【基礎 古文】Module 6:敬語システムによる人物関係の構造解明
モジュールの目的と構造
古文の世界、特に平安時代の宮廷社会を舞台とした物語や日記を読み解く上で、単語や文法の知識だけでは決して乗り越えられない、巨大な壁が存在します。それが、日本語が持つ、世界でも類を見ないほど精緻で複雑な敬語システムです。古文における敬語は、現代語のような単なる丁寧な言葉遣いを遥かに超え、文章に登場する人物間のあらゆる力関係、社会的序列、そして心理的な距離感を、極めて正確にマッピングするための、一つの巨大な言語的座標系として機能しています。敬語を制する者は、言葉の背後にある、目に見えない人間関係の構造そのものを、手に取るように解明することができるのです。
本モジュールが目指すのは、敬語を暗記すべき動詞や助動詞のリストとしてではなく、その背後にある**「誰が、誰に対し、どのような種類の敬意を払っているのか」という、敬意のベクトル(方向性)を分析するための、一貫した論理的システム**として捉え直すことです。私たちは、尊敬語・謙譲語・丁寧語という三つの基本要素が、それぞれどのような論理的役割を担っているのかを解明し、それらが文中で組み合わさることによって、いかにして複雑な人間模様を浮き彫りにするのかを分析します。
この探求を通じて、あなたは、主語が頻繁に省略される古文の世界で、敬語を手がかりに**「この動作の主は誰か」「この会話の相手は誰か」**といった、読解の根幹に関わる問いに、客観的な根拠を持って答える能力を習得します。敬語は、もはやあなたを惑わせる障壁ではありません。それは、登場人物の社会的アイデンティティを特定し、彼らの関係性を図式化するための、最も信頼できる知的ツールへと変わるでしょう。
本稿では、以下の10のステップを通じて、言葉に埋め込まれた社会の構造を解読する、知的探求の旅へとあなたを誘います。
- システムの基本論理: 尊敬語・謙譲語・丁寧語という三分類システムが、それぞれどのような敬意の方向性を示すのか、その基本論理を確立します。
- 尊敬語の機能: 動作の主体を高める尊敬語(本動詞・補助動詞)の種類と用法を体系的に学びます。
- 謙譲語の機能: 動作の客体(受け手)を高める謙譲語(本動詞・補助動詞)の種類と用法を分析します。
- 丁寧語の機能: 聞き手に対する敬意を示す丁寧語が、会話の場の雰囲気や、書き手と読み手の関係性をいかに規定するかを解明します。
- 敬意のベクトル分析: 敬意の方向性(誰から誰へ)をを図式化する技術を学び、人間関係を可視化する思考プロセスを確立します。
- 会話文の分析: 会話文における敬語の使用パターンから、発話者、聞き手、そして話題の人物を特定する方法を習得します。
- 地の文の分析: 物語の地の文における敬語の使用から、作者の視点や、物語が誰の視点から語られているのかを論理的に推論します。
- 最高敬語の用法: 二重尊敬など、最高レベルの敬意が、どのような人物に、どのような場面で用いられるのか、その限定的な用法を学びます。
- 絶対敬語の威力: 特定の人物(帝・中宮など)にしか使われない絶対敬語を、人物を特定するための決定的な手がかりとして活用します。
- 敬語の不在が語るもの: 敬語が意図的に省略される現象を分析し、その背後にある親密さや軽蔑といった、文脈的な理由を推論します。
このモジュールを終えるとき、古文のテキストは、あなたの目の前で、単なる物語から、緻密な社会構造と人間関係の力学が織りなす、立体的な世界へとその姿を変えるはずです。
1. 尊敬語・謙譲語・丁寧語という三分類システムの論理
古文の敬語システムは、一見すると複雑な動詞や助動詞の集合体に見えますが、その根底には、極めてシンプルで強力な三分類の論理が存在します。それは、文中で行われる**「行為(動作)」と、その行為に関わる「登場人物」、そしてそのやりとりを見聞きする「聞き手(読み手)」**という三つの要素の関係性を、体系的に整理するための枠組みです。この基本論理を最初に理解することが、敬語という巨大なシステムを、暗記ではなく理屈でマスターするための、不可欠な第一歩となります。
1.1. 敬語を理解するための基本要素
あらゆる敬語表現は、以下の要素の関係性によって成り立っています。
- 動作主: その行為を行う人物(主語)。
- 動作の客体: その行為が向けられる相手や、行為の対象となる人物・事物(目的語・補語)。
- 聞き手: その会話を聞いている人物、あるいはその文章を読んでいる人物(読み手)。
- 話し手: その言葉を発している人物、あるいはその文章を書いている人物(書き手・作者)。
古文の敬語は、これらの要素のうち**「誰を高める(敬意を払う)か」**によって、三つのカテゴリーに明確に分類されます。
1.2. 三つの敬意のベクトル:尊敬・謙譲・丁寧の機能的定義
敬語の三分類は、それぞれが担当する**敬意の方向性(ベクトル)**によって、その機能が厳密に定義されています。
1.2.1. 尊敬語:動作主を高める
- 機能: 文中で行われる**動作・状態の主体(主語)**を、直接高めることで敬意を表す。
- 敬意のベクトル: 話し手 → 動作主
- 論理: 「(高貴な)〜様が、〜なさる」という構造を作る。
- コア・クエスチョン: 「誰が、その行為をしているのか?」 その答えとなる人物を高めるのが尊敬語です。
- 例:
帝、笑はせ**給ふ**
。- 分析:
- 動作: 笑ふ(笑う)
- 動作主: 帝
- 敬語:
せ給ふ
(尊敬語) - 論理: 尊敬語
せ給ふ
は、動作主である「帝」を高めている。
- 解釈: 「帝が、お笑いになる。」
- 分析:
1.2.2. 謙譲語:動作の客体(受け手)を高める
- 機能: 動作主が、自らの行為や、自分側の人物の行為をへりくだって表現することで、間接的に、その**行為が向けられる相手(動作の客体・受け手)**を高め、敬意を表す。
- 敬意のベクトル: 話し手 → 動作の客体
- 論理: 「(身分の低い)私が、(高貴な)〜様に、〜申し上げる」という構造を作る。
- コア・クエスチョン: 「その行為は、誰に向かって行われているのか?」 その答えとなる人物を高めるのが謙譲語です。
- 例:
翁、帝に竹を**奉る**
。- 分析:
- 動作: 奉る(差し上げる)
- 動作主: 翁
- 動作の客体: 帝
- 敬語:
奉る
(謙譲語) - 論理: 謙譲語
奉る
は、動作主である「翁」の行為(差し上げる)をへりくだることで、その行為の受け手である「帝」を高めている。
- 解釈: 「翁が、帝に竹を差し上げる。」
- 分析:
1.2.3. 丁寧語:聞き手(読み手)を高める
- 機能: 話し手が、**聞き手(読み手)**に対して、丁寧な言葉遣いをすることで、直接的に敬意を表す。
- 敬意のベクトル: 話し手 → 聞き手
- 論理: 「(聞き手の)あなた様に対し、〜です、〜ます」という構造を作る。
- コア・クエスチョン: 「この言葉は、誰に向かって語られているのか?」 その答えとなる人物を高めるのが丁寧語です。
- 例:
「それはまことに美しう**候ふ**」
。- 分析:
- 動作: 美し(美しい)
- 話し手: (会話中のある人物)
- 聞き手: (その会話の相手)
- 敬語:
候ふ
(丁寧語) - 論理: 丁寧語
候ふ
は、話題の内容(美しいこと)や、その主語を高めるのではなく、この言葉を聞いている相手に対して、丁寧な態度を示している。
- 解釈: 「それはまことに美しゅうございます。」
- 分析:
1.3. システムの論理的構造
この三分類システムは、行為に関わる人物相関図を描くための、極めて論理的なツールです。
- 尊敬語は、主語の身分を特定する手がかりとなる。
- 謙譲語は、目的語や補語(行為の受け手)の身分を特定する手がかりとなる。
- 丁寧語は、会話の場の人間関係や、作者と読者の関係を規定する。
一つの文に尊敬語と謙譲語が同時に使われている場合、そこには少なくとも三人の人物(動作主、動作の客体、話し手)が関わっており、かつ、動作主よりも動作の客体の方が身分が高いという序列までをも、文法的に証明することができるのです。
例: 中納言、帝に奏し**給ふ**
。
奏し
(謙譲語)→ 動作の客体である帝を高めている。給ふ
(尊敬語)→ 動作主である中納言を高めている。- 論理的結論: 話し手は、中納言と帝の両方に敬意を払っているが、謙譲語が使われていることから、帝は中納言よりも身分が高い、という人間関係の構造が、この一文から論理的に導き出されます。
1.4. まとめ
本章では、古文敬語の根幹をなす、三分類システムの基本論理を学びました。
- 敬語の機能: 敬語は、文中の行為に関わる人物のうち、誰を高めるかによって、その機能が決定される。
- 尊敬語: **動作主(主語)**を高める。「〜なさる」。
- 謙譲語: **動作の客体(受け手)**を高める。「〜申し上げる」。
- 丁寧語: **聞き手(読み手)**を高める。「〜です、〜ます」。
- 論理的システム: この三つのベクトルを分析することで、文に登場する人物間の社会的序列や力関係を、客観的な文法根拠に基づいて図式化することが可能になる。
この基本論理は、これから学ぶ個々の敬語表現を、単なる暗記事項ではなく、一つの大きなシステムの中で機能するパーツとして理解するための、揺るぎない土台となります。
2. 動作の主体を高める尊敬語(本動詞・補助動詞)
敬語システムの三つの柱のうち、最も直接的に人物の身分や権威を示すのが尊敬語です。尊敬語は、文中で行われる行為の主体(主語)にスポットライトを当て、その人物の動作や状態そのものを高めることで、話し手(書き手)からの敬意を表現します。主語が省略されがちな古文において、尊敬語の存在は、「この高貴な行為を行ったのは誰か」を特定するための、極めて強力な論理的シグナルとなります。本章では、尊敬語がどのような形で現れるのか、その用法を①特定の意味を持つ本動詞、②文法機能を添える補助動詞、そして③動詞を尊敬化する助動詞という三つのカテゴリーに体系的に分類し、その機能を解明します。
2.1. 尊敬語の形態的分類
尊敬語は、以下の三つの形態で文中に現れます。
- 尊敬の本動詞: それ自体が尊敬の意味を持つ、特定の動詞。
- 尊敬の補助動詞: 他の動詞の連用形に付いて、尊敬の意味を添える動詞。
- 尊敬の助動詞: 動詞の未然形に付いて、尊敬の意味を添える助動詞。
これらの形態を正確に識別することが、尊敬表現の精密な読解につながります。
2.2. 分類(1):尊敬の本動詞
これらは、特定の基本動詞(「行く」「言ふ」「寝る」など)の、そのまま尊敬語バージョンとして機能する、語彙レベルでの尊敬表現です。
【主要な尊敬本動詞】
基本動詞 | 尊敬本動詞 | 意味 | 例文と解説 |
行く・来(く)・あり・をり | おはす、います、いまそかり | いらっしゃる、おありになる | ・帝、内に**おはす** 。(帝が、内裏にいらっしゃる。)<br>・かぐや姫は、内にぞ**いまし**ける 。(かぐや姫は、部屋の中にいらっしゃった。) |
言ふ | のたまふ、のたまはす、おほす | おっしゃる | ・翁、かぐや姫に**のたまふ** 。(翁が、かぐや姫におっしゃる。) |
見る | 御覧ず(ごらんず) | 御覧になる | ・帝、月を**御覧じ**て、… (帝が、月を御覧になって、…) |
食ふ・飲む | 召す(めす) | 召し上がる | ・中納言、御粥(みかゆ)を**召す** 。(中納言が、お粥を召し上がる。) |
着る | 召す(めす)、おぼす | お召しになる | ・女御(にょうご)、美しき衣(きぬ)を**召し**たり 。(女御が、美しい衣をお召しになっている。) |
寝(ぬ) | 大殿籠る(おほとのごもる) | お休みになる | ・帝、夜更けて**大殿籠れ**り 。(帝が、夜更けにお休みになった。) |
知る | しろしめす | ご存知である、お治めになる | ・この国のことは、帝王**しろしめす**べきなり 。(この国のことは、帝王がお治めになるべきである。) |
与ふ | 給ふ(たまふ)、賜はす(たまはす) | お与えになる、くださる | ・帝、禄(ろく)を**給ふ** 。(帝が、褒美をくださる。) |
論理的ポイント:
これらの動詞が文中で使われていた場合、その主語は必ず敬意を払うべき高貴な人物であると、ほぼ100%断定できます。主語が省略されていても、「のたまふ」とあれば、その発言主は身分の高い人物であると、論理的に推論できるのです。
2.3. 分類(2):尊敬の補助動詞
尊敬の補助動詞は、それ自体に具体的な意味はなく、一般動詞の連用形に接続して、その動作に**「〜なさる」「お〜になる」**という尊敬の意味を付け加える、文法的なパーツとして機能します。
【主要な尊敬補助動詞】
- 給ふ(たまふ)
- 接続: 連用形
- 活用: ハ行四段活用
- 機能: 最も一般的に用いられる尊敬の補助動詞。幅広い身分の人物に使用される。
- 例文:
光源氏、和歌を詠み**給ふ**
。- 思考プロセス:
詠み
(マ行四段「詠む」の連用形)+給ふ
。給ふ
は本来の「お与えになる」という意味を失い、「詠む」という動作の主体である光源氏への尊敬を表す機能に特化している。 - 解釈: 「光源氏が、和歌をお詠みになる。」
- 思考プロセス:
- おはす
- 接続: 連用形
- 活用: サ行変格活用
- 機能: 「〜ていらっしゃる」という、尊敬と存続(〜ている)の意味を同時に表すことが多い。
- 例文:
女君、もの思ひ**おはす**
。- 思考プロセス:
思ひ
(ハ行四段「思ふ」の連用形)+おはす
。 - 解釈: 「女君が、物思いに沈んでいらっしゃる。」
- 思考プロセス:
2.4. 分類(3):尊敬の助動詞
尊敬の助動詞は、動詞の未然形に接続して、尊敬の意味を添えます。これらは、Module 4で学んだ「る・らる」「す・さす」の尊敬用法そのものです。
- る・らる
- 接続:
る
は四段・ナ変・ラ変の未然形に、らる
はそれ以外の未然形に接続。 - 機能: 受身・可能・自発との文脈判断が必要だが、主語が高貴な人物であれば尊敬の意味となる。やや敬意の度合いは低いとされることもある。
- 例文:
帝、明日のことを思は**る**
。- 思考プロセス: 主語は「帝」。「思ふ」という心情動詞なので自発の可能性もあるが、主語の身分から尊敬と判断するのが第一候補。「帝が、明日のことをお思いになる。」
- 接続:
- す・さす・しむ
- 接続:
す
は四段・ナ変・ラ変の未然形に、さす
はそれ以外の未然形に接続。しむ
は全ての未然形に接続。 - 機能: 使役との文脈判断が必要。直後に「〜を・に」という被使役者がいなければ尊敬の意味。
- 例文:
帝、皇子を御覧じ**さす**
。- 思考プロセス: 主語は「帝」。直後に被使役者がいない。
御覧ず
という尊敬語にさらにさす
が付いており、敬意を強めている可能性がある。 - 解釈: 「帝が、皇子を御覧になる。」
- 思考プロセス: 主語は「帝」。直後に被使役者がいない。
- 接続:
2.5. まとめ
動作の主体を高める尊敬語は、古文の人間関係を解読するための最も重要な鍵です。
- 機能の核心: 尊敬語は、常に**動作の主体(主語)**を高める。その存在は、主語が高貴な人物であることの客観的な証拠となる。
- 形態の多様性: 尊敬語は、①特定の意味を持つ本動詞(おはす、のたまふ等)、②汎用性の高い補助動詞(〜給ふ)、③文法的な助動詞(る・らる、す・さす)という、多様な形で現れる。
- 論理的推論への応用: 文中に尊敬語が使われていれば、たとえ主語が省略されていても、その動作主が敬意の対象となるべき人物であると、論理的に推論することができる。
- 敬意のレベル: 本動詞・補助動詞・助動詞の使い分けや、二重尊敬(例:せ給ふ)の使用によって、敬意の度合いにも差が生じる。
これらの尊敬語を正確に識別し、その機能と対象を分析する能力は、古文のテキストに描かれた、華やかで厳格な身分社会の構造を、鮮やかに浮かび上がらせてくれるでしょう。
3. 動作の客体(受け手)を高める謙譲語(本動詞・補助動詞)
尊敬語が「動作主(主語)」を高めるための直接的なスポットライトであるとすれば、謙譲語は、より間接的で洗練された方法で敬意を表現する、巧妙な照明技術です。謙譲語は、動作主(多くの場合、話し手自身か、その身内)の行為を、意図的に低め、へりくだって表現します。しかし、その真の目的は、自分を低めることにあるのではありません。自分を低めることによって、相対的に、その**行為が向けられる相手(動作の客体・受け手)**の位置を高くし、その人物への敬意を表現することにあるのです。この間接的なメカニズムを理解することが、謙譲語の本質を捉える鍵であり、文中の人物の上下関係を正確に読み解くための、不可欠な論理的思考です。
3.1. 謙譲語の論理メカニズム:「自分を下げて、相手を上げる」
謙譲語が機能する論理は、シーソーの原理に似ています。
[動作主(自分側)] ↓ へりくだる ⇔ [動作の客体(相手側)] ↑ 高まる
話し手は、自分側の人物(動作主)の行為を表す動詞を、通常の動詞から謙譲語に置き換えます。この操作によって、動作主の立場は低められます。その結果、その行為の受け手である相手の立場が、相対的に高められるのです。
- 例:
私が、帝に、物を**あげる**。
→私が、帝に、物を**たてまつる**。
- 分析:
あげる
という中立的な動詞を、謙譲語たてまつる(差し上げる)
に替えることで、動作主「私」の行為はへりくだったものになる。その結果、行為の受け手である「帝」への敬意が表現される。
- 分析:
重要: 謙譲語が使われている文では、**敬意の対象は、動作主(主語)ではなく、必ず動作の客体(目的語や補語など)**となります。このベクトルを絶対に見誤ってはなりません。
3.2. 謙譲語の形態的分類
尊敬語と同様に、謙譲語も、①特定の意味を持つ本動詞と、②文法機能を添える補助動詞の二つのカテゴリーに大別されます。
3.3. 分類(1):謙譲の本動詞
これらは、特定の基本動詞(「行く」「言ふ」「聞く」など)の、謙譲語バージョンとして機能する、語彙レベルでの謙譲表現です。
【主要な謙譲本動詞】
基本動詞 | 謙譲本動詞 | 意味 | 例文と解説 |
行く・来(く) | 参る(まゐる)、詣づ(まうづ) | 参上する、参詣する | ・翁、竹の中よりかぐや姫を見つけ**て**、家に帰り**参り**ぬ 。(翁が…家に帰り申した。)<br>→ 話し手(作者)が、物語の登場人物である翁の行為をへりくだることで、物語世界全体への敬意や、読み手への丁寧さを示している可能性がある。より明確なのは…<br>・中納言、帝の御もとへ**参る** 。(中納言が、帝のお側へ参上する。)<br>→ 参る という行為の行き先である「帝」が高められている。 |
あり・をり | 侍り(はべり)、候ふ(さぶらふ) | お仕えする、ございます | ・帝に**はべる**女房 。(帝にお仕えしている女房。)<br>→ はべる という行為の対象である「帝」が高められている。 |
言ふ | 申す(まうす)、聞こゆ、聞こえさす、啓す(けいす)、奏す(そうす) | 申し上げる | ・翁、帝に事の次第を**申す** 。(翁が、帝に事の次第を申し上げる。)<br>→ 申す という行為の聞き手である「帝」が高められている。<br>・中宮に**啓す** (中宮に申し上げる)<br>・帝に**奏す** (帝に申し上げる)※啓す 奏す は相手が限定される絶対敬語。 |
聞く | 承る(うけたまはる) | お聞きする、お受けする | ・帝の仰せ言を**承る** 。(帝のお言葉をお聞きする。)<br>→ 聞く対象である「帝の仰せ言」の主、すなわち「帝」が高められている。 |
与ふ | 奉る(たてまつる)、参らす(まゐらす) | 差し上げる | ・臣下、帝に貢ぎ物を**奉る** 。(臣下が、帝に貢物を差し上げる。)<br>→ 受け手である「帝」が高められている。 |
見る | 拝見す | 拝見する | ・帝の御顔を**拝見し**奉る 。(帝のお顔を拝見し申し上げる。) |
知る | 存ず(ぞんず) | 存じ上げる | ・お名前はかねてより**存じ**て**候ふ** 。(お名前は以前から存じ上げております。) |
3.4. 分類(2):謙譲の補助動詞
謙譲の補助動詞は、一般動詞の連用形に接続して、その動作に**「お〜申し上げる」**という謙譲の意味を付け加えます。
【主要な謙譲補助動詞】
- 奉る(たてまつる)
- 接続: 連用形
- 機能: 幅広い動詞に付き、「お〜申し上げる」という意味を添える。
- 例文:
帝の御ために、仏を念じ**奉る**
。- 思考プロセス:
念じ
(サ変「念ず」の連用形)+奉る
。奉る
は本来の「差し上げる」という意味を失い、「念じる」という行為の恩恵を受ける相手、すなわち「帝」を高める機能に特化している。 - 解釈: 「帝のために、仏をお念じ申し上げる。」
- 思考プロセス:
- 申す(まうす)
- 接続: 連用形
- 機能:
奉る
と同様に、「お〜申し上げる」という意味を添える。 - 例文:
この度の次第、詳しく語り**申さ**む
。- 思考プロセス:
語り
(ラ行四段「語る」の連用形)+申す
。語る相手(聞き手)を高めている。 - 解釈: 「この度の次第を、詳しくお語り申し上げよう。」
- 思考プロセス:
3.5. 尊敬語との識別:敬意のベクトルの違い
謙譲語と尊敬語の識別は、敬語をマスターする上での最大の関門です。常に**「この敬語は、誰を高めているのか?」**という問いに立ち返り、敬意のベクトルを分析する習慣が不可欠です。
ミニケーススタディ
中将、姫君に歌を詠み**給ふ**。
- 敬語:
給ふ
(尊敬の補助動詞) - ベクトル分析:
給ふ
は動作主を高める。この文の動作主は「中将」。 - 結論: 話し手は、中将に敬意を払っている。
中将、姫君に歌を詠み**奉る**
。
- 敬語:
奉る
(謙譲の補助動詞) - ベクトル分析:
奉る
は**動作の客体(受け手)**を高める。この文で歌を詠みかけられているのは「姫君」。 - 結論: 話し手は、中将の行為をへりくだることで、間接的に姫君に敬意を払っている。
このように、補助動詞が一つ違うだけで、敬意の対象が全く異なることが、論理的に明らかになります。
3.6. まとめ
動作の客体(受け手)を高める謙譲語は、古文の人間関係を読み解くための、洗練された分析ツールです。
- 論理メカニズム: 謙譲語は、動作主の行為をへりくだることによって、間接的に動作の客体(受け手)を高めるという、シーソーのような論理で機能する。
- 敬意の対象: 敬意のベクトルは、常に動作の客体に向かう。
- 形態の多様性: 尊敬語と同様に、①特定の意味を持つ本動詞と、②汎用性の高い補助動詞の二つの形で現れる。
- 識別能力の重要性: 尊敬語と謙譲語を、敬意のベクトルの違いから正確に識別する能力は、文中の人物の上下関係を客観的に確定させるための、決定的なスキルである。
謙譲語のシステムを理解することで、あなたは言葉の表面的な意味だけでなく、その背後にある、相手への深い配慮や、厳格な身分社会の力学といった、古人たちのコミュニケーションの機微を、鮮やかに感じ取ることができるようになるでしょう。
4. 聞き手に対する敬意を示す丁寧語とその機能
尊敬語が「動作主」を、謙譲語が「動作の客体」を高めるという、文の内容に関わる敬語であったのに対し、丁寧語は、それらとは全く異なる次元で機能します。丁寧語は、文の内容とは直接関係なく、話し手(書き手)が、その言葉の受け手である聞き手(読み手)に対して、直接的に敬意や丁寧な態度を示すための言語ツールです。現代語の「です」「ます」に相当し、その場の雰囲気(フォーマルか、インフォーマルか)を規定し、話し手と聞き手の間の社会的な距離感を調整する、重要な役割を担っています。本章では、丁寧語の代表である「侍り」「候ふ」の機能と用法を分析し、それらが会話や文章全体のトーンをいかに制御しているかを解明します。
4.1. 丁寧語の機能的定義と敬意のベクトル
- 機能: 話の内容に関わらず、**聞き手(読み手)**への敬意を表すために、言葉遣いを丁寧にする。
- 敬意のベクトル: 話し手 → 聞き手
- 論理: 尊敬語や謙譲語が、文中の登場人物(三人称)の上下関係を示すのに対し、丁寧語は、コミュニケーションが行われている**「今、ここ」**での、話し手(一人称)と聞き手(二人称)の関係性を示す。
4.2. 丁寧語の代表格:「侍り」と「候ふ」
古文の丁寧語は、主に**「侍り(はべり)」と「候ふ(さぶらふ/そうろう)」**の二語によって担われます。これらは、元々「お仕えする」という意味の謙譲語でしたが、その意味が変化し、聞き手への丁寧さを表す機能へと特化していきました。
4.2.1. 丁寧語「侍り(はべり)」
- 出自: 元は「(貴人の側に)お仕えする、控える」という意味のラ行変格活用の謙譲語。
- 丁寧語としての用法:
- 活用: ラ行変格活用(はべら・はべり・はべり・はべる・はべれ・はべれ)
- 接続: 連用形(補助動詞として)、または文末で述語として使われる。
- 意味: 〜です、〜ます、〜ございます
- 文体的特徴: 主に平安時代の物語や日記などで、女性や、上品な男性が用いる、柔らかで優雅な響きを持つ丁寧語。
- 例文(会話文):
「それは、まことに美しき花にこそ**はべれ**」
- 思考プロセス: 会話文の中で、文末に「はべり」の已然形「はべれ」が使われている(係り結び)。これは、話題の花や、その持ち主を高めているのではなく、この言葉を聞いている会話の相手に対して、丁寧な態度で話していることを示している。
- 解釈: 「それは、まことに美しい花でございますね。」
- 例文(地の文):
かかることこそ、世の中には**はべる**めれ
。(『徒然草』など、随筆の地の文)- 思考プロセス: 作者が、文章の読み手に対して、「〜でございますよ」と、丁寧な態度で語りかけている。これにより、作者と読者の間に、一定の礼儀と親密さが生まれる。
- 解釈: 「このようなことが、世の中にはあるようですよ。」
4.2.2. 丁寧語「候ふ(さぶらふ/そうろう)」
- 出自: 元は「(貴人の側に)お仕えする、様子をうかがう」という意味のハ行四段活用の謙譲語。
- 丁寧語としての用法:
- 活用: ハ行四段活用(は・ひ・ふ・ふ・へ・へ)
- 接続: 連用形(補助動詞として)、または文末で述語として使われる。
- 意味: 〜です、〜ます、〜ございます
- 文体的特徴: 「侍り」よりもやや硬く、改まった響きを持つ。鎌倉時代以降、武士階級や男性を中心に広く使われるようになった。手紙文(候文 そうろうぶん)では、文末に多用される。
- 例文(会話文):
「御用件は、何にて**候ふ**か」
- 思考プロセス: 武士や男性の会話で、聞き手に対して改まった、丁寧な態度を示している。
- 解釈: 「ご用件は、何でございましょうか。」
- 例文(地の文・手紙文):
これにて、御免**候へ**
。(これで、失礼いたします。)- 思考プロセス: 手紙の結びの言葉。書き手が、読み手に対して丁寧な態度を示している。
- 解釈: 「これで、失礼いたします。」
4.3. 謙譲語としての用法との識別
「侍り」「候ふ」は、丁寧語だけでなく、本来の**謙譲語(お仕えする)**の意味で使われることもあります。この二つを識別することは、文意を正確に捉える上で重要です。
【識別アルゴリズム】
問い:文中に、お仕えする相手(高貴な人物)が示されているか?
- YES(「帝に侍り」「君に候ふ」のように、仕える相手が明示されている) → 謙譲語(お仕えする)
- 例:
帝の御前に**候ふ**人々
- 解釈: 「帝のお側にお仕えしている人々」
- 敬意の対象: 帝
- 例:
- NO(仕える相手がおらず、単に文末で丁寧さを加えているだけ) → 丁寧語(〜です、〜ます)
- 例:
花、美しく**候ふ**
- 解釈: 「花が、美しゅうございます」
- 敬意の対象: 聞き手
- 例:
4.4. 丁寧語の機能がもたらす効果
丁寧語の使用は、文章に以下のような効果をもたらします。
- フォーマリティの表示: 丁寧語が使われている会話は、公式な場や、登場人物たちが互いに礼儀を保っている状況であることを示す。
- 人物設定: どのような丁寧語を使うか(あるいは使わないか)が、その人物の性別、身分、性格などを暗示する。
- 語り手と読者の関係構築: 地の文で丁寧語が使われる場合、作者は読者を敬意を払うべき存在として設定し、丁寧な語りかけのスタイルを構築している。
4.5. まとめ
聞き手に対する敬意を示す丁寧語は、古文のコミュニケーションにおける潤滑油であり、場の空気を決定づける重要な要素です。
- 機能とベクトル: 丁寧語は、文の内容に関わらず、常に**聞き手(読み手)**を高める。敬意のベクトルは「話し手→聞き手」。
- 代表的な語: 主に**「侍り」(柔らかい、和文調)と「候ふ」**(硬い、漢文訓読調・武家風)の二語が用いられる。
- 謙譲語との識別: 文中にお仕えする相手が明示されているかどうかによって、謙譲語(お仕えする)か丁寧語(です・ます)かを論理的に識別する。
- 文体的機能: 丁寧語は、会話のフォーマリティを示し、登場人物のキャラクターを演出し、作者と読者の間の関係性を設定するという、高度な文体的機能を担っている。
丁寧語に注目することで、私たちは単に文の意味を追うだけでなく、その言葉が交わされている「場」そのものの雰囲気や、そこに流れる人間関係のダイナミズムまでをも、深く感じ取ることができるようになるのです。
5. 敬意の方向性(誰から誰へ)の図式化による人間関係の可視化
これまでに学んだ尊敬語・謙譲語・丁寧語の三分類システムの知識は、個々の敬語表現を識別するための基礎です。しかし、その知識の真価は、一つの文、あるいは一つの段落に散りばめられた複数の敬語表現を統合し、そこから**「誰が、誰に、どのような敬意を払っているのか」という、目に見えない敬意のネットワークを図式化**することによって、初めて最大限に発揮されます。この「敬意の方向性(ベクトル)」を可視化する作業は、主語が省略された文の構造を解明し、登場人物間の複雑な社会的序列を、客観的な論理に基づいて再構築するための、最も強力な分析手法です。本章では、この図式化の技術を具体的なプロセスとして確立し、古文の人間関係を明確に可視化する能力を習得します。
5.1. なぜ図式化が必要なのか?
古文、特に『源氏物語』のような宮廷文学では、一つの文に複数の敬語が組み込まれ、複数の登場人物が絡み合うことが日常茶飯事です。
- 例:
中納言、女御の御文を帝に奏し給ふ。
- この文には、「中納言」「女御」「帝」という三人の高貴な人物が登場し、「奏し」(謙譲語)と「給ふ」(尊敬語)という二つの敬語が使われています。これを頭の中だけで処理しようとすると、敬意の方向が混乱し、誰が一番偉いのか、誰が誰に仕えているのか、その力関係が曖昧になりがちです。
図式化は、この複雑な情報を、シンプルで分かりやすい図(ベクトル図)に変換することで、私たちの思考を整理し、客観的な分析を可能にするための、いわば思考の補助線なのです。
5.2. 図式化のアルゴリズム:三つのステップ
敬意の方向性を図式化するには、以下の三つの論理的ステップを順に実行します。
Step 1: 登場人物と行為者をリストアップする
- まず、文中に登場する全ての人物(主語、目的語、補語など)をリストアップします。
- 次に、その文の**話し手(書き手・作者)**を、常に意識の片隅に置きます。敬意の起点は、常にこの話し手です。
- 例題:
「中納言殿、帝に、かぐや姫のこと啓し給へ」と、翁申す。
- 登場人物: 中納言殿、帝、かぐや姫、翁
- 話し手: 翁(会話文の発話者)
Step 2: 敬語を全て特定し、その種類と敬意の対象を分析する
- 文中の敬語(尊敬語、謙譲語、丁寧語)を一つ残らず見つけ出します。
- それぞれの敬語について、三分類システムの論理に基づき、**「誰を高めるためのものか」**を特定します。
- 尊敬語 → 動作主を高める
- 謙譲語 → **動作の客体(受け手)**を高める
- 丁寧語 → 聞き手を高める
- 例題の分析:
啓し
(けいし): 「言ふ」の謙譲語「啓す」の連用形。- 種類: 謙譲語
- 対象: 言う相手、すなわち帝を高める。
給へ
(たまへ): 「与ふ」の尊敬語「給ふ」の命令形。- 種類: 尊敬語
- 対象: 動作主、すなわち「啓す」という行為を行う中納言殿を高める。
申す
(もうす): 「言ふ」の謙譲語「申す」の終止形。- 種類: 謙譲語
- 対象: この発言(「〜と」)を聞いている相手を高める。文脈から、翁が中納言殿に話しているので、聞き手は中納言殿。
Step 3: 敬意のベクトルを矢印で可視化し、人間関係を推論する
- Step 1でリストアップした人物を配置し、Step 2で分析した敬意のベクトルを、矢印で結びつけます。矢印の根元が敬意を払う側(話し手)、矢印の先が敬意を払われる側です。
- 完成した図から、登場人物間の社会的序列を論理的に推論します。
- 例題の図式化:
話し手:翁 ↓ ↓ 謙譲語「申す」(聞き手) ↓ [中納言殿] ----尊敬語「給へ」----> (動作主として高める) ↓ ↓ 謙譲語「啓し」(受け手) ↓ [ 帝 ]
- 図の解説:
- 翁は、聞き手である中納言殿に、謙譲語「申す」を使って敬意を払っています。
- その翁が、中納言殿に「帝に申し上げてください」と頼んでいます。
- その際、「申し上げる(啓し)」という行為の受け手である帝を、謙譲語
啓す
で高めています。 - 同時に、その行為の主体である中納言殿を、尊敬語
給ふ
で高めています。
- 図の解説:
- 論理的推論:
- 翁は、中納言殿と帝の両方を敬うべき相手だと認識している。
- 中納言殿の行為が、帝に向けられている。そして、その行為の受け手である帝に対して謙譲語が使われている。
- このことから、帝 > 中納言殿 > 翁 という、明確な社会的序列(身分の高さ)が、この一文から客観的に導き出されます。
5.3. 複雑な文への応用
この図式化の技術は、主語や目的語が省略された、より複雑な文でこそ真価を発揮します。敬語のベクトルを分析することで、空欄になっている登場人物を、論理的に補完することが可能になるのです。
5.4. まとめ
敬意の方向性を図式化する技術は、古文の人間関係を論理的に解明するための、再現可能で強力な分析手法です。
- 目的: 複雑な敬語の使われ方を、シンプルで客観的な「敬意のベクトル図」に変換し、人間関係を可視化する。
- アルゴリズム: ①登場人物のリストアップ → ②敬語の特定と対象分析 → ③ベクトルの図式化と序列の推論 という、三つの論理的ステップに従う。
- 分析の核心: 尊敬語は動作主を、謙譲語は動作の客体を、丁寧語は聞き手を高めるという、三分類システムの基本論理を、図式化のプロセスに正確に適用すること。
- 効果: この技術により、登場人物間の社会的序列を客観的に確定させ、主語が省略された文の構造を論理的に復元することが可能になる。
敬語は、もはやあなたを混乱させるものではありません。それは、あなたが古文の世界の人間関係を探るための、信頼できる羅針盤なのです。
6. 会話文における敬語使用からの発話者・聞き手の特定
古文、特に物語文学の読解において、頻繁に現れるのが「Aが言った」「Bが答えた」といった発話者(話し手)を示す記述(発話者表示)が一切ない、会話文の連続です。現代の小説であれば、鉤括弧の前に誰のセリフかが明記されているのが普通ですが、古文では、読者が文脈や言葉遣いから、誰が誰に話しているのかを自ら推論することが求められます。この「発話者特定」という、読解の根幹をなす知的作業において、敬語の使用は、他のいかなる手がかりよりも客観的で、信頼性の高い論理的根拠となります。本章では、会話文に埋め込まれた敬語という名の暗号を解読し、発話者と聞き手を特定するための、体系的な思考プロセスを確立します。
6.1. 会話文分析の基本原則:敬語は人間関係を映す鏡
会話文における敬語の使われ方は、その会話が行われている**「場」の人間関係**を、極めて忠実に反映しています。
- 原則1: 人は、自分よりも身分の高い相手に対して、敬語(特に謙譲語・丁寧語)を用いる。
- 原則2: 人は、自分や、自分側の人物の動作について語る際に、尊敬語は用いない。(身内敬語の回避)
- 原則3: 人は、身分の高い第三者について語る際に、尊敬語を用いる。
これらの基本原則を、パズルのピースを組み合わせるように適用することで、発話者表示のない会話の謎を解き明かすことができます。
6.2. 特定のアルゴリズム:三つの敬語からの推論
会話文に遭遇したら、以下の三つの敬語の種類に注目し、それぞれから得られる情報を統合して、発話者と聞き手を特定します。
6.2.1. Step 1: 丁寧語(侍り・候ふ)の有無を確認する
- 論理: 丁寧語は、話し手が聞き手に対して敬意を払うものです。
- 推論:
- 会話文に丁寧語が使われていれば、その発話者は、聞き手に対して丁寧な態度を取るべき立場にある(同等か、それ以下の身分である)ことがわかります。
- 最も身分の高い人物(帝など)は、臣下に対して丁寧語を使うことは、まずありません。
- ケーススタディ:
A「昨日の御遊は、いみじうこそ**はべり**しか」
B「さなり。月の光もことにめでたかりき」
- 分析: セリフAには丁寧語「はべり」が使われているが、セリフBには使われていない。
- 推論: Aの発話者は、聞き手であるBに対して、丁寧な言葉遣いをすべき立場にある。したがって、身分は B > A である可能性が極めて高い。
6.2.2. Step 2: 謙譲語の有無と、その対象を確認する
- 論理: 謙譲語は、話し手が自らの行為をへりくだることで、その行為の受け手を高めるものです。
- 推論:
- 会話文に謙譲語が使われていれば、その発話者は、話題にされている行為の受け手よりも身分が低い。
- 特に、「〜と申す」「〜と聞こゆ」のように、発言そのものを謙譲語で表現している場合、その発話者は、聞き手を高めていることになります。
- ケーススタディ:
- 登場人物:光源氏、従者の惟光(これみつ)
「かの人のもとへ、文を**奉ら**む」
- 分析: 謙譲語「奉る(差し上げる)」が使われている。この行為の受け手は「かの人」。
- 推論: 発話者は、「かの人」に敬意を払うべき立場にある。もし発話者が光源氏なら、「かの人」は光源氏よりも身分の高い人物となる。もし発話者が惟光なら、「かの人」は惟光にとって敬うべき相手(例えば光源氏の恋人など)となる。
「かしこまりて**候ふ**。ただいま**参り**て、この御文を**奉ら**む」
- 分析: 丁寧語「候ふ」、謙譲語「参る」、謙譲語「奉る」が使われている。
- 推論: 聞き手に対して丁寧語を使い、自らの行動(参上する、差し上げる)に謙譲語を使っている。これは明らかに、身分の低い者が、身分の高い主君に対して話している言葉遣いです。したがって、この発話者は惟光であり、聞き手は光源氏であると特定できます。
6.2.3. Step 3: 尊敬語の有無と、その対象を確認する
- 論理: 尊敬語は、動作主を高めるものです。
- 推論:
- 会話文の中で、聞き手の行為について尊敬語が使われていれば、発話者は聞き手を敬っています。
- 会話文の中で、第三者の行為について尊敬語が使われていれば、発話者はその第三者を敬っています。
- 発話者自身の行為に尊敬語が使われることは、原則としてありません。もし使われていれば、それは極めて傲慢な態度か、あるいは特殊な文脈(自敬表現)です。
- ケーススタディ:
「昨夜は、いづくまで**おはし**ましゝか」
- 分析: 尊敬語「おはす(いらっしゃる)」が使われている。
- 推論: 発話者は、「昨夜、どこにいらっしゃったのですか?」と、聞き手の昨夜の行動について尋ねている。聞き手の行動に尊敬語を使っているので、発話者は聞き手よりも身分が低いか、同等でも敬意を払うべき相手だと認識している。
「中納言殿も、さ**のたまひ**き」
- 分析: 尊敬語「のたまふ(おっしゃる)」が使われている。
- 推論: 発話者は、この会話の場にいない**第三者「中納言殿」**の行為(言ったこと)について語っている。発話者も聞き手も、中納言殿を敬うべき人物だと認識していることがわかる。
6.3. 総合的判断:情報の統合と仮説検証
実際には、これらの手がかりをパズルのように組み合わせて、総合的に判断します。
【総合的思考プロセス】
- 敬語を全てリストアップする: 会話文中の尊敬語、謙譲語、丁寧語を洗い出す。
- 各敬語から仮説を立てる:
- 丁寧語がある → 発話者 ≤ 聞き手
- 謙譲語がある → 発話者 < 行為の受け手
- 尊敬語がある → 発話者自身の行為ではない。聞き手 or 第三者の行為。
- 登場人物を当てはめて検証する: 会話の前後関係から、登場している可能性のある人物を、それぞれの仮説に当てはめ、矛盾が生じないかを確認する。
- 最も論理的な組み合わせを結論とする: 全ての敬語の使用法を最も矛盾なく説明できる「発話者と聞き手の組み合わせ」を、結論として特定する。
この論理的なプロセスを経ることで、発話者表示のない会話文は、もはや曖昧な推測の対象ではなく、客観的な証拠に基づいて解読できる、明晰な論理パズルへと変わるのです。
6.4. まとめ
会話文における敬語は、登場人物の人間関係を暴き出す、最も雄弁な証言者です。
- 敬語は人間関係の反映: 会話で使われる敬語は、発話者、聞き手、話題の人物の間の社会的序列を正確に映し出す。
- 三つの手がかり: ①丁寧語は話し手と聞き手の関係を、②謙譲語は話し手と行為の受け手の関係を、③尊敬語は話題の人物の身分を、それぞれ明らかにする。
- 論理的推論: これらの手がかりを組み合わせ、登場人物を当てはめて矛盾がないかを検証することで、発話者と聞き手を高い確度で特定することができる。
- 客観的根拠: この方法は、単なる文脈からの推測ではなく、敬語という文法的な証拠に基づいた、客観的で論理的な読解技術である。
この技術を習得すれば、あなたは、まるでその会話の場に居合わせているかのように、登場人物たちの声色や、彼らの間に流れる緊張感や敬意までをも、生き生きと感じ取ることができるようになるでしょう。
7. 地の文における敬語使用からの視点人物の特定
物語文学(地の文)における敬語の使われ方は、会話文とはまた異なる、高度で戦略的な機能を担っています。会話文の敬語が、登場人物同士の直接的な関係性を映し出すのに対し、地の文の敬語は、物語の語り手(作者)が、どの登場人物に寄り添い、誰の視点から世界を眺めているのかという、物語の**「視点(ナラティブ・パースペクティブ)」を明らかにする、重要な手がかりとなります。作者は、常に全知全能の神の視点から物語を語るわけではありません。時には、特定の登場人物の心の中に入り込み、その人物が感じるであろう敬意を、地の文の叙述に反映させることがあります。この、敬語の使用によって示される「視点人物(フォーカライザー)」**を特定する能力は、物語の多層的な構造を理解し、作者の巧みな語りの技術を分析するための、極めて高度な読解スキルです。
7.1. 地の文における敬語の基本原則
- 原則1(作者から登場人物へ): 地の文における敬語は、原則として、作者が、敬意を払うべき登場人物に対して用いる。
- 例:
光源氏、参内し**給ふ**
。(光源氏が、参内なさる。)- 分析: 作者が、主人公である光源氏の行為に尊敬語
給ふ
を用いることで、光源氏への敬意を示している。これは、物語全体を通じて一貫した、基本的な敬意の表明です。
- 分析: 作者が、主人公である光源氏の行為に尊敬語
- 例:
- 原則2(作者の視点の移動): 作者は、時として、特定の登場人物(A)に感情移入し、その人物Aの視点から、別の登場人物(B)を描写することがある。このとき、地の文の敬語は、人物Aが人物Bに対して感じるであろう敬意を反映する。
- この場合、敬意のベクトルは「作者→B」ではなく、**「(作者が一体化した)A→B」**となる。
- このときの人物Aを**「視点人物」**と呼ぶ。
7.2. 視点人物を特定する論理
地の文の敬語が、通常の「作者→登場人物」という原則から逸脱しているように見える場合、そこに作者の視点移動、すなわち視点人物の存在を疑うことができます。
【視点人物特定の思考アルゴリズム】
- 敬語の特定と基本分析: 地の文中の敬語(特に尊敬語・謙譲語)を特定し、その敬語が誰の、どの行為に対して使われているかを分析する。
- 基本原則との照合: その敬語の使用が、「作者から登場人物へ」という基本原則で説明できるかを確認する。
- 矛盾・不自然さの発見: もし、基本原則では説明が難しい、不自然な敬語の使われ方(例えば、それほど身分が高くないはずの人物に、異様に高い敬意が払われているなど)を発見した場合、視点移動の可能性を検討する。
- 視点人物の仮説設定: 「もし、この場面が、登場人物Aの視点から語られているとしたら、この敬語の使われ方は自然か?」という仮説を立てる。
- 仮説の検証: 仮説(視点人物=A)を立てた場合、文中の全ての敬語の使用法が、Aの人間関係や心理状態と矛盾なく、論理的に説明できるかを検証する。
7.3. ケーススタディ:『源氏物語』における視点
『源氏物語』は、この視点人物のテクニックが極めて巧みに使われていることで知られています。
課題文(状況設定):
光源氏が、ある女性(仮に夕顔とする)の家を訪れている。その家の侍女たちが、光源氏の来訪に気づき、騒いでいる場面。
人々、立ち騒ぎて、「この御前こそ、いと忍びて**おはし**ますなるを、いかで知り**奉り**て、かくは**参り**たるらむ」など言ふ。
地の文の叙述:
(光源氏は)かかるありさまを、いとをかしと**御覧ず**。
【思考プロセス】
- 敬語の特定:
- 会話文:
おはします
(尊敬語)、知り奉り
(謙譲の補助動詞)、参り
(謙譲語) - 地の文:
御覧ず
(尊敬語)
- 会話文:
- 基本分析:
- 会話文の分析: 侍女たちが、自分たちの主人である夕顔のところに「いらっしゃる(おはします)」光源氏を尊敬し、その来訪を「存じ上げ(知り奉り)」、自分たちのところに「参上し(参り)」たことを謙譲語で表現している。これは侍女たちの視点からの発言として、論理的に矛盾がない。
- 地の文の分析:
御覧ず
(御覧になる)は尊敬語。その動作主は、文脈から明らかに光源氏。
- 基本原則との照合:
- 作者が、主人公である光源氏に対して尊敬語
御覧ず
を使うのは、全く自然であり、基本原則通りです。この文だけでは、特に視点移動は見られません。
- 作者が、主人公である光源氏に対して尊敬語
課題文2(状況設定の変更):
上記の場面で、もし地の文の叙述が以下のようであったと仮定する。
(侍女たちは)かかる御ありさまを、夢の心地して、見たてまつる。
ではなく、
(光源氏は)侍女たちの騒ぐを、いとをかしと思ひて、**侍り**。
【思考プロセス】
- 敬語の特定:
- 地の文:
侍り
(丁寧語、または謙譲語)
- 地の文:
- 基本原則との照合と矛盾の発見:
- 地の文の主語は光源氏。作者が地の文で、光源氏の行為に対して丁寧語
侍り
を使うだろうか? - 矛盾: 通常、作者(語り手)は、読者に対して丁寧語を使うことはあっても、地の文で特定の登場人物の行為を描写する際に、いきなり丁寧語を挿入するのは極めて不自然です。また、
侍り
を謙譲語(お仕えする)と解釈するのも、文脈に合いません。
- 地の文の主語は光源氏。作者が地の文で、光源氏の行為に対して丁寧語
- 視点人物の仮説設定と検証:
- 仮説: もしかしたら、この地の文は、作者の視点ではなく、この場にいる別の誰かの視点から語られているのではないか?
- 検証:
- この場にいる他の人物は、侍女たちです。
- もし、この地の文が侍女の視点から語られていると仮定してみましょう。
- 侍女が、光源氏の様子を(心の中で)描写するとしたら、「光源氏様が、私どもの騒ぐ様子を、たいそう面白くお思いになって、いらっしゃいます」となります。
- この「いらっしゃいます」という、**聞き手(この場合は心の中の自分自身、あるいは同僚の侍女)**への丁寧な気持ちを表すのが、丁寧語
侍り
の機能です。
- 論理的結論: この
侍り
は、作者が侍女の一人に視点を移し、その侍女の心内語として、光源氏の様子を描写していると解釈するのが、最も論理的に自然です。したがって、この文の視点人物は侍女であると特定できます。
7.4. まとめ
地の文における敬語は、単なる登場人物への敬意表明に留まらず、物語の語りの構造そのものを制御する、高度な文学的装置です。
- 二つのレベル: 地の文の敬語には、①作者から登場人物へという基本的なレベルと、②作者が特定の登場人物(視点人物)に憑依し、その人物から別の人物へという、応用的なレベルが存在する。
- 視点人物の発見法: 地の文の敬語が、基本的な「作者→登場人物」という原則では説明しきれない、不自然な使われ方をしている箇所が、視点移動の起こっているサインである。
- 論理的検証: 「この敬語は、もし登場人物Aの視点から語られているとしたら、自然に成立するか?」という仮説検証のプロセスを通じて、視点人物を論理的に特定する。
- 読解の深化: 視点人物を特定する能力は、物語を誰の目を通して体験しているのかを意識することであり、登場人物の心理や、作者の巧みなナラティブ戦略を深く理解するための、不可欠なスキルである。
地の文の敬語に敏感になることで、あなたは、物語の表面をなぞるだけの受動的な読者から、語り手の戦略を見抜き、多層的な物語世界を能動的に再構築する、批評的な読解者へと進化することができるのです。
8. 最高敬語(二重尊敬など)の使用対象と場面の限定
敬語システムは、単に敬意の有無を示すだけでなく、その敬意の「度合い」をも精緻に表現することができます。その頂点に立つのが、最高敬語と呼ばれる表現形式です。最高敬語とは、文字通り、この上なく高い敬意を表すための、特別な言葉遣いです。これは、日常的に誰もが使えるものではなく、その使用対象(誰に対して使えるか)と使用場面(どのような状況で使うか)が、社会的身分によって極めて厳格に限定されていました。最高敬語の代表である二重尊敬の構造と、その用法を理解することは、登場人物の序列の頂点に立つ人物、すなわち帝(天皇)や中宮(皇后)、そしてそれに準ずる最高位の皇族や摂政・関白を、文法的な証拠から特定するための、決定的な手がかりとなります。
8.1. 敬意の階層性:なぜ最高敬語が必要か
平安時代の宮廷社会は、極めて厳格な階層社会でした。大臣や納言も十分に高貴な人物ですが、その上に立つ帝や中宮は、まさに別格の、神に近い存在と見なされていました。
通常の尊敬語(例:「給ふ」)だけでは、この大臣クラスの貴族と、帝クラスの最高権力者との間の、圧倒的な身分の差を表現しきれません。
そこで、帝や中宮といった、序列の頂点に立つ人物の行為を描写する場合にのみ、複数の尊敬語を重ねて用いる最高敬語が、その「別格」さを示すために必要とされたのです。
8.2. 最高敬語の代表格:二重尊敬
最高敬語の最も一般的な形式が、二重尊敬です。これは、一つの動詞に対して、二種類の尊敬語を重ねて用いることで、敬意を最大化する表現技法です。
8.2.1. 二重尊敬の構造
二重尊敬の最も典型的な構造は、**尊敬の助動詞「す・さす」**と、**尊敬の補助動詞「給ふ」**を組み合わせた形です。
動詞の未然形 + 尊敬の助動詞「す・さす」の連用形 + 尊敬の補助動詞「給ふ」
- 例:
言ふ
→言は
(未然形) +**せ**
(「す」の連用形) +**給ふ**
→言は**せ給ふ**
- 例:
見る
→見
(未然形) +**させ**
(「さす」の連用形) +**給ふ**
→見**させ給ふ**
論理的分析:
す・さす
は、単独でも尊敬の意味を表すことができます。給ふ
も、単独で尊敬の意味を表すことができます。- この二つの尊敬語を、接続のルールに従って(「す・さす」は未然形に、「給ふ」は連用形に付く)、一つの動詞に重ねがけすることで、敬意の度合いを二倍に増幅させているのです。
8.2.2. 二重尊敬の使用対象と場面
- 使用対象: 原則として、帝、太上天皇(上皇)、女院、中宮、皇后、皇太子といった、皇族の中でも最高位の人物に限定されます。摂政・関白クラスの大臣に対して使われることも稀にありますが、基本的には皇族専用と考えてよいでしょう。
- 機能:
- 最高の敬意の表明: 対象となる人物への、この上ない敬意を示します。
- 主語の特定: 文中で二重尊敬が使われていれば、たとえ主語が省略されていても、その動作主は帝や中宮など、最高位の人物であると、極めて高い確度で断定できます。これは、敬語を用いた主語特定の中でも、最も強力な手がかりの一つです。
ケーススタディ:
( )、夜に入りて、雪のいみじう降りたるを御覧じ**させ給ひ**て、…
- 思考プロセス:
- 敬語の特定:
御覧じさせ給ひて
という表現に着目する。 - 構造分析:
御覧ず
(「見る」の尊敬語)に、さらに尊敬の助動詞さす
と尊敬の補助動詞給ふ
が接続している。これは、御覧ず
という尊敬語を核とした、極めて丁寧な**二重尊敬(あるいは三重尊敬)**の形である。 - 使用対象の限定: 二重尊敬が使われるのは、原則として帝や中宮などの最高位の人物のみ。
- 論理的結論: したがって、空欄( )に入る主語は、帝や中宮であると、文法的な根拠に基づいて断定することができる。
- 敬語の特定:
8.3. その他の最高敬語表現
二重尊敬の他にも、特定の動詞そのものが、最高位の人物にしか使われない、最高敬語として機能することがあります。これらは絶対敬語とも重なりますが、ここで改めて確認します。
- 奏す(そうす): (臣下から)帝・上皇に申し上げる。(謙譲語だが、相手を最高位に限定する)
- 啓す(けいす): (臣下から)皇后・中宮・皇太子に申し上げる。(同上)
- 行幸(ぎょうこう・みゆき): 帝・上皇のお出かけ。
- 崩御(ほうぎょ): 帝・天皇・三后が亡くなること。
- 詔(みことのり): 帝の命令・お言葉。
これらの語が文中に現れた場合も、その行為の主体や客体が、最高位の人物であることを示唆する、決定的な証拠となります。
8.4. まとめ
最高敬語は、古文の敬語システムが持つ、厳格な階層性を象徴する表現です。
- 機能と目的: 最高敬語は、帝や中宮といった、社会の頂点に立つ人物に対し、最大限の敬意を表明するために用いられる、限定的な言葉遣いである。
- 二重尊敬の構造: その代表格である二重尊敬は、尊敬の助動詞**「す・さす」と、尊敬の補助動詞「給ふ」を組み合わせた「〜せ給ふ」「〜させ給ふ」**が基本形である。
- 強力な特定能力: 文中に二重尊敬が用いられていれば、その動作主は最高位の人物であると、極めて高い確度で論理的に断定することができる。これは、主語特定の最強のツールである。
- 敬意の階層性の理解: 最高敬語の存在は、古文の敬語が、単なる丁寧さの表現ではなく、厳格な社会的序列を言語化した、一つの精密なシステムであることを示している。
最高敬語というレンズを通して文章を読むことで、私たちは、古文の世界に存在する、圧倒的な権威のありかを見出し、その権威を中心に展開される人間関係の力学を、より鮮やかに、そしてより深く理解することができるようになるのです。
9. 絶対敬語の知識による特定人物(帝・中宮など)の同定
敬語システムの中でも、特定の人物を識別する上で、最も直接的で強力なツールとなるのが絶対敬語の知識です。絶対敬語とは、その敬語が使われる相手(あるいは主体)が、特定の役職や身分の人物、すなわち帝(天皇)、上皇、中宮、皇后、皇太子などに、厳格に限定されている敬語表現のことです。一般的な尊敬語「給ふ」が、大臣から中将まで幅広い人物に使えるのに対し、絶対敬語は、いわば特定の人物専用の言葉です。したがって、文中に絶対敬語が現れた場合、私たちは、たとえ主語や目的語が省略されていても、その行為の主体や客体が誰であるのかを、パズルのピースがはまるように、一意に同定(特定)することができるのです。この知識は、複雑な人間関係が絡み合う古文の読解において、迷いを断ち切り、確信を持って読み進めるための、まさに切り札となります。
9.1. 絶対敬語の論理的価値:一意特定の威力
- 一般的な敬語:
のたまふ
(おっしゃる)→ 主語は高貴な人物(帝かもしれないし、大臣かもしれない)。- → 可能性を絞り込むことはできるが、一人に特定することはできない。
- 絶対敬語:
奏す
(帝・上皇に申し上げる)→ 申し上げている相手は帝か上皇で確定。- → 他の可能性は排除される。この**一意性(一つに定まること)**が、絶対敬語の最大の論理的価値です。
絶対敬語は、文中に埋め込まれた、特定の人物を指し示す、動かぬ文法的指紋なのです。
9.2. 帝・上皇に限定される絶対敬語
【謙譲語(申し上げる相手が帝・上皇)】
絶対敬語 | 基本動詞 | 意味 | 例文と解説 |
奏す(そうす) | 言ふ | (帝・上皇に)申し上げる | ・右大臣、事の次第を**奏す** 。<br>→ この「申し上げる」相手は、書かれていなくても帝か上皇であると確定する。 |
(大御覧)奏す | 見る | (帝・上皇に)御覧に入れる | ・月の絵を**奏すれ**ば、… <br>→ 絵を御覧に入れている相手は、帝か上皇。 |
【尊敬語(動作主が帝・上皇)】
絶対敬語(名詞) | 意味 | 例文と解説 |
行幸(ぎょうこう・みゆき) | お出かけ | ・帝の南殿への**行幸** <br>→ 「行幸」という語があるだけで、お出かけの主が帝か上皇であることがわかる。 |
行啓(ぎょうけい) | お出かけ | ・東宮の**行啓** <br>→ こちらは皇后・皇太后・皇太子などのお出かけ。 |
詔(みことのり)・勅語(ちょくご) | (帝の)お言葉・ご命令 | ・**詔**して、… <br>→ 「お言葉を発して」の主語は、帝であると確定。 |
9.3. 中宮・皇后・皇太子に限定される絶対敬語
【謙譲語(申し上げる相手が中宮・皇后・皇太子)】
絶対敬語 | 基本動詞 | 意味 | 例文と解説 |
啓す(けいす) | 言ふ | (中宮・皇后・皇太子に)申し上げる | ・蔵人、中宮にありさまを**啓す** 。<br>→ 「申し上げる」相手が、中宮、皇后、皇太子のいずれかであると確定。帝ではない。 |
この奏す
と啓す
の厳密な使い分けは、平安貴族の常識であり、これを理解しているかどうかは、読解の精度に天と地ほどの差を生みます。
9.4. 絶対敬語を用いた人物同定の実践
ケーススタディ:『枕草子』
一条の院の御時、御前の前栽(せんざい)の菊の、綿(わた)おほひたるを、**「いかに」と仰せられ**ければ、…
課題: この「いかに」
と発言した人物は誰か。
- 思考プロセス:
- 敬語の特定:
仰せられ
という表現に着目。 - 構造分析:
仰す
(「言ふ」の尊敬語)+らる
(尊敬の助動詞)。これは、二重尊敬に近い、極めて高い敬意の表現である。 - 最高敬語の適用: 最高敬語が使われるのは、原則として帝や中宮など。
- 文脈の確認: 文頭に
一条の院の御時
とある。一条の院とは一条天皇のこと。 - 論理的結論: したがって、この発言の主は、一条天皇であると、敬語の使用法と文脈から、ほぼ完全に同定することができる。
- 敬語の特定:
ケーススタディ:『源氏物語』
かの人の御局(みつぼね)に、夜更けてぞ**参り**給へる。…事の次第を細やかに**奏し**給ふ。
課題: 参り給へる
(参上なさった)人物は誰か。また、奏し給ふ
(申し上げなさる)の相手は誰か。
- 思考プロセス:
- 敬語の特定:
参り
(謙譲語)、給へる
(尊敬語)、奏し
(絶対敬語・謙譲語)、給ふ
(尊敬語)。 - 絶対敬語からの突破: まず、最も情報価値の高い絶対敬語
奏し
に着目する。奏す
は、帝か上皇に申し上げる、という意味。 - 客体の同定: したがって、
奏し
ている相手(動作の客体)は、帝(この場合は桐壺帝)か上皇であると確定する。 - 主体の推論:
参り給へる
と奏し給ふ
の動作主は、文脈上、同一人物。その人物は、帝に直接会って奏上することができる、極めて身分の高い男性である。物語の文脈から、これは主人公である光源氏であると推論できる。 - 結論: 光源氏が、夜更けに**帝(または上皇)**の元に参上し、事の次第を申し上げなさっている、という場面であることが、絶対敬語
奏す
を手がかりに、論理的に再構築できる。
- 敬語の特定:
9.5. まとめ
絶対敬語は、古文の人間関係という複雑なパズルを解くための、万能の鍵(マスターキー)です。
- 機能と価値: 絶対敬語とは、使用される相手や主体が、帝や中宮などの特定の高貴な人物に厳格に限定された敬語であり、その一意特定能力に最大の論理的価値がある。
- 帝・上皇専用:
奏す
(申し上げる)、行幸
(お出かけ)、詔
(お言葉)など。 - 中宮・皇后・皇太子専用:
啓す
(申し上げる)。 - 読解への応用: 文中に絶対敬語が現れた場合、それを突破口として、省略された主語や目的語を同定し、文全体の人間関係を確定させることができる。
- 知識の威力: 絶対敬語の知識は、曖昧な文脈推論を、確実な論理的証明へと引き上げる、強力な武器となる。
これらの語彙を確実に記憶し、文中でそのシグナルを敏感に捉えること。それが、複雑な宮廷物語の世界を、迷うことなく、確信を持って読み進めるための、最も賢明な戦略です。
10. 敬語の省略という現象と、その文脈的理由の推論
これまでの章で、私たちは敬語がいかに精緻で、人間関係を厳格に規定するシステムであるかを学んできました。しかし、実際の古文テキストを読んでいくと、奇妙な現象に気づきます。それは、敬語が使われるべき場面であるにもかかわらず、意図的に敬語が使われていない、あるいは一度使われた敬語が、途中から省略されてしまうという現象です。この「敬語の省略」は、単なる書き忘れやルールの逸脱ではありません。それは、それ自体が**意味を持つ、高度なレトリック(修辞技法)**なのです。敬語が「存在する」ことの意味を理解した私たちは、最終段階として、敬語が「存在しない」ことの意味を、文脈から論理的に推論する能力を身につけなければなりません。敬語の省略の背後にある理由を探ることは、登場人物間の微妙な心理的距離や、語り手の隠された意図を読み解く、最上級の読解技術です。
10.1. 敬語省略の背後にある論理
敬語の使用が、相手への敬意や、社会的な距離の表明であるとすれば、その敬語をあえて使わないという選択は、その逆の意味合いを持つことになります。敬語が省略される主な文脈的理由は、大きく以下の三つに分類できます。
- 極度の親密さ: 関係が非常に親密であるため、堅苦しい敬語が不要になる。
- 軽蔑・敵意: 相手を軽んじ、見下しているため、意図的に敬語を使わない。
- 叙述の効率化・視点の固定: 一度敬意の対象を明確にした後は、繰り返しの使用を避ける。
これらのどの理由による省略なのかを判断するには、前後の文脈、登場人物の関係性、そして場面の状況を、総合的に分析する必要があります。
10.2. 省略の理由(1):極度の親密さ
- 論理: 敬語は、相手との間に一定の社会的・心理的な「距離」を置く機能も持っています。したがって、親子、夫婦、非常に親しい主従や友人といった、その「距離」を取り払うべき極めて親密な関係の間では、かえって敬語を使わない方が、その親密さを表現する上で自然な場合があります。
- 識別のポイント:
- 会話の当事者が、親子、夫婦、恋人同士など、極めて親しい間柄である。
- 地の文で、作者が特定の人物(特に子供時代の主人公など)に対して、愛情を込めた視線で描写している。
- ケーススタディ:『源氏物語』
- 状況: 桐壺帝が、最愛の息子である幼い光源氏に対して語りかける場面。
- 例文(想定):
「(帝が光源氏に)いつか、かく大人になりて、我を助けよ」
- 分析: 帝が皇子に対して語りかけているので、本来なら尊敬語を使ってもおかしくありません(例:「助け給へ」)。しかし、ここでは敬語が一切使われていません。
- 推論: これは、帝が光源氏を、臣下としてではなく、愛する我が子として、極めてプライベートで親密な感情をもって語りかけていることを示しています。敬語を「省略」することが、ここでは父と子の間の愛情の深さを、より効果的に表現しているのです。
10.3. 省略の理由(2):軽蔑・敵意
- 論理: 敬意を払うべき相手に対して、意図的に敬語を使わないことは、その相手に対する侮辱、軽蔑、あるいは敵意の、最も明確な表明となります。言葉にしない、しかし極めて雄弁な非難の表明です。
- 識別のポイント:
- 登場人物が、対立関係や競争関係にある。
- ある人物が、別の人物を心の中でのみ評価・批判している(心内語)。
- ケーススタディ:『枕草子』
- 状況: 作者である清少納言が、ライバルと見なされがちな紫式部について、心の中で言及する場面(※これは創作例ですが、論理は同じです)。
- 例文(想定):
紫式部とかや。物語など作りて、人に珍しがられ**て**、得意なる**顔**つき**す**。
- 分析: 紫式部は、宮廷社会において高い評価を受けている人物であり、通常であれば、ある程度の敬意(例えば「得意なる御顔つきせさせ給ふ」など)が払われてもおかしくありません。しかし、この文では敬語が全く使われず、むしろ突き放したような、客観的すぎる描写がなされています。
- 推論: この敬語の完全な不在は、清少納言が紫式部に対して、敬意を払うに値しない、あるいはライバルとして冷ややかに観察している、という軽蔑や対抗意識を、読者に鋭く感じさせます。敬語の省略が、ここでは辛辣な批評として機能しているのです。
10.4. 省略の理由(3):叙述の効率化と視点の固定
- 論理: 長い文章や段落の中で、同じ高貴な人物について叙述し続ける場合、文の冒頭で一度敬語を使って敬意の対象を明確にした後は、文が冗長になるのを避けるため、途中の敬語を省略することがあります。これは、書き手と読み手の間で「この段落の主語は、先ほど述べた高貴な人物である」という暗黙の了解が成立していることを前提とした、効率的な叙述法です。
- 識別のポイント:
- 一つの段落の冒頭で、特定の高貴な人物の行為に敬語が使われている。
- その後の文では、明らかに同じ人物の行為であるにもかかわらず、敬語が省略されている。
- 文脈に、親密さや軽蔑といった、特別な心理的理由が見当たらない。
- ケーススタディ:
- 例文:
帝、その文を御覧じ**て**、いたく感動し**給ひ**き。しばし物も言はず、涙を落とし**て**、ただながめ**ゐ**たり。
- 分析:
- 最初の文:
御覧じ
(尊敬語)、給ひき
(尊敬の補助動詞)と、帝に対して丁寧な敬語が使われています。 - 後の文:
落として
ながめゐたり
には、尊敬の補助動詞給ふ
などが省略されています。
- 最初の文:
- 推論: これは、帝への敬意が失われたわけではありません。一度「帝が主語である」と明確にした後、続く一連の行為(涙を落とす、眺めている)を描写するにあたり、繰り返し
給ふ
を付けることを避け、文章のリズムを良くし、読者の視点を帝の心情に集中させるための、文学的な省略であると解釈できます。
- 例文:
10.5. まとめ
敬語の省略は、古文読解における最後のフロンティアの一つであり、その意味を読み解くことは、高度な文脈推論能力を要求します。
- 省略は意図的: 敬語の省略は、単なるミスではなく、意味を持つ修辞技法である。
- 三つの論理的理由: 省略の背後には、主に①極度の親密さ、②軽蔑・敵意、③叙述の効率化という、三つの文脈的理由が存在する。
- 文脈が全てを決定する: どの理由による省略なのかを判断するためには、登場人物の基本的な人間関係、その場の状況、そして文章全体のトーンを総合的に分析し、最も論理的に整合性の取れる結論を導き出す必要がある。
- 「不在」が語るもの: 敬語が「存在しない」という事実は、時として、それが「存在する」こと以上に、登場人物の生々しい感情や、作者の巧みな語りの戦略を、雄弁に物語るのである。
敬語の光(存在)と影(省略)の両方を読み解けるようになったとき、あなたは、古文のテキストに描かれた人間関係の、あらゆる機微と深層心理を、手に取るように理解できる、真の読解者となっていることでしょう。
Module 6:敬語システムによる人物関係の構造解明の総括:言葉に埋め込まれた社会の構造を解読する
本モジュールを通じて、私たちは古文の敬語を、単なる丁寧な言葉遣いの学習から、テキストに埋め込まれた社会構造と人間関係の力学を解読するための、一つの巨大な論理システムとして捉え直す、という知的変革を遂げました。敬語は、もはや私たちを惑わせる複雑な暗記事項ではなく、登場人物の正体を暴き、彼らの間の序列を可視化するための、最も信頼できる分析ツールとなったのです。
私たちはまず、敬語システムの根幹をなす尊敬語・謙譲語・丁寧語という三分類の論理を確立しました。尊敬語が動作主を、謙譲語が動作の客体を、そして丁寧語が聞き手を高めるという、それぞれの敬意のベクトル(方向性)を理解し、これを図式化することで、複雑な人間関係を客観的に分析する手法を習得しました。
この基本論理を基盤に、会話文と地の文という異なる文脈で、敬語がいかにして発話者や視点人物を特定する手がかりとなるかを学びました。特に、地の文における敬語の使用が、作者の視点の移動を明らかにするという分析は、物語をより深く、批評的に読み解くための新たな視座を提供しました。
さらに、敬意の度合いを最大化する最高敬語(二重尊敬など)や、特定の人物を指し示す絶対敬語の知識を得ることで、私たちは、省略された主語が帝や中宮といった最高位の人物であることを、文法的な証拠から一意に同定する、決定的な能力を手にしました。そして最後に、敬語が意図的に省略されるという現象を分析し、その背後にある親密さや敵意といった、登場人物の生々しい心理を推論する、最上級の読解技術を探求しました。
このモジュールを修了したあなたは、古文のテキストを読む際、常に「この敬語は、誰から誰への、どのような敬意なのか」という問いを立て、言葉の背後にある人間関係の構造を意識する、戦略的な読解者へと成長したはずです。主語が省略されていても、登場人物の名前が伏せられていても、あなたは敬語という名の文法的指紋から、その正体を論理的に突き止めることができます。
この人間関係を解読する能力は、次に続くModule 7「省略された要素の論理的補完と文脈復元」で、主語の補完という、古文読解最大の課題に取り組むための、最も強力な武器となります。敬語によって人間関係の地図が描けて初めて、私たちは、その地図の上で誰がどこにいるのかを、確信を持って指し示すことができるようになるのです。