【基礎 政治経済(経済)】Module 8:国民経済の計測
本モジュールの目的と構成
これまでの長い旅路で、私たちはミクロ経済学という、いわば「木」を一本一本観察する視点を手に入れてきました。個々の消費者や企業が、市場という名の森の中で、どのように合理的な意思決定を行うのか、その詳細なメカニズムを探求してきました。しかし、森全体の大きさはどれくらいで、それは成長しているのか、それとも枯れ始めているのか。森全体の気候は温暖なのか、寒冷なのか。こうした巨大な全体像を把握するためには、視点をぐっと引き上げ、「森」そのものを測定するための、新しい道具が必要となります。
このModule 8から、私たちはマクロ経済学の世界へと足を踏み入れます。その第一歩となる本モジュールは、一国の経済という、捉えどころのない巨大な対象を、客観的な「数字」で把握するための「測定の技術」を学ぶことを目的とします。GDP、物価、失業率――これらは、皆さんが日々ニュースで耳にする、現代社会を生きる上で必須の教養とも言える指標です。しかし、その数字が、具体的に何を、どのようにして測っているのかを、正確に理解している人は意外と少ないものです。このモジュールは、いわば一国の経済の「健康診断書」を、自らの力で正確に読み解くための知識と方法論を提供します。
本モジュールは、以下の10のステップを通じて、国民経済という「森」の大きさと健康状態を測るための、体系的な知識を構築していきます。
- 経済を測る世界共通の「物差し」:まず、各国の経済活動を、国際的に比較可能な統一基準で記述するための会計ルール、「国民経済計算(SNA)」の全体像を学びます。
- 一つの経済、三つの顔:国民の所得の大きさを、「生産」「分配(所得)」「支出」という三つの異なる側面から捉えることができ、それらは原理的に必ず等しくなるという、マクロ経済学の大原則「三面等価の原則」を理解します。
- 国の「稼ぐ力」を測る:マクロ経済学で最も重要な指標である「国内総生産(GDP)」と、それに海外からの所得を加えた「国民総所得(GNI)」の違いを明確に区別し、それぞれの意味を正確に把握します。
- 物価上昇という「熱」を取り除く:経済の成長を正しく測るために、物価変動の影響を受けた「名目GDP」と、その影響を取り除いた実質的な生産量を示す「実質GDP」の違いを学びます。
- 「成長」を数字で語る:実質GDPを用いて、一国の経済がどれだけのペースで成長しているのかを示す「経済成長率」の計算方法をマスターします。
- 「豊かさ」の蓄積と流れ:ある一時点での国の豊かさの蓄積を示す「国富(ストック)」と、一年間などの期間で生み出される価値の流れを示す「GDP(フロー)」という、経済を捉える上で不可欠な二つの概念を区別します。
- 経済の「波」を読む:経済活動が好況と不況の間を周期的に変動する「景気循環」のメカニズムと、その現状を政府がどのように判断しているかを示す「景気動向指数」について学びます。
- モノの値段の「平均」を測る:経済全体の物価水準の動向を把握するための「物価指数」、特に私たちの生活に身近な「消費者物価指数(CPI)」と、企業間の取引価格を示す「企業物価指数(CGPI)」の役割を理解します。
- 「インフレ」を数値化する:消費者物価指数を用いて、物価の上昇率である「インフレ率」がどのように計算されるのかを学びます。
- 社会の「痛み」を測る:最後に、重要な経済指標である「失業率」が、どのような定義と計算方法に基づいて算出されているのか、その背景にある労働市場の構造と共に探求します。
このモジュールを終えたとき、皆さんは、漠然としたイメージで語られがちな「景気」や「経済成長」といった言葉を、客観的なデータに基づいて論理的に語るための、確固たる知的基盤を築いているはずです。それでは、国の健康診断書を読み解くための旅を始めましょう。
1. 国民経済計算(SNA)の体系
一国の経済活動は、無数の家計、企業、政府が、日々、生産・消費・投資といった様々な取引を行う、極めて複雑なネットワークです。この複雑な経済の全体像を、あたかも一企業の会計報告書のように、体系的かつ整合的に把握するための国際的な基準が、国民経済計算 (System of National Accounts, SNA) です。
SNAは、国連が中心となって作成・勧告している、一国の経済活動の成果を、一定の会計原則に基づいて網羅的に記録・計算するための国際的な体系です。現在、世界のほとんどの国が、このSNAの基準に沿って、自国のGDPなどの経済指標を計算・公表しています。
1.1. SNAの目的と役割
SNAを導入する目的は、大きく分けて二つあります。
- 経済実態の体系的な把握:SNAは、一国の経済を、生産、消費、投資、金融といった側面から、相互に関連付けながら、包括的に捉えるための枠組みを提供します。これにより、経済政策の担当者や分析家は、経済の現状を正確に診断し、将来を予測するための、信頼性の高い基礎データを得ることができます。それは、医師が患者を診断するために、血液検査やレントゲン写真といった、体系化されたデータセットを必要とするのと似ています。
- 国際比較の可能性:各国が、それぞれ独自のバラバラな基準で経済指標を計算していては、国ごとの経済規模や成長率を、客観的に比較することはできません。SNAという世界共通の「物差し」があるからこそ、「中国のGDPは日本の約4倍だ」とか、「A国はB国よりも経済成長率が高い」といった、意味のある国際比較が可能になるのです。
1.2. SNAが記録する経済循環
SNAは、Module 1で学んだ「生産→分配→支出」という経済循環のフローを、より詳細な勘定科目を用いて、複式簿記の原則に則って記録していきます。
具体的には、
- 生産勘定:国内でどれだけの価値(付加価値)が生み出されたか
- 所得勘定:その生み出された価値が、賃金や利潤として、どのように分配されたか
- 支出勘定:分配された所得が、消費や投資として、どのように使われたかといった一連の流れを、勘定口座の形で体系的に記録し、経済全体の動きを整合的に追跡します。
日本でも、内閣府がこのSNAの基準に基づいて、四半期ごとにGDP速報(QE)などを、年に一度、より詳細な国民経済計算年次推計を公表しています。私たちがこれから学んでいくGDPをはじめとする様々なマクロ経済指標は、すべて、このSNAという巨大で精緻な会計システムの体系の中から、生み出されているのです。
2. 国民所得の三面等価の原則
国民経済計算(SNA)の中核をなす、最も重要で基本的な考え方が、国民所得の三面等価の原則 (Principle of Three-Faced Equivalence of National Income) です。
これは、一国の経済活動の規模を、**「生産」「分配(所得)」「支出」**という三つの異なる側面から測定したとき、それらの値は、事後的に見て、必ず等しくなるという原則です。
これは、同じ一つの経済的な価値の流れを、お金の流れの「上流」「中流」「下流」という、三つの異なる視点から眺めているに過ぎない、と考えれば直感的に理解できます。
2.1. 三つの側面
- 生産面から見た国民所得これは、一定期間内に、国内で生産された財やサービスの付加価値の合計額です。付加価値 (Value Added) とは、各生産段階で、企業が新たに付け加えた価値のことであり、「生産額 - 中間生産物(原材料費など)」で計算されます。最終生産物の合計額と一致します。
- 例:農家が100円の小麦を生産し、製粉会社がそれを仕入れて150円の小麦粉を生産し、パン屋がそれを仕入れて300円のパンを生産・販売したとします。
- 農家の付加価値 = 100円
- 製粉会社の付加価値 = 150円 – 100円 = 50円
- パン屋の付加価値 = 300円 – 150円 = 150円
- 生産面から見た国民所得 = 付加価値の合計 = 100 + 50 + 150 = 300円これは、最終生産物であるパンの価格と等しくなります。
- 例:農家が100円の小麦を生産し、製粉会社がそれを仕入れて150円の小麦粉を生産し、パン屋がそれを仕入れて300円のパンを生産・販売したとします。
- 分配(所得)面から見た国民所得これは、生産活動によって生み出された付加価値が、その生産に貢献した生産要素の提供者(家計や企業)に、所得として分配されたものの合計額です。具体的には、
- 雇用者報酬:労働の対価である賃金・俸給。
- 営業余剰:企業の利潤や個人の営業利益。
- 固定資本減耗:機械設備などの減価償却費。
- 間接税 - 補助金:政府が受け取る税金など。これらを合計したものが、分配面から見た国民所得です。
- 例(パン屋):上記の300円の付加価値は、従業員の賃金、店の利潤、設備の減価償却費、政府への税金、といった形で、誰かの所得として必ず分配されます。したがって、分配面から見た国民所得も、300円となります。
- 支出面から見た国民所得これは、分配された所得が、国内で生産された最終生産物を購入するために、支出されたものの合計額です。誰かが生産したものは、必ず誰かが購入(支出)する、という考え方に基づきます。具体的には、
- 民間最終消費支出:家計による消費(C)。
- 政府最終消費支出:政府による消費(G)。
- 国内総固定資本形成:民間企業や政府による設備投資や住宅投資(I)。
- 在庫品増加:売れ残った在庫も、企業が自ら購入した(投資した)と見なす。
- 財・サービスの純輸出:輸出 - 輸入。これらを合計したものが、支出面から見た国民所得です。
- 例(パン屋):生産された300円のパンは、必ず誰か(消費者、あるいは売れ残りとしてパン屋自身)によって購入(支出)されます。したがって、支出面から見た国民所得も、300円となります。
2.2. 等価である理由
このように、「生産された価値」は、必ず誰かの「所得」となり、その所得は、必ず何らかの形で「支出」される、という経済の血液循環を考えると、この三つの側面が、同じコインの裏表の関係にあることが分かります。
この三面等価の原則は、一国の経済規模を多角的に検証し、SNAの統計的な整合性を保つ上で、極めて重要な役割を果たしているのです。(※統計上の誤差から、実際には完全に一致せず、「統計上の不突合」という調整項目が設けられています。)
3. 国内総生産(GDP)と、国民総所得(GNI)
マクロ経済の大きさを測る指標として、最も広く用いられているのが国内総生産 (Gross Domestic Product, GDP) です。ニュースなどで「日本のGDPは…」と報じられる場合、通常はこの指標を指しています。
一方で、GDPとよく似た概念として、国民総所得 (Gross National Income, GNI) という指標も重要です。両者は、経済の何を捉えようとしているのか、その「視点」が異なります。
3.1. 国内総生産(GDP):「国内」の生産活動を測る
国内総生産 (GDP) とは、一定期間内(通常は1年か四半期)に、一国の国内で、新たに生産された、すべての最終的な財やサービスの市場価値の合計のことです。
これは、三面等価の原則における「生産面」から経済を捉えた指標です。
この定義の重要なポイントは、以下の通りです。
- 「国内で (Domestic)」:国籍を問わず、日本の領土内で生み出された付加価値を合計します。
- 例えば、日本国内で働く外国人労働者が生み出した価値は、日本のGDPに含まれます。
- 逆に、海外のメジャーリーグで活躍する日本人野球選手が、アメリカで得た所得は、日本のGDPには含まれません。
- 「新たに生産された」:その年に新しく生産されたものだけが対象です。中古品の売買や、株式などの資産取引は、単に所有権が移転しただけで、新たな価値を生み出したわけではないため、GDPには含まれません。
- 「最終的な」:中間生産物(パンを作るための小麦粉など)は、二重計算を避けるために、GDPの計算から除外されます。最終生産物(パン)の価格には、すでに中間生産物の価値が含まれているためです。
- 「市場価値の合計」:市場で取引される際の価格で評価され、合計されます。そのため、主婦の家事労働や、ボランティア活動のように、市場を介さない価値ある活動は、原則としてGDPには含まれない、という限界があります。
GDPは、その国の「領土内での経済活動の活発さ」を示す指標と言えます。
3.2. 国民総所得(GNI):「国民」の所得を測る
国民総所得 (GNI) とは、一定期間内に、一国の国民(居住者)が、国内外から得た所得の合計のことです。
かつては国民総生産 (GNP) と呼ばれていましたが、SNAの改定に伴い、「生産」よりも「所得」の側面を重視するGNIという名称が、国際標準となっています。(※概念的にはGNPとほぼ同じです。)
GNIは、三面等価の原則における「分配(所得)面」から経済を捉える視点と親和性が高い指標です。
- 「国民が (National)」:居住者(その国に住む個人や企業)が、国内外のどこで稼いだかを問わず、その所得を合計します。
- 例えば、海外で働く日本人(非居住者を除く、日本の居住者)が、海外の企業から受け取った給料や、日本の企業が海外の子会社から受け取る配当金などは、日本のGNIに含まれます。
- 逆に、日本国内で働く外国人が、本国に送金する所得などは、日本のGNIからは除外されます。
3.3. GDPとGNIの関係
GDPとGNIの関係は、以下の式で表すことができます。
\[
\text{GNI} = \text{GDP} + \text{海外からの要素所得の純受取}
\]
ここで、「海外からの要素所得の純受取」とは、
(日本の居住者が海外から受け取った所得)-(海外の居住者が日本で稼いで海外に支払った所得)
のことです。
グローバル化が進んだ現代において、企業の海外進出や、対外的な投資が活発になると、このGDPとGNIの差は、無視できない大きさになることがあります。
- GDP:国内の雇用や生産活動の状況を見る上で重要。
- GNI:その国の国民が、全体としてどれだけ豊かであるかを見る上で重要。
このように、二つの指標を使い分けることで、一国の経済を、より多角的に理解することができるのです。
4. 名目GDPと、実質GDP
GDPが増加したというニュースを聞いたとき、私たちは「経済が成長した」と考えがちです。しかし、そこには注意が必要です。GDPの増加は、本当に「生産量」が増えたことによるものなのか、それとも、単に「物価」が上昇しただけなのか。この二つを区別するために、経済学では、GDPを「名目」と「実質」という二つの尺度で測定します。
4.1. 名目GDP(Nominal GDP)
名目GDPとは、その年の生産量を、その年の市場価格で評価して計算したGDPのことです。
これは、私たちの肌感覚に近い、ありのままの金額で表されたGDPです。
- 例:ある国が、リンゴだけを生産しているとします。
- 2024年:価格100円 × 生産量10個 = 名目GDP 1,000円
- 2025年:価格120円 × 生産量11個 = 名目GDP 1,320円
この場合、名目GDPは1,000円から1,320円へと、32%も増加しています。しかし、この増加分には、リンゴの「生産量の増加(10個→11個)」の効果と、「価格の上昇(100円→120円)」の効果が、混ざり合ってしまっています。
名目GDPだけを見ていては、経済が実質的にどれだけ成長したのかを、正確に判断することはできません。
4.2. 実質GDP(Real GDP)
実質GDPとは、その年の生産量を、ある特定の基準となる年(基準年)の価格で評価して計算したGDPのことです。
実質GDPは、価格を基準年のものに固定することで、物価変動の影響を取り除き、純粋な生産量の変化だけを測定することを目的としています。これこそが、経済の「本当の」成長を測るための指標です。
- 例(上記と同じ国で、2024年を基準年とする):
- 2024年の実質GDP:基準年の価格100円 × 2024年の生産量10個 = 実質GDP 1,000円(基準年においては、名目GDPと実質GDPは必ず一致します。)
- 2025年の実質GDP:基準年(2024年)の価格100円 × 2025年の生産量11個 = 実質GDP 1,100円
2024年から2025年にかけて、実質GDPは1,000円から1,100円へと、10%増加しています。この「10%」こそが、この国の経済の、純粋な生産量の成長率を表しています。
4.3. GDPデフレーター
名目GDPと実質GDPを用いることで、経済全体の物価水準が、基準年からどれだけ変化したかを測定する、包括的な物価指数を計算することができます。これをGDPデフレーター (GDP Deflator) と呼びます。
GDPデフレーターは、以下の式で計算されます。
\[
\text{GDPデフレーター} = \frac{\text{名目GDP}}{\text{実質GDP}} \times 100
\]
GDPデフレーターは、国内で生産されたすべての財やサービスの価格の変動を反映するため、経済全体のインフレ(物価上昇)やデフレ(物価下落)の動向を大局的に把握するための、重要な指標となります。基準年のGDPデフレーターは、常に100となります。
経済の真のパフォーマンスを評価する際には、名目値ではなく、この物価変動の影響を調整した「実質値」で物事を見ることが、極めて重要となるのです。
5. 経済成長率の計算
「今年の日本の経済成長率は、プラス1.5%の見通しです」といった報道は、ニュースで頻繁に耳にします。この経済成長率 (Economic Growth Rate) は、一国の経済が、前の年に比べてどれだけ拡大したかを示す、最も基本的なパフォーマンス指標です。
5.1. 経済成長率の定義
経済成長率とは、一定期間(通常は1年間)における、一国の実質GDPの増加率のことです。
この定義には、二つの重要なポイントがあります。
- 「GDP」の成長率であること:経済成長は、通常、一国の生産能力の拡大として捉えられます。そのため、国の経済規模を示す代表的な指標であるGDPが、その計算の基礎となります。
- 「実質」GDPの成長率であること:これが最も重要な点です。もし名目GDPの成長率を見てしまうと、それは物価が上昇しただけ(インフレーション)の結果かもしれません。経済成長とは、あくまで、社会が生産する財やサービスの「量」が、実質的に増えることです。そのため、物価変動の影響を取り除いた実質GDPを用いなければ、真の経済成長を測定したことにはなりません。
5.2. 計算方法
経済成長率の計算式は、ごく一般的な変化率の計算式と同じです。
\[
\text{経済成長率}(%) = \frac{\text{当年の実質GDP} – \text{前年の実質GDP}}{\text{前年の実質GDP}} \times 100
\]
- 例:ある国の実質GDPが、
- 2024年:100兆円
- 2025年:103兆円だったとします。この場合、2025年の経済成長率は、\[\frac{103兆円 – 100兆円}{100兆円} \times 100 = \frac{3兆円}{100兆円} \times 100 = 3%\]と計算されます。
経済成長率がプラスであればプラス成長、マイナスであればマイナス成長(経済が縮小したこと)を意味します。
この経済成長率は、国民の生活水準の向上や、雇用の安定と密接に関係しているため、各国政府が最も重視する経済指標の一つとなっています。
5.3. 潜在成長率
経済成長を考える上で、実際の成長率と対比される概念として、潜在成長率 (Potential Growth Rate) があります。
これは、その国が保有する労働力や資本設備を、社会的に平均的な水準でフルに活用した場合に、達成可能と推計される、中長期的な「実力」としての成長率です。
- 実際の成長率が潜在成長率を上回っている時期は、景気が過熱気味である可能性を示し、
- 逆に、実際の成長率が潜在成長率を下回っている時期は、失業や遊休設備が存在する、景気が停滞した状態であることを示唆します。
この二つの成長率の乖離(需給ギャップまたはGDPギャップ)は、景気の現状を判断し、金融政策や財政政策を運営する上での、重要な判断材料となります。
6. 国富と、ストック・フローの概念
経済の大きさを測る際には、「一定期間の流れ」と、「ある一時点での蓄積」という、二つの異なる時間的な側面を、明確に区別する必要があります。この区別を理解するための、極めて重要な概念が、「フロー」と「ストック」です。
6.1. フロー(Flow)の概念
フローとは、一定の期間をとって測定される経済変数のことです。「1年間あたり」「1ヶ月あたり」といった、時間の単位とセットで意味を持つ量です。
それは、川の水が流れる「流量」や、蛇口から流れ出る水の量にたとえることができます。
- マクロ経済におけるフローの例:
- GDP(国内総生産):1年間に、国内で生み出された付加価値の流れ。
- 国民所得:1年間の、国民の所得の流れ。
- 消費、投資:1年間の、支出の流れ。
- 財政赤字:1年間の、政府の赤字の流れ。
- 貿易黒字:1年間の、輸出入の差額の流れ。
6.2. ストック(Stock)の概念
ストックとは、ある特定の時点で測定される経済変数のことです。「2025年末時点」「本日時点」といった、時間の断面を切り取って測定される「残高」や「蓄積量」です。
それは、ダムに溜まっている水の「貯水量」や、浴槽に溜まったお湯の量にたとえることができます。
- マクロ経済におけるストックの例:
- 国富(National Wealth):ある年末時点での、国の資産の総額。
- マネーストック:ある時点での、世の中に出回っているお金の総量。
- 政府債務残高:ある年度末時点での、国や地方の借金の総額。
- 対外純資産:ある年末時点での、国が海外に持つ資産と負債の差額。
6.3. 国富(National Wealth)
国富とは、ある一国の経済全体が、ある一時点で保有している資産(ストック)の正味価値のことです。具体的には、国内に存在する実物資産と、海外に対して持つ金融資産の純額(対外純資産)を合計したものです。
\[
\text{国富} = \text{有形固定資産} + \text{無形固定資産} + \text{在庫} + \text{対外純資産}
\]
- 有形固定資産:住宅、工場、機械設備、道路や港湾などの社会資本。
- 無形固定資産:ソフトウェア、特許権など。
- 対外純資産:国全体として、海外に保有する資産から、海外に対して負っている負債を差し引いたもの。
6.4. フローとストックの関係
フローとストックは、互いに無関係ではありません。両者は、浴槽と蛇口の関係のように、密接に結びついています。
フローは、ストックを変化させる要因となります。
- GDP(フロー)の一部が、貯蓄を通じて投資(フロー)に向けられます。この投資によって、新しい工場や機械設備が建設されると、国の資本ストックが増加します。
- 毎年の**財政赤字(フロー)**が積み重なっていくと、**政府債務残高(ストック)**が増大していきます。
- 毎年の**経常収支の黒字(フロー)が続くと、その国の対外純資産(ストック)**が増加していきます。
経済の健全性を評価するためには、GDPのようなフローの指標だけでなく、国富や政府債務といったストックの側面にも、常に注意を払う必要があるのです。
7. 景気循環と、景気動向指数
一国の経済は、常に一定のペースで成長を続けるわけではありません。長期的には右肩上がりのトレンドを辿るとしても、短期的には、好況と不況が、まるで波のように、周期的に繰り返されるのが常です。この経済活動の周期的な変動を、景気循環 (Business Cycle) と呼びます。
7.1. 景気循環の四つの局面
景気循環の波は、一般的に、以下の四つの局面を繰り返しながら変動していきます。
- 回復 (Recovery)景気の谷(底)を脱し、生産、消費、投資が、ゆっくりと上向き始める局面。失業率はまだ高い水準にありますが、企業の収益は改善し始め、株価などが上昇に転じます。
- 好況(拡大 / Expansion / Boom)経済活動が活発化し、生産、消費、投資が、力強く増加していく局面。企業の売上や利益は大きく伸び、雇用の機会も増え、失業率は低下します。人々の所得も増え、景気は過熱気味になることもあります。
- 後退 (Recession / Contraction)景気の山(ピーク)を過ぎ、経済活動が減速し、下降に転じる局面。企業の売上は伸び悩み、在庫が増加し始めます。設備投資は手控えられ、やがて生産の縮小や、雇用の調整が始まります。
- 不況(谷 / Trough / Depression)経済活動が停滞し、落ち込んでいる局面。生産、消費、投資は低水準で推移し、企業の倒産が増加し、失業率も高い水準となります。
この「回復 → 好況 → 後退 → 不況 → 回復…」という一連のサイクルが、数年から十数年程度の周期で繰り返されると考えられています。(※景気の波には、これ以外にも、より短期の波や、数十年に及ぶ長期の波があるとする説もあります。)
7.2. 景気動向指数
政府(日本では内閣府)は、景気の現状を客観的に判断し、景気の転換点(山や谷)を公式に認定するために、様々な経済指標を統合した、景気動向指数 (Indexes of Business Conditions) を、毎月作成・公表しています。
景気動向指数には、主に二つの種類があります。
- DI (Diffusion Index)景気の「方向性」や「波及の度合い」を示す指標です。DIの作成に採用される多数の経済指標(生産指数、有効求人倍率など)の中から、3ヶ月前と比較して「上昇(+)」した指標の割合(%)を計算したものです。
- DIが50%を上回っている:景気拡張の局面にある可能性が高い。
- DIが50%を下回っている:景気後退の局面にある可能性が高い。
- DIが50%のラインを上から下に切る:景気の「山」
- DIが50%のラインを下から上に切る:景気の「谷」と、景気の転換点を判断する目安として用いられます。
- CI (Composite Index)景気の「大きさ」や「テンポ(量感)」を測定することを目的とした指標です。採用されている各経済指標の変化量を合成して、指数化したものです。DIが景気の方向性しか示さないのに対し、CIは、景気拡張や後退の勢いが、過去の局面に比べて、どの程度力強いのか、あるいは弱いのか、といった量的な比較を可能にします。現在では、景気の基調判断は、主にこのCIに基づいて行われています。
これらの指数は、さらに、景気の動きに対して、先行して動く先行指数、ほぼ一致して動く一致指数、遅れて動く遅行指数の3つに分類され、経済の現状分析と将来予測に活用されています。
8. 物価指数(消費者物価指数、企業物価指数)
インフレーション(インフレ)やデフレーション(デフレ)といった言葉は、経済を語る上で欠かせないキーワードです。これらは、経済全体における「モノやサービスの価格」の平均的な水準、すなわち物価 (Price Level) が、継続的に上昇したり、下落したりする現象を指します。
この、目に見えない「物価」の動きを、客観的な数字として捉えるために作成されるのが、物価指数 (Price Index) です。
物価指数とは、基準となる年(基準時)の物価水準を100として、比較したい年(比較時)の物価水準が、どの程度変化したかを指数で表したものです。
8.1. 消費者物価指数(CPI)
消費者物価指数 (Consumer Price Index, CPI) は、数ある物価指数の中で、最も代表的で、私たちの生活に身近な指標です。日本では、総務省が毎月作成・公表しています。
- 定義:全国の標準的な世帯が購入する、多種多様な商品やサービスの価格の変動を、総合的に測定した指数。
- 調査対象:食料品、家賃、光熱費、衣類、交通・通信費、教育費、娯楽サービスなど、家計の消費構造を代表する、数百品目の価格。
- 特徴:
- 生活実感に近い:消費者が実際に購入するものの価格を対象としているため、生活実感に近い物価の動きを反映します。
- インフレ率の基準:ニュースなどで報じられる「インフレ率」は、通常、この消費者物価指数の前年同月比の伸び率を指します。
- 政策への利用:公的年金の支給額を、物価の変動に合わせて調整する(物価スライド)際の基準となるなど、政府の政策にも広く利用されています。
8.2. 企業物価指数(CGPI)
企業物価指数 (Corporate Goods Price Index, CGPI) は、日本銀行が毎月作成・公表している、もう一つの重要な物価指数です。
- 定義:企業間で取引される商品の価格の変動を測定した指数。
- 調査対象:原材料、中間財(部品など)、最終財(製品)といった、企業が仕入れたり、販売したりする段階での価格。
- 特徴:
- 景気の先行指標:企業間で取引される原材料や素材の価格は、それが製品となって消費者のもとに届くよりも、先に変動する傾向があります。そのため、企業物価指数は、消費者物価指数の先行指標として、景気の動向を予測する上で重視されます。
- サービスや輸入品価格を含まない:調査対象は、国内で生産され、企業間で取引される「モノ」が中心であり、サービスの価格や、消費者が直接購入する輸入品の価格は、基本的には含まれません。
これら二つの物価指数は、経済の異なる側面における価格の動きを捉えており、両者を併せて見ることで、物価の変動を、より立体的で多角的に分析することができるのです。
9. インフレ率の計算
インフレーション(インフレ)とは、物価全般が、継続的に上昇していく現象です。逆に、物価が継続的に下落していく現象をデフレーション(デフレ)と呼びます。
この物価の変動の「速さ」や「度合い」を、パーセンテージで示したものがインフレ率 (Inflation Rate) です。
9.1. インフレ率の定義
インフレ率とは、ある期間における、物価指数の変化率のことです。
通常、インフレ率を計算する際には、最も生活に身近な物価指数である**消費者物価指数(CPI)**が用いられます。ニュースなどで「先月のインフレ率は前年同月比で2%でした」と報じられる場合、これは「去年の同じ月と比べて、消費者物価指数が2%上昇しました」ということを意味します。
9.2. 計算方法
インフレ率の計算式は、経済成長率の計算式と、構造的に全く同じです。
\[
\text{インフレ率}(%) = \frac{\text{当年の物価指数} – \text{前年の物価指数}}{\text{前年の物価指数}} \times 100
\]
- 例:ある国の消費者物価指数(基準年=100)が、
- 2024年:110
- 2025年:113.3だったとします。この場合、2025年のインフレ率は、\[\frac{113.3 – 110}{110} \times 100 = \frac{3.3}{110} \times 100 = 3%\]と計算されます。
インフレ率がプラスであればインフレーション、マイナスであればデフレーション(この場合、デフレ率と呼ぶこともあります)が発生していることを意味します。
9.3. インフレの種類と影響
インフレは、その度合いによって、以下のように分類されることがあります。
- クリーピング・インフレ:年率数%程度の、ゆるやかなインフレ。
- ギャロッピング・インフレ:年率10%を超えるような、急速なインフレ。
- ハイパー・インフレ:物価上昇が制御不能となり、年率数百%、数千%にも達するような、破壊的なインフレ。
ゆるやかなインフレは、企業の売上増加期待を通じて、投資を刺激し、経済を活性化させる側面があるため、「良いインフレ」と見なされることもあります。
しかし、急激なインフレは、
- 貨幣価値の下落:お金の価値が目減りし、特に、預金や年金で暮らす人々の生活を圧迫します。
- 所得・富の不公平な再分配:借金をしている人(債務者)は、実質的な返済負担が軽くなるため得をし、お金を貸している人(債権者)は損をします。
- 将来予測の困難化:価格メカニズムが混乱し、企業や家計が、合理的な計画を立てることが難しくなります。といった、様々な問題を引き起こします。
そのため、多くの国の中央銀行(日本の場合は日本銀行)は、このインフレ率を、安定的でゆるやかな水準(例えば、2%程度)にコントロールすること(物価の安定)を、金融政策の最も重要な目標として掲げているのです。
10. 失業率の定義と、その種類
経済の健康状態を示す、もう一つの極めて重要な指標が、失業率 (Unemployment Rate) です。失業率の高さは、個人の生活困窮に直結するだけでなく、人的資源という貴重な生産要素が、社会全体として有効に活用されていない、非効率な状態を示唆します。
失業率を正確に理解するためには、まず、その算出の基礎となる、労働力人口の定義を把握する必要があります。
10.1. 労働力調査における定義
日本の失業率は、総務省が毎月実施している労働力調査に基づいて算出されます。この調査では、15歳以上の人口を、以下のように分類します。
- 15歳以上人口
- 労働力人口:働く意思と能力を持つ人々の集団。
- 就業者:調査期間中に、収入を伴う仕事に1時間以上従事した人。休業者も含む。
- 完全失業者:以下の三つの条件をすべて満たす人。
- 仕事がなくて調査週間中に少しも仕事をしなかった(仕事なし)。
- 仕事があればすぐ就くことができる(即時就業可能)。
- 調査週間中に、仕事を探す活動や事業を始める準備をしていた(求職活動)。
- 非労働力人口:働く意思がないか、働く能力がない人々。
- 例:学生、専業主婦(主夫)、高齢者、病人など。
- 労働力人口:働く意思と能力を持つ人々の集団。
重要なのは、「仕事がない人」が、すべて失業者としてカウントされるわけではない、という点です。仕事を探す活動をしていない「就職をあきらめた人(求職意欲喪失者)」などは、非労働力人口に分類され、失業率の計算には含まれません。
10.2. 失業率の計算方法
失業率は、労働力人口に占める、完全失業者の割合として、以下の式で計算されます。
\[
\text{失業率}(%) = \frac{\text{完全失業者数}}{\text{労働力人口}} \times 100 = \frac{\text{完全失業者数}}{\text{就業者数} + \text{完全失業者数}} \times 100
\]
10.3. 失業の種類
失業は、その発生原因によって、主に三つのタイプに分類されます。
- 摩擦的失業 (Frictional Unemployment)より良い職を求めて、自発的に離職したり、新規に労働市場に参入したりする際に生じる、一時的な失業。転職活動中の人や、新卒で就職活動中の学生などがこれにあたります。労働者と企業との間の、情報の不完全性や、マッチングにかかる時間によって発生します。これは、ある程度、健全な労働市場でも、不可避的に発生する失業です。
- 構造的失業 (Structural Unemployment)産業構造の変化(例えば、衰退産業から成長産業へのシフト)や、技術革新によって、労働者に求められるスキルと、労働者が持つスキルとの間にミスマッチが生じることによって発生する、比較的長期にわたる失業。例えば、AIの導入によって、特定の事務職の需要が恒久的に減少した場合などが、これにあたります。
- 循環的失業 (Cyclical Unemployment)景気後退(不況)によって、経済全体の財やサービスに対する需要が不足し、企業の生産活動が縮小するために発生する失業。景気が回復すれば、解消に向かう失業です。マクロ経済政策(財政政策や金融政策)が、主に対応しようとするのは、この循環的失業です。
摩擦的失業と構造的失業は、景気の良し悪しに関わらず、常に一定数存在すると考えられています。この二つを合計した、景気循環に左右されない「自然な」失業率を、自然失業率と呼びます。
Module 8:国民経済の計測の総括:数字の向こうに、経済の実像を見る
本モジュールでは、マクロ経済学の世界への第一歩として、一国の経済という、雲のようにつかみどころのない巨大な存在を、客観的な「数字」で測定し、分析するための基本的な道具一式を揃える旅をしてきました。それは、国の「健康診断書」を自らの力で読み解き、数字の羅列の向こう側にある、経済のリアルな姿を捉えるための訓練でした。
私たちはまず、経済を測るための国際的な会計基準であるSNAと、その根幹をなす三面等価の原則を学び、経済の規模が「生産・分配・支出」という三つの側面から等しく捉えられることを理解しました。
そして、最も重要な指標であるGDPを、物価変動の影響を取り除いた実質GDPで測ることの重要性を学び、それを用いて経済成長率を計算する方法を身につけました。また、経済的な豊かさを、一定期間の流れである**フロー(GDP)と、ある一時点での蓄積であるストック(国富)**という、二つの異なる時間軸で捉える視点を得ました。
さらに、経済の短期的な変動である景気循環と、物価の平均的な動きを示す物価指数、そして社会の痛みを表す失業率という、経済の「体温」や「脈拍」、「ストレスレベル」を測るための指標についても、その正確な定義と意味を探求しました。
このモジュールで手に入れた知識は、単なる用語の暗記ではありません。それは、日々メディアから流れてくる無数の経済ニュースやデータを、鵜呑みにするのではなく、その背景にある意味を自ら問い直し、批判的に吟味し、論理的に解釈するための「知的リテラシー」です。
国の経済の現状を客観的な数字で語れるようになった今、私たちは次なる問いへと進む準備ができました。すなわち、「その数字、特に国民全体の所得(GDP)は、一体何によって決まるのか?」という、マクロ経済学の中心的な謎を解き明かす旅へと、次のモジュールで出発します。