【基礎 日本史(テーマ史・文化史)】Module 9:文学史の流れ

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本モジュールの目的と構成

言葉は、単なるコミュニケーションの道具ではありません。それは時代の精神を映し出す鏡であり、人々の喜びや悲しみ、そして魂の叫びを後世に伝えるタイムカプセルでもあります。本モジュールでは、古代の人々が素朴な感情を歌い上げた『万葉集』から、現代の作家がグローバルな社会の孤独と向き合う小説に至るまで、日本文学が辿ってきた豊かで彩り豊かな歴史の流れを辿ります。

これは、単に作品名と作者名を暗記する無味乾燥な学習ではありません。それぞれの時代がどのような社会状況にあり、人々がどのような価値観の中で生きていたのか。そしてその時代の空気が、いかにして文学という表現形式を生み出し、また文学が逆に人々の心や社会にどのような影響を与えていったのか。そのダイナミックな相互作用を読み解く知的探求です。

このモジュールを学び終える時、あなたは、古典や近代文学の一節一節の背後に、それを生み出した時代の息吹と人々の体温を感じ取ることができるようになるでしょう。文学史を学ぶことは、歴史を最も人間的な側面から理解するための最高の近道なのです。

本モジュールは、以下の10のステップで構成されています。

  1. 記紀・万葉集: 国家の黎明期にその成り立ちを物語り、またあらゆる階層の人々の素朴な心を歌い上げた、日本文学の原点を探ります。
  2. 平安朝の和歌と物語・日記・随筆: 国風文化の中でひらがなが生み出した、優美で洗練された貴族たちの文学世界。「もののあはれ」の美意識に迫ります。
  3. 中世の軍記物語と説話文学: 武士の台頭と戦乱の世を背景に、盛者必衰の無常観を描いた『平家物語』や、仏教的な教訓を語る説話文学の世界を分析します。
  4. 隠者文学(方丈記、徒然草): 乱世を厭い俗世間から離れた知識人たちが、その静かな思索の中から紡ぎ出した無常観と独自の美意識を考察します。
  5. 能・狂言と連歌: 武家政権の庇護の下、禅の精神と結びついて大成された中世の舞台芸術と、集団創作の詩歌の精神性を解明します。
  6. 近世の町人文学: 泰平の世を謳歌する都市の町人たちが生み出した活気あふれる文学。井原西鶴、松尾芭蕉、近松門左衛門の三大巨匠の作品を検証します。
  7. 近代文学の成立(言文一致): 西洋との出会いの中で、日本の書き言葉を話し言葉に近づけようとした苦闘のプロセス。近代的な「小説」の誕生の瞬間を目撃します。
  8. 明治の文学(写実主義、ロマン主義、自然主義): 文明開化の熱気の中、西洋の文芸思潮を猛スピードで吸収し、自己の内面を見つめ始めた明治の作家たちの知的格闘を追います。
  9. 大正の文学(白樺派、新感覚派): 大正デモクラシーの自由な空気の下、個性と自我の表現を追求した人道主義的な文学と、都市のモダンな感覚を捉えようとした前衛的な文学を分析します。
  10. 昭和の文学(プロレタリア文学から現代まで): 戦争と平和、破壊と復興。激動の昭和史と並走し、社会の矛盾や人間の実存を問い続けた文学の軌跡を考察します。

この壮大な言葉の歴史を通じて、日本人の心の変遷を感じ取りましょう。


目次

1. 記紀・万葉集

日本文学の長大な歴史の源流を遡る時、我々は三つの巨大な金字塔に行き着きます。すなわち、『古事記』『日本書紀』(二つを合わせて「記紀(きき)」と総称します)、そして『万葉集(まんようしゅう)』です。7世紀末から8世紀にかけて律令国家がその体制を確立していく黎明期に編纂されたこれらの書物は、日本という国家のアイデンティティと文学の原風景を形作った全ての出発点でした。記紀が天皇による支配の正統性を神々の物語から説き起こす国家的なプロジェクトであったのに対し、『万葉集』は天皇から名もなき庶民に至るまで、あらゆる階層の人々の喜怒哀楽をありのままに歌い上げた奇跡的な歌集でした。この二つの異なるベクトルを持つ古代の言葉の世界を探求することは、日本文学のDNAを解読する旅の始まりです。

1.1. 記紀:国家の物語の創造

律令国家を建設する上で、領土や法制度を整えることと同じくらい重要だったのが、「我々とは何者か」という問いに答える国家的な神話・歴史を創造することでした。記紀の編纂は、まさにそのための国家的な大事業でした。

1.1.1. 『古事記』(712年)

  • 編纂者: **太安万侶(おおのやすまろ)**が、**稗田阿礼(ひえだのあれ)**が記憶していた天皇家の神話や伝承を書き記したとされます。
  • 目的と内容: 天地開闢(てんちかいびゃく)から始まり、天照大神(あまてらすおおみかみ)の孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が地上に降臨し(天孫降臨)、その子孫である神武天皇が日本を建国するという神話を通じて、天皇による統治の神聖性と正統性を国内に示すことを最大の目的としました。物語としての面白さを重視した構成になっています。
  • 文体: 日本語の語り口を活かすため、漢字の音と訓を組み合わせた変則的な漢文体で書かれており、その解読は極めて困難でした。

1.1.2. 『日本書紀』(720年)

  • 編纂者: **舎人親王(とねりしんのう)**らが中心となって編纂しました。
  • 目的と内容: 神代から持統天皇までの歴史を扱っていますが、その最大の目的は中国の正史(王朝の公式な歴史書)にならい、日本の歴史を対外的に、特に中国(唐)に対して誇示することにありました。そのため客観的な編年体(年代順)の形式をとり、様々な文献を引用するなど歴史書としての体裁を整えています。
  • 文体: 純粋な漢文体で書かれています。

記紀は、その目的と性格は異なりますが、共に天皇を中心とする国家のイデオロギーを確立するための書物でした。そしてその中に挿入された多くの歌謡(記紀歌謡)は物語性を持ち、後の和歌の源流の一つとなりました。

1.2. 『万葉集』:古代人の心の百科事典

記紀とほぼ同じ時代に編纂されながら、全く異なる性格を持つのが日本最古の歌集である『万葉集』です。

1.2.1. 編纂と構成

全20巻、約4500首の歌が収められており、7世紀後半から8世紀半ばまでの約100年間の作品が中心です。最終的な編纂者には、**大伴家持(おおとものやかもち)**が深く関わったと考えられています。

歌は、内容によって、

  • 相聞歌(そうもんか): 男女間の恋愛を歌ったもの。
  • 挽歌(ばんか): 人の死を悼む歌。
  • 雑歌(ぞうか): 上記以外の公的な行事や旅、自然などを歌ったもの。

の三つに分類されます。

1.2.2. 多様な作者層

『万葉集』の最大の特徴は、その作者層の圧倒的な広さです。

  • 天皇や貴族といった支配階級の歌人(柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)額田王(ぬかたのおおきみ)山上憶良(やまのうえのおくら)大伴家持など)。
  • 都を遠く離れた東国の農民や、九州の防衛に赴く防人(さきもり)
  • 名前も伝わらない「よみ人しらず」の庶民たち。

このように、あらゆる身分の人々の歌が分け隔てなく収められている歌集は、世界的に見ても極めて稀有な存在です。

1.2.3. ますらをぶり:素朴で力強い歌風

『万葉集』の歌の特徴は、技巧に走らず自らの感情をストレートに表現する、素朴で力強い作風にあります。この歌風は、後の国学者賀茂真淵によって「ますらをぶり(男性的で雄大な気風)」と名付けられました。

また表記には、漢字の意味とは関係なくその音だけを借りて日本語を表記する「万葉仮名(まんようがana)」が用いられました。この工夫が、後の平仮名や片仮名の発明へと繋がっていきます。

記紀が国家の公的な「建前」の文学であったとすれば、『万葉集』はそこに生きた古代の人々の偽らざる「本音」の文学でした。この二つの源流から、日本の文学はその長大な歴史を歩み始めるのです。


2. 平安朝の和歌と物語・日記・随筆

9世紀末、894年に遣唐使が廃止されると、日本の文化は大陸からの直接的な影響を離れ、日本の風土と感性に根ざした独自の洗練された文化(国風文化(こくふうぶんか))を花開かせます。この文化的な大変革の中心となったのが、宮廷に仕える公家貴族たちでした。そしてこの新しい文化を表現するための画期的な道具が、仮名文字(かなもじ)の発明です。漢字を基に日本語の音を表すこのしなやかな文字の登場によって、特に政治の表舞台から隔てられていた女性たちが、その繊細な感受性と内面を自由に表現する道が開かれました。その結果、平安時代の宮廷では和歌、物語、日記、随筆といった多様なジャンルの仮名文学が次々と生み出され、日本文学史における最初の黄金時代を築き上げたのです。

2.1. 和歌の復興と『古今和歌集』

奈良時代の『万葉集』以降、一時は漢詩文にその地位を奪われていた日本の伝統的な詩歌である**和歌(やまとうた)**は、平安時代に入り劇的な復興を遂げます。

2.1.1. 『古今和歌集』(905年頃)

その象徴となったのが、醍醐天皇の勅命によって編纂された日本で最初の勅撰和歌集、**『古今和歌集(こきんわかしゅう)』です。編者には紀貫之(きのつらゆき)**らがあたりました。

  • たをやめぶり: 『万葉集』の素朴で力強い「ますらをぶり」の歌風に対し、『古今和歌集』の歌は知性的で技巧的、そして優雅で繊細な歌風を特徴とします。これは「たをやめぶり(女性的で優美な気風)」と評されます。
  • 仮名序(かなじょ): 紀貫之が仮名文字で書いた序文は、日本で最初の本格的な和歌の評論として有名です。「やまとうたは、人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける」という冒頭の一節は、和歌の本質を見事に言い表しています。

2.2. 物語文学の誕生と発展

仮名文字の登場は、散文の世界にも革命をもたらしました。それまで漢文で書かれていた伝説や説話が、日本語の話し言葉に近い表現で自由に語られる「物語」という新しいジャンルが生まれたのです。

2.2.1. 物語の黎明期

  • 『竹取物語』: 現存する最古の物語文学。「かぐや姫」の物語として知られる、空想的な作り物語。
  • 『伊勢物語』: 在原業平(ありわらのなりひら)とされる主人公の一生を、和歌を中心に描いた「歌物語」。

2.2.2. 『源氏物語』:日本文学の最高傑作

そして11世紀初頭、この物語文学の流れは**紫式部(むらさきしきぶ)**によって書かれた『源氏物語(げんじものがたり)』においてその頂点を迎えます。

  • 内容: 主人公・光源氏の華やかな恋愛遍歴と栄華、そしてその苦悩を通じて、平安貴族の世界の光と影を描き出した、全54帖からなる長大な物語。
  • 文学的価値: その緻密な構成、登場人物の深い心理描写は単なる恋愛小説の枠を超えており、しばしば「世界最古の長編小説」と評されます。
  • もののあはれ: 物語全体を貫いているのが、「もののあはれ」という美意識です。人生の喜びや悲しみ、恋愛のときめき、そして避けられない無常。そうした人生の様々な局面で心に深くしみじみと感じられる情趣を描き出すこと。これこそが『源氏物語』の文学的な核心でした。

2.3. 女流日記文学と随筆の誕生

仮名文学のもう一つの大きな成果が、宮廷に仕える女性たち(女房)によって書かれた日記文学随筆です。彼女たちは自らの日常の体験や内面の葛藤を赤裸々に綴り、文学へと昇華させました。

2.3.1. 日記文学

  • 『蜻蛉日記(かげろうにっき)』: 藤原道綱母(ふじわらのみちつなのはは)が、夫・兼家との不満に満ちた結婚生活を描いた自伝的な作品。
  • 『和泉式部日記(いずみしきぶにっき)』: 情熱的な歌人、和泉式部が帥宮(そちのみや)との恋愛を和歌を交えて綴った物語風の日記。
  • 『更級日記(さらしなにっき)』: 菅原孝標女(すがわらのたかすえのむすめ)が、少女時代の『源氏物語』への憧れから始まり、失意の晩年に至るまでの長い人生を振り返った回想録。

2.3.2. 随筆:『枕草子』

『源氏物語』と並び称される平安女流文学の双璧が、**清少納言(せいしょうなごん)**によって書かれた随筆『枕草子(まくらのそうし)』です。

  • 内容: 「春はあけぼの」で始まる自然描写、「うつくしきもの(かわいらしいもの)」といった物づくしの類聚的章段や、作者が仕えた中宮定子(ちゅうぐうていし)を中心とする宮廷生活の思い出を綴った日記的章段などから構成されます。
  • をかし: 『源氏物語』の「もののあはれ」に対し、『枕草子』の美意識を特徴づけるのが「をかし」という言葉です。これは知的で明るい機知に富んだ観察眼によって、日常の中に発見される趣や面白さを意味します。

紫式部と清少納言。この二人の天才的な女性作家が残した作品は、その後の日本の文学と美意識のあり方を決定づけ、千年後の我々の心をも捉えて離さない普遍的な輝きを放っているのです。


3. 中世の軍記物語と説話文学

平安時代の末期、優雅な貴族の時代は終わりを告げ、日本は武士たちが覇権を争う動乱の時代へと突入します。この激しい社会変動は、文学の世界にも大きな変化をもたらしました。宮廷の華やかな恋愛や洗練された美意識に代わって文学の中心的なテーマとなったのは、戦乱の現実とその中で生きそして死んでいく武士たちの姿でした。この時代の要請に応えて生まれたのが「軍記物語(ぐんきものがたり)」です。そしてもう一つ、この混乱の時代を背景に人々の心を捉えたのが、仏教的な教えや庶民の生活の悲喜こもごもを短いエピソードで語り聞かせる「説話文学(せつわぶんがく)」でした。これらの中世文学は、共に仏教の**無常観(むじょうかん)**をその基調とし、戦乱の世を生きる人々のリアルな息遣いを我々に伝えてくれます。

3.1. 軍記物語:武士の時代の叙事詩

軍記物語は、歴史上の大規模な戦乱を題材とし、そこで活躍した武士たちの英雄的な行為や悲劇的な運命をドラマティックに描き出した文学です。

3.1.1. 軍記物語の先駆け

その先駆けとなったのが、平安時代中期に起こった平将門(たいらのまさかど)の乱を題材とした**『将門記(しょうもんき)』や、東北地方での戦乱を描いた『陸奥話記(むつわき)**』です。これらはまだ漢文体で書かれていましたが、武士の戦いを生き生きと描写する軍記物語の原型となりました。

3.1.2. 『平家物語』:無常観の文学

そして、この軍記物語というジャンルを文学的な最高傑作の高みへと引き上げたのが、鎌倉時代に成立した『平家物語(へいけものがたり)』です。

  • 内容: 平安末期の源氏と平家の壮絶な争乱(源平の合戦)を題材とし、栄華を極めた平家一門がやがて没落し滅亡していく様を描き出しています。
  • 和漢混淆文(わかんこんこうぶん): 漢文の格調高さと和文の柔らかさを融合させた、力強くリズミカルな文体が特徴です。
  • 無常観: 物語全体を貫いているのは、「盛者必衰(じょうしゃひっすい)の理(ことわり)」という仏教的な無常観です。「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」という有名な冒頭の一節は、この作品のテーマを象徴しています。栄華を誇った者も必ず滅びるという厳しい現実を描きながら、同時に滅びゆく者への深い共感と鎮魂の祈りが込められています。
  • 琵琶法師(びわほうし)による語り: 『平家物語』は当初から黙読される書物としてだけでなく、琵琶法師と呼ばれる盲目の法師たちが、琵琶の伴奏に合わせて抑揚豊かに**語り聞かせる「語り物」**として全国に広まりました。これにより『平家物語』は、文字の読めない庶民にまで親しまれる国民的な物語となったのです。

『平家物語』以降も、『保元物語』『平治物語』や南北朝の動乱を描いた『太平記(たいへいき)』など、多くの軍記物語が作られました。

3.2. 説話文学:庶民の生活と教訓の宝庫

説話とは、仏教的な教訓や奇跡譚、あるいは世俗的な面白い話、怖い話、滑稽な話など、様々なジャンルの短いエピソードのことです。これらの説話を集めて編纂したものが「説話文学」です。

3.2.1. 説話集の成立

  • 『今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)』: 平安時代末期に成立した日本最大の説話集。インド、中国、そして日本の三国にわたる1000以上の説話が収められています。「今は昔」で始まる独特の文体が特徴で、貴族から盗賊まであらゆる階層の人々が登場し、中世の社会の様相をリアルに伝えています。
  • 『宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)』: 鎌倉時代初期に成立。『今昔物語集』に漏れた説話を拾い集めたという意味の名前を持つ説話集。「わらしべ長者」など、後世のおとぎ話の原型となった話も多く含まれています。
  • 『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』: 橘成季(たちばなのなりすえ)が編纂。宮廷の故事や和歌、音楽に関する説話が多いのが特徴です。
  • 『沙石集(しゃせきしゅう)』: 僧侶・**無住(むじゅう)**が仏教の教えを庶民に分かりやすく説くために編纂した仏教説話集。ユーモアあふれる話を通じて、仏法の功徳を語っています。

3.2.2. 説話文学の意義

説話文学は、貴族や武士だけでなく名もなき庶民の生活や感情を生き生きと描き出している点で、極めて貴重な文学遺産です。そこには戦乱と貧困に苦しみながらも、したたかに生きる中世の人々のエネルギーが満ち溢れています。

また説話は、仏教の教えを具体的な物語の形で民衆に伝える布教のためのメディアとして、非常に重要な役割を果たしました。軍記物語と説話文学。この二つの文学ジャンルは、中世という時代の光と影、そしてその中で生きた人々の多様な姿を映し出す合わせ鏡であったと言えるでしょう。


4. 隠者文学(方丈記、徒然草)

中世の日本は、源平の合戦に始まり南北朝の動乱に至るまで、絶え間ない戦乱と社会の激変に見舞われた時代でした。また地震、火災、飢饉、疫病といった天変地異も容赦なく人々を襲いました。このような先の見えない不安な世の中に絶望し、あるいは虚しさを感じ、官職や名誉といった世俗的な価値から背を向け、俗世を離れて(出家)静かな草庵(そうあん)に暮らすことを選ぶ知識人たちが現れました。彼らを「隠者(いんじゃ)」と呼びます。この隠者たちが自らの孤独な思索の中から生と死、そして人生のはかなさ(無常)について深く見つめ、それを類い稀な美しい文章で書き記した作品群が「隠者文学(いんじゃぶんがく)」です。その代表作である鴨長明(かものちょうめい)の『方丈記(ほうじょうき)』と吉田兼好(よしだけんこう)(兼好法師)の『徒然草(つれづれぐさ)』は、中世人の精神的な葛藤とそこから生まれた独自の美意識を我々に伝え、時代を超えて多くの日本人の心を捉え続けています。

4.1. 鴨長明と『方丈記』

鴨長明は京都の下鴨神社の神官の家系に生まれましたが、望んでいた神職に就くことができず、失意の内に meditative し都を離れました。彼は日野山の奥に一丈(約3メートル)四方の小さな庵(いおり)を結び、そこでこの作品を書き上げました。

4.1.1. 「ゆく河の流れは絶えずして」:無常観の表明

『方丈記』は、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と、またかくのごとし。」という、あまりにも有名な一節で始まります。

この文章は仏教的な無常観、すなわち「この世のあらゆるものは常に移ろい変化し、決して同じ状態には留まらない」という真理を、流れる川と水面の泡にたとえて見事に表現しています。

4.1.2. 災厄の記録と世のはかなさ

長明は次に、自らが都で見聞した五つの大災厄(安元の大火、治承の辻風、福原遷都、養和の飢饉、元暦の大地震)の様相を克明に記録します。多くの人々がなすすべもなく死んでいく悲惨な光景を通じて、彼は人間の営みのはかなさと世俗的な富や地位の無意味さを痛感します。

4.1.3. 方丈の庵と心の安らぎ

そして彼は、そのような苦しみに満ちた俗世を捨て、自らが暮らす方丈の庵の質素で自由な生活を描き出します。必要なものはわずかであり、好きな時に琵琶を弾き和歌を詠み、そして仏道修行に励む。この小さな庵での暮らしこそ真の心の安らぎを与えてくれると、彼は語ります。

しかし物語の最後で長明は、そのような質素な庵での暮らしに愛着を感じている自分自身に気づき、「これもまた執着ではないか」と自問します。このどこまでも自己を客観視しようとする知性的な苦悩が、『方丈記』を単なる隠遁者の記録から普遍的な人間探求の書へと高めています。

4.2. 吉田兼好と『徒然草』

『方丈記』から約100年後、鎌倉時代の末期から南北朝の動乱期にかけて生きたとされるのが吉田兼好です。彼もまた朝廷に仕える武士でしたが、やがて出家し隠者として生涯を送りました。

『徒然草』は、『枕草子』と同じ「随筆(ずいひつ)」というジャンルに属し、兼好が心に浮かんだ様々な事柄を、長短様々な243の断片的な章段()として書き綴ったものです。

4.2.1. 「つれづれなるままに」:無常と美意識

『徒然草』の序段は、「つれづれなるままに、日暮らし、硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。」という文章で始まります。

この作品全体を貫いているのも、やはり仏教的な無常観です。しかし兼好の無常観は、長明のそれとは少し趣が異なります。長明が世のはかなさを嘆きの対象として捉えたのに対し、兼好は**「移ろい、滅びゆくもの」の中にこそ真の美しさがある**と捉え、それを積極的に肯定しようとします。

  • 「花は盛りに、月は隈(くま)なきをのみ見るものかは」(桜は満開の時だけ、月は曇りのない満月だけを見るのが良いというものではない)。
  • 「家居(いえい)のつきづきしく、あらまほしきこそ、仮の宿りとは思ひながら、興あるものなれ」(家のたたずまいが調和がとれて理想的であってほしいと思うのは、この世が仮の宿だと思いながらも興味深いことだ)。

4.2.2. 多彩な内容と鋭い人間観察

『徒然草』の魅力は、そのテーマの多様性にあります。宮廷の故事や有職故実(ゆうそくこじつ)、仏道の話から友人との世間話、そして日常生活での失敗談まで、古今東西のあらゆる事柄が兼好の鋭い観察眼と知的な批評精神によって語られます。

彼の文章は簡潔で示唆に富み、後世の人々に多くの人生の知恵と美的な感性を与え続けました。

4.3. 隠者文学の遺産

鴨長明と吉田兼好。二人の隠者が残した作品は、乱世という極限状況の中で人間がいかに生きるべきかという普遍的な問いに対する、彼らなりの真摯な答えでした。彼らが見出した**「無常」の中に美を見出す**という独特の美意識は、その後の日本の芸術や文化、特に茶道や俳諧の「わび・さび」の精神へと深く受け継がれていくことになります。


5. 能・狂言と連歌

室町時代、足利将軍家を中心とする武家社会は、その権威を示す新しい文化を求めました。その要請に応える形でこの時代に大成されたのが、仮面劇である「能(のう)」とその合間に演じられた喜劇「狂言(きょうげん)」、そして集団で詩を創作する「連歌(れんが)」でした。これらの芸能や文芸は、いずれも公家貴族の伝統的な文化と民衆の間で育まれてきた素朴なエネルギーを融合させ、さらに当時の武士階級が深く帰依した禅宗の精神性をその美的な基盤とすることで、極めて高度で洗練された芸術へと昇華されました。特に能が追求した「幽玄(ゆうげん)」という深遠な美の世界は、中世の日本人が到達した美意識の頂点の一つと言えるでしょう。

5.1. 能と狂言:猿楽の大成

能と狂言は、元々**猿楽(さるがく)**と呼ばれた民間の雑芸から発展したものです。それは物真似や曲芸、滑稽な寸劇などを含む庶民の娯楽でした。この猿楽を天下の将軍が鑑賞するにふさわしい高尚な歌舞劇へと大成させたのが、**観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)**の親子でした。

5.1.1. 観阿弥と世阿弥

観阿弥は、大和(奈良県)を拠点とする猿楽一座の役者でした。彼は従来の物真似中心の演技に**曲舞(くせまい)**というリズミカルな歌と舞の要素を取り入れ、物語性の高い演劇を創り出しました。

1374年、京都で彼の舞台を見た三代将軍・足利義満は、観阿弥とその息子で美少年であった世阿弥の才能に深く魅了され、彼らを自らの庇護下に置きました。

父の芸を受け継いだ世阿弥は、義満の絶大な支援と高い文化的教養の下で能をさらに洗練させ、その理論と美学を確立しました。彼が著した『風姿花伝(ふうしかでん)』(花伝書)は、能の理論書としてだけでなく普遍的な芸術論として今日でも高く評価されています。

5.1.2. 能の特徴と「幽玄」

世阿弥が大成させた能は、以下のような特徴を持っています。

  • 題材: 『伊勢物語』や『平家物語』といった古典文学や伝説、歴史上の人物を題材とする。
  • 構成: 主人公であるシテが亡霊や神、狂女といった超現実的な存在として登場し、旅の僧であるワキに自らの過去の物語を語るという夢幻能(むげんのう)の形式が多い。
  • 様式: **能面(のうめん)**と呼ばれる精巧な仮面を用い、極度に様式化された舞(まい)と謡(うたい)によって物語が進行する。
  • 幽玄(ゆうげん): 世阿弥が能の最高の美として掲げたのが「幽玄」という理念です。これは言葉では直接表現できない奥深く静かで優雅な美のあり方を指します。それは華やかな美しさの奥に隠されたほのかな余情や気品であり、観客の想像力に働きかける象徴的な美の世界です。

5.1.3. 狂言の役割

能が悲劇的で超現実的な世界を描くのに対し、狂言は能の演目の合間にアイ(間狂言)として演じられる対話を中心とした喜劇です。

  • 内容: 大名や僧侶といった権力者の愚かさや夫婦喧嘩、あるいは太郎冠者(たろうかじゃ)という召使いの失敗談など、中世の庶民の日常生活をリアルに、そして風刺的に描きます。
  • 特徴: 仮面は基本的には用いず、当時の話し言葉(口語)で演じられます。その明るい笑いは、能の緊張感を和らげる役割を果たしました。

能と狂言は、悲劇と喜劇、様式美と写実性、超現実と日常という対照的な二つの世界が一体となって、中世の人間の全体像を描き出す総合芸術でした。

5.2. 連歌:集団で紡ぐ詩の世界

和歌が一人の作者によって完結する詩であるのに対し、連歌は複数の参加者が集まり五・七・五の長句と七・七の短句を交互に詠み継いでいき、一つの長い詩(百韻など)を共同で創作する文芸です。

5.2.1. 連歌の発展

連歌は平安時代からその萌芽が見られましたが、特に南北朝から室町時代にかけて、公家、武士、僧侶、そして有力な町衆たちの間で大流行しました。

それは単なる文芸活動ではなく、人々が一堂に会しコミュニケーションを図るための重要な社交の場でもありました。

5.2.2. 正風連歌と宗祇(そうぎ)

当初は自由な言葉遊びとしての性格が強かった連歌ですが、次第にそのルール(式目(しきもく))が整備され芸術性を高めていきました。

二条良基(にじょうよしもと)がその芸術論を確立し、室町時代中期には**宗祇(そうぎ)**という天才的な連歌師が現れ、連歌を格調高い正統な文芸(正風連歌(しょうふうれんが))として大成させました。彼は全国を旅しながら各地の武士や公家と連歌を行い、その名声は絶大なものでした。

5.3. 中世文化の担い手

能・狂言や連歌の発展は、中世後期に文化の担い手が大きく広がったことを示しています。

かつて文化の独占的な享受者であった公家貴族に加え、武士が新たな文化の中心的なパトロンとなりました。そして彼らのサロンには、僧侶や連歌師、そして有力な町衆といった多様な身分の人々が集い、交流しました。

この身分を超えた文化的な交流こそが、室町時代の文化の豊かさを生み出す源泉となったのです。そしてこの連歌の集団創作の中から、やがてより自由で滑稽な俳諧(はいかい)の連歌が生まれ、近世の松尾芭蕉による俳句の完成へと繋がっていくことになります。


6. 近世の町人文学

17世紀、徳川幕府による天下統一は、日本に260年以上にもわたる平和で安定した時代をもたらしました。この泰平の世を背景に、江戸、大坂、京都といった三都を中心とする都市が飛躍的な発展を遂げ、そこに住む町人(ちょうにん)(商人や職人)たちが経済的な実力を蓄え、社会の新しい主役として台頭してきました。彼らは自らの財力と識字率の向上を背景に、武士や貴族の高尚な文化とは異なる自分たちのための新しい文化を渇望しました。この時代の要請に応えて花開いたのが「近世の町人文学」、特にその黄金時代である17世紀末から18世紀初頭の「元禄文化(げんろくぶんか)」の文学です。**井原西鶴(いはらさいかく)**が町人のリアルな欲望を描き、**松尾芭蕉(まつおばしょう)が庶民の詩である俳諧を芸術の高みへと引き上げ、そして近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)**が人形浄瑠璃で町人の恋と義理の葛藤を描き人々を涙させた。この三人の天才が切り開いた文学の世界は、近世日本の活気と人間味を現代に伝える最大の遺産です。

6.1. 井原西鶴と浮世草子

元禄文学の幕開けを告げたのが、大坂の商人井原西鶴が書いた**浮世草子(うきよぞうし)**でした。浮世草子とは、当時の町人社会の風俗や人情をリアルに描き出した小説の総称です。

6.1.1. 『好色一代男』と好色物

西鶴のデビュー作であり出世作となったのが、『好色一代男(こうしょくいちだいおとこ)』です。主人公・世之介(よのすけ)がその生涯を通じて数千人の女性と関係を持つという壮大な恋愛遍歴を描いたこの作品は、大ヒットとなりました。

これに続く『好色五人女』や『好色一代女』といった**好色物(こうしょくもの)**と呼ばれる作品群は、封建的な道徳に縛られない人間のありのままの性愛の姿を大胆に肯定的に描き出し、読者の喝采を浴びました。

6.1.2. 町人物と武家物

西鶴の関心は、恋愛だけに留まりませんでした。

  • 町人物(ちょうにんもの): 『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』や『世間胸算用(せけんむねさんよう)』では、商人たちがいかにして知恵と才覚で財産を築き、また大晦日の借金取りに追われる庶民の悲哀をユーモラスに描きました。そこには拝金主義への批判と同時に、たくましく生きる町人への共感が込められています。
  • 武家物(ぶけもの): 『武道伝来記(ぶどうでんらいき)』や『武家義理物語(ぶけぎりものがたり)』では、経済的に困窮し時代遅れになりつつある武士たちの、義理や体面を重んじる生き方を時に批判的に、時に哀感を込めて描きました。

西鶴の文学は、それまでの教訓的な物語とは一線を画し、現実の人間と社会をありのままに観察し描写するという、近代小説にも通じる写実の精神に貫かれていました。

6.2. 松尾芭蕉と俳諧の革新

和歌や連歌から派生した滑稽味を主とする短い詩「俳諧(はいかい)」(後の俳句)を、蕉風(しょうふう)と呼ばれる独自の芸術様式へと完成させたのが松尾芭蕉です。

6.2.1. 蕉風俳諧の確立

伊賀上野の武士の出身である芭蕉は、江戸に出て俳諧師となりました。彼はそれまでの単なる言葉遊びに陥りがちであった俳諧(談林風(だんりんぷう))を批判し、漢詩や和歌の格調高さと禅の精神を取り入れ、自然と人事の奥にある永遠の情趣を表現する新しい俳風を目指しました。

その美的な理念は、

  • さび: 静寂の中に感じられる奥深い豊かさ。
  • しおり: 対象への繊細な共感から生まれる余情。
  • 細み: 繊細な感覚で物事の本質を捉えること。
  • かるみ: 日常的な題材の中にさらりと詩的な情趣を見出す軽やかな境地。

といった言葉で表現されます。

6.2.2. 『奥の細道』と旅の文学

芭蕉の俳諧の精神が最も結実したのが、彼がその生涯に行った数々の旅の中で書かれた紀行文です。特に彼が弟子の曾良(そら)と共に江戸から東北、北陸を巡り大垣に至る約150日間の旅を描いた『奥の細道(おくのほそみち)』は、日本の紀行文学の最高傑作とされています。

この作品は、旅の道程を記した散文とその道々で詠んだ発句(俳句)が有機的に組み合わされており、西行などの古人の足跡を慕い、自然と一体化しようとする芭蕉の深い芸術的・精神的探求が描かれています。

6.3. 近松門左衛門と人形浄瑠璃・歌舞伎

元禄文化のもう一人の巨人が、庶民の最大の娯楽であった人形浄瑠璃(文楽)と歌舞伎の世界で活躍した脚本家、近松門左衛門です。

6.3.1. 世話物と義理人情の葛藤

近松は、歴史上の事件や人物を題材とした「時代物(じだいもの)」(例:『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』)と、同時代の町人の世界で起こった事件や恋愛を題材とした「世話物(せわもの)」の両方で傑作を残しました。

特に彼が得意としたのが、世話物です。その中心的なテーマは、封建社会の中で生きる人間が直面する、「義理」と「人情」との間の悲劇的な葛藤でした。

  • 義理(ぎり): 社会的な建前、家や世間体に対する義務。
  • 人情(にんじょう): 個人の内なる自然な感情、特に恋愛感情。

6.3.2. 『曽根崎心中』と心中物

この義理と人情の板挟みになった恋人たちが選ぶ最後の道として、近松が描き大ヒットとなったのが「心中物(しんじゅうもの)」です。

遊女お初と醤油屋の手代・徳兵衛が、様々な義理のしがらみからこの世では結ばれぬことを悟り、来世での成就を願って共に死を選ぶという『曽根崎心中(そねざきしんじゅう)』は、実際に起こった事件を基にしており、その悲劇的なストーリーは大坂の人々の涙を誘い、心中が社会問題化するほどの影響を与えました。

近松の作品は、身分制社会の厳しい現実の中で、それでも自らの純粋な人情を貫こうとする市井の人々の尊厳を描き出し、日本の演劇史に不滅の足跡を残したのです。


7. 近代文学の成立(言文一致)

19世紀後半、明治維新は日本の政治や社会だけでなく、文学の世界にも巨大な地殻変動をもたらしました。西洋の近代的な思想や文学作品が怒涛のように流入する中で、日本の知識人たちは「近代文学」という全く新しい概念に直面します。それは個人の内面や社会の現実をリアルに描き出すという目的を持つ文学でした。しかしこの新しい文学を創造する上で、彼らの前に立ちはだかった最大の壁、それが「言葉」の問題でした。当時の日本で文章を書くための伝統的な書き言葉(文語)は、人々が日常的に話す話し言葉(口語)とは全くかけ離れたものでした。この二重の言語状況を克服し、**話し言葉に基づいた新しい書き言葉(言文一致体)**を創り出すこと。この「言文一致(げんぶんいっち)」運動の苦闘のプロセスこそ、日本の近代文学がその産声を上げるための避けては通れない道程でした。

7.1. 近代以前の言語状況:文語と口語の乖離

江戸時代まで、日本には大きく分けて二つの異なる次元の言葉が存在していました。

  • 文語(ぶんご): 文章を書くための言葉。漢文の影響を強く受けた漢文訓読体や、平安時代の貴族の言葉を基礎とする和文体、そして両者が混じり合った和漢混淆文など、様々なスタイルがありました。これらは格調高い響きを持ちますが、日常の会話からは遠く隔たっていました。
  • 口語(こうご): 人々が実際に話す言葉。身分や地域によって多様なバリエーションがありました。

この文語と口語の乖離は、特に西洋の近代小説を翻訳する際に深刻な問題となりました。登場人物のリアルな会話を古めかしい文語で訳しても、その迫力やニュアンスは全く伝わりません。近代的なリアリズム文学を創造するためには、まずその器となる新しい文体が必要とされたのです。

7.2. 坪内逍遥と『小説神髄』:近代文学の理論的マニフェスト

この新しい文学への道を理論的に切り開いたのが、**坪内逍遥(つぼうちしょうよう)**でした。彼が1885年(明治18年)に著した評論『小説神髄(しょうせつしんずい)』は、日本の近代文学の誕生を告げるマニフェスト(宣言)となりました。

7.2.1. 旧来の文学への批判

逍遥はまず、江戸時代の戯作(げさく)文学が持っていた「勧善懲悪(かんぜんちょうあく)」(善を勧め、悪を懲らしめる)という道徳主義的なあり方を厳しく批判しました。彼によれば、小説の目的は道徳を教えることではありません。

7.2.2. 新しい小説の理念

逍遥が主張した新しい小説の理念は、

  • 人情の描写: 小説が描くべきは「人情」、すなわち人間の内面的な心理である。
  • 世態風俗の模写: そしてその心理が現れる外面的な社会のありさま(世態風俗)を、ありのままに模写(リアルに描写)すること。

これこそが小説の本質であるとしました。この「心理的写実主義(しんりてきしゃじつしゅぎ)」とも言うべき主張は、日本の文学観に革命をもたらしました。

逍遥は、この理論を自ら小説『当世書生気質(とうせいしょせいかたぎ)』で実践しようとしましたが、その文体はまだ古い戯作文学の影響を完全に脱しきれていないという限界もありました。

7.3. 二葉亭四迷と『浮雲』:言文一致の完成

坪内逍遥が理論の面で道を開いたとすれば、その理論を実際の作品で見事に体現し、言文一致体の小説を完成させたのが**二葉亭四迷(ふたばていしめい)**でした。

7.3.1. リアリズムの追求

二葉亭はロシア文学の熱心な愛読者であり、その徹底したリアリズムに深く影響を受けていました。彼は逍遥の理論に共鳴しながらも、その実践の不徹底さを批判し、より完璧な写実小説を目指しました。

7.3.2. 『浮雲』(1887-89年)

彼が発表した『浮雲(うきぐも)』は、日本の近代小説の出発点と評される記念碑的な作品です。

  • 内容: 主人公の内海文三(うつみぶんぞう)は、役所を免職になったインテリ青年。彼は現実の世渡りの中で何もできず、恋にも破れ苦悩しさまようだけの無気力な人物として描かれています。このようなアンチ・ヒーロー的な近代人の内面的な葛藤を描き出した点で画期的でした。
  • 文体: そして何よりも重要だったのがその文体です。二葉亭は、「」調を用いた完全な言文一致体でこの小説を書き上げました。これにより人物の心理や会話が驚くほどリアルに表現され、読者は初めて近代的な小説空間を体験することができたのです。

7.4. 近代文学の成立の意義

坪内逍遥の理論と二葉亭四迷の実践。この二人の巨人の登場によって、日本の文学はついに「近代」の扉を開きました。

言文一致の達成は、単なる文体の変化ではありません。それは**「近代的な自我」や「個人の内面」といった新しいテーマを表現するための器が、初めて発明された**ことを意味します。

この新しい言葉と方法を手に入れた日本の作家たちは、ここから西洋の様々な文芸思潮を吸収しながら、一気にその文学的探求を深化させていく新しい時代へと突入していくのです。


8. 明治の文学(写実主義、ロマン主義、自然主義)

言文一致運動によって近代文学の土台が築かれた後、明治20年代から40年代にかけての日本の文壇は、西洋の様々な文芸思潮を猛烈なスピードで受容し、それを日本の現実の中でいかに表現するかをめぐる実験と格闘の連続でした。作家たちは新しい時代の人間像や社会のあり方を模索し、次々と新しい文学運動を立ち上げては互いに論争を繰り広げました。その主な流れは、現実をありのままに描こうとする「写実主義(しゃじつしゅぎ)」に始まり、個人の内面的な感情の解放を謳う「ロマン主義(ロマンしゅぎ)」へと展開し、最終的には人間の暗い現実を徹底的にえぐり出す「自然主義(しぜんしゅぎ)」が文壇の主流を占めるに至ります。このダイナミックな変遷の中から、夏目漱石森鷗外といった近代日本を代表する巨匠たちが誕生したのです。

8.1. 初期写実主義の展開

坪内逍遥や二葉亭四迷が示した写実主義の道は、明治20年代の作家たちに受け継がれました。

  • 硯友社(けんゆうしゃ): **尾崎紅葉(おざきこうよう)**を中心とする文学結社。彼らは『我楽多文庫(がらくたぶんこ)』という日本初の文芸雑誌を創刊しました。紅葉の代表作『金色夜叉(こんじきやしゃ)』は、金と恋の間で揺れ動く男女の物語で絶大な人気を博しましたが、その文体や筋立てにはまだ江戸戯作の影響が色濃く残っていました。
  • 幸田露伴(こうだろはん): 紅葉と並び称された作家。彼は男性的な理想主義を掲げ、『五重塔』など芸術に全てを捧げる職人の生き様を格調高い文体で描きました。

8.2. ロマン主義の高揚

このような初期の写実主義がまだ旧来の文学の枠組みを引きずっていたのに対し、明治20年代後半から30年代にかけて、西洋のロマン主義の影響を受けた新しい文学運動が生まれます。そのキーワードは、「個人の内面の解放」、特に「恋愛」の賛美でした。

8.2.1. 『文学界』と詩の世界

ロマン主義運動の中心となったのが、**北村透谷(きたむらとうこく)島崎藤村(しまざきとうそん)**らが創刊した雑誌『文学界』でした。透谷は評論で、封建的な社会からの自我の解放を訴えました。

そしてこの新しい感情は、特に詩の世界で見事に開花しました。

  • 島崎藤村: 『若菜集(わかなしゅう)』で瑞々しい青春の感情を歌い、近代詩の新しい地平を切り開きました。
  • 与謝野晶子(よさのあきこ): 『みだれ髪』で伝統的な道徳に囚われない女性の情熱的な恋愛感情を大胆に歌い上げ、社会に衝撃を与えました。

8.2.2. 小説とロマン主義

小説の分野では、**泉鏡花(いずみきょうか)**が神秘的で幻想的な独自の世界を描き、**樋口一葉(ひぐちいちよう)**が『たけくらべ』で吉原の遊郭の近くで生きる少年少女の淡い恋とそのはかない運命を、雅俗折衷の美しい文体で描き出し絶賛されました。

またドイツに留学したエリート軍医**森鷗外(もりおうがい)**が、自らの体験を基に書いた『舞姫(まいひめ)』は、近代的な自我の目覚めとその葛藤を描き、ロマン主義文学の傑作とされています。

8.3. 自然主義文学の席巻

日露戦争(1904-05年)後の社会の閉塞感を背景に、明治30年代末から40年代にかけて、ロマン主義の理想主義を批判し、現実を美化することなくありのままに、醜い側面も含めて描き出すことを目指す自然主義文学が文壇の主流となります。フランスの作家エミール・ゾラらの影響を受けたこの運動は、しばしば暗い決定論的な人間観を特徴としました。

8.3.1. 自然主義の代表作

  • 島崎藤村『破戒(はかい)』: 被差別部落出身である自らの出自を隠して生きる青年教師の苦悩を描き、社会の偽善と差別を告発した自然主義の先駆けとなる作品。
  • 田山花袋(たやまかたい)『蒲団(ふとん)』: 中年の作家が若い女弟子に抱いた性的な欲望を赤裸々に告白した作品。その衝撃的な内容は、その後の日本の私小説(わたくししょうせつ)の流れを決定づけました。
  • 徳田秋声(とくだしゅうせい)、**正宗白鳥(まさむねはくちょう)**らも、暗く救いのない現実を描いた作品を発表しました。

8.4. 反自然主義の巨匠たち

この自然主義文学の暗さや平板な現実描写に飽き足らない作家たちも現れました。彼らは自然主義の影響を受けながらも、それとは異なる独自の文学世界を築き上げ、近代日本文学の頂点を極めました。

8.4.1. 夏目漱石(なつめそうせき)

イギリス留学から帰国後、作家活動を始めた漱石は、自然主義とは一線を画し、より高い次元から近代人の内面的な問題を見つめました。

  • 初期の作品: 『吾輩は猫である』ではユーモアと風刺を通じて近代日本の知識人社会を批判し、『坊っちゃん』では正義感の強い青年の活躍を痛快に描きました。
  • 後期の作品: やがてその作風は、近代社会における人間のエゴイズムと孤独という深刻なテーマへと深化していきます。『こころ』、『それから』、『』といった作品群(前期・後期三部作)は、近代人が抱える根源的な不安と葛藤を普遍的なレベルで描き出し、今なお多くの読者を魅了し続けています。

8.4.2. 森鷗外(もりおうがい)

ロマン主義の傑作『舞姫』で文壇に登場した鷗外は、自然主義の時代には一時創作から遠ざかりますが、その後再び独自の文学世界を展開します。

彼は自然主義のありのままの現実描写を批判し、事件や歴史の中にあるがままの人生を見つめる「諦念(ていねん)」の境地を示しました。晩年には『阿部一族』や『高瀬舟』といった江戸時代の事件に材を取った、格調高い歴史小説を次々と発表し、漱石と並び立つ文豪としての地位を確立しました。

明治という時代は、西洋からの激しい波に洗われながら日本文学が初めて「近代」という自我に目覚め、その苦悩と格闘した濃密な季節であったと言えるでしょう。


9. 大正の文学(白樺派、新感覚派)

明治時代の深刻で重苦しい自然主義文学がその行き詰まりを見せる中、時代は大正へと移ります。大正デモクラシーに象徴される、比較的自由で個人主義的な時代の空気は、文学の世界にも新しい風を吹き込みました。自然主義の暗い人間観に反発し、生命の賛歌と理想主義を高らかに謳い上げたのが「白樺派(しらかばは)」の作家たちでした。その一方で、第一次世界大戦後の都市の喧騒と機械文明のスピード感を新しい文体で捉えようとする前衛的な運動、「新感覚派(しんかんかくは)」も登場します。またこの二つの大きな潮流の狭間で、芥川龍之介のような理知的な作家が独自の芸術世界を築きました。大正という短い、しかし個性的な時代は、明治の苦悩を乗り越え、多様な文学の才能がそれぞれに花開いた豊かな季節でした。

9.1. 白樺派:理想主義と自我の肯定

大正文学の主流を形成したのが、1910年(明治43年)に創刊された文芸雑誌『白樺』を中心に集まった作家たち、すなわち「白樺派」です。

9.1.1. 白樺派の特徴

  • 出身階級: 彼らの多くが学習院出身の華族や裕福な実業家の子弟であり、経済的な苦労を知らない恵まれた環境に育ちました。
  • 思想的背景: 自然主義の暗い決定論を嫌い、トルストイの人道主義や西洋の個人主義思想に強く影響を受けました。
  • 文学の理念: 彼らは自我の肯定を高らかに謳い、人間の生命力や理想、そして個性を最大限に発揮することこそ文学の使命であると考えました。その作風は明るく肯定的で、人道主義的な色彩が強いのが特徴です。

9.1.2. 代表的な作家

  • 武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ): 白樺派の中心的な思想家。「自己を生かせ」というスローガンを掲げ、小説『友情』や戯曲『その妹』で理想主義的な愛と自我のあり方を描きました。また宮崎県に「新しき村」という理想郷を建設しようとするなど、実践家でもありました。
  • 志賀直哉(しがなおや): 「小説の神様」と称えられた、白樺派の最も重要な作家。無駄を削ぎ落とした簡潔で力強い文体で自らの身辺の出来事や心境を描き、**私小説(わたくししょうせつ)**の一つの典型を完成させました。代表作に、父との不和と和解を描いた唯一の長編小説『暗夜行路(あんやこうろ)』や、短編『城の崎にて』、『小僧の神様』などがあります。
  • 有島武郎(ありしまたけお): 豊かな教養を持ち、社会問題にも深い関心を寄せました。代表作『或る女』は、因習に抗い自由に生きようとする近代的な女性の姿を描き出しています。

9.2. 反白樺派の潮流

白樺派の明るい理想主義や恵まれた環境に、反発する作家たちも現れました。

9.2.1. 耽美派(たんびは)

人生の真実よりも官能的な美を至上の価値とする作家たち。**永井荷風(ながいかふう)**は江戸情緒への憧れを描き、**谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)**は倒錯的な愛やフェティシズムの世界を描き、独自の悪魔主義的な美学を追求しました。

9.2.2. 新現実主義(理知派)

白樺派の楽天的な人間観や自然主義の平板な写実を批判し、より理知的で芸術的な完成度を目指したのが**芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)**です。

夏目漱石の弟子である芥川は、『今昔物語集』など古典に題材を取り、それを近代的な心理描写と巧みな構成で再構築するという独自の手法で名声を確立しました。代表作『羅生門(らしょうもん)』、『』、『地獄変』、『藪の中』などは、人間のエゴイズムや芸術と人生の相克といった普遍的なテーマを扱い、その完璧な文体と知的な作風から「新理知派」とも呼ばれました。

しかし彼は晩年、創作の悩みと「ぼんやりとした不安」に苛まれ自ら命を絶ち、大正という時代の終わりを象徴する出来事となりました。

9.3. 新感覚派:モダニズム文学の到来

大正末期から昭和初期にかけて関東大震災後の急速な都市化と機械文明の進展を背景に、ヨーロッパのモダニズム芸術の影響を受けた新しい文学運動が起こります。それが「新感覚派」です。

9.3.1. 雑誌『文芸時代』

彼らの拠点となったのが、1924年(大正13年)に創刊された雑誌『文芸時代』でした。中心的な同人は、**横光利一(よこみつりいち)川端康成(かわばたやすなり)**でした。

9.3.2. 新しい表現方法

新感覚派の作家たちは、従来のリアリズム文学が人間の内面や物語の筋を重視したのに対し、外面的な世界の感覚的な印象を、スピード感あふれる斬新な比喩や文体で捉えることを目指しました。

横光利一は、その手法を「感覚活動の触角的な突出」と表現しました。彼の短編『蠅(はえ)』や『機械』は、その代表作です。

9.3.3. 川端康成とその後の展開

新感覚派から出発した川端康成は、やがてそのモダンな感覚と日本の伝統的な美意識を融合させた独自の文学世界を確立していきます。伊豆を旅する青年と踊り子の淡い交流を描いた『伊豆の踊子』は、その初期の代表作です。彼はその後、昭和を代表する大作家へと成長し、1968年には日本人初のノーベル文学賞を受賞しました。

大正という時代は、明治の重苦しさから解放され、作家たちがそれぞれの立場から「自我」とは何か、「芸術」とは何かという問いを自由に探求した、百花繚乱の季節であったと言えるでしょう。


10. 昭和の文学(プロレタリア文学から現代まで)

大正末期から始まる昭和という時代は、日本の近代史の中で最も激しくそして драматиックな変動を経験した時代でした。関東大震災後の経済的な混乱、世界恐慌、そして軍国主義の台頭と破滅的な戦争。さらに敗戦と占領、そして奇跡的な経済復興。この激動の社会状況は文学の世界にも深刻な影を落とし、作家たちは否応なく政治と社会、そして歴史とどう向き合うかという厳しい問いを突きつけられました。マルクス主義の影響の下、社会の矛盾を告発しようとしたプロレタリア文学。戦争の時代を生き、その虚無と向き合った戦中・戦後の作家たち。そして高度経済成長の中で豊かさと、その代償としての精神的な空虚を描いた戦後の巨匠たち。昭和の文学史は、まさに日本の近代が経験した光と影の全てを映し出す巨大な鏡なのです。

10.1. プロレタリア文学の興隆と弾圧

1920年代後半から30年代前半にかけて、日本の文壇を席巻したのが「プロレタリア文学」でした。

  • 背景: 第一次世界大戦後の不況やロシア革命の成功を背景に日本でもマルクス主義思想が広まり、労働運動や農民運動が活発化しました。
  • 理念: プロレタリア文学は、文学をブルジョア階級の娯楽ではなく、プロレタリアート(労働者階級)の解放のための闘争の武器と位置づけました。彼らは資本主義社会の階級的な矛盾を暴露し、労働者の階級意識を高めることを目指しました。
  • 代表的な作家と作品:
    • 小林多喜二(こばやしたきじ): 『蟹工船(かにこうせん)』では、カムチャッカ沖の蟹工船で働く労働者たちが非人間的な酷使の末に団結し、ストライキに立ち上がる姿を力強く描き、プロレタリア文学の最高傑作とされています。
    • 徳永直(とくながすなお): 『太陽のない街』は、印刷工場の労働争議をリアルに描きました。
  • 弾圧と衰退: しかし政府は、共産主義運動を危険視し治安維持法などによって思想統制を強化しました。プロレタリア文学の作家たちは次々と逮捕、投獄され、小林多喜二は特高警察による拷問で命を落としました。このような厳しい弾圧の中で多くの作家が転向(思想を放棄すること)を余儀なくされ、運動は急速に衰退していきました。

10.2. 戦時下と戦後の文学

1930年代後半から1945年の敗戦まで日本が十五年戦争へと突き進む時代、文学は国家による厳しい検閲と統制の下に置かれ、自由な創作活動は極めて困難になりました。多くの作家が沈黙するか、あるいは国策に協力する戦争文学を書くことを強いられました。

この暗い時代が終わりを告げた敗戦直後の焼け跡で、人々が既存の価値観の崩壊と極度の虚脱感に襲われる中、新しい世代の作家たちが登場します。彼らは**無頼派(ぶらいは)**とも呼ばれ、戦争の体験とその虚無を主題としました。

  • 太宰治(だざいおさむ): 戦前から活躍していましたが、戦後の『斜陽(しゃよう)』では没落していく貴族の姿を、『人間失格』では社会に適応できない主人公の破滅的な生涯を描き、多くの若者の共感を呼びました。
  • 坂口安吾(さかぐちあんご): 評論『堕落論』で戦後の道徳的な混乱をむしろ人間性の回復として肯定し、生き抜くことの重要性を説きました。
  • 織田作之助(おださくのすけ): 大阪の庶民のたくましい生命力を描き続けました。

10.3. 戦後文学の巨匠たち

占領期を経て日本が経済的な復興と成長を遂げる中で、日本の文学も再びその豊かさを取り戻し、世界的な評価を受ける巨匠たちが次々と現れました。

  • 谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう): 明治から活躍した大家。『細雪(ささめゆき)』では、戦争によって失われゆく日本の伝統的な美の世界(旧家の四姉妹の物語)を描き、戦後の代表作となりました。
  • 川端康成(かわばたやすなり): 『雪国』、『千羽鶴』、『古都**』など、日本の伝統美と無常観を描いた作品で1968年、ノーベル文学賞を受賞。
  • 三島由紀夫(みしまゆきお): 華麗な文体で美とエロス、そして破滅の思想を描き(『金閣寺』など)、戦後日本の偽善性を批判し、最後は衝撃的な割腹自殺を遂げました。
  • 大江健三郎(おおえけんざぶろう): 戦後民主主義の理念を背景に、核時代における人間の実存や魂の救済といった深刻なテーマを問い続け、1994年、ノーベル文学賞を受賞しました。

その他にも安部公房井上靖遠藤周作といった多くの才能が昭和の文学を彩りました。

10.4. 現代文学へ

昭和が終わり平成、そして令和へと時代が移る中で、日本の文学はさらに多様化し細分化しています。その中で国際的に最も広く読まれている作家の一人が村上春樹です。彼の作品は都市に生きる現代人の孤独や喪失感をを描きながら、国境を超えた普遍的な物語として世界中の読者を魅了し続けています。

昭和の文学史は、政治と文学の緊張関係、戦争という極限状況、そして経済的な繁栄がもたらす精神的な課題といった、近代日本が直面した全ての問いを内包しています。その多様な作品群と向き合うことは、我々が生きるこの現代という時代が、いかなる歴史の地層の上に成り立っているのかを知るための重要な手がかりを与えてくれるのです。


Module 9:文学史の流れの総括:時代の心と言葉の軌跡

本モジュールでは、古代の神話の時代から現代のグローバルな社会に至るまで、日本文学が描いてきた長大で彩り豊かな絵巻物を紐解いてきました。その旅を通じて我々が見てきたのは、単なる作品の羅列ではありません。それはそれぞれの時代の空気を呼吸し、その中で生きた人々の「心」が、いかに「言葉」という形を得て時代を超えて我々に語りかけてくるのか、という魂の軌跡そのものでした。

古代、国家は『記紀』という壮大な物語によって自らの権威を語りました。しかしその傍らで『万葉集』は、名もなき人々の素朴な心の声を拾い上げました。平安の宮廷では、女性たちが仮名文字を手にし、『源氏物語』や『枕草子』を通じてもののあはれをかしといった日本的な美意識の原型を創り出しました。

時代が武士の手に移ると、文学は無常という仏教的な響きを帯び始めます。『平家物語』は滅びの美学を語り、『方丈記』や『徒然草**』は乱世の中で静かな思索の美を見出しました。室町時代には幽玄という深遠な世界を切り開き、近世、泰平の世では町人たちが新しい主役となり、西鶴、芭蕉、近松が人間の欲望と滑稽、そして義理人情の悲哀を生き生きと描き出しました。

そして近代。西洋との出会いは「言文一致」という言葉の革命を引き起こし、文学は初めて「内面」という新しい大陸を探検し始めます。ロマン主義、自然主義、白樺派、新感覚派。目まぐるしく変わる思潮を追いながら、日本の作家たちは苦悩し、自らの言葉を鍛え上げていきました。昭和という激動の世紀は、文学に政治と社会との厳しい対峙を強い、戦争の体験は、人間の存在の根源を問う作品群を生み出しました。

このように、文学の歴史とは、その時代に生きた人々の精神が、どのような言葉の器を求め、そしてその器を用いて、何を表現しようと格闘してきたかの歴史です。それぞれの作品は、その時代の空気、価値観、そして美意識を凝縮した一個の結晶です。この軌跡を学ぶことは、歴史を動かした人々の心を、最も深く、そして共感をもって理解する、かけがえのない体験となるでしょう。

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