【基礎 地理】Module 6: 人文地理Ⅲ:文化・社会・政治
【本モジュールの学習目標】
これまでの道のりで、私たちは地球という舞台の物理的な構造(自然地理)、その舞台上で活動する人間の数と配置(人口・都市)、そして彼らが生計を立てるための経済活動(資源・産業)について学んできました。このModule 6では、いよいよ人文地理学の最も深遠で、人間を人間たらしめている領域、すなわち文化、社会、そして政治という、目には見えないが強力な力がいかに地理的空間を組織し、私たちの世界を形作っているのかを探求します。
本モジュールの探求は、「私たちは何者か?」という根源的な問いから始まります。人々のアイデンティティの核となる民族・言語・宗教が、どのように地球上に分布し、文化的なモザイク模様を描き出しているのか。そして、それらの文化が、目に見える文化景観として大地にどのように刻印されているのかを読み解きます。
次に、現代世界を規定する最も基本的な枠組みである**「国家」に焦点を当てます。明確な国境によって空間を分割統治する主権国家体制は、どのように生まれ、私たちの生活を規定しているのか。そして、国家間の関係や戦略を、地理的な条件から冷徹に読み解く地政学(ジオポリティクス)**という思考のレンズを手にします。
最後に、文化や自然がグローバルな人々の移動の中で「資源」として消費される現代的な現象、観光のダイナミクスを考察します。観光は地域に何をもたらし、どのような課題を生むのか。
このモジュールは、単なる知識の習得に留まりません。ニュースの裏側にある民族紛争の根源、国家間の対立の地理的背景、そして異文化を尊重し理解するための視座を獲得し、現代世界を多角的かつ批判的に読み解くための、最も知的で刺激的な旅となるでしょう。
1. 人間を分かつもの、つなぐもの:民族・言語・宗教の地理学
私たちは、自分がどの集団に属しているのかという「アイデンティティ」を拠り所にして生きています。そのアイデンティティの根幹をなすのが、民族、言語、宗教という三つの文化的要素です。これらの分布や関係性を地理的に理解することは、世界の多様性と、時に起こる深刻な対立の根源を理解するための第一歩です。
1.1. 民族 (Ethnic Group) とは何か?
まず明確にすべきは、民族と人種は異なる概念であるという点です。人種が皮膚の色や骨格といった、主に生物学的な身体的特徴に基づく分類であるのに対し、民族は、文化的な共有性によって「われわれ」と「彼ら」を区別する、後天的な集団意識です。
- 民族を構成する文化的要素:
- 共通の言語: 最も重要な要素の一つ。
- 共通の宗教: 価値観や生活様式を共有する基盤となる。
- 共通の歴史: 共に経験してきた成功や苦難の記憶(運命共同体意識)。
- 共通の生活様式や慣習: 食文化、衣服、祭りなど。
- 民族分布のダイナミズム:
- 現代の複雑な民族分布は、人類の長大な移動の歴史の産物です。アフリカで誕生した現生人類が世界中に拡散したことに始まり、農耕・牧畜の拡大、帝国の興亡、そして特に15世紀以降の大航海時代におけるヨーロッパ人の世界展開と、それに伴うアフリカからの奴隷貿易(強制的移動)、19世紀の大量移民の時代を経て、現代のグローバルな人口移動に至るまで、民族のモザイク模様は絶えず塗り替えられてきました。
- 民族問題と紛争:
- 一つの国家の国境線と、特定の民族の居住域が完全に一致する単一民族国家は、日本や韓国、ポーランドなど、世界ではむしろ例外的な存在です。世界のほとんどの国は、複数の民族が共に暮らす多民族国家です。
- 多民族国家では、多数派民族と少数派民族との間で、政治的・経済的な力関係の不均衡や、文化的な摩擦が生じることがあります。少数民族が、自らの文化や言語の権利を主張したり、あるいは分離・独立を求める「民族自決」の動きが、政治的な緊張を高め、時には民族紛争という最も悲劇的な形で噴出します。
- 代表的な民族紛争・問題:
- 旧ユーゴスラビア紛争: 冷戦終結後、セルビア人、クロアチア人、ボスニア人(ムスリム人)などの間で、宗教や歴史的対立を背景に凄惨な紛争が勃発。
- ルワンダ虐殺: フツ族とツチ族という、植民地時代にベルギーによって人為的に煽られた対立が、ジェノサイド(集団虐殺)に発展。
- クルド人問題: トルコ、イラク、イラン、シリアの4カ国にまたがって居住する、国家を持たない世界最大の民族集団(約3000万人)であるクルド人が、自治や独立を求めています。
1.2. 言語の系統と地理的分布
言語は、文化の根幹であり、思考の枠組みそのものです。世界の多様な言語は、その起源(祖語)を同じくするグループ、すなわち語族に分類することで、その歴史的な広がりを体系的に理解することができます。
- 主要な語族とその分布:
- インド=ヨーロッパ語族:
- 話者数: 約30億人。世界最大。
- 言語: 英語、スペイン語、ポルトガル語、フランス語(以上、植民地主義と共に世界展開)、ロシア語、ドイツ語、ヒンディー語、ペルシア語など、極めて多様。
- 分布: ヨーロッパ、南北アメリカ、オセアニア、そして南アジアから西アジアにかけて広範に分布。
- シナ=チベット語族:
- 話者数: 約14億人。世界第2位。
- 言語: 中国語(普通話、広東語など)、ビルマ語、チベット語など。
- 分布: 東アジア、東南アジア大陸部。漢字文化圏の核。
- アフロ=アジア語族:
- 言語: アラビア語(セム語派)、ヘブライ語、ハウサ語など。
- 分布: 北アフリカ、西アジア(中東)、アフリカのサヘル地帯。特にアラビア語は、7世紀以降のイスラームの拡大と共に、聖典コーランの言語として広大な地域に拡散しました。
- その他の重要語族:
- ニジェール=コンゴ語族: サハラ以南のアフリカで最大の語族。地域共通語(リンガ・フランカ)であるスワヒリ語を含む。
- オーストロネシア語族: マレー語、インドネシア語、フィリピンのタガログ語、そして遠く離れたマダガスカル語まで、広大な海洋に点状に分布。
- 日本語族、朝鮮語族: 他の語族との系統関係が不明な孤立した言語とされることが多い。
- インド=ヨーロッパ語族:
- 公用語 (Official Language):
- 多言語国家において、政府が公式な言語として定めたもの。国内のコミュニケーションを円滑にする一方、少数言語の抑圧につながる可能性もはらんでいます。インドのように多くの公用語を認める国もあれば、旧宗主国の言語(英語、フランス語など)を公用語として採用しているアフリカ諸国も多くあります。
1.3. 宗教の分類と世界の宗教圏
宗教は、人々の世界観、死生観、倫理観を規定し、食文化(豚肉の禁忌など)や暦、社会制度にまで深く浸透しています。地理学では、その伝播の仕方によって世界宗教と民族宗教に大別します。
- 世界宗教:国境や民族を越えて
- 普遍的な教えを持ち、布教活動によって世界中に信者を広げた宗教です。
- ① キリスト教:
- 信者数: 約24億人。世界最大。
- 教義: イエスをキリスト(救世主)として信じ、唯一神の愛と隣人愛を説く。
- 宗派と分布:
- カトリック: ローマ教皇を首長とする最大宗派。南ヨーロッパ(イタリア、スペイン、フランス)、ラテンアメリカ、フィリピンに強い影響力。聖地はバチカン。
- プロテスタント: 16世紀の宗教改革で分離。北ヨーロッパ(イギリス、ドイツ北部、北欧)、北米、オセアニアが中心。多様な宗派(ルター派、カルヴァン派、聖公会など)が存在。
- 東方正教会: ギリシャ正教、ロシア正教など。東ヨーロッパ、ロシアが中心。
- ② イスラーム:
- 信者数: 約19億人。世界第2位で、最も増加率が高い。
- 教義: 唯一神アッラーを信じ、その最後の預言者ムハンマドを通じて下された啓示の書コーランを聖典とする。信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼の五行を実践。
- 宗派と分布:
- スンナ派: 預言者ムハンマドの言行(スンナ)に従う、イスラーム世界の約9割を占める多数派。
- シーア派: ムハンマドの娘婿アリーとその子孫のみを正統な指導者(イマーム)と認める少数派。イラン(国教)、イラク、バーレーンなどに多い。
- 宗教圏: 北アフリカから西アジア、中央アジア、南アジア、そして東南アジア(インドネシアは世界最大のイスラーム人口国)にかけて、「イスラーム・ベルト」を形成。聖地はメッカ、メディナ、イェルサレム。
- ③ 仏教:
- 信者数: 約5億人。
- 教義: インドの王子ガウタマ・シッダールタ(釈迦)が開いた。苦しみの原因である煩悩を滅し、解脱(涅槃)することを目指す。
- 宗派と分布: 発祥地のインドでは衰退し、主にアジアに広まった。
- 大乗仏教: すべての衆生の救済を目指す。中国、朝鮮半島、日本、ベトナムへと伝わった(北伝仏教)。
- 上座部仏教: 個人の解脱を重んじる、より厳格な教え。タイ、カンボジア、ミャンマーなど東南アジア大陸部に伝わった(南伝仏教)。
- 民族宗教:特定の民族と共に
- 特定の民族の生活や文化と不可分に結びついた宗教。基本的に布教は行いません。
- ヒンドゥー教: インドの国民的宗教。多様な神々を信仰する多神教で、輪廻転生や解脱を説き、カースト制度という身分制度と固く結びついている。聖なる川ガンジス川での沐浴を重視する。
- ユダヤ教: ユダヤ人の宗教。唯一神ヤハウェとの契約に基づく。旧約聖書を聖典とし、キリスト教とイスラームの母体となった。長い離散(ディアスポラ)の歴史を持つ。聖地はイェルサレム。
- 宗教と紛争:
- 異なる宗教間の対立や、同じ宗教内の宗派対立は、歴史上、数多くの紛争の原因となってきました。特に、キリスト教、ユダヤ教、イスラームの三つの宗教が聖地とするイェルサレムの帰属問題は、パレスチナ問題の根幹をなす、最も複雑で解決困難な対立の一つです。
2. 大地に刻まれた文化を読む:文化景観の地理学
文化は、人々の心の中や書物の中だけに存在するわけではありません。それは、私たちの周りの風景、すなわち文化景観 (Cultural Landscape) として、物質的な形をとって大地に深く刻み込まれています。地理学者は、この景観を注意深く観察し、読み解くことで、その土地の無形の文化や歴史を明らかにします。
2.1. 文化景観とは何か?
アメリカの地理学者カール・サウアーは、「景観は、自然という素地に、人間という作用因が働きかけて生み出した結果である」と述べました。私たちが目にする風景のほとんどは、ありのままの自然(自然景観)ではなく、人間がその文化的な活動を通じて手を加え、意味を与えてきた文化景観なのです。田畑、家々、都市の街並み、道路網、そして教会やモスクの尖塔。これらすべてが、その土地に生きた人々の価値観、信仰、技術、社会システムを物語る「テキスト」です。
2.2. 景観を構成する要素の読解
- 農牧景観:
- 水田: アジアのモンスーン地帯を象徴する景観。共同体による緻密な水管理と、集約的な労働の歴史を物語る。山の斜面に作られた棚田は、土地を最大限に利用しようとする人々の知恵と努力の結晶です。
- ヨーロッパの農村景観: 生け垣や石垣で区切られた畑。これは、近代における土地所有の観念(囲い込み運動)の歴史的産物です。
- アメリカ中西部の景観: 見渡す限りの地平線まで続く、巨大で四角い畑。これは、タウンシップ制という法律に基づき、土地が碁盤の目状に分割・販売された結果であり、合理的・計画的な開拓の歴史を反映しています。
- 居住景観:
- 家屋: Module 4で見たように、高床式の家は高温多湿への、日干しレンガの家は乾燥への、急勾配の屋根は多雪への、それぞれ見事な環境適応を示しています。
- 都市景観:
- イスラーム都市: **モスク(礼拝堂)とスーク(市場)**を中心に、迷路のように入り組んだ細い路地が広がる。これは、強い日差しを遮り、外部からの侵入を防ぐと共に、プライバシーを重視する文化を反映しています。
- ヨーロッパの旧市街: 教会や市庁舎が広場に面して建ち、そこから放射状に道が延びる。城壁に囲まれていた名残が見られることも多い。
- 宗教景観:
- キリスト教圏では、どんな小さな村にも教会の尖塔がそびえ、共同体の信仰の中心であったことを示しています。
- イスラーム圏では、1日に5回の礼拝の呼びかけ(アザーン)が、**ミナレット(光塔)**から響き渡り、都市の音の景観を特徴づけます。
- ヒンドゥー教圏では、ガンジス川のほとりに、沐浴のための階段(ガート)が連なり、生と死が混在する独特の宗教景観を創り出しています。
- 日本では、鳥居が聖なる領域(神社)と俗なる領域を分ける結界として機能しています。
- 言語景観:
- 街に溢れる看板や標識は、その地域の公用語や、少数民族、移民コミュニティの存在を視覚的に示します。カナダのケベック州では、フランス語の優位性を示すために、フランス語の表示を英語よりも大きくすることを法律で定めています。
3. 空間の政治的分割:国家と国境の地理学
現代の世界地図は、色とりどりのパッチワークのように、国家という単位で埋め尽くされています。国家が、国境という明確な線によって自らの領域を区切り、その内部で絶対的な権力(主権)を行使する。この主権国家体制は、私たちの生活を規定する最も基本的な政治的枠組みです。
3.1. 主権国家体制の成立と「領域」
- 主権国家とは:
- 領域(領土・領水・領空)、国民、主権の三要素から構成されます。
- その起源は、中世ヨーロッパの封建的な支配体制が崩れ、**ウェストファリア条約(1648年)**によって、各国の領土と主権が相互に承認されたことに遡ります。このヨーロッパで生まれたシステムが、植民地主義と二度の世界大戦を経て、全世界を覆う普遍的なシステムとなりました。
- 国家の領域:
- 領土: 国家の主権が及ぶ陸地部分です。
- 領水(領海): 領土の海岸線(基線)から12海里(約22.2km)の範囲の海域。領土と同じく、沿岸国の主権が完全に及びます。
- 領空: 領土と領水の上空の空間。これも国家の主権が及び、許可なく他国の航空機が侵入することはできません。
3.2. 海洋の国際法と排他的経済水域(EEZ)
20世紀後半、海底資源の重要性が高まる中で、海洋の利用をめぐる新たな国際ルールとして国連海洋法条約が採択されました。これにより、沿岸国は領海の外側にも一定の権利を持つことになりました。
- 排他的経済水域 (EEZ, Exclusive Economic Zone):
- 領海の基線から200海里(約370km)の範囲の海域。
- この水域内では、沿岸国が、魚などの生物資源や、海底の**鉱物資源(石油、天然ガスなど)を探査、開発、管理する独占的な権利(主権的権利)**を持ちます。
- ただし、領海とは異なり、他国の船の航行や航空機の上空飛行は自由です(航行の自由)。
- EEZの設定により、多くの島国が、その陸地面積とは比較にならないほど広大な「海の領土」を手に入れることになりました。
- 大陸棚:
- EEZの外側にあっても、その海底が領土から続く自然な延長(大陸棚)であると地質学的に証明できれば、沿岸国は最大で基線から350海里まで、その海底資源に対する権利を主張できます。石油などの海底資源への期待から、各国はこの大陸棚の延長をめぐって、激しい主張の応酬を繰り広げています。
3.3. 国境の種類と機能
国境は、地図上の単なる線ではありません。それは、人・モノ・カネ・情報の流れを管理・統制する、国家の「皮膚」であり「フィルター」です。その引かれ方(成因)によって、国境はいくつかのタイプに分類できます。
- 自然的国境:
- 山脈、河川、湖、砂漠といった、自然の地形的障害を利用した国境。
- 例:ピレネー山脈(フランスとスペイン)、リオ・グランデ川(アメリカとメキシコ)。
- 山脈、河川、湖、砂漠といった、自然の地形的障害を利用した国境。
- 人為的国境:
- 自然の地形とは無関係に、人為的な都合で引かれた国境。
- 数理的国境: 緯線や経線に沿って引かれた、地図上で直線となる国境。
- 特徴: アフリカや北米西部に多く見られます。これは、ヨーロッパの植民地大国が、現地の民族や文化の分布を全く無視して、地図の上に定規で線を引くように、自らの勢力圏を分割した結果です。この「人為的な直線国境」が、独立後、多くの国で国境紛争や民族対立の根源となっています。
- 文化的国境: 民族、言語、宗教の分布に沿って引かれた国境。第一次世界大戦後、民族自決の原則に基づいてヨーロッパで試みられましたが、人々の居住域がモザイク状に入り組んでいるため、完全にきれいに線を引くことは極めて困難です。
3.4. 国境をめぐる紛争と領域問題
国境線の画定や、特定の土地・島の領有権をめぐる争いは、国家間の最も深刻な対立である領土問題に発展します。
- 日本の領土問題: 北方領土(ロシア)、竹島(韓国)、尖閣諸島(中国・台湾)
- 世界の主要な領土問題:
- カシミール地方: インド、パキスタン、中国が領有権を主張し、核保有国同士が対峙する、世界で最も危険な紛争地の一つ。
- 南シナ海: 中国が「九段線」という独自の境界線を主張し、周辺のASEAN諸国(フィリピン、ベトナムなど)やアメリカと、岩礁や島の領有権、航行の自由をめぐって激しく対立しています。
4. 空間をめぐる権力と戦略:政治地理学と地政学
政治は、権力をめぐる営みです。そして、その権力は常に、特定の地理的空間を舞台に行使され、空間を組織し、管理しようとします。政治と空間の関係性を読み解くのが、政治地理学と地政学です。
4.1. 地政学(ジオポリティクス)の思想史
地政学とは、国家の行動、戦略、そして国際関係を、その国の地理的条件(位置、地形、資源アクセスなど)から説明し、未来を予測しようとする、極めて戦略的な思考法です。
- 古典地政学の巨頭たち:
- マッキンダーの「ハートランド」論: イギリスの地理学者ハルフォード・マッキンダーは、20世紀初頭、鉄道網の発達によって、ユーラシア大陸の広大な内陸部(ハートランド)が、海洋からの攻撃を受けない巨大な要塞となり、そこを支配する**大陸国家(ランドパワー)が、従来の海洋国家(シーパワー)**を凌駕するだろうと警告しました。彼の有名な言葉「東ヨーロッパを制する者はハートランドを制し、ハートランドを制する者は世界島を制し、世界島を制する者は世界を制する」は、その後の地政学に絶大な影響を与えました。
- マハンの「シーパワー」論: アメリカの海軍戦略家アルフレッド・マハンは、マッキンダーとは逆に、強力な海軍力と世界中の港湾ネットワークを支配するシーパワーこそが、世界の覇権を握ると主張しました。
- スパイクマンの「リムランド」論: アメリカの政治学者ニコラス・スパイクマンは、ハートランドそのものよりも、それを取り巻く沿岸地帯(リムランド:西ヨーロッパ、中東、インド、東南アジア、中国)こそが、人口、資源、産業の集積地であり、ここを制するものがユーラシアの、ひいては世界の運命を左右すると主張しました。冷戦期のアメリカの「封じ込め政策」は、このリムランド論に強く影響されています。
- 地政学の危険性:
- 古典地政学は、地理的条件を一種の「宿命」として捉え、国家の膨張や侵略を正当化するイデオロギーとして利用された暗い歴史を持ちます。特にナチス・ドイツは、地政学を「生存圏(レーベンスラウム)」思想の理論的支柱とし、東ヨーロッパへの侵略を正当化しました。
4.2. 現代の地政学
冷戦後、地政学は、より客観的で批判的な視点を取り入れて復活しました。現代世界では、古典的な陸と海の対立に加え、新たな空間をめぐる地政学的競争が繰り広げられています。
- シーレーンとチョークポイント:
- グローバル経済は、石油や天然ガス、工業製品を運ぶ海上交通路、すなわちシーレーンに生命線を依存しています。そのシーレーン上には、ホルムズ海峡(ペルシア湾の出口)、マラッカ海峡、スエズ運河といった、船が集中する狭い海域、**チョークポイント(隘路)**が存在します。これらのチョークポイントの安全確保は、日本のような資源輸入国にとって、死活的に重要な安全保障上の課題です。
- 新たな地政学的フロンティア:
- 宇宙空間: 軍事衛星(偵察、通信)やGPSによる測位システムは、現代の戦争のあり方を一変させました。宇宙空間の利用と支配をめぐる競争が激化しています。
- サイバー空間: インターネット空間における、国家間の情報戦、サイバー攻撃、経済インフラの破壊工作は、新たな戦争の形態となっています。
- 北極海: 地球温暖化によって北極海の氷が解け、ヨーロッパとアジアを結ぶ北極海航路の利用が可能になりつつあります。これは、新たなシーレーンであると同時に、沿岸に眠る豊富な資源(石油、天然ガス)をめぐる、ロシア、アメリカ、カナダ、北欧諸国、そして中国をも巻き込んだ、新たな地政学的競争の舞台となっています。
5. 移動と交流の地理学:観光のダイナミクス
観光は、現代世界における最大規模の人の移動であり、文化や経済の交流を生み出す巨大産業です。その流れや地域への影響を地理的に考察します。
5.1. 観光資源と観光客の流れ
- 観光資源: 観光客を惹きつける魅力の源泉。
- 自然観光資源: 美しい山岳景観(スイスアルプス)、サンゴ礁の海(モルディブ)、雄大な滝(イグアスの滝)、サバンナでの野生動物観察(ケニアのサファリ)など。
- 文化観光資源: エジプトのピラミッドやカンボジアのアンコール・ワットのような歴史的遺跡、パリのルーブル美術館のような芸術、京都の古い町並み、イタリアの食文化、リオのカーニバルのような祭りなど。特にユネスコの世界遺産に登録されると、国際的な知名度が一気に高まり、観光客が急増します。
- 国際観光客の流れ:
- 伝統的な流れ: 主に、経済的に豊かな先進国(ヨーロッパ、北米、日本)から、同じ先進国へ、あるいは発展途上国のリゾート地へ、という流れが中心でした。
- 近年の変化: 中国をはじめとする新興国の中間層・富裕層が、新たな巨大な観光客の送り手(送客国)として台頭。彼らの旅行先として、日本やヨーロッパ、東南アジアが人気となり、世界の観光地図を大きく塗り替えています。
5.2. 観光がもたらす光と影
観光は、地域に大きな経済的恩恵をもたらす一方で、多くの課題も生み出します。
- 光(プラスの側面):
- 経済効果: 発展途上国にとっては貴重な外貨獲得手段。ホテル、交通、飲食、土産物など、裾野の広い雇用創出効果。地域経済の活性化。
- 文化理解: 異文化に触れることで、国際的な相互理解を促進する。
- 影(マイナスの側面):
- 環境破壊: リゾート開発による海岸線の改変や森林伐採、観光客が出すゴミや排水による環境汚染。
- 文化への影響: 伝統的な文化や祭りが、観光客向けの「ショー」として商品化され、本来の神聖さや意味が失われてしまう(文化の商品化)。
- オーバーツーリズム(観光公害):
- 特定の有名な観光地(京都、ヴェネツィア、バルセロナなど)に、地域の許容量(キャパシティ)をはるかに超える観光客が殺到する現象。
- 地域住民への影響: 交通機関の混雑、騒音、ゴミのポイ捨て、不動産価格の高騰による生活環境の悪化。
- 観光客への影響: 混雑による満足度の低下。
- 持続可能な観光(サステイナブル・ツーリズム)へ:
- こうした問題に対し、近年では、環境・文化・社会への負荷を最小限に抑えつつ、その経済的利益を公正に地域社会へ還元し、観光客の質の高い体験も保証する、という考え方、持続可能な観光が重視されています。自然環境の保全を目的としたエコツーリズムや、農山漁村に滞在し地域の暮らしを体験するグリーン・ツーリズムなども、その具体的な形態です。
【モジュール6 全体の要約】
本モジュールでは、経済合理性だけでは説明できない、人間社会のより深く、複雑な側面である文化・社会・政治が、いかに地理空間と深く結びついているかを学びました。
人々のアイデンティティの根源である民族・言語・宗教が、歴史的な移動や拡散を経て、地表に複雑なモザイク模様を描き出し、それが時に協力の、時に紛争の源泉となることを見ました。そして、それらの無形の文化が、文化景観として大地に具体的に表現される様を読み解きました。
次に、近代以降の世界を規定してきた主権国家というシステムが、国境という線によって空間を分割・管理し、特に**排他的経済水域(EEZ)**の設定によって、海洋の領有をめぐる新たな地政学的力学を生み出していることを理解しました。そして、地政学というレンズを通して、地理的条件が国家の戦略や国際関係に与える、冷徹でダイナミックな影響を考察しました。
最後に、現代における最大規模の人の交流である観光が、グローバルな流れの中で地域に経済的な恩恵と同時に、オーバーツーリズムのような深刻な課題をもたらしている現実を見ました。
ここで得た、文化や政治、社会の地理的構造を読み解く視点は、単なる受験知識にとどまらず、複雑な現代世界で起きているニュースの背景を理解し、多様な価値観を持つ人々と共生していくための、生涯にわたる「思考のOS」となるはずです。次から始まる「地誌」の学習では、これまでのモジュールで学んだ全ての知識と視点を総動員し、世界の各地域が持つ、唯一無二の個性を解き明かしていくことになります。