【基礎 古文】Module 4:助動詞による事態の記述(2) 完了と過去

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モジュールの目的と構造

Module 3では、推量や意志といった、話者の「主観的な判断」を言語化する助動詞の世界を探求しました。私たちは、不確かな未来や仮想の世界に、言葉がいかにして論理的な輪郭を与えるのかを学びました。本モジュールでは、その視点を、話者の内面から、外部で起こる客観的な事象の記述へと移します。ここで焦点を当てるのは、出来事のアスペクト(局面)とテンス(時制)を精密に表現するための助動詞群、すなわち完了、存続、過去、打消、受身、使役などを担う、文法体系の根幹です。

もしModule 3が、人の「心」の動きを映し出す装置であったとすれば、本モジュールは、世界の「出来事」そのものを、高解像度のカメラで捉えるための、精緻なレンズ群に相当します。多くの受験生は、これらの助動詞を個別の暗記事項として捉え、「つ・ぬ・たり・り」の違いや、「る・らる」「す・さす」の多義性に混乱しがちです。しかし、本稿が明らかにするのは、これらの助動詞が、出来事を「完了した局面」で捉えるのか、「継続している局面」で捉えるのか、あるいは「直接体験した過去」として語るのか、「間接的な過去」として語るのかといった、話者の視点と事態の捉え方という、極めて論理的な原理に基づいて体系化されているという事実です。

我々の目標は、この背後にある論理を解明し、単なる丸暗記から脱却することです。なぜ「つ」は意志的で、「ぬ」は自然な完了を表す傾向があるのか。なぜ「たり」と「り」は同じ完了・存続を表しながら、接続が全く異なるのか。なぜ「き」と「けり」は、同じ過去でありながら、話し手の立ち位置によって明確に使い分けられるのか。これらの「なぜ」を理解することで、助動詞の識別は、客観的な根拠に基づく必然的な知的作業へと変わります。

本稿では、以下の10のステップを通じて、客観的な世界の出来事を、言葉によっていかに正確に、そして豊かに記述するのか、その論理と技術を探求します。

  1. 完了の局面(1)「つ」「ぬ」: 動作が完了したことを表す「つ」「ぬ」の機能を、意志的側面と非意志的(自然的)側面という、話者の視点の違いから論理的に分析します。
  2. 完了の局面(2)「たり」「り」: 動作の結果が存続している状態を表す「たり」「り」を、その出自(て+あり)と接続のルールから、アスペクト(局面)という言語学的な視点で深く理解します。
  3. 過去の時制「き」「けり」: 直接体験の過去「き」と、間接的な過去(伝聞・詠嘆)「けり」を、話し手がその出来事といかなる距離にあるのか、という「視点」の差異から完全に区別します。
  4. 否定の論理「ず」: あらゆる事態を打ち消す、最も基本的な助動詞「ず」の複雑な活用体系を、その成り立ちから論理的に解明します。
  5. 受け身の論理「る」「らる」: 受身・可能・自発・尊敬という四つの顔を持つ「る」「らる」の多義性を、文脈から一つに特定するための思考アルゴリズムを確立します。
  6. 働きかけの論理「す」「さす」「しむ」: 他者に動作をさせる使役と、敬意を表す尊敬の二つの意味を持つ「す」「さす」「しむ」を、文の構造から明確に識別する方法を学びます。
  7. 断定の形式「なり」「たり」: 断定の助動詞「なり」と「たり」の用法を、その接続とニュアンスの差異から再確認し、知識を盤石なものにします。
  8. 比喩の構造「ごとし」: 比況・例示の助動詞「ごとし」が持つ構造的な特徴と、それが生み出す比喩表現の効果を分析します。
  9. 接続の体系: これまで学んだ助動詞が、どの活用形に接続するのか、その規則性を体系的に整理し、助動詞全体の文法地図を完成させます。
  10. 連続する助動詞の解読法: 複数の助動詞が連続する複雑な形を、どの順番で、どのように解釈していくのか、その論理的な解読プロセスを習得します。

このモジュールを終えるとき、あなたは、古文のテキストが描写する世界の出来事を、より客観的に、そしてその時間的な流れや局面を精密に捉えることができる、鋭い分析眼を手にしているでしょう。

目次

1. 完了・強意の助動詞「つ」「ぬ」の意志的側面と非意志的側面の差異

古文の世界において、ある動作や作用が「完了した」ことを示す助動詞として、中心的な役割を担うのが**「つ」「ぬ」です。これらはどちらも「〜てしまう」「〜た」と訳されることが多く、機能的には非常に似通っています。しかし、古文の洗練された書き手は、この二つの助動詞を、決して無差別に用いるわけではありません。その使い分けの背後には、その完了した動作が、話者(または主語)の意志や意図に基づいて積極的に行われたものなのか(意志的側面)、それとも自然の力や意図しない形で、いつのまにか完了してしまったものなのか(非意志的側面)**という、話者の事態に対する認識の微妙な差異が横たわっています。このニュアンスの違いを論理的に理解することは、単に文を訳すだけでなく、その背後にある登場人物の心理や、作者の描写の意図を深く読み解くための鍵となります。

1.1. 完了の助動詞の基本情報

まず、「つ」と「ぬ」に共通する形式的な知識を固めます。

活用下二段活用型<br>て・て・つ・つる・つれ・てよナ行変格活用型<br>な・に・ぬ・ぬる・ぬれ・ね
接続連用形連用形
意味①完了(〜てしまう、〜た)<br>②強意・確述(きっと〜、確かに〜)<br>③並列(〜たり〜たり)①完了(〜てしまう、〜た)<br>②強意・確述(きっと〜、確かに〜)

学習上のキーポイント:

  • 接続は同じ: どちらも連用形に接続するため、接続の形から両者を区別することはできません。識別は、もっぱら意味的・文脈的なニュアンスによります。
  • 活用形の違い: 「つ」はタ行下二段、「ぬ」はナ行変格活用と、活用の仕方が全く異なります。例えば、已然形は「つれ」と「ぬれ」となり、この形の違いから識別することが可能です。
  • 共通の意味: 両者とも、中核的な意味として**「完了」「強意」**を持ちます。

1.2. コア機能(1):完了(〜てしまう、〜た)

「完了」は、「つ」「ぬ」の最も基本的な機能です。ある動作や作用が、完全に終わったこと、完遂したことを示します。

1.2.1. 「つ」の意志的・人為的完了

  • 論理: 助動詞「つ」は、主語が意図をもって、積極的に何かを成し遂げた、完了させたというニュアンスを伴うことが多いです。人為的な行為の完了に適しています。
  • 例文:
    • 帝、この文を読み**て**、涙を流させ給ふ
      • 思考プロセス: 「帝がこの手紙を読み終えて」。手紙を読むという行為は、帝の明確な意志に基づく人為的な動作です。このような文脈では、「ぬ」よりも「つ」が自然です。(※「て」は「つ」の連用形)
    • かぐや姫、養ひ**つる**こと二十余年になりぬ
      • 思考プロセス: 「かぐや姫を育ててきたこと」。翁が愛情と意志をもって、長年にわたり育て上げたという、人為的な継続と完了のニュアンスが含まれます。(※「つる」は「つ」の連体形)

1.2.2. 「ぬ」の非意志的・自然的完了

  • 論理: 助動詞「ぬ」は、動作が自然の成り行きとして、あるいは主語の意志とは無関係に、いつのまにか完了してしまったというニュアンスを伴うことが多いです。自然現象や、無意識的な心の動きの完了に適しています。
  • 例文:
    • 秋来**ぬ**と目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる。(古今和歌集)
      • 思考プロセス: 「秋が来てしまったと」。秋が来るのは、人の意志が及ばない自然の摂理です。このような自然的・自発的な完了には「ぬ」が最も適しています。
    • うたた寝に恋しき人を見てしより夢てふものは頼みそめてき。(古今和歌集)
      • 歌意:うたた寝で恋しい人を見てしまってから、夢というものを頼りにし始めてしまったことだ。
      • ここで「頼みそめてき」の「そめ」は動詞「初む」の連用形。夢を頼りにし始めるという心の動きは、意志的にコントロールできるものではなく、恋しさのあまり、いつのまにかそうなってしまったという非意志的・自発的な変化です。

1.3. コア機能(2):強意・確述(きっと〜、確かに〜)

  • 論理的展開: ある動作が「完了した」ということは、その動作が「確かに起こった」という事実の確定を意味します。この「完了」の意味が強調されると、**「その動作が起こることは確実である」という、話者の強い確信や断定を表す「強意(確述)」**の意味が生まれます。
  • 識別ポイント: 特に、**推量の助動詞「む(ん)」、意志の助動詞「べし」などと結びついた「〜てむ」「〜なむ」「〜つべし」「〜ぬべし」**の形で現れる場合、この「強意」の意味が顕著になります。

【複合助動詞の論理分析】

複合形分解論理的意味
〜てむつ(強意)+む(推量・意志)きっと〜だろう/きっと〜しよう咲き**てむ**(きっと咲くだろう
〜なむぬ(強意)+む(推量・意志)きっと〜だろう/きっと〜しよう帰り**なむ**(きっと帰ろ
〜つべしつ(強意)+べし(当然・推量)きっと〜にちがいない/〜べきである勝つ**べし**(勝つにちがいない
〜ぬべしぬ(強意)+べし(当然・推量)きっと〜にちがいない/〜べきである死ぬ**べし**(死ぬにちがいない

例文:

  • 桜の花、やがて散り**なむ**
    • 思考プロセス: 強意「ぬ」+推量「む」。「桜の花は、(自然の成り行きとして)きっと散ってしまうだろう」。自然現象なので「ぬ」が使われています。
  • われ、敵を討ち**てむ**
    • 思考プロセス: 強意「つ」+意志「む」。「私は、(自らの意志で)必ず敵を討とう」。意志的な行為なので「つ」が使われています。

1.4. その他の用法:並列

  • 論理: 助動詞「つ」の連用形「て」を反復する**「〜つ〜つ」**の形で、「〜たり〜たり」という意味を表すことがあります。
  • 例文浮き**つ**沈み**つ**して、流るる。(浮いたり沈んだりして、流れていく)

1.5. まとめ

完了の助動詞「つ」と「ぬ」は、単に動作の終了を示すだけでなく、その完了の仕方に込められた話者の認識を反映する、繊細な表現ツールです。

  1. コア機能: 両者とも**「完了」「強意」**が中核的な意味である。
  2. ニュアンスの差異(完了):
    • 「つ」: 主語の意志に基づく、人為的な完了を表す傾向がある。
    • 「ぬ」: 主語の意志とは無関係な、自然的・自発的な完了を表す傾向がある。
  3. 強意の用法: 「〜てむ」「〜なむ」のように、推量や意志の助動詞と結びつくことで、「きっと〜」という確述の意味を明確に表す。
  4. 論理的識別: 活用の形(下二段かナ変か)と、文脈(意志的か、非意志的か)の両方から、総合的に判断する。

この「つ」と「ぬ」の使い分けを敏感に感じ取れるようになれば、あなたは文章の表面的な意味だけでなく、その背後にある作者の繊細な描写の意図や、登場人物の心の動きの機微までをも、深く正確に読み解くことができるようになるでしょう。

2. 存続・完了の助動詞「たり」「り」の接続とアスペクト(局面)の表現

動作の完了を表す助動詞には、「つ」「ぬ」の他に、「たり」と「り」が存在します。これらも「〜た」「〜てしまう」と訳されることがありますが、その本質的な機能は、「つ」「ぬ」とは明確に異なります。「つ」「ぬ」が動作そのものが完了した瞬間に焦点を当てるのに対し、「たり」「り」は、ある動作が完了した結果、その状態が今も続いているという**「存続」**のアスペクト(局面)を表現することに重点を置いています。このアスペクトという言語学的な視点を導入することで、私たちは古文が描写する時間の流れを、より立体的かつ精密に理解することができます。本章では、「たり」「り」の出自と接続ルールを論理的に解明し、両者が担う「存続」という局面の表現について深く探求します。

2.1. アスペクト(局面)という視点

  • アスペクトとは: 動詞が表す出来事を、時間的な流れの中のどの「局面」で捉えるか、という文法カテゴリー。
    • 完了相: 出来事が終わった局面に焦点を当てる。(例:「つ」「ぬ」)
    • 存続相: 出来事の結果の状態が続いている局面に焦点を当てる。(例:「たり」「り」)
    • 進行相: 出来事の真っ最中の局面に焦点を当てる。(例:現代語の「〜ている」)

古文の「たり」「り」は、この存続相を表現するための主要なツールです。

2.2. 助動詞「たり」:動作の結果状態の存続

助動詞「たり」は、その成り立ちを理解することが、その機能を論理的に把握する上で最も重要です。

2.2.1. 「たり」の基本情報と出自

  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || たら | たり | たり | たる | たれ | たれ |
    • ラ行変格活用と同じ活用(ラ変型)。
  • 接続連用形
  • 出自接続助詞「て」 + ラ変動詞「あり」 → 「てあり」 → 「たり」

この**「〜て、ある」という成り立ちこそが、「たり」の本質を雄弁に物語っています。つまり、「(ある動作をし)て、その結果の状態が今ここにある**」というのが、「たり」の原義なのです。

2.2.2. 「たり」の二つの意味

  1. 存続(〜ている、〜てある)
    • 論理: 「〜て、ある」の原義に最も忠実な用法。ある動作の結果生じた状態が、そのまま継続している様を描写する。
    • 例文秋の野に人松虫のなく**なり**。声する**方**に**行**き**て**見**れ**ば、はかなき宿に月のかげ**漏れ**たり
      • 思考プロセス: 「月の光が漏れている」。月の光が家の中に差し込んできて、その光が今も存在し続けている、という情景の存続を描写している。「漏れた」という一瞬の完了ではなく、「漏れている状態」に焦点がある。
    • 例文門(かど)開け**たり**
      • 思考プロセス: 「門を開けて、その結果(開いた状態が)ある」→「門が開いている」。動作の結果状態の存続。
  2. 完了(〜た、〜てしまった)
    • 論理: 存続の意味から、動作そのものが完了したことを表す用法に発展した。「〜ている」と訳して不自然な場合に、こちらで解釈する。
    • 例文今は昔、竹取の翁といふものありけり。…名をば、さぬきの造(みやつこ)とぞ言ひ**ける**。この翁、竹を取り**つつ**、よろづのことに使ひ**けり**
      • 思考プロセス: 物語の中で、翁が竹を取って色々なことに「使っ」という過去の習慣的な行為の完了を表す。ここでは「使っている」という存続よりも、「使った」という完了で訳すのが自然。

2.3. 助動詞「り」:自然発生的な状態の存続

助動詞「り」も、「たり」と同様に存続・完了を表しますが、その接続ルールが極めて特殊であり、これが最大の識別ポイントとなります。

2.3.1. 「り」の基本情報と特殊な接続

  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || ら | り | り | る | れ | れ |
    • ラ行変格活用と同じ活用(ラ変型)。
  • 接続サ行変格活用の未然形 と 四段活用の已然形
    • この**「サ未四已(さみしい)」**と覚える特殊な接続ルールが、助動詞「り」を他の全ての助動詞から区別する、絶対的な識別記号です。
  • 出自: 動詞の連用形に付く助動詞「り」は、動詞の活用語尾の母音(i, e)とラ変動詞「あり」が融合して成立したと考えられています。(例:咲き+あり→咲けり)

2.3.2. なぜ「サ未四已」なのか?(音韻論からの論理的説明)

この奇妙な接続ルールは、歴史的な音韻変化の結果として、論理的に説明できます。

  • サ変: サ変動詞の未然形は「せ」。これに「あり」が続くと「せ+あり→せり」となる。
  • 四段: 四段動詞の已然形はエ段の音(例:「咲け」)。これに「あり」が続くと、母音eとaが融合し、エ段の音を保ったまま「咲け+あり→咲けり」となる。

つまり、助動詞「り」は、特定の母音(e, i)を持つ活用形に「あり」が接続し、融合して生まれた形なのです。この成り立ちを知ることで、「サ未四已」というルールを、単なる暗号ではなく、音韻変化の必然的な帰結として理解することができます。

2.3.3. 「り」の用法

「り」の意味は「たり」とほぼ同じですが、四段動詞の已然形に接続するという性質上、自然発生的な状態や、継続している動作を表す文脈で使われることが多い傾向があります。

  1. 存続(〜ている、〜てある)
    • 例文潮満ち**来**れ**り**。(潮が満ちてきている。)
      • 思考プロセス: 「来」はカ行四段動詞「来(く)」の已然形。それに「り」が接続。潮が満ちてきて、その状態が今も続いていることを表す。
  2. 完了(〜た、〜てしまった)
    • 例文かの大納言は失せ**たまへ**り**。(あの大納言は亡くなってしまわれた。)
      • 思考プロセス: 「たまへ」は尊敬の補助動詞「たまふ」の已然形。それに「り」が接続。「亡くなる」という動作の完了を表す。

2.4. 識別アルゴリズム:「たり」vs「り」

「たり」と「り」の識別は、その接続に注目すれば100%確実に行えます。

  • 直前の用言が連用形 → 「たり」
  • 直前の用言がサ変の未然形 or 四段の已然形 → 「り」

ミニケーススタディ:

  • 花咲き**たり**
    • 分析: 直前は四段動詞「咲く」の連用形「咲き」。よって**「たり」**。
  • 花咲け**り**
    • 分析: 直前は四段動詞「咲く」の已然形「咲け」。よって**「り」**。

2.5. まとめ

存続・完了の助動詞「たり」「り」は、出来事の「局面(アスペクト)」を表現するための重要なツールです。

  1. アスペクトの差異: 「つ」「ぬ」が動作の完了そのものに焦点を当てるのに対し、「たり」「り」は動作の結果状態の存続に焦点を当てる。
  2. 「たり」の論理: **「て+あり」**から成立。連用形に接続し、動作の結果状態が続いていること(存続)や、動作が完了したこと(完了)を表す。
  3. 「り」の論理: **「サ未四已」**という特殊な接続ルールを持つ。これは音韻変化の合理的な結果であり、識別の絶対的な手がかりとなる。
  4. 機能的共通性: 意味・機能は「たり」とほぼ同じ(存続・完了)。

「つ・ぬ」と「たり・り」の使い分けを理解することは、古文が描写する時間の流れを、よりきめ細かく、ダイナミックに捉えることを可能にします。それは、単に出来事が「起こった」と知るだけでなく、その出来事が「今」にどのような影響を及ぼし続けているのか、その余韻までをも読み解く、深い読解への扉を開くものです。

3. 直接体験の過去「き」と間接的過去(伝聞)「けり」の視点の違い

過去の出来事を語る際、古文は二つの異なる助動詞、**「き」「けり」を、話者の「視点」**に応じて精緻に使い分けます。この二つの助動詞は、どちらも過去を表すという点では共通していますが、その出来事と話し手との「距離感」において、根本的な違いがあります。「き」が、話し手が自ら直接体験した、疑いのない過去を語るための主観的なレンズであるのに対し、「けり」は、人から伝え聞いた過去や、今ここで初めて気づいた過去を語るための、より客観的で距離を置いたレンズです。この「視点」の違いを理解することは、文章の語り手が誰であり、その人物が物語世界の出来事とどのような関係にあるのかを、論理的に分析するための、極めて重要な手がかりとなります。

3.1. 視点の違い:直接的 vs. 間接的

  • 過去の助動詞「き」:
    • 視点直接体験。話し手が、自分の目で見、耳で聞き、肌で感じた過去。
    • キーワード主観的、個人的、確実な記憶
    • : 〜た。(主に自分が体験したこととして)
    • 使用場面: 主に会話文や、日記・手記のように、話し手・書き手自身の体験が語られる文脈。
  • 過去の助動詞「けり」:
    • 視点間接的認識
      1. 伝聞: 人から伝え聞いた過去。(Module 4-2で学習)
      2. 詠嘆: 今、改めてそうであったのだなあと気づいた過去。(同上)
    • キーワード客観的、伝聞、新たな気づき
    • : 〜たそうだ、〜たということだ、〜たのだなあ。
    • 使用場面: 主に物語の地の文説話和歌など、語り手が客観的な立場から出来事を述べたり、ある事実に詠嘆したりする文脈。

論理的結論:

ある過去の出来事を描写した文で、助動詞「き」が使われていれば、その文の語り手(主語)は、その出来事の当事者・目撃者である蓋然性が極めて高い。一方、「けり」が使われていれば、語り手はその出来事を又聞きしたか、後から知って詠嘆しているだけであり、現場にはいなかった可能性が高い。この法則は、主語が省略されがちな古文において、語り手の正体を特定するための強力な推論の根拠となります。

3.2. 直接体験の過去「き」の詳解

3.2.1. 「き」の基本情報

  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || せ | (なし) | き | し | しか | (なし) |
    • 特殊型。未然形「せ」と連体形「し」、已然形「しか」が特に重要。
  • 接続連用形
    • 完了の「つ」「ぬ」や過去の「けり」と同じ接続です。

3.2.2. 「き」の用法と文脈

  • 会話文での使用:
    • 「昨日、都より参り**し**人、何事をか申し**し**」
      • 思考プロセス: 会話文の中で、「昨日、都から参上し人」と「何を申し上げか」という、話し手(質問者)が直接見聞きした、あるいは体験した範囲の過去について述べている。連体形「し」と終止形「し」が使われているが、これは特殊型活用「き」の一部。
      • 解釈: 「昨日、都から参上した人は、何を申し上げたか。」
  • 日記・和歌の詞書での使用:
    • 九月二十日、…雨降り**しか**ば、え出ださず。(『土佐日記』より)
      • 思考プロセス: 作者である紀貫之自身の直接体験を記した日記文学。「雨が降っので」という過去の事実を述べている。已然形「しか」が使われている。
      • 解釈: 「九月二十日、…雨が降ったので、出発することができなかった。」
  • 反実仮想構文での使用:
    • 未然形「せ」は、反実仮想の助動詞「まし」と共に**「〜せば、…まし」**の形で、「もし(あの時)〜であったならば、…だっただろうに」という意味を表す。
    • 早う知ら**せ**ば、とく来**まし**
      • 思考プロセス: 「もし早く知っていたならば」。これは過去の事実に反する仮定。「き」の未然形「せ」が使われている。
      • 解釈: 「もし(私が)早く知っていたならば、すぐ来たことだろうに。(しかし、知らなかったので来なかった)」

3.3. 間接的過去「けり」の再確認と「き」との比較

「けり」はModule 4-2で詳述しましたが、ここで「き」との対比を明確にします。

過去の助動詞「き」過去の助動詞「けり」
視点直接体験(主観的)間接認識(客観的・伝聞・詠嘆)
接続連用形連用形
主な使用文脈会話文、日記物語の地の文、和歌、説話

ミニケーススタディ:語り手の立ち位置

  • 文Aかの合戦を見**き**
    • 論理的推論: 語り手は「私」。私は、その合戦を自分の目で直接見た
  • 文Bかの合戦あり**けり**
    • 論理的推論: 語り手は、その合戦を直接は見ていない。人から伝え聞いた話として「あったそうだ」と語っているか、あるいは歴史書などを読んで「あったのだなあ」と今、改めて認識している。

この違いは、物語のナレーション構造を理解する上で決定的に重要です。『源氏物語』のような三人称視点の物語では、地の文の過去時制は、作者が客観的な語り手として出来事を叙述するため、ほぼ全て「けり」で統一されています。もし地の文で「き」が使われていれば、それは作者の視点ではなく、特定の登場人物の回想や視点に切り替わったことを示す、重要な文学的テクニックである可能性が高いのです。

3.4. まとめ

過去を表す助動詞「き」と「けり」は、単なる時制の違いではなく、話者の「視点」と「認識」の違いを反映する、高度な表現の使い分けです。

  1. 機能の対立: 「き」は直接体験した主観的な過去、「けり」は**間接的に認識した客観的な過去(伝聞・詠嘆)**を表す。
  2. 接続の共通性と識別の鍵: 両者とも連用形接続であるが、識別は文脈、特にそれが会話文・日記なのか、物語の地の文・和歌なのか、そして語り手が当事者か否かによって論理的に行われる。
  3. 「き」の特殊な活用: 未然形「せ」(反実仮想)、連体形「し」、已然形「しか」という特殊な活用形は、個別に記憶する必要がある。
  4. 読解への応用: この二つの助動詞の使い分けに注目することで、文章の語り手の立ち位置や、描かれている情報の種類(直接的な事実か、間接的な伝聞か)を、客観的な根拠に基づいて分析することができる。

「き」と「けり」の背後にある視点の違いを感じ取れるようになれば、あなたは古文のテキストを、単なる平面的な文字の連なりとしてではなく、語り手の存在を常に意識した、立体的で多層的な物語世界として体験することができるようになるでしょう。

4. 打消の助動詞「ず」の活用体系と文中での機能

古文の世界において、あらゆる事態や判断を否定するための、最も基本的かつ強力なツールが、打消の助動詞**「ず」**です。現代語の「〜ない」に相当し、その出現頻度は極めて高く、この助動詞をマスターすることなくして、古文の正確な読解はありえません。「ず」の活用は、他の助動詞とは一線を画す、非常に特殊で複雑なパターンを持っています。しかし、その複雑さも、その成り立ちと機能的な必要性から論理的に解き明かすことが可能です。本章では、打消の助動詞「ず」が持つ二系統の活用体系を、その構造から完全に理解し、文中での多様な機能(単純な打消、接続、係り結びなど)を体系的に分析します。

4.1. 打消の助動詞「ず」の基本情報

  • 意味打消(〜ない)
  • 接続未然形
    • この「未然形接続」というルールは、動詞の活用の種類を識別する際のアルゴリズムとして利用されるほど、絶対的なものです。
  • 活用特殊型。本活用と補助活用の二つの系統を持つ。

4.2. 「ず」の二系統の活用:本活用と補助活用

助動詞「ず」の活用が複雑に見えるのは、状況に応じて二種類の活用形を使い分けるからです。

  1. 本活用: 「ず」本来の活用。
  2. 補助活用: 「ず」にラ変動詞「あり」が結びついた「ざり」の活用。

この二つの系統は、明確な機能分担を持っています。

4.2.1. 本活用の体系

未然形連用形終止形連体形已然形命令形
(なし)
  • 特徴:
    • 未然・連用・終止の三つの形が、全て「ず」で同形である。
    • 連体形が「ぬ」、已然形が「ね」という、ザ行ではない特殊な音に変化する。
  • 機能:
    • 未然形「ず」: 助動詞「む」などに接続する。(例:知らは、…)
    • 連用形「ず」: 接続助詞「て」や、他の用言に接続する。(例:知らて、…)
    • 終止形「ず」: 文を言い切る。(例:我は知ら。)
    • 連体形「ぬ」: 体言に接続する。(例:知ら人)
    • 已然形「ね」: 接続助詞「ば」「ど」などに接続する。(例:知らば、…)

識別の注意点:

  • 連体形「ぬ」: 完了の助動詞「ぬ」の終止形と全く同じ形です。識別は、**①接続(「ず」の連体形は未然形に、「ぬ」の終止形は連用形に付く)、②文脈(打消か、完了か)**によって行います。(Module 4-1参照)

4.2.2. 補助活用の体系(「ざり」の活用)

  • 論理的成り立ち打消「ず」の連用形 + ラ変動詞「あり」 → 「ずあり」 → 「ざり」
  • 存在理由: 本活用の連用形「ず」には、接続できない助動詞(過去「き」「けり」など)がありました。この文法的な不都合を解消し、「ず」が他の助動詞とスムーズに連携できるようにするために生み出されたのが、この補助活用です。これは、形容詞のカリ活用(〜く+あり→〜かり)と全く同じ、言語の合理的な自己修正プロセスです。
  • 活用: 補助活用「ざり」は、ラ行変格活用と全く同じパターンで活用します。
未然形連用形終止形連体形已然形命令形
ざらざりざりざるざれざれ
  • 機能: 主に助動詞に接続するために用いられる。
    • 未然形「ざら」: 推量の助動詞「む」などに接続する。(例:知らざらむ → 知らないだろう)
    • 連用形「ざり」: 過去の助動詞「き」「けり」などに接続する。(例:知らざりき → 知らなかった)
    • 終止形「ざり」: (本来の用法は少ない)
    • 連体形「ざる」: 断定の助動詞「なり」や、係り結びで文末に来る。(例:知らざるなり、花ぞ散らざる
    • 已然形「ざれ」: 係り結びで文末に来る。(例:花こそ散らざれ

4.3. 文中での機能と識別アルゴリズム

本活用と補助活用のどちらが使われるかは、直後に続く語の種類によって、ほぼ機械的に決まります。

【識別・用法判断アルゴリズム】

問い:打消表現の直後には、何が続くか?

  • 文が終わっている(言い切り) → 終止形「ず」
    • 例:人は来(こ)**ず**
  • 体言(名詞)が続く → 連体形「ぬ」
    • 例:見**ぬ**人
  • 接続助詞「ば」「ど」が続く → 已然形「ね」
    • 例:言は**ね**ど
  • 助動詞「き」「けり」などが続く → 補助活用の連用形「ざり」
    • 例:聞か**ざり**き
  • 係助詞「ぞ」などを受け、文が終わる → 補助活用の連体形「ざる」
    • 例:月も出で**ざる**
  • 係助詞「こそ」を受け、文が終わる → 補助活用の已然形「ざれ」
    • 例:雪も降ら**ざれ**

このアルゴリズムに従えば、複雑に見える「ず」の活用も、その使われ方から論理的に特定することが可能です。

4.4. まとめ

打消の助動詞「ず」は、古文における否定表現の中核を担う、極めて重要な要素です。

  1. 二系統の活用: 「ず」は、本活用(ず・ず・ず・ぬ・ね)と、補助活用(ざら・ざり・ざり・ざる・ざれ・ざれ)という二つの活用体系を持つ。
  2. 補助活用の論理: 補助活用「ざり」は、「ず」の連用形に「あり」が結びついて生まれたものであり、主に助動詞との接続を円滑にするという合理的な機能を持つ。
  3. 機能分担: 本活用と補助活用の使い分けは、直後に続く語の種類によって明確に規定されている。
  4. 体系的理解の重要性: この複雑な活用体系を、その成り立ちと機能分担から論理的に理解することが、単なる丸暗記を超え、あらゆる否定表現を正確に読み解くための盤石な基礎を築く。

打消表現を正確に捉えることは、筆者の肯定・否定の主張を正しく理解するための大前提です。助動詞「ず」の複雑な体系をマスターすることで、あなたの読解の精度は、また一段階、確実なものになるでしょう。

5. 受身・可能・自発・尊敬の助動詞「る」「らる」の文脈判断法

古文の助動詞の中でも、特に高度な文脈判断能力を要求されるのが、「る」「らる」です。この二つの助動詞は、形が似ているだけでなく、それぞれが①受身(〜れる、〜られる)、②可能(〜できる)、③自発(自然と〜れる)、④尊敬(お〜になる、〜なさる)という、四つもの異なる意味を持つため、多くの受験生を悩ませる最大の難関の一つとなっています。しかし、この多義性は、決して無秩序なものではありません。四つの意味は、「主語が直接的にコントロールできない、外部からの働きかけや、内面からの自然な働き」という一つのコア・イメージから論理的に派生したものです。本章では、このコア・イメージを理解し、文の構造、主語の種類、そして動詞の性質といった客観的な手がかりに基づいて、四つの意味の中から最も適切なものを一つに特定するための、体系的な思考アルゴリズムを確立します。

5.1. 助動詞「る」「らる」の基本情報

まず、「る」と「らる」の形式的な違いを明確にします。この使い分けは、接続する動詞の活用の種類によって、厳密に決まっています。

らる
活用下二段活用型<br>れ・れ・る・るる・るれ・れよ下二段活用型<br>られ・られ・らる・らるる・らるれ・られよ
接続四段・ナ変・ラ変動詞未然形上記以外(上一段・下一段・上二段・下二段・カ変・サ変)の未然形
意味①受身 ②可能 ③自発 ④尊敬①受身 ②可能 ③自発 ④尊敬

論理的識別法(「る」か「らる」か):

  • 動詞の未然形の母音に注目します。
    • ア段の音に接続 → 「る」(例:書か、死な、あら
    • ア段以外の音(イ段・エ段など)に接続 → 「らる」(例:見らる、受けらる、来らる、せらる

この接続ルールは絶対的なので、まず「る」と「らる」のどちらであるかを確定させることが、意味判断の第一歩となります。

5.2. 四つの意味のコア・イメージと派生

「る・らる」の四つの意味は、**「主語の意志を超えた働き」**という共通の概念で結ばれています。

【コア・イメージ:主語の意志を超えた働き】

  • → 外部からの働きかけ
    • → 他者から動作をされる → ① 受身
    • → 状況や能力によって動作ができる → ② 可能
    • → 高貴な方が動作をなさる(敬意) → ④ 尊敬
  • → 内部からの働き
    • → 心の中で動作が自然と起こる → ③ 自発

この関係性を理解することで、四つの意味をばらばらに覚えるのではなく、一つの有機的なシステムとして捉えることができます。

5.3. 意味識別のための思考アルゴリズム

四つの意味の中から、文脈に最も適したものを論理的に決定するには、以下の優先順位で可能性を検証していくのが効果的です。

【文脈判断のフローチャート】

Step 1: 「〜に」(動作主)があるか? → 【受身】の可能性を最優先

  • 文中に「〜に」や「〜に(よっ)て」という形で、**動作を行う者(動作主)が示されている場合、その意味は「受身(〜に…される)」**である可能性が極めて高い。
  • 例文人**に**憎ま**るる**こと
    • 思考プロセス: 「人」という動作主が明示されている。したがって、主語(省略されているが「自分」など)が、人から「憎まれる」という受身の意味で確定する。

Step 2: 下に打消の語があるか? → 【可能】の可能性を検討

  • 「る・らる」の下に、打消の助動詞「ず」などが付いて**「〜れず」「〜られず」の形になっている場合、「可能(〜できない)」**の意味になることが非常に多い。
  • 例文夜もすがら眠ら**れ**ず
    • 思考プロセス: 「眠る」に「る」が付き、さらに打消の「ず」が続いている。「眠らない」→「眠ることができない」。可能の打消。

Step 3: 心情・知覚動詞に付いているか? → 【自発】の可能性を検討

  • **「思ふ」「知る」「見る」「聞く」「泣く」「忍ぶ」といった、人間の心理活動や感覚を表す動詞に「る・らる」が付いている場合、「自発(自然と〜れる、〜せずにはいられない)」**の意味になることが多い。
  • 例文故郷のこと思ひ出で**らる**
    • 思考プロセス: 心情を表す動詞「思ひ出づ」に「らる」が付いている。故郷のことは、意志的に思い出すというより、ふとした瞬間に自然と思い出されもの。よって自発

Step 4: 主語は高貴な人物か? → 【尊敬】の可能性を検討

  • 上記のいずれにも当てはまらず、文の主語が帝や大臣、姫君といった高貴な人物である場合、その意味は**「尊敬(お〜になる、〜なさる)」**である可能性が高い。
  • 例文帝、このこと(を)聞か**せ給ひ**て、いたく驚か**れ**けり
    • 思考プロセス: 主語は「帝」。動詞「驚く」に「る」の連用形「れ」が付いている。帝の動作なので、帝に対する敬意を表す尊敬。「お驚きになっ」。

最終判断:

このアルゴリズムはあくまで思考のガイドラインです。最終的には、最も文脈に自然に適合し、論理的な一貫性が保たれる意味を選択します。

5.4. まとめ

助動詞「る」「らる」の多義性は、古文読解における大きな壁ですが、その背後には明確な論理が存在します。

  1. 形式的区別: 「る」と「らる」の使い分けは、接続する動詞の未然形の母音によって厳密に決まる。
  2. コア・イメージ: 四つの意味は、**「主語の意志を超えた働き」**という共通の概念から派生している。
  3. 論理的識別アルゴリズム: **①受身(「〜に」の有無)→ ②可能(打消の有無)→ ③自発(心情・知覚動詞)→ ④尊敬(主語の身分)**という優先順位で、客観的な手がかりに基づいて意味を絞り込む。
  4. 文脈の重要性: この助動詞の識別は、単語レベルの知識だけでは不可能であり、文全体の構造と文脈を深く読み解く、総合的な読解力が試される。

「る・らる」を制する者は、文の背後にある、行為の主体と客体の関係、人間の自然な心の動き、そして社会的な敬意の力学までをも読み解くことができる、真に熟達した読解者と言えるでしょう。

6. 使役・尊敬の助動詞「す」「さす」「しむ」の文脈判断法

助動詞「る・らる」が、主語の意志を超えた働きを表す多義的な助動詞であったのに対し、助動詞**「す」「さす」「しむ」**は、他者への働きかけや、敬意の表明といった、より能動的で意図的な事態を記述するための助動詞です。これらは、①使役(〜せる、〜させる)と②尊敬(お〜になる、〜なさる)という、二つの重要な意味を持ちます。一見すると全く異なるこの二つの意味を、一つの助動詞がなぜ併せ持つのか。そして、文脈の中でどちらの意味で使われているのかを、いかにして論理的に識別するのか。本章では、この二つの意味が「他者に影響を与える」という共通の概念から派生したものであることを理解し、文の構造、特に「動作をさせられる人」の有無という客観的な手がかりに基づいて、使役と尊敬を明確に識別するための思考アルゴリズムを確立します。

6.1. 助動詞「す」「さす」「しむ」の基本情報

まず、「す」「さす」「しむ」の形式的な違いを整理します。

さすしむ
活用下二段活用型<br>せ・せ・す・する・すれ・せよ下二段活用型<br>させ・させ・さす・さする・さすれ・させよ下二段活用型<br>しめ・しめ・しむ・しむる・しむれ・しめよ
接続四段・ナ変・ラ変動詞未然形上記以外(上一段・下一段・上二段・下二段・カ変・サ変)の未然形全ての活用語未然形
意味①使役 ②尊敬①使役 ②尊敬①使役 ②尊敬

論理的識別法(「す」か「さす」か「しむ」か):

  • 「す」と「さす」の使い分け: これは「る」と「らる」の使い分けと全く同じ論理です。
    • 動詞の未然形の母音がア段 → 「す」(例:書か、死な、あら
    • 動詞の未然形の母音がア段以外 → 「さす」(例:見さす、受けさす、来さす、せさす
  • 「しむ」の使い分け:
    • 「しむ」は、どの活用の動詞にも接続できる、より汎用性の高い形です。
    • ニュアンスとしては、「す・さす」が口語的であるのに対し、「しむ」は漢文訓読調で、より硬く、改まった文章で使われる傾向があります。

6.2. 二つの意味のコア・イメージと派生

使役と尊敬という二つの意味は、**「上位者が、他者に対して、何らかの働きかけ・影響を与える」**という共通の概念から派生しています。

【コア・イメージ:上位者から他者への働きかけ】

  • → その働きかけが直接的で、他者の行動を強制・許可する場合 → ① 使役
  • → その働きかけが間接的で、上位者自身の行動を通じて、周囲に威光や影響を及ぼす(敬意の対象となる)場合 → ② 尊敬

尊敬とは、本来、高貴な人物が自ら行動するのではなく、他者に「〜させる」ことであった、という文化的背景も、この二つの意味が同居する理由の一つです。

6.3. 意味識別のための思考アルゴリズム

使役と尊敬の識別は、文の構造、特に**「実際に動作をする人(被使役者)」が文中に示されているかどうか**という、極めて客観的な基準によって論理的に行います。

【文脈判断のフローチャート】

問い:助動詞「す・さす・しむ」の直前に、格助詞「を」「に」を伴う人物(動作をさせられる人)が存在するか?

  • YES(「〜を」「〜に」…させる、という形がある) → ① 使役でほぼ確定。
    • 構造(使役主は)+ [被使役者]を・に + [動作]+す・さす
    • 論理: 「誰々に〜させる」という使役の構文が明確に成立している。
    • 例文帝、中納言**に**文を読ま**せ**給ふ
      • 思考プロセス: 助動詞「せ」(「す」の連用形)の直前に、「中納言」という、動作(読む)をさせられる人物(被使役者)が明示されている。したがって、これは使役。「帝が、中納言手紙を読まなさる」。
  • NO(直前に「〜を」「〜に」という人物がいない) → ② 尊敬の可能性が極めて高い。
    • 論理: 「〜させる」相手が文中に存在しない場合、その助動詞は、主語自身の行為に対する敬意を表す「尊敬」の機能に特化していると判断する。
    • 条件: この場合、主語は必ず高貴な人物でなければならない。
    • 例文帝、御輿(みこし)より下り**させ**給ふ
      • 思考プロセス: 助動詞「させ」の直前に、「〜を」「〜に」という被使役者が存在しない。主語は「帝」という最高貴の人物である。したがって、この「させ」は帝自身の「下りる」という行為に対する敬意を表す尊敬。「帝が、御輿から下りになる」。

6.4. 尊敬の助動詞の使い分け:最高敬語

尊敬を表す表現には、「る・らる」と「す・さす・しむ」、そして尊敬の補助動詞「給ふ」など、様々な種類があります。これらが組み合わさると、敬意の度合いがさらに高まります。

  • 二重尊敬:
    • 構造尊敬の助動詞「す・さす」+ 尊敬の補助動詞「給ふ」(例:〜せ給ふ、〜させ給ふ)
    • 機能: 単独の尊敬語よりも高い敬意を表す。主語は、帝や中宮、大臣など、極めて身分の高い人物に限定される。
    • 例文帝、大殿籠(おほとのごも)り**させ給ひ**ぬ。(帝は、お休みあそばされた。)

この二重尊敬の形を知識として持っておくことは、主語が省略されている文で、その主語が最高位の人物であると特定するための、決定的な手がかりとなります。

6.5. まとめ

使役・尊敬の助動詞「す・さす・しむ」は、文中の人物関係と行為の力学を読み解く上で、不可欠な要素です。

  1. 形式的区別: 「す」「さす」「しむ」の使い分けは、接続する動詞の未然形の母音や、文章の文体によって論理的に決まる。
  2. 二つの意味: **①使役(〜させる)②尊敬(〜なさる)**の意味を持つ。
  3. 論理的識別アルゴリズム: 識別は、文の構造、すなわち**「(被使役者)を・に」という目的語が存在するかどうかによって、客観的に行う。「を・に」があれば使役**、なければ尊敬
  4. 尊敬の用法: 尊敬の意味で使われる場合、主語は必ず高貴な人物でなければならない。
  5. 最高敬語: 「〜させ給ふ」などの二重尊敬は、最高位の人物にのみ使われる、極めて高い敬意の表現である。

この明確な識別アルゴ-リズムを習得することで、あなたは「す・さす・しむ」の多義性に惑わされることなく、文中の人物が誰かに何かをさせているのか、あるいは自ら敬われるべき行為をしているのか、その力関係を確信を持って見抜くことができるようになるでしょう。

7. 断定の助動詞「なり」「たり」の用法と形式的差異

事態の記述において、ある事柄が「何であるか」を明確に指定し、断定することは、論理的な文章の基本です。古文において、この**「断定」の機能を専門に担うのが、助動詞「なり」「たり」です。これらは、現代語の「〜である」「〜だ」に相当し、文の述語を形成する上で中心的な役割を果たします。Module 3-8で、伝聞・推定の「なり」との識別法を学びましたが、本章では、断定の助動詞である「なり」と「たり」の二つに焦点を当て、その用法と形式的な差異を再確認し、知識を盤石なものにします。この二つの助動詞は、機能的にはほぼ同じ断定を表しますが、その出自接続**、そして文体的なニュアンスに違いがあります。この差異を理解することは、文章の格調や由来を読み解く、より深い読解につながります。

7.1. 断定の助動詞の基本機能:「AはBである」という指定

断定の助動詞は、主語(A)が何であるか、どのようなものであるか(B)を、「AはBである」という形で明確に結びつけ、指定する機能を持ちます。

  • 構造(主語Aは)+ [体言 or 準体言 B] + なり・たり
  • 論理: 主語Aと、補語Bとの間に、イコール(=)の関係を成立させる。

7.2. 断定の助動詞「なり」:和文脈の基本断定

「なり」は、和文(やまとうたや物語など、日本固有の文章)において、最も一般的に使われる断定の助動詞です。

7.2.1. 「なり」の基本情報と出自

  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || なら | なり(に) | なり | なる | なれ | なれ |
    • 形容動詞ナリ活用と同じ。
  • 接続体言、活用語の連体形
  • 出自格助詞「に」 + ラ変動詞「あり」 → 「にあり」 → 「なり」
    • この「〜に、ある」という成り立ちが、断定の「なり」が**存在(〜にある)**の意味も併せ持つ理由です。

7.2.2. 「なり」の二つの用法

  1. 断定(〜である、〜だ)
    • 論理: 「AはBである」という、最も基本的な指定・断定を表す。
    • 例文春はあけぼの。…夏は夜。月のころはさら**なり**。(『枕草子』)
      • 思考プロセス: 直前は体言「さら(更)」。よって断定の「なり」。「月の出ている頃は言うまでもないことである」。
  2. 存在(〜にある、〜にいる)
    • 論理: 出自である「にあり」の意味が色濃く残った用法。場所を示す名詞に付いて、そこに何かが存在することを示す。
    • 例文問ふべき人も都**に**はあら**ね**ば、…
      • 思考プロセス: 文脈上、「尋ねるべき人も都にはいないので」。場所「都」+「に」+「は」+「あら(ず)」。ここでは「に」+「あり」の形が明確に見える。
    • 例文三寸ばかり**なる**人、いとうつくしうて居たり。(『竹取物語』)
      • 思考プロセス: 直前は体言「三寸ばかり」。よって断定の「なり」の連体形「なる」。訳は「三寸ほどの大きさである人」となるが、これは「三寸ほどの大きさのところにいる人」という存在の意味合いも含む。

7.3. 断定の助動詞「たり」:漢文訓読調の断定

「たり」は、「なり」と同様に断定を表しますが、その出自から、主に漢文訓読調の文章や、硬く、格調高い響きを意図した文章(随筆、軍記物語など)で用いられる傾向があります。

7.3.1. 「たり」の基本情報と出自

  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || たら | たり(と) | たり | たる | たれ | たれ |
    • 形容動詞タリ活用と同じ。
  • 接続体言
    • 「なり」が連体形にも接続するのに対し、「たり」は原則として体言のみに接続します。
  • 出自格助詞「と」 + ラ変動詞「あり」 → 「とあり」 → 「たり」
    • 格助詞「と」が引用や内容の指定を表すことから、「〜という状態で、ある」というのが原義です。

7.3.2. 「たり」の用法

  • 断定(〜である)
    • 論理: 「なり」と同様、「AはBである」と断定するが、より客観的で硬質な響きを持つ。
    • 例文賢人(けんじん)の言へることも、ひとつとして違ふことなかり**しか**ば、…これ誠の賢人**たり**。(『徒然草』)
      • 思考プロセス: 直前は漢語の体言「賢人」。文脈も、道理を説く随筆であり、硬い文体。よって漢文訓読調の断定「たり」がふさわしい。「これこそが本当の賢人である」。

7.4. 識別アルゴリズムと文体的ニュアンス

断定の「なり」と「たり」の識別、および他の助動詞との識別をまとめます。

  1. 接続による形式的識別:
    • 直前が体言 → 断定の「なり」 or 断定の「たり」
      • → 文体が和文調なら「なり」、漢文訓読調なら「たり」の可能性が高い。
    • 直前が連体形 → **断定の「なり」**で確定。
    • 直前が連用形 → **完了・存続の「たり」**で確定。
    • 直前が終止形(ラ変型は連体形) → **伝聞・推定の「なり」**で確定。
  2. 文体的ニュアンス:
    • なり: 物語や日記、和歌など、柔らかく、情緒的な和文脈で多用される。
    • たり: 随筆や軍記物語、漢詩の引用など、硬質で、論理的、客観的な漢文訓読調の文脈で好んで使われる。

この文体的なニュアンスの違いを感じ取れるようになると、文章全体のトーンや、作者がどのような文化的背景を持ってその文章を書いているのかまでを推察する、より高度な読解が可能になります。

7.5. まとめ

断定の助動詞「なり」「たり」は、文の結論部分を形成する、極めて重要な要素です。

  1. 共通の機能: 両者とも、主として**断定(〜である)**を表し、「AはBである」という指定の関係を成立させる。
  2. 形式的差異:
    • 出自: 「なり」は**「に+あり」、「たり」は「と+あり」**。
    • 接続: 「なり」は体言・連体形に接続。「たり」は原則として体言にのみ接続。
  3. 文体的差異: 「なり」は和文脈の基本的な断定表現。「たり」は漢文訓読調の硬質な断定表現。
  4. 論理的識別: 他の「なり」「たり」との識別は、接続という客観的な文法ルールによって、確実に行うことができる。

断定の助動詞を正確に捉えることは、筆者が何を事実として提示し、何を結論として主張しているのか、その論理の骨格を確実に見抜くための、読解の基本中の基本です。

8. 比況・例示の助動詞「ごとし」の構造的特徴

物事を説明する際に、より身近で分かりやすい別の事物にたとえる「比喩」は、古今東西、あらゆる言語で用いられる普遍的な修辞技法です。古文において、この比喩表現を文法的に作り出すための中核的な役割を担うのが、比況(ひきょう)の助動詞**「ごとし」です。現代語の「〜のようだ」「〜のようである」に相当し、ある事物が別の事物と性質や状態が似ていること(比況)**を示したり、**具体的な例を挙げること(例示)**を専門とします。本章では、助動詞「ごとし」が持つ独特の活用と接続のルール、そしてそれが作り出す構文の構造的な特徴を論理的に分析します。

8.1. 助動詞「ごとし」の基本情報

  • 意味:
    1. 比況(〜のようだ、〜のとおりだ): 二つの事物が似ていることを示す。
    2. 例示(〜のような): 具体的な例を挙げる。
  • 活用:| 未然形 | 連用形 | 終止形 | 連体形 | 已然形 | 命令形 || :— | :— | :— | :— | :— | :— || ごとく | ごとく | ごとし | ごとき | ごとけれ | (なし) |
    • 形容詞のク活用と全く同じ活用(ク活用型)。
  • 接続体言、活用語の連体形、助詞「の」「が」
    • 接続する対象が多様であることが特徴です。

8.2. 「ごとし」が形成する構文の論理構造

助動詞「ごとし」は、多くの場合、それ単独ではなく、**「Aの(が)ごとし」**という形で、一つの構文を形成します。

[たとえられるものX] は、 [たとえるものA] の(が)ごとし。

  • X: 話題の中心となっている、説明したい事物(主題)。
  • A: Xを説明するために引き合いに出される、より身近で具体的な事物。
  • の(が): 格助詞。所有や主格を表し、Aと「ごとし」を結びつける。
  • ごとし: AとXが類似していることを示す。

この構造を理解することが、「ごとし」の文を正確に解釈する鍵となります。

8.3. 用法(1):比況(〜のようだ)

  • 論理: ある事物の性質や状態を、読者がイメージしやすい別の事物との類似性によって、鮮やかに描写する。
  • 例文月日の経つは百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人**なり**。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖(すみか)とす。古人も多く旅に死せる**あり**。予もいづれの年よりか、片雲の風に誘はれて、漂泊の思ひやまず、…(『おくのほそ道』冒頭より一部改変)
    • この有名な一節には直接の「ごとし」はないが、その精神は比喩に満ちている。では、「ごとし」を使った文を考えてみよう。
  • 例文月日の経つは、矢の飛ぶが**ごとし**
    • 思考プロセス:
      1. 構文の特定: 「Aがごとし」の形。
      2. 要素の分解:
        • たとえられるもの(X): 月日の経つこと
        • たとえるもの(A): 矢が飛ぶこと
      3. 論理的解釈: 「月日が経過していくことの速さ」という抽象的な概念を、「矢が飛んでいく速さ」という、より具体的で視覚的なイメージにたとえている。
      4. 解釈: 「月日が経つのは、まるで矢が飛んでいくかのようだ。」

8.4. 用法(2):例示(〜のような)

  • 論理: あるカテゴリーに属する、具体的な一例を挙げることで、そのカテゴリーの内容を分かりやすく示す。
  • 構造的特徴: 主に**連体形「ごとき」**が、後ろの体言を修飾する形で使われる。
  • 例文帝、后、親王**ごとき**高貴の人々
    • 思考プロセス:
      1. 構文の特定: 「AごときB」の形。
      2. 要素の分解:
        • カテゴリー(B): 高貴な人々
        • 具体例(A): 帝、后、親王
      3. 論理的解釈: 「高貴な人々」という広いカテゴリーに含まれる、具体的なメンバーとして「帝、后、親王」を例として挙げている。
      4. 解釈: 「帝、后、親王のような高貴な人々。」

8.5. 関連表現との比較

  • 助動詞「やうなり」(比況・様態):
    • 「ごとし」とほぼ同じ意味(〜のようだ)を表すが、より口語的で、平安時代の和文などで多用される。
    • 活用は形容動詞ナリ活用型。
    • 例:夢の**やうなり**(夢のようだ
  • 格助詞「の如し」:
    • 漢文訓読調の表現で、「ごとし」よりも硬い、改まった響きを持つ。
    • 例:光陰矢の**如し**(光陰矢のようだ

これらの類義表現との文体的なニュアンスの違いを知っておくと、文章の格調をより深く理解する助けとなります。

8.6. まとめ

比況・例示の助動詞「ごとし」は、抽象的な事柄を具体的に、分かりにくい事柄を身近に感じさせるための、強力な表現ツールです。

  1. 二大機能: **比況(〜のようだ)例示(〜のような)**という二つの主要な機能を持つ。
  2. 構造的特徴: **「Aの(が)ごとし」**という基本構文を形成し、A(たとえるもの)とX(たとえられるもの)の類似性を示す。
  3. 活用の型: 活用は形容詞ク活用型と同じであり、覚えやすい。
  4. 接続の柔軟性: 体言や連体形、助詞「の」「が」など、様々な語に接続する。
  5. 論理的役割: 比喩という修辞技法を文法的に支え、筆者の主張をより鮮やかで、説得力のあるものにする。

「ごとし」が使われている箇所は、筆者が読者の理解を助けるために、意図的に工夫を凝らしたポイントです。その比喩の構造を正確に解き明かすことは、筆者の思考の道筋を、より深く、共感をもって追体験することにつながります。

9. 助動詞の接続(未然形接続・連用形接続等)の体系的暗記と応用

これまで、私たちは個々の助動詞の意味や活用を学んできました。その過程で、助動詞ごとに「未然形に接続する」「連用形に接続する」といった接続のルールに繰り返し触れてきました。これらのルールは、単なる付属情報ではありません。それは、助動詞という文法システム全体を貫く、極めて重要な論理的秩序です。助動詞の正しい接続を理解し、体系的に記憶することは、以下の二つの側面から、古文読解能力を飛躍的に向上させるための決定的な鍵となります。第一に、品詞分解の精度を保証し、第二に、文法問題で直接的な得点力となるのです。本章では、これまで学んだ助動詞を「接続」という観点から再編成し、その背後にある論理性を明らかにすることで、単なる丸暗記ではない、応用可能な知識体系を構築します。

9.1. なぜ接続の知識が重要なのか?

  1. 識別の絶対的根拠:
    • 例:「ぬ」の識別: 「花咲か人」と「花散り」。形は同じ「ぬ」ですが、前者は動詞「咲く」の未然形に接続しているので打消「ず」の連体形、後者は動詞「散る」の連用形に接続しているので完了「ぬ」の終止形であると、接続のルールによって100%確実に識別できます。このように、接続の知識は、多義的な助動詞や同音異義の語を識別するための、最も客観的で信頼できる論理的根拠です。
  2. 文法問題への直接的応用:
    • 入試の文法問題では、「傍線部の助動詞の意味と文法的説明として正しいものを選べ」といった形式の問題が頻出します。このとき、意味の判断に迷っても、選択肢に書かれている接続(例:「未然形接続」)が正しいかどうかを判断できれば、それだけで不正解の選択肢を消去できます。
  3. 未知の単語への推論:
    • たとえ意味が分からない動詞であっても、その直後に例えば過去の助動詞「き」があれば、その動詞は「連用形」であると推論できます。このように、接続の知識は、未知の語の文法的な形を特定する手がかりにもなります。

9.2. 接続の背後にある論理:時制とアスペクトの相関

助動詞がどの活用形に接続するかは、ランダムに決まっているわけではありません。多くの場合、その助動詞が持つ意味と、接続先の活用形が持つ機能との間に、論理的な相関関係が見られます。

  • 未然形接続の論理:
    • 未然形は「まだ実現していない」ことを表す形です。
    • したがって、推量・意志・仮定・願望といった、未来未実現の事柄について述べる助動詞(む、じ、まし、まほしなど)が未然形に接続するのは、極めて合理的です。
  • 連用形接続の論理:
    • 連用形は、他の用言に連なったり、過去や完了を表したりする「接続」の形です。
    • したがって、過去・完了・存続といった、既に起こった、あるいは継続している事柄について述べる助動詞(き、けり、つ、ぬ、たりなど)が連用形に接続するのは、理にかなっています。

この大原則を理解することで、接続ルールを、意味と関連付けた、忘れにくい知識として定着させることができます。

9.3. 接続による助動詞の体系的分類

以下に、主要な助動詞を接続する活用形ごとに分類し、整理します。これを体系的に記憶することが、本章の最終目標です。

9.3.1. 未然形に接続する助動詞

  • キーワード未来・未実現・打消
  • 助動詞:
    • る・らる(受身・可能・自発・尊敬)
    • す・さす・しむ(使役・尊敬)
    • (打消)
    • む(ん)・むず(推量・意志・勧誘・仮定・婉曲)
    • (打消推量・打消意志)
    • まし(反実仮想・ためらい)
    • まほし(希望)
  • 覚え方の例: 「る・らる・す・さす・しむ・ず・じ・む・むず・まし・まほし

9.3.2. 連用形に接続する助動詞

  • キーワード過去・完了・存続・願望
  • 助動詞:
    • (過去)
    • けり(過去・詠嘆)
    • つ・ぬ(完了・強意)
    • たり(完了・存続)
    • けむ(過去推量)
    • たし(希望)
  • 覚え方の例: 「き・けり・つ・ぬ・たり・けむ・たし

9.3.3. 終止形に接続する助動詞

  • キーワード現在・推定
  • 注意: ラ変型の用言には連体形で接続する。
  • 助動詞:
    • べし(推量・意志・可能・当然・命令・適当)
    • まじ(打消推量・打消意志・不可能・禁止など)
    • らむ(現在推量)
    • らし(推定)
    • めり(推定)
    • なり(伝聞・推定)
  • 覚え方の例: 「べし・まじ・らむ・らし・めり・なりは終止形」

9.3.4. その他の接続

  • 体言・連体形に接続:
    • なり(断定・存在)
    • たり(断定)※主に体言
    • ごとし(比況・例示)
  • 特殊な接続:
    • (完了・存続): サ変の未然形、四段の已然形(サ未四已)

9.4. まとめ

助動詞の接続ルールは、古文の文法体系を支える、論理的な骨格です。

  1. 接続は論理: 助動詞の接続は、その意味(未来・過去など)と、接続先の活用形の機能(未然・連用など)との間に、合理的な相関関係がある。
  2. 識別の根拠: 接続の知識は、同音異義の助動詞や活用形を識別するための、客観的で絶対的な手がかりとなる。
  3. 体系的記憶: 助動詞を接続する活用形ごとにグループ化して記憶することが、断片的な知識を有機的な体系へと統合し、応用力を高めるための最も効果的な戦略である。
  4. 応用力の中核: 文法問題の解答、品詞分解の精度向上、そして文章全体の構造理解。その全ての土台に、この接続の知識が存在する。

接続のルールを完全にマスターしたとき、あなたはもはや、助動詞の識別に迷うことはありません。目の前の語形から、その文法的な機能を瞬時に、かつ確信をもって判断し、より深く、より速い読解の世界へと進むことができるでしょう。

10. 複数の助動詞の連続(例:れ・させ・られ・給ひ・はべり・き)の解釈順序

古文読解、特に敬語が多用される物語文学や歴史物語において、私たちはしばしば、一つの動詞に複数の助動詞や補助動詞が数珠つなぎに連続する、長大で複雑な述語表現に遭遇します。例えば、「〜れさせられたまひはべりき」のような形は、初学者にとっては解読不能な暗号のように見えるかもしれません。しかし、この複雑な連なりも、実は厳密な接続ルールと、一定の解釈順序に従って、論理的に構築されています。この連続体を正確に解読する能力は、最難関レベルの古文が要求する、精密な読解力の頂点と言えるでしょう。本章では、この複雑な助動詞の連続体を、どの順番で、どのように解釈していくのか、その体系的な**解読プロセス(パーシング・アルゴリズム)**を確立します。

10.1. 問題の所在:なぜ助動詞は連続するのか

助動詞が連続するのは、筆者が一つの動作に対して、複数の文法的意味(受身、使役、尊敬、過去、完了、推量など)を同時に、かつ重層的に付与したいと考えるからです。一つ一つの助動詞が、特定の意味のレイヤー(層)を付け加えていくイメージです。

書く(動詞)

  • → 書か**る**(受身のレイヤーを追加:書かれる
  • → 書か**れき**(過去のレイヤーを追加:書かれ
  • → 書か**れけむ**(過去推量のレイヤーを追加:書かれただろう

私たちの課題は、この積み重なったレイヤーを、正しい順番で一枚ずつ剥がしていくように、論理的に解釈していくことです。

10.2. 解読の基本原則:動詞に近い方から(下から上へ)

複数の助動詞や補助動詞が連続している場合、その解釈は、原則として動詞(語幹)に最も近いものから順番に行います。これは、文法的な意味が、動詞を核として、外側に向かって同心円状に付け加えられていくと考えるからです。

[動詞] + [助動詞①] + [助動詞②] + [助動詞③] ...

  • 解釈順序動詞 → ① → ② → ③

この**「下から上へ」「内側から外側へ」**という原則が、全ての解読プロセスの基本となります。

10.3. ケーススタディ:複雑な連続体の論理的解読

課題思ひ出で**させられ**たまひ**て**、… という表現を正確に解釈せよ。

【解読アルゴリズムの適用】

  1. 要素への分解: まず、この連続体を、意味を持つ最小単位(動詞、助動詞、補助動詞)に分解します。
    • 思ひ出で(動詞)
    • させ(助動詞)
    • られ(助動詞)
    • たまひ(補助動詞)
    • (接続助詞)
  2. 接続の確認と個々の機能の特定: 各要素が、直前の語のどの活用形に接続しているかを確認し、それぞれの品詞と基本的な機能を特定します。
    • 思ひ出で:ダ行下二段活用動詞「思ひ出づ」の未然形
    • させ:未然形に接続する助動詞 → **使役・尊敬「さす」**の連用形。
    • られ:助動詞「さす」の未然形「させ」に接続。ア段以外の音なので → **受身・可能・自発・尊敬「らる」**の連用形。
    • たまひ:助動詞「らる」の連用形「られ」に接続 → **尊敬の補助動詞「たまふ」**の連用形。
    • :補助動詞「たまふ」の連用形「たまひ」に接続 → 接続助詞。
  3. 「下から上へ」の原則に従い、意味を統合:
    • ① 動詞思ひ出で(思い出す)
    • ② + させ: ここで「させ」が使役か尊敬かを判断する必要がある。もし尊敬なら、後の「たまひ」と合わせて過剰な敬語になる。また、文脈から誰かに思い出させているのでなければ、使役の可能性も低い。このような場合、「させ」自体に特別な意味がない(形態を整えるためなどの)可能性もあるが、まずは尊敬と仮定してみよう。「お思い出になる」
    • ③ + られ: 次に「られ」の意味を判断する。
      • 受身?:「お思い出になられる」→ 意味不明。
      • 可能?:「お思い出しになることができる」→ 文脈次第だが、可能性は低い。
      • 自発?:動詞が「思ひ出づ」という心情動詞であるため、「自然とお思い出になられる」という意味の自発である可能性が極めて高い。
      • 尊敬?:「させ」も「られ」も「たまひ」も尊敬だと、三重、四重の敬語になり、通常はありえない。
      • → ここでは自発と判断するのが最も論理的。
    • ④ + たまひ: 最後に「たまひ」の意味を加える。
      • (自然と)思ひ出でられ + たまひ(尊敬) → 「自然とお思い出しなさる
    • ⑤ + : 接続助詞「て」
      • → 「自然とお思い出しになっ、…」
  4. 最終的な解釈:
    • この表現は、主語である高貴な人物が、何かを意志的に思い出したのではなく、あるきっかけで、自然と、ふと思い出してしまわれた、という自発的な心の動きを、最高度の敬意(尊敬「させ」+尊敬「たまひ」)を払って描写したものである。

10.4. 助動詞の接続順序の一般法則

助動詞の連続には、ある程度の決まった順序(テンプレート)が存在します。

一般的な順序:

動詞 + [使役・受身] + [尊敬] + [時制・完了] + [推量]

  • 書か**せ**(使役)**られ**(受身)**たまひ**(尊敬)**ぬ**(完了)**らむ**(現在推量)
    • 解釈: (きっと今ごろ)書かせられなさってしまっているだろう

この一般法則を知っておくことは、複雑な連続体を解読する際の、強力なガイドラインとなります。

10.5. まとめ

複数の助動詞が連続する表現は、古文読解における最後の砦ですが、その構造は論理的な原則に基づいています。

  1. 解読の基本原則: 解釈は、動詞に最も近い助動詞から、外側に向かって順番に行う(下から上へ)。
  2. 解読プロセス①要素への分解 → ②接続の確認と機能特定 → ③意味の統合 というステップを、論理的に踏む。
  3. 文脈判断の重要性: 各助動詞が持つ複数の意味(例:「らる」の四つの意味)の中から、どれが適切かを選択する際には、動詞の種類や文脈に基づいた、高度な判断が要求される。
  4. 接続順序の法則性: 助動詞の接続には、**「使役・受身 → 尊敬 → 時制・完了 → 推量」**という、ある程度決まった順序が存在する。

この解読アルゴリズムを習得したとき、あなたは、どのような複雑な述語表現に遭遇しても、臆することなくその構造を冷静に分析し、作者が込めた幾重にも重なる繊細なニュアンスまでをも、正確に読み解くことができる、真の上級者となっているでしょう。

Module 4:助動詞による事態の記述(2) 完了と過去の総括:話者の「視点」を浮き彫りにする、客観世界の文法

本モジュールでは、Module 3で探求した話者の「主観的な判断」の世界から、より客観的な世界の出来事を記述するための助動詞群へと、その分析の舞台を移しました。完了、存続、過去、打消、受身、使役といった、事態の局面(アスペクト)や時制(テンス)、行為の力学を言語化するこれらの助動詞は、古文のテキストに論理的な秩序と客観的なリアリティを与える、文法体系の根幹をなすものです。

私たちは、まず完了を表す助動詞**「つ」「ぬ」が、単なる動作の終了ではなく、その行為が意志的なのか非意志的なのかという、話者の認識の差異を反映していることを学びました。次に、「たり」「り」**を、動作の結果状態が続いている「存続」の局面(アスペクト)を捉えるための装置として、その出自(て+あり)から論理的に理解しました。

さらに、過去を表す助動詞**「き」「けり」の使い分けが、話し手がその出来事を直接体験したのか、それとも間接的に認識**したのか、という「視点」の根本的な違いに基づいていることを解明しました。これは、文章の語り手の正体を探る上で、決定的な手がかりとなる知見です。

そして、あらゆる事態を否定する**「ず」の複雑な活用体系をその成り立ちから論理的に整理し、「る・らる」(受身・可能・自発・尊敬)と「す・さす・しむ」**(使役・尊敬)という、古文読解における二大難関助動詞の多義性を、文の構造という客観的な手がかりから識別するための、体系的な思考アルゴリズムを確立しました。

最後に、断定の**「なり」「たり」の文体的な差異や、比況の「ごとし」の構造を確認し、全ての助動詞を接続という観点から再編成することで、文法体系全体の地図を完成させました。そして、その集大成として、複数の助動詞が連続する複雑な表現を、「下から上へ」**という原則に従って論理的に解読する技術を習得しました。

このモジュールを修了したあなたは、もはや単語の意味を繋ぎ合わせるだけの読解者ではありません。あなたは、一つの動詞句に込められた、完了・存続・過去・尊敬・使役といった幾重にも重なる情報のレイヤーを正確に分析し、その出来事がどのような局面で、どのような視点から、どのような力学のもとで語られているのかを、客観的かつ立体的に再構築する能力を手にしました。

この事態記述の文法をマスターしたことで、主観の世界(Module 3)と客観の世界(Module 4)の両方を言語化する、助動詞というシステムの全体像が、今、あなたの目の前に明らかになったはずです。この強固な文法体系の理解を基盤として、次のModule 5では、古文の音韻や表記といった、よりミクロな世界の原理へと、私たちの探求を進めていきます。

目次