【基礎 政治経済(経済)】Module 19:労働問題と社会保障
本モジュールの目的と構成
経済学が「社会の富の生産・分配・消費を研究する学問」であるとすれば、その根幹には常に「働くこと」と「生きること」という、私たち人間にとって最も根源的なテーマが存在します。本モジュールは、この二つのテーマに経済学の光を当て、現代社会の構造を支える二本の柱、「労働市場」と「社会保障制度」のメカニズムとその課題を体系的に解き明かすことを目的とします。この二つの領域は、一見すると別々の問題のように見えますが、実は「人生のリスクに、個人と社会がどう向き合うか」という一つの大きな問いを共有する、密接不可分な関係にあるのです。
私たちはまず、人々がいかにして仕事を得て、その対価である賃金がどのように決まるのかという「労働市場」の論理から探求を始めます。そこでは、労働者の権利を守るための基本的な法制度(労働三権・労働三法)や、かつて日本の強みとされた「日本的雇用慣行」が、非正規雇用の増大という大きな構造変化の中でいかに揺らいでいるか、その現実を直視します。そして、誰もが直面しうる「失業」というリスクについて、その種類と原因を分析していきます。
次に、私たちの視点は、病気、失業、高齢、貧困といった、人生で遭遇しうる様々な困難から人々を守るセーフティネット、すなわち「社会保障制度」へと移ります。医療、年金、雇用、介護、そして生活保護。これらの制度が、どのような思想(「社会保険」と「公的扶助」)に基づいて設計され、私たちの生活を支えているのか、その全体像を明らかにします。
しかし、このセーフティネットは今、人類史上どの国も経験したことのない「少子高齢化」という巨大な地殻変動によって、その存続そのものが脅かされています。本モジュールの終盤では、この日本社会が直面する最大の課題に焦点を当て、社会保障制度が抱える構造的な問題を深く掘り下げ、未来に向けた改革の方向性を考察します。
このモジュールを学び終えたとき、皆さんは、日々の労働や将来の生活設計といった身近な問題が、いかにして社会全体の制度設計や、世代を超えた大きな課題と結びついているのかを、論理的に理解することができるでしょう。それは、単に知識を得るだけでなく、公正で持続可能な社会の一員として、自らの未来を構想するための、不可欠な知的視座を獲得することに他なりません。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、現代社会の基盤を支える制度とその挑戦に迫ります。
- 労働市場と、賃金の決定: まず、私たちの労働の対価である「賃金」が、労働力の需要と供給という市場原理によってどのように決定されるのか、その基本的なメカニズムを学びます。
- 労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権): 個々の労働者が、使用者に対して対等な立場で交渉するために、憲法によって保障されている三つの基本的な権利の内容を理解します。
- 労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法): 労働三権を具体的に実現し、労働者を保護するための三つの重要な法律、労働三法の役割と概要を整理します。
- 雇用形態の多様化(非正規雇用): 現代の日本の労働市場の最も大きな特徴である、パート・アルバイト・派遣社員といった「非正規雇用」が増加した背景と、それがもたらす課題を分析します。
- 日本的雇用慣行(終身雇用、年功序列)とその変化: かつて日本の高度経済成長を支えたとされる「終身雇用」や「年功序列」といった雇用システムが、なぜ、そしていかにして変化しているのかを考察します。
- 失業問題: 誰にとっても無縁ではない「失業」を、その発生原因によって分類し、それぞれの対策について考えます。
- 社会保険と、公的扶助: 次に、社会保障制度の根幹をなす二つの考え方、「社会保険」と「公的扶助」の仕組みと理念の違いを明確にします。
- 年金制度(国民年金、厚生年金): 高齢期の所得を保障する公的年金制度について、全ての国民が加入する「国民皆年金」と、「二階建て」と呼ばれるその構造を解き明かします。
- 医療保険制度: 私たちが安心して医療を受けられる社会の基盤である、公的医療保険制度の「国民皆保険」の仕組みとその特徴を学びます。
- 少子高齢化と、社会保障制度の課題: 最後に、日本が直面する最大の課題である「少子高齢化」が、年金や医療といった社会保障制度の持続可能性にいかに深刻な影響を与えているのか、その構造的な問題の本質に迫ります。
この一連の学習を通じて皆さんが獲得するのは、制度に関する断片的な知識の暗記ではありません。それは、自らの「働く」と「生きる」を、社会全体の構造の中に位置づけ、その未来を構想するための、一貫した知的「方法論」なのです。
1. 労働市場と、賃金の決定
私たちが働くことによって得る対価、すなわち「賃金」は、どのようにして決まるのでしょうか。ある職業の給料が高く、別の職業の給料が低いのはなぜでしょうか。この根源的な問いに答えるための基本的な枠組みを提供するのが、労働市場(Labor Market)の考え方です。労働市場とは、個別の企業や産業、ひいては経済全体における、労働力の買い手(需要側=企業)と、労働力の売り手(供給側=労働者)が出会う場であり、そこで労働力の価格である賃金と、取引量である雇用量が決定される、と考えるモデルです。
1.1. 労働の需要と供給
他の市場と同様に、労働市場の基本的なメカニズムも、需要と供給の法則によって説明することができます。
- 労働需要(企業側):労働の需要の主体は、労働者を雇って財やサービスを生産しようとする企業です。企業は、労働者を一人追加で雇用することによって得られる生産物の増加分(これを限界生産力と呼びます)と、その労働者に支払う賃金コストを比較して、雇用量を決定します。賃金が低くなれば、企業はより多くの労働者を雇って生産を拡大しようとするため、労働需要量は増加します。逆に、賃金が高くなれば、企業はコストを抑えるために雇用を減らそうとするため、労働需要量は減少します。したがって、労働需要曲線は右下がりの曲線として描かれます。
- 労働供給(労働者側):労働の供給の主体は、自らの労働力を提供して所得を得ようとする労働者(家計)です。労働者は、働くことによって得られる賃金と、働かずに余暇を過ごすことから得られる満足度を比較して、どれだけ働くか(労働供給量)を決定します。賃金が高くなれば、余暇を犠牲にしてでも働いた方が得だと考える人が増えるため、労働供給量は増加します。逆に、賃金が低くなれば、働く意欲が削がれ、労働供給量は減少します。したがって、労働供給曲線は右上がりの曲線として描かれます。
1.2. 均衡賃金の決定
労働市場では、この**労働需要曲線と労働供給曲線が交差する点(均衡点)**で、賃金(均衡賃金)と雇用量が決まります。この均衡賃金の水準では、働きたいと考える労働者の数と、企業が雇いたいと考える労働者の数がちょうど一致し、市場は安定します。
もし、実際の賃金が均衡賃金よりも高い水準にあれば、働きたい人の数(労働供給)が、企業が雇いたい人の数(労働需要)を上回り、失業が発生します。この場合、職に就けない人々の中から、より低い賃金でも働きたいという人が現れるため、賃金は均衡水準に向かって低下していく圧力がかかります。
逆に、実際の賃金が均衡賃金よりも低い水準にあれば、企業が雇いたい人の数が、働きたい人の数を上回り、人手不足となります。この場合、企業は労働者を確保するために、より高い賃金を提示する必要があるため、賃金は均衡水準に向かって上昇していく圧力がかかります。
1.3. 賃金格差はなぜ生まれるか
この基本的なモデルは、なぜ世の中に賃金格差が存在するのかを説明するための出発点となります。
- 需要側の要因:ある特定のスキルを持つ労働者(例えば、高度なプログラミング技術を持つITエンジニア)に対する企業の需要が非常に大きい場合、そのスキルを持つ労働者の労働需要曲線は右側にシフトし、賃金は高くなります。
- 供給側の要因:そのスキルを持つ労働者の**供給が非常に少ない(希少である)**場合、労働供給曲線は左側にシフトし、これも賃金を押し上げる要因となります。医師や弁護士といった、資格を得るために長年の教育や訓練が必要な専門職の賃金が高いのは、このためです。
逆に、特別なスキルを必要とせず、誰でも就くことができる仕事は、労働力の供給が豊富であるため、賃金は低くなる傾向があります。
ただし、現実の労働市場は、このように単純なモデルだけでは説明できない、多くの複雑な要因を抱えています。労働者は、製品のように均一ではなく、一人ひとり能力や意欲が異なります。また、企業と労働者の間には、情報の非対称性(企業の方が労働者の能力を完全には把握できない)が存在します。そして何よりも、個々の労働者は、巨大な力を持つ使用者(企業)に対して、交渉力が著しく弱いという現実があります。この「労使間の交渉力の非対称性」を是正するために、次に学ぶ労働者の基本的な権利が、近代社会において確立されることになったのです。
2. 労働三権(団結権、団体交渉権、団体行動権)
労働市場の基本的なモデルは、賃金が需要と供給によって決まることを示しました。しかし、現実の労働関係において、個々の労働者は、使用者である企業に対して、圧倒的に弱い立場に置かれています。もし、労働者が一人で使用者と賃金や労働条件について交渉しようとしても、解雇を恐れて、不利な条件を受け入れざるを得ないかもしれません。このような労使間の実質的な力の不平等を是正し、労働者が使用者と対等な立場で交渉できるようにするために、近代国家の憲法は、労働者に特別な権利を保障しています。これが労働三権と呼ばれる、労働者の基本的な権利です。
日本の日本国憲法第28条は、この労働三権を「勤労者の権利」として明確に保障しています。
第二十八条 勤労者の団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利は、これを保障する。
この条文の中に、労働三権の三つの柱が示されています。
2.1. 団結権
団結権とは、労働者が、使用者と対等な立場に立つために、労働組合を結成し、またはそれに加入する権利です。
一人では弱い労働者も、団結して一つの組織(労働組合)を作ることで、使用者に対して大きな交渉力を持つことができます。使用者が、労働組合の要求を無視して、組合員全員を一度に解雇する、といったことは現実的に困難です。
この団結権には、労働組合を結成する自由だけでなく、どの組合に加入するかを選ぶ自由、あるいは組合に加入しない自由も含まれると解釈されています。
2.2. 団体交渉権
団体交渉権とは、労働者が結成した労働組合が、その代表者を通じて、使用者と、賃金、労働時間、その他の労働条件について交渉する権利です。
労働組合は、組合員全体の意見を代表して、使用者と対等な当事者として交渉のテーブルにつくことができます。そして、使用者は、正当な理由なくこの団体交渉を拒否することはできません。この団体交渉を通じて、労使双方は、労働条件に関するルールを定めた労働協約を結ぶことを目指します。この労働協約は、法的な効力を持つ労使間の契約となります。
2.3. 団体行動権(争議権)
団体行動権は、争議権とも呼ばれ、労働組合が、その要求を実現するために、集団で行動を起こす権利です。
団体交渉が行き詰まり、労使間の主張の対立が解決しない場合に、労働組合は、使用者に対して圧力をかけるための最終手段として、団体行動をとることが認められています。
団体行動の最も代表的なものが**ストライキ(同盟罷業)**です。これは、労働組合が、組合員の合意のもとで、一斉に働くことをやめてしまう(労務の提供を拒否する)行為です。ストライキは、企業の生産活動をストップさせることで、使用者に大きな経済的打撃を与え、交渉のテーブルで譲歩を引き出すことを目的とします。
その他にも、怠業(サボタージュ)や、ピケッティング(ストライキ中に、他の労働者が働くのを妨げる行為)なども団体行動に含まれます。
これらの労働三権に基づいて行われる正当な団体行動(争議行為)については、法律によって特別な保護が与えられています。
- 刑事免責: 正当な争議行為は、威力業務妨害罪などの刑事罰の対象とはなりません。
- 民事免責: 正当な争議行為によって使用者が損害を被っても、労働組合や組合員は、損害賠償の責任を負いません。
ただし、公務員については、その職務の公共性から、労働三権の一部、特に団体行動権が法律によって制限されています。
この労働三権は、単に労働者を保護するためだけのものではありません。労使が対等な立場でルールを決め、紛争を解決する仕組み(労使自治)を確立することで、産業社会全体の安定と発展に貢献するという、重要な役割を担っているのです。
3. 労働三法(労働基準法、労働組合法、労働関係調整法)
日本国憲法第28条で保障された労働三権は、それだけでは具体的な効力を持ちません。これらの抽象的な権利を、現実の労使関係の中で実効性のあるものにするために、具体的なルールを定めた一連の法律が制定されています。その中でも、中核となるのが労働基準法、労働組合法、労働関係調整法の三つの法律であり、これらを総称して労働三法と呼びます。これらは、日本の労働者を守るための最も基本的な法的な枠組みです。
3.1. 労働基準法:労働条件の最低基準
労働基準法は、**賃金、労働時間、休日、休暇など、労働条件に関する最低限の基準(ナショナル・ミニマム)**を定めた法律です。
この法律の目的は、立場が弱い労働者が、使用者から不当に劣悪な条件で働かされることのないよう、国が強制力のあるルールを設定し、労働者の基本的な人権を保護することにあります。
- 主な内容:
- 労働契約: 労働条件の明示義務、不当な解雇の制限など。
- 賃金: 通貨払いの原則、最低賃金制度など。
- 労働時間: 原則として「1日8時間、1週40時間」という法定労働時間の上限を定めています。
- 休憩・休日: 労働時間に応じた休憩、週に1日以上の休日の付与義務。
- 年次有給休暇: 勤続期間に応じた有給休暇の付与義務。
- 安全衛生: 労働者の安全と健康を確保するための措置。
- 年少者・女性の保護: 未成年者や妊産婦などに対する特別な保護規定。
労働基準法で定められた基準は、あくまで「最低限」のものです。したがって、この基準に達しない労働契約は、その部分については無効となり、法律で定められた基準が適用されます。
この法律の遵守を監督するために、全国に労働基準監督署が設置されており、労働基準監督官が事業所に立ち入り調査を行うなどの権限を持っています。
3.2. 労働組合法:労使の対等な関係を促進
労働組合法は、主に憲法で保障された団結権と団体交渉権を具体的に保障するための法律です。
この法律は、労働者が自主的に労働組合を結成・運営し、使用者と対等な立場で交渉することを促進し、健全な労使関係のルールを確立することを目的としています。
- 主な内容:
- 労働組合の資格: 法律上の保護を受けることができる労働組合の要件を定めています。
- 不当労働行為の禁止: 使用者が、労働者の団結権などを侵害する特定の行為(例えば、組合員であることを理由に解雇する、正当な理由なく団体交渉を拒否するなど)を不当労働行為として禁止し、労働者が救済を申し立てる制度を設けています。
- 労働協約の効力: 労使間の団体交渉で合意された労働協約に、法的な規範としての効力を与えています。
不当労働行為が行われた場合、労働者や労働組合は、行政委員会である労働委員会に救済を申し立てることができます。
3.3. 労働関係調整法:労使紛争の解決
労働関係調整法は、主に憲法で保障された団体行動権(争議権)に関連する法律です。
この法律の目的は、労働組合と使用者との間で発生した労働争議(ストライキなどの争議行為を伴う紛争)が、無用にこじれたり、長期化したりして、国民生活に大きな支障をきたすことのないよう、その予防と解決を助けることにあります。
この法律は、労働争議を禁止したり、弾圧したりするものではなく、あくまで労使の自主的な解決を促進するための手続きを定めている点に特徴があります。
- 主な内容:労働委員会が、労使紛争を解決するために行う、三つの調整手続きを定めています。
- あっせん: 公平な第三者であるあっせん員が、労使双方の主張を聞き、その間に入って話し合いを進め、双方の歩み寄りを助ける、最も簡易な手続きです。
- 調停: 調停委員会が、労使双方の意見を聞いた上で、具体的な調停案を作成し、その受諾を勧告する手続きです。
- 仲裁: 労使双方が申請した場合に行われる、より強力な手続きです。仲裁委員会が下す仲裁裁定は、労働協約と同じ法的拘束力を持ち、労使双方はそれに従わなければなりません。
特に、電気、ガス、水道、医療、運輸といった、国民の日常生活に不可欠なサービスを提供する公益事業においては、ストライキを行う場合、事前に労働委員会と厚生労働大臣に予告することが義務付けられています。
この労働三法は、相互に連携しながら、個々の労働者の保護、集団的な労使関係のルール作り、そして紛争の平和的な解決という、三つの側面から日本の労働関係を支える法的基盤を形成しているのです。
4. 雇用形態の多様化(非正規雇用)
かつての日本の労働市場は、新卒で入社した企業に定年まで勤め上げる「正社員」が、その圧倒的な中心を占めていました。しかし、1990年代のバブル経済崩壊以降、日本の雇用システムは大きな変貌を遂げました。その最も象徴的な変化が、非正規雇用と呼ばれる、多様な働き方の急速な拡大です。この雇用形態の多様化は、企業に柔軟性をもたらす一方で、働く人々の間に新たな格差を生み出すなど、深刻な社会問題の源泉ともなっています。
4.1. 非正規雇用とは何か
非正規雇用労働者とは、一般的に、正社員(正規雇用労働者)以外の労働者を指す総称です。具体的には、以下のような多様な雇用形態が含まれます。
- パートタイム労働者:同じ事業所に雇用されている正社員よりも、1週間の所定労働時間が短い労働者。「パート」「アルバイス」など、呼称は様々です。主婦や学生が多くを占めますが、近年では生計の主たる担い手である「不本意パート」も増加しています。
- 有期契約労働者(契約社員):企業と、「1年間」や「6ヶ月間」といった、期間の定めのある労働契約を結んで働く労働者。専門的なスキルを活かして働く場合もあれば、正社員の補助的な業務を担う場合もあります。
- 派遣労働者:労働者が**派遣会社(派遣元)と雇用契約を結び、その派遣会社から別の企業(派遣先)**に派遣されて、派遣先の指揮命令を受けて働くという、間接的な雇用形態です。雇用関係と、実際の指揮命令関係が分離している点に最大の特徴があります。
これらの非正規雇用労働者は、全労働者に占める割合が、1990年代には約20%でしたが、現在では**約40%**に迫る勢いで増加しており、もはや日本の労働市場における「例外的」な存在ではありません。
4.2. なぜ非正規雇用は増加したのか
非正規雇用がここまで増加した背景には、企業側(労働需要側)と、労働者側(労働供給側)の双方の要因、そしてそれを後押しした法制度の改正があります。
- 企業側の要因(コスト削減と雇用調整):バブル崩壊後の長期不況の中で、企業は国際競争の激化に直面し、人件費の抑制に迫られました。正社員に比べて賃金が低く、社会保険料などの福利厚生費もかからないことが多い非正規雇用は、企業にとって魅力的なコスト削減手段でした。また、日本の法制度では、一度採用した正社員を解雇することは非常に困難です(解雇権濫用法理)。景気の変動に応じて、比較的容易に雇用量を調整できる(契約期間が満了すれば更新しない、など)非正規雇用は、企業にとって経営の柔軟性を高めるための「調整弁」としての役割を果たしました。
- 労働者側の要因(多様な働き方へのニーズ):労働者側にも、「家事や育児、学業と両立させたい」「自分の都合の良い時間だけ働きたい」といった、フルタイムの正社員以外の柔軟な働き方を望むニーズが存在することも、非正規雇用の増加の一因です。
- 法制度の改正:こうした動きを法的に後押ししたのが、特に労働者派遣法の度重なる規制緩和です。当初、派遣労働が認められる業務は、専門的な13業務などに限定されていましたが、1999年の改正で原則自由化され、その後も対象業務が拡大していきました。これにより、企業はより多くの業務で派遣労働者を活用できるようになりました。
4.3. 非正規雇用がもたらす課題:格差の拡大
雇用形態の多様化は、企業経営の効率化や、個人の多様なライフスタイルへの対応というプラスの側面を持つ一方で、多くの深刻な課題を生み出しています。
- 賃金格差:非正規雇用労働者の賃金水準は、同じような仕事をしている正社員と比較して、著しく低いのが現状です。これが、日本社会における所得格差の拡大の最大の要因とされています。
- 雇用の不安定性:有期契約や派遣といった働き方は、契約が更新されなければ職を失うという、常に雇用の不安と隣り合わせの状態にあります。景気が悪化すれば、真っ先に雇用の調整対象(「派遣切り」など)となりやすい、脆弱な立場に置かれています。
- キャリア形成の困難:非正規雇用の仕事は、多くの場合、補助的・定型的な業務が中心であり、企業内での教育訓練(OJT)の機会も限られています。そのため、働きながらスキルアップし、キャリアを形成していくことが難しく、一度非正規雇用になると、なかなか正社員になることができないという「固定化」の問題も指摘されています。
- セーフティネットの不備:雇用保険や、企業の福利厚生(退職金、住宅手当など)の対象外となる場合が多く、病気や失業といったリスクに対する備えが不十分になりがちです。
こうした課題に対応するため、近年では、「同一労働同一賃金」の原則に基づき、雇用形態による不合理な待遇差をなくそうとする法改正や、非正規雇用労働者の社会保険への適用を拡大する動きが進められています。
5. 日本的雇用慣行(終身雇用、年功序列)とその変化
戦後の日本の高度経済成長を支え、日本企業の国際競争力の源泉であると長らく考えられてきた、独特の雇用システム。それが、終身雇用、年功序列、企業別労働組合を三つの柱とする、日本的雇用慣行です。このシステムは、かつては労働者に安定と安心をもたらし、企業の発展に貢献しましたが、バブル経済の崩壊とグローバル化の進展の中で、その前提が大きく揺らぎ、現代では深刻な制度疲労を起こしています。
5.1. 日本的雇用慣行の三つの柱
日本的雇用慣行は、主に大企業の正社員を対象として確立されたシステムです。
- 終身雇用(長期雇用):企業が、新卒で採用した正社員を、原則として定年まで雇用し続けるという慣行です。法律で定められた制度ではありませんが、厳しい解雇規制にも支えられ、企業と従業員の間の長期的な信頼関係の基礎となってきました。
- 企業側のメリット: 従業員の企業への帰属意識(ロイヤルティ)が高まり、離職率が低くなるため、長期的な視点での人材育成(OJTなど)が可能になります。
- 労働者側のメリット: 安定した雇用が保障されるため、長期的な生活設計(住宅ローンなど)が立てやすくなります。
- 年功序列賃金:勤続年数や年齢といった「年功」に応じて、役職や賃金が上昇していく制度です。若いうちは、実際の生産性よりも賃金は低く抑えられますが、年齢が上がるにつれて生産性を上回る賃金を受け取れるようになり、生涯を通じて帳尻が合う、という考え方に基づいています。
- 企業側のメリット: 若年層の人件費を抑制できると同時に、従業員の勤続意欲を高めることができます。
- 労働者側のメリット: 将来の収入の見通しが立てやすく、生活の安定につながります。
- 企業別労働組合:日本の労働組合の多くが、欧米のように産業別や職業別に組織されるのではなく、企業単位で組織されている(企業別労働組合)という特徴です。組合員は、その企業の正社員に限られるのが一般的です。
- 特徴: 労使双方が同じ企業の「運命共同体」であるという意識が強いため、対立よりも協調を重視する労使協調の路線がとられやすいとされています。これが、柔軟な人員配置や、技術革新の円滑な導入に貢献したと評価される一方で、非正規雇用労働者が組合から排除されやすい、という問題も抱えています。
5.2. 慣行が揺らぐ背景
この三位一体のシステムは、経済が右肩上がりで成長し、人口構成も若年層が多いピラミッド型であった時代には、非常にうまく機能しました。しかし、1990年代以降、その前提条件が崩れ去ったことで、日本的雇用慣行は大きな見直しを迫られます。
- 経済の低成長・グローバル化:長期にわたる経済の低成長(ゼロ成長)時代に入り、企業はもはや右肩上がりの成長を前提とした人件費の増大に耐えられなくなりました。また、グローバルな競争の激化は、企業に対して、年功ではなく、個人の成果や能力に基づいた、より柔軟で効率的な人事・賃金制度への転換を迫りました。
- 少子高齢化の進展:従業員の平均年齢が上昇し、中高年層の比率が高まったことで、年功序列賃金制度を維持することが、企業にとって過剰な人件費負担となりました。
- 労働者の価値観の変化:若者を中心に、一つの企業に縛られるよりも、転職を通じてキャリアアップを図ったり、専門性を高めたりしたい、という価値観が広まりました。
5.3. 現代における変化
こうした背景を受けて、現代の日本企業では、伝統的な日本的雇用慣行は大きく変容しています。
- 成果主義の導入: 賃金や昇進を、年齢や勤続年数ではなく、個人の仕事の成果(パフォーマンス)に基づいて決定する成果主義を導入する企業が増加しました。年俸制などもその一環です。
- 雇用形態の多様化: 前述の通り、人件費が比較的安く、雇用調整が容易な非正規雇用の活用が急速に進みました。これにより、雇用の安定した正社員(インサイダー)と、不安定な非正規雇用労働者(アウトサイダー)という、労働市場の**二極化(分断)**が深刻化しました。
- 終身雇用の形骸化: 企業は、早期退職優遇制度の導入や、リストラ(事業再構築に伴う人員削減)の断行などにより、事実上、終身雇用を維持できなくなっています。
もはや、かつてのような画一的な日本的雇用慣行は崩壊し、企業も労働者も、より多様で流動的な働き方を模索する時代へと移行しているのです。
6. 失業問題
個人の生活にとって、職を失うこと、すなわち失業は、所得の喪失だけでなく、精神的な苦痛や社会的な孤立にもつながりかねない、極めて深刻な事態です。マクロ経済全体で見ても、高い失業率は、生産されるべき財やサービスが生産されないという資源の浪費を意味し、社会不安の増大にもつながるため、その克服は経済政策の最も重要な目標の一つとされます。経済学では、この失業という問題を、その発生原因によっていくつかのタイプに分類し、それぞれに応じた対策を考えます。
6.1. 失業の定義
まず、統計上の「失業」の定義を確認しておくことが重要です。日本の労働力調査では、完全失業者を、以下の三つの条件をすべて満たす者と定義しています。
- 仕事がなくて調査週間中に少しも仕事をしなかった(仕事なし)
- 仕事を探す活動をしていた(求職活動)
- 仕事があればすぐ就くことができる(就業意欲・能力)
したがって、働く意思のない人(専業主婦・主夫、学生、高齢者など)や、求職活動を諦めてしまった人(就業意欲喪失者)は、失業者には含まれません。
この完全失業者数を、労働力人口(就業者+完全失業者)で割ったものが完全失業率です。
6.2. 失業の三つのタイプ
失業は、その発生原因によって、主に以下の三つのタイプに分類されます。
- 摩擦的失業(Frictional Unemployment):これは、人々が、より良い労働条件を求めて、自発的に現在の職を辞め、新しい職を探している期間中に発生する、一時的な失業です。例えば、転職活動中の人や、学校を卒業して初めて職を探している新卒者がこれにあたります。労働市場において、企業が求める人材と、労働者が持つスキルの情報が完全ではなく、両者がマッチングするまでには一定の時間がかかるため、経済が健全な状態であっても、この種の失業は常に一定数存在します。対策: ハローワーク(公共職業安定所)などによる職業紹介機能を強化し、求人・求職に関する情報を円滑に提供することで、マッチングにかかる時間を短縮することが有効です。
- 構造的失業(Structural Unemployment):これは、経済の産業構造の変化などによって、企業が求める人材のスキルや、労働者が住む地域と、職を求める労働者が持つスキルや居住地との間に、ミスマッチが生じることによって発生する、より深刻な失業です。例えば、かつて主要産業であった石炭産業が衰退し、代わりにIT産業が成長した場合、炭鉱労働者が持っていたスキルは、IT企業が求めるスキルとは異なります。そのため、炭鉱労働者は、たとえIT業界に求人があっても、すぐには職に就くことができません。対策: 労働者に対して、新しい産業で必要とされるスキルを身につけるための**職業訓練(リカレント教育)**を提供したり、産業が衰退した地域から成長地域への移動を支援したりする政策が必要です。
- 循環的失業(需要不足失業, Cyclical Unemployment):これは、景気の変動(景気循環)によって引き起こされる失業です。景気が後退し、不況に陥ると、経済全体の総需要が不足するため、企業は生産を縮小し、雇用を削減します。その結果として発生するのが、この循環的失業です。これは、個人のスキルや意欲とは関係なく、経済全体のパイが縮小することによって発生する非自発的な失業であり、特に深刻な問題とされます。ケインズ経済学が最も重視したのが、このタイプの失業です。対策: 政府や中央銀行が、公共事業の拡大や減税といった拡張的な財政政策や、金利の引き下げといった金融緩和政策を実施し、経済全体の有効需要を創出することで、景気を回復させ、企業の雇用を増やすことが求められます。
経済が、摩擦的失業と構造的失業のみで構成され、循環的失業がゼロである状態を完全雇用と呼びます。完全雇用状態での失業率を自然失業率といい、これは経済政策によってゼロにすることはできない、構造的な失業率と考えられています。
7. 社会保険と、公的扶助
人が生きていく上では、病気、けが、失業、加齢による就労困難、障害、そして死亡といった、様々なリスクに直面します。こうした個人の努力だけでは対応しきれないリスクによって人々が生活困窮に陥ることのないよう、社会全体で支え合う仕組み、それが社会保障制度です。日本の社会保障制度は、非常に多岐にわたりますが、その根幹をなす考え方は、「社会保険」と「公的扶助」という二つの柱に大別することができます。この二つの理念と仕組みの違いを理解することは、社会保障の全体像を掴む上で不可欠です。
7.1. 社会保障制度の全体像
日本の社会保障制度は、日本国憲法第25条の生存権の理念(「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」)を具体化するものです。その体系は、主に以下の四つの部門から構成されています。
- 社会保険: 医療、年金、雇用、介護、労災
- 公的扶助: 生活保護
- 社会福祉: 高齢者、障害者、児童、母子家庭など、社会的に弱い立場にある人々への支援サービス
- 公衆衛生: 感染症対策、上下水道の整備など、国民全体の健康を守るための活動
この中でも、経済的な保障という側面で中心的な役割を果たすのが、社会保険と公的扶助です。
7.2. 社会保険:防貧機能と相互扶助
社会保険は、国民が保険料を出し合い、それを財源として、病気や失業といった特定のリスクに遭遇した際に、必要な給付を行う仕組みです。
その最大の思想は、**相互扶助(助け合い)**の精神に基づいています。
- 特徴:
- 強制加入: 加入資格のある国民は、自らの意思にかかわらず、法律によって強制的に加入が義務付けられます。
- 保険料の負担: 原則として、給付を受ける権利を得るためには、被保険者(加入者)が保険料を支払う必要があります。多くの制度では、事業主(企業)も保険料を負担します(労使折半など)。
- リスクの分散: 多くの人々が加入し、保険料を出し合うことで、個人では抱えきれない大きなリスクを、社会全体で分散させることができます。
- 機能:社会保険の主な機能は、防貧機能、すなわち「貧困に陥るのを未然に防ぐ」ことにあります。人々が、あらかじめ保険料を負担しておくことで、万が一のリスクが発生した際にも、急に所得が途絶えたり、高額な医療費が払えなくなったりして生活が破綻するのを防ぎます。
日本の社会保険制度は、主に以下の5つの制度から成り立っています。
- 医療保険: 病気やけがに備える。
- 年金保険: 高齢や障害、死亡に備える。
- 雇用保険: 失業に備える。
- 介護保険: 加齢による要介護状態に備える。
- 労災保険(労働者災害補償保険): 業務中や通勤中の災害に備える。
7.3. 公的扶助:救貧機能と国家の責任
公的扶助は、生活に困窮する人々に対して、国や地方自治体が、その費用を全額税金で負担し、健康で文化的な最低限度の生活を保障するとともに、その自立を助ける仕組みです。
その思想は、国家の責任に基づいています。
- 特徴:
- 無拠出: 給付を受けるために、事前に保険料を支払う必要はありません。財源は、全額が国と地方自治体の**公費(税金)**で賄われます。
- 資力調査(ミーンズ・テスト): 給付を受けるためには、その人の資産や収入、そして働く能力、さらには親族からの援助の可能性などを調査(資力調査)し、本当に生活に困窮しているかどうかを判断した上で、必要な保護が行われます。
- 補足性の原理: 公的扶助は、利用できる他のあらゆる制度(社会保険、親族の扶養など)を活用してもなお、最低限度の生活が維持できない場合に、その不足分を補うという「最後のセーフティネット」としての役割を果たします。
- 機能:公的扶助の主な機能は、救貧機能、すなわち「現に貧困に陥っている人々を救済する」ことにあります。
日本の公的扶助制度の代表が生活保護制度です。生活保護は、生活費を補助する生活扶助のほか、住宅費、医療費、教育費など、8種類の扶助から構成されています。
社会保険が「保険」の原理で広くリスクに備える第一の防衛ラインであるとすれば、公的扶助は「租税」を財源として、そこからも漏れてしまった人々を支える最後の砦と言えるでしょう。
8. 年金制度(国民年金、厚生年金)
社会保障制度の中核をなし、特に私たちの老後の生活設計に最も深く関わるのが、公的年金制度です。日本の公的年金制度は、職業などに関わらず、国内に住むすべての人が加入することを原則とする「国民皆年金」の仕組みと、加入者の種別に応じて給付が上乗せされる「二階建て」の構造に、大きな特徴があります。
8.1. 国民皆年金の実現
日本の公的年金制度は、戦前から部分的に存在していましたが、すべての国民をカバーするものではありませんでした。戦後の1961年に国民年金法が施行されたことで、それまで年金制度の対象外であった自営業者や農林漁業者なども制度に組み入れられ、国民皆年金体制が確立されました。これにより、日本に住む20歳以上60歳未満のすべての人は、いずれかの公的年金制度に加入することが義務付けられています。
8.2. 「二階建て」の制度構造
現在の日本の公的年金制度は、しばしば「二階建ての建物」にたとえられます。
- 一階部分:国民年金(基礎年金):これは、すべての加入者に共通する、基礎的な年金です。20歳以上60歳未満のすべての人が加入を義務付けられています。加入者(被保険者)は、その職業などによって、以下の三つの種別に分類されます。
- 第1号被保険者: 自営業者、農林漁業者、学生、無職の人など。保険料は、自分で全額を納付します。
- 第2号被保険者: 会社員や公務員など、厚生年金や共済組合に加入している人。保険料は、後述する厚生年金保険料の中に含まれる形で、給与から天引き(労使折半)されます。
- 第3号被保険者: 第2号被保険者に扶養されている20歳以上60歳未満の配偶者(主に専業主婦・主夫)。個別に保険料を納付する必要はなく、配偶者が加入する年金制度全体で負担します。
- 二階部分:被用者年金(厚生年金・共済年金):これは、第2号被保険者(会社員・公務員)だけが加入する、一階の基礎年金に上乗せされる年金です。保険料は、毎月の給与と賞与の額(標準報酬月額・標準賞与額)に、定められた保険料率をかけて計算され、その額を本人と事業主(会社)が半分ずつ負担します(労使折半)。受け取る年金額は、現役時代の収入(納めた保険料)と加入期間に応じて決まるため、収入が高く、長く働いた人ほど、年金額も多くなります。(※かつて公務員などが加入していた共済年金は、2015年に厚生年金に一元化されました)
- 三階部分(上乗せ部分):公的年金に加えて、任意で加入する私的な年金制度です。
- 企業年金: 企業が従業員の福利厚生のために設ける年金制度(確定給付企業年金、確定拠出年金(企業型DC)など)。
- 個人年金: 個人が自助努力で老後に備えるための制度(iDeCo(個人型確定拠出年金)、国民年金基金など)。
8.3. 公的年金の給付と財政方式
公的年金から受けられる給付(年金)には、主に以下の三種類があります。
- 老齢年金: 原則として65歳から、老後の生活保障として受け取る年金。
- 障害年金: 病気やけがによって、所定の障害状態になった場合に受け取る年金。
- 遺族年金: 年金の加入者が死亡した際に、その人によって生計を維持されていた遺族(配偶者や子など)が受け取る年金。
日本の公的年金の財政は、賦課(ふか)方式という仕組みで運営されています。これは、その時々の現役世代が納める保険料を、その時々の高齢者世代への年金給付の財源に充てるという、世代間の支え合いの仕組みです。
これに対し、自分が現役時代に積み立てた保険料を、将来自分が受け取るという積立方式とは根本的に異なります。日本の賦課方式は、インフレに強いというメリットがある一方で、少子高齢化によって、支える側(現役世代)が減り、支えられる側(高齢者世代)が増えると、制度の維持が困難になるという、構造的な脆弱性を抱えています。
9. 医療保険制度
日本が世界に誇る社会保障制度の一つに、公的医療保険制度があります。この制度のおかげで、私たちは、所得にかかわらず、比較的安い自己負担で、いつでも、どこでも、質の高い医療サービスを受けることができます。この安心の根幹を支えているのが、すべての国民が何らかの公的医療保険に加入することを原則とする「国民皆保険」体制です。
9.1. 国民皆保険体制
日本の国民皆保険は、1961年に実現しました。これにより、原則として、すべての国民は、いずれかの公的医療保険に加入することが義務付けられています。
この制度は、主に以下の二つの仕組みに大別されます。
- 被用者保険(職域保険):企業などに雇用されている労働者(被用者)とその家族が加入する医療保険です。
- 組合管掌健康保険(組合健保): 主に大企業の従業員が加入。企業が設立した健康保険組合が運営します。
- 全国健康保険協会管掌健康保険(協会けんぽ): 主に中小企業の従業員が加入。全国健康保険協会が運営します。
- 共済組合: 公務員や私立学校の教職員が加入します。保険料は、毎月の給与(標準報酬月額)に基づいて計算され、本人と事業主が半分ずつ負担します(労使折半)。
- 地域保険:被用者保険に加入していない、自営業者、農林漁業者、退職者、無職の人などが加入する医療保険です。
- 国民健康保険(国保): 運営主体は、市町村および都道府県です。保険料(税)は、所得や資産に応じて、世帯ごとに計算されます。
この他に、75歳以上のすべての人が加入する後期高齢者医療制度があります。
9.2. 医療サービスの仕組み(現物給付)
日本の医療保険制度の大きな特徴は、医療サービスが「現物給付」の形で提供されることです。
被保険者(患者)が病気やけがで医療機関にかかる際、保険証を提示すれば、かかった医療費の**一部(原則として1割~3割)**を自己負担分として窓口で支払うだけで、必要な医療サービス(診察、検査、投薬、手術など)を受けることができます。
残りの医療費(7割~9割)は、患者が加入している医療保険の運営者(保険者:健康保険組合や市町村など)が、医療機関に直接支払います。
これに対し、一旦かかった医療費の全額を患者が立て替え、後で保険者に請求して払い戻しを受ける方式を「現金給付(償還払い)」と呼びます。現物給付は、患者が高額な医療費を一時的に立て替える負担がないという大きなメリットがあります。
9.3. 診療報酬制度と医療費の抑制
私たちが受ける医療サービスや、処方される薬の価格は、医療機関が自由に決めているわけではありません。すべての医療行為や医薬品には、国によって公定価格が定められています。この公定価格のことを診療報酬と呼びます。
診療報酬の点数は、厚生労働大臣が、中央社会保険医療協議会(中医協)の審議を経て、原則として2年ごとに改定します。この診療報酬制度は、国民全体の医療費の総額をコントロールするための、最も重要な政策手段となっています。
また、医療保険制度には、家計の負担が過重になるのを防ぐための仕組みも組み込まれています。
- 高額療養費制度:1ヶ月にかかった医療費の自己負担額が、所得に応じて定められた上限額を超えた場合に、その超えた部分が後から払い戻される制度です。これにより、重い病気やけがで高額な医療が必要になっても、家計が破綻するのを防ぎます。
日本の国民皆保険制度は、フリーアクセス(どの医療機関でも自由に受診できる)、現物給付、自己負担の軽減といった優れた特徴を持ち、世界保健機関(WHO)からも高く評価されています。しかし、この手厚い制度も、次項で述べる少子高齢化の進展によって、その財政基盤が深刻な挑戦に直面しています。
10. 少子高齢化と、社会保障制度の課題
日本の社会保障制度は、かつて世界でも有数の成功モデルと見なされていました。しかし、その制度が設計された高度経済成長期とは、社会の根幹をなす人口構造が、もはや全く異なっています。世界でも類を見ないスピードで進行する少子高齢化は、現役世代が引退世代を支えるという社会保障の大原則を根底から揺るがし、制度の持続可能性そのものを脅かす、国家的な課題となっています。
10.1. 少子高齢化の現状
少子高齢化とは、**出生率が低下して子供の数が減少する(少子化)**と同時に、**平均寿命が延びて65歳以上の高齢者人口の割合が増加する(高齢化)**という現象が、同時に進行することです。
- 日本の現状:日本の合計特殊出生率(一人の女性が生涯に産む子供の数の推計値)は、人口を維持するために必要とされる水準(2.07程度)を大幅に下回る状態が続いています。一方で、平均寿命は世界トップクラスであり、高齢者人口の割合(高齢化率)は急速に上昇しています。2023年には、日本の総人口に占める65歳以上人口の割合は約29%に達しており、これは世界で最も高い水準です。
この人口構造の変化は、社会保障制度に二重の圧力となってのしかかります。
- 給付の増大: 高齢者が増えれば、年金や、医療・介護サービスを必要とする人が増えるため、社会保障給付費は自然に増大していきます。
- 負担の減少(担い手の減少): 少子化によって、保険料を納めて制度を支える側の現役世代(生産年齢人口)の数が減少していきます。
つまり、「出ていくお金(給付)は増え続けるのに、入ってくるお金(保険料)を負担する人は減り続ける」という、極めて厳しい構造的な問題を抱えているのです。
10.2. 年金制度への影響
世代間の支え合いである賦課方式で運営されている日本の公的年金制度は、少子高齢化の直撃を受けます。
かつての高度経済成長期には、多数の現役世代が少数の高齢者を支える「胴上げ型」の人口構造でした。しかし、現在では、少数の現役世代が一人の高齢者を支える「騎馬戦型」へと変化し、将来的には一人の現役世代が一人の高齢者を支える「肩車型」になると予測されています。
このままでは、制度を維持するためには、現役世代の保険料を大幅に引き上げるか、高齢者への年金給付額を大幅に削減するしかありません。このような事態を避けるため、年金制度改革では、以下のような対策が講じられてきました。
- 保険料負担の引き上げ: 厚生年金保険料率を段階的に引き上げ(現在は18.3%で固定)。
- 給付水準の抑制: マクロ経済スライドを導入。これは、社会情勢(平均余命の伸びや現役世代の減少)に応じて、年金の給付水準を自動的に調整(抑制)する仕組みです。
- 支給開始年齢の引き上げ: 年金の支給開始年齢を、段階的に60歳から65歳へと引き上げ。将来的には、さらなる引き上げも議論されています。
10.3. 医療・介護保険制度への影響
医療費や介護費用も、その大半は高齢者が利用するため、高齢化の進展に伴って、その総額は雪だるま式に増大し続けています。国民医療費は年間40兆円を超え、国の財政を圧迫する最大の要因の一つとなっています。
- 課題:
- 現役世代の負担増: 医療費の増大を賄うため、現役世代が支払う健康保険料率は上昇を続けています。
- 世代間の不公平: 若者世代と高齢者世代の間の、負担と給付のバランスの不公平感が拡大しています。
- 制度の持続可能性: このまま医療費の増大が続けば、国民皆保険制度そのものが維持できなくなるのではないか、という懸念。
- 対策:後期高齢者医療制度の創設(高齢者自身の保険料負担と、現役世代からの支援金を組み合わせる)や、高齢者の窓口負担割合の引き上げ(一部所得層で1割から2割へ)といった、高齢者にも応分の負担を求める改革が進められています。また、診療報酬の改定による医療費の抑制や、生活習慣病の予防、ジェネリック医薬品の使用促進なども重要な課題です。
少子高齢化という、避けることのできない大きな構造変化の中で、将来にわたって持続可能な社会保障制度をいかにして再構築していくか。それは、給付と負担のバランスをどのように見直し、世代間の公平をいかに確保するかという、国民的な合意形成を必要とする、現代日本社会の最も重い宿題なのです。
Module 19:労働問題と社会保障の総括:「働くこと」と「生きること」を支える社会の羅針盤
本モジュールを通じて、私たちは、現代社会を生きる個人と、それを支える社会全体の仕組みとの間の、根源的な関わりを「労働」と「社会保障」という二つのレンズを通して深く探求してきました。労働市場における賃金の決定メカニズムから、非正規雇用の拡大がもたらす格差の問題まで、私たちが日々直面する「働くこと」の現実は、社会全体の構造的な変化と分かちがたく結びついていることを学びました。そして、労働三権・三法という法的な枠組みが、いかにして個人の尊厳を守り、労使間の公正な関係を築くための礎となっているかを理解しました。
同時に、私たちは、病気、失業、老いといった人生の普遍的なリスクに対し、社会全体で備えるセーフティネット、すなわち社会保障制度の壮大な設計図を概観しました。相互扶助の精神に基づく「社会保険」と、国家の責任に基づく「公的扶助」という二大原則が、年金、医療、介護といった具体的な制度を通じて、私たちの「生きること」の安心をいかに保障しているか、そのメカニズムを解き明かしました。
しかし、その精緻なセーフティネットは今、少子高齢化という静かな、しかし巨大な津波によって、その土台から揺さぶられています。現役世代が引退世代を支えるという大原則が、人口構造の激変によって機能不全に陥りかねないという厳しい現実は、私たちすべてに、制度の持続可能性という重い問いを突きつけます。
このモジュールで得た知見は、単なる試験のための知識ではありません。それは、自らのキャリアをいかに築き、人生のリスクにどう備えるかという個人的な問いと、格差の是正や、世代間の公平性をいかに実現するかという社会的な問いとを結びつけ、一人の市民として、また社会の構成員として、より良い未来の設計に参加するための、知的で実践的な羅針盤なのです。