【基礎 世界史(テーマ史・地域史)】Module 9:東南アジア・南アジア

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本モジュールの目的と構成

南アジア、そしてそれに連なる東南アジア。この広大な地域は、単にヨーロッパや東アジアの歴史の周縁に位置する存在ではありません。ここは、世界最古級の都市文明が生まれ、複数の世界宗教が誕生し、そして古来よりユーラシア大陸の東西を結ぶ文化と経済の十字路として、独自のダイナミックな歴史を歩んできました。本モジュールは、この地域が持つ重層的で複雑な歴史の構造を、通史的な流れと地域的な広がりの両面から解き明かすことを目的とします。その探求は、古代文明の黎明から、宗教と思想の誕生、帝国の興亡、そして広域にわたる文化の伝播と変容を経て、近代におけるヨーロッパ世界の進出という巨大な転換点までを射程に収めます。

このモジュールを通じて、私たちは単一の歴史像を暗記するのではなく、異なる文化がいかにして接触し、受容され、そして新たな独自の文化として花開いていったのか、その「プロセス」を読み解く視点を獲得します。それは、現代世界の多様性と複雑性を理解するための、不可欠な知的基盤となるでしょう。

学習の旅は、以下のステップで構成されています。

  1. インダス文明とアーリヤ人の進入: まず、南アジアにおける都市文明の起源と、その後のヴェーダ文化の形成期を概観し、この地域の歴史の基層を理解します。
  2. バラモン教とカースト制度: 次に、古代インド社会の根幹をなし、後世にまで絶大な影響を及ぼすことになる宗教的・社会的秩序の成立過程を深く掘り下げます。
  3. 仏教とジャイナ教: バラモン教の権威に対する新たな思想的挑戦として登場した二つの宗教を取り上げ、その教義と思想が持つ革新性に光を当てます。
  4. マウリヤ朝とアショーカ王: インド史上初の統一帝国の出現と、仏教の保護者として知られるアショーカ王の統治を通じて、政治権力と宗教がどのように結びついたかを探ります。
  5. グプタ朝とヒンドゥー教: 古代インドの古典文化が爛熟期を迎えた時代を検証し、多様な信仰を統合して成立したヒンドゥー教の特質と、その後のインド文化の原型が形成された過程を考察します。
  6. 東南アジアのインド化: 視点を東南アジアへ移し、武力によらない文化の伝播というユニークな現象を通じて、インド文化が現地でどのように受容され、独自の発展を遂げたのかを追跡します。
  7. 東南アジアのイスラーム化: インド化に続き、商業ネットワークを通じて東南アジアにもたらされたイスラームが、どのように受容され、地域の文化や社会を大きく変容させていったのかを分析します。
  8. デリー=スルタン朝: 再び南アジアに焦点を戻し、イスラーム勢力の本格的なインド支配の始まりが、社会・文化にどのような新たな複合的要素をもたらしたかを検証します。
  9. ヴィジャヤナガル王国: 北インドのイスラーム王朝に対峙した南インドのヒンドゥー教国家を取り上げ、二つの文化圏の対立と交流が織りなす歴史のダイナミズムを捉えます。
  10. 大航海時代以降の植民地化: 最後に、ヨーロッパ勢力の到来が、この地域に数千年にわたり続いてきた独自の歴史の流れをいかに断ち切り、世界史の大きな渦の中へと巻き込んでいったのか、その過程と影響を明らかにします。

この一連の学習を通じて、読者は南アジア・東南アジアという地域が、いかに多様な要素の受容と変容を繰り返しながら、豊かで重層的な歴史世界を築き上げてきたかを理解することができるでしょう。それは、現代世界を読み解くための、深く、そして多角的な「方法論」そのものの獲得に繋がるはずです。

目次

1. インダス文明とアーリヤ人の進入

1.1. 世界四大文明の一つ、インダス文明の発見

世界史の幕開けを語る上で、メソポタミア、エジプト、そして中国の黄河文明と並び称されるのがインダス文明です。しかし、この文明がその存在を現代に知られるようになったのは、比較的最近の20世紀に入ってからのことでした。19世紀、イギリス植民地時代のインドで鉄道建設が進められる中、インダス川中流域のハラッパーで大量のレンガの遺構が発見されました。当初、その歴史的価値は十分に認識されず、多くが鉄道の道床材として持ち去られてしまいましたが、これが古代文明発見の端緒となります。

本格的な調査が始まったのは1920年代のことです。イギリスの考古学者ジョン・マーシャルの指導のもと、ハラッパーと、そこから約650キロメートル南に位置するモエンジョ=ダーロ(「死の丘」を意味する)で大規模な発掘調査が行われました。その結果、整然とした都市計画、高度な建築技術、そして未解読ながら独自の文字体系を持つ、長らく歴史から忘れ去られていた巨大な都市文明の姿が明らかになったのです。この発見は、インド亜大陸の歴史が、従来考えられていたアーリヤ人の進入よりもはるかに遡る、高度な先住民文化の基盤の上に成り立っていることを証明し、古代史の教科書を大きく書き換えるほどの衝撃を与えました。

1.2. インダス文明の地理的範囲と時代

インダス文明は、その名の通りインダス川流域を中心に栄えましたが、その範囲は驚くほど広大でした。西は現在のパキスタンとイランの国境地帯から、東はデリー近郊まで、北はアフガニスタン北部にまで及び、その総面積はメソポタミア文明やエジプト文明のそれを遥かに凌駕します。この広大な領域に、モエンジョ=ダーロやハラッパーのような大都市をはじめ、数多くの都市や集落がネットワークを形成していました。

放射性炭素年代測定などの科学的分析により、この文明は紀元前2600年頃から紀元前1800年頃にかけて最盛期を迎えたと考えられています。これは、メソポタミアではシュメール人の都市国家が栄え、エジプトでは古王国時代から中王国時代にあたる時期です。この時期、インダス文明は西方のメソポタミア文明とも交易を行っていたことが、メソポタミアの遺跡からインダス文明産とみられる印章が出土していることから明らかになっています。

1.3. 都市計画と建築技術

インダス文明の最大の特徴の一つは、その驚くべき計画性にあります。特にモエンジョ=ダーロの遺跡は、その全体像をよく示しています。都市は大きく二つの部分、すなわち小高い丘の上に築かれた「城塞」と呼ばれる公共的な建造物群と、その東側に広がる碁盤の目状に整備された「市街地」から構成されていました。

城塞部には、大規模な沐浴場、穀物倉とおぼしき巨大な建造物、集会所のような施設が配置されており、宗教的儀礼や政治、経済の中心地であったと推測されています。特に大沐浴場は、タールで防水加工が施された精巧なレンガ造りの施設であり、宗教的な清めの儀式に用いられたと考えられています。

一方、市街地は、東西南北に走る大通りによって整然と区画され、その街区の中に住宅が密集していました。家屋は焼成レンガで造られ、多くは中庭を持ち、井戸や浴室、トイレなどの衛生設備を備えていました。特筆すべきは、各戸の排水が、道路脇に設けられたレンガ造りの下水道に接続されていた点です。このような高度な上下水道システムは、古代世界では他に類を見ないものであり、インダス文明の住民が公衆衛生に対して高い意識を持っていたことを物語っています。また、建築に使用されたレンガのサイズが、広大な文明圏のほぼ全域で統一されていたことも、強力な中央集権的な権力の存在をうかがわせます。

1.4. インダス文字と印章

インダス文明の人々は、独自の文字体系を持っていました。これは「インダス文字」と呼ばれ、主に凍石(ステアタイト)製の印章(スタンプ)に刻まれています。印章には、文字と共に、ウシ、ゾウ、サイ、トラといった動物や、神話的な生き物(ユニコーンのような一角獣が最も多い)が見事に彫刻されています。

これまでに400種類ほどの文字が確認されていますが、残念ながらその解読には至っていません。その理由として、ロゼッタ・ストーンのような多言語併記の史料が発見されていないこと、そして一つ一つの銘文が非常に短い(平均5文字程度)ことなどが挙げられます。これらの印章は、おそらく個人や一族の所有物を示したり、交易品の荷札として使用されたりしたと考えられていますが、文字が解読されない限り、その社会の具体的な姿、政治体制、宗教観などを知ることは困難なままです。インダス文字の解読は、今なお世界中の研究者が挑む大きな課題となっています。

1.5. 経済と社会

インダス文明の経済は、豊かな農業生産に支えられていました。インダス川がもたらす肥沃な沖積平野で、小麦、大麦、豆類などが栽培され、都市の住民を養っていました。また、綿花の栽培も世界で最も早い時期に行われていたと考えられています。

農業生産の余剰は、活発な手工業と商業を支えました。土器、青銅器、宝飾品などが生産され、特に紅玉髄(カーネリアン)に微細な加工を施したビーズは、メソポタミアなどにも輸出される重要な交易品でした。度量衡(重りの基準)が広範囲で統一されていたことも、公正な商業活動が行われていたことを示唆しています。

社会構造については、文字が未解読であるため不明な点が多いですが、整然とした都市計画や公共施設の存在は、これらを計画・管理する強力な権力機構があったことを示唆します。王や神官のような支配者層が存在したと考えられますが、エジプトのピラミッドやメソポタミアのジッグラトのような、王の権威を誇示する巨大なモニュメントや宮殿は見つかっていません。このことから、インダス文明の支配体制は、神権政治的な性格を持ちつつも、他の古代文明とはやや異なる、より合議的、あるいは非中央集権的な性格を持っていた可能性も指摘されています。

また、遺跡からは多くの女神像が出土しており、地母神崇拝のような豊穣を祈る信仰が一般的であったと推測されています。瞑想する人物像が刻まれた印章も見つかっており、後のヨーガの原型と結びつける見方もあります。

1.6. 文明の衰退

紀元前1800年頃を境に、インダス文明は急速に衰退に向かいます。ハラッパーやモエンジョ=ダーロといった大都市は放棄され、都市計画の質は低下し、建築技術も粗雑になっていきました。その原因については、長らく様々な説が提唱されてきました。

かつては、後からやってきたアーリヤ人による侵略・破壊説が有力でした。モエンジョ=ダーロの遺跡で人骨が散乱した状態で発見されたことから、これがアーリヤ人による虐殺の跡だと考えられたのです。しかし、その後の研究で、これらの人骨は災害や病気による死者を埋葬したものであり、侵略の直接的な証拠とは言えないことが明らかになりました。

現在では、一つの原因ではなく、複合的な要因が衰退を招いたと考えられています。その中でも有力視されているのが、気候変動による環境の変化です。インダス川流域の乾燥化が進んだ、あるいは地殻変動によって河の流れが大きく変わり、農業生産に壊滅的な打撃を与えたという説です。また、過度の森林伐採や灌漑による塩害が土地の生産力を低下させた可能性も指摘されています。

このような環境の変化が都市の維持を困難にし、人々はインダス川流域を離れて、東方のガンジス川流域などへ移住していったと考えられています。インダス文明の都市は滅びましたが、その文化の一部は、後のインド文化の中に受け継がれていったと見られています。

1.7. アーリヤ人の進入とヴェーダ時代

インダス文明が衰退期に入った紀元前1500年頃、インド亜大陸の歴史は新たな時代を迎えます。中央アジア方面から、インド=ヨーロッパ語族の言語を話す、自らを「アーリヤ(高貴な人々)」と称する人々が、カイバル峠を越えてパンジャーブ地方(インダス川上流域)に進入してきました。彼らは、インダス文明の担い手のような農耕民族ではなく、牛などの家畜を財産とする半農半牧の騎馬民族でした。

彼らの進入は、かつて考えられていたような大規模な軍事的征服というよりは、数世紀にわたる断続的な移住の波であったと現在では考えられています。彼らは優れた鉄製の武器と馬が引く戦車(チャリオット)を持ち、先住民であったドラヴィダ系の人々を征服、あるいは南へと追いやったとされています。

このアーリヤ人たちがもたらした文化は、彼らが神々への賛歌や儀礼の方法をまとめた聖典群『ヴェーダ』にちなんで、「ヴェーダ文化」と呼ばれます。特に最も古くに成立した『リグ=ヴェーダ』は、紀元前1200年頃から紀元前1000年頃のパンジャーブ地方の社会を知る上で、かけがえのない史料となっています。そこには、インドラ(雷霆神)やアグニ(火神)といった自然現象を神格化した神々への賛美が、サンスクリット語の古い形で記されています。

1.8. ガンジス川流域への移動と社会の変化

紀元前1000年頃になると、アーリヤ人たちは活動の中心をインダス川流域から、より農耕に適した東方のガンジス川流域へと移していきます。この移動に伴い、彼らの社会も大きく変化しました。

まず、経済基盤が牧畜中心から農業中心へと移行しました。ガンジス川流域の森林地帯を開拓するために鉄製の農具が普及し、稲作も行われるようになりました。安定した食料生産は人口の増加を促し、やがて都市国家(邑)が形成されるようになります。

社会構造も、より複雑で階層的なものへと変化しました。部族的な社会から、領域的な支配を確立した王国へと発展していく中で、支配者と被支配者の関係が固定化されていきました。この過程で、後のインド社会を決定づけることになるヴァルナ制(カースト制度の原型)が確立されていくのです。アーリヤ人たちは、征服した先住民を明確に区別し、自らの優位性を保つために、宗教的な権威に基づいた身分制度を構築しました。

このように、インダス文明という高度な都市文明の基盤の上に、アーリヤ人の進入という新たな要素が加わることで、古代インドの社会と文化は大きく変容し、次の時代の思想的・政治的展開へと繋がっていく土壌が形成されたのです。

2. バラモン教とカースト制度

2.1. ヴェーダの宗教からバラモン教へ

アーリヤ人がインド亜大陸にもたらした信仰は、自然現象を神格化した多神教でした。彼らの最も古い聖典である『リグ=ヴェーダ』には、雷の神インドラ、火の神アグニ、太陽神スーリヤなど、様々な神々への賛歌が収められています。当初の信仰は、これらの神々に対して供物を捧げ、自然の恵みや戦闘での勝利といった現世利益を祈願する、素朴なものでした。

しかし、アーリヤ人がガンジス川流域に定住し、農耕社会へと移行するにつれて、その宗教形態は大きく変化します。複雑な社会を統治し、秩序を維持する必要性から、宗教儀礼は次第に専門化・複雑化していきました。特に、神々と人間を仲介する祭祀(ヤジュニャ)の重要性が増し、それを執り行う司祭者階級の役割が極めて大きなものとなっていきます。

この司祭者階級がバラモン(ブラフミン)です。彼らは、ヴェーダの知識を独占し、複雑で厳格な手順が定められた祭祀を正確に執行できる唯一の存在とされました。祭祀の成否は、世界の秩序(リタ)そのものを維持するために不可欠であると考えられたため、バラモンの権威は絶対的なものとなっていきました。こうして、ヴェーダの宗教は、バラモンを至上の階級とし、祭祀を万能とする「バラモン教」へと発展したのです。

この変化は、ヴェーダ聖典の構成にも反映されています。最も古い賛歌集(サンヒター)に続き、祭祀の具体的な手順を記したブラーフマナ(祭儀書)、そして祭祀の哲学的・秘儀的な意味を解説するアーラニヤカ(森林書)やウパニシャッド(奥義書)が編纂されていきました。

2.2. ヴァルナ制の成立

バラモン教の確立と並行して、古代インド社会の根幹をなす身分制度、すなわちヴァルナ制が形成されました。ヴァルナとはサンスクリット語で「色」を意味し、肌の色が異なっていたアーリヤ系の支配者層と、先住民である被支配者層を区別したことに起源を持つとされています。

ヴァルナ制のイデオロギー的な根拠は、『リグ=ヴェーダ』に後から加えられたとされる「プルシャ賛歌」に見出すことができます。この神話によれば、神々が原人プルシャを犠牲にして祭祀を行った際、その身体の各部位から四つのヴァルナが生まれたとされています。

  • バラモン(婆羅門): プルシャの「口」から生まれたとされ、神聖なヴェーダを唱え、祭祀を司る司祭階級。社会の最上位に位置する。
  • クシャトリヤ(刹帝利): 「両腕」から生まれたとされ、政治と軍事を担当する王侯・武人階級。
  • ヴァイシャ(吠舎): 「両腿」から生まれたとされ、農業、牧畜、商業に従事する庶民階級。
  • シュードラ(首陀羅): 「両足」から生まれたとされ、上位三つのヴァルナに奉仕する隷属民階級。主に被征服民である先住民から構成された。

この四つのヴァルナは、生まれによって定められ、原則として変更することはできませんでした。上位三つのヴァルナ(バラモン、クシャトリヤ、ヴァイシャ)は、ヴェーダを学ぶことが許される「再生族(ドヴィジャ)」と呼ばれ、シュードラはそれから除外されました。さらに、この四つのヴァルナにも含まれない「不可触民(アチュート)」と呼ばれる人々も存在し、彼らは最も不浄な職業に従事させられ、厳しい差別の対象となりました。

2.3. バラモン教の宇宙観と輪廻転生

バラモン教は、単なる社会制度だけでなく、独特の宇宙観と思想体系を発展させました。紀元前7世紀頃から編纂が始まったとされる『ウパニシャッド』では、祭祀万能主義から、より内面的・哲学的な思索へと関心が移っていきます。ここで中心的な概念となるのが、「梵我一如(ぼんがいちにょ)」と「輪廻転生(りんねてんしょう)」です。

  • 梵(ブラフマン): 宇宙の根本原理であり、万物に内在する普遍的な実体。
  • 我(アートマン): 個人の中に存在する、不変の本質(霊魂)。

ウパニシャッドの哲学者たちは、宇宙の根本原理である「梵」と、個人の本質である「我」が、本来は同一のものであるという「梵我一如」の境地に達することこそが、究極の目標であると考えました。

そして、この境地に達しない限り、生き物は無限の「輪廻」のサイクルから逃れることはできないと説きました。輪廻とは、死んでも魂(アートマン)は滅びず、生前の行為(カルマ、業)に応じて、次の生において人間や動物など、様々な姿に生まれ変わるという思想です。良いカルマを積めば来世ではより良い境遇に、悪いカルマを積めばより悪い境遇に生まれ変わるとされました。

この輪廻とカルマの思想は、ヴァルナ制を巧みに正当化する役割を果たしました。人がどのヴァルナに生まれるかは、その人の前世のカルマによるものであり、現世での身分は変えられない運命であるとされたのです。そして、自らのヴァルナに課せられた義務(ダルマ)を忠実に果たすことが、来世でより良い身分に生まれ変わるための道であると教えられました。こうして、輪廻転生の思想は、人々が社会的な不平等を受け入れ、現世の秩序に従うための強力なイデオロギー的装置として機能したのです。

2.4. ジャーティとしてのカースト制度への展開

ヴァルナ制は、あくまで社会を四つ(+不可触民)に大別する理念的な枠組みでした。しかし、時代が下るにつれて、インド社会はより複雑で細分化された社会集団へと分かれていきます。この現実の社会集団が「ジャーティ」です。

ジャーティは、職業や出身地と密接に結びついた、数千にも及ぶ世襲的な内婚集団(同じジャーティ内でしか結婚しない)です。例えば、大工のジャーティ、洗濯屋のジャーティ、商人のジャーティといった具合に、職業ごとに細かく分かれていました。それぞれのジャーティは、ヴァルナ制の大きな枠組みの中に位置づけられましたが、その序列は地域によって異なるなど、非常に複雑な様相を呈していました。

人々は、自らが属するジャーティの規範に従って生活し、異なるジャーティとの通婚や共食は厳しく制限されました。このジャーティに基づく社会システムこそが、一般的に「カースト制度」と呼ばれるものです。「カースト」という言葉は、ポルトガル語で「血統」を意味する “casta” に由来し、16世紀にインドを訪れたポルトガル人によって名付けられました。

ヴァルナという宗教的理念と、ジャーティという現実の社会集団が重なり合うことで、インドのカースト制度は、極めて強固で永続的な社会構造として、その後のインド史に深く根を下ろしていくことになります。それは人々の職業、結婚、社会生活のあらゆる側面に浸透し、インド社会の安定に寄与した一方で、深刻な社会的差別と不平等を固定化する要因ともなったのです。

3. 仏教とジャイナ教

3.1. 新たな思想が生まれた時代背景

紀元前6世紀から紀元前5世紀にかけてのガンジス川中流域は、大きな社会変動の時代でした。鉄製農具の普及による農業生産の増大は、富の蓄積と商業の発展を促し、クシャトリヤやヴァイシャといった階級の中から、経済的に力を持つ人々が登場しました。それに伴い、各地に都市国家が興り、それらが互いに覇を競う、いわゆる「十六大国」時代を迎えます。

このような社会の流動化は、人々の価値観にも大きな影響を与えました。旧来のバラモン教の権威は、その形式化した祭祀万能主義と、バラモンの特権を絶対視する姿勢によって、力をつけてきたクシャトリヤやヴァイシャ、そして苦しい生活を強いられるシュードラたちの不満を買い始めていました。特に、祭祀の費用を負担し、経済活動を担うヴァイシャ層にとって、生まれのみを重視するヴァルナ制は、自らの社会的上昇を阻む足枷と感じられたことでしょう。

また、ウパニシャッド哲学が説いた輪廻転生の思想は、人々に「無限に続く生と死の苦しみから、いかにして逃れるか(解脱)」という新たな問いを突きつけました。人々は、バラモンの司る祭祀に頼るのではなく、自らの努力によってこの苦しみから解放される道を求め始めました。

こうした社会の変動と精神的な希求を背景として、ガンジス川流域では、伝統的なバラモン教の権威を批判し、新たな解脱への道を説く自由な思想家たちが数多く現れました。彼らは「沙門(シュラマナ)」と呼ばれ、その中からインド、ひいては世界の思想史に巨大な足跡を残すことになる二つの宗教、仏教とジャイナ教が誕生したのです。

3.2. 仏教の成立:ガウタマ=シッダールタの生涯

仏教の開祖は、ガウタマ=シッダールタ(釈迦、シャカ、ブッダ)です。彼は紀元前5世紀頃、現在のネパール南部のタライ地方を支配していたシャカ族の王子として生まれました。クシャトリヤ階級の出身であった彼は、何不自由ない生活を送っていましたが、ある時、城門の外で老人、病人、死者、そして修行者(沙門)に出会ったこと(四門出遊)をきっかけに、人生の根源的な苦しみについて深く悩むようになります。

そして29歳の時、妻子を捨てて出家し、解脱への道を求めて厳しい苦行に身を投じました。しかし、肉体を極限まで痛めつける苦行では、真の悟りを得られないことを悟り、苦行を捨てます。その後、ブッダガヤの菩提樹の下で深い瞑想に入り、ついに宇宙の真理を悟って「ブッダ(目覚めた人)」となったとされています。

悟りを開いたブッダは、サールナート(鹿野苑)で、かつて苦行を共にした5人の修行者たちに初めて教えを説きました(初転法輪)。これが仏教の始まりです。その後、彼は80歳で入滅するまで、ガンジス川流域を遊行し、ヴァルナの別なく、あらゆる人々に平等の教えを説き続けたのです。

3.3. 仏教の中心思想

ブッダの教えの中心は、苦しみの原因を正しく認識し、それを滅ぼすための実践的な方法を示すことにありました。その核心は「四諦(したい)」と「八正道(はっしょうどう)」に要約されます。

  • 四諦:
    1. 苦諦(くたい): この世の生は、全てが苦しみであるという真理(生・老・病・死など)。
    2. 集諦(じったい): 苦しみの原因は、尽きることのない煩悩や渇愛(欲望)であるという真理。
    3. 滅諦(めったい): 煩悩や渇愛を滅すれば、苦しみも消滅するという真理。この苦しみが消えた理想の境地が「涅槃(ニルヴァーナ)」。
    4. 道諦(どうたい): 涅槃に至るためには、実践すべき正しい道があるという真理。
  • 八正道: 道諦で示された、涅槃に至るための具体的な八つの実践徳目。正しい見解(正見)、正しい思考(正思)、正しい言葉(正語)、正しい行い(正業)、正しい生活(正命)、正しい努力(正精進)、正しい注意力(正念)、正しい精神統一(正定)からなる。

ブッダはまた、全ての物事は様々な原因や条件が相互に関係しあって成り立っており(縁起)、不変の実体(我、アートマン)は存在しない(無我)と説きました。この「我」への執着こそが苦しみの根源であるとし、執着を断ち切ることで、無限の輪廻のサイクルから解脱できるとしたのです。

仏教の教えは、バラモン教の権威を真っ向から否定するものでした。ブッダは、ヴェーダの権威を認めず、祭祀は解脱に何の役にも立たないとしました。そして、人の価値は生まれ(ヴァルナ)によって決まるのではなく、その人の行いによって決まると説き、ヴァルナ制を批判しました。この教えは、特にバラモンの特権に反発していたクシャトリヤや、経済活動を通じて力をつけ、合理的な思考を身につけていたヴァイシャ層から、熱烈な支持を受けました。

3.4. ジャイナ教の成立:ヴァルダマーナの思想

仏教とほぼ同時期に、同じくガンジス川流域で勢力を拡大したのがジャイナ教です。その開祖とされるのが、ヴァルダマーナです。彼もまた、ブッダと同じクシャトリヤ階級の出身で、マハーヴィーラ(偉大な英雄)の尊称で知られています。

ヴァルダマーナは30歳で出家し、12年間にわたる徹底した苦行の末に悟りを開き、「ジナ(勝利者)」となりました。ジャイナ教とは「ジナの教え」を意味します。

ジャイナ教の教えの最大の特徴は、その徹底した「不殺生(アヒンサー)」の戒律にあります。ジャイナ教では、人間や動物だけでなく、植物や、さらには石や水のような無生物にさえも霊魂(ジーヴァ)が宿ると考えます。そのため、いかなる生命をも傷つけることを厳しく禁じました。出家信者は、呼吸によって小さな虫を吸い込まないように口を布で覆い、歩く際に虫を踏み殺さないように地面を箒で掃きながら進むなど、極めて厳格な戒律を守りました。

この徹底した不殺生の教えは、農業や軍事といった、殺生を伴う可能性のある職業を否定することに繋がりました。その結果、ジャイナ教の信者の多くは、殺生の心配がない商業や金融業に従事するようになり、インド社会において経済的に重要な役割を担うヴァイシャ層に多くの信者を獲得しました。

また、ジャイナ教は、仏教と同様にヴェーダの権威とバラモンの特権を否定し、ヴァルナ制を批判しました。解脱への道は、祭祀ではなく、徹底した苦行と禁欲、そして不殺生の実践にあると説いたのです。その教義は極めて厳格であったため、仏教ほど広範な支持を得ることはありませんでしたが、インド商人層を中心に深く根を下ろし、今日まで続く有力な宗教として存続しています。

3.5. 都市宗教としての性格

仏教とジャイナ教は、いくつかの共通点を持っています。どちらもクシャトリヤ出身の人物によって創始され、バラモン教の権威とヴァルナ制を批判しました。そして、輪廻からの解脱を目標とし、そのための具体的な実践方法を説きました。

これらの新しい宗教は、当時の社会変動の中心地であった「都市」で生まれ、育まれました。商工業の発展に伴って力をつけたヴァイシャ層は、合理的で実践的な教えを求め、これらの新宗教の有力な支持基盤(パトロン)となりました。彼らは、自らの経済活動を肯定し、ヴァルナにとらわれない個人の努力を重視する教えに、新しい時代の価値観を見出したのです。このため、仏教とジャイナ教は、農村部の伝統的なバラモン教に対して、「都市の宗教」としての性格を強く持っていました。この新しい宗教の登場は、古代インドの思想界に大きな変革をもたらし、次の時代の政治・社会のあり方にも profound な影響を与えていくことになります。

4. マウリヤ朝とアショーカ王

4.1. アレクサンドロス大王のインド侵入とマウリヤ朝の建国

紀元前4世紀後半、インド亜大陸の政治情勢は、西からの衝撃によって大きく揺り動かされます。マケドニアのアレクサンドロス大王が、アケメネス朝ペルシアを滅ぼした後、その東方遠征の矛先をインドに向けたのです。紀元前326年、大王の軍勢はカイバル峠を越えてインダス川流域に侵入し、パンジャーブ地方の諸王国を次々と破りました。

しかし、長年の遠征に疲弊した兵士たちの反乱に遭い、大王はインダス川を越えてガンジス川流域へ進むことを断念せざるを得ませんでした。彼はインドに総督を置いて引き返しましたが、その死後、帝国は後継者(ディアドコイ)たちの争いによって分裂し、インドにおけるギリシア人の支配は不安定なものとなりました。

この政治的混乱と、外来勢力への反発という状況の中から、インド史上初の統一王朝を築き上げる人物が登場します。それが、チャンドラグプタ=マウリヤです。彼の出自については不明な点が多いですが、宰相カウティリヤ(チャーナキヤ)の助けを得て、ガンジス川中流域のマガダ国で勢力を築きました。そして、紀元前317年頃、まずパンジャーブ地方からギリシア勢力を駆逐し、次いでマガダ国のナンダ朝を倒して、パータリプトラ(現在のパトナ)を都とするマウリヤ朝を建国したのです。

チャンドラグプタは、その後も領土を拡大し、西はセレウコス朝シリアと戦ってインダス川以西の地を獲得し、南はデカン高原にまで勢力を伸ばし、インド亜大陸の大部分を覆う広大な帝国を築き上げました。

4.2. 帝国の統治システムと『実利論』

マウリヤ朝の広大な帝国は、どのようにして統治されたのでしょうか。その一端をうかがわせるのが、宰相カウティリヤの著作とされる『アルタシャーストラ(実利論)』です。これは、国家統治に関する極めて実践的かつマキャヴェリズム的な理論書であり、王が国を富ませ、領土を拡大し、権力を維持するための具体的な方策が詳細に記されています。

『実利論』によれば、マウリヤ朝は強力な中央集権体制を敷いていました。皇帝は絶対的な権力を持ち、その下に官僚組織が整備され、全国に張り巡らされた密偵網(スパイ)を通じて地方の情報を収集し、統制していました。帝国は属州に分割され、それぞれに総督が置かれましたが、主要な州の総督には王子が任命されるなど、中央の支配が及ぶように工夫されていました。

また、巨大な常備軍(歩兵、騎兵、戦車、軍象)を維持し、国内の反乱を抑え、対外的な脅威に備えていました。経済面では、度量衡が統一され、全国的な道路網が整備されました。税制も整えられ、土地税や商業税が、官僚機構と軍隊を維持するための財源となりました。このように、マウリヤ朝は、巧みな官僚制度、強力な軍事力、そして情報網を駆使した、高度な統治システムを構築していたのです。

4.3. アショーカ王の登場とカリンガ国征服

マウリヤ朝の最盛期を築いたのが、第3代のアショーカ王(在位:紀元前268年頃 – 紀元前232年頃)です。彼は、祖父チャンドラグプタ、父ビンドゥサーラが築いた帝国を受け継ぎ、当初は領土拡大政策を推し進めました。

その治世の8年目、アショーカ王は、当時まだマウリヤ朝の支配に服していなかった東海岸のカリンガ国に遠征を行いました。この戦いは凄惨を極め、数十万人の死者と捕虜を出したと伝えられています。カリンガ国を征服し、インド亜大陸のほぼ全土(南端部を除く)を統一するという偉業を成し遂げたアショーカ王でしたが、戦いの惨状を目の当たりにして深く悔い、武力による統治の限界を悟ったとされています。この経験が、彼を仏教に帰依させ、その後の統治方針を180度転換させる大きなきっかけとなりました。

4.4. ダルマによる統治

カリンガ国征服の後、アショーカ王は武力による征服(ディガンヴィジャヤ)を放棄し、「ダルマ(法)による勝利(ダルマヴィジャヤ)」を理想とする統治へと舵を切りました。ここでの「ダルマ」とは、単に仏教の教えそのものを指すのではなく、より普遍的な、人間として守るべき倫理規範や社会道徳を意味します。

アショーカ王は、このダルマの理念を民衆に広く知らせるため、自らの詔勅を刻んだ石柱や磨崖碑を、帝国内の交通の要衝や人々が集まる場所に数多く建立しました。これらの碑文は、プラークリット語(民衆の言葉)を使い、ブラーフミー文字やカローシュティー文字で記されました。

碑文の内容は、以下のようなものが中心でした。

  • 不殺生: 生き物を無益に殺すことの禁止。王自身も狩猟をやめ、宮廷の厨房で殺される動物の数を制限した。
  • 父母への順守、師の尊重: 年長者を敬い、家族の和を大切にすること。
  • 寛容: バラモンや沙門(仏教徒を含む)など、あらゆる宗教の修行者を敬い、異なる宗派間の融和を図ること。
  • 福祉政策: 道路を整備し、並木を植え、井戸を掘り、旅人のための宿駅や人々と動物のための診療所を設けるなど、民衆の福祉向上に努めた。

王はまた、「ダルマ=マハーマートラ(法の大官)」という官職を新設し、役人たちにダルマの精神を徹底させ、民衆の教化にあたらせました。

4.5. 仏典結集と仏教の保護・伝播

アショーカ王は、仏教の熱心な保護者としても知られています。彼は、ブッダの遺骨(仏舎利)を納めたストゥーパ(仏塔)を各地に建立し、教団(サンガ)に多大な寄進を行いました。

また、仏教教団内で教義上の対立が生じた際には、自ら仲裁に乗り出し、パータリプトラで第3回仏典結集(けつじゅう)を主宰したと伝えられています。これは、ブッダの教えを正しく編纂し、後世に伝えるための会議であり、教団の統一を維持する上で重要な役割を果たしました。

さらに、アショーカ王は仏教をインド国内だけでなく、国外にも広めることに情熱を注ぎました。王子マヒンダ(一説では弟)をスリランカ(セイロン島)に派遣し、仏教を伝道させたことは特に有名です。スリランカでは、この時伝えられた上座部仏教が国教として深く根付き、現在に至っています。その他、セレウコス朝シリア、エジプト、マケドニアなど、ヘレニズム諸国にも伝道団を派遣したと碑文には記されており、仏教が世界宗教へと発展する最初の大きな一歩を記したのです。

4.6. マウリヤ朝の衰退

アショーカ王の死後、巨大なマウリヤ帝国は急速に衰退に向かいます。その原因は複合的であったと考えられます。

まず、アショーカ王の仏教保護政策が、伝統的なバラモン階級の反発を招いた可能性があります。また、非武装・不殺生を理想とするダルマの統治が、帝国の軍事力を弱体化させたという見方もあります。

しかし、より根本的な原因は、経済的な問題にあったと考えられます。広大な官僚機構と軍隊の維持、そして大規模な福祉政策や仏教教団への寄進は、国家財政を著しく圧迫しました。また、帝国の統治システムは、アショーカ王のようなカリスマ的な指導者の存在に大きく依存しており、彼の死後、後継者たちは帝国をまとめきることができませんでした。

地方の総督たちが次々と独立し、帝国は分裂。アショーカ王の死から約50年後の紀元前180年頃、最後の王が将軍プシャミトラによって殺害され、マウリヤ朝は滅亡しました。

マウリヤ朝の統治は比較的短命に終わりましたが、インド史上初めて広大な領域を政治的に統一し、交通網の整備や文化の交流を促進したその功績は計り知れません。特にアショーカ王のダルマによる統治の理念は、後のインドの支配者たちにも大きな影響を与え、インド文化の基層を形成する上で重要な役割を果たしたのです。

5. グプタ朝とヒンドゥー教

5.1. マウリヤ朝後の分裂時代とクシャーナ朝

マウリヤ朝の滅亡後、インドは再び長い分裂の時代に入ります。デカン高原ではサータヴァーハナ朝が台頭し、西北インドには、中央アジアからギリシア系、イラン系の民族が次々と侵入し、王朝を建てました。その中でも特に重要なのが、1世紀にイラン系のクシャン人が建てたクシャーナ朝です。

クシャーナ朝は、中央アジアからガンジス川中流域に至る広大な領域を支配し、東西交易の結節点に位置することで繁栄を極めました。特にカニシカ王の時代に最盛期を迎え、その首都プルシャプラ(現在のペシャワール)は国際的な商業都市として栄えました。

宗教面では、カニシカ王が仏教を篤く保護したことで知られています。この時代、従来の伝統的な仏教(上座部仏教)に加え、利他行を重んじ、菩薩信仰を特徴とする新しい仏教運動、「大乗仏教」が盛んになりました。また、クシャーナ朝の支配下では、ギリシア・ローマ美術の影響を受けたガンダーラ美術が隆盛し、初めて人間的な姿で表現された仏像が数多く造られました。

5.2. グプタ朝の成立とインドの再統一

クシャーナ朝が衰退した後、3世紀からインドは再び混乱期に入りますが、4世紀前半、ガンジス川中流域に新たな統一王朝が誕生します。それがグプタ朝です。

320年、マガダ地方の豪族であったチャンドラグプタ1世が、パータリプトラを都としてグプタ朝を創始しました。彼は周辺地域を征服して王朝の基礎を築き、続く第2代サムドラグプタは、大規模な遠征を行って、北インドの大部分を直接支配下に収め、南インドの諸王国にも宗主権を認めさせました。

グプタ朝の最盛期を現出したのは、第3代のチャンドラグプタ2世(ヴィクラマーディティヤ、超日王)です。彼は西方のサカ族(シャカ)の勢力を一掃して領土を最大にし、その治世には中国から法顕が訪れるなど、国内外にその威光が知れ渡りました。グプタ朝の時代、マウリヤ朝以来となるインド亜大陸の広範な政治的統一が回復され、社会は安定し、文化・経済は飛躍的な発展を遂げました。

5.3. ヒンドゥー教の確立

グプタ朝時代は、インド文化史における一つの頂点と見なされています。この時代に、後のインド文化の根幹をなす「ヒンドゥー教」が確立されました。

ヒンドゥー教は、特定の開祖や厳格な教義体系を持つ宗教ではなく、古代からのバラモン教の伝統を中核としながら、インド各地の土着の民間信仰や、仏教、ジャイナ教などの要素までも取り込んで、長い時間をかけて形成された複合的な宗教体系です。

バラモン教のヴェーダの権威やヴァルナ制は受け継がれましたが、難解な祭祀や哲学よりも、より民衆に分かりやすい神々への人格的な信仰(バクティ)が中心となりました。特に、以下の三神が最高神として広く信仰を集めました。

  • ブラフマー: 宇宙の創造神。
  • ヴィシュヌ: 宇宙の維持神。世界が悪に脅かされる時、クリシュナやラーマなど様々な化身(アヴァターラ)となって現れ、正義を回復すると信じられた。
  • シヴァ: 破壊と創造の神。ヨーガの修行者や舞踊の王(ナタラージャ)としても崇拝された。

これらの神々をめぐる壮大な神話は、『マハーバーラタ』と『ラーマーヤナ』という二大叙事詩にまとめられ、民衆に広く親しまれました。また、ヴァルナ制に基づき、それぞれの身分が守るべき社会的規範や人生の指針を定めた『マヌ法典』もこの時代に完成し、ヒンドゥー教徒の生活の隅々にまで影響を及ぼしました。

グプタ朝の王たちはヒンドゥー教を保護し、自らをヴィシュヌ神の化身と称するなど、その権威を宗教的に正当化しました。これにより、バラモン階級の社会的地位は再び高まり、ヒンドゥー教はインド社会に深く浸透していったのです。

5.4. サンスクリット文学と自然科学の発展

グプタ朝時代は、宮廷を中心にサンスクリット語を用いた古典文化が花開いた時代でもあります。チャンドラグプタ2世の宮廷には多くの文人が集まり、中でも詩人・劇作家カーリダーサは、戯曲『シャクンタラー』などの傑作を残し、インド文学史上最高の作家と称されています。彼の作品は、巧みな構成と美しい詩的表現で、人間の愛や自然の美しさを描き出し、後世に大きな影響を与えました。

この時代、サンスクリット語は単なる宗教言語ではなく、学問、文学、行政の公用語として完成の域に達し、インドの古典文化を象徴する存在となりました。

自然科学の分野でも、目覚ましい発展が見られました。数学の分野では、「ゼロ(シューニャ)」の概念が発見され、十進法が確立されました。これらは後にアラビアを経てヨーロッパに伝わり、「アラビア数字」として知られるようになり、世界の数学と科学の発展に計り知れない貢献をしました。

天文学では、天文学者アーリヤバタが、地球の自転を認め、日食や月食の原理を科学的に説明しました。医学、化学、冶金学の分野でも高い水準に達しており、デリー郊外に現存するチャンドラ王の鉄柱は、1500年以上もの間、ほとんど錆びることなく立ち続けており、当時の製鉄技術の高さを示す驚くべき遺産です。

5.5. グプタ様式の美術

グプタ朝時代には、洗練された純インド的な美術様式である「グプタ様式」が完成しました。仏教美術においては、ガンダーラ美術の写実性と、マトゥラー美術のインド的な生命感を融合させ、静かで精神性の高い、理想化された仏像の古典様式が確立されました。サールナートで制作された仏像はその代表例で、薄い衣をまとった均整のとれた身体表現と、慈愛に満ちた穏やかな表情は、後の東アジアや東南アジアの仏像彫刻に大きな影響を与えました。

ヒンドゥー教美術も隆盛し、ヴィシュヌ神やシヴァ神などの神々を主題とする彫刻が数多く作られました。また、アジャンター石窟寺院の壁画は、グプタ様式の絵画の最高傑作として名高く、躍動感あふれる人物描写と豊かな色彩で、仏教説話や当時の宮廷生活を描き出しています。エローラ石窟寺院では、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教の各寺院が同じ場所に並んで掘られており、この時代の宗教的な寛容さを示しています。

5.6. グプタ朝の衰退とヴァルダナ朝

5世紀後半になると、グプタ朝は中央アジアから侵入したエフタルと呼ばれる遊牧民の圧迫を受けて衰退し始めます。相次ぐ異民族の侵入と、地方勢力の自立により、6世紀半ばには事実上滅亡しました。

その後、7世紀前半に、ハルシャ=ヴァルダナが北インドを再統一し、ヴァルダナ朝を建てました。彼は仏教を保護し、学問を奨励するなど、グプタ朝の文化を継承する善政を行ったとされています。この時代には、唐の僧侶である玄奘が、仏法を求めてインドを訪れ、その旅行記『大唐西域記』に、ハルシャ王の治世やナーランダー僧院の繁栄ぶりを詳しく記しています。

しかし、ハルシャ王の死後、ヴァルダナ朝も崩壊し、インドは再び長期にわたる分裂と動乱の時代(ラージプート時代)へと突入していくことになります。グプタ朝が築いた古典文化は、この分裂の時代にも受け継がれ、インド文明の揺るぎない基盤として、後世の社会と文化を形作っていきました。

6. 東南アジアのインド化

6.1. 「インド化」とは何か

東南アジアの初期の歴史を語る上で、最も重要なキーワードの一つが「インド化」です。これは、紀元前後から数世紀にわたり、東南アジアの各地でインドの宗教、政治思想、社会制度、文字、美術様式などが、現地の人々によって自発的に受容され、土着の文化と融合して独自の文明が形成されていったプロセスを指します。

ここで極めて重要なのは、このインド化が、インドの王朝による軍事的な征服や植民地化の結果として起こったのではない、という点です。インドからのバラモン、仏教僧、商人、工芸家などが、主に交易活動を通じて東南アジアを訪れ、彼らがもたらした進んだ文化や統治技術が、現地の首長たちにとって魅力的であったため、積極的に取り入れられたのです。現地の支配者たちは、インドの王権思想(神王思想など)や宗教的権威を利用して自らの支配を正当化し、より大きな政治的統合体、すなわち国家を形成していきました。

6.2. 交易の道としての東南アジア

東南アジアがインド化の舞台となった背景には、その地理的な位置が大きく関係しています。東南アジアは、古くからインド洋と南シナ海を結ぶ「海のシルクロード」の中継点であり、東西交易の要衝でした。

1世紀頃、ローマ帝国で東方の物産、特に香辛料への需要が高まると、インドの商人は、東南アジアや中国の産物を求めて、海上交易を活発化させました。彼らは、季節風(モンスーン)を利用してインド洋を航海し、マレー半島やスマトラ島などの港市に寄港しました。これらの港市は、交易の中継地として、また東南アジア産の香辛料、樹脂、金などの集積地として繁栄しました。

この交易ネットワークを通じて、物資だけでなく、人も、そして文化や思想も東南アジアへと運ばれていったのです。

6.3. インド化の初期の国家:扶南

東南アジアにおけるインド化国家の最も初期の例として知られているのが、1世紀末頃にメコン川下流域(現在のカンボジア・ベトナム南部)に建国された扶南(ふなん)です。中国の史書によれば、扶南はインドのバラモンが現地に渡り、女王を娶って王になったという建国神話を伝えています。これは、インドの文化と現地の権力が結びついて国家が形成されたことを象徴的に物語っています。

扶南は、オケオ(ベトナム南部)という港を拠点に、中継貿易で栄えました。オケオの遺跡からは、ローマの金貨、インドの神像、中国の銅鏡などが出土しており、当時の広範な交易ネットワークを物語っています。扶南では、サンスクリット語が公用語として用いられ、ヒンドゥー教(特にヴィシュヌ派とシヴァ派)や仏教が信仰されていました。

6.4. 大陸部のインド化国家

扶南の後、東南アジアの大陸部では、インド文化の影響を色濃く受けた国家が次々と興亡しました。

  • チャンパー(林邑・占城): 2世紀末、現在のベトナム中南部にチャム人が建てた国。ヒンドゥー教のシヴァ神を篤く信仰し、ミーソン遺跡などに精巧なヒンドゥー教寺院を残した。
  • カンボジア(真臘): 6世紀に扶南を滅ぼして独立。9世紀にアンコール朝が成立すると、国力を飛躍的に増大させた。王をヒンドゥー教の神(シヴァ神やヴィシュヌ神)と一体とみなす「神王思想(デーヴァラージャ)」に基づき、巨大な石造寺院を次々と建立した。12世紀に建てられたアンコール=ワット(元はヴィシュヌ神に捧げられたヒンドゥー教寺院)や、アンコール=トム(大乗仏教の理念を取り入れた都城)は、その建築と彫刻の壮大さと精緻さにおいて、インド化文明の到達した一つの頂点を示している。
  • ドヴァーラヴァティー王国: 7世紀から11世紀頃、現在のタイ中部にモン人が建てた国。上座部仏教が栄えた。
  • パガン朝: 11世紀に現在のミャンマー(ビルマ)を統一した王朝。国王がスリランカから上座部仏教を導入し、熱心な信仰から首都パガンには無数の仏塔(パゴダ)や寺院が建立された。

これらの国家では、インドの文字(パーリ語やサンスクリット語を表記するためのブラーフミー系文字)を基に、独自の文字(クメール文字、チャム文字、モン文字など)が作られ、統治や宗教活動に用いられました。

6.5. 島嶼部のインド化国家

マレー半島やインドネシアの島々でも、海上交易の拠点としてインド化国家が栄えました。

  • シュリーヴィジャヤ王国: 7世紀にスマトラ島南部のパレンバンを中心に成立した海上交易国家。マラッカ海峡とスンダ海峡という、東西交通の二大動脈を支配下に置き、中継貿易で莫大な富を築いた。大乗仏教が栄え、中国からインドへ仏法を求めて旅をした僧・義浄が、滞在記『南海寄帰内法伝』の中で、パレンバンが仏教研究の一大中心地であったことを記している。
  • シャイレーンドラ朝: 8世紀後半、ジャワ島中部に興った王朝。「シャイレーンドラ」は「山の王」を意味し、王権の強大さを示唆する。大乗仏教を篤く信仰し、8世紀から9世紀にかけて、巨大な仏教遺跡であるボロブドゥールを建立した。ボロブドゥールは、全体が立体的なマンダラ(仏教的宇宙観を図示したもの)を構成しており、その壮大な構想と無数の仏像・浮彫は、シャイレーンドラ朝の仏教信仰の深さと、高度な建築技術を物語っている。
  • マタラム朝: 9世紀後半、ジャワ島中部でシャイレーンドラ朝に代わって台頭したヒンドゥー教(シヴァ派)の王朝。プランバナン寺院群を建立し、壮麗なヒンドゥー教建築を残した。
  • クディリ朝、シンガサリ朝、マジャパヒト王国: その後もジャワ島では王朝の興亡が続き、特に13世紀末に成立したマジャパヒト王国は、現在のインドネシアの大部分を支配する広大な海上帝国を築き、最後のヒンドゥー教王国として繁栄した。

6.6. インド化の特質と意義

東南アジアのインド化は、単なる文化の模倣ではありませんでした。現地の支配者や人々は、インドから伝わった様々な文化的要素を、自らの社会や伝統的な信仰(アニミズムなど)と巧みに融合させ、独自の文化を創造しました。

例えば、カンボジアの神王思想は、インドの宗教観と、現地の祖先崇拝の伝統が結びついたものと考えられています。インドネシアの影絵芝居ワヤンは、インドの二大叙事詩『ラーマーヤナ』や『マハーバーラタ』を題材としながらも、その登場人物や物語の解釈には、ジャワ独自の価値観が色濃く反映されています。

このように、インド化は、東南アジアに国家形成の理念、高度な宗教・思想、そして豊かな芸術をもたらし、この地域に最初の文明の華を開かせました。インドという外来文化の触媒作用によって、東南アジア固有の多様な文化が刺激を受け、より高度で洗練された独自の文明へと発展していくための、決定的な土台が築かれたのです。

7. 東南アジアのイスラーム化

7.1. イスラームはどのように東南アジアに伝わったか

13世紀以降、東南アジアの歴史は、インド化に続く第二の大きな文化的変容の波を経験します。それが「イスラーム化」です。インド化と同様、このイスラーム化も、軍事的な征服による強制的な改宗ではなく、主に平和的な手段、すなわち商業活動を通じて進展しました。

その担い手となったのは、インド洋の海上交易を支配していたムスリム(イスラーム教徒)商人たちでした。特に、グジャラート(西インド)や南インドの沿岸部を拠点とするインド系のムスリム商人が、その中心的な役割を果たしました。彼らは、香辛料などの東南アジアの産物を求めて、古くからの交易ルートを辿ってこの地域を訪れ、各地の港市に商館を設け、定住する者も現れました。

彼らがもたらしたイスラームは、いくつかの点で、現地の人々にとって受け入れやすいものでした。

  • 平等の教え: イスラームは、神(アッラー)の前ではすべての信者が平等であると説きました。これは、ヒンドゥー教の厳格なカースト制度に馴染めなかった人々、特に港市の国際的な環境で暮らす人々にとって魅力的でした。
  • スーフィズム(イスラーム神秘主義)の影響: 東南アジアにイスラームを伝えた商人や宣教師の多くは、スーフィー(イスラーム神秘主義者)でした。スーフィズムは、内面的な神との一体感を重視し、しばしば現地の土着信仰や精霊崇拝(アニミズム)と融合しやすい、柔軟で寛容な性格を持っていました。彼らは、イスラームの教えを現地の言葉や文化と結びつけて説き、人々の心に浸透させていきました。
  • 経済的利益: 国際的なムスリム商人ネットワークに加わることは、現地の支配者や商人にとって、大きな経済的利益をもたらしました。イスラームに改宗することで、彼らとの信頼関係を築き、交易を有利に進めることができたのです。

7.2. 初期イスラーム国家の成立

東南アジアにおける最初のイスラーム国家は、13世紀末にスマトラ島北端に成立したサムドラ=パサイ王国であったとされています。14世紀にこの地を訪れた旅行家イブン=バットゥータは、その君主が熱心なイスラーム教徒であったことを記録しています。

しかし、東南アジアのイスラーム化を決定的な流れにしたのは、15世紀初頭にマレー半島南西部に建国されたマラッカ王国の存在でした。

7.3. マラッカ王国の繁栄と役割

マラッカ王国は、1400年頃、スマトラ島から亡命してきた王子パラメーシュワラによって建国されました。当初は小さな漁村に過ぎませんでしたが、マラッカは東西交易ルートのちょうど中間点という絶好の地理的条件に恵まれていました。

パラメーシュワラは、当時、南海遠征を行っていた明の鄭和艦隊の保護下に入ることで、北のシャム(タイ)の圧力を排除し、安全を確保しました。そして、東西から訪れる商船のために優れた港湾設備を整え、公正な交易制度を確立し、治安を維持することで、マラッカは急速に国際的な中継貿易港として発展しました。

15世紀半ば、マラッカの王がイスラームに改宗すると、その発展はさらに加速します。マラッカは、単なる商業の中心地としてだけでなく、東南アジアにおけるイスラームの布教と学問の中心地としての役割も担うようになりました。世界中からムスリム商人が集まり、彼らを通じて、イスラームの教えや文化が、香辛料を求めてマラッカにやってくるジャワやモルッカ諸島(香料諸島)の商人に伝えられ、彼らが故郷に帰ることで、さらに東南アジア各地へと広がっていったのです。

マラッカは、西からはインド、アラビア、ペルシアの織物や金属製品が、東からはモルッカ諸島のクローブ(丁字)やナツメグ(肉豆蔲)、中国の陶磁器や絹織物が集まる、アジア最大の貿易センターとして繁栄を極めました。

7.4. イスラームの広がり

マラッカ王国を拠点として、イスラームは15世紀から16世紀にかけて、東南アジアの島嶼部を中心に急速に広がっていきました。

  • マレー半島・スマトラ島: マラッカの影響下で、沿岸部の多くの港市国家がイスラーム化しました。
  • ジャワ島: 15世紀後半から、ジャワ北岸の港市が次々とイスラームを受け入れ、内陸部に栄えた最後のヒンドゥー教国マジャパヒト王国を圧迫していきました。16世紀には、マタラム王国などのイスラーム国家がジャワ島の新たな覇者となります。
  • ボルネオ島(カリマンタン島)、スラウェシ島、フィリピン南部: これらの地域にも、交易を通じてイスラームが伝播し、ブルネイ王国やスールー王国などのイスラーム国家が成立しました。
  • モルッカ諸島(香料諸島): 香辛料交易の担い手であった現地の人々も、イスラームを受け入れました。

7.5. 東南アジアのイスラーム文化の特質

東南アジアに根付いたイスラームは、中東のアラブ世界とは異なる、独自の文化的特質を持っています。これは、イスラームが、数世紀にわたってこの地に蓄積されてきた土着の文化、そしてインド化の時代に受容されたヒンドゥー教や仏教の文化の基層の上に、重なるようにして受容されたためです。

例えば、ジャワ島のイスラームは、しばしばスーフィズムやヒンドゥー・仏教的な要素、そして古来からの精霊信仰と融合した、非常にシンクレティック(混交的)な性格を持っています。王権のあり方にも、イスラームのスルタンという称号を用いながら、ヒンドゥー教的な神王思想の影響が見られることがあります。インドネシアの影絵芝居ワヤンでは、イスラーム化以降も、ヒンドゥー教の叙事詩が主要な演目として演じられ続けています。

また、法体系においても、イスラーム法(シャリーア)が導入されましたが、多くの地域では、それ以前から存在した慣習法(アダット)が依然として人々の日常生活において重要な役割を果たし続けています。

このように、東南アジアのイスラーム化は、既存の文化を完全に破壊し、置き換えるものではなく、それらと重層的に共存し、時には融合しながら、この地域に新たな文化の層を付け加えていったのです。この文化的重層性こそが、現代に至るまで東南アジア世界の多様性と豊かさを特徴づける、最も重要な要素となっています。

8. デリー=スルタン朝

8.1. イスラーム勢力のインド侵入

インド亜大陸に対するイスラーム勢力の本格的な侵入は、8世紀初頭のウマイヤ朝によるインダス川流域の征服に始まりますが、これは一時的なものに終わりました。インドの歴史を大きく変えることになるのは、10世紀末から始まる、アフガニスタン方面からのテュルク(トルコ)系イスラーム王朝による侵入です。

その口火を切ったのが、アフガニスタンのガズナを拠点としたガズナ朝です。その君主マフムードは、11世紀初頭、十数回にわたって北インドに遠征を行い、ヒンドゥー教寺院の富を略奪し、パンジャーブ地方を支配下に置きました。

続いて12世紀後半には、同じくアフガニスタンに興ったゴール朝が北インドへの侵攻を本格化させます。ゴール朝のムハンマド=ゴーリーは、ラージプート(北インドのヒンドゥー教徒の武士階級)諸国の連合軍をタラーインの戦い(1192年)で破り、デリーを含むガンジス川流域の広大な地域を征服しました。この勝利が、インドにおける恒久的なイスラーム支配の始まりを告げる画期的な出来事となりました。

8.2. デリー=スルタン朝の成立

ムハンマド=ゴーリーが暗殺された後、彼の配下であったテュルク系マムルーク(奴隷軍人)出身の将軍アイバクが、デリーを拠点に自立し、1206年にインド初のイスラーム王朝を創始しました。これが奴隷王朝であり、これ以後、16世紀初頭にムガル帝国が成立するまでの約320年間に、デリーを首都として北インドを支配した5つのイスラーム王朝を総称して「デリー=スルタン朝」と呼びます。

デリー=スルタン朝を構成した5つの王朝は以下の通りです。

  1. 奴隷王朝 (1206年 – 1290年)
  2. ハルジー朝 (1290年 – 1320年)
  3. トゥグルク朝 (1320年 – 1414年)
  4. サイイド朝 (1414年 – 1451年)
  5. ロディー朝 (1451年 – 1526年)

これらの王朝の君主は、カリフの権威を認めつつも、独立した主権者として「スルタン」の称号を名乗りました。王朝の交代はしばしばクーデターによるものであり、支配者層の多くはテュルク系やアフガン系といった外来のムスリムで、その支配は常に不安定な要素をはらんでいました。

8.3. 統治の拡大と変遷

奴隷王朝は、デリー周辺の支配を固め、イルトゥトゥミシュ王の時代には、モンゴル帝国の侵攻を撃退し、スルタンの地位を安定させました。

ハルジー朝のアラー=ウッディーン=ハルジーの時代には、デカン高原や南インドにまで大遠征軍を送り、デリー=スルタン朝の支配領域は最大に達しました。彼は、軍を維持するために、市場価格の統制や厳格な税制を導入するなど、強力な中央集権化政策を進めました。

トゥグルク朝のムハンマド=イブン=トゥグルクは、広大な帝国をより効率的に統治するため、都をデリーからデカン高原のダウラターバードへ遷都するという大胆な試みを行いましたが、これは失敗に終わりました。彼の治世の末期から、帝国は地方の反乱や自立によって分裂の傾向を見せ始めます。

決定的な打撃となったのは、1398年のティムールによるデリー侵攻です。ティムールの軍隊はデリーで大規模な破壊と虐殺を行い、デリー=スルタン朝の権威は失墜しました。その後のサイイド朝、ロディー朝は、デリー周辺を支配する一地方政権に過ぎなくなりました。そして1526年、ロディー朝はティムールの子孫であるバーブルにパーニーパットの戦いで敗れ、デリー=スルタン朝は滅亡し、インドはムガル帝国の時代を迎えます。

8.4. イスラーム支配下のインド社会

デリー=スルタン朝の時代、インドの社会と文化は、イスラームという新たな要素が加わることで、大きく変容しました。

支配者であるムスリムは、人口においては少数派でした。彼らは、大多数を占める被支配者のヒンドゥー教徒に対して、一定の寛容策をもって臨みました。イスラーム法では、ムスリムの支配を受け入れた異教徒(ズィンミー)は、人頭税(ジズヤ)を支払うことで、その生命、財産、そして信仰の自由が保障されることになっていました。デリー=スルタン朝も、この原則に従ってヒンドゥー教徒を統治しました。

しかし、両者の関係は常に平和的だったわけではありません。一部のスルタンは、ヒンドゥー教寺院を破壊してモスクを建立するなど、偶像崇拝を否定するイスラームの教義に忠実な、非寛容な政策をとることもありました。

税制面では、土地税(ハラージュ)が主要な財源でした。アラー=ウッディーン=ハルジーは、収穫の半分という極めて高い税率を課し、農民の生活を圧迫しました。

8.5. インド=イスラーム文化の形成

デリー=スルタン朝の時代は、支配者であるイスラーム教徒が持ち込んだペルシア・テュルク系の文化と、インド古来のヒンドゥー文化が、対立しながらも次第に融合し、独自の「インド=イスラーム文化」が形成された時代でもありました。

  • 言語: 宮廷や行政では、公用語としてペルシア語が用いられました。一方、デリー周辺の民衆の間では、現地の言葉にペルシア語やアラビア語の語彙が混じり合って、新しい言語であるウルドゥー語が生まれました。ウルドゥー語は、後にムガル帝国時代に洗練され、現在パキスタンの国語、インドの公用語の一つとなっています。
  • 建築: スルタンたちは、自らの権威を示すために、壮大なモスクや宮殿、墓廟を建設しました。その建築様式は、イスラーム建築のアーチやドームといった要素と、インド建築の精緻な彫刻や装飾技術が融合した、独特のスタイルを特徴とします。デリーに残るクトゥブ=ミナール(勝利の塔)は、その初期の代表例です。
  • 宗教・思想: イスラームとヒンドゥー教という二つの異なる宗教が共存する中で、両者の融合を目指す新しい宗教運動も生まれました。
    • スーフィズム: イスラーム神秘主義であるスーフィズムは、インドでも広く受け入れられました。スーフィーの聖者たちは、しばしばヒンドゥー教のヨーガ行者とも交流し、民衆の間にイスラームを広める上で大きな役割を果たしました。
    • バクティ運動: ヒンドゥー教側でも、カーストの別なく、神への絶対的な愛と献身(バクティ)によって救われると説く、民衆的な信仰運動が盛んになりました。この運動の中から、カビールのように、イスラームとヒンドゥー教の神は本質的に同じであると説き、両者の融和を唱える思想家も現れました。
    • シク教: 15世紀末にパンジャーブ地方のナーナクによって創始されたシク教は、イスラームの一神教の思想と、ヒンドゥー教のバクティ信仰や輪廻の思想を融合させた、独自の宗教です。偶像崇拝やカースト制度を否定し、両宗教の形式主義を批判しました。

デリー=スルタン朝は、インドの歴史上初めて、イスラーム教徒による長期的かつ広範な支配を確立しました。それは、多くのヒンドゥー教徒にとっては異民族による支配であり、対立と緊張をはらむものでしたが、同時に、二つの偉大な文明が出会い、相互に影響を与え合うことで、インド社会をより多元的で複合的なものへと変貌させる、大きなきっかけともなったのです。

9. ヴィジャヤナガル王国

9.1. 南インドの政治状況と王国の成立

デリー=スルタン朝が北インドを支配し、その勢力を南へも伸ばそうとしていた14世紀、デカン高原以南の南インドでは、新たな政治的変動が起きていました。ハルジー朝やトゥグルク朝による遠征は、この地域の古くからのヒンドゥー諸王国に大きな打撃を与え、政治的な空白を生み出しました。

このような状況の中、デリー=スルタン朝の支配、特にイスラーム勢力の南下に対抗する形で、南インドのヒンドゥー勢力を結集した強力な王国が誕生します。それが、ヴィジャヤナガル王国です。

伝承によれば、王国を創始したハリハラとブッカの兄弟は、もともと南インドの小国の役人でしたが、トゥグルク朝に捕らえられてデリーへ送られ、イスラームに改宗させられた後、南インドの反乱鎮圧のために派遣されました。しかし、彼らはヒンドゥー教の聖者の導きで再びヒンドゥー教に復帰し、1336年、トゥンガバドラー川の南岸にヴィジャヤナガル(「勝利の都」の意)を都として自立し、新たな王国を建国したとされています。この建国譚は、ヴィジャヤナガル王国が、イスラーム勢力に対するヒンドゥー教の防波堤としての役割を、その当初から運命づけられていたことを象徴しています。

9.2. バフマニー朝との抗争

ヴィジャヤナガル王国は、建国後すぐに勢力を拡大し、南インドのほぼ全域を支配下に収めました。しかし、その北には、同じくトゥグルク朝の衰退に乗じてデカン高原に成立したイスラーム王朝、バフマニー朝(1347年 – 1527年)が存在しました。

これ以後、約200年間にわたり、南インドの歴史は、デカン高原を支配するイスラーム教のバフマニー朝と、それ以南を支配するヒンドゥー教のヴィジャヤナガル王国という、二大勢力の対立と抗争を軸に展開していくことになります。

両国の争いの主な焦点は、クリシュナ川とトゥンガバドラー川に挟まれた、ライチュール地方と呼ばれる肥沃な土地の領有権でした。この地域は、経済的にも戦略的にも極めて重要であり、両国は何度も激しい戦闘を繰り広げました。また、宗教的な対立も、両国の抗争をより激しいものにする要因となりました。ヴィジャヤナガル王国は、自らをヒンドゥー・ダルマ(ヒンドゥー教の法・秩序)の守護者と位置づけ、バフマニー朝はイスラームの擁護者としての立場を鮮明にしました。

9.3. 王国の最盛期と繁栄

このような絶え間ない抗争にもかかわらず、ヴィジャヤナガル王国は、特に15世紀から16世紀にかけて、政治的・経済的に大いに繁栄し、その最盛期を迎えました。

特に有名なのが、クリシュナデーヴァ=ラーヤ王(在位:1509年 – 1529年)の治世です。彼は優れた軍事的指導者であり、バフマニー朝から分裂したデカン=スルタン朝(ビジャープル、ゴールコンダなど5つのイスラーム国家)や、東海岸のオリッサ王国との戦いに勝利し、王国の領土を最大に広げました。

王国の繁栄を支えたのは、豊かな農業生産と活発な商業活動でした。特に、インド洋の海上交易において、ヴィジャヤナガル王国は重要な役割を果たしました。西海岸のカリカットやゴアといった港には、アラビアやペルシアからのムスリム商人が訪れ、東海岸の港は東南アジアとの交易で賑わいました。主要な輸出品は、胡椒などの香辛料、米、綿織物、鉄鉱石などであり、輸入品としては、軍事的に不可欠であった馬(アラビア産)や、銅、水銀などがありました。

この時代、ポルトガル人もインド西海岸に来航し、ヴィジャヤナガル王国と交易関係を結びました。彼らが残した記録は、当時の王国の繁栄ぶりを生き生きと伝えています。ポルトガルの商人パエスは、首都ヴィジャヤナガルを「ローマと同じくらい大きい」と述べ、その市場には世界中から商品が集まり、壮麗な宮殿や寺院が立ち並ぶ、豊かで壮大な都市であったと絶賛しています。

9.4. ヒンドゥー文化の黄金時代

ヴィジャヤナガル王国は、北インドがイスラーム支配下にあった時代に、南インドにおいてヒンドゥー文化を保護し、発展させる中心的な役割を果たしました。王たちはヒンドゥー教の熱心な擁護者であり、首都ヴィジャヤナガルをはじめ、領内各地に壮大なヒンドゥー教寺院を数多く建立、修復しました。

ヴィジャヤナガル様式と呼ばれる建築は、高くそびえる塔門(ゴープラム)や、数百本の柱が並ぶ広間(マンダパ)などを特徴とし、その柱や壁面には、神々や神話の場面が躍動感豊かに彫刻されました。首都ヴィジャヤナガルの遺跡(現在のハンピ)には、ヴィッタラ寺院やハザラ=ラーマ寺院など、当時の壮麗な建築物が今も残されており、その文化的遺産の価値からユネスコの世界遺産に登録されています。

文学も栄え、宮廷ではサンスクリット語に加え、テルグ語、カンナダ語、タミル語といった南インドの地方言語(ドラヴィダ語族)による文学活動が、王の保護のもとで盛んに行われました。

このように、ヴィジャヤナガル王国は、政治的にはイスラーム勢力との対抗、文化的にはヒンドゥー文化の最後の砦としての役割を担い、南インドに独自の文明の華を咲かせたのです。

9.5. 王国の衰退と滅亡

クリシュナデーヴァ=ラーヤ王の死後、ヴィジャヤナガル王国では王位継承をめぐる内紛が頻発し、国力は次第に衰えていきました。

一方、北のデカン高原では、バフマニー朝が分裂して成立した5つのデカン=スルタン朝が、互いに争いを続けていましたが、共通の敵であるヴィジャヤナガル王国の存在に対して、次第に結束を強めていきました。

そして1565年、デカン=スルタン朝の連合軍とヴィジャヤナガル王国軍は、ターリコータの戦いで激突しました。この戦いでヴィジャヤナガル軍は壊滅的な敗北を喫し、首都ヴィジャヤナガルは連合軍によって徹底的に破壊・略奪され、二度と往時の繁栄を取り戻すことはありませんでした。

この敗戦後も、王国は南方に都を移してしばらく存続しましたが、かつての勢いを失い、17世紀半ばに完全に滅亡しました。ヴィジャヤナガル王国の滅亡は、南インドにおけるヒンドゥー教徒の独立した大国の終焉を意味し、これ以後、インド亜大陸のほぼ全域が、ムガル帝国をはじめとするイスラーム勢力の影響下に置かれることになります。

10. 大航海時代以降の植民地化

10.1. ヨーロッパ勢力の到来:ポルトガルと香辛料貿易

15世紀末、ヨーロッパで始まった大航海時代は、南アジア・東南アジアの歴史に、それまでとは比較にならないほど巨大で、決定的な変化をもたらしました。その先陣を切ったのがポルトガルです。

1498年、ヴァスコ=ダ=ガマが、アフリカ南端の喜望峰を回ってインド西海岸のカリカットに到達し、インド航路を開拓しました。彼らの目的は、当時ヨーロッパで非常に高価に取引されていた胡椒などの香辛料を、イスラーム商人を介さずに直接手に入れること、すなわち、アジアの香辛料貿易を支配することでした。

ポルトガルは、圧倒的な海軍力(大砲を装備した帆船)を背景に、インド洋の制海権を確立しようとしました。1510年にはインド西海岸のゴアを占領して総督府を置き、アジアにおける拠点としました。さらに1511年には、東南アジアの香辛料貿易の中心地であったマラッカ王国を攻略・占領しました。続いて、香辛料の原産地であるモルッカ諸島(香料諸島)にも進出し、要塞を築いて香辛料の直接買い付けを開始しました。

ポルトガルのアジア進出は、従来のインド洋の平和的な交易秩序を、武力によって破壊するものでした。彼らは、交易の独占を図るため、現地の商船に高額な通行許可証(カルタス)の携帯を強制し、従わない船は容赦なく攻撃・拿捕しました。また、カトリックの布教にも熱心で、しばしば武力を用いた強制的な改宗を行いました。

10.2. 後発国の参入:オランダ、イギリス、フランス

17世紀に入ると、ポルトガルの独占に、オランダとイギリスが挑戦状を叩きつけます。両国は、それぞれ東インド会社という、国家から貿易独占権や軍事行動の許可を与えられた強力な株式会社を設立し、アジアに進出しました。

特に、1602年に設立されたオランダ東インド会社は、豊富な資金力と優れた組織力でポルトガルを圧倒し、アジアの海から駆逐していきました。オランダは、ポルトガルからマラッカ(1641年)やセイロン島(スリランカ)を奪い、インドネシアのジャワ島にバタヴィア(現在のジャカルタ)を建設してアジア貿易の拠点としました。

オランダの関心は、ポルトガル以上に香辛料貿易の完全な独占にありました。彼らは、モルッカ諸島で現地の住民を武力で支配し、香辛料の生産から販売までを完全に管理する、より徹底した植民地支配を行いました。アンボイナ事件(1623年)でイギリス勢力をモルッカ諸島から締め出した後、オランダは香辛料貿易の覇権を確立しました。

一方、香辛料貿易の競争に敗れたイギリス東インド会社は、インドに関心を集中させるようになります。イギリスは、マドラス(現在のチェンナイ)、ボンベイ(ムンバイ)、カルカッタ(コルカタ)を拠点に、インド産の綿織物(キャラコ)の貿易で大きな利益を上げるようになりました。

17世紀後半にはフランスもインドに進出し、ポンディシェリやシャンデルナゴルを拠点としました。こうして、18世紀には、インドの覇権をめぐってイギリスとフランスが激しく争うことになります。

10.3. 交易から領域支配へ:プラッシーの戦いとイギリスのインド支配

18世紀、インドではデリー=スルタン朝に代わって北インドを統一したムガル帝国が、アウラングゼーブ帝の死後、急速に衰退し、国内は群雄割拠の状態に陥っていました。イギリスとフランスは、このインド諸侯間の対立に乗じ、それぞれが支持する勢力に軍事援助を行うことで、インドにおける自らの影響力を拡大しようとしました。

この英仏の抗争は、ヨーロッパでの七年戦争と連動して、インドではカーナティック戦争として展開され、最終的にイギリスの勝利に終わりました。決定的な転換点となったのが、1757年のプラッシーの戦いです。

この戦いで、イギリス東インド会社のクライブは、フランスと結んだベンガル太守の軍隊を、買収や陰謀を駆使して破りました。この勝利によって、イギリスは、豊かで広大なベンガル地方の支配権(徴税権)を事実上獲得しました。これは、ヨーロッパ勢力のアジアへの関与が、単なる沿岸部の拠点確保や交易独占から、広大な「領域支配」へと大きく転換したことを示す画期的な出来事でした。

これ以後、イギリス東インド会社は、巧みな外交と優れた軍事力を背景に、マイソール戦争やマラーター戦争などを通じて、インドの諸侯国を次々と破り、あるいは従属させ、19世紀半ばまでには、インド亜大陸のほぼ全域を直接または間接の支配下に置くことに成功しました。

10.4. 東南アジアの植民地化

19世紀になると、ヨーロッパの産業革命を背景に、植民地は単なる香辛料や奢侈品の供給地としてだけでなく、工業製品の市場、そして工業原料の供給地として、より重要な意味を持つようになります。この帝国主義の時代、東南アジアのほぼ全域が、ヨーロッパ列強の植民地として分割されていきました。

  • イギリス: インド支配の安全保障と、中国への交易ルート確保の観点から、マレー半島とミャンマー(ビルマ)を植民地化しました。シンガポール、ペナン、マラッカを海峡植民地とし、マレー半島ではゴムや錫のプランテーション経営を、ビルマでは米の生産を強制しました。
  • オランダ: 19世紀を通じて、ジャワ島だけでなく、スマトラ島、ボルネオ島、スラウェシ島など、現在のインドネシアの領域全体に支配を広げました(オランダ領東インド)。ジャワでは、コーヒーやサトウキビなどの商品作物を強制的に栽培させる「強制栽培制度」を導入し、本国に莫大な利益をもたらしましたが、現地農民の生活は著しく困窮しました。
  • フランス: カトリック宣教師の保護を口実にベトナムに出兵し、清仏戦争を経て、ベトナム、カンボジア、ラオスを合わせたフランス領インドシナ連邦を成立させました。
  • スペイン・アメリカ: 16世紀からフィリピンを支配していたスペインは、19世紀末の米西戦争でアメリカに敗れ、フィリピンはアメリカの植民地となりました。
  • タイの独立維持: このような列強による分割の中で、タイ(シャム)だけは、イギリス領ビルマ・マレーとフランス領インドシナの間に位置する「緩衝国」として、また、チャクリ朝の巧みな近代化政策(ラーマ4世、5世)によって、東南アジアで唯一、独立を維持することができました。

10.5. 植民地支配の影響

ヨーロッパ列強による植民地支配は、この地域の社会と経済に深刻かつ長期的な影響を及ぼしました。

  • モノカルチャー経済: 植民地は、宗主国の産業に必要な特定の商品作物(ゴム、砂糖、コーヒーなど)や鉱物資源(錫など)を生産することに特化させられ、自給自足的な伝統経済は破壊されました。このモノカルチャー経済構造は、独立後も多くの国を悩ませることになります。
  • インフラ整備と搾取: 鉄道や港湾などのインフラが整備されましたが、それはあくまで植民地からの資源の収奪を効率化するためのものでした。
  • 人為的な国境線: 列強は、現地の民族や文化の分布を無視して、自らの都合で国境線を引きました。これが、独立後の多くの国々で、国境紛争や民族対立の原因となりました。
  • 民族主義の覚醒: 一方で、共通の支配者に対する抵抗を通じて、近代的な「民族」意識が芽生え、20世紀の独立運動へと繋がっていくという側面もありました。

大航海時代に始まったヨーロッパ勢力の進出は、数世紀をかけて、南アジア・東南アジアが数千年にわたって築き上げてきた独自の歴史世界を、ヨーロッパを中心とする新たな世界システム(世界資本主義)の中に、従属的な形で組み込んでいく過程であったと言えるのです。

Module 9:東南アジア・南アジアの総括:文化の十字路—受容と変容のダイナミズム

本モジュールで探求してきた南アジア・東南アジアの歴史は、一つの壮大な物語を我々に提示します。それは、この地域が単なる文明の受容者ではなく、常に外来の文化を主体的に選択し、自らの伝統と融合させ、そしてより豊かで新しい独自の文化を創造してきた、ダイナミックな「文化の十字路」であったという物語です。

インダス文明という謎多き源流から始まり、アーリヤ人の進入によって形成されたバラモン教の秩序。それに対する内省的な挑戦として生まれた仏教とジャイナ教。これらの宗教的・思想的基盤の上に、マウリヤ朝による初の政治的統一が成し遂げられ、アショーカ王のダルマの理念が後の統治の理想像を示しました。そしてグプタ朝の時代、ヒンドゥー教という巨大な文化的統合体が形成され、インド古典文化は黄金期を迎えます。

このインドで培われた豊潤な文化は、交易の道を通じて東南アジアへと波及し、「インド化」という平和的な文化伝播によって、アンコール=ワットやボロブドゥールに象徴される壮麗な文明の華を咲かせました。続いてイスラームの波がこの地を覆い、既存の文化層の上に新たな信仰と生活様式を重ね、地域の多元性をさらに深めました。一方、インド本土では、イスラーム勢力の支配がデリー=スルタン朝として確立され、ヒンドゥー文化との長い対峙と融合の時代が始まります。その中で、ヴィジャヤナガル王国は南インドにおけるヒンドゥー文化の最後の砦として輝きを放ちました。

しかし、大航海時代と共に到来したヨーロッパ勢力は、この数千年にわたるアジア内部の緩やかで重層的な文化交流の歴史に、武力と経済による非対称な関係性を持ち込み、地域全体を植民地として世界システムに組み込んでいきました。この激動の時代を経て、この地域の国々は独立を達成し、今日、我々が目にする多様で複雑な姿を形成しています。

このモジュールで学んだことは、単なる過去の事実の羅列ではありません。それは、文化がいかにして出会い、変容し、新たな価値を生み出していくのかという普遍的なプロセスを理解するための、そして現代世界の複雑な成り立ちを歴史的に読み解くための、不可欠な知的視座なのです。

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