【基礎 地理】Module 8: 地誌Ⅱ:南アジア・西アジア・アフリカ
【本モジュールの学習目標】
Module 7ではモンスーンが育んだ東アジアと東南アジアの世界を探求しました。このModule 8では、さらに西へと旅を続け、人類最古の文明が生まれた地であり、現代世界の政治・経済・文化の根幹に深く関わる、南アジア、西アジア、そしてアフリカという、広大で多様、かつダイナミックな地域群を解き明かしていきます。
これらの地域は、地理的に連続性を持ちながらも、それぞれが極めて個性的な自然環境と、複雑で重層的な歴史を背負っています。本モジュールを通じて見えてくるのは、**「乾燥」という厳しい自然の制約、「イスラーム」という宗教・文化の広大な広がり、「石油」という富と紛争の源泉、そして「植民地主義」**が残した深い爪痕という、地域を横断する共通のテーマです。
まず、南アジアでは、ヒマラヤの壁とモンスーンの恵みが作り出す自然環境を土台に、ヒンドゥー教とカースト制度が織りなす独特の社会、そして「巨大な象」インドの目覚ましい経済発展とその課題を分析します。次に、西アジア・北アフリカでは、乾燥とイスラームという二つのキーワードを軸に、この「アラブ・イスラーム世界」の統一性と多様性を理解し、石油資源がこの地域の政治・経済、ひいては世界の地政学にいかに絶大な影響を与えてきたかを考察します。最後に、「人類発祥の地」アフリカへ渡り、赤道直下の熱帯雨林から広大なサバンナ、サハラ砂漠に至るまでの多様な自然を概観します。そして、大航海時代以降の奴隷貿易、ヨーロッパ列強によるアフリ力分割という植民地時代の負の遺産が、独立後の国家建設や経済開発にいかに深刻で困難な課題をもたらしているのかを、その歴史的・地理的構造から深く掘り下げていきます。
これらの地域が抱える貧困、紛争、環境問題といった現代的課題を、単なる表層的な事象としてではなく、その背景にある地理的・歴史的・政治経済的な構造的問題として、これまでのモジュールで学んだ「思考のOS」を用いて論理的に解き明かすこと。それが本モジュールの目標です。
1. インド亜大陸の世界:南アジアの自然・社会・経済
ユーラシア大陸から、巨大な三角形のようにインド洋に突き出した南アジア。北にそびえるヒマラヤ山脈によって他の地域から隔てられたこの地域は、「インド亜大陸」とも呼ばれ、地理的にも文化的にも一つのまとまった世界を形成しています。その中心には、人口、面積、経済、文化のあらゆる面で、圧倒的な存在感を放つ巨大国家・インドが君臨しています。
1.1. 自然環境:ヒマラヤの壁とモンスーンの恵み
南アジアの自然環境は、北のヒマラヤ山脈と、南のインド洋からもたらされる**モンスーン(季節風)**という、二つの巨大な要素によって決定づけられています。
- 地形:三大地形区分のコントラスト
- 南アジアの地形は、北から南へ、大きく三つの異なる地域に分けられます。
- ① 北部山岳地帯: ヒマラヤ山脈とカラコルム山脈が、巨大な壁のように連なります。インド・オーストラリアプレートがユーラシアプレートに衝突し続けることで形成された、世界で最も若く、最も険しい新期造山帯です(Module 3参照)。この「世界の屋根」が、冬のシベリアからの寒気を遮り、南アジアの温暖な冬を保証しています。また、その膨大な氷河は、南アジアの大河の重要な水源となっています。
- ② 中部大平原(ヒンドスタン平野): ヒマラヤの南麓に広がる、インダス川(パキスタン)、ガンジス川(インド)、ブラマプトラ川(バングラデシュ)という三つの大河が、ヒマラヤから運んできた土砂を堆積させて形成した、世界で最も広大な沖積平野の一つです。古代インダス文明やガンジス文明が花開いた、南アジアの歴史と文化の中心地であり、現在も人口が最も密集する、豊かな農業地帯です。
- ③ 南部高原(デカン高原): インド半島の大部分を占める、古い安定陸塊からなる広大な高原です。特にその北西部には、火山活動によって形成された玄武岩が風化してできた、レグールと呼ばれる極めて肥沃な黒色土壌が分布しており、綿花の栽培に非常に適しています。
- 南アジアの地形は、北から南へ、大きく三つの異なる地域に分けられます。
- 気候:モンスーンが全てを決める
- 南アジアの気候は、アジアモンスーンに完全に支配されています。一年は、明確な雨季と乾季に分けられ、このリズムが農業、経済、文化、さらには人々の生命までも左右します。
- 夏のモンスーン(6月~9月):恵みと脅威の雨季: 夏、インド洋からの高温で湿った南西の季節風が亜大陸に吹き込み、年間降水量の8~9割がこの時期に集中します。この雨は、稲や茶、ジュートなどの栽培を可能にする「恵みの雨」ですが、その到来が遅れたり、雨量が少なかったりすると、深刻な干ばつを引き起こします。逆に、雨量が多すぎると、ガンジス川デルタのバングラデシュなどでは、国土の大部分が水没するほどの、大規模な洪水をもたらす「脅威の雨」ともなります。
- 冬のモンスーン(10月~5月):乾季: 冬、大陸からの乾いた北東の季節風が吹くため、ほとんど雨が降らない、長く乾燥した季節が続きます。
- 南アジアの気候は、アジアモンスーンに完全に支配されています。一年は、明確な雨季と乾季に分けられ、このリズムが農業、経済、文化、さらには人々の生命までも左右します。
1.2. 社会と文化:ヒンドゥー教とカースト制度
南アジア、とりわけインドの社会と文化を理解する上で避けて通れないのが、ヒンドゥー教と、それと不可分に結びついたカースト制度です。
- 宗教のモザイク:
- インドは、国民の約8割がヒンドゥー教徒ですが、同時に1億7000万人以上のイスラーム教徒(ムスリム)を抱える、世界有数のイスラーム国家でもあります。さらに、シク教(パンジャブ地方)、仏教(発祥の地だが国内では少数派)、ジャイナ教、キリスト教など、多様な宗教が共存しており、その多様性がインド文化の豊かさの源泉である一方、時に激しい宗教対立(特にヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立)の原因ともなってきました。
- ヒンドゥー教の世界観:
- ヒンドゥー教は、特定の開祖や厳格な教義体系を持たない、多神教的な宗教です。ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァという三大神を筆頭に、無数の神々が信仰されています。その根底には、生命は死後、生前の行い(カルマ)に応じて、別の生命に生まれ変わるという輪廻転生の思想があり、人々はこの輪廻のサイクルから解放されること(解脱)を目指します。ガンジス川は聖なる川とされ、そのほとりの聖地ヴァーラーナシーで沐浴することは、ヒンドゥー教徒にとって最大の功徳の一つとされています。
- カースト制度 (Varna and Jati System):
- インド社会を特徴づける、ヒンドゥー教の教えと固く結びついた、生まれに基づく厳格な伝統的身分制度です。
- 基本となる4つのヴァルナ(種姓)があります:①バラモン(司祭階級)、②クシャトリヤ(王侯・武士階級)、③ヴァイシャ(庶民階級)、④シュードラ(隷属民階級)。さらに、これらのヴァルナにも属さない、最も差別されてきた人々として、不可触民(アンタッチャブル)、近年ではダリットと呼ばれる人々が存在します。
- 実際には、これらのヴァルナは、職業や地域と結びついた、ジャーティと呼ばれる数千のより細かい内婚集団に分かれています。
- インド憲法は、1950年にカーストに基づくあらゆる差別を法的に禁止しました。しかし、2000年以上の歴史を持つこの制度は、人々の意識や社会慣行の中に今なお深く根付いており、特に農村部では、結婚や就職において、依然として大きな影響力を持っています。
1.3. 眠れる象の目覚め:インドの経済発展と課題
独立後、長らく「眠れる象」と評されてきたインド経済は、21世紀に入り、目覚ましい成長を遂げています。
- 経済自由化(1991年)への転換:
- 独立後、インドは社会主義的な色彩の強い計画経済と、国内産業を保護する輸入代替工業化政策をとりましたが、経済は長期にわたって停滞しました。
- しかし、1991年に深刻な外貨危機に直面したことをきっかけに、市場原理を大胆に導入し、規制緩和や外資の積極的な受け入れを行う経済自由化へと大きく舵を切りました。これが、現代インドの経済成長の出発点です。
- IT産業・BPOの急成長:「世界のオフィス」へ:
- 経済自由化以降、インドが世界経済の中で最も成功を収めたのが、IT(情報技術)サービスと**BPO(ビジネス・プロセス・アウトソーシング)**の分野です。
- 成功の背景:
- ① 英語能力: イギリスの植民地であった歴史から、英語が準公用語として広く通用し、欧米企業とのコミュニケーションが容易。
- ② 豊富な理数系人材: インド工科大学(IIT)を頂点とする、質の高い高等教育機関が、優秀な技術者を大量に輩出。
- ③ 時差の利点: アメリカとの時差が約12時間あるため、アメリカ企業が業務を終えた夜間のデータ処理やソフトウェアのデバッグ、コールセンター業務などを、昼間であるインドで請け負うことが可能。
- 南部の都市**バンガロール(現ベンガルール)**は、世界中からIT企業が集積する「インドのシリコンバレー」として、その発展を象徴しています。
- 現代インドが抱える課題:
- インフラの脆弱性: 経済成長に、道路、港湾、電力といったインフラの整備が追いついておらず、深刻なボトルネックとなっています。
- 根強い貧困と格差: IT産業の成功など、経済成長の恩恵は、主に都市部の中間層や富裕層に限られています。国民の大多数が暮らす農村部には、依然として多くの貧困層が存在し、都市と農村、富裕層と貧困層の格差拡大は深刻な社会問題です。
- カシミール問題: 北部のカシミール地方の領有権をめぐっては、同じく核保有国である隣国パキスタンと、独立以来三度にわたる戦争を経験しています。この対立は、南アジア地域全体の最大の不安定要因であり続けています。
2. 乾燥とイスラームの世界:西アジア・北アフリカ
西アジア(中東)と北アフリカ。この広大な地域は、風土的にも文化的にも強い一体性を持ち、一つの世界を形成しています。その共通基盤は、**「乾燥」という厳しい自然環境と、「イスラーム」という宗教・文化です。そして現代史においては、「石油」**という資源が、この地域の運命を劇的に変えてきました。
2.1. 風土と文化の基層:乾燥と水の希少性
- 自然環境: この地域の大部分は、亜熱帯高圧帯の影響下にある**砂漠気候(BW)とステップ気候(BS)**に覆われています。年間を通じて降水量は極めて少なく、生命と文明の存続は、常に限られた水資源の確保にかかってきました。
- 水への適応:
- 外来河川: 他の湿潤地域に源を発し、乾燥地帯を貫流する川。エジプト文明の母であるナイル川や、メソポタミア文明を育んだティグリス川・ユーフラテス川がその代表です。これらの河川のほとりでは、古くから灌漑農業が営まれ、人口が集中してきました。
- オアシス: 砂漠の中で、地下水が湧き出るなどして、水が得られる場所。ナツメヤシなどの樹木が日陰を作り、その下で小麦などが栽培されます。オアシスは、砂漠を旅する隊商(キャラバン)の貴重な中継点でもありました。
- 地下水路: イランで発達したカナート(カレーズとも)は、山麓の地下水を、蒸発を防ぎながら集落や耕地まで導く、巧妙な地下水路システムです。
2.2. イスラームの拡大とアラブ世界
- イスラームの誕生と拡大: 7世紀にアラビア半島のメッカで預言者ムハンマドによって開かれたイスラームは、その後わずか1世紀ほどの間に、東は中央アジア、西はイベリア半島に至るまで、驚異的な速さで広がりました。この過程で、聖典コーランの言語であるアラビア語と、イスラーム法(シャリーア)に基づく生活様式が、広大な地域に伝播し、一つの「イスラーム文化圏」を形成しました。
- 「アラブ」と「イスラーム」: この二つの言葉はしばしば混同されますが、同一ではありません。
- アラブ人: アラビア語を母語とする人々。主に北アフリカからアラビア半島にかけての地域に居住。
- イスラーム教徒(ムスリム): イスラームを信仰する人々。この地域には、イラン人(ペルシア語を話す)やトルコ人(トルコ語を話す)など、アラブ人ではないムスリムも多数暮らしています。
- 宗派対立: イスラーム世界は一枚岩ではありません。後継者をめぐる歴史的対立から、多数派のスンナ派と、少数派のシーア派に分かれています。現代の中東における多くの地政学的対立は、スンナ派の盟主を自任するサウジアラビアと、シーア派の大国であるイランとの間の、地域覇権をめぐる代理戦争の様相を呈しています。
2.3. 石油が変えた地政学と社会
20世紀、この乾燥した大地の下に、現代文明を動かす「黒い黄金」、石油が眠っていることが発見されると、この地域の運命は一変します。
- 資源ナショナリズムの台頭: 当初、石油の採掘と利益は、欧米の国際石油資本(メジャー)に独占されていました。しかし1960年代以降、産油国は自国の資源を自国の管理下に置こうとする資源ナショナリズムの動きを強め、**OPEC(石油輸出国機構)**を結成し、メジャーに対抗しようとしました。
- 石油危機(オイルショック): 1973年、第四次中東戦争をきっかけに、OPECに加盟するアラブ産油国が、イスラエルを支持する国々への石油禁輸措置と、原油価格の大幅な引き上げを断行しました。この第一次石油危機は、先進国経済に大打撃を与え、石油という資源が、国際政治を揺るがす強力な「戦略物資」であることを世界に知らしめました。
- オイルマネーの光と影:
- 光: 莫大な石油収入(オイルマネー)によって、サウジアラビア、アラブ首長国連邦(UAE)、カタールといったペルシア湾岸の産油国は、砂漠の中に未来都市のような壮大なインフラを建設し、国民は所得税もなく、教育から医療まで、揺りかごから墓場まで手厚い福祉を享受する、世界有数の豊かな国へと変貌しました。
- 影: しかし、この富は多くの問題も生み出しています。①経済が石油収入に過度に依存するモノカルチャー経済からの脱却が進んでいません。②豊富な富が、国民の政治参加の要求を抑え、非民主的な王政(君主制)を温存させる要因となっています(「資源の呪い」)。③オイルマネーが、地域の覇権争いや過激派組織の資金源となり、地域の不安定化を助長する側面もあります。
2.4. 終わらない紛争:「パレスチナ問題」と「アラブの春」以後
- パレスチナ問題: 西アジアにおける最も根深く、解決困難な紛争です。その根源は、第一次世界大戦中、この地を支配していたイギリスが、アラブ人(独立国家の樹立)、ユダヤ人(民族的郷土の建設)、そして連合国(秘密裏の分割)に対し、互いに相容れない「三枚舌外交」を行ったことにあります。1948年にユダヤ人がイスラエルの建国を宣言すると、これに反発する周辺アラブ諸国との間で4次にわたる中東戦争が勃発。この過程で、多くのパレスチナ人が故郷を追われ、パレスチナ難民となり、その子孫を含め今なお苦難の生活を強いられています。
- アラブの春: 2010年末からチュニジアで始まった、長期独裁政権に対する民主化要求デモは、SNSを通じて瞬く間に地域全体に広がり、「アラブの春」と呼ばれました。しかし、エジプトなどで一時的に政権交代が実現したものの、その多くは、シリアやリビアのように、かえって深刻な内戦状態に陥るか、あるいは軍事政権の復活を招くなど、地域のさらなる混乱と不安定化につながるという、悲観的な結果に終わっています。
3. 人類の故郷、その光と影:アフリカの自然と開発の課題
アフリカは、私たち現生人類(ホモ・サピエンス)が誕生した「人類の故郷」です。しかしその長い歴史は、特に近代以降、外部世界からの搾取と支配の苦難の歴史でもありました。その多様な自然と、植民地主義が残した重い遺産、そして21世紀の新たな変化の兆しを見ていきましょう。
3.1. 多様な自然環境:高原大陸の素顔
- 地形:「高原大陸」: アフリカ大陸は、その大部分が、先カンブリア時代に形成された古い安定陸塊からなる、広大な高原状の地形をしています。そのため、海岸線は比較的単調で天然の良港が少なく、また河川は、広大な内陸の盆地を緩やかに流れた後、高原の縁を海に向かって流れ落ちる際に、急流や巨大な滝を形成することが多く、古くから内陸部への河川交通の大きな障害となってきました。大陸東部には、地球の裂け目であるアフリカ大地溝帯が南北に走り、多くの細長い湖や火山が連なります。
- 気候と植生:赤道を中心に南北対称: アフリカの気候帯は、赤道を中心に、まるで鏡に映したように南北対称に分布するのが最大の特徴です。
- 赤道直下(Af): コンゴ盆地を中心に、一年中高温多雨の熱帯雨林が広がります。
- その両側(Aw): 熱帯雨林を取り巻くように、雨季と乾季が明瞭なサバンナ(長草草原)が広範に分布します。ケニアやタンザニアの国立公園など、「野生の王国」のイメージはこの地域のものです。
- さらにその両側(BS, BW): サバンナの外側には、ステップを経て、北半球では世界最大のサハラ砂漠、南半球ではカラハリ砂漠やナミブ砂漠といった広大な乾燥帯が広がります。
- 大陸の北端・南端(Cs): 地中海沿岸と、南アフリカ共和国のケープタウン周辺には、温暖で夏に乾燥する地中海性気候も見られます。
3.2. 植民地主義の深い傷跡
アフリカの現代を理解するためには、ヨーロッパ諸国による植民地支配が、この大陸にいかに深刻で永続的な傷跡を残したかを知ることが不可欠です。
- 奴隷貿易の時代: 16世紀から19世紀にかけて、ヨーロッパの奴隷商人は、推定で1200万人以上とも言われるアフリカ人を、商品として南北アメリカ大陸のプランテーションへと強制的に連行しました(大西洋奴隷貿易)。この「人間狩り」は、アフリカ社会から最も生産的であるべき若者世代を根こそぎ奪い去り、その後の社会・経済の発展を根本から破壊しました。
- アフリカ分割: 19世紀後半、ヨーロッパ列強は、自国の産業のための原料供給地と市場を求め、アフリカ大陸の植民地化を加速させました。1884年のベルリン会議では、列強間のルールが定められ、アフリカ大陸は、まるでケーキかピザを切り分けるように、あっという間に分割されてしまいました。
- 植民地支配が残した「負の遺産」:
- ① 人為的な国境線: ヨーロッパ列強は、アフリカの民族や部族の居住域、文化、歴史を完全に無視し、地図の上に緯線・経線といった直線で、自分たちの都合の良いように国境線を引きました。その結果、一つの民族が国境によって分断されたり、歴史的に敵対してきた複数の民族が一つの植民地(後の国家)に押し込められたりしました。これが、独立後、アフリカの多くの国で、絶え間ない民族対立や国境紛争の根本的な原因となっています。
- ② モノカルチャー経済: 宗主国は、アフリカの土地を、現地の食料自給のためではなく、本国が必要とする特定の商品作物(西アフリカのカカオ、東アフリカのコーヒーや茶など)や鉱物資源(銅、ダイヤモンド、金など)を生産するための供給基地へと作り変えました。このため、独立後のアフリカ諸国は、特定の一、二品目の一次産品の輸出に国家経済の大部分を依存するモノカルチャー(単一栽培)経済構造を押し付けられ、国際市場での価格変動に常に翻弄される、極めて脆弱な経済体質を抱えることになりました。
- ③ 内陸開発の遅れ: 宗主国が建設した鉄道や道路は、内陸の鉱山やプランテーションから、産物を輸出するための港へと、ただ一方的に結ぶものばかりでした。国内の都市や地域間を結び、国民経済を統合するためのインフラは全く整備されず、これが独立後の経済発展の大きな足かせとなっています。
3.3. 独立後の挑戦と現代的課題
1960年が「アフリカの年」と呼ばれるように、多くの国が独立を達成しましたが、その後の道のりは困難を極めました。
- 政治の不安定: 植民地支配からの独立は、必ずしも安定した民主国家の樹立には繋がりませんでした。多くの国で、軍事クーデターが頻発し、特定の民族やエリート層が権力を独占する独裁政権が長期化しました。汚職や腐敗も蔓延し、国家の統治能力そのものが極めて脆弱な「失敗国家」と呼ばれる国も少なくありません。
- 経済の停滞と貧困: モノカルチャー経済から脱却できず、独立後の開発のために先進国から借り入れた資金が返済不能となる累積債務問題に苦しみました。人口爆発、周期的な干ばつ、そして絶え間ない紛争が、食料危機を深刻化させ、依然として世界の最貧国がアフリカに集中しています。
- 三大感染症の蔓延: HIV/エイズ、マラリア、エボラ出血熱といった感染症の蔓延は、多くの人々の命を奪い、特に働き盛りの世代の労働力を失わせることで、経済発展に深刻なブレーキをかけてきました。
- 変化の兆しと希望:
- しかし21世紀に入り、アフリカには大きな変化の波が訪れています。2000年代以降、中国を筆頭とする新興国の資源需要の高まりを受け、豊富な鉱物資源やエネルギー資源の価格が高騰。多くの国が年率5%を超える高い経済成長を記録し、「躍進するアフリカ(Africa Rising)」として、世界の投資家の注目を集めるようになりました。
- 大陸全体の協力機構である**アフリカ連合(AU)**も、紛争の予防・解決や、経済統合に向けた取り組みを強化しています。
- 特に、固定電話網の整備を飛び越えて、携帯電話が爆発的に普及したことは、銀行口座を持たない人々が送金や決済を行えるモバイルマネーのような、アフリカ独自のイノベーション(リープフロッグ現象)を生み出しています。
【モジュール8 全体の要約】
本モジュールでは、地理的・文化的に深く結びつきながらも、それぞれが極めて個性的で複雑な問題を抱える、南アジア、西アジア、そしてアフリカという三つの広大な地域を旅してきました。
南アジアでは、モンスーンという自然基盤の上で、ヒンドゥー教とカースト制度が独特の社会を形成し、近年IT産業を軸に「巨大な象」インドが力強い成長を見せる一方で、根強い格差や隣国パキスタンとの対立を抱える姿を見ました。
西アジア・北アフリカでは、乾燥とイスラームという共通の文化的基盤、そして石油という資源が、この地域の富と紛争の両方を生み出してきた、地政学的に極めて重要な現実を学びました。パレスチナ問題に象徴される、解決困難な対立の歴史的根源も探りました。
アフリカでは、豊かな自然の多様性と、植民地主義が残した人為的国境やモノカルチャー経済という深刻な負の遺産が、独立後の発展をいかに困難なものにしているかを理解しました。しかし同時に、豊富な資源と若々しい人口を背景に、21世紀の「最後のフロンティア」として、力強い変化の兆しを見せていることも確認しました。
これらの地域が直面する課題は、貧困、紛争、環境問題など、グローバルな課題そのものです。その背景にある地理的・歴史的構造を理解することは、現代世界を理解し、その未来を考える上で不可欠です。次のモジュールでは、舞台をヨーロッパとロシアに移し、近代の世界システムを構築し、これらの地域を支配してきた側の地理的特質と、現代的な変容を探求していきます。