【基礎 政治経済(政治)】Module 16:刑事司法と人権
本モジュールの目的と構成
国家は、社会の秩序を維持するために、警察や検察といった、強大な物理的強制力を伴う権力装置を持っています。しかし、もしこの力が、何のルールもなく、恣意的に行使されたとしたら、私たちの自由と安全は、常に国家の脅威に晒されることになります。政治思想の歴史が繰り返し示してきたように、個人の人権にとって最大の脅威となりうるのは、まさに国家権力そのものなのです。では、私たちはどのようにして、この強大な力から自らを守るのでしょうか。その答えが、本モジュールで探求する「刑事司法と人権」の世界です。
このモジュールは、犯罪の捜査から裁判、そして刑罰に至る「刑事司法」の全プロセスが、いかにして個人の人権を保障するための、緻密で、時に血塗られた歴史を経て築き上げられてきた「ルールの体系」であるかを解き明かすことを目的とします。「罪を犯した」と疑われた瞬間から、一人の人間は国家という巨大な権力と、たった一人で対峙しなければなりません。その圧倒的な力の差を埋め、公正な手続きを保障するための叡智が、刑事司法の諸原則には凝縮されています。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、社会の安全と個人の自由という、二つの重要な価値がせめぎ合う、刑事司法の最前線へとご案内します。
- 法の支配、最後の砦 ― 罪刑法定主義: なぜ「法律なければ犯罪なく、法律なければ刑罰なし」という原則が、近代刑事法の絶対的な出発点とされるのか。権力者の恣意的な処罰から個人を守る、この大原則の重要性を学びます。
- 自由への令状 ― 令状主義と逮捕・捜索: 国家が個人の身体やプライベートな空間に強制的に立ち入る際に、なぜ裁判官が発する「令状」という事前の許可が必要なのか。「令状主義」が、私たちの自由を守るための、いかに重要な防波堤であるかを探ります。
- 沈黙する権利、助けを求める権利 ― 黙秘権と弁護人依頼権: 捜査官の厳しい追及に対し、なぜ人は黙っていることが許されるのか(黙秘権)。そして、なぜ国家の費用でさえも、法律の専門家(弁護人)の助けを求めることができるのか。被疑者・被告人に与えられた、二つの強力な防御権の本質に迫ります。
- 推定無罪の原則 ― 刑事裁判の基本精神: なぜ裁判が終わるまで、被告人は「無罪」として扱われなければならないのか。「疑わしきは罰せず」という、刑事裁判の根幹をなす黄金律、「推定無罪の原則」の重みを理解します。
- 罰ではなく、育てるために ― 少年法と少年保護手続き: なぜ罪を犯した少年は、大人と同じように裁かれないのか。「処罰」ではなく「保護と教育」を目的とする「少年法」の独特な理念と、家庭裁判所が担う手続きについて学びます。
- もう一人の当事者 ― 犯罪被害者の権利: 長らく刑事手続きの中で忘れられた存在であった「犯罪被害者」。近年、その権利がどのように認められ、裁判への参加や支援の仕組みが整備されてきたのか、その歩みを辿ります。
- 国家が生命を奪うとき ― 死刑制度をめぐる議論: 究極の刑罰である「死刑」。その存続を求める声と、廃止を求める声が、なぜ激しく対立するのか。抑止力、応報、誤判の可能性、そして国際的な潮流。この根源的な問いをめぐる、両者の論点を整理します。
- 正義が迷うとき ― 再審と冤罪問題: もし、無実の人が有罪とされてしまったら。刑事司法の最大の過ちである「冤罪(えんざい)」は、なぜ起こるのか。そして、確定した判決を覆すための、極めて困難な道である「再審」の制度とその課題を探ります。
- 社会の番人、その光と影 ― 警察の役割と人権: 犯罪捜査の最前線に立つ「警察」。社会の安全を守るという重要な役割と、その強大な権限が人権と衝突する危険性。民主主義社会における、警察のあり方を考えます。
- 新しい犯罪との戦い ― 現代の犯罪とその対策: サイバー犯罪や国際テロなど、従来の法制度では対応が難しい「現代型」の犯罪に対し、刑事司法はどのように立ち向かおうとしているのか。その新たな挑戦と課題を概観します。
このモジュールを修了したとき、皆さんは刑事司法が、単なる犯罪者を罰するためのシステムではなく、国家権力から個人の尊厳を守るための、人権保障の精緻なメカニズムであることを、深く理解しているはずです。
1. 罪刑法定主義
近代刑事法の、そして法の支配の、最も根幹をなす大原則。それが**「罪刑法定主義」**です。これは、ラテン語の警句「nulla poena sine lege(ヌラ・ポーエナ・シネ・レゲ:法律なければ刑罰なし)」という言葉に、その本質が凝縮されています。
罪刑法定主義とは、**「どのような行為が犯罪となり、それに対してどのような刑罰が科されるかは、あらかじめ、国民の代表である議会が制定した法律によって、明確に定められていなければならない」**という原則です。
1.1. 罪刑法定主義の歴史的意義
この原則がなぜ、これほどまでに重要視されるのか。それは、権力者による**恣意的な支配(人の支配)**との、血塗られた闘争の歴史の中から勝ち取られた、人権保障のための砦だからです。
- 絶対王政の時代: かつての絶対王政の時代には、国王や領主が、その場の気分や都合で、法律に書かれてもいない行為を「犯罪」として、人々を処罰することがまかり通っていました。
- 近代市民革命の成果: これに対し、フランス革命の人権宣言(第8条)などに代表される近代市民革命は、個人の自由を権力者の恣意的な侵害から守るため、国家が刑罰権を行使できるのは、国民の代表が定めた法律に基づく場合に限られる、という原則を打ち立てたのです。
1.2. 罪刑法定主義から導かれる派生原則
罪刑法定主義の理念を実質的に保障するため、そこからは、いくつかの重要な派生原則が導き出されます。
- 法律の事前制定の原則(事後法の禁止):
- ある行為を処罰するためには、その行為が行われる前に、それを犯罪とする法律が制定されていなければなりません。行為の後になってから作られた法律(遡及処罰)で、過去の行為を裁くことは、絶対に許されません(憲法第39条)。
- 慣習刑法の禁止:
- 犯罪と刑罰は、成文の「法律」によって定められなければならず、慣習や判例だけで人を処罰することはできません。
- 類推解釈の禁止:
- 法律に書かれていない行為であっても、「これは法律に書かれている〇〇罪と似ているから」という理由(類推解釈)で、被告人に不利な形で処罰することは許されません。
- 明確性の原則:
- 犯罪を定義する法律の文言は、国民が、どのような行為が処罰されるのかを、事前に明確に予測できるよう、具体的で、明確でなければなりません。曖昧で不明確な法律は、権力者による恣意的な解釈の余地を生むため、許されません。
- 刑罰の適正の原則:
- 犯罪に対して科される刑罰は、その犯罪の重さと、釣り合いのとれた、適正なものでなければなりません。残虐な刑罰は禁止されます(憲法第36条)。
この罪刑法定主義があるからこそ、私たちは、国家から不意打ちのように処罰される恐れなく、安心して自由に行動することができるのです。
2. 令状主義と、逮捕・捜索
国家が、個人の身体の自由を奪い(逮捕)、あるいは、個人のプライベートな空間(住居や所持品)に立ち入って調べる(捜索・差押え)ことは、人権に対する、最も強力で直接的な制約です。そのため、日本国憲法は、行政権力(警察など)が、これらの強制的な処分を、恣意的に行うことがないように、厳格な歯止めを設けています。その中心的な原則が**「令状主義」**です。
令状主義とは、逮捕、捜索、差押えといった強制処分は、原則として、独立した司法機関である裁判官が、事前に審査して発付する「令状」がなければ、行うことはできない、という原則です。
2.1. 令状主義の憲法上の根拠
- 逮捕に対する令状主義(憲法第33条):何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。
- 捜索・差押えに対する令状主義(憲法第35条):何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2.2. なぜ裁判官の令状が必要なのか
捜査を行う警察や検察は、「犯人を捕まえたい」「証拠を見つけたい」という強い動機を持っています。そのため、時に行き過ぎた捜査に陥り、個人の人権を不当に侵害してしまう危険性を常に孕んでいます。
令状主義は、この捜査機関の判断を、捜査の当事者ではない、中立・公平な第三者である裁判官が、事前にチェックするための仕組みです。
- 事前の司法審査: 警察官が、ある人物を逮捕したいと考えた場合、その人物が罪を犯したと疑うに足りる相当な理由(逮捕の理由)と、逃亡したり証拠を隠滅したりする恐れ(逮捕の必要性)があることを、具体的な証拠と共に示して、裁判官に令状を請求します。
- 裁判官の役割: 裁判官は、その請求を客観的に審査し、要件を満たしていると判断した場合にのみ、令状を発付します。もし、要件を満たしていなければ、請求を却下します。
このように、令状主義は、行政権力(捜査機関)の暴走に対して、司法権力(裁判官)が事前のブレーキをかける、権力分立の理念を、人権保障の現場で具体化したものなのです。
2.3. 令状主義の例外
憲法は、令状主義に、二つの例外を認めています。
- 現行犯逮捕(憲法第33条):
- まさに今、目の前で犯罪が行われているか、行われた直後である場合(現行犯・準現行犯)には、令状なく、誰でも(私人でも)その人物を逮捕することができます。
- これは、犯人や犯罪が明白であり、誤認逮捕の危険性が低く、また、その場で身柄を確保しなければ逃亡されてしまう緊急性が高いためです。
- 緊急逮捕(刑事訴訟法):
- 死刑や無期、長期3年以上の懲役・禁錮にあたる重大な罪を犯したと疑う十分な理由があり、かつ、急速を要し、裁判官の令状を求めることができない場合には、捜査機関は、まず理由を告げて被疑者を逮捕し、逮捕後に直ちに裁判官に令状を求めることができます。もし、令状が発付されなければ、直ちに釈放しなければなりません。
これらの例外は、厳格な要件の下でのみ認められるものであり、令状主義が人権保障の基本原則であることに変わりはありません。
3. 黙秘権と、弁護人依頼権
国家(捜査機関)と、犯罪の嫌疑をかけられた個人とでは、その力に圧倒的な差があります。もし、個人が何の防御手段も持たずに、この強大な権力と対峙しなければならないとしたら、公正な手続きは期待できません。そこで、憲法は、被疑者・被告人となった個人に、自らの身を守るための、二つの極めて強力な権利(防御権)を保障しています。それが**「黙秘権」と「弁護人依頼権」**です。
3.1. 黙秘権(自己負罪拒否特権)
日本国憲法 第38条1項
何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
この条文が保障する権利を、一般に黙秘権と呼びます。これは、刑事手続きの全段階(警察の取調べから、検察官の取調べ、そして裁判所の法廷に至るまで)において、自分が話したくないことについては、終始沈黙し、供述を拒否することができる権利です。
- なぜ黙秘権は重要なのか:
- 自白強要の防止: 歴史上、多くの冤罪事件が、捜査機関による拷問や、違法な長時間の取調べによって、虚偽の自白を強要されたことから生まれてきました。黙秘権は、このような自白の強要を防ぎ、人間の尊厳を守るための、最も重要な盾です。
- 推定無罪の原則の具体化: 犯罪を証明する責任(立証責任)は、すべて国家(検察官)側にあります。被疑者・被告人には、自ら進んで、自己に不利益な事実を供述する義務は一切ありません。
- 自白の証拠能力の制限:
- この黙秘権を実質的に保障するため、憲法はさらに、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない」(第38条2項)と定め、違法な手段で得られた自白の証拠能力を否定しています。
- また、「何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない」(第38条3項)と定め、自白だけで有罪にすることはできない(補強法則)としています。
3.2. 弁護人依頼権
日本国憲法 第34条
何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。…
日本国憲法 第37条3項
刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。国がこれを附することができないときは、国でこれを附する。
これらの条文は、逮捕・勾留された被疑者、そして起訴された被告人が、いつでも弁護人の助けを求めることができる権利を保障しています。
- なぜ弁護人が必要のか:
- 法律の専門家ではない個人が、複雑な刑事手続きの中で、一人で自らの権利を守り、巨大な国家権力(警察・検察)と対等に渡り合うことは、事実上不可能です。
- 弁護人は、被疑者・被告人の唯一の味方として、捜査機関の違法な活動を監視し、不当な人権侵害から本人を守り、法的な観点から最も有利な主張を組み立てる、という極めて重要な役割を担います(武器対等の原則)。
- 国選弁護人制度:
- 特に重要なのが、第37条3項が定める国選弁護人制度です。
- 経済的な理由で、自ら弁護人を雇うことができない被疑者・被告人に対しては、国の費用で弁護人を付けることが、憲法上の権利として保障されています。
- これにより、貧富の差にかかわらず、すべての人が、弁護人の助力を受ける権利を実質的に保障されているのです。
黙秘権と弁護人依頼権は、近代刑事司法が、過去の過ちへの反省から生み出した、人権保障の車の両輪なのです。
4. 刑事裁判の原則(公開、疑わしきは罰せず)
犯罪の嫌疑をかけられた被告人が、最終的に有罪か無罪か、そして、どのような刑罰を科されるべきかを決定する場が、刑事裁判です。この裁判が、国家権力による一方的な断罪の場となることなく、公正に行われるために、憲法と法律は、いくつかの重要な基本原則を定めています。
4.1. 推定無罪の原則(疑わしきは罰せず)
刑事裁判の、あらゆる原則を貫く、最も根源的な黄金律。それが**「推定無罪の原則」**です。
- 内容:
- 刑事裁判で有罪判決が確定するまでは、被告人は無罪であると推定される、という原則です。
- これは、「疑わしきは罰せず(in dubio pro reo)」という、古代ローマ法以来の法格言に、その精神的な源流を持ちます。
- 立証責任との関係:
- この原則から、被告人が犯罪を犯したことを証明する責任(立証責任)は、すべて検察官が負う、という重要な帰結が導かれます。
- 被告人や弁護人は、自らの無罪を証明する必要は一切ありません。検察官が、被告人の有罪を、「合理的な疑いを差し挟む余地がない」程度にまで、厳格な証拠に基づいて証明することに失敗すれば、たとえ被告人が「シロ」だと完全に証明できなくても、裁判所は無罪の判決を下さなければなりません。
- 意義:
- 「10人の真犯人を逃すとも、1人の無辜(むこ)を罰するなかれ」という言葉に象徴されるように、この原則は、誤った裁判によって無実の人を罰するという、司法の最悪の過ちを、何としても避けるために設けられた、人権保障の最後の砦です。
4.2. 公開裁判の原則
日本国憲法 第37条1項
すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。
日本国憲法 第82条1項
裁判の対審及び判決は、公開法廷でこれを行ふ。
これらの条文は、公開裁判の原則を定めています。
- 内容:
- 裁判の審理(対審)と判決は、原則として、誰でも傍聴することができる、公開された法廷で行われなければならない、という原則です。
- 意義:
- 裁判を国民の監視下に置くことで、裁判官や検察官が、密室で不公正な手続きを進めることを防ぎ、裁判の公正さを担保するためのものです。
- また、裁判を公開することは、司法に対する国民の信頼を確保する上でも、重要な役割を果たします。
- 例外:
- 第82条2項は、裁判官の全員一致で、公の秩序又は善良の風俗を害する虞があると決した場合には、対審(審理)だけを非公開にすることを認めています。しかし、その場合でも、判決は必ず公開しなければなりません。
4.3. その他の重要な原則
- 迅速な裁判を受ける権利(憲法第37条1項):
- 裁判が不当に長引くことは、被告人を長期間、不安定な地位に置き続けることになり、それ自体が一種の処罰となってしまいます。このため、被告人には、迅速な裁判を受ける権利が保障されています。
- 公平な裁判所による裁判を受ける権利(憲法第37条1項):
- 裁判は、先入観を持たない、公平な裁判官によって構成される裁判所でなければなりません。
これらの原則が一体となって、刑事裁判における適正な手続きと、被告人の人権を保障しているのです。
5. 少年法と、少年保護手続き
もし、未成年の少年(20歳未満)が、犯罪にあたる行為をした場合、その少年は、大人と同じように、刑事裁判で裁かれ、刑罰を科されるのでしょうか。日本の法制度は、これに対して「ノー」という答えを用意しています。その根拠となるのが**「少年法」**です。
少年法は、大人を対象とする刑事訴訟法や刑法とは、その根本的な理念において、全く異なるアプローチをとります。
5.1. 少年法の基本理念 ― 保護主義
- 目的は「処罰」ではない:
- 少年法の最大の目的は、罪を犯した少年を**罰すること(応報刑主義)**ではありません。
- その目的は、少年がなぜ非行に至ったのか、その原因を探り、少年が健全な一人の人間として成長・発達していく権利を保障するために、その立ち直りを助けること、すなわち**「少年の健全な育成」**にあります(少年法第1条)。
- 保護主義:
- このような、少年を社会の保護の対象とみなし、その教育と福祉を優先する考え方を**「保護主義」**と呼びます。
- これは、少年は、精神的にも肉体的にも未成熟であり、成長の過程で過ちを犯しやすい一方で、教育や環境によって更生する可能性(可塑性)が高い、という認識に基づいています。
5.2. 少年保護手続きの流れ
この保護主義の理念に基づき、非行少年に対する手続きは、原則として、刑事裁判ではなく、家庭裁判所を中心とする、独特の少年保護手続きによって進められます。
- 全件送致主義:
- 警察などが、犯罪の嫌疑のある少年を捜査した場合、事件の軽重にかかわらず、すべての事件を、必ず家庭裁判所に送致しなければなりません。
- 検察官が、大人であれば起訴しないような軽微な事件でも、勝手に手続きを打ち切ることはできず、一度、家庭裁判所の判断を仰ぐ必要があります。
- 家庭裁判所による調査:
- 事件の送致を受けた家庭裁判所は、裁判官、家庭裁判所調査官(心理学や社会学の専門家)などが、少年本人や保護者と面接したり、生活環境を調査したりして、少年が非行に至った原因や、更生のために何が必要かを、多角的に調査します。
- 少年審判:
- 調査の結果に基づき、少年審判が開かれます。
- 審判は、大人の刑事裁判とは異なり、原則として非公開で行われます。これは、少年のプライバシーを守り、感情的な非難に晒されることなく、落ち着いた環境で自らの過ちと向き合わせるためです。
- 審判の結果、裁判官は、少年の更生のために最も適切と考えられる保護処分を決定します。
- 保護処分の種類:
- 保護観察: 施設に収容せず、社会の中で、保護司の指導・監督を受けながら更生を図る。
- 少年院送致: 少年を少年院に収容し、矯正教育を行う。
- 児童自立支援施設等送致: 比較的低年齢の少年を、開放的な施設で生活指導する。
5.3. 逆送(検察官送致)と厳罰化の動向
ただし、家庭裁判所が、調査の結果、その事件の性質や、少年の年齢などから、保護処分ではなく、刑事処分(刑罰)を科すことが相当であると判断した場合には、事件を検察官に送り返す(逆送)ことがあります。逆送された事件は、原則として起訴され、大人と同じ刑事裁判で裁かれます。
- 原則逆送事件: 16歳以上の少年が、故意の犯罪行為で被害者を死亡させた事件については、原則として逆送しなければならない、と定められています。
近年、少年による凶悪事件が発生するたびに、少年法を改正し、適用年齢を引き下げたり、より厳しい処罰を科したりすべきだという厳罰化の議論が高まっています。保護主義の理念と、被害者感情や社会の処罰感情との間で、少年法のあり方は、常に揺れ動き続けています。
6. 犯罪被害者の権利
刑事司法のプロセスは、伝統的に、国家(検察官)と、罪を問われる者(被告人)という、二つの当事者を中心に展開されてきました。その中で、犯罪によって最も直接的かつ深刻な被害を受けたはずの犯罪被害者やその遺族は、長らく、単なる「証人」や「証拠の一つ」として扱われ、その権利や尊厳が十分に顧みられてこなかった、という歴史があります。
しかし、1990年代以降、被害者の置かれた過酷な状況に対する社会的な認識が高まり、「被害者もまた、刑事司法の当事者である」という考え方から、その権利を保障し、支援するための法制度の整備が、急速に進められてきました。
6.1. なぜ被害者の権利保障が必要なのか
- 二次被害の防止:
- 犯罪被害者は、犯人による直接的な被害(一次被害)だけでなく、その後の捜査や裁判の過程で、精神的な苦痛を繰り返し受けたり(事情聴取での心ない質問など)、プライバシーをメディアに侵害されたり、社会から好奇の目で見られたりするといった**「二次被害」**に苦しめられることが少なくありません。
- 情報からの疎外:
- 自分の身に何が起きたのか、捜査はどこまで進んでいるのか、裁判はどうなっているのか、といった基本的な情報さえも、被害者に十分に知らされない、という状況がありました。
- 経済的困窮:
- 犯罪によって死亡したり、重い障害を負ったりした場合、本人や家族は、深刻な経済的困窮に陥ることがあります。
6.2. 犯罪被害者の権利を保障するための法制度
こうした問題に対応するため、2004年に犯罪被害者等基本法が制定され、被害者支援の基本理念が確立されました。これに基づき、様々な具体的な制度が導入・拡充されています。
- 刑事裁判への参加:
- 被害者参加制度: 一定の重大な犯罪の被害者や遺族が、刑事裁判の公判期日に、検察官の隣の席に出席し、被告人に直接質問したり、事実や法律の適用について意見を述べたり(論告・求刑)、刑の重さについての意見を述べたりすることができるようになりました。これにより、被害者は、単なる証人ではなく、裁判の当事者として、そのプロセスに主体的に関与できます。
- 損害賠償命令制度: 刑事裁判の有罪判決に引き続いて、同じ裁判所が、被告人に対する損害賠償命令を出すことができる制度です。これにより、被害者は、別途、時間と費用のかかる民事裁判を起こすことなく、迅速に賠償を得られる道が開かれました。
- 情報提供の拡充:
- 事件の処理結果や、裁判の期日、結果などを、検察官から被害者に通知する制度が拡充されました。
- 経済的支援:
- 犯罪被害者等給付金支給制度: 通り魔殺人など、加害者に賠償能力がない場合に、国が、犯罪被害者やその遺族に対して、給付金を支給する制度です。
- 相談・支援体制の整備:
- 各都道府県の警察や、検察庁、地方公共団体に、被害者からの相談に応じる窓口が設置され、民間の被害者支援センターとの連携も進められています。
これらの制度改革は、刑事司法のあり方を、被告人の人権保障という一元的な視点から、被害者の権利回復という、もう一つの重要な視点を加えた、複眼的なものへと、大きく転換させたのです。
7. 死刑制度をめぐる議論
死刑は、受刑者の生命を国家が奪う、最も重い刑罰(生命刑)です。その究極的な性質から、死刑制度を存続させるべきか、廃止すべきかをめぐる議論は、日本だけでなく、世界中で、古くから、そして今なお、激しく続けられています。
2024年現在、世界の多くの国(140か国以上)が、法律上または事実上、死刑を廃止しており、主要先進国(G7)の中で、死刑制度を維持し、執行しているのは、日本とアメリカ(一部の州)だけとなっています。
この死刑制度をめぐる議論は、主に以下のような論点を軸に展開されています。
7.1. 死刑制度の存続を支持する主な論拠(存置論)
- 犯罪抑止力:
- 「死刑という究極の刑罰が存在することが、凶悪な犯罪(特に殺人)を犯そうとする者を思いとどまらせ、社会全体の犯罪を抑止する効果がある」という考え方です。
- 応報感情(応報刑思想):
- 「人の命を奪った者は、自らの命でその罪を償うべきだ」という、応報(悪には悪で報いるべき)の思想に基づいています。
- また、残虐な犯罪によって愛する家族を奪われた遺族の処罰感情に応えるためにも、死刑は必要だ、という意見も、この立場を強く支えています。
- 世論の支持:
- 日本では、内閣府が定期的に行う世論調査で、一貫して、死刑制度の存続を容認する意見が、多数を占めています。「国民の多数が支持している制度を、廃止する必要はない」という主張です。
- 凶悪犯の再犯防止:
- 死刑を執行すれば、その凶悪な犯罪者が、仮釈放などで再び社会に出て、新たな犯罪を犯す可能性を、完全に断ち切ることができる。
7.2. 死刑制度の廃止を支持する主な論拠(廃止論)
- 誤判・冤罪の可能性:
- 裁判も人間が行う以上、誤判の可能性を完全にゼロにすることはできません。もし、無実の人に誤って死刑を執行してしまった場合、その生命は二度と取り戻すことができず、司法の取り返しのつかない過ちとなります。実際に、日本では、死刑判決が確定した後に、再審で無罪となった事件が複数存在します。
- 国家が生命を奪うことへの倫理的・哲学的疑問:
- いかなる理由があろうとも、国家という制度が、個人の生命を計画的に奪うことは、人間の尊厳を踏みにじる、根本的に非人道的な行為ではないか、という問いです。
- 犯罪抑止力への疑問:
- 死刑制度の存在が、統計的に、凶悪犯罪の発生を、有意に抑制しているという、明確な科学的証拠は存在しない、という指摘が多くなされています。
- 国際的な潮流:
- 前述の通り、死刑廃止は、今や世界的な大きな潮流となっています。人権を尊重する文明国として、日本もこの流れに加わるべきだ、という主張です。
- 終身刑による代替可能性:
- 凶悪犯の再犯を防ぐという目的は、仮釈放のない終身刑を導入することでも達成できるのではないか、という意見もあります。
この問題は、法学的な論点だけでなく、倫理、哲学、宗教、そして人々の感情が複雑に絡み合う、極めて根源的で、容易に結論の出ない問いなのです。
8. 再審と、冤罪問題
刑事司法の最大の目的は、真実を発見し、罪を犯した者を正しく処罰することにありますが、そのプロセスは、人間が行う以上、常に過ちを犯す危険性を内包しています。捜査の思い込み、証拠の捏造、虚偽の自白、裁判官の誤った判断など、様々な要因によって、無実の人が、犯罪者として有罪判決を受けてしまう。これが**「冤罪(えんざい)」**です。
冤罪は、個人の人生を根底から破壊する、最悪の人権侵害であり、司法制度そのものへの国民の信頼を失わせる、由々しき事態です。
8.1. なぜ冤罪は起こるのか
戦後に起きた数々の有名な冤罪事件の分析から、いくつかの典型的な原因が指摘されています。
- 捜査機関の思い込み(予断と偏見):
- 捜査の初期段階で、「この人物が犯人に違いない」という強い思い込み(予断)が生まれると、それに合わない証拠は無視され、都合の良い証拠だけが集められる、という見込み捜査に陥りやすくなります。
- 自白への過度の依存:
- 日本の刑事司法は、長らく「自白は証拠の王様」と言われ、被疑者の自白を得ることを、捜査の最大の目標とする傾向がありました。
- これが、密室での長時間の取調べや、利益誘導、時には暴力的な手段による、虚偽の自白の強要につながりました。多くの冤罪事件が、この虚偽の自白から始まっています。
- 証拠の隠蔽・捏造:
- 捜査機関が、被告人の無罪を示す可能性のある証拠(被告人に有利な証拠)を、弁護側に開示せず、隠蔽するケースがあります。
- 科学鑑定の過信と誤り:
- DNA鑑定や筆跡鑑定といった科学鑑定も、絶対的なものではなく、その手法や評価を誤ることで、誤判の原因となることがあります。
8.2. 再審 ― 閉ざされた扉を開くための手続き
一度、裁判で有罪が確定してしまうと、その判決を覆すことは、極めて困難です。そのための、例外的な救済手続きが**「再審(さいしん)」**です。再審とは、確定した有罪判決に対して、重大な事実誤認があった疑いが生じた場合に、裁判のやり直しを求める手続きです。
- 再審を開始するための要件:
- 刑事訴訟法は、再審を開始するための要件として、「無罪を言い渡すべき明らかな証拠を新たに発見したとき」などを定めています。
- この「無罪を言い渡すべき明らかな証拠(明白性の要件)」の解釈が、極めて厳格であるため、再審の扉は「開かずの扉」とも呼ばれるほど、その開始が認められるのは非常に困難です。
- 近年の動向と課題:
- 近年、DNA鑑定技術の進歩などにより、過去の事件の証拠を再鑑定した結果、無罪を示す新しい証拠が発見され、死刑囚を含む、長期にわたって服役していた人々の再審が開始され、無罪が確定するケース(例:足利事件、袴田事件)が出てきています。
- しかし、依然として、検察側が保有する証拠の全面的な開示(証拠の全面開示)が、再審請求の手続きで制度化されていないなど、冤罪被害者を救済するための法整備には、多くの課題が残されています。
冤罪問題は、私たちに、刑事司法制度が常に不完全であるという謙虚な認識と、その過ちを是正するための、より開かれた仕組みを構築する必要性を、問い続けているのです。
9. 警察の役割と、人権
警察は、国民の生命、身体、財産を保護し、公共の安全と秩序を維持するという、社会にとって不可欠な役割を担う、第一線の行政機関です。犯罪の捜査、交通の取締り、要人の警護、災害時の救助活動など、その活動は多岐にわたります。
この重要な任務を遂行するため、警察には、法律によって、**逮捕、捜索、武器の使用といった、国民の人権を直接制約しうる、強力な権限(物理的強制力)**が与えられています。
このため、民主主義国家における警察制度は、その権限が適正に行使され、濫用されることがないように、厳格なコントロールの下に置かれなければならない、という重要な課題を常に抱えています。
9.1. 警察の民主的コントロール
戦前の日本では、警察は内務省の管轄下にあり、しばしば国民の思想や言論を弾圧する、国家権力の手先として機能しました(特高警察など)。この深い反省から、戦後の警察制度は、その政治的中立性と民主的な管理を確保するための、二重の仕組みの上に再出発しました。
- 国家公安委員会・都道府県公安委員会:
- 警察の運営を管理・監督するため、内閣府(国)と各都道府県に、それぞれ公安委員会が設置されています。
- 公安委員会は、国民の良識を代表する、非常勤の委員(国会や地方議会の同意を得て、内閣総理大臣や知事が任命)で構成されます。
- この委員会が、警察組織から独立した立場で、警察の方針を決定し、その運営を監督することで、警察が特定の政治勢力の影響を受けることなく、中立性を保つための「防波堤」の役割を果たしています。
9.2. 警察活動と人権
警察の活動は、その性質上、常に個人の人権と緊張関係にあります。
- 捜査活動とプライバシー:
- 犯罪捜査における、尾行、張り込み、写真撮影、通信傍受(盗聴)といった活動は、個人のプライバシーを侵害する危険性を伴います。
- 職務質問と身体の自由:
- 警察官が、挙動不審な人物を停止させて質問する職務質問は、あくまでも相手の任意の協力を求めるものであり、強制ではありません。しかし、現実には、半ば強制的な形で身体の自由を制約しているのではないか、という批判もあります。
- 公安活動と表現の自由:
- デモや集会といった、集団的な政治的意思表明に対して、警察が過剰な警備を行ったり、参加者の情報を収集したりすることは、憲法が保障する表現の自由や集会の自由を、萎縮させる効果を持つ可能性があります。
これらの活動が、法律の定める範囲を逸脱し、人権を不当に侵害することがないように、国民が、そして司法が、警察の活動を常に厳しく監視していくことが、自由な社会を維持するために不可欠です。警察の活動の正統性は、最終的には、国民の理解と信頼によって支えられているのです。
10. 現代の犯罪と、その対策
社会が変化すれば、犯罪の様相もまた変化します。グローバル化と、特にインターネットの爆発的な普及は、21世紀の刑事司法に、これまで想定してこなかった、全く新しい種類の**「現代型」の犯罪**との戦いを強いています。
これらの犯罪は、従来の伝統的な犯罪(殺人、窃盗、強盗など)とは異なる、いくつかの共通した特徴を持っています。
10.1. 現代型犯罪の特徴
- 非対面性・匿名性:
- 犯人と被害者が、物理的に顔を合わせることなく、インターネットなどのネットワークを介して行われることが多い。これにより、犯人は罪悪感を抱きにくく、また、捜査機関も犯人の特定が困難になります。
- ボーダーレス性(国境の超越):
- サイバー空間には国境がありません。犯人が海外のサーバーを経由して、日本の企業や個人を攻撃したり、逆に日本の犯罪者が、海外の被害者を標的にしたりすることが、容易に行えます。これにより、**捜査権の及ぶ範囲(管轄)**や、証拠の収集、犯人の引き渡しといった点で、国際的な協力が不可欠となります。
- 技術の高度化:
- 犯罪に、高度な情報通信技術や、金融工学の知識が悪用されるため、捜査する側にも、同等以上の専門的な知識や技術が求められます。
- 被害の広範化・大規模化:
- 一度のサイバー攻撃で、何百万人もの個人情報が流出したり、一つの金融詐欺で、巨額の資金が瞬時に騙し取られたりするなど、被害が不特定多数に、かつ大規模に及ぶ傾向があります。
10.2. 具体的な現代型犯罪と対策
- サイバー犯罪:
- 不正アクセス、コンピュータ・ウイルス、フィッシング詐欺、名誉毀損や著作権侵害といった、コンピュータ・ネットワークを悪用した犯罪の総称。
- 対策として、サイバー犯罪対策部門の専門捜査官の育成や、サイバーセキュリティ基本法の制定、民間企業や海外の捜査機関との情報共有などが進められています。
- 組織犯罪・国際テロ:
- 暴力団による伝統的な犯罪に加え、薬物や銃器の密輸、人身売買、マネー・ローンダリング(資金洗浄)といった、国境を越える国際組織犯罪が深刻化しています。
- 対策として、組織的犯罪処罰法が制定され、犯罪組織の活動そのものを処罰したり、犯罪によって得た収益を没収したりする規定が設けられています。また、国際テロへの資金提供を断つための、金融機関への規制も強化されています。
- 特殊詐欺(オレオレ詐欺など):
- 高齢者などを標的に、電話などを使って巧みに騙し、現金を振り込ませるなどの詐欺。
- 対策として、警察による取締りの強化だけでなく、金融機関や地域社会と連携した、被害の未然防止キャンペーンなどが重要となっています。
これらの新しい犯罪との戦いは、従来の刑事司法の枠組みに、専門性の向上、国際協力の強化、そして社会全体での予防という、新しい視点を要請しているのです。
Module 16:刑事司法と人権の総括:自由の天秤、その繊細なバランスの上に
本モジュールでは、社会の安全を守るという国家の責務と、個人の自由と尊厳を守るという憲法の要請が、最も鋭く交錯する場である「刑事司法」の全貌を探求しました。私たちは、罪刑法定主義という大原則から始まり、令状主義、黙秘権、推定無罪といった、権力から個人を守るための幾重もの精緻な防護壁が、いかにして築き上げられてきたかを学びました。少年法が示す「保護」という異なる眼差し、そして近年光が当てられるようになった「犯罪被害者の権利」は、司法が向き合うべき人間の多様な側面を教えてくれます。死刑制度や冤罪問題は、このシステムが常に「絶対」ではなく、過ちを犯しうるという、謙虚な現実を突きつけます。刑事司法とは、つまるところ、社会の安全という重りと、個人の自由という重りを、一つの天秤にかける、終わりなきバランス調整の営みです。その天秤がどちらかに極端に傾くとき、社会は、抑圧か、あるいは混乱へと向かうでしょう。公正な司法とは、この繊細なバランスの上に、かろうじて成り立っている、私たちの自由の礎なのです。