【基礎 政治経済(政治)】Module 22:日本の政治史(2) 戦後
本モジュールの目的と構成
Module 21では、近代日本の誕生から、その破局的な敗戦に至るまでの、光と影に満ちた戦前の政治史を辿りました。未曾有の国難と敗戦という焦土の中から、日本はどのようにして立ち上がり、全く新しい国へと生まれ変わったのでしょうか。本モジュールは、その劇的な再出発の瞬間から現代に至るまでの、戦後日本の政治の軌跡を探求する旅です。それは、占領下での民主化改革という、他に類を見ない特殊な状況から始まり、奇跡の経済成長と、その裏で定着した「55年体制」という長期安定の時代、そして、その体制が崩壊し、流動的で予測不能な「連立政権」の時代へと移行していく、ダイナミックな変革の物語です。
このモジュールは、皆さんが、今日の日本の政治システムが、どのような歴史的な経験と格闘の中から形成されてきたのかを深く理解し、現代政治が抱える課題の「根っこ」を、歴史的な文脈の中に位置づけるための知的基盤を築くことを目的とします。この学びを通じて、皆さんは、戦後日本が一貫して問い続けてきた「平和とは何か」「豊かさとは何か」「民主主義とは何か」という重い問いを、自らのものとして受け止め、未来の日本のあり方を考えるための、歴史的な羅針盤を手にすることができるでしょう。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、現代へと至る戦後日本の政治の歩みを解き明かしていきます。
- ゼロからの再出発 ― GHQによる民主化政策: 敗戦後の日本を統治した連合国軍総司令部(GHQ)が、日本の非軍事化と民主化のために、いかにして社会のあらゆる側面(政治、経済、教育)にわたる、抜本的な改革を断行したのか、その全体像を捉えます。
- 新しい国の設計図 ― 日本国憲法の制定: 天皇主権から国民主権へ。戦争の放棄という世界に類を見ない理念を掲げた日本国憲法が、GHQの強力な影響の下で、どのような経緯を経て誕生したのか、その劇的な制定プロセスを辿ります。
- 神から象徴へ ― 象徴天皇制の確立: かつて「現人神」とされた天皇が、いかにして国政の権能を持たない「国民統合の象徴」として、新しい民主主義国家の中に位置づけられたのか。この日本独自のシステムの論理と意義を探ります。
- 社会構造の大改造 ― 戦後改革とその影響: GHQ主導で行われた農地改革、財閥解体、労働改革といった一連の「戦後改革」が、その後の日本の経済成長と社会の安定に、どのような深遠な影響を与えたのかを分析します。
- 長期安定と停滞の時代 ― 55年体制の成立とその構造: 1955年に確立され、その後38年間にわたって日本の政治を規定した「55年体制」。自由民主党による長期政権と、社会党を中心とする野党という構図が、なぜ生まれ、どのように機能し、そしてどのような特徴を持っていたのかを解き明かします。
- 国論を二分した激突 ― 安保闘争と日米関係: 55年体制下における最大の政治的対立であった、日米安全保障条約の改定をめぐる「安保闘争」。この激しい国民運動が、その後の日本の外交・安全保障政策と日米関係のあり方を、いかに決定づけたのかを探ります。
- 「所得倍増」の時代 ― 高度経済成長期の政治: 世界を驚かせた日本の高度経済成長。その奇跡の裏で、自民党の長期安定政権と、優秀な官僚機構が、どのような政治的・経済的な役割を果たしたのか、その光と影を分析します。
- 権力の頂点と腐敗 ― 田中角栄と金権政治: 高度経済成長の果実を、公共事業を通じて地方に再分配する手法で、絶大な権力を築いた田中角栄。彼の政治がもたらした功罪と、ロッキード事件に象徴される「金権政治」が、いかにして国民の政治不信を深刻化させたのかを学びます。
- 巨大与党の崩壊 ― 55年体制の崩壊と政界再編: 冷戦の終結とバブル経済の崩壊、そして相次ぐ政治腐敗。これらの要因が重なり、1993年に自民党が下野し、55年体制が崩壊する歴史的転換点。その後の、流動的な「政界再編」の時代の幕開けを描きます。
- 離合集散の時代 ― 連立政権の時代とその課題: 55年体制崩壊後、単独で政権を担える政党が現れず、「連立政権」が常態化した現代の政治。その運営の力学と、「ねじれ国会」に象徴される、政治の不安定さという構造的な課題を考察します。
1. GHQによる、民主化政策
1945年8月、ポツダム宣言を受諾し、無条件降伏した日本は、その歴史上初めて、外国による占領を経験することになります。日本の占領統治にあたったのが、アメリカを主体とする連合国軍総司令部(General Headquarters, the Allied Powers)、通称GHQ/SCAPです。その最高司令官には、アメリカのダグラス・マッカーサー元帥が就任しました。
GHQが日本政府に対して発する指示・勧告を通じて行われた占領政策の二大基本方針は、**「非軍事化」と「民主化」**でした。これは、日本が二度と世界平和の脅威とならないように、その社会構造を根底から作り変えようとする、壮大な社会改造の試みでした。
1.1. 非軍事化政策
- 軍隊の解体: 旧日本軍(陸海軍)は完全に解体され、すべての兵士は武装解除・復員させられました。
- 軍国主義指導者の追放: 戦争を指導した政治家、軍人、官僚、財界人などが、公的な職務から追放されました(公職追放)。また、東条英機元首相をはじめとする主要な戦争指導者は、**極東国際軍事裁判(東京裁判)**で、戦争犯罪人として裁かれました。
1.2. 民主化政策(五大改革指令)
1945年10月、GHQは、幣原喜重郎内閣に対して、日本の民主化を推進するための、五つの重要な改革を指示しました。これが**「五大改革指令」**です。
- 婦人の解放(女性参政権の保障):
- 衆議院議員選挙法が改正され、20歳以上のすべての男女に選挙権が与えられました。これにより、日本の女性は、初めて政治参加の権利を獲得しました。
- 労働組合の結成奨励:
- 労働組合法が制定され、労働者が団結し、使用者と対等な立場で交渉する権利(団結権、団体交渉権など)が保障されました。
- 学校教育の自由主義的改革:
- これまでの軍国主義的・超国家主義的な教育が根本から改められました。教育基本法や学校教育法が制定され、個人の尊厳や民主主義を尊重する、新しい教育の理念が打ち立てられました。
- 圧政的諸制度の廃止:
- 国民の思想や言論を弾圧してきた治安維持法や**特別高等警察(特高)**が、完全に廃止されました。これにより、国民は、思想・良心の自由や、表現の自由を、初めて実質的に享受できるようになりました。
- 経済機構の民主化:
- 日本の軍国主義を、経済面から支えてきたとされる、巨大な産業支配の構造を解体するための改革です。具体的には、後述する財閥解体や農地改革が含まれます。
これらのGHQによる、矢継ぎ早の、そして徹底した改革は、戦前の日本の社会システムを根底から覆し、その後の日本の民主主義の土台を、短期間のうちに築き上げたのです。
2. 日本国憲法の制定
GHQによる民主化改革の、まさに集大成であり、戦後日本のあり方を決定づけたのが、日本国憲法の制定です。それは、大日本帝国憲法(明治憲法)の「改正」という、法的な手続きを踏みながらも、その内容は、国民主権、平和主義、基本的人権の尊重という、全く新しい理念に基づく、実質的な「革命」とも言えるものでした。
2.1. 憲法改正の始まり ― 松本案の挫折
当初、GHQは、日本政府自身の手による、自主的な憲法改正を期待していました。これを受けて、幣原内閣の下で、松本烝治国務大臣を中心とする憲法問題調査委員会が、改正草案の作成にあたりました。
しかし、1946年2月に完成した松本草案は、天皇主権をはじめとする、明治憲法の基本原則を、ほとんどそのまま維持する、極めて保守的な内容でした。
この内容に失望したGHQは、日本政府による自主的な改正を断念し、自ら、新しい憲法の草案を作成する方針へと、大きく舵を切ります。
2.2. マッカーサー草案の提示
GHQの民政局は、わずか1週間ほどの短期間で、新しい憲法草案を書き上げました。これがマッカーサー草案です。この草案には、その後の日本国憲法の骨格となる、以下の三つの基本原則(マッカーサー・ノート)が、明確に盛り込まれていました。
- 天皇の地位の変更: 天皇は国の元首であるが、その地位は憲法に基づき、国民の意思によって行使される(→象徴天皇制と国民主権)。
- 戦争の放棄: 日本は、紛争解決の手段としての戦争を放棄する。自衛のための軍備も持たない(→平和主義、憲法第9条)。
- 封建制度の廃止: 華族制度などを廃止し、日本の民主主義は、イギリスの議会、アメリカの行政府、ソ連の司法をモデルとすべきである(→基本的人権の尊重)。
1946年2月13日、GHQは、このマッカーサー草案を、日本政府に対して、半ば最後通牒のような形で提示し、これに基づいて憲法草案を作成するように、強く指示しました。
2.3. 日本国憲法の成立
衝撃を受けた日本政府でしたが、最終的に、このGHQ草案を受け入れ、その内容に沿った形で、「憲法改正草案」を作成しました。
この草案は、形式的には、大日本帝国憲法の改正手続き(第73条)に従って、帝国議会(貴族院と衆議院)での審議にかけられました。
議会での審議の過程で、「芦田修正」(第9条2項の冒頭に「前項の目的を達するため」という文言を追加)などの、いくつかの修正が加えられましたが、基本原則は維持されたまま、可決されました。
そして、1946年11月3日に公布され、半年の準備期間を経て、1947年5月3日に施行されました。
この制定過程については、「アメリカによる押し付け憲法である」という批判がある一方で、「当時の日本の状況を考えれば、あの平和主義と民主主義の理念を、日本人の力だけで生み出すことは困難であり、むしろ幸運な歴史的産物であった」という評価も存在します。この評価の分かれ目こそが、現代の憲法改正論議の、根源的な出発点となっているのです。
3. 象徴天皇制の確立
日本国憲法の制定において、最も重要で、最もデリケートな課題の一つが、天皇の地位を、新しい国民主権の体制の中に、どのように位置づけるか、という問題でした。
明治憲法下で、天皇は、神聖不可侵の主権者であり、統治権のすべてを握る、絶対的な存在(現人神:あらひとがみ)でした。この天皇を中心とする国家体制(国体)こそが、日本の軍国主義の精神的な支柱であったと、GHQは考えていました。
3.1. 天皇の人間宣言
新しい憲法の議論に先立ち、戦後日本の精神的な風景を、根底から変える出来事が起こります。1946年1月1日、昭和天皇が、自ら発表した詔書(しょうしょ)の中で、天皇が「現人神」であることを、自ら否定したのです。これは、一般に**「人間宣言」**と呼ばれています。
この宣言は、天皇が、神ではなく、国民と共に歩む一人の人間であることを示し、その後の象徴天皇制への移行を、円滑に進めるための、重要な布石となりました。
3.2. 日本国憲法における「象徴」としての地位
日本国憲法は、その第1条で、天皇の新しい地位を、以下のように、明確に定義しました。
日本国憲法 第1条
天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。
- 「象徴」とは:
- 天皇は、もはや国の主権者でも、元首でもありません。
- 日本という国家と、多様な国民が一つにまとまっているという、目に見えない共同体の統一性を、国民が具体的に感じ取るための「しるし(象徴)」として、位置づけられました。
- 国民主権との関係:
- この象徴としての地位は、天皇が生まれながらに持っているものではなく、**「主権の存する日本国民の総意に基く」**とされています。
- これは、天皇の地位の正統性の根拠が、神や、万世一系の血統ではなく、主権者である国民の総意にあることを、明確にしたものです。これにより、国民主権の原理が、天皇制に対して、完全に優位にあることが、確立されました。
3.3. 国政に関する権能の否定
この象徴としての地位を、実質的なものにするため、憲法は、天皇から、一切の政治的な権力を奪いました。
- 国政に関する権能の否定(第4条):
- 天皇は、「この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない」。
- 国事行為(第6条、第7条):
- 天皇が行うことができるのは、内閣総理大臣の任命、法律の公布、国会の召集といった、憲法に定められた、儀礼的・形式的な国事行為に、厳格に限定されます。
- 内閣の助言と承認(第3条):
- さらに、そのすべての国事行為には、「内閣の助言と承認」が必要とされ、その政治的な責任は、すべて内閣が負います。
この「象徴天皇制」という、世界でも類を見ない独創的なシステムは、日本の歴史的伝統と、国民主権という、新しい民主主義の理念を、両立させるための、憲法制定者の叡智であった、と言うことができるでしょう。
4. 戦後改革と、その影響
GHQ主導の下で行われた、憲法改正と並行する、一連の経済・社会改革は、戦後改革と呼ばれ、日本の社会構造を、文字通り、根底から作り変えました。これらの改革は、その後の日本の奇跡的な経済成長(高度経済成長)の、重要な土台となった、と評価されています。
4.1. 農地改革
- 目的:
- 戦前の日本の農村は、ごく一部の地主が、土地の大部分を所有し、多くの小作人が、高い小作料(地代)に苦しむ、半封建的な社会でした。
- この地主制度が、農村の貧困と、軍国主義を支える温床になったと考えたGHQは、これを解体し、自作農を創設することを目指しました。
- 内容:
- 政府が、地主が持つ小作地を、強制的に安値で買い上げ、それを、実際に耕作している小作人に、極めて安価で売り渡しました。
- 影響:
- これにより、寄生的な地主階級は解体され、日本の農村は、自らの土地を所有する自作農が中心の社会へと、劇的に変化しました。
- 土地を得た農民たちの生活は安定し、生産意欲も向上しました。また、彼らは、土地という財産を守る、保守的な層となり、戦後の自民党政権の、安定した支持基盤となっていきました。
4.2. 財閥解体
- 目的:
- 三井、三菱、住友、安田といった、一部の同族(家族)によって支配される、巨大な企業グループ(財閥)が、その独占的な経済力によって、日本の軍国主義と侵略戦争を、経済面から支えたと、GHQは考えました。
- そのため、財閥を解体し、日本の経済を民主化することを目指しました。
- 内容:
- 財閥本社(持株会社)を解散させ、財閥家族が保有する株式を、強制的に市場に放出させました。
- また、巨大すぎる企業の市場独占を禁じる、独占禁止法が制定され、公正な競争を監視するための公正取引委員会が設置されました。
- 影響:
- 財閥による同族支配は、完全に終わりを告げました。
- しかし、戦後、かつての財閥系の企業は、銀行を中心とする、より緩やかな企業グループ(企業集団、系列)として再結集し、日本の高度経済成長を牽引していくことになります。
4.3. 労働改革(労働の民主化)
- 目的:
- 戦前、低賃金と劣悪な労働条件の下で、権利を抑圧されていた労働者を解放し、その地位を向上させることを目指しました。
- 内容:
- 労働者の団結権、団体交渉権、団体行動権(争議権)を保障する労働組合法。
- 労働時間、賃金、安全衛生など、労働条件の最低基準を定めた労働基準法。
- 失業や労災に対する、労働者の保護を定めた労働者災害補償保険法や職業安定法。
- これらの労働三法の制定により、労働者の権利は、法的に手厚く保障されるようになりました。
- 影響:
- 改革後、労働組合の結成が爆発的に進み、労働運動が活発化しました。これは、戦後の革新勢力(社会党など)の、重要な支持基盤となりました。
これらの改革は、日本の社会の隅々にまで、民主主義の理念を浸透させ、戦後の新しい社会の、出発点を築いたのです。
5. 55年体制の成立と、その構造
戦後の混乱期を経て、1950年代半ば、日本の政治は、その後、約40年近く続くことになる、一つの安定的(しかし、硬直的)な政治システムを確立します。これが、**「55年体制」**です。この体制は、1955年に起こった、二つの大きな政党の動きによって、その幕を開けました。
5.1. 55年体制の成立(1955年)
- 冷戦と「逆コース」:
- 占領当初、日本の急進的な民主化を推進したアメリカ(GHQ)でしたが、冷戦が激化し、中国で共産党政権が誕生すると、その対日占領政策を180度転換させます(逆コース)。
- 日本を、非武装の中立国家ではなく、西側(資本主義)陣営の、強力な「反共の砦」として再建する必要に迫られたのです。
- 保守合同と社会党の再統一:
- このアメリカの意向と、安定政権を望む財界の要請を背景に、1955年、それまで分裂していた二つの保守政党、自由党と日本民主党が、「保守合同」を果たし、巨大な単一の保守政党である**自由民主党(自民党)**を結成しました。
- 一方、これに危機感を抱いた革新勢力も、それまで左右に分裂していた日本社会党が、同年に再統一を果たしました。
この二つの出来事によって、日本の政党システムは、議席の約3分の2を占める与党「自民党」と、約3分の1を占める野党第一党「社会党」が、対峙するという構図が、確定しました。これが、1955年に始まった、55年体制です。
5.2. 55年体制の構造と特徴
- 「1と1/2(いちとにぶんのいち)政党制」:
- 見かけ上は、二大政党制のようですが、両党の議席数には、常に越えがたい差がありました。
- 自民党が、常に政権を担い、社会党は、万年野党として、政権獲得を本気で目指すというよりは、政府・与党の政策にイデオロギー的な観点から反対することに、その存在意義を見出していました。
- このため、現実には政権交代の可能性がほとんどない、非対称的な体制を、**「1と1/2政党制」**と呼びます。
- 自民党による長期単独政権:
- 自民党は、この体制の下で、1955年から1993年までの38年間、一度も政権を失うことなく、単独で与党の座を維持し続けました。
- イデオロギー対立と「ねじれ」の不在:
- 政治の最大の対立軸(争点)は、憲法改正や、日米安全保障条約の是非をめぐる、**保守(自民党)と革新(社会党)**の、イデオロギー対立でした。
- しかし、社会党などの革新勢力は、衆議院で、自民党による憲法改正の発議を阻止できる**「3分の1以上」**の議席を、確保し続けることを目標としていました(護憲3分の1)。
- この安定した勢力バランスが、大きな政治的対立を抱えながらも、体制そのものを安定させる、という逆説的な機能を果たしていました。
この55年体制という、安定した政治の枠組みの中で、日本は、次の時代、奇跡的な高度経済成長を、成し遂げることになるのです。
6. 安保闘争と、日米関係
55年体制下における、保守と革新のイデオロギー対立が、最も激しい形で、国民を巻き込んで噴出したのが、1960年の日米安全保障条約の改定をめぐる、大規模な国民運動、**「安保闘争」**です。この出来事は、戦後日本の政治と社会を、大きく揺るがし、その後の日米関係のあり方を、決定づけました。
6.1. 新安保条約の改定
- 旧安保条約の問題点:
- 1951年に結ばれた旧安保条約は、アメリカが日本を防衛する義務を明記していない、片務的なものであり、日本の主権を制約する側面が強いと、批判されていました(Module 12-3参照)。
- 岸信介内閣による改定:
- 1957年に首相となった岸信介は、この不平等な条約を改定し、日米関係を、より対等な同盟関係へと転換することを目指しました。
- 交渉の末、1960年1月、アメリカの日本防衛義務を明記した、新・日米安全保障条約が調印されました。
6.2. 安保闘争の激化
しかし、この新条約に対して、革新勢力(社会党、共産党)や、労働組合、学生、市民団体は、激しい反対運動を展開しました。
- 反対の論理:
- 新条約は、日本が、アメリカの世界戦略に、より深く、軍事的に巻き込まれることを意味する。
- 「極東条項」によって、日本が、朝鮮半島や台湾海峡での紛争の、出撃拠点となる危険性がある。
- これは、憲法第9条の平和主義の理念に反する、「戦争への道」である。
- 国会周辺での大規模デモ:
- 条約の国会承認をめぐり、連日、数十万人規模のデモ隊が、国会議事堂を取り囲みました。
- 1960年5月19日、岸内閣と自民党は、社会党議員が欠席する中、警察官を国会に導入し、単独で、衆議院での承認を強行採決しました。
- 闘争の頂点:
- この強引な国会運営は、国民の怒りに火をつけ、反対運動は、かつてないほどの規模にまで拡大しました。
- 6月15日には、デモ隊と警官隊が激しく衝突し、女子学生が死亡する悲劇も起こりました。予定されていたアイゼンハワー米大統領の来日も、中止に追い込まれました。
6.3. 安保闘争が残したもの
- 岸内閣の退陣と、政治の季節から経済の季節へ:
- 新安保条約は、自然承認という形で成立しましたが、社会の激しい混乱の責任をとって、岸内閣は総辞職しました。
- 後継の池田勇人内閣は、このような政治的な対立から国民の関心をそらすため、「寛容と忍耐」を掲げ、**「所得倍増計画」**という、経済成長を最優先する政策へと、大きく舵を切りました。
- これ以降、国民の関心は、「政治の季節」から「経済の季節」へと移っていきます。
- 日米安保体制の定着:
- 激しい対立を経て成立した新安保条約は、皮肉にも、その後の日本の外交・安全保障の、揺るぎない基軸として、定着していくことになりました。
安保闘争は、戦後民主主義が経験した、最大の試練であり、国民が、国のあり方をめぐって、真剣に、そして激しく、その意思を表明した、画期的な出来事でした。
7. 高度経済成長期の政治
1950年代半ばから、1970年代初頭の石油危機までの約20年間、日本の経済は、世界史にも類を見ない、持続的で、驚異的な成長を遂げました。この高度経済成長は、日本の社会を根底から変え、国民の生活を豊かにしましたが、その裏側では、政治が、この経済成長を支え、また、時にはその歪みを生み出す、重要な役割を果たしていました。
7.1. 経済成長を支えた政治的要因
- 政治の安定(55年体制):
- 自民党による長期安定政権は、企業が、長期的な視野に立って、設備投資や技術開発を行うための、予測可能で安定した政治環境を提供しました。
- 「吉田ドクトリン」の継承:
- 戦後、吉田茂首相が確立した、軽武装・経済優先の国家路線(吉田ドクトリン)が、自民党政権に一貫して受け継がれました。
- 安全保障を日米安保条約に依存することで、軍事費を低く抑え、国の資源を、経済復興と産業振興に、集中的に投入することができたのです。
- 官僚主導の産業政策:
- 通商産業省(現在の経済産業省)をはじめとする、優秀なエリート官僚たちが、国の将来を見据えた産業政策を立案し、特定の産業(鉄鋼、自動車、電機など)を、戦略的に育成しました。
- 政府は、財政投融資(郵便貯金などを原資とする)や、税制上の優遇措置などを通じて、これらの産業の成長を、強力に後押ししました。
- このような、政府(官僚)が、民間企業と緊密に連携しながら、経済発展を主導していく国家モデルを**「開発主義国家(Developmental State)」**と呼びます。
7.2. 高度経済成長が政治にもたらした影響
- 自民党政権の正統性の源泉:
- 自民党は、イデオロギー的な対立よりも、経済成長の果実(豊かさ)を、国民に分配することで、その支持を確保し、長期政権の正統性を維持しました。
- 池田勇人内閣の「所得倍増計画」は、その象徴です。
- 利益誘導政治の定着:
- 経済成長によって増大した税収は、道路、橋、港湾といった、公共事業の形で、全国の選挙区に分配されました。
- 自民党の政治家(特に、派閥の領袖)は、これらの公共事業を、自らの選挙区に誘致(利益誘導)することで、地元の建設業者などからの支持を集め、選挙基盤を固めていきました。
7.3. 成長の「影」― 公害問題
しかし、この経済成長至上主義は、深刻な負の側面ももたらしました。その最大のものが公害問題です。
- 四大公害病:
- 企業の利益が優先され、環境への配慮が欠如した結果、水俣病(熊本・新潟)、イタイイタイ病(富山)、四日市ぜんそく(三重)といった、多くの人々の生命と健康を奪う、悲惨な公害病が、全国各地で発生しました。
- 住民運動と政治の変化:
- 当初、対策に消極的であった政府や企業に対し、被害者や住民は、激しい住民運動や、公害訴訟を展開しました。
- この社会的な圧力の高まりを受け、1970年代に入ると、政府もようやく本格的な公害対策に乗り出し、環境庁(現在の環境省)の設置や、公害対策関連法が整備されていきました(1970年「公害国会」)。
高度経済成長は、日本に豊かさをもたらしましたが、同時に、その代償として、かけがえのない環境と、人々の健康が犠牲にされた、光と影の時代だったのです。
8. 田中角栄と、金権政治
1972年、高度経済成長の絶頂期に、戦後日本の政治を象徴する、傑出した個性を持つ政治家が、首相の座に就きます。それが、田中角栄です。彼は、従来の官僚主導の政治とは一線を画す、強力な政治主導で、日本社会を大きく動かしましたが、その政治手法は、後に「金権政治」と厳しく批判され、深刻な政治不信の源泉ともなりました。
8.1. 田中角栄の政治手法
- 「今太閤」としての人気:
- 新潟の貧しい農家に生まれ、学歴もないまま、建設業で財を成し、独学で法律を学び、国会議員、そして総理大臣にまで上り詰めた、その異色の経歴は、「今太閤(いまたいこう)」と呼ばれ、国民から絶大な人気を博しました。
- 『日本列島改造論』:
- 首相就任と同時に発表した、彼の政治構想です。
- 高度経済成長の結果として生じた、都市の過密と、地方の過疎という問題を、高速道路網や新幹線の建設によって、全国の物流と人の流れを再編し、工業を地方に分散させることで、解決しようとする、壮大な計画でした。
- この計画は、日本中に、公共事業への期待と、土地投機ブームを巻き起こしました。
- 政治主導と利益誘導:
- 田中は、官僚を巧みに使いこなしながら、自らの強力なリーダーシップで、巨大な国家予算を動かし、公共事業を、自らの選挙区や、支持基盤である地方へと、集中的に配分しました。
- これは、高度経済成長期の利益誘導政治を、まさに完成・頂点へと導いたものでした。
8.2. 金権政治とその構造
この田中角栄の強力な政治力を、裏側から支えていたのが、彼が築き上げた、巨大な集金・集票システムでした。
- 「数とカネ」の政治:
- 彼は、「政治は数であり、数はカネで買える」という、現実主義的な政治哲学を持ち、自らが率いる自民党内の派閥(田中派)を、資金力で拡大させていきました。
- 建設業界など、公共事業の恩恵を受ける企業からの、巨額の政治献金が、その力の源泉でした。
- 金脈問題:
- 1974年、雑誌『文藝春秋』に掲載された、立花隆による調査報道「田中角栄研究―その金脈と人脈」によって、田中の不明朗な資金の流れが、白日の下に晒されました。
- この金脈問題への批判が高まり、田中内閣は総辞職に追い込まれます。
8.3. ロッキード事件 ― 戦後最大の疑獄事件
そして、1976年、田中金権政治の闇を象徴する、戦後最大の汚職事件が発覚します。それが、ロッキード事件です。
- 事件の概要:
- アメリカの航空機製造会社であるロッキード社が、自社の旅客機「トライスター」を、日本の航空会社(全日本空輸)に売り込むために、日本の政府高官に対して、巨額の賄賂を渡していた、という事件です。
- 田中元首相の逮捕:
- この金の流れを捜査する過程で、現職の総理大臣であった当時に、ロッキード社側から5億円の賄賂を受け取ったとして、田中角栄元首相が、受託収賄などの容疑で逮捕されました。
- 元首相が、汚職事件で逮捕されるという、前代未聞の事態は、国民に大きな衝撃を与え、政治全体への信頼を、根底から揺るがしました。
- 影響:
- 田中は、刑事裁判で有罪判決を受けましたが(最高裁へ上告中に死去)、その後も、「闇将軍」として、自民党の最大派閥の領袖として、日本の政治に絶大な影響力を及ぼし続けました。
このロッキード事件に象徴される「金権政治」への、国民の根強い不信感は、その後の政治改革を求める、大きなうねりへとつながっていき、やがて、55年体制そのものを、崩壊させる遠因となっていくのです。
9. 55年体制の崩壊と、政界再編
1980年代末から1990年代初頭にかけて、30年以上にわたって日本の政治を規定してきた55年体制は、その内外で、深刻な地殻変動に見舞われ、ついに崩壊の時を迎えます。
9.1. 崩壊の長期的要因
- 冷戦の終結(1989年):
- ベルリンの壁の崩壊と、その後のソ連の解体は、55年体制を支えてきた、「保守(反共) vs 革新(親ソ)」という、イデオロギー対立の構図そのものを、意味のないものにしました。
- 野党第一党であった社会党は、その存在意義の根幹を失い、急激に支持を失っていきます。
- 相次ぐ政治腐敗:
- ロッキード事件以降も、リクルート事件(1988年)、東京佐川急便事件(1992年)といった、自民党の有力政治家を巻き込む、大規模な汚職事件が、次々と発覚しました。
- これにより、国民の「金権政治」に対する怒りと、自民党政治への不信感は、頂点に達していました。
- バブル経済の崩壊(1991年〜):
- 1980年代後半のバブル経済が崩壊し、日本は、長期にわたる深刻な不況(「失われた10年」)に突入しました。
- これまで自民党の長期政権を支えてきた、「経済成長を実現する政党」という「実績の正統性」が、大きく揺らぎ始めました。
9.2. 崩壊の直接的な引き金(1993年)
これらの構造的な要因がマグマのように溜まる中、崩壊の直接的な引き金となったのは、政治改革をめぐる、自民党内の対立でした。
- 政治改革の挫折:
- 国民の政治不信に応えるため、当時の宮澤喜一内閣は、金のかかる中選挙区制を改め、政党本位の選挙を実現するための、選挙制度改革を含む政治改革関連法案の成立を目指していました。
- しかし、この法案は、自民党内の改革反対派の抵抗によって、廃案となってしまいます。
- 自民党の分裂と、内閣不信任決議の可決:
- この事態に反発した、改革派の小沢一郎や羽田孜らが、自民党を離党し、新生党を結成します。
- これにより、野党が提出した宮澤内閣に対する不信任決議案が、自民党からの造反者を加えて、衆議院で可決されました。
- 総選挙での自民党の過半数割れ:
- 不信任決議を受けて行われた総選挙で、自民党は、結党以来、初めて過半数の議席を割り込みました。
9.3. 非自民連立政権の誕生と、政界再編の始まり
選挙後、日本新党の細川護熙を首班(首相)として、新生党、社会党、公明党、民社党、新党さきがけなど、自民党と共産党を除く、すべての政党が参加する、非自民連立政権が誕生しました。
- 38年ぶりの政権交代:
- これにより、自民党は、1955年の結党以来、初めて野党に転落し、38年間続いた55年体制は、ここに完全に崩壊しました。
- 政界再編の時代へ:
- この歴史的な政権交代は、日本の政治が、安定から流動化の時代へと移行する、大きな転換点でした。
- これ以降、日本の政党は、イデオロギーではなく、選挙での勝利や、政策の実現を目指して、離合集散を繰り返す、めまぐるしい**「政界再編」**の時代へと、突入していくことになるのです。
10. 連立政権の時代と、その課題
1993年の55年体制の崩壊は、日本の政党政治の風景を、一変させました。自民党による、安定的(しかし、硬直的)な単独政権の時代は終わりを告げ、それ以降、日本の政治は、複数の政党が、協力したり、対立したりしながら、政権を運営する**「連立政権」**が、当たり前の時代となりました。
10.1. 連立政権の常態化
- なぜ連立が当たり前になったのか:
- 55年体制崩壊後の政界再編の中で、多くの新しい政党が生まれましたが、自民党に代わって、単独で安定した過半数を確保できるような、強力な政党は、なかなか現れませんでした。
- 特に、参議院では、単独過半数を確保することが、極めて困難になりました。
- そのため、政権を樹立し、国会で法案や予算案を、安定的に通過させるためには、**複数の政党が、政策協定を結び、協力して政権を運営する(連立を組む)**ことが、不可欠となったのです。
- 様々な連立の形:
- 細川護熙非自民連立政権(1993-94年)
- 自社さ連立政権(1994-96年):55年体制では宿敵同士であった、自民党、社会党、新党さきがけが連立を組んだ、驚きをもって迎えられた政権。
- 自自公連立政権 → 自公連立政権(1999年〜):自民党と公明党の連立は、その後の日本の政治の、最も基本的な枠組みとなりました。
- 民主党政権(2009-12年):民主党、社民党、国民新党による連立政権として発足しました。
10.2. 連立政権時代がもたらした課題
連立政権は、多様な民意を政治に反映させる可能性がある一方で、日本の政治に、いくつかの構造的な課題をもたらしました。
- 政策の一貫性の欠如:
- 政策や理念の異なる政党が連立を組むため、重要な政策課題について、政権内で意見がまとまらず、一貫性のある、大胆な政策を、打ち出しにくくなることがあります。
- 政治の不安定化と、首相の頻繁な交代:
- 連立を組む政党間の対立が激化すると、連立が解消されたり、内閣が総辞職に追い込まれたりして、政権が短命に終わる傾向があります。
- 2006年から2012年にかけては、毎年のように首相が交代する、極めて不安定な時期が続きました。
- 「ねじれ国会」による政治の停滞:
- 連立政権時代の、最も象徴的な政治現象が**「ねじれ国会」**です。
- これは、衆議院では、与党が過半数を占めているが、参議院では、野党が過半数を占めている状態を指します。
- この状態になると、衆議院で可決された法案が、参議院で次々と否決され、法律がなかなか成立しない**「決められない政治」**が、深刻な問題となりました。
- キャスティング・ボートを握る小政党:
- 連立政権や、ねじれ国会の下では、公明党や、かつての社会党のように、比較的小さな政党であっても、与野党のどちらにつくかによって、法案の成否や、政権の運命を左右する**「キャスティング・ボート」**を握り、その議席数以上の、大きな政治的影響力を持つことがあります。
55年体制の崩壊は、日本の政治に、ダイナミズムと選択の多様性をもたらしましたが、同時に、安定した合意形成を、いかにして築き上げていくか、という、より困難で、成熟した政治の技術が問われる、新しい時代の始まりでもあったのです。
Module 22:日本の政治史(2) 戦後の総括:廃墟からの再出発、安定と変革の軌跡
本モジュールでは、敗戦という未曾有の断絶から始まった、戦後日本の政治の、めまぐるしい変転の軌跡を辿りました。それは、GHQによる民主化という、外圧による「革命」から始まり、国民主権と平和主義を掲げた新憲法の下で、全く新しい国家を模索する旅でした。農地改革や財閥解体は、社会の構造を根底から変え、その上に、冷戦という国際環境と、高度経済成長という国内の要請が、55年体制という、長期にわたる安定的(しかし、硬直的)な政治システムを築き上げました。安保闘争の熱狂と、その後の「経済の季節」、そして田中角栄が象徴する金権政治の深い闇。これらの光と影の経験は、やがて体制そのものの疲労と崩壊を招き、日本は、1993年を境に、流動的で、予測不能な、連立政権の時代へと突入しました。この廃墟からの再出発、そして安定から変革へと至る戦後史の道のりは、一つの壮大な社会実験の記録です。それは、平和と繁栄をいかにして両立させるか、そして、安定と民主主義の活性化をいかにして調和させるか、という、現代の私たちになお、重い問いを投げかけ続けているのです。