【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 14:女性の地位と役割の歴史
本モジュールの目的と構成
歴史は、これまで主に男性の視点から、彼らの活動を中心に語られてきました。しかし、いかなる時代においても、社会の半分を構成してきたのは女性たちです。彼女たちの地位や役割は、決して一枚岩ではなく、時代や社会階層によって大きく変動してきました。古代の女性首長が持っていたとされる政治的・宗教的権威から、律令制下での法的権利、平安貴族社会における文化の担い手としての輝き、そして武家社会や近世の「家」制度の下での地位の低下、近代における「良妻賢母」という新たな役割の創出、そして現代に至る平等への長い道のりまで、その歴史は複雑で、時に矛盾に満ちています。
本モジュールでは、歴史の「もう半分の主役」である女性に焦点を当て、その地位と役割の変遷を丹念に追っていきます。これは、単に歴史の裏面史を語るものではありません。女性の視点から歴史を再構成することによって、私たちは、それぞれの時代の社会構造や価値観を、より深く、立体的に理解することができます。本モジュールで展開される学習の旅路は、以下の通りです。
- 古代の女性首長: 『魏志』倭人伝に記された卑弥呼の姿などから、古代日本における女性の政治的・宗教的な役割の大きさを探ります。
- 律令制下の女性の地位: 大陸から導入された律令制度が、女性の法的地位にどのような権利と制約をもたらしたのか、その光と影を分析します。
- 平安貴族社会の女性: 『源氏物語』の世界を舞台に、女性たちが結婚制度や文化創造において、いかに重要な役割を果たしていたかを解明します。
- 中世武家社会の女性: 武士の台頭という社会変動が、女性の財産権や家庭内での地位にどのような変化をもたらしたのか、その過程を追います。
- 近世の「家」制度と女性: 儒教道徳に支えられた「家」制度の下で、女性が「家の存続」という目的のために、どのような役割を期待され、いかに生きたのかを考察します。
- 近代の「良妻賢母」思想: 明治国家が国民統合のために創出した「良妻賢母」というイデオロギーが、女性の生き方をどのように規定し、近代家族を形成していったかを探求します。
- 女工と近代産業: 近代化の裏側で、日本の産業発展をその身をもって支えた「女工」たちの過酷な労働と、その経済的・社会的意義を明らかにします。
- 女性解放運動(青鞜社): 「元始、女性は実に太陽であった」という平塚らいてうの宣言から始まった、近代日本のフェミニズムの黎明と、その闘いの軌跡を辿ります。
- 女性参政権の獲得: 市川房枝らによる長年にわたる運動と、敗戦という歴史の転換点の中で、女性が政治参加の権利をいかにして手にしたのかを見ていきます。
- 現代のジェンダー平等: 日本国憲法に謳われた両性の平等が、戦後社会でどこまで実現され、なおどのような課題が残されているのか、その現状を概観します。
このモジュールを通じて、皆さんは、女性の地位が、決して自然に決まってきたものではなく、それぞれの時代の政治・経済・思想状況によって、常に作られ、変化してきたものであることを理解するでしょう。そして、過去の女性たちの多様な生き方や闘いを知ることは、現代のジェンダーの問題を歴史的な視点から捉え直し、より公正な社会を築くための、重要な示唆を与えてくれるはずです。
1. 古代の女性首長
日本の歴史の黎明期、国家がまだ形成される以前の社会において、女性は政治的・宗教的に極めて重要な役割を担っていたと考えられています。中国の歴史書や、日本の神話・伝説は、古代の日本列島に、強力な権威を持った女性の指導者が存在したことを伝えています。彼女たちの姿は、後の時代に確立される男性中心の社会とは異なる、古代社会のありようを垣間見せてくれる、貴重な証言です。
1.1. 『魏志』倭人伝に描かれた卑弥呼
3世紀の日本の様子を記した中国の史書、『三国志』の一部である『魏志』倭人伝には、邪馬台国(やまたいこく)を統治した女王・卑弥呼(ひみこ)の存在が、具体的に記されています。
- 共立された女王: 倭人伝によれば、当時、倭国(日本)は長らく男性の王が治めていましたが、争乱が絶えませんでした。そこで、人々は一人の女性を王として「共立」したところ、国は治まったとあります。これが卑弥呼です。この記述は、卑弥呼が、単に世襲によって王位に就いたのではなく、混乱を収拾するための調停者として、諸国の合意の上で王に選ばれたことを示唆しています。
- 鬼道(きどう)による統治: 卑弥呼は、「鬼道につかえ、よく衆を惑わす」と記されています。この「鬼道」が具体的に何を指すかは諸説ありますが、一般的には、呪術や占いといった、シャーマニズム的な宗教儀礼であったと考えられています。彼女は、神の言葉を人々に伝える巫女(みこ)としての宗教的権威を背景に、政治的な権力を行使していたのです。政治(まつりごと)が、文字通り神を祀る「祭り」と一体であった、古代の祭政一致の社会の姿がうかがえます。
- 隔絶された存在: 卑弥呼は、奥深い宮殿に住み、人々の前に姿を見せることはほとんどなく、神々への奉仕に専念していたとされます。政治的な事柄は、弟が補佐して行っていました。この、女性の宗教的権威者(ヒメ)と、男性の政治的実務者(ヒコ)が、共同で統治を行う「ヒメ・ヒコ制」は、古代日本の統治形態の一つの特徴であったとする説もあります。
卑弥呼の存在は、3世紀の日本において、女性が、その宗教的なカリスマ性によって、広範囲の国々を束ねる最高指導者となり得たことを、明確に示しています。
1.2. 神話・伝説に登場する女性指導者
日本の神話や初期の歴史を記した『古事記』や『日本書紀』(記紀)にも、強力な女性指導者の姿が描かれています。
- 天照大神(あまてらすおおみかみ): 日本神話における最高神であり、皇室の祖神とされる天照大神は、太陽神として崇められる女性神です。彼女が、高天原(たかまがはら)という神々の世界を統治する存在として描かれていることは、古代の日本人が、女性的なるものに、至高の神聖さを見出していたことを物語っています。
- 神功皇后(じんぐうこうごう): 記紀に登場する、仲哀天皇の皇后です。天皇の急死後、自ら神がかりとなって神託を受け、お腹に後の応神天皇を宿したまま、三韓(朝鮮半島)へ出兵し、勝利を収めたとされる、伝説的な女傑です。その物語の史実性には議論がありますが、神功皇后の姿は、神託を受ける巫女としての能力と、軍勢を率いる政治的・軍事的指導者としての能力を兼ね備えた、古代の理想的な女性首長像を反映していると考えられます。
1.3. 初期ヤマト政権と女性天皇
4世紀以降、ヤマト政権による国家統一が進む中で、天皇(大王)の位は、原則として男性が継承するようになっていきます。しかし、6世紀末から8世紀にかけて、推古天皇をはじめとして、皇極(斉明)天皇、持統天皇、元明天皇、元正天皇、孝謙(称徳)天皇と、多くの女性天皇が次々と即位しました。
彼女たちの即位の背景には、男性の皇位継承者をめぐる政治的な対立を避けるための中継ぎとして、あるいは、亡き夫である天皇の遺志を継ぐ後継者として、という、それぞれの政治的事情がありました。しかし、彼女たちの多くは、単なる名目上の君主ではなく、蘇我馬子や藤原不比等といった有力豪族と協力しながら、仏教の振興、律令の編纂、都の造営といった、国家の根幹に関わる重要な事業を、主体的に推し進めました。
古代の女性首長や女性天皇の存在は、日本社会が、後の時代に比べて、女性の政治参加に対して、より寛容であったことを示しています。しかし、律令制度の導入によって、中国的な父系継承の原理が強化され、また、道鏡の問題(称徳天皇が寵愛した僧・道鏡を天皇にしようとしたとされる事件)などを経て、次第に女性が天皇の位に就く道は閉ざされていきます。古代における女性指導者の時代の終焉は、日本社会が、母系的な要素を残した社会から、より強固な父権的な社会へと、大きく移行していく過程を象”徴する出来事だったのです。
2. 律令制下の女性の地位
7世紀末から8世紀にかけて、日本は唐の制度に倣い、律令という体系的な法典に基づく中央集権国家を建設しました。この律令制度の導入は、日本の社会の隅々にまで大きな影響を及ぼし、それは女性の地位や権利にも、新たな規定をもたらしました。律令に定められた女性の地位は、一方で、中国の儒教的な父権制思想の影響を受けつつも、他方で、古代日本の伝統的な慣習を色濃く残しており、後の時代と比較すると、意外なほど多くの権利が女性に認められていた、二面的な性格を持っていました。
2.1. 戸籍制度と女性の法的立場
律令制下では、すべての人民は「戸(こ)」を単位として、戸籍に登録されました。この「戸」の長である「戸主(こしゅ)」には、原則として男性がなりましたが、女性が戸主となることも認められていました。
- 女性戸主の存在: 夫が亡くなった後、その妻が戸主となって家を継承するケースや、成人した男性がいない場合に女性が戸主となるケースは、決して珍しくありませんでした。女性戸主は、男性の戸主と同様に、戸籍の管理や、家族の監督、そして納税の責任を負う、法的に独立した存在でした。
- 財産権: 律令の規定では、女性にも財産の相続権が認められていました。口分田は、男女の別なく、一定の年齢に達したすべての人民に班給されるのが原則でした(ただし、女性の班給額は男性の3分の2)。また、親から受け継いだ私有財産については、女性も相続し、所有することができました。
- 婚姻と離婚: 律令制下の婚姻は、夫の家に妻が入る「嫁入り婚」だけでなく、妻の家に夫が通う「妻問い婚」の形態も、依然として一般的でした。また、離婚も比較的自由に行われ、夫が一方的に妻を離縁できる「七出(しちしゅつ)」の規定がある一方で、妻の側から離婚を求めることも可能であり、財産分与に関する規定も存在しました。
このように、律令制下の女性は、戸主となる権利、財産を所有・相続する権利、そしてある程度の婚姻の自由が法的に保障されており、一個の独立した法的人格として、社会的に認められていたと言えます。
2.2. 官人社会と儒教的道徳の影響
一方で、律令制度が、中国の父権的な社会システムをモデルとしていたことから、女性の社会的活動には、多くの制約も課せられていました。
- 官僚制度からの排除: 律令国家の中枢である官僚機構は、完全に男性によって独占されていました。女性が、大学寮で学んで官人登用試験を受け、官職に就く道は、閉ざされていました。政治や行政の公的な領域は、男性の世界とされていたのです。ただし、宮廷内には、天皇の身辺の世話や、後宮の事務を担う「後宮十二司(こうきゅうじゅうにし)」と呼ばれる女性の官職が存在し、一部の女性は、専門的なスキルを活かして、宮廷という特殊な空間で活躍していました。
- 儒教的女性観の浸透: 律令制度とともに、その思想的背景である儒教も、支配階層を中心に浸透していきました。儒教は、女性に対して、貞節や、夫への従順、家庭内での役割に徹することを求める道徳を説きました。こうした思想は、次第に、女性の社会的地位を、家庭という私的な領域に限定していく、イデオロギー的な基盤となっていきます。
- 位階継承の原則: 官人の子孫に、父の位階に応じて、一定の位階が与えられる「蔭位(おんい)の制」がありましたが、この恩恵を受けられるのは、原則として男子(息子や孫)に限られていました。これは、家の社会的地位が、父から息子へと受け継がれる、父系継承の原理が、国家の制度として確立されたことを意味します。
2.3. 律令制下の女性の地位の評価
律令制下の女性の地位を評価すると、それは、古代日本の比較的男女の別が緩やかであった伝統と、大陸から導入された父権的な制度とが、混在する過渡期であったと言えます。
法的には、財産権や戸主権など、多くの権利が保障されており、その点では、後の武家社会や近世の「家」制度の下での女性の地位よりも、はるかに自立していました。しかし、政治の公的領域からは排除され、父系継承の原理が導入されるなど、女性の社会的地位を低下させる要因も、同時に内包していました。
この律令制下で認められていた女性の権利、特にその財産相続権は、次の平安時代において、貴族社会の女性が、政治や文化の世界で大きな影響力を持つための、重要な経済的基盤となるのです。
3. 平安貴族社会の女性
平安時代、日本の文化は、遣唐使の廃止を契機に、大陸文化の影響から離れ、独自の洗練された「国風文化」を開花させました。この時代の文化の主役であった平安貴族の社会において、女性は、後の時代からは想像もつかないほど、高い地位と影響力を持っていました。それは、当時の婚姻制度や財産相続のあり方に支えられたものであり、特に文学の世界においては、男性をしのぐほどの創造性を発揮し、日本文学史上に燦然と輝く傑作を生み出しました。
3.1. 婚姻制度と女性の立場
平安貴族社会における女性の高い地位を理解する上で、鍵となるのが、当時の婚姻制度です。
- 通い婚(妻問い婚): 平安時代の初期から中期にかけて、貴族社会の婚姻形態の主流は、男性が女性の家に通う「通い婚」でした。結婚後も、女性は実家で暮らし、男性が夜になると訪れてくるという形です。子供が生まれると、その子供は母親の実家で育てられました。
- 婿入り婚: やがて、通い婚から、男性が妻の実家に同居する「婿入り婚」へと移行していきます。この形態では、家の財産や社会的地位は、父親から娘婿へと継承されることもありました。
- 女性の経済的自立: これらの婚姻形態において、女性は実家の経済的な庇護の下にあり、また、律令制以来の伝統で、女性自身も財産を相続・所有することができました。この経済的な自立が、女性の家庭内での発言力を、非常に強いものにしていました。
- 摂関政治との関係: 夫である男性の出世は、妻の実家の後援に大きく依存していました。藤原氏は、自らの娘を次々と天皇に嫁がせ(入内)、その間に生まれた皇子を次の天皇に立てることで、天皇の外戚(母方の親戚)として権力を握りました。これが「摂関政治」です。この政治システムは、天皇の后(きさき)となる女性、そしてその実家が、極めて重要な政治的役割を担っていたことを、端的に示しています。女性の存在なくして、摂関政治は成り立ち得なかったのです。
3.2. 女流文学の黄金時代
平安時代の女性の文化的な達成を最も象徴するのが、ひらがな(仮名文字)を用いた、女流文学の隆盛です。
- 仮名文字と女性: 当時、公的な文書や学問の世界では、漢字を用いた漢文が正式な文字とされ、主に男性が使用していました。一方で、漢字を簡略化して作られた、表音文字である「ひらがな」は、私的な、感情表現に適した文字とされ、主に女性たちが用いました。この、自分たちの感情を自由に表現できる文字の存在が、女流文学を開花させる大きな原動力となりました。
- 日記文学: 紀貫之が女性に仮託して書いた『土佐日記』に始まり、藤原道綱母の『蜻蛉日記(かげろうにっき)』、菅原孝標女の『更級日記(さらしなにっき)』、和泉式部の『和泉式部日記』など、多くの女性たちが、自らの結婚生活の悩みや、人生の哀歓を、赤裸々に日記に綴りました。これらは、女性の内面世界を深く掘り下げた、日本文学における画期的な作品群です。
- 物語文学の頂点:『源氏物語』: そして、この女流文学の頂点に立つのが、紫式部によって書かれた『源氏物語』です。主人公・光源氏の恋愛遍歴を通じて、平安貴族の社会の栄華と、その裏に潜む人間の苦悩や、もののあはれといった、普遍的なテーマを描き出したこの長編物語は、日本文学史上、そして世界文学史上においても、最高傑作の一つとされています。
- 随筆文学:『枕草子』: 清少納言が著した『枕草子』は、彼女が仕えた中宮定子を中心とする、華やかな宮廷生活での出来事や、自然の美しさに対する、鋭い感受性と知的な観察眼を、簡潔でリズミカルな文章で綴った随筆です。『源氏物語』が「もののあはれ」の文学であるのに対し、『枕草子』は「をかし」の文学と称され、二つは平安女流文学の双璧をなしています。
これらの文学作品は、平安貴族の女性たちが、決して家庭の中に閉じ込められた無力な存在ではなく、高度な教養と、鋭敏な感性を持ち、自らの言葉で世界を表現する、主体的な文化の創造者であったことを、雄弁に物語っています。
3.3. 平安貴族女性の限界
しかし、その華やかな世界の裏で、彼女たちの人生には、多くの制約もありました。彼女たちは、政治の表舞台に直接立つことはできず、その影響力は、あくまでも天皇や摂政・関白との個人的な関係性を通じて行使されるものでした。また、一夫多妻制が一般的であったため、夫の愛情が他の女性に移ろうことへの嫉妬や、家の存続をめぐるプレッシャーなど、多くの精神的な苦悩を抱えていました。女流文学の傑作の多くが、そうした彼女たちの苦悩から生まれていることも、忘れてはならない事実です。
平安貴族社会は、女性が、日本の歴史上、最も文化的・社会的に輝いた時代の一つでした。しかし、次の時代、武士が社会の主役となると、この状況は、大きく変化していくことになります。
4. 中世武家社会の女性
平安時代後期から鎌倉、室町時代にかけて、社会の主役が貴族から武士へと移る中で、女性の地位と役割もまた、大きな変貌を遂げました。武家社会は、土地(所領)の支配と、それを武力で守ることを基本とする社会です。この社会システムの中で、家の財産である所領を、いかにして維持し、次世代に継承していくかという問題が、何よりも重要視されました。この「家」と「所領」の継承という課題が、女性の婚姻のあり方や、財産権、そして家庭内での立場に、決定的な影響を及ぼしていったのです。
4.1. 婚姻形態の変化と女性の地位
平安時代の貴族社会で主流であった「婿入り婚」に代わり、武家社会では、次第に、女性が夫の家に入る「嫁入り婚(よめいりこん)」が一般的になっていきました。
- 嫁入り婚の普及: この変化の背景には、武士団の結束を固めるため、家の本拠地を移動させることができないという、武士の生活様式がありました。また、家の統率権を、家長である男性が、より強力に掌握する必要があったことも、要因として挙げられます。
- 女性の立場の変化: 嫁入り婚の普及は、女性の立場を、実家の庇護の下にある存在から、嫁ぎ先の「家」に従属する存在へと、変化させました。女性は、もはや実家の代表として夫の家に入るのではなく、夫の家の人間として、その家の存続と繁栄に尽くすことが、第一に求められるようになったのです。
- 政略結婚: 武士の娘たちの結婚は、個人の意思が尊重されることはほとんどなく、一族の勢力を拡大するための、有力武士団同士の同盟を固める、政略的な意味合いを強く持っていました。彼女たちは、文字通り、一族の運命を背負って、敵対していた可能性のある武士の家に嫁いでいったのです。
4.2. 所領相続権の変化
鎌倉時代初期においては、女性にも、所領を相続する権利が、依然として認められていました。
- 女性地頭の存在: 親から譲られたり、夫から与えられたりした所領を、女性が自ら管理・支配するケースも、珍しくありませんでした。幕府の御家人として、地頭職を安堵された「女性地頭」も存在したことが、記録から確認されています。
- 分割相続から単独相続へ: しかし、鎌倉時代中期以降、蒙古襲来(元寇)などを経て、武士の所領が細分化され、生活が困窮するようになると、所領の分割相続は次第に行われなくなり、家の全財産を、嫡子(ちゃくし)一人が相続する「単独相続」が主流となっていきます。
- 女性の相続権の形骸化: この単独相続の慣行が広まるにつれて、女性が所領を相続する機会は、著しく減少していきました。女性に与えられる財産は、土地そのものではなく、化粧料や嫁入り道具といった、動産が中心となっていきます。この経済的基盤の喪失は、女性の家庭内、社会における地位の低下に、直結するものでした。
4.3. 武家の女性の役割と実像
このように、中世武家社会では、女性の法的・経済的な地位は、全体として低下していく傾向にありました。彼女たちに求められた最大の役割は、家の跡継ぎとなる男子を産み、育てること、そして、夫が戦などで不在の間、留守を守り、家政を切り盛りすることでした。
しかし、それは、彼女たちが、単に無力で従順な存在であったことを意味するわけではありません。
- 北条政子(ほうじょうまさこ): 鎌倉幕府の初代将軍・源頼朝の妻である北条政子は、その代表例です。頼朝の死後、彼女は、尼となりながらも、幕政の背後で絶大な影響力を行使し、「尼将軍」と称されました。彼女の存在は、武家の女性が、その強い意志と政治的手腕によって、歴史の表舞台で活躍することも可能であったことを示しています。
- 家政の切り盛り: 武家の妻は、平時においては、多くの家臣や下人たちを束ね、広大な家政のすべてを取り仕切る、有能なマネージャーでなければなりませんでした。また、夫が戦に赴く際には、城や屋敷の守りの最終的な責任者としての役割も期待されました。
中世武家社会は、女性の地位が、平安時代から近世へと移行する、大きな過渡期でした。法的な権利は次第に失われていく一方で、現実の生活の中では、家の存続のために、したたかで、力強い役割を果たしていたのです。この時代に形成された、男性が家の外で戦い、女性が家の中を守るという役割分担の観念は、その後の日本の社会に、長く影響を与え続けることになります。
5. 近世の「家」制度と女性
江戸時代、徳川幕府による支配が安定し、社会が平和になる中で、人々の生活の基本単位として、父権的な「家(いえ)」制度が、武士階級だけでなく、町人や農民の間にも、広く確立・浸透していきました。この「家」制度を、思想的な側面から強力に支えたのが、幕府の公式イデオロギーであった朱子学です。儒教道徳に基づいた近世の「家」制度の下で、女性は、個人の尊厳よりも、「家の存続と繁栄」という目的のために尽くすことが、何よりも求められる存在と位置づけられました。
5.1. 朱子学と「家」のイデオロギー
江戸時代の「家」は、単なる家族の生活の場ではありません。それは、先祖から子孫へと、家名、家業、そして家産を永続させていく、超世代的な共同体であると考えられていました。
- 家長の絶対的権威: この「家」の統率者である家長(かちょう)、すなわち戸主には、絶対的な権威が認められていました。家族のメンバーは、家長の意思に従うことが、道徳的な義務とされました。
- 儒教道徳の浸透: 朱子学は、君臣、父子、夫婦といった、身分的な上下関係(五倫)を重んじる思想です。この思想が、「家」の内部にも適用され、家長と家族、男性と女性、年長者と年少者の間の、厳格な序列が正当化されました。
- 『女大学』にみる女性観: 江戸時代中期以降、女子教育のための教訓書として広く読まれた『女大学(おんなだいがく)』には、当時の社会が女性に求めた理想像が、典型的に示されています。そこでは、女性は、幼い頃は父に、嫁いでは夫に、夫が亡くなった後は息子に従うべきであるという「三従(さんじゅう)の教え」が説かれ、自己を殺して、嫁ぎ先の家に尽くすことが、女性の最大の美徳であるとされました。
5.2. 女性の役割と地位
このような「家」制度の下で、女性の役割と地位は、以下のように規定されていました。
- 「嫁」としての役割: 女性は、「〇〇家の娘」としてよりも、将来、どこかの家に「嫁ぐ者」として育てられました。結婚は、家と家との契約であり、女性は、嫁ぎ先の「家」の存続のために、労働力、そして何よりも跡継ぎとなる男子を産むための、再生産能力を提供することが、最大の役割とされました。当時の言葉で言えば、「嫁は、家の跡継ぎを産むための『借り腹』である」といった観念すら、存在しました。
- 相続権の喪失: 女性には、家の財産を相続する権利は、ほとんど認められなくなりました。家の財産(家督)は、嫡男が一人で相続する「単独相続」が、武士だけでなく庶民の間でも、原則となりました。女性は、結婚の際に、嫁入り道具を持参するのみで、家の財産からは、実質的に排除されていました。
- 離婚(離縁): 離婚の権利は、もっぱら夫の側にあり、夫は「離縁状(りえんじょう)」、いわゆる「三行半(みくだりはん)」を妻に渡すことで、一方的に離婚することができました。妻の側から離婚を求めることは、非常に困難であり、多くの場合、幕府公認の縁切寺(えんきりでら)に駆け込むなどの手段しかありませんでした。
5.3. 多様な女性の生き方
しかし、こうした厳しい制度の中でも、すべての女性が、無力で従順なだけの存在であったわけではありません。
- 家政の切り盛り: 商家の妻(女房)は、夫とともに店の経営に深く関与し、番頭や手代を束ね、家政と経営の両方を取り仕切る、有能な共同経営者でした。農家の女性もまた、農作業の重要な担い手であり、家庭内での労働は、家の経済に不可欠なものでした。
- 自立して働く女性: 結婚せず、あるいは離縁された後、自らの技能を活かして、自立した生活を送る女性も、少数ながら存在しました。芸事の師匠や、針子、あるいは大奥に仕える女性たちなど、その生き方は様々でした。
- 悪妻・毒婦の表象: 文学や芝居の世界では、『女大学』が説くような貞淑な女性像とは正反対の、自己主張の強い「悪妻」や、男性を破滅させる「毒婦」が、しばしば魅力的な登場人物として描かれました。これは、抑圧された社会の中で、人々が、制度からはみ出すような、強い女性像に、ある種のカタルシスを感じていたことの表れかもしれません。
近世の「家」制度は、女性の法的・社会的な地位を、日本の歴史上、最も低いレベルにまで押し下げたと言えます。この時代に確立された、男性は外で働き、女性は家庭を守るべきであるという、性別による役割分業の観念と、家父長的な家族観は、非常に根深いものであり、その後の近代日本の家族のあり方にも、大きな影響を及ぼし続けることになるのです。
6. 近代の「良妻賢母」思想
明治維新によって、日本は封建的な「家」制度から、近代的な国民国家へと移行しました。この大きな社会変革の中で、女性のあり方もまた、新しい国家の要請に応じて、再定義されることになります。明治政府と知識人たちが、新しい時代の理想的な女性像として提唱したのが、「良妻賢母(りょうさいけんぼ)」というイデオロギーでした。「良き妻であり、賢き母であれ」というこの思想は、一見すると、近世の儒教的な女性観の延長線上にあるように見えますが、その本質は、近代国家が、国民を統合し、「富国強兵」を達成するために、戦略的に創出した、全く新しい女性の役割でした。
6.1. 「良妻賢母」思想の形成
明治初期の文明開化期には、福沢諭吉らが、封建的な男女関係を批判し、男女同権や、一夫一婦制、女性の教育の必要性を説くなど、女性の地位向上を求める声も上がりました。しかし、国家体制が整備され、ナショナリズムが高揚する中で、こうした思想は後退し、それに代わって、「良妻賢母」思想が、国家の公式な女性観として確立されていきます。
- 国家のための家庭: 明治政府にとって、「家」は、もはや藩や幕府に属するものではなく、国家を構成する最小単位として、位置づけられました。そして、その「家」の安定と発展が、国家の安定と発展に直結すると考えられました。
- 女性の新たな役割: この文脈の中で、女性には、「家庭を守り、子供を育てる」という役割が、国家的な使命として与えられました。女性は、単に夫に従い、家の労働を担うだけでなく、将来、国家を担う立派な国民(兵士や労働者)となる子供を産み、育てる、「賢き母」であることが、強く求められたのです。家庭における女性の役割は、私的な領域にとどまらず、「国家のため」という公的な意味合いを帯びるようになりました。
- 教育勅語と女子教育: 1890年(明治23年)に発布された「教育勅語」は、忠君愛国を国民道徳の中心に据えましたが、これは女子教育にも大きな影響を与えました。1899年に公布された「高等女学校令」では、女子教育の目的は、「婦人としての徳性を涵養し、良妻賢母となるに必要な知識技能を授けること」であると、明確に規定されました。学校教育を通じて、「良妻賢母」の理念が、全国の少女たちに、体系的に教え込まれていったのです。
6.2. 「良妻賢母」思想の内容
「良妻賢母」思想が、女性に求めた具体的な徳目は、以下のようなものでした。
- 良妻として: 夫によく仕え、その仕事を支え、家庭を円満に治めることが求められました。家庭は、男性が、国家のための公的な活動(仕事や兵役)の疲れを癒し、再生産するための「安らぎの場」であるべきだとされました。
- 賢母として: 子供に、忠君愛国の思想や、勤勉、忍耐といった国民道徳を教え込み、心身ともに健康な、国家の役に立つ人間に育て上げることが、母親の最も重要な責任であるとされました。母親は、「家庭における教師」としての役割を期待されたのです。
この思想は、女性を、政治や社会の表舞台から排除し、その活動領域を「家庭」という私的な空間に限定するものでした。しかし同時に、それは、近世の女性のように、ただ無知で従順であることを求めるのではなく、子供を教育し、家庭を合理的に管理するための、一定の知識や教養を持つことを、女性に要求するものでもありました。
6.3. 「良妻賢母」思想の浸透と影響
「良妻賢母」思想は、学校教育、雑誌、書籍などを通じて、国民の間に広く浸透し、近代日本の標準的な女性像、そして理想的な家族像を形成していきました。
- 近代家族の形成: この思想は、夫は外で働き、妻は家庭を守るという、性別による役割分業を基本とする「近代家族」のモデルを、日本社会に定着させました。
- 女性の二重性: しかし、現実の社会では、すべての女性が、「良妻賢母」として家庭に専念できたわけではありません。特に、下層階級の女性たちは、次に述べるように、近代産業の担い手として、過酷な労働に従事せざるを得ませんでした。近代日本の女性は、一方では、家庭の天使として理想化されながら、他方では、安価な労働力として搾取されるという、大きな矛盾の中に置かれていたのです。
「良妻賢母」というイデオロギーは、女性を家庭に縛り付ける、抑圧的な側面を持っていたことは間違いありません。しかし、それはまた、女性の家庭内での役割に、国家的な重要性を与え、母親であることの社会的地位を高めたという側面も持っていました。この、近代国家によって創出されたジェンダー規範は、その後の日本の社会に、良くも悪くも、極めて大きな影響を及ぼし続けることになります。
7. 女工と近代産業
明治政府が掲げた「富国強兵」のスローガンを実現するため、日本の近代化は、まず「殖産興業」政策の下での産業育成から始まりました。その中でも、生糸や綿糸は、外貨を獲得するための最も重要な輸出品であり、日本の産業革命を牽引する花形産業でした。この近代産業の土台を、文字通りその身をもって支えたのが、「女工(じょこう)」と呼ばれた、数多くの若い女性労働者たちでした。彼女たちの存在は、一方では「良妻賢母」が国家の理想として掲げられながら、他方では、多くの女性が、安価な労働力として、近代化の犠牲となっていたという、明治日本の深刻な社会矛盾を象徴しています。
7.1. 女工の出現と背景
日本の初期の工業化を担ったのは、製糸業や紡績業といった、繊維産業でした。これらの産業は、比較的単純な手作業が多く、労働集約的な性格を持っていたため、安価で従順な労働力を、大量に必要としました。
- 農村からの労働力供給: その労働力の供給源となったのが、貧しい農村でした。寄生地主制の展開などにより、現金収入を必要としていた農家は、口減らしと、貴重な現金収入(前貸金)を得るため、自らの娘たちを、製糸・紡績工場へと送り出しました。
- 募集と契約: 工場の経営者は、募集人(ぼしゅうにん)を農村に派遣し、「都会で良い暮らしができる」「技術が身につき、嫁入り支度もできる」といった、甘い言葉で少女たちを勧誘しました。親は、工場から前貸金を受け取り、娘を数年間の年季奉公に出すという契約を結びました。これは、実質的に、人身売買に近いものでした。
7.2. 過酷な労働実態
工場での女工たちの生活は、募集の際の甘い言葉とは、かけ離れた、悲惨なものでした。その実態は、多くの記録文学や調査報告によって、告発されています。
- 長時間労働と低賃金: 労働時間は、一日12時間から14時間に及ぶのが普通で、休憩時間もほとんどありませんでした。賃金は、前貸金や、食費、寄宿舎費などが天引きされ、手元にはほとんど残りませんでした。出来高払いの制度が多かったため、女工たちは、ノルマを達成するために、絶えず急き立てられました。
- 劣悪な労働環境: 工場内は、綿ぼこりが舞い、機械の騒音が鳴り響く、非衛生的な環境でした。特に、結核は「女工の職業病」と言われるほど、多くの命を奪いました。
- 寄宿舎生活: 女工たちの多くは、工場に併設された寄宿舎での、集団生活を強いられました。寄宿舎は、狭く不潔で、プライバシーは全くありませんでした。外出は厳しく制限され、手紙も検閲されるなど、その生活は、監獄のようであったと、多くの女工が証言しています。逃亡を防ぐため、寄宿舎の周りには、高い塀や柵が設けられていることも、珍しくありませんでした。
細井和喜蔵の『女工哀史』は、こうした女工たちの絶望的な状況を、克明に描き出し、社会に大きな衝撃を与えました。
7.3. 女工たちの貢献と抵抗
このように、女工たちは、近代資本主義の最も過酷な搾取の対象でした。しかし、彼女たちの存在が、日本の近代化に果たした役割は、計り知れません。
- 近代化への貢献: 彼女たちが生産した生糸や綿糸は、日本の最大の輸出品として、日清・日露戦争の戦費や、重工業化のための設備投資の原資となりました。日本の近代化は、まさに、名もなき女工たちの、汗と涙の犠牲の上に、成り立っていたのです。
- 抵抗と連帯: 過酷な状況の中で、女工たちは、ただ黙って耐えていたわけではありませんでした。仕事をサボタージュしたり、集団で逃亡したり、時には、賃上げや待遇改善を求めて、ストライキ(同盟罷業)を起こすこともありました。1886年(明治19年)に、甲府の雨宮製糸工場で起きたストライキは、日本で最初の、女性労働者によるストライキとして知られています。こうした抵抗を通じて、彼女たちは、労働者としての権利意識に目覚めていきました。
- 新しい女性像: 工場で働き、自ら賃金を得るという経験は、一部の女性たちに、経済的な自立と、新しい価値観をもたらしました。彼女たちは、伝統的な農村の因習から解放され、都市の新しい文化に触れる機会も得ました。
「良妻賢母」として家庭を守ることを期待された女性と、「女工」として国家の産業を支えることを強いられた女性。この二つの姿は、近代日本の女性が置かれた、分裂した状況を、鮮やかに映し出しています。彼女たちの存在なくして、日本の近代化を語ることはできないのです。
8. 女性解放運動(青鞜社)
明治時代、国家が「良妻賢母」を理想的な女性像として掲げ、多くの女性が過酷な労働に従事する中で、一部の知識階級の女性たちの中から、既存の社会制度や道徳に疑問を呈し、女性自身の言葉で、自らの思想と感情を表現しようとする、新しい動きが生まれました。その象徴となったのが、1911年(明治44年)に、平塚らいてう(ひらつからいちょう)らによって結成された、文学結社「青鞜社(せいとうしゃ)」です。青鞜社が発行した雑誌『青鞜』は、日本で最初の、女性による、女性のための思想・文芸誌であり、日本のフェミニズム(女性解放運動)の夜明けを告げる、重要な狼煙(のろし)となりました。
8.1. 平塚らいてうと『青鞜』の創刊
青鞜社を創設し、その中心的な思想的支柱となったのが、平塚らいてうです。彼女は、良家の出身で、高い教育を受けましたが、当時の社会が女性に強いる「良妻賢母」という画一的な生き方に、深い疑問と反発を抱いていました。
- 「元始、女性は実に太陽であった」: 1911年9月に発行された『青鞜』の創刊号に、らいてうが寄せた巻頭言「元始、女性は実に太陽であった」は、あまりにも有名です。この一文は、古代において、女性が生命の源である太陽のように、自立し、輝く存在であったという神話的なイメージを呼び起こし、封建的な家父長制の下で、男性に依存し、その光を失ってしまった「月」のような存在に成り下がってしまった、現代女性の状況を嘆いています。そして、彼女は、女性たちに、自らの内に秘められた「隠れたる太陽」、すなわち天才性を、再び取り戻そうと、力強く呼びかけました。
- 天才の発現: 『青鞜』の当初の目的は、女性の政治的権利を主張することよりも、文学活動を通じて、女性に秘められた「天才」を発揮させ、因習的な道徳から自己を解放することに、重点が置かれていました。
8.2. 『青鞜』が提起した問題
『青鞜』には、平塚らいてうのほか、与謝野晶子(よさのあきこ)、長谷川時雨(はせがわしぐれ)、そして後には伊藤野枝(いとうのえ)といった、当時の代表的な女性知識人たちが、次々と寄稿しました。彼女たちの文章は、それまで公に語られることのなかった、女性の内面的な葛藤や、社会への鋭い批判を、大胆に表現したものでした。
- 貞操・堕胎論争: 雑誌は、結婚制度、恋愛、貞操、売春、堕胎といった、女性の性に関わる問題を、臆することなく取り上げ、社会に大きな論争を巻き起こしました。特に、女性にも男性と同様の、恋愛の自由や、性の自己決定権があるべきだという主張は、旧来の道徳観からは、極めて危険な思想と見なされました。
- 母性保護論争: やがて、『青鞜』のテーマは、個人の内面的な解放から、より社会的な問題へと広がっていきます。平塚らいてうと与謝野晶子の間で交わされた「母性保護論争」は、その代表例です。らいてうは、子供を産み育てる「母性」は、女性にとって最も重要な価値であり、国家は、母親と子供を保護するための、経済的な支援を行うべきだと主張しました(母性中心主義)。これに対し、晶子は、国家による保護は、かえって女性の精神的な自立を妨げるものであり、女性は、まず個人として、経済的にも精神的にも自立すべきであると、反論しました。この論争は、女性の解放を、国家との関係の中でどう位置づけるかという、現代にも通じる、重要な問題を提起しました。
- 新しい女: 青鞜社のメンバーたちの、因習にとらわれない自由な言動は、当時のマスコミから「新しい女」として、好奇の目で見られ、時にはスキャンダラスに報じられました。しかし、彼女たちの存在は、多くの若い女性たちに、これまでとは違う、新しい生き方の可能性を示し、大きな影響を与えました。
8.3. 青鞜社の意義と限界
青鞜社の活動は、わずか5年余りで終焉を迎えます(1916年、廃刊)。その活動は、参加者が主に中流階級以上の知識人女性に限られており、工場で働く女工のような、大多数の女性たちの現実からは、かけ離れていたという限界も、指摘されています。
しかし、青鞜社が、日本の歴史上初めて、女性自身の声で、女性の解放を公に問いかけた、その思想的なインパクトは、計り知れません。
平塚らいてうの「太陽」宣言は、それまで男性によって定義されてきた女性像を、女性自身の手に取り戻そうとする、力強い自己肯定の宣言でした。青鞜社が蒔いた種は、その後の、市川房枝らによる婦人参政権運動など、より具体的な政治的権利を求める運動へと、受け継がれていくことになります。青鞜社は、まさに、日本の女性たちが、自らの言葉と思想で、歴史の舞台に登場した、その輝かしい第一歩だったのです。
9. 女性参政権の獲得
「元始、女性は太陽であった」という平塚らいてうの宣言から始まった、近代日本の女性解放運動は、個人の内面的な覚醒から、次第に、女性を社会的に、そして法的に抑圧している、具体的な制度の改革を求める、政治的な運動へと発展していきます。その最大の目標となったのが、女性が、男性と等しく、国政に参加する権利、すなわち「女性参政権」の獲得でした。市川房枝(いちかわふさえ)らを中心とする、粘り強い運動にもかかわらず、戦前の日本では、この目標は達成されませんでした。しかし、敗戦という、日本の歴史における最大の断絶を経て、1945年(昭和20年)、女性たちは、ついに、参政権をその手にすることになります。
9.1. 戦前の婦人参政権運動
大正デモクラシーの風潮の中、女性の地位向上を求める動きは、活発化しました。
- 新婦人協会の設立: 1920年(大正9年)、平塚らいてうは、市川房枝、奥むめおらとともに、「新婦人協会」を設立します。これは、青鞜社のような文学結社とは異なり、女性の権利獲得のための、具体的な政治活動を行うことを目的とした、日本で最初の本格的な女性団体でした。
- 治安警察法第五条の改正: 彼女たちが最初に取り組んだのが、「治安警察法第五条」の改正運動です。この法律は、女性が、政党に加入したり、政治演説会に参加・主催したりすることを、全面的に禁止していました。新婦人協会の精力的なロビー活動の結果、1922年、ついにこの条文は改正され、女性が政治集会に参加する道が開かれました。これは、女性運動が勝ち取った、画期的な最初の勝利でした。
- 婦人参政権獲得期成同盟会: 治安警察法改正後、運動の焦点は、女性参政権の獲得へと移ります。1924年、市川房枝らを中心に「婦人参政権獲得期成同盟会」が結成され、普選運動(男子普通選挙を求める運動)と連携しながら、粘り強く議会への請願活動などを続けました。1925年に、男子普通選挙法が成立した際にも、女性参政権の実現が期待されましたが、議会は、時期尚早であるとして、これを認めませんでした。
9.2. 戦時体制と運動の停滞
1930年代に入り、日本が軍国主義への道を突き進む中で、自由主義的な思想や、個人の権利を主張する社会運動は、厳しく弾圧されるようになります。女性解放運動もその例外ではありませんでした。
- 「銃後の守り」への動員: 政府は、女性たちを、参政権を求める主体としてではなく、戦争を後方で支える「銃後の守り」の担い手として、国家総力戦体制へと動員していきました。多くの女性団体は、自主的に解散するか、政府の外郭団体である「大日本婦人会」に統合され、戦争協力の道を歩むことになります。
- 市川房枝の抵抗: このような風潮の中、市川房枝は、安易な戦争協力に反対し、自らの団体を解散して、個人として活動を続けるなど、信念を貫こうとしましたが、巨大な時代の流れの前には、無力でした。女性参政権を求める声は、戦争の喧騒の中に、かき消されてしまったのです。
9.3. 敗戦と参政権の実現
日本の敗戦は、すべてを劇的に変えました。1945年(昭和20年)8月、ポツダム宣言を受諾し、日本は連合国軍の占領下に置かれます。
- GHQ(連合国軍総司令部)の指令: 日本の民主化を最大の目的としたGHQは、矢継ぎ早に、様々な改革を指令します。その中でも、日本の指導者たちに衝撃を与えたのが、いわゆる「五大改革指令」であり、その一つに「婦人の解放」、すなわち、女性参政権の実現が、明確に盛り込まれていました。
- 衆議院議員選挙法の改正: このGHQの強力な指示のもと、幣原喜重郎内閣は、衆議院議員選挙法の改正に着手し、1945年12月、ついに、満20歳以上の男女に、平等な選挙権が与えられることが決定しました。
- 初の女性議員の誕生: そして、翌1946年(昭和21年)4月10日、日本で初めての男女普通選挙となる、衆議院議員選挙が実施されます。この選挙で、79名の女性が立候補し、39名が当選するという、画期的な結果が生まれました。市川房枝も、この選挙には立候補せず、女性有権者への啓蒙活動に徹しましたが、彼女たちの長年の闘いが、ついに実を結んだ瞬間でした。
日本の女性参政権は、市川房枝らの長年にわたる、国内からの粘り強い運動の積み重ねがあったことは間違いありません。しかし、その最終的な実現が、敗戦と、GHQという「外圧」によって、いわば「上から」与えられたものであったという、歴史的な経緯は、正しく理解しておく必要があります。この事実は、戦後の日本の民主主義が、常に、その主体性のあり方を問われ続けてきたことと、深く関わっているのです。
10. 現代のジェンダー平等
1945年の敗戦と、その後の民主化改革は、日本の女性の地位に、歴史上、最も大きな変革をもたらしました。女性参政権の獲得に続き、1947年(昭和22年)に施行された日本国憲法は、個人の尊厳と、両性の本質的平等を、国家の基本原則として高らかに謳いました。しかし、法制度の上での平等が、社会の隅々にまで浸透し、実質的な平等が達成されるまでには、その後も、長く困難な道のりが必要でした。現代のジェンダー平等は、戦後の改革を起点としながらも、今なお、達成の途上にある、現在進行形の課題です。
10.1. 日本国憲法と両性の平等
日本国憲法は、女性の権利を保障する上で、画期的な二つの条文を定めています。
- 第十四条(法の下の平等): 「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。」この条文は、性別による、あらゆる差別を禁止する、包括的な平等の原則を定めています。
- 第二十四条(家族生活における個人の尊厳と両性の本質的平等): 「婚姻は、両性の合意のみに基いて成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない。」「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない。」この条文は、封建的な「家」制度を明確に否定し、婚姻や家族が、個人の尊厳と、男女の完全な平等に基づいて、築かれるべきであると規定しています。
これらの憲法の理念に基づき、民法が改正され、戸主制度や、女性に不利な相続制度は廃止されました。法制度の上では、日本の女性は、世界的に見ても、極めて高い水準の権利を、保障されることになったのです。
10.2. 高度経済成長期と性別役割分業
しかし、法的な平等にもかかわらず、戦後の高度経済成長期(1950年代後半~70年代初頭)を通じて、社会には、近代に形成された「夫は外で働き、妻は家庭を守る」という、性別による役割分業のモデルが、むしろ、より強固に定着していきました。
- 専業主婦の一般化: 企業の終身雇用・年功序列賃金といった、日本的経営の確立は、男性が、一家の稼ぎ手として、安定した収入を得ることを可能にしました。その結果、妻が、家庭で育児や家事に専念する「専業主婦」というライフスタイルが、中流階級の標準的なモデルとして、広く普及しました。
- ウーマン・リブ運動: 1970年代に入ると、こうした性別役割分業のあり方や、女性が「良き妻、良き母」であることを無条件に期待される社会に対して、根本的な異議申し立てを行う、「ウーマン・リブ」と呼ばれる、新しい女性解放運動が起こります。彼女たちは、制度の改革だけでなく、女性を抑圧する社会の文化や意識そのものを、変革しようとしました。
10.3. 男女雇用機会均等法と現代の課題
1979年に、国連で「女子差別撤廃条約」が採択されたことを受け、日本でも、職場における男女平等を推進するための、法整備が進められました。
- 男女雇用機会均等法の制定: 1985年(昭和60年)に制定された「男女雇用機会均等法」は、募集・採用、配置、昇進など、雇用のあらゆる段階で、女性であることを理由に、差別することを禁止する、画期的な法律でした。この法律の制定以降、女性が、様々な専門職や管理職に進出する道が、開かれていきました。
- 現代の課題: 均等法制定から数十年が経過した現在、女性の社会進出は、大きく進みました。しかし、依然として、多くの課題が残されています。
- ジェンダー・ギャップ指数: 世界経済フォーラムが発表する「ジェンダー・ギャップ指数」において、日本は、先進国の中で、極めて低い順位に甘んじています。特に、政治分野(国会議員の女性比率の低さ)と、経済分野(管理的地位にある女性の割合の低さ、男女間の賃金格差)での遅れが、顕著です。
- M字カーブ問題: 日本の女性の労働力率は、結婚・出産期にあたる30代で、一度大きく落ち込み、子育てが一段落した後に、再び上昇するという「M字カーブ」を描くことが、長年の課題とされています。これは、女性が、育児や家事の負担を、男性よりも、はるかに多く担っている現実を、反映しています。
- 多様な生き方の尊重: 近年では、男女という二元論的な枠組み自体を問い直し、LGBTQ+を含む、多様な性のあり方を尊重する社会の実現も、重要な課題となっています。
現代のジェンダー平等は、もはや、単に女性の地位向上だけを意味するものではありません。それは、性別に関わらず、すべての人が、その個性と能力を、最大限に発揮できる、より公正で、多様性に富んだ社会を、いかにして築いていくかという、私たち一人ひとりに問われた、未来への課題なのです。
Module 14:女性の地位と役割の歴史の総括:太陽から月へ、そして再び光を求めて
本モジュールでは、古代の女性首長の時代から、現代のジェンダー平等の課題に至るまで、日本社会における女性の地位と役割の、長く複雑な変遷の歴史を辿ってきました。その軌跡は、決して、右肩上がりの、単純な進歩の物語ではありませんでした。「元始、女性は太陽であった」と平塚らいてうが喝破したように、古代において、女性が、宗教的・社会的な中心として輝いていた時代があった一方で、武家社会の到来と、近世の「家」制度の確立の中で、その光は次第に覆われ、男性に従属する「月」のような存在へと追いやられていきました。
近代国家は、女性を「良妻賢母」として、家庭という名の神殿に祀り上げる一方で、その姉妹たちを「女工」として、産業の祭壇の犠牲としました。そして、敗戦を経て、憲法という、かつてないほど強力な光が与えられた後も、社会の隅々に根深く残る、性別役割分業という名の影との、長く困難な闘いが続いているのが、現代の姿です。
この歴史から私たちが学ぶべきは、女性の地位とは、固定されたものではなく、その時代の社会構造や価値観によって、常に「作られてきた」ものだという、厳然たる事実です。そして、過去の女性たちが、それぞれの時代の中で、時には文学で、時には社会運動で、自らの言葉と行動で、その運命を切り開こうとしてきた、力強い精神です。この、再び自らの光を取り戻そうとする、絶え間ない闘いの歴史を理解することこそが、真の男女共同参画社会という、未完の未来を築くための、第一歩となるのです。