【基礎 世界史(通史)】Module 5:イスラーム世界の形成
本モジュールの目的と構成
4世紀から6世紀にかけて、古典古代世界の巨大な枠組みが解体されていく中で、ユーラシア大陸の各地では、来るべき中世世界を形作る、新たな文明の胎動が始まっていました。西ヨーロッパがゲルマン民族の侵入によって政治的に分裂し、中国が南北朝の長い分裂を経て隋唐という新たな統一帝国へと向かっていた、まさにその時代。ユーラシアの二つの文明圏の中間に位置する、歴史の空白地帯とも見えたアラビア半島から、世界史の力学を根底から塗り替える、全く新しい普遍的な文明が、燎原の火のごとき勢いで出現します。それが、イスラーム文明です。
本モジュールの目的は、ムハンマドという一人の預言者によってもたらされたアッラーへの絶対的帰依の教えが、いかにしてアラブの諸部族を一つの強固な共同体(ウンマ)へと統合し、その精神的エネルギーが、わずか一世紀のうちに、東はインダス川から西はイベリア半島に至る、空前の大帝国を築き上げる原動力となったのか、その奇跡的なプロセスを解明することにあります。さらに、このイスラーム世界が、単なる軍事帝国にとどまらず、ギリシア・ローマの古典古代の遺産と、ペルシアの高度な帝国統治の伝統を継承・融合させ、独自の輝かしい都市文明と経済圏をいかにして創出したのかを探ります。
この探求は、イスラームという新たな文明の誕生から成熟、そして変容に至る、以下の論理的なステップで構成されています。
- ムハンマドとイスラーム教の創始: まず、すべてが始まった場所、すなわち多神教と部族社会が支配するアラビア半島を舞台に、イスラームという厳格な一神教がいかにして誕生し、その共同体の礎が築かれたのかを探ります。
- 正統カリフ時代とイスラーム世界の拡大: 預言者の死後、後継者(カリフ)たちに率いられたイスラーム共同体が、なぜ、そしていかにして、当時の二大帝国であったビザンツとササン朝ペルシアを打ち破り、驚異的な速度でその版図を拡大していったのか、その要因を分析します。
- ウマイヤ朝とアラブ帝国: イスラーム世界の政治的中心が、聖地からダマスクスへと移り、宗教的共同体が、アラブ人の特権性を基盤とする世襲の「帝国」へと、その性格をいかに変質させていったのかを検証します。
- アッバース朝革命とイスラーム帝国の変容: アラブ第一主義への不満が、帝国のあり方を根本から覆す大革命をいかにして引き起こしたのか、そしてその結果、イスラーム世界が、ペルシアの文化と制度を吸収した、真に国際的なコスモポリタン帝国へといかに変貌を遂げたのかを解き明かします。
- イスラーム世界の都市と経済: バグダードやカイロといった大都市の繁栄を支えた、広域的な交易ネットワークと、進んだ経済システムの実態に迫り、イスラーム文明が本質的に都市文明であったことを明らかにします。
- 後ウマイヤ朝とイベリア半島のイスラーム: イスラーム世界の政治的統一が初めて破られ、イベリア半島に、本家とは異なる独自の華麗な文化(アル=アンダルス)が、いかにして花開いたのかを探ります。
- ファーティマ朝とシーア派の台頭: 預言者の後継者問題を巡る根源的な対立が、いかにしてスンナ派とシーア派という二大宗派を生み、シーア派がエジプトに独自のカリフ国家を樹立するに至ったのか、その思想的背景と歴史的展開を追います。
- トルコ人のイスラーム化とセルジューク朝の台頭: 中央アジアの遊牧民トルコ人が、イスラーム世界の新たな軍事的主役として登場し、カリフからスルタンの称号を得て、政治の実権を握るという、新たな統治の時代がいかにして始まったのかを分析します。
- 十字軍の到来: イスラーム世界の内部的な分裂と、ビザンツ帝国の危機が、西ヨーロッパのキリスト教世界から、聖地回復を掲げる大規模な軍事遠征(十字軍)をいかにして呼び寄せたのか、その背景を探ります。
- アイユーブ朝とサラディン: 十字軍という外圧に対し、分裂していたイスラーム世界が、サラディンという英雄の下でいかに再結集し、聖地イェルサレムを奪還するに至ったのか、その劇的な攻防を描きます。
本モジュールを学び終える時、あなたは、イスラームという文明が、古代末期の世界に誕生した第三の普遍的文明として、いかにユーラシア大陸の中央部を一つに結びつけ、その後の世界史の展開に決定的な影響を与えたかを、深く理解しているはずです。
1. ムハンマドとイスラーム教の創始
7世紀初頭のアラビア半島。その大部分は、厳しい乾燥気候に覆われた砂漠とステップ地帯であり、人々はベドウィンと呼ばれる遊牧民として、ラクダや羊の群れを率いて、オアシスからオアシスへと移動する生活を送っていました。彼らの社会の基本単位は、血縁に基づく「部族」であり、政治的には統一されることなく、部族間の抗争や襲撃が絶え間なく繰り返される、分裂と混乱の時代(ジャーヒリーヤ=無明時代)にありました。しかし、この半島の西岸、紅海沿いを走る隊商路(キャラバンルート)の上には、いくつかの都市が点在し、国際交易の中継地として繁栄していました。その中でも、メッカは、最も重要な商業都市であり、同時に、アラブの神々を祀る多神教信仰の中心地でもありました。このメッカの地で、後に世界の歴史を大きく変えることになる一人の人物、ムハンマドが生まれ、新たな宗教、イスラーム教が創始されることになります。
1.1. 啓示以前:ジャーヒリーヤ時代のメッカ
当時のメッカの繁栄は、二つの柱によって支えられていました。
- 商業の中心: メッカは、南のアラビア半島南部(イエメン地方)で産出される香辛料と、北のビザンツ帝国や地中海世界の工業製品を結ぶ、重要な隊商貿易の中継点でした。この交易を支配していたのが、メッカの有力部族であるクライシュ族でした。
- 宗教の中心: メッカの中心部には、カアバ神殿と呼ばれる立方体の聖殿があり、その内部には、アラブの各部族が崇拝する360もの偶像(聖像)が祀られていました。アラビア半島各地から、多くの人々がこのカアバ神殿へ巡礼に訪れ、巡礼期間中は部族間の争いも休戦となる「聖月」が設けられていました。この宗教的な権威は、メッカに安全と、莫大な経済的利益をもたらしていました。
しかし、この商業的な繁栄は、同時に深刻な社会の歪みも生み出していました。富は、クライシュ族の有力商人たちの手に集中し、貧富の差は拡大しました。血縁共同体の絆は弱まり、部族の伝統であった、弱者(孤児、寡婦、貧者)を保護するという美徳は失われ、人々は金銭欲と個人主義に走り、社会は道徳的に退廃していました。
また、宗教的にも、アラビア半島は、ビザンツ帝国から伝わったキリスト教や、ユダヤ人のコミュニティを通じて伝わったユダヤ教の影響を受け、伝統的な多神教の偶像崇拝に対する疑問と、唯一絶対の神への信仰という、一神教への関心が高まりつつありました。
1.2. ムハンマドの召命とイスラームの教え
ムハンマド(マホメット)は、570年頃、このメッカで、クライシュ族のハーシム家に生まれました。しかし、彼は早くに両親を亡くし、不遇な少年時代を過ごします。やがて、裕福な寡婦であったハディージャの隊商の仕事に携わるようになり、その誠実さを認められて彼女と結婚し、安定した生活を得ました。
思索家であったムハンマドは、メッカ社会の道徳的退廃に深く悩み、しばしばメッカ郊外のヒラー山の洞窟に籠って、瞑想にふける習慣がありました。610年のある夜、彼が40歳の時、この洞窟で瞑想していると、突如として大天使ジブリール(ガブリエル)が現れ、彼に神の言葉を告げました。これが、イスラームにおける最初の「啓示」です。
ムハンマドは、その後、約23年間にわたって、繰り返し神からの啓示を受け続けます。彼が神から授かったこれらの言葉をまとめたものが、イスラーム教の唯一無二の聖典である『クルアーン(コーラン)』です。
ムハンマドが説いた教えの核心は、極めて明快で、徹底したものでした。
- 唯一神アッラー: 宇宙を創造し、すべてを支配する、唯一絶対の神「アッラー」のみを崇拝せよ。アッラーの他に神はなく、いかなるものも神と並べて崇拝してはならない(偶像崇拝の徹底的な否定)。
- 最後の審判: この世の終わりには、すべての死者が復活させられ、生前の行いに基づいて、神による「最後の審判」が下される。善行を積んだ者は永遠の天国(楽園)へ、悪行を重ねた者は地獄の業火へと送られる。
- 六信五行(ろくしんごぎょう): イスラーム教徒(ムスリム)が信じ、実践すべき、基本的な信仰箇条と義務。
- 六信(信じるべきもの): アッラー、天使、聖典(クルアーンなど)、預言者(ムハンマドなど)、来世、天命。
- 五行(実践すべき義務): 信仰告白(シャハーダ)、礼拝(サラート、1日5回メッカの方向に向かって祈る)、喜捨(ザカート、貧者への施し)、断食(ラマダーン月の断食)、巡礼(ハッジ、一生に一度はメッカへ巡礼する)。
「イスラーム」とは、「(神の意志に)絶対的に服従・帰依すること」を意味し、その信徒である「ムスリム」とは、「帰依する者」を意味します。ムハンマドは、自らを、アブラハムやモーセ、イエスに続く、最後の、そして最大の預言者であると位置づけました。
1.3. 迫害と聖遷(ヒジュラ):ウンマの誕生
ムハンマドは、まず近親者から布教を始め、やがて公然と、メッカの市民に、偶像崇拝をやめ、唯一神アッラーに帰依するよう、そして、富める者は貧しい者に施しを行うべきであるという、社会正義の回復を訴えました。
しかし、彼の教えは、メッカの支配者層であるクライシュ族の有力者たちから、猛烈な反発と迫害を受けます。その理由は、二つありました。
- 経済的打撃: ムハンマドの偶像崇拝の否定は、カアバ神殿の宗教的権威を根底から覆すものでした。もしメッカの民がイスラームに改宗すれば、カアバ神殿への巡礼者は途絶え、メッカの商業的繁栄の基盤そのものが崩壊してしまう恐れがありました。
- 社会的脅威: イスラームが説く、アッラーの前での人間の平等という教えは、従来の部族や家柄に基づく、階層的な社会秩序を破壊する、危険な思想と見なされました。
迫害は日に日に激しくなり、ムハンマドの身にも危険が迫りました。この絶体絶命の状況の中で、彼は、北方のオアシス都市ヤスリブ(後のメディナ)の住民から、自分たちの調停者として来てほしいとの招きを受け、重大な決断を下します。
622年、ムハンマドは、少数の信者と共に、迫害の厳しいメッカを脱出し、ヤスリブへと移住しました。この出来事を「ヒジュラ(聖遷)」と呼びます。この622年という年は、後にイスラーム暦(ヒジュラ暦)の元年とされる、イスラーム史における最も重要な転換点です。
ヒジュラの意義は、単なる移住にとどまりません。メッカでは、ムスリムは迫害される少数派に過ぎませんでした。しかし、メディナに移ったムハンマドは、そこで、従来の血縁的な部族の絆を超えた、**アッラーへの信仰のみによって結ばれた、新しい共同体「ウンマ」**を創設しました。彼は、単なる預言者から、ウンマを導く政治的指導者、軍事司令官、そして立法者としての役割をも担うことになります。ここに、イスラームは、単なる個人の信仰から、社会と国家の原理へと、その姿を変えたのです。
メディナでウンマを固めたムハンマドは、その後、メッカのクライシュ族との間に、数年にわたる戦いを繰り広げます。そして630年、ついにムハンマドは、メッカをほぼ無血で征服し、カアバ神殿にあった360の偶像をすべて破壊して、そこを唯一神アッラーを祀る、イスラーム最高の聖地として清めました。彼の死(632年)までに、アラビア半島のほとんどの部族が、イスラームのウンマに加わり、その旗の下に統一されることになったのです。
2. 正統カリフ時代とイスラーム世界の拡大
632年、アラビア半島の統一を目前にして、預言者ムハンマドが後継者を指名することなく急逝すると、誕生したばかりのイスラーム共同体(ウンマ)は、その存続を揺るがす、最初の、そして最大の危機に直面しました。ウンマを、誰が、どのようにして導いていくのか。この後継者問題を巡る議論の中から、「カリフ(後継者)」という指導者の地位が創設され、最初の四代のカリフの時代が始まります。この時代は、後のムスリムたちによって、預言者の精神が最も正しく実践された理想の時代として、「正統カリフ時代」(632年~661年)と呼ばれています。そして、このわずか30年の間に、アラビア半島の砂漠から出たイスラームの軍勢は、破竹の勢いで、当時の世界の二大帝国であったビザンツ帝国とササン朝ペルシアを打ち破り、東はイラン高原から西はエジプトに至る広大な領域を征服するという、世界史上の奇跡ともいえる大膨張を成し遂げたのです。
2.1. 後継者問題とカリフの選出
ムハンマドは、自らを「最後の預言者」と位置づけていたため、彼に続く預言者が現れることはあり得ませんでした。そのため、ウンマの指導者は、預言者としてではなく、あくまでウンマの政治的・軍事的な指導者、そして信仰の守護者として、その役割を担うことになります。
ムハンマドの死後、ウンマの有力者たちは協議(シューラー)の結果、ムハンマドの最も親しい教友であり、最初の男性信者の一人であったアブー=バクルを、初代カリフとして選挙で選び出しました。彼は、ムハンマドの死に乗じてウンマから離反しようとしたアラビア半島内の諸部族を、リッダ(背教)の戦いと呼ばれる一連の戦争で再征服し、ウンマの再統一を成し遂げました。
アブー=バクルに続く、第2代、第3代、第4代のカリフも、いずれもムハンマドの初期からの信者であり、彼と個人的に深い関わりのあった、ウンマの有力者の中から、選挙あるいは指名によって選ばれました。
- 第2代 ウマル: イスラーム帝国の基礎を築いた、最も有能な指導者。
- 第3代 ウスマーン: クルアーンの正典を編纂したが、縁故登用が批判され、暗殺される。
- 第4代 アリー: ムハンマドの従弟であり、娘婿。彼のカリフ就任を巡って、ウンマは最初の内乱(フィトナ)に陥る。
この四人のカリフを、スンナ派のイスラーム教徒は、「正統カリフ(ラーシドゥーン)」として、特別な敬意を払っています。
2.2. 大征服(フトゥーフ)の時代とその要因
ウンマの再統一を成し遂げたイスラーム共同体は、その有り余る宗教的情熱と軍事的エネルギーを、アラビア半島の外へと向け始めます。特に、第2代カリフ、ウマルの時代(634年~644年)に、イスラーム軍は驚異的な大征服を成し遂げました。
- ビザンツ帝国との戦い: 636年のヤルムークの戦いでビザンツ帝国軍に決定的勝利を収め、イスラーム世界の揺りかごともいえるシリアとパレスチナを征服。638年には、聖地イェルサレムを占領しました。
- ササン朝ペルシアの征服: 642年のニハーヴァンドの戦いでササン朝ペルシア軍の主力を壊滅させ、651年には、帝国を完全に滅亡させて、その広大な領土(メソポタミア、イラン高原)を併合しました。
- エジプトの征服: 642年には、西方のビザンツ帝国の最も豊かな属州であったエジプトをも征服しました。
なぜ、アラビア半島の砂漠から出てきたばかりの、数も装備も劣るアラブの軍隊が、これほど短期間に、二つの大帝国を打ち破ることができたのでしょうか。その要因は、複合的なものでした。
- イスラームによる精神的統一: イスラームという新しい信仰が、それまでバラバラであったアラブの諸部族に、共通の目的と、強烈な一体感を与えました。神のために戦うという宗教的情熱(ジハード、奮闘努力)と、殉教すれば天国に行けるという信仰が、彼らを恐れ知らずの戦士にしました。
- 二大帝国の疲弊: ビザンツ帝国とササン朝ペルシアは、イスラームが出現する直前まで、数十年にわたる、互いの国力を消耗し尽くすような大規模な戦争を繰り返していました。イスラーム軍が侵攻してきた時、両帝国は、政治的にも軍事的にも、極度に疲弊した状態にあったのです。
- 被征服民の協力: ビザンツ帝国領内のシリアやエジプトでは、ギリシア正教の教会から異端とされて迫害されていた、単性論派などのキリスト教徒が、多数を占めていました。彼らにとって、ビザンツ帝国の支配は重税と宗教的抑圧の象徴であり、イスラーム教徒の支配を、むしろ解放として歓迎する向きもありました。
- 経済的動機: 戦争に参加するアラブの兵士たちには、征服地で得られる戦利品(ガニーマ)が分配されるという、極めて現実的な経済的動機もありました。
2.3. 征服地の統治政策
イスラーム共同体は、広大な征服地と、そこに住む多数の非アラブ・非ムスリムの住民を、どのように統治したのでしょうか。ウマルの時代に確立された統治の基本方針は、極めて現実的で、寛容なものでした。
- ミスル(軍営都市)の建設: アラブの兵士たちは、征服地に広く分散して定住するのではなく、バスラ、クーファ(メソポタミア)、フスタート(エジプト、後のカイロ)といった、ミスルと呼ばれる新しい軍営都市に、集団で居住しました。これにより、彼らの軍事力を維持し、被征服民との無用な摩擦を避けることが意図されました。
- 寛容な宗教政策: イスラームは、キリスト教徒やユダヤ教徒を、同じ啓典(旧約・新約聖書)を共有する「啓典の民(アフル・アル=キターブ)」として、一定の敬意を払いました。彼らは、イスラームの支配下で、その信仰と生命、財産を保護される「ズィンミー(被保護民)」として扱われました。
- 税制(ジズヤとハラージュ): その保護の代償として、ズィンミーの成人男性は、人頭税であるジズヤを支払う義務を負いました。また、彼らが所有する土地には、地租であるハラージュが課せられました。これらの税収は、アラブの戦士たちへの給与(アター)として分配され、イスラーム国家の財政基盤となりました。アラブのムスリムは、これらの税を免除されていました。
この統治政策は、被征服民の生活や社会構造を大きく変えることなく、その上にアラブの支配層が君臨するという、比較的穏健なものであり、大征服の成功を支える重要な要因となりました。
2.4. ウンマの分裂:スンナ派とシーア派の起源
しかし、この輝かしい大征服の時代は、ウンマの内部に、深刻な亀裂を生み出すことにもなりました。第3代カリフ、ウスマーンが、自らの一族であるウマイヤ家を贔屓する縁故主義的な政治を行ったとして、不満を抱いた勢力によって暗殺されると、ウンマは、その後継者を巡って、最初の内乱(フィトナ)へと突入します。
後継者として選ばれたのは、ムハンマドの従弟で娘婿のアリーでした。しかし、ウスマーンと同じウマイヤ家出身で、シリア総督であったムアーウィヤが、ウスマーンの暗殺の責任を問い、アリーのカリフ就任に公然と反旗を翻しました。
このアリーとムアーウィヤの対立の中で、イスラーム共同体は、三つの派閥に分裂しました。
- シーア派: 「アリーの党派(シーア・アリー)」を意味する。彼らは、ウンマの指導者(イマーム)は、選挙で選ばれるべきではなく、預言者ムハンマドの血筋を引く、アリーとその子孫のみが、その神聖な資格を持つと主張しました。
- ハワーリジュ派: 当初はアリーを支持したが、アリーがムアーウィヤとの争いを仲裁に委ねたことを、「神の決定を人間の判断に委ねた不信仰」として、アリーから離反した、極めて厳格な派閥。「ムスリムであっても、大罪を犯した者は不信仰者である」と主張した。
- スンナ派: 上記の二つの派閥に属さない、ムスリムの最大多数派。彼らは、預言者の言行(スンナ)と、共同体の合意(イジュマー)を重んじ、アリーを含む最初の四代の正統カリフの正当性を、すべて認める立場をとります。
661年、アリーがハワーリジュ派の刺客によって暗殺されると、ムアーウィヤがカリフとなり、ウマイヤ朝を創始します。これにより、選挙によってカリフが選ばれた「正統カリフ時代」は終わりを告げました。しかし、この時に生じた、後継者の資格を巡るスンナ派とシーア派との間の根本的な対立は、その後1400年にわたって、イスラーム世界の歴史と政治を動かす、最も根源的で、時として血塗られた対立軸として、存続していくことになるのです。
3. ウマイヤ朝とアラブ帝国
第4代正統カリフ、アリーの暗殺(661年)と、その政敵であったシリア総督ムアーウィヤのカリフ就任は、イスラーム世界の歴史における、大きな分水嶺でした。ムアーウィヤは、それまでの選挙によるカリフ選出の慣行を廃し、自らの息子を後継者に指名することで、カリフ位の世襲化を確立しました。ここに、ウマイヤ朝(661年~750年)が始まります。この王朝の成立によって、イスラーム世界のあり方は、根本的な変質を遂げました。政治の中心は、預言者の故地であるアラビア半島の宗教都市メディナから、より地政学的に重要な、シリアのダマスクスへと移されました。そして、信仰によって結ばれた宗教共同体(ウンマ)としての性格は後退し、征服者であるアラブ人が、広大な領土と多数の非アラブの被征服民を支配する、世俗的で、軍事的な「アラブ帝国」としての性格を、色濃くしていくことになります。ウマイヤ朝の時代は、イスラーム世界がその版図を最大に広げた、輝かしい征服の時代であると同時に、その内部に、やがて自らを滅ぼすことになる、深刻な社会的矛盾を胚胎させた時代でもありました。
3.1. 世襲王朝の成立と統治体制の整備
ウマイヤ朝を創始したムアーウィヤは、極めて有能で、現実的な政治家でした。彼は、アリーとの内乱で分裂したウンマを再統合し、安定した統治の基盤を築くため、いくつかの重要な改革を行いました。
- 首都の移転: 彼は、自らの権力基盤であり、ビザンツ帝国との戦いの最前線でもある、シリアのダマスクスを、帝国の新たな首都と定めました。この遷都は、イスラーム国家が、もはやアラビア半島内部の問題だけでなく、より広大なオリエント世界の覇権を担う、帝国へと変貌したことを象徴する出来事でした。
- 官僚機構の整備: 広大な帝国を効率的に統治するため、ムアーウィヤは、先進的な行政システムを持っていたビザンツ帝国の官僚制度を積極的に導入しました。ギリシア語やペルシア語を話す、キリスト教徒の官僚が、そのまま財務や書記の職務に留任され、帝国の行政実務を支えました。
- カリフ位の世襲化: 彼の最も重要な「改革」は、自らの息子ヤズィードを後継者に指名し、カリフの地位をウマイヤ家による世襲王朝としたことでした。これは、イスラームの共同体の長は、合議によって選ばれるべきであるという、初期の理想とは相容れないものであり、多くの敬虔なムスリム、特にシーア派の強い反発を招きました。680年には、アリーの次男であるフサインが、ヤズィードのカリフ位継承に反対してクーファで挙兵しましたが、カルバラーの地でウマイヤ朝軍に包囲され、壮絶な殉教を遂げました。この「カルバラーの悲劇」は、シーア派の信徒たちに、深い悲しみと、ウマイヤ朝に対する消えることのない憎しみを刻み込み、彼らの宗教的アイデンティティを決定づける事件となりました。
3.2. 征服活動の再開と最大版図の実現
国内の基盤を固めたウマイヤ朝は、正統カリフ時代に始まった征服活動を、さらに推し進めました。第5代カリフ、アブド=アルマリクとその息子ワリード1世の治世に、帝国はその最大版図に達します。
- 西方への拡大: イスラーム軍は、北アフリカ(マグリブ地方)の先住民ベルベル人を征服・イスラーム化しながら西進を続け、711年、ジブラルタル海峡を渡って、イベリア半島に上陸しました。当時この地を支配していた西ゴート王国を、わずか数年で滅ぼし、その支配を確立しました。さらに、ピレネー山脈を越えてフランク王国領内に侵入しましたが、732年、トゥール・ポワティエ間の戦いで、フランク王国の宮宰(きゅうさい)カール=マルテルに敗れ、西ヨーロッパへの進出は、ここで食い止められました。
- 東方への拡大: 中央アジア方面では、アム川を越えて、ソグディアナ地方(現在のウズベキスタン周辺)を征服しました。さらに東へと進んだイスラーム軍は、751年、中央アジアの覇権を巡って、当時、西域に勢力を伸ばしていた中国の唐王朝の軍隊と、タラス河畔で激突しました。このタラス河畔の戦いで、イスラーム軍は唐軍に勝利し、中央アジアにおけるイスラームの支配を決定づけました。この戦いの際に、捕虜となった唐の製紙職人から、製紙法がイスラーム世界へと伝わったことは、文化史上、極めて重要な出来事でした。
この結果、ウマイヤ朝の支配領域は、西はイベリア半島から東は中央アジア・インダス川流域に至る、ユーラシアとアフリカの三大陸にまたがる、空前の大帝国となりました。
3.3. アラブ第一主義とその矛盾
この広大な多民族・多宗教帝国を、ウマイヤ朝は、どのように統治したのでしょうか。その統治の基本方針は、「アラブ第一主義」と要約することができます。
- アラブ人の特権: ウマイヤ朝の社会では、征服者であるアラブ人のムスリムが、明確な支配階級として、政治的・経済的なあらゆる特権を享受していました。彼らは、軍人として給与(アター)を受け取り、ジズヤ(人頭税)やハラージュ(地租)を免除されていました。
- 非アラブ人(マワーリー)への差別: 征服が進むにつれて、イラン人、エジプト人(コプト人)、ベルベル人といった、多くの被征服民が、自発的にイスラームに改宗しました。これらの非アラブ人の改宗者は、「マワーリー」と呼ばれました。イスラームの教えによれば、すべてのムスリムは、民族に関係なく平等であるはずでした。しかし、ウマイヤ朝の治下では、マワーリーは、アラブ人ムスリムと同等とは見なされず、二級市民として扱われました。最も大きな不満の原因は、彼らがイスラームに改宗した後も、ズィンミー(被保護民)と同様に、ジズヤの支払いを義務付けられたことでした。
- 行政のアラブ化: 第5代カリフ、アブド=アルマリクは、帝国の統治を強化するため、一連の改革を行いました。それまで行政用語として使われていたギリシア語やペルシア語を廃し、公用語をアラビア語に統一しました。また、ビザンツ様式やササン朝様式を模倣した、ディーナール金貨やディルハム銀貨に代わり、クルアーンの章句が刻まれた、独自のイスラーム様式の貨幣を鋳造しました。これらの政策は、帝国の統一性を高める上で効果がありましたが、それは同時に、帝国の「アラブ化」を推し進め、アラブ人と非アラブ人との間の文化的な亀裂を深めるものでもありました。
3.4. 矛盾の噴出とウマイヤ朝の滅亡
ウマイヤ朝のアラブ第一主義は、帝国の基盤そのものを揺るがす、深刻な矛盾を内包していました。
- 財政問題: もし、すべてのズィンミーがイスラームに改宗してマワーリーとなり、ジズヤの支払いを免除されるならば、帝国の財政は破綻してしまいます。そのため、ウマイヤ朝は、マワーリーにもジズヤを課し続けるという、教義に反する政策をとらざるを得ませんでした。
- マワーリーの不満: イスラームの平等の教えを信じて改宗したにもかかわらず、差別され、重税を課せられるマワーリーたちの間には、ウマイヤ朝に対する強い不満と憎悪が蓄積されていきました。特に、かつてササン朝ペルシアの高い文明を誇っていたイラン人マワーリーの不満は、深刻でした。
- シーア派やハワーリジュ派の反乱: アリーの一族こそが正統な指導者であると信じるシーア派や、ウマイヤ朝を不信仰な世俗王朝と見なすハワーリジュ派も、帝国内で絶えず反乱を繰り返していました。
これらの、抑圧されたマワーリー、シーア派、そしてウマイヤ家のライバルであったアッバース家といった、様々な反ウマイヤ朝勢力が、やがて一つに結集します。特に、イラン東部のホラーサーン地方が、その革命運動の拠点となりました。747年、アッバース家の指導者たちは、この地で、「ムハンマド家の一員をカリフに」というスローガンを掲げて、大規模な反乱の狼煙を上げました。この「アッバース朝革命」の黒い旗の下に、不満を抱えた人々が雲集し、その勢いは、ウマイヤ朝の打倒へと向かう、巨大なうねりとなっていったのです。
4. アッバース朝革命とイスラーム帝国の変容
ウマイヤ朝が敷いたアラブ第一主義は、イスラームの平等の教えと、帝国の現実との間に、修復不可能なほどの深い亀裂を生み出していました。特に、改宗してもなお二級市民として扱われ、重税を課せられた非アラブ人ムスリム(マワーリー)の不満は、帝国の東方、かつてのササン朝ペルシアの故地であったイラン高原で、マグマのように蓄積されていました。この燻る不満に火をつけ、巧みに組織化して、ウマイヤ朝を打倒する巨大な革命勢力へと転換させたのが、預言者ムハンマドの叔父アッバースの子孫であると主張する、アッバース家でした。750年に成就したこの「アッバース朝革命」は、単なる王朝の交替劇ではありませんでした。それは、イスラーム世界のあり方を、アラブ人のための征服帝国から、あらゆる民族のムスリムが平等に参加する、真に国際的でコスモポリタンな「イスラーム帝国」へと、その性格を根本的に変容させる、歴史的な大転換でした。
4.1. 革命の背景と担い手
アッバース朝革命の成功は、いくつかの異なる不満分子が、「打倒ウマイヤ朝」という一点で、戦略的に結びついた結果でした。
- マワーリーの不満: 革命の最大の原動力となったのが、ウマイヤ朝の差別政策に苦しんでいた、イラン人を中心とするマワーリーでした。彼らは、イスラームの教えに基づいた、真の平等な社会の実現を夢見て、革命運動の中核を担いました。
- シーア派の期待: アッバース家は、革命の初期段階では、自らの家系の名を前面に出さず、「預言者の一族(アフル・アル=バイト)を指導者に」という、曖昧で、しかしシーア派の心に響くスローガンを掲げました。これにより、ウマイヤ朝に「カルバラーの悲劇」の恨みを抱く多くのシーア派が、この運動を支持しました。彼らは、革命が成功すれば、アリーの子孫がカリフ(イマーム)になると期待していたのです。
- アッバース家の野心: ウマイヤ家と同じクライシュ族の有力な一門であったアッバース家は、巧みなプロパガンダと秘密組織を駆使して、これらの不満分子をまとめ上げ、自らがカリフ位に就くための、周到な計画を進めていました。
革命運動の震源地となったのは、アラブ人入植者と、イスラームに改宗したイラン人との間の緊張が高まっていた、イラン東部のホラーサーン地方でした。この地で、アッバース家の有能な部将アブー=ムスリムが、747年に黒い旗を掲げて蜂起すると、反乱は燎原の火のごとく広がり、イラン高原を席巻しました。そして750年、革命軍は、チグリス川の支流であるザーブ川の戦いでウマイヤ朝の軍隊に決定的勝利を収め、ウマイヤ朝を滅亡に追い込みました。
革命が成功すると、アッバース家は、シーア派の期待を裏切り、自らの一族から初代カリフ、アブー=アルアッバースを擁立しました。そして、ウマイヤ朝の一族を、ただ一人イベリア半島へ逃れた者を除いて、徹底的に殺戮し、その支配の根を絶やしたのです。
4.2. 新首都バグダードと帝国の変容
アッバース朝の成立は、イスラーム帝国の重心を、シリアのダマスクスから、メソポタミア(イラク)へと、完全に移動させました。第2代カリフ、マンスールは、762年、チグリス川のほとりに、壮大な円形の計画都市を建設し、ここを帝国の新たな首都と定めました。この都市は、「平安の都」を意味する「マディーナ・アッ=サラーム」、通称「バグダード」と名付けられました。
このバグダードへの遷都は、帝国の性格の変容を、象徴的に示しています。
- 脱アラブ化と国際化: バグダードは、かつてのササン朝ペルシアの首都クテシフォンのすぐ近くに位置していました。この地を首都に選んだこと自体が、アッバース朝が、シリアのアラブ的な伝統から離れ、ペルシアの高度な文明と、その帝国の伝統を継承する意志の表れでした。
- ムスリム平等の原則: アッバース朝は、ウマイヤ朝のアラブ第一主義を放棄し、アラブ人と非アラブ人(マワーリー)のムスリムを、原則として平等に扱うことを国是としました。マワーリーからもジズヤの徴収は廃止され、イラン人などの非アラブ人が、能力さえあれば、帝国の官僚や軍人として、高位の職に就く道が開かれました。
- ペルシア的官僚制の導入: アッバース朝の統治システムは、ササン朝ペルシアの制度を色濃く反映していました。カリフの権力は、絶対的なものとなり、神の影として、臣民から隔絶された壮麗な宮殿の奥深くに君臨する、専制君主へと変貌しました。行政の最高責任者として、ペルシア語起源の官職である「ワズィール(宰相)」が置かれ、バルマク家などのイラン系の名門一族が、この職を世襲して、帝国の行政を牛耳りました。
こうして、アッバース朝の下で、イスラーム帝国は、特定の民族(アラブ人)の支配する国家から、イスラームという共通の信仰と、アラビア語という共通の言語の下に、多様な民族が共存する、真の「世界帝国(イスラーム帝国)」へと、その姿を昇華させたのです。
4.3. イスラーム文化の黄金時代
この政治的・社会的な変革は、文化の面でも、前例のない輝かしい成果を生み出しました。特に、第5代カリフ、ハールーン=アッラシード(在位:786年~809年)の治世は、『千夜一夜物語(アラビアンナイト)』のモデルとしても知られる、アッバース朝の最盛期であり、イスラーム文化の最初の黄金時代でした。
バグダードは、人口100万を数える、世界最大の国際都市として繁栄し、東西から文物と知識が集まりました。第7代カリフ、マームーンは、バグダードに、国家的な翻訳・研究機関である「知恵の館(バイト・アル=ヒクマ)」を設立しました。ここでは、ギリシア語、シリア語、ペルシア語、サンスクリット語など、様々な言語で書かれた、古代世界の学術書が、アラビア語へと、組織的に翻訳されました。
- ギリシア哲学・科学の継承: プラトンやアリストテレスの哲学、エウクレイデス(ユークリッド)の幾何学、プトレマイオスの天文学、ガレノスの医学といった、ギリシアの偉大な知的遺産が、アラビア語に翻訳され、イスラームの学者たちによって研究され、さらに発展させられました。これらの知識は、後にイスラーム世界を経由して、中世ヨーロッパへと再輸入され、ルネサンスの知的覚醒を促す、重要な触媒となります。
- インド・ペルシア文化の融合: インドからは、ゼロの概念と十進法(アラビア数字)が伝わり、代数学(アルジェブラ)の発展の基礎となりました。ペルシアからは、文学や歴史学、宮廷文化が、豊かな彩りを加えました。
アッバース朝革命は、イスラーム世界の主役を、砂漠の戦士から、都市に住む知識人、官僚、商人へと交代させました。そして、彼らが、多様な文明の遺産を、イスラームという坩堝(るつぼ)の中で見事に融合させることで、人類史における、最も創造的で、輝かしい文化の黄金時代の一つを、現出させたのです。
5. イスラーム世界の都市と経済
アッバース朝革命を経て、アラブ人のための征服帝国から、多様な民族が共存するコスモポリタンなイスラーム帝国へと変貌を遂げたイスラーム世界。その文明の輝きは、何よりも、バグダード、カイロ、コルドバといった、壮麗な大都市の繁栄の中に、最も鮮やかに体現されていました。キリスト教ヨーロッパが、ローマ帝国の崩壊後、閉鎖的な農村社会へと後退していったのとは対照的に、イスラーム文明は、本質的に都市の文明でした。これらの都市は、単に多くの人々が住む場所というだけではなく、広大なイスラーム世界を結ぶ、政治、宗教、文化、そして何よりも経済活動の中心として、ダイナミックに機能していました。イスラーム法(シャリーア)という共通のルールと、アラビア語という共通の言語の下で、東は中国、西はイベリア半島までをも結ぶ、巨大な交易ネットワークが形成され、その活発な商業活動が、イスラーム世界の富と繁栄の、力強いエンジンとなったのです。
5.1. 都市の構造:モスク、スーク、そして知識
イスラーム世界の都市は、その規模や地域の特色にかかわらず、いくつかの共通した構造を持っていました。
- ジャーミー(金曜モスク): 都市の中心には、必ずジャーミーと呼ばれる、大規模なモスクが存在しました。モスクは、単に礼拝を行う場所というだけではありません。毎週金曜日の集団礼拝では、地域の指導者(イマーム)が、説教(フトバ)を行い、カリフの名において祈りを捧げることで、共同体の結束と、為政者への忠誠を確認する、重要な政治的・社会的な場でもありました。また、モスクは、法学や神学が教えられる、高等教育機関としての役割も担っていました。
- スーク(市場): ジャーミーの周辺には、スーク(あるいはペルシア語でバザール)と呼ばれる、活気に満ちた市場が、迷路のように広がっていました。スークには、同業者の組合(ギルド)ごとに、香辛料、織物、金属製品、書籍など、ありとあらゆる種類の商品を扱う店が軒を連ね、イスラーム世界の隅々から、さらには世界の果てから集まった人々で、常に賑わっていました。預言者ムハンマド自身が商人であったこともあり、イスラームでは、公正な商業活動は、神に喜ばれる、正当で尊い営みであると考えられていました。
- マドラサ(学院)と図書館: アッバース朝時代以降、都市には、イスラームの諸学問を教えるための、高等教育機関であるマドラサが、数多く設立されました。また、バグダードの「知恵の館」に代表されるように、多くの図書館が作られ、知識の集積と普及の中心となりました。紙の製法がタラス河畔の戦い(751年)を経て中国から伝わると、安価で良質な紙が大量に生産されるようになり、書籍の製作と流通が、飛躍的に活発になりました。
この他、都市には、カリフや総督の宮殿、公衆浴場(ハンマーム)、隊商宿(キャラバンサライ)、そして病院(マーリスターン)といった、公共施設が整備され、高度で快適な都市生活が営まれていました。
5.2. 広域交易ネットワーク:陸と海の道
イスラーム世界の経済的繁栄を支えた最大の要因は、政治的には分裂しつつも、文化的には一つのまとまりを保っていた、広大な領域全体が、一つの巨大な自由貿易圏として機能していた点にあります。
- 陸の道(シルクロード): イスラーム帝国は、伝統的な東西交易路であるシルクロードの中央部を、その版図に収めていました。ラクダの隊商(キャラバン)は、中国の絹、陶磁器、茶などを、中央アジアを経て、バグダードやダマスクスといった、イスラーム世界の大都市へと運びました。
- 海の道: 同時に、イスラーム商人(その多くはペルシア人やアラブ人)は、「ダウ船」と呼ばれる三角帆の木造船を巧みに操り、季節風(モンスーン)を利用して、インド洋を舞台にした、広大な海上交易ネットワークを支配しました。彼らは、バスラやシーラーフといったペルシア湾の港から、インドの香辛料や綿織物、東南アジアの香料、そして中国の陶磁器などを、アフリカ東岸や紅海、エジプトへと運びました。この「海の道」は、陸のシルクロードと並ぶ、もう一つの重要な東西交通の動脈でした。
これらの交易路を通じて、イスラーム世界には、世界中の富と、そして情報が集積しました。中国の羅針盤、火薬、印刷術といった、後の世界の歴史を大きく変えることになる三大発明も、この交易ネットワークを通じて、イスラーム世界を経由し、やがてヨーロッパへと伝わっていくことになります。
5.3. 進んだ経済システムと農業技術
活発な商業活動を支えるため、イスラーム世界では、極めて高度で洗練された経済システムが発達しました。
- 貨幣経済: ディーナール金貨とディルハム銀貨という、質の高い安定した通貨が、広大な領域で流通し、円滑な取引を可能にしました。
- 金融技術: 遠隔地との大規模な取引の安全性を確保するため、現代の銀行システムに類似した、様々な金融技術が発明されました。手形の一種である「スフタジャ」や、小切手の語源となった「チェック」などが用いられ、現金を持ち運ぶリスクなしに、巨額の送金や決済を行うことができました。また、共同で出資して事業を行い、その利益と損失を分配する、パートナーシップ(ムダーラバなど)の制度も発達しました。
- 農業の発展: 商業だけでなく、農業もまた、イスラーム世界の経済の重要な基盤でした。イスラームの拡大に伴い、インドや東南アジア原産の、サトウキビ、米、綿花、柑橘類といった、新しい作物が、中東や地中海世界へと導入されました。また、イランで発達した、地下水路(カナート)をはじめとする、高度な灌漑技術が、帝国全土に広められました。これらの新しい作物と技術の普及は、農業生産性を飛躍的に向上させ、「緑の革命」とも呼ばれる、農業の黄金時代をもたらしました。
このように、イスラーム文明は、その初期の段階から、極めてダイナミックな商業的・経済的な性格を持っていました。共通の信仰と法の下で、人、モノ、資本、そして知識が、広大な領域を自由に行き交う、この開かれたシステムこそが、イスラーム世界の繁栄と、その文化的な創造性の、尽きることのない源泉だったのです。
6. 後ウマイヤ朝とイベリア半島のイスラーム
750年、アッバース朝革命によって、ウマイヤ朝がその本拠地であるシリアで滅亡した時、イスラーム世界の政治的な統一は、その歴史上、初めて破られることになりました。虐殺を逃れたウマイヤ家の一人の王子が、帝国の西の果て、イベリア半島(アラビア語でアル=アンダルス)へと落ち延び、この地で、アッバース朝の権威を認めない、独立した政権を打ち立てたのです。これが、後ウマイヤ朝(756年~1031年)です。バグダードのアッバース朝が、ペルシア文化の影響を色濃く受けた、東方的なイスラーム帝国へと変貌していくのに対し、コルドバを都とする後ウマイヤ朝は、西方の地で、イスラーム、キリスト教、そしてユダヤ教という、三つの異なる文化が、互いに刺激し合い、共存する、独自の華麗で洗練された文明を花開かせました。このアル=アンダルスの黄金時代は、中世ヨーロッパの歴史における、一つの輝かしい例外であり、その知的遺産は、後にキリスト教世界が「暗黒時代」から目覚める上で、計り知れないほど大きな役割を果たすことになります。
6.1. アブド=アッラフマーン1世の独立
アッバース朝によるウマイヤ一族の粛清から、奇跡的に逃れた若き王子アブド=アッラフマーン1世は、母方の縁を頼って、北アフリカのベルベル人の間を、5年間にわたって逃避行を続けました。そして755年、彼は、イベリア半島に渡り、ウマイヤ朝の旧恩に報いようとする現地の支持者たちをまとめ上げ、アッバース朝が派遣した総督を破り、756年に、自らをイベリア半島の支配者「アミール(総督)」であると宣言しました。
彼は、アッバース朝のカリフの宗主権を公然と否定し、事実上の独立国家を建国しました。しかし、彼は、自ら「カリフ」を名乗ることはしませんでした。それは、カリフはイスラーム世界にただ一人であるべきだという、伝統への配慮と、未だバグダードのカリフが持つ、宗教的な権威を刺激することを避ける、現実的な判断があったからでした。
アブド=アッラフマーン1世は、その後、30年以上にわたる治世の中で、内部の反乱を抑え、北方のキリスト教徒の王国の侵攻を防ぎながら、後ウマイヤ朝の統治の基盤を固めていきました。彼の最大の功績の一つが、首都コルドバに、イスラーム建築の最高傑作の一つと称えられる、壮麗な**メスキータ(大モスク)**の建設を開始したことです。このメスキータは、その後の王朝によって次々と拡張され、アル=アンダルスの栄光を象徴するモニュメントとなりました。
6.2. カリフ宣言とコルドバの黄金時代
後ウマイヤ朝が、その最盛期を迎えたのは、10世紀前半、アブド=アッラフマーン3世(在位:912年~961年)の時代でした。当時、イスラーム世界では、東のアッバース朝の権威が、ブワイフ朝の台頭などによって著しく低下し、さらに、北アフリカでは、シーア派のファーティマ朝が、カリフを自称して、アッバース朝に対抗していました。
このイスラーム世界の分裂状況を背景に、アブド=アッラフマーン3世は、もはやバグダードのカリフに遠慮する必要はないと判断し、929年、自らも「カリフ」を名乗ることを宣言しました。ここに、バグダードのアッバース朝(スンナ派)、カイロのファーティマ朝(シーア派)、そしてコルドバの後ウマイヤ朝(スンナ派)という、三人のカリフが同時に鼎立する、前代未聞の時代が到来します。これは、イスラーム世界の政治的統一が、完全に失われたことを、象徴的に示す出来事でした。
カリフとなったアブド=アッラフマーン3世の下で、後ウマイヤ朝は、政治的にも文化的にも、その黄金時代を謳歌しました。
- 政治的安定: 彼は、北方のキリスト教徒の王国を抑え、北アフリカにも勢力を拡大し、西地中海の覇者として君臨しました。
- 経済的繁栄: コルドバは、農業、手工業、そして地中海貿易の中心として、空前の繁栄を享受しました。皮革製品、織物、象牙細工などが、特産品として知られていました。
- 文化の爛熟: 首都コルドバは、人口50万を数え、バグダードやコンスタンティノープルと並ぶ、世界最大級の文化都市となりました。街には、数百のモスク、公衆浴場、そして街灯が整備され、その壮麗さは、当時、まだ小規模で不衛生であった、パリやロンドンといった、ヨーロッパの都市とは、比較にならないほどでした。カリフの宮殿には、数十万冊の蔵書を誇る、ヨーロッパ最大の図書館があったと伝えられています。
6.3. アル=アンダルスの文化:「共存(コンビベンシア)」の遺産
後ウマイヤ朝の文化が、他のイスラーム世界の文化と一線を画していたのは、その著しい多様性と、異文化への寛容さにありました。アル=アンダルスの社会には、支配者であるアラブ人やベルベル人のムスリムの他に、多数のキリスト教徒(モサラベ)や、ユダヤ教徒の共同体が存在していました。
イスラームの支配の下で、キリスト教徒とユダヤ教徒は、ズィンミー(被保護民)として、ジズヤ(人頭税)を支払う限りにおいて、その信仰と文化を維持することを許されていました。この、異なる宗教と文化が、必ずしも平和的ではなかったものの、長期間にわたって共存し、互いに影響を与え合った状況は、「コンビベンシア(共存)」と呼ばれています。
- 知的交流: 多くのキリスト教徒やユダヤ教徒が、アラビア語を習得し、イスラームの進んだ学問や文化を学びました。コルドバは、イスラーム世界だけでなく、キリスト教ヨーロッパからも、学者たちが集まる、国際的な学術の中心地となりました。
- 学問の発展: この地では、ギリシア哲学の研究が盛んに行われ、特に、アリストテレスの著作に対する、深い注解を書いた哲学者イブン=ルシュド(アヴェロエス)や、ユダヤ教神学とアリストテレス哲学の統合を試みた、ユダヤ人哲学者のマイモニデスといった、偉大な知性が輩出されました。彼らの著作は、ラテン語に翻訳され、後に、パリ大学などを中心とする、中世ヨーロッパのスコラ学の発展に、決定的な影響を与えることになります。
- 技術と文化の伝播: 製紙法、灌漑技術、そしてインドから伝わった代数学や、ゼロの概念(アラビア数字)といった、イスラーム世界の先進的な知識と技術は、このアル=アンダルスを窓口として、キリスト教ヨーロッパ世界へと伝えられていきました。
しかし、この輝かしい黄金時代も、長くは続きませんでした。11世紀初頭、後ウマイヤ朝は、内紛によって急速に衰退し、1031年に滅亡してしまいます。その後、アル=アンダルスは、多数のイスラーム系の小王国が乱立する、分裂の時代(タイファ)へと移行し、北方のキリスト教徒の王国による、再征服運動(レコンキスタ)の、格好の標的となっていくのです。
7. ファーティマ朝とシーア派の台頭
イスラーム世界の歴史を貫く、最も根源的で、永続的な対立軸、それは、預言者ムハンマドの正統な後継者は誰であるべきかを巡る、スンナ派とシーア派との間の、神学的・政治的な分裂です。イスラーム教徒の大多数を占めるスンナ派が、初代から第四代までの正統カリフの権威をすべて認めるのに対し、シーア派は、預言者の従弟で娘婿のアリーとその子孫のみが、ウンマを導く正統な指導者(イマーム)であると主張します。ウマイヤ朝、アッバース朝という、スンナ派のカリフが支配する帝国の中で、少数派として、しばしば迫害の対象とされてきたシーア派。しかし、彼らは、10世紀初頭、北アフリカの地で、ついに自らの王朝を打ち立て、アッバース朝のカリフの権威を公然と否定し、独自のカリフを擁立するという、イスラーム世界の勢力図を塗り替える、画期的な出来事を成し遂げます。預言者の娘ファーティマの子孫であると主張した、このファーティマ朝(909年~1171年)の台頭は、イスラーム世界が、スンナ派のアッバース朝、同じくスンナ派の後ウマイヤ朝、そしてシーア派のファーティマ朝という、三人のカリフが鼎立する、深刻な分裂の時代へと突入したことを、象徴していました。
7.1. シーア派の教義とイスマーイール派の活動
シーア派の歴史は、スンナ派の多数派権力による、抑圧と殉教の歴史でした。カルバラーの悲劇(680年)における、第3代イマーム、フサインの殉教は、シーア派の信徒たちに、深い悲劇性と、スンナ派の支配者に対する、消えることのない抵抗の精神を植え付けました。
シーア派の内部は、歴代のイマームをどこまで認めるかによって、さらにいくつかの分派に分かれています。その中でも、特に活動的で、急進的な教義を持っていたのが、「イスマーイール派」でした。
- イマームの継承問題: シーア派の主流派である十二イマーム派が、第6代イマームの次男ムーサーを、第7代イマームと認めたのに対し、イスマーイール派は、長男のイスマーイールこそが正統な後継者であると主張しました。
- 隠れイマームとダーイー: 彼らは、正統なイマームは、スンナ派の迫害から身を守るため、人々の前から姿を隠している「隠れイマーム」の状態にあると考えました。そして、この隠れイマームの代理人として、その教えを秘密裏に布教し、信者を組織する、宣教師「ダーイー」が、イスラーム世界の各地で、精力的な活動を展開していました。
- 終末論: 彼らは、やがて隠れイマームが、救世主(マフディー)として再臨し、この世の不正を正し、真のイスラームに基づく、正義の王国を打ち立てるという、強い終末論的な信仰を持っていました。
このイスマーイール派のダーイーたちは、アッバース朝の支配に不満を抱く、北アフリカのベルベル人の間に、巧みにその教えを広め、強力な軍事的な支持基盤を築き上げていきました。
7.2. ファーティマ朝の建国とエジプト征服
10世紀初頭、イスマーイール派の指導者ウバイドゥッラーは、北アフリカのチュニジア(イフリーキヤ)で、ベルベル人の支持を得て挙兵し、この地を支配していたアグラブ朝を打倒しました。そして909年、彼は、自らが、隠れイマームであり、救世主マフディーであると宣言し、独自のカリフ国家、ファーティマ朝を建国しました。
ファーティマ朝は、その当初から、チュニジアの地にとどまることを目的としていませんでした。彼らの最終的な目標は、東方のスンナ派の中心地である、バグダードのアッバース朝を打倒し、全イスラーム世界の支配権を確立することにありました。
そのための、次なる大きな標的となったのが、アッバース朝から半独立状態にあった、豊かなナイルの地、エジプトでした。969年、ファーティマ朝の第4代カリフ、ムイッズは、将軍ジャウハルに大軍を率いさせてエジプトを征服させました。
エジプトを征服したファーティマ朝は、その統治の拠点として、ナイル川のほとりに、壮麗な新しい首都を建設しました。この都市は、「勝利の都」を意味する「アル=カーヒラ」、すなわちカイロと名付けられました。そして、カイロ遷都後、ファーティマ朝は、その支配をパレスチナ、シリア、そしてイスラームの二大聖地であるメッカとメディナを含む、ヒジャーズ地方にまで広げ、アッバース朝のカリフの権威を、著しく脅かす存在となりました。
7.3. カイロの繁栄とアズハル学院
エジプトを新たな本拠地としたファーティマ朝の下で、カイロは、バグダードやコルドバと並ぶ、イスラーム世界の、最も重要な政治・経済・文化の中心地の一つとして、空前の繁栄を謳歌しました。
- 地中海とインド洋を結ぶ交易: ファーティマ朝は、紅海を経由して、地中海世界とインド洋世界を結ぶ、中継貿易(カーリミー商人による香辛料貿易など)を支配し、莫大な富を蓄積しました。カイロは、この国際交易ネットワークのハブとして、世界中から商品と人々が集まる、コスモポリタンな大都市となりました。
- 宗教的寛容: ファーティマ朝は、シーア派のイスマーイール派を国教としていましたが、国内の大多数を占めるスンナ派のムスリムや、コプト派のキリスト教徒、ユダヤ教徒に対しては、比較的寛容な政策をとりました。
- 文化の黄金時代: ファーティマ朝のカリフたちは、学問と芸術を厚く保護しました。カイロには、壮麗なモスクや宮殿が次々と建設され、図書館や研究所が設立されました。
- アズハル・モスク(学院): 970年に建設されたアズハル・モスクは、当初は、シーア派の教義を研究・教授するための機関でしたが、やがて、イスラーム世界のあらゆる学問を網羅する、総合大学としての役割を担うようになります。このアズハル学院は、現在も、スンナ派イスラーム神学の、世界最高学府として、その権威を保ち続けています。
- 知恵の館(ダール・アル=ヒクマ): 11世紀初頭には、天文学や医学を含む、様々な学問の研究機関として、「知恵の館」が設立され、バグダードのそれと並び称される、学術の中心地となりました。
ファーティマ朝の台頭は、イスラーム世界が、もはや単一のカリフの下にある、統一された政治体ではないことを、決定的にしました。スンナ派のアッバース朝、同じくスンナ派の後ウマイヤ朝、そしてシーア派のファーティマ朝。この三つのカリフが、互いに正統性を主張し、覇権を争うという、複雑な多元的構造こそが、10世紀から11世紀にかけての、イスラーム世界の現実の姿だったのです。しかし、この政治的な分裂にもかかわらず、文化と経済の交流は、活発に続けられており、イスラーム文明全体としては、なおも、その黄金時代が続いていました。
8. トルコ人のイスラーム化とセルジューク朝の台頭
10世紀半ば以降、バグダードのアッバース朝カリフの権威は、イラン系のシーア派王朝であるブワイフ朝の軍事的な支配下に置かれ、完全に名目化していました。同じ頃、イスラーム世界の東方の辺境、中央アジアの草原地帯では、新たな歴史の主役となる、テュルク(トルコ)系の遊牧民たちが、次々とイスラームに改宗し、その軍事的なエネルギーを、南方へと向け始めていました。このトルコ人のイスラーム世界への大規模な南下と、その中から現れたセルジューク朝の台頭は、イスラーム世界の政治構造に、再び大きな変革をもたらすことになります。1055年、セルジューク朝の指導者トゥグリル=ベクが、バグダードに入城し、カリフから「スルタン」の称号を授与された出来事は、イスラーム世界が、カリフの宗教的権威と、スルタンの世俗的・軍事的権力とが、分離・並存する、新しい統治の時代へと移行したことを、象徴していました。
8.1. トルコ人の台頭と初期のイスラーム王朝
「トルコ人」とは、もともと中央アジアのアルタイ山脈周辺を原住地とする、テュルク語系の言語を話す、様々な遊牧民の総称です。彼らは、突厥として、6世紀から8世紀にかけて、モンゴル高原から中央アジアに広がる大帝国を築きました。
9世紀以降、アッバース朝のカリフたちは、これらのトルコ人の優れた騎馬戦士としての能力に着目し、彼らを奴隷として購入し、自らの親衛隊(マムルーク、あるいはギルマーン)として、軍隊の中核に据えるようになります。しかし、これらのトルコ人マムルークは、やがて宮廷内で強大な力を持ち始め、カリフの廃立さえも左右する、危険な存在となっていきました。
一方で、中央アジアのトルコ人部族の間では、イラン方面から伝わった、スンナ派のイスラームが、急速に広まっていました。イスラームに改宗した彼らは、信仰のための戦い(ガズィ)を掲げて、周辺の非イスラーム地域へと侵攻し、独自のイスラーム王朝を打ち立てるようになります。
- サーマーン朝: 9世紀後半に、中央アジアのマー・ワラー・アンナフル地方(アム川とシル川の間の地域)で、イラン系のサーマーン朝が自立すると、その下で、トルコ人のイスラーム化が、本格的に進みました。
- カラハン朝: 10世紀半ばには、トルコ系のカラハン朝が、サーマーン朝を破り、中央アジア初のトルコ系イスラーム王朝を建国しました。
- ガズナ朝: サーマーン朝に仕えていた、トルコ人マムルーク出身の武将アルプテギーンが、アフガニスタンで自立して建国したのが、ガズナ朝です。その君主マフムードは、インドの豊かなヒンドゥー教寺院に対して、17回にも及ぶ大規模な遠征(インド遠征)を行い、莫大な富を略奪すると同時に、北インドにおけるイスラーム勢力の拡大の、足がかりを築きました。
8.2. セルジューク朝の建国とバグダード入城
このトルコ人の南下の、最大の波となったのが、セルジューク家に率いられた、オグズと呼ばれるトルコ人部族の一派でした。彼らは、11世紀初頭に、中央アジアからイラン高原へと移動し、この地を支配していたガズナ朝を破って、急速にその勢力を拡大しました。
セルジューク朝の指導者トゥグリル=ベクは、スンナ派の熱烈な擁護者でした。彼は、当時、スンナ派のカリフでありながら、シーア派のブワイフ朝によって、その権威を蹂躙されていた、バグダードのアッバース朝カリフを、シーア派の圧制から「解放」するという、大義名分を掲げました。
1055年、トゥグリル=ベクは、大軍を率いて、バグダードに無血で入城し、ブワイフ朝の勢力を完全に駆逐しました。アッバース朝のカリフ、カーイムは、自らを保護してくれたトゥグリル=ベクに対し、感謝の意を込めて、アラビア語で「権威」や「権力」を意味する、世俗的な君主の称号「スルタン」を授与しました。
この出来事は、イスラーム世界の政治体制における、画期的な転換を意味します。
- 政教権力の分離: これ以降、イスラーム世界(特にその東方)では、アッバース朝のカリフが、全スンナ派ムスリムの、宗教的・精神的な最高指導者としての「権威」を保持し、一方で、セルジューク朝のスルタンが、そのカリフから統治を委任された、世俗的・軍事的な最高権力者として、実際の「権力」を行使するという、政教権力が分離した、二重の統治構造が成立しました。
- スンナ派世界の擁護者: セルジューク朝は、自らを、スンナ派イスラーム世界の、軍事的な守護者と位置づけ、西のエジプトで、シーア派のカリフを擁するファーティマ朝や、キリスト教徒のビザンツ帝国と、激しく対峙していくことになります。
8.3. セルジューク朝の統治とニザーミーヤ学院
トゥグリル=ベクの後を継いだ、アルプ=アルスラーン、マリク=シャーの時代に、セルジューク朝は最盛期を迎え、その領土は、中央アジアからシリア、小アジア(アナトリア)にまで及びました。
この広大な多民族国家を統治するため、セルジューク朝は、イラン人の優れた官僚を積極的に登用し、ペルシア式の高度な行政システムを導入しました。
- ニザーム=アルムルク: 最盛期の二人のスルタンに仕えた、イラン人の宰相ニザーム=アルムルクは、セルジューク朝の国家体制を確立した、大政治家でした。彼は、スルタンの絶対的な権力を理論づけた『統治の書(スィヤーサト・ナーマ)』を著し、国内の行政・財政制度を整備しました。
- イクター制: 彼は、軍人や官僚に対して、その給与の代わりに、特定の土地の徴税権を与える「イクター制」を、全国的に施行しました。これにより、国家は、直接税を徴収する手間を省き、安定した軍事力を確保することができました。この制度は、その後のイスラーム世界の基本的な土地制度として、広く普及していきます。
- ニザーミーヤ学院の設立: 当時、シーア派のファーティマ朝が、カイロのアズハル学院を拠点に、その教義を積極的に宣伝していたことに対抗するため、ニザーム=アルムルクは、スンナ派の神学・法学を教授するための、国費による高等教育機関(マドラサ)を、バグダードをはじめ、帝国の主要都市に、次々と設立しました。これが「ニザーミーヤ学院」です。この学院は、スンナ派の学問の中心となり、神学者ガザーリーなどの、優れた学者を輩出し、スンナ派の思想的優位を確立する上で、大きな役割を果たしました。
しかし、その栄華の絶頂にあった1092年に、マリク=シャーとニザーム=アルムルクが相次いで死去すると、セルジューク朝は、後継者争いによる内紛と、暗殺教団として恐れられた、イスマーイール派の分派ニザール派の活動などによって、急速に分裂・衰退していきます。このイスラーム世界の内部的な混乱が、西ヨーロッパのキリスト教世界に、聖地への介入の、絶好の機会を与えることになるのです。
9. 十字軍の到来
11世紀末、イスラーム世界が、セルジューク朝の分裂と、ファーティマ朝の衰退という、内部的な混乱に陥っていた、まさにその時。西ヨーロッパのキリスト教世界では、全く新しい、そして熱狂的な運動が、その胎動を始めていました。聖地イェルサレムを、イスラーム教徒(彼らが「サラセン人」と呼んだ)の支配から解放し、キリスト教徒の手に取り戻す。この宗教的な情熱に燃えた、大規模な軍事遠征、それが「十字軍」です。1096年に始まった第一回十字軍から、13世紀末に最後の拠点が陥落するまで、約200年間にわたって、断続的に繰り返されたこの運動は、中世ヨーロッパの社会を根底から揺るがし、キリスト教世界とイスラーム世界との間に、それまでにはなかった、大規模で、そして血塗られた、正面からの衝突を引き起こしました。十字軍の到来は、イスラーム世界にとって、当初は辺境で起きた、一地方での出来事に過ぎませんでした。しかし、それはやがて、両文明の相互認識と、その後の関係を、決定的に変えていく、重大な転換点となるのです。
9.1. 十字軍の背景:ヨーロッパ世界の変動とビザンツの危機
十字軍という、前代未聞の運動が、なぜ11世紀末の西ヨーロッパで可能となったのでしょうか。その背景には、いくつかの複合的な要因がありました。
- ローマ教皇権の伸長: 11世紀のグレゴリウス7世による教会改革(グレゴリウス改革)などを経て、ローマ教皇の権威は、世俗の皇帝や王をも上回る、キリスト教世界全体の、最高の精神的指導者としての地位を確立しつつありました。教皇は、自らの権威の下に、ヨーロッパの諸侯や騎士を動員できる、強大な影響力を持つようになっていました。
- ヨーロッパ社会の安定と膨張: 10世紀頃から、三圃制農業などの農業技術の革新により、西ヨーロッパの人口は増加し、社会は安定期に入っていました。領土の相続からあぶれた、次男や三男以下の騎士たちは、新たな土地と富を求めて、有り余る軍事的なエネルギーを、外部へと向ける機会をうかがっていました。
- 聖地巡礼の伝統: イェルサレムは、イエス・キリストが磔刑に処せられ、復活した、キリスト教徒にとって最も神聖な土地でした。イスラーム支配下でも、多くのキリスト教徒が、聖地への巡礼を行っていましたが、11世紀後半に、セルジューク朝が、ビザンツ帝国からアナトリアと、ファーティマ朝からシリア・パレスチナを奪うと、聖地周辺の情勢が不安定化し、巡礼が困難になったという情報が、ヨーロッパに伝えられました。
- ビザンツ帝国の救援要請(直接の引き金): そして、十字軍の直接のきっかけとなったのが、セルジューク朝の西方への圧迫に、深刻な危機感を抱いた、ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムネノスの、西方への救援要請でした。1071年のマンジケルトの戦いで、セルジューク軍に壊滅的な敗北を喫したビザンツ帝国は、その領土の大部分である小アジア(アナトリア)を失っていました。皇帝は、ローマ教皇に、傭兵の派遣を要請しました。
9.2. クレルモン公会議と第一回十字軍
ビザンツ皇帝からの救援要請は、ローマ教皇ウルバヌス2世にとって、千載一遇の好機でした。彼は、これを、単なる傭兵派遣の問題としてではなく、より壮大な、ローマ教皇の権威の下に、全キリスト教世界を一つに結集させるための、大事業へと転換させようと考えたのです。その目的は、
- 東西教会の再統一: 聖地解放を支援することで、東方のギリシア正教会に対する、ローマ・カトリック教会の優位性を示し、1054年に分裂した、東西教会の再統一の主導権を握ること。
- 教皇権の確立: ヨーロッパ内部で絶え間ない私闘を繰り返している諸侯や騎士たちの軍事力を、共通の敵であるイスラームへと向けさせることで、ヨーロッパ世界の平和を回復し、教皇がその最高の指導者であることを、内外に示すこと。
1095年、ウルバヌス2世は、南フランスのクレルモンで、大規模な教会会議(公会議)を招集しました。その最終日、彼は、集まった聖職者、諸侯、騎士、そして民衆の前で、歴史に残る、情熱的な演説を行います。彼は、聖地イェルサレムが、異教徒によって蹂躙され、キリスト教徒の巡礼者が虐待されていると、聴衆の感情に訴えかけ、「富める者も貧しき者も、神の兵士として、武器を取り、聖地を解放するための戦いに赴け。この戦いで命を落とした者は、そのすべての罪が許されるだろう」と呼びかけました。
この演説は、聴衆の間に、爆発的な宗教的熱狂を巻き起こしました。「神、それを欲したもう!」という叫びが、会場にこだまし、多くの人々が、胸に十字の印をつけて、聖地への遠征に参加することを誓いました。
この呼びかけに応えて、まず最初に動き出したのは、隠者ピエールらに率いられた、統制のとれていない、数万の農民や貧民からなる「民衆十字軍」でした。彼らは、熱狂のうちに出発しましたが、食料の略奪などを行いながら、小アジアでセルジューク軍の前に、あっけなく壊滅させられました。
それに続いて、1096年、フランスや南イタリアの諸侯、騎士たちを主体とする、正規の「第一回十字軍」が出発しました。彼らは、いくつかの部隊に分かれて、陸路コンスタンティノープルへと向かいました。
9.3. 聖地の占領と十字軍国家の建国
第一回十字軍が、小アジアからシリアへと進軍してきた時、イスラーム世界は、彼らを、単なるビザンツ帝国が雇った、野蛮な傭兵部隊(彼らは、十字軍兵士を、出身地に関係なく「フランク」と呼んだ)としか見ていませんでした。
当時のイスラーム世界は、セルジューク朝の内紛や、ファーティマ朝との対立など、深刻な政治的分裂状態にありました。シリアやパレスチナの各地の都市は、それぞれが独立したアミール(君主)によって支配され、互いに反目しあっていました。そのため、十字軍に対して、イスラーム世界は、統一した抵抗を行うことが、全くできませんでした。
このイスラーム側の分裂に助けられて、十字軍は、ニカイア、アンティオキアといった、重要都市を次々と攻略していきます。そして、1099年7月15日、ついに聖地イェルサレムを占領しました。
しかし、この聖地解放の栄光は、凄惨な殺戮によって、汚されることになります。十字軍の兵士たちは、市内のイスラーム教徒やユダヤ教徒を、女子供の区別なく、見境なく虐殺し、その血は、馬の膝にまで達したと、年代記は伝えています。
イェルサレムを征服した十字軍は、その周辺のシリア・パレスチナの沿岸地域に、イェルサレム王国をはじめ、トリポリ伯国、アンティオキア公国、エデッサ伯国といった、いくつかの「十字軍国家」を建国しました。これらの国家は、ヨーロッパの封建制度をそのまま持ち込んだものであり、少数のヨーロッパ人騎士が、多数の現地のムスリムや、東方キリスト教徒の住民を支配する、極めて脆弱な基盤の上に成り立っていました。
イスラーム世界にとって、十字軍の到来と、聖地イェルサレムの喪失は、大きな衝撃でした。しかし、それは同時に、分裂していたイスラーム世界に、共通の敵の存在を認識させ、やがて、聖地を奪還するための、統一された抵抗運動(ジハード)の機運を、醸成していくことになるのです。
10. アイユーブ朝とサラディン
第一回十字軍の成功によって、聖地イェルサレムを失い、シリア・パレスチナ沿岸に「フランク」の十字軍国家が打ち立てられたという事実は、イスラーム世界に、大きな衝撃と屈辱を与えました。しかし、セルジューク朝の内紛や、ファーティマ朝との対立など、深刻な政治的分裂状態にあったイスラーム世界は、当初、この外来の侵略者に対して、有効な反撃を行うことができませんでした。この状況を打破し、分裂していたイスラーム勢力を再結集させ、聖地奪還という偉業を成し遂げる、歴史的な英雄が登場します。それが、クルド人の武将、サラディン(サラーフ=アッディーン)です。彼がエジプトに建国したアイユーブ朝(1169年~1250年)は、エジプトとシリアを再び一つの強力な国家の下に統合し、十字軍に対する、本格的な反撃(ジハード)の拠点となりました。サラディンの生涯は、イスラーム世界の統一と、聖地イェルサレムの奪還を巡る、十字軍との劇的な攻防の物語であり、その騎士道的な精神は、敵であった西ヨーロッパのキリスト教世界においてさえも、長く称賛の的となりました。
10.1. 十字軍に対するイスラームの反撃の始まり
第一回十字軍が、イスラーム側の分裂に乗じて成功を収めた後、12世紀前半になると、イスラーム世界の中から、ようやく統一された抵抗運動の核となる勢力が現れ始めます。
- ザンギー朝の成立: その先駆けとなったのが、セルジューク朝に仕える、トルコ人のアタベク(後見人)であったザンギーです。彼は、メソポタミア北部のモースルを拠点に自立し、シリア北部へと勢力を拡大しました。そして、1144年、十字軍国家の中で、最も東に位置していたエデッサ伯国を奪回するという、最初の大きな戦果を挙げました。
- 第二回十字軍の失敗: エデッサの陥落は、西ヨーロッパのキリスト教世界に、大きな衝撃を与え、フランス王ルイ7世と、神聖ローマ皇帝コンラート3世が率いる、第二回十字軍(1147年~1149年)が派遣されるきっかけとなりました。しかし、この十字軍は、内部の不統一や、イスラーム側の抵抗の前に、何の成果も上げることなく、惨めな失敗に終わりました。
ザンギーの跡を継いだ、息子のヌール=アッディーンは、さらにシリアの統一を進め、1154年にはダマスクスを占領し、十字軍に対する包囲網を、さらに強固なものとしました。
10.2. サラディンの登場とアイユーブ朝の建国
サラディン(サラーフ=アッディーン、1138年~1193年)は、このヌール=アッディーンに仕える、クルド人の武将でした。彼は、叔父と共に、当時、内紛で弱体化していた、シーア派のファーティマ朝が支配するエジプトへの遠征に参加し、その軍事的な才能を認められて、エジプトの宰相に任命されます。
1171年、サラディンは、病床にあったファーティマ朝の最後のカリフの死を待って、エジプトの金曜礼拝で、スンナ派のアッバース朝カリフの名において、フトバ(説教)を行わせました。これにより、200年以上続いた、シーア派のファーティマ朝は、血を流すことなく、あっけなく滅亡しました。エジプトは、再びスンナ派の教えの下へと復帰し、イスラーム世界の宗教的な再統一への、大きな一歩が記されたのです。
1174年に、主君であったヌール=アッディーンが死去すると、サラディンは、その正統な後継者として、自らが、十字軍に対するジハードを指導する立場にあることを宣言します。彼は、カイロを拠点に、シリア、メソポタミア北部へと、その支配を広げ、ヌール=アッディーンの遺領を統合し、エジプトからシリアにまたがる広大な領域を支配する、アイユーブ朝の初代スルタンとなりました。ここに、十字軍国家を、南と東から挟撃する、強力な統一国家が誕生したのです。
10.3. ヒッティーンの戦いとイェルサレム奪回
イスラーム勢力を統一したサラディンは、満を持して、十字軍国家に対する、全面的な攻勢を開始します。
その運命を決する戦いが、1187年に行われた「ヒッティーンの戦い」でした。サラディンは、イェルサレム王国の主力軍を、水のない、灼熱の丘陵地帯におびき出し、その渇きと疲労が極限に達したところで、巧みな包囲戦術によって、これを完全に殲滅しました。イェルサレム王ギー=ド=リュジニャンをはじめ、テンプル騎士団や聖ヨハネ騎士団の、ほとんどの騎士が、捕虜になるか、戦死するという、十字軍側にとって、壊滅的な敗北でした。
ヒッティーンの戦いで、野戦軍を完全に失ったイェルサレム王国は、もはや無防備な状態でした。サラディンは、その勢いに乗って、パレスチナの諸都市を次々と攻略し、同年10月2日、ついに聖地イェルサレムを、88年ぶりに、イスラームの手に奪回しました。
このイェルサレム入城の際、サラディンのとった行動は、1099年の第一回十字軍による、凄惨な虐殺とは、際立った対照を見せました。彼は、市内のキリスト教徒の生命と財産を保証し、身代金を支払えば、市外へ安全に退去することを許可しました。身代金を支払えない貧しい人々も、多くが彼の慈悲によって解放されました。この寛大な処置は、彼の騎士道的な名声を、敵であるヨーロッパ世界においてさえも、不動のものとしました。
10.4. 第三回十字軍とサラディンの遺産
聖地イェルサレムの陥落は、ヨーロッパのキリスト教世界を、再び震撼させました。ローマ教皇の呼びかけに応え、当時のヨーロッパ最強の君主たちが、聖地再奪回のために立ち上がります。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世(赤髭王)、フランス王フィリップ2世、そしてイングランド王リチャード1世(獅子心王)。この錚々たる顔ぶれが率いたのが、「第三回十字軍」(1189年~1192年)です。
しかし、この最強の十字軍も、その目的を達することはできませんでした。フリードリヒ1世は、遠征の途上で溺死し、フィリップ2世は、リチャード1世との対立から、早々に帰国してしまいます。残されたリチャード1世は、獅子心王の名に恥じない、猛烈な戦いぶりを見せ、沿岸のアッコン市を奪回するなど、いくつかの戦術的勝利を収めました。
サラディンとリチャード1世。この二人の英雄は、互いに敵として戦いながらも、その武勇と騎士道精神を、深く尊敬しあったと伝えられています。数年にわたる激闘の末、両者は、イェルサレムをイスラームの管理下に置く一方で、キリスト教徒の巡礼者が、非武装で、自由に聖地を訪れることを許可するという内容で、休戦協定を結びました。
第三回十字軍が去った翌年、1193年、サラディンは、ダマスクスで、熱病のために、その偉大な生涯を終えました。彼は、莫大な富を築きながら、その私有財産は、ほとんど残さなかったと言われています。分裂していたイスラーム世界を再統一し、聖地イェルサレムを奪回するという、歴史的な偉業を成し遂げた英雄サラディン。彼の死後、アイユーブ朝は、後継者争いによって、再び分裂・弱体化していきますが、彼がジハードの拠点として強化したエジプトでは、やがて、彼が軍隊の中核として重用した、トルコ系のマムルーク(奴隷軍人)が、新たな支配者として、歴史の舞台に登場することになるのです。
Module 5:イスラーム世界の形成の総括:第三の普遍的文明の誕生と変容
本モジュールで我々が追ってきたのは、7世紀のアラビア半島の砂漠地帯に生まれた一つの宗教的啓示が、いかにして、古代末期の世界に、キリスト教ヨーロッパ、そして東アジアの中国文明圏と並び立つ、第三の巨大な普遍的文明圏を創造していったのか、そのダイナミックで、そして劇的な物語でした。
その出発点は、ムハンマドという一人の預言者がもたらした、アッラーという唯一絶対神への、徹底的な帰依の呼びかけでした。このシンプルで、しかし強力なメッセージは、血縁の絆で分裂していたアラブの諸部族を、「ウンマ」という、信仰によって結ばれた、全く新しい共同体へと鍛え上げました。その精神的なエネルギーは、正統カリフ時代に、驚異的な大征服となって爆発し、ビザンツとペルシアという、二つの老いた帝国を打ち破り、イスラーム世界の物理的な版図を、一挙に広げました。
しかし、帝国の拡大は、その内実に、深刻な変容を迫りました。ウマイヤ朝の時代、イスラームは、アラブ人の特権に支えられた、世俗的な「アラブ帝国」へと姿を変えましたが、その差別的なあり方は、イスラームの平等の理念との間に、致命的な矛盾を生み出します。この矛盾を、革命によって止揚し、アラブ人と非アラブ人が、原則として平等な、真に国際的な「イスラーム帝国」を現出させたのが、アッバース朝でした。
バグダードを都とするアッバース朝の下で、イスラーム文明は、ギリシアの理性、ペルシアの洗練、そしてインドの叡智を、アラビア語という共通の言語の坩堝(るつぼ)の中で見事に融合させ、科学、哲学、経済、芸術のあらゆる分野で、輝かしい「黄金時代」を迎えました。それは、政治的には、後ウマイヤ朝、ファーティマ朝という、ライバル国家の挑戦を受け、分裂の度合いを深めていきながらも、広大な「イスラームの家(ダール・アル=イスラーム)」全体が、一つの巨大な文化・経済圏として、その活力を失っていなかった時代でした。
やがて、帝国の軍事的な主役は、アラブ人から、中央アジアのトルコ人へと交代します。セルジューク朝の登場は、カリフの宗教的権威と、スルタンの世俗的権力が並び立つという、新たな統治の時代を告げました。そして、このイスラーム世界の内部的な変動の隙を突いて、西方のキリスト教世界から、十字軍という、予期せぬ外圧が到来します。しかし、イスラーム世界は、サラディンという英雄の下で再結集し、この挑戦を、一度は退けることに成功しました。
預言者の啓示から、普遍的な帝国へ。そして、政治的な分裂と、それに代わる、文化・経済的な統合へ。イスラーム世界の形成の物語は、一つの文明が、その内的な理念と、外的な現実との間の、絶え間ない緊張関係の中で、いかに自己を変革し、そのアイデンティティを築き上げていくかを示す、壮大な歴史の実例と言えるでしょう。