【基礎 政治経済(経済)】Module 22:日本経済の歩み
本モジュールの目的と構成
私たちが生きる現代の日本社会は、過去の経済的な成功と失敗の長い道のりの上に成り立っています。戦後の焼け野原から奇跡的な復興を遂げ、世界第2位の経済大国へと駆け上がった栄光の時代。しかし、その後に待ち受けていたバブル経済の熱狂と崩壊、そして「失われた数十年」とも呼ばれる長く困難な停滞の時代。この激動の歩みを、単なる過去の出来事としてではなく、経済学という名の羅針盤を用いて論理的に読み解くこと。それが、現代日本が直面する複雑な課題の本質を理解し、未来への針路を見定めるための、不可欠な知的作業に他なりません。
本モジュールは、この戦後日本経済史という壮大なドラマを、経済学の主要な概念(経済成長、景気循環、金融政策、財政政策、国際収支など)と有機的に結びつけながら、体系的に分析するための知的な旅路です。私たちは、傾斜生産方式という大胆な復興戦略から始まり、高度経済成長を駆動した要因、安定成長への移行、そしてバブル発生から崩壊、長期デフレとの闘いに至るまで、それぞれの時代の転換点において、どのような経済メカニズムが働き、どのような政策的選択がなされ、そしてそれがどのような結果をもたらしたのか、その因果関係を丹念に追っていきます。アベノミクスという近年の大規模な経済実験の評価も含め、現代に至るまでの光と影を、客観的な視点から考察します。
このモジュールを学び終えたとき、皆さんは、断片的な歴史知識を身につけるのではありません。日本の経済社会が経験してきた成功と失敗の具体的な事例を通じて、これまで学んできた経済理論が、現実の世界でどのように機能(あるいは機能不全)するのかを深く理解し、現代日本が抱える財政再建や少子高齢化といった難題に対して、自らの頭で考え、論理的に分析するための、揺るぎない知的「方法論」を手にしているはずです。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、戦後日本経済の軌跡を辿ります。
- 戦後の経済復興と、傾斜生産方式: 敗戦による壊滅的な状況から、日本がいかにして立ち上がり、奇跡的な復興の礎を築いたのか、その独創的な初期戦略を分析します。
- 高度経済成長とその要因: 1950年代半ばから1970年代初頭にかけて、世界を驚かせた日本の高度経済成長はなぜ可能だったのか、その多様な成功要因を多角的に解き明かします。
- 安定成長期への移行: 高度成長が終焉を迎え、日本経済がより成熟した安定成長の時代へと移行していくプロセスと、その時代の特徴を学びます。
- バブル経済の発生と崩壊: 1980年代後半、日本中が熱狂した資産価格の異常な高騰(バブル)はなぜ発生し、そしてなぜ、どのようにして崩壊したのか、そのメカニズムに迫ります。
- 平成不況(失われた10年・20年): バブル崩壊の後遺症として、日本経済が陥った長期的な経済停滞、いわゆる「失われた時代」の実態とその原因を探ります。
- 金融システム不安と、その克服: バブル崩壊が引き起こした金融機関の不良債権問題と、それが日本の金融システム全体を揺るがした危機、そしてその克服への道のりを検証します。
- 構造改革: 長期停滞から脱却するために、日本社会の様々な「構造」にメスを入れようとした「構造改革」の理念と、その具体的な取り組み、評価について考察します。
- デフレーションとの闘い: 平成不況のもう一つの側面である、物価が持続的に下落する「デフレーション」という病に、日本がいかにして立ち向かい、そして苦闘してきたのかを分析します。
- アベノミクス: 近年の日本経済における最大規模の経済政策パッケージである「アベノミクス」を取り上げ、その「三本の矢」の内容と成果、課題を評価します。
- 現代日本経済が直面する課題(財政再建、少子高齢化): 最後に、これまでの歴史的経緯を踏まえ、現代の日本が直面する最も深刻な二つの構造的課題、財政再建と少子高齢化の本質に迫ります。
1. 戦後の経済復興と、傾斜生産方式
1945年8月、ポツダム宣言を受諾し、第二次世界大戦に敗れた日本は、文字通り焦土と化していました。主要都市は空襲で破壊され、工場設備の大半は失われ、海外領土もすべて喪失。食料や生活物資は極度に不足し、人々は飢餓線上での生活を強いられていました。さらに、復員兵や海外からの引揚者によって人口は急増し、深刻な失業問題も発生。インフレーションは制御不能なレベル(ハイパーインフレーションに近い状態)に達していました。この絶望的な状況から、日本はいかにして立ち上がり、経済復興への第一歩を踏み出したのでしょうか。その鍵となったのが、「傾斜生産方式」と呼ばれる、極めてユニークで大胆な経済政策でした。
1.1. 敗戦直後の経済危機
敗戦直後の日本経済が直面していた危機は、複合的で深刻なものでした。
- 生産設備の壊滅: 空襲や戦時中の酷使により、工場や機械といった生産基盤の約4分の1が破壊・喪失されました。
- 資源・エネルギーの枯渇: 海外領土の喪失により、鉄鉱石や石油といった、工業生産に不可欠な資源の供給が途絶しました。国内で唯一豊富に存在した石炭も、炭鉱の荒廃や労働意欲の低下により、生産量が激減していました。
- 食糧危機とインフレーション: 生産基盤の崩壊と、戦時中の通貨乱発が相まって、食料品をはじめとする物資が極端に不足し、物価は猛烈な勢いで上昇しました。闇市が横行し、法定価格は意味をなさなくなっていました。
- 失業と社会不安: 復員兵や引揚者の流入により、労働力は過剰となり、深刻な失業問題が発生。社会不安が増大しました。
この危機を脱し、国民生活を安定させるためには、何よりもまず、基幹産業の生産力を早急に回復させることが急務でした。しかし、すべての産業を同時に復興させるだけの資源も資金も、当時の日本にはありませんでした。
1.2. 傾斜生産方式のアイデア
この難局を打開するために、有沢広巳(ありさわひろみ)ら経済学者グループによって提唱され、当時の吉田茂内閣(片山哲内閣によって本格実施)によって採用されたのが、傾斜生産方式です。
その基本的なアイデアは、「限られた資源と資金を、特定の基幹産業に集中的に『傾斜』させて投入し、その産業の回復を突破口として、経済全体の再生産サイクルを回復させる」というものでした。いわば、経済復興の「ボトルネック(隘路)」となっている部分に、集中的な治療を施そうという戦略です。
1.3. 石炭と鉄鋼への集中投入
傾斜生産方式において、最重点産業として選ばれたのが、石炭と鉄鋼でした。
その理由は、
- 石炭: あらゆる産業の動力源であり、特に鉄鋼生産に不可欠なエネルギー源。国内で自給可能。
- 鉄鋼: 機械、輸送機器、建設など、すべての産業の基盤となる素材。
具体的なプロセスは、以下のような循環を意図していました。
- 石炭増産への集中: 輸入に頼れない状況下で、まず国内で生産可能な石炭の増産に、利用可能な資材(特に鉄鋼)と労働力、そして政府資金(復興金融金庫からの融資)を最優先で投入します。
- 鉄鋼増産への波及: 増産された石炭を、鉄鋼業に重点的に供給します。これにより、鉄鋼の生産量を回復させます。
- 石炭産業へのフィードバック: 増産された鉄鋼を、再び石炭産業(炭鉱の設備修復や機械化など)に優先的に投入します。これにより、石炭の生産性はさらに向上します。
- 他産業への波及: 石炭と鉄鋼の生産が軌道に乗れば、それが他の産業(化学、機械、電力など)の回復へと波及し、経済全体の再生産サイクルが回り始める。
[Image/Flowchart illustrating the Keisha Seisan system focusing on Coal and Steel]
この政策を支えるため、政府は復興金融金庫を設立し、石炭・鉄鋼などの基幹産業に対して、低利で大量の資金を供給しました。また、価格差補給金制度を設け、石炭や鉄鋼の生産コストと、低く抑えられた公定価格との差額を、政府が補填することで、企業の生産意欲を支えました。
1.4. 成果と副作用
傾斜生産方式は、1947年から1948年にかけて強力に推進され、石炭と鉄鋼の生産量は目覚ましい回復を見せ、日本の鉱工業生産全体の回復に大きく貢献しました。経済復興の「呼び水」としての役割を果たしたと言えます。
しかし、この政策は大きな副作用も伴いました。
- 復金インフレ: 復興金融金庫からの融資の多くが、最終的に日本銀行の紙幣増発によって賄われたため、市中の通貨供給量が急増し、すでに深刻だったインフレーションをさらに加速させてしまいました。
この激しいインフレを収束させ、日本経済を安定軌道に乗せるためには、次の段階として、GHQ(連合国軍総司令部)の指導の下で、強力な**経済安定化政策(ドッジ・ライン)**が必要とされることになるのです。
2. 高度経済成長とその要因
1950年代半ばから1970年代初頭にかけて、日本経済は年平均10%を超える驚異的な成長を遂げました。この「高度経済成長」は、敗戦の焦土からわずかな期間で日本を世界有数の経済大国へと押し上げ、「東洋の奇跡」とも呼ばれました。この奇跡は、単一の要因によってもたらされたものではなく、国内外の様々な好条件が、あたかも幸運なパズルのピースが組み合わさるかのように、複合的に作用した結果でした。Module 14でも触れましたが、ここでは日本の事例として、より具体的にその要因を掘り下げてみましょう。
2.1. 高度経済成長を支えた国内要因
- 旺盛な設備投資と技術革新:高度成長の最大のエンジンは、民間企業による極めて活発な設備投資でした。「投資が投資を呼ぶ」と言われたように、企業は将来の需要拡大を見越して、積極的に工場を新設し、最新の機械設備を導入しました。この過程で、欧米からの技術導入も積極的に行われ、それを単に模倣するだけでなく、改良・応用することで、日本の技術水準は飛躍的に向上しました。
- 豊富な質の高い労働力:農村部から都市部の工場へと、若くて勤勉な労働力が大量に供給されました(集団就職)。彼らは、比較的高い教育水準(人的資本)を持ち、新しい技術を習得する意欲も高かったため、生産性の向上に大きく貢献しました。
- 高い貯蓄率と間接金融:日本国民は伝統的に貯蓄率が高く、その豊富な貯蓄は、郵便貯金や銀行預金を通じて、効率的に企業の設備投資資金として供給されました(オーバーローン:銀行が預金量を上回る貸出を行う状態)。この間接金融中心のシステムが、企業の旺盛な資金需要を支えました。
- 政府による政策的支援:政府も、経済成長を最優先課題として、様々な政策で後押ししました。
- 財政投融資: 郵便貯金などを原資として、基幹産業(鉄鋼、電力、海運など)や社会インフラ(道路、港湾、新幹線など)の整備に、重点的に資金を供給しました。
- 産業政策: 特定産業の育成のための税制優遇措置や、輸出促進策などを実施しました。
- 所得倍増計画(1960年): 池田勇人内閣が打ち出したこの計画は、国民に明るい将来展望を与え、消費と投資を刺激する上で大きな心理的効果を発揮しました。
- 「日本的経営」:終身雇用、年功序列、企業別労働組合といった、いわゆる「日本的経営」は、従業員の企業への忠誠心を高め、労使協調的な関係を育むことで、企業内での技術の蓄積や、品質管理(QCサークルなど)活動の活発化に貢献したとされています。
2.2. 追い風となった国際環境
国内の要因だけでなく、当時の良好な国際環境も、日本の高度経済成長にとって大きな追い風となりました。
- 自由で安定した国際経済体制:**GATT・IMF体制(ブレトン・ウッズ体制)**の下で、世界の自由貿易が拡大し、日本は輸出市場へのアクセスを容易に得ることができました。
- 有利な固定為替相場:1ドル=360円という、実力から見て割安な(円安)固定為替相場は、日本の輸出製品の価格競争力を非常に有利にし、輸出主導型の成長を強力に後押ししました。
- 安価な資源とエネルギー:当時は、中東などから原油をはじめとする資源やエネルギーを、安価かつ安定的に輸入することができました。これは、資源に乏しい日本の加工貿易にとって、極めて重要な前提条件でした。
- アメリカの「核の傘」と軽武装:日米安全保障条約の下で、日本の安全保障はアメリカに大きく依存していました。これにより、日本は軍事費の負担を低く抑え、その分の資源を経済建設に集中させることができました(「吉田ドクトリン」)。
2.3. 高度経済成長がもたらしたもの
高度経済成長は、日本社会に大きな変化をもたらしました。
- 国民生活の向上: 所得水準は飛躍的に向上し、テレビ・洗濯機・冷蔵庫(三種の神器)、さらにはカラーテレビ・クーラー・自動車(3C)といった耐久消費財が急速に普及し、人々の生活は格段に豊かになりました。
- 産業構造の変化: 農業中心から、鉄鋼、造船、化学といった重化学工業中心へと、産業構造が大きく転換しました(産業構造の高度化)。太平洋ベルト地帯には、巨大なコンビナートが次々と建設されました。
- 都市化の進展: 農村から都市部への大規模な人口移動が起こり、都市の過密化と、地方の過疎化という問題も生み出しました。
- 公害の発生: しかしその一方で、経済成長を最優先するあまり、環境への配慮が十分でなく、水俣病や四日市ぜんそくといった深刻な公害問題が各地で発生しました。
この未曾有の成長の時代は、1973年の第一次石油危機によって、突然の終焉を迎えることになります。
3. 安定成長期への移行
1950年代半ばから約20年間にわたって続いた日本の高度経済成長は、1970年代に入ると、国内外の環境の大きな変化に直面し、その勢いを失っていきます。特に、1971年のニクソン・ショック(ドル・ショック)と、1973年の第一次石油危機(オイル・ショック)という二つの大きな衝撃は、高度成長を支えてきた前提条件を根底から覆し、日本経済を新たな段階、すなわち、より緩やかで持続可能な安定成長期へと移行させる決定的な転換点となりました。
3.1. 高度成長の終焉をもたらした要因
高度経済成長が終焉を迎えた背景には、複合的な要因が存在します(Module 17参照)。
- ブレトン・ウッズ体制の崩壊:1971年のニクソン・ショックによる金ドル兌換停止と、その後の1973年の変動相場制への移行は、1ドル=360円という固定相場制の恩恵を終わらせました。円は実力に見合った水準へと切り上がり(円高)、日本の輸出産業は、それまでの価格競争力の一部を失いました。
- 第一次石油危機:1973年の第四次中東戦争をきっかけとするOPECによる原油価格の大幅な引き上げ(約4倍)は、エネルギー資源のほとんどを輸入に頼る日本経済に、**コスト・プッシュ型の激しいインフレーション(狂乱物価)と、戦後初のマイナス成長(1974年)**という深刻な打撃を与えました。「石油は安価で豊富である」という高度成長の大前提が崩れ去ったのです。
- 国内要因の変化:
- 環境問題の深刻化: 高度成長の負の遺産である公害問題への対策コストが、企業の負担として顕在化しました。
- 労働力供給の制約: 農村からの若年労働力の流入が一段落し、労働力不足感が強まりました。
- 技術キャッチアップの限界: 日本の技術水準が先進国に追いつき、もはや模倣だけでは成長できなくなりました。
3.2. 安定成長期の特徴:「減量経営」と産業構造の転換
二度の石油危機(1979年には第二次石油危機が発生)を経験した日本経済は、年率10%を超える成長こそ望めなくなったものの、年3~5%程度の安定した成長軌道へと移行しました。この時期(1970年代半ば~1980年代)を安定成長期と呼びます。
この安定成長を可能にしたのは、日本企業と政府による、困難な状況への巧みな適応努力でした。
- 「減量経営」による石油危機への適応:石油価格の高騰に直面した日本企業は、徹底した省エネルギー投資(エネルギー効率の高い設備の導入)や、生産プロセスの合理化(トヨタ生産方式に代表されるような、在庫削減や品質管理の徹底)を進めました。この「減量経営」と呼ばれる努力により、日本の産業は、他の先進国に比べて、はるかに少ないエネルギーで、高い付加価値を生み出す、極めて効率的な構造へと変貌を遂げました。
- 産業構造の転換(重厚長大から軽薄短小へ):産業の中心が、鉄鋼、造船、化学といった、資源・エネルギーを大量に消費する「重厚長大」型の産業から、半導体、IC(集積回路)、VTR、精密機械、産業用ロボットといった、知識集約的で、より少ない資源で高い付加価値を生み出す「軽薄短小」型のハイテク産業へとシフトしていきました。特に、自動車産業とエレクトロニクス産業は、省エネ技術や品質管理の高さを武器に、世界市場で圧倒的な競争力を獲得しました。
- 貿易摩擦の激化:この日本の輸出攻勢は、アメリカやヨーロッパ諸国との間で、深刻な貿易摩擦を引き起こしました。特に、自動車や半導体をめぐる日米間の対立は、政治問題へと発展し、日本に対する市場開放や輸出自主規制の要求が強まりました。
3.3. 安定成長期の「光と影」
安定成長期は、日本が石油危機という試練を乗り越え、世界屈指の技術立国としての地位を確立した時代でした。国民生活も、物質的な豊かさだけでなく、環境への配慮や、生活の質(クオリティ・オブ・ライフ)への関心が高まるなど、成熟した社会へと移行していきました。
しかし、その一方で、この時期の成功体験、特に巨額の貿易黒字は、国際社会からの批判を招き、後のプラザ合意による急激な円高へとつながる伏線となりました。そして、その円高不況を克服するための政策対応が、日本経済を未曾有の「バブル経済」という、熱狂と破綻の時代へと導いていくことになるのです。
4. バブル経済の発生と崩壊
1980年代後半から1990年代初頭にかけて、日本経済は、土地(不動産)と株式という二つの資産の価格が、実体経済の成長からはるかにかけ離れて、異常なまでに高騰するという、熱狂的な時代を経験しました。これが**バブル経済(Bubble Economy)**です。この時期、日本の地価総額はアメリカ全体の地価総額の数倍にも達すると言われ、「Japan as No.1」といった言葉と共に、日本経済は絶頂期を迎えたかのように見えました。しかし、泡(バブル)はいつか必ず弾ける運命にあります。その崩壊は、その後の日本経済に、極めて深刻で長期にわたる後遺症を残すことになりました。
4.1. バブル発生のメカニズム
なぜ、このような異常な資産価格の高騰が起こったのでしょうか。その直接的な引き金は、1985年のプラザ合意後の政策対応にありました(Module 17参照)。
- プラザ合意と円高不況:プラザ合意によってもたらされた急激な円高は、日本の輸出産業に大打撃を与え、深刻な円高不況を引き起こしました。
- 極端な金融緩和:この不況を克服するため、日本銀行は、公定歩合(当時の政策金利)を、1987年には史上最低水準(当時)の2.5%にまで引き下げるなど、極端な金融緩和政策を実施しました。
- カネ余りと資産市場への資金流入:この超低金利政策は、市中に大量の資金(カネ余り)を生み出しました。企業は、銀行から極めて低い金利で巨額の資金を容易に調達できるようになりました。しかし、円高で輸出が伸び悩む中、企業はその資金を、本来の目的である設備投資ではなく、より手っ取り早く利益が得られる**土地や株式への投資(財テク)**へと向かわせました。個人もまた、低金利で借り入れた資金や、株価上昇で得た利益を元手に、不動産投資に熱中しました。
- 地価・株価の自己増殖的な高騰:大量の資金が資産市場(不動産市場と株式市場)に流れ込んだ結果、地価と株価は急騰を始めました。すると、「土地や株は必ず値上がりする」という**期待(バブル心理)**が人々の間に広がり、さらなる投機的な資金が市場に流れ込みます。「価格が上がるから買う、買うからさらに価格が上がる」という、自己実現的な価格上昇のサイクルが生まれ、資産価格は、その本来の価値(ファンダメンタルズ)とは無関係に、天井知らずに上昇していきました。特に、「土地神話」(日本の土地の価格は決して下がらない)という根強い信仰が、不動産バブルを煽る上で大きな役割を果たしました。
- 銀行の過剰融資:銀行もまた、このバブルを煽る上で大きな役割を果たしました。土地価格の上昇は、土地を担保にした融資の価値(担保価値)を上昇させます。銀行は、この値上がりした土地を担保に、企業や不動産業者に対して、さらに巨額の融資を積極的に行いました。これが、さらなる土地購入と価格上昇を招くという悪循環(信用創造の暴走)を生み出しました。
4.2. バブルの崩壊
永遠に続くかと思われたバブルの狂騒も、終わりを迎える時が来ます。資産価格の異常な高騰と、それに伴う社会的な弊害(例えば、勤労者がマイホームを到底買えないほどの地価高騰)を懸念した日本銀行と政府は、ついにバブル退治へと動き出します。
- 金融引き締め:日本銀行は、1989年5月から、複数回にわたって公定歩合の引き上げを実施し、金融引き締めに転じました。
- 不動産融資総量規制:大蔵省(現在の財務省)は、1990年3月、金融機関に対して、不動産向け融資の伸び率を、総貸出の伸び率以下に抑えるよう求める行政指導(総量規制)を発動しました。
これらの政策転換は、それまで資産市場に流れ込んでいた資金の流れを、急速に堰き止めました。
まず、1990年初頭から株価が暴落を始めました(ピーク時の半値以下に)。
次いで、1991年頃から地価も下落に転じ、その後、十数年にわたって下落し続けることになります。
4.3. 崩壊が残したもの:不良債権問題
バブルの崩壊は、単に資産価格が元に戻ったというだけでは済みませんでした。その過程で膨れ上がった巨額の借金と、価値の下がった資産との間に、巨大なギャップが生まれたのです。
特に深刻だったのが、銀行が抱えることになった不良債権問題です。バブル期に、値上がりを前提に土地などを担保に巨額の融資を行っていた銀行は、担保価値の暴落によって、貸し付けたお金が回収不能(=不良債権)となる事態に直面しました。
この天文学的な額に膨れ上がった不良債権は、銀行の経営を圧迫し、新たな貸し出しを抑制させ(貸し渋り)、日本経済を長期的な停滞へと陥れる、最大の「重石」となったのです。
5. 平成不況(失われた10年・20年)
1990年代初頭のバブル経済の崩壊は、日本経済に想像以上に深刻で、長期にわたる後遺症をもたらしました。株価と地価は暴落し、企業や銀行は巨額の不良債権を抱え、経済活動は停滞。日本は、かつての高度成長や安定成長の輝きを失い、「平成不況」と呼ばれる長く暗いトンネルへと入っていくことになります。この低迷の時代は、当初「失われた10年」と呼ばれましたが、その後も本格的な回復が見られないまま2000年代も過ぎ去り、やがて「失われた20年」、あるいは「失われた30年」とまで称される、日本の経済史における特異な時代として記憶されています。
5.1. バブル崩壊後の長期停滞
バブル崩壊後の日本経済を特徴づけるのは、以下の三つの複合的な現象です。
- 資産価格の長期低迷:株価(日経平均株価)は、1989年末の史上最高値から大きく下落し、その後も長期間にわたって低迷を続けました。地価もまた、1991年をピークに下落に転じ、2000年代半ばまで、ほぼ一貫して下がり続けました(資産デフレ)。
- 低成長(ゼロ成長):実質GDP成長率は、1990年代以降、平均して1%前後にまで大きく落ち込み、時にはマイナス成長も記録する、極めて低い水準で推移しました。これは、高度成長期(約10%)や安定成長期(約4%)とは比較にならないほどの低さです。
- デフレーションの定着:1990年代後半からは、物価が持続的に下落するデフレーションが、日本経済の慢性病として定着しました(詳しくは後述)。
5.2. なぜ長期停滞に陥ったのか?:複合不況
なぜ、日本経済はこれほどまでに長く、深い停滞から抜け出せなかったのでしょうか。その原因は、単一ではなく、複数の要因が複雑に絡み合った「複合不況」であったと考えられています。
- 不良債権問題の深刻化と処理の遅れ(バランスシート不況):これが、長期停滞の最大の直接的な原因とされています。バブル崩壊によって金融機関が抱えた巨額の不良債権は、銀行の財務内容を著しく悪化させました。体力を失った銀行は、新たな融資に極めて慎重になり(貸し渋り)、企業の資金調達を困難にしました。また、企業側も、バブル期に膨らんだ過剰な設備、過剰な雇用、そして過剰な**債務(借金)という「三つの過剰」を抱え、借金返済を最優先し、新たな投資や消費を極力手控えるようになりました。このように、企業や銀行が、資産価格の下落によって傷ついたバランスシート(貸借対照表)**を修復すること(=借金返済)を優先し、経済活動全体が縮小してしまう状況を、「バランスシート不況」と呼びます。不良債権の抜本的な処理が遅れたことが、この不況を長引かせる最大の要因となりました。
- デフレーションの発生と定着:資産価格の下落と、それに伴う需要の低迷は、やがて一般の物価(財・サービスの価格)をも引き下げるデフレーションへと波及しました。デフレは、企業の収益を圧迫し、人々の消費意欲を削ぎ(「待てばもっと安くなる」)、借金の実質的な負担を重くするため(デット・デフレーション)、経済の停滞をさらに深刻化させる悪循環(デフレ・スパイラル)を生み出しました。
- 構造的な問題:長期停滞の背景には、バブル崩壊という短期的な要因だけでなく、より根深い構造的な問題も横たわっていました。
- 少子高齢化の進展: 労働力人口の減少と、社会保障負担の増大が、経済の潜在的な成長力を低下させました。
- グローバル化への対応の遅れ: 日本的雇用慣行や、規制に守られた国内産業が、グローバルな競争環境の変化に柔軟に対応できず、生産性の停滞を招きました。
- 財政・金融政策の限界: 政府は、度重なる景気対策(公共事業の拡大)によって財政赤字を急増させましたが、その効果は限定的でした。日本銀行も、ゼロ金利政策や量的緩和といった非伝統的な金融政策に踏み込みましたが、デフレ脱却には至りませんでした。
これらの要因が、相互に悪影響を及ぼしあいながら、日本経済を「失われた時代」と呼ばれる長期の停滞へと導いたのです。
6. 金融システム不安と、その克服
平成不況(失われた時代)の中でも、特に深刻な局面として記憶されているのが、1990年代後半から2000年代初頭にかけて発生した、日本の金融システム不安です。これは、バブル崩壊によって積み上がった巨額の不良債権問題の処理が遅れる中で、大手金融機関の経営破綻が相次ぎ、日本の金融システム全体が崩壊しかねない、瀬戸際にまで追い込まれた危機でした。
6.1. 不良債権問題の深刻化
バブル崩壊直後、政府も金融機関も、不良債権問題の深刻さを過小評価していました。「地価はいずれまた上がる」という楽観的な見通しや、「大手銀行は潰れない(潰さない)」という護送船団方式(最も体力のない銀行に合わせて、金融行政全体を運営する方式)への過信から、問題の抜本的な処理は先送りされ続けました。
しかし、地価の下落は止まらず、景気の低迷も続いたため、不良債権は減少するどころか、むしろ雪だるま式に膨れ上がっていきました。金融機関は、自己資本比率の低下を防ぐため、損失の表面化を恐れて、融資先の企業への安易な追加融資(追い貸し)を行ったり、実質的に破綻している企業の債権を正常な債権として偽装したりする(不良債権隠し)といった、問題の先送りに終始しました。
6.2. 大手金融機関の相次ぐ破綻
このような状況の中で、1997年から1998年にかけて、ついに日本の金融システムを揺るがす事態が発生します。
- 三洋証券、北海道拓殖銀行、山一證券といった、大手金融機関(銀行、証券会社)が、相次いで経営破綻に追い込まれました。特に、「四大証券」の一角であった山一證券の自主廃業は、「大手金融機関は潰れない」という不倒神話を完全に崩壊させ、市場に深刻な衝撃を与えました。
- 続いて、日本長期信用銀行(長銀)と日本債券信用銀行(日債銀)という、かつて日本の産業金融を支えた二つの長期信用銀行も、巨額の不良債権を抱えて経営危機に陥り、1998年に一時国有化(政府の管理下に置かれる)されました。
これらの大手金融機関の破綻は、金融機関同士がお互いを信用できなくなる「信用収縮」を深刻化させ、銀行の貸し渋り・貸し剥がし(融資の引き上げ)を加速させました。これにより、多くの健全な中小企業までもが資金繰りに窮し、倒産が急増するなど、金融危機は実体経済へと深刻な悪影響を及ぼしました。
6.3. 金融再生への道:公的資金注入と制度改革
この危機的な状況に直面し、政府・日本銀行は、ようやく不良債権問題の抜本的な処理と、金融システムの再建に本腰を入れて取り組み始めます。
- 金融再生関連法の制定(1998年):金融機関の破綻処理の枠組みを整備し、預金者を保護するための預金保険制度の強化(ペイオフ凍結の延長と、その後の限定的な解禁)などが図られました。
- 大手銀行への公的資金注入:政府は、1999年と2001~2002年にかけて、巨額の**公的資金(税金)**を注入して、大手銀行の自己資本を増強し、不良債権の最終処理(損失確定と債権放棄)を促しました。これに対しては、「銀行だけを救済するのは不公平だ」という強い批判もありましたが、金融システム全体の崩壊を防ぐためには不可避の措置でした。
- 金融庁の設置と厳格な査定:金融監督体制を強化するため、金融庁が設置され、銀行の資産内容(不良債権の額)を厳格に査定する**金融検査マニュアル(竹中プラン)**などが導入されました。
- 大手銀行の再編:これらのプロセスを通じて、体力のない金融機関は淘汰され、大手銀行は、メガバンクと呼ばれる巨大な金融グループ(三菱UFJ、三井住友、みずほ)へと、大規模な合併・再編を繰り返していきました。
こうした一連の厳しい措置の結果、2000年代半ばには、主要銀行の不良債権比率は大幅に低下し、日本の金融システムは、ようやく危機的な状況を脱することができました。しかし、この金融システム不安の克服には、実に十数年という長い歳月と、莫大な公的資金(国民負担)が必要とされたのです。
7. 構造改革
1990年代から2000年代初頭にかけて、日本経済が「失われた10年」と呼ばれる長期停滞に苦しむ中で、「日本が再生するためには、もはや従来のケインズ的な需要刺激策(公共事業など)だけでは不十分であり、経済社会の『構造』そのものにメスを入れる、抜本的な改革が必要である」という議論が、大きな政治的な潮流となっていきました。これが構造改革(Structural Reform)です。特に、2001年に発足した小泉純一郎内閣は、「聖域なき構造改革」をスローガンに掲げ、様々な分野で改革を断行しました。
7.1. 構造改革とは何か:サプライサイドからのアプローチ
構造改革の基本的な思想は、Module 21で学んだ新自由主義(特にサプライサイド経済学)に根差しています。
その診断は、以下の通りです。
- 日本経済の長期停滞の根本原因は、需要不足ではなく、供給サイド(Supply-side)の非効率性にある。
- 戦後の日本を支えてきた、官僚主導の規制、護送船団方式、年功序列といった、**旧来の日本型システム(レガシーシステム)**が、グローバル化や少子高齢化といった時代の変化に対応できなくなり、硬直化してしまっている。
- このような非効率な構造が、企業の生産性の向上を妨げ、新たな成長の芽を摘み取っている。
したがって、その処方箋は、
- 政府の役割を縮小し(小さな政府)、
- **規制緩和(Deregulation)や民営化(Privatization)**を通じて、
- **市場原理(競争原理)**を経済の隅々まで徹底させることで、
- 民間の活力を最大限に引き出し、経済全体の効率性と生産性を向上させることにある、とされました。
7.2. 小泉改革の主な内容:「官から民へ」
小泉内閣が進めた構造改革は、広範な分野に及びましたが、その中心的なスローガンは「官から民へ」でした。
- 不良債権処理の加速:金融システム不安の元凶であった不良債権問題の最終処理を、最優先課題として取り組みました(前項参照)。金融庁による厳格な査定と、大手銀行への公的資金再注入などを通じて、不良債権の抜本的な処理を進めました。
- 郵政民営化:構造改革の「本丸」と位置づけられたのが、郵政事業(郵便、郵便貯金、簡易保険)の民営化です。約350兆円もの巨大な資金(郵貯・簡保)が、財政投融資などを通じて非効率に使われていると批判し、これを民間の金融市場に解放することで、資金の流れを効率化し、経済を活性化させることを目指しました。2007年に日本郵政グループが発足しました。
- 特殊法人改革・道路公団民営化:日本道路公団などの特殊法人(政府が設立した法人)の多くが、非効率な経営や既得権益の温床になっているとして、その統廃合や民営化を進めました。
- 規制緩和:様々な分野で、政府による規制を緩和・撤廃し、新規参入を促進することで、競争を活性化させようとしました。例えば、労働者派遣法の改正(製造業への派遣解禁など)も、この時期に進められました。
- 「三位一体の改革」:国と地方の財政関係を見直し、国から地方への補助金を削減する代わりに、税源の一部を地方に移譲し、地方分権を進めようとする改革です。
7.3. 構造改革の評価と課題
小泉構造改革は、不良債権問題の最終処理に道筋をつけ、一時的に景気を回復させる(いざなみ景気、2002~2008年)など、一定の成果を上げたと評価されています。特に、それまでタブー視されてきた聖域に切り込み、日本社会に「改革なくして成長なし」という意識を浸透させた功績は大きいと言えるでしょう。
しかし、その一方で、構造改革は多くの負の側面ももたらした、という厳しい批判もあります。
- 格差の拡大: 規制緩和、特に労働市場の規制緩和は、非正規雇用のさらなる増加を招き、正社員と非正規社員との間の所得格差や雇用の不安定を拡大させたと指摘されています(格差社会論)。
- 地方経済の疲弊: 公共事業の削減や、「三位一体の改革」による地方交付税の削減は、地方経済、特に建設業などに依存していた地域の疲弊を招いたとの批判があります。
- セーフティネットの脆弱化: 市場原理・自己責任を強調する一方で、競争の敗者や、構造変化の過程で困難に直面する人々を支える社会的なセーフティネット(失業保険、職業訓練など)の強化が十分ではなかった、という指摘もなされています。
小泉改革以降も、構造改革の必要性は、形を変えながら、その後の政権にも引き継がれていきます。しかし、改革がもたらす「痛み」と、その「果実」の分配をめぐる対立は、現代の日本の政治・経済における、最も重要な論争点の一つであり続けているのです。
8. デフレーションとの闘い
平成不況(失われた時代)を象徴するもう一つの深刻な経済現象が、**デフレーション(Deflation)**です。1990年代後半から2010年代前半にかけて、日本は主要先進国の中で唯一、物価が持続的に下落するという異常事態に、実に15年以上もの長期間にわたって見舞われました。この「デフレとの闘い」は、日本の経済政策における最も困難で、中心的な課題であり続け、その過程で、日本銀行は世界でも前例のない様々な金融政策を試みることになります。
8.1. デフレの定着とそのメカニズム
日本のデフレーションは、バブル崩壊後の資産価格の下落(資産デフレ)が、やがて一般の財やサービスの価格へと波及する形で、1990年代後半から顕在化し始めました。消費者物価指数(生鮮食品を除く総合)は、1998年から2012年までの間、一時的な上昇を除いて、ほぼ一貫して前年比マイナスで推移しました。
なぜ、これほどまでに長くデフレが続いたのでしょうか。その背景には、Module 13で学んだ「デフレ・スパイラル」のメカニズムが、日本経済に深く根付いてしまったことがあります。
- 物価の下落: バブル崩壊後の深刻な需要不足と、不良債権問題による企業のバランスシート調整圧力が、値下げ競争を引き起こし、物価が下落。
- 企業の収益悪化: 製品価格の下落は、企業の売上と利益を圧迫。
- 賃金の抑制・雇用の悪化: 企業はコスト削減のため、賃上げを抑制し、非正規雇用を拡大。リストラも断行。
- 家計の所得減少と将来不安: 人々の所得が伸び悩み、将来への不安(雇用不安、年金不安など)が高まる。
- 消費の低迷(買い控え): 人々は節約志向を強め、消費を手控える。「待てばもっと安くなる」という**デフレ心理(デフレ期待)**が定着し、特に耐久消費財などの購入を先送りする。
- さらなる需要不足と物価下落: 消費の低迷が、さらなる需要不足を招き、物価を一層押し下げる。
この悪循環に加えて、デフレは**借金の実質的な負担を重くする(デット・デフレーション)**ため、企業は借金返済を優先し、ますます投資に資金を回せなくなる、という問題もありました。
8.2. 日本銀行による非伝統的金融政策
この深刻なデフレから脱却するため、日本銀行(日銀)は、伝統的な金融政策の枠を超える、様々な非伝統的金融政策に踏み込んでいきました。
- ゼロ金利政策(1999年~):政策金利である無担保コールレート(オーバーナイト物)の誘導目標を、史上初めてゼロ%近くまで引き下げました。しかし、名目金利がゼロになっても、デフレ(物価下落)が続けば、**実質金利(名目金利-期待インフレ率)**はプラスのままであり、金融緩和の効果は限定的でした。
- 量的緩和政策(QE: Quantitative Easing)(2001年~2006年):金利の引き下げ余地がなくなったため、日銀は、金融政策の操作目標を、金利から「お金の量」へと変更しました。具体的には、日銀が市中銀行から大量の国債などを買い入れることで、銀行が日銀に保有する当座預金残高の目標値を設定し、市中に大量の資金を供給しました。
- 包括的な金融緩和(2010年~):リーマン・ショック後の景気悪化と円高に対応するため、日銀は、国債だけでなく、社債やETF(上場投資信託)、REIT(不動産投資信託)といった、よりリスクの高い資産の買い入れにも踏み込む「包括緩和」を導入しました。
これらの政策は、金融市場の安定には一定の効果を発揮しましたが、デフレ・マインド(人々のデフレ期待)を転換させ、実体経済を本格的に浮上させるまでには至りませんでした。
8.3. デフレ脱却への課題
なぜ、日銀の長年にわたる努力にもかかわらず、デフレからの完全な脱却は困難だったのでしょうか。その理由については、経済学者の間でも様々な議論があります。
- 金融政策の限界: そもそも、深刻なバランスシート不況や、構造的な需要不足に対して、金融政策だけで対応するには限界があったのではないか。
- 期待への働きかけ不足: デフレ期待をインフレ期待へと転換させるための、日銀のコミットメント(例えば、明確な物価目標の設定と、その達成への強い意思表示)が不十分だったのではないか。
- 財政政策との連携不足: 金融緩和の効果を高めるためには、政府による積極的な財政政策との連携(ポリシー・ミックス)が不可欠だったのではないか。
この「デフレとの闘い」の経験と、その反省の上に立って、2013年に登場したのが、次項で見る「アベノミクス」という、より大胆な経済政策パッケージでした。
9. アベノミクス
2012年末、長期にわたるデフレと経済停滞からの脱却を最重要課題として掲げ、第二次安倍晋三内閣が発足しました。安倍政権が打ち出した一連の大胆な経済政策パッケージは、アベノミクスと呼ばれ、その後の日本経済の方向性に大きな影響を与えました。アベノミクスは、「三本の矢」と呼ばれる、金融政策、財政政策、そして成長戦略という、三つの柱から構成されていました。
9.1. 第一の矢:大胆な金融緩和
アベノミクスの出発点であり、最も注目を集めたのが、日本銀行(黒田東彦総裁体制)による、次元の違うと称された大胆な金融緩和です。これは、長引くデフレの根本原因は、人々の「デフレ期待」が定着してしまったことにあるとし、その期待を抜本的に転換させる(リフレーションを引き起こす)ことを狙いとしたものでした。
- 「物価安定の目標」の導入:日銀は、消費者物価指数の前年比上昇率2%を、「物価安定の目標」として明確に設定し、これを早期に実現するという強いコミットメントを示しました。
- 量的・質的金融緩和(QQE: Quantitative and Qualitative Easing)(2013年~):目標達成のため、日銀は、従来の量的緩和を質・量ともに大幅に拡大しました。
- 量の拡大: マネタリーベース(日銀が供給するお金の量)を、2年間で2倍に拡大するという目標を設定し、長期国債の買い入れ額を大幅に増額しました。
- 質の拡大: 国債だけでなく、ETF(上場投資信託)やREIT(不動産投資信託)といった、よりリスクの高い資産の買い入れも大幅に拡大しました。
- マイナス金利付き量的・質的金融緩和(2016年~):さらに、金融緩和の効果を強化するため、民間銀行が日銀に預ける当座預金の一部に、史上初めてマイナス金利を適用しました。
この一連の異例の金融緩和策は、円安・株高をもたらし、企業の収益を改善させ、長らく続いたデフレ状況からの脱却に向けた一定の進展(物価上昇率がプラスに転じるなど)をもたらしました。しかし、目標として掲げた「2%の物価安定」の持続的な達成には、その後も困難が伴いました。
9.2. 第二の矢:機動的な財政政策
第二の矢は、政府による機動的な財政政策です。これは、短期的な景気を下支えし、金融緩和の効果を高めることを目的として、大規模な公共事業の実施や、企業向けの減税などを行うものでした。
安倍政権下では、東日本大震災からの復興需要もあり、複数回にわたる大型の補正予算が編成され、財政支出が拡大されました。
しかし、この積極的な財政出動は、すでに先進国で最悪の水準にあった日本の財政赤字をさらに拡大させる結果も招きました。アベノミクスは、中長期的な目標として「財政健全化」も掲げていましたが、景気回復を優先する中で、その達成は極めて困難な課題となりました(消費税率の引き上げは2度にわたって実施されましたが)。
9.3. 第三の矢:民間投資を喚起する成長戦略
アベノミクスの成否を長期的に左右するとされたのが、第三の矢である成長戦略です。これは、金融緩和や財政出動といった、いわば「カンフル剤」的な需要刺激策だけでは、日本経済の持続的な成長は実現できないという認識に基づいています。
成長戦略の目的は、規制緩和などを通じて、民間企業の**潜在的な成長力(供給サイド)**を引き上げ、新たな投資やイノベーションを生み出すことにありました。
- 主な内容:
- 国家戦略特区: 特定の地域で、大胆な規制緩和を集中的に行う。
- 法人税率の引き下げ: 企業の投資意欲を高める。
- コーポレート・ガバナンス改革: 企業の経営の透明性を高め、収益力を向上させる。
- 女性活躍推進: 女性の労働参加を促進し、労働力不足に対応する。
- 農業改革: 農協改革などを通じて、農業の競争力を強化する。
- 環太平洋パートナーシップ(TPP)協定への参加交渉推進。
9.4. アベノミクスの評価
アベノミクスは、7年8ヶ月という長期にわたって続けられ、日本経済に一定の変化をもたらしました。
- 成果:
- 円安・株高による企業収益の改善と、それに伴う雇用状況の大幅な改善(有効求人倍率の上昇、失業率の低下)。
- 長らく続いたデフレ状況からの脱却に向けた一定の前進。
- コーポレート・ガバナンス改革など、一部の構造改革における進展。
- 課題:
- 物価目標2%の持続的な達成は困難であった。
- 企業収益の改善が、必ずしも実質賃金の大幅な上昇には繋がらず、個人消費の本格的な回復は限定的であった。
- 成長戦略として掲げられた多くの規制改革が、必ずしも十分に進展しなかった。
- 財政再建の道筋は、依然として不透明なままである。
アベノミクスの総合的な評価については、今なお専門家の間でも意見が分かれています。しかし、その大胆な政策実験が、その後の日本の経済政策の議論の枠組みを大きく変えたことは間違いないでしょう。
10. 現代日本経済が直面する課題(財政再建、少子高齢化)
戦後の復興から高度成長、安定成長、そしてバブル崩壊後の長期停滞と、激動の歩みを続けてきた日本経済。アベノミクスなどの政策努力にもかかわらず、現代の日本は、依然として深刻で、かつ相互に関連しあった、二つの大きな構造的課題に直面しています。それが、財政赤字の問題と、少子高齢化の問題です。これらの課題は、日本の社会保障制度の持続可能性を脅かすだけでなく、経済全体の活力をも削ぎかねない、国家的な重要課題です。
10.1. 深刻化する財政赤字と政府債務
日本の財政赤字、特に国と地方を合わせた長期債務残高は、GDP(国内総生産)の2倍を超える水準に達しており、これは他の主要先進国と比較しても突出して高い、極めて深刻な状況にあります。
- 原因:
- 社会保障費の自然増: 高齢化の急速な進展に伴い、年金、医療、介護といった社会保障給付費が、毎年自然に増え続けています。これが、歳出増加の最大の要因です。
- 度重なる景気対策: バブル崩壊後の長期不況に対応するため、政府は繰り返し公共事業の拡大や減税といった景気対策を実施してきました。これらの多くが、赤字国債(特例国債)の発行によって賄われたため、債務残高を積み上げる結果となりました。
- 低い経済成長率: 経済が低迷し、税収が伸び悩んだことも、財政赤字の拡大に拍車をかけました。
- 問題点:
- 将来世代への負担: 現在の世代が必要とする行政サービスや社会保障の費用を、将来世代からの借金(国債)で賄っている形であり、世代間の公平性を著しく損なっています。
- 金利上昇のリスク: 現在は、日本銀行による大規模な国債買い入れ(量的・質的金融緩和)によって、国債金利は極めて低い水準に抑えられています。しかし、将来、何らかのきっかけで日本国債への信認が揺らぎ、金利が急騰(国債価格が暴落)した場合、政府の利払い負担が急増し、財政が破綻するリスクもゼロではありません。
- 政策の硬直化: 歳出の中で、国債の元利払いに充てられる国債費と、社会保障関係費が占める割合が非常に大きくなっています(財政の硬直化)。これにより、教育や科学技術、防衛といった、将来への投資に必要な予算を十分に確保することが困難になっています。
- 財政再建への道:財政赤字を削減し、財政の持続可能性を回復するためには、歳出の削減(社会保障給付の見直し、行政改革など)と、歳入の増加(増税、経済成長による税収増)の両面からの取り組みが不可欠です。プライマリーバランス(基礎的財政収支)、すなわち、過去の借金の元利払いを除いた歳出と、税収等とのバランスを黒字化することが、当面の目標とされていますが、その達成は依然として見通せていません。
10.2. 加速する少子高齢化とその影響
日本の少子高齢化は、世界でも前例のないスピードで進行しており、経済社会のあらゆる側面に深刻な影響を及ぼしています(Module 19参照)。
- 労働力人口の減少:働く世代である生産年齢人口(15歳~64歳)が、1990年代半ばをピークに、急速に減少し続けています。これは、経済成長の最も基本的なエンジンである「労働投入量」の減少を意味し、日本経済の潜在成長率を低下させる最大の要因となっています。
- 社会保障制度への圧力:前述の通り、年金、医療、介護といった社会保障制度は、少子高齢化によって、給付の増大と負担(担い手)の減少という二重の圧力に晒され、その持続可能性が厳しく問われています。
- 国内市場の縮小:総人口が減少に転じ、かつ高齢者の割合が増えることは、国内の消費市場全体の縮小につながる可能性があります。
- 地域社会の衰退:特に地方においては、若者の都市部への流出と高齢化が同時に進行し、地域経済の担い手不足や、集落の維持そのものが困難になる(限界集落)といった問題が深刻化しています。
- 対策:少子高齢化という大きな流れそのものをすぐに変えることは困難ですが、その影響を緩和し、社会経済システムを持続可能なものにしていくためには、
- 出生率の向上: 子育て支援の充実、働き方改革(長時間労働の是正、男性の育児参加促進など)による、子供を産み育てやすい社会環境の整備。
- 高齢者の活躍促進: 健康で働く意欲のある高齢者が、年齢に関わらず活躍できる社会(生涯現役社会)の実現。
- 外国人労働者の受け入れ: 労働力不足を補うための、外国人材の受け入れに関するルール整備と社会的な環境整備。
- 生産性の向上: 労働投入量の減少を補うため、技術革新(AI、ロボットなど)や、働き方改革による、一人ひとりの労働生産性の向上が不可欠。
これら財政再建と少子高齢化という二大課題は、相互に密接に関連しています。例えば、社会保障制度を持続可能なものに改革することは、財政再建に貢献すると同時に、将来世代の負担不安を和らげ、少子化対策にもつながる可能性があります。これらの難題に、日本社会全体としていかにして立ち向かっていくか。それが、まさに今、問われているのです。
Module 22:日本経済の歩みの総括:栄光と試練の軌跡から、未来への羅針盤を読む
本モジュールを通じて、私たちは、戦後の灰燼の中から立ち上がり、世界を驚かせる経済大国へと駆け上がり、そして今、成熟社会特有の深い課題に直面する、日本経済の激動のドラマを追体験してきました。その歩みは、決して平坦な一本道ではなく、時代の要請に応じた大胆な戦略(傾斜生産方式)、国内外の幸運が重なった奇跡的な飛躍(高度経済成長)、試練への巧みな適応(安定成長)、そして過信が生んだ熱狂とその破綻(バブル経済)、長く暗い停滞(平成不況)と、まさに光と影が織りなす壮大な物語でした。
私たちは、この歴史の具体的な局面において、これまで学んできた経済学の理論や概念(有効需要、比較優位、金融緩和、構造改革、デフレ・スパイラルなど)が、いかに現実の政策決定や経済現象と結びついていたのかを、生々しく確認することができました。金融システムの危機がいかに実体経済を蝕むのか、デフレという病がいかに根深いのか、そして構造改革という名の痛みを伴う手術は、果たして日本経済の体質改善に繋がったのか。これらの問いに対する答えは、単純ではありません。しかし、過去の成功と失敗のメカニズムを論理的に分析することこそが、未来への教訓を引き出すための唯一の方法です。
アベノミクスという近年の壮大な実験を経て、日本経済はデフレからの脱却の兆しを見せつつありますが、その一方で、人類史上例のない少子高齢化と、先進国最悪の財政赤字という、二つの巨大な構造的課題が、重くのしかかっています。
このモジュールで得た日本経済の歩みに対する深い理解は、単に過去を振り返るためのものではありません。それは、現在私たちが立っている場所の歴史的な文脈を正確に把握し、そして、未来の日本がどのような針路を選択すべきか、その重大な問いに対して、皆さん自身が論理に基づいた意見を形成するための、確かな知的基盤となるはずです。栄光と試練の軌跡は、未来を照らすための、最も信頼できる羅針盤となりうるのです。