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【基礎 化学(有機)】Module 2:脂肪族炭化水素
本モジュールの目的と構成
Module 1では、有機化学という壮大な建造物を理解するための設計思想と基礎的な道具を学びました。炭素原子の特異性、化合物を分類するための地図、そして分子の立体的な形を読み解く文法。これらの普遍的な原理を携え、いよいよ私たちは個々の化合物クラスの具体的な性質を探る旅へと出発します。その最初の目的地が、有機化学の「骨格」そのものである脂肪族炭化水素です。
このモジュールで扱うアルカン、アルケン、アルキンは、炭素と水素のみから構成される最もシンプルな化合物群です。しかし、シンプルだからこそ、その挙動には化学の根源的な法則が純粋な形で現れます。私たちは、炭素原子間の結合が「単結合」から「二重結合」、そして「三重結合」へと変化するにつれて、化合物の性質がいかに劇的に、そして論リ的に変化していくかを目の当たりにするでしょう。安定で不活性なアルカンが起こす静かな「置換反応」の世界から、電子豊富なπ結合が主役となるアルケンやアルキンのダイナミックな「付加反応」の世界へ。そのコントラストは鮮やかです。
本モジュールは、単に反応のパターンを暗記することを目的とはしません。なぜその反応が起こるのか? なぜ生成物は一つに定まるのか? その背後にある電子の動きや中間体の安定性といった「反応のメカニズム」に徹底的に焦点を当てます。この「なぜ?」を問う姿勢こそが、未知の反応に遭遇したときにも対応できる、真の応用力を育むのです。
本モジュールは、以下の10の学習項目で構成されています。これらは、単純なものから複雑なものへ、安定なものから反応性に富むものへと、論理の階段を一歩ずつ上るように配置されています。
- アルカン・シクロアルカンの構造と命名法: すべての基本となる、sp³混成軌道で構成された飽和炭化水素の世界。その安定した構造と、より複雑な分子を命名するためのルールの再確認から始めます。
- アルカンの性質と反応(置換反応): なぜアルカンは「パラフィン(親和力がない)」と呼ばれるほど安定なのか。その静寂を破る唯一の主要な反応、「ラジカル置換反応」のメカニズムに深く分け入ります。
- アルケンの構造と幾何異性体(シス-トランス異性体): sp²混成軌道とπ結合がもたらす新しい世界。分子が「平面」になり、回転が束縛されることで生じる「幾何異性体」という新たな複雑さに挑みます。
- アルケンの製法(アルコールの脱水、ハロゲン化アルキルの脱離): 安定なσ結合の世界から、いかにして反応性に富むπ結合を創り出すのか。「脱離反応」という重要な概念を学びます。
- アルケンへの付加反応(水素、ハロゲン、ハロゲン化水素、水): π結合が切れ、新しい原子団が結合する「付加反応」。これはアルケンの化学の主戦場であり、その多様なバリエーションを網羅的に探求します。
- マルコフニコフ則: なぜ付加反応の生成物は一つに偏るのか? 「金持ちはさらに豊かになる」という経験則の背後にある、カルボカチオン中間体の安定性という美しい論理を解き明かします。
- アルケンの酸化反応(酸化開裂): 付加反応とは異なる、アルケンのもう一つの顔。分子そのものを切断する強力な酸化反応を学び、それが構造決定の有力な手がかりとなることを見出します。
- アルキンの構造と命名法: sp混成軌道が支配する、C≡C三重結合の世界。そのユニークな「直線構造」と性質を理解します。
- アルキンの反応(付加反応): 2つのπ結合を持つアルキンが、どのように二段階の付加反応を起こすのか。アルケンの化学との共通点と相違点を明らかにします。
- 石油の分留と接触分解: 私たちの生活を支えるガソリンやプラスチックの原料は、これらの炭化水素です。その源である石油が、どのようにして有用な物質へと生まれ変わるのか、工業化学の視点から学びます。
このモジュールを終えるとき、あなたは単結合・二重結合・三重結合という電子構造のわずかな違いが、化合物の形、性質、そして運命(反応性)をいかに決定づけているかを、深いレベルで理解しているでしょう。反応の表面的な結果だけでなく、その背後で電子が織りなす物語を読み解く力。それこそが、有機化学を真に得意にするための鍵なのです。
1. アルカン・シクロアルカンの構造と命名法
有機化学の広大な世界を探検する旅は、最もシンプルで基本的な化合物群、アルカンとシクロアルカンから始まります。これらは炭素と水素のみからなり、全ての炭素-炭素結合が単結合である「飽和炭化水素」です。その単純さゆえに、アルカンとシクロアルカンは、有機化合物の構造、異性、そして命名法の基本原則を学ぶための理想的な出発点となります。このセクションでは、その三次元構造の深みと、それらを正確に記述するための言語(命名法)をマスターします。
1.1. アルカン:飽和鎖式炭化水素
アルカンは、一般式 \( \text{C}n\text{H}{2n+2} \) で表される鎖式の飽和炭化水素です。メタン (\( \text{CH}_4 \))、エタン (\( \text{C}_2\text{H}_6 \))、プロパン (\( \text{C}_3\text{H}_8 \)) などがこれに属します。
1.1.1. 構造と混成軌道
アルカンの炭素原子は、すべて4つの単結合(σ結合)を形成しています。Module 1で学んだように、これは炭素原子が sp³混成軌道 をとっていることを意味します。4つのsp³混成軌道は、互いに反発して正四面体の頂点方向を向き、結合角は理想的には**約109.5°**となります。
- メタン (\( \text{CH}_4 \)): 中心炭素から4つの水素が正四面体の頂点に位置する、完璧な対称性を持つ分子です。
- エタン (\( \text{C}_2\text{H}_6 \)) 以降: sp³炭素が鎖状に連なるため、炭素骨格は直線ではなく、ジグザグ構造をとります。
1.1.2. 配座異性体とニューマン投影式
C-C単結合はσ結合であり、その結合軸を中心に自由に回転することができます。この回転によって生じる、互いに区別可能な原子の空間配置の違いを配座と呼び、これらの異なる配座を持つ異性体を配座異性体と呼びます。これらは結合を切らずに相互変換できるため、通常の条件下で分離することはできませんが、分子のエネルギーや反応性を理解する上で重要です。
配座を視覚的に理解するために、ニューマン投影式が用いられます。これは、特定のC-C結合を、分子の正面から見下ろした図です。手前の炭素を円の中心点で、奥の炭素を円周で表します。
エタン (\( \text{CH}_3\text{-CH}_3 \)) を例にとると、主に2つの極端な配座があります。
- ねじれ形配座 (Staggered Conformation): 手前の炭素に結合した水素と、奥の炭素に結合した水素が、互い違いになるように最も遠く離れた配置。立体反発が最小であるため、最もエネルギー的に安定です。
- 重なり形配座 (Eclipsed Conformation): 手前の水素と奥の水素が、ちょうど重なり合うように最も近接した配置。立体反発が最大であるため、最もエネルギー的に不安定です。
実際の分子は、これらの間を絶えず回転していますが、エネルギーの低い「ねじれ形配座」で存在する時間が最も長くなります。
ブタン (\( \text{CH}_3\text{CH}_2\text{-CH}_2\text{CH}_3 \)) のC2-C3結合の回転では、より複雑になります。2つのかさ高いメチル基の位置関係が重要です。
- アンチ配座 (Anti): 2つのメチル基が180°離れた、最も安定なねじれ形配座。
- ゴーシュ配座 (Gauche): 2つのメチル基が60°の位置にある、もう一つのねじれ形配座。アンチ配座よりは不安定。
1.1.3. アルカンの命名法(復習と発展)
アルカンのIUPAC命名法は、すべての有機化合物命名法の基礎となります。Module 1の基本ルールを、より複雑な例で復習・発展させましょう。
ルールのおさらい:
- 主鎖の決定: 最も長い連続した炭素鎖を見つける。
- 番号付け: 置換基の位置番号が最も小さくなるように、主鎖の端から番号を付ける。
- 置換基の命名と整列: 各置換基を位置番号と共に命名し、アルファベット順に並べる。
複雑な例:
\( \text{CH}_3\text{-CH}_2\text{-CH(CH}_3\text{)-CH(C}_2\text{H}_5\text{)\text{-}CH}_2\text{-CH}_3 \)
- 主鎖: 最も長い炭素鎖は、右に折れてエチル基(\(\text{-C}_2\text{H}_5\) = \(\text{-CH}_2\text{CH}_3\))の先まで続くC7の鎖(ヘプタン)です。直進するとC6(ヘキサン)なので間違い。
- 番号付け:
- 左から数えると、置換基は3位(メチル)と4位(エチル)。位置番号のセットは (3, 4)。
- 右から数えると、置換基は4位(エチル)と5位(メチル)。位置番号のセットは (4, 5)。
- 最初の置換基の位置が小さい (3 < 4) ため、左から数えるのが正しい。
- 命名:
- 3位にメチル基 (methyl)。
- 4位にエチル基 (ethyl)。
- アルファベット順ではエチル(e)がメチル(m)より先。
- 組立: 4-エチル-3-メチルヘプタン (4-Ethyl-3-methylheptane)
1.2. シクロアルカン:環状の飽和炭化水素
シクロアルカンは、炭素原子が環を形成している飽和炭化水素で、一般式は \( \text{C}n\text{H}{2n} \) です。アルケンと分子式が同じであるため、互いに構造異性体(官能基異性体)の関係にあります。
1.2.1. 環のひずみ
シクロアルカンでは、C-C結合が環を形成するために、sp³混成軌道の理想的な結合角109.5°からずれることがあります。この角度のずれによって生じる分子内部のエネルギー的な不安定さを**角ひずみ(angle strain)**と呼びます。
- シクロプロパン (\( \text{C}_3\text{H}_6 \)): 炭素は正三角形を形成し、C-C-C結合角は60°です。109.5°から大きくずれているため、非常にひずみが大きく不安定です。このため、シクロプロパンは付加反応を起こして環が開きやすいという、アルケンに似た性質を示します。
- シクロブタン (\( \text{C}_4\text{H}_8 \)): 結合角は90°で、ひずみはシクロプロパンより小さいですが、まだ不安定です。
- シクロペンタン (\( \text{C}5\text{H}{10} \)): 結合角は108°で、ひずみはほとんどありません。
- シクロヘキサン (\( \text{C}6\text{H}{12} \)): 平面六角形だと結合角は120°になり、ひずみが生じるはずです。しかし、シクロヘキサンはひずみを解消するために、平面ではなく立体的な構造をとります。
1.2.2. シクロヘキサンの配座:いす形とふね形
シクロヘキサンは、ひずみが全くない安定な配座として、主にいす形配座 (chair conformation) をとります。
- いす形配座: 6つの炭素原子が交互に上下に位置し、すべての結合角が約109.5°となる、極めて安定な構造です。
- このとき、炭素に結合している12個の水素は、2種類に区別されます。
- アキシアル (axial) 水素: 環の上下方向に、ほぼ垂直に突き出している6個の水素。
- エクアトリアル (equatorial) 水素: 環の赤道方向に、ほぼ水平に広がっている6個の水素。
- このとき、炭素に結合している12個の水素は、2種類に区別されます。
- ふね形配座 (boat conformation): いす形配座の一部を反転させた、もう一つの配座。船の形に似ています。いす形よりもエネルギー的に不安定です。なぜなら、船首と船尾の水素(ポール水素)がぶつかり合う立体反発と、重なり形配座に似たねじれひずみがあるためです。
シクロヘキサンは、室温でこれら二つの配座の間を高速で反転しており、その過程でアキシアルとエクアトリアルの水素は互いに入れ替わります。
置換基(例:メチル基)がシクロヘキサンに結合する場合、その置換基がアキシアル位にあるよりも、かさばりの少ないエクアトリアル位にある方が安定になります。これは、アキシアル位では他のアキシアル水素との立体反発(1,3-ジアキシアル相互作用)が生じるためです。
1.2.3. シクロアルカンの命名法
- 基本: 対応する炭素数のアルカン名に、接頭辞「シクロ (cyclo-)」を付けます。(例:シクロプロパン、シクロブタン)
- 置換基がある場合:
- 置換基が1つの場合: 位置番号は不要。(例:メチルシクロヘキサン)
- 置換基が2つ以上の場合: 置換基の位置番号がなるべく小さくなるように番号を付けます。アルファベット順で先の置換基が1位になるように振ることが多いです。(例:1-エチル-2-メチルシクロペンタン)
- 環状アルカンでは、幾何異性体(シス-トランス異性体)が生じる可能性があります。(例:シス-1,2-ジメチルシクロプロパン、トランス-1,2-ジメチルシクロプロパン)
アルカンとシクロアルカンは、有機化学の構造論の基礎です。その三次元的な形と、それに伴うエネルギーの違いを理解することは、これから学ぶ様々な化合物の反応性を予測するための重要な土台となります。
2. アルカンの性質と反応(置換反応)
アルカンは、有機化合物の中で最も基本的な骨格を形成しますが、その化学的な性質は一言で言って「不活性」です。強い酸や塩基、酸化剤や還元剤など、ほとんどの化学試薬と反応しません。この性質から、アルカンはかつてパラフィンと呼ばれていました。これはラテン語の parum affinis(親和力が少ない)に由来します。このセクションでは、なぜアルカンがこれほど安定なのか、そしてその静寂を破る唯一の重要な反応である「置換反応」について、そのメカニズムに迫ります。
2.1. アルカンの物理的性質
化学的な反応性の前に、アルカンの物理的な性質を理解しておくことは重要です。
- 状態: 常温常圧(25℃, 1 atm)では、炭素数1~4のアルカン(メタン~ブタン)は気体、炭素数5~16程度(ペンタン~ヘキサデカン)は液体、それ以上はロウ状の固体です。
- 沸点・融点: アルカンの分子間には、**ファンデルワールス力(ロンドン分散力)**のみが働きます。分子が大きく(炭素数が多く)なると、接触面積が増えてファンデルワールス力が強くなるため、沸点・融点は炭素数の増加とともに規則的に上昇します。
- 分岐と沸点: 同じ炭素数の構造異性体同士では、分岐が多くなるほど分子の形が球状に近くなり、分子間の接触面積が減少します。その結果、ファンデルワールス力が弱まり、沸点は低くなります。
- 例:ペンタン(直鎖, 沸点36℃) > イソペンタン(分岐1つ, 沸点28℃) > ネオペンタン(分岐2つ, 沸点9.5℃)
- 溶解性: アルカンはC-C結合、C-H結合ともに極性が非常に小さい無極性分子です。そのため、「似たものは似たものを溶かす」という原則に従い、水のような極性溶媒にはほとんど溶けず、ヘキサンやベンゼンのような無極性溶媒にはよく溶けます。水に浮く石油は、主成分がアルカンであることの証左です。
2.2. アルカンの化学的安定性
アルカンがなぜこれほど反応性に乏しいのか、その理由は2つあります。
- 強いσ結合: アルカンを構成するC-C結合とC-H結合は、いずれも安定で強固なσ結合です。これらの結合を切断するには、大きなエネルギーが必要です。
- 電子の偏りのなさ: C-C結合は無極性、C-H結合も電気陰性度の差が小さく、極性が非常に小さいです。そのため、酸や塩基、求核剤や求電子剤といったイオン性の試薬が攻撃する起点となるような、電子が豊富な部分や不足している部分が存在しません。
このため、アルカンは通常の実験室の条件下では、ほとんどの試薬と反応しないのです。
2.3. アルカンのラジカル置換反応
アルカンの静寂を破ることができる数少ない反応の一つが、高温または紫外線の照射を必要とする、ハロゲンとの置換反応です。これは、アルカンの水素原子がハロゲン原子に置き換わる反応です。
例:メタンと塩素の反応
\( \text{CH}_4 + \text{Cl}_2 \xrightarrow{\text{光 (UV)}} \text{CH}_3\text{Cl} \text{ (クロロメタン)} + \text{HCl} \)
この反応は、イオンではなく、ラジカルと呼ばれる非常に反応性の高い化学種が関与する連鎖反応で進行します。
2.3.1. ラジカルとは?
ラジカル (Radical) または遊離基 (Free Radical) とは、共有結合を形成していない不対電子を1つ持つ原子または分子のことです。ラジカルは電子対をなしていないため極めて不安定で、他の分子から電子を奪って安定な電子対を形成しようとする、非常に高い反応性を持ちます。塩素原子ラジカルは \( \cdot\text{Cl} \) のように、不対電子を点で示して表します。
2.3.2. 反応のメカニズム:連鎖反応の3段階
メタンの塩素化は、以下の3つの段階を経て進行するラジカル連鎖反応の典型例です。
第1段階:開始段階 (Initiation)
反応を開始させるために、外部からエネルギー(光や熱)を供給し、ラジカルを生成させる段階です。比較的結合の弱い塩素分子 (\( \text{Cl-Cl} \)) が光エネルギーを吸収し、共有電子対が均等に分かれて(ホモリティック開裂)、2つの塩素原子ラジカル (\( \cdot\text{Cl} \)) が生成します。
\( \text{Cl-Cl} \xrightarrow{\text{光 (hν)}} \cdot\text{Cl} + \cdot\text{Cl} \)
第2段階:成長段階 (Propagation)
生成したラジカルが、反応物(メタン)と反応して新しいラジカルを生成し、その新しいラジカルがさらに別の反応物を攻撃して…というサイクルが繰り返される、連鎖反応の中心部分です。
- ステップ 2a: 塩素原子ラジカル (\( \cdot\text{Cl} \)) がメタン分子 (\( \text{CH}_4 \)) を攻撃し、C-H結合から水素原子を引き抜きます。これにより、塩化水素 (\( \text{HCl} \)) とメチルラジカル (\( \cdot\text{CH}_3 \)) が生成します。\( \cdot\text{Cl} + \text{CH}_4 \rightarrow \text{HCl} + \cdot\text{CH}_3 \)
- ステップ 2b: 生成したメチルラジカル (\( \cdot\text{CH}_3 \)) が、未反応の塩素分子 (\( \text{Cl}_2 \)) を攻撃します。これにより、生成物であるクロロメタン (\( \text{CH}_3\text{Cl} \)) と、新たな塩素原子ラジカル (\( \cdot\text{Cl} \)) が生成します。\( \cdot\text{CH}_3 + \text{Cl}_2 \rightarrow \text{CH}_3\text{Cl} + \cdot\text{Cl} \)
ここで生成した新たな塩素原子ラジカルが、再びステップ2aのメタンを攻撃することで、このサイクルが何千回、何万回と繰り返されます。たった1つの光子が作り出した2つのラジカルが、莫大な数の分子を生成物へと変えていくのです。
第3段階:停止段階 (Termination)
連鎖反応を終わらせる段階です。反応系に存在するラジカル同士が反応して結合を形成し、安定な非ラジカル分子になることで、連鎖が停止します。これは、ラジカルの濃度が十分に高くなったときに起こります。
- \( \cdot\text{Cl} + \cdot\text{Cl} \rightarrow \text{Cl}_2 \)
- \( \cdot\text{CH}_3 + \cdot\text{CH}_3 \rightarrow \text{CH}_3\text{CH}_3 \text{ (エタン)} \)
- \( \cdot\text{CH}_3 + \cdot\text{Cl} \rightarrow \text{CH}_3\text{Cl} \)
2.3.3. 反応の制御の難しさ
アルカンのラジカル置換反応は、特定の生成物だけを選択的に得るのが難しいという問題点があります。
- 多置換の生成: 一度生成したクロロメタン (\( \text{CH}_3\text{Cl} \)) もまだ水素原子を持っているため、さらに塩素原子ラジカルの攻撃を受けます。これにより、ジクロロメタン (\( \text{CH}_2\text{Cl}_2 \))、トリクロロメタン(クロロホルム, \( \text{CHCl}_3 \))、テトラクロロメタン(四塩化炭素, \( \text{CCl}_4 \))といった、多置換体が次々と生成してしまいます。\( \text{CH}_3\text{Cl} + \text{Cl}_2 \xrightarrow{\text{光}} \text{CH}_2\text{Cl}_2 + \text{HCl} \)…
- 異性体の生成: プロパンのようなより大きなアルカンでは、置換される水素原子の位置によって構造異性体が生じます。例えば、プロパンの塩素化では、1-クロロプロパンと2-クロロプロパンが混合物として得られます。
これらの理由から、実験室で純粋な化合物を合成する目的で、この反応が使われることは限定的です。しかし、ラジカル反応のメカニズムを理解するための重要なモデルケースであり、工業的には重要なプロセスです。
アルカンの化学は、その安定性ゆえに地味に見えるかもしれません。しかし、その安定性の理由を理解し、ラジカルという不安定な化学種によって引き起こされる連鎖反応のダイナミズムを学ぶことは、より複雑な反応を理解するための確固たる基礎を築く上で不可欠なのです。
3. アルケンの構造と幾何異性体(シス-トランス異性体)
安定で反応性に乏しいアルカンの世界から一転、私たちはこれから、炭素-炭素二重結合(C=C)を持つアルケンの世界へと足を踏み入れます。たった1本のπ結合が加わるだけで、分子の形、性質、そして反応性は劇的に変化します。アルケンは、その豊富な電子と特有の構造ゆえに、様々な化学反応の舞台となる、有機化学における最重要化合物群の一つです。このセクションでは、アルケンの構造的特徴と、それが引き起こす幾何異性という新しい現象について探求します。
3.1. アルケンの構造:sp²混成とπ結合
アルケンは、一般式 \( \text{C}n\text{H}{2n} \)(鎖式の場合)で表される不飽和炭化水素です。最も単純なアルケンはエチレン(\( \text{C}_2\text{H}_4 \))です。
3.1.1. sp²混成軌道と平面構造
アルケンの二重結合を形成している炭素原子は、sp²混成軌道をとっています。
- 1つのs軌道と2つのp軌道が混成し、3つの等価なsp²混成軌道が形成されます。
- これら3つのsp²混成軌道は、互いに反発し、同一平面上で120°の角度をなすように配置されます。
- 混成に関与しなかった1つのp軌道は、この平面に対して垂直な方向に残ります。
エチレン分子では、2つの炭素原子と4つの水素原子、合計6つの原子すべてが、このsp²混成軌道が形成するσ結合の骨格によって、完全に同一平面上に固定されます。これは、アルケンを特徴づける最も重要な構造的性質です。
3.1.2. π結合の形成と回転の束縛
二重結合の2本目の結合は、隣り合う炭素原子の、平面に垂直なp軌道同士が側面で重なり合うことによって形成されるπ(パイ)結合です。
- π結合の電子雲は、σ結合が作る分子平面の上下に広がっています。
- このπ結合は、複数の原子核にまたがって電子が共有されるため、比較的反応性が高く、外部の試薬(求電子剤)からの攻撃を受けやすい領域となります。これが、アルケンが付加反応を起こしやすい理由です。
そして、π結合の存在がもたらすもう一つの決定的な影響が、C=C結合周りの自由な回転ができないことです。単結合(σ結合)は結合軸を中心に自由に回転できましたが、π結合を維持するためには両側のp軌道が常に平行に並んでいる必要があります。もしC=C結合を無理に回転させようとすると、p軌道の重なりが失われ、π結合が切断されてしまいます。これには大きなエネルギーが必要なため、通常の条件下では回転は起こりません。
3.2. 幾何異性体(シス-トランス異性体)
この「C=C結合の回転ができない」という事実から、幾何異性体という新しいタイプの立体異性体が生まれます。幾何異性体とは、原子の結合順序は同じですが、二重結合(または環状構造)に対する置換基の空間的な配置が異なる異性体のことです。
幾何異性体が存在するための条件は、二重結合を形成するそれぞれの炭素原子に、互いに異なる原子または原子団が結合していることです。
例:2-ブテン (\( \text{CH}_3\text{-CH=CH-CH}_3 \))
二重結合の左の炭素にはHと\(\text{-CH}_3\)、右の炭素にもHと\(\text{-CH}_3\)が結合しており、条件を満たします。そのため、2-ブテンには2種類の幾何異性体が存在します。
- シス-2-ブテン (cis-2-butene): 2つのかさ高い置換基(この場合はメチル基)が、二重結合の同じ側に配置されている異性体。「シス(cis)」はラテン語で「こちら側」を意味します。
- トランス-2-ブテン (trans-2-butene): 2つのかさ高い置換基が、二重結合の反対側に配置されている異性体。「トランス(trans)」は「向こう側」を意味します。
シス体とトランス体は、結合の切断なしには相互変換できず、融点、沸点、密度、安定性などが明確に異なる別々の化合物です。
3.2.1. 幾何異性体の物理的性質
- 安定性: 一般的に、かさ高い置換基同士が空間的に離れているトランス体の方が、シス体よりも立体反発が小さく、エネルギー的に安定です。
- 沸点: シス体は、置換基が同じ側にあるため分子全体として極性を持つことが多く(双極子モーメントが打ち消しあわない)、分子間力が強くなる傾向があります。そのため、シス体の沸点はトランス体よりも高くなることが多いです。(例:シス-1,2-ジクロロエテンの沸点は60℃、トランス体は48℃)
- 融点: 融点は分子の対称性(結晶格子への収まりやすさ)に大きく影響されます。一般的に、対称性の良いトランス体の方がシス体よりも融点が高くなります。(例:トランス-2-ブテンの融点は-106℃、シス体は-139℃)
3.3. E-Z表記法:より厳密な命名法
シス-トランス表記法は、二重結合の各炭素に水素が1つずつ結合しているような単純な場合に有効です。しかし、二重結合に3つまたは4つの異なる置換基が結合している場合、どれとどれを比較して「シス」や「トランス」と呼ぶべきか曖昧になります。
このような場合に対応するため、より厳密で普遍的なE-Z表記法が用いられます。これは、カーン・インゴルド・プレローグ(CIP)順位則に基づいて決定されます。
E-Zの決定手順:
- 優先順位の決定: 二重結合の各炭素ごとに、結合している2つの置換基の優先順位をCIP順位則に従って決定します。
- ルール1: 結合している原子の原子番号が大きいほど、優先順位が高い。(例:Br > Cl > O > N > C > H)
- ルール2: 最初の原子が同じ場合は、次に結合している原子で比較していく。
- 配置の決定:
- Z配置: 両方の炭素において、優先順位の高い置換基同士が同じ側にある場合。「Z」はドイツ語の zusammen(一緒に)に由来します。
- E配置: 両方の炭素において、優先順位の高い置換基同士が反対側にある場合。「E」はドイツ語の entgegen(反対に)に由来します。
例:1-ブロモ-2-クロロプロペン
- C1炭素: Br (高) vs H (低)
- C2炭素: Cl (高) vs CH₃ (低)
もしBrとClが同じ側にあれば**(Z)体**、反対側にあれば**(E)体**となります。
E-Z表記法は、シス-トランス表記法の曖昧さをなくし、あらゆるアルケンを一意に命名することを可能にします。
アルケンの化学は、この平面的で剛直な構造と、電子豊富なπ結合という2つの特徴から展開していきます。次のセクションでは、この特徴的な構造をどのようにして作り出すのか、その製法について学んでいきましょう。
4. アルケンの製法(アルコールの脱水、ハロゲン化アルキルの脱離)
反応性に富むアルケンは、様々な有機化合物を合成するための中間体として極めて重要です。では、その重要な出発点であるアルケン自体は、どのようにして作られるのでしょうか。アルケン(C=C二重結合)の生成は、多くの場合、飽和化合物から2つの原子または原子団が取り除かれてπ結合が形成される、脱離反応 (Elimination Reaction) によって行われます。
このセクションでは、実験室でアルケンを合成するための代表的な2つの方法、「アルコールの脱水」と「ハロゲン化アルキルの脱ハロゲン化水素」について、その反応条件とメカニズム、そして生成物を予測するための重要な経験則を学びます。
4.1. アルコールの分子内脱水反応
アルコールを適切な酸触媒とともに加熱すると、分子内から水分子(\(\text{H}_2\text{O}\))が1つ取れて(脱水)、アルケンが生成します。これは、アルケンを合成する最も一般的で重要な方法の一つです。
一般式:
R-CH(OH)-CH₂-R’ \( \xrightarrow{\text{酸触媒、加熱}} \) R-CH=CH-R’ + \( \text{H}_2\text{O} \)
4.1.1. 反応条件
- 触媒: 濃硫酸 (\( \text{H}_2\text{SO}_4 \)) やリン酸 (\( \text{H}_3\text{PO}_4 \)) のような強酸が用いられます。
- 温度: 高温が必要です。一般的に**160~180℃**程度の温度で反応が進行します。
- 温度の重要性: もし温度が低い(約130~140℃)と、脱水は分子間(2つのアルコール分子の間)で起こり、エーテルが主生成物となります。分子内脱水と分子間脱水は競合反応であり、温度によって生成物が変わることを理解しておくことは重要です。高温は、より多くの結合の切断を必要とする分子内脱離に有利に働きます。
4.1.2. 反応メカニズム(エタノールの例)
エタノールからエチレンが生成する反応は、以下の3段階で進行します。
- プロトン化: 酸触媒(\(\text{H}^+\))が、アルコールのヒドロキシ基(-OH)の酸素原子にある非共有電子対を攻撃し、プロトン化されたアルコール(オキソニウムイオン)を形成します。\( \text{CH}_3\text{CH}_2\text{-OH} + \text{H}^+ \rightleftharpoons \text{CH}_3\text{CH}_2\text{-OH}_2^+ \)ヒドロキシ基(-OH)は脱離しにくい基ですが、プロトン化されて水(\(\text{-OH}_2^+\))になることで、非常に脱離しやすい「良い脱離基」に変わります。
- 水の脱離(カルボカチオン生成): プロトン化されたアルコールから水分子が脱離し、カルボカチオン(炭素陽イオン)が中間体として生成します。\( \text{CH}_3\text{CH}_2\text{-OH}_2^+ \rightarrow \text{CH}_3\text{CH}_2^+ + \text{H}_2\text{O} \)
- プロトンの脱離: カルボカチオンに隣接する炭素原子から、塩基(例えば水分子)が水素原子をプロトン(\(\text{H}^+\))として引き抜きます。その際に残された電子がC-C間に流れ込み、π結合を形成してアルケンが生成します。\( \text{H-CH}_2\text{-CH}_2^+ \rightarrow \text{CH}_2\text{=CH}_2 + \text{H}^+ \)この最後の段階で触媒のプロトン(\(\text{H}^+\))が再生されるため、酸は触媒として機能します。
4.1.3. ザイツェフ則:どちらのアルケンが生成するか?
非対称なアルコール(例:2-ブタノール)を脱水すると、2種類以上のアルケンが生成する可能性があります。
\( \text{CH}_3\text{CH}_2\text{CH(OH)CH}_3 \) (2-ブタノール) → 1-ブテン or 2-ブテン?
この場合、どちらが主生成物になるかを予測するのがザイツェフ則 (Saytzeff’s Rule) です。
ザイツェフ則: アルコールの脱水やハロゲン化アルキルの脱ハロゲン化水素において、より多くのアルキル基が結合した(置換度の高い)アルケンが主生成物として得られる。
- 2-ブタノールの脱水では、
- 1-ブテン:二重結合炭素にアルキル基が1つ(エチル基)。
- 2-ブテン:二重結合炭素にアルキル基が2つ(メチル基×2)。
- したがって、ザイツェフ則によれば、より置換度の高い2-ブテンが主生成物となります。
ザイツェフ則の理由: アルケンは、結合しているアルキル基が多いほど、超共役などの効果により熱力学的に安定になります。反応はより安定な生成物を生じる方向に進みやすいため、この選択性が現れます。
4.2. ハロゲン化アルキルの脱ハロゲン化水素反応
ハロゲン化アルキルを強塩基とともに加熱することでも、アルケンを合成できます。この反応では、分子からハロゲン原子(X)と隣の炭素の水素原子(H)が取り除かれます(脱ハロゲン化水素)。
一般式:
R-CH(X)-CH₂-R’ + 強塩基 \( \xrightarrow{\text{加熱}} \) R-CH=CH-R’ + HX
4.2.1. 反応条件
- 試薬: 水酸化カリウム(KOH)やナトリウムエトキシド(\(\text{NaOCH}_2\text{CH}_3\))のような強塩基を用います。
- 溶媒: エタノールのようなアルコール溶媒中で反応を行うことが重要です。
- 溶媒の重要性: もし溶媒が水であると、脱離反応ではなく、ハロゲンが-OH基に置き換わる置換反応が優先してしまうことがあります。アルコール溶媒は、塩基性を保ちつつ、置換反応を抑制する効果があります。
4.2.2. ザイツェフ則の適用
この反応も、生成するアルケンが複数考えられる場合は、ザイツェフ則に従います。より置換度の高いアルケンが主生成物となります。
例:2-ブロモブタンとKOH/エタノール
\( \text{CH}_3\text{CH}_2\text{CH(Br)CH}_3 + \text{KOH} \xrightarrow{\text{エタノール、加熱}} \) 2-ブテン (主) + 1-ブテン (副)
4.2.3. ホフマン則
ただし、強塩基がかさ高い場合(例:カリウム tert-ブトキシド, \( \text{KOC(CH}_3)_3 \))や、脱離基が特殊な場合(第四級アンモニウム塩など)は、ザイツェフ則とは逆の生成物、すなわち立体的に空いている末端の水素が引き抜かれ、置換度の低いアルケンが主生成物となることがあります。これをホフマン則 (Hofmann’s Rule) と呼びます。大学受験では主にザイツェフ則が問われますが、例外の存在も知っておくと理解が深まります。
アルケンの製法として学んだこれらの脱離反応は、安定な飽和化合物から反応性の高い不飽和結合を意図的に作り出すための強力な手段です。そして、生成したアルケンは、次のセクションで学ぶ多種多様な「付加反応」への扉を開くことになるのです。
5. アルケンへの付加反応(水素、ハロゲン、ハロゲン化水素、水)
アルケンの化学的性質を最も特徴づけるのは、その付加反応 (Addition Reaction) です。アルケンが持つ反応性の高いπ結合が切断され、その代わりに2つの新しいσ結合が形成される反応です。これは、あたかも二重結合という「開いたドア」に、様々な分子が「付け加わる」ようなイメージです。この反応性の高さから、アルケンは多種多様な化合物を合成するための万能な出発物質として利用されます。
このセクションでは、アルケンが起こす代表的な4種類の付加反応について、その反応条件、生成物、そして特徴を体系的に見ていきます。
付加反応の基本モデル:
\( \text{C=C} \) (π結合 1本, σ結合 1本) + X-Y → \( \text{X-C-C-Y} \) (σ結合のみ)
5.1. 水素の付加(接触還元)
アルケンに水素ガス(\( \text{H}_2 \))を付加させると、対応するアルカンが生成します。この反応は、不飽和化合物を飽和化合物に変換する基本的な手法です。
反応式 (例: エチレン):
\( \text{CH}_2\text{=CH}_2 + \text{H}_2 \xrightarrow{\text{触媒}} \text{CH}_3\text{-CH}_3 \)
- 反応条件: 水素ガスとの反応は、そのままでは進行しません。白金 (Pt), パラジウム (Pd), ニッケル (Ni)などの金属触媒の表面で起こる不均一系反応です。これらの触媒は、水素分子を原子状に解離させ、アルケン分子を吸着させることで、反応を効率的に進行させます。
- 別名: この反応は、金属触媒の表面で起こるため接触還元 (Catalytic Hydrogenation) とも呼ばれます。
- 立体化学: 水素付加は、アルケン分子が吸着した触媒表面の同じ側から2つの水素原子が付加するシン付加 (syn-addition) で進行することが知られています。
5.2. ハロゲンの付加
アルケンは、ハロゲン(特に塩素 \( \text{Cl}_2 \) や臭素 \( \text{Br}_2 \))と速やかに反応し、ジハロゲン化アルカンを生成します。
反応式 (例: プロペンと臭素):
\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 + \text{Br}_2 \rightarrow \text{CH}_3\text{-CHBr-CH}_2\text{Br} \) (1,2-ジブロモプロパン)
- 反応条件: この反応は触媒を必要とせず、四塩化炭素(\(\text{CCl}_4\))のような不活性な溶媒中で、室温でも速やかに進行します。
- 応用: 特に、赤褐色の臭素水の色が消える反応は、未知の化合物がC=C二重結合またはC≡C三重結合を持つこと(不飽和であること)を確認するための、簡便な定性分析として広く利用されます(Module 1参照)。
- 立体化学: ハロゲンの付加は、2つのハロゲン原子が分子の反対側から付加するアンチ付加 (anti-addition) で進行します。これは、まず一方のハロゲン原子がπ電子と反応して環状のハロニウムイオン(例:ブロモニウムイオン)という中間体を形成し、その後、もう一方のハロゲン化物イオンがその反対側から炭素を攻撃するためです。
5.3. ハロゲン化水素の付加
アルケンは、ハロゲン化水素(H-X; HCl, HBr, HI)とも付加反応を起こし、ハロゲン化アルキルを生成します。
反応式 (例: プロペンと臭化水素):
\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 + \text{H-Br} \rightarrow \text{CH}_3\text{-CHBr-CH}_3 \) (2-ブロモプロパン)
- 反応性: ハロゲン化水素の反応性は、結合の切れやすさを反映して HI > HBr > HCl の順に高くなります。
- 位置選択性: この反応は、プロペンのような非対称なアルケンに対して、生成物が一方向に偏るという重要な特徴があります。上の例では、Br原子は中央の炭素に結合し、H原子は末端の炭素に結合した2-ブロモプロパンが主生成物となります。この選択性を説明するのが、次のセクションで詳しく学ぶマルコフニコフ則です。
5.4. 水の付加(水和)
アルケンに水を付加させると、アルコールが生成します。この反応を水和 (Hydration) と呼びます。
反応式 (例: エチレン):
\( \text{CH}_2\text{=CH}_2 + \text{H}_2\text{O} \xrightarrow{\text{酸触媒}} \text{CH}_3\text{CH}_2\text{OH} \)
- 反応条件: この反応は、水だけでは進行せず、希硫酸 (\( \text{H}_2\text{SO}_4 \)) やリン酸 (\( \text{H}_3\text{PO}_4 \)) といった強酸を触媒として必要とします。触媒のプロトン(\(\text{H}^+\))がπ結合を攻撃し、反応を開始させます。
- 反応メカニズム: この反応は、ハロゲン化水素の付加と非常によく似たメカニズムで進行します。
- π電子がプロトン(\(\text{H}^+\))を攻撃し、カルボカチオン中間体を生成。
- 電子豊富な水分子(\(\text{H}_2\text{O}\))が、電子不足のカルボカチオンを攻撃。
- プロトン(\(\text{H}^+\))が脱離し、アルコールが生成するとともに、触媒が再生。
- 工業的製法: エタノールの工業的製法として非常に重要な反応です。
- 位置選択性: ハロゲン化水素の付加と同様に、非対称アルケンへの水の付加もマルコフニコフ則に従います。プロペンの水和では、2-プロパノールが主生成物となります。\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 + \text{H}_2\text{O} \xrightarrow{\text{H}^+} \text{CH}_3\text{-CH(OH)-CH}_3 \) (2-プロパノール)
これらの付加反応は、アルケン化学の基本ツールキットです。比較的安価なアルケンから、アルカン、ハロゲン化アルキル、アルコールといった、より多様な官能基を持つ化合物を一段階で合成できるため、その価値は計り知れません。そして、これらの反応、特にHXとH₂Oの付加反応に見られる「位置選択性」の謎を解く鍵、それがマルコフニコフ則なのです。
6. マルコフニコフ則
前のセクションで、プロペンのような非対称なアルケンにハロゲン化水素(HBr)や水(H₂O)を付加させると、生成物が偏る「位置選択性」が見られることを学びました。例えば、プロペンにHBrが付加すると、Brが中央の炭素に結合した2-ブロモプロパンが主生成物となり、末端の炭素に結合した1-ブロモプロパンはほとんど生成しません。
この現象は、1870年にロシアの化学者ウラジーミル・マルコフニコフによって経験的に見出されました。このマルコフニコフ則 (Markovnikov’s Rule) は、単なる暗記事項ではなく、その背後には反応メカニズムに基づいた美しい論理が存在します。この論理を理解することこそが、有機化学の反応を予測する力を養う上で極めて重要です。
6.1. マルコフニコフ則の定義
まずは、経験則としてのマルコフニコフ則の古典的な定義を確認しましょう。
マルコフニコフ則: 非対称なアルケンにハロゲン化水素(HX)のような極性試薬が付加するとき、試薬の陽性部分(通常はH⁺)は、より多くの水素原子が結合している二重結合炭素に結合し、陰性部分(X⁻)は、より少ない水素原子が結合している二重結合炭素に結合する。
この法則は、しばしば「金持ちはますます豊かに (The rich get richer)」と例えられます。つまり、もともと水素(富)を多く持っている炭素が、さらに水素を獲得する、というわけです。
例:プロペンへのHBrの付加
\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 \)
- C1(右端): 水素が2つ結合している(金持ち)。
- C2(中央): 水素が1つ結合している(貧乏)。
マルコフニコフ則に従うと、
- H⁺は、水素リッチなC1に結合する。
- Br⁻は、水素プアなC2に結合する。
- 結果として、主生成物は2-ブロモプロパン (\(\text{CH}_3\text{-CHBr-CH}_3\)) となる。
この法則は非常に便利ですが、「なぜ?」という問いには答えてくれません。その答えは、反応の中間体であるカルボカチオンの安定性にあります。
6.2. 法則の理論的背景:カルボカチオン中間体の安定性
マルコフニコフ則の支配原理は、反応がより安定な中間体を経由する経路を優先的に通るという、熱力学の普遍的な法則です。アルケンへのHXやH₂Oの付加反応では、その鍵となる中間体が**カルボカチオン(炭素陽イオン)**です。
6.2.1. プロペンへのプロトン付加:2つの可能性
プロペンのπ電子がプロトン(H⁺)を攻撃するとき、2つの経路が考えられます。
- 経路A:H⁺がC1に付加する場合\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 + \text{H}^+ \rightarrow \text{CH}_3\text{-}\overset{+}{\text{C}}\text{H-CH}_3 \)この場合、プラスの電荷が中央の炭素(C2)上に生じます。この炭素にはアルキル基(メチル基)が2つ結合しているため、これは第二級カルボカチオンです。
- 経路B:H⁺がC2に付加する場合\( \text{CH}_3\text{-CH=CH}_2 + \text{H}^+ \rightarrow \text{CH}_3\text{-CH}_2\text{-}\overset{+}{\text{C}}\text{H}_2 \)この場合、プラスの電荷が末端の炭素(C1)上に生じます。この炭素にはアルキル基が1つ(プロピル基)しか結合していないため、これは第一級カルボカチオンです。
次に、これらのカルボカチオンのどちらがより安定かを考える必要があります。
6.2.2. カルボカチオンの安定性
カルボカチオンの安定性は、正電荷を持つ炭素に結合しているアルキル基の数に大きく依存します。
安定性の序列: 第三級 > 第二級 > 第一級 > メチル
\( \text{R}_3\text{C}^+ \) (第三級) > \( \text{R}_2\text{CH}^+ \) (第二級) > \( \text{RCH}_2^+ \) (第一級) > \( \text{CH}_3^+ \) (メチル)
なぜアルキル基はカルボカチオンを安定化させるのか?
その主な理由は、アルキル基の電子供与性にあります。
- 誘起効果 (Inductive Effect): アルキル基(C-C, C-H結合)は、電子をわずかに押し出す性質があります。この効果により、隣接するカルボカチオンの正の電荷が少しだけ中和され、安定化します。アルキル基が多いほど、この効果は強くなります。
- 超共役 (Hyperconjugation): より重要な効果です。カルボカチオンの空のp軌道と、隣のC-H結合のσ電子が部分的に重なり合うことで、電子が非局在化し、正の電荷が分散されます。これにより、系全体が安定化します。隣接するC-H結合が多いほど(=アルキル基が多いほど)、超共役の機会が増え、安定化の度合いも大きくなります。
6.2.3. 結論:安定な中間体が生み出す選択性
プロペンの例に戻ると、
- 経路Aで生成する第二級カルボカチオンは、経路Bで生成する第一級カルボカチオンよりもはるかに安定です。
反応は、活性化エネルギーが低く、より安定な中間体を生成する経路を圧倒的に速く進行します。したがって、反応はほぼ完全に経路A、すなわち第二級カルボカチオンを経由して進行します。
この安定な第二級カルボカチオン(\(\text{CH}_3\text{-}\overset{+}{\text{C}}\text{H-CH}_3\))に対して、次に臭化物イオン(Br⁻)が攻撃するため、最終的な生成物は2-ブロモプロパンとなるわけです。
現代的なマルコフニコフ則の定義:
非対称アルケンへの求電子付加反応は、より安定なカルボカチオン中間体を経て進行する。
この定義であれば、単なる経験則ではなく、反応のメカニズムに基づいた普遍的な原理として理解できます。これにより、転位反応(カルボカチオンがより安定な構造に変化する現象)のような、古典的な法則では説明できない複雑な反応も予測することが可能になります。
6.3. 例外:反マルコフニコフ則
興味深いことに、特定の条件下ではマルコフニコフ則とは逆の生成物が得られることがあります。
過酸化物存在下でのHBrの付加:
プロペンに過酸化物(ROOR)の存在下でHBrを反応させると、主生成物は1-ブロモプロパンとなります。これを反マルコフニコフ付加 (Anti-Markovnikov addition) または過酸化物効果 (peroxide effect) と呼びます。
理由: この反応は、カルボカチオン中間体を経るイオン反応ではなく、ラジカル連鎖反応で進行するためです。
- 開始: 過酸化物が分解してラジカルを生成し、それがHBrからHを引き抜いて臭素ラジカル(\(\cdot\text{Br}\))を生成します。
- 成長: 求電子的な臭素ラジカルが、プロペンのπ電子を攻撃します。このとき、より安定な第二級アルキルラジカル(\(\text{CH}_3\text{-}\overset{\cdot}{\text{C}}\text{H-CH}_2\text{Br}\))が生成するように、Brラジカルは末端のC1に付加します。(アルキルラジカルの安定性も、カルボカチオンと同様に 第三級 > 第二級 > 第一級 です)
- Hの引き抜き: この第二級ラジカルがHBrからH原子を引き抜き、1-ブロモプロパンが生成するとともに、新たなBrラジカルが再生されて連鎖が続きます。
この例外は、反応メカニズムが変われば生成物も変わるという、有機化学の奥深さを示す好例です。マルコフニコフ則を、その背景にある「中間体の安定性」という原理から理解することで、私たちは単なるパターンの暗記から脱却し、真の予測力を手に入れることができるのです。
7. アルケンの酸化反応(酸化開裂)
これまでアルケンの反応として、π結合がσ結合に変わる「付加反応」を中心に見てきました。しかし、アルケンは強力な酸化剤と反応させることで、より劇的な変化を遂げることがあります。それは、C=C二重結合そのものが完全に切断される反応、酸化開裂 (Oxidative Cleavage) です。
この反応は、単に官能基を変換するだけでなく、分子の炭素骨格そのものを変化させます。そして、開裂によって生じた生成物の構造を分析することで、元のアルケンの二重結合がどこにあったのかを特定できるため、構造決定のパズルにおいて極めて重要な手がかりとなります。
このセクションでは、代表的な酸化開裂試薬である過マンガン酸カリウムとオゾンを用いた反応について学びます。
7.1. 過マンガン酸カリウムによる酸化
過マンガン酸カリウム(\( \text{KMnO}_4 \))は強力な酸化剤であり、反応条件(温度やpH)によってアルケンに対して異なる振る舞いを見せます。
7.1.1. 穏やかな酸化:ジオールの生成(バイヤー試験)
- 条件: 冷たく、中性または塩基性の過マンガン酸カリウム水溶液。
- 反応: この穏やかな条件下では、二重結合は切断されず、2つの炭素原子にそれぞれヒドロキシ基(-OH)が付加したジオール(1,2-ジオール)が生成します。この反応は、2つの-OH基が同じ側から付加するシン付加です。
- 観察: 反応が進行すると、過マンガン酸イオン(\(\text{MnO}_4^-\))の赤紫色が消え、酸化マンガン(IV)(\(\text{MnO}_2\))の褐色沈殿が生じます。この色の変化は、不飽和結合の存在を確認するバイヤー試験として利用されます。\( 3\text{CH}_2\text{=CH}_2 + 2\text{KMnO}_4 + 4\text{H}_2\text{O} \rightarrow 3\text{HOCH}_2\text{-CH}_2\text{OH} + 2\text{MnO}_2 \downarrow + 2\text{KOH} \)
7.1.2. 激しい酸化:二重結合の開裂
- 条件: 酸性の過マンガン酸カリウム水溶液を加熱する。
- 反応: この激しい条件下では、C=C二重結合は完全に切断されます。最初に生成したジオールが、さらに酸化され続けるためです。
- 生成物の予測: 開裂によって生成する化合物は、二重結合炭素に結合していた原子団の種類によって決まります。これは構造決定において最も重要なポイントです。
【酸化開裂の生成物ルール (KMnO₄/H⁺, Δ)】
元のアルケンの二重結合部分 >C¹=C²<
に着目します。
- 二重結合炭素 (C¹) に水素が2つ結合している場合 (\( \text{=CH}_2 \)):
- この部分は、まずギ酸(HCOOH)に酸化され、ギ酸はさらに酸化されて最終的に**二酸化炭素(\( \text{CO}_2 \))と水(\( \text{H}_2\text{O} \))**になります。
- 二重結合炭素 (C¹) に水素が1つとアルキル基(R)が1つ結合している場合 (\( \text{=CHR} \)):
- この部分は、まずアルデヒド(R-CHO)に酸化されますが、アルデヒドは容易にさらに酸化されるため、最終的に**カルボン酸(R-COOH)**になります。
- 二重結合炭素 (C¹) にアルキル基(R, R’)が2つ結合している場合 (\( \text{=CR R’} \)):
- この部分は酸化されて**ケトン(R-CO-R’)**になります。ケトンは通常の条件下ではそれ以上酸化されにくいため、ここで反応は停止します。
例:2-メチル-2-ブテンの酸化開裂
\( \text{CH}_3\text{-C(CH}_3\text{)=CH-CH}_3 \)
- 左のC (C2): 2つのメチル基が結合 (\( \text{=C(CH}_3)_2 \)) → アセトン (\( \text{CH}_3\text{COCH}_3 \))
- 右のC (C3): Hとメチル基が結合 (\( \text{=CH(CH}_3) \)) → 酢酸 (\( \text{CH}_3\text{COOH} \))
このように、生成物であるアセトンと酢酸が同定できれば、元のアルケンが2-メチル-2-ブテンであったと逆算して推定することができます。
7.2. オゾン分解(オゾン酸化)
オゾン(\( \text{O}_3 \))もまた、アルケンの二重結合を効率的に開裂させる強力な酸化剤です。オゾン分解は、過マンガン酸カリウムによる酸化よりも穏やかな条件で進行し、生成物がさらに酸化される副反応が少ないため、構造決定の目的ではより有用な手法とされています。
7.2.1. 反応プロセス
オゾン分解は、通常2つのステップで構成されます。
ステップ1:オゾンとの反応
アルケンを不活性溶媒(ジクロロメタンなど)に溶かし、低温(-78℃など)でオゾンガスを吹き込みます。すると、オゾンが二重結合に付加して、オゾニドと呼ばれる不安定な環状中間体が生成します。
ステップ2:後処理(還元)
生成したオゾニドは不安定で爆発性があるため、単離せずにそのまま分解します。この分解(後処理)の方法によって、最終生成物が変わります。
- 還元的後処理: **亜鉛(Zn)やジメチルスルフィド((\(\text{CH}_3\)_2S)**を用いて処理します。これにより、オゾニドは穏やかに分解され、二重結合が開裂して2つのカルボニル化合物が生成します。この方法では、アルデヒドがカルボン酸へさらに酸化されるのを防ぐことができます。
- 酸化的後処理: 過酸化水素(\(\text{H}_2\text{O}_2\))などで処理すると、過マンガン酸による酸化と同様の生成物(ケトンやカルボン酸)が得られます。
大学受験では、特に断りがなければ、オゾン分解は還元的後処理を指すのが一般的です。
7.2.2. 生成物の予測(還元的後処理の場合)
【オゾン分解の生成物ルール (1. O₃; 2. Zn/H₂O)】
考え方は非常にシンプルです。C=C二重結合をハサミで切り、それぞれの炭素に酸素原子(=O)を付けるだけです。
- 二重結合炭素に水素が2つ結合している場合 (\( \text{=CH}_2 \)):
- ホルムアルデヒド (HCHO) が生成します。
- 二重結合炭素に水素が1つとアルキル基(R)が1つ結合している場合 (\( \text{=CHR} \)):
- アルデヒド (R-CHO) が生成します。
- 二重結合炭素にアルキル基(R, R’)が2つ結合している場合 (\( \text{=CR R’} \)):
- ケトン (R-CO-R’) が生成します。
例:2-メチル-2-ブテンのオゾン分解
\( \text{CH}_3\text{-C(CH}_3\text{)=CH-CH}_3 \)
- 左のC (C2): 2つのメチル基が結合 (\( \text{=C(CH}_3)_2 \)) → アセトン (\( \text{CH}_3\text{COCH}_3 \))
- 右のC (C3): Hとメチル基が結合 (\( \text{=CH(CH}_3) \)) → アセトアルデヒド (\( \text{CH}_3\text{CHO} \))
過マンガン酸酸化では酢酸が生成したのに対し、オゾン分解ではアセトアルデヒドが得られ、元の構造がより直接的に反映されています。
酸化開裂は、分子をより小さな、同定しやすい断片へと分解する強力な分析ツールです。これらの反応をマスターすることで、構造決定問題におけるあなたの「化学探偵」としての能力は、飛躍的に向上するでしょう。
8. アルキンの構造と命名法
アルケン(二重結合)の化学を理解した私たちは、次に、炭素-炭素**三重結合(C≡C)**を持つ炭化水素、アルキンの世界を探検します。アルキンは、2本のπ結合を持つため、アルケン以上に不飽和度が高く、特有の反応性を示します。また、その構造もユニークな直線形をしています。このセクションでは、アルキンの基本的な構造と、その命名法について学びます。
8.1. アルキンの構造:sp混成と直線形
アルキンは、一般式 \( \text{C}n\text{H}{2n-2} \)(鎖式の場合)で表される不飽和炭化水素です。最も単純なアルキンは、アセチレン(\( \text{C}_2\text{H}_2 \))です。
8.1.1. sp混成軌道と三重結合
アルキンの三重結合を形成している炭素原子は、sp混成軌道をとっています。
- 1つのs軌道と1つのp軌道が混成し、2つの等価なsp混成軌道が形成されます。
- これら2つのsp混成軌道は、互いに反発して一直線上に、180°の角度をなすように配置されます。
- 混成に関与しなかった2つのp軌道(py, pz)は、この直線軸に対して互いに垂直な方向に残ります。
アセチレン分子では、
- σ結合: 2つの炭素原子が、まず1本ずつのsp混成軌道を出し合って、強固なC-C σ結合を形成します。それぞれの炭素に残ったもう1本のsp混成軌道は、水素原子の1s軌道と重なり、C-H σ結合を形成します。このσ結合の骨格(H-C-C-H)は、完全に直線構造をとります。
- π結合: 各炭素に残っている2つずつのp軌道(pyとpy, pzとpz)が、それぞれ側面で重なり合うことで、2本のπ結合が形成されます。
結果として、C≡C三重結合は、1本の強いσ結合と、2本の比較的弱いπ結合から構成されています。この2本のπ結合の存在が、アルキンに高い反応性を与えています。
8.1.2. 末端アルキンと内部アルキン
アルキンは、三重結合の位置によって2種類に大別されます。
- 末端アルキン (Terminal Alkyne): 三重結合が炭素鎖の末端にあるアルキン。三重結合炭素の一方に水素原子が結合している(R-C≡C-H)のが特徴です。
- 例:1-プロピン (\( \text{CH}_3\text{-C≡CH} \))
- 内部アルキン (Internal Alkyne): 三重結合が炭素鎖の内部にあるアルキン。三重結合炭素の両方に炭素原子が結合している(R-C≡C-R’)。
- 例:2-ブチン (\( \text{CH}_3\text{-C≡C-CH}_3 \))
この区別は、反応性を考える上で非常に重要です。なぜなら、末端アルキンの三重結合に結合した水素原子(アセチレン性水素)は、sp混成軌道の性質(s性が50%と高く、電子が原子核に強く引き付けられる)により、非常に弱いながらも酸性を示すからです。このため、末端アルキンは銀イオンや銅(I)イオンと反応してアセチリドと呼ばれる塩を形成しますが、内部アルキンはこの反応を示しません。
8.2. アルキンの命名法
アルキンのIUPAC命名法は、アルケンの命名法と非常によく似ており、以下のルールに従います。
【命名手順】
- 主鎖の決定: 三重結合を含む最も長い連続した炭素鎖を主鎖として選びます。
- 母体名の決定: 主鎖の炭素数に対応するアルカン名の語尾 “-ane” を “-yne”(イン)に変えます。
- 例:C2: エチン (ethyne)、C3: プロピン (propyne)、C4: ブチン (butyne)
- 番号付け: 三重結合の位置番号が最も小さくなるように、主鎖の端から番号を付けます。
- 組立: 「(置換基の位置と名称)」-「(三重結合の位置番号)」-「(母体名)」の順に組み立てます。
例1:1-ブチン (But-1-yne)
\( \text{CH≡C-CH}_2\text{-CH}_3 \)
- 主鎖はC4(ブチン)。三重結合が1位から始まるように左から番号付け。
例2:4-メチル-2-ペンチン (4-Methylpent-2-yne)
\( \text{CH}_3\text{-C≡C-CH(CH}_3\text{)\text{-}CH}_3 \)
- 主鎖は三重結合を含む最長のC5(ペンチン)。
- 三重結合の位置が小さくなるように(2位)、左から番号付け。
- 4位にメチル基。
8.2.1. 二重結合と三重結合の両方を含む場合(エンイン)
分子内に二重結合と三重結合の両方を含む場合、エンイン (enyne) と呼ばれます。
- 番号付けの優先順位: 鎖のどちらかの端から数えて、最初に現れる多重結合(二重または三重)の位置番号が小さくなるように番号を付けます。もし、どちらから数えても最初の多重結合の位置が同じ場合は、二重結合(エン)の方を優先して小さい番号を与えます。
- 命名: 母体名の語尾は “-enyne” となります。「(二重結合の位置)-エン-(三重結合の位置)-イン」のように記述します。
例:ヘプタ-1-エン-6-イン (Hept-1-en-6-yne)
\( \text{CH}_2\text{=CH-CH}_2\text{CH}_2\text{-C≡CH} \)
- 左から数えると、多重結合は1位(エン)と6位(イン)。
- 右から数えると、多重結合は1位(イン)と6位(エン)。
- 最初の位置が同じなので、二重結合(エン)を優先し、左から数える。
アルキンの直線構造と、末端アルキンが持つ特有の酸性は、アルケンの化学との重要な違いを生み出します。次のセクションでは、アルキンがその2本のπ結合をどのように使って反応するのか、その付加反応を中心に見ていきます。
9. アルキンの反応(付加反応)
アルキンは、C≡C三重結合に2本のπ結合を持っています。この電子豊富な構造のため、アルキンの化学反応はアルケンと多くの共通点を持っています。特に、π結合が切れて新しいσ結合が生成する付加反応が、その反応性の中心となります。
しかし、アルキンにはπ結合が2本あるため、反応はより複雑な様相を呈します。試薬の量を制御することで、反応をアルケンの段階で止めたり、アルカンまで進行させたりすることが可能です。このセクションでは、アルキンが起こす代表的な付加反応と、その特徴について学びます。
9.1. 水素の付加(還元)
アルキンへの水素付加は、用いる触媒と条件によって、生成物を巧みに作り分けることができる、非常に興味深い反応です。
9.1.1. 完全な水素化:アルカンへの還元
- 条件: アルケンと同様に、白金 (Pt), パラジウム (Pd), ニッケル (Ni) といった通常の金属触媒を用いて水素(\( \text{H}_2 \))を反応させます。
- 反応: この条件下では、反応を中間体のアルケンで止めることは難しく、2当量の水素が付加して、最終的に対応するアルカンまで完全に還元されます。\( \text{R-C≡C-R’} + 2\text{H}_2 \xrightarrow{\text{Pt, Pd or Ni}} \text{R-CH}_2\text{-CH}_2\text{-R’} \)
9.1.2. 部分的な水素化:アルケンへの還元
特定の触媒を用いることで、反応をアルケンの段階で停止させ、選択的にシス-アルケンまたはトランス-アルケンを合成することができます。これは有機合成化学において非常に重要な技術です。
- シス-アルケンの生成:
- 触媒: リンドラー触媒 (Lindlar’s catalyst) を用います。これは、炭酸カルシウムや硫酸バリウムに担持させたパラジウムを、酢酸鉛やキノリンといった「触媒毒」で意図的に活性を落としたものです。
- 反応: この活性の低い触媒上では、アルキンはアルケンにまでしか還元されません。また、水素は触媒表面の同じ側から付加するシン付加で進行するため、生成物はシス-アルケンとなります。\( \text{R-C≡C-R’} + \text{H}_2 \xrightarrow{\text{リンドラー触媒}} \text{cis-R-CH=CH-R’} \)
- トランス-アルケンの生成:
- 試薬: 液体アンモニア中で金属ナトリウム (Na) またはリチウム (Li) を用いて還元します(バーチ還元の一種)。
- 反応: この反応はラジカル的なメカニズムで進行し、より安定なトランス型のラジカル中間体を経由するため、生成物はトランス-アルケンとなります。\( \text{R-C≡C-R’} + 2\text{Na} + 2\text{NH}_3 \rightarrow \text{trans-R-CH=CH-R’} + 2\text{NaNH}_2 \)
9.2. ハロゲンおよびハロゲン化水素の付加
アルキンは、ハロゲン(\(\text{X}_2\))やハロゲン化水素(HX)とも付加反応を起こします。π結合が2本あるため、1当量または2当量の試薬と反応します。
9.2.1. ハロゲンの付加
- 反応: 1当量のハロゲン(例:Br₂)を付加させるとジハロアルケンが、過剰量のハロゲン(2当量)を反応させるとテトラハロアルカンが生成します。最初の付加は、主にアンチ付加で進行します。\( \text{R-C≡C-R’} \xrightarrow{\text{Br}_2} \text{trans-R-CBr=CBr-R’} \xrightarrow{\text{Br}_2} \text{R-CBr}_2\text{-CBr}_2\text{-R’} \)
9.2.2. ハロゲン化水素の付加
- 反応: 1当量のHXの付加は、マルコフニコフ則に従います。末端アルキン(R-C≡CH)にHBrを付加させると、Brはより置換度の高い内部の炭素に結合します。\( \text{CH}_3\text{-C≡CH} + \text{HBr} \rightarrow \text{CH}_3\text{-CBr=CH}_2 \)
- 2回目の付加: さらに過剰量のHXを反応させると、2つ目の付加反応が起こります。この反応もマルコフニコフ則に従い、2つ目のX原子も、1つ目のX原子が結合したのと同じ炭素に結合します。その結果、2つのハロゲン原子が同じ炭素に結合したジェミナル-ジハロゲン化物が生成します。\( \text{CH}_3\text{-CBr=CH}_2 + \text{HBr} \rightarrow \text{CH}_3\text{-CBr}_2\text{-CH}_3 \)
9.3. 水の付加(水和):ケト-エノール互変異性
アルキンへの水の付加は、アルコールではなく、最終的に**カルボニル化合物(ケトンまたはアルデヒド)**を生成するという、非常に特徴的な結果をもたらします。
- 条件: この反応は、硫酸水銀(II) (\(\text{HgSO}_4\)) を硫酸酸性下で触媒として用いる必要があります。
- 反応メカニズム:
- まず、アルケンと同様に水が付加反応を起こします。この付加もマルコフニコフ則に従い、-OH基はより置換度の高い炭素に結合します。その結果、ヒドロキシ基が二重結合炭素に直接結合したエノールと呼ばれる化合物が中間体として生成します。\( \text{R-C≡CH} + \text{H}_2\text{O} \xrightarrow{\text{HgSO}_4, \text{H}_2\text{SO}_4} [\text{R-C(OH)=CH}_2] \) (エノール)
- ケト-エノール互変異性: エノールは一般的に非常に不安定です。そのため、生成すると速やかに、より安定な構造異性体であるケトンへと異性化(構造変化)します。このエノールとケトンの間の平衡をケト-エノール互変異性 (keto-enol tautomerism) と呼びます。\( [\text{R-C(OH)=CH}_2] \rightleftharpoons \text{R-CO-CH}_3 \) (ケトン)
- 生成物:
- 末端アルキン(アセチレンを除く)の水和では、マルコフニコフ則に従って内部炭素に-OHが付加するため、最終的にメチルケトンが生成します。
- **アセチレン(H-C≡C-H)は例外的に、水和するとアセトアルデヒド(\(\text{CH}_3\text{CHO}\))**を生成します。これはケトンではなくアルデヒドです。
- 内部アルキン(R-C≡C-R’)を水和すると、通常は2種類のケトンの混合物が得られます。
9.4. アセチリドの生成(酸性)
これは付加反応ではありませんが、アルキンの重要な反応です。
前セクションで述べたように、末端アルキンのH原子は弱い酸性を示します。そのため、アンモニア性硝酸銀(トレンス試薬)やアンモニア性塩化銅(I)のような試薬と反応して、それぞれ銀アセチリド(白色沈殿)、**銅(I)アセチリド(赤色沈殿)**という塩を形成します。この反応は、末端アルキンと内部アルキンを区別するための定性分析に用いられます。
アルキンの化学は、2本のπ結合がもたらす段階的な付加反応と、水和における互変異性というユニークな現象によって特徴づけられます。これらの反応を理解することで、アルキンを有機合成における有用なツールとして活用する道が開かれるのです。
10. 石油の分留と接触分解
これまで学んできたアルカン、シクロアルカンといった脂肪族炭化水素は、実験室の中だけの存在ではありません。これらは、現代文明を支えるエネルギー源であり、化学製品の原料として、私たちの生活に深く根付いています。その巨大な供給源となっているのが、天然に産出する**石油(原油)**です。
しかし、原油はそのままでは使えません。多種多様な炭化水素が混ざり合った黒い液体です。この原油という「宝の山」から、ガソリンや灯油、プラスチックの原料といった有用な物質を取り出すための重要な技術が、分留と接触分解です。このセクションでは、これらの工業的なプロセスについて学び、有機化学の知識が実社会でどのように活かされているかを見ていきます。
10.1. 石油(原油)とは何か
石油(原油)は、数億年前に生息していたプランクトンなどの生物の死骸が、地中深くで長期間にわたって熱と圧力を受けて変質したものです。「化石燃料」と呼ばれる所以です。
その主成分は、様々な炭素数を持つアルカンとシクロアルカンであり、その他に芳香族炭化水素や、硫黄、窒素、酸素を含む有機化合物などが少量含まれています。産出される地域によってその組成は大きく異なります。
10.2. 分留:沸点の差による分離
原油から有用な成分を取り出す最初のステップが分留 (Fractional Distillation) です。これは、沸点の差を利用して混合物を成分ごとに分離する操作です。
10.2.1. 分留の原理
アルカンの物理的性質で学んだように、炭化水素は炭素数が大きい(分子量が大きい)ほど、分子間力(ファンデルワールス力)が強くなり、沸点が高くなります。分留は、この単純な物理法則に基づいています。
10.2.2. 分留塔の仕組み
石油精製工場では、**分留塔(または精留塔)**と呼ばれる巨大な塔を使って、大規模な分留が行われます。
- 加熱: まず、原油を加熱炉で約350℃に加熱し、そのほとんどを蒸発させて蒸気にします。
- 塔への導入: この高温の蒸気を、分留塔の下部から吹き込みます。
- 上昇と冷却: 蒸気は塔内を上昇するにつれて、徐々に冷却されていきます。
- 凝縮と分離:
- 沸点の高い成分(炭素数が多い)は、塔の下部のまだ温度が高い段階で、沸点に達して凝縮し、液体となって「トレー」と呼ばれる棚に溜まります。
- 沸点の低い成分(炭素数が少ない)は、蒸気のままさらに上昇し、より上部の温度が低い場所で凝縮して液体となります。
- 沸点が極めて低い成分は、凝縮せずに塔の頂上まで達し、ガスとして取り出されます。
このようにして、分留塔の異なる高さのトレーから、沸点範囲(炭素数の範囲)の異なる留分 (fraction) として、炭化水素の混合物が連続的に分離・回収されます。
10.2.3. 主な留分とその用途
留分名称 | 沸点範囲 (℃) | 主な炭素数 | 主な用途 |
石油ガス | 40以下 | C₁~C₄ | 家庭用・工業用燃料(LPG)、化学原料 |
ガソリン (ナフサ) | 40~180 | C₅~C₁₁ | 自動車燃料、化学原料(エチレンなど) |
灯油 | 170~250 | C₁₁~C₁₅ | ストーブ燃料、ジェット燃料 |
軽油 | 240~350 | C₁₅~C₁₈ | ディーゼルエンジン燃料、暖房用燃料 |
重油 | 350以上 | C₁₈以上 | 大型船舶・ボイラー燃料 |
残渣油 | – | – | 減圧蒸留により潤滑油、アスファルトなどを製造 |
10.3. 接触分解(クラッキング):重い油を軽い油へ
分留によって得られる各留分の割合は、原油の組成によって決まっており、必ずしも社会の需要と一致しません。特に、自動車の燃料として需要の高いガソリンは、原油の分留だけでは供給が追いつきません。一方で、重油のような沸点の高い留分は供給過多になりがちです。
この需要と供給のミスマッチを解消するための技術が、接触分解 (Catalytic Cracking)、通称クラッキングです。
10.3.1. 接触分解の原理
接触分解とは、沸点の高い(分子量が大きい)炭化水素を、高温・高圧下で触媒を用いて分解し、より沸点の低い(分子量が小さい)炭化水素に変換するプロセスです。C-C単結合を切断(クラッキング)する反応です。
例:
\( \text{C}{16}\text{H}{34} \xrightarrow{\text{触媒、熱}} \text{C}8\text{H}{18} \text{ (オクタン)} + \text{C}8\text{H}{16} \text{ (オクテン)} \)
大きなアルカンを分解すると、より小さなアルカンとアルケンが生成します。
10.3.2. プロセスと目的
- 原料: 主に重油や軽油が用いられます。
- 触媒: シリカアルミナ (\(\text{SiO}_2\text{-Al}_2\text{O}_3\)) などの固体酸触媒が用いられます。
- 目的:
- ガソリンの増産: 最も重要な目的。重油からガソリンを製造することで、収率を大幅に向上させます。
- 高品質ガソリンの製造: 接触分解で得られるガソリンは、分岐の多いアルカンや芳香族炭化水素を多く含み、オクタン価(ノッキングの起こしにくさを示す指標)が高いという特徴があります。
- 化学原料の製造: 同時に生成するエチレンやプロピレンといったアルケンは、ポリエチレンやポリプロピレンなどのプラスチックを製造するための、極めて重要な化学原料となります。
分留と接触分解は、いわば有機化学の知識を地球規模で応用した、壮大な化学プラントです。これらの技術により、私たちは地中深くから採掘した原油を、エネルギーから日用品に至るまで、現代生活に不可欠な様々な製品へと効率的に変換しているのです。脂肪族炭化水素の化学を学ぶことは、私たちの文明の根幹を理解することにも繋がっています。
Module 2:脂肪族炭化水素の総括:結合の個性が生み出す化学の多様性
このモジュールで、私たちは有機化合物の最も基本的なクラスである脂肪族炭化水素の化学を巡る旅をしてきました。その旅は、炭素原子間の結合が「単結合」「二重結合」「三重結合」と変化するにつれて、化合物の個性がいかに劇的に、そして論理的に変わっていくかを明らかにするものでした。
すべてがsp³混成軌道と強いσ結合で固められたアルカンの世界は、静かで安定していました。その反応は、紫外線というきっかけを必要とするラジカル置換反応に限られ、その安定性ゆえに「パラフィン」と呼ばれるにふさわしいものでした。
しかし、sp²混成軌道が1本のπ結合を導入した途端、世界は一変しました。アルケンは平面的な構造をとり、回転の束縛から幾何異性体という立体化学の新たな側面を見せました。そして何より、電子豊富なπ結合は、様々な試薬を惹きつける「付加反応」の扉を開きました。私たちは、その反応が「なぜ」特定の生成物を生むのか(マルコフニコフ則)を、カルボカチオンという中間体の安定性から解き明かし、時には分子そのものを切断する酸化開裂という強力な反応も学びました。
さらにsp混成軌道が2本のπ結合をもたらしたアルキンの世界では、その直線構造というユニークな形と、二段階で進行する付加反応の多様性を探求しました。触媒を巧みに使い分けることで、同じ出発物質から異なる構造のアルケンを作り分ける合成化学の妙技にも触れました。
最後に、これらの炭化水素が、私たちの足元にある石油から、いかにして分留と接触分解という巨大なスケールの化学技術によって取り出され、社会を動かすエネルギーや製品の原料となっているかを見ました。
このモジュールを通じて見えてきたのは、有機化学が単なる反応のカタログではないということです。それは、電子の状態(結合の種類)というミクロな違いが、分子の形、物性、そして反応性というマクロな性質のすべてを支配するという、一貫した論理の物語なのです。この物語を理解したあなたは、今や新しい反応に出会っても、その背後にある原理に思いを馳せることができるはずです。