【基礎 世界史(通史)】Module 7:東アジア世界の変動(唐・宋)

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本モジュールの目的と構成

前モジュールで形成されたヨーロッパ世界が、封建的な秩序の中で独自の歩みを始めた頃、東アジアでは全く異なる原理に基づく、巨大で洗練された世界秩序がその絶頂と変容を経験していました。本モジュールでは、中国史上、文化の黄金時代と称される唐と、それに続く宋の時代を扱います。しかし、我々の目的は、単に二つの王朝の歴史を追うことではありません。それは、隋という短いながらも決定的な準備期間を経て、唐が築き上げた国際色豊かな「世界帝国」が、いかにしてその内部的な矛盾から崩壊し、続く宋の時代に、より内省的で、文官が主導する、そして経済的に驚異的な発展を遂げる新しい国家体制へと変貌を遂げたのか、そのダイナミックな「構造転換」のプロセスを解き明かすことにあります。

この唐から宋への移行は、東アジア史における最大の分水嶺の一つです。それは、社会の主役が貴族から科挙官僚(士大夫)へと移り、経済の基盤が土地に縛られた農民から活発な市場経済へと移行し、国家のあり方が軍事的な膨張主義から内向きの文治主義へと転換する、根本的なパラダイムシフトでした。この変動を理解することは、近世以降の東アジア世界の性格を規定した、政治・経済・文化の原型を理解することに他なりません。

本モジュールは、この壮大な歴史の転換点を多角的に理解するため、以下の論理的なステップに沿って構成されています。

  1. 新帝国の礎: まず、南北朝の長期分裂を終結させ、強力な中央集権制度を再構築することで、次なる大帝国・唐の揺るぎない土台を築いた隋王朝の役割を分析します。
  2. 世界帝国の完成: 次に、唐がどのようにして成立し、律令という精緻な法典に基づく官僚国家体制を完成させたのか、その統治システムの核心に迫ります。
  3. 帝国の経済・軍事基盤: 律令国家を支えた三本の柱、すなわち均田制・租庸調制・府兵制という、土地・税・軍事を一体化した巧妙なシステムの実態を解明します。
  4. 文化の黄金時代: 唐の首都・長安を舞台に花開いた、多様な民族と文化が交流する国際性豊かな文化の様相を描き出します。
  5. 帝国の決定的な転換点: 帝国を内側から揺るがした安史の乱が、なぜ勃発し、そして唐の社会構造をどのように不可逆的に変えてしまったのか、その歴史的なインパクトを考察します。
  6. 新時代の社会経済システム: 均田制の崩壊後に導入された両税法と、それに伴い発展した荘園制が、中国の土地制度と税制をどのように根本から変えたかを詳述します。
  7. 文治国家の誕生: 五代十国の混乱を経て、宋がどのように中国を再統一し、軍人の力を抑え文官を優位に置く「文治主義」という全く新しい国家理念を確立したのかを探ります。
  8. 改革の試みと挫折: 文治主義がもたらした国家の課題を克服すべく行われた王安石の改革が、何を目的とし、なぜ激しい抵抗にあい挫折したのか、その過程を分析します。
  9. 新たな国際関係: 北方の遼・西夏・金といった強大な征服王朝と、宋がどのように対峙し、従来の冊封体制とは異なる多極的な国際関係を形成したのかを概観します。
  10. 経済革命と新文化の担い手: 最後に、宋代に起きた著しい経済発展(商業革命)と、それを背景に社会の新たな主役となった士大夫階級が築き上げた、洗練された文化の本質に光を当てます。

このモジュールを通じて、皆さんは唐から宋へという時代の流れを、単なる王朝交代ではなく、古代的な貴族帝国から近世的な官僚国家へと至る、東アジア文明の根本的な質的変化として立体的に捉えるための知的フレームワークを獲得するでしょう。


目次

1. 隋の中国統一とその制度

西晋の滅亡後、中国は約270年もの長きにわたり、華北の五胡十六国と南北朝という分裂と動乱の時代を経験しました。北では異民族が建てた王朝が興亡を繰り返し、南では漢民族の王朝が交代を続けました。この長い分裂の時代は、しかし、単なる混乱期ではありませんでした。華北では胡漢(異民族と漢民族)の融合が進み、江南では経済開発が進展するなど、次なる統一時代へのエネルギーが蓄積されていました。この長期にわたる分裂に終止符を打ち、中国を再統一し、続く唐王朝三百年間の繁栄の礎を築いたのが、わずか37年で滅亡した隋(581年〜618年)です。隋は短命であったがゆえに暴政のイメージが強いですが、その歴史的役割は極めて重要であり、その制度疲労なき革新的なシステムは、唐にほぼそのまま受け継がれ、東アジア世界に大きな影響を与えました。

1.1. 分裂の終焉と楊堅による統一事業

隋の建国者である楊堅(ようけん、後の文帝)は、北朝の最後の王朝である北周の漢人系の有力な将軍でした。彼の家系は、異民族の支配下で軍功を重ねた武川鎮軍閥(ぶせんちんぐんばつ)の一員であり、彼自身も鮮卑系の有力者の娘を妻に迎えるなど、胡漢融合の血と文化を体現する人物でした。

577年、北周はライバルであった北斉を滅ぼし、華北の統一を達成します。この過程で軍事的な実権を握った楊堅は、581年、幼い皇帝から禅譲(ぜんじょう、平和的な帝位の譲渡)という形で帝位を奪い、長安を都として隋を建国しました。これが隋の文帝です。

文帝が次に行ったのは、江南に残る最後の漢人王朝である陳を征服し、中国全土を統一することでした。彼は慎重に準備を進め、巨大な水軍を編成し、589年、長江を渡って陳の都・建康(現在の南京)を攻略し、陳を滅ぼしました。これにより、西晋の滅亡以来、約270年ぶりに中国は一つの王朝の下に再統一されたのです。

文帝の統一事業が成功した背景には、単なる軍事力だけでなく、彼の巧みな統治政策がありました。彼は、分裂時代を通じて肥大化し、地方に割拠していた豪族の力を抑え、皇帝を中心とする中央集権体制の確立を急ぎました。そのために、彼は南北朝時代を通じて徐々に形成されてきた様々な制度を、国家の統一的なシステムとして再編・確立していきました。

1.2. 中央集権化を支える三大制度の確立

文帝が整備した統治システムの中で、特に重要なのが、後の唐の律令国家体制の根幹をなすことになる三つの制度です。

  1. 中央官制の整備(三省六部制): 文帝は、中央政府の機構を大きく改革し、皇帝の権力を強化すると同時に、行政の効率化を図りました。皇帝の下に、政策の立案を行う中書省(ちゅうしょしょう)、それを審議する門下省(もんかしょう)、そして決定された政策を執行する尚書省(しょうしょしょう)の三省を置きました。そして、尚書省の下に、実務を分担する吏部(りぶ)・戸部(こぶ)・礼部(れいぶ)・兵部(へいぶ)・刑部(けいぶ)・工部(こうぶ)の六部を設置しました。この三省六部制は、各機関が相互に牽制しあうことで権力の集中を防ぎつつ、皇帝の最終決定権を確保する、極めて精緻な官僚システムであり、その後の歴代王朝に受け継がれていきました。
  2. 科挙の創始: 官吏の登用制度においても、文帝は画期的な改革を行いました。それまでの南北朝時代は、地方の豪族が推薦する子弟を官吏に登用する九品中正制が主流であり、有力な家柄の者が高級官僚の地位を独占する門閥貴族社会が形成されていました。文帝は、このような門閥貴族の力を抑え、皇帝に忠実な人材を広く求めるため、家柄ではなく個人の学識と能力を筆記試験によって判定する新しい官吏登用制度を開始しました。これが科挙の始まりです(隋では選挙と呼ばれた)。当初はまだ貴族層が有利でしたが、家柄に関わらず能力次第で高級官僚への道が開かれるという原則を打ち立てた点で、中国史における画期的な出来事でした。
  3. 均田制と租庸調制: 文帝は、国家の財政基盤と農民支配を安定させるため、北魏に始まる均田制を全国的に施行しました。これは、国家が土地を所有し、それを成年の男女に均等に給付し、その代償として税と労役を課す制度です。税制としては、均田農民から穀物を徴収する、労役を課す、絹や布などの地方特産品を徴収する調からなる租庸調制を確立しました。この均田制と租庸調(そようちょう)制は、国家が個々の農民を直接把握し、安定した税収を確保するための根幹となるシステムでした。

1.3. 煬帝の大事業と帝国の急激な崩壊

文帝の子である2代皇帝**煬帝(ようだい)**は、父とは対照的に、野心的な大事業を次々と推し進めた皇帝でした。彼の治世における最大の事業が、大運河の建設です。彼は、政治の中心地である華北と、分裂時代を通じて経済的に大きく発展した江南とを結びつけるため、既存の運河を連結・拡張し、北の涿郡(たくぐん、現在の北京付近)から南の余杭(よこう、現在の杭州)に至る、総延長2500キロメートルにも及ぶ壮大な運河網を完成させました。

この大運河は、江南の豊かな物資を都や北方の国境地帯に輸送することを可能にし、中国の南北を経済的に一体化させる上で計り知れない役割を果たしました。しかし、その建設には数百万もの民衆が強制的に動員され、多くの犠牲者を出しました。過酷な労働は、民衆の隋王朝への不満を増大させる大きな原因となりました。

さらに煬帝は、自身の威光を内外に示すため、大規模な土木事業(新都・洛陽の建設など)や、三度にわたる高句麗(こうくり)遠征を行いました。特に高句麗遠征は、100万人以上とも言われる大軍を動員しながら、いずれも失敗に終わり、国の財政を破綻させ、兵士や民衆の疲弊を極限にまで高めました。

これらの過酷な負担に耐えかねた民衆は、ついに各地で反乱を起こしました。反乱は全国に広がり、隋の統治は完全に崩壊しました。618年、煬帝は江南に逃れていたところを、配下の将軍に殺害され、ここに隋王朝は滅亡しました。

隋の滅亡は、そのあまりにも急激な改革と大規模な事業が、社会の実情を無視して民衆に過大な負担を強いた結果でした。しかし、隋が築いた統一国家の枠組みと、中央集権化のための諸制度は、反乱の中から頭角を現した李淵(りえん)・李世民(りせいみん)親子によって巧みに継承され、次の唐王朝の輝かしい成功の土台となったのです。その意味で、隋は次なる時代の「偉大な準備者」としての歴史的役割を果たしたと言えるでしょう。


2. 唐の成立と律令国家体制

隋末の大混乱の中から、中国を再統一し、その後約300年にわたって繁栄を謳歌する大帝国を築き上げたのが唐(618年〜907年)です。唐の時代は、政治・経済・文化のあらゆる面で中国史の頂点の一つとされ、その影響は日本や朝鮮半島、ベトナムなど東アジア全域に及び、「東アジア文化圏」を形成する上で決定的な役割を果たしました。唐の強さと安定の根源は、隋が創始し、唐が完成させた「律令(りつりょう)」と呼ばれる精緻な法典に基づく、高度な官僚支配システムにありました。この律令国家体制を理解することは、唐という帝国の本質と、それが東アジア世界に与えたインパクトの大きさを把握するための鍵となります。

2.1. 李淵・李世民親子による建国

唐の建国者である**李淵(りえん、後の高祖)は、隋の有力な貴族であり、楊堅と同じく北周の武川鎮軍閥の系譜に連なる人物でした。隋末に各地で反乱が起こると、彼は太原(たいげん)で留守(るす、地方長官)を務めていましたが、息子の李世民(りせいみん)**らの強い勧めもあり、隋に反旗を翻して挙兵しました。

李淵・李世民親子は、巧みな戦略で長安を占領し、618年に李淵が皇帝に即位して唐を建国しました。その後も、各地に割拠する他の反乱勢力を次々と打ち破り、数年のうちに中国の再統一を成し遂げました。この統一事業において、特に軍事面で傑出した才能を発揮したのが、次男の李世民でした。

建国後、皇太子となった長男の李建成(りけんせい)と、功績著しい李世民との間で後継者をめぐる激しい対立が起こりました。626年、李世民は宮城の玄武門(げんぶもん)で兄と弟を殺害し、実権を掌握します(玄武門の変)。父・高祖から帝位を譲られた李世民は、唐の第2代皇帝**太宗(たいそう)**として即位しました。

太宗の治世(在位626年〜649年)は、後世の儒学者たちから理想の時代として称賛され、「貞観(じょうがん)の治」と呼ばれています。太宗は、玄武門の変という非情な手段で権力を握ったという負い目を抱えていたためか、臣下の直言や諫言(かんげん)を積極的に聞き入れる度量の広い君主として振る舞いました。彼は房玄齢(ぼうげんれい)や杜如晦(とじょかい)といった有能な人材を登用し、政治の安定と民生の回復に努めました。また、隋の制度を継承・整備し、律令国家体制の基礎を固めました。対外的には、東方の遊牧民である突厥(とっけつ)を討ってその支配下に置き、北方遊牧民の君主の称号である「天可汗(てんかがん)」を贈られ、中華の皇帝であると同時に北方世界の覇者としても君臨しました。

2.2. 律令国家体制の完成

唐の統治システムの根幹をなしたのが、律令と呼ばれる体系的な成文法典です。これは、隋の制度を基礎とし、太宗の時代に編纂が始まり、第3代皇帝高宗の時代に完成しました。唐の法体系は、主に四つの要素から構成されています。

  • 律(Ritsu): 刑法典にあたるもの。どのような行為が犯罪となり、それに対してどのような刑罰(笞・杖・徒・流・死の五刑)が科されるかを詳細に規定しています。その目的は、社会秩序を維持し、犯罪を抑止することにありました。
  • 令(Ryō): 行政法典および民法典にあたるもの。中央や地方の官制、官吏の服務規程、戸籍、税制、土地制度、教育制度、儀式など、国家の統治に関するあらゆる分野の基本規定を網羅しています。
  • 格(Kyaku): 律令の条文を補足・修正するための追加法令。時代の変化に対応して、随時発布されました。
  • 式(Shiki): 律令格を施行するための、より詳細な事務手続きや書式などを定めた施行細則。

この律・令・格・式が一体となって、唐の国家運営のすべてを規定する巨大な法体系を形成していました。このシステムの最大の特徴は、皇帝個人の恣意的な判断や、有力貴族の情実による支配ではなく、全ての人民が法の下に平等に(理念上は)扱われる、法治主義に基づいていた点です。国家の隅々にまで官僚機構が張り巡らされ、法に基づいて人民を統治するという高度な中央集権的官僚国家体制、これが律令国家の本質です。

2.3. 中央と地方の統治機構

唐の律令は、中央と地方の統治機構についても詳細に定めていました。

  • 中央官制: 基本的に隋の三省六部制を継承しましたが、より洗練されたものになりました。中書省が詔勅(皇帝の命令)の起草、門下省がその審議・拒否権(封駁、ふうばく)の行使、尚書省が承認された詔勅の執行を担当し、三省が互いに権力を牽制し合うことで、慎重な政策決定が図られました。六部は尚書省の下で具体的な行政実務を担いました。これらに加えて、官吏の監察を担当する**御史台(ぎょしだい)**が置かれ、行政の公正さを監視する役割を果たしました。
  • 地方官制: 全国をに分け、その下にを置く州県制が施行されました。州の長官である刺史(しし)と県の長官である県令(けんれい)は、いずれも中央から派遣された官僚であり、任期も定められていました。これにより、地方豪族がその土地を世襲的に支配することを防ぎ、中央の統治を全国の末端まで浸透させることが目指されました。

この精緻な律令国家体制は、唐の長期にわたる安定と繁栄の礎となりました。そして、その完成度の高さから、周辺諸国にも大きな影響を与えました。日本、新羅(しらぎ)、渤海(ぼっかい)、ベトナムなどは、積極的に唐の律令を導入・模倣し、自国の中央集権化を進めました。これにより、漢字文化圏、儒教、仏教、そして律令という共通の文化的・政治的基盤を持つ「東アジア文化圏(漢字文化圏)」が形成されたのです。唐の律令は、単に一帝国の統治システムに留まらず、東アジアという広大な地域全体の国家形成のモデルとなった、世界史上でも稀有な法体系でした。


3. 均田制、租庸調制、府兵制

唐の律令国家という壮大な建築物を、その根底から支えていたのは、経済と軍事を一体として運営する、極めて巧妙に設計された三つのシステムでした。それが均田制(きんでんせい)租庸調制(そようちょうせい)、そして**府兵制(ふへいせい)**です。これら三つの制度は、独立して存在するのではなく、互いに密接に連携し、有機的な一つの統一体として機能していました。国家が人民一人ひとりを直接把握し、彼らに土地を与えて自作農として育成し、その見返りとして税と兵役を確保する。この三位一体のシステムこそが、唐帝国前半期の強さと安定の源泉でした。

3.1. 均田制:国家による土地支配の理想

均田制は、唐の土地制度の根幹であり、租庸調制と府兵制の前提となる制度でした。北魏に始まり、隋を経て唐で完成されたこの制度の基本理念は、「天下の土地はすべて皇帝のものである(王土王民思想)」という考え方に基づいています。

  • 制度の仕組み: 国家は、全国の土地と人民を戸籍によって詳細に把握します。そして、成人男性(丁男、ていだん)に対し、一定の面積の土地を国家から給付します。給付される土地には、本人が死亡したり老いたりすれば国家に返還しなければならない**口分田(くぶんでん)と、桑や麻などを植え、子孫に世襲することが認められた永業田(えいぎょうでん)**の二種類がありました。女性や、官僚、奴婢などにも、身分に応じて一定の土地が給付されました。
  • 制度の目的: 均田制の目的は、大きく二つありました。
    1. 自作農の維持と確保: 農民に最低限の耕作地を保障することで、彼らが豪族や貴族に土地を奪われ、その支配下に入ることを防ぎました。これにより、国家は安定した生活基盤を持つ多数の自作農を確保し、彼らを直接の課税・徴兵対象とすることができました。
    2. 豪族・貴族の抑制: 土地の私有を原則として認めず、売買を厳しく制限することで、有力な貴族や豪族による土地の兼併(独占)を抑制し、彼らの経済的基盤が過度に強大化することを防ぐ狙いがありました。

均田制は、国家が全国民を直接支配するという、極めて中央集権的な理想を体現した制度でした。しかし、この理想を現実世界で維持することは容易ではありませんでした。人口の増加に伴う給付地の不足、貴族や官僚による特権的な土地所有の拡大、そして農民による土地の不法な売買などにより、制度は次第に形骸化していく運命にありました。

3.2. 租庸調制:人頭税を基本とする税制

租庸調制は、均田制によって土地を給付された農民(均田農)に課せられる税制です。この税制の最大の特徴は、土地や資産の多寡ではなく、成人男性一人ひとり(人頭)を単位として課税される人頭税であった点です。

  • 租(So): 土地(口分田)に対して課される基本的な税で、主食である穀物(粟)を納めました。税率は土地の面積に関わらず、成人男性一人あたりで固定されていました。
  • 庸(Yō): 成人男性に課せられる年間の労役(中央での土木作業など)です。しかし、遠隔地の農民が都で労役に従事することは困難なため、多くの場合、労役の代わりに絹や布を納めることで免除されました。この代納の布帛が「庸」と呼ばれました。
  • 調(Chō): 各地の特産物、主に絹や布を納める物品税です。これも成人男性一人ひとりを単位として課税されました。

租・庸・調として徴収された穀物や布帛は、官僚の俸給や国家の経費に充てられました。このシステムは、国家が戸籍を通じて全国の課税対象となる成人男性の数を正確に把握している限り、非常に安定した税収をもたらしました。しかし、裏を返せば、農民が土地を失って逃亡したり、戸籍の把握が不正確になったりすると、税制そのものが機能不全に陥るという脆弱性を抱えていました。租庸調制は、均田制という土台の上にしか成り立たない、表裏一体の制度だったのです。

3.3. 府兵制:農民兵による低コストの軍事力

府兵制は、唐前半期の軍事制度の中核をなすもので、均田農を兵士として徴発する農兵一致徴兵制度でした。

  • 制度の仕組み: 全国の主要な州に**折衝府(せっしょうふ)**と呼ばれる軍団の基地が置かれ、そこから管轄下の農民が兵士として徴募されました。兵士に選抜された均田農は、農閑期に折衝府で軍事訓練を受け、一定期間、交代で都の警備や辺境の防衛任務に就きました。
  • 制度の特徴:
    1. 兵農一致: 兵士は普段は農業に従事する農民であり、特定の軍人階級が存在するわけではありませんでした。
    2. 自己負担の原則: 兵役の義務を負う代わりに租庸調の税が免除されましたが、兵役に必要な武器や食料は、原則として兵士自身の負担とされました。
    3. 低コストな軍事力: この制度により、国家は常備軍を抱えるための莫大な費用をかけることなく、強力な軍事力を維持することができました。

府兵制は、兵士となる農民が自己の土地(口分田)からの収入によって生活と装備を維持できること、そして郷土防衛という高い士気を持っていることを前提としていました。したがって、この制度もまた、農民の生活を保障する均田制の健全な運営に全面的に依存していました。

このように、均田制・租庸調制・府兵制の三つは、互いに補完し合う形で、律令国家の経済的・軍事的基盤を形成していました。しかし、この精緻なシステムは、人口の増加や社会の変化といった内的な要因によって、その前提が崩れ始めます。そして、8世紀半ばの安史の乱という決定的な外的衝撃によって、この三位一体のシステムは完全に崩壊し、唐は全く新しい社会経済システムへの移行を余儀なくされることになるのです。


4. 唐の国際色豊かな文化と長安

唐の時代は、中国史上、最も開放的で国際性豊かな時代として知られています。その首都・**長安(ちょうあん)**は、人口100万人を超え、東は日本から、西はペルシア、アラブ、さらには東ローマ帝国に至るまで、世界各地から商人、使節、留学生、僧侶たちが集まる、文字通りの世界帝国の首都(コスモポリス)でした。シルクロードや海の道を通じて、人、モノ、情報、そして文化が絶え間なく流れ込み、長安は多様な文化が交差し、融合する壮大な実験場となりました。このコスモポリタンな雰囲気こそが、唐代文化の最も大きな特徴であり、その後の時代には見られない輝きを放つ源泉でした。

4.1. 世界都市・長安の景観

唐の長安城は、隋の文帝が建設した大興城(だいこうじょう)を基礎とし、計画的に設計された巨大な都城でした。

  • 計画的な都市設計: 全体が東西約9.7km、南北約8.6kmの長方形の城壁で囲まれ、内部は碁盤の目のような直線道路によって整然と区画されていました。中央北部に皇帝の住む宮城(きゅうじょう)と官庁街である皇城(こうじょう)が位置し、残りの居住区(坊、ぼう)は高い塀で囲まれ、夜間の通行が制限されるなど、厳格な管理下にありました。
  • 二大市場の賑わい: 城内には、東市(とうし)と西市(せいし)という二つの巨大な官営市場が設けられていました。東市は主に国内向けの高級品を扱う市場であったのに対し、西市はシルクロードを通じてもたらされる西方の珍しい商品を扱う国際市場として、特に賑わいを見せました。ここでは、ペルシアの絨毯、中央アジアの馬や音楽、西域の宝石や香辛料などが取引され、様々な言語が飛び交っていました。ソグド人やペルシア人、ウイグル人といった西方からの商人が居住区を形成し、異国情緒あふれる雰囲気を醸し出していました。
  • 多様な宗教施設: 長安には、中国古来の道教寺院や、国教に近い地位にあった仏教寺院が数多く建立されただけでなく、西方から伝わった多様な外来宗教の寺院も存在しました。キリスト教の一派であるネストリウス派(景教、けいきょう)、ペルシア起源のゾロアスター教(祆教、けんきょう)やマニ教の寺院が建てられ、唐王朝の宗教的寛容さを示していました。

4.2. 貴族文化の爛熟と文学・芸術

唐代文化の中心的な担い手は、六朝時代以来の伝統を受け継ぐ貴族階級でした。彼らは豊かな経済力を背景に、洗練された優雅な文化を育みました。

  • 詩の黄金時代: 唐代は、中国文学史上、詩が最も栄えた時代でした。特に、盛唐期(8世紀前半)には、豪放でロマンティックな作風で「詩仙」と称された**李白(りはく)と、安史の乱を経験し、社会の苦悩を誠実な筆致で詠い、「詩聖」と称された杜甫(とほ)**という、二人の巨匠が登場しました。彼らの作品は、後世の文学に計り知れない影響を与え、今日でも多くの人々に愛されています。
  • 書と絵画: 書道では、初唐の**顔真卿(がんしんけい)が、力強く剛直な書風を確立し、王羲之以来の伝統に新たな一面を加えました。絵画では、人物画や山水画が発展し、特に呉道玄(ごどうげん)**は、立体感あふれる画風で知られました。
  • 国際色豊かな工芸品: 唐代の工芸品は、西方からの影響を色濃く反映しています。特に有名なのが、緑・褐色・白などの釉薬(ゆうやく)で鮮やかに彩られた**唐三彩(とうさんさい)**です。ラクダに乗った胡人(西方の商人)や、西域の楽器を奏でる女性などをかたどった俑(よう、人形)は、当時の国際的な風俗を生き生きと伝えています。また、ペルシアやササン朝様式の金銀器やガラス器も、貴族たちに愛好されました。

4.3. 仏教の隆盛と文化の伝播

唐代は、仏教が最も隆盛した時代でもありました。インドから伝わった仏教は、この時代に中国的な変容を遂げ、民衆の間に深く浸透していきました。

  • 経典の翻訳と宗派の確立: 多くの僧侶が、仏法を求めてインドへ旅しました。特に有名なのが、7世紀に陸路でインドへ向かい、膨大な経典を持ち帰ってその翻訳事業に生涯を捧げた**玄奘(げんじょう)**です。彼の旅は、後に『西遊記』の物語のモデルとなりました。彼の法相宗(ほっそうしゅう)や、則天武后の保護を受けた華厳宗(けごんしゅう)、そして禅宗や浄土教といった、中国独自の仏教宗派が次々と確立されました。
  • 政治との関わり: 仏教は、しばしば国家の保護を受け、鎮護国家の思想と結びついて隆盛しました。特に、中国史上唯一の女帝である**則天武后(そくてんぶこう)**は、自らを弥勒菩薩の化身と称し、仏教を篤く保護して自らの権威を高めました。しかし、その一方で、寺院が広大な荘園を持ち、多くの人民を僧侶として抱え込むことは、国家の財政を圧迫する要因ともなりました。そのため、晩唐期には、道教を重視する武宗(ぶそう)による大規模な仏教弾圧(会昌の廃仏、かいしょうのはいぶつ)が行われ、仏教界は大きな打撃を受けました。

唐の国際性豊かな文化は、日本や新羅などからの留学生や留学僧によって、彼らの母国へと伝えられました。日本の遣唐使たちは、長安の制度や文化を熱心に学び、日本の平城京や平安京は長安をモデルとして建設されました。正倉院の宝物には、唐やさらに西方の文化の影響を受けた品々が数多く残されており、当時の文化交流の広がりを物語っています。唐の文化は、単に一国の文化に留まらず、東アジア世界全体が共有する古典文化の源流となったのです。


5. 安史の乱と唐の衰退

栄華を極めた唐帝国は、8世紀半ば、その運命を根底から揺るがす巨大な内乱に見舞われます。それが**安史の乱(あんしのらん)**です。この反乱は、単なる権力闘争や一時的な混乱に留まらず、唐という帝国の社会・経済・軍事のあらゆるシステムを根底から破壊し、歴史の分水嶺となりました。安史の乱を境として、唐は前半の「盛唐」と後半の「晩唐」に明確に分かれます。前半の律令国家体制が崩壊し、社会は全く新しい様相を呈するようになります。この大乱の原因を理解し、それがもたらした構造的な変化を分析することは、唐から宋への歴史的移行を理解する上で最も重要な鍵となります。

5.1. 乱の背景:律令国家体制の綻び

安史の乱は、皇帝玄宗(げんそう)の治世後半に起こりました。彼の治世前半は「開元の治」と称えられる善政の時代でしたが、後半になると、政治への関心を失い、寵愛する**楊貴妃(ようきひ)**とその一族である楊国忠(ようこくちゅう)らを重用するようになり、政治は乱れ始めました。しかし、乱の根本的な原因は、より深く、唐の国家システムそのものの内部にありました。

  • 府兵制の崩壊: 均田制が揺らぎ始め、農民の貧富の差が拡大すると、農民兵である府兵のなり手が減少し、その質も低下しました。兵役は貧農にとって重い負担となり、逃亡者が続出しました。これにより、律令国家の軍事基盤であった府兵制は、8世紀初頭には事実上崩壊していました。
  • 募兵制と節度使の台頭: 府兵制に代わって、国家が給料を支払って兵士を募集する**募兵制(ぼへいせい)が主力となりました。特に、異民族との緊張が高い辺境地帯では、長期間にわたって防衛にあたる強力な常備軍が必要とされました。政府は、これらの辺境軍団の指揮官として、管轄区域の軍事権、行政権、財政権のすべてを握る絶大な権限を持つ節度使(せつどし)**を置きました。
  • 内重外軽の逆転: 唐の初期は、中央の軍事力が地方を圧倒する「内重外軽(ないちょうがいけい)」の状態でした。しかし、節度使制度の発展により、辺境に駐屯する節度使の軍事力が中央の禁軍をはるかに凌駕する「外重内軽(がいちょうないけい)」という危険な状況が生まれていました。節度使は、中央政府のコントロールが及ばない半独立的な軍閥と化す潜在的な脅威をはらんでいたのです。

5.2. 安禄山と史思明の反乱

このような状況の中で、一人の節度使が絶大な権力を手中にします。それがソグド系の出身とされる**安禄山(あんろくざん)**です。彼は、玄宗皇帝と楊貴妃の寵愛を巧みに利用し、河北地方の三つの節度使を兼任し、唐軍の3分の1近くを私兵として掌握するに至りました。

中央政府で権力を握っていた楊国忠は、安禄山の勢力拡大を危険視し、両者の対立は日に日に激化していきました。755年、安禄山は「君側の奸(くんそくのかん、君主のそばにいる悪臣)である楊国忠を討つ」ことを名目に、范陽(はんよう、現在の北京)で挙兵しました。これが安史の乱の始まりです。

安禄山の率いる強力な反乱軍は、ほとんど抵抗を受けることなく南下し、翌年には副都・洛陽、そして首都・長安をも占領しました。玄宗は楊貴妃らを伴って蜀(しょく、四川省)へ逃亡する途中、護衛の兵士たちに反乱の原因となった楊一族の誅殺を要求され、やむなく楊貴妃に死を賜りました。

反乱は、安禄山が息子の安慶緒(あんけいしょ)に殺害され、その安慶緒も安禄山の部下であった**史思明(ししみょう)**に殺されるなど、反乱軍内部の内紛もあって長期化しました。唐王朝は、地方に残っていた唐の将軍たちの抵抗や、ウイグル(回鶻、かいこつ)の援軍を得て、辛うじて反撃に転じ、763年に史思明の子である史朝義(しちょうぎ)が自殺したことで、約9年間にわたる大乱はようやく鎮圧されました。

5.3. 乱がもたらした社会の根本的変容

安史の乱は、唐王朝に回復不可能なほどの深刻な傷跡を残しました。その影響は、社会のあらゆる側面に及びました。

  1. 政治・軍事体制の変容:
    • 節度使の割拠: 乱を鎮圧する過程で、唐朝は反乱軍から寝返った将軍や、鎮圧に功績のあった将軍たちをも節度使に任命せざるを得ませんでした。その結果、乱の後、国内の各地(特に河北地方)に、中央政府の命令に従わない強力な軍閥としての節度使(藩鎮、はんちん)が割拠する状態が常態化しました。唐の皇帝の支配権は、もはや長安周辺の直轄地にしか及ばなくなり、帝国は事実上の地方分権国家へと変貌しました。
    • 宦官の台頭: 皇帝は、藩鎮勢力を警戒するあまり、身近に仕える宦官(かんがん)を信頼し、彼らに軍隊の監察権や指揮権を与えるようになりました。これにより、宦官が国政を壟断(ろうだん)し、皇帝の廃立すら意のままに行うという、深刻な政治腐敗を引き起こしました。
  2. 社会・経済体制の崩壊:
    • 戸籍の喪失と均田制の崩壊: 戦乱によって華北地方は甚大な被害を受け、多くの農民が殺されたり、土地を捨てて流民となったりしました。これにより、国家が農民を把握するための戸籍は失われ、均田制・租庸調制・府兵制という律令国家の根幹をなすシステムは、物理的に維持不可能となり、完全に崩壊しました。
    • 江南の重要性の高まり: 戦乱を逃れた人々が、比較的被害の少なかった江南(長江下流域)へ大量に移住しました。これにより、中国の経済・文化の中心は、黄河流域の華北から、江南へと決定的に移行していくことになります。
  3. 社会階層の変化:
    • 門閥貴族の没落: 貴族たちは、乱の中で経済的基盤であった荘園を失い、政治的権威も失墜しました。彼らは徐々に没落していき、代わって、科挙を通じて実力で官僚となった新興の知識人層(後の士大夫)や、地方の有力者(形勢戸、けいせいこ)が台頭してくることになります。

安史の乱は、盛唐期までの貴族的・国際的な律令国家を終焉させ、全く新しい社会への扉を開いた、中国史における巨大な地殻変動でした。乱後の唐(晩唐)は、この深刻なダメージから立ち直ることができず、藩鎮の割拠、宦官の専横、そして農民反乱の頻発という慢性的な病に苦しみながら、緩やかな衰退の道を歩んでいくことになります。


6. 両税法と荘園制の発展

安史の乱という未曾有の大動乱は、唐の律令国家体制の経済的基盤であった均田制と租庸調制を完全に破壊しました。戸籍は失われ、農民は土地から離散し、国家は旧来の方法では税を徴収することができなくなりました。この国家的な財政危機を乗り切るため、唐政府は現実の社会経済状況に即した、全く新しい税制を導入する必要に迫られました。それが両税法(りょうぜいほう)です。この新税制は、国家の課税原理を根本から転換させるとともに、土地の私有を事実上公認することになり、貴族や官僚、富裕商人による荘園制の発展を決定的に促しました。

6.1. 新税制への模索と両税法の導入

安史の乱の最中から、唐政府は崩壊した租庸調制に代わる財源を確保するため、様々な新しい税を導入しました。その中で最も重要だったのが、塩の専売制度です。政府が塩の生産と販売を独占し、そこに高い利益を上乗せすることで、国家は巨額の収入を得ることに成功しました。この塩の専売収入は、乱後の唐の財政を支える最大の柱となりました。

しかし、国家の基本的な税制を再建することは急務でした。宰相の**楊炎(ようえん)**の提案により、780年に施行されたのが両税法です。この税制は、それまでの租庸調制とは全く異なる、画期的な特徴を持っていました。

  • 課税基準の変更(人から資産へ): 租庸調制が成人男性一人ひとりを単位とする人頭税であったのに対し、両税法は各戸が所有する土地や資産の額に応じて課税額を決定する資産税でした。これは、国家がもはや人民一人ひとりを直接把握し管理することを放棄し、代わりに土地や財産という「モノ」を課税の基準とするという、統治理念の根本的な転換を意味しました。
  • 徴税時期の変更(年二回): 税は、夏と秋の二回に分けて徴収されました。これは、麦と稲の二毛作が普及しつつあった江南地方の農業実態に合わせたものであり、中国の経済の中心が華北から江南へ移ったことを象اءِしています。
  • 納税方法の変更(現物から貨幣へ): 税は、原則として**貨幣(銅銭)**で納めることが定められました。これにより、農民は収穫物を市場で売って貨幣に換える必要が生じ、商品貨幣経済が農村の隅々にまで浸透していくことになりました。
  • 税制の一元化: 租庸調制やその他雑多な税をすべて両税法に一本化し、税制を簡素化することを目指しました。

6.2. 両税法がもたらした歴史的意義

両税法の導入は、単なる税制改革に留まらず、中国の社会経済史における大きな転換点となりました。

  1. 土地私有の公認: 両税法は、土地の所有を前提として課税する制度です。これは、国家が建前としてきた土地公有制(均田制)を事実上放棄し、土地の私有と自由な売買を公認したことを意味します。これにより、土地は自由に取引される商品となり、人々の経済活動は大きく変化しました。
  2. 商品貨幣経済の発展: 貨幣による納税が原則となったことで、経済の貨幣化が急速に進展しました。農民は生産物を商品として市場に出し、都市の商工業も活発化しました。これは、後の宋代における爆発的な経済発展の素地を準備するものでした。
  3. 新たな社会階層の形成: 土地の自由な売買が可能になると、富裕な官僚、商人、軍人などが、資力に劣る農民から土地を買い集め、巨大な土地所有者となる道が開かれました。これにより、貧富の差は一層拡大し、少数の大地主と、土地を失って小作人(佃戸、でんこ)となった多数の農民という、新しい社会階層が形成されていきました。

6.3. 荘園制の発展と佃戸制

両税法によって土地私有が公認された結果、唐代後半から宋代にかけて、荘園制が中国の基本的な土地所有形態として一般化しました。この荘園は、中世ヨーロッパの荘園とは異なり、領主が農奴を人格的に支配するというよりも、地主と小作人の間の経済的な契約関係(小作制度)を基本としていました。

  • 荘園の所有者: 荘園を所有したのは、もはや旧来の門閥貴族ではなく、科挙官僚や富裕商人といった新興の地主層(形勢戸)でした。彼らは都市に住み、所有する荘園の経営は代理人(荘官)に任せることが多く、不在地主としての性格を強めていきました。
  • 佃戸(小作人): 土地を失った農民の多くは、地主から土地を借りて耕作する佃戸となりました。彼らは、収穫物の一部を小作料(地代)として地主に納めました。佃戸は法的には自由民であり、移転の自由も認められていましたが、経済的には地主に強く依存しており、しばしば厳しい搾取に苦しみました。この地主と佃戸の関係(地主佃戸制)は、その後、近代に至るまで中国農村社会の基本的な構造となります。

両税法の導入と荘園制の発展は、安史の乱によって崩壊した律令国家システムに代わる、新しい社会経済秩序を打ち立てました。それは、国家による人民への直接的・人格的な支配が後退し、土地と貨幣を媒介とした、より間接的で経済的な支配へと移行していくプロセスでした。この大きな構造転換が、次の宋代における新たな社会と文化、すなわち士大夫階級の支配と、活発な市場経済の時代を準備したのです。


7. 宋の中国統一と文治主義

唐の滅亡後、中国は再び分裂と混乱の時代に突入します。華北では、わずか50数年の間に五つの王朝がめまぐるしく興亡し(五代)、江南やその他の地域では十の地方政権が割拠しました(十国)。この五代十国時代は、唐末以来の節度使(軍閥)が武力によって覇権を争う、まさに「下剋上」の時代でした。この長く続いた軍人支配の悪夢に終止符を打ち、中国を再統一したのが宋(960年〜1279年)です。宋の建国者である趙匡胤(ちょうきょういん、後の太祖)は、自らも軍人であったがゆえに、軍人が政治に介入することの危険性を誰よりも深く理解していました。その結果、宋王朝は、唐以前の王朝とは全く異なる、徹底した「文治主義(ぶんちしゅぎ)」を国家の基本理念として掲げることになります。

7.1. 陳橋の変と趙匡胤による建国

宋の太祖・趙匡胤は、五代最後の王朝である後周(こうしゅう)の有力な将軍でした。959年に後周の世宗が急死し、わずか7歳の恭帝(きょうてい)が即位すると、趙匡胤は軍の最高司令官として実権を握ります。

960年、北方の遼(契丹)が侵攻してきたとの報が伝わると、趙匡胤は軍を率いて首都・開封(かいほう)を出撃しました。その途中、部下の将軍たちは、幼い皇帝に代わって趙匡胤こそが天下の主となるべきであると彼を担ぎ上げ、皇帝の象徴である黄袍(こうほう、黄色い衣)を彼の体に着せかけました。趙匡胤はこれを受け入れ、兵を返して開封に戻り、恭帝から平和裏に帝位を譲り受けました。これが、血を流さずに行われたクーデターである「陳橋(ちんきょう)の変」です。

皇帝に即位した太祖は、まず五代十国の分裂状態を終わらせるための統一事業に着手しました。彼は「先南後北(せんなんこうほく)」の方針を採り、まず経済的に豊かで抵抗の少ない南方の十国を次々と併合し、国力を充実させた後、最後に北方の強敵・北漢(ほっかん)を討つという、現実的で巧みな戦略を用いました。979年、弟である第2代皇帝太宗の時代に北漢を滅ぼし、ここに唐末以来の長期にわたる分裂は終わりを告げ、中国は再び統一されました(ただし、北京周辺の燕雲十六州や西方のタングートの地は回復できず、領土的には不完全な統一でした)。

7.2. 文治主義:軍人支配の終焉

趙匡胤が統一事業と並行して、最も心血を注いだのが、五代十国時代の混乱の原因であった節度使の権力を解体し、二度と軍人が政治を脅かすことがないような国家システムを構築することでした。この、武力や軍事力を軽んじ、学問や教養を身につけた文人官僚による統治を最上とする国家理念が文治主義です。

太祖は、建国に功績のあった将軍たちを集めて宴会を開き、「お前たちが皇帝になりたいと思わなくても、部下たちが黄袍を着せかければどうしようもないだろう。それよりは、兵権を返上し、地方で安楽な余生を送るのが最善ではないか」と説得し、彼らから軍事指揮権を巧みに取り上げました。これは「杯酒釈兵権(はいしゅしゃくへいけん)」として知られる逸話で、宋の文治主義の始まりを象徴する出来事です。

宋王朝が確立した文治主義的な政策の具体的な内容は、以下の通りです。

  1. 皇帝への権力集中(強幹弱枝):
    • 軍事権の集中: 全国の精鋭部隊を首都・開封に集めて皇帝直属の**禁軍(きんぐん)**とし、地方軍の力を弱体化させました(強幹弱枝、きょうかんじゃくし)。また、軍隊の指揮権(兵権)を皇帝が直接掌握し、節度使の地位を名誉職化して、その権力を完全に無力化しました。
    • 財政権・行政権の集中: 地方の財政権と行政権も中央に集められました。地方の長官である知州(ちしゅう)は中央から文人官僚が派遣され、その権限を監督するために中央から監察官(通判、つうはん)が送られるなど、地方に対する中央の統制が極めて厳しくなりました。
  2. 文官優位の原則:
    • 軍人の地位を意図的に低く抑え、文人官僚が軍人よりも上位に立つという原則を徹底しました。国政の重要事項はすべて文官によって決定され、軍人は政治決定の場から排除されました。
  3. 科挙制度の拡充:
    • 皇帝に忠実で有能な文人官僚を大量に登用するため、科挙制度が大幅に拡充されました。隋唐時代と異なり、宋代の科挙は家柄による影響がほぼなくなり、あらゆる階層の優秀な人材に門戸が開かれました。
    • 最終試験として、皇帝自らが行う**殿試(でんし)**が導入されました。これにより、合格者は「天子門生(てんしもんせい、天子の教え子)」として、皇帝個人との間に強い君臣関係を結ぶことになり、皇帝への忠誠心が高い官僚集団(士大夫、したいふ)が形成されました。

7.3. 文治主義がもたらした光と影

宋王朝が打ち立てた文治主義は、唐末以来の軍閥割拠の時代を終わらせ、その後300年以上にわたる国内の政治的安定をもたらしたという点で、大きな成功を収めました。権力が皇帝に集中したことで、国内の統一が維持され、後のモンゴルの侵攻まで、大規模な内乱によって王朝が揺らぐことはありませんでした。

しかし、この文治主義は、同時に深刻な負の側面ももたらしました。

  • 軍事力の弱体化: 軍人の地位を低く抑え、指揮系統を複雑にした結果、宋の軍隊は著しく弱体化しました。これにより、北方の遼や西夏、後の金といった強大な遊牧国家の軍事的圧力に常に対抗できず、多額の歳幣(さいへい、貢ぎ物)を支払って平和を購(あがな)うという、屈辱的な外交を強いられることになりました。
  • 財政の圧迫: 皇帝直属の禁軍を維持するための莫大な軍事費と、科挙を通じて大量に採用された官僚たちに支払う俸給が、国家財政を極度に圧迫しました。官僚の数は増え続け、組織は肥大化し、非効率化していきました(冗官、じょうかん)。

この軍事力の弱体化と財政難という、文治主義がもたらした構造的な問題は、宋王朝が常に抱え続けるアキレス腱となりました。11世紀半ば、この深刻な国家の危機を打開するため、一人の政治家による抜本的な改革が試みられることになります。


8. 王安石の改革

宋王朝が確立した文治主義は、国内の政治的安定という大きな成果をもたらした一方で、深刻な副作用を生み出しました。11世紀半ばの神宗(しんそう)の時代になると、文治主義がもたらした構造的な矛盾は、もはや看過できないレベルにまで達していました。国家は、肥大化した官僚組織(冗官、じょうかん)、膨れ上がった軍隊(冗兵、じょうへい)、そしてそれらを維持するための莫大な歳出(冗費、じょうひ)という、三つの「冗」の問題に苦しみ、財政は破綻の危機に瀕していました。この国家的な危機を乗り越えるため、若き皇帝・神宗に抜擢され、抜本的な国政改革を断行したのが、宰相・**王安石(おうあんせき)**でした。彼の改革は、宋の社会経済のあり方を根本から変えようとする野心的な試みでしたが、同時に激しい政治的対立を引き起こし、宋の歴史に大きな影響を与えることになります。

8.1. 改革の背景:北宋社会の行き詰まり

王安石が改革に着手した11世紀後半、北宋は建国から100年以上が経過し、社会の様々な面で深刻な問題が露呈していました。

  • 財政危機: 文治主義政策の結果、科挙官僚の数は建国当初の数倍に膨れ上がり、彼らに支払う俸給が国家財政を圧迫していました。また、弱体な軍事力を補うために禁軍の兵士の数を増やし続けた結果、軍事費も天文学的な額に達していました。さらに、北方の遼や西夏に毎年支払う多額の歳幣も、財政難に拍車をかけていました。歳入は増えず、歳出ばかりが増え続けるという、構造的な赤字財政に陥っていたのです。
  • 中小農民の没落: 唐代後半から進行した土地の兼併は宋代に入ってさらに加速し、一部の大地主(官僚や富裕商人)が土地の大部分を所有し、大多数の農民は土地を持たない小作人となっていました。彼らは高い小作料に苦しむだけでなく、天災や不作の際には、高利貸しから借金をせざるを得ず、ますます困窮していました。国家の税収の基盤であるべき中小農民の没落は、国家の危機そのものでした。
  • 富の偏在: 商業の発展は国全体を豊かにしましたが、その富は一部の大商人や特権階級に集中していました。彼らは巧みに税を逃れ、国家の財政に貢献しない一方で、中小の農民や商人だけが重税に苦しむという不公平な状況が生まれていました。

王安石は、これらの問題の根本原因は、国家が経済活動に積極的に介入せず、大商人や大地主の自由な利潤追求を放置していることにあると考えました。彼の改革の基本理念は、国家が経済政策を主導し、中小農民や商人を保護・育成することで、富の再分配を図り、最終的には国家の財政を再建し、国を豊かにし(富国)、軍を強くする(強兵)ことにありました。

8.2. 新法の具体的な内容

1069年、神宗の全面的な支持を得て宰相となった王安石は、「新法(しんぽう)」と呼ばれる一連の改革政策を次々と打ち出しました。

  • 富国策(財政再建と経済振興):
    • 青苗法(せいびょうほう): 農民が最も資金を必要とする春の植え付けの時期(青苗の時期)に、政府が低利で資金や穀物を貸し付け、秋の収穫期に利息とともに返済させる制度。高利貸しから農民を救済し、農業生産を安定させることを目的としました。
    • 市易法(しえきほう): 中小商人を保護するため、政府が資金を貸し付けたり、売れ残った商品を買い上げたりする機関を設置する制度。これにより、大商人による市場の独占を防ぎ、物価の安定を図りました。
    • 募役法(ぼえきほう): これまで農民に課されていた労役(職役)を免除する代わりに、資産に応じて免役銭を徴収し、その金で専門の業者を雇って労役を行わせる制度。農民を労役の負担から解放し、農業に専念させることを目指しました。
    • 均輸法(きんゆほう): 政府が各地の物資を輸送する際に、その地域の特産品を安く買い上げ、不足している他の地域に転売することで、輸送費を節約し、政府の収入を増やすとともに物価の調整を図る制度。
  • 強兵策(軍事力の強化):
    • 保甲法(ほこうほう): 農村で10戸を1保、50戸を1大保といった形で組織させ、平時は治安維持や相互監視にあたらせ、戦時には民兵として徴集する制度。徴兵制を復活させ、軍事費を削減しつつ兵力を増強することを目的としました。
    • 保馬法(ほばほう): 軍馬を農家に預けて飼育させ、その代償として税を免除する制度。騎馬軍団の強化に不可欠な軍馬を、平時から確保しておくことを狙いとしました。

8.3. 改革の挫折と党争の激化

王安石の新法は、国家のあり方を根本から変えようとする、極めて大胆な改革でした。しかし、その急進的な内容は、多くの人々の既得権益を脅かすものであり、当初から激しい反対に遭いました。

新法に反対したのは、**司馬光(しばこう)**をはじめとする保守的な思想を持つ官僚たち(旧法党)でした。彼らは、王安石の改革(新法党)が、国家の役割を不当に拡大し、民間の経済活動に過度に介入するものであり、民衆の利益をかえって損なう「民と利を争う」ものだと批判しました。また、大地主や大商人でもあった多くの官僚たちは、自らの経済的利益が損なわれることを恐れました。

さらに、新法の実施にあたっては、現場の役人の不正や、地方の実情を無視した画一的な運用により、本来の趣旨とは逆に民衆を苦しめるケースも少なくありませんでした。例えば、青苗法では、貸し付けが強制的に行われ、その返済が農民の重い負担となることもありました。

神宗が生きている間は、皇帝の支持を背景に改革が続けられましたが、神宗が死去し、幼い哲宗が即位すると、旧法党が政権を握り、新法は次々と廃止されてしまいました。その後も、皇帝が交代するたびに新法党と旧法党が政権を奪い合い、互いに相手を弾圧するという、泥沼の政治闘争(新法・旧法の党争)が約50年にわたって続きました。

この長期にわたる党争は、有能な人材を政治の中心から遠ざけ、国論を二分し、宋の国力を著しく消耗させました。王安石の改革は、宋が抱える構造的な問題を解決しようとする真摯な試みでしたが、その急進性と手法の硬直性が激しい反発を招き、結果として深刻な政治的混乱を残して挫折に終わったのです。そして、この内紛で国力が疲弊している間に、北方の脅威は、もはや宋が制御できないほど強大なものへと成長していました。


9. 遼、西夏、金との関係

宋王朝の時代は、東アジアの国際秩序が大きく転換した時代でした。唐代までの中華王朝が、周辺諸国を従属的な朝貢国として扱う、一元的な「冊封(さくほう)体制」を基本としていたのに対し、宋代の東アジアには、宋と対等、あるいはそれ以上の軍事力を持つ強大な「征服王朝」が複数並び立ち、互いに競い合う、多極的な国際関係が形成されました。宋は、その優れた経済力と文化を背景に東アジア世界の中心であり続けましたが、軍事的には常に北方の脅威に晒され続けました。遼(契丹)、西夏(タングート)、そして金(女真)という、これらの強大な国家群との関係こそが、宋代の歴史の大きな流れを規定する最も重要な要因の一つでした。

9.1. 契丹の遼と「澶淵の盟」

10世紀初頭、中国の東北地方(満州)に住むモンゴル系の遊牧民である**契丹(きったん)が、強力な指導者・耶律阿保機(やりつあぼき)の下で統一され、国号を遼(りょう)**と定めました。遼は、巧みな二重統治体制を敷いたことで知られています。すなわち、遊牧民である契丹人に対しては、部族制に基づく伝統的な統治(北面官)を行い、農耕民である漢人に対しては、中国的な州県制に基づく統治(南面官)を行うという、柔軟な支配体制を確立しました。

五代十国の混乱期、遼は後晋の建国を助けた見返りとして、万里の長城の南側に位置する戦略的要衝である**燕雲十六州(えんうんじゅうろくしゅう)**を獲得しました。この地域は、豊かな農業地帯であると同時に、北方の遊牧民が華北平原に侵入する際の玄関口であり、その領有は遼に絶大な軍事的・経済的優位性をもたらしました。

宋は建国以来、この失われた故地の回復を悲願として何度も遼に戦いを挑みましたが、遼の強力な騎馬軍団の前にことごとく敗北しました。1004年、遼の大軍が宋の首都・開封の目前まで迫ると、宋は遼と和議を結ぶことを決意します。これが「澶淵(せんえん)の盟」です。

この盟約の内容は画期的なものでした。

  1. 宋と遼は、互いを兄弟の国として対等な関係を結ぶ。
  2. 宋は、毎年、遼に対して絹と銀を「歳幣(さいへい)」として贈る。

これは、中華王朝が初めて「夷狄(いてき)」とされた国家と対等な外交関係を結び、さらに経済的な援助を行うことを約束した、前代未聞の条約でした。宋にとっては屈辱的な内容でしたが、この盟約によって両国間には約120年間にわたる平和がもたらされました。宋が毎年支払う歳幣の額は、宋の国家財政から見れば決して大きな負担ではなく、むしろ戦争を続けるコストよりもはるかに安上がりでした。また、歳幣として遼に渡った絹や銀は、遼の貴族たちが宋の産品を購入するための資金となり、両国間の活発な交易を促す結果にもなりました。澶淵の盟は、武力ではなく経済力で平和を維持するという、宋の文治主義的な世界観を象徴する出来事でした。

9.2. タングートの西夏

11世紀前半、中国の西北部(現在の寧夏・甘粛地方)で、チベット系の民族であるタングートが勢力を拡大し、李元昊(りげんこう)が国号を大夏(たいか)、通称西夏(せいか)と称して自立しました。西夏は、シルクロードの要衝である東西交易路(オアシスの道)を支配下に置き、中継貿易によって繁栄しました。また、漢字を参考に極めて複雑な西夏文字を制定するなど、独自の高い文化を築きました。

西夏は宋に臣下の礼をとることを拒否し、宋と激しく争いました。軍事的には優位に立った西夏でしたが、経済的には宋との交易に大きく依存していたため、1044年に宋と和議を結びました。この和約でも、西夏は宋に臣下として振る舞う代わりに、宋が西夏に対して毎年多額の絹・銀・茶を「歳賜(さいし)」として贈ることが定められました。これもまた、宋が経済力で平和を購うという、遼との関係に類似したものでした。

9.3. 女真の金と「靖康の変」

12世紀初頭、満州に住むツングース系の狩猟民族である**女真(じょしん)が、完顔阿骨打(わんやんあぐだ)の下で急速に台頭し、1115年に金(きん)**を建国しました。金は遼に対して反乱を起こし、その勢力は燎原の火のように広がりました。

宋は、長年の宿敵であった遼を滅ぼす絶好の機会と捉え、金と「海上の盟」と呼ばれる軍事同盟を結び、遼を挟み撃ちにしました。この共同作戦は成功し、1125年に遼は滅亡しました。

しかし、これは宋にとって「虎を招き入れる」行為でした。宋軍の弱体ぶりを目の当たりにした金は、同盟を破って宋への侵攻を開始しました。金の強力な軍隊は、ほとんど抵抗を受けることなく南下し、1127年、ついに宋の首都・開封を陥落させました。この時、上皇であった徽宗(きそう)と皇帝の欽宗(きんそう)、そして皇族や多数の官僚が、捕虜として満州へ連れ去られてしまいました。これが「靖康(せいこう)の変」と呼ばれる、中国史上空前の大事件です。

この事件によって、北宋は滅亡しました。かろうじて江南に逃れた皇族の一人(高宗)が、南方の臨安(りんあん、現在の杭州)で宋王朝を再興しました。これ以降の宋を南宋と呼び、それ以前の開封を都とした時代を北宋と区別します。

南宋は、金の勢力を淮河(わいが)の線で食い止め、その後、金との間に和議を結びました。この和議では、南宋は金に対して臣下の礼をとり、毎年多額の歳貢を支払うことが定められ、宋にとって最も屈辱的な内容となりました。

このように、宋代を通じて、東アジアには複数の国家が並び立ち、互いに緊張関係を保ちながら共存するという、多元的な国際秩序が形成されました。宋は、軍事的な劣勢を、卓越した経済力と洗練された外交交渉で補いながら、この複雑な国際環境の中で生き残りを図ったのです。


10. 宋代の経済発展と士大夫文化

北宋が滅亡し、南宋が江南の地で再興された時代、中国は政治的・軍事的には北方からの大きな圧力に晒され続けました。しかし、皮肉なことに、この時代は中国史上、経済と文化が最も爛熟し、大きな飛躍を遂げた時代でもありました。唐代後半から始まった経済の中心の江南への移行は、南宋時代に決定的となり、農業技術の革新、商工業の驚異的な発展、そして世界初の紙幣の流通など、その経済活動の活発さは同時代のヨーロッパやイスラーム世界を遥かに凌駕するものでした。この目覚ましい経済的繁栄を背景に、科挙を通じて国家の中枢を担うようになった新しい知識人階級「士大夫(したいふ)」が、洗練された独自の文化を築き上げました。

10.1. 「宋代の商業革命」

宋代、特に南宋時代に起きた経済の質的・量的な大変化は、歴史学者によって「商業革命」あるいは「中世経済革命」と称されています。

  • 農業生産の飛躍的増大: 経済発展の最も基本的な土台は、農業生産力の向上でした。ベトナムから、日照りに強く、早く収穫できる**占城稲(せんじょうとう、チャンパー米)**が導入され、江南の長江下流域では米と麦の二毛作が普及しました。これにより、この地域は中国全土を養う穀倉地帯(「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」)となり、人口の爆発的な増加(12世紀末には1億人を超えたとされる)を支えました。
  • 手工業の発達: 農業の発展は、手工業の原料供給を豊かにし、その専門化を促しました。特に、絹織物業や、**景徳鎮(けいとくちん)に代表される磁器(陶磁器)**の生産は、技術的に世界の最高水準に達しました。宋の青磁や白磁は、その優れた品質と美しさから、東アジアはもちろん、イスラーム世界やアフリカにまで輸出される重要な国際商品となりました。
  • 商業の空前の発展: 農業と手工業の発展は、国内の商業活動を前例のない規模にまで拡大させました。大運河や長江の水運を利用した物流網が発達し、米、茶、塩、絹、磁器などの商品が全国的に流通しました。首都・臨安(杭州)や、泉州(せんしゅう)、広州(こうしゅう)といった港湾都市は、数十万の人口を抱える大商業都市として繁栄しました。
  • 世界初の紙幣の登場: 商業取引が活発化し、取引額が大きくなると、重くてかさばる銅銭では不便になりました。そこで、四川地方の富裕な商人たちが、手形の一種として使い始めたのが、世界初の紙幣である「交子(こうし)」です。後に政府はこれを公認し、全国的に「会子(かいし)」などの紙幣を発行するようになりました。これは、ヨーロッパより数百年も早い画期的な出来事でした。
  • 海上貿易の隆盛: 陸上のシルクロードが西夏などによって阻まれたこともあり、宋代には南方の海路を用いた**海上貿易(海の道)が飛躍的に発展しました。泉州などの港には、政府の貿易管理機関である市舶司(しはくし)**が置かれ、アラビアやペルシアからのイスラーム商人が多数来航しました。宋からは絹織物、磁器、銅銭などが輸出され、南方や西方からは香辛料、薬品、象牙などが輸入されました。この海上貿易は、国家の重要な財源となりました。

10.2. 三大発明の改良と普及

中国の科学技術も宋代に大きな進歩を遂げ、後の世界史に巨大なインパクトを与えることになる「三大発明」が、この時代に実用化・改良されました。

  • 火薬: 唐代に発明されていた火薬は、宋代になると兵器として本格的に利用され始めました。火器はまだ原始的なものでしたが、金やモンゴルとの戦いで使用され、その技術は後にイスラーム世界を経てヨーロッパに伝わり、世界の戦争の様相を一変させることになります。
  • 羅針盤(羅針儀): 磁石が方位を示す性質は古くから知られていましたが、宋代に航海用の羅針盤として実用化されました。これにより、遠洋航海がより安全かつ正確になり、海上貿易の発展を技術的に支えました。この技術もまた、イスラーム商人を通じてヨーロッパに伝わり、大航海時代を可能にする重要な前提となりました。
  • 活版印刷術: 唐代には木版印刷が普及していましたが、北宋の畢昇(ひっしょう)が、一字ずつを独立させた活字を組み合わせて版を作る活版印刷術を発明しました。これは粘土を焼いた陶活字であり、まだ広くは普及しませんでしたが、知識の大量生産と普及を可能にする画期的な技術でした。

10.3. 士大夫文化の形成と朱子学

この活発な経済社会を背景に、文化の担い手も唐代の貴族から、科挙に合格して官僚となった知識人階級「士大夫」へと完全に移行しました。彼らは、官僚として政治を担うだけでなく、詩文や書画に通じた教養人として、宋代の文化をリードしました。

士大夫文化は、唐の貴族文化の豪華で外向的な性格とは対照的に、より内省的で、知性的、そして簡素で洗練された美意識を特徴としていました。

  • 新しい儒学の誕生(宋学): 士大夫たちは、仏教や道教の哲学的な思弁に対抗しうる、新しい儒教の理論体系を構築しようとしました。この学問は宋学と呼ばれ、北宋の周敦頤(しゅうとんい)らによって始まり、南宋の**朱熹(しゅき、朱子)**によって大成されました。朱熹は、宇宙の根本原理である「理」と、万物を構成する物質的な要素である「気」によって世界を説明し、人間の本性や道徳の根拠を哲学的に探求しました。彼の学問(朱子学)は、科挙の公式な解釈となり、その後、元、明、清の時代を通じて中国の国家教学としての地位を確立し、朝鮮(李氏朝鮮)や日本の江戸時代の思想にも決定的な影響を与えました。
  • 文学と芸術: 文学では、定型詩である詞(し)が流行し、欧陽脩(おうようしゅう)や蘇軾(そしょく)といった大家が現れました。歴史学では、旧法党の司馬光が、編年体の歴史書『資治通鑑(しじつがん)』を著し、歴史叙述の新たな地平を切り開きました。絵画では、士大夫たちが自らの内面的な精神性を表現する文人画が発展し、特に自然を主題とした山水画が好まれました。また、徽宗皇帝のように、皇帝自らが優れた芸術家として知られる例もありました。
  • 民衆文化の興り: 経済発展と都市の繁栄は、庶民の文化も育みました。都市には、講談や演劇、雑技などが行われる娯楽場(瓦市、がし)が生まれ、多くの人々で賑わいました。この中から、後の時代の小説や戯曲の源流となる物語が生まれていきました。

宋代は、軍事的には困難な時代であったものの、経済的には驚異的な繁栄を遂げ、文化的にも朱子学の完成や士大夫文化の爛熟といった、後世に大きな影響を残す成果を生み出した、極めて重要な時代でした。この時代に形成された社会経済システムと文化のあり方は、モンゴル支配の時代を経て、その後の中国、そして東アジア世界の方向性を決定づけていくことになるのです。

Module 7:東アジア世界の変動(唐・宋)の総括:世界帝国の変容と近世の黎明

本モジュールでは、隋による再統一から、唐という世界帝国の繁栄と変質、そして宋という全く新しい性格の国家の出現に至る、約700年間にわたる東アジア世界の壮大な構造転換を追ってきました。この唐から宋への移行は、単なる王朝の交代劇ではなく、政治の担い手から経済の仕組み、国際関係のあり方、そして文化の基調に至るまで、文明のあらゆる側面が根本から変容する、東アジア史における最大の地殻変動でした。

我々が最初に見たのは、唐が律令という精緻な法体系と、均田制・租庸調制・府兵制という三位一体のシステムを基盤に築き上げた、古代的・貴族的な**「世界帝国」**の姿でした。首都長安に象徴されるその文化は、外に向かって開かれ、多様な民族と文化を惹きつけるコスモポリタンな輝きに満ちていました。それは、国家が人民一人ひとりを直接把握し、その生活を保障する代わりに、国家への奉仕を義務付けるという、極めて中央集権的な理想を追求した体制でした。

しかし、この壮大なシステムは、安史の乱という巨大な衝撃によって、その前提から崩れ去ります。この大乱は、唐社会の構造を不可逆的に変えました。国家による人民への直接支配は後退し、土地の私有化が進行します。それに伴い、課税の原理は「人」から「資産」へと転換し(両税法)、社会の主役は旧来の門閥貴族から、土地と富を蓄積した新興の地主・知識人層へと移っていきました。

この唐末の大きな地殻変動の中から誕生したのが、宋という**「近世的」な性格を持つ国家**でした。宋は、軍事的な膨張よりも国内の安定を重視する「文治主義」を国是とし、科挙制度を完成させることで、皇帝を頂点とする士大夫官僚による中央集権体制を確立しました。政治的には内向きであった一方で、その社会は驚くべき経済的ダイナミズムを解き放ちました。農業技術の革新は人口を支え、世界初の紙幣が流通する活発な市場経済が花開き、羅針盤や火薬、活版印刷といった技術が実用化されました。文化の担い手となった士大夫たちは、朱子学という新たな知の体系を構築し、内省的で洗練された独自の文化を創造しました。

唐が普遍的な「世界帝国」であったとすれば、宋は多元的な国際関係の中で自らのアイデンティティを模索する、より現実的な「国民国家」の萌芽であったと言えるかもしれません。この唐から宋への転換は、古代的な理想主義の時代が終わり、より複雑で現実的な、近世世界の幕開けを告げるものでした。この時代に形成された士大夫官僚の支配、地主佃戸制、そして活発な商品経済という構造は、その後の東アジア世界の歴史を長く規定していくことになるのです。

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