【基礎 日本史】Module 4: 近世社会の確立と展開
【本記事の概要】
本稿は、約100年にわたる戦国時代の動乱に終止符が打たれ、安定した長期政権の下で独自の社会と文化が成熟した**「近世」**という時代を、その成立から展開、そして終焉まで体系的に解き明かすことを目的とします。この時代は、織田信長・豊臣秀吉による天下統一事業に始まり、徳川家康が創設した江戸幕府の下で約260年間にわたる泰平の世が続いた、日本の歴史上でも特異な安定期です。
本モジュールでは、まず、戦国の常識を破壊し、武力による天下統一への道を切り開いた織田信長、そしてその事業を継承し、太閤検地や刀狩といった画期的な政策で全国を統一した豊臣秀吉の時代を概観します。次に、関ヶ原の戦いを経て成立した江戸幕府が、幕藩体制、武家諸法度、参勤交代といった巧みな制度をいかにして構築し、長期的な支配を確立したのかを詳解します。
さらに、士農工商という身分制度や、鎖国と呼ばれる対外政策の実態に迫り、安定期の中で展開された享保・寛政・天保の改革といった幕政の動揺、そして元禄・化政文化に代表される、商品経済の発展を背景とした華やかな町人文化の興隆を追います。
しかし、その泰平も永遠ではありませんでした。国内では国学の発展が尊王論を育み、国外ではアヘン戦争の衝撃が幕府を揺さぶります。そして、ペリー来航による開国を契機に、尊王攘夷、公武合体、そして討幕へと至る、幕末の激しい政治動乱の渦へと分け入っていきます。
このモジュールを通じて、単なる事実の羅列ではなく、近世という時代の社会構造、統治システム、経済、文化、思想が、それぞれどのように連関し、260年の平和を支え、そして最終的にその崩壊を導いたのかという、歴史の大きなダイナミズムを論理的に理解することを目指します。
1. 天下統一への道:織田・豊臣の時代 (16世紀後半)
1.1. 織田信長の天下布武と統一事業
- 戦国時代の破壊者・織田信長
- 尾張の小大名に過ぎなかった織田信長が、1560年の桶狭間の戦いで、圧倒的兵力を誇る今川義元を破ったことは、彼の名を一躍天下に轟かせました。信長は、旧来の権威や慣習に捉われない、徹底した合理主義と冷徹な決断力で、戦国乱世の終焉に向けた道を切り開きます。
- 「天下布武」の理念と事業
- 1568年、足利義昭を奉じて上洛した信長は、**「天下布武(てんかふぶ)」**の印を用い始めます。これは、「武力をもって天下を平定し、統一政権を樹立する」という、彼の強い意志表示でした。
- 軍事革命:
- 長篠の戦い(1575年): 当時最強と謳われた武田勝頼の騎馬隊に対し、大量の鉄砲を組織的に用いる三段撃ち戦法で圧勝。戦争のあり方を根底から変えました。
- 兵農分離を推し進め、戦闘に専念する専門の兵士を育成しました。
- 経済政策:
- 楽市・楽座: 城下町などで、座(同業組合)の特権を廃止し、誰でも自由に商売できる楽市・楽座の政策を実施。これにより商業を活性化させ、経済力を強化しました。
- 関所の撤廃などを通じて、物流の円滑化を図りました。
- 旧権威の否定:
- 比叡山延暦寺の焼き討ち(1571年): 浅井・朝倉氏に味方した天台宗の総本山である延暦寺を、女子供を含めて焼き討ちにし、宗教勢力が政治に介入することを決して許さない姿勢を示しました。
- 石山本願寺との抗争: 10年以上にわたる抗争の末、強大な力を持っていた一向一揆の総本山・石山本願寺を屈服させました。
- 1573年には、対立した室町幕府15代将軍・足利義昭を京都から追放し、約240年続いた室町幕府を事実上滅亡させました。
- 本能寺の変
- 天下統一を目前にした1582年、信長は、中国地方の毛利氏攻めの支援に向かう途中、京都の本能寺で、家臣の明智光秀に謀反を起こされ、自刃しました。その革新的な事業は、道半ばで終わりを告げました。
1.2. 豊臣秀吉の全国統一と体制構築
- 信長の後継者・豊臣秀吉
- 本能寺の変の報を、備中高松城で毛利氏と対陣中に聞いた羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、ただちに毛利氏と和睦(中国大返し)。驚異的な速さで京に引き返し、山崎の戦いで明智光秀を討ち、信長の後継者としての地位を確立しました。
- その後、賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家を、小牧・長久手の戦いを経て徳川家康を臣従させ、四国の長宗我部元親、九州の島津義久を次々と降伏させ、1590年には関東の小田原北条氏を滅ぼし、奥州も平定。ついに全国統一を成し遂げました。
- 全国統一を支えた画期的な政策
- 秀吉は、武力による統一と並行して、全国の社会構造を根底から作り変える、極めて重要な政策を断行しました。これが、来るべき近世社会の基礎となります。
- 太閤検地(たいこうけんち):
- 目的: 全国の土地(荘園・公領)を、直接秀吉の支配下に置くため。それまで複雑だった土地の所有関係を整理し、全国の生産力を正確に把握する目的がありました。
- 方法:
- 全国の田畑の面積を、統一された枡(京枡)と測量法で測り直す。
- 土地の良し悪し(上田・中田・下田など)を調査し、その土地の標準的な収穫量を米の体積(石高・こくだか)で表示する。
- その土地を実際に耕作している農民を検地帳に登録し、その土地の所有者(納税責任者)と定める。
- 歴史的意義: この検地により、中世以来の複雑な荘園公領制は完全に解体され、一地一作人(いっちいっさくにん)の原則が確立。全国の土地と人民が、石高という統一された基準の下で、天下人(秀吉)によって一元的に把握される体制が生まれました。
- 刀狩(かたながり):
- 目的: 農民から刀や槍、鉄砲などの武器を没収することで、一揆を防ぎ、社会を安定させるため。
- 口実: 没収した武器は、方広寺の大仏を造るための釘やかすがいにするとされた。
- 歴史的意義: 刀狩は、兵農分離(へいのうぶんり)を決定づけました。これにより、武器を持つことを許された武士と、農耕に専念する百姓という身分が明確に区別され、後の士農工商の身分制度の基礎が築かれました。
- 太閤検地と刀狩は、いわば表裏一体の政策であり、これによって中世的な社会は終わりを告げ、近世社会の扉が開かれたのです。
1.3. 朝鮮出兵(文禄・慶長の役)とその影響
- 出兵の動機
- 国内統一を成し遂げた秀吉は、その絶頂期に、次なる目標として大陸(明)の征服を掲げ、その通り道である朝鮮に対して、服属と明への先導を要求しました。
- 朝鮮がこれを拒否すると、秀吉は1592年、15万を超える大軍を朝鮮に派遣しました(文禄の役)。
- 戦いの経過
- 日本軍は当初、破竹の勢いで進撃し、首都・漢城(ソウル)や平壌を占領しました。
- しかし、朝鮮の民衆による義兵の抵抗や、名将・**李舜臣(りしゅんしん)**が率いる朝鮮水軍の活躍によって補給路を断たれ、さらに明からの援軍が到着すると、戦況は膠着状態に陥りました。
- 和平交渉が不調に終わると、秀吉は1597年に再び出兵(慶長の役)を行いますが、戦果は上がらず、翌1598年に秀吉が病死したことで、日本軍は朝鮮から全面撤退しました。
- 出兵の影響
- 日本: この無謀な戦争は、多くの大名の兵力と財力を消耗させ、豊臣政権の権威を揺るがす一因となりました。一方で、朝鮮から多くの陶工を連れ帰ったことで、有田焼や薩摩焼といった、後の日本の陶磁器産業が発展するきっかけともなりました。
- 朝鮮: 戦場となった朝鮮半島は、国土が荒廃し、甚大な被害を受けました。
- 明: 莫大な戦費を投じた明は、国力が衰え、後の滅亡(→清の建国)の遠因となりました。
- このように、朝鮮出兵は東アジアの国際関係を大きく変動させる結果を招きました。
2. 江戸幕府の創設と幕藩体制の確立
2.1. 関ヶ原の戦いと江戸幕府の創設
- 秀吉死後の政局
- 秀吉の死後、幼い後継者・豊臣秀頼を補佐する五大老・五奉行の間で、主導権争いが激化します。
- 五大老筆頭の徳川家康は、巧みな政略で着々と影響力を拡大。これに対し、五奉行の中心人物であった石田三成は、家康の専横に反発し、毛利輝元を総大将に立てて挙兵します。
- 関ヶ原の戦い(1600年)
- 天下分け目の決戦は、美濃国関ヶ原で行われました。家康率いる東軍と、三成・毛利輝元らの西軍が激突。
- 当初は西軍が優勢でしたが、西軍に味方していた小早川秀秋らの裏切りによって、戦況は一変。わずか半日で東軍の圧勝に終わりました。
- 江戸幕府の成立
- 戦後、家康は西軍に味方した大名の領地を没収・削減し、それを東軍に味方した武将に恩賞として与えるなど、大名の配置を大幅に変更しました(大名改易・転封)。
- 1603年、家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を開きました(江戸幕府)。さらに、そのわずか2年後には、将軍職を子の秀忠に譲り、自らは大御所として実権を握り続けることで、将軍職が徳川家の世襲であることを天下に示しました。
- そして、1614年の方広寺鐘銘事件を口実に豊臣氏を挑発し、大坂の陣(1614年冬の陣、1615年夏の陣)で豊臣氏を完全に滅ぼし、徳川による盤石な支配体制を確立しました。
2.2. 幕藩体制:幕府と藩の関係
- 幕藩体制とは
- 江戸時代の日本の統治体制を幕藩体制と呼びます。これは、全国を支配する将軍(幕府)と、それぞれの領地を治める大名(藩)という、二重の支配構造から成り立っていました。
- 幕府の直轄領と財政基盤
- 幕府は、全国の総石高の約4分の1にあたる、約700万石の広大な直轄地(天領)を所有していました。特に、江戸、京都、大坂といった重要な都市や、佐渡金山、生野銀山といった主要な鉱山は、幕府が直接支配し、その強大な財政基盤としました。
- 大名の種類と配置
- 幕府は、全国に約300いた大名を、将軍家との親疎関係によって巧みに分類し、配置することで、その支配を盤石なものにしました。
- 親藩(しんぱん):徳川家の一門。尾張・紀伊・水戸の御三家を筆頭とし、将軍の補佐や、後継者不在の際の将軍家供給源として、重要な役割を担った。江戸の周辺など、戦略上の要地に配置された。
- 譜代(ふだい)大名:関ヶ原の戦い以前から徳川氏に仕えていた家臣。老中などの幕府の要職に就くことができ、幕政を支える中核となった。江戸の周辺や、主要街道沿いなど、要衝に配置された。
- 外様(とざま)大名:関ヶ原の戦いの後に徳川氏に従った大名。加賀の前田氏など、大きな石高を持つ大名も多かったが、幕府の役職に就くことはできず、江戸から遠い地域に配置された。
- 幕府は、全国に約300いた大名を、将軍家との親疎関係によって巧みに分類し、配置することで、その支配を盤石なものにしました。
2.3. 大名統制策:武家諸法度と参勤交代
- 法による統制:武家諸法度
- 幕府は、大名を統制するために、**武家諸法度(ぶけしょはっと)**という法律を制定しました。
- これは、2代将軍・秀忠の時代に発布されたもの(元和令・げんなれい)を皮切りに、将軍が代わるごとに改訂され、幕末まで続きました。
- 内容は、「文武弓馬の道に励むこと」「許可なく城を修理しないこと」「許可なく大名同士で婚姻を結ばないこと」など、大名の行動を細かく規制するものでした。
- 経済的・軍事的な統制:参勤交代
- 3代将軍・家光の時代に制度化された**参勤交代(さんきんこうたい)**は、大名統制の最も巧みな仕組みでした。
- これは、大名に、1年おきに江戸と自らの領国(藩)とを往復させる制度です。また、大名の妻子は人質として、常に江戸の屋敷に住むことを義務付けられました。
- 目的と効果:
- 財政的負担: 大名は、江戸までの大名行列の費用や、江戸での滞在費などで莫大な出費を強いられ、その財政を圧迫することで、謀反などを起こす経済的な余力を奪いました。
- 軍事的弱体化: 領国を常に留守にさせることで、軍事行動を起こしにくくしました。
- 文化・経済の発展: 大名行列が全国の街道を往来したことで、交通網(五街道など)が整備され、江戸の文化が全国に伝播し、経済的な交流が促進されるという副次的な効果も生み出しました。
2.4. 士農工商の身分制度と社会構造
- 兵農分離の徹底と身分制
- 豊臣秀吉の兵農分離政策を継承した江戸幕府は、社会の安定を維持するため、厳格な身分制度を確立しました。
- 人々は、武士・百姓・職人・商人の四つの身分に大別され、これを一般に**士農工商(しのうこうしょう)**と呼びます。
- 武士:苗字帯刀(みょうじたいとう)や切捨御免といった特権を持つ支配階級。人口の約7%を占め、政治・軍事を担った。
- 百姓(農民):人口の80%以上を占める被支配階級。年貢を納めることで社会の基盤を支え、耕作権は保障されたが、土地の売買や移動、職業の自由は厳しく制限された。
- 町人(職人・商人):城下町に住み、商工業に従事。経済的には豊かになる者もいたが、身分的には武士の下に置かれた。
- この他にも、公家や僧侶、そしてえた・ひにんと呼ばれる、さらに厳しい差別に置かれた人々も存在しました。
- 村と町の自治
- 幕府や藩の支配は、個々の人民に直接及ぶのではなく、村や町といった共同体を単位として行われました。
- 村方三役(むらかたさんやく):村では、名主(庄屋)・組頭・百姓代といった村役人が、年貢の徴収や法令の伝達など、村の運営を自治的に行った。農民は五人組という制度で組織され、相互監視と連帯責任を負わされた。
- 町役人:町では、町名主・町年寄などが、町の自治を担った。
2.5. 「鎖国」体制の完成と四つの口
- キリスト教の禁止と貿易統制
- 江戸時代初期、幕府は当初、海外貿易(朱印船貿易)を奨励していました。
- しかし、九州を中心にキリスト教が広まり、信者が団結して支配に抵抗する動き(フェリペ号事件など)が見られるようになると、幕府はキリスト教を幕藩体制の維持に対する脅威と見なすようになります。
- 幕府は次第にキリスト教の禁止を強化し、貿易の管理・統制へと舵を切りました。1637年に起こった島原・天草一揆は、キリスト教徒であった多くの農民が、重い年貢に反発して起こした大規模な反乱であり、これを鎮圧した幕府は、キリスト教への警戒感を決定的にしました。
- 「鎖国」体制の完成
- 3代将軍・家光の時代に、一連の鎖国令が発布され、体制が完成します。
- 日本人の海外渡航と、海外からの帰国を全面的に禁止。
- ポルトガル船の来航を禁止。
- 貿易港を長崎の出島に限定。
- 3代将軍・家光の時代に、一連の鎖国令が発布され、体制が完成します。
- 「鎖国」の実態と四つの口
- 「鎖国」という言葉は、完全に国を閉ざしたという誤解を与えがちですが、実際には、幕府が管理・統制する限られた窓口を通じて、対外関係や貿易を維持する体制でした。
- この窓口は**「四つの口」**と呼ばれます。
- 長崎口: 幕府の直轄地。オランダ(プロテスタント国で布教の意図が薄い)と、中国(清)との貿易が許可された。オランダ商館長が提出する**オランダ風説書(ふうせつがき)**は、幕府が海外の情報を得るための貴重な情報源でした。
- 対馬口: 対馬藩の宗氏を介した、朝鮮との貿易・外交。
- 薩摩口: 薩摩藩の島津氏を介した、琉球王国との貿易。
- 松前口: 松前藩を介した、アイヌの人々との交易。
- このように、「鎖国」とは、キリスト教の流入を阻止しつつ、幕府が貿易の利益と情報を独占するための、極めて合理的な対外政策だったのです。
3. 近世社会の展開:改革・経済・文化
3.1. 幕政改革の展開:享保・寛政・天保の改革
- 改革の背景:幕府財政の悪化
- 江戸時代中期以降、幕府は深刻な財政難に直面します。商品経済の発展により武士の支出が増大する一方、年貢米の価格(米価)は不安定で、幕府の歳入は伸び悩みました。
- この財政危機を乗り切るため、幕府は三度にわたる大規模な政治・経済改革を行いました。これらを三大改革と呼びます。
- 享保の改革(きょうほうのかいかく):8代将軍・徳川吉宗
- 目的: 財政再建と、武士社会の規律引き締め。「原点回帰」として、家康時代の政治を理想とした。
- 主な政策:
- 財政再建:
- 上米の制(あげまいのせい): 大名に石高に応じて米を献上させる代わりに、参勤交代の江戸在府期間を半年に短縮。
- 新田開発の奨励: 年貢収入の増大を目指す。
- 倹約令: 武士や庶民に質素倹約を命じる。
- 制度改革:
- 公事方御定書(くじかたおさだめがき): 裁判の基準となる法典を整備。
- 目安箱(めやすばこ)の設置: 庶民からの意見を直接聞くために設置。小石川養生所(無料の医療施設)の設立につながった。
- 財政再建:
- 評価: 一定の財政再建には成功したが、年貢の増徴は農民の反発を招き、一揆が増加した。
- 寛政の改革(かんせいのかいかく):老中・松平定信
- 目的: 10代将軍家治の時代の田沼意次による政治(商業重視、役人の賄賂横行)の弊害を是正し、享保の改革の精神に立ち返ること。
- 主な政策:
- 農村復興: 旧里帰農令で、都市に流入した農民を農村に返す。
- 財政再建: **囲米(かこいまい)**の制で、飢饉に備えて米を備蓄させる。
- 思想統制: 寛政異学の禁を発し、幕府の学問所(昌平坂学問所)では朱子学以外の学問を教えることを禁じ、武士の思想的引き締めを図った。
- 評価: あまりに厳格で理想主義的な政策は「白河の清きに魚も住みかねて」と風刺され、社会の活力を削ぐ結果となり、短期で終わった。
- 天保の改革(てんぽうのかいかく):老中・水野忠邦
- 目的: 天保の飢饉などで深刻化した社会不安と財政危機を克服するための、最後の本格的な幕政改革。
- 主な政策:
- 物価対策: 株仲間(商工業者の同業組合)の解散を命じ、物価の引き下げを図る(効果は薄かった)。
- 風俗統制: 庶民の贅沢や娯楽を厳しく取り締まる。
- 上知令(あげちれい): 江戸・大坂周辺の大名・旗本の領地を、幕府の直轄地にしようとしたが、大名たちの猛反発に遭い、失敗。
- 評価: 最も強権的であったが、効果は上がらず、水野忠邦の失脚により頓挫。幕府の権威低下を決定づけた。
3.2. 商品経済の発展と町人文化の興隆
- 経済の活発化と新たな担い手
- 260年の平和は、農業生産力の向上と交通網の整備をもたらし、商品経済を飛躍的に発展させました。年貢として徴収された米や、藩の特産品が、大坂の**蔵屋敷(くらやしき)**などに集められ、全国規模で取引されました。
- この中で、経済の実権は、年貢に依存する武士階級から、商人(町人)の手に移っていきます。三井家や住友家のような豪商が生まれ、大名に金を貸し付ける(大名貸)など、大きな力を持つようになりました。
- 元禄文化(げんろくぶんか):上方中心の活気ある文化
- 17世紀末から18世紀初頭、5代将軍・徳川綱吉の時代を中心に、主に京都・大坂(上方・かみがた)で栄えた、活気と人間味あふれる文化。
- 文学:
- 井原西鶴(いはらさいかく): 町人の経済活動や色恋をリアルに描いた浮世草子。『好色一代男』『日本永代蔵』。
- 松尾芭蕉(まつおばしょう): 俳諧(俳句)を、わび・さびの境地を取り入れた芸術性の高いものに高めた。『奥の細道』。
- 近松門左衛門(ちかまつもんざえもん): 人形浄瑠璃や歌舞伎の脚本家。義理と人情の板挟みになる人々の姿を描き、絶大な人気を博した。『曽根崎心中』。
- 美術:
- 浮世絵: 町人の風俗を描いた木版画。**菱川師宣(ひしかわもろのぶ)**が「見返り美人図」で知られる。
- 装飾画: **尾形光琳(おがたこうりん)**が、大胆な構図と色彩で「燕子花図屏風」などを描く(琳派)。
- 化政文化(かせいぶんか):江戸中心の皮肉と庶民の文化
- 19世紀初頭、11代将軍・徳川家斉の時代を中心に、政治の中心地である江戸で栄えた、より庶民的で、風刺や滑稽味を帯びた文化。
- 文学:
- 十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の滑稽本『東海道中膝栗毛』や、**式亭三馬(しきていさんば)**の『浮世風呂』が人気を博す。
- 与謝蕪村や小林一茶が、俳諧の世界で活躍。
- 美術:
- 浮世絵が全盛期を迎え、多色刷りの錦絵(にしきえ)が発達。喜多川歌麿の美人画、東洲斎写楽の役者絵、葛飾北斎や歌川広重の風景画(「富嶽三十六景」「東海道五十三次」)は、ヨーロッパの印象派の画家たちにも影響を与えた。
- 教育: 寺子屋が庶民の間に普及し、識字率が向上。化政文化の広範な担い手層を支えた。
3.3. 国学の成立と尊王論の展開
- 新しい学問の潮流
- 江戸時代中期以降、幕府が奨励した朱子学とは異なる、新しい学問が次々と生まれました。
- 古学: 朱子学の解釈を批判し、孔子・孟子の原典に直接立ち返ろうとする儒学の一派。伊藤仁斎や**荻生徂徠(おぎゅうそらい)**が代表的。
- 蘭学(らんがく): 「鎖国」下で唯一交流のあったオランダを通じて入ってきた、ヨーロッパの科学技術や医学、世界情勢を研究する学問。杉田玄白・前野良沢らが、オランダの解剖書を翻訳した**『解体新書』**は、その画期的な成果。
- 国学の成立
- **国学(こくがく)**は、儒教や仏教といった外来思想の影響を受ける以前の、古代日本人の純粋な精神や文化を明らかにしようとする学問です。
- **賀茂真淵(かものまぶち)**が『万葉集』を研究し、古代人の素朴で力強い精神(ますらおぶり)を称揚。
- その弟子である**本居宣長(もとおりのりなが)は、『古事記』を生涯かけて研究し、その成果を『古事記伝』**にまとめました。彼は、儒教的な道徳(漢意・からごころ)を排し、古代日本固有の精神(真心・まごころ)を明らかにしようとしました。
- 尊王論への展開
- 宣長の国学は、天皇の存在を日本の中心と考える思想へと繋がっていきます。
- 幕末期には、この国学思想と、水戸藩で編纂された『大日本史』の歴史観(水戸学)などが結びつき、**「天皇を尊び、幕府や外国を討つべきだ」という尊王論(そんのうろん)**が形成されていきました。
- 当初は純粋な学問であった国学が、幕末の政治的変動の中で、幕府の支配の正統性を揺るがす、強力なイデオロギーへと転化していったのです。
4. 幕末の動乱:幕藩体制の崩壊 (19世紀半ば)
4.1. アヘン戦争と日本の対外的危機感
- 清の敗北という衝撃
- 1840年、隣の大国である清(中国)が、イギリスとのアヘン戦争に敗北し、不平等な南京条約を結ばされるというニュースは、オランダ風説書などを通じて日本にもたらされ、幕府や知識層に大きな衝撃を与えました。
- 「眠れる獅子」と恐れられていた清が、西洋の軍事力の前にいとも簡単に屈したという事実は、日本にとって対岸の火事ではなく、「次は日本の番かもしれない」という深刻な対外的危機感を煽りました。
- これを受け、幕府は、それまで外国船を打ち払うとしていた異国船打払令を緩和し、遭難した船には薪水を与える薪水給与令(1842年)に改めるなど、対外政策の転換を余儀なくされました。
4.2. 開国:ペリー来航と不平等条約
- 黒船来航(1853年)
- 1853年、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが、4隻の軍艦(黒船)を率いて浦賀に来航し、幕府に対して大統領の国書を渡し、日本の開国を要求しました。
- 蒸気船が煙を吐き、巨大な大砲を備えた黒船の威容は、当時の日本人を震撼させました。幕府は、1年の猶予を求めて回答を先延ばしにするのが精一杯でした。
- 二つの条約の締結
- 翌1854年、ペリーが再び来航すると、幕府は武力衝突を避けるため、アメリカの要求を受け入れざるを得ませんでした。
- 日米和親条約(1854年):
- 内容: 下田・箱館(函館)の2港を開港し、アメリカ船に薪水・食料を供給すること。難破した船員を救助すること。
- 特徴: まだ貿易を認めたものではないが、200年以上続いた「鎖国」の体制に、ついに風穴が開けられた。アメリカに与えた片務的な最恵国待遇(アメリカに認めた権利は、他の国にも自動的に与えられる)が含まれていた。
- 日米修好通商条約(1858年):
- 背景: アメリカ総領事ハリスが、アロー戦争で清がイギリス・フランスに敗れたことを引き合いに出し、平和的に条約を結ぶよう幕府に強く迫った。大老・**井伊直弼(いいなおすけ)**が、朝廷の許可(勅許)を得られないまま、独断で調印。
- 内容:
- 神奈川(横浜)、長崎、新潟、兵庫(神戸)などの開港と、江戸・大坂の開市。
- 協定関税制(関税自主権の欠如): 日本が輸入品にかける関税率を、自由に決めることができない。
- 領事裁判権(治外法権)の承認: 日本で罪を犯した外国人を、日本の法律で裁くことができず、その国の領事が裁く。
- 歴史的意義: この二つの権利の欠如は、日本の国家主権を著しく侵害する不平等条約であり、その改正は、後の明治政府の最大の外交課題となりました。
4.3. 幕末の政治動乱:尊王攘夷から討幕へ
- 安政の大獄と桜田門外の変
- 大老・井伊直弼は、条約の無勅許調印と、将軍継嗣問題(14代将軍を徳川慶福(よしとみ、後の家茂)に決定)に反対した人々を、厳しく弾圧しました(安政の大獄)。これには、尊王攘夷派の志士(吉田松陰など)や、一橋慶喜を推した大名(徳川斉昭など)が含まれていました。
- この強権的な手法は激しい反発を招き、1860年、井伊直弼は江戸城の桜田門外で、水戸藩の浪士らに暗殺されました(桜田門外の変)。これにより、幕府の権威は決定的に失墜します。
- 尊王攘夷から公武合体、そして討幕へ
- 井伊直弼の死後、政治の主導権をめぐり、様々な思想が激しくぶつかり合いました。
- 尊王攘夷(そんのうじょうい)運動: 「天皇を尊び、外国勢力を打ち払え」というスローガン。当初は、幕府の弱腰な対外政策を批判する運動だったが、次第に反幕府運動へと転化していった。長州藩がその中心。
- 公武合体(こうぶがったい)運動: 朝廷(公)と幕府(武)が協力して、国難に当たろうとする考え方。幕府と薩摩藩が中心。孝明天皇の妹・和宮を将軍家茂に嫁がせるなどの政策がとられた。
- しかし、薩英戦争や下関戦争で、外国の圧倒的な軍事力を思い知った薩摩・長州両藩は、「攘夷」が不可能であることを悟ります。
- 薩長同盟と大政奉還
- 攘夷を諦めた薩摩藩(西郷隆盛、大久保利通)と長州藩(桂小五郎(木戸孝允)、高杉晋作)は、土佐藩の坂本龍馬らの仲介で、それまでの対立を乗り越え、武力で幕府を倒すための軍事同盟を結びます(薩長同盟、1866年)。
- この動きを察知した15代将軍・**徳川慶喜(よしのぶ)**は、土佐藩の提案を受け入れ、武力衝突を避けるため、1867年10月、政権を朝廷に返上することを申し出ました(大政奉還)。
- 王政復古の大号令と江戸時代の終焉
- 大政奉還によって、形式的には江戸幕府は消滅しました。しかし、慶喜が新政府内でも実権を握ることを警戒した薩長両藩は、同じ年の12月、宮中のクーデターを決行。天皇中心の政治に戻すことを宣言する王政復古の大号令を発し、慶喜の官職と領地の返上(辞官納地)を決定しました。
- これに反発した旧幕府軍と、薩長を中心とする新政府軍との間で、戊辰戦争が勃発。鳥羽・伏見の戦いを皮切りに、約1年半にわたる戦いの末、新政府軍が勝利しました。こうして、260年以上続いた江戸幕府は完全に滅亡し、日本は近代国家建設へと向かう、新たな時代を迎えるのです。
【本モジュールのまとめ】
本モジュールでは、戦国時代の混乱を収拾し、約260年という長期の安定をもたらした近世社会が、いかにして確立され、展開し、そして最終的に崩壊へと至ったのか、その壮大な歴史を概観しました。
- 天下統一事業: 織田信長が旧来の権威を破壊して統一への道筋をつけ、豊臣秀吉が太閤検地・刀狩によって中世社会を終わらせ、近世社会の基礎を築きました。
- 幕藩体制の確立: 徳川家康は、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開きました。そして、幕藩体制、武家諸法度、参勤交代といった巧みな制度を組み合わせることで、武家による安定した全国支配を確立しました。
- 社会の安定と成熟: 士農工商の身分制度と、鎖国と呼ばれる管理貿易体制の下で、社会は安定しました。しかし、その安定の中で商品経済が発展し、経済の実権は武士から町人へと移っていきます。それと共に、元禄・化政文化といった、町人が主役の活気ある文化が花開きました。
- 体制の動揺と崩壊: 幕府は、財政難から三度の幕政改革を試みますが、根本的な解決には至りませんでした。国内では国学から生まれた尊王論が幕府の正統性を揺るがし、国外からはアヘン戦争の衝撃とペリー来航という「外圧」が、幕藩体制を根底から揺さぶりました。
- 幕末の動乱: 開国をめぐる混乱は、尊王攘夷運動や、安政の大獄といった激しい政治抗争を生み出しました。最終的に、薩長同盟が主導する討幕の動きが強まり、徳川慶喜の大政奉還、そして王政復古の大号令と戊辰戦争を経て、長きにわたった武家の時代は、その幕を閉じたのです。
近世社会が遺した、統一された国家、発達した交通網、高い識字率、そして国民意識の萌芽といった遺産(レガシー)は、次の「Module 5: 近代日本の形成と二つの世界大戦」で見る、日本の驚異的な速さでの近代化を可能にする、重要な土台となりました。