【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 3:身分制度と社会階層の歴史
本モジュールの目的と構成
人間社会は、その歴史のいかなる段階においても、何らかの序列、すなわち「社会階層」を持って存在してきました。ある者は統治し、ある者は祈り、ある者は作り、ある者は耕す。人々は、どのような基準で分けられ、その「身分」には、いかなる権利と義務、そして特権と差別が付随していたのでしょうか。本モジュールでは、古代日本の「良賤の別」という素朴な区別から、現代日本が直面する複雑な「格差社会」に至るまで、日本列島における身分制度と社会階層の長大な歴史を、その構造と変容の力学から解き明かします。
これは、単に歴史上の身分名を暗記する学習ではありません。法や制度が、いかに人々の間に「境界線」を引き、社会のあり方を規定してきたのか。経済の変動が、いかにして旧来の階層を突き崩し、新たな階級を生み出してきたのか。そして、人々の心に深く根ざした「貴き」と「賤しき」をめぐる意識が、いかにして差別という根深い問題を生み出してきたのか。その光と影の両面を、多角的に探求します。
このモジュールを学び終える時、あなたは、政治史や経済史といったタテ糸を、社会階層というヨコの糸で貫き、日本の歴史をより立体的で人間味あふれる、生きた物語として捉え直すことができるでしょう。
本モジュールは、以下の10のステップで構成されています。
- 古代の良賤の別: 律令国家が定めた、全ての人々を「良き民」と「賤しき民」に二分した、古代身分制の基本構造とその実態に迫ります。
- 律令制下の官位制: 氏姓制度に代わる新たなステータスとして、天皇から与えられる官位が、いかに貴族社会の序列を決定づけたのかを分析します。
- 武士身分の形成: 辺境の「つわもの」が、いかにして独自の法理と文化を持つ支配階級「武士」へと成長し、新たな身分を確立したのか、その過程を追います。
- 職人・商人と非農業民: 武士と農民という二大勢力の陰で、中世社会の経済と文化を支えた多様な人々の身分と、その役割を解明します。
- 士農工商の身分制度: 近世社会の代名詞とされる「士農工商」は、果たして厳格な序列だったのか。その理念と実態を、最新の研究成果から批判的に検証します。
- 部落差別の起源: 日本社会に今なお残る部落差別の問題が、いかなる歴史的経緯、特に近世の「えた・ひにん」制度の中で形成されてきたのか、その根源を探ります。
- 明治維新と四民平等: 近代国家建設のため、旧来の身分制度がいかに解体されたのか。そして「四民平等」がもたらした、新たな身分再編の現実を考察します。
- 華族・士族・平民: 明治政府が創出した、新たな三つの族称。それがどのような特権と没落、そして義務を生み出したのかを具体的に分析します。
- 近代の新中間層・労働者階級: 産業革命を経て、日本の社会階層の基準が「生まれ」から「職業と学歴」へと移行する中で生まれた、新たな階級の姿を描き出します。
- 現代の格差社会: 「一億総中流」社会の崩壊後、現代日本が直面する、正規・非正規雇用や教育機会の不均等といった、新たな「格差」の構造とその歴史的背景を考察します。
この壮大な身分と階層の物語を通じて、社会の秩序と人間の尊厳をめぐる、時代を超えた問いに迫っていきましょう。
1. 古代の良賤の別
律令国家の成立は、日本の歴史上初めて、全国の人民を単一の法的枠組みの下に置こうとする壮大な試みでした。その際、国家は全ての人々を、大きく二つのカテゴリーに区分しました。それが「良(りょう)」と「賤(せん)」です。この「良賤(りょうせん)の別」は、律令法典に明確に規定された、古代日本の基本的な身分制度でした。「良き民」である良民と、「賤しき民」である賤民。両者の間には、権利、義務、さらには生命の価値に至るまで、越えがたい法的な隔たりが存在しました。この制度は、古代国家が人民をどのように認識し、管理しようとしていたのか、そしてその社会にどのような序列と差別が存在したのかを理解する上で、全ての出発点となります。
1.1. 良民(りょうみん):国家の構成員
良民は、律令国家における「標準的」な人民であり、人口の大多数を占めていました。彼らは、天皇が直接支配する「公民」として位置づけられ、国家の構成員としての権利と義務を担いました。
1.1.1. 公民としての権利と義務
良民の最大の「権利」は、国家から**口分田(くぶんでん)**を班給され、生活の基盤となる土地を保障されることでした。これは、全ての人民の生活を国家が保障するという、律令国家の理念を体現するものでした。
しかし、その見返りとして、彼らは国家に対して重い義務を負わなければなりませんでした。
- 納税の義務: 田地の収穫物から納める租(そ)、地域の特産物を納める調(ちょう)、労役の代わりに布などを納める庸(よう)。
- 労役の義務: 地方での土木工事などに従事する雑徭(ぞうよう)。
- 兵役の義務: 全国の**軍団(ぐんだん)に兵士として勤務したり、都の警備にあたる衛士(えじ)や、九州防衛にあたる防人(さきもり)**となったりする義務。
良民の生活は、これらの重い負担によって成り立っており、決して楽なものではありませんでした。しかし、彼らは法的に人格を認められた「人間」として扱われ、次に述べる賤民とは明確に区別されていました。
1.1.2. 良民内部の階層
良民の中にも、もちろん階層が存在しました。天皇を頂点とする皇族、そして藤原氏をはじめとする貴族は、良民の中でも最上位に位置し、様々な特権を享受していました。その下には、中央・地方の官人たちが続き、大多数を占める一般の農民がその下に位置するというピラミッド構造をなしていました。しかし、これらはあくまで良民という大きな枠組みの中での序列であり、「賤」との間にある断絶とは、本質的に異なるものでした。
1.2. 賤民(せんみん):「五色の賤」
賤民は、良民とは法的に明確に区別された、被支配階層でした。彼らは、人格を完全に認められず、一種の「財産」として扱われる存在でした。律令では、賤民をその所属や由来によって、五種類に分類しており、これを「五色の賤(ごしきのせん)」と呼びます。
1.2.1. 陵戸(りょうこ)
五色の賤の最上位に位置するのが陵戸です。彼らは、主に天皇や皇族の陵墓(墓)の番人として、その清掃や管理に従事しました。他の賤民とは異なり、特定の家に所属するのではなく、国家(宮内省)によって直接管理されていました。罪を犯した良民や、捕虜などが陵戸にされたと言われています。彼らは賤民の中では比較的地位が高く、独自の戸籍を持ち、口分田も良民と同じ額を班給されましたが、陵墓の守衛という特定の職務に一生涯束縛され、居住地や職業の自由はありませんでした。
1.2.2. 官戸(かんこ)・家人(けにん)
官戸と家人は、特定の所有者に所属する、いわば「奴隷」に近い存在でした。
- 官戸(かんこ): 国家の官庁に所属する賤民。彼らは、官庁の雑務や、官営工房での手工業生産などに従事しました。家族を持つことは許されていましたが、その身分は世襲であり、自由になることはできませんでした。
- 家人(けにん): 有力な貴族や豪族の家に、代々世襲的に仕える賤民。官戸と似ていますが、私的に所有されている点が異なります。主家の家内労働や耕作など、様々な労役に服しました。
官戸と家人も、口分田は良民の3分の1程度が班給されるなど、一定の生活基盤は保障されていましたが、その人格は主家の所有物と見なされていました。
1.2.3. 公奴婢(くぬひ)・私奴婢(しぬひ)
五色の賤の最下層に位置するのが、奴婢(ぬひ)(男性を奴、女性を婢と呼びます)です。彼らは、人格を完全に否定され、牛や馬と同じように、売買・譲渡・相続の対象となる「物」として扱われました。
- 公奴婢(くぬひ): 国家(官庁)が所有する奴婢。
- 私奴婢(しぬひ): 個人(貴族など)が所有する奴婢。
奴婢は、家族を構成する権利も認められず、その労働力は所有者のために無償で収奪されました。口分田の班給もありませんでした。奴婢の身分は、生まれながらにして決まっており、そこから脱することは、極めて困難でした。
1.3. 良賤間の法的格差
良民と賤民の間には、日常生活のあらゆる面で、明確な法的格差が設けられていました。
- 財産価値: 律令の刑法典である「律」には、賤民を殺傷した場合の罰則が定められていましたが、それは良民を殺傷した場合よりもはるかに軽いものでした。例えば、私奴婢一人の価値は、良馬一頭と同じ程度と見なされていました。これは、賤民の生命が、人間としてではなく、財産としての価値でしか評価されていなかったことを示しています。
- 婚姻の制限: 良民と賤民の間の結婚(良賤間の婚姻)は、原則として禁止されていました。もし結婚した場合、その間に生まれた子供は、全て賤民の身分とされるという、厳しい規定がありました。これは、良賤の身分を固定化し、両者の混交を防ぐための、身分維持政策でした。
- 訴訟能力の欠如: 賤民は、法廷で自らの権利を主張する能力を認められていませんでした。彼らに関する訴訟は、全てその所有者が代理で行う必要がありました。
1.4. 律令的身分制の変容
この厳格な良賤制度も、平安時代に入ると、律令国家体制そのものの弛緩とともに、次第に変容し、崩壊していきます。班田収授法が行われなくなり、荘園制が発展する中で、国家が人民を戸籍で直接管理するシステムが機能しなくなったためです。
荘園領主たちは、労働力を確保するため、良民や賤民といった身分の区別なく、逃亡してきた人々を荘園の労働力(荘民)として受け入れました。荘園という新たな社会空間の中では、律令が定めた厳格な身分差は意味を失い、人々は、荘園領主との関係性の中で、新たな階層秩序に組み込まれていきました。
10世紀頃には、政府が賤民を解放する法令を出すこともあり、律令的な良賤制度は実質的に消滅へと向かいます。しかし、それは全ての差別がなくなったことを意味するわけではありませんでした。「賤しき者」という観念は、その後も形を変えながら、中世の「非人」や近世の「えた・ひにん」といった、新たな被差別民の観念へと、歴史の暗流として受け継がれていくことになるのです。
2. 律令制下の官位制
律令国家は、旧来の氏姓制度に代わる新たな身分秩序の柱として、「官位制(かんいせい)」を導入しました。これは、国家(天皇)への貢献度や能力に応じて、個人に与えられる公的な序列であり、その人物の社会的ステータスを決定づける、最も重要な指標でした。官職(政府の役職)と位階(個人の序列)が密接に結びついたこのシステムは、「官位相当制(かんいそうとうせい)」と呼ばれ、律令国家の官僚機構と貴族社会の根幹をなすものでした。血縁による世襲を原理とした氏姓制度に対し、官位制は、建前上は個人の能力に基づく、より普遍的な秩序を目指しました。しかし、その運用においては、有力氏族の特権を温存する仕組みも組み込まれており、古代貴族社会の構造を理解する上で、その光と影の両面を分析することが不可欠です。
2.1. 官位制の構造
官位制は、「官」すなわち官職と、「位」すなわち位階という、二つの要素から成り立っています。
2.1.1. 位階(いかい):個人の序列
位階は、個人の序列を示すための、全30段階にわたる格付けでした。
- 階梯: 最上位の**正一位(しょういちい)から、従一位(じゅいちい)、正二位、従二位と続き、最下位の少初位下(しょうそいのげ)**まで、細かくランク分けされていました。一位から三位までが「貴」、四位と五位が「通貴」と呼ばれ、特に高いステータスを持つ貴族層を形成しました。
- 叙位(じょい): 天皇が、個人の功績や能力、家柄などに応じて、特定の位階を授けることを「叙位」と呼びます。一度授けられた位階は、基本的には生涯保持することができました。
この位階こそが、個人の社会的地位を公的に証明するものであり、律令貴族たちは、自らの位階を少しでも上げることに、生涯をかけてしのぎを削ったのです。
2.1.2. 官職(かんしょく):政府のポスト
官職は、律令政府における具体的な役職、すなわちポストのことです。中央官制である二官八省(神祇官、太政官、およびその下の八つの省)や、地方の行政官である国司など、様々な官職が定められていました。
2.1.3. 官位相当制(かんいそうとうせい)
律令官僚制の核心が、この官職と位階を結びつける「官位相当制」の原則です。これは、それぞれの官職に、就任するためにふさわしい位階が、あらかじめ定められているというシステムでした。
例えば、
- 太政大臣(最高位の官職)には、正一位または従一位の者が
- 大納言(大臣に次ぐ重職)には、正三位の者が
- 中務省の長官(卿)には、正四位下の者が
- 大国の国司(守)には、従五位下の者が
というように、官職と位階が対応付けられていました。これにより、官僚機構は、位階という統一された序列の下に、整然と組織化されたのです。役人は、自らが持つ位階に応じた官職に任命されるのが原則であり、これを「官当(かんとう)」と呼びました。
2.2. 官位に付随する特権
特定の位階を持つこと、特に五位以上の貴族となることは、単なる名誉ではありませんでした。そこには、極めて大きな経済的・法的な特権が付随していました。
2.2.1. 経済的特権
位階を持つ者には、そのランクに応じて、様々な経済的給付がなされました。
- 位田(いでん): 位階に応じて与えられる田地。ここからの収穫は、個人の収入となりました。
- 位封(いふう): 位階に応じて与えられる封戸(ふこ)からの収入。封戸とは、特定の戸(家族)の租・庸・調を、国家の代わりに徴収できる権利のことで、極めて大きな収入源となりました。
- 季禄(きろく): 春と秋の二回、位階に応じて支給される絹や布などの現物給与。
これらの経済的基盤によって、貴族たちは官僚としての職務に専念し、その位階にふさわしい、華やかな生活を維持することができたのです。
2.2.2. 蔭位の制(おんいのせい):特権の世襲
官位制は、建前上は能力主義を掲げていましたが、その一方で、貴族の特権を世襲的に維持するための、極めて重要な制度が組み込まれていました。それが「蔭位の制」です。
これは、三位以上の貴族の子と孫、および五位以上の貴族の子は、21歳に達すると、試験を受けることなく、自動的に一定の位階(父や祖父の位階に応じて、従五位下から従八位下まで)を授けられる、という制度でした。
この制度により、有力な貴族の子孫は、無条件で官僚としてのキャリアをスタートさせることができ、一般の良民が苦労して下級役人になるのとは、全く異なるエリートコースを歩むことができました。特に、従五位下以上の位階を自動的に得られることは、貴族の身分を維持する上で決定的に重要でした。蔭位の制は、官位制が持つ貴族制的な側面を象徴するものであり、律令国家が、旧来の氏族の力を完全に否定するのではなく、新たな官僚制の中に巧みに取り込んでいったことを示しています。
2.2.3. その他の特権
その他にも、刑罰を金銭で贖うことができたり、軽い罪であれば減免されたりする法的な特権もありました。また、位階が高ければ高いほど、より天皇に近い場所で儀式に参加できるなど、宮廷内での序列も、全て位階によって決定されました。
2.3. 官位制の機能と変容
官位制は、律令国家の統治システムとして、いくつかの重要な機能を果たしました。
第一に、天皇の権威の確立です。全ての官位は、天皇から授けられるという形式を取ることで、官僚たちは、自らの地位が天皇に由来することを常に意識させられました。これにより、官僚機構全体が、天皇を頂点とするピラミッド構造に組み込まれ、天皇の権威が法的に支えられました。
第二に、官僚機構の秩序維持です。官位相当制によって、数千人にのぼる官僚たちが、明確な序列の下に整然と配置され、国家の運営がシステマティックに行われる基盤となりました。
しかし、この精緻なシステムも、平安時代に入ると、次第に変容していきます。藤原氏北家が、天皇との外戚関係を背景に、摂政・関白の地位を独占し、政治の実権を握るようになると(摂関政治)、官位の叙任や官職の任命も、藤原氏の意向によって左右されるようになります。
特定の家系が、特定の官職を世襲的に継承する「官司の家業化」が進み、能力よりも家柄が重視される傾向が強まっていきました。また、正規の官職に就かなくても、高位の位階を持つことで名誉と収入を確保したり、実務能力の高い中下級貴族が、実質的な行政を担ったりするようになります。
こうして、官位制は、当初の能力主義的な理念から、次第に家格を固定化し、貴族社会の序列を維持するための、形式的なシステムへと変化していきました。しかし、個人のステータスを公的な「位」によって示すという考え方は、その後も形骸化しながらも長く生き続け、日本の身分意識に深い影響を与えていくことになるのです。
3. 武士身分の形成
平安時代中期以降、律令国家が築き上げた中央集権的な統治システムが弛緩し、地方の治安が悪化する中で、新たな社会階層が歴史の舞台に登場します。それが「武士(ぶし)」です。当初は、荘園や公領を管理し、自らの力で土地を守るための武装した地方の有力者(「兵(つわもの)」)に過ぎなかった彼らは、やがて「武家の棟梁(ぶけのとうりょう)」と呼ばれるリーダーの下に結集し、独自の価値観と主従関係の倫理を育み、ついには朝廷の公家貴族に取って代わる、日本の新たな支配階級へと成長を遂げます。武士という身分の形成は、単に新しい職業集団が生まれたということではありません。それは、法や官位ではなく、土地(所領)の支配と、主君への忠誠(奉公)をアイデンティティの核とする、全く新しい身分秩序が、日本社会に確立されたことを意味する、画期的な出来事でした。
3.1. 武士の発生:辺境の「兵(つわもの)」たち
武士の起源は、9世紀から10世紀にかけての、律令制の崩壊と地方社会の混乱の中にあります。
3.1.1. 律令国家の軍事制度の崩壊
律令制の下では、軍団制によって、良民の農民から兵士が徴兵されていました。しかし、この制度は、農民に重い負担を強いた上、士気も低く、専門的な戦闘集団としては機能不全に陥っていました。政府は、健児(こんでい)の制を導入するなど、改革を試みますが、国家の正規軍は弱体化の一途をたどりました。
その結果、地方の治安は悪化し、各地で盗賊が蜂起したり、有力者同士が土地をめぐって争ったりすることが日常化しました。国家の警察力が及ばない中で、人々は自らの生命と財産を、自らの力で守る必要に迫られたのです。
3.1.2. 地方における武装の始まり
このような状況下で、地方の有力者たちは、自衛のために武装を始めます。彼らの多くは、地方の行政官である国司の一族や、その任期を終えても都に帰らず、地方に土着した元官人、あるいは土着の有力農民(田堵)などでした。
彼らは、一族や郎党(ろうとう)と呼ばれる家臣団を率いて、馬に乗り、弓矢を巧みに操る、高度な戦闘技術を磨きました。彼らの主な役割は、
- 自らが開発・経営する荘園や公領を、他の勢力の侵略から守ること。
- 国司に雇われ、管内の反乱を鎮圧し、治安を維持すること。
などでした。この段階の彼らは、まだ特定の「身分」ではなく、朝廷や国司の権威の下で活動する、地方の武装勢力、「兵」に過ぎませんでした。
3.2. 武士団の形成と「武家の棟梁」
10世紀から11世紀にかけて、これらの個別の武装集団は、より大きな「武士団(ぶしだん)」へと組織化されていきます。その結節点となったのが、血縁と、**主従関係(しゅじゅうかんけい)**という、武士社会に特有の人間関係でした。
3.2.1. 主従関係:「御恩」と「奉公」
武士団の秩序を支えたのは、**主君(しゅくん)と家臣(けしん)**の間で結ばれる、極めて人格的な契約関係でした。
- 御恩(ごおん): 主君が家臣に対して与える保護や恩恵のこと。具体的には、先祖伝来の所領の支配権を保障したり(本領安堵(ほんりょうあんど))、新たに獲得した土地を給与として与えたり(新恩給与(しんおんきゅうよ))することを指します。
- 奉公(ほうこう): 家臣が主君に対して誓う忠誠と奉仕のこと。具体的には、平時には主君の警護などを行い、戦時には、自らの命を懸けて主君のために戦う(「一所懸命(いっしょけんめい)」の語源)ことを意味します。
この「御恩と奉公」の関係は、単なる契約ではなく、主君と家臣の間の強い信頼と絆に支えられていました。この主従関係のネットワークが、武士団の強固な結束力の源泉となったのです。
3.2.2. 「武家の棟梁」の登場
個々の武士団は、やがて、より広域の武士たちを束ねる、カリスマ的なリーダーである「武家の棟梁」の下に結集していきます。彼らの多くは、桓武天皇の子孫である**桓武平氏(かんむへいし)や、清和天皇の子孫である清和源氏(せいわげんじ)**といった、天皇の血を引く、貴種としての血統的権威を持っていました。
11世紀の前九年の役・後三年の役といった、東北地方での大規模な戦乱を通じて、清和源氏の源頼義・義家親子は、東国武士たちの信望を集め、「武家の棟梁」としての地位を確立しました。武士たちは、自らの所領を守り、さらなる恩賞を得るために、競って棟梁の下に馳せ参じ、巨大な武士のネットワークが形成されていきました。
3.3. 武士身分の確立:鎌倉幕府の成立
武士が、単なる戦闘集団から、公家貴族と並び立つ、あるいはそれを凌駕する、明確な「身分」として法的に確立されるのは、12世紀末の鎌倉幕府の成立によってです。
3.3.1. 源平の争乱と武家政権の樹立
12世紀半ばの保元の乱・平治の乱を経て、平氏の平清盛が武士として初めて朝廷の最高位である太政大臣に上り詰め、武士の政治的地位は飛躍的に向上しました。しかし、平氏政権は、貴族社会に溶け込み、武士層の利益を十分に代表するものではなかったため、やがて各地の武士の反発を招きます。
この不満を束ね、平氏打倒の兵を挙げたのが、伊豆に流されていた源氏の嫡流・源頼朝でした。頼朝は、約5年にわたる源平の争乱を勝ち抜き、1185年に平氏を滅亡させました。
3.3.2. 御家人(ごけにん)としての法的認知
頼朝は、鎌倉に拠点を置き、自らを「鎌倉殿(かまくらどの)」として、彼に従う武士たちを「御家人(ごけにん)」として組織しました。そして、朝廷から、全国の荘園・公領に守護・地頭を任命する権利を獲得しました。
これにより、武士(御家人)は、初めて、幕府(鎌倉殿)と主従関係を結ぶ、法的に認知された全国的な身分となったのです。彼らは、幕府から所領を安堵されるという「御恩」を受け、その見返りに、京都や鎌倉の警備(大番役)や、有事の際の軍役といった「奉公」の義務を負いました。
1232年に制定された御成敗式目は、この御家人という身分の権利(特に土地所有権)と義務を明確に定めた、武士のための法典でした。ここに、公家とは異なる、独自の法と価値観を持つ「武士」という身分が、名実ともに確立したのです。
3.4. 武士のアイデンティティ
武士身分は、単なる法的な地位ではありませんでした。それは、彼らの生活様式、文化、そして精神性にまで及ぶ、強固なアイデンティティを形成しました。
- 武芸の尊重: 弓馬の道に習熟することは、武士の必須の技能であり、名誉とされました。
- 質実剛健: 貴族の優雅な文化とは対照的に、質朴で、強くたくましいことを重んじる気風が育まれました。
- 名誉と恥の意識: 自らの「名」を汚すことを極度に嫌い、主君への忠義や、戦場での勇敢な働きを、最高の価値としました。
このようにして形成された武士という身分は、その後、室町、戦国、江戸時代を通じて、日本の支配階級として君臨し続け、その価値観や文化は、現代の日本社会にも、様々な形で影響を残しているのです。
4. 職人・商人と非農業民
中世の日本社会を語る時、我々はしばしば、公家貴族や武士、そして人口の大多数を占める農民に注目しがちです。しかし、これらの階層の生活と文化は、彼らだけでは成り立ちませんでした。その背後には、社会の物質的な生産を担う職人(しょくにん)、物資の流通を司る商人(しょうにん)、そして、農業以外の多様な生業に従事し、時には社会の周縁に置かれた非農業民といった、多種多様な人々の存在がありました。彼らは、荘園や都市の発展に伴って、その専門的な技能を社会に提供し、独自の組織(座)を結成して、自らの権利と利益を守りました。彼らの身分は、武士や農民ほど明確に固定されてはいませんでしたが、中世社会のダイナミズムと複雑さを理解する上で、その多様な生き様を無視することはできません。
4.1. 職人と商人:都市と荘園の担い手
荘園公領制が安定し、農業生産力が向上すると、それに伴って手工業や商業も活発化します。京都や奈良、鎌倉といった都市や、大規模な荘園では、専門的な技能を持つ職人や、商品を売買する商人が集住し、社会に不可欠な役割を担うようになりました。
4.1.1. 技能集団の形成
中世の職人や商人は、個人で活動するのではなく、同業者の組合を結成するのが一般的でした。彼らは、自らの技能や商品を、特定の権力者の庇護(ひご)の下に置くことで、安定した活動の場を確保しようとしたのです。
彼らが庇護を求めた相手は、
- 朝廷や有力な公家貴族
- 東大寺や興福寺、延暦寺といった大規模な寺社
- 幕府や有力な武家
などでした。例えば、朝廷の食事を調達する供御人(くごにん)や、伊勢神宮に所属する神人(じにん)といった形で、職人や商人は、これらの権力者(**本所(ほんじょ)**と呼ばれます)に奉仕しました。
4.1.2. 「座(ざ)」の結成と特権
このような同業者組合の中でも、代表的なものが「座」です。座は、本所に一定の奉仕料(金銭や生産物)を納める見返りに、様々な営業上の特権を認められました。
- 独占販売権: 特定の地域や市場において、自分たちの座の構成員だけが、特定の商品を独占的に製造・販売できる権利。例えば、大山崎の油座は、石清水八幡宮を本所とし、灯明に使う荏胡麻(えごま)油の製造・販売権を独占して、大きな利益を上げました。
- 関銭免除の特権: 全国の関所を通行する際に、通行税(関銭)を免除される権利。これにより、他の商人よりも安価で商品を輸送でき、競争上有利な立場に立つことができました。
座を結成することで、職人や商人は、同業者間の過当な競争を避け、安定した収入を得ることができました。しかし、その一方で、彼らの身分は常に本所の権威に依存するものであり、完全に自立した存在ではありませんでした。彼らの社会的地位は、農民のように土地に根ざしたものではなく、特定の権力者との「奉仕」と「庇護」の関係性の中で規定されていたのです。
4.2. 多様な非農業民とその役割
中世社会には、職人や商人以外にも、農業に直接従事しない、多様な生業を持つ人々が存在しました。彼らの多くは、定まった土地に住まわず、各地を移動しながら生活しており、その身分は不安定でした。
4.2.1. 交通・運輸を担う人々
商業が活発化するにつれて、物資の輸送を専門とする人々も登場しました。陸上では、馬の背に荷物を載せて運ぶ**馬借(ばしゃく)や、商品を担いで運ぶ問丸(といまる)**が活躍しました。彼らは、京都と地方を結ぶ交通の要衝(大津、坂本など)に拠点を置き、運送業を営みました。
また、港町(津)では、船を使って商品を運ぶ海上交通も発達し、船頭や水夫といった人々が、経済の動脈を支えました。
4.2.2. 芸能・宗教に携わる人々
寺社の境内や、市場、町角では、様々な芸能を披露して生計を立てる人々がいました。琵琶法師(びわほうし)が『平家物語』を語り、猿楽(さるがく)や田楽(でんがく)といった演劇が人々の娯楽となりました。
また、特定の寺社に所属せず、全国を遊行(ゆぎょう)しながら布教活動を行う聖(ひじり)や、勧進(かんじん)活動を行う僧侶たちも、宗教的な役割を担う重要な非農業民でした。
4.3. 社会の周縁に置かれた人々:「非人」と「河原者」
中世社会には、これらの人々の他に、社会の秩序から外れた「周縁的」な存在と見なされる人々がいました。彼らは、しばしば「非人(ひにん)」や「河原者(かわらもの)」と呼ばれ、差別の対象となることがありましたが、同時に社会に不可欠な特定の役割を担っていました。
4.3.1. 「穢れ(けがれ)」と見なされた職業
彼らが従事した仕事の多くは、仏教や神道の思想において、「穢れ」と観念されるものと結びついていました。
- 死の処理: 死者の埋葬や、刑死人の処理、罪人の処刑(斬首)など。
- 動物の殺生: 牛馬の解体(屠畜)や、その皮を加工する皮革業(皮なめし)。
- その他: 井戸の清掃や、街路の掃除など。
これらの仕事は、社会の衛生や秩序を維持するために不可欠でありながら、人々から忌み嫌われる傾向がありました。非人や河原者は、社会の「清浄さ」を保つために、その「不浄」な部分を一身に引き受ける役割を担わされていた、と考えることができます。
4.3.2. 河原者(かわらもの)の多様な活動
彼らは、都市の周辺を流れる川の河原に住むことが多かったため、「河原者」と呼ばれました。彼らは、上記の皮革業や死の処理などに加え、
- 造園業: 優れた造園技術を持ち、龍安寺の石庭など、多くの有名な庭園の作庭に関わったとされています。
- 芸能: 猿楽の一派である観阿弥・世阿弥も、その出自は河原者であったとする説があります。
このように、彼らは差別の対象であった一方で、優れた技術や文化の担い手でもありました。中世の「身分」が、単純な上下の序列だけでなく、「清浄」と「穢れ」という、宗教的・文化的な価値観によっても規定されていたことを、彼らの存在は示しています。
中世社会は、武士、農民という主要な身分だけでなく、このように多様な技能や役割を持つ人々が、複雑な関係性を取り結ぶことで成り立っていました。彼らの存在を視野に入れることで、中世社会の重層的でダイナミックな姿が、より鮮明に浮かび上がってくるのです。そして、この中世の多様な身分秩序が、近世の「士農工商」という、より固定的な身分制度へと、どのように再編成されていくのかが、次の時代の大きなテーマとなります。
5. 士農工商の身分制度
江戸時代、すなわち近世の日本の社会構造を説明する言葉として、おそらく最も有名なのが「士農工商(しのうこうしょう)」でしょう。これは、人々を士(武士)、農(農民)、工(職人)、**商(商人)**という四つの身分に分け、上から順に序列化した、厳格な身分制度である、と長らく理解されてきました。武士を頂点とし、国家の基盤である米を生産する農民がそれに次ぎ、物を作る職人、そして何も生産せずに利を得る商人が最も下に置かれる、という儒教的な価値観に基づいたヒエラルキー。このイメージは、ドラマや小説などを通じて、広く浸透しています。しかし、近年の歴史研究では、この伝統的な「士農工商」観は、必ずしも江戸時代の社会の実態を正確に反映したものではない、という見方が有力になっています。では、士農工商とは一体何だったのでしょうか。それは、法的に定められた厳格なカースト制度だったのか、それとも単なる社会的な理念に過ぎなかったのか。その理念と実態のギャップを明らかにすることは、近世という時代の本質を理解する上で、極めて重要な鍵となります。
5.1. 士農工商という「理念」
士農工商という言葉の起源は、古代中国の儒教思想にあります。そこでは、社会を治める支配階級である「士」を最上位とし、人々の食を支える「農」をそれに次ぐ重要な存在と見なす、一種の職業的貴賤観が存在しました。この思想が、江戸時代に幕府の官学となった朱子学を通じて、日本の支配層にも受容されました。
5.1.1. 幕府の統治イデオロギー
江戸幕府にとって、士農工商という序列は、自らの支配を正当化し、社会秩序を安定させるための、都合の良いイデオロギーでした。
- 士(武士): 武器を持ち、社会の秩序を守り、民を治める高貴な支配階級。
- 農(農民): 年貢の源泉である米を生産し、国家の経済的基盤を支える、社会の根幹。武士に次いで重要とされる。
- 工(職人): 道具や生活用品を作り、人々の生活を支える。
- 商(商人): 物を右から左へ動かすだけで、自らは何も生産しない。利益を追求する卑しい存在。
この序列は、「農は本業、商は末業」という考え方に基づいています。幕府は、この理念を普及させることで、武士による支配の正当性を強調し、農民には農業に専念させ、そして商人には過度に富を蓄積させないように、という社会的なメッセージを発信したのです。
5.1.2. 法的な制度ではなかった?
しかし、重要なのは、この「士・農・工・商」という序列が、幕府の法律(法度)によって、明確に規定されたという証拠は、実はないという点です。武家諸法度や、その他の法令の中に、「士農工商」という言葉や、その序列を法的に定めた条文は見当たりません。
このことから、現代の歴史学では、士農工商は、法的な身分制度というよりも、幕府が理想とした「社会のあるべき姿」を示す、儒教的な身分序列観、あるいは社会的な建前であった、と理解されています。
5.2. 江戸時代の「実態」:武士と百姓・町人
では、江戸時代の社会の、法的な現実はどうだったのでしょうか。幕府の法が、最も厳格に区別していたのは、「士・農・工・商」の四つの間ではなく、「士(武士)」と、それ以外の人々(「百姓」および「町人」)との間の、決定的な境界線でした。
5.2.1. 兵農分離の帰結
この境界線を法的に確立したのが、豊臣秀吉の刀狩と兵農分離政策でした。この政策によって、
- 武士: 苗字を名乗り、刀を差すこと(苗字帯刀)を特権として認められた、支配する身分。城下町に住み、農業や商業には従事しない。
- 百姓・町人: 武器を持つことを禁じられた、支配される身分。百姓は村に住んで農業に従事し、町人は町に住んで商工業に従事する。
という、二大身分への分化が決定づけられました。江戸幕府は、この秀吉の政策を継承し、武士と、それ以外の庶民との間の身分的な壁を、不可侵のものとして固定化したのです。これが、江戸時代の身分制の、最も本質的な構造でした。
5.2.2. 「百姓」と「町人」の区別
武士以外の庶民は、主に居住地によって「百姓(ひゃくしょう)」と「町人(ちょうにん)」に分けられました。
- 百姓: 村に住み、検地帳に登録されて年貢を納める人々。その大多数は農民でしたが、村に住む職人や商人も含まれることがありました。
- 町人: 町(城下町など)に住み、家屋敷を持ち、町ごとの税(町人足役)を負担する人々。主に商人と職人から構成されていました。
法的には、百姓と町人の間に、明確な上下の序列はありませんでした。彼らは、居住地と納税の形態が異なる、同じ庶民階級として扱われていたのです。
5.3. 理念と実態の乖離
このように見てくると、「士農工商」という理念と、江戸時代の社会の実態との間には、大きな乖離があったことがわかります。
5.3.1. 農工商間の流動性
理念上は「農・工・商」の間に序列があるとされていましたが、現実には、この三者の間の境界は、比較的流動的でした。
- 農民が、副業として手工業(工)を営んだり、収穫物を自分で売ったり(商)することは、ごく普通に行われていました。
- 商人が、お金を儲けて田畑を買い集め、事実上の地主(豪農)となる例も、数多く見られました。
彼らは、同じ百姓・町人という大きな枠組みの中で、その時々の経済状況に応じて、職業を柔軟に変えていたのです。
5.3.2. 経済力と社会的地位の逆転
理念上は最下位とされた商人ですが、その経済力は、時代が下るにつれて、武士や農民を圧倒するようになりました。大坂の**蔵元(くらもと)や掛屋(かけや)**といった大商人たちは、各藩の財政を左右するほどの力を持ち、貧しい下級武士は、彼らに頭を下げて借金をする、という状況も生まれていました。
三井家や住友家といった豪商は、莫大な富を築き、その生活水準や文化的影響力は、多くの大名を凌駕していました。このように、理念上の身分序列と、現実の経済力に基づく社会的地位が、しばしば逆転していたのが、江戸時代社会の面白いところであり、複雑なところでもあります。
5.4. 「士農工商」の外側:えた・ひにん
そして、最も重要な点は、士農工商という枠組みが、江戸時代の全ての人々を網羅していたわけではない、ということです。この四つのカテゴリーの、さらに「外側」に、法的に明確な差別を受けていた被差別民が存在しました。それが、次章で詳しく見る「えた」や「ひにん」と呼ばれる人々です。彼らは、士農工商のいずれにも属さない、「別枠」の存在として、社会の最底辺に位置づけられていました。江戸時代の身分制度を正確に理解するためには、この「士農工商」の枠組みから排除された人々の存在を、決して忘れてはならないのです。
結論として、士農工商は、江戸時代の厳格な身分序列そのものではなく、幕府が掲げた統治の「建前」でした。その「本音」の構造は、「武士」と「百姓・町人」という二大区分を基本とし、そのさらに外側に「えた・ひにん」を置く、というものでした。この理念と実態の重層性を理解することこそ、近世日本の社会構造を、より深く、正確に捉えるための鍵となります。
6. 部落差別の起源
日本の社会が今なお抱える、最も根深く、解決が困難な人権問題の一つが「部落差別」です。特定の地域(被差別部落)の出身であるというだけで、結婚や就職など、人生の様々な局面で不当な差別を受けるという、この深刻な問題の歴史的起源は、江戸時代に幕府の政策によって法的に確立された、**「えた」および「ひにん」**と呼ばれる被差別身分制度に直接遡ることができます。彼らは、士農工商という身分序列の、さらに「外側」に置かれ、居住地、職業、服装、さらには人間関係に至るまで、厳しく差別・隔離された生活を強いられました。なぜこのような制度が作られたのか。その背景には、中世から続く「穢れ」の観念と、社会の秩序を隅々までコントロールしようとする、江戸幕府の統治思想が、複雑に絡み合っていました。この近世の被差別民制度の成り立ちを理解することは、現代の部落差別問題の本質を考える上で、避けては通れない、重い歴史的課題です。
6.1. 中世から近世へ:「穢れ」観念の固定化
江戸時代の被差別民制度は、全くのゼロから創出されたわけではありません。その源流は、中世社会に存在した、**「穢れ(けがれ)」**の観念と、それに関わる職業に従事した人々にあります。
6.1.1. 中世の「非人」「河原者」
前述の通り、中世の日本社会には、死や血といった「穢れ」に触れるとされる職業、例えば、動物の屠畜や皮革の加工、死者の埋葬、罪人の処刑、街路の清掃などを担う人々が存在しました。彼らは「非人(ひにん)」や「河原者(かわらもの)」と呼ばれ、社会的に低い存在と見なされる傾向がありました。
しかし、中世の段階では、彼らの身分は、まだ比較的流動的でした。「非人」という身分は、一時的にその境遇に陥った者が、後に元の身分に復帰することもありえました。また、彼らは差別の対象であると同時に、優れた芸能や技術を持つ集団として、社会の中で一定の役割を認められてもいました。
6.1.2. 兵農分離と身分の固定化
この状況が大きく変化するのが、織豊政権から江戸幕府にかけての、身分制度の再編成期です。豊臣秀吉による刀狩や人掃令は、武士、農民、町人といった身分を固定化し、人々の職業や居住地を厳格に管理しようとするものでした。
この流れの中で、それまで比較的曖昧であった「穢れ」に関わる職業に従事する人々の身分もまた、世襲のものとして、法的に固定化されていきました。江戸幕府は、社会のあらゆる階層を、その支配の網の目の中に明確に位置づけるため、彼らを「えた」「ひにん」という、特別な被差別身分として、法的に確定させたのです。
6.2. 江戸時代の被差別身分:「えた」と「ひにん」
江戸幕府は、被差別民を、主に「えた」と「ひにん」という二つのカテゴリーに分けて管理しました。両者は、しばしば混同されますが、その由来や身分の性質は、法的に異なっていました。
6.2.1. えた(穢多)身分
「えた」は、「穢(けがれ)が多い」という字が当てられることもあり、その身分は世襲が原則でした。一度えた身分に生まれた者は、生涯そこから脱することはできず、その子孫も代々、同じ身分を継承しました。
- 職業: 彼らが従事することを義務付けられたのは、主に、牛馬の死体処理や、皮革の加工(武具や太鼓の材料となる)、そして警察業務の末端(罪人の捕縛や処刑、牢獄の番人など)でした。これらの仕事は、幕藩体制の維持に不可欠でありながら、一般の百姓・町人からは「穢れた」仕事として忌避されていました。幕府は、これらの役務を、えた身分の人々に独占的に担わせることで、社会の分業体制を完成させたのです。
- 組織: 彼らは、地域ごとに**長吏(ちょうり)や頭(かしら)と呼ばれる、自らの組織のリーダーの支配下に置かれていました。関東地方では、浅草の弾左衛門(だんざえもん)**が、広域のえた・ひにんを支配する、絶大な権力を持っていました。彼らは、幕府の支配の末端機構として、被差別民を管理・統制する役割を担いました。
6.2.2. ひにん(非人)身分
「ひにん」は、「人に非ず」と書かれ、その身分は、必ずしも世襲ではありませんでした。
- 由来: ひにん身分になるケースは、二つありました。一つは、生まれながらのひにん(世襲)。もう一つは、百姓や町人が、貧困のために物乞いとなったり、罪を犯して刑罰としてひにんの身分に落とされたりするケース(一代限り)です。後者の場合、親族が身請け金を払うなどすれば、元の身分に復帰することも可能でした。
- 職業: 彼らの主な仕事は、物乞い(勧進)や、門付け(かどづけ)などの簡単な芸能を披露すること、そして、役人の下で警備や見回りなどの雑用を行うことでした。
このように、えたとひにんの間には、身分の世襲制や、職業内容において、法的な区別がありました。一般に、世襲であるえた身分の方が、ひにん身分よりも下に置かれていたとされます。
6.3. 差別・隔離政策の実態
幕府や各藩は、彼らを一般の百姓・町人から厳しく隔離し、差別するための、様々な政策を実施しました。
- 居住地の制限: 彼らは、城下町や村の中心部から離れた、特定の地域に集まって住むことを強制されました。この居住区が、現代につながる「被差別部落」の直接の起源となります。
- 外見上の差別: 服装は、木綿や麻布など、質素なものに限られ、履物も制限されました。また、髪型や、家の造りについても、一般の民衆とは区別されるよう、細かな規定が設けられていました。
- 交際の禁止: 一般の百姓・町人との自由な交際や、婚姻は、固く禁じられていました。また、道を歩く際には、一般の人々を避けなければならないなど、日常生活のあらゆる場面で、屈辱的な扱いを受けました。
- 人別帳の区別: 年貢や人口を管理する**宗門人別改帳(しゅうもんにんべつあらためちょう)**においても、彼らは一般の百姓・町人とは別の帳面に記載され、「えた」「ひにん」といった身分が明記されました。これにより、彼らの身分は、行政上も明確に区別・管理されたのです。
6.4. 差別の論理とその歴史的帰結
なぜ、これほどまでに体系的で厳しい差別制度が、近世の日本で確立されたのでしょうか。その背景には、単なる「穢れ」の観念だけではない、幕府の巧妙な統治思想がありました。
幕府は、社会の最底辺に、明確な被差別身分を設定することで、一般の百姓・町人の不満の矛先を、上(支配者である武士)ではなく、下(被差別民)に向けさせようとした、と考えられます。厳しい年貢や支配に苦しむ農民も、「自分たちよりも、さらに下の存在がいる」という意識を持つことで、自らの境遇に甘んじ、体制への不満を和らげる効果が期待されたのです。被差別民は、幕藩体制という身分制社会を、下から支えるための「安全弁」として、意図的に創出され、利用された側面があったのです。
1871年(明治4年)、明治政府は「解放令」を発布し、えた・ひにんといった身分を法的に廃止し、彼らを「平民」としました。しかし、法的な身分がなくなっても、一度人々の心に深く刻み込まれた差別意識は、容易には消えませんでした。むしろ、近代化の過程で、戸籍制度などを通じて、彼らの出自が「可視化」され、差別はより陰湿な形で、社会に根強く残存していくことになります。江戸時代に作られたこの差別構造の清算は、現代の我々にまで引き継がれた、重い歴史的宿題なのです。
7. 明治維新と四民平等
1868年、徳川幕府の崩壊と明治新政府の樹立によって、日本の歴史は大きな転換点を迎えました。欧米列強に伍する、強力な近代国民国家の建設を目指した明治政府にとって、旧来の封建的な身分制度は、克服すべき最大の障害の一つでした。武士を頂点とし、農工商、そしてその外側に被差別民を置く複雑な身分制は、国民の一体性を阻害し、富国強兵を推進する上での足かせとなっていたからです。この状況を打破するため、政府は「四民平等(しみんびょうどう)」というスローガンを掲げ、身分制度の解体を断行しました。1871年の解放令、そして版籍奉還・廃藩置県を経て、全ての国民は法の下に「平等」であると宣言されました。しかし、この「平等」は、額面通りに受け取ることはできません。それは、旧支配階級であった武士の特権を剥奪するプロセスであると同時に、天皇を頂点とする新たな国民序列(華族・士族・平民)を創出する、国家主導の社会再編でもありました。明治維新における身分制度改革の光と影を理解することは、近代日本の出発点と、それが内包した矛盾を解き明かす上で不可欠です。
7.1. 身分制度解体の必要性
明治政府が、江戸時代から続く身分制度の解体を急いだ背景には、近代国家建設という、差し迫った目標がありました。
7.1.1. 国民国家の創出:「国民」の誕生
近代国家の強さの源泉は、その構成員が、身分や出身地を超えて、同じ「国民」であるという意識を共有し、国家に対して一体的に貢献することにあります。しかし、江戸時代の身分制度は、人々を武士、百姓、町人といった、互いに隔絶された集団に分断していました。
政府は、この身分的な壁を取り払い、全ての人民を、天皇の下に平等な「国民」として再編成する必要がありました。そして、その「国民」から、等しく税金を徴収し(国民皆税)、等しく兵士を徴兵する(国民皆兵)ことで、近代的な財政基盤と軍事力を確立しようとしたのです。身分制度の解体は、富国強兵の前提条件でした。
7.1.2. 「文明国」への道
欧米列強と対等な国際関係を築くためには、日本が人権を尊重する「文明国」であることを示す必要がありました。生まれによって人の貴賤が決まる封建的な身分制度、特に「えた・ひにん」のような被差別民の存在は、欧米の視点からは「野蛮」なものと見なされかねませんでした。不平等条約の改正という国家的悲願を達成するためにも、身分制度の撤廃は、避けては通れない道でした。
7.2. 解体のプロセス
身分制度の解体は、段階的に、しかし急速に進められました。
7.2.1. 版籍奉還と廃藩置県
まず、武士階級の頂点に立つ大名の権力を解体する必要がありました。
- 版籍奉還(はんせきほうかん)(1869年): 全国の藩主に、その領地(版)と領民(籍)を、形式的に天皇へ返還させました。これにより、大名は、封建領主から、政府に任命された地方長官(知藩事)となり、土地と人民が、法的に国家(天皇)の所有物であるという建前が整いました。
- 廃藩置県(はいはんちけん)(1871年): 全ての藩を廃止し、代わりに政府が直接統治する府・県を設置しました。これにより、大名は完全にその領地と政治的権力を失い、武士階級の支配体制は名実ともに終焉を迎えました。
7.2.2. 「四民平等」の宣言
廃藩置県と並行して、政府は、国民の身分的な平等を宣言する布告を次々と出しました。
- 1869年、公卿(公家)と大名を「華族(かぞく)」、武士を「士族(しぞく)」、そして農工商(百姓・町人)を「平民(へいみん)」とする、新たな族称を定めました。
- 1870年、平民にも苗字を名乗ることを許可しました(平民苗字許容令)。
- 1871年、華族・士族と平民の間の結婚を自由としました。
- 1872年、身分による職業選択の制限を撤廃し、土地の自由な売買を認めました。
これらの改革によって、江戸時代の士農工商の区別は、法的には消滅し、全ての国民が「平等」であるという原則が打ち立てられました。
7.2.3. 解放令(1871年)
身分制度解体の総仕上げとして、1871年8月、政府は、江戸時代の被差別民であった「えた・ひにん」の称を廃止し、彼らの身分・職業も、平民と同様とする、という布告(通称「解放令」)を出しました。
これにより、少なくとも法の上では、日本から世襲的な被差別身分はなくなったことになります。しかし、この解放令は、彼らを差別から解放するための積極的な施策を伴うものではなく、単に身分称を廃止したに過ぎませんでした。
7.3. 「平等」の影:新たな身分序列と残された差別
「四民平等」は、近代化への大きな一歩でしたが、その実態は、多くの矛盾をはらんでいました。
7.3.1. 華族・士族・平民という新たな序列
政府は、旧来の身分を解体する一方で、華族・士族・平民という、新たな身分階層を創出しました。
- 華族: 旧公家・大名からなり、大日本帝国憲法下では、貴族院議員となる特権や、財産上の保護などを受け、新たな特権階級を形成しました。
- 士族: 旧武士階級。彼らは、苗字帯刀や年貢徴収といった、かつての特権を全て失いました。当初は、政府から生活保障のための俸給(秩禄)が支給されていましたが、財政難から、これもやがて打ち切られます(秩禄処分)。多くの士族は、慣れない商売に手を出して失敗する(「士族の商法」)など、経済的に困窮し、没落していきました。
- 平民: 人口の大多数。職業選択の自由などを得た一方で、新たに徴兵と納税の義務を、国民として等しく負うことになりました。
このように、「四民平等」とは、全ての国民をフラットな状態にすることではなく、天皇を頂点とする、新たな国民的序列の中に再編成するプロセスだったのです。
7.3.2. 解放令の限界と差別の継続
解放令によって、旧被差別民は法的には平民となりましたが、社会の現実は、それに追いつきませんでした。長年にわたって人々の心に植え付けられてきた差別意識は、法律一つで消えるものではなく、むしろ、彼らを「新平民(しんへいみん)」などと呼び、旧来の平民と区別して、差別を継続する動きが全国で見られました。
結婚、就職、居住地の選択などにおいて、彼らに対する陰湿な差別は根強く残り続け、これが、20世紀を通じて続く部落解放運動の出発点となります。法的な平等が、必ずしも社会的な平等を意味しないという、厳しい現実がそこにはありました。
明治維新の身分制度改革は、封建的な束縛から人々を解放し、近代化への道を切り開いたという、大きな「光」の側面を持ちます。しかし同時に、それは新たな身分序列を生み出し、旧来の差別構造を十分に清算できないまま、近代社会に持ち越してしまうという、「影」の側面も併せ持っていました。この光と影の交錯こそが、近代日本の複雑な社会構造を形作っていくことになるのです。
8. 華族・士族・平民
明治維新によって、江戸時代の「士農工商」および「えた・ひにん」という複雑な身分制度は、法的には解体されました。しかし、それは全ての国民が、完全にフラットな、無階級の存在になったことを意味しませんでした。明治政府は、旧来の身分を解体する一方で、国民を華族(かぞく)、士族(しぞく)、**平民(へいみん)**という三つの新たな族称(族籍)に再編成しました。この新しい身分制度は、旧支配階級の不満を和らげ、彼らを新国家の体制内に取り込むと同時に、天皇を頂点とする近代的な国民国家の序列を、可視化するためのものでした。華族には新たな特権が与えられ、士族はその特権を剥奪されて没落し、平民は新たな義務を負う。この三者の異なる運命を詳しく見ることは、明治という時代が、いかにして旧体制の遺産を継承しつつ、全く新しい社会を創り出そうとしたのか、そのダイナミックな移行過程を理解する上で、極めて重要です。
8.1. 華族:新たな特権階級の創出
華族は、明治政府によって創出された、新しい貴族階級です。その創設の目的は、旧体制の最上位にいた勢力を、新政府の味方として取り込み、国家の藩屏(はんぺい)、すなわち国家を守る盾とすることにありました。
8.1.1. 華族の構成
華族とされたのは、以下の二つのグループです。
- 旧公卿(くげ): 京都の朝廷に仕えていた、藤原氏や源氏などの伝統的な貴族。
- 旧大名(だいみょう): 江戸時代の各藩の藩主。
1869年の版籍奉還の際に、彼らはその地位に応じて華族に列せられました。さらに、戊辰戦争などで、明治維新に大きな功績のあった者(維新の功臣)も、後に華族に加えられました(例:木戸孝允、大久保利通、伊藤博文など)。
8.1.2. 華族の特権
華族には、新たな特権階級として、様々な法的・社会的な特権が与えられました。
- 爵位(しゃくい): 1884年に制定された華族令により、華族は、公・侯・伯・子・男(こう・こう・はく・し・だん)の五段階の爵位を授けられました。これは、ヨーロッパの貴族制度を模倣したもので、彼らの家格を明確に序列化しました。
- 貴族院議員の議席: 大日本帝国憲法の下で、成年に達した公爵と侯爵は、自動的に貴族院の議員となりました。また、伯爵・子爵・男爵は、同爵の者の中から互選で議員を選出しました。貴族院は、選挙で選ばれる衆議院と対等の権限を持ち、華族は、立法プロセスに直接関与する、大きな政治的権力を持つことになりました。
- 財産上の保護: 華族の財産は、法律によって手厚く保護され、経済的な安定が図られました。
- 教育上の特権: 華族の子弟が学ぶための専用の学校として、学習院が設立され、エリート教育が施されました。
このように、華族は、旧来の政治的権力を失う代償として、新たな時代における名誉と特権を保障された、国家の最上位に位置するエリート階級となったのです。
8.2. 士族:没落する旧支配階級
士族は、華族に次ぐ身分とされましたが、その現実は、特権を次々と剥奪され、経済的に没落していく、苦難の道程でした。
8.2.1. 士族の構成
士族とされたのは、大名(華族)を除く、**一般の武士(幕臣や藩士)**でした。その数は、家族を含めると約190万人にのぼり、当時の人口の約5%を占めていました。
8.2.2. 特権の剥奪
明治政府は、近代化を進める上で、人口のわずか5%に過ぎない士族が、生産活動に従事せずに、特権的な生活を送っていることを、大きな負担と考えていました。そのため、政府は、士族の特権を段階的に解体していきました。
- 苗字帯刀の廃止: 1871年には、断髪が自由とされ、1876年の廃刀令によって、武士の魂とされた刀を公の場で差すことが、完全に禁止されました。これにより、武士の視覚的な特権は失われました。
- 秩禄処分の断行: 士族にとって、最も深刻な打撃となったのが、経済的特権の剥奪です。江戸時代、武士は藩主から俸禄(米)を受け取って生活していました。明治政府は、当初、これを現金で支給する**秩禄(ちつろく)**という制度に改めましたが、これが国家財政を極度に圧迫しました。そこで政府は、1876年、金禄公債証書という国債を士族に交付し、これと引き換えに、年々の秩禄支給を完全に打ち切るという、**秩禄処分(ちつろくしょぶん)**を断行しました。士族は、この公債の利子や、元金を元手に、自ら生計を立てていかなくてはならなくなりました。
8.2.3. 士族の困窮と反乱
しかし、武士階級の多くは、江戸時代を通じて経済活動から切り離されていたため、商売や農業の知識を全く持っていませんでした。慣れない商売に手を出して失敗する者(「士族の商法」)や、公債を安値で手放してしまう者が続出し、多くの士族が、極度の貧困に陥りました。
このような急激な変化と没落に対する不満は、やがて政府への武力反乱という形で爆発します。1874年の佐賀の乱、1876年の神風連の乱、そして1877年、旧士族の不満の最大の受け皿となった、西郷隆盛をリーダーとする西南戦争。これらの士族反乱は、いずれも、徴兵令によって創設された政府の国民軍によって鎮圧されました。西南戦争の敗北をもって、武力による抵抗の道は完全に断たれ、士族は、旧支配階級としての地位を完全に失ったのです。
その後、士族の多くは、その高い教育水準を活かして、官僚、軍人、警察官、教員といった、近代国家を支える新たな職業へと転身していきましたが、平民との法的な差は、次第に意味を失っていきました。
8.3. 平民:新たな義務を負う国民
平民は、旧百姓・町人および、解放令で平民とされた旧被差別民から構成される、国民の大多数でした。
8.3.1. 解放と自由
彼らは、明治維新によって、江戸時代の封建的な身分制の束縛から解放されました。
- 居住地や職業選択の自由
- 苗字を名乗る権利
- 華族・士族との通婚の自由
など、法的な自由を手に入れ、近代社会の担い手となることが期待されました。
8.3.2. 新たな「国民の義務」
しかし、自由には、新たな義務が伴いました。平民は、近代国家の国民として、二つの大きな義務を等しく負うことになりました。
- 納税の義務: 地租改正により、土地所有者は、定額の地租を現金で納める義務を負いました。
- 兵役の義務: 1873年に制定された徴兵令により、満20歳に達した男子は、身分にかかわらず、兵役に従事することが義務付けられました。
江戸時代には、税を納めるのは主に農民、戦うのは武士、と役割が分かれていましたが、近代国家では、全ての国民(平民)が、国家を支えるためのこれらの義務を分担することになったのです。
このように、明治初期の身分制度改革は、旧体制を解体し、全ての国民を法の下の平等に置くという理念を掲げながらも、現実には、華族という新たな貴族階級を創出し、士族を没落させ、平民に新たな国民的義務を課すという、複雑な社会再編のプロセスでした。この華族・士族・平民という族籍制度は、第二次世界大戦後の日本国憲法の制定によって、完全に廃止されるまで、日本の社会構造を規定し続けることになります。
9. 近代の新中間層・労働者階級
明治維新による身分制度改革は、華族・士族・平民という新たな族籍を創出しましたが、その後の日本の急速な資本主義化と産業革命は、この法的な身分とは別の、全く新しい社会階層を生み出しました。それは、生まれや家柄ではなく、学歴、職業、そして所得といった、経済的な要因によって人々の地位が決定される、「階級(クラス)」社会の到来です。都市部では、教育を受けたホワイトカラー層である「新中間層(しんちゅうかんそう)」が、新たな文化の担い手として登場し、一方で、工場や鉱山では、過酷な労働条件の下で働く「労働者階級(ろううどうしゃかいきゅう)」が、巨大な社会層として形成されました。この新しい階級構造の出現は、日本の社会のあり方を、封建的な「身分社会」から、近代的な「階級社会」へと、質的に変容させる、決定的な出来事でした。
9.1. 新中間層の形成と都市文化
日清・日露戦争を経て、日本の産業革命が進展すると、経済の構造は大きく変化しました。大規模な企業や、政府の官僚機構が発展し、そこで働く、専門的な知識や事務能力を持った人材が、大量に必要とされるようになったのです。
9.1.1. 「サラリーマン」の誕生
この新しい時代の要請に応えて登場したのが、「新中間層」と呼ばれる人々です。
- 構成: 彼らは、企業の会社員(サラリーマン)、政府や自治体の官吏(公務員)、教員、医師、弁護士といった、知的労働に従事する人々から構成されていました。旧士族出身者がその高い教育水準を活かして、この階層の主要な供給源となりましたが、平民出身者も、高等教育を受けることで、新中間層に加わることができました。
- 地位の源泉: 彼らの社会的地位は、世襲の身分ではなく、学歴によって支えられていました。帝国大学をはじめとする高等教育機関を卒業した「学士様」は、エリートとして社会から尊敬され、高い給与(サラリー)と安定した地位を得ることができました。
9.1.2. 新たなライフスタイルの創造
新中間層は、主に都市の郊外に住み、西洋風の文化を取り入れた、新しいライフスタイルを創造しました。洋服を着て、ネクタイを締め、会社へは電車で通勤する。休日は、デパートで買い物をしたり、映画(活動写真)を観たり、カフェーでコーヒーを飲んだりする。このような、現代の我々にもつながるような「近代的」な都市生活は、彼ら新中間層によって、初めて日本に定着したのです。彼らは、大衆雑誌や新聞といった新しいメディアの、主要な読者層でもあり、大正デモクラシー期には、政治や社会に対する発言力を強め、新たな世論の担い手となりました。
この新中間層の出現は、日本の社会に、従来の支配階級(華族)と、被支配階級(農民・労働者)の中間に、厚みのある安定した階層が生まれたことを意味し、近代社会の成熟を示す指標と見なすことができます。
9.2. 労働者階級の形成と社会問題
産業革命の光の側面が、新中間層の豊かな生活であったとすれば、その影の側面は、劣悪な環境で搾取される、労働者階級の形成でした。
9.2.1. 工業化と労働者の出現
製糸業、紡績業、そして重化学工業の発展に伴い、全国の農村から、多くの人々が、仕事を求めて都市の工場や鉱山に流入しました。特に、製糸工場などで働く**女工(じょこう)**たちは、日本の輸出産業を支える、安価で重要な労働力でした。
彼女たちの多くは、貧しい農家の次女や三女であり、「口減らし」のために、半ば人身売買に近い形で、工場に送り込まれました。彼女たちが稼いだ賃金は、実家の家計を支え、あるいは地租の支払いに充てられました。
9.2.2. 過酷な労働実態
初期の労働者の労働環境は、筆舌に尽くしがたいほど過酷なものでした。
- 長時間労働: 1日に12時間から14時間以上働くのが当たり前で、休憩時間もほとんどありませんでした。
- 低賃金: 賃金は極めて低く、特に女工は、男性労働者の半分以下でした。賃金の一部は、食費や寮費として天引きされ、手元に残る金はわずかでした。
- 劣悪な衛生環境: 多くの工場では、衛生状態が劣悪で、特に、糸くずや綿ぼこりが舞う紡績工場では、結核などの呼吸器疾患にかかる労働者が後を絶ちませんでした。
- 人権の欠如: 労働者は、工場主の厳しい監督下に置かれ、外出もままならず、まるで囚人のような生活を強いられることも珍しくありませんでした。
このような悲惨な状況は、当時の社会に大きな衝撃を与え、「女工哀史」や「ああ野麦峠」といったルポルタージュや小説を通じて、広く知られるようになりました。
9.3. 労働運動の発生と政府の対応
このような非人間的な労働条件に対し、労働者たちは、自らの権利と生活を守るために、次第に団結して立ち上がるようになります。
9.3.1. 労働組合の結成とストライキ
1897年(明治30年)、日本で最初の本格的な労働組合である「労働組合期成会」が結成されるなど、労働運動の萌芽が見られるようになります。労働者たちは、賃上げや労働時間の短縮を求めて、ストライキ(同盟罷業)という、集団で仕事を放棄する戦術を用いるようになりました。
第一次世界大戦後、大正デモクラシーの風潮の中で、労働運動はさらに活発化し、1920年には、日本で最初のメーデーが開催されました。
9.3.2. 政府による弾圧
しかし、政府は、こうした労働運動が社会の秩序を乱すと考え、厳しい弾圧政策で臨みました。1900年(明治33年)には「治安警察法(ちあんけいさつほう)」を制定し、労働者の団結権やストライキ権を、事実上、非合法化しました。
政府は、資本家(企業)の利益を保護し、安価な労働力を確保することで、国家の産業発展を優先する姿勢(「富国強兵」)を貫いたのです。労働者の基本的人権が、法律によって本格的に保護されるようになるのは、1911年に工場法が制定され、また、第二次世界大戦後に日本国憲法が制定されるのを待たなければなりませんでした。
近代日本の階級社会の形成は、このように、学歴と知性を武器に豊かな生活を享受する新中間層と、過酷な労働の中で権利を求めて闘う労働者階級という、二つの対照的な階層の誕生を伴うものでした。生まれによる「身分」の壁は崩れましたが、その代わりに、教育と富を持つ者と持たざる者の間に、新たな、そして深刻な「階級」の壁が築かれたのです。この経済的な格差を基本とする社会構造は、その後の日本社会の基本的な形となり、現代に至るまで、様々な形で我々の生活を規定し続けています。
10. 現代の格差社会
第二次世界大戦の敗戦は、日本の社会階層に、再び地殻変動をもたらしました。日本国憲法の制定により、華族制度は廃止され、法の下の平等が、かつてないレベルで保障されました。財閥解体や農地改革といった経済の民主化政策は、富の集中を是正し、戦後の日本社会は、多くの国民が自らを「中流」と意識する、「一億総中流(いちおくそうちゅうりゅう)」社会へと向かっていきました。高度経済成長期を通じて、この「平等な社会」という神話は、広く国民に共有されていました。しかし、1990年代初頭のバブル経済の崩壊と、それに続く長期的な経済停滞(「失われた20年(30年)」)は、この神話を根底から揺るがしました。終身雇用や年功序列といった日本的経営が崩壊する中で、人々の間に、かつてないほどの経済的な「格差(かくさ)」が拡大し、日本は、新たな階層社会の時代に突入したのです。この現代の格差は、もはや生まれや法的な身分によるものではなく、より流動的で、しかし、より個人の自己責任が問われる、厳しい現実を伴っています。
10.1. 「一億総中流」社会の形成と崩壊
戦後の日本が、なぜ「総中流社会」と評されるようになったのか。その背景には、いくつかの歴史的な要因があります。
10.1.1. 戦後改革による平等化
- 農地改革: 寄生地主制を解体し、多くの農民を自作農としました。これにより、農村における極端な貧富の差が解消されました。
- 財閥解体: 三井、三菱といった巨大財閥を解体し、富の独占を打破しました。
- 教育の機会均等: 新しい学制の下で、教育の機会が広く国民に開かれ、誰もが努力次第で上の階層を目指せる、という期待感が生まれました。
これらの改革が、戦後日本の社会構造を、比較的フラットな状態からスタートさせる基盤となりました。
10.1.2. 高度経済成長と日本的経営
1950年代半ばから始まった高度経済成長は、国民の所得水準を飛躍的に向上させました。この時代、多くの企業が採用した「終身雇用」と「年功序列賃金」という日本的経営は、従業員に安定した生活と、将来への明るい見通しを与えました。企業は、一つの「運命共同体」となり、正社員間の所得格差は、欧米諸国に比べて小さいものでした。テレビ・冷蔵庫・洗濯機といった「三種の神器」が、多くの家庭に普及し、国民の大多数が、自分は「中流」であると考える、同質性の高い社会が実現したのです。
10.1.3. 崩壊の始まり:バブル経済とその後の停滞
しかし、この「総中流」の時代は、永遠には続きませんでした。1990年代初頭のバブル経済の崩壊は、日本経済に深刻な打撃を与え、企業は、これまでの終身雇用や年功序列を維持できなくなりました。コスト削減のため、多くの企業が、正社員の採用を抑制し、代わりに、より安価な労働力である非正規雇用を増やすようになります。グローバル化の進展も、国際競争にさらされる企業に、成果主義的な賃金体系の導入を促しました。こうして、かつての安定した社会の歯車は、きしみ始めたのです。
10.2. 現代日本の格差の諸相
現代の日本社会における格差は、単一のものではなく、様々な側面で、複合的に現れています。
10.2.1. 雇用格差:正規と非正規
現代の格差を象徴する、最も深刻な問題が、正規雇用労働者と非正規雇用労働者(パート、アルバイト、派遣社員、契約社員など)の間の格差です。
- 賃金格差: 非正規労働者の賃金は、同じ仕事をしていても、正規労働者に比べて著しく低い水準にあります。
- 雇用の不安定: 非正規労働者は、契約期間が満了したり、企業の業績が悪化したりすると、真っ先に解雇される(「派遣切り」など)、極めて不安定な立場に置かれています。
- キャリア形成の困難: 専門的な技能を身につける機会も少なく、将来的な昇進や昇給の道も、ほとんど閉ざされています。
この雇用形態による分断は、人々の生涯所得に大きな差を生み、「ワーキングプア」と呼ばれる、働いても貧困から抜け出せない層を増大させています。
10.2.2. 教育格差
親の経済力が、子供の学歴や学力に直接的な影響を及ぼす、「教育格差」も、深刻な問題となっています。
- 塾や習い事への支出: 裕福な家庭ほど、子供を塾に通わせたり、多くの習い事をさせたりすることができ、それが学力差につながる傾向があります。
- 大学進学率: 親の所得が高い家庭の子供ほど、四年制大学への進学率が高いという、明確な相関関係が指摘されています。
- 格差の再生産: 学歴は、その後の就職や所得に大きく影響するため、親の世代の経済格差が、子供の世代の教育格差を通じて、再び次の世代の経済格差へと引き継がれてしまう、「格差の再生産」または「格差の連鎖」という、負のスパイラルが懸念されています。
10.2.3. その他の格差
その他にも、
- 地域間格差: 人口や企業が東京一極集中する一方で、地方は過疎化と経済の衰退に苦しむ、という格差。
- 情報格差(デジタル・デバイド): スマートフォンやインターネットを使いこなせる層と、そうでない層との間の、情報へのアクセス能力の格差。
- 世代間格差: 豊かな年金を受け取る高齢者世代と、厳しい経済状況の中で、社会保障の重い負担を担う若者世代との間の格差。
など、現代社会の格差は、ますます複雑で、多層的な様相を呈しています。
10.3. 歴史的視点から見た現代の格差
現代の格差社会は、かつての法的な身分制度とは、その性質を異にします。そこには、武士や平民といった、生まれながらにして決まる、越えがたい壁は、存在しないように見えます。誰もが、理論上は、自由に職業を選び、努力次第で成功できる「機会の平等」が保障された社会です。
しかし、その一方で、現代の格差は、より**個人の「自己責任」**が問われるという、厳しい側面を持っています。貧困や低い地位にあることを、社会の構造の問題としてではなく、本人の努力不足や能力の欠如の問題として片付けてしまう風潮も存在します。
歴史を振り返れば、社会の階層構造は、常にその時代の法、経済、そして思想によって、形作られてきました。古代の良賤の別、中世の武士の台頭、近世の士農工商、そして近代の階級社会。それぞれの時代において、「平等」と「差別」の形は、絶えず変化してきました。
我々が今直面している「格差社会」もまた、長い日本の身分と階層の歴史の、最先端に位置する一つの形態です。この問題の本質を理解し、より公正な社会を未来に向けて構想するためには、我々がどのような歴史的基盤の上に立っているのかを、深く、そして批判的に見つめ続ける視点が、不可欠と言えるでしょう。
Module 3:身分制度と社会階層の歴史の総括:境界線はいかに引かれ、そして越えられたか
本モジュールでは、古代から現代に至る、日本の社会階層の長大なパノラマを旅してきました。その旅は、時代ごとに、人々を隔てる「境界線」が、いかにして引かれ、維持され、そして時には突き崩されてきたのかを追う、知的探求の連続でした。
古代律令国家は、「良」と「賤」という、法的で絶対的な境界線を引きました。それは、人間を「公民」と「財産」に分ける、国家による根源的な区別でした。その上に、官位制という精緻な序列が、貴族社会の階層秩序を規定しました。しかし、その普遍的な理念は、地方で勃興した武士という、土地と武力に根ざした新たな階層の前で、その力を失っていきます。
中世は、多様な境界線が乱立する、多元的な社会でした。公家、武家、寺社、そして荘園の民。職能集団である「座」や、社会の周縁で「穢れ」を担った人々。それぞれの集団が、独自の法と論理を持つ、複雑なモザイク模様をなしていました。
近世の支配者は、この混沌に、新たな秩序を与えようとしました。太閤検地と刀狩は、支配する「士」と、支配される「農・工・商」の間に、決定的な境界線を引きました。そして、その枠組みのさらに外側に「えた・ひにん」という被差別身分を固定化することで、身分制社会を、下から安定させたのです。
近代は、これらの旧来の境界線を、法の下の「平等」という理念によって、一度は解体しました。しかし、その跡地には、華族・士族・平民という新たな序列が生まれ、産業革命は、学歴と富に基づく、「階級」という、より不可視で、しかし強力な境界線を社会に張り巡らせました。そして現代。我々は、正規・非正規、富裕層・貧困層といった、経済的な要因によって引かれる、流動的でグローバルな「格差」という境界線の只中に生きています。
このように、社会階層の歴史とは、人間が人間を区別し、序列化する論理の変遷史です。その境界線は、法によって引かれ、経済によって変動し、文化や思想によって人々の心に内面化されます。この歴史を学ぶことは、我々自身が無意識のうちに囚われている、様々な「境界線」の正体を自覚し、より公正で、より人間的な社会を未来に向けて構想するための、羅針盤となるはずです。