる問いを私たちに突きつけます。

現代の歴史認識問題を目の当たりにするとき、私たちは、歴史が単なる学問的対象ではなく、人々のアイデンティティと深く結びついた、生々しい「現場」であることを痛感します。過去をどのように解釈し、記憶し、語り継ぐかという選択は、私たちがどのような共同体を形成し、どのような未来を志向するのかという、現在進行形の倫理的・政治的な問いと不可分なのです。したがって、史学史を学ぶことは、過去の偉大な歴史家たちの業績を知識として知ることにとどまりません。それは、私たち自身が歴史といかに対峙すべきかを学ぶ、知的自己省察のプロセスに他ならないのです。

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