【基礎 政治経済(経済)】Module 20:環境問題の経済分析

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本モジュールの目的と構成

私たちが日々享受する経済的な豊かさは、その多くを地球という唯一無二の環境基盤に依存しています。しかし、伝統的な経済学は、長い間、この貴重な環境をあたかも「無限で無料の資源」であるかのように扱い、経済活動がもたらす負の側面、すなわち環境破壊を、その計算の外に置いてきました。その結果、私たちはGDPという指標の成長と引き換えに、地球温暖化や生物多様性の喪失といった、取り返しのつかない代償を支払う寸前にまで来ています。このモジュールは、現代社会が直面する最も根源的な課題である環境問題を、単なる倫理や自然科学の問題としてではなく、その核心にある「経済的な論理」から解き明かすための分析ツールを提供することを目的とします。

この探求の中心にあるのは、「市場の失敗」と「外部不経済」という、経済学の極めて重要な概念です。なぜ、個々の企業や個人が、それぞれの利益を合理的に追求した結果、社会全体としては望ましくない環境破壊が引き起こされてしまうのか。このメカニズムを理解することから、私たちの旅は始まります。そして、この根本原因を特定した上で、私たちは、環境問題という難題に対する経済学的な「処方箋」を学んでいきます。当事者間の交渉によって問題を解決しようとするコースの定理の画期的な発想から、汚染に価格をつける炭素税や、汚染する権利を市場で取引する排出量取引といった、現代の政策の根幹をなす具体的な手法まで、その論理と効果を徹底的に分析します。

さらに私たちの視点は、国内の問題から地球規模の課題へと広がります。地球サミットからパリ協定に至るまで、国際社会がいかにしてこのグローバルな挑戦に立ち向かおうとしてきたのか、その苦闘の歴史を辿ります。そして、再生可能エネルギーや循環型社会といった未来への解決策が、いかにして新たな「環境ビジネス」を生み出し、企業のあり方そのもの(CSRやESG投資)を変革しつつあるのか、その最前線に迫ります。

本モジュールは、以下の10のステップを通じて、経済と環境の共生への道筋を探ります。

  1. 環境問題と、外部不経済: まず、なぜ市場メカニズムは環境問題を引き起こしてしまうのか、その根本原因である「市場の失敗」と「外部不経済」の論理を解き明かします。
  2. コースの定理: 次に、政府の介入なしに、当事者間の交渉で環境問題を解決できる可能性を示した、ノーベル賞経済学者の画期的な理論とその限界を学びます。
  3. 炭素税と、排出量取引: 環境問題対策の二大政策ツールである「炭素税」と「排出量取引」について、それぞれの仕組み、メリット・デメリットを比較分析します。
  4. 環境と開発に関する、国際会議(地球サミットなど): 地球環境問題が、いかにして国際社会の主要な議題となったのか、その歴史的な転換点である地球サミットなどの国際会議の意義を辿ります。
  5. 京都議定書と、パリ協定: 地球温暖化対策をめぐる国際的な枠組みの二つの象徴、「京都議定書」と「パリ協定」を取り上げ、そのアプローチの違いと現代的な意義を考察します。
  6. 再生可能エネルギー: 脱炭素社会の切り札とされる太陽光や風力といった「再生可能エネルギー」が、なぜ重要なのか、その経済的な可能性と課題を探ります。
  7. 循環型社会(3R): 「大量生産・大量消費・大量廃棄」からの脱却を目指す「循環型社会」の理念と、その基本となる3R(リデュース、リユース、リサイクル)の重要性を学びます。
  8. 環境ビジネス: 環境問題への対応が、コストではなく新たなビジネスチャンスを生み出す「環境ビジネス」の多様な姿と、その成長の可能性について考察します。
  9. 企業の環境への取り組み(CSR、ESG投資): 現代の企業に求められる環境への配慮(CSR)と、それが投資の世界の基準となりつつある「ESG投資」の潮流を理解します。
  10. 生物多様性の経済的価値: 最後に、環境問題の視野を広げ、豊かな生態系そのものが持つ「生物多様性」がいかに巨大な経済的価値を持っているのか、その重要性に光を当てます。

このモジュールを学び終える時、皆さんは、環境問題という21世紀最大の挑戦を、経済学という名の強力なレンズを通して構造的に分析し、持続可能な未来を構想するための、揺るぎない知的「方法論」を手にしていることでしょう。


目次

1. 環境問題と、外部不経済

なぜ、環境問題はこれほどまでに深刻化してしまったのでしょうか。多くの人が環境保護の重要性を認識しているにもかかわらず、なぜ汚染や資源の過剰な消費は止まらないのでしょうか。その根本的な原因を、経済学は**市場の失敗(Market Failure)という概念、とりわけ外部不経済(Negative Externality)**の存在によって説明します。

1.1. 市場は万能ではない:市場の失敗

アダム・スミスの「見えざる手」に象徴されるように、市場メカニズムは、通常、資源を最も効率的に配分する優れた仕組みです。しかし、市場がうまく機能せず、社会全体として望ましい状態(資源配分の効率性)を達成できない場合があります。これを市場の失敗と呼びます。環境問題は、この市場の失敗が最も典型的に現れる分野の一つです。

市場メカニズムが、環境という貴重な資源を自動的に守ることができないのはなぜか。その鍵を握るのが「外部不経済」という概念です。

1.2. 外部不経済:市場の外で発生するコスト

外部不経済とは、ある経済主体(企業や個人)の生産や消費といった行動が、市場での取引を介さずに、第三者に対して意図せず不利益や損害を与えることを指します。環境問題の文脈では、企業が排出する汚染物質が、周辺住民の健康を害したり、生態系を破壊したりすることが、これにあたります。

この「外部」という言葉は、その不利益(コスト)が、市場メカニズムの外部で発生し、当事者間の取引価格に反映されていない、ということを意味しています。

1.3. 私的費用と社会的費用

この問題をより深く理解するために、**費用(コスト)**の概念を二つに分けて考えてみましょう。

  • 私的費用(Private Cost):ある財を生産する企業が、直接的に負担する費用のことです。例えば、化学工場が製品を作るために支払う、原材料費、人件費、光熱費、工場の減価償却費などがこれにあたります。企業は、この私的費用と、製品を売って得られる収益を比較して、利潤が最大になるように生産量を決定します。
  • 社会的費用(Social Cost):その生産活動によって、社会全体が負担するすべての費用のことです。これには、企業が負担する私的費用に加えて、その生産活動が引き起こす**外部費用(External Cost)**が含まれます。外部費用とは、外部不経済によって第三者が被る損害(例えば、工場が排出した汚染物質による健康被害の治療費や、汚染された川を浄化するための費用など)を、貨幣価値に換算したものです。社会的費用 = 私的費用 + 外部費用

環境問題の本質は、企業が生産量を決定する際に、外部費用を考慮に入れていないという点にあります。化学工場は、自社が負担する私的費用だけを考えて生産を行いますが、汚染によって社会が被る外部費用は、自社のコストとして計算しません。

その結果、社会全体から見れば、その製品の真のコスト(社会的費用)は、企業が考えているコスト(私的費用)よりもはるかに高くなります。もし、この社会的費用が製品価格に正しく反映されていれば、価格はもっと高くなり、消費者は購入を控え、企業も生産量を減らすはずです。しかし、市場メカニズムは外部費用を価格に反映できないため、社会的に最適な水準よりも過剰に生産され、過剰に汚染が排出されるという、資源配分の非効率な状態が生まれてしまうのです。これが、環境問題を引き起こす経済学的な根本メカニズムです。


2. コースの定理

環境問題の原因が、外部費用が市場価格に反映されない「外部不経済」にあるとすれば、その解決策は、何らかの方法でこの外部費用を企業に負担させる(内部化する)ことになります。そのための方法として、政府が税金を課したり、規制を設けたりするのが一般的です。しかし、ノーベル経済学賞を受賞したロナルド・コースは、これとは全く異なる、市場メカニズムの力を活用したユニークな解決策の可能性を提示しました。それが**コースの定理(Coase Theorem)**です。

2.1. コースの定理とは何か

コースの定理は、一言で言えば、「ある条件さえ満たされれば、外部性の問題は、当事者間の交渉によって、政府が介入しなくても効率的に解決できる」という、少し直感に反するような主張です。

その「ある条件」とは、以下の二つです。

  1. 財産権(Property Rights)が明確に定義されていること:例えば、「川の水をきれいに保つ権利」が、下流の住民にあるのか、それとも「川を生産活動に利用する(汚染する)権利」が、上流の工場にあるのか、その権利の所在が法的に明確に定められていること。
  2. 交渉にかかる費用(取引費用, Transaction Cost)が十分に小さいこと:当事者(工場と住民)が、お互いに交渉し、合意に達し、その合意を履行させるためにかかるコストが、無視できるほど小さいこと。

2.2. 当事者間の交渉による解決

この二つの条件が満たされている場合、財産権がどちらに与えられていても、交渉を通じて、社会全体にとって最も効率的な水準まで汚染が削減される、とコースは考えました。

  • ケース1:住民に「きれいな水を得る権利」がある場合この場合、工場が汚染水を流すことは、住民の財産権を侵害する行為となります。工場が生産を続けたければ、汚染によって住民が被る損害を補償するためのお金を支払うことについて、住民と交渉しなければなりません。工場は、汚染を1単位削減するための費用と、住民に支払う補償額を比較し、補償額の方が安い限りにおいて、汚染を出し続けるでしょう。
  • ケース2:工場に「川を利用する(汚染する)権利」がある場合この場合、住民は汚染を我慢しなければなりません。しかし、もし住民にとって、汚染によって被る健康被害などの損害額が、工場が汚染を削減するためにかかる費用よりも大きいのであれば、住民は工場にお金を支払って、「汚染をやめてもらう」交渉をするインセンティブを持ちます。住民は、自らが被る損害額を上限として、工場に汚染削減の費用を支払おうとするでしょう。

コースが示した重要な点は、どちらのケースであっても、交渉の結果として達成される汚染の削減レベルは、社会全体で見た費用(汚染による損害+削減費用)が最小になる、同じ効率的な水準に落ち着く、ということです。財産権の初期設定は、どちらがどちらにお金を支払うかという所得分配には影響しますが、資源配分の効率性には影響しない、と主張したのです。

2.3. コースの定理の現実的な限界

コースの定理は、外部性の問題を考える上で非常に重要な理論的視点を提供しましたが、現実の環境問題にそのまま適用するには、多くの困難があります。

その最大の理由は、定理の前提である「取引費用がゼロに近い」という条件が、現実にはほとんど満たされないからです。

  • 当事者の特定が困難: 地球温暖化のように、汚染の排出者(世界中の企業や個人)と、被害者(世界中の人々、特に将来世代)が、無数に存在する場合、すべての当事者が交渉のテーブルにつくことは不可能です。
  • 科学的な不確実性: 汚染による被害額を正確に算定することが困難な場合も多く、交渉の基準を定めることができません。
  • 財産権の未確立: 大気や海洋といった、誰のものでもない**共有資源(コモンズ)**については、財産権を明確に定義すること自体が極めて困難です。

したがって、コースの定理は、現実の万能な解決策というよりは、政府による介入(税や規制)を考える際に、市場の力を活用する視点がいかに重要であるかを示す、思考の出発点として理解することが重要です。


3. 炭素税と、排出量取引

コースの定理が示すような当事者間の交渉による解決が困難な、地球温暖化のような広域的な環境問題に対して、政府はどのような経済政策で対応すべきでしょうか。現代の環境経済学において、外部不経済を内部化するための二大政策ツールとされているのが、炭素税排出量取引です。どちらも市場メカニズムを活用する経済的手法ですが、そのアプローチは対照的です。

3.1. 炭素税(Carbon Tax):価格によるアプローチ

炭素税とは、石油、石炭、天然ガスといった化石燃料の燃焼によって排出される二酸化炭素(CO2)の量に応じて課される税金のことです。これは、外部費用の原因となる汚染物質に、直接「価格」をつけることで、その外部性を内部化しようとするアプローチです。経済学者のアーサー・ピグーにちなんで、ピグー課税の代表例とされます。

  • 仕組み:政府が、CO2排出量1トンあたり「X円」という税率を設定します。企業や個人は、化石燃料を使用すればするほど、多くの税金を支払わなければならなくなります。
  • 効果:
    1. 排出削減へのインセンティブ:炭素税が導入されると、企業はCO2を排出する活動(化石燃料の使用)のコストが上昇します。そのため、企業は、税金を支払うコストと、省エネ設備を導入したり、再生可能エネルギーに転換したりしてCO2排出量を削減するコストを比較し、より安上がりな方を選択するようになります。これにより、社会全体で効率的な排出削減が進むことが期待されます。
    2. 税収の中立的な活用:炭素税によって得られた税収を、法人税や所得税の減税の原資としたり、低所得者層への還付、あるいは環境技術開発への投資などに活用(税収の中立性)すれば、経済へのマイナスの影響を緩和しつつ、環境保護と経済成長を両立させる「二重の配当」が得られる可能性も指摘されています。
  • 課題:最適な税率(CO2の社会的な限界費用に等しい税率)をいくらに設定すべきか、科学的に決定することが難しいという問題があります。また、エネルギー価格の上昇が、低所得者層に大きな負担を強いたり(逆進性)、企業の国際競争力を損なったりする懸念もあります。

3.2. 排出量取引(Emissions Trading):数量によるアプローチ

排出量取引制度は、**キャップ・アンド・トレード(Cap and Trade)**方式とも呼ばれ、汚染物質の排出量に「上限(キャップ)」をはめ、その枠内で排出する権利を「取引(トレード)」させることで、排出削減を目指すアプローチです。

  • 仕組み:
    1. キャップ(総量上限)の設定:まず、政府が、社会全体で許容されるCO2の総排出量の上限(キャップ)を、科学的知見に基づいて決定します。
    2. 排出枠(クレジット)の割り当て:次に、政府は、その総量上限に相当する量の**排出枠(排出許可証)**を発行し、それを対象となる企業などに割り当てます(無償で割り当てるか、オークションで販売するかは制度設計によります)。
    3. トレード(市場での取引):企業は、割り当てられた排出枠の範囲内でしかCO2を排出できません。排出量を削減し、排出枠が余った企業は、それを市場で他の企業に売却することができます。逆に、排出枠が不足した企業は、市場から追加の排出枠を購入しなければなりません。
  • 効果:
    • 確実な総量削減: 政府が設定したキャップの分だけ、確実に全体の排出量が削減されるという利点があります。
    • 経済効率性: 排出枠の市場取引を通じて、社会全体として最も安いコストで排出削減目標を達成することができます。なぜなら、より低いコストで排出削減ができる企業(例えば、最新の省エネ技術を持つ企業)は、排出枠を売却して利益を得るインセンティブを持つため、積極的に削減を進めます。一方で、削減コストが高い企業は、自力で削減する代わりに、市場から安い排出枠を購入します。その結果、あたかも「見えざる手」が働くかのように、社会全体で最も効率的な場所から排出削減が進んでいくのです。
  • 課題:排出枠の価格が市場の需給によって変動するため、企業にとっては将来のコスト予測が立てにくいという不確実性があります。また、排出枠の初期配分をどのように行うかという点で、公平性をめぐる問題が生じやすいという側面もあります。

4. 環境と開発に関する、国際会議(地球サミットなど)

環境問題、特に地球温暖化や生物多様性の喪失といった地球環境問題は、一国の努力だけでは解決できない、国境を越えるグローバルな課題です。こうした課題に対処するためには、国際社会が協調して取り組むことが不可欠です。環境問題が、国際政治の主要な議題として本格的に議論されるようになったのは、比較的最近のことであり、その歴史は一連の画期的な国際会議によって画されています。

4.1. 国際的な議論の幕開け:国連人間環境会議

環境問題に対する国際社会の関心が本格的に高まるきっかけとなったのが、1972年にスウェーデンのストックホルムで開催された国連人間環境会議です。

  • スローガン: 「かけがえのない地球(Only One Earth)
  • 意義:この会議は、人類史上初めて、環境問題をテーマとして開催された、大規模な政府間会合でした。先進国では公害問題が深刻化する一方、開発途上国は「貧困こそ最大の環境汚染である」として開発の権利を主張するなど、先進国と途上国(南北)の間の対立も浮き彫りになりましたが、環境問題が全人類共通の課題であるという認識を世界で共有する上で、歴史的な第一歩となりました。
  • 成果:会議では「人間環境宣言」が採択され、各国の環境庁の設置のきっかけとなった**国連環境計画(UNEP)**の設立が決定されました。

4.2. 持続可能な開発というパラダイム:地球サミット

国連人間環境会議から20年後、環境と開発をめぐる国際的な議論は、新たな段階へと進化します。その集大成となったのが、1992年にブラジルのリオデジャネイロで開催された国連環境開発会議、通称「地球サミット」です。

  • 基本理念:地球サミットの中心的な理念となったのが、「持続可能な開発(Sustainable Development)」です。これは、「将来世代のニーズを満たす能力を損なうことなく、現代世代のニーズを満たす開発」と定義され、「環境保全」と「開発」を対立するものとして捉えるのではなく、両立させるべき統合的な目標として位置づける、画期的なパラダイムシフトでした(Module 14参照)。
  • 成果:地球サミットは、史上最大規模の首脳が参加し、多くの具体的な成果を生み出しました。
    • リオ宣言: 持続可能な開発を実現するための27の行動原則を定めました。特に、環境問題への取り組みにおいては、先進国と途上国が共通だが差異ある責任を負うべきである、という原則が示されました。
    • アジェンダ21: リオ宣言の理念を具体化するための、21世紀に向けた詳細な行動計画です。
    • 気候変動枠組条約: 地球温暖化対策の国際的な枠組みとなる条約。
    • 生物多様性条約: 生物の多様性を保全し、その構成要素を持続可能に利用し、遺伝資源の利用から生ずる利益を公正に配分することを目的とする条約。

4.3. その後の主な国際会議

地球サミット以降も、国際社会は定期的に首脳レベルの会合を開き、持続可能な開発の実現に向けた取り組みを進めています。

  • 持続可能な開発に関する世界首脳会議(ヨハネスブルク・サミット、2002年): 地球サミットから10年後の進捗を確認し、実施の強化を議論。
  • 国連持続可能な開発会議(リオ+20、2012年): 「グリーン経済」への移行が主要テーマとなり、後の**持続可能な開発目標(SDGs)**の策定へとつながる議論が行われました。

これらの国際会議の積み重ねを通じて、環境問題は、単なる個別課題ではなく、貧困、開発、平和といった、人類社会のあらゆる側面と不可分に結びついた、中心的な課題であるという認識が、国際社会に定着していったのです。


5. 京都議定書と、パリ協定

地球温暖化は、地球環境問題の中でも最も深刻で、対策が急がれる課題の一つです。地球サミットで採択された気候変動枠組条約の下、国際社会は、温室効果ガスの排出削減に向けて、具体的なルール作りを進めてきました。その歴史の中で、特に画期的とされる二つの国際的な合意が、京都議定書パリ協定です。両者は、温暖化対策という共通の目標を掲げながらも、そのアプローチにおいて対照的な特徴を持っています。

5.1. 京都議定書(1997年採択、2005年発効)

気候変動枠組条約の第3回締約国会議(COP3)として、1997年に日本の京都で開催された会議で採択されたのが京都議定書です。

  • 歴史的意義:人類史上初めて、温室効果ガスの排出削減に、法的拘束力のある数値目標を設定したという点で、画期的な議定書でした。
  • アプローチ(トップダウン方式):
    • 先進国のみに削減義務: 「共通だが差異ある責任」の原則に基づき、歴史的に多くの温室効果ガスを排出してきた先進国(日本、EU、カナダなど)に対してのみ、具体的な数値目標(例:日本は1990年比でマイナス6%)を義務付けました。
    • 途上国には削減義務なし: 当時、排出量が急増していた中国やインドといった開発途上国には、具体的な削減義務は課されませんでした。これは、国際的な交渉を通じて、各国に目標を割り当てる「トップダウン」的なアプローチでした。
  • 京都メカニズム:各国が削減目標を、より経済的に効率よく達成するための、柔軟性措置(京都メカニズム)が導入されました。これには、他国の排出削減プロジェクトに投資し、その削減分を自国の削減分としてカウントできる「クリーン開発メカニズム(CDM)」や、先進国間で排出枠を売買できる「国際排出量取引」などが含まれます。
  • 課題:京都議定書の最大の課題は、世界の二大排出国であったアメリカが、国内の産業保護などを理由に離脱し、また、削減義務のない中国の排出量が急増したことで、世界の総排出量のごく一部しかカバーできない枠組みとなってしまったことです。

5.2. パリ協定(2015年採択、2016年発効)

京都議定書に代わる、2020年以降の新たな国際的枠組みとして、2015年のCOP21(於:パリ)で採択されたのがパリ協定です。

  • 目標:世界の平均気温の上昇を、産業革命以前に比べて2℃より十分低く保つとともに、1.5℃に抑える努力を追求するという、長期的な目標を掲げました。
  • アプローチ(ボトムアップ方式):京都議定書とは対照的に、パリ協定は、歴史上初めて、先進国・途上国を問わず、全ての参加国が、排出削減の取り組みに参加する枠組みとなりました。
    • 国が決定する貢献(NDC): 各国が、自国の事情に応じて、自主的に削減目標(NDC: Nationally Determined Contribution)を策定し、国連に提出・公表します。
    • 5年ごとの見直し: 各国は、5年ごとに、この目標を見直し、より野心的な目標を提出することが求められます(ラチェット・メカニズム)。これは、各国が自主的に目標を積み上げていく「ボトムアップ」的なアプローチです。これにより、京都議定書から離脱したアメリカや、削減義務のなかった中国も含む、すべての国が参加する枠組みが実現しました。
  • 共通のルールブック:各国の取り組みの進捗状況を、共通の透明性のあるルールに基づいて報告・検証する仕組みが設けられました。

パリ協定は、法的拘束力のある数値目標をトップダウンで課すのではなく、すべての国が参加し、継続的に努力を高めていくという、より柔軟で現実的なアプローチへと転換した点で、温暖化対策の国際協調における新たな時代を画するものとなりました。


6. 再生可能エネルギー

地球温暖化の主な原因である二酸化炭素(CO2)の排出を削減し、持続可能な社会を実現するための切り札として、世界的に導入が加速しているのが再生可能エネルギー(Renewable Energy)です。これは、石油や石炭といった、使えばなくなる枯渇性エネルギーである化石燃料とは異なり、自然界の現象から生まれ、繰り返し利用することができるエネルギーの総称です。

6.1. 再生可能エネルギーの種類

再生可能エネルギーには、様々な種類があります。

  • 太陽光発電:太陽の光エネルギーを、ソーラーパネル(太陽電池)を使って直接電気に変換する方式です。大規模な発電所から、住宅の屋根に設置する小規模なものまで、多様な形で導入が進んでいます。
  • 風力発電:風の力で巨大な風車を回し、その回転エネルギーで発電機を動かして電気を作る方式です。陸上だけでなく、より安定して強い風が吹く洋上での発電(洋上風力)にも期待が寄せられています。
  • 水力発電:ダムなどを使って、水の流れ落ちる位置エネルギーを利用して水車を回し、発電する方式です。古くからある大規模なダム式だけでなく、中小河川の流れを利用する小規模な発電も注目されています。
  • 地熱発電:火山の地下にあるマグマの熱エネルギーを利用して蒸気を作り、その蒸気でタービンを回して発電する方式です。火山国である日本は、大きなポテンシャルを持つとされています。
  • バイオマス発電:木材チップ、家畜の糞尿、食品廃棄物といった、動植物から生まれる生物資源(バイオマス)を燃焼させたり、発酵させてガス化したりして、発電する方式です。

6.2. 再生可能エネルギーのメリット

再生可能エネルギーの導入が世界的に推進されている理由は、その多くのメリットにあります。

  1. CO2排出量の削減:発電時にCO2を排出しない(あるいは、バイオマスのように、もともと植物が吸収したCO2を排出するため、大気中のCO2を増やさない「カーボンニュートラル」と見なされる)ため、地球温暖化対策として極めて有効です。
  2. エネルギー安全保障の向上:化石燃料のほとんどを輸入に頼る日本のような国にとって、自国の自然環境から生み出せる再生可能エネルギーは、貴重な国産エネルギーです。その比率を高めることは、中東情勢などによる海外のエネルギー供給リスクを低減し、エネルギー自給率の向上、ひいてはエネルギー安全保障の強化につながります。
  3. 枯渇の心配がない:太陽光や風、水といった自然の恵みを利用するため、化石燃料のように枯渇する心配がありません。

6.3. 普及に向けた課題

多くのメリットを持つ再生可能エネルギーですが、その本格的な普及に向けては、いくつかの経済的・技術的な課題を克服する必要があります。

  • 発電コストの高さ:かつては、化石燃料による発電に比べてコストが高いことが、普及の大きな障壁でした。しかし、技術開発と量産化により、特に太陽光や風力発電のコストは近年劇的に低下しており、多くの国で、最も安価な電源の一つとなりつつあります。
  • 出力の不安定性:太陽光は夜間や曇りの日には発電できず、風力は風が吹かないと発電できないなど、天候によって出力が大きく変動するという不安定性を抱えています。電力の安定供給を維持するためには、この変動を吸収するための大規模な蓄電池や、複数の電源を組み合わせて制御する高度な送電網(スマートグリッド)の整備が不可欠です。
  • 立地の制約:大規模な太陽光発電所や風力発電所を建設するためには、広大な土地が必要となります。また、地熱発電は火山の近く、水力発電は河川のある場所にしか設置できません。

これらの課題を克服するため、多くの国では、再生可能エネルギーで発電した電気を、電力会社が一定期間、固定価格で買い取ることを義務付ける**固定価格買取制度(FIT)**などを導入し、その導入を政策的に後押ししています。


7. 循環型社会(3R)

現代の経済社会は、天然資源を採掘し(Take)、製品を作り(Make)、それを使い捨てる(Dispose)という、一方通行の直線的なモデル(リニアエコノミー)の上に成り立ってきました。この「大量生産・大量消費・大量廃棄」型のシステムは、経済成長をもたらす一方で、資源の枯渇と、増え続ける廃棄物という二つの深刻な問題を生み出しました。この持続可能ではないシステムから脱却し、環境への負荷が少ない新たな社会経済システムを構築しようという構想が、**循環型社会(Circular Society)**です。

7.1. 循環型社会とは何か

循環型社会とは、製品の生産から廃棄に至るまでの全段階で、資源の消費を抑制し、使用済みの製品などを、廃棄物として処理するのではなく、新たな「資源」として循環的に利用することで、環境への負荷をできる限り低減させる社会のことです。これは、天然資源の投入量を最小化し、廃棄物の発生をゼロに近づける「サーキュラーエコノミー(循環経済)」の考え方に基づいています。

日本でも、2000年に循環型社会形成推進基本法が制定され、この社会の実現に向けた法的な枠組みが整備されました。

7.2. 3R:循環型社会の基本原則

循環型社会を形成するための具体的な行動原則として、国際的に広く共有されているのが**3R(スリーアール)**の考え方です。この3つのRには、優先順位があることが重要です。

  1. リデュース(Reduce):発生抑制これが最も優先順位の高い取り組みです。そもそも、ごみとなるモノの発生を、できる限り抑制することを目指します。
    • 消費者: 過剰な包装を断る、マイバッグやマイボトルを持参する、長持ちする製品を選ぶ。
    • 生産者: 製品の軽量化や長寿命化、詰め替え用製品の提供。
  2. リユース(Reuse):再使用次に優先されるのが、一度使った製品や容器などを、ごみとして捨てるのではなく、そのままの形で、あるいは修理して繰り返し使用することです。
    • : リターナブル瓶(ビール瓶、牛乳瓶)、フリーマーケットやリサイクルショップでの中古品の売買、衣類のおさがり。
  3. リサイクル(Recycle):再生利用これは、3Rの中で最後の手段と位置づけられます。リデュースやリユースができない場合に、使用済みの製品などを、原材料として再生利用することです。
    • :
      • マテリアルリサイクル: ペットボトルを再生して、新たなペットボトルや繊維製品を作る。
      • ケミカルリサイクル: 廃プラスチックを化学的に分解して、化学原料に戻す。
      • サーマルリサイクル: 廃棄物を燃焼させる際に発生する熱エネルギーを、発電や温水供給に利用する(熱回収)。

7.3. 拡大生産者責任(EPR)

3Rを社会全体で進めるためには、消費者や自治体の努力だけでは限界があります。そこで重要となるのが、**拡大生産者責任(EPR: Extended Producer Responsibility)**という考え方です。

これは、「製品の生産者が、その製品が使用され、廃棄された後まで、一定の責任を負うべきである」という原則です。

具体的には、生産者に対して、自社製品の使用済み容器や製品の自主回収やリサイクルを義務付けるものです。この責任を負わせることで、生産者は、設計段階から、リサイクルしやすい素材を使ったり、分解しやすい構造にしたりするインセンティブを持つようになります(拡大生産者責任)。

日本では、このEPRの考え方に基づき、個別の品目ごとにリサイクルを義務付ける法律が整備されています。

  • 容器包装リサイクル法
  • 家電リサイクル法
  • 食品リサイクル法
  • 建設リサイクル法
  • 自動車リサイクル法

これらの法制度と、市民一人ひとりの3Rの実践を通じて、日本は循環型社会の実現を目指しているのです。


8. 環境ビジネス

環境問題への対応は、企業にとって、規制の強化やコストの増加といった、ネガティブな側面ばかりではありません。むしろ、環境問題という社会的な課題を、新たな事業機会として捉え、その解決に貢献する製品やサービスを提供することで、経済的な利益を生み出そうとする動きが活発化しています。このような、環境保全と経済性の両立を目指すビジネスを、総称して**環境ビジネス(エコビジネス)**と呼びます。

8.1. 環境ビジネスの多様な分野

環境ビジネスの市場は、地球温暖化対策や循環型社会への移行といった世界的な潮流を背景に、急速に拡大しており、その内容は非常に多岐にわたります。

  1. 再生可能エネルギー関連ビジネス:これが、現在最も成長が期待される分野の一つです。
    • 機器製造: 太陽光パネル、風力発電の風車、高性能な蓄電池などの製造・販売。
    • 発電事業: 自ら発電所を建設・運営し、電力を販売する事業。
    • コンサルティング・保守: 発電所の導入計画の策定や、設置後のメンテナンスサービス。
  2. 省エネルギー関連ビジネス:企業の生産活動や、私たちの日常生活におけるエネルギー消費の効率を高めるためのビジネスです。
    • 省エネ機器: LED照明、高効率な空調設備や産業用モーター、建物の断熱材などの開発・販売。
    • ESCO事業(Energy Service Company): 顧客の工場やビルに省エネ改修を行い、それによって削減された光熱費の一部を報酬として受け取るサービス。
  3. 廃棄物処理・リサイクルビジネス:循環型社会の構築に不可欠な、廃棄物の適正な処理と、資源としての再利用を担うビジネスです。
    • 産業廃棄物や一般廃棄物の収集・運搬・中間処理・最終処分。
    • 使用済み製品から、プラスチックや金属、レアメタルなどを回収し、新たな原料として販売するリサイクル事業。
  4. 環境汚染防止ビジネス:大気汚染、水質汚濁、土壌汚染などを防止・浄化するための技術や製品を提供するビジネスです。
    • 工場の排煙から有害物質を除去する装置、排水処理施設、汚染された土壌の浄化技術など。
  5. 環境配慮型製品(グリーン製品):製品のライフサイクル全体(製造・使用・廃棄)を通じて、環境への負荷が少ない製品の開発・販売です。
    • 電気自動車(EV)やハイブリッドカー、省エネ家電、環境に配慮した素材で作られた日用品など。

8.2. 環境ビジネスの成長を支える要因

環境ビジネスが、21世紀の成長産業として注目されている背景には、いくつかの要因があります。

  • 環境規制の強化:各国政府が、地球温暖化対策や廃棄物問題に対応するため、炭素税の導入や、リサイクル義務の強化といった環境規制を強めています。これが、企業に対して、環境対策技術やサービスの導入を促す強力なインセンティブとなっています。
  • 消費者の環境意識の高まり:消費者の間で、環境に配慮した製品やサービスを積極的に選んで購入しようとする「グリーンコンシューマー」としての意識が高まっています。これにより、企業の環境への取り組みが、製品の売れ行きを左右する重要な要素となっています。
  • ESG投資の拡大:投資家が、企業の財務情報だけでなく、環境(E)・社会(S)・ガバナンス(G)への取り組みを評価して投資先を選ぶ「ESG投資」が、世界の金融市場で主流となりつつあります。これにより、企業は、環境への取り組みを強化しなければ、事業に必要な資金を調達することが難しくなっています(次項で詳述)。

このように、環境ビジネスの成長は、社会全体の価値観の変化と、それを後押しする政策・市場のメカニズムによって支えられているのです。


9. 企業の環境への取り組み(CSR、ESG投資)

かつて、企業の社会的な役割は、利潤を最大化し、雇用を生み出し、税金を納めることである、と主に考えられてきました(ミルトン・フリードマン)。しかし、グローバル化の進展や、環境問題・人権問題といった社会的な課題の深刻化を背景に、現代の企業には、単なる経済的な存在に留まらない、より広範な社会的責任を果たすことが求められるようになっています。その中心的な概念がCSRであり、近年では、それが投資の世界の基準となるESGという考え方へと進化しています。

9.1. CSR(企業の社会的責任)

**CSR(Corporate Social Responsibility)**とは、日本語では「企業の社会的責任」と訳され、企業が、自社の利益追求だけでなく、事業活動を行う上で、株主、従業員、顧客、取引先、地域社会、そして環境といった、様々な利害関係者(ステークホルダー)の要求に配慮し、社会全体に対して責任ある行動をとるべきである、という考え方です。

CSRの具体的な活動内容は、非常に多岐にわたります。

  • 環境(Environment):
    • 温室効果ガスの排出削減、省エネルギー・省資源の推進。
    • 製品における化学物質の適正な管理、廃棄物の削減とリサイクル。
    • 事業活動が地域の生態系に与える影響への配慮、生物多様性の保全活動。
  • 社会(Social):
    • **コンプライアンス(法令遵守)**と、公正な取引。
    • 製品・サービスの品質と安全性の確保。
    • 人権の尊重、従業員の多様性(ダイバーシティ)の確保と、良好な労働環境の提供。
    • 地域社会への貢献活動(ボランティア、寄付、文化・スポーツ活動の支援など)。
  • ガバナンス(Governance):
    • 企業の意思決定プロセスの透明性と、経営の健全性を確保するための**コーポレート・ガバナンス(企業統治)**の強化。
    • 株主に対する情報開示(ディスクロージャー)の徹底。

9.2. ESG投資:投資の世界のパラダイムシフト

かつて、CSR活動は、企業の利益とは直接結びつかない「コスト」や、一種の慈善活動として捉えられる側面がありました。しかし、近年、この認識は大きく変化しています。その最大の原動力が、金融・投資の世界で急速に主流となりつつあるESG投資です。

ESG投資とは、投資家が、企業の将来性や持続可能性を評価する際に、従来重視されてきた売上や利益といった財務情報だけでなく、その企業が、環境(E)、社会(S)、ガバナンス(G)という非財務的な要素に、いかに配慮し、取り組んでいるかを重視して、投資先を選別するという投資手法です。

  • E(Environment): 環境。気候変動、再生可能エネルギー、資源枯渇、生物多様性など。
  • S(Social): 社会。人権、労働問題、地域社会への貢献、サプライチェーン管理など。
  • G(Governance): ガバナンス(企業統治)。取締役会の構成、役員報酬、腐敗防止、株主の権利など。

なぜESG投資が拡大しているのでしょうか。それは、「ESGへの取り組みが不十分な企業は、長期的には大きな経営リスクを抱えており、持続的な成長が期待できない」という認識が、世界の巨大な年金基金や機関投資家の間で共有されるようになったからです。

例えば、

  • 気候変動に対応できない企業は、将来、炭素税などの規制強化によって大きなコストを負担したり、異常気象によってサプライチェーンが寸断されたりするリスク(気候変動リスク)を抱えています。
  • サプライチェーンで人権侵害や児童労働が発覚した企業は、消費者からの不買運動に遭い、ブランドイメージが大きく傷つくリスク(レピュテーションリスク)があります。

このように、ESGへの取り組みは、もはや企業の任意活動ではなく、その企業の長期的なリスク管理能力持続的な収益力を測るための、重要な指標と見なされるようになっているのです。このESG投資の拡大は、企業に対して、CSR活動へのより真剣な取り組みを促す、強力な市場からの圧力となっています。


10. 生物多様性の経済的価値

環境問題と言えば、多くの人がまず地球温暖化や廃棄物問題を思い浮かべるかもしれません。しかし、それらと並んで、あるいはそれ以上に深刻で、一度失われると回復が極めて困難な、静かなる危機が進行しています。それが、**生物多様性(Biodiversity)**の喪失です。そして、この問題は、単に「珍しい動植物がいなくなる」といった情緒的な問題に留まらず、私たちの経済社会の基盤そのものを揺るがしかねない、巨大な経済的リスクをはらんでいます。

10.1. 生物多様性とは何か

生物多様性とは、地球上に存在する、多種多様な生きものたちの豊かな個性と、そのつながりのことを指します。この概念は、主に三つのレベルの多様性から成り立っています。

  1. 生態系の多様性:森林、河川、湿地、サンゴ礁など、様々なタイプの自然環境(生態系)が存在すること。
  2. 種の多様性:動物、植物、菌類、微生物に至るまで、多種多様な生物種が存在すること。
  3. 遺伝子の多様性:同じ種の中でも、個体ごとに遺伝的な変異があり、多様な個性を持っていること。

これらの多様な生きものたちは、互いに複雑に関係しあいながら(食う・食われるの関係、共生、寄生など)、生態系全体のバランスを保っています。

10.2. 生態系サービス:自然の恵み

私たちは、この豊かな生物多様性がもたらす、様々な自然の恵みの上に、経済社会を成り立たせています。生物多様性と生態系が、人類に提供してくれるこれらの便益を、**生態系サービス(Ecosystem Services)**と呼びます。

生態系サービスは、主に四つのカテゴリーに分類されます。

  • 供給サービス:私たちが、生態系から直接的に得ている資源や生産物です。
    • 食料(魚介類、穀物、野菜、果物)
    • 水(きれいな飲料水)
    • 木材、繊維
    • 医薬品の原料となる遺伝資源
  • 調整サービス:生態系が、環境を安定させるために果たしている、間接的な機能です。
    • 気候の安定化(森林によるCO2の吸収)
    • 水質の浄化
    • 自然災害の緩和(サンゴ礁による高波の減衰、森林の保水機能による洪水緩和)
    • 受粉(ハチなどの昆虫による農作物の受粉)
  • 文化的サービス:私たちが、自然とのふれあいの中から得る、精神的な豊かさやインスピレーションです。
    • レクリエーション、観光(美しい景観)
    • 芸術、文化、宗教の源泉
    • 科学的な発見や教育の機会
  • 基盤サービス:上記のすべてのサービスの土台となる、生態系の基本的な働きです。
    • 光合成による酸素の生産
    • 土壌の形成
    • 栄養塩の循環

10.3. 生物多様性の喪失がもたらす経済的リスク

問題は、人間の経済活動(森林伐採、過剰な漁獲、土地開発、気候変動など)によって、この生物多様性が、過去に例のないスピードで失われ続けていることです。生物多様性が損なわれるということは、私たちが依存している生態系サービスが劣化・喪失することを意味します。

これは、私たちの経済にとって、極めて深刻なリスクとなります。

  • 食料や水、木材といった、自然資本の供給が不安定になる。
  • 自然災害のリスクが増大する。
  • 医薬品や工業製品の新たな原料となる可能性を秘めた、未知の遺伝資源が永遠に失われる。

国連などの国際機関は、この生物多様性の喪失による経済的な損失額が、世界全体で毎年、数兆ドルにも上ると試算しています。これは、リーマン・ショックによる経済損失に匹敵、あるいはそれを上回る規模です。

この危機に対応するため、国際社会は生物多様性条約の下で、生態系の保全や、遺伝資源の利用に関する国際的なルール(名古屋議定書など)の策定を進めています。また、企業や金融機関の間でも、自社の事業活動や投融資先が、生物多様性にどのような影響を与えているか(自然関連財務情報開示、TNFD)を評価し、そのリスクと機会を経営に統合しようとする動きが、ESG投資の新たな潮流として始まっています。


Module 20:環境問題の経済分析の総括:見えざるコストを可視化し、持続可能な未来を設計する

本モジュールを通じて、私たちは、現代社会が直面する最も複雑で根源的な課題の一つである環境問題を、経済学という名の鋭利なメスで解剖してきました。その探求は、環境破壊の根本原因が、市場の価格メカニズムからこぼれ落ちた「外部不経済」という名の「見えざるコスト」にあることを突き止めることから始まりました。この一点を理解することで、なぜ善意だけでは環境問題が解決しないのか、その構造的な理由が明らかになったはずです。

そして、私たちは、この「見えざるコスト」を経済システムの中にいかにして組み込むか(内部化するか)という、具体的な処方箋を学びました。コースの定理が示す市場ベースの交渉の可能性から、炭素税や排出量取引といった、汚染に「価格」や「数量上限」を与える現代的な政策ツールまで、それぞれの論理と有効性、そして限界を比較検討しました。

さらに私たちの視座は、地球サミットからパリ協定に至る国際社会の苦闘の歴史を辿ることで、地球規模へと広がりました。そこでは、各国の利害が衝突する中で、いかにしてグローバルな協調の枠組みを築き上げていくかという、困難な挑戦が続けられています。

最後に、私たちは、環境問題への対応が、もはや単なる「コスト」ではなく、再生可能エネルギーや循環型社会といった、新たな成長のエンジン、すなわち「環境ビジネス」を生み出す巨大な事業機会となっている現実を目の当たりにしました。CSRやESG投資という潮流は、企業の存在意義そのものを問い直し、環境への配慮が、長期的な企業価値と不可分であることを示しています。そして、生物多様性がもたらす「生態系サービス」という概念は、私たちが依存する自然の恵みそのものが、測り知れない経済的価値を持つ「資本」であることを教えてくれました。

このモジュールで得た知見は、単なる知識の集積ではありません。それは、環境という、これまで経済学が見過ごしてきた「外部」の要素を、その分析の中心に据え、真に持続可能な経済社会のあり方を構想するための、知的で実践的な「方法論」なのです。

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