【基礎 日本史】Module 3: 中世社会の動乱と武家政権
【本記事の概要】
本稿は、古代の貴族社会がその幕を閉じ、武士が新たな支配階級として歴史の主役となった「中世」という、約400年間にわたる激動の時代を体系的に解き明かすことを目的とします。中世は、絶え間ない動乱と、そこから生まれる新しい社会秩序・文化の創造が交錯した、日本史上最もダイナミックな時代の一つです。
このモジュールの旅は、武士が初めて政権を樹立した平氏政権の成立と、それを打倒した源平の争乱から始まります。次に、源頼朝が創設した本格的な武家政権・鎌倉幕府の仕組み、すなわち土地を媒介とした**「御恩と奉公」という封建制度の本質に迫ります。そして、朝廷との最終決戦である承久の乱を経て、北条氏による執権政治**が確立され、武家支配が盤石になる過程を見ます。
しかし、その安定は長くは続きません。モンゴル帝国という未曾有の国難、元寇(モンゴル襲来)は、幕府の屋台骨を揺るがし、やがて内側から崩壊へと向かわせます。後醍醐天皇による天皇親政の試み(建武の新政)とその挫折、続く南北朝の動乱の中から生まれた室町幕府は、3代将軍・足利義満の下で栄華を極める一方、その権力基盤は常に揺れ動いていました。
そして、将軍家の後継者争いをきっかけに勃発した応仁の乱は、幕府の権威を完全に失墜させ、約100年にわたる戦国時代の幕を開きます。まさに**「下剋上」**の言葉に象徴される、実力のみがものをいう時代の到来です。
この記事を通じて、中世を貫く**「自力救済の原理」「実力主義」「二元的な権力構造(朝廷と幕府)」**といった本質的な概念を理解し、複雑な動乱の因果関係を論理的に説明する力を養います。これは、単なる暗記を超えた、難関大学が求める歴史的思考力そのものです。
1. 武家政権の黎明:平氏政権と源平の争乱 (12世紀後半)
1.1. 保元・平治の乱:武力が政治を決する時代の到来 ⚔️
- 古代社会の終焉を告げる二つの乱
- 12世紀半ば、京都を舞台に起こった保元・平治の乱は、貴族中心の古代社会が終わり、武士が政治の主役に躍り出る画期的な出来事でした。
- 保元の乱(1156年):皇位継承をめぐる崇徳上皇と後白河天皇の対立に、摂関家の内紛(藤原忠通・頼長兄弟の対立)が絡み、朝廷が真っ二つに割れました。両陣営は、それぞれ源氏・平氏の武士団を頼り、武力で決着をつけようとしました。結果は後白河天皇方の圧勝に終わり、敗れた崇徳上皇は流罪、源為義(義朝の父)らは処刑されました。
- 平治の乱(1159年):保元の乱で勝利した側の内部で、早くも権力闘争が起こりました。後白河上皇の近臣同士の対立から、平清盛と源義朝が激突。この戦いに勝利した平清盛が、武士として不動の地位を築き、源義朝は敗死しました。
- 歴史的意義:ルールの変更
- これら二つの乱が持つ最も重要な意味は、**「朝廷内の争いを最終的に解決するのは、もはや貴族の議論や策略ではなく、武士の軍事力である」**という事実が、誰の目にも明らかになったことです。
- それまで朝廷の「番犬」に過ぎなかった武士が、政治の帰趨を決定する「主体」へと変貌した瞬間でした。これは、公家社会のルールが崩壊し、武家のルールがそれに取って代わる時代の始まりを告げていました。
1.2. 平氏政権の成立と性格
- 平清盛の権力掌握
- 平治の乱に勝利した平清盛は、武士として異例の出世を遂げ、1167年にはついに太政大臣(律令官制の最高位)にまで上り詰めました。
- 清盛は、自らの娘・徳子を高倉天皇の中宮(皇后)とし、その間に生まれた安徳天皇を即位させました。これは、かつて藤原氏が摂関政治で行った外戚政策を武士が踏襲したものであり、平氏政権が貴族的な性格を色濃く持っていたことを示しています。
- 経済的基盤:日宋貿易
- 平氏政権の強大な権力を支えたのは、莫大な富を生み出す日宋貿易でした。
- 清盛は、摂津国の大輪田泊(おおわだのとまり、現在の神戸港)を大規模に修築し、瀬戸内海の航路を掌握。宋銭、陶磁器、香料などを輸入し、日本の金や硫黄などを輸出することで、巨利を得ました。この経済力が、平氏の権勢の源泉でした。
- 政権の限界と反発
- 平氏政権は、一門で高位高官を独占し、「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどの栄華を誇りました。しかし、この露骨な権力独占は、後白河法皇をはじめとする院の勢力や、他の貴族、そして平氏の支配から疎外された武士たちの強い反発を招きました。
- 平氏政権は、あくまで京都の朝廷内で成立した政権であり、その基盤は脆弱でした。全国の武士を統率する仕組みを持たなかった点が、後に源頼朝が創設する鎌倉幕府との決定的な違いです。
1.3. 源平の争乱(治承・寿永の乱)
- 反平氏勢力の蜂起
- 平氏への不満が高まる中、1180年、後白河法皇の子である**以仁王(もちひとおう)が、平氏打倒を呼びかける令旨(りょうじ)**を全国の源氏に発しました。
- これに呼応し、伊豆に流されていた源頼朝や、木曽の源義仲らが相次いで挙兵。全国的な内乱、源平の争乱が始まりました。
- 頼朝の東国経営
- 富士川の戦いで平氏の大軍を破った頼朝は、すぐには京都を目指しませんでした。彼は、坂東武者(関東の武士)の本拠地である鎌倉に拠点を置き、東国武士団を組織化することに専念しました。
- 頼朝は、東国を実力で支配下に置くと、朝廷と交渉し、1183年には寿永二年十月宣旨によって、東海道・東山道諸国の支配権(荘園・公領からの貢物徴収権)を公的に認めさせました。これにより、西国の支配権を持つ平氏(朝廷)と、東国の支配権を持つ頼朝という、二つの権力が並び立つ状態が生まれました。
- 平氏の滅亡
- 源義仲が平氏を京都から追い出すも、その乱暴な振る舞いから後白河法皇や頼朝と対立し、頼朝が派遣した弟の源範頼・義経に討たれます。
- その後、源義経は天才的な戦術で平氏を追いつめ、一ノ谷の戦い、屋島の戦いを経て、1185年、長門国の壇ノ浦の戦いでついに平氏一門を滅亡させました。
2. 鎌倉幕府の成立と展開 (12世紀末~13世紀中頃)
2.1. 鎌倉幕府の創設 🏛️
- 守護・地頭の設置という画期(1185年)
- 平氏を滅ぼした後、頼朝は、弟である義経が後白河法皇から許可を得て任官したことなどを口実に、義経と法皇が通じていると非難。その義経を追捕(ついぶ)するという名目で、朝廷に強く迫り、全国に守護と地頭を設置する権限を認めさせました。
- 守護:国ごとに置かれ、国内の御家人を統率し、謀反人の逮捕など、軍事・警察の役割を担った。
- 地頭:荘園や公領に置かれ、年貢の徴収や土地の管理、治安維持などを行った。
- この守護・地頭の設置を通じて、頼朝の支配力は、荘園や公領といった既存の土地支配の枠組みを超えて、全国に及ぶことになりました。これが、鎌倉幕府という全国的な武家政権の実質的な始まりです。
- 「1192(いいくに)作ろう」の本当の意味
- 1192年に頼朝が征夷大将軍に任命されたことは、学校で習う有名な年号ですが、これは幕府の成立年というよりは、頼朝が東国の武士の棟梁(とうりょう)として、全国の武士を統率する公的な地位を朝廷から認められたという、象徴的な意味合いが強い出来事です。幕府の統治機構や全国支配の仕組みは、1185年の段階で実質的に始動していました。
- 幕府の統治機構
- 鎌倉に置かれた幕府の中央政治機構は、当初、以下の三つが中心でした。
- 侍所(さむらいどころ):御家人(ごけにん)の統率、軍事・警察を担当。初代別当(長官)は和田義盛。
- 公文所(くもんじょ)(後に**政所(まんどころ)**と改称):一般政務や財政を担当。初代別当は大江広元。
- 問注所(もんちゅうじょ):裁判や訴訟を担当。初代執事(長官)は三善康信。
- 鎌倉に置かれた幕府の中央政治機構は、当初、以下の三つが中心でした。
2.2. 御家人制度と封建的主従関係
- 「御恩と奉公」による血の契約
- 鎌倉幕府の根幹をなしたのが、将軍と御家人とを結ぶ御家人制度です。これは、**「御恩(ごおん)」と「奉公(ほうこう)」**という、双務的な契約関係に基づいていました。
- 御恩(将軍から御家人へ)
- 本領安堵(ほんりょうあんど):御家人が先祖代々受け継いできた所領の所有権を、将軍が保障すること。
- 新恩給与(しんおんきゅうよ):戦での活躍など、功績に応じて、将軍が新たな土地や守護・地頭の職を与えること。
- 御家人にとって、自らの生活基盤である土地(所領)を守り、増やすことが最大の関心事であり、将軍の「御恩」は、その保証を意味する極めて重要なものでした。
- 奉公(御家人から将軍へ)
- 御家人は、将軍から受けた「御恩」に応えるため、命をかけて奉公する義務を負いました。
- 平時の奉公:京都の御所や幕府を警備する京都大番役、鎌倉番役。
- 戦時の奉公:将軍の命令一下、一族郎党を率いて戦場に駆けつけ、戦う軍役。
- 日本的封建制度の本質
- この土地の給与(恩賞)を媒介とした、将軍と御家人の間の双務的な主従関係を封建制度と呼びます。これは、中世ヨーロッパの封建制度(Feudalism)と類似していますが、日本の場合は、武士団という血縁的な集団がベースにあり、「いざ鎌倉」に象徴されるような、主君への忠誠といった情誼的・精神的な要素が強く絡み合っている点に特色があります。
2.3. 承久の乱と執権政治の確立
- 源氏将軍の断絶と北条氏の台頭
- 頼朝の死後、幕府は大きな試練を迎えます。2代将軍・源頼家は有力御家人と対立し、伊豆に幽閉・暗殺されます。3代将軍・源実朝も、頼家の子である公暁(くぎょう)に鶴岡八幡宮で暗殺され、頼朝の直系である源氏将軍はわずか3代で断絶してしまいました。
- この混乱の中で、頼朝の妻・北条政子と、その父・北条時政が巧みな政治手腕で幕府の実権を掌握します。時政は、将軍を補佐する**執権(しっけん)**という地位に就き、以後、執権職は北条氏が世襲することになりました。
- 承久の乱(1221年):朝廷との最終決戦
- 源氏将軍が断絶し、身分の低い北条氏が幕府を主導している状況を見て、朝廷の権威回復の好機と捉えたのが、気鋭の後鳥羽上皇でした。
- 上皇は、全国の武士に執権・北条義時(時政の子)の追討を命じ、幕府打倒の兵を挙げました。これが承久の乱です。
- 突然の上皇からの命令に、多くの御家人たちは動揺します。この時、尼将軍・北条政子が御家人たちの前に立ち、「頼朝公の御恩は山よりも高く、海よりも深い。今こそその恩に報いる時である」と涙ながらに訴える有名な演説を行い、御家人たちを奮い立たせました。
- 乱の結果と歴史的意義
- 幕府軍は大軍を組織して京都に攻め上り、朝廷軍を圧倒。乱はわずか1ヶ月で鎮圧されました。
- 戦後処理は苛烈を極め、幕府は後鳥羽上皇ら三人の上皇を島流し(配流)にし、上皇方の貴族・武士を処刑しました。さらに、朝廷が持っていた広大な荘園を没収し、戦功のあった御家人たちに恩賞として分け与えました。
- 京都には**六波羅探題(ろくはらたんだい)**を設置し、朝廷の監視と西国御家人の統率にあたらせました。
- 承久の乱の勝利により、武家政権(幕府)の朝廷に対する優位は決定的となり、もはや朝廷が幕府に武力で挑むことは不可能になりました。これにより、北条氏が執権として幕府を運営する執権政治が、名実ともに確立されたのです。
2.4. 御成敗式目と武家の法典
- 日本初の武家法『御成敗式目』(1232年)
- 承久の乱後、3代執権・北条泰時の時代に、幕府の政治は安定期を迎えます。泰時は、合議制を重んじ、道理に基づいた政治を行いました。
- その泰時の最大の功績が、**『御成敗式目』(貞永式目)**の制定です。
- 制定の背景: 荘園の増大や土地所有の複雑化に伴い、所領をめぐる御家人間の紛争が多発していました。それらを公平に裁くための、明確な裁判基準が求められていたのです。
- 内容と特色:
- 全51か条から成る、簡潔で実用的な法律。
- 頼朝以来の先例(判例)や、武士社会で通用していた慣習・道徳(「道理」)を成文化したもの。
- 公家社会の法律である律令や、荘園領主の法律である本所法とは一線を画す、日本で最初の武家による、武家のための法典でした。
- 特に、御家人の所領の相続や、女性の財産権について詳しく定められており、御家人たちの権利を保障することで、幕府への求心力を高める狙いがありました。
3. 元寇と鎌倉幕府の動揺 (13世紀後半~14世紀初頭)
3.1. モンゴル帝国の脅威と二度の元寇 🌊
- ユーラシア大陸の激動とフビライの国書
- 13世紀、チンギス=ハンが建国したモンゴル帝国は、ユーラシア大陸の東西にまたがる空前の大帝国を築き上げました。
- その第5代皇帝フビライ=ハンは、国号を元と改め、都を大都(現在の北京)に定めると、日本にも高麗を介して使者を送り、元の皇帝を世界の君主と認め、朝貢(ちょうこう)を行うよう要求する国書を送ってきました。
- 執権・北条時宗の決断と二度の襲来
- 当時、18歳で8代執権に就任したばかりの北条時宗は、朝廷や幕府内の様々な意見を抑え、この元の要求を断固として拒否する決断を下します。
- これにより、日本は二度にわたる元軍の襲来を受けることになります。
- 文永の役(1274年): 元と、服属していた高麗の兵、約3万からなる連合軍が、対馬・壱岐を侵略した後、博多湾に上陸。日本軍は、元軍の集団戦法や、火薬兵器である**「てつはう」**に苦戦を強いられます。しかし、元軍は上陸一日で、内部事情からか自ら船に引き上げ、撤退していきました(従来、暴風雨が原因とされてきましたが、近年の研究では疑問視されています)。
- 弘安の役(1281年): 元は、今度は江南軍(旧南宋の兵)を加えた約14万という大軍を組織し、再び日本に襲来。しかし、幕府は文永の役の教訓から、博多湾沿岸に約20kmにわたる**石塁(防塁)**を築いており、元軍の安易な上陸を許しませんでした。長期戦となり、元軍が疲弊していたところに、猛烈な暴風雨が襲いかかり、元軍の艦船は壊滅的な打撃を受けて撤退しました。
3.2. 元寇が日本社会に与えた衝撃
- 恩賞なき勝利の代償
- 元寇は、日本が初めて経験した本格的な対外戦争であり、その勝利は日本の独立を守ったという点で大きな意義がありましたが、同時に鎌倉幕府の支配体制を根底から揺るがす深刻な副作用をもたらしました。
- 最大の問題は、恩賞として御家人に与える土地がなかったことです。国内の反乱を鎮圧した戦であれば、敵から没収した土地を分け与えることができますが、今回は外国を相手にした防衛戦争であり、新たに獲得した領土はありませんでした。
- 御家人たちは、自らの犠牲で国を守ったにもかかわらず、十分な恩賞を得られないどころか、長期にわたる異国警固番役の負担や戦費で、生活はますます困窮していきました。これにより、幕府と御家人との間の「御恩と奉公」の関係が、大きく崩れてしまったのです。
- 社会・経済の変化と神国思想
- 元寇を機に、幕府の権限は西国にも強く及ぶようになりましたが、御家人の幕府への不満は日増しに高まっていきました。
- 一方で、二度にわたる暴風雨が元軍を壊滅させたことから、「日本は神々に守られた国である(神国思想)」という考えが広く浸透し、伊勢神宮への信仰などが高まりました。
3.3. 徳政令と幕府の衰亡
- 御家人の窮乏と悪党の出現
- 元寇後の御家人の窮乏に拍車をかけたのが、貨幣経済の浸透と、武士の慣行であった分割相続による所領の細分化でした。生活に困った御家人たちは、自らの所領を借金の担保(質入れ)にしたり、売り払ったりするようになります。
- こうした状況の中で、荘園や公領の秩序に従わない、新たな武力集団である**悪党(あくとう)**が各地で活動を活発化させ、社会不安を増大させました。
- 永仁の徳政令(1297年)とその結末
- 御家人の窮乏を救済するため、9代執権・北条貞時は、永仁の徳政令という法令を発布しました。
- これは、御家人が売却したり質入れしたりした所領を、無償で取り戻させるという、当時としては非常に思い切った政策でした。また、御家人への金銭の貸し借りをめぐる訴訟を、幕府は一切受理しないとしました。
- しかし、この徳政令は、一時的に御家人を救済したものの、結果的には幕府の信用を失墜させることになりました。徳政令を恐れた商人や高利貸は、御家人に金を貸さなくなり、かえって御家人の経済状況は悪化しました。幕府の政策の行き詰まりは明らかであり、御家人たちの幕府離れは決定的となりました。
- 得宗専制政治の腐敗
- 幕府政治の中心は、北条氏の嫡流である得宗(とくそう)家に集中し、その家臣である内管領(うちかんれい)の長崎氏などが実権を握る得宗専制政治が展開されました。これにより、他の有力御家人は政治の中枢から排除され、幕府内部の対立も深刻化。鎌倉幕府は、まさに内憂外患の状態に陥り、崩壊への道を突き進んでいったのです。
4. 鎌倉仏教の革新と文化の広がり
4.1. 旧仏教の刷新と新仏教の誕生 🙏
- 時代が求めた新しい仏教
- 平安時代末期からの相次ぐ戦乱、飢饉、天災は、人々に深い不安と、現世のはかなさを痛感させました。釈迦の死後、仏の教えが廃れるという末法思想が現実味を帯びる中で、人々は魂の救済を渇望していました。
- 従来の平安仏教(天台宗、真言宗)は、貴族のための学問的で儀式的な色彩が強く、武士や台頭しつつあった庶民にとっては、あまりに難解で縁遠いものでした。
- こうした時代背景から、鎌倉時代には、誰にでも分かりやすく、実践しやすい、新しい教えを説く宗派が次々と生まれました。これが鎌倉新仏教です。その多くは、ただ一つの行いをひたすら実践すること(「選択」と「専修」)を説いた点に大きな特徴があります。
4.2. 専修念仏と浄土宗・浄土真宗
- 法然(ほうねん):ただ念仏を唱えよ(浄土宗)
- 比叡山で学んだ法然は、難しい修行や学問は一切不要であり、ただひたすらに「南無阿弥陀仏」と**念仏を唱えること(専修念仏)**さえすれば、身分や善悪にかかわらず、誰もが阿弥陀仏によって救われ、極楽浄土へ往生できる、と説きました。
- この単純明快な教えは、貴族から武士、庶民に至るまで、幅広い階層の人々に熱狂的に受け入れられました。しかし、その急進的な教えは、既存の仏教教団(旧仏教)から激しい反発を受け、弟子が死罪となったり、法然自身も土佐へ流罪となったりする法難(承元の法難)に遭いました。
- 親鸞(しんらん):悪人こそ救われる(浄土真宗)
- 法然の弟子であった親鸞は、師の教えをさらに徹底させました。
- 親鸞は、人間は誰しも煩悩から逃れられない弱い存在(凡夫)であると自覚し、自らの力(自力)で悟りを開こうとすること自体がおごりであるとしました。救いは、すべて阿弥陀仏の慈悲の力(他力本願)に委ねるしかないと考えたのです。
- その思想の核心が、**「悪人正機説(あくにんしょうきせつ)」**です。これは、「善人でさえ往生できるのだから、ましてや自らが罪深い悪人であると自覚している者こそ、阿弥陀仏が救おうとする第一の対象である」という、逆説的な教えです。
- 親鸞は自ら妻帯し(肉食妻帯)、僧侶でも俗人でもない**「非僧非俗」の立場を貫きました。彼の教えは、後に一向宗**とも呼ばれ、北陸地方を中心に農民たちの間に深く浸透していきました。
4.3. 題目と禅
- 日蓮(にちれん):法華経こそが国を救う(日蓮宗)
- 日蓮は、元寇をはじめとする国難が相次ぐ激動の時代に、その原因は人々が間違った仏教を信仰していることにあると考えました。
- 彼は、数ある経典の中で**『法華経』こそが釈迦の真実の教えであるとし、その経の題名である「南無妙法蓮華経」の題目(だいもく)を唱えること**だけが、個人が救われるだけでなく、国家の安泰をもたらす唯一の道だと主張しました。
- その思想を、幕府の最高権力者であった北条時頼に献上したのが**『立正安国論』**です。日蓮は、他宗派を極めて激しく攻撃したため、幕府から度重なる弾圧を受け、伊豆や佐渡へ流罪となりました。
- 禅宗:坐禅による自己との対峙(臨済宗・曹洞宗)
- 経典の学習や儀式よりも、坐禅を組んで自らの心と向き合い、内なる仏性(ぶっしょう)に目覚めることによって、自力で悟りを開くことを目指すのが禅宗です。そのストイックな精神性は、特に武士階級の気風と合致し、広く受け入れられました。
- 栄西(えいさい):二度にわたり宋に渡り、臨済宗を伝えました。師から与えられる難解な問い(公案)を通じて、弟子の悟りを導くのが特徴です。栄西は幕府の保護を受け、京都に建仁寺を開きました。また、宋から茶を持ち帰り、その効用を説いた**『喫茶養生記』**を著したことでも知られます。
- 道元(どうげん):同じく宋で学んだ後、曹洞宗を伝えました。彼は、悟りを求めることすら目的とせず、ただひたすらに坐禅に打ち込む実践そのもの(只管打坐・しかんたざ)が、仏の姿であると説きました。権力者に近づくことを嫌い、俗世を離れて越前(福井県)に永平寺を開き、厳しい修行に明け暮れました。
4.4. 鎌倉文化の特色:武士と庶民の文化
- 力強さと写実性
- 鎌倉時代の文化は、それまでの平安時代の貴族的で優美な文化とは対照的に、素朴で力強く、写実的な性格を持っています。その担い手も、貴族だけでなく、武士や庶民へと大きく広がりました。
- 文学:無常観と武士の物語
- 軍記物語: 武士の活躍を描いた物語が人気を博しました。特に、平家の栄華と滅亡を、仏教的な無常観を基調に、琵琶法師の語りによって広まった**『平家物語』**は、日本文学の最高傑作の一つです。
- 随筆: 動乱の世を逃れ、静かに自らの人生と向き合った作品も生まれました。鴨長明の**『方丈記』は、世の無常を小さな庵(いおり)から見つめた名作。吉田兼好の『徒然草』**は、鋭い人間観察と無常観が一体となった随筆文学の極致です。
- 建築・彫刻:宋の影響とリアリズム
- 建築: 宋の建築様式(大仏様・禅宗様)が取り入れられ、構造的で豪放なデザインが特徴です。戦乱で焼失した東大寺の再建で、重源(ちょうげん)が用いた大仏様(だいぶつよう)(東大寺南大門が代表例)や、禅宗寺院で用いられた禅宗様(ぜんしゅうよう)(円覚寺舎利殿)がその代表です。
- 彫刻: 天才仏師である運慶・快慶ら(慶派)が登場し、鎌倉彫刻の黄金時代を築きました。彼らの作品は、水晶の玉を眼にはめ込む玉眼(ぎょくがん)の技法などを用い、筋肉の動きや血管までをリアルに表現する、力強い写実主義を特徴とします。東大寺南大門に立つ、巨大な金剛力士像(仁王像)は、その圧倒的な迫力で見る者を魅了します。
5. 室町幕府の成立と南北朝の動乱 (14世紀)
5.1. 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政 👑
- 後醍醐天皇の倒幕計画
- 鎌倉時代末期、幕府の権威が失墜する中、後醍醐天皇は、古代のような天皇中心の政治(天皇親政)を復活させることを目指し、二度にわたり倒幕を計画します(正中の変、元弘の変)。
- 計画は一度幕府に露見し、後醍醐天皇は隠岐の島へ流罪となりますが、その不屈の意志は、反北条氏勢力を結集させる核となりました。
- 鎌倉幕府の滅亡(1333年)
- 隠岐を脱出した後醍醐天皇の呼びかけに応じ、河内の悪党出身の武将・楠木正成や、幕府の有力御家人であった足利高氏(後の尊氏)、新田義貞らが次々と倒幕の兵を挙げました。
- 足利尊氏は京都の六波羅探題を、新田義貞は関東の武士を率いて鎌倉を攻め滅ぼし、1333年、約150年続いた鎌倉幕府はついに崩壊しました。
- 建武の新政とその挫折
- 京都に戻った後醍醐天皇は、元号を「建武」と改め、自ら政治を行う建武の新政を開始しました。
- しかし、その政策は、公家(貴族)を重視し、恩賞の配分も不公平で、倒幕の最大の功労者であった武士たちの慣習や利害を無視したものでした。そのため、武士たちの間に新政への不満が急速に高まっていきました。
5.2. 南北朝の動乱 ⚔️
- 足利尊氏の離反と二つの朝廷
- 武士たちの不満を代弁する形で、足利尊氏はついに後醍醐天皇に反旗を翻します。尊氏は、後醍醐天皇方の楠木正成らを湊川の戦いで破り、京都を制圧しました。
- 尊氏は、京都に新たな天皇(光明天皇)を擁立しました。これが北朝です。
- 一方、後醍醐天皇は、三種の神器を持って京都を脱出し、南方の吉野(奈良県)に新たな朝廷を開きました。これが南朝です。
- こうして、日本に二人の天皇と二つの朝廷が並び立ち、互いに正統性を主張して争う、約60年間にわたる南北朝の動乱が始まりました。
5.3. 室町幕府の成立と守護大名の成長
- 室町幕府の創設と『建武式目』
- 足利尊氏は、1338年、北朝から征夷大将軍に任命され、京都の室町に幕府を開きました。これが室町幕府です。
- 幕府を開くにあたり、尊氏は、政治の基本方針を示す**『建武式目』**を発表しました。これは、鎌倉幕府の『御成敗式目』を尊重しつつ、貴族文化との協調も目指す、現実的な内容でした。
- 幕府機構と連合政権的性格
- 室町幕府の政治機構は、鎌倉幕府のそれを多く引き継いでいましたが、大きな特徴は、将軍を補佐する管領(かんれい)の職が置かれたことです。管領には、足利一門の中でも特に有力な細川氏・斯波(しば)氏・畠山氏の三家(三管領)が交代で就任しました。
- このように、室町幕府は、将軍の独裁政権ではなく、有力な守護大名たちの連合政権としての性格が非常に強いものでした。
- 守護から守護大名へ
- 南北朝の動乱を通じて、地方の統治者である守護の権限は、著しく強大化しました。
- 彼らは、国内の武士を指揮する軍事権に加え、朝廷の命令(半済令・はんぜいれい)を背景に、荘園や公領の年貢の半分を兵糧米として徴収する権利などを獲得しました。
- これにより、守護は単なる幕府の地方行政官から、自らの領国(分国)を独自に支配する、方面軍司令官のような存在、すなわち守護大名へと成長していったのです。
6. 室町幕府の全盛と動揺 (14世紀末~15世紀後半)
6.1. 足利義満の治世と幕府の全盛期 🌟
- 3代将軍・足利義満の権力
- 室町幕府の権力が最も輝いたのが、3代将軍・足利義満の時代です。
- 義満は、京都の北山に壮麗な金閣を建立し、自らの権勢を天下に示しました。また、将軍としてだけでなく、朝廷の最高位である太政大臣にまで上り詰め、公家と武家の両方の頂点に君臨しました。
- 南北朝の合一と日明貿易
- 義満の治世における最大の功績の一つが、南北朝の合一です。1392年、彼は巧みな交渉で南朝を説得し、約60年続いた内乱に終止符を打ちました。
- また、当時沿岸部を荒らしていた海賊・**倭寇(わこう)の取り締まりを求める明(中国)の要請に応える形で、日明貿易(勘合貿易)を開始しました。これは、正式な遣明船に勘合符という証票を持たせることで、倭寇の船と区別する貿易形態です。この貿易によって、幕府は莫大な利益を上げ、その財政基盤を盤石なものにしました。この際、義満は明の皇帝から「日本国王」**の称号を授けられています。
- 強大化する守護大名の抑圧
- 義満は、強大になりすぎた有力守護大名に対しては、巧みな策略で内紛を誘い、討伐する(明徳の乱、応永の乱)など、将軍権力の強化にも努め、室町幕府の最盛期を築き上げました。
6.2. 惣村の形成と民衆の自律 🌱
- 農業生産力の発展と村落の変化
- 室町時代には、同じ田畑で年に二度、異なる作物を栽培する二毛作が西日本を中心に普及し、農業生産力が向上しました。また、水車などの灌漑技術も進歩しました。
- こうした変化を背景に、村落のあり方も大きく変わります。荘園制が崩壊していく中で、農民たちは地縁的なつながりを強め、自治的な共同体である**惣村(そうそん)**を形成していきました。
- 惣村の自治と一揆
- 惣村では、農民たちが**寄合(よりあい)**と呼ばれる会議を開き、用水路の共同管理や、村の掟(村掟・そんおきて)などを、自分たちで決定しました。
- 彼らは、不当に重い年貢を課す領主(守護大名や荘園領主)に対して、団結して抵抗しました。時には、武装蜂起(一揆・いっき)を起こすこともありました。
- 1428年に、将軍の代替わりを機に、近江の馬借(ばしゃく)らが徳政(借金の帳消し)を求めて蜂起した正長の土一揆は、日本史上初の大規模な農民一揆として知られています。これは、民衆が自らの力で社会を変えようとする、新たな時代の到来を告げるものでした。
6.3. 応仁の乱と戦国時代の開幕 🔥
- 争乱の火種:将軍家の後継者問題
- 8代将軍・足利義政は、文化人としては優れていましたが、政治家としては優柔不断でした。なかなか男子に恵まれなかったため、弟の義視(よしみ)を後継者に定めましたが、その後、妻の日野富子との間に義尚(よしひさ)が誕生。この将軍家の後継者争いが、乱の直接的な引き金となりました。
- 有力守護大名の対立
- この将軍家の問題に、幕府の重職である管領家の畠山氏や斯波氏の家督争いが複雑に絡み合います。
- そして、幕府の実力者であった細川勝元(義視・畠山政長を支持)と、山名宗全(義尚・畠山義就を支持)が、それぞれ全国の守護大名を味方につけて、二大勢力を形成。両者はついに京都で武力衝突を起こしました。
- 応仁の乱(1467-1477年)
- 細川方の東軍と山名方の西軍は、京都を主戦場として、11年間にもわたる泥沼の戦いを繰り広げました。
- 戦乱によって、花の都・京都は焼け野原と化し、多くの文化財が失われました。そして何よりも、室町幕府の権威は完全に地に落ちました。
- 歴史的意義:下剋上の時代の始まり
- 応仁の乱は、勝者なき戦いでしたが、日本の社会構造を根底から変えました。
- 幕府や守護といった既存の権威が意味をなさなくなり、もはや家柄や血筋ではなく、実力だけがものをいう時代が到来したのです。この風潮を**「下剋上(げこくじょう)」**と呼びます。
- ここから、守護代が守護を倒し、家臣が主君を追放するような、約100年間にわたる、先の見えない大混乱の時代、すなわち戦国時代が始まったのです。
7. 戦国乱世と文化の変容 (15世紀末~16世紀)
7.1. 下剋上と戦国大名の登場 🏯
- 旧権威の失墜と実力主義
- 応仁の乱によって、室町幕府は京都周辺をかろうじて治めるだけの地方政権に転落し、全国の守護大名も領国支配の力を失いました。
- 代わって、守護の家臣であった守護代や、現地の有力な武士(国人・こくじん)が、実力で主君を倒し、その領国を乗っ取る**「下剋上」**が各地で頻発しました。
- 戦国大名の出現と領国経営
- こうした下剋上の風潮の中から、出自を問わず、実力で領国を支配する新たな支配者、戦国大名が登場しました。
- 彼らは、生き残りをかけて、富国強兵策を推し進めました。
- 城下町の建設: 家臣団を城下町に集住させ、商工業者を呼び込み、領国の政治・経済・軍事の中心地としました。
- 検地の実施: 領国内の土地を測量し、田畑の面積や収穫量を正確に把握することで、年貢を確実に徴収しました(指出検地)。
- 分国法(家法)の制定: 領国支配の基本となる独自の法律を定め、家臣や領民を厳しく統制しました(例:今川氏の『今川仮名目録』、武田氏の『甲州法度之次第』)。
- 戦国大名は、旧来の荘園制を完全に解体し、領国を直接的・一元的に支配する**「一円支配」**を目指しました。
7.2. 経済と都市の発達 💰
- 商業・手工業の活発化
- 戦乱の時代ではありましたが、一方で農業生産力の向上を背景に、経済活動はむしろ活発化しました。
- 各地で定期市が開かれる回数が増え(三斎市、六斎市など)、領国間の交易も盛んになりました。手工業者や商人は、**座(ざ)**と呼ばれる同業者の組合を作り、特定の営業権を独占しました。
- 自治都市の繁栄
- 戦国大名の支配を受けず、有力な商人(町衆・まちしゅう)たちの合議によって運営される自治都市も繁栄しました。
- 特に、日明貿易や南蛮貿易の拠点であった港町の堺(大阪)や博多(福岡)は、環濠をめぐらせて武装し、「東洋のヴェネツィア」とも呼ばれるほどの自由と繁栄を謳歌しました。
7.3. 東山文化と中世的価値観の変容 🍵
- 東山文化の特色:わび・さびの美学
- 8代将軍・足利義政の時代を中心とする文化を、彼が営んだ別荘(東山山荘、現在の慈照寺銀閣)にちなんで東山文化と呼びます。
- この文化は、華やかで公家的な北山文化とは対照的に、応仁の乱の不安な世相を反映し、**簡素で静寂な中に美を見出す「わび・さび」**という、日本独特の美意識をその根底に持っています。
- 新しい文化の誕生と普及
- 建築: 慈照寺銀閣は、簡素な美を追求した東山文化の象徴です。また、この時代に、床の間や違い棚を持つ、現代の和風住宅の原型となる**書院造(しょいんづくり)**の様式が確立されました。
- 絵画: 禅の精神と結びついた水墨画が、雪舟によって大成されました。また、やまと絵の伝統を受け継ぐ狩野派(狩野正信・元信親子)が登場し、後の時代の画壇の中心となっていきます。
- 芸能・生活文化:
- 能(能楽): 観阿弥・世阿弥親子によって、猿楽・田楽から、幽玄の美を追求する格調高い舞台芸術へと高められました。世阿弥の著した理論書**『風姿花伝』**は有名です。
- 茶の湯: **村田珠光(じゅこう)が、豪華な道具を用いる従来の茶会を批判し、禅の精神を取り入れた簡素な「わび茶」**を創始しました。
- その他、生け花や、和歌の上の句と下の句を複数人で詠みつなぐ**連歌(れんが)**なども、武士や庶民の間に広く普及しました。
- 文化の担い手と価値観の変化
- 東山文化の最大の特徴は、貴族や有力武士だけでなく、堺の町衆や、連歌師のような専門の文化人、さらには自立した農民など、文化の担い手の裾野が大きく広がったことです。これは、身分や家柄よりも個人の実力や才能が重視される、中世社会の価値観の変化を象徴するものでした。
【本モジュールのまとめ】
本モジュールでは、武士が歴史の表舞台に登場し、自らの政権を樹立・展開させ、そして激しい動乱の中で既存の秩序が崩壊していく、約400年間の「中世」という激動の時代を駆け抜けました。
- 武家政権の誕生: 保元・平治の乱を契機に武士が台頭し、平氏政権を経て、源頼朝が鎌倉幕府を創設。土地を媒介とした**「御恩と奉公」**という、日本独自の封建制度が確立されました。
- 武家支配の確立と動揺: 幕府は、承久の乱で朝廷に勝利することで、その優位を決定づけ、執権政治の下で安定期を迎えます。しかし、元寇という対外危機は、幕府の支配体制を根底から揺るがし、内側からの崩壊を招きました。
- 新たな動乱と室町幕府: 建武の新政という天皇親政の試みは失敗に終わり、日本は南北朝の動乱へと突入します。その中から生まれた室町幕府は、3代将軍・足利義満の下で全盛期を迎えますが、その権力基盤は有力守護大名の連合という、常に不安定なものでした。
- 下剋上の時代の到来: 幕府の権威が失墜する中、応仁の乱が勃発。旧来の権威は地に落ち、もはや実力のみがものをいう下剋上の時代、すなわち戦国時代の幕が開かれました。
- 文化の変容: 文化の担い手は貴族から武士、そして庶民へと広がり、力強い武家文化(鎌倉文化)や、簡素な美(わび・さび)を追求する東山文化が花開きました。
このように、「中世」とは、古い秩序が絶えず崩壊し、その中から新たなエネルギーが生まれてくる、まさに**「動乱と創造」**が表裏一体となった時代でした。武士、農民、商人といった新たな社会の担い手たちが、自らの力で築き上げた新しい秩序や文化は、次の「Module 4: 近世社会の確立と展開」へと繋がる、強力な原動力となっていくのです。