【基礎 政治経済(経済)】Module 10:財政政策の論理
本モジュールの目的と構成
Module 9では、ケインズが提示した「有効需要の原理」を学び、経済全体の所得や雇用が、必ずしも市場の自動調節機能によって最適に保たれるわけではないこと、そして、政府による意図的な需要創出がいかにして経済を不況から救い出しうるか、その強力な論理を探求しました。それは、政府が経済という船の「舵を取る」ことの理論的な根拠を明らかにする旅でした。
さて、このModule 10では、その「舵」の具体的な操作方法、すなわち財政政策に焦点を当てます。政府は、私たちの暮らしから「税金」という形で資源を集め、それを「歳出」という形で社会に還元しています。この、政府の財布である「財政」は、単なる会計帳簿ではありません。それは、景気の波をなだらかにし、所得の格差を是正し、社会に必要なサービスを供給するための、極めて強力な政策ツールなのです。
本モジュールは、この財政というツールの仕組みと、その使い方、そしてそれに伴う課題や副作用までを、体系的に理解することを目的とします。現代のニュースを理解する上で、財政の問題は避けて通れません。「増税か、国債発行か」「公共事業は必要か、無駄か」。これらの絶え間ない論争の背後にある経済学的な論点を整理し、自らの頭でその是非を判断するための知的基盤を構築することが、このモジュールのゴールです。
この分析の旅は、以下の10のステップで構成されます。
- 政府の財布、三つの役割:まず、財政が持つ三つの基本的な機能、「資源配分」「所得再分配」「景気安定化」について、その具体的な内容と目的を学びます。
- 収入と支出の内訳:政府の財布の「収入(歳入)」である税金や公債と、「支出(歳出)」である社会保障や公共事業といった、国家予算の基本的な構造を理解します。
- 税金を集めるルール:歳入の根幹をなす「租税」について、その分類(直接税・間接税)と、公平な税制のあり方を考える上での基本原則(租税原則)を探求します。
- 公平な負担とは何か:税制が所得格差に与える影響を分析します。高所得者ほど負担が重くなる「累進課税」と、逆に低所得者ほど負担が重くなる「逆進性」という、公平性をめぐる重要な概念を学びます。
- 景気を操る二つの道具:政府が景気をコントロールするために用いる財政政策の具体的な手段、「政府支出の増減」と「減税・増税」が、いかにして総需要に影響を与えるのか、そのメカニズムをケインズ理論の視点から解き明かします。
- 経済に組み込まれた「自動ブレーキ」:特別な政策判断なしに、景気の変動を自動的に和らげる仕組みである「ビルト・イン・スタビライザー(自動安定化装置)」の不思議な働きを分析します。
- 裁量的な政策:ビルト・イン・スタビライザーとは対照的に、政府がその都度の判断で意図的に行う財政政策、「フィスカル・ポリシー」について学びます。
- 国の借金がもたらす問題:財政政策の財源として発行される「公債(国債)」が、なぜ将来世代への負担や、民間投資の阻害といった深刻な問題を引き起こす可能性があるのか、そのリスクを多角的に検討します。
- もう一つの政府の財布:税金とは別に、郵便貯金などを原資として行われる、日本の独特な投融資システム「財政投融資」の仕組みと役割について学びます。
- 財政の「健康診断書」:最後に、国の財政の健全性を示す重要な指標である「プライマリーバランス」とは何かを定義し、なぜその黒字化が財政再建の目標とされるのか、その意味を理解します。
このモジュールを修了したとき、皆さんは、政府の経済政策に関する議論を、より深く、より批判的な視点から理解し、一国の財政の舵取りが直面する、複雑なトレードオフを読み解くための、確かな知識を手にしていることでしょう。
1. 財政の機能(資源配分、所得再分配、景気安定化)
政府が行う一連の経済活動、すなわち財政 (Public Finance) は、私たちの社会において、極めて重要で多岐にわたる役割を担っています。経済学者リチャード・マスグレイブは、この政府の財政機能を、以下の三つに整理・分類しました。この三つの機能は、現代の混合経済における「なぜ政府が必要なのか」という問いに対する、経済学的な答えそのものと言えます。
1.1. 資源配分機能 (Resource Allocation Function)
これは、市場メカニズムだけではうまく供給されない財やサービスを、政府が税金などを財源として、社会に供給する機能です。Module 6で学んだ「市場の失敗」を、政府が補完する役割と考えることができます。
- 供給の対象:
- 公共財:国防、警察、消防、司法、外交といった、国の存立や社会秩序の維持に不可欠なサービス(純粋公共財)。これらは、フリーライダー問題のため、市場では全く供給されません。
- 社会的共通資本:道路、港湾、空港、上下水道といった、経済活動の基盤となるインフラストラクチャー。
- 価値ある財(メリット財):義務教育や、基本的な医療サービスのように、本来は個人が市場で購入すべきものであっても、社会全体としてその消費が望ましいと考えられるため、政府が補助金を出したり、公的に供給したりする財。
政府は、これらの財やサービスを供給することで、民間企業だけでは実現できない、より効率的で豊かな社会の基盤を築こうとします。どの分野に、どれだけの資源(予算)を配分するかは、毎年の予算編成における、重要な政治的決定事項です。
1.2. 所得再分配機能 (Income Redistribution Function)
これは、市場経済の結果として生じる所得や富の格差を、政府が税金や社会保障制度を通じて、ある程度是正しようとする機能です。市場が追求する「効率性」を、社会的な「公平性」の観点から補完する役割を担います。
- 具体的な手段:
- 租税制度:所得が高い人ほど高い税率を課す累進所得税や、高額な資産の継承に課税する相続税などを通じて、高所得者層からより多くの税を徴収します。
- 社会保障制度:集めた税金や社会保険料を財源として、高齢者への年金給付、失業者への失業保険給付、生活困窮者への生活保護といった形で、低所得者層や社会的に弱い立場にある人々に、現金を給付します。
- 現物給付:公的な医療保険制度を通じて、医療サービスを安い自己負担で提供したり、公営住宅を安い家賃で提供したりすることも、所得再分配の一環です。
この機能を通じて、政府は、国民誰もが人間らしい最低限度の生活(ナショナル・ミニマム)を送れるよう保障し、社会全体の安定を図ろうとします。
1.3. 景気安定化機能 (Economic Stabilization Function)
これは、好況と不況の波(景気循環)を、政府が意図的な財政政策によって、できるだけ小さくし、経済の安定的な成長を目指す機能です。これは、Module 9で学んだ、ケインズ経済学の思想を、最も色濃く反映した役割です。
- 具体的な手段(フィスカル・ポリシー):
- 不況期(有効需要が不足しているとき):政府は、公共事業への支出を増やしたり、減税を行ったりすることで、経済全体の総需要を刺激し、景気の回復と失業の減少を図ります(拡張的な財政政策)。
- 好況期(経済が過熱し、インフレが懸念されるとき):政府は、逆に、公共事業への支出を減らしたり、増税を行ったりすることで、過剰な総需要を抑制し、景気の過熱を冷まそうとします(緊縮的な財政政策)。
これら三つの機能は、互いに密接に関連しており、政府は、限られた財源の中で、これらの目標のバランスをどのようにとるか、という難しい課題に常に直面しているのです。
2. 歳入(租税、公債)と、歳出(社会保障、公共事業など)
政府の財政活動は、国家予算という形で、具体的な計画としてまとめられます。予算は、政府の1会計年度(日本では4月1日から翌年3月31日まで)における、収入と支出の見積もりです。
収入は歳入 (Revenue)、支出は歳出 (Expenditure) と呼ばれ、国の財政の「懐事情」と「使い道」を示しています。
2.1. 歳入:政府の収入
政府の財布に入ってくるお金である歳入は、主に租税と公債から構成されています。
- 租税・印紙収入これが、政府の収入の基本となるものです。国民や企業から、法律に基づいて強制的に徴収される税金が、その中心です。
- 主な税金には、所得税、法人税、消費税、相続税、酒税、揮発油税(ガソリン税)などがあります。
- 日本の一般会計歳入では、この租税・印紙収入が、全体の約6割を占めています(年度によって変動)。
- 公債金これは、その年度の歳出を、租税収入だけでは賄いきれない場合に、不足分を補うために発行される、国の借金です。いわゆる国債 (Government Bonds) の発行による収入です。
- 日本の一般会計歳入では、この公債金収入が、全体の約3割を占めており、財政が借金に大きく依存している(赤字国債への依存)ことを示しています。これは、先進国の中でも、極めて高い水準です。
- その他収入国有財産の売却収入や、日本銀行からの納付金などが含まれますが、歳入全体に占める割合は比較的小さいです。
2.2. 歳出:政府の支出
政府の財布から出ていくお金である歳出は、その使い道によって、様々な経費に分類されます。日本の一般会計歳出の中で、特に大きな割合を占めるのは、以下の三つの経費です。
- 社会保障関係費歳出の中で、最大の割合(約3分の1)を占める、最重要の支出項目です。
- 年金、医療、介護、生活保護、少子化対策といった、社会保障制度を運営するために使われる費用です。
- 少子高齢化の急速な進展に伴い、この社会保障関係費は、年々増加の一途をたどっており、日本の財政を圧迫する最大の要因となっています。
- 国債費社会保障関係費に次いで、大きな割合(約4分の1)を占める支出項目です。
- これは、過去に発行した**国債の返済(償還)**と、利子の支払いに充てられる費用です。
- 借金(公債金収入)に頼る財政運営を続けてきた結果、その借金返済のための支出(国債費)が、歳出の大きな部分を自動的に占めてしまうという、硬直化した構造になっています。
- 地方交付税交付金等国が徴収した税金(国税)の一部を、地方自治体(都道府県や市町村)の財源として、一定のルールに基づいて再配分するお金です。
- これは、地方自治体間の財政力の格差を是正し、全国どこでも、一定水準の行政サービスが提供できるようにすることを目的としています。
この**「社会保障関係費」「国債費」「地方交付税交付金等」の三つは、法律によって支出が義務付けられているものが多く、裁量的な削減が難しい義務的経費**と呼ばれます。日本の歳出は、これらの義務的経費が大部分を占めているため、景気対策などで機動的に使える経費(公共事業関係費や、文教及び科学振興費など)の割合は、相対的に小さくなっています。
3. 租税の種類(直接税、間接税)と、租税原則
歳入の根幹をなす租税(税金)は、私たちの暮らしと密接に関わっています。租税は、その徴収方法や課税対象によって、いくつかの種類に分類することができます。また、どのような税制が「望ましい」のかについては、古くから多くの議論が重ねられてきました。
3.1. 租税の分類
租税は、納税者と担税者の関係によって、直接税と間接税に大別されます。
- 直接税 (Direct Tax)納税者(税金を国や地方自治体に納める義務のある人)と、担税者(その税金を実質的に負担する人)が、一致すると想定されている税金。
- 例:
- 所得税:個人の所得に対して課される。
- 法人税:企業の利潤に対して課される。
- 相続税:遺産の相続に対して課される。
- 住民税、固定資産税(地方税)。
- 特徴:個々人の支払い能力(所得や資産の大きさ)に応じて、税負担を調整しやすい(垂直的公平の実現に有利)。累進課税を適用しやすい。
- 例:
- 間接税 (Indirect Tax)納税者(税金を納める事業者)と、担税者(実質的に負担する消費者)が、異なると想定されている税金。事業者は、商品の価格に税金を上乗せして、消費者に負担を転嫁(転嫁)します。
- 例:
- 消費税:商品やサービスの購入に対して課される。
- 酒税、たばこ税、揮発油税:特定の商品の購入に対して課される(個別消費税)。
- 関税:輸入品に対して課される。
- 特徴:所得の大きさに関わらず、同じ商品を買えば同じ税額を負担するため、負担の公平性に問題が生じる可能性がある(逆進性の問題)。一方で、徴税が容易で、税収が景気変動の影響を受けにくいという利点もある。
- 例:
日本の税制は、かつては所得税を中心とした直接税中心の構造(直間比率で直接税が高い)でしたが、高齢化社会の進展などを背景に、消費税の導入・増税が進められ、間接税の比重が高まる傾向にあります。
3.2. 租税原則
どのような税制が「公平」で「望ましい」のか。この問いに対する古典的な答えとして、経済学の父、アダム・スミスが提唱した四つの租税原則が有名です。
- 公平の原則 (Equality)国民は、それぞれの支払い能力に応じて、公平に税を負担すべきである。これは、現代の応能原則(能力に応じて負担する)の考え方の基礎となっています。
- 明確の原則 (Certainty)納税者が支払うべき税額、時期、方法は、誰にとっても明確で、分かりやすいものでなければならない。
- 便宜の原則 (Convenience)税金の徴収は、納税者にとって、最も都合の良い時期や方法で行われるべきである。(例:所得を得た時点での源泉徴収)
- 徴税費最小の原則 (Economy)税金を徴収するためにかかる費用(人件費など)は、できるだけ少なく抑えるべきである。
これらの原則は、200年以上前に提唱されたものですが、現代の税制のあり方を考える上でも、依然として重要な指針となっています。
4. 累進課税と、逆進性
税制の「公平性」を考える上で、最も重要な論点の一つが、その税制が所得格差に対して、どのような影響を与えるか、という点です。所得の大きさと税負担の関係から、課税方式は主に三つのタイプに分類されます。
4.1. 累進課税(Progressive Taxation)
累進課税とは、課税対象となる所得(課税所得)が多くなるほど、より高い税率が適用される課税方式です。
これは、支払い能力(応能)が高い高所得者ほど、より重い税負担を負うべきであるという垂直的公平の考え方に基づいています。
- 例:日本の所得税や相続税は、この累進課税方式の代表例です。所得税では、所得をいくつかの階層に分け、低い所得階層には低い税率(例:5%)を、所得が上がるにつれて、段階的に高い税率(例:10%, 20%… 最高45%)が適用される超過累進税率が採用されています。
- 効果:累進課税は、税引き後の所得格差を縮小させる、強力な所得再分配機能を持っています。
4.2. 比例課税(Proportional Taxation)
比例課税とは、所得の大きさに関わらず、一律で同じ税率が適用される課税方式です。フラット・タックスとも呼ばれます。
- 例:日本の法人税や、多くの地方税(住民税の所得割など)は、比例税率が採用されています。
- 特徴:税額の計算がシンプルであるという利点があります。しかし、所得格差を是正する効果はありません。
4.3. 逆進課税(Regressive Taxation)と「逆進性」
逆進課税とは、所得が多くなるほど、適用される税率が低くなる課税方式です。このような税制を意図的に採用している国は、ほとんどありません。
しかし、より重要なのは、一見すると比例課税のように見える税制が、結果として、低所得者ほど重い負担を強いるという「逆進性 (Regressivity)」を持つ場合がある、という点です。
- 代表例:消費税消費税の税率は、所得に関わらず、一律10%(標準税率)です。この意味では、比例課税の一種です。しかし、所得に占める税負担の割合で考えると、話は変わってきます。
- 低所得者は、所得の大部分を、生活必需品の購入などの消費に回さざるを得ません。
- 高所得者は、所得のうち、消費に回す割合は相対的に低く、残りの多くを貯蓄や投資に回します。
- 例:
- 年収200万円のAさんは、所得のほぼ全額を消費し、20万円の消費税を負担します。所得に占める税負担率は、10% (\(20/200\)) です。
- 年収2000万円のBさんは、所得の半分(1000万円)を消費し、100万円の消費税を負担します。所得に占める税負担率は、5% (\(100/2000\)) です。
直接税である所得税は累進的、間接税である消費税は逆進的という、異なる性質を持つ税金をどのように組み合わせるか(直間比率のあり方)は、その国の所得再分配政策の根幹に関わる、重要な政治的選択なのです。
5. 財政政策と、その手段(政府支出、減税)
景気の安定化機能とは、政府が、総需要を意図的にコントロールすることで、景気の過熱や後退を抑制し、経済を安定させようとする役割でした。この目的のために、政府が用いる一連の政策手段を、財政政策 (Fiscal Policy) と呼びます。
財政政策の具体的な道具は、総需要の構成要素 \(AD = C + I + G + (X – M)\) のうち、政府が直接コントロールできる項目、すなわち**政府支出(G)と、民間部門の支出である消費(C)や投資(I)に影響を与える租税(T)**の二つです。
5.1. 不況期に行う拡張的(拡大)財政政策
経済が不況に陥り、失業が増加している(デフレ・ギャップが存在する)とき、政府は、総需要を増大させるための拡張的な財政政策を実施します。
- 政府支出(G)の増加これが、最も直接的で強力な手段です。
- 内容:政府が、公共事業(道路、橋、公共施設の建設など)への支出を増やします。
- メカニズム:政府支出(G)の増加は、それ自体が、総需要(AD)の構成要素の直接的な増加となります。AD曲線は上方にシフトします。
- 効果:そして、乗数効果によって、最初の政府支出の増加額の何倍もの、国民所得(Y)の増加が、経済全体に波及します。これにより、失業が減少し、景気は回復に向かいます。
- 減税 (Tの削減)政府が、税率を引き下げることも、総需要を刺激する有効な手段です。
- 内容:所得税の減税や、法人税の減税を実施します。
- メカニズム:
- 所得税減税は、家計の可処分所得(自由に使えるお金)を増やします。これにより、消費(C)が増加します。
- 法人税減税は、企業の税引き後利潤を増やし、新たな投資(I)を促進する効果が期待されます。
- 効果:消費(C)や投資(I)の増加は、AD曲線を上方にシフトさせ、乗数効果を通じて、国民所得(Y)を増加させます。(※ただし、減税分の一部は貯蓄に回されるため、同額の政府支出の増加に比べると、乗数効果は一般的に小さくなります。)
5.2. 好況期に行う緊縮的財政政策
逆に、経済が過熱し、深刻なインフレが懸念される(インフレ・ギャップが存在する)とき、政府は、総需要を抑制するための緊縮的な財政政策を実施します。
- 政府支出(G)の削減
- 内容:不要不急の公共事業を、延期または中止します。
- メカニズム:政府支出(G)の減少は、総需要(AD)を直接的に減少させ、AD曲線を下方にシフトさせます。負の乗数効果が働き、国民所得(Y)は、支出削減額の何倍も減少します。
- 増税 (Tの増加)
- 内容:所得税や法人税の税率を引き上げます。
- メカニズム:増税は、家計の可処分所得を減らして消費(C)を抑制し、企業の投資意欲を削いで投資(I)を抑制します。これにより、AD曲線は下方にシフトし、国民所得(Y)は減少します。
このように、政府は、景気の状況に応じて、財政というアクセルとブレーキを使い分けることで、経済という乗り物を、安定した走行路へと導こうとするのです。
6. ビルト・イン・スタビライザー(自動安定化装置)
政府が行う財政政策には、その都度の国会審議などを経て、意図的に実施される「裁量的な政策」だけでなく、特別な政策判断を必要とせず、経済の仕組みそのものに、あらかじめ組み込まれている、景気安定化機能が存在します。
この、景気の変動を自動的に和らげる(好況の過熱を抑え、不況の落ち込みを緩和する)仕組みのことを、ビルト・イン・スタビライザー (Built-in Stabilizer) または自動安定化装置と呼びます。
これは、経済に搭載された、一種の「自動ブレーキ」と「自動アクセル」のようなものと考えることができます。
6.1. ビルト・イン・スタビライザーのメカニズム
この自動安定化機能は、主に二つの制度によってもたらされます。
- 累進所得税制度日本の所得税のように、所得が増えるほど高い税率が適用される累進課税制度は、強力なビルト・イン・スタビライザーとして機能します。
- 好況期(景気拡大局面):人々の所得が増加します。累進課税の下では、所得の増加以上に、税金の徴収額が自動的に増加します。これにより、家計の可処分所得の伸びが抑えられ、消費の過熱に自動的にブレーキがかかります。
- 不況期(景気後退局面):人々の所得が減少します。すると、適用される税率も下がるため、税金の徴収額が自動的に減少します。これにより、可処分所得の落ち込みが緩和され、消費の急激な減少に自動的に歯止めがかかります。
- 社会保障制度(特に、失業保険)失業保険などの社会保障制度もまた、景気の変動を和らげる重要な役割を果たします。
- 好況期:失業者が少ないため、政府から支払われる失業保険給付の総額は、自動的に減少します。これは、政府から民間への所得移転が減ることを意味し、総需要の過度な拡大を抑制します。
- 不況期:失業者が増加するため、政府から支払われる失業保険給付の総額は、自動的に増加します。これにより、失業によって所得を失った人々の消費が、完全に途絶えてしまうのを防ぎ、経済全体の需要の落ち込みを、自動的に下支えします。
6.2. ビルト・イン・スタビライザーの利点
この仕組みの最大の利点は、それが「自動的に」、かつ「タイムラグなく」作動する点にあります。
政府が、景気の悪化を認識し、国会で審議して、公共事業を実施する、といった裁量的な政策には、どうしても時間的な遅れ(タイム・ラグ)が生じます。しかし、ビルト・イン・スタビライザーは、景気が変化したその瞬間に、即座に安定化機能を発揮し始めます。
この、経済に元から備わっている安定化の仕組みが、現代経済を、より大きな景気の波から守る、重要な役割を果たしているのです。
7. フィスカル・ポリシー
ビルト・イン・スタビライザーが、経済に組み込まれた「自動操縦」の機能であるとすれば、政府が、その時々の経済状況を判断し、自らの「裁量」に基づいて、意図的に財政支出や税制を操作する政策を、フィスカル・ポリシー (Fiscal Policy) と呼びます。
これは、ケインズが提唱した、景気安定化のための、より積極的で、能動的な政策介入を指す言葉であり、日本語では**(裁量的な)財政政策**と訳されます。
7.1. フィスカル・ポリシーの目的と手段
フィスカル・ポリシーの主な目的は、ビルト・イン・スタビライザーだけでは吸収しきれない、大きな景気の変動(深刻な不況や、過度なインフレ)を、政府の積極的な介入によって平準化し、経済を完全雇用と物価の安定が両立する、望ましい状態へと導くことです。
その具体的な手段は、Module 10の5で見た通りです。
- 不況期には、政府支出の拡大や減税といった拡張的フィスカル・ポリシーを実施し、総需要を刺激します。
- 好況期には、政府支出の削減や増税といった緊縮的フィスカル・ポリシーを実施し、総需要を抑制します。
7.2. フィスカル・ポリシーが直面する課題
フィスカル・ポリシーは、理論上は強力な景気調整手段ですが、その実施にあたっては、いくつかの現実的な困難や課題に直面します。
- タイム・ラグ(時間的な遅れ)政策の実施には、様々な段階で、時間的な遅れが生じます。
- 認識ラグ:景気が後退局面に入ったことを、政府がデータで認識するまでに時間がかかる。
- 決定ラグ:政策を決定し、国会で関連法案や予算を成立させるまでに時間がかかる。
- 実行ラグ:決定された政策(例えば、公共事業)が、実際に執行され、経済に影響を与え始めるまでに時間がかかる。このタイム・ラグのために、政策が実施された頃には、すでに景気の局面が変わってしまっており、かえって景気の変動を増幅させてしまう(プロシクリカルになる)危険性も指摘されています。
- 政治的な困難さフィスカル・ポリシーは、政治的なプロセスを通じて決定されます。
- 拡張政策の容易さ:政府支出の拡大や減税は、有権者に歓迎されやすいため、政治的に実行しやすい傾向があります。
- 緊縮政策の困難さ:逆に、景気過熱を抑えるための政府支出の削減や増税は、有権者の不人気を買いやすいため、政治的に実行が非常に困難です。この非対称性の結果、拡張的な財政政策ばかりが繰り返され、財政赤字が恒常的に累積していく、というバイアスがかかりやすいのです。
- クラウディング・アウト政府が、不況対策のために、国債を発行して、大規模な公共事業を行った場合、それが、かえって民間企業の投資を減少させてしまう(締め出してしまう)可能性がある、という問題です。これについては、次の国債の問題点で詳しく見ていきます。
これらの課題があるため、現代のマクロ経済政策では、フィスカル・ポリシーだけでなく、より機動的に実施できる金融政策との、適切な組み合わせ(ポリシー・ミックス)が重要とされています。
8. 公債(国債)の問題点
政府が、拡張的な財政政策を実施するためには、その財源が必要となります。税収が不足している場合、政府は公債(国債)を発行して、市場から資金を調達します。
適度な公債の発行は、景気を安定させ、社会に必要なインフラを整備するために有効な手段となり得ます。しかし、公債への過度な依存、特に、経常的な経費を賄うための赤字国債の発行が常態化すると、経済に様々な深刻な問題を引き起こす可能性があります。
8.1. クラウディング・アウト(Crowding Out)
これは、政府が、大規模な財政支出を賄うために、国債を大量に発行すると、市中の金利が上昇し、その結果、民間企業の設備投資などが抑制(締め出し)されてしまう現象です。
- メカニズム:
- 政府が、金融市場で国債を大量に発行します。
- これにより、市場全体の資金需要が増加します。
- 資金の需給が逼迫するため、利子率(金利)が上昇します。
- 利子率の上昇は、民間企業にとっては、資金の借入コストの増大を意味します。
- これまで採算が取れると見込まれていた設備投資プロジェクトが、金利の上昇によって、採算割れとなってしまい、企業は投資を断念します。
- 結果:政府支出(G)の増加が、民間投資(I)の減少を引き起こしてしまい、本来期待されていた総需要の拡大効果が、相殺されて弱まってしまう可能性があります。これは、政府の財政政策の有効性を損なう、重要な問題点として指摘されています。(※ただし、経済が深刻な不況にあり、民間企業の資金需要が極端に冷え込んでいる状況では、クラウディング・アウトは起こりにくい、とするケインズ派の反論もあります。)
8.2. 将来世代への負担の転嫁
現在の世代が、税負担を回避し、国債の発行によって、高い水準の行政サービスを享受した場合、その国債の償還(返済)と利払いの負担は、将来、税金を納めることになる将来世代へと先送りされることになります。
これは、世代間の公平性の観点から、大きな問題とされています(世代間格差)。
将来世代は、自分たちが直接便益を受けたわけではない過去の政策のツケを、より重い税負担という形で支払わされることになるのです。
8.3. 財政の硬直化
国債の発行残高が積み上がると、歳出に占める**国債費(元利払い費用)**の割合が、自動的に増加していきます。
国債費は、過去の約束に基づく義務的な支出であるため、政府が裁量で削減することはできません。
これにより、社会保障や教育、防衛、公共事業といった、政策的に重要な他の経費に充てる予算が圧迫され、政府が、その時々の社会経済の変化に、機動的に対応する能力(財政の弾力性)が、失われてしまいます。
8.4. インフレーションの懸念
もし、政府が発行した国債を、中央銀行(日本銀行)が直接引き受ける(財政ファイナンス)という禁じ手に踏み出すと、市中にお金が過剰に供給され、悪性のハイパー・インフレーションを引き起こす危険性があります。そのため、これは多くの国で、法律によって原則として禁止されています。
これらの問題点から、公債の発行残高を、持続可能な水準にコントロールし、財政の健全性を維持すること(財政再建)は、多くの先進国にとって、極めて重要な政策課題となっているのです。
9. 財政投融資
日本の財政システムには、一般会計や特別会計といった、税金を主な財源とする国家予算の枠組みとは別に、もう一つ、独特で大規模な資金の流れが存在します。それが、財政投融資 (Fiscal Investment and Loan Program, FILP) です。
かつては、その規模の大きさから「第二の予算」とも呼ばれていました。
9.1. 財政投融資とは何か
財政投融資とは、政府が、税金以外の資金(財政投融資資金)を原資として、政策的に重要と判断される分野に対して、投融資(投資や融資)を行う仕組みです。
- 特徴:
- 財源は、税金ではない:財源は、主に、国債の一種である**財投債(財政投融資特別会計国債)**を発行して、金融市場から調達されます。
- 投融資である:資金の使い道は、返済を前提とした「融資」や、収益性を見込んだ「投資」が中心です。したがって、事業には、採算性が求められます。
9.2. かつての仕組みと、2001年の改革
2001年に行われた大幅な制度改革以前、財政投融資は、現在とは大きく異なる仕組みで運営されていました。
- 旧制度(~2001年3月):
- 主な財源:国民から集めた郵便貯金や簡易保険、厚生年金・国民年金の積立金といった、膨大な公的資金が、大蔵省の資金運用部に、預託義務によって、半ば自動的に集められていました。
- 問題点:国会審議を経ずに、官僚の裁量で巨額の資金が動かせる「第二の予算」として、透明性の欠如や、非効率な運用(特殊法人への安易な融資など)が、厳しく批判されました。
- 新制度(2001年4月~):この反省から、郵便貯金などの預託義務は廃止され、より市場原理に基づいた仕組みへと改革されました。
- 主な財源:財投債を発行して、市場から、自らの信用力で資金を調達する方式に変わりました。
- 透明性の向上:毎年、「財政投融資計画」が、予算の一部として国会に提出され、審議・議決を受けることになりました。
9.3. 財政投融資の役割
財政投融資は、以下のような、政策的な役割を果たすことが期待されています。
- 長期・低利の資金供給:民間の金融機関だけでは、リスクが高すぎたり、回収期間が長すぎたりして、融資が困難な分野(例えば、中小企業の育成、大規模なインフラ整備、奨学金事業など)に対して、長期的で、安定した、低利の資金を供給します。
- 景気対策:不況期には、財投債の発行を増やし、景気の下支えとなるようなプロジェクトへの投融資を拡大することで、財政政策を補完する役割も担います。
財政投融資は、税金を使う一般の財政政策と、純粋な民間の金融との「中間領域」に位置し、日本の経済社会の発展に、独自の役割を果たしてきた制度なのです。
10. プライマリーバランス
累積した政府債務の問題が深刻化する中で、国の財政の「健康状態」をチェックするための、重要な指標として、近年、特に注目されているのが、プライマリーバランス (Primary Balance) です。
日本語では、基礎的財政収支と訳されます。
10.1. プライマリーバランスの定義
プライマリーバランスとは、その年度の政府の歳出のうち、過去の借金(国債)の元利払い(国債費)を除いたものと、その年度の税収などで賄えているかどうかを示す財政収支の指標です。
\[
\text{プライマリーバランス} = \text{税収等} – (\text{一般会計歳出} – \text{国債費})
\]
- プライマリーバランスが黒字:その年の政策的な経費(社会保障、公共事業、教育など)が、その年の税収だけで、すべて賄えている状態。借金返済も、新たな借金に頼らずに行えている、財政的に健全な状態を示します。
- プライマリーバランスが赤字:その年の政策的な経費すら、税収だけでは賄いきれず、その不足分を、新たな借金(国債発行)に頼っている状態。過去の借金の元利払いも、当然、新たな借金で賄っていることになり、雪だるま式に債務が膨らんでいく危険性がある、不健全な状態を示します。
- プライマリーバランスが均衡(ゼロ):政策的な経費を、ちょうど税収で賄えている状態。この状態が達成されれば、少なくとも、新たな借金によって、債務残高が純増していく悪循環からは、脱却できることになります。
10.2. なぜプライマリーバランスが重要なのか?
財政再建の目標として、なぜ、通常の財政収支(歳入-歳出)ではなく、このプライマリーバランスの黒字化が、しばしば目標として掲げられるのでしょうか。
それは、プライマリーバランスが、**「政府債務残高の対GDP比が、将来、発散せずに、安定的に収束していくための、最低限の条件」**と見なされているからです。
もし、プライマリーバランスが赤字のままだと、政策的経費の穴埋めと、過去の借金の利払いの両方を、新たな借金で賄い続けることになります。これは、利子が利子を生む「複利の効果」によって、債務残高が、経済成長のペースを上回って、指数関数的に膨らんでいく危険性をはらんでいます。
そうなると、やがて、その国の国債に対する市場の信認が失われ、金利が急騰(国債暴落)したり、制御不能なインフレが発生したりする、財政破綻のリスクが高まります。
したがって、まずは、プライマリーバランスを黒字化し、「政策的な経費は、新たな借金に頼らずに、その年の税収で賄う」という、財政運営の規律を取り戻すことが、財政の持続可能性を確保するための、第一歩として、極めて重要であるとされているのです。日本政府も、このプライマリーバランスの黒字化を、財政再建の当面の目標として掲げていますが、その達成は、依然として遠い道のりとなっています。
Module 10:財政政策の論理の総括:国の財布を預かる者の、責任とジレンマ
本モジュールでは、政府の経済活動の中核をなす「財政」について、その機能、仕組み、そして現代社会が直面する課題までを、体系的に探求してきました。それは、一国の経済の舵取りを任された政府が、いかにして国民の暮らしを守り、経済を安定させようとするのか、その「責任」と、理想と現実の間で常に揺れ動く「ジレンマ」を解き明かす旅でした。
私たちはまず、財政が、資源配分、所得再分配、景気安定化という、市場だけでは果たせない三つの重要な機能を担っていることを見ました。そして、その活動の源泉である**歳入(租税・公債)と、使い道である歳出(社会保障・国債費など)**の構造を分析し、現代日本の財政が、社会保障費の増大と、多額の借金(国債)によって、いかに硬直化しているかを理解しました。
次に、財政政策の具体的なツールに焦点を当てました。累進課税が所得格差を是正する一方で、消費税が逆進性の問題を抱えていること。そして、ケインズ理論に基づき、不況期に政府支出や減税を通じて景気を刺激するフィスカル・ポリシーの論理と、経済に自動的な安定化機能をもたらすビルト・イン・スタビライザーの巧妙な仕組みを学びました。
しかし、その処方箋は、万能薬ではありません。財政政策の財源となる公債への過度の依存が、クラウディング・アウトや将来世代への負担といった、深刻な副作用をもたらす危険性を指摘しました。そして、財政の持続可能性を測る指標であるプライマリーバランスの黒字化が、なぜ財政再建の試金石とされるのか、その意味を探りました。
このモジュールを通じて見えてきたのは、財政政策という舵取りが、常に、景気安定、所得の公平、そして財政の健全性という、互いに対立しうる複数の目標の間で、難しいバランス取りを迫られている、という厳しい現実です。
「増税か、歳出削減か、それともさらなる国債発行か」。これらの選択肢には、それぞれ異なる便益と費用があり、どの世代が、どの社会階層が、その負担を負うのかという、痛みを伴う問いが常に付きまといます。
財政の論理を理解することは、単に経済学の知識を増やすことではありません。それは、私たち市民一人ひとりが、自らが属する社会の未来を、どのようなかたちで設計していくのか、その責任ある選択に参加するための、不可欠な知的武装なのです。