【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 6:貨幣と金融の歴史

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本モジュールの目的と構成

社会の血液、それが「貨幣」であり「金融」です。モノとサービスの流れを円滑にし、富を蓄積し、未来への投資を可能にするこのシステムは、一見すると無味乾燥な数字の世界に見えるかもしれません。しかしその歴史を深く掘り下げれば、各時代の権力者の野心、経済のダイナミズム、そして民衆の生活のリアルな姿が鮮やかに浮かび上がってきます。本モジュールでは、古代国家が権威の象徴として鋳造した最初の銭貨から、現代の我々の生活を左右する複雑な金融システムに至るまで、日本における「カネ」の壮大な物語を探求します。

これは、単なる古いお金の種類を覚える学習ではありません。国家はなぜ貨幣を発行しようとするのか。民衆は、なぜ異国の銭貨を信じ、自国のそれを拒んだのか。貸す者と借りる者の関係は、いかにして社会の緊張を生み出したのか。そして近代国家は、いかにして「円」という統一通貨を創出し、グローバルな経済システムの荒波に乗り出していったのか。その変遷の背後にある、政治的意図、経済的合理性、そして社会心理を多角的に読み解きます。

このモジュールを学び終える時、あなたは、歴史上の大きな出来事や社会の変化の裏側で、貨幣と金融という「見えざる手」がいかに強力に作用していたかを理解するでしょう。カネの流れを追うことは、歴史をその最も生々しい欲望と合理性の側面から解剖する知的冒険なのです。

本モジュールは、以下の10のステップで構成されています。

  1. 富本銭・和同開珎: 律令国家が唐をモデルに、国家の威信をかけて発行した日本最初の貨幣。その理想と流通の現実を探ります。
  2. 宋銭の流入: 国家による貨幣発行が途絶えた後、民間の経済活動がいかにして中国の銭貨を「事実上の本位通貨」として受容したのかを分析します。
  3. 土倉・酒屋と金融: 中世社会の旺盛な資金需要に応え、庶民から権力者までを顧客とした高利貸金融業者の実態と、その社会的役割に迫ります。
  4. 織豊政権の貨幣統一: 戦国の混乱を収拾し、天下統一を成し遂げた信長と秀吉が、いかにして貨幣の価値基準を統一しようと試みたのかを検証します。
  5. 近世の三貨制度: 金・銀・銭という三種類の貨幣が、複雑な変動相場制の下で流通した江戸時代のユニークな貨幣システムの構造を解明します。
  6. 両替商: 三貨制度の結節点として、両替だけでなく預金、貸付、為替といった近代銀行の機能を果たした、近世の金融のプロフェッショナルの活動を描きます。
  7. 藩札: 財政難に苦しむ各藩が、最後の手段として発行した紙幣。その栄枯盛衰から近世の地方財政の実態を読み解きます。
  8. 幕末の貨幣制度の混乱: 開国がもたらした金銀比価の問題。それが、いかにして日本の金の大量流出と激しいインフレを引き起こし、幕府崩壊の一因となったのかを分析します。
  9. 円の誕生と金本位制: 明治政府が近代国家の証として創出した新通貨「円」。そして国際経済社会へのパスポートであった金本位制を、いかにして確立したのかを探ります。
  10. 日本銀行と近代金融システム: 中央銀行である日本銀行の設立と、それを頂点とする近代的銀行制度の確立が、いかにして日本の産業革命を金融面から支えたのかを考察します。

この壮大なカネの物語を通じて、歴史を動かす経済の論理を掴み取りましょう。


目次

1. 富本銭・和同開珎

日本の貨幣史の幕開けは、7世紀後半から8世紀初頭にかけて、天皇を中心とする中央集権的な律令国家が、その権力と秩序を新たな形で示そうとした試みの中にあります。それまで米や布といった物品が貨幣の役割を果たしていた(物品貨幣)社会に、国家がその権威をもって価値を保証する、金属製の鋳造貨幣を導入しようとしたのです。その最初の試みとされるのが謎多き「富本銭(ふほんせん)」であり、本格的な流通貨幣として歴史の教科書に必ず登場するのが「和同開珎(わどうかいちん)」です。これらの古代銭貨の鋳造は、単に経済的な利便性を追求したものではありません。それは先進国であった唐の制度を模倣し、貨幣の発行権という国家の根源的な権能を掌握することで、律令国家の支配体制を完成させようとする、極めて高度な政治的行為でした。

1.1. 貨幣発行の背景:律令国家の野心

なぜ、律令国家はわざわざ貨幣を鋳造する必要があったのでしょうか。

  • 唐の模倣と国家威信の誇示: 当時の日本が国家建設のあらゆる面で手本としていた唐では、すでに高度な貨幣経済が成立していました。統一された貨幣を鋳造し流通させることは、日本が唐と肩を並べる「文明国」であり、天皇が唐の皇帝に匹敵する強力な統治者であることを内外に示すための絶好の機会でした。貨幣の表面に刻まれた文字は、国家の権威そのものだったのです。
  • 国家財政の新たな手段: 国家事業(都城の建設や寺社の造営など)で労働者に賃金を支払ったり、官僚に俸給を与えたりする際に、重くてかさばる米や布の代わりに貨幣を用いることができれば、財政運営ははるかに効率的になります。また、税の一部を貨幣で納めさせることができれば(金銭納)、国家は直接的な購買力を手に入れることができます。
  • 経済活動の活性化: 都城の建設に伴い多くの人々が都に集住するようになると、彼らの生活を支えるための商業活動が活発化します。国家が統一された貨幣を供給することで、市場での取引を円滑にし、経済の発展を促すという狙いもありました。

1.2. 富本銭:日本最古の貨幣か

長らく、日本で最初の貨幣は708年に発行された和同開珎であると考えられてきました。しかし1999年に、奈良県明日香村の飛鳥池遺跡から大量の「富本銭」が鋳造工房の跡と共に出土したことで、この通説は大きく揺らぐことになります。

  • 発見とその年代: 富本銭はこれまでも、まじない(厭勝銭)に使われたものなどとして単独で発見されることはありましたが、これほど大規模な出土は初めてでした。遺跡の年代測定から、これらの富本銭は7世紀の後半、天武・持統天皇の時代に鋳造された可能性が高いことが判明しました。
  • 「貨幣」か「厭勝銭」か: 『日本書紀』には683年に、天武天皇が「今より以後、必ず銅銭を用いよ」と命じたという記述があります。この「銅銭」が富本銭を指すのではないかという説が有力になっています。もしそうであれば、富本銭が日本で最初の流通を目指した貨幣ということになります。しかしその流通範囲は都周辺のごく限られたものであったと考えられ、まじない的な用途も併せ持っていた可能性も指摘されており、その正確な性格については今なお議論が続いています。

1.3. 和同開珎:本格的な流通貨幣の登場

富本銭の性格がどうであれ、日本初の本格的な流通貨幣として全国的な規模で発行されたのが、708年(和銅元年)に鋳造が開始された和同開珎です。

1.3.1. 鋳造のきっかけと種類

和同開珎の鋳造の直接的なきっかけは、武蔵国秩父(現在の埼玉県)から純度の高い自然銅(和銅(にぎあかがね))が朝廷に献上されたことでした。これを吉兆とした朝廷は元号を「和銅」と改め、この銅を用いて新しい貨幣の鋳造を大々的に開始しました。

和同開

珎には、

  • 銀銭: 当初、銀銭も鋳造されましたが、すぐに廃止されました。
  • 銅銭: 主に流通したのは銅銭でした。銅銭には、古い時代の質の高いもの(古和同)と、後の時代に質を落として作られたもの(新和同)があります。

1.3.2. 政府による強力な流通促進策

政府は、この新しい貨幣を全国に流通させるため、極めて強力な、半ば強制的な政策を次々と打ち出しました。

  • 蓄銭叙位令(ちくせんじょいれい): 711年に出されたこの法令は、一定額の銭を蓄えそれを政府に納めた者には、その額に応じて位階(官位)を与えるというものでした。これは人々に貨幣を蓄えるインセンティブを与え、その価値を国家が保証することを示すユニークな政策でした。
  • 公的な支払いへの利用: 政府は役人の給与の一部を銭で支払ったり、国家事業の労働者への賃金を銭で支払ったりすることで、貨幣の流通を人為的に作り出そうとしました。

1.4. 古代貨幣の限界と終焉

しかし、政府のこのような懸命な努力にもかかわらず、和同開珎をはじめとする古代の国家発行貨幣(皇朝十二銭(こうちょうじゅうにせん))は、日本社会に十分に根付くことはありませんでした。

その理由は、

  • 経済社会の未熟さ: 当時の日本はまだ自給自足的な農業経済が中心であり、庶民の日常生活において貨幣を必要とする場面がそもそも少なかった。
  • 貨幣価値への不信: 政府は財政難に陥ると、しばしば貨幣の質を落として(銅の含有量を減らして)改鋳を行いました。これにより貨幣の価値は下落し、人々は国家が発行する貨幣よりも、価値が安定している米や布といった物品貨幣の方を信用するようになりました。

和同開珎以降、政府は約250年間にわたって12種類の銅銭(皇朝十二銭)を発行し続けますが、その価値と品質は時代が下るごとに低下の一途をたどりました。そして10世紀半ばの「乾元大宝(けんげんたいほう)」を最後に、朝廷による貨幣の鋳造は完全に途絶えてしまいます。

律令国家の壮大な理想と共に生まれた日本の公式貨幣は、こうして一度、歴史の舞台から姿を消します。そして次に日本列島で貨幣が経済の主役として本格的に復活するのは、国家の力ではなく、民間の活発な経済活動が海の向こうから大量の中国銭を呼び込む、中世の時代を待たなければなりませんでした。


2. 宋銭の流入

10世紀半ば、皇朝十二銭の鋳造が途絶えて以降、日本の公式な貨幣史は約200年間にわたる「空白の時代」を迎えます。この時代、人々は再び米や布、絹といった物品を価値の基準とする物々交換の経済へと回帰していきました。しかし平安時代後期から鎌倉時代にかけて、荘園制の発展を背景に商業活動が活発化し、年貢の輸送や遠隔地間の取引が盛んになると、重くてかさばる物品貨幣ではその需要に応えきれなくなります。社会は再び、携帯に便利で価値が安定した金属貨幣を強く求めるようになりました。この渇望に応えたのが、国家の意思ではなく、民間の交易活動によって日本にもたらされた大量の**中国銭(宋銭)**でした。その質の高さと豊富な供給量から、宋銭は瞬く間に日本全国に浸透し、武士から庶民に至るまであらゆる階層で利用される「事実上の基軸通貨」となったのです。この宋銭の流入は日本の貨幣経済を新たなステージへと押し上げると同時に、貨幣のコントロールを国家の手から市場の力へと委ねる時代の始まりを告げるものでした。

2.1. 貨幣なき時代の経済活動

皇朝十二銭がその価値への信頼を失い流通しなくなると、人々はより確実な価値を持つ現物での取引に戻りました。

  • 荘園からの年貢: 農民から荘園領主へ納められる年貢は、主に米(年貢米)でした。
  • 貴族の給与: 朝廷に仕える貴族たちの給与も、主に土地からの収入(封戸)や米、絹などで支払われました。
  • 市場での取引: 市場での売買も、米や布を価値の基準として行われることが一般的でした。

しかし商業が発展するにつれて、この物品貨幣の不便さが明らかになります。米は重くて腐りやすく、遠隔地への持ち運びには適していません。布や絹は品質にばらつきがあり、価値の計算が複雑でした。経済の発展が、使いやすい「カネ」の復活を要請していたのです。

2.2. 日宋貿易と宋銭の大量流入

この社会的なニーズに応えたのが、11世紀後半から活発化した日宋貿易でした。

2.2.1. 交易の担い手

平氏政権を樹立した平清盛は、現在の神戸港にあたる大輪田泊(おおわだのとまり)を修築し、宋との貿易を積極的に推進しました。また、博多を拠点とする商人や寺社勢力も、この貿易に深く関わりました。

日本からは金、銀、銅、硫黄、木材、そして刀剣といった産品が輸出され、その見返りとして宋からは陶磁器、絹織物、香料、薬品、そして最も重要な輸入品である**銅銭(宋銭)**が大量にもたらされました。

2.2.2. 宋銭が歓迎された理由

宋銭は、当時の日本人にとって極めて魅力的な貨幣でした。

  • 質の高さ: 宋代の中国は鋳造技術が非常に高く、宋銭は銅の含有量が多く品質が安定していました。これは、時代が下るごとに質が低下していった皇朝十二銭とは対照的でした。
  • 豊富な供給量: 宋は経済が非常に発展しており、膨大な量の銅銭を鋳造していました。そのため貿易を通じて、日本の需要を十分に満たすだけの量を供給することが可能でした。
  • 高い信頼性: その質の高さから、宋銭は商人たちの間で高い信頼を獲得し、安心して取引に用いることができました。

これらの理由から宋銭は、朝廷や幕府の意思とは全く無関係に、純粋な経済的な合理性に基づいて日本社会に急速に浸透していったのです。

2.3. 宋銭の流通と社会への影響

宋銭はまず博多や敦賀といった貿易港で流通し始め、そこから商人たちの活動を通じて内陸の荘園や都市へと瞬く間に広がっていきました。鎌倉時代に入る頃には、宋銭は年貢の代銭納(米の代わりに銭で納める)や武士への給与の支払い、そして庶民の日常的な買い物に至るまで、あらゆる経済活動の場面で不可欠な存在となっていました。

2.3.1. 幕府の対応:禁止から容認へ

鎌倉幕府は当初、この外来の貨幣が国内の経済を支配することに警戒感を抱き、12世紀末には宋銭の使用を禁じる法令を出したこともありました。しかし宋銭の流通は、もはや法で禁じられるような生易しい流れではありませんでした。幕府自身も御家人への恩賞や寺社の造営費用を宋銭で支払うなど、その利便性に頼らざるを得なくなります。

結局、幕府は宋銭の流通を公に認める方針へと転換せざるを得ませんでした。これは、貨幣の発行権とそのコントロールが、国家(幕府)から市場(民間経済)の手に移ってしまったことを象徴する出来事でした。

2.3.2. 貨幣経済の深化

宋銭の普及は、日本の社会と経済を大きく変えました。

  • 商業の飛躍的発展: 価値の計算や持ち運びが容易な宋銭の登場により、遠隔地間の商業が飛躍的に発展しました。
  • 金融業の発生: 銭の貸し借りを行う金融業者(後の土倉・酒屋)が登場する土壌が生まれました。
  • 荘園制の変化: 年貢を米ではなく銭で納める「代銭納」が一般化すると、荘園領主は直接貨幣収入を得ることになり、彼らの経済活動も貨幣経済の中に深く組み込まれていきました。

2.4. 新たな混乱:「私鋳銭」と「撰銭」

しかし、宋銭の流通は良いことばかりではありませんでした。宋銭だけでなく元や明の時代の質の異なる中国銭も流入し、さらには日本国内でそれらを模倣して作られた質の悪い私鋳銭(しちゅうせん)(偽造コイン)も大量に出回るようになります。

多種多様な価値の異なる銭が市場に混在するようになると、人々は取引の際に質の悪い銭の受け取りを拒否し、質の良い銭だけを選り好みするようになります。この行為を「撰銭(えりぜに)」と呼びます。

撰銭が横行すると、市場での取引は著しく滞り、経済に大きな混乱をもたらしました。室町幕府や戦国大名は、この混乱を収拾するため、特定の悪銭の使用を禁じたり、あるいは質の異なる銭の間の公的な交換比率を定めたりする「撰銭令」を繰り返し発布する必要に迫られました。

この撰銭の問題は、統一された価値を持つ単一の貨幣が存在しないことの弊害を人々に痛感させました。そしてこの混乱を最終的に乗り越え、日本独自の統一された貨幣体系を再び創出しようとする強い意志が、天下統一を目指す戦国の覇者たちの間に生まれてくることになるのです。


3. 土倉・酒屋と金融

中世の日本社会に宋銭をはじめとする貨幣経済が浸透すると、人々の生活の中に新たなニーズが生まれました。それは、「カネを借りたい」という**資金需要(金融)**です。荘園からの年貢収入だけに頼れなくなった貴族や武士、事業の運転資金が必要な商人、そして冠婚葬祭や飢饉時の食糧確保のためにまとまった銭が必要になった庶民。あらゆる階層の人々が、一時的に銭を融通してくれる存在を求めるようになりました。この旺盛な資金需要に応える形で、中世後期、特に室町時代に都市部を中心に勃興したのが、「土倉(どそう)」と「酒屋(さかや)」と呼ばれる民間の金融業者でした。彼らは高利での貸付を大々的に行い、莫大な富を築き上げましたが、その活動はしばしば社会の不安定要因ともなりました。彼らの存在は、中世社会の経済的なダイナミズムと、その裏に潜む深刻な社会的緊張を象徴しています。

3.1. 中世の金融業者の登場

鎌倉時代から、すでに銭の貸し出しを行う業者は存在していました。「借上(かしあげ)」と呼ばれた彼らは、高い利子で人々を苦しめる存在としてしばしば幕府の規制の対象となりました。しかし室町時代に入り、京都を中心に商業がさらに発展すると、金融業はより大規模で組織的なものへと進化していきます。その主役が土倉と酒屋でした。

3.1.1. 土倉(どそう):中世の質屋

土倉は、現代の質屋にあたる金融業者です。

  • 名前の由来: 彼らが担保として預かった物品(質草)を、火災や盗難から守るため、壁を土で厚く塗り固めた堅固な**土蔵(どぞう)**で保管したことから、この名が付きました。
  • 業務内容: 客から武具、着物、仏具、土地の権利書といった価値のある品物を担保(質草)として預かり、それを元に銭を貸し付けました。期限までに元金と利子が返済されれば品物は客に返されますが、返済が滞ると品物の所有権は土倉に移り(質流れ)、彼らはそれを売却して利益を得ました。
  • 顧客層: 顧客は生活に困窮した庶民から、公家、武士、さらには寺社に至るまで、あらゆる階層に及びました。

土倉は京都だけでも数百軒が存在したと言われ、中世の都市経済において不可欠な金融インフラとなっていたのです。

3.1.2. 酒屋(さかや):金融業を兼ねた酒造家

酒屋は、その名の通り酒を醸造し販売する業者でした。酒造業は原料の米を大量に必要とし、また製品である酒は高値で売れるため、大きな資本力を持つ儲かるビジネスでした。

酒屋たちは、その潤沢な自己資本を元手にして、土倉と同様の高利貸金融業を兼営するようになりました。酒屋はしばしば土倉よりもさらに大規模な資金力を持ち、室町時代の京都の経済を牛耳るほどの影響力を持つ存在となりました。

3.2. 幕府との関係:課税と保護

室町幕府は当初、これらの高利貸業者を規制しようとしました。しかし幕府自身の財政が慢性的に困難な状況に陥ると、その方針を180度転換させます。幕府は、土倉と酒屋を重要な財源と見なすようになったのです。

  • 土倉役・酒屋役: 幕府は土倉と酒屋に対して、その営業規模に応じて「土倉役」「酒屋役」と呼ばれる多額の税金を課しました。この税収は、幕府の財政を支える極めて重要な柱の一つとなりました。
  • 保護と特権: 税金を納める見返りに、幕府は土倉や酒屋の営業を公に認め、その権利を保護しました。これにより彼らは、半ば「公認」の金融業者として安定した活動を続けることができたのです。

この幕府と金融業者との持ちつ持たれつの関係は、中世の都市経済の大きな特徴でした。

3.3. 社会的緊張と徳政一揆

しかし、土倉や酒屋の活動は社会に深刻な緊張ももたらしました。彼らが設定した利子は年利60%を超えることも珍しくない非常に高いものであり、一度彼らから借金をしてしまうと、多くの人々が返済不能の債務地獄に陥りました。

借金の担保として田畑や家屋敷を土倉や酒屋に取り上げられてしまう人々が続出しました。特に凶作などで生活が苦しくなると、庶民の不満は一気に爆発します。

3.3.1. 徳政令(とくせいれい)を求めて

追い詰められた農民や都市の民衆は団結して武力で蜂起し、土倉や酒屋の蔵を襲撃して借金の証文(借書)を力ずくで破棄しようとしました。そして彼らは幕府や守護大名に対して、全ての債務を帳消しにする徳政令の発布を強硬に要求しました。これが「徳政一揆(とくせいいっき)」です。

3.3.2. 正長の土一揆(1428年)

徳政一揆の中でも特に有名なのが、1428年(正長元年)に近江国の馬借が蜂起したことから始まった「正長の土一揆」です。この一揆は京都周辺に瞬く間に広がり、数万の農民や民衆が京都の土倉や酒屋、そして寺社(彼らも金融業を営んでいた)を徹底的に襲撃・破壊しました。

正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニアルヘカラス(正長元年より先は、神戸四箇郷に負債はないものとする)」と刻まれた有名な石碑は、民衆が自らの力で「徳政」を宣言した力強い証拠です。

3.3.3. 幕府の対応

徳政一揆の激しさに手を焼いた室町幕府は、結局、徳政令を繰り返し発布せざるを得なくなりました。しかし徳政令は金融業者にとっては大損害であり、また幕府にとっても重要な税収源を失うことを意味しました。そのため幕府は、徳政令の発布に手数料(分一銭)を課すなど、その場しのぎの対応に終始しました。

この徳政一揆と徳政令の乱発は、幕府の権威を著しく失墜させ、社会の混乱をさらに深める大きな要因となりました。

土倉・酒屋の興隆と、それに対する徳政一揆の激化。この対立は貨幣経済が社会に浸透していく過程で避けることのできない、光と影の側面を我々に示しています。それは、金融というシステムが経済を活性化させる強力なエンジンであると同時に、富の偏在と社会の亀裂を生み出す両刃の剣であることを物語っているのです。


4. 織豊政権の貨幣統一

100年以上にわたる戦国の動乱は、日本の貨幣制度を極度の混乱状態に陥れていました。市場には質の異なる宋、元、明といった歴代の中国銭が入り乱れて流通し、さらには各地の領主や商人が勝手に鋳造した質の悪い私鋳銭(しちゅうせん)も横行していました。人々は取引の際に質の悪い銭貨を嫌い、良質の銭貨を選り好みする「撰銭(えりぜに)」を行い、それが円滑な商業活動を著しく妨げていました。この貨幣価値の混乱は、領国を富ませ強兵を育てることを目指す戦国大名にとって、克服すべき大きな課題でした。そしてこの課題に全国的な規模で取り組み、中世以来の複雑で無秩序な貨幣システムに終止符を打ち、近世的な統一された貨幣制度への道筋をつけたのが、天下統一を成し遂げた織田信長豊臣秀吉でした。彼らの貨幣政策は単なる経済政策にとどまらず、天下人としての権威を天下に示す、極めて重要な象徴的行為でもありました。

4.1. 戦国大名の貨幣政策と限界

天下統一に先立ち、各地の戦国大名も自らの領国内で貨幣価値の安定化に取り組んでいました。

  • 撰銭令(えりぜにれい): 多くの大名は領国内での過度な撰銭を禁じる撰銭令を発布しました。しかしその内容は、しばしば矛盾をはらんでいました。例えば、「著しく質の悪い私鋳銭は使ってはならないが、多少質の悪い程度の銭は一定の交換比率で通用させよ」といった複雑な規定が多く、市場の混乱を完全に収拾するには至りませんでした。
  • 領国貨幣: 後北条氏や武田氏、今川氏など、一部の有力大名は領国内で通用する独自の金貨や銀貨(甲州金など)を鋳造しました。これは領国の経済をコントロールしようとする先進的な試みでしたが、その通用力はあくまで領国内に限られており、全国的な統一通貨とはなり得ませんでした。

このように、戦国大名による個別の対応では、全国規模での貨幣の混乱を根本的に解決することは不可能でした。この課題を解決できるのは、日本全体をその支配下に置く強力な統一権力、すなわち天下人だけだったのです。

4.2. 織田信長の貨幣政策:現実的な秩序形成

織田信長は、その合理的な思考で貨幣問題に現実的なアプローチを取りました。

4.2.1. 金銀の重視

信長は商業の発展には価値の安定した高額な貨幣が不可欠であると考え、金貨と銀貨の流通を重視しました。彼は安土城の城下町などで金銀の自由な使用を奨励し、また家臣への褒美として金銀を与えることでその価値を高めようとしました。

4.2.2. 撰銭令の新たな展開

信長の撰銭令は、それまでの大名のものとは一線を画していました。彼は質の悪い銭貨を闇雲に禁止するのではなく、市場に流通している様々な種類の銭貨の公的な交換比率を明確に定めることに重点を置きました。

例えば、「永楽通宝(えいらくつうほう)」(明の良質な銭貨)1文に対し、「質の悪い私鋳銭」は4文や5文で通用させよ、といった具合です。これにより価値の異なる銭貨が市場の中で共存できる一定のルールを作り出し、取引の円滑化を図ろうとしました。これは市場の現実を追認した上で、そこに新たな秩序をもたらそうとする信長の現実主義的な政策でした。

4.3. 豊臣秀吉の貨幣統一事業:天下人の貨幣

本能寺の変で信長が倒れた後、その事業を継承し天下統一を完成させた豊臣秀吉は、貨幣制度においても信長の方針をさらに推し進め、国家的な規模での統一事業を断行しました。

4.3.1. 鉱山の直轄支配

秀吉は、貨幣の原料となる貴金属の供給源を完全に掌握することから始めました。彼は佐渡(さど)の金山石見(いわみ)大森銀山但馬(たじま)生野(いくの)銀山といった日本各地の主要な金山・銀山を豊臣家の直轄領としました。

これにより秀吉は、金銀の生産を国家管理の下に置き、貨幣の鋳造を独占的に行うための圧倒的な基盤を手に入れたのです。

4.3.2. 天正大判と分銅金:権威の象徴

この豊富な金銀を背景に、秀吉は家臣の**後藤徳乗(ごとうとくじょう)**に命じて、規格化された新しい貨幣を鋳造させました。

  • 天正大判(てんしょうおおばん): 秀吉の貨幣政策を最も象徴するのが、この世界最大級の金貨です。重さ約165グラム、金一枚に墨で「拾両」と書かれ、後藤家の花押が刻印されています。これは日常的な取引に使われる流通貨幣というよりも、秀吉が家臣への恩賞として与えたり、自らの富と権威を内外に誇示したりするための特別な貨幣でした。
  • 分銅金(ふんどうきん)・分銅銀: 秤(はかり)の分銅の形をした金塊や銀塊も、高額な取引のために作られました。

4.3.3. 貨幣価値の統一へ

秀吉は、これらの自らが発行した金銀貨を価値の基準と位置づけました。そしてそれまで価値が混乱していた様々な銅銭(銭貨)についても、その価値を金銀を基準として統一しようと試みました。

秀吉の時代には、まだ宋銭や永楽通宝といった中国銭が依然として大量に流通していました。秀吉はこれらを完全に排除するのではなく、金1両(天正大判の10分の1)が銀何匁(もんめ)、そして銭何貫文(かんもん)に相当するかという、公的な交換レートの大枠を示すことで、金・銀・銭という三つの貨幣の間に一つの価値体系を作り出そうとしたのです。

4.4. 織豊政権の政策の意義

織田信長と豊臣秀吉による一連の貨幣政策は、中世以来の貨幣価値の混乱に終止符を打つ画期的なものでした。

それは、国家(天下人)が貨幣の発行権とその価値基準を再びその手に掌握するという、古代律令国家以来の大きな転換でした。

秀吉が確立した、金・銀・銭を三つの柱とする貨幣体系の考え方は、その後の江戸幕府にそのまま受け継がれ、近世の「三貨制度」として完成されることになります。織豊政権の貨幣統一は、戦国の世を終わらせ、安定した近世という新しい時代の経済的な礎を築いたのです。


5. 近世の三貨制度

江戸幕府が260年以上にわたって日本の平和と安定を維持できた背景には、その精緻な統治システムだけでなく、極めてユニークで複雑な貨幣制度の存在がありました。それが「三貨制度(さんかせいど)」です。これは金(きん)銀(ぎん)、**銭(ぜに)**という三種類の異なる金属貨幣が、それぞれ独自の価値体系を持ちながら並行して国内に流通するという、世界史的に見ても珍しいシステムでした。この制度は一見すると非効率に見えますが、実際には武士の給与から大商人の取引、そして庶民の日常の買い物まで、社会のあらゆる階層の多様な経済活動に柔軟に対応する巧妙な仕組みでした。しかしその一方で、金・銀・銭の間の交換レートが日々変動するという不安定さも内包しており、それが近世日本の経済に独特のダイナミズムと複雑さを与えることになったのです。

5.1. 三種類の貨幣とその役割

三貨制度を構成する三つの貨幣は、それぞれ異なる特徴と主な使用地域、そして役割を持っていました。

5.1.1. 金貨:計数貨幣の世界

  • 形状と単位: 金貨は大判(おおばん)、小判(こばん)、一分金(いちぶきん)、二朱金(にしゅきん)など様々な種類がありましたが、その価値は枚数で計算される「計数貨幣(けいすうかへい)」でした。基本単位は「両(りょう)」で、1両 = 4分(ぶ) = 16朱(しゅ)という四進法が用いられていました。
  • 主な流通地域: 江戸を中心とする東日本で主に使用されました。これは江戸には参勤交代で多くの武士が集住しており、彼らの俸禄の計算などが金建てで行われることが多かったためです。
  • 役割: 主に武士への給与の支払いや不動産取引、高額な贈答品など、比較的高額な決済に用いられました。
  • 鋳造所: 幕府が後藤家の監督の下で運営する「金座(きんざ)」で鋳造されました。

5.1.2. 銀貨:秤量貨幣の世界

  • 形状と単位: 銀貨は**丁銀(ちょうぎん)豆板銀(まめいたぎん)**といったナマコのような形や豆粒のような形をしており、定まった額面がありませんでした。その価値は取引の都度、天秤(てんびん)でその重さを量って決定される「秤量貨幣(ひょうりょうかへい)」でした。基本単位は重さの単位である「貫(かん)」と「匁(もんめ)」でした。
  • 主な流通地域: 「天下の台所」と呼ばれた大坂を中心とする西日本で主に流通しました。これは大坂が全国の米市場の中心であり、日々価格が変動する米のような商品の大口取引には、重さで柔軟に価値を調整できる銀貨の方が適していたためです。
  • 役割: 主に大商人間の大規模な商業取引に用いられました。
  • 鋳造所: 幕府が運営する「銀座(ぎんざ)」(現在の東京・銀座の地名の由来)で鋳造されました。

5.1.3. 銭貨:庶民の日常通貨

  • 形状と単位: 銭貨は中央に穴の開いた銅や真鍮(しんちゅう)製の円形の貨幣でした。代表的なものに「寛永通宝(かんえいつうほう)」があります。その価値は枚数で計算される計数貨幣でした。基本単位は「文(もん)」で、1000文を「一貫文(いっかんもん)」と呼びました。
  • 主な流通地域全国で広く普遍的に使用されました。
  • 役割: そば一杯、銭湯の入浴料といった庶民のごく日常的な少額の支払いに用いられました。
  • 鋳造所: 幕府が運営する「銭座(ぜにざ)」で鋳造されました。

5.2. 変動為替相場制という課題

この三貨制度の最も複雑で重要な特徴は、金・銀・銭の間の公的な交換レートが固定されていなかったことです。その交換比率はそれぞれの貨幣の需給バランスや、幕府による改鋳(かいちゅう)による品質の変化などに応じて、市場の中で日々変動していました。

  • 建前上のレート: 一応の目安として、**金1両 = 銀60匁 = 銭4貫文(4000文)**といった公定のレートが示されることもありましたが、これはほとんど名目的なものでした。
  • 市場の現実: 実際の市場では、例えば金1両が銀55匁になったり65匁になったり、あるいは銭3800文になったり4200文になったりといったことが日常的に起こっていました。

この「変動為替相場制」は、江戸と大坂の間で商売をする商人たちにとって大きなリスクであると同時に、大きなビジネスチャンスを生み出しました。そしてこの複雑な為替取引を専門的に扱う、新たな金融のプロフェッショナルが登場することになります。それが次章で見る「両替商」です。

5.3. 幕府による改鋳(かいちゅう)とその影響

江戸幕府は、その長い歴史の中で財政難に陥るたびに、金貨や銀貨の改鋳を繰り返し行いました。改鋳とは古い貨幣を回収し新しい貨幣を鋳造し直すことですが、その際、幕府は金銀の含有量を減らした質の悪い貨幣(悪貨)を発行することがしばしばありました。

例えば元禄時代に行われた改鋳では、小判に含まれる金の量を約85%から約57%へと大幅に引き下げました。これにより同じ量の金からより多くの小判を作り出すことができ、その差額(出目(でめ))が幕府の莫大な利益となりました。

しかし、このような貨幣の品質の低下は、

  • 物価の高騰(インフレーション): 貨幣の価値が下落するため、物価が急激に上昇しました。
  • 経済の混乱: 新旧の貨幣が市場に混在し、為替レートが乱高下するなど経済に大きな混乱をもたらしました。

新井白石のように、このような政策を厳しく批判し貨幣の品質を元に戻そうとする、健全な財政再建を目指す政治家も現れましたが、幕府はしばしばこの「貨幣改鋳」という安易な財源確保の誘惑にかられ続けたのです。

三貨制度は近世日本の多様な経済活動を支える柔軟なシステムであったと同時に、その価値の不安定さゆえに常に経済を混乱させるリスクを内包していました。この複雑なシステムを円滑に機能させるためには、高度な金融知識を持つ専門家の存在が不可欠だったのです。


6. 両替商

金・銀・銭という三種類の貨幣がそれぞれ異なる価値体系を持ち、しかもその間の交換レートが日々変動する。このような複雑怪奇な「三貨制度」の下で、江戸時代の日本の経済が円滑に機能した背景には、ある金融のプロフェッショナルたちの存在がありました。それが「両替商(りょうがえしょう)」です。彼らは当初、文字通り金・銀・銭を交換(両替)することを主な業務としていましたが、やがてその豊富な資金力と信用を背景に、**預金、貸付、そして手形を用いた送金(為替)**といった、現代の銀行とほぼ同じ機能を担うようになります。特に「天下の台所」大坂に本拠を置いた巨大な両替商たちは、全国の商業ネットワークの中心に位置し、大名貸などを通じて日本の経済を裏側から動かすほどの絶大な影響力を持つ存在へと成長していきました。

6.1. 両替商の発生と業務内容

両替商の起源は、室町時代の銭の売買や私的な為替(割符(さいふ))を扱っていた商人たちに遡ることができます。しかし彼らが本格的な金融業者として発展するのは、三貨制度が確立された江戸時代のことです。

6.1.1. 両替業務:三貨制度の潤滑油

両替商の最も基本的な業務は、金貨、銀貨、銭貨の相互の両替でした。

例えば、金貨経済圏である江戸の商人が銀貨経済圏である大坂で商品を仕入れるためには、まず江戸の両替商で金貨を銀貨に両替しておく必要がありました。また大坂の商人が受け取った銀貨で庶民を相手に商売をするためには、それを銭貨に両替する必要がありました。

両替商は、その日の市場の為替レートに基づいてこれらの両替を行い、その手数料(口銭(こうせん))を利益としました。彼らは三貨制度という複雑な歯車が滑らかに噛み合うための、不可欠な「潤滑油」の役割を果たしていたのです。

6.1.2. 預金・貸付業務:民間銀行の誕生

信用のある大きな両替商は、商人や武家、庶民からお金を預かる預金業務も行うようになりました。人々は、大金を自宅で保管する盗難のリスクを避けるため、両替商にそれを預けました。

そして両替商は、この預かった資金(預金)を元手にして、資金を必要とする他の商人や大名に利子を取って貸し出す貸付業務を展開しました。これは、まさに現代の銀行の基本的なビジネスモデルと同じです。特に全国の大名に藩の財政を担保に巨額の資金を融資する「大名貸(だいみょうがし)」は、ハイリスク・ハイリターンな両替商の重要な収入源でした。

6.2. 手形と為替:現金不要の送金システム

両替商が近世日本の経済にもたらした最大のイノベーションは、「手形(てがた)」を用いた高度な信用取引システムの確立でした。

江戸と大坂の間で、商人が大量の商品の代金を金銀の現物で輸送するのは、盗難のリスクも高く非常に危険でした。この問題を解決したのが「為替手形(かわせてがた)」です。

その仕組みは、以下のようなものでした。

  1. 江戸の商人Aが、大坂の商人Bから商品を仕入れたいとする。
  2. 商人Aは、江戸のとある両替商(甲)に行き、商品の代金(例えば金100両)を預ける。
  3. 両替商(甲)は、商人Aに「金100両、預かりました」という内容の「為替手形」を発行する。
  4. 商人Aは、この「手形」だけを飛脚便で大坂の商人Bに送る。
  5. 手形を受け取った商人Bは、それを持って大坂にある両替商(甲)の支店や提携先の両替商(乙)に行く。
  6. 両替商(乙)は、その手形と引き換えに商人Bに相当する銀貨(例えば銀6000匁)を支払う。

これにより商人たちは、一銭の現金も輸送することなく、安全かつ確実に都市間の巨額な決済を完了させることができました。この両替商のネットワークを基盤とした為替システムの発達は、全国的な商業活動を飛躍的に円滑化させたのです。

6.3. 本両替と銭両替:両替商の階層

両替商の中にも、その業務内容によって階層がありました。

  • 本両替(ほんりょうがえ): 金銀の高額な両替や、大名・大商人相手の預金・貸付・為替を専門に扱う大手の両替商。三井家鴻池家といった巨大な財閥の母体となりました。彼らは幕府の公金の出納を請け負う(御為替方(おかわせかた))など、公的な金融機関としての役割も担いました。
  • 銭両替(ぜにりょうがえ): 庶民を相手に、金銀と銭貨との少額な両替を専門に行う小規模な両替商。

このように、両替商は金融市場の中で役割分担をしながら、重層的な金融システムを形成していました。

6.4. 近世金融の担い手としての意義

両替商は、江戸幕府が中央銀行のような近代的な金融機関を全く持たなかったにもかかわらず、近世日本の高度でダイナミックな商品経済を金融面から支えきった、驚くべき存在でした。

彼らが民間の力だけで築き上げた、

  • 信用に基づく預金・貸付システム
  • 手形を用いた高度な為替・決済システム

は、ヨーロッパの近代的な銀行システムにも匹敵するほどの洗練されたものでした。

しかしその一方で、彼らの活動はあくまで個々の両替商の信用(のれん)に依存する不安定さも抱えていました。特定の有力な両替商が倒産すれば、その影響は連鎖的に経済全体に波及するリスクがありました。

この民間の高度な金融の伝統と、その不安定さを乗り越え、国家がその信用の全てをかけて運営する近代的な銀行システムをいかにして構築していくか。それが明治維新以降の日本が直面する大きな課題となるのです。


7. 藩札

江戸時代の幕府が発行した金・銀・銭の三貨(正貨)が全国的な基軸通貨であったとすれば、それと並行して地方経済の毛細血管の役割を果たしていたのが「藩札(はんさつ)」です。藩札とは全国の各藩(大名領)がそれぞれ独自に、領内限定で通用させることを目的として発行した紙幣のことです。多くの藩が慢性的な財政難に苦しむ中で、この藩札の発行は、いわば「打ち出の小槌」として財政赤字を補填するための最後の手段でした。しかしその安易な乱発は、しばしば領内の経済を激しいインフレーションに陥れ、領民の生活を苦しめる諸刃の剣でもありました。全国で200以上の藩が多種多様な藩札を発行したその栄枯盛衰の歴史は、近世日本の地方財政の深刻な実態と、幕府の中央集権の限界を如実に物語っています。

7.1. 藩札発行の背景:藩財政の窮乏

なぜ、多くの藩がわざわざ独自の紙幣を発行する必要があったのでしょうか。その背景には、江戸時代の大名が置かれた構造的な財政難がありました。

  • 参勤交代の負担: 藩の財政を最も圧迫したのが、参勤交代にかかる莫大な経費でした。江戸と国元を往復するための旅費や、江戸藩邸での華美な生活を維持するための費用は、藩の収入を大きく上回ることが珍しくありませんでした。
  • 手伝普請(てつだいぶしん): 幕府が江戸城の修築や大河川の治水工事といった大規模な公共事業を行う際に、その費用や労働力を各藩に割り当てました。これも藩の財政に重くのしかかりました。
  • 蔵屋敷経費と商業経済への対応: 大坂の蔵屋敷で年貢米を販売し、それを江戸での活動資金に換えるといった一連の経済活動にも、多くの経費が必要でした。また貨幣経済が浸透するにつれて、藩の支出は現金(正貨)で行われる場面が増えていきました。

これらの要因が重なり、多くの藩は収入(年貢)が米中心であるのに対し、支出は現金中心という構造的なアンバランスに陥り、慢性的な赤字財政に苦しむことになったのです。

7.2. 藩札の仕組みと機能

この財政難を乗り切るための窮余の一策として、藩札は発行されました。

7.2.1. 日本初の紙幣:福井藩の藩札

記録に残る最も早い藩札は、1661年(寛文元年)に福井藩が発行したものとされています。これは領内の有力商人の申し出を受けて、藩がその発行を許可したものでした。

7.2.2. 銀札と銭札

藩札には、大きく分けて、

  • 銀札(ぎんさつ): 正貨である銀貨(丁銀など)との交換を約束したもの。主に西日本の藩で多く発行されました。
  • 銭札(ぜにさつ): 正貨である銭貨(寛永通宝)との交換を約束したもの。

などがありました。藩札の券面には通用する金額(「銀壱匁」「銭百文」など)と共に、偽造を防ぐための精巧な図柄(米俵、大黒天など)や、発行責任者である藩の役人の花押が記されていました。

7.2.3. 藩札の機能

藩は、この藩札を、

  • 家臣への俸禄の支払い
  • 藩の事業の経費の支払い

などに用いました。これにより藩は、手元にある貴重な正貨(金銀銭)を節約し、それを江戸や大坂での支払いに充てることができました。また領民には、年貢の一部を藩札で納めることを許可する場合もありました。このようにして、藩札は領内の経済に強制的に流通させられていったのです。

7.3. 藩札の乱発と信用の失墜

藩札が円滑に流通するための絶対的な条件は、領民がその価値を信用することでした。そしてその信用の最終的な担保は、「いつでも券面に書かれた額の正貨と交換してもらえる」という藩への信頼でした。

しかし、財政難に追い詰められた藩は、しばしばこの「兌換(だかん)の約束」を守ることができなくなりました。

  • 発行高の超過: 藩は手元にある正貨の準備高(準備金)をはるかに超える額の藩札を安易に発行(乱発)しました。
  • 兌換停止: 領民が藩札を正貨に交換しようと殺到すると、藩は交換を一時的に停止(兌換停止)したり、交換に様々な制約を設けたりしました。

このような事態が起こると、藩札の信用は一気に失墜します。領内の商人たちは藩札での支払いを拒否するようになり、藩札の価値は暴落しました。これは領内の経済に激しいインフレーションを引き起こし、領民の生活を直撃しました。藩札の価値の下落に抗議する百姓一揆が発生することも珍しくありませんでした。

7.4. 幕府の対応と藩札の意義

江戸幕府は、藩札の存在を幕府の貨幣発行権を脅かすものとして警戒していました。幕府は1707年に一度、藩札の発行を全面的に禁止しましたが、諸藩の財政の窮状を前にして結局、許可制という形で黙認せざるを得ませんでした。これは幕府の経済に対する統制力が、全国の隅々にまで及ぶものではなかったことの証左でもあります。

藩札の歴史は、その多くが安易な発行と信用の失墜、そして経済の混乱という悲劇の繰り返しでした。しかしその一方で、

  • 藩札は正貨が不足しがちな地方経済において、通貨の供給量を増やし商業活動を円滑にするという、一定の肯定的な役割も果たしました。
  • 藩札の発行と管理の経験は、それぞれの藩に独自の金融政策のノウハウを蓄積させました。

明治維新後、新政府はこれらの多種多様な藩札を全て廃止し、新通貨「円」へと統一していくという困難な作業に直面することになります。藩札は、近世日本の分権的な幕藩体制を金融の側面から象徴する、まさに「地方の通貨」であったと言えるでしょう。


8. 幕末の貨幣制度の混乱

200年以上にわたって日本の経済を支えてきた徳川幕府の三貨制度は、19世紀半ば、黒船来航をきっかけとする「開国」によってその根幹から揺さぶられ、未曾有の大混乱に陥ります。その直接の原因となったのは、日本国内と海外の市場における金と銀の交換比率の大きな差でした。この、いわば制度の欠陥を外国商人に巧みに利用された結果、日本の貴重な金(小判)が海外へ大量に流出するという深刻な事態が引き起こされました。この金の流出を食い止めるために幕府が打った起死回生の策は、しかし結果として庶民の生活を直撃する激しいインフレーションを招き、社会不安を増大させました。この幕末の貨幣をめぐる大混乱は、徳川幕府の経済コントロール能力の限界を白日の下に晒し、その権威を失墜させ、最終的には幕府の崩壊を加速させる重要な一因となったのです。

8.1. 開国の衝撃:金銀比価問題

混乱の引き金となったのは、1858年(安政5年)に幕府がアメリカとの間で締結した日米修好通商条約でした。この条約には、両国の貨幣の交換に関する取り決めが含まれていました。

8.1.1. 条約の規定

条約では、「同種同量の原則」が定められました。これは日本の貨幣と外国の貨幣は、同じ種類の金属(金は金、銀は銀)であればその重さが同じものは等価で交換するという、一見公平に見えるルールでした。

これにより、外国の銀貨(主にメキシコドル銀貨)1枚が、日本の銀貨である**一分銀(いちぶぎん)**3枚と等量交換されることになりました。ここまでは問題ありませんでした。

8.1.2. 内外の金銀比価の差異

しかし致命的だったのは、当時の日本国内と国際市場における金と銀の価値の比率(金銀比価)が大きく異なっていたことです。

  • 国際市場: 当時、世界の市場ではおおよそ金1:銀15の比率で取引されていました。つまり金1グラムの価値は、銀15グラムの価値と等しいと見なされていました。
  • 日本国内: 一方、日本では金が銀に比べて相対的に安く評価されており、その比率は、おおよそ金1:銀5でした。

この3倍もの価値のギャップが、外国商人にとって莫大な利益を生み出す「錬金術」を可能にしたのです。

8.2. 日本の金の大量流出

外国商人が行った取引の仕組みは、実に巧妙でした。

  1. 外国商人は、自国からメキシコドル銀貨を日本に持ち込みます。
  2. 条約の規定に従い、メキシコドル銀貨1枚を日本の一分銀3枚に両替します。
  3. 次にその一分銀を持って日本の両替商に行きます。日本では金1両(小判)= 一分銀4枚でした。つまり一分銀3枚は、4分の3両の金に相当します。(実際にはさらに多くの銀貨を持ち込み、一分銀4枚を金1両に両替しました。)
  4. こうして手に入れた日本の**小判(金)**を、国外(上海など)に持ち出します。
  5. 国際市場では金は銀の15倍の価値がありますから、この小判を売れば、元手となった銀の約3倍の銀貨を手に入れることができました。

この濡れ手で粟の儲け話は瞬く間に広まり、開港地の横浜にはこの「金銀交換」だけを目当てにした外国商人が殺到しました。その結果、わずか数年の間に日本の良質な小判が膨大な量、海外へと流出してしまったのです。一説には10万両とも50万両とも言われる金が流出したとされています。

8.3. 幕府の対応とその失敗:万延の改鋳

この異常な金の流出は、国内の金貨の絶対量を著しく減少させ、日本の経済を麻痺させかねない深刻な事態でした。幕府は、この事態を打開するため、いくつかの対策を講じます。

当初は一分銀の品位を落とすなどしましたが効果は薄く、ついに幕府は金貨そのものに手を加えるという最後の手段に打って出ます。それが1860年(万延元年)に行われた「万延の改鋳(まんえんのかいちゅう)」です。

8.3.1. 万延小判の発行

幕府は、それまでの小判(安政小判)に比べて金の含有量を約3分の1にまで大幅に引き下げた、新しい小判(万延小判)を発行しました。

この極端な金の品質の低下により、日本の小判の名目上の価値(1両)と、それに含まれる金の実質的な価値とのギャップは、国際市場の金銀比価(1:15)に近づきました。これにより外国商人が日本の金を国外に持ち出しても、もはや利益が出なくなり、金の流出はようやく止まりました。

8.3.2. 激しいインフレーションの発生

しかし、この政策は国内経済に致命的な副作用をもたらしました。

市場に流通する小判の実質的な価値が、突然3分の1になったということを意味しますから、物価はこれにスライドする形で急激に高騰しました。つまり激しいインフレーションが発生したのです。

米、油、塩といった生活必需品の価格は、数年のうちに数倍にも跳ね上がりました。これは特に、固定された俸禄(米)で生活していた武士階級や、日々の賃金で暮らす都市の庶民の生活を直撃し、彼らを極度の貧困に陥れました。

8.4. 経済混乱と幕府の権威失墜

この万延の改鋳が引き起こしたハイパーインフレーションは、日本社会に深刻な動揺をもたらしました。

  • 世直し一揆・打ちこわし: 生活苦にあえぐ民衆の不満は、物価高騰の原因と見なされた商人(米問屋など)を襲撃する「打ちこわし」や、社会の変革を求める「世直し一揆」として爆発しました。
  • 幕府への不信: 幕府が自らの都合で貨幣の価値を勝手に変え、民衆の生活を混乱に陥れたという事実は、幕府の統治能力への信頼を決定的に失墜させました。

開国を主導した幕府が、その結果としてもたらされた経済危機に有効な手を打てなかったという現実は、「尊王攘夷(そんのうじょうい)」運動をさらに激化させ、倒幕への気運を一気に高めることになりました。

幕末の貨幣をめぐる大混乱は、近世の日本だけで完結していた孤立した経済システムが、グローバルな資本主義経済の巨大な波に飲み込まれていく、その痛みを伴う最初の洗礼でした。そしてこの混乱を乗り越え、新しい国際基準の貨幣・金融システムを創り出すことが、次に誕生する明治新政府の最重要課題となるのです。


9. 円の誕生と金本位制

明治維新によって徳川幕府が崩壊した後の日本が直面した経済的な現実は、まさに混沌の極みでした。市場には幕府が発行した品位の異なる数々の金銀銭貨、200種類を超える各藩の藩札、そして維新政府自身が戦費調達のために乱発した質の悪い貨幣や太政官札(だじょうかんさつ)といった不換紙幣が、無秩序に入り乱れていました。このような多様で価値の不安定な貨幣が併存する状態では、近代的な統一国家を運営することも、資本主義的な経済を発展させることも到底不可能です。この混乱を収拾し、日本を欧米列強と対等な「文明国」の一員とするために、明治政府は国家の威信をかけた一大プロジェクトに着手します。それが新通貨「円(えん)」の創設と、その価値を国際的な基準である「金(ゴールド)」に結びつける「金本位制(きんほんいせい)」の確立でした。これは単なるお金のデザインの変更ではありません。日本の貨幣制度を、近世の封建的なシステムから、近代的なグローバル資本主義のシステムへと組み込むための、痛みを伴う大改革でした。

9.1. 新通貨「円」の創設

明治政府はまず、この国内の貨幣の混乱を一掃することから始めました。

9.1.1. 新貨条例(1871年)

1871年(明治4年)、政府は「新貨条例(しんかじょうれい)」を制定しました。これは日本の近代貨幣史の出発点となる、極めて重要な法令です。

  • 新単位「円」の導入: これまでの「両・分・朱」といった複雑な単位を廃止し、新しい基本通貨単位として「円(えん)」を採用しました。
  • 十進法の採用: 「円」の補助単位として「銭(せん)」と「厘(りん)」を設け、1円 = 100銭 = 1000厘という、西洋式の合理的な十進法を導入しました。
  • 貨幣の様式の刷新: 新しい硬貨は大阪に設立された最新の西洋式設備を備えた**造幣局(ぞうへいきょく)**で鋳造されました。龍の図案が刻まれた精巧な金貨や銀貨は、近代国家日本の新しい顔としてデザインされました。

9.1.2. 金本位制の宣言

そして新貨条例は、日本の新しい貨幣制度の基本方針として「金本位制」を採用することを高らかに宣言しました。

金本位制とは、

  • 一国の通貨の価値を、一定量の金の重さで定義する。
  • 中央銀行が、その国の紙幣(銀行券)をいつでも金と交換することを保証する(兌換義務)。

という制度です。これによりその国の通貨の価値は、国際的に信用の高い「金」によって裏付けられ安定します。19世紀後半の国際経済はイギリスを中心とするこの金本位制の下で運営されており、それに参加することは一国の通貨が国際的な信用を得て「国際通貨」となるための必須条件でした。

新貨条例では、1円 = 純金1.5グラムと定められました。

9.2. 金本位制確立への、長い道のり

しかし、金本位制を宣言することと、それを実際に運営することは全く別の話でした。金本位制を維持するためには、政府(中央銀行)がいつでも紙幣を金に交換できるだけの十分な正貨(金)準備を保有している必要がありました。

9.2.1. 西南戦争とインフレーション

しかし発足当初の明治政府には、そのような余裕はありませんでした。特に1877年の西南戦争の莫大な戦費を賄うため、政府は金と交換できない不換紙幣を大量に発行せざるを得ませんでした。

その結果、市場には紙幣が溢れかえりその価値は暴落し、物価が急騰する激しいインフレーションが発生しました。このままでは金本位制どころか、国家財政そのものが破綻しかねない危機的な状況でした。

9.2.2. 松方財政によるデフレ政策

この危機を救ったのが、1881年に大蔵卿に就任した**松方正義(まつかたまさよし)**でした。彼は「松方財政」と呼ばれる、極めて強力な緊縮財政・デフレーション政策を断行します。

  • 増税と歳出の削減で政府の財政を黒字化する。
  • その黒字で市場に出回っている不換紙幣を買い入れて償却し、通貨の量を減らす
  • 同時に**正貨(銀)**を蓄積する。

この政策は米価の暴落を招き、多くの農民を没落させるなど社会に大きな痛みをもたらしました(松方デフレ)。しかし松方はこの荒療治を断行し、数年をかけて紙幣の価値を安定させることに成功しました。

9.3. 日清戦争の賠償金と、金本位制の完成

松方財政によって日本の財政と通貨制度は安定を取り戻しました。そして金本位制を確立するための最後の、そして最大のチャンスが思わぬ形でもたらされます。

それが1894-95年の日清戦争の勝利です。下関条約によって日本は、清国から**3億6000万円(2億両+遼東半島還付報償金3000万両)**という莫大な賠償金を獲得しました。これは当時の日本の国家予算の4年分以上に相当する巨額でした。

そして重要なのは、この賠償金が金本位制の国際基軸通貨であったイギリスのポンド金貨で支払われたことです。

松方正義は、この巨額のポンド金貨をそのまま金本位制を確立するための正貨準備に充当しました。そして1897年(明治30年)、ついに「貨幣法」を制定し、日本は名実ともに金本位制国家となったのです。(この時、円の金の価値は以前の半分の0.75gに切り下げられました。)

9.4. 歴史的意義

金本位制の確立は、日本の近代経済史における画期的な出来事でした。

それは、日本の通貨「円」が国際的な信用を獲得し、欧米列強と対等な貿易・金融取引を行うための土台が築かれたことを意味しました。これにより海外からの資本の導入も円滑になり、日本の産業革命は金融面から力強く後押しされることになったのです。

円の誕生と金本位制の確立は、日本が近世の閉ざされた経済から脱却し、グローバルな資本主義世界の主要なプレイヤーとしてデビューしたことを高らかに宣言するファンファーレだったのです。


10. 日本銀行と近代金融システム

明治政府が新通貨「円」を創設し、金本位制という国際標準の貨幣制度を目指したとしても、それだけでは近代的な金融システムは完成しません。経済の血液であるお金を安定的かつ効率的に国内に循環させるための、心臓ともいうべき中央銀行と、血管網ともいうべき民間銀行のネットワークが不可欠でした。江戸時代の両替商が果たしていた高度な金融機能は、あくまで個々の商人の信用に依存する脆弱なものでした。これに代わり、国家がその信用の全てをかけて通貨の価値を安定させ、経済全体の円滑な発展を金融面から支える新しい仕組みを創り出すこと。その壮大な制度設計の中心的な役割を担ったのが、1882年(明治15年)に設立された「日本銀行(にっぽんぎんこう)」でした。日本銀行の誕生と、それを頂点とする近代的な銀行制度の確立は、日本の産業革命を完成させ、日本を経済大国へと押し上げるための、最後の、そして最も重要なピースだったのです。

10.1. 中央銀行設立の必要性:国立銀行の混乱

明治初期の銀行制度は、試行錯誤の連続でした。

10.1.1. 国立銀行条例(1872年)

政府は当初、アメリカのナショナル・バンク・システムをモデルに、1872年、「国立銀行条例」を制定しました。

これは「国立」という名前が付いていますが、実際には民間の有力商人や華族などが出資して設立する民間銀行でした。そしてこれらの国立銀行には、それぞれが独自の銀行券(紙幣)を発行する権利が認められていました。

政府はこれらの銀行に紙幣発行を担わせることで、通貨の供給を増やし産業の育成(殖産興業)を図ろうとしました。

10.1.2. 国立銀行の乱立とインフレーション

しかし、このシステムは深刻な欠陥を抱えていました。西南戦争の戦費調達のため、政府が国立銀行の兌換義務(紙幣と正貨との交換義務)を免除したことで、各国立銀行は何の制約もなく不換紙幣を乱発するようになりました。

その結果、150を超える国立銀行がそれぞれ異なるデザインの紙幣を勝手に発行し、市場には価値の裏付けのない紙幣が溢れかえり、激しいインフレーションを引き起こしました。通貨制度は再び、江戸時代の藩札乱立時代のような大混乱に陥ってしまったのです。

10.2. 日本銀行の設立(1882年)

この通貨・金融の大混乱を収拾し、強力なリーダーシップで金融システムを安定させる中央銀行の必要性を痛感したのが、大蔵卿・松方正義でした。

松方は、ヨーロッパの中央銀行制度(特にベルギーの国立銀行)をモデルに、1882年、「日本銀行条例」を制定し、**日本銀行(日銀)**を設立しました。

10.2.1. 日本銀行の三つの役割

新しく誕生した日本銀行には、近代的な中央銀行として三つの極めて重要な役割が与えられました。

  1. 発券銀行(唯一の): 日本で唯一銀行券(日本銀行券)を発行できる銀行。1885年に最初の日本銀行券(大黒札)が発行され、その後政府は国立銀行が発行した紙幣を全て回収・償却し、紙幣の発行権を日銀に一元化しました。これにより通貨の乱発が防がれ、その価値が安定しました。
  2. 政府の銀行: 国庫金(政府の税収など)の出納を取り扱い、政府の資金を管理する。また国債の発行・管理も行う。
  3. 銀行の銀行: 一般の民間銀行に対して資金を貸し出したり、預金を受け入れたりする。金融システム全体が危機に陥った際には、「最後の貸し手」として資金を供給し、金融システムの崩壊を防ぐ重要な役割を担います。

10.2.2. 銀本位制の確立へ

日本銀行は設立後、直ちに松方財政の中心的な実行機関として不換紙幣の整理に取り組みました。そして1886年には紙幣と銀貨との兌換を開始し、事実上の銀本位制を確立しました。これにより日本の通貨はようやく安定を取り戻し、金本位制への移行の準備が整ったのです。

10.3. 近代銀行システムの整備

日本銀行という強力な司令塔の誕生と並行して、その手足となって経済の隅々にまで資金を供給する、様々な種類の民間銀行も整備されていきました。

  • 普通銀行: 国立銀行から転換した都市銀行(三井銀行、三菱銀行など)や地方銀行。預金、貸付、為替といった一般的な商業金融を担いました。
  • 貯蓄銀行: 小口の預金を集めることを目的とした銀行。庶民の貯蓄を奨励し、それを産業資金へと還流させる役割を果たしました。
  • 特殊銀行: 政府が特定の政策目的のために設立した特殊な銀行。
    • 横浜正金銀行(よこはましょうきんぎんこう): 貿易金融を専門に扱う。日本の輸出入を金融面から支えました。
    • 日本勧業銀行(にっぽんかんぎょうぎんこう): 不動産を担保とする長期の農業金融を担う。
    • 日本興業銀行(にっぽんこうぎょうぎんこう): 工業分野への長期的な設備投資資金を供給する。

10.4. 近代金融システムの完成とその意義

こうして19世紀の末までには、中央銀行である日本銀行を頂点とし、その下に多様な民間銀行が階層的に存在する近代的な金融システムが日本に確立されました。

このシステムの完成がもたらした意義は計り知れません。

それは、日本の産業革命を金融面から強力に支えたことです。繊維産業や製鉄、造船といった新しい産業が大規模な設備投資を行うためには、銀行からの安定した長期的な資金供給が不可欠でした。この金融システムなくして、日本の急速な工業化はあり得ませんでした。

また、それは財閥の形成を促したことでもあります。三井、三菱、住友、安田といった巨大財閥は、それぞれが自らのグループの中核として銀行を所有し(三井銀行、三菱銀行など)、その強大な金融力を武器に様々な産業を支配する巨大なコンツェルンへと成長していきました。

日本銀行と近代銀行システムの確立は、日本の資本主義を本格的な離陸のステージへと導く決定的な一歩でした。それは、江戸時代の両替商が築いた民間の豊かな金融の伝統の上に、国家が強力なリーダーシップで近代的な制度を接ぎ木した、壮大なプロジェクトの完成を意味していたのです。


Module 6:貨幣と金融の歴史の総括:富の源泉、国家の礎

本モジュールを通じて、我々は古代の和同開- 輝きから現代のデジタル決済の利便性まで、日本の「貨幣と金融」が社会と共にいかにその姿を変え続けてきたかを目撃してきました。その歴史は単なるお金の形の変遷史ではありません。それは、「価値」とは何か、「信用」とは何かという根源的な問いを、各時代がその経済と権力構造の中でいかに格闘しながら答えを出してきたかの記録でした。

古代律令国家は、国家の権威そのものが貨幣の価値の源泉であると信じ、理想を追い求めました。しかし民衆は、それよりもモノとしての価値が確かな米や布、そして質の良い異国の宋銭を選び取りました。ここに国家の意思と市場の合理性との最初の緊張関係が生まれます。

中世社会は、この市場の力に身を委ね、多様な貨幣が流通する中で土倉・酒屋といった民間の金融業者が独自の「信用」を創造しました。しかしその高利は徳政一揆という社会の激しい反発を招き、信用システムの危うさも露呈しました。

近世の徳川幕府は、金・銀・銭という三貨制度によってこの中世の多様性を国家の管理下に置きつつも、その間の為替の変動を市場に委ねるという絶妙なバランスの上に安定を築きました。そしてその複雑なシステムを両替商という民間のプロフェッショナルが見事に運営しました。

しかし、その日本だけで完結した精緻なシステムも、開国というグローバル経済の巨大な波の前には脆くも崩れ去ります。幕末の貨幣をめぐる大混乱は、もはや国家が国際的な信用の基準(金本位制)と無縁ではいられないことを痛感させました。

明治政府は、この教訓から**「円」**という新しい国民的通貨を創出し、日本銀行という強力な中央集権的な金融システムを築き上げ、日本の産業革命と資本主義化を軌道に乗せました。

このように、貨幣と金融の歴史とは富の源泉が土地(米)から金属(金銀)へ、そして国家や銀行が保証する「信用」そのものへと移行していくプロセスでした。それぞれの時代の統治者がこの富の源泉をいかに掌握し、それを国家の礎としてきたか。このダイナミックな権力と経済の相互作用を理解することこそ、歴史をその最も深層の部分から読み解くための鍵となるのです。

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