【基礎 日本史】Module 2: 原始・古代国家の形成と律令体制

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【本記事の概要】

本稿は、日本列島に人類が足跡を記した黎明期から、最初の統一国家である「律令国家」が形成され、その体制が大きく変容して新たな時代(中世)の胎動が始まるまでの、約1万数千年にも及ぶ壮大な歴史のダイナミズムを体系的に解き明かすことを目的とします。この時代は、日本の国家・社会・文化の原型が形成された、極めて重要な期間です。

学習の旅は、狩猟採集に生きた旧石器・縄文時代から始まります。次に、大陸からの稲作伝来が社会構造を根底から覆し、小国家「クニ」が乱立した弥生時代へと進みます。そして、巨大古墳が象徴する広域政治連合「ヤマト王権」が誕生する古墳時代、東アジアの先進文明をモデルに天皇中心の中央集権国家を建設した飛鳥・奈良時代(律令国家の完成)、その律令体制が日本社会の現実に合わせて変容し、藤原氏による摂関政治と優美な国風文化が花開いた平安時代、そして最後に、天皇家の権力奪還の試みである院政が、皮肉にも武士の台頭を招き、古代世界の終焉を告げるまでを追います。

このモジュールを通じて、単なる出来事や用語の暗記に留まらず、それぞれの時代の変化が**「なぜ」「どのように」起こり、それが次の時代にどう繋がっていくのかという歴史の大きな因果関係と構造**を掴むことを目指します。ここで身につけるマクロな視点は、難関大学入試で求められる、歴史事象を深く、論理的に考察する能力の根幹となるでしょう。


目次

1. 日本文化の黎明:旧石器・縄文時代 (~紀元前10世紀頃)

1.1. 旧石器時代:日本列島最初の住人 🏹

  • 氷河時代と日本列島
    • 約260万年前から1万年前にかけての地質年代「更新世」は、寒冷な氷期と比較的温暖な間氷期が繰り返された氷河時代でした。氷期には海水面が現在より100m以上も低下し、日本列島はしばしばアジア大陸と地続き(または非常に狭い海峡で隔てられる)状態にありました。
    • 人々は、マンモス、ナウマンゾウ、オオツノジカといった大型動物を追い、この陸橋を渡って日本列島へやってきたと考えられています。これが、日本列島における人類の歴史の始まりです。
  • 打製石器と狩猟採集生活
    • この時代の人々は、石を打ち欠いて作った打製石器を使用していました。石器の形状は時代と共に進化し、用途に応じて多様化しました。
      • 初期の石器: 礫(れき)を打ち欠いただけの単純な礫器(チョッパー)。
      • ナイフ形石器: 動物の皮を剥いだり、肉を切ったりするのに使われた、鋭い刃を持つ石器。
      • 尖頭器(せんとうき): 槍の先につけて、大型動物を狩るための武器。
      • 細石器(さいせっき): 更新世末期に出現した、小型で精巧な石器。木や骨の柄にはめ込んで、複合的な道具として使用されました。
    • 彼らは特定の住居に定住せず、獲物や食料を求めて移動しながら、洞窟や岩陰、あるいは簡単な小屋で暮らす狩猟・採集生活を送っていました。
  • 岩宿遺跡の衝撃的発見
    • 第二次世界大戦後まで、日本の歴史は縄文時代から始まると考えられ、それ以前に人類がいた証拠は見つかっていませんでした。
    • この定説を覆したのが、1949年、アマチュア考古学研究家の相沢忠洋による、群馬県の岩宿遺跡での発見です。彼は、火山灰層である関東ローム層の中から、明らかに縄文土器よりも古い時代の打製石器を発見しました。
    • この発見は、日本の歴史が数万年単位で遡ることを証明し、日本考古学の幕開けを告げる画期的な出来事でした。

1.2. 縄文時代:定住と精神文化の始まり 🔥

  • 環境変化と生活の転換
    • 約1万年前に氷河時代が終わると、地球は温暖化し、地質年代は「完新世」へと移ります。海面が上昇して日本列島が形成され、動植物の生態系も大きく変化しました。
    • マンモスなどの大型動物は絶滅し、代わってニホンジカやイノシシなど、俊敏な中小型動物が増加しました。また、気候の温暖化は森林の発達を促し、木の実(ドングリ、クリ、クルミなど)が豊富になりました。
    • 人々はこうした環境変化に適応し、弓矢を用いた狩猟、骨角器(釣針や銛)を用いた漁労、そして植物性食料の採集を組み合わせた、多様で安定した食料獲得の術を身につけました。
  • 土器の発明という生活革命
    • 縄文時代の最大の特徴は、縄文土器の発明と使用です。表面に縄目の文様が見られることからこの名があります。
    • 土器の発明は、人類の生活に革命をもたらしました。
      • 食生活の向上: 食料を煮炊きできるようになったことで、食べられる食材の種類が格段に増え、栄養摂取の効率も向上しました。特に、堅果類(ドングリなど)に含まれる渋み(アク)を抜く技術は、安定した食料源の確保に大きく貢献しました。
      • 定住の促進: 食料の調理・貯蔵が可能になったことで、一つの場所に長期間留まる定住生活が本格化しました。
    • 縄文土器は、約1万数千年という長期間にわたり、形状や文様を変化させながら作られ続け、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分されます。特に中期には、燃え盛る炎をかたどったような火焔型土器など、装飾性の高い土器が作られました。
  • 大規模集落と交易
    • 定住生活の進展に伴い、人々は地面を掘り下げて屋根をかけた竪穴住居に暮らし、複数の住居が集まった集落を形成しました。
    • 青森県の三内丸山遺跡は、縄文時代中期の巨大集落の例として有名です。多数の竪穴住居跡、大型の掘立柱建物跡、計画的なゴミ捨て場などが見つかっており、数百人が長期間にわたって定住し、高度な社会を営んでいたことがわかります。
    • また、産地が限られる黒曜石(石器の材料、長野県産など)やひすい(装飾品、新潟県産)が、遠く離れた遺跡から出土することから、広範囲にわたる交易ネットワークが存在したことが明らかになっています。
  • アニミズムと豊かな精神世界
    • 縄文時代の人々は、自然のあらゆるものに霊魂が宿ると考えるアニミズム(精霊崇拝)の世界観を持っていたと考えられています。
    • その精神世界は、様々な遺物から窺い知ることができます。
      • 土偶: 豊満な女性をかたどったものが多く、豊穣や安産、病気の治癒などを祈るための儀礼に使われたと考えられています。
      • 石棒: 男根をかたどった石製品で、子孫繁栄などを祈る祭祀に用いられたとされます。
      • 抜歯: 成人儀礼として、特定の歯を抜き取る風習。
      • 屈葬: 遺体の手足を折り曲げて埋葬する方法。死者の霊が蘇ることを恐れた、あるいは胎児の姿を模したなど、様々な説があります。

2. 農耕社会の成立と「クニ」の競合:弥生時代 (紀元前10世紀頃~3世紀中頃)

2.1. 新たな技術の波:大陸からのインパクト 🌾

  • 稲作農耕の開始
    • 縄文時代の晩期、朝鮮半島南部を経由して、九州北部に**稲作(水稲耕作)**の技術が伝わりました。これが弥生時代の始まりです。※近年の研究では、稲作の開始年代が従来より数百年遡る可能性が指摘されています。
    • 稲作は、狩猟採集とは異なり、土地を耕し、種を蒔き、育てるという計画的な食料生産を可能にしました。これにより、人口を養う力が飛躍的に増大し、人々は食料を備蓄できるようになりました。
    • 水田での農作業には、木製の鍬(くわ)や鋤(すき)、収穫には石包丁、脱穀には木臼などが用いられました。
  • 金属器の伝来と普及
    • 稲作とほぼ同時期に、大陸から金属器も伝わりました。弥生時代には、性質の異なる二つの金属器が並行して使用されました。
    • 青銅器: 銅と錫の合金。主に祭祀や権威の象徴として使われました。近畿地方を中心に分布する銅鐸、九州北部を中心に分布する銅剣・銅矛・銅戈など、地域によって特徴的な青銅器が見られます。
    • 鉄器: 青銅器より硬く、実用的。武器(鉄剣、鉄鏃)や農具・工具(鋤先、斧)として急速に普及し、農業生産力の向上や戦闘能力の強化に大きく貢献しました。

2.2. 社会の根本的変容 ⚔️

  • 弥生土器と集落の変化
    • この時代の土器は弥生土器と呼ばれ、縄文土器に比べて薄手で硬く、赤褐色をしています。装飾は少なく、貯蔵用の甕(かめ)、煮炊き用の甑(こしき)や甕、盛り付け用の高坏(たかつき)など、用途に応じた機能的な形をしています。
    • 稲作の普及に伴い、人々は水田開発に適した低湿地へと移り住みました。一方で、集落の周りに深い濠(ほり)や土塁をめぐらせた環濠集落(佐賀県・吉野ヶ里遺跡が代表例)や、見晴らしの良い丘陵上に作られた高地性集落が出現します。これは、水や土地、収穫物をめぐる集団間の争いが頻発していたことを物語っています。
  • 階級社会の出現
    • 稲作による余剰生産物の発生は、社会に決定的な変化をもたらしました。
    • 食料を多く備蓄できる者とそうでない者の間に貧富の差が生まれ、やがて富を独占する支配者層が出現しました。彼らは、祭祀を司るシャーマン(司祭者)や、集団を率いるリーダー(首長)として、人々を統治するようになります。
    • このような階級社会の成立は、墓にも表れています。一般の人々が簡素な土壙墓などに埋葬されたのに対し、首長クラスの墓(墳丘墓)は、丘のような盛り土を持ち、多くの副葬品が納められました。

2.3. 「クニ」の形成と女王・卑弥呼

  • 中国の史書に記録された倭国
    • 弥生時代は、日本の様子が初めて中国の歴史書に記録された時代でもあります。
    • 『漢書』地理志(1世紀): 「楽浪海中に倭人有り、分かれて百余国を為す」とあり、当時すでに多くの小国家(クニ)が分立していたことがわかります。
    • 『後漢書』東夷伝(5世紀成立): 紀元57年、九州北部にあった「倭の奴国」の王が後漢の都・洛陽に使者を送り、皇帝光武帝から印綬を授かったと記されています。江戸時代に福岡県の志賀島で発見された**「漢委奴国王」金印**は、この記述を裏付けるものとされています。
  • 邪馬台国と卑弥K呼
    • 3世紀の日本の様子を最も詳しく伝えているのが、『三国志』魏書東夷伝倭人条(通称**『魏志』倭人伝**)です。
    • これによると、当時、倭国は大きな争乱状態にありましたが、邪馬台国の女王・卑弥呼を共同の王として立てることで、ようやく平和が訪れたとされます。卑弥呼は、鬼道(きどう)と呼ばれるシャーマニズム的な呪術で国を治め、約30のクニからなる連合体の盟主でした。
    • 卑弥呼は、239年に中国の魏に使者を派遣し、皇帝から**「親魏倭王」**の称号と金印、そして多数の銅鏡(百枚)を授けられました。これは、大陸の先進王朝の権威を借りて、国内での自らの地位を強化しようとする、外交戦略であったと考えられます。
  • 所在地をめぐる大論争
    • 『魏志』倭人伝の記述をもとに、邪馬台国がどこにあったのかをめぐり、江戸時代から続く**「邪馬台国論争」**が繰り広げられています。
    • 畿内説: 後のヤマト王権が成立する奈良盆地一帯に求める説。
    • 九州説: 『魏志』倭人伝の道程記事を重視し、九州北部に求める説。
    • この論争は、文献史料の解釈と、考古学的な発見(3世紀の巨大古墳や集落跡)をどう結びつけるかという、歴史学の根幹に関わる問題であり、今なお決着はついていません。

3. 広域国家の誕生:古墳時代 (3世紀中頃~7世紀頃)

3.1. 前方後円墳体制とヤマト王権の確立 👑

  • 巨大古墳の出現と規格化
    • 3世紀中頃、弥生時代の墳丘墓に代わり、鍵穴のような独特の形をした前方後円墳が、大和(奈良盆地)を中心に出現します。初期の代表的な古墳として、卑弥補の墓の可能性も指摘される箸墓古墳があります。
    • この前方後円墳という墳形は、4世紀から5世紀にかけて急速に日本列島の各地(東北南部から九州南部まで)に広がり、大きさには差があるものの、同じ設計思想で造られました。
    • この古墳の規格化と広がりは、大和地方の首長を中心に、各地の有力な首長(豪族)たちが連合し、広域的な政治権力、すなわちヤマト王権(大和政権)が形成されたことを物語っています。各地の豪族は、前方後円墳を築造するという共通の儀礼に参加することで、ヤマト王権の支配秩序に組み込まれていったのです。この体制を**「前方後円墳体制」**と呼びます。
  • ヤマト王権の構造
    • ヤマト王権は、後の天皇につながる**大王(おおきみ)**を頂点とする、豪族たちの連合政権でした。
    • 大王は、最も強力な豪族であると同時に、神々を祀る最高司祭者でもありました。
    • 王権を構成する豪族たちは、氏(うじ)と呼ばれる血縁的・同族的な集団を形成し、大王から姓(かばね)という政治的・社会的な地位を示す称号を与えられていました。これを氏姓制度といいます。
  • 古墳の変遷から読み解く王権の性格
    • 古墳の規模や副葬品は時代と共に変化し、そこからヤマト王権の性格の変遷を読み取ることができます。
    • 前期(4世紀): 奈良盆地を中心に、全長200mを超える巨大古墳が築造。副葬品は、三角縁神獣鏡に代表される銅鏡や玉類など、司祭的・呪術的な性格のものが中心。
    • 中期(5世紀): 巨大化がピークに達し、大阪平野に世界最大級の墳墓である大仙陵古墳(伝・仁徳天皇陵)などが築かれます。副葬品は、甲冑や刀剣などの武具、そして大陸から伝わった馬具が中心となり、王権の性格が軍事的なリーダーシップを強調するものへと変化したことを示します。この時期、ヤマト王権は朝鮮半島へも軍事的に進出しました(高句麗の広開土王碑文に倭との交戦記事が見られる)。また、朝鮮半島からの渡来人が、須恵器(すえき)の生産技術や機織り、金属加工など、様々な先進技術を伝えました。
    • 後期(6~7世紀): 巨大な前方後円墳は造られなくなり、代わって小規模な古墳(群集墳)が各地に多数築造されるようになります。これは、有力な農民層など、首長層の裾野が広がったことを示しています。また、石室の構造が、遺体を後から追加で埋葬(追葬)できる横穴式石室に変化したことも大きな特徴です。

3.2. ヤマト王権の統治システム

  • 氏姓制度の発展
    • ヤマト王権の支配体制の根幹をなしたのが氏姓制度です。
    • 氏(うじ): 蘇我氏、物部氏、大伴氏、中臣氏など、血縁を中心とした同族集団。それぞれが特定の職掌を世襲的に担いました(例:物部氏・大伴氏→軍事、中臣氏→祭祀)。
    • 姓(かばね): 大王が氏に与える称号で、王権内での序列を示します。臣(おみ)(主に大和地方の有力豪族)、連(むらじ)(特定の職掌で仕える豪族)が最も有力で、これに次いで君(きみ)、**直(あたい)**などがありました。
  • 部民制(べみんせい)
    • 大王や豪族は、**部(べ)**と呼ばれる人々を私的に所有し、経済的基盤としていました。
    • 職業部(品部・しなべ): 特定の技術で奉仕する人々(例:陶作部(すえつくりべ)→須恵器生産)。
    • 名代・子代(なしろ・こしろ): 大王や皇族に直接隷属し、その名を後世に伝えるために設定された人々。
  • 地方支配
    • ヤマト王権は、地方の有力豪族を**国造(くにのみやつこ)県主(あがたぬし)**に任命し、その土地の間接的な支配権を認めました。
    • また、王権の直轄地として**屯倉(みやけ)**を全国の要地に設置し、経済的・軍事的な拠点としました。6世紀には、磐井の乱(九州北部)など、地方豪族による反乱も起こりましたが、王権はこれらを鎮圧し、支配を強化していきました。

4. 律令国家への道:飛鳥時代 (7世紀~710年)

4.1. 東アジア情勢の緊迫と国内改革の胎動 🌏

  • 巨大帝国・隋と唐の出現
    • 6世紀末、長らく分裂していた中国を、が統一。しかし、隋は高句麗遠征の失敗などで疲弊し、まもなくが取って代わります。唐は、高度に整備された法典である律令を運用し、強力な中央集権体制を築き上げた巨大帝国でした。
    • この東アジアの国際情勢の激変は、ヤマト王権に大きな衝撃と危機感を与え、豪族連合政権から脱却し、天皇(大王)を中心とする中央集権的な国家体制を構築する必要性を痛感させました。
  • 推古朝の改革と遣隋使
    • 7世紀初頭の推古天皇の時代、甥の聖徳太子(厩戸王)と、有力豪族の蘇我馬子が協力して、一連の国政改革を行いました。
    • 冠位十二階(603年): 家柄や氏姓に捉われず、個人の才能や功績に応じて、朝廷での冠位(序列)を与える制度。官僚制度の第一歩。
    • 憲法十七条(604年): 「和を以て貴しと為し…」で知られる、天皇に仕える官僚としての道徳的な心構えを示したもの。仏教や儒教の思想が取り入れられている。
    • 遣隋使の派遣小野妹子らを隋に派遣し、対等な外交関係を目指すとともに、大陸の先進的な制度や文化を積極的に導入しようとしました。この時、隋の皇帝・煬帝に送った国書にある「日出処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云々」という一節は、日本の国家意識の高まりを示すものとして有名です。
  • 飛鳥文化:日本初の仏教文化
    • この時代、蘇我氏を中心に仏教が本格的に受容され、日本初の仏教文化である飛鳥文化が花開きました。
    • 建築では、現存する世界最古の木造建築である法隆寺や、日本初の本格的寺院である飛鳥寺が建立されました。
    • 仏像では、法隆寺金堂の釈迦三尊像(鞍作鳥(くらつくりのとり)作)が代表的で、北魏様式の影響を受けた、左右対称で硬質な表情が特徴です。

4.2. 大化の改新と中央集権化の試み (645年~) 🏛️

  • 乙巳の変(いっしのへん)
    • 聖徳太子の死後、蘇我氏の権勢はますます強まり、蘇我蝦夷・入鹿親子は専横を極めました。
    • 645年、皇位継承をめぐる対立から、中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足(後の藤原鎌足)が中心となり、宮中で蘇我入鹿を暗殺。父の蝦夷も自害に追い込まれ、蘇我本宗家は滅亡しました。このクーデターを乙巳の変と呼びます。
  • 改新政府の政治方針
    • クーデター後、孝徳天皇が即位し、元号を「大化」と定め、新たな政治が始まりました(大化の改新)。
    • 新政府は、唐の律令制度をモデルとした、天皇中心の中央集権国家を目指す基本方針を**「改新の詔」**として発表したとされます。その骨子は以下の4点です。
      1. 公地公民制: これまでの豪族による土地・人民の私有を廃止し、すべての土地(公地)と人民(公民)は天皇(国家)が直接支配する。
      2. 地方行政制度: 全国を国・郡・里に分け、中央から国司を派遣する。
      3. 班田収授法: 戸籍を作成し、人民に田を分け与え、税を徴収する。
      4. 税制: 租・庸・調を基本とする新たな税制を導入する。
    • ただし、『日本書紀』に記されたこの詔が、当時そのままの形で発布されたかについては、学問的な議論があります。しかし、これが改新政府の目指した方向性であったことは間違いありません。

4.3. 壬申の乱と天武・持統朝の専制政治

  • 白村江(はくそんこう)の戦いと国防の危機
    • 660年、ヤマト王権と親交の深かった朝鮮半島の百済が、唐・新羅連合軍によって滅ぼされます。
    • 中大兄皇子(天智天皇)は、百済復興を支援するために大軍を派遣しますが、663年、白村江の戦いで唐・新羅の水軍に歴史的な大敗を喫しました。
    • この敗戦は、唐・新羅が日本に攻めてくるかもしれないという深刻な国防上の危機感を生み、国内の制度改革を急がせる大きな要因となりました。天智天皇は、対馬や九州北部に防人(さきもり)や烽(とぶひ)(のろし台)、水城(みずき)(土塁)を設置して防備を固めました。
  • 壬申の乱(じんしんのらん)
    • 671年に天智天皇が亡くなると、その後継者の座をめぐり、天皇の子である大友皇子と、弟である大海人皇子(おおあまのおうじ)との間で、古代最大の内乱である壬申の乱(672年)が勃発しました。
    • 東国の豪族を味方につけた大海人皇子が勝利し、即位して天武天皇となりました。
  • 天皇専制の確立
    • 壬申の乱に勝利した天武天皇は、反対勢力を一掃し、絶大な権力を手中に収めました。彼は、豪族層を抑え、皇族を要職につける皇親政治を進め、天皇を神格化することで、強力な専制政治を確立しました。
    • 天武天皇と、その后であり次の天皇となった持統天皇の時代には、律令国家完成に向けた事業が精力的に進められました。
      • 飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)の制定: 体系的な律令法典の編纂。
      • 国史編纂事業: 『古事記』『日本書紀』の編纂を開始し、天皇支配の正統性を確立しようとした。
      • 富本銭の鋳造: 日本初の流通貨幣とされる。
      • 藤原京の造営: 日本初の本格的な条坊制(碁盤目状の道路網)を持つ都城。

5. 律令国家の完成と展開:奈良時代 (710年~794年)

5.1. 大宝律令と統治機構の確立 (701年) 📜

  • 律令国家の完成
    • 天武天皇の遺志を継いだ文武天皇の時代、刑部親王や藤原不比等(ふひと、鎌足の子)らが中心となり、唐の律令を参考にしつつ、日本の実情に合わせた体系的な法典、大宝律令が701年に完成しました。
    • これにより、天皇を頂点とする中央集権的な統治の仕組みが法的に完成し、日本は名実ともに**「律令国家」**となりました。「日本」という国号や、「天皇」という君主号もこの頃に正式に定まったとされています。
    • 律令の構成:
      • : 刑法にあたる規定。
      • : 行政組織、官人の勤務規定、人民の税や義務など、国家の統治に関する様々な規定。
  • 中央官制:二官八省
    • 中央の統治機構は、二官八省を骨格としていました。
    • 二官:
      • 神祇官(じんぎかん): 天地神明の祭祀を司る機関。中国の制度にはない、日本独自の機関であり、祭政一致の理念を示している。
      • 太政官(だいじょうかん): 国政全般を統括する最高機関。太政大臣・左大臣・右大臣、そして大納言などの高官(公卿)が合議で政治を運営した。
    • 八省: 太政官の下に置かれた実務官庁。中務省(天皇の補佐)、式部省(文官の人事)、民部省(民政・財政)など、役割が分担されていた。
  • 地方官制と人民支配
    • 地方は国・郡・里(後に郷)の三段階の行政区画に分けられました。
    • 国司: 中央からへ貴族が派遣され、行政・司法・軍事を統括した。
    • 郡司・里長の長には、在地の有力豪族が任命され、国司の監督下で民衆の直接的な支配にあたった。
    • 辺境の守りとして、九州には外交・防衛の拠点である大宰府が、東北には蝦夷対策の拠点である多賀城が置かれました。
    • 人民は良民と**賤民(せんみん)**に大別され、大部分の公民(良民)は戸籍に登録され、国家による直接支配の対象となりました。

5.2. 平城京の時代:繁栄と政治的動揺

  • 国際都市・平城京への遷都 (710年)
    • 710年、元明天皇は都を藤原京から、唐の都・長安をモデルとして造営された平城京へと移しました。東西約4.3km、南北約4.8kmに及ぶ、碁盤目状の道路(条坊)が走る壮大な計画都市でした。
    • 人口は10万人を超え、貴族や役人、そして全国から集められた工人などが暮らす政治・経済・文化の中心地でした。西市・東市という官営の市場も設けられ、活気に満ちていました。
  • 律令制下の民衆の暮らしと負担
    • 律令国家の財政と人民支配の根幹をなしたのが、班田収授法租庸調の税制でした。
    • 班田収授法: 6年ごとに作成される戸籍に基づき、6歳以上の全ての男女に口分田(こうぶんでん)という田地を支給し、その人が死ねば国に返させる制度。公地公民の原則を具体化したもの。
    • 税制(公民の負担):
      • : 口分田の収穫量の約3%にあたる稲を納める税。
      • : 年間10日間、都で労役(歳役)に従事するか、代わりに布を納める税。
      • 調: 絹や布、地方の特産物を納める税。
      • その他に、地方の土木工事などに従事する雑徭(ぞうよう)や、国防を担う兵役(諸国の軍団に所属、都を警備する衛士、九州を防衛する防人)などがあり、民衆の負担は極めて重いものでした。
  • 藤原氏の台頭と政争
    • 奈良時代の政界は、律令編纂に功績のあった藤原不比等とその子たち(藤原四子:武智麻呂、房前、宇合、麻呂)の権力拡大の歴史でもありました。
    • 長屋王の変(729年): 藤原四子は、皇族出身で右大臣であった有力者の長屋王を、謀反の罪を着せて自殺に追い込み、政敵を排除しました。
    • 聖武天皇の治世と仏教
      • 藤原四子が天然痘の流行で相次いで亡くなると、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握りますが、今度は藤原広嗣が九州で反乱を起こす(藤原広嗣の乱、740年)など、政情は不安定でした。
      • 度重なる政変や天災、疫病に心を痛めた聖武天皇は、仏教の力によって国を安定させようとする鎮護国家思想に深く傾倒します。741年には全国に国分寺・国分尼寺を建立する詔を、743年には奈良に**大仏(盧舎那仏)**を造立する詔を発しました。

5.3. 天平文化:国際性と鎮護国家の華 🌸

  • 文化の特色
    • 聖武天皇の在位期間を中心とする文化を、当時の元号から天平文化と呼びます。
    • 盛んに派遣された遣唐使によってもたらされた唐の文化の強い影響を受け、国際色豊かでダイナミック、写実的な作風が特徴です。また、聖武天皇の仏教への篤い信仰を反映し、仏教美術が全盛期を迎えました。
  • 建築・彫刻・美術
    • 建築東大寺(大仏殿、法華堂(三月堂))、鑑真が創建した唐招提寺(金堂)。
    • 正倉院宝物: 東大寺の倉庫である正倉院には、聖武天皇ゆかりの品々をはじめ、唐や、遠くはペルシア、インドに起源を持つ工芸品が多数収められており、天平文化の国際性を物語っています。
    • 彫刻: 乾漆(かんしつ)や塑土(そど)といった新しい技法が用いられ、人間味あふれる写実的な表現が追求されました。東大寺法華堂の不空羂索観音像(乾漆造)、興福寺の阿修羅像(乾漆造)、唐招提寺の鑑真和上像(日本最古の肖像彫刻、乾漆造)などが傑作として知られます。
  • 文学・歴史書
    • 『万葉集』: 7世紀後半から8世紀後半にかけて詠まれた約4500首の歌を収めた、日本最古の歌集。天皇や貴族から、役人、兵士、農民まで、様々な身分の人々の歌が含まれており、素朴で力強い**「ますらおぶり」**の歌風が特徴です。
    • 国史・地誌: 国家の正統性を示すため、歴史書の編纂も進められました。『古事記』(712年)、『日本書紀』(720年)という二つの国史(記紀)が完成し、さらに諸国の地勢や産物、伝承をまとめた**『風土記』**が編纂されました。
    • 漢詩: 日本最古の漢詩集である**『懐風藻』**が編まれ、貴族たちの間で漢文学が流行していたことを示しています。

6. 律令制の再編と変容:平安時代前期 (794年~10世紀半ば)

6.1. 平安遷都と桓武天皇の政治改革 🏛️

  • 二度の遷都とその意図
    • 奈良時代末期、称徳天皇(聖武天皇の娘)が僧侶の道鏡を重用するなど、仏教勢力の政治への介入が深刻化しました。
    • これらを刷新し、天皇親政を再建しようとしたのが桓武天皇です。彼は、まず784年に都を奈良の平城京から山城国の長岡京へ移しました。しかし、長岡京は造営責任者であった藤原種継の暗殺事件などで不穏な空気が漂い、わずか10年で放棄されます。
    • そして794年、桓武天皇は同じ山城国の葛野に、新たな都、平安京を造営しました。これが、以後約400年続く平安時代の幕開けです。この遷都には、平城京の仏教勢力や旧来の貴族勢力の影響を断ち切るという、強い政治的意図がありました。
  • 桓武天皇の二大事業と政策転換
    • 桓武天皇は、律令制の再建を目指し、精力的に二つの大事業に取り組みました。
      1. 蝦夷征討: 朝廷の支配に従わない東北地方の蝦夷を制圧するため、坂上田村麻呂征夷大将軍として派遣。アテルイらを降伏させ、胆沢城志波城を築き、支配領域を北へ拡大しました。
      2. 平安京造営: 壮大な新都の建設。
    • しかし、これら二大事業は、国家財政を極度に圧迫し、民衆に重い負担を強いました。この状況をめぐり、事業の継続を主張する藤原緒嗣と、民衆の困窮を訴え中止を主張する菅野真道との間で**「徳政論争」**が起こります。最終的に桓武天皇は緒嗣の意見を容れ、二大事業を中止しました。これは、律令制の理念をそのまま追求するのではなく、現実の社会情勢に合わせて政治を運営していくという、大きな政策転換点でした。

6.2. 律令支配の揺らぎと土地制度の変化

  • 班田制の崩壊
    • 律令国家の根幹であった公地公民制班田収授法は、9世紀から10世紀にかけて、その矛盾が露呈し、崩壊に向かっていきます。
    • 最大の原因は、人口の増加に対して、班田をおこなうための口分田が不足したことです。また、重い税負担から逃れるため、戸籍に偽りを記載する偽籍や、本籍地を離れて逃亡する浮浪・逃亡が後を絶たず、正確な戸籍の作成と班田の実施が困難になりました。
  • 財政再建と国司(受領)の変化
    • 税収の減少に直面した政府は、財政再建のため、統治方針を大きく転換します。
    • 従来の、人民一人ひとりから税を徴収する方法を諦め、地方官である国司に、任国の統治と徴税を大幅に委任し、一定額の税を中央に納めさせる方式へと移行しました。
    • これにより国司の権限は著しく強まり、特に任国に赴く国司の長官である**受領(ずりょう)**は、あらゆる手段を使って税を取り立て、私腹を肥やす者も現れました(「受領は倒るる所に土をつかめ」)。
  • 初期荘園の形成
    • 一方で、有力な貴族や寺社は、743年に出された墾田永年私財法(開墾した土地の永久私有を認める法令)に基づき、広大な私有地である荘園を形成・集積していきました。これが、後の時代の土地制度の主役となる荘園の始まりです。

6.3. 藤原氏北家の台頭と摂関政治への道

  • 他氏排斥と権力基盤の確立
    • 平安時代前期は、藤原不比等の四家(南家、北家、式家、京家)の中でも、北家が巧みな政略でライバルを蹴落とし、権力を掌握していく過程でした。
    • 藤原冬嗣(北家)は、嵯峨天皇の厚い信任を得て蔵人頭(くろうどのとう)となり、権力基盤を築きました。
    • その後も、承和の変(842年)で伴氏・橘氏を、応天門の変(866年)で伴氏を失脚させるなど、他氏排斥を進めました。
  • 摂政・関白の常設化
    • 866年、応天門の変を機に、藤原良房(よしふさ)は、皇族以外で初めて、天皇の政務を代行する摂政の地位に就きました。
    • その養子である藤原基経(もとつね)は、天皇が成人した後も、事実上の最高権力者として政務を執りました。この地位が後の関白の始まりであり、阿衡の紛議(あこうのふんぎ)という事件を通じて、その地位の重要性を朝廷に認めさせました。
  • 外戚政策の確立
    • 藤原氏北家が権力を盤石にした最大の要因が、外戚(がいせき)政策です。
    • これは、自らの娘を天皇の后(きさき)とし、その間に生まれた皇子(つまり藤原氏の孫)を次の天皇に即位させるという戦略です。これにより、藤原氏は天皇の母方の祖父(外戚)として、後見人の立場で政治の実権を握ることができました。この手法は、後の摂関政治の根幹となります。

7. 摂関政治と国風文化:平安時代中期 (10世紀半ば~11世紀後半)

7.1. 摂関政治の全盛期 🌙

  • 藤原道長・頼通の栄華
    • 10世紀末から11世紀前半にかけて、藤原道長(みちなが)とその子頼通(よりみち)の時代に、摂関政治はその最盛期を迎えます。
    • 道長は、長女の彰子を一条天皇の中宮とし、次女の妍子を三条天皇の中宮、三女の威子を後一条天皇の中宮とするなど、次々と娘たちを天皇家に嫁がせ、三代の天皇の外戚となりました。
    • その権勢の絶頂期に、道長が詠んだとされるのが、あまりにも有名なこの歌です。
    「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」(この世界は、まさに自分のためにあるようなものだ。満月のように、何一つ足りないものはないと思う)
  • 摂関政治の統治システム
    • 摂政・関白は、太政官の最高位として、天皇に代わって、あるいは天皇を補佐して、事実上の政治決定権を独占しました。
    • 本来、国家の重要事項を審議するはずの太政官の会議(公卿会議)は形式的なものとなり、実際には摂政・関白が自らの邸宅で開く私的な会議(**政所(まんどころ)**での議論など)で、国の方針が決定されるようになりました。摂関家は、国家の統治システムをいわば「私物化」することで、その権力を維持したのです。

7.2. 荘園公領制の成立と展開 🌱

  • 土地支配の二元化
    • 11世紀頃には、日本の土地制度は、律令国家の理念であった公地公民制から、荘園公領制へと完全に移行していました。
    • これは、全国の土地が、①有力貴族や大寺社が私的に支配する荘園と、②国司が支配する**公領(国衙領)**という、二つの領域に大きく分けられていたことを意味します。
  • 荘園の拡大と構造
    • 荘園の領主(本家・領家)は、朝廷から不輸の権(租税の免除)や不入の権(国司の役人の立ち入り調査を拒否する権利)といった特権を獲得し、自らの所領を国家の支配から切り離していきました。
    • 地方では、開発領主と呼ばれる在地の有力者が、自ら開墾した土地の所有権を守るため、その土地を中央の権力者(摂関家など)に寄進し、自らはその荘園の管理者である荘官(下司、公文など)となるケースが増えました。これが寄進地系荘園です。
  • 受領の活動と地方社会
    • 公領においては、依然として受領(国司)が大きな力を持っていました。彼らは、任国で徴税を行い、巨万の富を蓄積しました。その富を使って、中央の貴族社会で高い地位を得ようとしたり、娘を摂関家に嫁がせたりしました。清少納言の父・清原元輔や、紫式部の夫・藤原宣孝も受領層の出身です。

7.3. 国風文化の隆盛:日本的感性の開花 🌸

  • 文化の背景と特色
    • 894年、菅原道真の建議により遣唐使が廃止されたことは、日本の文化史における一つの転換点でした。これにより、大陸文化の直接的な影響が弱まり、それまでに消化・吸収してきた唐文化を土台として、日本の風土や日本人の繊細な感性に合った、優雅で洗練された貴族文化、すなわち国風文化が花開きました。
  • かな文字の発達と王朝文学
    • この文化を支えた最大の要因が、かな文字(ひらがな、カタカナ)の発達と普及です。複雑な漢字に代わり、日本語の話し言葉の響きや、心の機微を自由に表現できるようになりました。
    • これにより、女性たちが自らの感性を綴る文学作品が次々と生み出され、日本文学史上の黄金期を迎えます。
      • 物語文学: 輝くかぐや姫の物語**『竹取物語』、在原業平がモデルとされる歌物語『伊勢物語』、そして宮廷を舞台にした壮大な恋愛絵巻であり、人間心理を深く描いた紫式部『源氏物語』**。
      • 随筆文学: 宮廷生活の日常や自然の美しさを、鋭い観察眼と知的なセンスで綴った清少納言『枕草子』
      • 日記文学紀貫之『土佐日記』(男性が女性の視点から仮名で記述)、藤原道綱母**『蜻蛉日記』『和泉式部日記』『紫式部日記』**など。
      • 和歌: 最初の勅撰和歌集である**『古今和歌集』**(紀貫之らが撰者)が編まれ、理知的で優美な歌風が確立されました。
  • 宗教と美術
    • 末法思想と浄土信仰: 当時、釈迦の死後2000年が経つと仏法が衰え、世の中が乱れるという末法思想が広まり、貴族たちの間に深い不安感を与えました。
    • 人々は、阿弥陀仏の慈悲にすがり、念仏を唱えることで、死後に極楽浄土へ生まれ変わることを願う浄土信仰に救いを求めました。僧侶の空也は市中で念仏を広め、源信は著書**『往生要集』**で地獄の恐ろしさと極楽の素晴らしさを説きました。
    • 建築と美術: 浄土信仰は美術にも大きな影響を与えました。藤原頼通が建立した平等院鳳凰堂は、池に浮かぶその姿で、極楽浄土の宮殿を地上に再現しようとしたものです。堂内に安置された仏師・定朝作の阿弥陀如来像は、複数の木材を組み合わせる寄木造の技法で造られ、その優美な表情は後の仏像彫刻の模範となりました。

8. 新たな権力の胎動:院政と武士 (平安時代末期)

8.1. 院政の開始:天皇家の反撃 💥

  • 後三条天皇の親政
    • 約170年ぶりに、藤原氏を直接の外戚としない後三条天皇が1068年に即位したことは、摂関政治の黄昏を告げる出来事でした。
    • 後三条天皇は、摂関家を牽制しつつ、天皇親政の復活を目指します。その象徴的な政策が、延久の荘園整理令の発布です。これは、基準に合わない荘園を停止させるもので、摂関家の荘園も例外ではなく、その経済的基盤に打撃を与えました。
  • 院政という新たな統治形態
    • 後三条天皇の皇子である白河天皇は、父の政治をさらに推し進め、1086年に皇位を子の堀河天皇に譲った後、上皇(太上天皇)として政治の実権を握り続けました。これが院政の始まりです。
    • 院政の仕組み:
      • 天皇を退位した上皇は、自らの住まいである**「院」「院の庁」**という独自の政務機関を設置。
      • 摂関家など旧来の家柄に捉われず、**院近臣(いんのきんしん)**と呼ばれる自らの側近を登用して政治を運営した。
      • 上皇は、天皇家の家長(家父長)として、現役の天皇に対して絶対的な権威を持ち、また律令に定められた摂政・関白という役職に縛られずに、自由な立場で権力を行使できた。
    • この院政は、白河上皇から鳥羽上皇、そして後白河上皇へと、三代約100年間にわたって続きました。

8.2. 武士の台頭と社会の変化 🗡️

  • 武士の誕生と武士団
    • 武士の起源は、10世紀頃、律令制の弛緩によって地方の治安が悪化する中で、自らの土地や財産を守るために武装した地方豪族や開発領主に遡ります。
    • 彼らは、血縁(一族)や主従関係で結びついた武士団を形成し、日頃から武芸の訓練に励みました。
  • 「兵(つわもの)の家」の登場
    • 数ある武士団の中から、天皇の血筋を引く清和源氏桓武平氏などが、多くの武士を従える**「兵の家(いえ)」**、すなわち武家の棟梁として頭角を現します。
    • 彼らは、朝廷の権威を背景に、地方で起こった反乱(平将門の乱藤原純友の乱前九年・後三年の役など)の鎮圧に活躍し、中央政界における軍事貴族としての地位を確立していきました。
  • 院と武士の結びつき
    • 院政を開始した上皇たちは、摂関家に対抗するための実力(軍事力)として、この武士たちを積極的に登用しました。
    • 院の御所を警備する北面の武士などが置かれ、平氏や源氏の有力者がその任に当たりました。これにより、武士の政治的地位は飛躍的に向上し、彼らはもはや単なる田舎の武装集団ではなく、中央の政治を左右しうる存在となっていったのです。

8.3. 保元・平治の乱:武力が政争を決する時代の到来

  • 保元の乱(1156年)
    • 鳥羽法皇の死後、皇位継承をめぐる崇徳上皇後白河天皇の対立に、摂関家の内紛(藤原忠通・頼長兄弟の対立)が絡み、朝廷は二つに分裂しました。
    • 両陣営は、それぞれ源氏・平氏の武士を動員して激突。後白河天皇方についた平清盛源義朝らが勝利し、崇徳上皇は讃岐へ流罪、上皇方についた源為義(義朝の父)・平忠正(清盛の叔父)らは処刑されました。
    • この乱は、朝廷内の争いが、最終的に武士の軍事力によって決着するという事実を、誰の目にも明らかにした点で画期的でした。
  • 平治の乱(1159年)
    • 保元の乱で勝利した側の内部で、早くも権力闘争が起こります。後白河上皇の近臣であった藤原信頼が、源義朝と結んで挙兵し、同じく近臣の信西を殺害。しかし、熊野詣から引き返してきた平清盛に敗れ、信頼は処刑、義朝も逃亡中に殺害されました。
  • 歴史の転換点
    • これら二つの大乱を経て、源氏の勢力は大きく後退し、勝利した平清盛が武士として唯一無二の地位を築きます。
    • もはや、貴族たちの議論や策略ではなく、武士の実力が政治の行方を決定する時代が到来したのです。これは、1000年近く続いた貴族中心の「古代」が終わりを告げ、武士が主役となる「中世」という新たな時代の扉が開かれたことを意味する、決定的な転換点でした。平治の乱後、平清盛は武士として初めて太政大臣にまで上り詰め、最初の武家政権である平氏政権を樹立することになります。

【本モジュールのまとめ】

本モジュールでは、日本列島における人間の活動の始まりから、古代国家がその最終段階を迎え、新たな時代の主役である武士が台頭するまでの、長大かつダイナミックな歴史の変遷を辿りました。

  1. **原始(旧石器・縄文)**では、人々が自然と共生し、狩猟採集の生活の中で定住を発展させ、豊かな精神文化を育んだ、日本文化の原点を見ました。
  2. 弥生時代には、稲作という革命的な技術が社会構造を根本から変え、貧富の差と争いを生み、やがて「クニ」と呼ばれる政治体が成立する過程を学びました。
  3. 古墳時代には、前方後円墳という共通のシンボルを通じて、ヤマト王権が広域的な支配を確立し、国家の原型が形成されていくダイナミズムを追いました。
  4. 飛鳥・奈良時代には、東アジアの国際情勢を背景に、律令という法体系を導入して、天皇を中心とする中央集権的な「律令国家」を建設するという、壮大な国家形成のプロセスを理解しました。
  5. 平安時代には、完成した律令制が現実社会の中で変容し、藤原氏による摂関政治、そして日本独自の優美な国風文化が花開く一方、土地制度は荘園公領制へと移行し、社会の基盤が大きく変化していく様を見ました。
  6. そして古代の終焉として、天皇家の権力奪還の試みであった院政が、自らの実力装置として武士を登用した結果、武士の政治的台頭を招き、ついには武力が政権の行方を決する時代(中世)の扉を開いてしまうという、歴史の大きな転換点を確認しました。

ここで学んだ律令国家の形成・展開・変容のプロセスは、これ以降の日本の歴史を理解するための全ての土台となります。なぜ武家政権(幕府)が生まれたのか、なぜ土地制度が変化していったのか、その答えの多くは、この古代史の中にあります。常にこの時代の大きな構造を念頭に置きながら、次の「Module 3: 中世社会の動乱と武家政権」へと学習を進めてください。歴史は、常に前の時代への応答として、次の時代が形作られていくのです。

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