【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 8:東アジア(2) 近代への挑戦
本モジュールの目的と構成
前モジュールで探求したように、19世紀初頭までの東アジアは、中華思想と朝貢体制を基軸とする、安定し、自己完結した世界でした。それは、数千年にわたって熟成された独自の価値観と国際秩序を持つ、一つの巨大な文明圏でした。しかし、この静謐は、西欧から押し寄せた「近代」という名の巨大な津波によって、突如として打ち破られます。産業革命を経て、圧倒的な軍事力と、国民国家・自由貿易・国際法といった全く異なるゲームのルールを携えた西洋列強の到来は、東アジア諸国にとって、単なる異文化との遭遇ではありませんでした。それは、国家の存亡と文明の根幹そのものが問われる、未曾有の「挑戦」でした。
このモジュールでは、この激動の時代をテーマに、東アジアの伝統的秩序が崩壊し、新たな地域的力学が形成されていく過程を、比較史の視点から深く探求します。中心となる問いは、中国、日本、朝鮮という、同じ文化圏に属しながらも異なる歴史的条件を背負った三国が、西洋からの衝撃にどう向き合い、いかにして「近代化」を模索したのか、そしてその試みはなぜ、これほどまでに異なる結末を迎えたのか、という点にあります。本モジュールを通じて、読者は以下の学習項目を体系的に探求していきます。
- アヘン戦争と中華秩序の動揺: 世界の中心であった中華帝国が、アヘン戦争での敗北を機に、いかにして西洋の論理の前に屈し、伝統的秩序が根底から揺さぶられたのかを検証します。
- 日本の開国と明治維新: 黒船来航という危機を、徳川幕府の打倒と、国家を根本から作り変える「明治維新」という革命的変革へと転換させた日本のダイナミズムを分析します。
- 朝鮮の開国: 西洋と日本の双方から圧力を受け、長く続いた鎖国政策を放棄せざるを得なかった朝鮮が、いかにして国際社会へ不本意な形で引き出されていったのかを追います。
- 日本の「脱亜入欧」: 「文明開化」のスローガンのもと、日本が西洋の制度や文化を徹底的に導入し、アジアの一員であることから脱して欧米列強の一員となることを目指した思想と政策を解明します。
- 中国の洋務運動・変法運動・辛亥革命: 「中学為体、西学為用」を掲げた技術導入、体制変革を目指した急進的改革、そして王朝打倒の革命という、中国の遅々として進まない近代化の苦難の道のりを描きます。
- 朝鮮の近代化の模索: 内政の派閥抗争と、中国・日本・ロシアといった列強の干渉の狭間で、朝鮮の近代化の試みがなぜ挫折を繰り返したのか、その悲劇的な構造を明らかにします。
- 日清・日露戦争: 近代化に成功した日本が、旧宗主国である清、そして西欧列強の一角であるロシアを軍事的に打ち破り、東アジアの新たな覇者として台頭していく画期的な戦争の意義を考察します。
- 日本の韓国併合: 日本の帝国主義的膨張が、朝鮮半島の独立を完全に奪い、植民地として併合するに至った過程を検証します。
- 中華民国の成立: 二千年以上にわたる皇帝支配に終止符を打った辛亥革命が、なぜ安定した近代国家の樹立に結びつかず、更なる混乱の時代を招いたのかを分析します。
- 各国の近代化の成否を分けた要因: 最後に、本モジュールで扱った三国間の比較を通じて、なぜ日本の近代化は(少なくとも短期的には)成功し、中国と朝鮮は挫折したのか、その歴史的な要因を多角的に分析・総括します。
この探求は、単に過去の事実を学ぶだけでなく、現代の東アジアが抱える複雑な国際関係や、それぞれの国民性の奥底に流れる歴史的記憶の源流を理解するための、知的「方法論」を提供します。それは、近代という時代の光と影が、この地域に刻んだ深い傷跡と、そこから生まれた屈折した願望の物語なのです。
1. アヘン戦争と中華秩序の動揺
19世紀前半、清朝統治下の中国は、長年の平和と安定を享受し、自らが世界の中心であるという「中華思想」に何ら疑問を抱いていませんでした。海外との交流は、広州一港に限定された「広東貿易体制」のもとで厳しく管理され、すべての外国人は、皇帝の徳を慕って貢物を持参する「朝貢国」として扱われていました。しかし、この静かで尊大な秩序は、産業革命を経て、新たな市場と原料を求めて世界に進出してきた大英帝国との衝突によって、脆くも崩れ去ります。アヘン戦争(1840年~1842年)は、単なる貿易摩擦をめぐる軍事紛争ではありませんでした。それは、二つの異なる世界観、すなわち中華思想に基づく階層的な朝貢秩序と、主権国家の対等を原則とする西洋の国際法秩序との、歴史的な正面衝突でした。この戦争での敗北は、中華帝国の威信を地に堕とし、東アジアの伝統的世界を根底から揺るがす、巨大な地殻変動の始まりを告げるものでした。
1.1. 戦争前夜:広東貿易体制とアヘン問題
18世紀末から19世紀にかけて、イギリスは中国から大量の茶、絹、陶磁器を輸入していましたが、イギリスの主要産品である毛織物などは中国ではほとんど需要がなく、イギリスは常に大幅な輸入超過に悩まされていました。この貿易赤字を埋めるために、イギリスは、銀を支払うしかありませんでした。
1.1.1. 三角貿易とアヘンの密輸
この状況を打開するため、イギリス東インド会社が目をつけたのが、植民地インドで生産されるアヘンでした。彼らは、インド産のアヘンを中国に密輸し、その代金として得た銀で、中国の茶を購入し、イギリス本国へ輸出するという、巧妙な「三角貿易」のシステムを確立しました。
このアヘン貿易は、イギリスにとっては巨額の利益をもたらしましたが、中国社会には破滅的な影響を及ぼしました。
- 社会への影響: アヘン中毒者が急増し、人々の心身を蝕み、社会の活力を著しく低下させました。官僚や兵士の中にも中毒が蔓延し、国家の統治能力や国防力さえもが脅かされる事態となりました。
- 経済への影響: アヘンの代金を支払うために、かつては中国に流入していた銀が、今度は大量に国外へ流出するようになりました。これにより、銀の価格が高騰し、銀で納税しなければならない農民の負担が激増し、社会不安が増大しました。
1.1.2. 林則徐のアヘン厳禁とイギリスの反発
事態を憂慮した清の道光帝は、1839年、欽差大臣に任命した林則徐を広州に派遣し、アヘンの徹底的な取り締まりを命じました。林則徐は、断固たる態度で臨み、イギリス商人が所有していたアヘンをすべて没収し、焼却処分にしました。
この強硬措置は、イギリス国内で、中国に対する報復を求める世論を沸騰させました。アヘン商人の利益を守るという経済的な動機に加え、自由貿易の原則を中国に認めさせ、対等な外交関係を樹立するという、より大きな政治的・イデオロギー的な目的も絡み合い、イギリス政府は、ついに中国への遠征軍派遣を決定します。
1.2. 戦争の経過と清の惨敗
1840年、イギリスの近代的な軍艦が中国沿岸に現れ、アヘン戦争が勃発しました。戦争の帰趨は、初めから明らかでした。
- 軍事技術の圧倒的格差: イギリス軍が、蒸気船で自由に航行し、長射程で破壊力の高い大砲を装備していたのに対し、清軍の主力は、旧式な帆船(ジャンク船)と、火縄銃や弓矢といった前近代的な兵器でした。両者の間には、埋めがたい技術的な格差が存在しました。
- 戦略と指揮系統の差: イギリス軍が、明確な戦略目標のもとに統一された指揮系統で動いたのに対し、清軍は、組織的な連携を欠き、近代的な戦争の戦い方を知りませんでした。
イギリス艦隊は、中国沿岸の主要都市を次々と攻略し、1842年には、長江を遡って、大運河との交点である鎮江を占領し、首都北京への生命線である南北の輸送路を遮断しました。これにより、清朝は、ついに屈服を余儀なくされます。
1.3. 南京条約:不平等条約の始まり
1842年、両国間で締結された南京条約は、中国が西洋列強との間で結んだ、最初の不平等条約でした。その内容は、中国にとって極めて屈辱的なものでした。
- 香港島の割譲: イギリスに、広州の対岸にある香港島を割譲する。
- 5港の開港: 広州、厦門、福州、寧波、上海の5つの港を開き、イギリス人の居住と貿易を許可する。
- 賠償金の支払い: 没収されたアヘンの賠償金、遠征費など、莫大な額の賠償金を支払う。
- 公行の廃止: これまで貿易を独占してきた特許商人(公行)の制度を廃止し、自由な貿易を認める。
さらに、翌1843年に締結された虎門寨追加条約では、中国の主権を著しく侵害する、より深刻な条項が盛り込まれました。
- 関税自主権の喪失: 中国が、輸入品にかける関税率を、自国の意志で自由に決定する権利(関税自主権)を失い、イギリスとの協定によって低い率に定められました。
- 治外法権(領事裁判権)の承認: 中国国内で罪を犯したイギリス人を、中国の法律で裁くことができず、イギリスの領事が裁判を行う権利(治外法権)を認めさせられました。
- 最恵国待遇: 将来、中国が他の国に、イギリスに与えていない、より有利な条件を認めた場合、イギリスも自動的にその恩恵を受けられるという「最恵国待遇」を一方的に認めさせられました。
これらの不平等条約は、その後のアロー戦争(第二次アヘン戦争)を経て、アメリカ、フランス、ロシアといった他の西洋列強とも次々と結ばれていきます。これにより、中国は、法的に、経済的に、そして政治的に、西洋列強に従属する「半植民地」ともいえる状態に、なし崩し的に転落していきました。
アヘン戦争の敗北と不平等条約の締結は、「天朝」を自負してきた清朝と、その支配下にあった知識人たちに、計り知れない衝撃を与えました。自分たちが「夷狄」と見下してきた西洋の「蛮人」に、軍事的に完敗し、主権を侵害されるという現実は、中華思想に基づく伝統的な世界観を根底から覆すものでした。この屈辱的な経験は、東アジアの国際秩序が、もはや中国を中心としては回らないという冷厳な事実を突きつけ、中国自身、そしてそれを見守っていた日本や朝鮮に、近代世界との painful な向き合いを強いる、長い苦闘の時代の幕開けとなったのです。
2. 日本の開国と明治維新
19世紀半ば、アヘン戦争で清がイギリスに敗北したという衝撃的なニュースは、長崎のオランダ商館を通じて、日本の支配層である武士たちにも伝えられていました。「眠れる獅子」と恐れられていた大国・清の惨めな敗北は、彼らにとって、西洋列強の軍事力が、もはや想像を絶するレベルにあることを痛感させる、恐るべき情報でした。徳川幕府が二百年以上にわたって維持してきた「鎖国」体制も、この新たな脅威の前では、もはや安泰ではない。この漠然とした危機感は、1853年、アメリカのペリー提督が率いる蒸気軍艦、いわゆる「黒船」が江戸湾の浦賀に来航したことで、突如として現実のものとなります。この黒船来航という「外圧」は、日本の国内に激しい政治的対立を巻き起こし、結果として、260年以上続いた徳川幕府を打倒し、天皇を中心とする新たな統一国家を樹立する「明治維新」という、劇的な革命へとつながっていきました。このセクションでは、日本が、いかにしてこの危機を、国家を根本から作り変える変革のエネルギーへと転換させたのか、その過程を分析します。
2.1. 黒船来航と開国
1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官マシュー・ペリーは、大統領フィルモアの国書を携え、4隻の軍艦を率いて浦賀沖に現れました。アメリカの目的は、日本との通商関係の樹立、そして、当時盛んだった太平洋での捕鯨船のための、食料・水・石炭の補給港を確保することにありました。
ペリーが乗り込んできた蒸気船は、帆船しか知らない日本人にとって、煙を吐きながら風がなくても進む、まさに「黒い怪物」でした。その巨大な船体と、沿岸を測量し、威嚇射撃を行う圧倒的な軍事力は、幕府の指導者たちに、武力で抵抗することは不可能であると悟らせるのに、十分でした。
一年後の再来を予告してペリーが去った後、幕府首脳部は、国論をまとめることができず、朝廷や諸大名に意見を求めるという、前例のない行動に出ます。これは、これまで幕府が独占してきた対外政策の決定権を、自ら手放すことを意味し、その権威を著しく低下させる結果を招きました。
翌1854年、ペリーが再び来航すると、幕府は、最終的にアメリカの要求を受け入れ、「日米和親条約」を締結しました。これは、下田、箱館(函館)の二港を開き、アメリカ船への補給を認めるという限定的なものでしたが、日本の「鎖国」の歴史に、ついに終止符が打たれた瞬間でした。さらに1858年には、初代駐日総領事ハリスとの交渉の末、より本格的な通商条約である「日米修好通商条約」が、朝廷の勅許を得ないまま締結されます。この条約は、アヘン戦争後の中国と同様に、治外法権の承認や、関税自主権の欠如といった、日本にとって不利な内容を含む不平等条約でした。
2.2. 幕末の動乱:「尊皇攘夷」から「討幕」へ
幕府が、朝廷の意向を無視して、屈辱的な不平等条約を結んだことは、国内の反幕府勢力を一気に勢いづかせることになりました。
2.2.1. 尊皇攘夷運動の激化
「尊皇攘夷(そんのうじょうい)」とは、「天皇を尊び、外国人を打ち払え」という意味のスローガンです。この運動の担い手となったのは、主に、旧来の身分秩序に不満を持つ、下級武士たちでした。彼らは、外国に弱腰な幕府を批判し、政治の中心を、武家である幕府から、本来の日本の統治者である天皇の手に取り戻すべきだと主張しました。
この運動は、幕府の大老・井伊直弼が、反対派を厳しく弾圧した「安政の大獄」や、その井伊が暗殺された「桜田門外の変」などを経て、ますます過激化していきます。長州藩などを中心に、外国公使館の焼き討ちや、外国人殺傷事件が頻発し、それに対する報復として、薩摩藩はイギリス艦隊に(薩英戦争)、長州藩は四カ国連合艦隊に砲撃され、惨敗を喫します。
2.2.2. 討幕運動への転換
この手痛い敗北は、過激な攘夷派に、一つの重要な教訓を与えました。それは、「攘夷(外国を打ち払うこと)を実行するためには、まず国内の政治体制を改革し、国力をつけなければならない」という認識です。彼らは、もはや旧態依然とした幕府には、日本の近代化は任せられないと判断し、その目的を、単なる「攘夷」から、幕府を武力で打倒する「討幕」へと転換させました。
特に、当初は激しく対立していた薩摩藩と長州藩が、土佐藩の坂本龍馬らの仲介で「薩長同盟」を結んだことは、討幕運動にとって決定的な力となりました。
2.3. 明治維新:上からの革命
討幕の機運が最高潮に達する中、1867年、土佐藩の進言を受け入れた15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷に返上する「大政奉還」を行いました。これにより、形式的には、徳川幕府による統治は終わりを告げました。しかし、薩長を中心とする討幕派は、これに満足せず、同年末、天皇が直接政治を行う「王政復古の大号令」を発し、徳川家を完全に新政府から排除しようとしました。これに反発した旧幕府軍との間で、戊辰戦争が勃発しますが、近代的な軍備を持つ新政府軍が勝利を収め、ここに、名実ともに武士の時代は終わりを告げました。
1868年、元号が「明治」と改められ、明治天皇を中心とする新政府が、本格的な国家改造に着手します。これが「明治維新」です。明治維新は、フランス革命のように、民衆が下から蜂起した革命ではなく、薩長土肥など、特定の藩の下級武士層が、国家の危機を乗り越えるために、上から断行した、極めて急進的な革命でした。
新政府は、天皇が神々に誓うという形で、新しい国づくりの基本方針である「五箇条の御誓文」を発表し、矢継ぎ早に、以下のような近代化政策を断行していきます。
- 版籍奉還・廃藩置県: 諸大名から土地(版)と人民(籍)を朝廷に返上させ、旧来の「藩」を廃止して、新たに「県」を置き、中央から知事を派遣する中央集権体制を確立しました。
- 四民平等: 士農工商という江戸時代の身分制度を廃止し、国民を平等としました(ただし、旧武士は士族、それ以外は平民として区別は残った)。
- 富国強兵と殖産興業: 国家のスローガンとして、「国を富ませ、兵を強くする」ことを意味する「富国強兵」を掲げ、西洋の技術を導入して、官営工場を設立するなど、国家主導の産業育成(殖産興業)を進めました。
- 国民皆兵と地租改正: 国民的な軍隊を創設するための徴兵令と、安定した国家財政を確保するための地租改正(税制改革)も行われました。
日本の開国から明治維新に至る過程は、驚くべきスピードで進行しました。ペリー来航から、わずか15年で、260年以上続いた幕藩体制が崩壊し、近代的な中央集権国家の建設が始まったのです。この迅速な変革を可能にした背景には、清とは異なり、国内に多様な政治勢力(幕府、朝廷、諸藩)が存在し、それらが互いに競争する中で、変革のエネルギーが生まれたこと、そして、江戸時代を通じて、比較的高い識字率や、統一された市場が形成されていたことなど、多くの歴史的要因が考えられます。この「成功」体験は、その後の日本の歩みに、大きな自信と、そして、アジアの隣国に対する優越感をもたらすことになります。
3. 朝鮮の開国
19世紀後半、中国と日本が相次いで西洋列強の圧力によって開国を余儀なくされる中、朝鮮半島は、依然として固く門戸を閉ざし続けていました。当時の朝鮮(李氏朝鮮)は、国王・高宗の父である大院君(テウォングン)が摂政として実権を握り、強力な鎖国攘夷政策を推し進めていました。彼は、国内の政治改革を進める一方で、カトリック教徒を弾圧し、接近してくる西洋の船舶を断固として撃退する姿勢を貫いていました。しかし、東アジアの国際環境が激変する中で、朝鮮がいつまでも孤立を保つことは不可能でした。そして、皮肉なことに、朝鮮に開国を迫る主役となったのは、西洋列強ではなく、かつては朝鮮から文化を学んだ隣国であり、今や西洋の側に取り込まれつつあった、近代日本でした。このセクションでは、朝鮮が、いかにしてその長い鎖国政策に終止符を打ち、国際社会へと引き出されていったのか、その複雑で困難な過程を追います。
3.1. 大院君の鎖国攘夷政策
1860年代、大院君政権は、相次いで西洋列強との軍事衝突を経験します。
- 丙寅洋擾(へいいんようじょう、1866年): 朝鮮がフランス人宣教師を処刑したことを口実に、フランス艦隊が江華島(カンファド)に侵攻しましたが、朝鮮軍の激しい抵抗の前に、撤退を余儀なくされました。
- 辛未洋擾(しんみようじょう、1871年): アメリカの商船ジェネラル・シャーマン号が、通商を求めて平壌に進入した際に焼き討ちにされた事件をきっかけに、今度はアメリカ艦隊が江華島に侵攻しました。この戦いでも、朝鮮軍は頑強に抵抗し、アメリカ軍を撃退することに成功します。
これらの戦いでの「勝利」は、大院君の自信を深めさせ、彼は、全国各地に「洋夷侵犯、非戦則和、主和売国(西洋の夷狄が侵犯する時、戦わなければ、すなわち和議を結ぶことであり、和議を主張することは国を売ることである)」と刻んだ「斥和碑(せきわひ)」を建て、攘夷の意志を内外に示しました。大院君は、アヘン戦争で苦しむ清の姿を見て、西洋との関わりが、国家の破滅につながると固く信じていたのです。
3.2. 日本からの圧力と江華島事件
一方で、明治維新を成し遂げた日本は、朝鮮に対して、従来の宗主国・清を介した伝統的な関係ではなく、西洋的な国際法に基づく、対等な国家としての国交樹立を求めていました。しかし、日本の国書が、それまでの形式と異なり、西洋的な要素を含んでいたため、朝鮮側はこれを受理しませんでした。
この膠着状態は、日本国内で、武力を用いてでも朝鮮を開国させるべきだという「征韓論」を台頭させます。この征韓論は、国内の政治対立の結果、一度は退けられますが、朝鮮に対する強硬な姿勢は、日本政府内に根強く残り続けました。
事態が動いたのは、1875年、日本の軍艦「雲揚号」が、朝鮮の沿岸を無断で測量し、首都漢城(現在のソウル)の玄関口である江華島の砲台と交戦した「江華島事件」でした。これは、かつてペリーが日本に対して行った「砲艦外交」を、日本がそっくりそのまま朝鮮に対して行ったものでした。
この事件を口実に、日本は、翌1876年、軍艦を派遣して朝鮮に圧力をかけ、日朝修好条規(江華島条約)の締結を強要しました。
3.3. 日朝修好条規:不平等な開国
日朝修好条規は、朝鮮が、近代的な国際法の舞台に、初めて登場するきっかけとなった条約ですが、その内容は、日本にとって有利な、典型的な不平等条約でした。
- 朝鮮の「自主の邦」としての承認(第1条): 条約の冒頭で、「朝鮮国は自主の邦にして、日本国と平等の権を保有」すると明記されました。これは、一見すると、朝鮮の独立を尊重する条文に見えます。しかし、その真の狙いは、朝鮮がこれまで臣下の礼をとってきた清の宗主権を否定し、朝鮮半島における清の影響力を排除して、日本の勢力を浸透させるための、巧妙な布石でした。
- 釜山など三港の開港: 釜山、元山、仁川の三港を開港させ、日本の貿易拠点としました。
- 治外法権の承認: 開港場において、日本人が罪を犯した場合、朝鮮の法律ではなく、日本の領事が裁判を行うという治外法権を認めさせました。
- 関税自主権の欠如: この条約では、輸入品に対する関税についての規定がなく、事実上、日本からの輸入品が無関税で流入することを許すものでした。
この条約によって、朝鮮は、二百数十年続いた鎖国政策を終え、国際社会に開国しました。しかし、その開国は、自らの意志による主体的なものではなく、日本の軍事的な威圧によって強いられた、極めて不本意なものでした。
3.4. 開国後の朝鮮の混乱
この一方的な開国は、朝鮮の国内に、深刻な政治的対立と社会の混乱をもたらしました。
開国を主導したのは、大院君に代わって政治の実権を握っていた、高宗の妃である閔妃(ミンビ)とその一族でした。彼らは、日本の近代化に学び、朝鮮も近代化を進めるべきだと考える「開化派(独立党)」を登用しました。
しかし、これに対して、大院君をはじめとする保守的な両班(ヤンバン、特権階級)は、開国と近代化に強く反発しました。彼らは、伝統的な儒教秩序を守り、清との宗主・藩属関係を維持することで、日本の影響力を排除しようとする「事大党」を形成しました。
この開化派と事大党の対立は、日本と清が、それぞれ自らの影響下にある派閥を支援することで、ますます激化していきます。朝鮮の宮廷は、近代化の方向性をめぐって分裂し、その政治は、二つの隣国の思惑に翻弄される、不安定な状態に陥りました。
朝鮮の開国は、日本の明治維新のように、国内のエネルギーが結集して、国家の統一と変革につながる、というポジティブなプロセスではありませんでした。むしろ、外圧によって無理やりこじ開けられた扉から、新たな国際的な力学が流れ込み、国内の対立を助長し、国家の自主性をますます失わせていくという、悲劇的な時代の幕開けとなったのです。朝鮮半島は、ここから、日本と清、そして後にはロシアも加わった、列強の角逐の舞台へと変貌していくことになります。
4. 日本の「脱亜入欧」
明治維新によって、新たな統一国家の建設に乗り出した日本が、その近代化のモデルとして仰ぎ見たのは、圧倒的な国力と文明を誇る西洋でした。新政府の指導者たちにとって、近代化とは、すなわち「西洋化」に他なりませんでした。彼らの最大の目標は、欧米列強に押し付けられた不平等条約を改正し、彼らと対等な国家として国際社会に認められることでした。そのためには、単に軍事や産業といった「ハードウェア」を模倣するだけでなく、政治制度、法体系、社会慣習、そして思想や価値観といった「ソフトウェア」のレベルまで、国家を根本から西洋風に作り変える必要があると考えられました。この徹底した西洋化を目指す思想は、「文明開化」というスローガンのもとに国民的な運動となり、やがて、福沢諭吉が提唱した「脱亜入欧」という、よりラディカルな理念へと収斂していきます。このセクションでは、明治日本の近代化を駆動した、この「脱亜入欧」という思想が、どのような背景から生まれ、いかなる政策として具体化されたのかを考察します。
4.1. 岩倉使節団:西洋文明の衝撃
明治新政府の西洋化への決意を決定づけたのが、1871年から1873年にかけて、欧米諸国に派遣された「岩倉使節団」でした。右大臣・岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文といった、政府の最高首脳たちがこぞって参加したこの大規模な使節団の、当初の目的は、不平等条約改正のための予備交渉でした。
しかし、彼らは、訪れた国々で、その交渉が時期尚早であることを痛感させられます。それ以上に彼らを驚かせたのは、西洋文明の、想像を絶するほどの豊かさと強大さでした。巨大な工場、張り巡らされた鉄道網、整備された都市、そして議会や裁判所といった精緻な国家制度。彼らは、日本の近代化が、いかに遅れているかを目の当たりにし、衝撃を受けます。
この経験を通じて、使節団の目的は、条約改正交渉から、西洋文明の調査・研究へと大きくシフトしました。彼らは、帰国後、日本が真に独立を保つためには、内政改革を最優先し、国力を充実させることが不可欠であると確信し、その後の日本の近代化政策の強力な推進力となりました。
4.2. 「文明開化」:西洋文化の奔流
「文明開化」とは、明治初期の日本社会に吹き荒れた、熱狂的な西洋化の風潮を指す言葉です。政府の主導のもと、人々の生活の隅々に至るまで、西洋の文物が、文明の象徴として、競って取り入れられました。
- 社会制度の変革: 太陽暦の採用、断髪令、廃刀令、名字の義務化など、旧来の武士の特権や伝統的な慣習が次々と廃止されました。
- 生活様式の変化: 都市部では、レンガ造りの洋風建築が建てられ、ガス灯が灯りました。人々は、洋服を着て、牛肉(すき焼き)を食べ、ランプの明かりの下で、翻訳された西洋の小説を読むようになりました。
- 教育の普及: 「学制」が発布され、国民皆学を目指す、近代的な学校制度が創設されました。教育は、富国強兵の基礎を担う、有能な国民を育成するための、国家的なプロジェクトと位置づけられました。
これらの変化は、時に皮相的で、滑稽な模倣に終わることもありましたが、日本社会の構造と、人々の価値観を、不可逆的に変えていく力を持っていました。
4.3. 福沢諭吉と「脱亜入欧」の論理
この文明開化の時代を代表する思想家が、福沢諭吉でした。彼は、ベストセラーとなった『学問のすゝめ』や『西洋事情』などを通じて、西洋の合理主義、実学精神、そして独立の気風を、平易な言葉で日本社会に紹介し、絶大な影響力を持った啓蒙思想家でした。
その福沢が、1885年に新聞『時事新報』の社説で表明したのが、「脱亜論」です。この中で彼は、近代化への道を歩み始めた日本が、旧態依然としたままでいる中国(清)や朝鮮といったアジアの隣国と、いつまでも運命を共にするべきではないと主張しました。
彼の論理は、以下のようなものでした。
- 文明の不可避性: 西洋文明の到来は、避けることのできない歴史の必然である。
- アジアの旧弊: しかし、日本の隣国である清や朝鮮は、旧弊な儒教的価値観に囚われ、この文明の流れに適応しようとしない。
- 悪友との絶縁: このような「悪友」と付き合っていては、日本までが、西洋から、彼らと同じ「野蛮」な国と見なされ、国際社会での地位向上を妨げられる。
- 「入欧」への道: したがって、日本は、アジアの仲間であるという意識を断ち切り(脱亜)、精神的に、そして行動において、西洋文明国の一員となるべきである(入欧)。
この「脱亜入欧」という考え方は、日本が、自らをアジアの盟主として、他のアジア諸国を近代化へと導く、という方向ではなく、むしろ、アジアを見限り、欧米列強の側について、彼らと同じルール(帝国主義)で行動することを正当化する、強力なイデオロギーとなりました。
4.4. 近代国家の制度設計:西洋モデルの完成
「脱亜入欧」の理念は、明治政府による近代国家の制度設計において、具体化されていきました。
- 大日本帝国憲法の制定(1889年): 伊藤博文らが、プロイセン(ドイツ)の憲法を主なモデルとして起草した、アジア初の近代憲法。天皇が強大な権限を持つ、君主権の強い立憲君主制を定めました。
- 帝国議会の開設(1890年): 憲法に基づき、国民が選挙で代表を選ぶ、議会が開設されました。
- 軍隊の近代化: プロイセンをモデルとした陸軍と、イギリスをモデルとした海軍を創設し、強力な近代的軍備を整えました。
これらの制度改革を通じて、日本は、少なくとも形式の上では、欧米列強と遜色のない「近代国家」の体裁を整えることに成功しました。そして、この国力と制度を背景に、長年の懸案であった不平等条約の改正交渉に臨み、日清戦争直前の1894年、まずイギリスとの間で、領事裁判権の撤廃を達成します。これは、「脱亜入欧」の努力が、国際社会に認められた、象徴的な瞬間でした。
しかし、この成功の裏で、日本は、かつて自らが経験した、西洋からの圧力を、今度はアジアの隣国に対して、より強力な形で行使する側に回っていくことになります。「脱亜入欧」の道は、日本を西洋列強と対等な地位に押し上げる一方で、アジア諸国に対する侵略と支配の道へと、不可分に結びついていたのです。
5. 中国の洋務運動・変法運動・辛亥革命
アヘン戦争とアロー戦争での度重なる敗北は、清朝の一部の支配層に、ようやく深刻な危機感を抱かせました。彼らは、西洋の軍事技術が、中国の伝統的な兵器をはるかに凌駕しているという厳然たる事実を、認めざるを得ませんでした。しかし、だからといって、彼らは、中国の伝統的な政治体制や、その根幹にある儒教的な価値観そのものが劣っているとは、夢にも思いませんでした。問題はあくまで技術的な側面にある。この認識のもとに始まったのが、中国における最初の近代化の試みである「洋務運動」でした。しかし、この中途半端な改革は、日清戦争での惨敗によって、その限界を露呈します。この敗北をきっかけに、より根本的な、制度レベルでの変革を目指す「変法運動」が起こりますが、これも保守派の抵抗によって、わずか百日あまりで頓挫します。度重なる改革の失敗は、もはや清朝という枠組みの中での改革は不可能であるという絶望感を生み出し、最終的に、孫文らに率いられた「辛亥革命」による、王朝そのものの打倒へと至ります。このセクションでは、日本の明治維新とは対照的に、遅々として、そして悲劇的に進んだ、中国の近代化への苦難の道のりをたどります。
5.1. 洋務運動(1860年代~90年代):中体西用の限界
アロー戦争後、曽国藩、李鴻章、左宗棠といった、太平天国の乱の鎮圧に功績のあった漢人官僚たちが中心となって、西洋の軍事技術を導入し、富国強兵を目指す「洋務運動」が始まりました。
5.1.1. スローガン:「中学為体、西学為用」
彼らの改革の基本理念は、「中学為体、西学為用(ちゅうがくいたい、せいがくいよう)」という言葉に集約されます。「中学」、すなわち中国伝統の儒教的な学問や思想、政治制度を国家の本体(体)とし、「西学」、すなわち西洋の進んだ科学技術を、その本体を補強するための道具(用)として採り入れる、という意味です。彼らは、あくまで儒教的秩序という「魂」は維持したまま、西洋の軍艦や大砲といった「武器」だけを導入しようと考えたのです。
5.1.2. 具体的な政策
この理念のもと、各地に、以下のような西洋式の軍事工場や産業が設立されました。
- 軍需産業: 江南製造総局(上海)、福州船政局(福州)といった、兵器や軍艦を製造する官営工場が作られました。
- 民需産業: 軍事費を賄うため、輪船招商局(海運)、電報総局(通信)、開平炭鉱(鉱業)といった、民間の資本も導入した官督商弁方式の企業が設立されました。
- 人材育成: 外国語や科学技術を学ぶための学校(同文館など)が設立され、アメリカへの少年留学生の派遣も行われました。また、北洋艦隊をはじめとする、西洋式の海軍も創設されました。
5.1.3. 挫折と限界
約30年にわたる洋務運動は、中国に近代産業の基礎をある程度築きました。しかし、この改革は、根本的な限界を抱えていました。
- 指導理念の欠如: 改革は、李鴻章ら、一部の有力官僚の個人的なリーダーシップに依存しており、清朝政府全体としての、統一された近代化戦略ではありませんでした。
- 保守派の抵抗: 中央政府の多くの保守的な満州人官僚たちは、西洋技術の導入を「夷狄の真似」として冷ややかに見ており、改革に非協力的でした。
- 制度改革の欠如: 根本的な問題は、「中学為体」の理念そのものにありました。近代的な軍隊や産業を効率的に運営するためには、それを支える、近代的な教育制度、財政制度、そして政治制度が不可欠です。しかし、洋務派は、これらの制度改革には一切手を付けようとしませんでした。旧態依然とした官僚機構の上に乗せられた近代技術は、その能力を十分に発揮することができませんでした。
この洋務運動の致命的な欠陥を白日の下に晒したのが、1894年の日清戦争でした。清が誇った北洋艦隊は、近代化された日本海軍の前に、あっけなく壊滅します。同じ儒教文化圏に属し、はるかに小国であるはずの日本に完敗したという事実は、中国の知識人たちに、「武器」だけの問題ではない、国家の「制度」そのものが問題なのだ、という強烈な認識を突きつけました。
5.2. 変法運動(1898年):制度改革の夢と挫折
日清戦争の敗北は、若い知識人たちに、よりラディカルな改革の必要性を確信させました。その中心人物が、康有為と梁啓超です。彼らは、日本の明治維新をモデルに、中国も、皇帝のリーダーシップのもとで、立憲君主制への移行を含む、全面的な政治・社会制度の改革を断行すべきだと主張しました。
彼らの思想は、改革に意欲的だった若き皇帝・光緒帝の支持を得ることに成功します。1898年、光緒帝は、康有為らを登用し、科挙改革、近代的学校制度の導入、議会の開設準備、不要な官庁の廃止といった、近代化のための詔勅を、矢継ぎ早に発布しました。
しかし、この急進的な改革は、西太后を中心とする、保守派の官僚たちの激しい反発を招きました。彼らは、改革が、自分たちの既得権益を脅かし、清朝の伝統的な秩序を破壊するものだと考えたのです。西太后は、軍事クーデターを起こして光緒帝を幽閉し、康有為ら改革派の中心人物を弾圧しました。これにより、わずか103日間で、変法運動は失敗に終わりました。これを「戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)」と呼びます。
5.3. 辛亥革命(1911年):王朝の終焉
変法運動の失敗と、その後の義和団事件(西洋列強への盲目的な排外運動)の混乱と敗北は、多くの人々に、もはや満州人王朝である清朝のもとでの、上からの改革は絶望的である、という認識を広めました。改革の望みが絶たれたとき、残された選択肢は、王朝そのものを打倒する「革命」しかありませんでした。
その革命運動の中心となったのが、ハワイで興中会を結成して以来、粘り強く革命活動を続けてきた、孫文です。彼は、民族の独立(満州人支配からの漢人の解放)、民権の伸長(民主共和制の樹立)、民生の安定(土地所有の均等化)を掲げる「三民主義」を革命の理念としました。
1911年10月10日、武昌で、革命派の影響下にあった新式軍隊が蜂起すると、これが引き金となって、全国の各省が次々と清朝からの独立を宣言しました(辛亥革命)。翌1912年1月、独立を宣言した省の代表は、南京に集まり、孫文を臨時大総統とする「中華民国」の成立を宣言しました。清朝は、軍の実力者である袁世凱に事態の収拾を託しますが、袁世凱は、革命派と取引し、清の最後の皇帝である宣統帝(溥儀)を退位させる見返りに、自らが中華民国の新しい大総統の地位に就きました。
1912年2月12日、宣統帝の退位によって、秦の始皇帝以来、2100年以上続いた、中国の皇帝による専制君主制(君主政)の歴史は、ついに幕を閉じました。
しかし、革命の成功は、必ずしも、安定した近代国家の誕生を意味するものではありませんでした。中国は、ここから、袁世凱の独裁や、各地の軍閥が割拠する、さらなる混乱の時代へと突入していくことになります。中国の近代への道は、日本のそれとは比べ物にならないほど、長く、険しく、そして血塗られたものだったのです。
6. 朝鮮の近代化の模索
日本の明治維新が、国内の統一されたリーダーシップのもとで、比較的少ない国外からの干渉の中で、上から断行された急進的な革命であったのに対し、また、中国の近代化が、巨大な帝国の重みに喘ぎながらも、基本的には国内の問題として進んだのに対し、朝鮮の近代化の試みは、終始、深刻な内部分裂と、絶え間ない外部からの干渉という、二重の桎梏(しっこく)の中で、挫折を繰り返す悲劇的な道のりでした。開国後、朝鮮の宮廷は、日本の近代化に学ぼうとする急進的な「開化派」と、伝統的な儒教秩序と清との関係を維持しようとする保守的な「事大党」とに分裂し、激しく対立しました。そして、この内部分裂は、朝鮮半島における影響力の拡大を狙う日本と清によって、巧みに利用され、増幅されていきました。このセクションでは、朝鮮が、自らの近代化の主導権を握ることができず、列強の草刈り場と化していく、苦難の過程をたどります。
6.1. 開化派と事大党の対立:二つの近代化路線
1876年の開国後、朝鮮政府は、日本の明治維新をモデルに、富国強兵を目指す、一連の近代化政策に着手しました。新しい知識を学ぶために、日本に視察団(紳士遊覧団)を派遣し、西洋式の新しい軍隊「別技軍(ピョルギグン)」を創設しました。
しかし、これらの急進的な改革は、多くの人々の反発を招きました。特に、旧式の軍隊の兵士たちは、新設された別技軍との給与や待遇の甚だしい格差に不満を募らせていました。
6.1.1. 壬午軍乱(1882年)
この不満は、1882年、旧式軍隊の兵士たちが、給料の未払いをきっかけに起こした反乱「壬午軍乱(じんごぐんらん)」として爆発しました。反乱軍は、日本の公使館を襲撃し、宮中にいた閔妃一族の要人を殺害し、一度は引退していた保守派の巨頭・大院君を、再び政権の座に担ぎ上げました。
この事態に、清と日本の両国が、すかさず軍事介入します。清は、大院君を拉致して、閔妃政権を復活させ、朝鮮に対する宗主権を改めて強化しました。一方、日本も、公使館襲撃の賠償を求め、朝鮮に謝罪と賠償金の支払いを認めさせる済物浦条約を結び、首都漢城に、公使館警備を名目とした軍隊を駐留させる権利を獲得しました。この事件は、朝鮮の国内問題が、いかに容易に、清と日本の軍事介入を招き、国家の主権を侵害される結果につながるかを、象徴的に示していました。
6.1.2. 甲申政変(1884年)
壬午軍乱後、清の朝鮮に対する干渉は、ますます露骨なものになりました。この状況に危機感を抱いた、金玉均、朴泳孝といった、急進的な開化派の青年官僚たちは、日本の力を借りて、清の影響力を一掃し、一気に朝鮮の近代化を断行しようとするクーデターを計画します。
1884年、彼らは、日本公使館の支援のもと、宮中を占拠し、閔妃一族の事大党要人を殺害し、清との宗属関係の廃棄や、門閥制度の廃止などを掲げた新政権の樹立を宣言しました(甲申政変)。しかし、この「三日天下」は、すぐに、圧倒的な兵力を持つ清軍の介入によって鎮圧され、金玉均らは日本へ亡命しました。
このクーデターの失敗は、開化派の勢力を壊滅させ、朝鮮における清の優位を決定的なものにしました。同時に、この事件の事後処理のために結ばれた天津条約で、日清両国は、朝鮮から共同で撤兵すること、そして、将来、いずれか一国が朝鮮に出兵する際には、互いに事前通告することを約束しました。これは、一時的に両国の衝突を回避するものでしたが、朝鮮半島を、日清両国の共同管理地域のような状態に置き、将来の、より大規模な衝突の火種を残すことになりました。
6.2. 東学農民運動と日清戦争の勃発
1890年代に入ると、開国後の経済の混乱と、役人の腐敗、そして外国勢力(特に日本)の経済的浸透に対する、民衆の不満が、爆発寸前にまで高まっていました。
6.2.1. 東学の思想と農民蜂起
「東学」とは、19世紀半ばに崔済愚(チェ・ジェウ)が創始した、儒教・仏教・道教に、朝鮮固有の民間信仰を融合させた新興宗教です。その教えは、「人乃天(人はすなわち天である)」という人間平等の思想を含み、西洋(西学)や日本の影響を排斥し、腐敗した社会を改革して、地上に楽園を築こうという、強い社会変革のメッセージを持っていました。
1894年、地方役人の圧政に苦しんでいた農民たちが、東学の指導者である全琫準(チョン・ボンジュン)に率いられ、大規模な反乱を起こしました。これが「東学農民運動(甲午農民戦争)」です。彼らは、「斥洋倭(西洋と日本を排斥せよ)」をスローガンに、驚くべき勢いで進撃し、一時は、朝鮮南西部の広い地域を支配下に置きました。
6.2.2. 日清両国の出兵
自力で反乱を鎮圧できないと判断した朝鮮政府は、宗主国である清に、派兵を要請しました。清がこれに応じて出兵すると、日本も、天津条約に基づき、自国民の保護を名目として、ただちに大軍を朝鮮に派遣しました。
農民軍は、外国軍隊の介入という事態に驚き、政府と和約を結んで、一旦は解散します。しかし、一度、朝鮮半島に足を踏み入れた日清両軍は、もはや撤兵しようとはしませんでした。日本は、この機会を利用して、朝鮮における清の影響力を完全に排除し、自らの支配を確立しようと決意します。日本軍は、漢城の王宮を占領して、親日的な政権を樹立させ、この新政権からの「依頼」という形で、朝鮮国内にいる清軍の撤退を要求しました。清がこれを拒否すると、ついに、日清両国は、朝鮮半島を舞台として、全面戦争に突入することになります。
朝鮮の近代化の模索は、常に、改革の主導権をめぐる国内の深刻な対立と、その対立に巧みに介入し、自らの利益を追求する外国勢力の存在という、二つの要因によって、ことごとく妨害されました。開化派のクーデターは、外国の力を借りようとしたために、より大きな外国の介入を招いて失敗し、民衆の自発的な改革運動であった東学農民運動は、結果として、日清戦争という、国家の運命を他国に委ねる、最悪の事態を引き起こす引き金となってしまいました。自らの力で、統一された国民的な意志を形成することができなかった朝鮮は、ここから、完全に、自らの運命の主人公の座を、失っていくことになるのです。
7. 日清・日露戦争
19世紀末から20世紀初頭にかけて、東アジアの国際秩序は、二つの大きな戦争によって、その構造が根底から、そして決定的に書き換えられました。一つは、1894年から95年にかけて、近代化を遂げた新興国・日本と、眠れる獅子と見なされていた老大国・清との間で戦われた「日清戦争」。そしてもう一つは、その10年後の1904年から05年にかけて、その日本が、巨大な領土と人口を誇る西欧列強の一角、ロシア帝国と、満州と朝鮮の覇権をめぐって激突した「日露戦争」です。これらの戦争における日本の勝利は、単に軍事的な勝利にとどまらず、数千年にわたって続いた、中国を中心とする東アジアの伝統的階層秩序(華夷秩序)を完全に破壊し、日本を、この地域の新たな覇者、そして世界の主要国(一等国)の仲間入りをさせる、画期的な出来事でした。このセクションでは、これら二つの戦争が、なぜ起こり、どのような帰結をもたらし、東アジアの運命をいかに変えたのかを考察します。
7.1. 日清戦争(1894年~1895年):東アジアの盟主交代
日清戦争は、直接的には、朝鮮半島における両国の利権争いをきっかけとして勃発しました。しかし、その根底には、明治維新以降、富国強兵に邁進してきた日本が、旧来の東アジア秩序に挑戦し、新たな地域大国としての地位を確立しようとする、強い野心がありました。
7.1.1. 戦争の経過と日本の圧勝
戦争は、陸と海の両方で、日本の圧倒的な勝利に終わりました。
- 海戦: 黄海海戦で、日本の連合艦隊は、清が誇る北洋艦隊に壊滅的な打撃を与え、制海権を掌握しました。
- 陸戦: 陸軍も、朝鮮半島から清軍を駆逐した後、遼東半島に上陸し、旅順の要塞を占領。さらに山東半島の威海衛も陥落させ、北洋艦隊を完全に無力化しました。
この結果は、世界中の観測筋を驚かせました。清が洋務運動を通じて導入した、ドイツ製の最新鋭の戦艦や大砲は、日本のそれよりも、性能的には優れているものさえありました。しかし、兵士の訓練度、作戦指揮能力、そして国家全体の戦争遂行能力において、明治維新を経て、近代的な国民国家としての一体性を確立した日本が、旧態依然とした官僚機構のままであった清を、完全に圧倒したのです。
7.1.2. 下関条約と三国干渉
1895年に締結された下関条約の内容は、清にとって極めて過酷なものでした。
- 朝鮮の独立承認: 清は、朝鮮に対する宗主権を完全に放棄し、その「独立」を認めさせられました。これは、朝貢体制の完全な崩壊を意味しました。
- 領土の割譲: 遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
- 莫大な賠償金: 賠償金として、銀2億テール(当時の日本の国家予算の約3倍)を支払う。
- 新たな開港: 沙市、重慶、蘇州、杭州の4港を開港し、日本の蒸気船の長江航行権などを認める。
この条約は、日本を、一気に、欧米列強に伍する帝国主義国家の地位へと押し上げるものでした。しかし、日本の遼東半島領有に対して、ロシアが、ドイツ、フランスを誘って、これを清に返還するよう、強硬な要求を突きつけてきました(三国干渉)。まだ、これら三国を同時に敵に回す力のない日本は、屈辱を忍んで、この要求を受け入れざるを得ませんでした。この経験は、日本国民の間に、ロシアに対する強い復讐心を植え付け、次の戦争への伏線となりました。
日清戦争の敗北は、中国にとっては、洋務運動の完全な破産を意味し、より深刻な列強による領土分割の危機(瓜分)を招きました。一方で、この戦争は、日本の「脱亜入欧」が、軍事的な成功によって裏付けられたことを示し、日本のアジアにおける優越性を決定的なものにしました。
7.2. 日露戦争(1904年~1905年):一等国への道
三国干渉後、ロシアは、遼東半島南部の旅順・大連を清から租借し、満州(中国東北部)に、その勢力を急速に拡大していきました。朝鮮半島にも、その影響力を伸ばそうとするロシアの「南下政策」は、朝鮮半島を自国の生命線と見なす日本の安全保障にとって、深刻な脅威でした。満州と朝鮮の利権をめぐる、日露両国の対立は、避けられないものとなっていきます。
7.2.1. 日英同盟と戦争の勃発
この強大な敵ロシアに対抗するため、日本は、1902年、「光栄ある孤立」を捨てて、極東におけるロシアの南下を警戒していたイギリスと、「日英同盟」を締結します。これは、日本が、国際社会で、西欧列強と対等なパートナーとして認められたことを意味し、外交上の大きな勝利でした。この同盟によって、ロシアの同盟国であるフランスなどが、ロシア側で参戦することを牽制できるようになった日本は、ついに、ロシアとの開戦を決意します。
7.2.2. 壮絶な戦いと日本の勝利
日露戦争は、国家の総力を挙げた、壮絶な消耗戦となりました。
- 陸戦: 満州を舞台とした陸戦では、旅順要塞をめぐる凄惨な攻防戦や、奉天会戦といった大規模な戦闘が繰り広げられ、両軍ともに、莫大な数の死傷者を出しました。
- 海戦: ヨーロッパから、地球を半周して極東に回航してきた、ロシアのバルチック艦隊を、日本の連合艦隊が、対馬沖で迎え撃った「日本海海戦」で、日本は、世界の海戦史上例のない、完璧な勝利を収めます。
この日本海海戦での決定的勝利によって、戦争継続の意志を失ったロシアは、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介を受け入れ、講和に応じました。
7.2.3. ポーツマス条約とその影響
1905年に結ばれたポーツマス条約で、日本は、以下の権益を獲得しました。
- 韓国における日本の優越権の承認: ロシアは、日本が韓国(大韓帝国)に対して、指導・保護・監理の措置をとることを認めました。
- 遼東半島南部の租借権と南満州鉄道の譲渡: ロシアが持っていた、旅順・大連の租借権と、長春以南の鉄道(南満州鉄道)の利権を、日本に譲渡する。
- 南樺太の割譲: 北緯50度以南の樺太を、日本に割譲する。
しかし、日本は、国家財政が破綻寸前になるほどの戦費を費やしたにもかかわらず、ロシアから賠償金を得ることはできませんでした。このことに不満を抱いた民衆が、東京で大規模な暴動(日比谷焼打事件)を起こすなど、勝利の代償は、極めて大きいものでした。
それでもなお、日露戦争の勝利が、日本と世界に与えたインパクトは、計り知れないものがありました。
- 国際的地位の向上: 日本は、アジアの小国が、巨大な西欧列強を打ち破った、歴史上最初の国となりました。これにより、日本は、名実ともに「一等国」の仲間入りを果たし、その後の不平等条約の完全撤廃にも成功します。
- アジア民族運動への影響: 日本の勝利は、欧米の植民地支配下にあった、多くのアジアやアフリカの民族に、大きな希望と刺激を与え、各地の独立運動を鼓舞するきっかけとなりました。
- 帝国主義への道: しかし、当の日本自身は、この勝利によって、欧米列強と同じ、帝国主義国家としての道を、ますます突き進んでいくことになります。特に、ロシアという最大のライバルを排除したことで、韓国の植民地化は、もはや時間の問題となりました。
日清・日露戦争は、明治維新以来の日本の近代化の、いわば卒業試験でした。この二つの戦争に勝利したことで、日本は、西洋中心の国際秩序の中で、例外的な地位を築き上げ、東アジアのパワーバランスを、完全に自らを中心とするものに、作り変えることに成功したのです。
8. 日本の韓国併合
日露戦争の勝利は、東アジアにおける日本の優越を決定的なものにしました。特に、ポーツマス条約によって、ロシアが、韓国における日本の「指導、保護及び監理」を認めたことは、日本にとって、長年の懸案であった朝鮮半島の支配を、国際的な承認のもとで、完成させるための、最後のお墨付きを得たことを意味しました。ここから、日本は、韓国(1897年に国号を大韓帝国と改めていた)の主権を、段階的に、そして組織的に剥奪していき、最終的には、その独立を完全に奪い、日本の領土として併合する道へと、一気に突き進んでいきます。このセクションでは、日露戦争後から1910年の併合に至るまで、韓国がいかにしてその主権を失い、日本の植民地と化していったのか、その過程を検証します。
8.1. 保護国化への道:主権の段階的剥奪
日露戦争中から、日本は、韓国に対して、その内政・外交に対する干渉を強めていました。日韓議定書によって、軍事的な占領状態を既成事実化し、第一次日韓協約では、財政・外交の分野に、日本人顧問を送り込み、韓国政府の政策に、直接的に関与するようになりました。
日露戦争の終結は、この動きを、さらに加速させました。
8.1.1. 第二次日韓協約(乙巳保護条約、1905年)
1905年11月、日本は、伊藤博文を特派大使として、大韓帝国に派遣し、軍隊の圧力のもとで、第二次日韓協約の締結を強要しました。この条約は、事実上、韓国の独立を奪うものでした。
- 外交権の剥奪: 韓国は、今後、日本政府の仲介なしに、いかなる国とも、条約や約束を結ぶことができないとされました。これにより、韓国の外交権は、完全に日本の手に握られました。
- 統監府の設置: 日本は、韓国の外交を監理するため、首都漢城に「統監」を置くことを定めました。初代統監には、伊藤博文が就任しました。統監は、韓国皇帝のすぐ下に位置し、事実上、韓国の内政全般を指導する、絶大な権力を持つ存在でした。
この条約によって、大韓帝国は、国際法上、独立した主権国家としての地位を失い、日本の「保護国」となりました。この条約は、韓国皇帝・高宗の同意がないまま、一部の親日派大臣によって、脅迫の中で調印されたため、韓国では、今日に至るまで、その合法性をめぐる議論が続いています。「乙巳保護条約」という名称は日本側の呼称であり、韓国では、この年が干支で乙巳(ウルサ)にあたることから、国辱的な条約として「乙巳勒約(ウルサヌギャク、勒は強制の意)」と呼ばれています。
8.2. 韓国の抵抗と日本の弾圧
日本の保護国化に対して、韓国の民衆と皇帝は、激しい抵抗を示しました。
- 義兵闘争の激化: 条約締結に抗議して、多くの儒学者や元官僚たちが、義勇軍(義兵)を組織し、全国で、日本軍や親日派勢力に対する、武装闘争を開始しました。この義兵闘争は、その後、数年間にわたって、粘り強く続けられました。
- ハーグ密使事件(1907年): 皇帝・高宗は、この条約の不当性を、国際社会に訴えようと、1907年、オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に、秘密裏に密使を派遣しました。しかし、日本の妨害と、列強の黙認により、密使たちは、会議に出席することさえできず、その訴えが国際世論を動かすことはありませんでした。
このハーグ密使事件は、日本の統監府を激怒させ、伊藤博文は、これを口実に、高宗に退位を迫り、息子の純宗に譲位させました。
8.3. 併合への最終段階
高宗の退位後、日本は、韓国の主権を、さらに無力化していきます。
8.3.1. 第三次日韓協約と軍隊の解散(1907年)
ハーグ密使事件の直後に締結された第三次日韓協約によって、日本の統監の権限は、さらに強化されました。法律の制定や、重要な行政処分、高等官吏の任免に至るまで、すべて統監の承認が必要とされ、韓国の内政は、完全に日本の支配下に置かれました。また、各省庁には、日本人次官が送り込まれ、行政の実権を握りました(次官政治)。
さらに、この協約の直後、日本は、韓国軍の解散を断行しました。これは、韓国が、国家として、最低限の自衛力さえも持つことを許さないという、最終的な武装解除でした。解散に反対した軍人たちは、市街戦を繰り広げた後、多くが、各地の義兵闘争に合流し、抵抗運動は、一層激しさを増しました。
8.3.2. 併合の断行(1910年)
1909年、初代統監であった伊藤博文が、ハルビン駅で、韓国の独立運動家・安重根に暗殺される事件が起こります。この事件は、日本国内で、韓国の併合を求める世論を、一気に強硬化させるきっかけとなりました。
日本政府は、陸軍大臣の寺内正毅を、第3代統監として派遣し、併合への最後の準備を進めさせます。1910年8月22日、「韓国併合ニ関スル条約」が調印され、8月29日に公布されました。これにより、大韓帝国は、その国号と、すべての統治権を、完全に、そして永久に、日本の天皇に譲り渡すことになりました。
朝鮮半島には、日本の植民地統治機関である「朝鮮総督府」が設置され、初代総督には、寺内正毅が就任しました。以後、1945年に日本が第二次世界大戦で敗北するまでの35年間、朝鮮は、日本の過酷な植民地支配下に置かれることになります。
日本の韓国併合は、明治維新以来の「脱亜入欧」路線の、一つの論理的な帰結でした。欧米列強と肩を並べる「一等国」となるためには、彼らと同様に、植民地を持つことが必要である、という帝国主義の論理が、そこには働いていました。日清・日露戦争という二つの大きな戦争を経て、東アジアの覇権を握った日本は、その力を、かつて文化の師であった隣国の、完全な征服と支配のために、行使したのです。この歴史的な事実は、その後の日韓関係に、長く、そして深い影を落とし続けることになります。
9. 中華民国の成立
20世紀初頭の中国は、度重なる敗戦と、列強による領土分割の危機の中で、深刻な末期症状を呈していました。変法運動の失敗と、義和団事件の悲惨な結末は、もはや清朝という満州人王朝の枠組みの中で、中国が再生することは不可能であるという認識を、多くの人々の間に広めていました。改革の望みが絶たれたとき、残された道は、王朝そのものを根こそぎ覆す「革命」しかありません。孫文をはじめとする革命家たちの粘り強い活動は、次第に、海外の華僑や、国内の知識人、そして清朝が自らの近代化のために創設した「新式軍隊」の兵士たちの間にまで、その影響を広げていました。そして1911年、一つの地方都市での偶発的な蜂起が、燎原の火のごとく全国に広がり、アジアで最初の共和国である「中華民国」を誕生させ、二千年以上にわたって続いた皇帝支配の歴史に、終止符を打つことになります。このセクションでは、辛亥革命の勃発から、中華民国の成立、そしてその初期の混乱に至るまでの過程をたどります。
9.1. 革命前夜:清朝の末期症状と革命運動
義和団事件後、さすがの清朝政府も、もはや改革が不可避であることを認め、かつて西太后が弾圧した変法運動と、同様の内容を含む、遅ればせながらの改革(光緒新政)に着手します。科挙の廃止(1905年)、憲法大綱の発表(1908年)など、立憲君主制への移行を目指す動きが進められました。
しかし、これらの改革は、あまりに遅すぎ、また、満州人中心の支配体制を維持しようとする意図が、見え透いていました。特に、幹線鉄道の国有化政策が、それを民間から取り上げる、事実上の利権の没収であったため、各地で、大規模な反対運動(保路運動)が起こり、国内の不満は、頂点に達していました。
一方で、孫文は、1905年、東京で、様々な革命グループを結集させ、「中国同盟会」を結成します。彼は、満州人王朝の打倒(民族主義)、共和制の樹立(民権主義)、土地制度の改革(民生主義)を内容とする「三民主義」を、革命の基本綱領として掲げ、海外から、武装蜂起を繰り返し試みていました。
9.2. 辛亥革命の勃発:武昌起義
革命の火蓋は、予想外の形で切られました。1911年10月10日、湖北省の武昌で、革命派の計画が事前に発覚したことをきっかけに、文学社や共進会といった革命団体に所属していた新軍の兵士たちが、決起しました(武昌起義)。
この蜂起そのものは、偶発的なものでしたが、それは、乾ききった草原に投じられた、一本の松明となりました。武昌での成功の報が伝わると、保路運動で反清朝の気運が高まっていた、湖南省や四川省をはじめ、全国の各省が、堰を切ったように、次々と清朝からの独立を宣言していきました。この時、多くの省で、独立の主導力となったのは、革命派だけでなく、旧来の地方有力者(郷紳)や、清朝の役人、そして新軍の司令官たちでした。彼らは、もはや沈みゆく船である清朝を見限り、新たな権力構造の中で、自らの地位を確保しようとしたのです。この年の干支が辛亥(しんがい)であったことから、この一連の動きを「辛亥革命」と呼びます。
9.3. 中華民国の誕生と清朝の滅亡
1911年末、独立を宣言した省の代表は、江蘇省の南京に集まり、臨時政府の組織について協議しました。そして、当時アメリカに滞在していた革命の指導者・孫文が帰国すると、彼を、アジア初の共和国である「中華民国」の、初代臨時大総統に選出しました。1912年1月1日、孫文は、南京で、その就任を宣誓し、ここに、中華民国が正式に成立しました。
一方、窮地に陥った清朝は、かつて西太后によって失脚させられていた、北洋軍閥の総帥・袁世凱を、再び起用し、革命の鎮圧を命じました。袁世凱は、近代的な装備を持つ、中国最強の軍隊を率いる、当代随一の実力者でした。
しかし、袁世凱は、革命軍と積極的に戦うことをせず、むしろ、革命派と、清朝の両方を天秤にかけ、自らの政治的利益を最大化しようと画策します。彼は、南の革命派に対して、「清の皇帝を退位させる代わりに、自分を新しい大総統の地位に就ける」という取引を持ちかけました。
軍事力も財政基盤も持たない、南京の臨時政府は、この袁世凱の力を利用しなければ、中国全土を統一し、革命を成功させることができないと判断します。孫文は、清朝の打倒という、革命の最大の目的を達成するため、自ら臨時大総統の地位を辞し、それを袁世凱に譲るという、苦渋の決断をしました。
この密約に基づき、1912年2月12日、袁世凱は、清の最後の皇帝である宣統帝溥儀を退位させました。この瞬間、秦の始皇帝に始まり、2132年間にわたって中国大陸を支配してきた、皇帝という制度は、完全にその歴史的役割を終えたのです。
9.4. 革命の挫折:袁世凱の独裁と軍閥割拠
孫文の期待に反して、大総統の地位に就いた袁世凱は、共和制の理念を尊重するつもりは、毛頭ありませんでした。彼は、自らが築き上げた北洋軍閥の軍事力を背景に、議会を弾圧し、政敵を暗殺し、独裁的な権力を確立していきます。1915年には、あろうことか、自らが皇帝の座に就こうとする「帝政」を画策し、国内外の激しい反対にあって、撤回に追い込まれました。
袁世凱が1916年に病死すると、彼が抑えていた、各地の軍人たちが、それぞれ自らの軍隊を率いて、領地を奪い合う、群雄割拠の「軍閥時代」へと突入します。
辛亥革命は、満州人王朝を打倒し、アジアに最初の共和国を打ち立てるという、画期的な成果を上げました。それは、長大な中国の歴史における、真に革命的な断絶でした。しかし、革命は、旧い秩序を「破壊」することには成功しましたが、それに代わる、新しく、安定した秩序を「建設」することには、失敗しました。皇帝という、伝統的な権威の中心を失った中国は、その後、数十年にわたる、深刻な政治的混乱と、内戦の時代を、経験することになります。アジア初の共和国の船出は、かくも多難なものでした。
10. 各国の近代化の成否を分けた要因
19世紀半ば、東アジアの三国、中国、日本、朝鮮は、西洋列強という、等しく巨大な「外圧」に直面しました。しかし、それから約半世紀後、三国がたどった運命は、劇的なまでに、明暗が分かれていました。日本は、明治維新という急進的な改革を成功させ、日清・日露戦争に勝利し、欧米列強と肩を並べる帝国主義国家へと変貌を遂げました。中国は、度重なる改革の試みが挫折し、王朝そのものが崩壊する革命を経験しながらも、有効な統一国家を築けず、混乱の淵に沈んでいました。そして朝鮮は、近代化の主導権を握れないまま、最終的に、日本の植民地として、その独立を完全に失いました。なぜ、同じ文化圏に属し、同様の危機に直面した三国が、これほどまでに異なる道を歩むことになったのでしょうか。この最後のセクションでは、これまでの記述を総括し、各国の近代化の「成否」を分けた、歴史的な要因を、比較の視点から多角的に分析します。
10.1. 「外圧」以前の国内的条件の差異
近代化への応答の仕方を決定づけた、最も根源的な要因は、西洋との接触以前に、各国がどのような政治・社会構造を持っていたか、という点にあります。
10.1.1. 日本:分散的な封建制と武士階級の存在
日本の徳川幕府(幕藩体制)は、一見、中央集権的に見えますが、その実態は、幕府と約260の藩が、それぞれ独自の統治機構と軍隊を持つ、極めて分散的な封建制でした。この「分散」が、皮肉にも、変革のエネルギーを生み出す土壌となりました。
- 競争のダイナミズム: 幕府と、薩摩、長州といった有力な雄藩は、互いにライバル関係にあり、それぞれが、富国強兵を目指して、競って西洋の知識や技術を導入しようとしました。この競争が、国全体の近代化のペースを速めました。
- 武士(サムライ)という変革の担い手: 武士階級は、もともと、統治と軍事を担う、専門的な官僚・軍人層でした。平和な江戸時代を通じて、その戦闘的な役割は薄れていましたが、国家の危機に際して、国を動かすという強い当事者意識を持っていました。特に、下級武士層は、旧来の身分秩序に不満を抱いており、変革への潜在的なエネルギーが、極めて高い集団でした。明治維新の指導者たちが、この階層から多く生まれたのは、偶然ではありません。
- 経済・教育の基盤: 江戸時代を通じて、全国的な市場経済が発展し、また、寺子屋などの普及により、庶民の識字率も、同時代の世界で、極めて高い水準にありました。これが、近代的な産業や、国民国家の理念を、比較的スムーズに受け入れる下地となりました。
10.1.2. 中国:巨大で硬直した中央集権官僚制
一方、清朝中国は、皇帝を頂点とする、高度に中央集権化された官僚制国家でした。この巨大なシステムは、平時においては、安定をもたらしましたが、危機に際しては、その巨大さゆえに、迅速な自己変革を妨げる、大きな足かせとなりました。
- 抵抗勢力としての官僚機構: 中国の支配階級であった士大夫(科挙官僚)は、その地位とアイデンティティを、儒教的な教養と、既存の政治秩序に、深く依存していました。西洋からもたらされた、全く異質の価値観や制度は、彼らにとって、自らの存在基盤を揺るがす脅威であり、本能的な抵抗の対象となりました。洋務運動や変法運動が、保守派の根強い抵抗によって、骨抜きにされたり、頓挫したりしたのは、このためです。
- 中央と地方の乖離: 巨大な帝国では、中央政府の改革の意志が、広大な地方の隅々まで浸透することが、極めて困難でした。また、太平天国の乱以降、地方の漢人官僚(曽国藩や李鴻章など)が、独自の軍事力(郷勇)を持つようになり、中央の権威が、相対的に低下していたことも、国としての統一的な改革を、困難にしました。
10.1.3. 朝鮮:脆弱な国家基盤と激しい党派対立
朝鮮は、中国のような巨大な官僚機構も、日本のような多数の自律的な藩も持たない、中央集権的ではあるが、その基盤が脆弱な国家でした。特に、支配階級である両班内部の、激しい党派対立(党争)は、国家的な危機に際して、国論を統一することを、致命的に困難にしました。開国後の、開化派と事大党の対立のように、近代化の方向性をめぐる内部分裂が、常に外国勢力の介入を招き、自滅的な結果を招きました。
10.2. 「外圧」の質とタイミングの差異
三国が受けた「外圧」も、同じではありませんでした。
- 地理的条件: 日本が、海に囲まれた島国であったことは、大陸からの直接的な軍事侵攻を、比較的容易に防ぐことを可能にしました。また、欧米列強の関心が、より巨大な市場である中国に、主として向けられていたことも、日本が、比較的、外部からの干渉を受けずに、国内改革に集中できる時間的余裕を与えました。
- 朝鮮半島の地政学的重要性: 一方、朝鮮半島は、大陸(中国、ロシア)と海洋(日本)の勢力が、直接的に衝突する、地政学的な要衝でした。このため、朝鮮は、常に、複数の列強の利害がぶつかり合う、草刈り場となり、自らの運命を、自らの手で決定する余地が、極めて限られていました。
10.3. 近代化の理念と戦略の差異
- 日本の「脱亜入欧」: 日本は、早い段階で、西洋の強さの根源が、技術だけでなく、その制度や価値観にあることを見抜き、国家を、ためらうことなく、全面的な西洋モデルへと作り変える決断をしました。このラディカルで、明確な目標設定が、改革のスピードと徹底性を、可能にしました。
- 中国の「中体西用」: 中国は、「中華」であることの、あまりに強固な自負が、逆に、自己を根本的に否定するような、全面的な西洋化への決断を、遅らせました。「中学為体、西学為用」という妥協的な理念は、中途半端な改革に終始し、貴重な時間を浪費する結果を招きました。制度改革の必要性に気づいた時には、もはや手遅れの状態でした。
結論として、日本の「成功」と、中国・朝鮮の「挫折」を分けた要因は、単一のものではありません。それは、外圧に直面する以前からの、国内の政治・社会構造の差異、変革を担うエリート層の性質の違い、そして、地政学的な条件や、近代化への戦略思想の違いといった、複数の要因が、複雑に絡み合った結果でした。特に、危機に際して、旧来の秩序を自ら破壊し、新たな国家を創造する、統一された国内の政治的意思を、形成できたかどうかが、三国間の運命を分ける、決定的な分岐点であったと言えるでしょう。この時代の経験は、それぞれの国に、近代に対する、異なる形のトラウマと、互いに対する、複雑な感情を、深く刻み込むことになったのです。
Module 8:東アジア(2) 近代への挑戦の総括:断絶と模倣、そして新たな序列の形成
本モジュールでは、19世紀半ば以降、西洋という名の「近代」の衝撃が、東アジアの伝統的世界をいかに揺さぶり、そして破壊していったのか、その激動の過程を比較史の視点から探求した。数千年にわたり、この地域を規定してきた中華思想と朝貢体制は、アヘン戦争の砲声とともに、絶対的な価値の座から引きずり下ろされた。この文明史的な危機に対し、中国、日本、朝鮮の三国は、それぞれが自己の存亡をかけて、苦闘に満ちた応答を試みた。
日本は、徳川幕府という旧体制を自ら破壊する「明治維新」を断行し、「脱亜入欧」の旗印のもと、徹底した西洋化=近代化を猛スピードで成し遂げた。それは、過去とのラディカルな「断絶」と、西洋の徹底的な「模倣」をバネに、ついには日清・日露戦争に勝利し、欧米列強の一員として、かつての師と隣人を支配する側に立つという、劇的な上昇の物語であった。
対照的に、巨大な文明のプライドを持つ中国は、自己変革に手間取り、技術のみを導入する洋務運動、制度改革を目指した変法運動がいずれも挫折した末、王朝そのものを打倒する辛亥革命へと至った。しかし、それは安定した近代国家の建設にはつながらず、更なる混乱の始まりに過ぎなかった。朝鮮は、激しい内部分裂と列強の絶え間ない干渉の中で、近代化の主導権を握れず、最終的に日本の植民地として独立を失うという、悲劇的な運命をたどった。
この半世紀の歴史は、東アジアに、伝統的な華夷秩序に代わる、日本を頂点とした、全く新しい、そして極めて暴力的な「序列」を形成した。各国の近代への挑戦の成否を分けた要因は複雑だが、それは、現代に至る東アジアの国際関係と、各国民の深層に横たわる歴史認識の原風景を、決定的に形作ったのである。