【基礎 日本史】Module 5: 近代日本の形成と二つの世界大戦
【本記事の概要】
本稿は、日本の歴史上、最も劇的かつ激動の時代であった**「近代」**、すなわち1868年の明治維新から1945年の第二次世界大戦敗北までの約80年間を、体系的に解き明かすことを目的とします。この時代、日本は封建的な幕藩体制を打破し、驚異的な速さで西洋式の近代国家を建設しました。そして、国内では立憲政治と市民社会の形成が進む一方で、対外的には帝国主義の道を突き進み、二つの世界大戦を経て、最終的には国家破滅という悲劇的な結末を迎えました。
このモジュールの旅は、徳川幕府を打倒した王政復古の大号令と戊辰戦争から始まります。次に、新政府がいかにして廃藩置県などの初期改革を断行し、「富国強兵」「殖産興業」のスローガンの下で、近代的な国家の礎を築いたかを見ます。また、国民の政治参加を求める自由民権運動の展開と、その帰結としての大日本帝国憲法の制定過程に迫ります。
続いて、日本が日清・日露戦争という二つの対外戦争に勝利し、東アジアにおける国際的地位を確立するとともに、韓国併合に象徴される帝国主義国家へと変貌していく過程を追います。そして、第一次世界大戦を経て、一時的に**「大正デモクラシー」と呼ばれる政党政治と自由主義的な風潮が花開くも、その足元で治安維持法**のような社会統制が強化されていく光と影を分析します。
しかし、その束の間の平和は、世界恐慌の波と国内の政治・経済的混乱の中で崩れ去ります。満州事変を機に軍部が台頭し、政治を主導。日本は国際社会から孤立し、日中戦争の泥沼へ、そして無謀な太平洋戦争へと突入し、破滅的な敗北を迎えるまでの道を克明に辿ります。
本稿を通じて、近代日本の「光」である驚異的な近代化と、「影」である侵略戦争とが、なぜ分かちがたく結びついていたのか、その構造的な要因を、政治・経済・社会・国際関係の各側面から多角的に考察します。これは、単なる歴史の知識を超え、現代に至る日本のあり方を問い直すための、極めて重要な知的作業となるでしょう。
1. 明治国家の建設 (1868年~1890年頃)
1.1. 新政府の誕生:王政復古の大号令と戊辰戦争
- 大政奉還の裏側と王政復古クーデター
- 1867年10月、土佐藩の進言を受け、15代将軍・徳川慶喜は、政権を朝廷に返上する大政奉還を行いました。これにより、形式上、260年以上続いた江戸幕府は消滅しました。慶喜の狙いは、武力衝突を避けつつ、徳川家が公議政体(諸侯会議)の中心として、なお政治的実権を握り続けることにありました。
- しかし、武力による幕府打倒を目指していた薩摩藩(西郷隆盛、大久保利通)と長州藩(木戸孝允)は、この動きを徳川の延命策と見なし、先手を打ちます。同年12月9日、薩摩藩らの兵力を背景に、岩倉具視らと結んで宮中クーデターを決行。明治天皇の名において、王政復古の大号令を発しました。
- この大号令は、摂政・関白・幕府といったこれまでの役職を全て廃止し、天皇が直接政治を行う「親政」の復活を宣言するものでした。同時に開かれた小御所会議では、徳川慶喜に対して、内大臣の官職と幕府領の全てを朝廷に返上すること(辞官納地)を一方的に決定しました。
- 戊辰戦争:新時代の幕開けを告げる内戦
- 王政復古の大号令と辞官納地の決定は、旧幕府勢力の激しい反発を招きました。1868年1月、京都近郊で薩長を中心とする新政府軍と旧幕府軍が激突(鳥羽・伏見の戦い)。錦の御旗を掲げた新政府軍が勝利し、慶喜は江戸へ敗走、朝敵とされました。
- これを皮切りに、約1年半にわたる全国的な内戦、戊辰戦争が始まります。
- 新政府軍は、西郷隆盛と旧幕臣・勝海舟の会談による江戸城無血開城を実現させ、関東を制圧。
- その後、会津藩などを中心とする奥羽越列藩同盟との激しい戦いを経て東北地方を平定。
- 最後に、旧幕府海軍副総裁・榎本武揚らが箱館(函館)の五稜郭に立てこもり抵抗を続けましたが、1869年5月、これも鎮圧され、戊辰戦争は終結しました。
- この内戦を経て、明治新政府は、武力によって徳川の支配を完全に排除し、新たな国家建設に着手するのです。
1.2. 封建制の解体:版籍奉還から廃藩置県へ
- 五箇条の御誓文と新政府の基本方針
- 戊辰戦争のさなかである1868年3月、明治天皇が神々に誓うという形で、新政府の基本方針である五箇条の御誓文が発布されました。
- 「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に象徴されるこの御誓文は、旧来の陋習(ろうしゅう)を破り、海外に知識を求めて国を発展させるという、開明的で先進的な国家建設の意志を示し、人心を一新する上で大きな役割を果たしました。
- 版籍奉還(1869年):中央集権化への第一歩
- 新政府が直面した最大の課題は、日本が依然として約300の「藩」に分かれている、封建的な状態にあることでした。このままでは、統一的な国家運営は不可能です。
- そこで、政府の中心にいた木戸孝允や大久保利通らは、まず薩摩・長州・土佐・肥前の有力4藩の藩主に働きかけ、彼らの領地(版)と人民(籍)を、形式的に天皇に返上させました。これを版籍奉還といいます。
- 他の藩もこれに倣い、形式上、全国の土地と人民は天皇のものとなりました。しかし、旧藩主はそのまま**知藩事(ちはんじ)**に任命され、引き続き領地の支配を任されたため、実質的な変化はまだ小さいものでした。
- 廃藩置県(1871年):近代国家の完成
- 版籍奉還だけでは不徹底であると判断した政府は、1871年7月、薩摩・長州・土佐の3藩から約1万人の兵力を東京に集め、軍事力を背景に、一気に改革を断行します。
- 全国全ての「藩」を廃止し、代わりに政府が直接管轄する**「県」**を置くことを宣言しました(廃藩置県)。
- 知藩事は罷免されて東京居住を命じられ、代わりに中央政府から**県令(知事)**が派遣されました。これにより、260年以上続いた幕藩体制は完全に解体され、政府が全国の土地と人民を直接支配する、中央集権的な統一国家が名実ともに完成したのです。これは、明治維新における最大の改革の一つでした。
1.3. 近代化のスローガン:「富国強兵」と「殖産興業」
- 国家目標としての「富国強兵」
- 明治新政府が目指した国家目標は、欧米列強に追いつき、追い越すことでした。そのための具体的なスローガンが**「富国強兵(ふこくきょうへい)」**(国を豊かにし、軍隊を強くする)です。
- 「富国」のための殖産興業
- **殖産興業(しょくさんこうぎょう)**は、国家主導で近代的な産業を育成し、経済力を高めようとする政策です。
- 工部省の設置:官営の鉄道や電信事業を推進。
- 官営模範工場の設立: 欧米から最新の機械と技術者を導入し、富岡製糸場(群馬県)などの模範工場を設立。民間企業の育成を図りました。
- 金融・通貨制度の整備: 新貨条例で「円・銭・厘」を単位とする近代的な貨幣制度を確立。国立銀行条例に基づき、民間銀行を設立させました。
- 岩倉使節団の派遣(1871-73年): 岩倉具視を全権大使とし、大久保利通、木戸孝允、伊藤博文ら政府首脳が多数参加した大規模な使節団を欧米に派遣。不平等条約改正の予備交渉と、各国の制度・文物の視察が目的でした。交渉は失敗しましたが、彼らは西洋の圧倒的な国力を目の当たりにし、日本の近代化には国内の改革が先決であると痛感して帰国します。
- 「強兵」のための軍制改革と地租改正
- 徴兵令(1873年): 「血税」とも呼ばれ、国民皆兵の原則に基づき、満20歳以上の男子に身分を問わず兵役の義務を課しました。これにより、武士に代わる、国民的な軍隊が創設されました。
- 地租改正(1873年):
- 目的: 政府の財政基盤を安定させること。
- 内容:
- 土地の所有者に地券を発行し、近代的な土地所有権を確立。
- 課税基準を、不安定な収穫量(石高)から、確定した**地価(土地の価格)**に変更。
- 税率を**地価の3%とし、物納(米)から金納(現金)**に改める。
- 歴史的意義: 地租改正により、政府は天候などに左右されない、安定した税収を確保できるようになりました。しかし、農民の負担は依然として重く、各地で反対一揆(地租改正反対一揆)が頻発しました。
1.4. 国民の声と国家の骨格:自由民権運動と大日本帝国憲法
- 自由民権運動の勃発
- 岩倉使節団の洋行中に留守政府を預かっていた西郷隆盛や板垣退助らは、朝鮮への使節派遣をめぐる征韓論に敗れて政府を辞職(明治六年の政変)。
- 1874年、政府を去った板垣退助、後藤象二郎らは、民撰議院設立建白書を政府に提出しました。これは、「国民の代表からなる議会(民撰議院)を開設し、政治を論じるべきだ」と主張するもので、自由民権運動の始まりを告げるものでした。
- 運動の展開と政府の対応
- 運動は当初、政府から排除された不平士族が中心でしたが、やがて地租改正に不満を持つ豪農層や、一般民衆を巻き込んで全国的な広がりを見せます。各地で政社と呼ばれる政治結社が作られ、演説会などが活発に行われました。
- 政府は、讒謗律(ざんぼうりつ)や新聞紙条例で言論を弾圧する一方で、国民の要求を部分的に受け入れ、1881年(明治14年)には、国会開設の勅諭を発し、10年後の1890年に国会を開設することを約束しました(明治十四年の政変)。
- 憲法制定への道
- 国会開設の約束を受け、民権派は自由党(板垣退助)、立憲改進党(大隈重信)といった政党を結成し、私擬憲法(民間の憲法草案)を作成するなど、活動を活発化させます。
- 一方、政府の中心人物であった伊藤博文は、プロイセン(ドイツ)の憲法をモデルとすることが、天皇を中心とする日本の国体に最もふさわしいと考え、ドイツの憲法学者ロエスレルらの助言を受けながら、憲法草案の作成を進めました。
- 大日本帝国憲法の発布(1889年)
- 1889年2月11日、大日本帝国憲法が、天皇が国民に下し与えるという形式(欽定憲法・きんていけんぽう)で発布されました。
- 内容と特色:
- 主権: 天皇主権。天皇は「神聖にして侵すべからず」とされ、統治権を総攬(そうらん)する、広範な権限(天皇大権)を持つと定められた。
- 議会: 帝国議会は、皇族・華族や勅選議員からなる貴族院と、公選議員からなる衆議院の二院制。
- 国民の権利: 国民(臣民)の権利は、「法律の範囲内」で保障されるという、制限付きのものであった。
- 統帥権の独立: 軍隊の指揮・命令権(統帥権)は、天皇に直属し、政府や議会は関与できないとされた。この「統帥権の独立」は、後に軍部が政府の統制を離れて暴走する大きな要因となります。
- アジアで最初の近代的な憲法であり、立憲君主制を確立した画期的なものでしたが、同時に、天皇に強大な権限を集中させ、国民の権利を制限するという、プロイセン的な権威主義の性格を色濃く持っていました。
2. 帝国日本の形成と「大正デモクラシー」 (1890年頃~1930年頃)
2.1. アジアの新興勢力:日清戦争と東アジア国際秩序の変動
- 朝鮮半島をめぐる対立
- 明治政府にとって、朝鮮半島の政治的安定は、日本の安全保障上の最重要課題でした。ロシアの南下を警戒する日本は、朝鮮が他国の支配下に入ることを極度に恐れていました。
- 1894年、朝鮮で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こると、朝鮮政府は清国に援軍を要請。日本も、対抗して朝鮮に出兵しました。両国の軍隊が朝鮮半島で睨み合う中、緊張は高まり、ついに日清戦争が勃発します。
- 戦争の経過と下関条約
- 近代的な軍備と組織で勝る日本軍は、陸戦・海戦ともに清国軍を圧倒し、勝利を収めました。
- 1895年、下関条約が結ばれ、以下の内容が決定しました。
- 清は朝鮮の独立を承認する。
- 遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲(譲り渡す)する。
- 日本に賠償金2億両(テール、当時の日本の国家予算の約4倍)を支払う。
- 三国干渉とその影響
- しかし、日本の大陸進出を警戒するロシアが、ドイツ、フランスを誘って、日本に対し遼東半島の清への返還を勧告してきました(三国干渉)。
- これら3国を同時に敵に回す力のない日本は、屈辱を忍んでこの要求を受け入れざるを得ませんでした。
- この事件は、日本国民の間にロシアに対する強い敵愾心(てきがいしん)を植え付け、「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」(将来の成功のために苦労に耐えること)をスローガンに、軍備拡張に邁進する大きなきっかけとなりました。
- 日清戦争の勝利は、中国を中心とした伝統的な東アジアの国際秩序(冊封体制)を崩壊させ、日本がアジアの新たな覇者として登場したことを内外に示す出来事でした。
2.2. 列強への道:日英同盟と日露戦争
- 日英同盟の締結(1902年)
- 三国干渉後、ロシアは遼東半島南部の旅順・大連を租借し、満州への影響力を強めていきました。このロシアの南下政策は、同じく中国大陸に利権を持つイギリスにとっても脅威でした。
- 日本とイギリスの利害が一致し、1902年、日英同盟が締結されます。これは、ロシアを共通の仮想敵国とする軍事同盟であり、日本の国際的地位を大いに高め、ロシアとの対決を後押しするものでした。
- 日露戦争の勃発(1904年)
- 満州と朝鮮半島をめぐるロシアとの交渉が行き詰まると、日本は1904年、ロシアに対して宣戦布告。日露戦争が始まりました。
- 国力で大きく劣る日本は、苦戦を強いられますが、奉天会戦(陸戦)での辛勝や、日本海海戦(連合艦隊司令長官・東郷平八郎がロシアのバルチック艦隊を壊滅させた海戦)での奇跡的な勝利を収めました。
- ポーツマス条約と戦争の影響
- しかし、日本の国力はすでに限界に達しており、アメリカ大統領セオドア・ルーズベルトの仲介で、講和条約であるポーツマス条約(1905年)が結ばれました。
- 内容:
- 日本の韓国における優越権を承認する。
- ロシアから、遼東半島南部の租借権と、南満州鉄道の利権を譲り受ける。
- **南樺太(サハリン)**を日本に割譲する。
- 賠償金が獲得できなかったことに対し、国民の不満が爆発し、東京で焼き討ち事件(日比谷焼打事件)が発生しました。
- 日露戦争は、有色人種の国が白色人種の列強国に勝利した、歴史上初の出来事であり、アジア・アフリカの民族独立運動に大きな希望を与えました。一方で、日本はこれを機に、本格的な帝国主義の道を歩み始めます。
2.3. 帝国主義の道:韓国併合と植民地経営
- 韓国の植民地化
- 日露戦争後、日本は韓国に対する支配を段階的に強化していきます。
- 1905年には、第二次日韓協約により韓国の外交権を奪い、統監府を設置(初代統監は伊藤博文)。
- ハーグ密使事件を機に、1907年には第三次日韓協約で韓国の内政権を掌握し、軍隊を解散させました。
- そして、1910年、韓国併合条約を強引に締結し、国号を大韓帝国から朝鮮に改めさせ、日本の完全な植民地としました(韓国併合)。
- 日本は、京城(ソウル)に朝鮮総督府を置き、陸海軍大将が総督となる武断政治(憲兵警察制度)で、朝鮮の人々を厳しく支配しました。1919年に起こった三・一独立運動を機に、武断政治から文化政治へと転換しますが、皇民化政策(日本語教育の強制、創氏改名など)を進め、植民地支配は終戦まで続きました。
- その他の植民地
- 台湾: 日清戦争で獲得。台湾総督府を置き、土地調査やインフラ整備を進める一方で、現地の人々の抵抗には厳しい弾圧で臨みました。
- 関東州: 日露戦争で獲得した遼東半島南部の租借地。関東都督府を設置。
- 南満州鉄道株式会社(満鉄): 南満州鉄道の経営だけでなく、沿線の炭鉱開発や都市建設なども行う、日本の大陸経営の中心機関でした。
2.4. 束の間の自由主義:第一次世界大戦と大正デモクラシー
- 第一次世界大戦への参戦と「大戦景気」
- 1914年、ヨーロッパで第一次世界大戦が勃発すると、日本は日英同盟を理由に参戦。ドイツが持っていた中国の山東省の利権や、南洋諸島を占領しました。
- 戦争の主戦場がヨーロッパであったため、日本は戦争の被害をほとんど受けず、代わりにヨーロッパ諸国からの注文が殺到し、空前の大戦景気に沸きました。重化学工業が発展し、海運業も大きく成長。日本は債務国から債権国へと転換しました。
- 大正デモクラシーの風潮
- 第一次世界大戦前後、世界的に民主主義や民族自決の気運が高まる中で、日本でも大正デモクラシーと呼ばれる、政治・社会・文化における自由主義的・民主主義的な運動が盛り上がりを見せました。
- 思想: 東京帝国大学教授・吉野作造が、主権の所在は問わないが、その運用は民衆の意向を尊重すべきだとする**「民本主義(みんぽんしゅぎ)」**を唱え、政党内閣制と普通選挙の実現を主張しました。
- 政党政治の展開:
- 第一次護憲運動: 藩閥政治家・桂太郎が組閣すると、「閥族打破・憲政擁護」を掲げる民衆運動が起こり、桂内閣は総辞職に追い込まれました(大正政変)。
- 原敬と本格的政党内閣: 1918年、立憲政友会の総裁であった**原敬(はらたかし)が、初の本格的な政党内閣を組織。衆議院に多数の議席を持つ政党が、内閣を組織するという「憲政の常道」**が、この後しばらく慣行となります。
- 社会運動の活発化
- 労働者の権利を求める労働運動(友愛会など)、部落差別の解消を目指す水平社の結成、女性の地位向上を目指す婦人運動(平塚らいてうらの青鞜社など)といった、様々な社会運動が活発になりました。
2.5. 「飴と鞭」の政治:普通選挙法と治安維持法
- 普通選挙法の成立(1925年)
- 大正デモクラシーの盛り上がりを受け、護憲三派(憲政会、立憲政友会、革新倶楽部)の連立内閣である加藤高明内閣は、ついに普通選挙法を成立させました。
- これにより、納税額による制限が撤廃され、満25歳以上の全ての男子に選挙権が与えられました。有権者数は、それまでの約300万人から約1200万人へと、一気に4倍に増加しました。
- 治安維持法の制定(1925年)
- しかし、政府は普通選挙の実現と同時に、社会主義・共産主義思想の取り締まりを強化するため、治安維持法を制定しました。
- この法律は、**「国体(天皇制)の変革」や「私有財産制度の否認」**を目的とする結社を組織したり、それに参加したりすることを厳しく罰するものでした。
- 当初は共産党員が主な対象でしたが、その解釈は次第に拡大され、政府に批判的な言論や思想を持つ者すべてを弾圧するための、恐るべき道具となっていきます。
- このように、国民に選挙権という「飴」を与える一方で、危険思想を取り締まる「鞭」を用意するという、二面的な政策がとられたのです。
3. 十五年戦争:破滅への道 (1930年頃~1945年)
3.1. 世界的衝撃と国内危機:世界恐慌と昭和金融恐慌
- 安定成長の終わりと金融恐慌
- 大戦景気は、第一次世界大戦の終結とともに終わりを告げ、日本経済は戦後恐慌に陥ります。さらに、1923年の関東大震災が経済に追い打ちをかけました。
- 1927年には、震災で打撃を受けた企業の救済策の失敗から、銀行への取り付け騒ぎが全国に広がり、多くの銀行が休業・倒産に追い込まれました(昭和金融恐慌)。
- 世界恐慌の直撃
- 1929年、ニューヨークのウォール街での株価大暴落をきっかけに、世界恐慌が発生。その波は、またたく間に日本にも押し寄せました。
- 浜口雄幸内閣が、経済界の要求に応じて実施した金解禁(金本位制への復帰)が、最悪のタイミングとなり、日本の物価は暴落。特に、生糸の価格が暴落したことで、養蚕が盛んだった農村は深刻な不況(昭和恐慌)に見舞われ、娘の身売りや欠食児童が社会問題化しました。
- 政党政治への不信
- この深刻な経済危機に対し、有効な対策を打ち出せない政党内閣に対し、国民の不信感と不満は頂点に達しました。特に、貧困にあえぐ農村出身者が多かった軍部では、財閥と結びついて汚職にまみれる政党政治家への憎悪が強まり、国家を改造し、この危機を打開すべきだという過激な思想が広まっていきました。
3.2. 軍部の暴走:満州事変と国際連盟からの脱退
- 満州事変の勃発(1931年)
- 日本の権益が集中する南満州の警備を担当していた関東軍は、日本の生命線である満州を、武力によって完全に日本の支配下に置くことを画策します。
- 1931年9月、関東軍は、奉天(現在の瀋陽)郊外の柳条湖で、自ら南満州鉄道の線路を爆破。これを中国軍の仕業であるとして、軍事行動を開始しました(柳条湖事件)。これが満州事変の始まりです。
- 関東軍は、東京の政府(若槻礼次郎内閣)の方針を無視して、戦線を満州全土に拡大。政府は軍を統制することができませんでした。
- 「満州国」の建国と五・一五事件
- 翌1932年、関東軍は、清朝最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)を執政として、日本の傀儡国家(かいらいこっか)である**「満州国」**を建国させました。
- 国内では、満州事変を追認し、満州国を承認する世論が高まる中、海軍の青年将校らが、犬養毅首相を暗殺する五・一五事件を起こします。この事件により、大正時代から続いた政党内閣の時代は終わりを告げ、以後は軍人(海軍大将の斎藤実、岡田啓介)が首相となる、挙国一致内閣が続くことになります。
- 国際連盟からの脱退(1933年)
- 中国の提訴を受け、国際連盟はリットン調査団を派遣。その報告書は、日本の満州における権益は認めつつも、関東軍の行動を自衛とは認めず、満州国を日本の傀儡と断定し、満州を国際管理下に置くことを勧告しました。
- この勧告案が総会で採択されると、日本の代表であった松岡洋右は、総会の場を退席。1933年、日本は国際連盟からの脱退を正式に通告しました。
- これにより、日本は、ヴェルサイユ・ワシントン体制という国際協調の枠組みから自ら離脱し、世界の中で孤立していく道を歩み始めました。
3.3. 内閣政治の終焉:二・二六事件と軍部の台頭
- 陸軍内の派閥対立
- 五・一五事件後、軍部の政治的発言力はますます強まりましたが、その陸軍内部では、国家の改造方針をめぐり、二つの派閥が激しく対立していました。
- 皇道派(こうどうは): 天皇親政による国家改造(昭和維新)を掲げる、青年将校中心の急進的なグループ。北進論(ソ連を主敵とする)。
- 統制派(とうせいは): 軍の中央幹部を中心に、軍部・官僚・財閥が一体となった総力戦体制の構築を目指す、より現実的なグループ。南進論(中国・南方への進出を重視)。
- 二・二六事件(1936年)
- 皇道派の青年将校たちが、統制派や政府要人を「君側の奸(くんそくのかん)」(天皇の側で天皇を惑わす悪臣)であるとして、約1500人の兵を率いてクーデターを決行。首相官邸や警視庁などを襲撃し、斎藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣らを殺害しました。
- しかし、昭和天皇の強い怒りを買い、反乱は鎮圧されました。
- 事件の結末と軍部支配の確立
- 事件後、皇道派の将校らは厳しく処罰され、陸軍内での影響力を失いました。
- 皮肉なことに、この事件を収拾した統制派が、陸軍内の主導権を完全に掌握。彼らは、軍部の政治介入を抑えるという名目で、軍部大臣現役武官制を復活させました。これは、陸軍・海軍大臣は現役の大将・中将でなければならないという制度で、軍部が気に入らない内閣には大臣を送らず、内閣を総辞職に追い込むことができる、強力な政治的武器となりました。
- これにより、軍部、特に陸軍の意向に逆らって内閣を組織することは不可能となり、日本の議会制民主主義は事実上、その息の根を止められました。
3.4. 泥沼化する総力戦:日中戦争と国家総動員体制
- 盧溝橋事件と日中戦争の勃発
- 1937年7月、北京郊外の**盧溝橋(ろこうきょう)**で、演習中の日本軍と中国軍との間に起きた偶発的な武力衝突(盧溝橋事件)をきっかけに、日中両国は全面戦争に突入します(日中戦争)。
- 当初、近衛文麿内閣は「不拡大方針」を掲げましたが、現地の軍部の判断で戦線は次々と拡大。日本軍は首都・南京を占領し、その際に多くの中国人の民間人や捕虜を殺害しました(南京事件)。
- 泥沼化する戦争
- 日本軍は、首都を占領すれば、蒋介石率いる国民政府は降伏するだろうと楽観視していました。しかし、国民政府は首都を重慶に移して徹底抗戦を続け、さらに毛沢東率いる共産党とも協力して(第二次国共合作)、抗日民族統一戦線を結成。
- 広大な中国大陸を相手にした戦争は、終わりが見えない泥沼状態に陥っていきました。
- 国家総動員体制
- 長期化する戦争を遂行するため、政府は、国民生活の全てを戦争に動員する体制を構築していきます。
- 1938年、国家総動員法が制定。この法律は、議会の承認なしに、政府が勅令によって、国民の労働力や物資、資金、言論など、あらゆるものを戦争目的のために統制・動員できるという、絶大な権限を政府に与えるものでした。
- 大政翼賛会の結成、産業報国会による労働組合の解散、生活必需品の切符制・配給制、言論・出版の厳しい統制など、国民生活の隅々にまで戦争遂行のための統制が及んでいきました。
3.5. 太平洋戦争:真珠湾攻撃から原爆投下、そして敗戦へ
- ABCD包囲網と開戦への道
- 日中戦争の解決の糸口が見えない中、日本は、石油やゴムなどの資源を求め、フランス領インドシナ北部へ進駐。これに対し、アメリカ・イギリス・中国・オランダは、日本への石油の輸出を禁止するなど、経済的な圧力を強めます(ABCD包囲網)。
- 資源の大部分を輸入に頼る日本にとって、石油の禁輸は死活問題でした。追い詰められた日本は、アメリカとの外交交渉を続ける一方で、戦争の準備を進めます。
- 1941年10月、対米強硬派の東条英機が首相となり、ついにアメリカとの開戦を決断します。
- 太平洋戦争の開戦と緒戦の勝利
- 1941年12月8日(日本時間)、日本海軍はハワイの真珠湾にあるアメリカ太平洋艦隊を奇襲攻撃し、同時にマレー半島にも上陸。太平洋戦争が始まりました。
- 開戦当初、日本軍は快進撃を続け、フィリピン、シンガポール、インドネシアなど、東南アジアの広大な地域を占領しました。
- 戦局の転換と敗戦
- しかし、1942年6月のミッドウェー海戦で、日本海軍が主力空母4隻を失う大敗を喫したことを境に、戦局は逆転します。
- 圧倒的な物量を誇るアメリカ軍の反攻が始まり、サイパン島、硫黄島、沖縄と、日本の防衛線は次々と突破されていきました。
- 本土では、学徒出陣や女子挺身隊の動員など、国民の犠牲は増大。1945年に入ると、東京大空襲をはじめとする、全国の都市への無差別爆撃が始まり、国土は焦土と化しました。
- ポツダム宣言受諾と終戦
- 1945年8月6日に広島へ、9日には長崎へ、アメリカが原子爆弾を投下。さらにソ連が、日ソ中立条約を破って満州に侵攻。
- この絶望的な状況に至り、日本政府は、天皇の「聖断」によって、連合国が発した無条件降伏の勧告であるポツダム宣言の受諾を決定。
- 8月15日、昭和天皇自らがラジオ放送(玉音放送)で、国民に終戦を告げました。こうして、多くの犠牲者を出した太平洋戦争、そして15年にも及んだ長い戦争の時代は、日本の完全な敗北によって、ついにその幕を閉じたのです。
【本モジュールのまとめ】
本モジュールでは、明治維新から第二次世界大戦の敗北に至る、近代日本の栄光と悲劇の80年間を辿りました。
- 近代国家の建設: 幕藩体制という封建社会を、廃藩置県などの一連の改革によって解体し、「富国強兵」のスローガンの下、驚異的なスピードで西洋式の近代国家を樹立しました。その過程では、自由民権運動という国民の政治参加への希求が生まれ、アジア初の近代憲法である大日本帝国憲法が制定されました。
- 帝国主義への道: 日清・日露戦争に勝利した日本は、欧米列強と肩を並べる一等国としての地位を確立すると同時に、韓国や台湾を植民地とする帝国主義国家へと変貌しました。第一次世界大戦後には、大正デモクラシーという自由主義的な時代を迎えますが、その足元では社会の不安定化も進行していました。
- 戦争と破滅: 世界恐慌を契機に、政党政治は信頼を失い、軍部が政治の主導権を掌握。日本は満州事変を起こして国際社会から孤立し、日中戦争の泥沼に足を踏み入れ、ついには無謀な太平洋戦争へと突き進み、原爆投下を経て、未曾有の敗戦を迎えました。
近代日本が達成した「富国強兵」は、西洋列強の植民地化を免れ、独立を保つという点では成功を収めました。しかし、その「強兵」が、国内の民主主義を抑圧し、アジア諸国への侵略という形で暴走した時、国家は破滅へと向かいました。この近代日本の「光」と「影」を深く理解することは、次の「Module 6: 現代日本の歩み」を学ぶ上で、そして現代の世界と日本が直面する課題を考える上で、不可欠の視点となるでしょう。